ヴァンクーヴァーにおける華人コミュニティと 華人秘密結社 ... · 2019. 4....

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5 ヴァンクーヴァーにおける華人コミュニティと 華人秘密結社洪門民治党の現状 The current status of the Chinese community and the Chinese Freemasons (Chinese secret societies) in Vancouver 安田 峰俊 *  要 旨 カナダ、ブリティッシュコロンビア州ヴァンクーヴァーは北米でも華人系 住民が多く、メトロ・ヴァンクーヴァー全体では人口の 25%を占めると見ら れている。現地の華人系社会の特色をなすのは、広東語を母語とする広東・ 香港系華人の比率が高いことと、19 世紀以来の老華僑の移民者、20 世紀末 の香港人の移民者、 21 世紀以降の大陸系中国人の移民者という、移民時期や 文化背景によって移民者に 3 層のカテゴリーが形成されている点である。清 朝中期の華南で形成された、中国人の相互扶助組織である秘密会党(洪門) は、アヘン戦争後の移民熱に従い広東省から世界各国の華人社会へと広がっ た。これはカナダにおいても例外ではなく、その組織は現在もなお存在し、 ヴァンクーヴァーを中心としてカナダ全土の華人社会に根を張っている。本 稿は、先行研究が必ずしも多くない 19 世紀から現代にかけてのカナダの華 人社会の変遷を概観したうえで、中国語資料と現地での聞き取りをもとにカ ナダにおける洪門の歴史と現状を論じるものである。 立命館大学人文科学研究所客員研究員

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5ヴァンクーヴァーにおける華人コミュニティと華人秘密結社洪門民治党の現状

ヴァンクーヴァーにおける華人コミュニティと華人秘密結社洪門民治党の現状

The current status of the Chinese community and the Chinese

Freemasons (Chinese secret societies) in Vancouver

安田 峰俊* 

要 旨

カナダ、ブリティッシュコロンビア州ヴァンクーヴァーは北米でも華人系

住民が多く、メトロ・ヴァンクーヴァー全体では人口の 25%を占めると見ら

れている。現地の華人系社会の特色をなすのは、広東語を母語とする広東・

香港系華人の比率が高いことと、19世紀以来の老華僑の移民者、20世紀末

の香港人の移民者、21世紀以降の大陸系中国人の移民者という、移民時期や

文化背景によって移民者に 3層のカテゴリーが形成されている点である。清

朝中期の華南で形成された、中国人の相互扶助組織である秘密会党(洪門)

は、アヘン戦争後の移民熱に従い広東省から世界各国の華人社会へと広がっ

た。これはカナダにおいても例外ではなく、その組織は現在もなお存在し、

ヴァンクーヴァーを中心としてカナダ全土の華人社会に根を張っている。本

稿は、先行研究が必ずしも多くない 19世紀から現代にかけてのカナダの華

人社会の変遷を概観したうえで、中国語資料と現地での聞き取りをもとにカ

ナダにおける洪門の歴史と現状を論じるものである。

* 立命館大学人文科学研究所客員研究員

6 立命館大学人文科学研究所紀要(119号)

Abstract

Vancouver, British Columbia, Canada is home to many residents of Chinese

descent even by North American standards, and in Metro Vancouver overall,

they are believed to account for 25 percent of the population. The area’s

Chinese community is characterized by a high proportion of people of

Guangdongese and Hongkonger descent whose mother tongue is Cantonese,

and also by the formation of three categories of immigrants according to the

period of immigration and their cultural background, namely the Old Huaqiao

(Rōkakyō) first-generation immigrants from the 19th century onwards,

Hongkonger immigrants from the end of the 20th century, and mainland

Chinese from the 21st century onwards. The secret society of the Tiandihui

(Hongmen) is a mutual aid organization of Chinese people that was formed in

the mid-Qing dynasty in southern China and spread from Guangdong Province

to Chinese communities worldwide following the emigration fervor after the

Opium Wars. Canada was no exception, and the organization still exists today

having taken root in Chinese communities across Canada with a focus in

Vancouver. This paper outlines the transition in Canada’s Chinese communities

from the 19th century to the contemporary period for which there is not an

extensive corpus of previous studies; it discusses the history and current

situation of the Tiandihui in Canada based on Chinese language materials and

interviews conducted in the area.

キーワード:華人、華僑、洪門、中華会館、洪門民治党Key words: overseas Chinese, Chinese immigrants, Hong men, Chinese

benevolent association, Chinese Freemasons

7ヴァンクーヴァーにおける華人コミュニティと華人秘密結社洪門民治党の現状

2018年 12月、筆者はカナダ、ブリティッシュ・コロンビア州(以下、BC

州)ヴァンクーヴァーのチャイナタウンを訪れ、カナダ華人の重要なコミュ

ニティ組織である中国洪門民治党駐加国温哥華支部(The Chinese

freemasons Vancouver branch。1)以下、カナダにおける洪門民治党を「カナ

ダ洪門民治党」もしくは「カナダ洪門」と表記する)および、現地の華人コ

ミュニティをまとめる「四大僑団」の一角をなす中華会館(The Chinese

benevolent association of Vancouver)を取材する機会があった。

両者の建物はチャイナタウンの中心部で隣接しており、またカナダ洪門民

治党ヴァンクーヴァー支部の前主任委員(ヴァンクーヴァー洪門達権社現副

社長)が中華会館の現理事長を務めているなど、組織的に近しい関係にある。

カナダ洪門民治党および中華会館は、やはり隣接する孫文中国庭園(Dr. Sun

Yat-Sen Classical Chinese Garden)およびメトロ・ヴァンクーヴァー中華文化

センター(Chinese Cultural Centre of Greater Vancouver 2))などのチャイナ

タウンを象徴する文化施設群とも密接な関係を持ち、ヴァンクーヴァーの華

人コミュニティの中核となる存在のひとつである。

本業が中国関連分野を報じるジャーナリストである筆者は、日本の出版

社・小学館の業務を受任して彼らを取材した。しかし、これにより知り得た

カナダ華人やカナダ洪門民治党の歴史と現状については、むしろアカデミッ

クの場における情報の蓄積と共有に帰すべきであろうと考えた。ゆえに本小

論を記すものである。

なお、筆者は学部・大学院時代に歴史学および文化人類学的な視点から華

南の伝統地域社会史を研究テーマに選んでおり、華南の伝統社会と密接な関

わりを持つ華人の秘密結社についての関心を特に強く持ってきた。ゆえに本

稿では特に「秘密結社」として伝統的に知られているカナダ洪門民治党につ

いての記述を主とし、中華会館についての記述は従とするにとどめた。

8 立命館大学人文科学研究所紀要(119号)

