Title 「政経分離」対「政経一体」の「名実論」的分...

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Title 「政経分離」対「政経一体」の「名実論」的分析 : 戦後 日本の両岸政策の形成と転換 (1952-1972) Author(s) 張, 啓雄; 葉, 長城; 渡辺, 直士 Citation 人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (2007), 95: 163-238 Issue Date 2007-03 URL https://doi.org/10.14989/71068 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

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Title 「政経分離」対「政経一体」の「名実論」的分析 : 戦後日本の両岸政策の形成と転換 (1952-1972)

Author(s) 張, 啓雄; 葉, 長城; 渡辺, 直士

Citation 人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities(2007), 95: 163-238

Issue Date 2007-03

URL https://doi.org/10.14989/71068

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

「人文学報』 第95号(2007年3月)

(京都大学人文科 学研究所)

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析

戦後日本の両岸政策の形成 と転換(1952 一 1972)

張 啓 雄*・ 葉 長 城**

(訳 出:渡 辺 直 士***)

目 次

概要

1.序 論

2.「 名実論」における国家 の対外政 経関係の 「モデル」分析

3.国 際的冷戦局面 における日台の 「政経一体 」関係

4.「 政経分離」対 「政経一体」 の下 での 日本 と両 岸関係

5.「 不完全 な政経一体」 対 「不完全 な政経分離」 の もとに

お ける 日本 の対両岸関係 の新たな枠 組み(1972)

6.結 論

参考文献 ・資料一覧

英文要 約

概 要

本稿 の問題意識 はお もに戦後 日本 の対華(台 湾),対 中(大 陸)の 外交モデルの形成に関わ り,か

つ1952年 か ら1972年 までの 日本の台湾政策 の形成 と転 換を分析す るもので ある。1952年 に主権 を回

復 した 日本 は米 ソ両極 が対 峙する国際的分裂 の局面 およ び両岸の分裂統治 に直面す るが,同 時に 「1

っ の中国」(On玉y One China)を 主張 し,「漢賊両立せず」 を堅持す るという困難 な外交のなかで,

いか に して相手の 「政経一体」 の要求 の もとで 「政経分離」 の対外交流枠組 みを採 り,か っ情勢 の変

化 に応 じてメ イ ン ・サ ブ類型 を調 整す るのか が,戦 後 の主権 を回復 し独立 して以来20年 にわた る日

本 の両岸政 経交流 におけ る一 貫 した政策 であ った。

1952年 か ら 正971年 の間,日 本が 「政経分離」政策 を採用 し,そ れ により同時 に両岸関係を形成か

っ発展 させた ことによ り,日 台(日 華)関 係 は終始 「不完全 な政経一 体」 という外交的地位を保 っの

みで あ った。対 して,日 中関係は 日本 が台湾 に対 して先 に 「不完全 な政経一体」 政策 を採用 した こと

*中 央 研究員近代史研 究所研究員,京 都大学 人文科学研究所外国人客員教授(2000年5月15日 ~8月

20日),招 へ い外国人学者(2006年6月26日 ~8月10日)。**国 立政治大学政 治学研究所博士候補者

。***近 畿 大学中央図書 館

。 訳出 にあた って は,日 本学術振興会 「人文社会科学振興 にむ けての事業企画」

の委託研 究費(「 帝 国 とネ ッ トワーク」 籠谷直人代表)の 後援を うけた。

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人 文 学 報

により,中 国に対 しては 「政経分離 」 モデルを採用 したため順調 に進展 した。そ れゆえ,日 中双方 は

一定程度 にお いて実質的 な政経接触 を保つ ことが で きた。 その後 中国側 が 「民を もって官 を促 す」 と

いう方針 を採 り,「 半官半 民」 の外交戦略を進 めた ことによ り,い ったん 日中関係 は 「不完全 な政経

分離」 とい う佳境 に入 った。 しか し,そ れゆえに外交関係を樹 立す る とい う 「名分判別線 」を越え る

ことがで きず,こ の実質 的な政経交流 とい う状 態 は双方 が 「政治 的名 分」の ない状態 で の 「非 公式

な」政治 的枠組 みの中で,そ の実務関係を発 展させるとい う便宜 的な措置で あ り,「緊密」 と 「疎遠」

という政治的枠組 みの 中で動 くに過 ぎない ものであ った。 それゆえ,1972年 に 日中が正式 に国交 を樹

立す る前 は,日 中関係 は 日中の 「政治 的名分」 の強弱 の程度 によ り 「政経分 離」 の理想型 と 「不完全

な政経分離」 というサ ブ類型 の間を動 くのみであ った。

1970年 代 の国際情勢 の変化 に より,米 中関係 は融和 へ と向か った。 それに伴 いア メ リカによ る中

華民国政府 を中国 の 「唯一合法」の代表 とみなす とい う立場 に対 す る支持 も全面 的な調整を迫 られ,中

華民国の国連議席 の地位 も中共 に代替 された。 ア メリカの支持 と中華民国 の国連議 席の地位 とは日台

関係 を「政経一体」の枠組 みの中でコ ン トロールす るとい う二本柱 で あ った。結 局,形 勢 の逆 転に よりこ

の二本柱 は相次 いで喪失 したゆえ,日 台関係 と日中関係 はモデル転換 とい う重要 な時期 に直面 した。

1972年,両 岸 が共に 「1っ の中国」 の立場 を堅持す る中で 日本 は国際情勢の変化 に応 じて,中 共

を中国 の 「唯一合 法」 の政府で ある と承認 し,日 台関係 の断絶 を宣言 した。 断交後,日 台双方 は 「財

団法人交流協会」 と 「亜東関係協会」 を設立 し,実 務 関係 を継 続す るとい う交流 メカニズムに切 り替

え,日 台双方 の文化,政 治,経 済,軍 事 および安全 の利益が分 かちが たいとい う情 勢の もとで,「 不

完全 な政経分離」 とい う新交流枠組み に転換 した。 これに対 して 日中関係 は この影響 を受 け,「 政経

一体」 とい う期待 された目標 を達成で きなか ったばか りか,「 不完全 な政経一 体」 とい う関係 を樹立

す るのみ となった。

第二次世界大戦後主権 を回復 した20年 の中で,「 政経分離」 は日本が両岸 政権 との政経交流 の過程

で使用 した基本 的な枠組 みであ り,「不完全 な政経分離」 は政策 手段で あ り,そ の間で 「揺 れ動 く」

という起伏現象 は,日 本政府が 「抑圧 一緩和」 とい う政策手段 を通 してモデルの変動 を作 り出 した幅

による ものであ った。 この三者 こそが戦後 日本 政府の両岸政経 交流過程 におけ る唯一不変 の一貫 した

政策 であ った。

キーワー ド:政 経分離,政 経一体,不 完全 な政経分離 不完 全な政経一体,名 実論,名 分秩序,対 中政 策

1.序 論

1945年8月15日 の 日本 の無 条 件 降 伏後,ア メ リカを 主 力 とす る連 合 国 軍 の最 高 司 令 官 総 司

令 部(GHQ/SCAP, General Head Quarters of the Supreme Commander for the Allied Powers)1)

が 日本 に進 駐 した。GHQは1945年 か ら52年 ま で 日本 軍 国 主 義 の 解 体 と ア メ リカ型 民 主 の 実

施 とい う二 大 占領 政 策 を進 め た。

占領 政 策 に お いてGHQを 主 導 す る ア メ リカ は 日本 政 府 を経 由 す る と い う形 を と りな が ら,

日本 に対 して 間接 統 治 を実 施 した。1945年8月 に親 王 東 久 遍 宮 稔 彦 を首 相 に任 命 し,皇 族 内 閣

を組 織 さ せ,日 本 の 投 降 を 処理 させ た。10月 に は幣原 喜 重 郎 が 東 久 魎 宮 の 後 を 受 けて 組 閣 し,

GHQの 占領 政 策 と歩 調 を あ わ せ るよ うに 日本 を改 造 した 。1946年4月 に は 国会 選 挙 を 実 施 し

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「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」 的分析(張 ・葉)

た 。5月 に は 自由 党 の 創 設 者 で 総 裁 の鳩 山 一 郎 が,日 本 の最 大政 党 の地 位 を利 用 して組 閣 の準

備 に入 っ た が,ア メ リカ の信 任 を得 られず,GHQの 「公 職 追 放 令」 に よ り資 格 を 剥奪 さ れ た。

親 米 派 の保 守 政 治 家 で あ る吉 田茂 が ア メ リカの 信 任 と支 持 の下,自 由 党 の新 総 裁 に選 出 さ れ,

首 相 と して 第 一 次 吉 田 内閣 を組 閣 し,GHQの 対 日占領 政 策 推 進 に最 も適 した相 手 とな った。

1950年6月25日 の 朝 鮮 戦 争 勃 発 に よ り,ア メ リカ の対 日占領 政策 は根 本 的 な 改 変 を迫 られ

た 。 日本 を 直 ち に共 産 主 義 勢 力 の ア ジ ア に お け る勢 力 拡 張 を 阻 止 す る た め の前 線 にす べ く,

GHQの 占領 政 策 は当 初 の 「日本 改 造 」 か ら 「日本復 興 」 の政 策 に転 換 した2)。

当 時,ア メ リカ の 東 ア ジア戦 略 の構 想 は もとか ら 「日本復 興 」 で あ り,「 日米 安 全 保 障 条 約 」

(Security Treaty Between faPan and the United States of Americα,1951)と 「サ ンフ ラ ン シス コ平

和 条 約 」(Sαn Francisco Peαce Tγθ⑳195!)を 締 結 す る と い う三 大 政 策 を掲 げ て お り,日 本 を

引 き止 め る こ とで,選 択 の余 地 な くア メ リカが 東 ア ジ アに お い て 共産 主義 勢 力 に対 抗 す る拠 点

に しよ う と して い た3)。 「日米 安 全 保 障 条 約 」 と 「サ ンフ ラ ンシ ス コ平 和 条 約 」 が 同 時 に 締 結

され た こ とは,ア メ リカ に と って み れ ば主 権 の 独 立 と軍 事 的 従 属 が 密 接 不 可 分 で あ る こ とを意

味 して い た。 そ の うち,「 安 保 条 約 」 にっ いて いえ ば,ア メ リカが 日本 で の 軍 事 基 地 の 新設,

拡 張,お よ び使 用 にっ い て制 限 す る いか な る規 定 もな く,法 理上 は ア メ リカ に行 動 の 自由 を与

え,日 本 は対 米 関 係 に お い て従 属 的 な地 位 に陥 っ た。 アメ リカ の 戦 略 の も とで 日本 は外 交 の主

体 性 を失 い,ア メ リカ の世 界 戦 略構 想 の追 随 者 と な った 。 この 時 戦 後 一 貫 して 内 戦 状 態 に あ っ

た 中 国 で は,す で に台 湾 海 峡両 岸 を は さ んで 対 峙 し,両 立 不 能 の 先 鋭 な 対 立 的 政 権 に分 裂 し,

そ れ ぞ れ資 本 主 義,共 産 主 義 の二 大 対 立 陣営 に属 した 。 冷 戦(cold war)体 制 と両 岸 対 峙 とい

う 国 際 政 治 的 局 面 は 主 権 的 地 位 を回 復 した 日本 に と っ て も対 台 湾(中 華民 国)お よ び 対 中 国

(中華人民共和 国)関 係 を処 理 す る上 で大 き な難 題 とな った 。

第 一 に,平 和 条 約 締 結 の対 象 と して 日本 は一 体 両 岸 政 権 の ど ち らを 選 ぶ の か? この 問題 へ

の 回 答 は 中 国 を 代 表 す る 「唯一 合 法 」 の正 統 的 地 位 を 持 っ 政 権 と して 日本 が ど ち らの 政 権 を承

認 す る の か と い う こ とで あ り,客 観 的 な国 際 情勢 や ア メ リカの 動 向 な ど,全 て 日本 政 府 の 中 国

政 策 の決 定 に 影 響 す る要 素 で あ った。1949年 以 後 中共(中 華 人民共和 国)が 中 国 の大 部 分 の 領

土 を 占拠 した が,中 華 民 国 政府 は敗 れ て台 湾 にの が れ た 後 も台 湾,膨 湖,金 門,馬 祖 を 依 然 と

して支 配 し,中 国 にお い て 「不 完 全 な 王朝 交代 」 あ る い は 「不 完 全 な政 府 承 継 」(incomplete

succession of government)と い う局 面 が 現 わ れ た 。 中共 が 「完 全 な る政 府 承 継 」 を遂 行 で きな

い と い う条 件 の も と,独 立 後 の 日本 は両 岸 との国 交 樹 立 に対 して,表 面 上 は独 立 自主 に見 え て

も実 際 は余 裕 の あ る状 態 で はな か った。

そ れ ゆ え,両 岸 政 権 は共 に 「1っ の 中 国 」(Only One China)を 主 張 し,か つ 「漢賊 両 立 せ ず 」

を 堅 持 す る と い う外 交 ゼ ロサ ムゲ ー ム(zero-sum game)の 下 で は,日 本 は ア メ リカの 東 ア ジア

戦 略 構 想 に よ る制 約 が な くて も,対 中 国 あ る い は対 台 湾 の いず れ の 関 係 を処 理 す る際 に 日本 政

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人 文 学 報

府は正式の国交対象としてどちらか一方を選ばざるを得なかった。 しか しなが ら対立する両岸

と同時に外交関係を樹立することこそが最も理性的な政策決定であ った。政府は国益(nation-

al interest)を 追求するという点からいえば,ど のような外交政策をとれば,日 本が両岸 にお

いて政治的経済的利益に配慮するという前提のもとで,最 大の国益を追求できるのだろうか?

