ルネサンス修辞学の諸主題 - HERMES-IR |...

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一橋論叢 第123巻第3号 平成12年(2000年)3月号 (34) ルネサンス修 ーパーオロ・コル 十五世紀末から十六世紀初めに-かけてロ た人文主義者パーオロ・コルテージ(霊〇一〇〇 尽3-冨昌)は、父アントーニオに倣って若くして 庁に入り、そこでまず書記官、ついで秘書官を歴任した こうした教皇国家の官僚としての典型的な経歴をたどる ・かたわら、コルテージは、バルトロメーオ・プラーティ ナ、ジューリオ・ポンポーニオ・レートらローマの人文 主義者と親交を■結び、自らも〈アカデミー〉を組織して、 人文主義者サークルの中心となった。それだけでなく、 兄アレッサンドロ(やはり教皇庁に勤務した)を通じて フィレンツェの人文主義者ともつながりを保ち、たとえ ば一四九〇年前後にキケロの模倣をめぐってアンジェ ロ・ポリツィアーノと戦わせた論争は、コルテージの活 からー 動の中でも特によく知られている。キケロ ージは、ラテン語の文体について折衷主義を士 ンツェの人文主義者ポリツィアーノに対して、ロー 勢力をふるったキケロ主義の立場を主張して譲らず、こ の点で、後年教皇庁において枢機卿にまで昇りつめたピ エトロ・ベンボのキケロ主義・古典主義の先駆者と考え ることができる。コルテージには、著作として、彼の時 代までのイタリアの人文主義者を論じた対話篇『学識あ る人々について』(一四八九-九〇年頃執筆されたが、 エ一丁イ一丁イオープリノケプス 写本で流布し、初刊本は一七三四年刊行)、十二 世紀のペトルス・ロンバルドゥスに遡る中世的ジャンル をキケロ主義的ラテン語でくリライトVした『神学命題 集』(一五〇四年刊行)、そして、一五〇三年に故郷サ 446

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一橋論叢 第123巻第3号 平成12年(2000年)3月号 (34)