1.ヴァンクーヴァー華人社会の概観

カナダ西海岸 BC州の中心都市であるヴァンクーヴァーは、社会にリベラ

ルな気風が強く移民に寛容なカナダ国家の諸都市のなかでも、多元主義が特

に強く根付いている街である。暖流の影響を受け、北国カナダとしては極め

て温暖な気候や、太平洋を挟んで東アジアの諸国と「隣接」する地理的な要

因もあって、19世紀から中国系・韓国系・日系など東アジア系移民の流入が

進んできた。

特に中国系住民の人口規模は大きく、カナダ統計局による 2016年統計 3)

では、総人口 456万 240人の BC州において中国系カナダ人は 50万 8480人

に達する。これは BC州の総人口の約 11%を占める数字であり、彼らは同州

内のヴィジブル・マイノリティとしては突出して大きな存在感を持つ集団と

なっている(中国系住民の多くはメトロ・ヴァンクーヴァー区域内に居住し

ており、同域内での人口比は 25%を超えているとみられる)。カナダに帰化

せず中国大陸・香港・台湾などの国籍を維持している永住者や留学生・労働

者らを含めれば、BC州の華人 4)は 100万人規模に達すると見られ、北米で

最も多くの華僑・華人が暮らす地域となっている。

ヴァンクーヴァーのチャイナタウンは北米でも有数の規模とされ現地の

華人コミュニティの政治的・文化的な中心地としての象徴的意味を持ってい

る。しかし、同地付近には非華人の麻薬中毒者が多く暮らし、治安の悪化や

建築物の老朽化も深刻であるため、20世紀末以降にヴァンクーヴァーに移民

した華人の多くは南部のリッチモンド市(メトロ・ヴァンクーヴァー区域内)

やヴァンクーヴァー市の東部郊外などに生活の拠点を置く例が多い。なかで

もリッチモンド市はユニークな存在であり、近年の報道では人口 20万人ほ

どのうちで華人人口が 7割に達するとされ、北米最大の華人の集住地となっ

ている。

後述のように華人の BC州への移住・移民は 19世紀より何度かのブームを

9ヴァンクーヴァーにおける華人コミュニティと華人秘密結社洪門民治党の現状

迎えつつ、現在まで陸続と続いている。現地の華人らは歴史的経緯から広東

系が多く、おそらく最多を占める。これは前出のカナダ統計局の 2016年統

計において、BC州における中国系カナダ人のなかで中国系言語を母語とす

る者 40万 8415人のうち、広東語(Cantonese)の母語者が約 47%の 19万

3530人、官話(Mandarin)の母語者が 18万 6325人、ほか潮州語・閩南語・

台湾語など広義でいう閩南語(Min Nan〔Chaochow, Teochow, Fukien,

Taiwanese〕)の母語者が 1万 1210人、上海語など呉語(Wu 〔Shanghainese〕)

の母語者が 4540人、客家語(Hakka)の母語者が 2325人、閩東語(Min Dong)

の母語者が 230人などとなっていることからも裏付けられる(ちなみにカナ

ダ全土で中国系言語を母語とする者は 125万 3360人で、うち広東語母語者

は約 45%の 56万 5270人、官話母語者は 59万 2040人となり、わずかなが

ら官話母語者が上回っている)。

ブリティッシュ・コロンビア大学カナダ華人学教学・研究計画(Initiative

for Student Teaching and Reseach in Chinese Canadian Studies)が刊行した

ヴァンクーヴァー華人史『JOURNEYS OF HOPE』(ISTRCCS[2018])によ

れば、華人が最初にカナダの地を踏んだのは、清の乾隆年間末期の 1788年

である 5)。マカオから英国人とともに渡航した広東人の木工職人がカナダ西

海岸の先住民ヌートカ族(Nuu-chah-nulth)の土地に至り、英国人を相手と

した商業活動に従事していた模様だが、当時の中国は海禁政策下であり、こ

れに続いて移民する者はまだいなかった。華人による北米西海岸への大規模

な渡航は、アヘン戦争終戦後の 1842年に中英間で結ばれた南京条約による

公行廃止・貿易自由化と、1849年の米国カリフォルニア州における金鉱脈発

見を端緒とするゴールド・ラッシュによって本格的に開始されることとなる

(なお、BC州でのゴールド・ラッシュは 1858年から始まった)。

王〔2011〕6)は、華人のカナダへの移住の歴史を 5段階の時期に分けてい

る。すなわち、①ゴールド・ラッシュを背景にした金鉱の採掘者として、ま

10 立命館大学人文科学研究所紀要(119号)

た奴隷制廃止後の北米における安価な労働力需要の増大に応じてカナダの

大陸横断鉄道の建設現場に労働者として向かった、主に独身男性からなる初

期移民の移住期である第 1期(1858年~ 1884年)、②華人移民の増加を憂慮

したカナダ政府により、華人を対象とした人種差別的な人頭税が課せられた

入国制限期である第 2期(1885年~ 1923年)、③続いてカナダ政府による華

人排斥法の成立から廃止に至るまでの華人排斥期である第 3期(1923年~

1947年)、④華人排斥法は撤廃されたもののまだ入国制限が続いていた第 4

期(1947年~ 1967年)、⑤カナダ政府が人種差別的な移民制限政策を撤廃し

て、移民法改正(1962年)とポイント・システムの導入(1967年)をおこ

なったことで、華人の流入が大幅に緩和された第 5期(1967年~)という区

分である。

ただしこの第 5期は長期間に過ぎるため、筆者としては⑥香港返還が決定

した 1984年の中英連合声明から 1989年の六四天安門事件、1997年の香港

返還を経て、中国支配に不安を抱いた香港人の移民が急増した期間を第 6期

(1984年~ 1998年。この時期は、中国国民党の独裁を嫌ういっぽうで社会の

自由化と経済発展により出国・移民のハードルが下がった台湾人のカナダへ

の移民も増えた)、⑦返還後の香港の安定や、カナダ社会での香港人男性の

就職難を背景として香港からの脱出熱が一段落した後、中国大陸の経済発展

を通じて官話話者の中国人(中華人民共和国出身者)の移民が増大した期間

を第 7期(1999年~現在)として設定しておきたい。過去の各時期の華人移

民をめぐる細かな動向については王[2011]や、特に香港人移民の動向に

フォーカスした谷垣[2010]7)に詳しい。

ここで全体的な傾向を大づかみに記すならば、①~③の期間に、主に労働

者として海を渡った華人男性やその家族らの移民たちは、広東省珠江デルタ

地帯において相対的に経済が立ち遅れていた四邑(新会・台山・開平・恩平)