対 日講和条約締結前に吉 田茂首相は1951年10月29日 に参議院における質問に対 して以下

のように答えている:

今日は貿易発展が 日本としては最も重要な問題であるのですから,外 交 とか政治とかいう

ようなことは暫 くおいて,主 として貿易,経 済の面に主力を注いで…,従 つて在外事務所,

台湾における在外事務所にも,目 的は通商,或 いは日本人が,在 留民があればその保護 と通

商関係であ ります。政治的関係ではないのであります。故に若 し中共が上海に在外事務所を

置いて くれないかということがあれば置いて差支えないと思つておるのであ ります4)。

2日 後に日本外務省の政務局長の長島津久が衆議院における質問に対 してさらに説明をっけ

加えている。 すなわち,「 もし中共側が希望するのであれば,日 本政府 は上海に政治的色彩の

ない,純 粋に小規模な通商性の事務所を設置 したい」5)。先行研究において 「政経分離」 とい

う用語 は池田隼人首相の第44回 臨時国会の演説で初めて使われたと しているが6),吉 田内閣

の両岸政策構想においてその後のいわゆる 「外交は外交,商 売は商売」 という 「政経分離」原

則の雛型が明らかに見 られる7)。しか し,1972年 の日台断交以前の史料か らは日中間に多 くの

実質的な政経交流が確かにあったことが分かる。それゆえ,も し 「政治 は政治」「経済は経済」

という単純化 された概念を持 って日中間の国交樹立以前の関係をとらえるのであれば,史 料か

ら実証的に反映される事実 とは大 きな乖離が生 じるであろう。同様に,同 じような基準をもっ

て1972年 の日台断交後に双方が実質的な関係を継続 させてきた努力をとらえるのであれば,

当然概念 と史料による証左 との間に齪踊が生 じるであろう。これまでの国内外の日中あるいは

日台関係に関連する研究においては豊富な成果があげ られている。その中で多 くの研究者が戦

後の日中関係の発展の軌跡にっいて,日 中政府それぞれが提起 した 「政経分離」 と 「政経不可

分」 という原則を通 して日中関係の変化を分析 している8)。しかしなが ら戦後 日本の対両岸政

経関係の形成 と転換にっいて,同 時に 「政経関係」と 「名実論」を融合 させ,双 方の相互作用

に関して 「モデル構築」を行ない,分 析の 「概念的枠組み」(conceptual framework)を 提起 し

た上で戦後の日台,日 中の政経関係の転換をとらえた研究はこれまで見 られない。

上述の理論 と史実解釈における問題を解決するため,本 稿ではまず現代国家の対外政経関係

におけるモデルの理論構築を検討し,か つ東洋的 「名実論」の観点から示唆を受け,概 念転化

を行ない,東 洋的議論を融合させた新見解を提示 したい。すなわち,有 名有実の「政経一体」,有

名無実の 「政経失調」,無名有実の 「政経分離」,無名無実の 「政経断絶」の4っ の理想型(ideal

types)と,「 不完全な政経一体」および 「不完全な政経分離」という2っ のサブ類型(sub-types)

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「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

を戦後 日本の台湾および対中政策の変化を解釈す る概念の枠組みとして提起する。次に,日本

の台湾政策に大 きく影響 した外部要素(external factor)に ついて,戦 後初期のアメリカの世

界戦略および東 アジア戦略構想は,ま ず 「重点的封 じ込め」から 「全面的封 じ込め」にいたる

情勢の変化 と対応戦略を説明し,そ の後に日台の 「政経一体」枠組みにっいて関連 した理論的

および現実分析的な論述を行なう。 その他に国内の政治経済構造(internal politico-economic

structure)の 問題から,日 台の 「政経一体」時期,双 方の 「不完全な政経一体」関係の変化お

よび同時期の日中関係にっいて,い かにして 「政経分離」と 「不完全な政経分離」 というメイ

ン,サ ブ類型の間を揺れ動いたかという過程を検討する。最後に,焦 点を1972年 前後の日台,

日中政経交流関係の転換期に集中 して,日 台断交後の日台間の 「不完全な政経分離」 という新

枠組みの形成および日中間の 「不完全な政経一体」関係の樹立にっいてそれぞれ説明を加える。

2.「 名実論 」 にお ける国家 の対外政経関係 の 「モデル」分析

(1) 現代国家における対外政経関係の 「名実論」的観点

現代国際社会 において,主 権国家(sovereign state)を 基本的な構成単位 とする形態は1648

年 にヨーロッパ大陸でウェス トファリア条約(Treaty of VPrestPhaliα)が締結されたことに起源

を もっ。 この後,も とは西洋世界にのみ適用されていた国際体系の原則が,ヨ ーロッパ帝国

主義の植民地拡大 に従 って,ヨ ーロッパ大陸以外の世界各地に徐々に広 まっていった。とり

わけ1945年 の第二次世界大戦終結後は国際連合(United Nations, UN)が 国際政治 システムの

最 も上位に位置するとい うのが基本的な考え方 となり,西 洋列強の支持を得て,民 族主義

(nationalism),国 民国家(nation-state)お よび主権平等(sovereign equality)に 関連する欧米

国際社会に起源をもっ国際法の観念が現代国際社会システムの主流の思想および国際組織の制

度の基礎 となった。

現代国際社会が一般的に主権国家を国際法の主体(subject)と 承認することにより,国 と国

の間の相互 の交流および相互作用関係の規範化が可能 となる。伝統的に主権国家の対外関係の

様々な側面 を検討するときに最 も注目されるのは政治 レベル(political dimension)の 議論であ

る。その中でもとりわけ主権国家間の 「外交」(diplomacy)関 係が重視される。 これまでの国

際関係学の 「外交」 という用語の定義および範囲については,広 義において 「外交」とは 「国

家 とその他の世界政治の実体 との間で,政 府側の代表を通 して平和的な方式で進められる関係

」9)と意味する以上のものではない。 この定義か らわれわれは現在の主権国家間の政治的交流

関係において,双 方がいかにして 「政府側の交流」と 「平和的作用」の方式により交流を進め

てきたかが分かる。それゆえ,「政府側の交流」 と 「平和的作用」が現代国家間 「外交」関係

の形成と転換を観察す る際に無視することのできない2っ の構成要件となる。

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人 文 学 報

国家間の政治 レベルにおける外交関係のほかに経済 レベル(econQmic dimension)で の関係

の発展 も各国が特 に注意を払ってきた重要な議題であった。 とりわけ第二次大戦の戦火が波及

した国家 はみな戦後経済の復興 と再建に遮進 した。それゆえ,各 国政府は既存の国際的な外交

ネットワークを通 して外交的矛盾による貿易障害を突破 し,対 外経済貿易港流を進めた。経済

的利益により国際経済の分業システムにおける技術的優位 を向上 させようとした。そして技術

的な優位を通 してさらに付加価値(value-added)を 生み出そ うとした。その後 に自己を中心

とした経済貿易,政 治およびハイテクの勢力圏を構築 しよ うとした。 ここか らも分かるように,

国際経済貿易の交流による実質的利益の創出が戦後各国政府が達成すべき短期,中 期,長 期的

目標の第一歩 となった。

現代主権国家の対外関係 は上述の政治および経済 レベルの関係のほかにも,軍 事,安 全,文

化,教 育,医 療衛生および環境生態保護など各 レベルの交流関係におよんでいる。 しか し,西

洋国家の過去百年来における政治経済の発展過程から見れば,欧 米各国は当初より国家の富強

にかかわる政治および経済問題を非常に重視 してきた。例えば,主 権i国家概念が誕生 したヨー

ロッパにおいては17,18世 紀に 「重商主義」(mercantilism)の 思潮が広 まり,こ の2世 紀に

わたりイギリス,フ ランス,プ ロシァなど西 ヨーロッパ国家の対外政経関係の戦略的思考を主

導 した。Vinerの 説明によれば,当 時の重商主義者が国家の富強のために追究 し創造 しようと

した富(wealth)と 権力(power)と いう2っ の目標に関する思考は少な くとも以下の4種 類

の方式により解釈できる。すなわち:

(1)安 全あるいは侵略のいずれのためであっても,富 は権力が絶対的に必要とする手段

(means)で ある;(2)権 力とは富を獲得 し保持するための一つの必須である価値の

ある方式である;(3)富 と権力は国家政策の究極的な目的である(ends);(4)特 殊

な環境においては軍事的安全および長期的な繁栄のために経済的利益を犠牲にしなけ

ればならないが,長 期的にみればこれらの目的はそれぞれの間で長期的な調和性を持

つ10)。

Vinerの 重商主義思想の解釈から分かることは,西 洋の列強が台頭す る過程において国家の

富と国家権力がそれぞれ補完効果を もっとする認識が深いことであ り,そ れゆえどの時期ある

いはどの国家において も,そ の国が国家の富強を対外政策の究極的な目標 とし,か っ対外関係

を処理する限 りは,国 家権力の強化および国家の富の獲得,蓄 積を可能 とする政治一経済関係

は無視できないということであった。

国家の富強を達成するという対外関係の特徴をもっ西洋の主権国家の発展過程以外 に,西 洋

の国際法秩序が生 まれる以前に東洋世界に存在 した 「中華世界帝国」は,政 治主体は如何にし

て自身の 「名分」と 「実力」によってそれぞれの相互交流を進めるべきかという,も う1っ の

異なる 「東洋型」の国際秩序規範を持っていた。筆者のこれまでの東洋型国際秩序に関する研

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「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

究 に基づけば,こ の東洋世界に起源をもっ国際秩序原理は端的にいえば,「 中華世界帝国」 を

中心として 「礼治主義」 を主 とし,「法治主義」 を従 とする世界観にある。それは現在主流的

価値となっている西洋の国際法秩序における 「法治主義」とはシステムを運営する基本原則に

おいて明 らかに異なっている11)。

「礼治」と 「法治」の主 な区別にっいては基本的には前者は 「間 もなく起 こることを禁ずる」

ことを強調 し,後 者は 「すでに起 こったことを禁ずる」ことに重点をお く。それゆえ,「礼治」

世界の国際秩序 においては,そ れぞれ異なりかっ相互に交流する政治主体が どのような 「名

分」(名称と職分)を もつのかにっいてまずその境界を明 らかにし,そ の後その 「名分」に従い

秩序を構築することになる。このような秩序がいったん構築されると,そ れぞれの政治主体は

定め られた 「名分」によ り,「中華世界帝国」の倫理的規範に符合す るような交流行為を行

う12)。それゆえ,東 洋型国際秩序を構築する主要な任務とはすなわち各政治主体に対 して 「名

分」 を定め,「 正名」活動を完成させることである。名により分を定め,分 により行を定める

のである。r名 分秩序論」の意義は 「名により分を定める」,「分 により序を求む」 という 「序

列運営」の動力を持 ち,「名実一致」という統合作用を完成させるところにある13)。つまり

「名分を定めるにはまず名を定め,名 を得て初めて分を定め,分 を定あた後に序を求め,序 が

生 じた ら秩序は整然となり,秩 序が整然 となれば天下 は無為 といえども治められる」14)。この

いわゆる 「天下」 とは具象化された中華世界のことであり,中 国の影響力が及んだ世界におい

て主要部分は華 と夷の2っ に分けられ,華 とは王畿のことであり,王 畿 とは中国のことである。

夷 とは属藩のことであ り,中 国の周辺諸王国のことである。 「東洋型」 の国際秩序においては

「中華世界帝国」の皇帝 とは中国の皇帝であり,周 辺諸王国の皇帝で もある。「中華世界帝国」

の皇帝 は 「中華世界帝国」全体を統治するために王畿に存在 し,直 轄地域である中国に中央政

府を設置 し,中 央政府内部に礼部あるいは理藩院などの属藩統治機関を設置することで諸王国

を統治 し,「 中華世界帝国」 の権力運営 システムを構成する。上述の概念を単純化 した図式で

示すと以下のようになる15);