ルネサンス修辞学の諸主題

   ーパーオロ・コルテージの『学識ある人々について』

 十五世紀末から十六世紀初めに-かけてローマで活動し

た人文主義者パーオロ・コルテージ(霊〇一〇〇〇ユ窃-

尽3-冨昌)は、父アントーニオに倣って若くして教皇

庁に入り、そこでまず書記官、ついで秘書官を歴任した。

こうした教皇国家の官僚としての典型的な経歴をたどる

・かたわら、コルテージは、バルトロメーオ・プラーティ

ナ、ジューリオ・ポンポーニオ・レートらローマの人文

主義者と親交を■結び、自らも〈アカデミー〉を組織して、

人文主義者サークルの中心となった。それだけでなく、

兄アレッサンドロ(やはり教皇庁に勤務した)を通じて

フィレンツェの人文主義者ともつながりを保ち、たとえ

ば一四九〇年前後にキケロの模倣をめぐってアンジェ

ロ・ポリツィアーノと戦わせた論争は、コルテージの活

からー榎

  本

武  文

動の中でも特によく知られている。キケロ主義者コルテ

ージは、ラテン語の文体について折衷主義を士るフィレ

ンツェの人文主義者ポリツィアーノに対して、ローマで

勢力をふるったキケロ主義の立場を主張して譲らず、こ

の点で、後年教皇庁において枢機卿にまで昇りつめたピ

エトロ・ベンボのキケロ主義・古典主義の先駆者と考え

ることができる。コルテージには、著作として、彼の時

代までのイタリアの人文主義者を論じた対話篇『学識あ

る人々について』(一四八九-九〇年頃執筆されたが、

      エ一丁イ一丁イオープリノケプス

写本で流布し、初刊本は一七三四年刊行)、十二

世紀のペトルス・ロンバルドゥスに遡る中世的ジャンル

をキケロ主義的ラテン語でくリライトVした『神学命題

集』(一五〇四年刊行)、そして、一五〇三年に故郷サ

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(35) ルネサンス修辞学の諸主題

ン.ジ、ミニャーノに隠棲してから、枢機卿の地位を視野

に入れつつ執筆に励んだ大著『枢機卿職について』があ

るが、これは自ら上梓することができず、もう一人の兄

ラッタンツィオによづてサン・ジミニャーノの自邸で印

刷され〔パーオロの死後一五一〇年に刊行された。

 『学識ある人々について』(b“ぎ§ぎき§きoぎ§s-

ざ寒吻)は、年長者であり対話の主導権をとる「アント

ニウス」(ローマの人文主義者、アントーニオ・アウグ

スト・バルドあるいはジ冒ヴァンニ・アントーニオ・ス

ルビツィオと推定される)、そして、主として聞き役に

まわる「アレクサンデル」(アレッサンドロ・ファルネ

ーゼ、のちの教皇バウルス三世)と「パウルス」(コル

テージ自身)の三人が、イタリアの人文主義者の学識・

雄弁とラテン語の文体とをめぐうて交わした談論を記録

する対話篇という体裁をとっているが、人文主義的著作

としてのその意義は、次の三つがあろう。まず、それは、

十五世紀末イタリアの一人の人文主義者による人文主義

の歴史、各々の人文主義者への評価を、そのまま伝えて

   フ マ 一一ユムス

いる。〈人文主義〉ーという呼称そのものが、周知の

ように、十九世紀の造語であるが-が当の人文主義に

とって有していた意味を教えてくれる点で、この著作に

は真正性という価値がある。第二に、そこには、評価を

下す際の、ルネサンス修辞学の美的判断の基準が示され

ている。執筆当時のコルテージはキケロ主義者だったか

ら、それはおのずからキケロ主義的な偏りのある基準だ

が、これもやはりその真正性のゆえに精読に値する叙述

であろう。第三に、この対話篇で三人の対話者は、ルネ

サンスの修辞学において塾要性を持っていたいくつかの

主題を、年代順に次々に登場する人文主義者への評価の

合間に、いわぱ挿話的なかたちでやや長く語っている。

本稿で紹介しようとするのは、『学識ある人々について』

で語られるこれら修辞学上の諸主題であるが、前の二つ

の叙述にも、詳しく論じる価値があることは言うまでも

な㌧今回は、時間と紙幅の制約のために、論述の範囲

を限定する。ここでとり上げる五つの主題は、順に、雄

弁の没落と復活、ギリシア語からラテン語への翻訳、模

                    (1)

倣と技術、歴史叙述と修辞学、弁論の韻律である。

雄弁の衰退・再興の原因

ルネサンスの人文主義者にとって、自らの活動の根幹

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橋論叢 第123巻第3号 平成12年(2000年)3月号 (36)

にかかわる最も重要な主題は、古代ギリシア・ローマに

開花し、「暗黒の」中世の長い空白期を経て、自分たち

が復活させたと信じていた雄弁、とりわけラテン語によ

る優雅な表現だった。コルテージは、この雄弁の衰退と

復活を、どのように考えていたか。

 対話者の一人「アレクサンデル」は、これほどの時代

の多様さはどこから生じるのだろうか、神々はある時代

を手厚く保護したのに、別の時代をまったく蔑んだよう

に思われるのはなぜだろうか、と問いかける。

というのも、アテナイは、何と多くの弁論家を一時に

生み出したことか? いかに力強い雄弁が、何という

学識が、何という才能が、かの時代のこの上なく豊か

な泉から、流れ出したことだろうか? ローマでは、

一つの時代に、どれほどの数の弁論家が活躍し、雄弁

に能力を発揮したことか?〔……〕それに比べて、わ

れわれの父祖の時代ほど、良き学芸に乏しかった時が

あるだろうか? あのように長く文芸が沈黙したこと

があったか? 才能がかくも力を失ったために、ある

時代には神々の賜物によってあらゆることが許された

のに、別の時代に、運命の災厄の如きもの一によってあ

らゆるものが奪い去られたように見えることが、他に

あっただろうか?(b㌔SニミーO01昌OOd)

 「アントニウス」はこの問いに答えて、時代の変遷が

神の意恩に由来するのは疑いの余地のない事実ではある

が、われわれとしてはむしろ、雄弁.の追究がイタリアか

ら跡形なく消え去った原因をこそ解明するべきであろう

と言う。そして、その原因とは、ローマ帝国の東方ビュ

ザンティオンヘの遷都にほかならない、とする。

私には、まず、ローマの支配の座がイタリアからトラ

キアヘ移動したことが、少なからず雄弁の没落を招い

たように恩われる。まさにこの移佳によって、イタリ

アは蛮族の冷酷さに通路を開いたのだし、ローマ人の

富は消滅したのだ。というのも、蛮族どもは、長いあ

いだ隷属させられていたことへの憎しみと、ローマの

名声を消し去ろうという欲望とに動かされて、あたか

も確実な獲物を目指すかのように、・イタリアヘと流入

したのだから。そこから、さまざまな不幸が続いた。

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(37)ルネサンス修辞学の諸主題

市民たちは自らの住屑から追い立てられたし、残忍な

民族がわれわれの種族と混ぜ合わせられ、いくつもの

都市が転覆させられ、かつては比べるもののないほど

幸運だった国家が分裂したのだ。また、これらの蛮族

は、ただ一度の略奪では満足せず、ほぼ千年間にわた

り、イタリアを占拠して危険きわまりない騒擾を企て

続けたのである。ここから蛮族どもとの婚姻関係が生

じ、多くの垢に汚されたラテン語の憤用が作られ、無

数の書物が奪われて焼き捨てられたのだ。(b-員

;oo二㌣墨)