の出身者が多く、特に台山出身者が多かった。ほかにはやはり珠江デルタの

南海・番禺・順徳の「三邑」や、マカオに近い中山県の出身者など、いずれ

11ヴァンクーヴァーにおける華人コミュニティと華人秘密結社洪門民治党の現状

も広東語を母語とする地域の人々が中核を占めた 8)。彼らはヴァンクー

ヴァーやトロントなどカナダ各地の伝統的なチャイナタウンの建設者であ

り、老華僑として現在の BC州の華人コミュニティの基層を形成する人々と

なっている。後述するカナダ洪門や、故郷の各地名を冠した会館や宗族ごと

の宗親会、中華会館をはじめとした伝統的な僑胞組織も、当初は彼らによっ

て組織されてきた 9)。

いっぽう、④~⑤の時期には中華人民共和国の建国や、中国国内の政治・

経済混乱により中国大陸での前途に不安を抱いた人々がカナダへと渡って

いる。台湾経由の人々を除けば、彼らの多くはいったん香港を経由する形で

海を渡っており、ある程度は広東語圏に組み込まれた人々であった(また香

港自体も文革中に大規模な暴動が起きるなど政情が不安定であり、やはり華

人移民の送出地としてのプッシュ要因が存在した)。英領香港が中華人民共

和国に返還されることに不安を持った⑥の時期の移民たちと合わせて、20世

紀までの華人移民の共通語は広東語であった。

⑥の時期のピークであった 1994年には、年間 4万人以上の香港人がカナ

ダへと移民しており、あまりの香港人の多さから「ホンクーヴァー(香港人

のヴァンクーヴァー)」という造語が生まれるほどであった。ただし、これ

らの香港人移民については、従来の華人移民の主体であった出稼ぎ者や政

治・経済難民とは異なって、出国時点で故郷の香港がすでに先進国水準の経

済発展を遂げており、一定の経済的基盤を有する中産階層以上の人々が移民

をおこなっていたこと、また当時英国領であった香港の出身者は英語を解す

るために、カナダ社会での住居探しをはじめとする生活基盤の構築や、非華

人系の職場での就業が相対的に容易であったことから、往年の華人移民のよ

うにチャイナタウンを経由せずに直接リッチモンド市などに居住し、老華僑

のコミュニティと深く接しない例も多く見られた 10)。

最後に 1999年ごろから現在まで続いている⑦の時期である。今世紀に入

り急増した中国大陸出身者のカナダへの移民熱は、従来広東語を共通語と

12 立命館大学人文科学研究所紀要(119号)