天下=中 心+周 辺=華+夷=王 畿+属 藩=中 国+諸 王国=皇 帝+匡 圧=「 中華世界帝国」≒

中央政府+地 方政府

清末にいたるまで中国は西洋帝国主義勢力のように重商主義の富国強兵政策を採用すること

はなかったが,自 身の対外政経関係は運営 していた。 しか し,東 洋世界の国際法秩序の原理は

西洋国際法がアジアに影響を与える前からすでに存在 していた。それゆえ,主 権国家の対外政

経関係モデルを構築す る際に理論 レベルで影響を与えてきた。その中で本稿に直接関わりかっ

大きな意義を持っ ものとして,「 中華世界秩序原理」 における 「名分秩序論」が重要な役割を

果たした。

「礼治主義」により国際秩序を運営するには,最 初に上下尊卑の各種 「名」号および職 「分」を

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人 文 学 報

定めなければならず,そ れにより「中華世界帝国」全体としていわゆる中心と周辺,華 と夷,王

畿 と属藩,中 国と諸王国および皇帝と国王といった上下尊卑の 「階層的」(hierarchical)天 下

秩序により交流が展開 してきた。したがって,こ のような 「名分論」と 「秩序論」が強調され

る東洋国際秩序のもとでは,「 中華世界帝国」がいかにして 「礼治主義」 の運用を通 して,各

政治主体の総合的な実力,特 に文化文明力のレベルに基づき,不 断にあるべ き名分と秩序を位

置づ け,調 整 し,東 洋型国際秩序の客観的,現 実的安定の持続を実現できたのかがキーポイン

トとなる。 「名分秩序」 の枠組みにおいては,も しも交流主体それぞれの客観的な 「名実」状

態に重大な落差が生 じると,相 互作用 システムにおいて往々にして 「名が実より上」 あるいは

「実が名より上」 という 「分不相応」 な状態が生まれる。 もし 「名が実より上」であれば2っ

の政治主体の往来 は見掛け倒 しになる。逆に 「実が名より上」であれば僧越的状況が生まれる

可能性が高い。 ここからもわかるように 「名実」間の不相応状態が 「東洋型」の国際法秩序の

安定的維持を困難 にさせた要因である。っまり 「名分」を定める最大の目的 とは名に伴 う倫理

分際および名実関係を求めるだけでなく,同 時に交流主体間が最終的には 「名実一致」という

名実合一状態の下で天下一統を常態とする世界観を維持することを期待するものであった16)。

もし上述の 「名分秩序論」において純粋で客観的な 「名実論」の部分を 「東洋型」国際法秩

序 として,か っそこに強調 される 「文化的価値」の部分の論述を除外 した上で,理 論構築 して

史実を分析するのであれば,近 代の西洋国際法秩序が主流 となる時代 において もこのような

「名実」概念を用いて異なる主権国家間の対外政経関係の基本 モデルを構築できると考え られ

る。 この考え方 に基づき現在の西洋国際法の観念が依拠す るところの 「法治主義」の運用 ロ

ジックをとらえるとすれば,現 在の国際社会におけるいわゆる 「正名」問題 とはすなわち国際

政治上において国際法の主体となる 「政治実体」(political entity)が 「主権国家」の地位を有

し,か っそれに承認(recognition)を 与えるのかどうかという問題 に置換される。西洋の国際

法の規範によれば,い かなる政治実体 も主権国家の地位を獲得するために基本的条件 とは,少

なくとも(1)固 定 した住民,(2)一 定の境界のある領土,(3)政 府,お よび(4)他 国と

交流する能力を保持していなければならない17)。上述の四条件のうち前者の3っ までは政治実

体(あ るいは主体)の 内部構成と関係す るものである。 しか し第4項 は政治実体の対外関係に

およぶものである。注 目すべきこととして対外関係を運営する能力が重視される最大の要因と

して,そ れが国際社会においてその政治実態が主権国家として もっ独立性を有 しているかどう

かを明らかにするからである。 「独立能力」 にっいて力があることを証明するためには,政 治

実体は各国を代表する政府側の代表 と正式な外交関係を樹立 し,国 際政治上において主権国家

となりうる条件を有 していることを表明 しなければならない。

さらにいうならば,西 洋の国際法秩序において主権国家的地位を承認する過程 は,「東洋型」

国際法秩序が 「正名」過程において 「名分秩序」を追究する方法 と 「文化的価値」の核心的構

一170一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

成部分においては異 なっているが,国 際秩序における政経の基本問題を処理する上では東洋,

西洋世界の国際秩序は表面的によく似ているところがある。総合的にみてこの2っ の国際法秩

序 は共に政治主体が対外的な政治一経済関係を処理する上です ぐれたものを有 している。単 に

経済 レベルの関係においていうならば 「東洋型」 国際法秩序が 「名実論」 において強調する

「実」 とは,主 には政治主体そのものの国力問題である。 それゆえ,も しこれを現在の主権国

家間に転用 して分析す るのであれば 「実」を交流国家間の経済関係がもたらす実際の経済貿易

における損益の計算においてのみ用いるべきであり,交 流国家間の総合的な国力(comprehen-

sive national power)18)の 分析にまで無制限に研究パラダイムを拡大すべ きではない。

前述 した 「東洋型」国際法秩序における 「名実論」の観点に関する新たな解釈および制約に

っいては,そ れを現代国家の対外政経関係モデル構築の分類基準に転用することができる。本

稿では交流関係においては既定の 「政治名分」を縦軸に,交 流関係によってもたらされる 「経

済貿易実益」を横軸にとり,モ デル構築を展開している。その中で交流国家間の外交関係は重

要な判断基準の根拠 となる。なぜな ら交流関係によって もたらされる 「経済貿易実益」は双方

の政治関係の緊密度に影響する重要な要素だからである。 この2っ の関係が客観的状態におい

て 「有 り」 「無 し」 が異なる交流国家間の政経関係の 「理想型」の分類基準 となる。 ここから

以下の四種類の対外政経交流関係基本モデルが構築できる。すなわち 「有名有実」的 「政経一

体」,「有名無実」的 「政経失調」,「無名有実」的 「政経分離」および 「無名無実」的 「政経断

絶」 の4種 類である (表1参 照)19)。この四種類の交流国家間の政経関係モデルは,「戦後日本

の両岸政策の形成 と転換」を分析する際のさしあたりの概念枠組みとなっており,以 下でさら

に説明を加えたい。

(2) 政経関係の基本類型とサブ類型

1.「有名有実」的 「政経一体」関係

いわゆる 「有名有実」 的 「政経一体」 関係とは両国間が双方において政治的名分において

表1 交流国家間政経関係の理想型分類

出典:筆 者による作成

一171一

人 文 学 報

「正式な」(formaD外 交関係を樹立 し,同 時に経済面 において も密接な経済貿易関係を有する

(政府側および民間の経済貿易関係を含む)。 この時,双 方の政経交流関係は 「政経一体」の類型に

属する。

しか しなが ら国際政治はめまぐるしく変動 し,も し甲,乙 の両国のうち一方 に,例 えば甲国が

内戦や政治情勢の変動によりその国の政治名文上において主権国家の地位の認定に疑義が生 じ

た時,「不完全な国家承継」(incomplete succession of state)あ るいは 「不完全な政府承継」と

いう現象が起き20),甲国においてもう1つ の 「丙政治実体」(例えば分裂国家)が 出現 した時,「乙

国」は 「甲国」とのもとか らある 「政府側」の政経関係に影響 しない中で,言 いかえれば 「非政

府側」という性質のもとで 「乙政治実体」と経済関係上の接触を保持す る。 このような政経交

流関係は原則的には 「政経一体」の範囲に属するが,厳 格にいえば甲乙両国の政経交流関係は

この時すでに「政経一体」関係のサブ類型,す なわち「不完全な政経一体」関係に変化 している。

国際関係においてこのような 「不完全な政経一体」モデルの政府は,国 家の対外的な政経利

益を追求する,あ るいは国家の対外的な政経損失を減少させ るために 「非公式な」ルー トを通

して外交関係のない国と交流を保持するのである。それゆえ,こ のような特殊な国際関係にお

いて両国の間で国交がないということは双方が政治的事務の接触を持たないということを意味

しない。逆に双方が政治的事務の接触を持っても国交を持っ ということを意味 しない。

この時,双 方のうちの一方は 「政治」行為を 「経済」目的を達成するための手段としている

だけである。対 してもう一方は 「名実が符合 しない」「不完全な政経関係」を 「有名有実」 な

「政経一体」の理想モデルにしようとする。いったん突破すると 「甲国」 は 「丙政治実体」 を

完全 に封 じ込めようとし,あ るいは 「丙政治実体」 も 「甲国」を完全に封 じ込めようとするが,

その可能性 は非常 にわずかである。それゆえ 「政経一体」類型のサブ類型である 「不完全な政

経一体」関係 は不安定なモデルであり,国 際情勢の変化に応 じてメイン,サ ブ類型の間を変動

するのである。

2.「有名無実」的 「政経失調」関係

「有名無実」 的 「政経失調」 関係とは交流国間で双方の経済関係が もたらす実益はわずかだ

が,双 方 は外交上 において 「正式な」政府側の関係を保持 していることを意味する。 このよう

な 「政治的な結びっきは緊密だが,経 済的な依存関係は疎遠」 という状況は共産主義 と資本主

義のイデオロギーが対立 した冷戦時期によく見 られた。当時共産主義陣営あるいは資本主義陣

営の国家間においてそれぞれの経済関係の補完性および利益性は低か ったが,双 方は陣営の

「共同体意識」あるいは 「主義」(-iSln)に よる 「イデオロギー的接近」により政治的な結びっ

きを強めていた。 例えば1949年 にソ連の指導者スター リン(Joseph V. Stalin)は 東欧の共産

主義小国のコントロールを強化 し,アメ リカの「マーシャルプラン」(Marshall Plan)が 東欧で影

響力を拡大するのを防 ぐため,特 別にブルガ リア,チ ェコスロバキァ,ハ ンガ リー,ポ ーラン

ー172一

「政 経分離」対 「政経一 体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

ド,お よ び ル ー マ ニ ア等 の6力 国 と共 同 で 「経 済相 互 援 助 会 議 」(Council・for・Mutual・Economic

Assistance, Co・necon,コ メコン)を 結 成 した。 そ の中 で ソ連 は土 地 と エ ネ ル ギ ー(コ メ コンの

90%),人 口(70%),国 家 所 得(65%),お よ び工 業,軍 事 力 に お い て絶 対 的主 導 的 地位 を 占 め

て お り,か つ ス タ ー リ ンは 「多 極 体 制 」 の 運 営 方式 を信 用 して い な か った の で,組 織 の成 立 初

期(1949-1953年)は お も に ソ連 とそ の 他 の 共産 主 義 国家 間 とい う 「二 極 関 係 」 を 基礎 と して

い た。 ソ連 に と っ て は これ らの共 産 主 義 小 国 を 二極 間 の経 済 貿 易 で っ な ぐ こ とで,ソ 連 の共 産

主 義 属 国 へ の経 済 統 合 の 意 思 を貫 徹 で き るだ けで な く,コ メ コ ンメ ンバ ー に 対 して 政治 的影 響

力 を発 揮 で き た の で あ る21)。

3.「 無 名有実」 的 「政経分離」関係

「無 名 有 実 」 的 「政 経 分 離 」 関 係 と は交 流 国 間 で 「正 式 な 」 政 府 側 の外 交 関 係 は な いが,双

方 と も国 益 の最 大 化 を 考 慮 し,経 済 レベル にお いて実 質 的 な経 済 貿 易 交 流 を 依 然 保 持 す る こ と

を い う。 こ の よ うな 「政 経 分 離 」 方 式 で 双 方 の 実 質的 な経 済 貿易 の接 触 を 保 持 す る状 況 はた と

え交 流 国 の 双 方 が政 治 的 あ る い は軍 事 的 に敵 対 状 況 に あ って も出 現 しう る。 例 え ば,第 一次 世

界 大戦 前 期(1914-1916年)に イ ギ リス と ドイ ッ は政 治 的外 交 的 に敵 対 状 態 に あ り,か つ イ ギ

リス は大 戦 勃 発 後2ヶ 月 以 内 の1914年8月5日 に 「対 敵 貿 易 条 例 」 (The Tradingωith the

Enemy Proclamαtion)を 公 布 し,法 令 に よ り両 国 の直 接 的 な貿 易 交 流 を 禁 止 して い る。1916年

1月27日 に は イ ギ リス は再 度 「対 敵 貿 易 修 正 条 例」(The Trαdingωith the Enemy A mendment

Act)公 布 施 行 し,さ らに厳 しく対 独 の全 面 的 な経済 貿易 断 絶 政 策 を と っ た。 しか し,イ ギ リ

ス の 自 由党 政 府 は1914年 か ら1916年 の間 に国 内 の戦 前 の対 独 経 済 利 益 を 維 持 し,自 由貿 易 の

精 神 を 堅 持 す る と い う政 策 的立 場 か ら,「 平 常 貿易 」(business as usual)の 態 度 を と り,英 独

間 の 通 商 お よ び ドイ ッ人 の英 国 内 に お け る商 業 活 動 と資 産 問 題 を 緩 和 した22)。

これ 以 外 に も分 類 レベ ル に お い て,「 政 経 分離 」 と 「政経 一体 」 の関 係 は類 型 構 造 上 にお い

て 似 た 点 を も って お り,同 様 に い わ ゆ る 「不 完 全 な政 経 分離 」 関 係 と い うサ ブ類 型 が あ る。 特

に交 流 国 の うち の 一 方 ま た は双 方 が経 済 貿 易 関 係 にお け る接 触 過 程 で 政 治 的 な性 質 を持 っ 事 務

を 徐 々 に経 済 貿 易 の 相 互 作 用 の 中 に組 み込 ん で い くこ とが あ る。 これ はす な わ ち 「商 を もって

政 を囲 む」 とい う外 交 戦 略 で あ り,そ の最 終 目標 は他 で もな く,双 方 の 「無 名 有 実 」 的 「政 経

分 離 」 関 係 を 「有 名 有 実 」 的 「政経 一 体 」 関 係 と い う理 想 モ デ ル に進 め る こ とに あ る。 こ こか

ら もわ か る よ う に,「 政 経 分 離 」 モ デ ル の サ ブ類型 で あ る 「不 完 全 な政 経 分 離 」 は不 安 定 な モ

デ ルで あ り,国 際 情 勢 の変 化 に よ りメ イ ン,サ ブ類型 の 間 を揺 れ 動 くの で あ る。

4.「 無名無実 」的 「政経 断絶」関係

「無 名 無 実 」 的 「政 経 断 絶 」 関 係 と は交 流 国 の双 方 が 政 治 的関 係 に お い て 「政府 側 の」 正 式

な 外 交 関 係 が な く,同 時 に いか な る経 済 貿 易 上 の交 流 もな く,た と え接 触 が あ った と して も双

方 の間 の経 済 貿 易 交 流 に お け る実質 的 な利 益 は ほ とん ど と る に足 らな い もの で あ ろ う。 冷 戦 初

一173一

人 文 学 報

期 に 資 本 主 義 と共 産 主 義 の 陣営 の国 家 間 で発 生 した 「政 経 断 絶 」 現 象 は この よ うな 関 係 モ デ ル

の典 型 的 な もので あ る。 両 岸 関 係 は国 際 関係 で は な い が,「 漢 賊 両 立 せ ず 」 とい う時 代 に お い

て 出 現 した 「政 経 断 絶 」 現 象 は この よ うな関 係 モ デル の 典 型 的 な例 証 で あ る。

第 二 次 大 戦 後 の二 大 陣 営 の頂 点 に位 置 す る米 ソ双 方 は ほ とん ど取 る に足 らな い経 済 貿 易 交 流

が あ った が23),1947年3月 に ア メ リカ政 府 は 「トル ー マ ン ドク ト リ ン」(Truman Doctrine)を 提

起 し,西 ヨー ロ ッパ に お い て ソ連 を頂 点 とす る共 産 主 義 の 勢 力 拡 大 に 対 して 「封 じ込 め 」に よ っ

て 陣 営 に 対 抗 す る こ とを 主 張 した。 同 年7月 に ソ連 も東 ヨ ー ロ ッパ に お い て 「モ ロ トフ プ ラ

ン」(Molotov Plan)を 実 行 し,ア メ リカが ヨー ロ ッパ で 提 起 した 「マ ー シ ャ ル プ ラ ン」(Marshall

Plan)に 対 抗 した 。 二 大 陣 営 間 の国 際 経済 貿 易 関 係 は決 裂 しは じめ,そ の後 は政 治 的 外 交 的 な

対 峙 に至 っ た。9月 に ソ連 は東 欧地 域 の共 産 主 義 国 家 を 連 合 して ポ ー ラ ン ドに お い て 「共 産 党

情 報 局(コ ミンフォルム)」(Communist・lnformation・Bureau, COMINFORM)を 設 立 し,ソ 連 が 政 治

的 外 交 的 に東 欧 の共 産 主 義 国家 を コ ン トロー ルお よび 統 合 し,ヨ ー ロ ッパ の資 本 主 義 陣 営 の国

家 に対 抗 す る政 策 協 調 メ カ ニ ズ ムと した24)。 これ はす な わ ち東 西 二 大 陣 営 が 相 互 に対 峙 す る 中

で の 政 治 的 断 絶 で あ る。 ア メ リカは 「政経 断絶 」 の原 則 を貫 徹 す る た め に1949年 に さ ら に西 側

の同 盟 国 を連 合 し,フ ラ ンス のパ リで 「対共 産 圏 輸 出統 制 委 員 会 」(コ コム)(the Coordinating

Committee for Multilateral Export Control, COCOM)を 設 立 した 。 「コ コ ム」 は冷 戦 期 に資 本 主

義 陣 営 が ソ連 な ど の共 産 主 義 国 家 に対 して軍 備 武 器 や 軍 民 両 用 お よ び核 関 連 技 術 を 輸 出 す る

のを 厳 格 に管 理 す る た め に結 成 され た国 際 的 管 理 組 織 で あ る。 コ コ ムの 厳 格 か っ有 効 的 な コ ン

トロ ー ル に よ り先 進 的 な製 品 や技 術 が 共 産 主 義 陣 営 に 流 出 す る の を 防 ぐ こ とに成 功 した25)。 こ

れ に よ り双 方 は経 済 貿 易 関 係 に お い て さ え 「経 済 断 絶 」 の 局 面 に入 った 。 東 西 二 大 陣 営 の 鋭 い

対 峙 は二 大 陣 営 の政 治 的経 済 的両 方 の断 絶 と い う局 面 を も た ら し,冷 戦 体 制 が形 成 され た。

(3) 交 流 国 に お け る政 経 関 係の モ デ ル転 換 分 析

「東 洋 型 」 の 国 際 法 秩 序 に お い て,「 名 実 」 問 題 に関 して 理 論 レベ ル で は現 代 国 家 間 の 政 経 交

流 関 係 に お い て 四種 類 の基 本 モ デル を導 く ことが で きた 。 ただ し実 際 に多 国 間 の政 経 関 係 の事

例 分 析 を行 な う際 に,こ の よ うな 「理 想 モ デ ル」 を 分 類 の 基 礎 と して 中,日,台 三 方 の 政 経 関

係 を 解 釈 す る に は 「二 項 対 立 変 数」(dichotomous variable)の 概 念 に よ り分 析 す る こ と で個 別

事 例 を明 らか に しな け れ ば な ら ない。 そ の主 な理 由 と して,現 実 の 状 況 に お い て は政 府 側 の貿

易,民 間 貿 易 あ る い は 違 法 な貿 易 で あ ろ うが 交 流 当 事 国 の 経 済 貿 易 交 流 が 数 量 的 に は 「大 小

の差 異 」 が 存 在 す るの み で経 済 貿易 の接 触 が 「全 くな い」 と い う状 況 は ほ とん どあ りえ な い。

それ ゆ え,経 済 実 益 を 計 る上 で 「連 続 変 数 」(continuous variable)の 表 現 方 式 に改 め る こ と

に よ って 現 実 を よ り一 層 反 映 で き,同 時 に 実 際 に は存 在 し う る 「地 下 経 済 」(underground

economy)活 動 の問 題 を見 落 とす こ と も避 け る こ とが で き る。 交 流 国 間 の政 治 的 関 係 の緊 密 度

一 174一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

にっいては非常に緊密と非常に疎遠 との間で 「政治的名分」関係のスペク トラムを用いて表示

すれば,一 方では政府側の外交関係の有無を明確にあ らわすことができ,モ デル分析の判別境

界線 における判別線の上下の政治的関係を観察することで反動なのか突破なのかを分析するこ

ともできる。他方で,緊 密度のスペクトラムは外交関係の有無にっいて密度および些細な変化

を明確 に反映させることができる。

上述 の理由により筆者は表1で 提起 した四種類の理想モデルを分類の基礎として,さ らに分

析の概念構造図(図1)を 提起 し,二 国間の政経交流関係のモデル転換を説明す るとともに,

その概念構造を用いて戦後 日本の両岸政策の形成と転換を分析する。図1の 概念構造は前述 し

た四種類の政経交流関係の基本モデルを含んでいるが,政 治的名分の緊密度 においては特に

「国交の有無」 の部分に点線を引いている。 しか し,経 済的実益の部分では相応する明確な判

別境界がない。 この現象は 「政治的名分こそが政経交流モデルの鍵となる要素であり,相 対的

に経済的実益は補完的に影響するのみの要素である」ということを反映 している。 これにっい

てはGilpinが 同様の観点を提起 している26)。すなわち,貿 易関係が国際的衝突を激化あるい

は緩和させるのかということにっいて,往 々にして政治的環境要素の影響によって決定される

ものである。最近ではMorrow, SiversonとTabaresが1907年 か ら1990年 までの米,英,

政 治 的 名 父

小 大

経済的実益(実)