このように、「蛮族ども」、他の人文主義者の言葉を借り

                      いにしえ

るならば「ゴート族やヴァンダル族」との接触が、古の

純粋なラテン語を堕落させ、ローマ文学の写本を散侠さ

                〔2〕

せたとコルテージは考えているのである。

 では、正確なラテン語と雄弁との復活は、いつ、どの

ように始まったのか。「アントニウス」によれば、それ

は、フィレンツェの書記官長コルッチョ・サルターティ

の招きに応じて、コンスタンティソポリスのギリシア人

学者マヌエル・クリュソロラスが二二九七年にイタリア

へ渡来し、フィレンツェ、パヴィアなどで多数の人文主

                      (3〕

義者にギリシア語を教授したときに始点を持つという。

最も重要な諸学芸の追究が、かくも長いあいだ、病み、

人々に見捨てられて、塵芥の中に横たわづていたあと、

ビュザンティオンの人クリュソロラスが、海を越えて

イタリアヘとかの学問〔ギリシア語〕を運んできたこ

とは、よく知られている。この教師に師事してはじめ

て、それまで〔修辞学の〕修練にも技術にもまづたく

無知だったわが国の人々は、ギリシアの言葉を知るこ

とにより、雄弁の研究を始めようという熱烈な願望を

抱くに到ったのである。(b§L=一〇。-5)

クリュソロラスは、ただ単に、(レオナルド・ブルー二

によれぱ「七百年問われわれの知らなかった」)ギリシ

ア語の文法をイタリア人に教えただけではない。ギリシ

ア語を読むこと、また、それをラテン語に翻訳すること

について訓練を受けた結果、イタリア人は、ラテン語を

より巧みに、古典修辞学に則って、書く能力を身につけ

るに到ったのである。ブルー二と同じくクリュソロラス

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一橋論叢 第123巻 第3号 平成12年(2000年)3月号 (38〕

の講艶に列なったグァリーノ・ヴェロネーゼが明言する

ところでは、「〔クリュソロラスが〕ギリシア語を教えた

とき〔……〕、われわれはようやくラテン語の真の知識

を獲得し、この知識を得ることによって、ラテン語の修、

            (4)

練と復活とに着手した」という。

 しかし、と訴る人もいるであろう、一般に文芸復興の

起源として名指されるフランチェスコ・ペトラルカにつ

いてはどうなのか。ルネサンス人文主義はベトラルカに

よって創始されたのではなかったか。「アントニウス」

は、人文主義の先駆者としてのベトラルカに一定の敬意

を表しながらも、そのラテン語の文体に対しては、厳し

い評価を下す。

彼の文章は、ラテン語とは言えないし、時としてかな

り粗野なものである。思考内容は豊富だが寸断されて

おり、措辞は下卑ているし、題材は優雅にというより

むしろ勤勉に組み立てられている。〔…:・〕この人物

にラテン語の光と輝きとが仮に備わっていたならぱ、

その才能によってどれほどのものを達成したことだろ

うか。だが、あらゆる時代の中でも津の時代に生まれ

た彼には、あの文章の装飾が欠けていたのだ。

=ト=-=竃)

(b}§

かくして、ギリシア語の知識がイタリアヘ本格的に移入

される以前の時代の著述家、つまり、ダンテ、ペトラル

カ、ボッカッチョ、さらにクリュソロラスを招聰した当

人であるサルターティに到るまでの人々は、人文主義の

前史へと追いやられ、コルテージによる人文主義史は、

クリュソロラスの弟子たちから始まるのである。

翻訳の効用

 クリュソロラスがイタリアで教えた数多くの人文主義

者の中でも、筆頭に挙げるべき人物は、のちに教皇庁の

秘書官を経てフィレンツェの書記官長の地位に就くこと

になる、レオナルド・ブルー二だった。

さて、クリュソロラスを師として、われわれの先達の

       パ一ロエスト一コ

多くが、あたかも闘技練習場から送り出されるかのよ

うに、雄弁の追究に専心した。彼らの中でも第一に称

讃すべきは、アレッツォの人レオナルドである。彼が

450

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(39) ルネサンス修辞学の諸主題

最初に、乱れた文章の憤習をある種の韻律を備えた響

きへと変え、われわれに、問違いなくそれまでよりも

壮麗なものをもたらしたのだ。(b■sし;㌣=oo菖

ブルー二は、フィレンツェのいわゆる「市民的」人文主

義の代表者として重要な恩想家だが、それぱかりでなく、

プラトンおよぴアリストテレスの翻訳者として竜著名で

あり、彼の著作・翻訳は、十五世紀の人文主義者として

は群を抜く〈ベスト・セラー〉となった。とりわけ、ブ

ルー二訳のアリストテレスは、それまで流布していた中

世の生硬な翻訳とは異なり、ルネサンスの人文主義者の

審美眼にかなう流麗・白然なラテン語で書かれていたた

めに、前者の地位を奪うて広く読まれることになった。

そして、こうした翻訳法をブルー二に教えたのは、ほか

                (5)