し、またそれゆえの言語的・文化的差異や各華人移民の出国の経緯ゆえに中

華人民共和国に対して一定の政治的・心理的距離感を置いてきた BC州の華

人社会の様相を、根本的に塗り替えるものとなっている。2010年代からは中

国国家の対外政策が、従来の韜光養晦政策から積極策に転じた影響もあり、

中国大使館・領事館などを通じた海外華人への文化的支援や政治的な働きか

けも強まるようになった。また、2018年 4月には華人コミュニティ側からの

長年の働きかけを受け、ヴァンクーヴァー市長のグレゴール・ロバートソン

が、過去の時期(上記区分でいう①~③の時期に相当する)において市が華

人差別的な政策を実施していたことを認めて謝罪する 11)など、過去のカナ

ダ華人の歴史に向き合う動きも活発化している。

また⑦の時期には、中国共産党の高級官僚(裸官)が財産の海外移転や政

治的なリスクヘッジを目的として妻子を海外移住させる目的地としてカナ

ダを選ぶ例も多く、新たな移民の形態が出現している 12)。

いっぽう、近年はカナダ社会のリベラル化にともない中国系カナダ人の政

界進出も活発となっており、中華会館[2016]13)によれば 2006年~ 2016年

にカナダ連邦議員として全国で 16人(定数 338議席)、BC州議員として地

元から 5人(定数 87議席)の華人系議員が当選しているほか、ヴィクトリ

ア市では 1999年~ 2008年に華人(Alan Lowe)が市長を務めた。英語名で

表記された姓の発音を見る限り、現時点での華人議員たちは広東系の老華僑

もしくは香港系と見られる人々が多数を占めるが、中華会館やカナダ洪門の

関係者によれば、連邦議員の黃陳小萍(Alice Siu-Ping Wong)や関慧貞(Jenny

Kwan)、BC州議の屈潔冰(Teresa Wat)らの、香港で生まれ育ってからカナ

ダに移住した(=老華僑ではない)中国系カナダ人議員たちも、中華会館や

カナダ洪門との関係が密接である 14)。選挙における得票上の理由もあって、

伝統的なチャイナタウンの僑胞団体と、相対的に新参者である香港系移民の

政治リーダー層との接近・融合が発生しているのであろう。

現時点において、中華人民共和国生まれの華人議員はバーナビー市議の王

13ヴァンクーヴァーにおける華人コミュニティと華人秘密結社洪門民治党の現状

白進(James Wang 15))などごく少数しか存在しないが、今後は最新の移民グ

ループたる彼らの政治参加や、その政治リーダー層による伝統的僑胞団体と

の接近も進んでいくと予想される。

2.カナダにおける華人秘密結社洪門民治党の展開

カナダの、ことに BC州の華人コミュニティを観察する上で、極めてユニー

クな存在がカナダ洪門民治党である。これは清代の華南にルーツを持つ華人

の伝統的な会党(秘密結社)の系譜の中に位置付けられる組織のひとつであ

る。同様の会党組織については、中国大陸(後述)のほか香港・マカオ・台

湾など東アジアの中華圏をはじめ、フィリピンやカンボジアなどの東南アジ

ア各国、米国のほか南北アメリカ各国や、英国をはじめとした欧州各国の華

人コミュニティに、さまざまな名前を持つ組織が散らばっている。

もともと洪門をはじめとした会党組織は、1949年の「新中国」の建国以前

まで、特に華中・華南の中国社会に深く根を張っていた存在である。伝統中

国の政府権力は民政への介入に消極的で、官の側に社会保障や生活福祉の関

連政策を積極的に実施していくという考えが薄かった。こうした社会では、

庶民の生活は相互扶助に頼らざるを得ず、福祉・医療・育児支援・介護埋葬、

果ては紛争の調停に至るまで、公共サービスの多くが民間に存在する中間団

体によって担われることとなった。ここでいう中間団体の例としては、地域

社会においては血縁にもとづく宗族、また大都市部や海外の出稼ぎ者の間に

おいては、宗族組織の延長線上にある宗親会、または地縁にもとづく会館な

どが該当するのだが、これらに包括され得ない単身の男性や、地縁・血縁の

バックアップが脆弱な貧困層・移住民らの間で、実質的な相互扶助システム

として盛行したのが、会党組織による結合であった。

すなわち、清代中期から存在感を増した天地会や三合会(他に紅花会、三

点会、添弟会、小刀会などさまざまな呼称や組織がある)らの洪門系の組織

14 立命館大学人文科学研究所紀要(119号)

や哥老会(民国期以降に洪門に合流したとされる)、また民国期に力を強め

た紅幇や青幇などがこれに相当する。

会党のはしりは天地会(洪門)であり、その成員間の内部における伝承に

おいては康煕年間の福建省に発したとされ、その起源ゆえに「反清復明」を

掲げる組織であった、とされている 16)。

洪門の性質について山田[1998]は、その実際の起源は 18世紀の華南に

おける寄る辺なき民の間で自然発生的に生まれた相互扶助組織であり、「反

清復明」の理念もまた、単に自身らを「秘密」のイメージで覆い、他者を畏

怖させるための実体なき演出であったと説明している 17)。会党は本質的に

は、地縁・血縁のネットワークが脆弱な人々が作った一種の中間団体のひと

つであったのだが、「秘密」を抱えつつ謎めいた儀礼をおこない、成員相互

でしか通じない隠語を用いることで、仲間意識を強化してきた存在であった

という。

洪門は乾隆年間の後半以降、特に福建・広東省の民間社会に深く根を張っ

てきた。洪門は十九世紀から世界の華僑社会にネットワークを拡大したが、

これはアヘン戦争を契機とする華南の対外開放と、それに伴う華僑の移民熱

に伴ってのことである。

現在、カナダの BC州に全国総本部を置くカナダ洪門民治党もまた、その

始まりは十九世紀後半にカナダ西海岸へと渡った広東系移民たちの社会よ

り発生した(時期的には、前章におけるカナダ華人史の第一期①に相当す

る)。以下、黎[2015]18)を参考としつつ、トピックを立ててその歴史と現

状を見ていこう。

2-1 最初期の動向

1858年、BC州の大河・フレーザー河での金鉱脈の発見に伴いカナダ西海

岸でのゴールドラッシュが幕を開けると、ヴァンクーヴァー市の約 300キロ

北北東に向かった山中に位置するバーカービル(Barkerville)に広東系の華

15ヴァンクーヴァーにおける華人コミュニティと華人秘密結社洪門民治党の現状

人たちが集まり、街の南側にチャイナタウンが出現した。1963年に華人人口

は約 3000人に達し、その 8割ほどは米国カリフォルニア州から金脈を求め

て流れ込んだ洪門(美国洪順堂)の成員であったことから、同年に広東省開

平出身者と伝えられる金鉱労働者・黄深貴を中心として洪順堂が建てられ

た。これがカナダにおける洪門組織のはしりであった。堂内には「義興公司」

「建新公司」の 2組織が付設され、洪門の財務や成員の福利、新成員の入会

紹介、宿泊施設の提供などの業務をおこなっていたとされる。この洪順堂は

1868年の火災で全焼した後、洪門成員が募金を募って空き小屋を購入する形

で再建され、太平房(成員の病室)を併設する形で再開された後、1882年ご

ろに堂名を「致公堂」に改名した。

なおバーカービルのチャイナタウンは最盛時の 1869年には 5000人規模ま

で拡大し、洪順堂をはじめ会館や堂所は 7施設を数えた。ただ、現地のゴー

ルド・ラッシュははやくも 1870年代に斜陽に差し掛かり、バーカービルの

チャイナタウンは急速に衰退して 1910年代には華人人口がわずか 35人とな

り、やがて消滅している(もっともバーカービルの致公堂は 1980年に BC州

政府による改修を受け現存している)。

2-2 初期の組織拡大

カナダにおける洪門組織は、生活が不安定な金鉱労働者たちの相互扶助組

織として産声を上げたものであり、1876年にバーカービルと同じくフレー

ザー河沿いの集落であるクイネル(Quesnel)にも致公堂が生まれた。その

後、カナダではゴールド・ラッシュの衰退後も大陸横断鉄道の建設などで華

人の廉価な労働力の需要が存在し、華人は増加を続けて都市部にも進出した

ことから、カナダにおける洪門組織も拡大した。1886年~ 1912年の期間で、

ヴァンクーヴァー・トロント・カルガリー・モントリオールなどをはじめ、

カナダ全土の 43都市に 43の致公堂が成立している。なかでも西海岸の BC

州は過半数の 23堂が集中していた。

16 立命館大学人文科学研究所紀要(119号)