・図中の点線は国家間の正式な外交関係が存続しているかどうかの判断基準を表す 出典:筆者による作成

図1 交流国間政経関係のモデル転換分析

一175

人 文 学 報

仏,独,露,伊 の七強にっいて多国間の計量化研究を行ない,交 流国の相互間の 「共同民主

度」(joint democracy)お よび双方の政治関係の 「緊密度」 という2つ の政治的要素が各国の

貿易量に影響するのかについて,統 計的にも明らかな水準に達 したことを実証 している27)。

ここか らわかるように,国 際関係において貿易およびその他の経済的関係そのものは国家間

の協力および対立のカギとなる要素ではなく,経 済交流は時には緊張関係を緩和 させ うるが,

同様に国際的衝突を激化させる原因にもなりうる28)。それゆえ,厳 密にいえば経済貿易関係の

改善のみでは双方の政治的関係が緊密あるいは平和な方向へ進むということを保証することは

できない。

交流国間の政治的名分の親密さ,実 益の大小,お よび双方の関係にっいては理論のみでは明

らかにすることはできず,異 なる歴史的事例の検証によって可能 になる。それゆえ本稿では戦

後の日,中,台 関係の変化を研究事例として,日 本の両岸政策に影響を与えた内部的,外 部的

要素を探索 し,日,中,台 政経関係の実際の運営過程を通 して戦後日本の両岸政策の形成 と転

換を分析 し,そ の成果にもとづき 「名実論」の含意を豊富化 し,国 際的政経関係モデルの理論

構造の レベルを向上させたい。

(4) 分析枠組みの応用

図1の 分析枠組みは戦後 日,中,台 関係の歴史的変遷を検証するものだが,図2は 戦後 日本

の対台湾および対中政経関係のモデル転換の分析図である。上述の分析により,1952年 から

1972年 までの日台関係は基本的に 「政経一体」 から 「不完全な政経一体」 に転換 し,さ らに

「不完全な政経分離」のモデルへと転換 した。1972年 の日中国交樹立および日台断交 と同時に

「不完全な政経一体」か ら 「不完全な政経分離」 という 「逆転式サブ類型」の関係に転換 し,

今日に至る。 日台関係の変化 という客観的事実は政策決定において,ま さに双方の政府が保持

する基本的な立場を反映 している。中華民国政府にとっては 「政経一体」の日台関係を維持 し,

「政経断絶」 の対中政策を要求することは,中 華民国政府が大陸を撤退 し台湾に来てから日本

政府に対 して採 ってきた一貫 した態度であった。ただ日本政府にとっては長期的な政治的ある

いは経済的利益から見れば,当 時の海峡両岸の 「漢賊両立せず」という外交的思考に適応する

ためであっても,戦 後経済復興を実現 しっっあった日本にとっては許容 しがたいものであった。

最後に,冷 戦時期の米,ソ 両極が対峙する国際的局面と海峡両岸の分裂分治的状況 において,

同時に 「1つ の中国」を主張する外交的難局の中で,日 本政府はアメ リカによる中ソ両国を頂

点とする共産主義陣営の 「封 じ込め」という世界戦略に追随するため29),中 華民国 と 「政経一

体」の関係を維持 した。 しか し,日 本政府は同時に中華人民共和国 とも 「政経分離」の交流を

保持することを希望 した。それゆえ,日 台間の 「政経一体」は瞬 く間に不完全な 「政経一体」

関係に転 じた。外交政策決定者の理性的アクターというパ ラダイム(rational actor paradigm)

-176一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」 的分析(張 ・葉)

磐 。分判別線 別線 父 名 )

疎 遠

小 大

経済的実益(実)

図中の点線は1972年の日台,日中の正式な国交関係有無の判断境界を示す; 一一レ矢印は政経関係の変遷の方向を示す 一 実線はメイン,サブ類型の上下段階を示す 出典:筆者による作成

図2 戦後日本の対台対中政経関係におけるモデル転換の分析

からいえば,も し国家 あるいは政府を国益を最大化する手段(means)を 選択することができ

るというアクターとみなせば30),日 本政府のこのような 「対台湾の不完全な 「政経一体」,対

中国の 『政経分離』を排斥せず」という 「名実共に求む」 という方法は,日 本が一方では国際

的環境の制約を受けながら,他 方では最大の国益を追求するというもとでの両者を折衷 した政

策的産物であった。 ここからわかるように第二次大戦後の国際情勢の形成 と転換は日本の中国

政策の策定において重大な影響を及ぼしていた。このような国際環境 という外部要素 と日本の

対台湾政策の形成は関連性を有 しており,本 稿ではまず分析 しなければならない重要な課題 と

なる。

-177一

人 文 学 報

3.国 際 的 冷 戦 局 面 に お け る 日台 の 「政 経 一 体 」 関 係

(1) ア メ リ力世 界 戦 略 の 「重 点 封 じ込 め」 か ら 「全 面 封 じ込 め 」 へ の 転 換

1947年3月 に トル ー マ ン(Harry S. Truman)大 統 領 は議 会 で 演 説 し,ト ル コ とギ リ シ ャを

援 助 し,ソ 連 の東 欧 に お け る急 速 な共 産 主 義 勢 力 の拡 張 を 「封 じ込 め 」,西 欧 に お い て 脅 威 を

生 み 出 しっ っ あ った 情 勢 を 防 ぐよ う各 国 に呼 びか け た。 こ れ に対 して1949年 に 国 共 内 戦 にお

い て 不利 にな りっ っ あ った 国 民 政 府 側 の情 勢 は 日増 しに危 機 を迎 え っ っ あ った。8月5日 に ア

メ リカ国務 省 は 『ア メ リカ と中 国 の関 係:1944-1949年 』(σnited States Relations zvith China :

VVith SPecial Reference to the Period 1944-1949)と い う報 告 書 を公 布 した。 これ は いわ ゆ る ア メ

リカ の 中 国 「白書 」 と呼 ば れ る もので あ る。 ア メ リカ は過 去5年 に わ た り軍 事 力 を も って 国 民

政 府 の共 産 党 攻 撃 を 援 助 して きた が,結 果 的 にみ れ ば これ は根 本 的 に現 実 に合 わ な い方 法 で

あ った こ とを 強 調 した 。 白書 の 主 要 な 目的 と して第 一 に 中国 情 勢 の 悪 化 が あ り,す で に最 大 の

努 力 によ り援 助 して き た基 本 的 な立 場 を挙 げ た。 第 二 に 中 国大 陸 が 共 産 党 の手 に落 ち た責 任 を

明 らか にす る こ とで あ り,当 時 の民 主 党政 府 の 中 国政 策 を擁 護 し,同 時 に以 後 国 民 政 府 と は距

離 を と る政 策 的 な意 向 で あ る こ と を明 らか に した31)。見 た と こ ろ こ の ア メ リカ民 主 党 の方 法 お

よび 「封 じ込 め」 の論 調 は互 い に矛 盾 して い る。実 際 に これ は む しろ当 時 の ア メ リカ の行 政 部

門 が いか に(how),そ して ど こで(where)ソ 連 を 「封 じ込 め 」 るか と い う構 想 に お い て,い

わ ゆ る 「死 活 的 な か っ 周辺 的 な 利 益 」(vital and periphera1 interests)の 区 分 に差 異 が生 じて い

た こ とを 反 映 して い る。 この政 策 と朝 鮮戦 争 後 の アメ リカ が ソ連 共 産 主 義 勢 力 に対 して と った

「全 面 封 じ込 め」 政策 は確 か に異 な って い る。

戦 後 初 期 の ア メ リカ で 生 じた この よ うな 「重 要 利 益」 地 区 を 優 先 す る 封 じ込 め政 策 は実 際

は1947年 に ア メ リカ の安 全 保 障 政 策 を構 想 す る国 務 省 政 策 企 画 室 長 で,ソ 連 問 題 の専 門 家

と して も有 名 な ケ ナ ン(George F, Kennan)が ア メ リカの 封 じ込 め 政 策 にっ い て有 して い た構

想 と大 き な 関 連 が あ る32)。早 く も1946年 の2月22日 に 駐 ソ大 使 で あ っ た ケ ナ ン は長 文 電 報

(Long Telegrαnz)の 中 で,戦 後 ソ連勢 力 が 日増 しに拡 張 す る と い う国 際 情 勢 に お い て,ア メ リ

カの 国 家 戦 略 に お け る主 要 な任 務 は ソ連 の拡 張 を 阻 止 す る こ と に な らざ るを え な い こ とを 強 調

して い た。 しか し,彼 の判 断 に よ れ ば ア メ リカが この任 務 を 達 成 す るた め に は直 接 ソ連 と対 峙

す る必 要 は な く,全 面 的 な軍 事 衝 突 の必 要 もなか った 。

ケ ナ ンは ソ連 が本 質 的 に はナ チ ス ドイ ッ の ヒ トラ ー(Adolf Hitler)と 異 な り,冒 険 主 義 者

(adventurists)で は な く,ま して や 当時 の ソ連 の 経 済 力 で は西 洋 に依 然 と して遅 れ を と って い

る こ とを認 識 して い た。 ア メ リカの 当時 の能 力 で あれ ば どの よ うな局 面 に お い て も強 力 な 反 撃

力 お よ び十 分 な抵 抗 力 を発 揮 し,武 力 の強 弱 を比 較 す る論 理 を よ く知 る ソ連 を撤 退 させ られ る

で あ ろ う と見 て い た。 そ れ ゆ え ケナ ンは 当時 の ア メ リカの 国 益 に最 もか な う方 法 は西 洋 世 界 に

一178一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

おいてアメ リカと同 じように健全でかっ活力のある社会を広め,建 設 し,こ れらの自由主義国

家に十分な自信 と能力を持たせ,そ の脅威に対抗させることであると考えていた33)。

1947年7月 にはケナンはさらにアメリカの 「フォーリン・アフェアーズ」(Foreign Affairs)