ならぬクリュソロラスだづたのである。ブルー二をはじ

めとするイタリアの人文主義者たちは、ギリシア語文献

一の内容と言語表現とを十全にラテン語に移そうとする努

力を重ねることによウて、古典的なラテン語に近づいて

いづた。

レオナルドは、まだほんの若者の頃にクリェソロラス

の〔フィレンツェ滞在の〕時期に行き当たると、激し

い熱意をもってギリシア語に取り組んだ。度々書物を

読み、〔クリュソ=フスの講義に〕耳を傾け。て、こう

した研究に非常な努力を注いだので、多くの書物をす

みやかにギリシア語からラテン語へと移し替えてしま

った。彼は、心の内に、ある雄弁の形象を捉えていた

が、もっともこれを、望むままにではなく、自分に可

能な仕方で描き出したのだった。(b■員冒9曽-ミ)

最後の一文は、十五世紀末のキケロ主義者コルテージか

らの世紀初めのブルー二の文体に対する、幾分の優越感

を含んだ、留保つきの評価であるが、独自の著述を行な

うための修練としての翻訳の意義がここには明らかに表

われているであろう。

 では、なぜ翻訳が文体の習得に役立つのか。双方の言

語の正確な知識を得る必要、言語表現全般に対する感覚

が鋭敏になること、また原文に忠実に振舞うという制約

そのものの有益さ、といった所与のどの二言語にも当て

はまる一般的な事実の他に、この場合には、ギリシア語

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橋論叢 第123巻第3号 平成12年(2000年)3月号 (40)

とラテン語との特殊な関係に注目するべきであろう。古

典期のラテン文学は、どのジャンルも、ほぼ例外なくギ

リシア文学を模範にして発展したのであり、.ラテン語の

著述家も、キケロを典型的な例として、事実上ギリシア

語との〈バイリンガル〉と言って差し支えない人々であ

った。ローマの修辞学をとゲてみても、ギリシアにおけ

る先例なしには存在しえなかっただろうし、その術語も

ギリシア語のそれを原語のままで、あるいは翻訳して用

いているのである。すでに古典期のローマの修辞学に、

修練としてのギリシア語からラテン語への翻訳という考

      (6)

えが現われている。それならば、古典期のラテン語、た

とえばキケロのラテン語を理想とする人文主義者にとっ

て、ギリシア語からの翻訳が無益なはずはないであろう。

こうした事情を、ブルー二と同じく十五世紀前半の人文

主義者フラーヴィオ・ビオンドは、次のように述べてい

る。

手する膨大な学識を別にしても、多くの文章をギリシ

ア語から純粋なラテン語へと翻訳する努力をして、こ

の執筆の修練あるいは勉励において、すでに持ってい

た雄弁をより大きなものにしたか、さもなくば、それ

まで雄弁を持たなかった人々も、そこから何がしかの

          (7)

雄弁を手に入れたのだから。

 しかし、コルテージの対話篇では、ただ翻訳のみを目

的とする翻訳に対して、やや否定的な考えも記されてい

る。ブルー二の世代から少し下って、十五世紀中葉にプ

ルタルコスをラテン語訳したジョヴァン.ピエトロ.

ダ.ルッカを話題にする箇所で、「アントニウス」は、

翻訳者の仕事により熱意を示す人々がいたが、このこと

は、ものを書きたいという欲求に駆られる人が多かった

一方で、自ら何かを生み出す人は少なかったことを物語

っている、と述べる。

254

ギリシ■ア語の獲得は、雄弁を学ぶための助力としても

刺激としても少なからぬものであった。というのは、

ギリシア語を学ぶ人々は、大量の歴史と書物とから入

なぜならば、その当時は、いわば文芸が誕生しつつあ

る頃で、人々はおのれに自信がなく、あたかも乳母車

に乗せられるか先導者の後についてでなければ歩けな

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(41) ルネサンス修辞学の諸主題

い幼児のようなものだったのだ。それゆえ、翻訳の仕

事の方がよりやさしかったために、これほど多くの

〔翻訳という〕助力を才能ある人々に提供すれぱ、後

世に対してよく義務を果たすことになるだろう、と考

えたのである。(b§二亀一〇〇-冨)

換言すれぱ、修練を経て獲得されるすぐれた文体を用い

て独白の著述をすることこそが真に重要なのであり、コ

ルテージの時代の人文主義者たちは、文体の習得に翻訳

を必要とする段階のはるか先にまで進歩しているという

含意が、ここには見てとれるのである。

模倣と技術的知識

 ブルー二の著述を話題にする際に、「アントニウス」

は、ブルー二の筆になるものとしては弁論よりもむしろ

歴史の方がすぐれていると言い、「アレクサンデル」は

これを受けて、彼の書いた葬送演説をいくつか読んだこ

とがあるが、自分にはあまり気に入らなかった、と賛意

.を表する。

私が考えたその原因は、模倣の対象として、古代の著

述家たちによる葬送演説が一篇も現存していないとい

うことだった。このことからして、レオナルドが特に

この種類の弁論において、弁論家としては-仮に弁

論家と呼べるとしてだが1-、適切または装飾的なと

いうよりも、〔単ε言葉数の多い弁論家だったのも

驚くに当たらないように思われたものだ。(bホsL曇

甲冨)