2-3 中国革命への協力

やがて 1887年 7月、日本渡航を目指す孫文がカナダ経由で移動した際に

モントリオールやヴァンクーヴァーで現地の華僑と交流し、そのなかで多く

の「反清復明」を掲げる洪門成員と出会ったことが、カナダの洪門と中国革

命との邂逅であった。その後、孫文は 1903年にホノルルで洪門に加入し、や

がて会党組織の影響を強く受けた中国同盟会(1905年)を結成、さらに洪門

組織に対して同盟会会員の加入を求めた。孫文は米国カリフォルニア州に強

い支持基盤を持ち、特にサンフランシスコの洪門組織との関係が強かったこ

とで、同州に隣接するカナダ BC州の洪門もその影響を強く受けた。

1911年 2月、孫文はヴァンクーヴァーの致公堂を訪問して熱烈に歓迎さ

れ、中国革命支援の集金組織「洪門籌餉局」を成立させている。同年 2~ 3

月、孫文はカナダ各地の洪門組織を行脚しており、結果、同年内にカナダ全

土の致公堂から 11万 2000カナダドルの資金が、辛亥革命やそれに先立つ黄

花崗蜂起の軍費として革命勢力に流れ込むことになった。その後、1913年に

黄興が袁世凱に反発する第二革命を起こした際も、カナダの洪門組織は 6万

3000香港ドルの寄付をおこなっている。

なお、この革命への寄与は現在でもカナダ洪門のプライドを支えるエピ

ソードとなっているらしく、ヴァンクーヴァーのカナダ洪門のビルに隣接す

る中華文化センターの博物館においても、カナダ洪門が孫文を迎えたことや

活発な資金援助をおこなったことが、パネル展示において強調されていた。

辛亥革命後、北米の洪門組織と孫文・国民党との関係は必ずしも良好ではな

かった(後述)が、そうした歴史は現在あまり意識されなくなっているよう

だ。

2-4 大漢公報

1908年、当時の革命熱を受け、ヴァンクーヴァー致公堂の洪門成員らが個

人的な事業として反清革命を主張する華字紙『大陸報』を創刊。こちらは翌

17ヴァンクーヴァーにおける華人コミュニティと華人秘密結社洪門民治党の現状

年に停刊するが、1910年にヴァンクーヴァー致公堂の大 (頭目)らがその

事業を継承して、資金を集めて印刷設備を買い取り、やはり反清革命を社論

とする華字紙『大漢日報』を創刊した(辛亥革命後の 1915年に『大漢公報』

に改名)。

その後、『大漢公報』は経費不足によりしばらく低空飛行を続けたが、1979

年からページ数を増やして再拡大する。だが、やがて 1990年代以降の香港

人移民の増加に伴って、『明報』『星島日報』などの香港大手紙がカナダ版を

発行しはじめたことで市場競争に破れ、1992年に停刊している。

2-5 達権社

中華民国の成立後、中国同盟会は国民党と名を変えたが、孫文が洪門の政

党としての政治参加を認めなかったことで、孫文や国民党勢力と海外洪門組

織の関係は急速に悪化する。海外の洪門組織の間では国民党員である洪門成

員と非党員の洪門成員の間で対立が起き、ヴィクトリアでは 1915年に国民

党員と洪門成員の暴力衝突すらも発生。カナダ全土で約 30年間にわたり国

民党(および中国国民党)と洪門との衝突が続いた。結果、1915年に洪門会

員の「公権」を守るという名目のもとで、姉妹団体としての達権社(Dart

Coon Club)がヴィクトリアで組織され、同年中にヴァンクーヴァーでも設

立された。

黎[2015]によれば達権社は現在、「カナダ洪門の最高権力機構」として

位置付けられており、カナダ洪門民治党の成員のうちで一定の加入期間を経

て社員たちの賛同を得た者しか入社できないなど、洪門の上位組織もしくは

秘密結社内秘密結社の如きものとして存在しているらしい。なお、カナダ洪

門民治党のカナダ総本部がヴァンクーヴァーに置かれているのに対して、達

権社の総社は歴史的経緯からかヴィクトリアに置かれている。1984年時点

で、カナダ全土には 21社の達権社があったという。

なお、私が 2018年 12月にヴァンクーヴァーの洪門支部を訪問した際、同

18 立命館大学人文科学研究所紀要(119号)