誌上において 「X」の署名でソ連の 「封 じ込め」政策の立場を主張 した34)。しかし,こ こで注

意 しなければな らないのは,当 時のアメ リカ行政部門が 「封 じ込め」政策を実行する上で,ケ

ナンの 「封 じ込め」政策構想と同様に,ア メリカの安全 に影響 しうる 「死活的利益」地域にお

いて共産党勢力が拡張 していた問題に対 して,「 周辺的利益」 を有する地域 との間の優先順序

をめぐって異論は非常に大きかった。 このため,1947年 から1949年 にかけては,ア メ リカの

ソ連封 じ込 め行動は主に西 ヨーロッパ,地 中海,中 東および日本など工業および軍事的に潜在

能力が高 く,か っ大量の原材料あるいは戦略物資を提供できる地域に集中していた。 「重大利

益」地域が共産党の手に落ち,さ らにソ連勢力が対外拡張するために根拠地となれば,ア メ リ

カの安全 と利益に直接影響することから,こ れらの地域 はアメリカが優先 して考慮 しなければ

ならない戦略的に重要な地域であった。その他の例えばアフガンか ら韓国に至るアジア大陸や,

ラテンアメリカおよびアフリカなど工業化が進んでいない地域や,あ るいは地理的な位置がソ

連から遠 く補給が容易でない地域 あるいは民族主義が日増 しに高まりソ連がコントロールす

るのが困難であろうとされる地域にっいては,も しソ連の手に落ちても,工 業化の程度が相対

的に低 いことから,ソ 連の戦争動員を支援する能力はないであろうと考えられた。このため,

アメリカはこれらの 「周辺的利益」 に属する地域が赤化されて も遺憾には感 じたが,「 限りあ

る資源を もって死活的利益地域を死守する」という前提の下,ア メリカはこれらの地域がたと

え共産党の支配を受 けて もアメ リカの国益にすぐには重大な損害をもたらさないであろうとみ

ていた。 このような現実的な考察に基づけば,こ れらの地域の重要性は当然いわゆる 「死活的

利益」地域とは同列に論 じることはできなかった35)。

すなわち 「死活的利益」地域を優先 し,ソ 連の 「全面封 じ込め」戦略を考慮 しなかったこと

によって,ト ルーマ ン政府は1949年 から1950年 の朝鮮戦争が勃発するまでの段階では,中 共

に対 して中国が東洋の 「チ トー」(Tito)に なるという見方を持 っており,強 大になったあと

の中共 はす ぐにソ連のアジアにおける勢力拡張の拠点になるには至 らないであろうことを希望

していた。 この点 は当時のアメ リカのいう 「手を引 く」(hands-off),「 塵が静まるのを待っ」

および 「断続的な島喚防御線」 という対台湾政策が証明している。 とりわけアメ リカの国防長

官であるアチソン(Dean Acheson)が アメ リカの西太平洋における防御線とはアリューシャン

列島(Aleutian Islands)か ら日本,沖 縄列島を経て,フ ィリピン諸島まで連なる弓形の島喚で

あると声明で述べている。 アチソンが意図的に台湾と韓国を島唄防御線における戦略的地位か

ら外 したことはアメリカの東アジアにおける戦略的傾向を明らかに した36)。ケナ ンがまさに強

調 したように,ア メ リカはこうして 「死活的利益」地域において優先的に自由民主主義体制を

一179一

人 文 学 報

樹立 し,そ れにより 「日本社会の安定を促 し,日 本が保護か ら離れられるようになった時に自

立させるのが最 も望ましい」 という政策を提起できたのである37)。端的にいえばすなわち日本

軍国主義体制を解体 し,ア メリカ式の民主を樹立するという占領政策であった。

しか し,ソ 連の核武装力が次第に優位にたち,中 国大陸を失い,朝 鮮戦争が勃発 して中共が

参戦するなど国際情勢が転換するに したがって,ト ルーマ ン政府はもともと依拠 していたケナ

ンの 「重点封 じ込め」構想,防 衛性および特定性をもった世界戦略および極東政策 も国際情勢

の悪化 と共に重大な転換を余儀なくされた。ケナンが1949年 に国務省政策企画室長 の職を辞

したあと,ニ ッツ(Paul H. Nitze)が 後任となった。 そして,国 家安全保障戦略においてニッ

ッの 「全面封 じ込め」構想がケナンの 「重点封 じ込め」構想に代替 された。まず,ソ 連 「封 じ

込め」という世界戦略において トルーマン政府は過去の中共を 「中国のチ トー」にするという

方法を完全に放棄 しただけでなく,ソ 連を 「封 じ込め」るという立場上,か っては 「死活的利

益 と周辺 的利 益」を明 らかにする 「特定性封 じ込 め」か ら国家安 全保 障会議(Nati。nal

Security Council, NSC)の 第68号 文献38)の建議により,防 御範囲の軽重を区分 しない 「全面封

じ込め」戦略の実施へと転 じた39)。その影響はアメリカの極東地域 における対 日政策および台

湾政策への根本的変更にもおよんだ。

対日政策においてアメリカは 「日本復興」 の歩みを加速 させ,資 本主義陣営の 「反共防波

堤」および 「極東工場」にさせることのほかに,日 本がアメリカの東ア ジア戦略構想に追随 し,

アメリカの日本を資本主義陣営の前衛基地 とする戦略的配置に従 うように,ア メリカは 「サ ン

フランシスコ平和条約」および 「日米安全保障条約」の締結活動を積極的に進め,上 述の三大

政策の制定と執行により,崩 壊状態だった戦後 日本に主権独立の地位を獲得させ,新 たに国際

政治の舞台に登場させると同時に,選 択の余地なくアメリカの極東戦略配置の追随者になるよ

うにした4。)。

アメ リカの台湾政策については,最 も明確な転換 は韓国 に対 して軍事的支援を行な うと同

時に海軍第七艦隊を派遣 し,「台湾海峡中立化」活動を確保 したことであるが,も う1っ の転

換は1943年 の 「カイロ会談」(Cairo Conference)に おいて台湾および膨湖諸島の中華民国へ

の帰属に同意 したことであり,さ らに1950年1月5日 にアメ リカは中国の内戦に介入 しない

との立場を放棄 し,「台湾地位未定」(The Unsettled Status。f Taiwan)の 主張に転 じ,「 台湾

の将来の地位は太平洋地区の安全の回復を待ち,対 日平和条約の締結および国際連合での審

議の後決定される」41)と強調 した。 アメ リカが台湾の主権的地位に関する見解を転換 した主な

原因は,そ の後の台湾海峡における軍事行動に道筋をっけ,国 際法上でアメリカの行動を正当

化す る法的基礎を求め,他 国の内政に干渉 し中国の主権を侵犯することをさけることにあっ

た42)。まさに朝鮮戦争の勃発後,ア メ リカは東 アジア 「封 じ込め」戦略を転換 したことによ

り,も ともとアメリカに捨てられ,間 もなく中共の武力により統一 されるであろうと思われた

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「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

台湾が生 き返 り,ア メ リカのアジアにおける反共前衛基地となっただけでなく,大 陸の統治

権を喪失 した後 も資本主義陣営にとどまり,国 際連合を中心とする国際関係において中華民国

の国号を踏襲 し,「唯一合法」 の代表として中国の正統的地位を確保 しただけでな く,安 全保

障理事会の常任理事国(The Permanent Member of UN Security Council)の 議席 も保持 したの

であった。

(2)戦 後初期の日台 「政経一体」関係の形成と展開

米,ソ 両極の対峙による冷戦という国際的局面の形成とその制約により,国 家主権の地位を

回復 したばか りの日本も当初か らアメリカの東アジア戦略構想の影響を受け,ア メ リカの意向

の下に中国 との戦争状態を終結させ,新 たに二国間外交関係の樹立活動を展開せざるを得な

かった。当時,両 岸 はまさに 「分裂分治」の状態にあり,一 体どちらが 「唯一合法」の交流対

象 として中国を代表するのか,日 本はなすすべはなく,実 効統治範囲が台湾,膨 湖,金 門,馬

祖地区に限 られっっ,し か しアメリカを頂点とする資本主義陣営に承認 され,依 然 として全中

国を合法的に代表する中華民国政府を中国との関係正常化のための政府側の交渉対象 として選

択せざるをえなかった。 しかし心理的には,日 本は確かにそれで満足は しなかった。吉田茂内

閣(1948-1954年)に とっては当時の国際的現実的環境に屈 し,中 華民国と 「政経一体」 の関

係を樹立することは実際には日本の国益と外交政策の戦略構想に必ずしも符合するものではな

かった。 しかるに当時の日本の国際政治の客観的な認識からいえば,吉 田内閣は台湾に撤退 し

た中華民国政府を真に全中国を代表するに足るとはみていなかった。「サンフランシスコ平和

条約」締結の数 ヶ月前である1952年1月26日 に吉田首相 は参議院で岡本愛祐の質問に以下の

ように答えている:

この台湾政府との間に或る條約を結ぶということと,平 和條約にいわゆる中国政府,中 国

を代表 して,そ うして日本と平和條約に入 り込むという,そ の政府とは意味が違つておりま

す。現在台湾政府が或る地域において統治の実権を握つて統治をいた しておる。その事実に

基いて,善 隣の関係から,そ の関係をよくするためにこの條約を結ぶというのであります。

(中略)こ れを以て,こ れらの台湾政府と或る條約に入つたとか,或 いは中共が日本に対す

る態度を改めざる限 りは台湾政府同様の條約に入り込むことができないと申すことは,こ れ

を以て中国との関係が打切られたわけではないのであ ります43)。

後に吉田内閣はやはりアメリカの強大な圧力により,中 華民国と 「日華平和条約」(中華民国

側では 「中日和平条約」 と呼ぶ)を 締結 した。 しかし,吉 田茂は個人的には政治的に,台 湾の中

華民国をもって全中国の代表とすることは事実に合わないと認識 していた。 このような認識の

下に,日 本政府は将来的に中共の日本に対する態度に変化が見 られた際には,中 共と接触,通

商 し,さ らには正式な外交関係を樹立する可能性を排除 しなかった44)。

一 181一

人 文 学 報

さらに,「 サ ンフランシスコ平和条約」 の締結以前において,イ ギリスはすでに中共を正式

に承認 し,ア メリカの中共 「封 じ込め」政策の立場 との間に齪紹が生 じていた。吉田茂はアメ

リカに対 してアメリカの台湾政策に反対 しないことを表明 していたが,英 米両国が可能な限り

政策的立場を一致させ,日 本の外交上の困難を減少させるよう強 く建議 していた。日本政府の

当時の中共に対する政策的立場は,チ ャーチル(Winston Churchill)内 閣の見方に接近 してい

た。また,当 時のイギリスのアジアにおける経済貿易の利益からみれば,日 中関係の発展を促

進することによるメリットは,日 本が新たに大陸市場に進出す ることで,日 本が東南アジアで

イギ リスと競争になり,イ ギ リス製品を排除する圧力を減少させるところにあった45)。逆に日

本にとってみれば,吉 田内閣は日本がもしもイギ リスの対中政策 における利益 と衝突すれば,

イギ リスはスターリングブロック (sterling bloc)の 影響力を使 って,日 本 の東南アジアおよ

びアフリカ地区における貿易を コントロールするであろうことを憂慮 していた。 とりわけ,当

時の日本は多 くのポンドを投機買いし,運 用できていなか ったため,イ ギ リスは確かに 「経常

収支協定」(Current Payments Agreement)に よって日本 とポ ンド圏地域 との貿易を厳格にコ

ントロールする能力を持っていた。この他,吉 田内閣は当初は中ソ関係についてイギリスと近

い見方を しており,将 来的に中ソは双方の矛盾により分裂 し,日 中が連合 してソ連勢力に対抗

するというアジアの国際的政局ができる可能性があるとみていた。 日本政府 は中共がソ連のコ

ントロールか ら分離する際に重要な役割を果たす ことできると考えていた。 これら様々な原因

により,吉 田茂はアメリカが中共とソ連をイデオロギー的に緊密に融合 した集団であるとみな

し,厳 しい 「封 じ込め」 という方法をとることに対 して,当 然賛成 はできなかった46)。明 らか

に外交的には日本はアメリカに同調する 「追随外交」の方針をとったが,当 時の国際情勢の判

断か らアメリカの国家利益とは異なる独 自の見方をしていた。

最後に,戦 前の日中経済貿易関係について述べるならば,1930年 代の中国大陸はすでに日

本国内ではアメリカと朝鮮地域 にっいで第三の輸入相手国であり,同 時に最大の輸出市場でも

あった47)。1940年 か ら1945年 に至っては,日 本の中国大陸市場に対する輸出貿易依存度は平

均では7割 以上に達 していたという事実がある(表2参 照)。っまり,た とえ国際的な政治的要

素による制約のもとで日中双方は情勢により正式な外交的交流の断絶を迫 られ,か っわずかな

量の経済貿易の接触を保持するのみになったとしても,一 衣帯水の隣国である日本にかつて重

要であった大陸市場を放棄させることは実際は困難であった。それゆえ,吉 田内閣は近 くて遠

い中共 と通商貿易上でいかに一定程度の接触を保持するかにっいて,完 全に排除しないという

保留の立場をとっていた。

ここか らもわかるように,当 時の日中双方の貿易量が一貫 して上昇 しなか ったのは,究 極的

には大半 は政治的な障害によるものであった。例えば,1950年12月 にGHQと1952年 に 「コ

コム中国グループ」(CHIN-COM/COCOM)が 中共に対 して禁輸措置を実施 したこと,中 共の

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「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

朝鮮戦争介入およびアメ リカとの敵対,中 共により日本国内で共産党の内乱を引き起こす可能

性があるなどの政治外交的な要素によるものであ り48),日本が経済的な考慮により経済貿易上

で中共 と全面的な通商を行なう必要性を疑問視 したからではなかった。

表2 日本の対中国大陸および対台湾の貿易統計(1940 一 1974) 単位:百万円

対大陸対台湾 対大陸対台湾

年度瀟藻 纏轟翻度謙。激瀦 蝦潔 撫 晶度日罵易日鰹 轟臨 繕論 (%) (%) (%) (%)

1940 1,867.286 425.752 51.08 11.65 755.848 459.287 2L89 13.30 2,623.134 885.039 1,111.438 -33.535

1941 1,659.013 371.8遮2 62.58 14.03 855.406 379.794 29、51 13.10 2,514.419 751.636 803.607 -7.952

1942 1,512.931 337.619 84.40 18.83 1,222.445 419.628 69.79 23.96 2,735.376 757.247 290.486 -82.009

1943 1299.169 291.936 79.83 17.94 1,321.707 292.712 68.68 15.21 2,620.876 584.648 -22.538 -O.776

1944 1,121.770 n,a. 86.41 n. a. 1,707.225 n. a, 87.68 n, a, 2,828.995 n. a. -585.455 n. a.

1945 372 n,a, 95.78 n. a, 854.873 n. a. 8937 n, a, 1,226.873 n. a. -482.873 n, a,

1946 221 1 9.78 0.04 273 30 6.71 0.74 494 31 - 52 -29

正947 761 31 7.5G O.31 182 73 090 0.36 943 104 579 -42

1948 287 5 0.55 0.Ol 1,275 610 2.ll 1.OI l,562 615 -988 -605

1949 928 2,143 0.55 1.26 5,587 8,933 1.96 3,14 6,515 11,076 -4,659 -6,790

1950 7,068 13,684 2.37 4.59 14,158 12,894 4.07 3.70 21,226 26,578 -7,090 790

1951 2ρ98 18,216 0.43 3.73 7,778 19,089 1.06 2.59 9,876 37,305 -5,680 -873

1953 1,634 21,948 0.36 4.78 10,692 23,054 1.23 2.66 12,326 45,002 -9,058 -1,106

1954 6,875 23,737 1.17 4.05 14,677 20,552 1.70 2.38 21,552 44,289 -7,802 3,185

1955 10,277 22,978 L42 3.17 29,080 29,116 3.27 3.27 39,357 52,094 -18,803 -6,138

1957 21,774 30,339 2.12 2.95 28,974 24,212 1.88 1.57 50,748 54,551 -7,200 6,127

1958 18,216 32,414 0.18 0.31 19,594 27,231 1.79 2.49 37,810 59,645 -1,378 5,183

1959 1,313 31,265 0.11 2.51 6,810 25,757 0.53 1.99 8,123 57,022 -5,497 5,508':1鰯

…i・…・細 …i-i3購5…";,1,1:翻i111・1朧;:'、、、:;宝識 ・::・・:・i顯自a・-tt;・㈱ ・・…1・慈王………・1・8趨・:…・、:,1i購673'旧:目'11鵠'鵬ぎ1∵,111"'1言翻 ∴/

1961 5,990 34,676 0.39 2.27 11,122 24,389 0.53 1.17 17,112 59,065 -5,132 10,287

1962 13,846 42,687 0.78 241 16,567 22,095 0.82 1.09 30,413 64,782 -2,721 20,592

:鰯 脚 葺轍 …=t: 91聯 ∵:;:,:.、、、3・22、、、:,,2161、・・蝋 琴鰻_,礁 鰹 、、;、_1・3c22'・・…輔 唇…黙 ㈱1嚢… 職 騨=・ …//t:;:、:・…暴講 一 ・・38細 …∵

1967 103,786 118,136 2.76 3.14 96,998 49,352 2.31 1.18 200,784 167,488 6,788 68,784

1968 117,158 169,785 2.51 3.64 80,707 54,260 1.84 1.24 197β65 224,045 36 ,451 115,525

1969 140,689 2正8,289 2.44 3.79 84,434 64,986 L56 1.20 225,123 283,275 56,255 153,303

1970 204,796 252,150 2.94 3.63 91,375 90,276 L34 1.33 296,171 342,426 113,421 161β74

1971 201,875 322,692 2.41 3.84 112,683 100,567 1.63 1.46 314,558 423,259 89 ,192 222,125

1973 282,895 446,037 2.82 4.45 263,758 241,090 2.54 2.32 546,653 687,127 19 ,137 204,947

1974 580,522 583,833 3.58 3.60 380,573 277,389 2,11 1.53 961,G95 861 ,222 199,949 306,444

註:1.n. a.(not available)は 第 一 次 資 料 な しを 表 す 。

2.網 掛 け部 分 は 当 該 年 に 日台 お よ び 日中 関係 に お いて,重 大 な 外 交 ま た は経 済 事 件 が 発 生 した こ と を表 す 。

3.本 表 は筆 者 が 日本 の政 府 側 で 公布 さ れ て い る資 料 の計 量 単 位 を 「百 万 円 」 に統 一 して 換 算 し作 成 した。