人文主義者たちは、古代の雄弁に接近すること、できる

ならぱこれに肩を並ぺて追い越すことを大きな目標とし

ていたが、そのための手段として、古代の著作から具体

的な模範を選びとってそれを模倣しようと努めることが

一般に行なわれた(たとえば、『学識ある人々について』

は、全体の構想においてキケロの対話篇『ブルトゥス』

を模範にし、個々の措辞においてはキケロのさまざまな

著作を模倣している)。〈模倣Vは、古代の修辞学でも認

められた正当な手続きだったが、模倣自体が目的になる

と、キケロ以外の模範はすべて拒絶する行きすぎたキケ

ロ主義のように、硬直した現象を生み出すことにもなる。

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一橋論叢 第123巻 第3号 平成12年(2000年)3月号 (42)

それに、あるジャンルについて、古代人の書いた模範が

ない場合-ブルー二と葬送演説との関係がこれに当て

はまるが-には、何を模倣すれぱよいのか。

 ここで「アントニウス」はまず、〈模倣Vの重要性を

確認する。最良の著述家を模倣して、修練を行なわなけ

れぱ、物事を装飾的に多様な仕方で言い表わすことはで

きないし、技術的な知識よりも模倣にこそ努力を傾注す

              (8)

べきだと考える人々は大勢いる、と。しかし、模範が存

在しないために模倣できないときには、〈技術〉を用い

るべきである。

だが、雄弁の力をこれほど狭い場所に押し込めてしま

い、模倣が欠けているときに、われわれには何も傑出

したことが達成できないのではないか、と自信をなく

すべきではない。すべての葬送演説が称讃〔演説〕の

種類に属することを疑う人がいるだろうか? 誰しも

称讃に弁舌をふるおうとする際に、とりわけ何の模倣

もできないとすれば、技術の教えに助力を求めるので

はないだろうか? まったく、技術こそは模倣よりも

確実な道なのだ〔……〕。(b§L曇①-冨)

つまり、葬送演説の模範の欠如のために模倣が不可能で

あれぱ、それを下位区分として包合する称讃演説、すな

     (9)

わち演示的弁論に関する、技術的知識を修辞学の理論書

から得れぱよい、ということになる。「アレクサンデル」

はこれを聞いて、自分はもう模倣をやめて技術を学ぶこ

とにしようと思う、と早合点をするが、「アントニウス」

は彼をたしなめてこう言う。

アレクサンデルよ、弁論家の内に、模倣よりも重要な

ものがあるなどと考えないように気をつけたまえ。と

いうのも、模倣するとは、定められた理論の技術を描

き出すことと別のことではないのだから。しかし、技

術なしには、模倣するときに〔模範の〕美点とともに

欠点をもなぞってしまいがちなので、私は、君たち二

人にも私に親しいすべての人にも、全面的にこの理論

の教えを受け入れるように、と説いてやまないのであ

る。〔……〕それゆえ、何が技術を用いて書かれるか、

また何を模倣すべきか、われわれの弁論はいつ他人の

例で、またどういう装飾で色彩を与えられるかを、技

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(43) ルネサンス修辞学の諸主題

術のあるきわめて確実な方法によって理解しなければ

ならない。(b曽一冨9〒↓し㌣呂)

すぐれた文体で著述を行なうためには、模倣と技術的知

識との両者が必要なのであり、この二つを巧みに組み合

わせなくてはならない。『学識ある人々について』を執

筆した時点のコルテージはキケロ主義を信奉していたが、

ここには、ただキケロの模倣のみを金科玉条とする、十

六世紀前半ローマのキケロ主義者たちの硬直した姿勢は

見られない。自らの能力への健全な自信が表われている

        (m)

と考えるべきであろう。

歴史の叙述と修辞学

 ブルー二の足跡を追うかのように、ローマ教皇庁の秘

書官を経てフィレンツェ政庁の書記官長に就任したポッ

ジョ・ブラッチョリー二(古典文学の写本探索者として

も知られている)は、これまたブルー二と同じく、『フ

ィレンツェ人の歴史』を書いた。対話篇でポッジョが論

じられる箇所では、いかにして歴史を叙述するべきかが

話題となる。とりわけキケロ主義者にとっては、キケロ

が模倣の対象となる歴史的著作を書いていないだけに、

歴史叙述の技術を修辞学理論書に汲む必要が生じる。と

ころが、古代の人々はそうした技術を遺していない。

「アレクサンデル」は、次のようにこの主題を提起する。

私は、歴史がこれほど多くの、またこれほど重大かつ

多様な事柄を内包しているにもかかわらず、古代の

人々の技術の中に、歴史においてはどのように叙述す

べきか、何をその中に保存するべきかを伝授する、い

かなる教えも伝えられていないことに、しばしば驚く

のだ。(b曽一-ω9べ--o)