フロア内に達権社があることを確認した(ただし無人であった)。Google map

においては、ヴァンクーヴァーのチャイナタウンにおいて洪門施設の住所は

登録されておらず、「Dart Coon Club」の名で住所登録(116 E Pender St,

Vancouver, BC V6A 1T3)がなされていた。

2-6 中華会館との関係

近年まで相互扶助の対象が成員同士に限られていた洪門とは異なり、中華

会館は少なくとも理念の上では華人全体を対象とした伝統的な僑胞団体で

ある。カナダにおける中華会館は現地の洪門組織の成立よりも 20年ほど時

代が下った 1884年にヴィクトリア市で成立している。ヴァンクーヴァーで

も 1885年に前身となる団体が誕生し、1906年に正式に発足した。現在もヴァ

ンクーヴァーのチャイナタウンの中心に建つ中華会館のビルが落成したの

は 1909年である 19)。同時代の洪門は貧困層や労働者の成員が多かったが、

対して中華会館は比較的豊かな商工業者が中心となっており、華人コミュニ

ティ内のさまざまな会館や公所・堂会の代表者が参加する形を取っていた。

黎[2015]によれば中華会館は 1922年には中国国民党の強い影響化に置

かれ、当時国民党と反目していたカナダ洪門と対立。1925年に孫文が死去し

た際、ヴィクトリアの中華会館が追悼式典と追悼デモを挙行した際には、洪

門成員らが騒ぎ回ってこれを妨害し、激怒した国民党関係者との殴り合いが

発生したという。両者の抗争関係はその後も続き、1931年に満洲事変が勃発

して日本による中国侵略が開始された際にも、中華会館が「華僑抗日救国

会」、洪門が「洪門抗日社会」と別々の抗日団体を作るなど反目していた 20)。

両者は 1940年になりようやく「合作」し、共同して海外での抗日運動にあ

たった。

中華会館は中国本土で中華人民共和国が成立した後も中華民国・国民党寄

りの立場を取り続けたが、加中国交樹立(1970年)を境にその姿勢が動揺

し、ついに 1978年に組織が「民主化」されて 21)、結果的に中華人民共和国

19ヴァンクーヴァーにおける華人コミュニティと華人秘密結社洪門民治党の現状

寄りの立場に切り替わった。これは伝統的に反国民党的だったカナダ洪門と

の対立が決定的に解消される事態ももたらした。

現在は、カナダ洪門ヴァンクーヴァー支部の前主任委員でヴァンクー

ヴァー達権社の現任の副社長である姚崇英(Hilbert Yiu)が中華会館の理事

長を務め、また中華会館秘書長の王元瓏(Michael Y Wang)も洪門の成員で

ある。姚いわく「洪門は中華会館の重要な構成団体のひとつ」とのことで、

いまや洪門と中華会館は組織的に非常に近しい関係に変わっている。

2-7 洪門民治党

現在、カナダ洪門はその中核団体の正式名称を中国洪門民治党駐加総支部

(The Chinese freemasons)とし、政党を思わせる組織名を名乗っている。そ

の経緯もやはり、20世紀初頭の孫文との協力関係のなかで一旦は政治化した

北米の洪門組織が、辛亥革命後に中国同盟会・国民党との関係を悪化させた

ことと関係があるようだ。

北米の洪門組織は 1918年、米国サンフランシスコで美洲洪門致公堂第 1

回懇親大会を開き、英語名を「The Chinese freemasons」とすること、頭目

を意味する「大 」を「盟長」と呼び変えることなどを決定。続いて孫文と

対立した陳炯明と連携し、1925年にロサンゼルスで世界の洪門の関係者を集

めた五洲洪門第 4回懇親大会を開いて、今後の名称を中国致公党とすること

を定めた(ただし洪門は統一性のある組織ではないため、一部は堂名をその

まま名乗り続けた。さらに香港の中国致公党は中国共産党に接近し、民主党

派のひとつとして現在も中華人民共和国の衛星政党として存続している)。

また、中国国内で国共間の対立が激化した 1946年、上海で五洲洪門第 5回

懇親大会が開かれ「中国洪門民治党」を世界の洪門の統一名称とすることが

定められた。

カナダにおける洪門もこれらの影響を受け、1945年にヴィクトリアで開か

れた大会で「中国洪門致公党駐カナダ総支部」、1947年にカルガリーで開か

20 立命館大学人文科学研究所紀要(119号)

れた大会からは「中国洪門民治党」を名乗るようになり、駐加総支部をヴァ

ンクーヴァーに置くようになった。

もっとも政党名を名乗ってはいるものの、その主張は改名の当初から極め

て漠然としており、政治団体であるとみなすべきかは判断が難しい。カナダ

における洪門組織は 1971年 7月に連邦政府の認可を受けた合法団体となっ

ており、特に第二次大戦後は政治運動よりも現地の華人コミュニティにおけ

る相互扶助組織としての側面に重きが置かれるようになった 22)。

2-8 華人コミュニティの一員としての洪門

洪門は「もともと戦うという武術的な性格を持っているため」23)、カナダ

洪門の各支部は武術・拳法グループ(もしくは獅子舞や龍舞のグループ)を

併設している。事実、ヴァンクーヴァーの洪門も建物の外部に「洪門体育会」

の名を大きく掲げている。

カナダ洪門の全国組織の盟長である郭英華(Fred Kwok)は過去にカナダ

武術団体連合総会の副会長を務めるなど著名な武術家としての顔を持つ。ま

た、カナダ洪門ヴァンクーヴァー支部の前主任委員・姚(前出)は 2002年

~ 2008年にかけてヴァンクーヴァー洪門体育会の会長を務めており、彼個

人もカンフー・ジムを主催している。また中華会館秘書長で洪門成員の王も

太極拳の使い手で、北美武当太極協会(Wudang Taiji Society of North

America)の会長と総教練を務めており、こうした関係者たちの個性を見て

も、カナダ洪門と武術との強い親和性を感じることができる。

王[2011]にれば、現在のカナダ洪門の主要な活動は年間 4回の定期例会

のほか、中国伝統文化を発揚するという方針から、文芸面を中心とした活動

が多いとされる。すなわち、中国武術、獅子舞、中国語、中国料理、中国舞

踊の講座の開設や、旅行・パーティー・映画上映会などの主催、老人福祉施

設の運営といったものであり、活動内容は非常に穏健である。2000年代に

入ってからは、ヴァンクーヴァーでのチャイナタウンでの春節パレードも積

21ヴァンクーヴァーにおける華人コミュニティと華人秘密結社洪門民治党の現状

極的にサポートしている。

また、近年カナダ洪門に特徴的なのは、華人の遠隔地ナショナリズムゆえ

であるのか、第二次大戦中に起きた南京大虐殺の追悼活動や、事件を象徴す

る日付である 12月 13日を連邦もしくは州の記念日と定める政治活動に積極

的にコミットしている点だ。これらは中華会館の活動としておこなわれる例

が多いが、2018年 11月に香港系連邦議員が南京大虐殺記念日の制定を求め

て開いた大規模集会に洪門民治党オタワ支部の主任委員が参加したり、12月

に洪門民治党トロント支部が発起役となってトロント市郊外に南京大虐殺

記念碑を建てたりと、カナダ洪門が表に出て活動を行なっている例も少なく

ない。

3.現代カナダ洪門の実態、当事者の自己認識

2018年 12月 2日、私はカナダ洪門ヴァンクーヴァー支部の建物内で、同

支部の現任の主任委員である馮治中(Cecil Fung)への聞き取りをおこなっ

た(なお、口頭での使用言語は英語、及び一部を繁体字中国語の筆談として、

録音をおこなった)。洪門の成員自身がその起源伝承をどう理解しているの

か、また「秘密結社」である自分たちの組織についてどのような自己認識を

持っているかがうかがい知れる内容であるため、以下に紹介する。

―洪門の起源についてどのような理解をしているか?

組織の開始は 18世紀の康煕帝の時代だ。西方への軍事行動があり、少林

寺の僧侶を必要とした。結果、少林寺の助けにより戦争には勝ったが、康煕

帝は少林寺が清朝に反するのではないかと疑い、次の軍事行動として少林寺

を倒した。5人の僧が逃げ、やがて組織を作った。組織の目的は反清復明、

反政府的なものだ。反清の目的が知られれば、九族を殺害される罰を受ける。

ゆえに非常に秘密の結社となった。

会員たちは、詩句(poetry)、手勢(hand signals)、Q&A(question & answers)

22 立命館大学人文科学研究所紀要(119号)

で仲間か否かを見分けた。北京からの暗殺者が来ても、これならわかるのだ。

―カナダの洪門のはじまりは?

ゴールド・ラッシュの際に、米国サンフランシスコから数多くの華人が

ヴィクトリアに来て、そしてバーカービルまで来た。1863年、多くの差別に

直面し、苦しい労働をおこなう華人たちの中から(カナダの)洪門は生まれ

た。洪門は華人の管理団体として発展した。河川などを管理したり、テリト

リーを決めたり、われわれはポリスのような存在だった。

―カナダの洪門に広東人が多い理由は?