出 典:統 計 委 員 会 事 務 局,総 理 府統 計 局,総 務 省 統 計 局,統 計 研 修 所 編,『 日本 統計 年 鑑」 各 期(東 京 都:日 本 統 計 協 会,

1950-1971年);日 本 統 計 協 会 編 総 務 庁 統 計 局 監 修,『 日本 長 期 統 計 総 覧(第3巻)」(東 京 都:日 本 統 計 協 会,

1988年),p77,80に よ る 作成 。

-183一

人 文 学 報

当時の激 しく対立 した国際政治の環境により日本が台湾に対 して 「政経一体」を維持 し,中

国に対 しては 「政経断絶」の関係を維持することを要求 しても,そ れは実際には日本の国益 と

は合わず,日 本 も従 うっ もりはなか った。 しか し最後に,ア メ リカが特別 にダ レス(John

Foster Dulles)を 日本に派遣 し圧力をかけ,日 本と中華民国間の平和条約に変化が生 じるな ら

ば,ア メ リカ上院の 「サンフランシスコ平和条約」の批准に影響が出るとの立場を説明すると,

吉田茂は情勢に迫 られ1951年12月24日 にアメ リカに対 して 「吉田書簡」 を発表 した。 その

中で日本政府はアメ リカの台湾政策に追随し,中 共と二国間条約を締結せず,さ らに中華民国

との平和条約締結および国交樹立を保証すると言明 した49)。アメ リカ国務省が1977年 に出版

した 『アメリカ外交関係文書一1951年 』(Foreign Relations o∫伽United States,1951)の 「ア

ジア太平洋編」 の記述によれば,「 吉田書簡」 は事実上は先にアメ リカ側で ダレスが草案を完

成させた後,吉 田茂首相が署名 して提出させた文書であることが明らかになっている。日本側

は 「吉田書簡」は一般条約上の法的拘束力があるとはしていないが,こ のような過程からみて,

戦後初期の日台外交において 「政経一体」関係が新たに始まったのは,大 部分はアメリカ政府

の世界戦略構想上の必要性から,日 本に圧力をかけたという外交的情勢によるものであった50)。

4.「 政経分離」対 「政経一体」の下 での 日本 と両岸 関係

(1) 日台の 「不完全な政経一体」関係の形成と変化(1952-71)

吉田茂は 「吉田書簡」の中でアメ リカに対 して日本 と中華民国政府が 「全面的な政治的平和

および経済関係」 を展開することを保証 したあと51),1952年2月20日 から日台双方の代表が

数ヶ月の交渉を経て,4月28日 の 「サンフランシスコ平和条約」 の発効当日に同時に台北に

て 「日華平和条約」(「中日和平条約」)の正式な締結 と交換公文が完成 した。条約において 日台

双方は政治的に両国の戦争状態の終結を宣言 し(第1条),正 式な外交関係を樹立する以外に,

経済貿易関係を進展させる上で双方の友好協力 と互恵の希望を強調 し(第6条 第2項),同 時に

両国が迅速に貿易,運 輸およびその他の経済関係に関する条約および協定の作成が必要である

ことを主張 した(第7条)52)。

実は日本が正式に主権的地位を回復する以前に,中 華民国政府は台 日双方の貿易を拡大 し高

いレベルでの経済貿易関係を維持す るために,1950年9月6日 にGHQと 「台湾 と占領下 日

本との貿易に関する協定」および 「財物協定」を締結 し,さ らに 「台 日貿易計画」を作成 し,

台日貿易を行なう根拠 とした。 これは単なるバーター取引(barter trade)と いう性格を持つ協

定にすぎず,1950年7月1日 か ら1951年6月30日 までの規定 された1年 間において,双 方

が交換で きる物とサービスの固定総額はそれぞれわずか5000万 ドルであった。 しか し,当 該

の協定が満期になる前に,GHQは 中華民国政府に対 して現計画を新計画が策定され るまで無

一184一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

期限で延長することを建議 し,協 定の満期によって生 じる問題にっいては双方の貿易上の需要

を満たそ うとした。1951年 末にGHQは 再度元の計画を台 日が 「日華貿易協定」を改正 し拡

大させる基礎 とするよう建議 した。 これに伴い日台の双方の代表は1952年1月16日 に東京で

会談 し,双 方の貿易事務上における見方の相違の刷り合わせを行 った53)。ここからもわかるよ

うに,戦 後初期のアメ リカは日台の 「政経一体」関係の再構築にっいて,日 台の外交関係の再

構築に積極的な指導と消極的な牽制の役割を果たしただけでな く,日 台の経済貿易関係におけ

る政府側の枠組みについて相当深 く配慮 していた。

1952年 に日台双方が政治外交関係を構築 したあと,双 方はさらに経済貿易交流を進めるた

めに交渉を行なった。1953年6月13日 に中華民国政府 は駐 日大使の董顯光を派遣 し,日 本政

府に対 して 「中日貿易弁法」 と 「中日貿易計画」を提出 し,日 本側は奥村勝蔵を代表とし,同

日署名 し発効 した54)。ここに至 って日台双方は政治および経済関係において官製による貿易枠

組みをさらに完成させた。 しか し,表2の 統計資料からもわかるように,日 台双方が経済貿易

交流に関す る政府側の枠組みを確立する以前においても,「 日台」 貿易は第二次大戦終結直後

の1946年 か ら途切れることがなかったばかりか,貿 易総額 は毎年増大するという発展趨勢 に

あった。特に1950年 にGHQが 中華民国政府 との間に両国間貿易の制度 を整備 してか ら,日

台貿易 の総額 は1949年 の110億7600万 円か ら,翌 年 には265億7800万 円 に倍増 し,か っ

1946年 から1955年 の10年 間に,日 本の対台湾貿易残額(trade surplus)は ほとんど輸入超過

状態にあ り(表2参 照),表3の 台湾の対 日貿易統計 の結果か らみれば,台 湾の輸出貿易は

1960年 以前において,日 本の国内市場に対する依存度 は日本の台湾国内市場に対す る依存度

よりも高かった(表3参 照)。

戦後初期の台日間の非対称な貿易依存関係は,戦 前 に日本が台湾島内に残 していった植民地

型経済発展形態および構造によるものである。当時の台湾地区は50年 の日本の植民地統治を

経て(1895-1945),日 本の国内経済お よび軍事需要に高度 に適応 した植民地依存(colonial

dependency)体 制になっていた。当初か ら日本の植民地 当局は台 日経済依存関係 にっいて,

「農業台湾,工 業日本」 という経済構造のもとで,台 湾の農業発展により日本の食糧および原

料の需要を満たす ことを確立することを台湾経済発展の目標としていた。それゆえ,台 湾は砂

糖,米 などの各種一次産品を日本および海外植民地に供給 し,日 本の工業製品と引き換えるこ

とで,こ の 「垂直分業」のモデルが日台両地域における貿易活動の発展の基礎 となった55)。

戦後台湾は日本の植民地統治から離脱 した。中華民国政府は内戦に敗れ台湾に撤退 し,大 が

か りな改革を行な う力はなかったことから,政 治,経 済および社会をコントロールする上で日

本統治時代に体制をほぼ踏襲 した56)。島内の社会および政治的コントロール以外に,日 本人の

在台資産を大量 に接収 した中華民国政府は間 もなく経済的にも当時の台湾において重要な工業

資産の最大の所有者となった。1946年 から1959年 にかけて,台 湾経済は 「輸入代替」工業化

一185

人 文 学 報

表3 1952-1972年 台湾対日貿易統計 単位:1000元(新 台湾元)

注:表 中の網掛け部分は日台関係において重大な外交あるいは経済事件が発生 した年を表す。

出典:Stαtistical Yearboole of the Republic of China,1975, pp.138-145,李 恩民,《転換期の中国 ・日本と台湾:一 九

七〇年代中日民間経済外交の経緯》(東京都:御 茶の水書房,2001年),p250か ら引用。

(lmport Substitution Industrialization, ISI)の 段 階 に あ り57),量 お よ び 規 模 が 小 さな輸 出 貿 易 市

場 に お い て,大 部 分 の 国 営 機 構 は過 去 の 日本 の 資産 家 が 台 日貿 易 に お い て 独 占 した供 給 業 者 と

して の地 位 を 獲 得 し,台 湾 の一 次産 品(主 に米,砂 糖,塩)を 日本 に対 して輸 出す る国 内市 場 を

請 け 負 った 。 この た め,国 営 企 業 が 当 然 戦 後初 期 に 台湾 が過 去 の 台 日 「需 給 一相 互 依 存 」 シ ス

テム を 踏襲 す る際 の輸 出貿 易 の主 力 とな った58)。

1967年 以 前 に お い て,日 本 は一貫 して 台 湾 の 最 大 の 貿 易 輸 出 国 で あ り59),国 営 機 構 の一 次

産 品 輸 出 を 主 とす る台 日経 済 貿 易 関 係 にお いて,政 府 側 の 貿 易 は当 時 の 政 府 が 台 日貿 易 を 推 進

す る カ ギ と な っ た。 日 台 の 経 済 貿 易 問 題 に っ いて,前 述 の 貿 易 依 存 度 の 不 均 衡 以 外 に,1954

年 か ら1961年 の 間,日 台 双 方 は毎 年 年度 貿 易 計 画 を提 出 す る中 で,双 方 の 貿 易 製 品 の種 類 の

差 異 が 明 らか に な った こ とは,日 台 経 済 関 係 形 態 の 差異 お よ び両 国 の工 業 化 水 準 の差 異 な ど構

造 的 な落 差 が あ る とい う経 済 的 現実 を反 映 した もの で あ っ た。 当時 の 日台 の政 府 側 代 表 が 提 出

した 毎 年 の二 国 間 貿 易 計 画 か ら見 れ ば,台 湾 か ら日本 に輸 出 さ れ る主 な 製 品 は砂 糖,米,塩,

石 炭,バ ナ ナ,パ イ ナ ップ ル な ど各 種 の一 次 産 品 で あ った 。 相 対 的 に 日本 か ら台 湾 に 輸 出 され

る製 品 は機 械 お よ び車 両 部 品,鉄 製 品,肥 料 お よ び紡 織 品 な ど,付 加 価 値 の相 対 的 に 高 い生 産

一186一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

機具および加工製 品を主 としていた。その後の統計か らわか った ことと して,1956年 か ら

1970年 までの間に日本が台湾に輸出していた製品の中で,機 械機器類の一項だけで日本の対

台湾貿易における総輸出の48%を 占めていた6。)。ここからもわか るように,日 台産業分業構

造は双方の経済貿易関係を決定づけた根本的原因であった。

「輸入代替」 工業化の段階において台湾の国内市場 の規模は比較的小さく,限 界があったた

め,日 本の海外輸出市場の需要を開拓 した。同時に日台間は植民地時期からの経済貿易依存関

係があ り,双 方の工業化水準の差により台湾の日本市場および工業製品に対する需要 は日本の

台湾市場およびその一次産品に対する需要に遠 くおよぼなか った。

輸出市場規模および輸出製品の需要において日本のほうが多いという状況のもとで,中 華民

国政府は日本 に対 して対台湾 「政経一体」の維持を,対 中共 「政経断絶」関係の堅持を迫り,

当然その他の 「非経済的誘因」は考慮 しなかった。ましてや当時の中華民国政府は国際政治に

おいて重大な挑戦を受けており,そ の最たるものは国際連合において 「唯一合法」に中国を代

表するという正統的地位を維持することであった。それゆえ,い かにアメリカの中華民国支持

を獲得 し,ア メリカを通 して日本の台湾政策に影響を与えるのかが,日 本の台湾外交に根本的

な変化をもたらさないようにするために重要であった61)。そのためアメリカの東アジア戦略構

想により日本に圧力をかけるということが,中 華民国の対日外交 にとって重点となった。

1950年 以降,日 本の経済復興は朝鮮戦争の特需景気によって加速 され,間 もなく戦前の生

産水準を回復 した。 日本はさらに経済成長を追求するため,不 断に海外に市場を求めなければ

ならなかった。 日本では中共 との貿易を拡大 し,国 内の経済的圧力を緩和するために,「 政治

台湾,経 済大陸」の声が次第に高まっていた62)。日台の 「政経一体」関係は日本が対中経済貿

易交流を強化する圧力のもとで,新 しい衝撃に直面 し始めた。

1952年6月1日,日 中は吉田内閣の時代に 「第一次日中貿易協定」(中 国側では 「中日貿易協

議」)を 締結 した。 この協定により日台関係は 「政経一体」 か ら正式に 「不完全な政経一体」

に,日 中関係は正式 に 「政経分離」に転換する起点となった。 これ以前の1950年12月9日 か

ら1952年6月1日 までの日台関係は 「政経一体」モデルであ り,日 中関係 は 「政経断絶」63)