さまざまな技芸にたずさわる人々には、固有の技術の教

えがあり、建築家も音楽家もこれらの教えから逸脱する

ことがない。線や測定において、また彫刻や絵筆におい

て、人々は確固とした教説を利用する。

ここから、何か技術の方法がなければ、偉大な事業は

なされえないことが理解される。それなのに、かくも

高適、かくも困難な仕事である歴史に何の教えもない

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一橋論叢 第123巻 第3号 平成12年(2000年)3月号 (44)

ことには、どれほど驚いても十分とは言えないくらい

である。(b§L彗一†①)

 「パウルス」もこれに賛同して、自分も当代の人問が

歴史の教えに無知であることに、驚きもし悲しみもして

いる、と言う。

というのも、彼らの著した歴史書から明らかなように、

古代の人々がこの技術の教えを手中にしていたことは

はっきりと知られるのに対して、われわれの時代の

人々にはこれらの道具がまったく欠如しているし、と

りわけこの種類の著述においては、行き当たりぱった

りや偶然でそうなったという場合以外には、少しでも

称讃を獲得することはできないのだから。(b卜員H彗

⑩-冨)

 「アントニウス」は、歴史叙述の技術が古代から伝存

していないことを嘆くよりも、むしろ修辞学と歴史との

関係について自説を開陳する。日く、世の中には、歴史

は弁論の装飾を一切用いずに書かれるべきだと考える

人々が大勢いるようである。修辞学の文飾は真実と信頼

を取り去ってしまうからであり、歴史は嘘をつかないこ

とが肝要だ、というのがその根拠である。なるほど、事

蹟の真理のみが求められるときに、嘘つきや法螺吹きと

人に思われないようにすることは大事なことではあろう。

しかし、すべてを暖昧に、混乱した文体で記したとし

たら、真実を書くことに何の益があるだろうか? こ

の事柄の原理を考察する私には、題材と言葉で成り立

っている歴史は、娯しみと有用性のために作られたよ

うに思われるのだ。題材は、役に立つためには、拡が

りと時間の秩序とを必要とする。一方、言葉は、〔文

体の〕優雅さを保持しなければ、決して娯しみを与え

ることはないだろう。それゆえ、彼らの兄解は拒絶し

なければならず、われわれは役立つと同時に娯しませ

るために、何かしら技術を用いなければならないのだ。

(bトsし彗μ㊤-ミ)

コルテージは、こうして、歴史の叙述もやはり優雅な文

章を綴るための規則としての修辞学に従属すべきことを

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(45) ルネサンス修辞学の諸主題

主張するとともに、歴史を構成する題材-想案と言葉-

措辞との双方について、ある一定の技術  。その内容が

いかなるものになるべきかは別として-を新たに発見

する必要を説いている。

散文の韻律

 ブルー二、グアリーノら初期の人文主義者、キケロを

模倣したポッジョ・ブラッチョリー二、ギリシア生まれ

の修辞学者ゲオルギウス・トラペズンティウス、文献学

者ロレンツォ・ヴァッラを合む多数の著述家の文体に評

価を下してきた「アントニウス」の口調は、十五世紀中

頃のジョヴァンニ・アントーニオ・カンパーノに到って、

やや変化を見せる。それまで各々の人文主義者のラテン

語に讃辞を与える場合にも、必ず何らかの留保を付して

きた「アントニウス」が、カンパーノの文体に対しては、

ほとんど無条件と言づてよい肯定的評価を示すのである。

この人物の内に、それまでよりも華やかで輝かしいあ

る弁論の種類が最初に現われたのだ。彼は楽々と執筆

したが、,勉学の労苦に耐えることができなかった、あ

りあまるほど豊かな才能の持ち主にはしぱしばあった

ことだけれども。彼はまた光輝ある言葉を選びとった

し、思考の装飾もまた備えていたが、もうとも、おそ

らく時折は装飾が多すぎたかもしれない。とりわけ歴

史においてはそうであり、思考の連続があまりに欄密

なので、〔読者の〕精神を娯しませるというよりも麻

痒させてしまう。(曇L蟹μH--oo)

それでは、それまでの人文主義者たちと比較して、

パーノの文体のどこがそれほどすぐれていたのか。

カン

彼の弁論は、大変高く評価されている。というのも、

それらの弁論は、才能の豊穣さとある種の生まれなが

らの勢いとが、多くの修辞上の美質によって陶冶され

たことを物語っているからだ。彼は、ある無理のない

明澄な文体を用いており、それは何か韻律のようなも

のに制限されながら流れてゆくように思われる。われ

われ〔現代人〕の精神には弁論の韻律が欠如している

ものの、〔カンパーノは〕ある模倣の努力によって、

弁論を快い響きへと変化させたので、〔彼の弁論は〕

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一橋論叢 第123巻 第3号 平成12年(2000年)3月号 (46)

大方の場合、

H雷μO01冨90)