歴史的な理由だ。(海外華人は)福建人はフィリピンに多く、潮州人はタ

イに多いが、広東の四邑、台山などの人間は出国の時期が遅かったので北米

まで来た。当時の中国国内において、富裕な地方の人間はそのまま故郷に住

めばいいが、貧しい地方の人間は出国して危険な労働者になるしかなかっ

た。多くが独身の男性だった。

かつて、新たにやってきた英語ができない華人は、私たちのところへ来て

洪門の仲間になった。そこで私たちは彼らに家や仕事を見つけてやった。多

くの移民は教育を受けていなかったので、故郷から来た手紙を洪門が代わり

に読み聞かせてあげたり、代わりに書いてあげたりしていた。銀行が信用で

きないので、金銭を預かってあげたり、故郷に送金してあげたりしていた。

病気をしたとき、警察と揉めたとき、(額の大きな)買い物をするときに通

訳してあげたりもした。最も大事なのはカナダにいる華人が死んだときだ。

我々はその棺桶を、香港経由で故郷の村まで送ってやっていた。当時の華人

たちは出稼ぎ者で、やがては帰郷することを考えていた。

―現在の洪門については?

革命が成功して清朝が倒れたため、洪門は華人コミュニティに対してサー

ビスを提供する組織として残ることになった。こんにち、我々は BC州の政

府と一緒に働いている。私たちは、2つの老人ホームを管理することを、BC

州の住居担当部門から了承された。これらの老人ホームはチャイナタウンか

23ヴァンクーヴァーにおける華人コミュニティと華人秘密結社洪門民治党の現状

ら近く、低所得者でも入れる施設だ。

他には、華人コミュニティにとっての大きなイベントである春節のパレー

ドへのスポンサーとなっている。我々は中華人民共和国の領事館と非常に近

い関係にある。現在、洪門は全カナダで 20支部を持ち、メンバー数は 1500

人~ 2000人だと思う。

―現在、洪門は「秘密」を持っているのか?

「秘密」はまだ持っている。だが、目的はない。お茶の儀式みたいなもの

だ。(成員たちが)団結するためにセレモニーをおこなっているのだ。何か

に属しているという感情を抱かせるためにある。ゆえにたくさんの秘密の儀

式がある。(一部の)儀式は YouTubeで動画を流している。

―近年、カナダに来る華人移民は香港や中国大陸出身の比較的富裕な人た

ちだ。過去の移民たちと違いは感じるか?

現在は過去とは流れが変わっている。1970年代から、香港から多くの移民

が来たが、彼らは(往年の洪門が提供していたような)ローカルなサービス

を必要としていなかった。彼らは英語ができ、またビジネスマンの人脈もあ

れば弁護士も知っている。1980年代~ 1990年代に台湾から来た人たちもそ

うだ。中国大陸からの移民についても、自分でインターネットができて、自

分たち自身のサポートグループを持っている。ここ(洪門)に来る必要がな

いのだ。80年前~ 100年前の移民たちは、カナダに来ればまず洪門を訪れた

が、現在は違う。我々(洪門)は復興して、なにか違うことをしないといけ

ない。

―現在のチャイナタウンでは、言語の違いや世代の移り変わりによるコ

ミュニティの分断も課題になっていると聞いたが。

中国大陸出身の移民が洪門に入る例もある。だが、私も含めて、従来の

(広東系の古い)移民はマンダリン(官話)ができない。チャイナタウンに

問題が生じている。

また、現在、洪門の最も若いメンバーは 30歳くらいだが、われわれのミー

24 立命館大学人文科学研究所紀要(119号)

ティングは広東語なので、ここで生まれた(英語を得意とする移民 2世以降

の)若い世代にとっては難しい。彼らは中国語を読んだり書いたりするのが

難しいのだ。いっぽう、古いメンバーも、(高齢化などによって)あまり活

動に参加してくれなくなっている。

―現在、華人たちが洪門に入ることには、どういうメリットがあるか?

もしも(華人や洪門の)歴史に興味があるなら入ってもよい。もし合わな

ければ離れてもよい。これはどのボランティア・グループでも同じことだろ

う。ライオンズ・クラブやロータリー・クラブでもそうだ。離れる人が離れ

ていくのは仕方ない。

馮への聞き取りからは、洪門がその起源伝承を現在もひとまず継承してい

ること、カナダの華人社会においては「反清復明」の政治目的よりも辺境の

移住民たちによる相互扶助組織や秩序維持組織としての側面を非常に強く

持っていたこと、「秘密」の存在は成員間の団結を強める作用を持つ一方で

「秘密」の内容は非常に空虚なものであること(もっともこれらは中国国内

の洪門についても、実態は同様であった 24))、などがうかがい知れる。加え

て、現在のカナダ洪門は組織の老化が進み、華人コミュニティの変質ととも

に従来の社会的役割を終えつつあることも見て取れよう。なお、現在のカナ

ダ洪門をライオンズ・クラブやロータリー・クラブのような親睦団体として

表現する言説は、中華会館主任委員の姚、同秘書長の王からも聞かれ、カナ

ダ洪門の成員間において広く共有されている認識であるかと思われる。

結語

以上、ヴァンクーヴァーの華人コミュニティの歴史と現状、および同コ

ミュニティの歴史と密接な関係を持つカナダ洪門の歴史と現状を概観した。

カナダの華人社会については国内での先行研究が比較的希薄な分野である

25ヴァンクーヴァーにおける華人コミュニティと華人秘密結社洪門民治党の現状

が、同国における華人系住民の長い歴史と、近年の同国における華人系移民

の急増を鑑みれば、より一層の理解の深化が求められる分野であろう。本稿

がそのささやかな一歩となれば幸甚である。

注1) この支部は同党「駐加総支部」および姉妹組織であるヴァンクーヴァー洪門達権社(Dart Coon Club of The Chinese freemasons of Vancouver)と同一の建物内にある。

2) カナダ洪門全組織の盟長(頭目)である郭英華(Fred Kwok)が同センター長を兼任。3) Census Profile, 2016 Census, Statistics Canada, [https://www12.statcan.gc.ca/census-

recensement/2016/dp-pd/prof/details/page.cfm](2018年 12月 20日閲覧)4) 華人という言葉の定義は難しいが、ここでは「海外に渡った中国系の人々を国籍 の区

分なく、包括して華人ととらえる」(陳[2010])という広義の理解をしておきたい。5) ISTRCCS[2018], p27

6) 王維「バンクーバーにおける華人コミュニティ及びチャイナタウンの行事」『香川大学経済論叢』84巻 1号(2011年)、2~ 11ページ

7) 谷垣真理子 「カナダへの香港人移民」『東洋文化研究所紀要』157巻(2010年)8) 谷垣[2010]、188(130)ページ9) これらは、チャイナタウンのセンターであった中華会館の建物の 2階に、1961年の時点で台山寧陽会館が入居していたことが写真から確認できること(ISTRCCS