モデルか ら 「政経分離」 モデルに転換 した。吉田首相は任期中に両岸関係を 「政経分離」(政

治台湾,経 済大陸)と 定めたが,そ れは単に政治的言説にとどまるものではなかった。純粋に学

術研究の観点からみれば,こ の時期の日本の両岸外交関係は 「政経一体」と 「政経断絶」とい

う外交の基本枠組みか ら離脱 し,そ れぞれが 「政経一体」 と 「政経断絶」 の基本モデルから

「不完全な政経一体」 と 「政経分離」の外交的枠組みに転換 した。

五次にわたって組閣 した吉田茂内閣(1946年5月 一1954年12月)の 間に存在 した片山哲内閣

(1947年5月 一1948年2月)お よび芦田均内閣(1948年3月 一10月)は 共に短命内閣であった。

片山哲は社会党出身の政権であり,芦 田均は民主党であった。両者は共に国会で過半数の議席

187一

人 文 学 報

を持たないという制約を受け,そ れぞれ政治的見解の異なる保守派あるいは革新派 と連立内閣

を組閣 し,保 守 と革新が連立 し,か っ衝突する政府を形成せざるを得なかった。一方では執政

時期は非常に短 く,他 方ではGHQの 占領政策の指導の もとで前任者を踏襲す るのみで,対 両

岸の新政策を出すこともできず,片 山内閣および芦田内閣は終わりを告げた。

1951年 に鳩山一郎は 「公職追放令」 の解除により政界に復帰 した。1954年 に鳩山は日本民

主党を再度結成 し,自 由党に対抗 しようとした。 同年12月 には国会議員選挙で勝利 し,党 首

として吉田茂に代わり首相となった。 鳩山首相は 「政治台湾,経 済大陸」 という政治経済の

ムー ドの中で 日本 はソ連および中共 と交流することを公然 と表明 し,「国民政府 も中共 も共に

独立国家」 として,「2っ の中国」 という政策主張を提起 した。 当時の日本の外務大臣であっ

た重光葵は衆議院議員の佐々木盛雄(民 主党)お よび福田篤泰(自 由党)の 質問に答え,日 本は

もともとの 「中華民国を中国の正統とする」 と承認 した立場を変えるための準備 はしていない

が,依 然として日本と講和 していない中共およびソ連に対 しては早急に平和的関係を樹立する

必要があるとしていた。この他にも重光葵は国際的義務に違反 しない範囲内で,日 本は日中の

貿易関係を推進 していくことを述べた64)。

ここに至 ってアメ リカの戦後初期の東アジア戦略構想は日台の 「政経一体」および日中の

「政経断絶」 という基本的枠組みのもとで,前 首相の吉田茂の任期内に提起された 「政経分離」

の外交構想を経て,さ らに日本からの挑戦を受 けることとなった。1955年1月20日 に鳩山一

郎は駐日大使の董顯光 と会見 し,「日本は先に交通および貿易か ら着手 し」,そ の後にソ連およ

び中共と国交を回復するという新政策を表明 した65)。日中および日ソ国交回復という新政策構

想は,中 華民国の国際関係およびアメリカの世界戦略構想に予期 しない衝撃を与えた。その後

の1955年4月 に日本の首席代表 としてインドネシアのバ ンドンで開かれた 「アジア ・アフ リ

カ会議」に出席 した高碕達之助は,開 会期間に直接国務院総理兼外交部長の周恩来に会見 し,

周か ら日本との間で双方で恒久的な経済代表団を派遣 し,か っ正常な外交関係を樹立 したいと

いう前向きな反応を得た66)。1955年11Eに 自由党 と民主党は合併 し自民党 となり,鳩 山一郎

は総裁になった。1956年10月 に鳩山首相はモスクワを訪問 し,「 日ソ共同宣言」 を締結 して

国交を回復 し,国 連にも加盟 した。12月 に退任すると日中貿易の拡大と 「日ソ平和条約」 の

締結を主張する石橋湛山が後を継いだ。

鳩山内閣の時期に日中関係の発展は,ア メリカの当初の戦略設計から離脱 し始めた。当初ア

メリカ政府が構想 した日中関係 は 「政経断絶」モデルであったが,日 本景気の長期にわたる順

調な拡大により,日 中関係 は過去の 「政経断絶」モデルか ら 「不完全な政経分離」モデルへと

転換 し,ア イゼンハワー政権(Eisenhower Administration,1953・一・1961)の中 ソ封 じ込め政策と

抵触する可能性 も出てきた。1956年3月18日 にアメリカ政府は国務長官の ダレスを日本に派

遣 し,鳩 山一郎首相および重光葵外相 と会談させ,日 本政府の対中政策の動向にっいて重大な

一188一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

関心を示 した。 その中でダレスは 「鉄のカーテン」(The Iron Curtain)の 戦略構想に基づ き,

日本と中共の貿易推進に明確に反対する立場を表明した。特に日中間の戦略物資に関する交易

に対 して,非 戦略物資の貿易に関す る部分についてもアメリカ政府は各項目にっいて日本との

交渉を希望 した67)。

アメリカの反対以外にも,当 時の中華民国は国連において中国を代表する 「唯一合法」の政

府であり,特 に安全保障理事会の常任理事国で拒否権(veto power)を もっという地位にあり,

それが鳩山内閣の台湾政策 に対する牽制力となっていた。鳩山内閣は 「自主外交」により吉田

内閣の 「向米一辺倒」 の外交路線を修正 しようとしたが68),米 台双方の圧力により日台関係の

基本的枠組みは直ちに 「政経一体」から 「政経分離」へ発展することはなかった。

日中の経済貿易関係が明文化 されたのは1952年 で,そ れは政府側が締結 した協定ではな

かったが,政 府側が黙認 して締結 した民間協定であることは明らかであった69)。日本が中共と

「第一次 日中貿易協定」 を締結 した際に,日 台関係は 「政経一体」 の主類型から正式に 「不完

全な政経一体」 というサブ類型の時代に入 った。 厳格にいえば1952年 に日本が主権を回復 し

て独立すると同時に,台 湾 に対 しては 「不完全な政経一体」,中 国に対 しては 「政経分離」の

政策を維持することで台湾および中国との関係を運営する準備を始めていた。その後,鳩 山路

線にかわった石橋湛山内閣(1956年12月 一 1957年2月)は 短い任期の中で,鳩 山内閣時期 と同

様の外交路線を継承 し,日 本と海峡両岸政権間 との政経相互作用関係を個別に処理 した。 これ

は日本の政権党が公然 と親米路線を修正 し,「親中疏台」政策を主張した始 まりであった。

1957年2月25日 に石橋内閣の外相だった岸信介が組閣したが,こ の時の日本国内の経済成

長は鳩山,石 橋内閣時期の 「神武景気」(1955年 一 1957年)を 経て,大 量の工業技術の導入お

よび革新によって民間に設備投資のブームが生まれ,1959年 から1970年 までの2桁 の高度経

済成長期に突入する序幕 となっていた(図3参 照)70)。日本国内では対外経済貿易関係を開拓す

る新経済 ブームがおき,政 府の対外経済関係発展に対 して,民 間の側 も自由主義国家 と貿易を

拡大するだけでな く,共 産主義国家 との貿易の機会も放棄せず,日 本の経済貿易政策が東西両

陣営の対峙の中で国際的な間隙を突いていくように主張 した。政治外交関係において民間の意

見の主流 としては,日 本が自由主義陣営にとどまり続けることと国連決議に従 うことを支持 し

ていたが,中 国問題の処理 にっいては日本は 「2つの中国」の立場をとり,中 華民国と外交関

係を維持するだけでな く,中 共 とも関係を樹立すべきであるとした71)。この時の経済問題は政

治的動向に対 して重大な力を持っていた。

このような主流の見方の影響を受 け,日 本社会 は与党の自民党あるいは社会党などの野党が

日中貿易関係の展開による 「日中打開論」を社会の支持を獲得する重要政策課題 とせざるを得

ないように導いた。当時の日本の政界では,貿 易問題を解決 し中共の門を開けた人物が首相な

れるという見方が流行 した72)。反共親台の岸信介ですら例外ではなかった。岸内閣は就任当初

一189一

人 文 学 報

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西元年

出所:日本統計協会編 総務庁統計局監修,r日本長期統計総覧(第3巻)』, P 409

図3 1946-1972年 日本の経済成長率の変化

は一方では南アジアや東南アジァ(1957年5月)お よび台湾(1957年6月2日 一4日)な ど資本

主義陣営を訪問 し,日 本の政治的な反共的姿勢を明示 し,資 本主義陣営の国家,と りわけアメ

リカの支持を取りつけようとしたが,他 方では中共に対する禁輸措置を徐々に緩和 し73),1958

年には中共と 「第四次 日中貿易協定」(中 国側では 「第四次中日貿易協定」)を 締結するなどの両

面手法を用いた。すなわち,岸 内閣は当時は日本社会の主流意見を反映 し,日 本の対台湾 「不

完全な政経一体」,対 中国 「政経分離」の外交枠組みを推進することで,日 中貿易のパイプを

通そうとしたのであった。

1959年3月 に社会党幹事長の浅沼稲次郎が訪中時に 「日米安保条約」の破棄とアメリカの

日本,沖 縄,台 湾か らの撤退,日 本の中共承認 と中共の国連加盟の支持など,明 確な 「親中ソ,

排米台」を表明 し,日 中関係を 「政経分離」から 「政経一体」の枠組みに発展させる政治的主

張を展開 した。岸内閣は日中貿易関係の展開の必要性にっいては堅持 していたが,社 会党の主

張に対 しては強 く批判 し,反 対の立場をとった74)。岸内閣は台湾政策の立場か らみて,日 本政

府は中華民国政府の望むように中共と 「政経断絶」関係を保持 していないが,中 共あるいは社

会党の要求に従い中共 との 「政経分離」関係を 「政経一体」モデルに転換させることはなかっ

た。

当時の岸内閣は政治的あるいは軍事的にアメリカの支持を得るために,「 日米安保条約」 の

改定作業を推進 した。それゆえ,軽 々に中共と 「政経一体」関係になることはアメ リカの岸内

閣に対す る支持を失 う可能性 もあった。 しか し経済面からみれば,岸 内閣は日本は一方ではア

メリカの支持を確保 し続ける必要がある以外にも,他 方では資本主義世界以外にも国内の輸出

貿易の市場を拡大する必要があり,中 華民国政府の頻繁な日本に対する自由主義世界のみと貿

易すべきという要求は,当 時の日本国内の対外貿易市場開拓という主流の民意 と異なるもので

190一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

あ った。それゆえ,日 本は当然中華民国政府の要求を受 け入れることはできなかった。

1959年4月4日 にアメ リカのアイゼ ンハワー大統領 はゲティスバーグ大学(Gettysburg

College)で 講演 し,「 自由主義世界は日本に対 して貿易の販路を提供 し,日 本が共産主義勢力

と貿易するのを阻止 し,か っアメリカは関税障壁を緩和 し,日 本製品を受け入れ,原 料を供給

し,日 本が自由主義世界の中で発展する機会を得 られるようにする」と呼びかけ,岸 内閣時期

においてアメリカが日本の経済貿易の発展を支持する態度を表明 した75)。しか し,ア メリカと

中華民国政府 は日本の共産圏との貿易に対 しては依然反対 した。このような情勢のもとで日本

の対外政経 目標は外部要素の制約か ら困難を生 じ,最 終的に岸内閣は政治外交関係においてア

メ リカに従 い,ア メリカの世界戦略と一致する選択をせざるを得な くなった。1960年1月 に

岸内閣は新 たにアメ リカと 「日米相互協力および安全保障条約」(Treaty of Mutuα1 CooPeration

αnd Security between fαpαn and the United States of A mericα,「新日米安保条約」ともいう)を 締結

した。

岸信介による日米安保条約改訂の強行は日本の反戦,反 核,反 ファシズム運動の高潮を生 じ

させ,日 本において空前の 「安保闘争」 という大衆運動が起 こった。7月15日 に岸内閣は総

辞職せざるを得な くなった。 しか し新たに改訂された 「日米安保条約」によれば,日 米は相互

協力の前提のもとで,日 本は日米の義務が対等であるという形態をとり,双 方の緊密な関係の

維持を継続することになっていた。岸内閣時代の日本外交は過去の鳩山派のような親中かっ対

米 自主路線から,吉 田派のような親米かっアメリカとの政策的一致を追求する立場へと回帰 し

たが,経 済貿易政策においては対中国 「政経分離」という政策的自主性を失わなかっただけで

な く,一 定程度においてそれまでの日本はアメリカに従属 しているという国際的なイメージを

改善 し,1956年 の国連加盟後において自身の国際的地位を向上させる機会を獲得 した76)。

岸内閣が下野 したあと,日 本の経済発展はその後3年 余 り続いた 「岩戸景気」の中で,第 二

次民間設備投資の ブームが起こった。1960年 か ら自民党は一連の経済発展政策 により有権者

の支持獲得の拡大に成功 した。対 して野党の社会党はその発展路線が改憲や 「日米安保条約」

などの問題に終始 し,日 本の左派勢力の票田開拓および発展 に限界があった。自民党がその後

38年 の長期にわたり政権維持が可能になったのは,こ の時期に作 り上げた磐石の基盤による

ものである。

1960年7月 に 「吉田学校」 出身で,大 蔵省の財政官僚であった池田勇人が首相になった。

12月27日 に彼 は 「所得倍増計画」を提起 し,10年 以内に日本の国民所得を倍増させることを

宣言 した。 その後池田内閣はさらに 「5ヵ年経済復興計画」(1961年 一1966年)を 提出 し,日

本の以後5年 の経済成長率を7.2%の 高水準に設定し,3か 月後には輸出貿易の急成長により,

経済成長 目標を9%に 調整 した。その後数年の間に日本政府は東京と名古屋間の高速道路や新

幹線,お よび東京,大 阪,名 古屋の地下鉄拡充計画などを相次いで提出した。1964年 には東

一191

人 文 学 報

京オ リンピックが開催され,池 田内閣の企図 した一連の経済発展計画によって戦後徐 々に自信

を回復 しつつあった日本が,瞬 く間に世界の経済大国に上昇 しっっあることが明 らかになっ

た77)Q

この時台湾の経済発展はまさに転換期 にあった。第二次大戦後,中 華民国政府が推進 してき

た 「輸入代替工業化」政策は1950年 代末に至って,台 湾島内の市場規模が小さいことにより

間もな く飽和状態になり,経 済成長 は停滞 しつつあった。困難を打破するため,ア メ リカ国際

協力局の台湾支部(U.S. ICA China Mission in Taiwan)は 中華民国政府に対 して経済改革を行

なうよう強い圧力をかけた。1960年 に中華民国政府は前年の台湾支部による9項 目の建議に

より,「19条 経済財政改革措置」を公布 し,政 府の市場に対するコントロールを緩和 し,対 外

輸出を推進する貿易政策により,台 湾の経済体質を過去の 「輸入代替」の段階から 「輸出主導

工業化」(Export-oriented Industrialization, EOI)に よる発展に転換させようとした78)。

10年 の発展を経て,台 湾の経済形態は公営企業を主 とし,国 家が対 日輸出市場を独 占する

国家資本主義(state capitalism)経 済システムから,後 に民間部門を主 とし,主 要な輸出市場

も日本からアメリカに変化 した輸出主導(export-led)の 経済体制 に転換 した。1960年 代半ば

には台湾はアメリカの援助と日本市場への依存か ら徐々に離れっっある段階にあったものの,

貿易および技術発展において全体的な経済は独立自主の段階にはな く,逆 に日本の設備機器お

よび工業製品に対する依存は貿易が全体の経済活動における割合が上昇するにつれて高まって

いった79)。

このような現象に関 しては表3の 統計の数値から手がか りがっかめる。1960年 に台湾経済

が 「輸出主導工業化」の時期に入った頃には対 日輸出貿易の依存度 は徐々に低下 していたが,

対 日輸入貿易の依存度 に関 しては,1963年 から1964年 の間に中華民国が日本に対 して報復措

置をとって29.66%下 落するという政治的障害を除 くと,1972年 の日台断交に至 るまで,台 湾

の対 日輸入貿易依存度は終始上昇の趨勢にあった。1967年 にアメ リカが 日本 に代わり台湾の

主要輸出国になった後で も,台 湾の日本経済に対する依存は変わらなかった。唯一異なる点は

かっての日台間の経済貿易形態が 「植民地依存 システム」の延長のもとで,輸 出市場,貿 易,