愉快にかつ韻律的に終結する。(b§一

つまり、カンパーノは、従来の十五世紀の弁論家に比ぺ

て、古代の弁論家が用いていた散文の韻律にいくらか近

づいたために、よりすぐれた文体を備えるに到ったとさ

れるのである。念のためにここで〈韻律〉について注釈

を加えるならば、ギリシア語ニフテン語では、母音の長

さとその後の子音との関係に基づいて個々の音節の長-

短が決定され、複数の音節の組み合わせが一つのく韻

律Vの単位を形成する(長短短、長長、短長、など)。

古典ラテン語では、韻文のみならず散文(とりわけ弁

論)においても、韻律が重要な役割を果たしており、な

かんずく文・節の終結部にどの種の韻律を用いるかが、

文体の肝要な構成要素とされた。「アントニウス」はこ

こで、同時代の人々にはまだ弁論の韻律を識別し利用す

る能力がないが、カンバーノは(おそらくキケロの)模

倣によって、経験的に文や節を韻律的に終結させる術を

体得した、と言っているのである(ブルー二の文体への

評価において「ある種の韻律を備えた響き」が言及され

ていたことを想起されたい)。

 これを聞いて、「アレクサンデル」は、自分には〈韻

律〉について少なからぬ疑念がある、と言う。これまで

にも、キケロは弁論において韻律を使ったわけではなく

ただ単に耳の判断に頼っていたにすぎない、と考える多

くの人々に会ったことがあるのだから、と。しかし、

「アントニウス」は自説を曲げようとはしない。

彼〔キケロ〕には韻律などまったくない、と確言する

人々の判断ほど振じ曲がった判断があるだろうか、彼

らとて、キケロが弁論の韻律についてあれほど多くの

教えを遺しているのを目の当たりにしているというの

に? 私の考えを言うならぱ、ラテン語の弁論は、こ

れまでのところわれわれには全然知られていない、一

種の韻律的構成によって結合されなけれぱならないの

だ。(b§L雪一午O)

このように、コルテージは、自分にもまだ詳しくは理解

できない事柄ながら、〈韻律〉こそがキケロに比敵する

弁論家になるための不可欠な条件である、と明言する。

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(47)ルネサンス修辞学の諸主題

コルテiジがここで先駆的に提示した散文の韻律という

主題に関しては、技術的な論議が、次世紀のキケロ主義

                      (11)

者たちの間で盛んに行なわれることになるであろう。

(1) 『学識ある人々について』の底本には、次の批評校訂

 版を用い、引用・引照に際しては、b§の後にべージ番

 号と行数とを記す(たとえぱb-sニミ一冨のように)。原

 文の引用はすべて省略した。霊巳易O§a色冨一b雨ぎ§{-

 §き§§o募もε轟Bo-向①胃邑.(、巴雪昌9向堅N一〇巨..自

 く窃肩O..二雪㊤).パーオロ・コルテージの伝記について、次

 の二点の文献を参照した。声28一彗負、OOユ窃一勺8一〇..一

 巨b汀ぎssぎogo§oo軋構ミミsミss戸くoFN0(カo∋p

 尻睾鼻o忌冒向昌巨oo&す-冨=触冨二鵠ω)一〇pぎ?さ

 -・『U.>邑8一完§ミ竃§sき§昌s泳§ぎξミ完o§$

 き§sミ包吻§~gミき§§osき雨§雨呉§軸完さ§竃ざ§

 (霊三旨o『p↓烹旨;伽=ooζ畠⊂ユ毒邑q零①男

 岩O。ω)らPS-O。-しO㌣メーNO。-ωρ崖O。-①OOLミー彗筆者は、

 『学識ある人々について』の全体に関して、より詳しい論

 考を予定している。

(2) 底本校訂版の編者茅弓邑は、脚注の随所で、他の人

 文主義者からの類似章句を引用しているが、こうした歴史

 理解はレオナルド・ブルー二に由来するという。また、

「ゴート族・ヴァンダル族」という呼称や、ラテン語の堕

落の原因を彼らに帰する章句として、フラーヴィオ・ビ才

 ンド、パルト回メーオ・デッラ・フォンテ、 マルコ・アン

 トー二才.サベヅリコが引用されている(b曽一〇L8コ・

 杜)。筆者としては、ロレンツォ・ヴァツラがスコラ学者

 (その中にはイタリア人も大勢いたはずだが)を痛罵して、

 「ゴート族.ヴァンダル族」と呼んだ章句を付け加えてお

 きたい。-o『①冒o<與=p、旨8ユ巨∋=σ;冒里o吋凹コ=甲

 ;昌肩竃艘ごo、、二目ぎ竃δユざざミき-◎ミsミδ8ミ〇一與

 ε墨2向.O彗ぎ(ζ巳O目9ZOOO戸28彗OO空8一彗2

 向昌8『p;竃)一〇.2o.