[2018],P17)や、2016年に中華会館が成立 110週年を記念して刊行した会館志『温哥華中華会館壱百壱拾週年記念特刊』(中華会館[2016])の巻末に全加開平総会館や加拿大温哥華禺山総公所(番禺)などの広東省各地の地名を冠した会館組織が祝賀広告を多く寄せていることからもうかがい知れる(潮州会館、山東同郷会など非広東語圏の他都市・他省出身者の会館の広告も見られるが、広東語圏の会館組織の広告のほうがはるかに多い)。

10) もっとも香港出身者のカナダでの就業はあくまでも過去の華人移民と比較して「相対的に」容易であったにすぎず、カナダ社会では十分な収入源を得られないことから妻子をカナダに残して夫だけが香港に帰って働くという、逆出稼ぎのような不思議な現象が広範に発生している。移住先に「太太(妻)」と子だけを置き家庭を「空」にしていることを、宇宙飛行士を意味する中国語・広東語と掛けて「太空人」と呼ぶ俗語も流行した。

11) 「カナダ・バンクーバー市が過去の華人に対する差別を正式謝罪」『人民網 日本語版』2018 年 4 月 24 日[http://j.people.com.cn/n3/2018/0424/c94475-9452999.html](2018

年 12月 20日閲覧)12) 在外華人メディアなどにおいては、党官僚が愛人を住まわせる例が多いという米国ロ

26 立命館大学人文科学研究所紀要(119号)

サンゼルス郊外のローランド・ハイツが「二 村」(愛人村)と称されるのに対して、裸官の本妻たちが多く住むとされる BC州のリッチモンド市を「大 村」(本妻村)と呼ぶという、やや鄙陋な揶揄的表現がなされる例もある。

13) 中華会館[2016]、203~ 205ページ14) 現地の華人コミュニティ内のメディアの報道を見ても、当該の議員らが中華会館やカナダ洪門のイベントにしばしば出席していることが確認できる。

15) 江蘇省出身の王白進はカナダ初の中華人民共和国生まれの議員当選者である。16) その起源伝承をおおまかに紹介すれば、以下のようなものである。「清の康煕年間に起きた西方の異民族「西魯番」の反乱に対して、朝廷の兵が手を焼いたことから、康煕帝が有志を募ったところ、少林寺の一〇八人の僧らがこれに応じ、見事に反乱を平定した。だが、讒言により寺は清の官兵に焼き討ちされ、かろうじて逃亡した 5人の僧が水面に浮かぶ香炉を見つけ、その底に「反清復明」と書かれているのを見て自分たちの道を決めた。彼らはやがて豪傑僧・万雲龍を大哥(頭目)として洪家のまとまりを作り上げ、やがて明の末裔・朱洪竹を盟主に推戴して反清の兵を挙げたが破れたため、5人の僧たちは各地に散って義士を集めることにした。これが洪門のはしりである―」(並木頼寿[2005])。これは荒唐無稽のそしりを免れ得ず、史実としてそのまま受け取ることはできないのだが、洪門の成員たちの間ではこうした説話が信じられてきた。洪門の起源伝承は 1911年に発表された平山周「支那革命党及秘密結社」でより詳しく紹介されている。

17) 山田[1998]109~ 111ページ18) 黎全恩『洪門及加拿大洪門史論』(電子書籍版)、商務印書館(香港)有限公司、2015

年、下篇「楓葉国裏話洪門」19) 中華会館[2016]40~ 43ページ20) なお、国民党寄りの中華会館系の抗日運動に反発したカナダ洪門は、中国共産党の八路軍に協力している。戦後、中国国内で中国致公党が共産党の衛星政党として残されたり、こんにちのカナダ洪門が中国大使館と密接な関係を築いている淵源を考える上で興味深い。

21) 中華会館[2016]55~ 57ページ22) なお、米国サンフランシスコの洪門の同時代的状況について詳しく紹介した内田[1966][1967]は、当時の時点で他の堂会組織が相互の堂闘(武力衝突)や薬物販売・売春・賭博などの反社会的商業活動に明け暮れていたのに対して、致公党に変わった洪門は政治組織としての顔を出していた(相対的に反社会的傾向が薄い)と記す。カナダ洪門については不明だが、隣接する米国カリフォルニア州の影響を受けている地域でもあり、やはり同様であったかもしれない。なお、著者がヴィクトリア大学名誉教授で洪門組織とも近い関係にある黎[2015]には、大戦後のカナダ社会におけるカナダ洪門についての反社会活動の記述は存在しない。

27ヴァンクーヴァーにおける華人コミュニティと華人秘密結社洪門民治党の現状

23) 王[2011]14ページ24) 山田[1998]

<参考文献>内田直作「三藩市唐人街の社会構造(五)」『成城大學經濟研究』24巻、1966年内田直作「三藩市唐人街の社会構造(六)」『成城大學經濟研究』25巻、1967年内田直作「三藩市唐人街の社会構造(七)」『成城大學經濟研究』26巻、1968年山田賢『中國の秘密結社』講談社、1998年並木頼寿「反清復明を叫んで 天地会/哥老会/三合会」(野口鐵郎編、綾部恒雄監修『結社の世界史 2 結社が描く中国近現代史』山川出版社、所収)2005年

孫江『近代中国の革命と秘密結社―中国革命の社会史的研究(一八九五~一九五五)』汲古書院、2007年

谷垣真理子 「カナダへの香港人移民」『東洋文化研究所紀要』157巻、2010年陳天璽「華人の移動とその目的―世代・地域別比較の試み」(塚田誠之編『中国国境地域の移動と交流―近現代中国の南と北』有志舎、所収)2010年

王維「バンクーバーにおける華人コミュニティ及びチャイナタウンの行事」『香川大学経済論叢』84巻 1号、2011年

黎全恩『洪門及加拿大洪門史論』(電子書籍版)、商務印書館(香港)有限公司、2015年

温哥華中華会館編委会『温哥華中華会館壱百壱拾週年記念特刊』、2016年University of British Columbia, Initiative for Student Teaching and Reseach in Chinese

Canadian Studies, JOURNEYS OF HOPE, Vancouver:, 2018