(3) 次の論文中に、フィレンツェ大学の教授就任を要講す

 る、二二九六年三月二八日付のサルターティからクリュソ

 回ラスヘの公式書簡全文が校訂されている。ζ・pカ塞くp

 、↓=o宛oO訂oOく①『}O,O-画ω且o與-↓o宍↓閉 {目 一す①宛①目巴ω.

 ω凹コo①..二=ミぎ雨§ユ、9膏吻討sミ“ざぎ戸與o=『o201勺①oo篶

 (宛o暮凹一合.向昌隻2零g竃す畠己胃一畠旨)らp-曽-9

(4) ブルー二、グアリーノともに、忌賞きの脚注(b㎞員

 P=-目、①)から引用。この脚注ではまた、古典期ローマ

 での相似した事情を示す章句として、キケロ『弁論家につ

 いて』(一.一四)から、ローマ人は、ギリシアの弁論家

 の雄弁を耳にし、ギリシア文学を学んではじめて、雄弁へ

 の熱意に燃え立った、という文言が引かれている。

(5) ブルー二の翻訳手法、クリュソロラスの教えとの関係

 については、次書を参照。ト=彗Σ冨一ミミoぎき喧ミ亀㌣

 {§完§ミ竃§竃(鶉こoコ一向こ.卑昌二〇違)らpM↓よ印中

 世の「単語に即した」(邑き『σ巨冒)翻訳とブルー二など

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(48〕橋論叢 第123巻 第3号 平成12年(2000年)3月号

ルネサンス人文主義者の「文意に即した」(邑ω雪↓昌ー

ご印目)翻訳との相違は、それ自体興味深い主題であり、

詳細な論述に値するが、ここでは触れない。ブルー二の有

名な論争文「正しい翻訳法について」を参照。、U巴鼻彗.

召g筈o罵冨o討..二目5o畠ao軍昌一>『g一;一き§§{.

}募きもミ富Sミ實ぎωSミ}§一~ω①q1く旨声ω胃Oコ

(r9寝一〇q由邑貝ω.ρ↓oき毒『く①ユ品Lo轟)一署・。。-.奉

 また、ブルー二の著作・翻訳の全ヨーロッパヘの大量の伝

播を示す、三巻本の完備した書誌が予告されており、第一

巻がすでに刊行されている。]・=彗ζ冨ら魯ミδユs§b§,

ミ§ミミトまぎ邑寒迂雨}oき耐§ミぎ題ミトs§ミo.

b蔓ミく〇一L一=彗彗黒o↓冬昌毒o「号誌(カo自戸嚢一gざ

 ω8ユoo岸巴武目9冨雪).

(6) これは言うまでもなく包括的な例証ではないが、二例

 を挙げておく。キケロ『弁論家について』(一.一五五)、。

 クインティリアヌス『弁論家の教育』(一〇・五・二-三)。

(7) ま昌邑の脚注(b-Sら、=ωコ』)から引用。

(8) 〈技術〉とは修辞学誓から学ぷ理論の知識であり、〈模

 倣〉は模範に文体を似せようとすること、〈修練Vは実践

 的練習である。古典修辞学に現われたこの三幅対の例とし

 て、『ヘレンニウスに与える修辞学』(一・三)を参照。

 「以上のすべてを、われわれは三つのもの、つまり、技術、

 模倣、修練によって獲得することができる〔、〕」。

(9) 古典修辞学では、弁論は三種類、すなわち〈法廷弁

 論〉、〈政治的弁論〉、弁論家の技禰を誇示する〈演示的弁

 論〉に分割される。演示的弁論はさらに〈称讃〉と〈非

 難〉とに分かたれる。たとえぱ『ヘレンニウスに与える修

 辞学』(一二一)を参照。

(10) ローマのキケロ主義者を標的としたエラスムスの『キ

 ケ同主義者』(初版一五二八年)には、盲目的にキケロを

 模倣するのではなく、修辞学の技術的知識(とりわけクイ

 ンティリアヌスからの)を持つ必要を説く章句がある。

 、U壷-OO〇一』眈Oδo[O目-①目一』ω、一ΦP巾.ζoω目與HP-目O弓雨§O§.

 萬ざb8{氏雨ぎ{向§餉§{肉O膏『O』S§“くO--〒N(>冒9①『匝画∋一

 Zo『一す一匡o=與目o勺一』一〕旨ω巨-目oqOO目]℃匝目メー⑩↓一)一〇P㊦蜆M19

 U窃己雪{o宰鶉ヨoo凹カo暮o己印∋一ミ9g;ミ§oo膏§

 ω§雨ミ寒o員與昌冨α一>1Oo昌σ胃o(零匪o貝5ωε9

 5向2一ユ8二〇雷)らol-o.oよ(「「爵g-墨8).

(11) 十六世紀のキケロ模倣における〈韻律〉の主題につい

 ては、次杳を参照。穴、ζ塞}o戸完慧δユo§軸-官§§⑯

 §*ミ雨之g膏§、§§sbミb㊦ミ§一オ昌§§雨こs§-.

 『8(τ己彗』」.卑…一-畠①).

                (一橋大学専任講師)

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