技術および資金において日本に対する依存が深まったことである。 しか し1960年 代以降,日

台両国においてアメリカ市場に依存する 「太平洋貿易三角形」(Pacific Trade Triangle)の 現象

が生 じ,台 湾の対外貿易は長期にわたる 「対 日輸入超過,対 米輸出超過」の構造の中で,徐 々

に日本の対米貿易 における中継点に転換 しっっあった8。)。言い換えれば,植 民地時期以降の台

湾経済は日本の 「雁行型経済体制論」(the Flying-geese Theory)の 国際経済戦略のもとで,台

湾は完全 に日本の雁行型経済体制の一環 として組み込まれ,自 ら抜 け出すのは困難 な状況に

あった。

さらに分析するな らば,か つて台湾は日本 と歴史的に緊密な関係にあ り,地 理的にも隣接 し

一192一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

ていることから,中 華民国政府が外資の導入を開放するのであれば,台 湾貿易において主力と

なっていた日本 の商社や日台で技術協力を行なっていたメーカー,資 金協力を行なっていた関

係企業が 日本から設備機器 と工業原料を輸入 し,ア メ リカでの販売を目的とする製品を生産す

ることになった。この新 しい 「太平洋貿易三角形」において,台 湾は依然として日本に対する

貿易依存から脱却できなかったが81),表2の 日本の対台湾輸出依存度の変化か らもわかるよう

に,1960年 か ら1974年 までの問に,日 本の対台湾輸出依存度は高い状態を一貫 して維持 して

お り,か っ,長 い期間において対中貿易輸出依存度よりも高かった。この事実は明 らかに一っ

の客観的な情報 を反映 している。すなわち,も しも日中貿易の長期的な利益がその後の日本の

対外貿易の成長にとって不可欠であり,重 要な発展要因であるならば,日 台経済貿易の重要性

も同様の長期的利益を有 している以外にも,当 時の日,中,台 三方の貿易量か ら判断すれば,

疑いなく日台貿易は日中貿易よりもより多い短期的利益を有 していたといえる。

当時の中華民国外交部の判断によれば,池 田内閣はいかにして対外の長期,短 期的経済利益

を同時に配慮するかを考察する前提のもとに,日 本とアメ リカ,カ ナダ,西 欧およびその他途

上国との経済貿易交流の維持を決定 した以外に,日 本の貿易対象を共産圏(中 共,ソ 連および東

欧各国)に 拡大 し,岸 内閣時期以来の 「経済外交」の理念を深化させることを希望 していた82)。

この政策 目標を貫徹するため,池 田内閣は対中貿易を処理する上で依然 として従来のいわゆる

「政経分離」 の原則を維持 し,日 本は正式な政府側の外交関係におよばないという前提のもと

で,中 共と各種の経済貿易交流活動を拡大させることを強調 した。池田内閣は日中双方の交流

を政治外交におよばないという条件のもとで,双 方の経済貿易の接触を拡大させようとしてい

たが,こ のような方法はその後の中華民国政府の反発と干渉を引き起 こした。

岸信介が総理の期間に,日 中はすでに 「第四次日中貿易協定」を締結 していたが,そ の中に

「双方は相手国に常駐する民間通商代表機関を設置し,… それぞれ本国政府の同意により,相

手方の通商代表機関および所属人員に安全の保証と活動の利便を供与する」 とあり83),非常に

政治的性質を持 った協定であった。1962年11月9日 には日中双方の代表である高碕達之助 と

屡承志が北京で 「日中両国の民間貿易 における覚書 および第一次協定事項」(いわゆるrL-T

(Liao-Takasaki,慶 承志一高碕)貿 易覚書」)を締結 した。 翌年8月23日 には日本政府は国家輸

出入銀行の担保 により,分 割支払いの方式で倉敷紡績会社がビニロンの工場設備を中共に輸出

することを許可 した。 この事例からわかるように,日 中貿易は しば しば政治にも波及 し,あ る

いは民間貿易の名を借 りて実際は政府間で交易が行われるという状況の もとで84),日 中双方の

「政経分離」 関係は 「外交は外交,貿 易は貿易」 という単純な原則によるものでなくなりつっ

あるのは明 らかであった。 「政経分離」 とは中国が 「2っ に分裂」 し,か っ 「相互に排斥」す

る中で,最 高の政経利益を獲得するために,日 本が相互に排斥 しあう両岸に対 して,同 時に個

別の交流方式を通 して 「まとまったものをばらば らにする」(「一中」を 「両岸」にする)方 法に

一193一

人 文 学 報

より,「 ばらば らなものをまとめる」(「両岸」を 「一中」にする)と いうもともとの利益を達成

し,台 湾海峡両岸 において二重の勝利の効果を獲得するものであった。 日本が 「政経分離」政

策を 「不完全な政経分離」の方向に傾斜 させた時,一 方ではある程度において北京の 「政経不

可分」の部分的要求を満足 させ,他 方では大陸市場を開拓するという政経目的を達成 し,さ ら

に台北の政経利益を依然 として維持することができた。

本稿の図2で 日台と日中の政経関係,特 に概念上においてモデル転換の分析枠組み図を整理

したが,上 述の事例に照 らし合わせると,多 くの状況下において日本政府のいわゆる 「政経分

離」 原則は,事 実上は 「政治」 と 「経済」 の明らかな分離ではなか った。 帰納的にいえば,

「政治的名分」 のない 「非公式」 な政治的枠組みのもとで,双 方の実質的な政経関係を発展さ

せる一種の便宜的な措置であった。いいかえれば,本 稿のいわゆる 「不完全な政経分離」 に帰

することのできる関係 とは,そ の作用は 「政治」と 「経済」の関係をはっきりと区別するもの

ではなかった。む しろ 「政治的名分」を欠 く 「非公式」な枠組みのもとで,双 方の実質的な政

経関係のために提供 された対応 メカニズムであった。日中間において正式な外交関係はなかっ

たが,「 不完全な政経分離」 の関係により,経 済貿易議題において終始 「政治」 的要素の干渉

から完全に分離 されることはな く,さ らに 「政治的名分」を全 く持たないという政治的要求の

もとで,「名分判別線」を越えかねない状況が生じた。

日中関係が 「政治的名分」において比較的疎遠な 「政経分離」か ら,比 較的緊密な 「不完全

な政経分離」へ移行 しっっある趨勢の中で,中 華民国政府 は危機意識をっの らせ,日 中関係に

おいて 「政経断絶」の原則を厳守させるため,中 華民国政府は1963年10月7日 の 「周鴻慶事

件」85)の後に駐 日大使を召還 し,政 府による日本製品購入を中止す るという強い措置をとらざ

るを得なくなった。

当然,当 時の台湾の日本経済 に対する依存度が高いという状況か ら見れば,中 華民国外交部

はこのような激 しい抗議方式 により台湾が巨大な経済的損失を受けるであろうことを考慮 しな

かったわけではない。 しか し,主 観的な政治的認識において中華民国政府は 「2つ の中国」の

論調には断固反対 し,同 時に客観的な経済的条件においては当時の日台貿易額は日中貿易量 に

比べても依然多 く,中 華民国が優位 にあると計算 し86),政経利益の特質を考慮 した後,一 方で

はアメ リカ国務省を通 して日本政府に圧力をかけ,他 方では外交ルー トが奏効 しなか った際に

はさらなる処置をとることを決定した。アメ リカ国務省も日本政府に対 して,「 日中貿易協定」

が政府による経済援助におよぶことに対 して反対の立場を表明 した。 しか し,日 本政府は日本

と中共 との貿易は,過 去の自由主義国家 と共産圏との貿易の先例に違反 しないことを主張 した。

最後にアメ リカ政府は中華民国政府が抗議行動をエスカレー トさせ,貿 易による報復を行な う

かどうかについては保留の態度を保持 し,過 度に干渉する力のないことを表明 した87)。

中華民国政府はアメ リカ政府の影響力を通 して日中貿易が政府側 レベルにまで発展するのを

一194一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

阻止 しようとしたが,期 待する成果が現われなかったため,さ らに続けて駐 日大使館の高級幹

部を召還 し,日 台政府間の貿易を停止するという断固たる措置をとって対応 した。日台関係が

半年にもおよぶ難局 に陥ると,池 田内閣は事態が厳 しいと見て,前 首相の吉田茂を訪台させ,

その仲介 により日台関係を修復させよ うとした。吉田茂が池田首相の親書を持 って訪台 した

3ヵ 月後,日 台間の外交的難局に明るい兆 しが見え始めた。1964年5月 に吉田茂は総統府秘

書長の張群に書簡を送 り (俗にいう第二次 「吉田書簡」),日 本政府が当面 は輸出入銀行の融資に

より中共に対 して工場設備の輸出を行なわないことを表明し,中 華民国政府の反共政策を継続

して支持することなどを保証することで,双 方の外交関係はようやく正常な状態を回復 し始め

た88)。

実際のところ,当 時の日本政府による対台湾 「不完全な政経一体」,対 中国 「不完全な政経

分離」関係の維持を基本 とする立場は,池 田内閣による譲歩 と変わるところはなかった。 しか

し,日 中間の 「政経断絶」原則の維持を主張 してきた中華民国政府にとっては,日 本政府の譲

歩は対日政策の理想か ら遠 ざかるものであった。 しか し,日 中間が 「不完全な政経分離」の関

係か ら次第に接近 し,っ いには 「政治的名分」の境界線を越える方向へと発展するという最悪

の結果と比べて,中 華民国政府は政治および外交的な影響力を通 して,ア メリカの国連および

東アジア戦略構想における中華民国に対する支持を十分に利用することで,対 日情勢に影響力

を行使できると考えていた。また経済的には,日 本は日台貿易において短期,長 期的な利益を

有 していることか ら,日 本が中華民国の意向を完全に無視するのを難 しくさせるよう迫ること

ができるという優位性の中で,日 中間のさらなる政経交流を阻止 し,「政治的名分」 を持たな

い 「非公式」な枠組みの中で経済貿易交流を行な うよう要求することができた。このような政

策は当時において中華民国が多 くの外交的利益を喪失せず,日 本が受け入れるよう迫ることが

できる 「次善の選択」(the second best choice)た るものであった。

1964年11月 に自民党内で吉田派に属する佐藤栄作が病気 により退陣 した池田勇人の後を継

いで内閣総理大臣に就任 した。 「政治的交流」および 「経済貿易交流」 において,池 田内閣と

比べて佐藤政権は中華民国との関係にっいて,さ らに緊密に発展させようとした。佐藤首相の

就任間 もない1966年5月 に大陸では 「文化大革命」が勃発 し,日 中間の 「政経分離」関係は

中共の対外急進政策の影響を受 け,ま た中共の核実験成功によって日本の国家安全上直接的な

脅威となったことか ら,日 中関係は後退 した。この他,佐 藤栄作 は日本社会党や 日本共産党な

どの野党勢力が常に沖縄の地位問題で政府を攻撃することか ら,「 沖縄返還」 政策に対するア

メリカの支持を取 りっ けようとした。また,同 様に沖縄に対する領土主権を主張する中華民国

が日本による 「沖縄返還」 に対する反対を軽減するために,佐 藤内閣は台湾外交においてアメ

リカの東アジア戦略に適応 し,政 治外交上において中華民国への一貫 した支持を表明 した89)。

このような理由か ら,佐 藤総理は1967年9月 の訪台前である4月27日 に日本の衆議院で台

一195

人 文 学 報

湾政策関連の問題に答弁 した際に,以 下のように表明している。 「日台間に存在する条約上の

権利 と義務の関係は否定することはできず,ま た日本は第三者 として中華民国および中共がそ

れぞれ 「1っ の中国」を主張 しているという内政問題に関与す ることはで きない。同時に,

『吉田書簡」 は過去の文書ではなく,政 府の性格を持った文書で もなく,た だ道義的な拘束力

等を持っのみであり,台 湾に対 して有効的な政策を表明したものである」。 この他にも佐藤栄

作は中華民国の国連議席問題および中共の加盟問題について,こ れまで日本政府がアメリカに

配慮 して中華民国を支持 してきたという外交的立場を継続 し,「 国連憲章」 の規定により 「中

国代表権問題」は加盟国の3分 の2の 賛成により初めて成立す る 「重要問題案」であるとし,

中華民国を国連における 「唯一合法」の代表であるという正統的地位を維持 したgo)。1969年

11月21日 には,佐 藤総理はさらにアメ リカのニクソン(Richard Nixon)大 統領とワシントン

で 「佐藤一ニクソンコミュニケ」を発表 し,「台湾地区の平和 と安全を維持することは日本の

安全 にとって極 めて重要 な要素で ある」 と明確 に表明 した91)。この 「台湾条項」(Taiwan

Clause)の 提起 は,日 本が台湾を日本の国家の安全を守る一環 としてみなし,台 湾の安全に脅

威 となる外部勢力に対 しては日本の安全に対する脅威であるとみな し,ア メ リカと連合 して防

衛することを希望 した ものである。 さらに,声 明の中ではこのような状況が発生 した際に,日

本は在日米軍(在 沖縄米軍など)に 対 して日本の軍事基地の使用を許可 し,台 湾を防衛すること

を表明したのであった92)。

佐藤内閣は中華民国に対 して政治外交および軍事安全の問題以外 にも積極的に支持する立場

を表明 し,日 台経済貿易協力の方面 においても協力に支持 した。 このため,日 台双方の貿易総

額 民間技術交流,資 金協力および人員研修における往来などの項目において,1966年 には

戦後以来の最高水準に達 した。同年4月 に佐藤内閣は中華民国政府の曾文ダム,高 雄第二港お

よび台北橋の改築等,各 種建設計画の必要経費 として総額1億5千 万 ドルに達する借款を批准

した93)。

佐藤内閣期の日台関係は佐藤が中華民国を積極的に支持 したことによ り,双 方 は 「政治的名

分」の関係において以前よりもさらに緊密さを増 した。同時に双方は経済貿易交流において も

戦後以来なかった最高水準 に達 した。それにもかかわらず,佐 藤内閣 は依然として 「政経分離」

の原則を積極的に推進 した。佐藤総理 は就任 して間もな く,ア メリカの ジョンソン(Lyndon

B. Johnson)と 「佐藤一ジョンソンコミュニケ」を発表 し,「日本政府の基本政策 は正常な外交

関係に基づいて中華民国と友好的関係を維持するが,同 時に中国大陸との間に現存する貿易事

務については,『 政経分離」原則のもとで民間私人的性質の接触を継続 して推進する」 と表明

した94)。ここか らわかるように,佐 藤内閣期において日中関係は対立および相互に非難 しあう

雰囲気が充満 していたが,日 本政府はやはり自身の中国大陸市場における短期,長 期的利益を

終始考慮 し,対 台湾 「不完全な政経一体」の保持と対中共 「政経分離」の維持という関係の基

一196一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

本的枠組みを変更することを望まなかった。

1969年 以降,中 華民国は対 日外交における2つ の重要な問題により,相 次いで大きく動揺

しはじめた。第一 に,こ れまで中華民国は日台関係において 「政経一体」の枠組みへの違反が

出現するたびに近 い位置で関心を持ち,仲 介 し,圧 力をかけてきたアメリカの外交ルートを頼

りにしてきたが,日 本の外交的自主性の向上により,そ の影響力が減少 しっっあった95)。さら

に,国 際情勢の変化により,ア メ リカの中華民国に対する支持 にっいて も,米 中の緊張緩和に

より,中 華民国がアメ リカを通 して日本に対台湾 「政経一体」の維持と対中共 「政経断絶」の

堅持を要求する構造的拘束力は次第に崩れっっあった。米,日,台 三方の構造的拘束力が崩れ

た根本的原因は,ニ クソン政府が中ソ関係の悪化時に中共 は国家安全上アメリカの支持を必要

とするであろうことか ら,機 会に乗 じて中共を味方に引き込み,ソ 連を封 じ込めようと目論ん

だことにあった。 この他にも,ア メ リカは中共がアジアにおいて親ソ連の北ベ トナム勢力を牽

制 し,泥 沼のベ トナム戦争か ら撤退するという既定の政策を首尾よ く推進することが必要で

あった96)。

さらに,ア メリカの対中政策に重大な転換があったため,ア メリカの中華民国に対する支持

を揺 り動かすだけでなく,中 華民国が国連において中国を代表する 「唯一合法」の政府である

とする正統的地位 も動揺 させっっあった。 このため,1970年 の第25回 国連総会以降は,中 華

民国の国連議席防衛戦は当初の 「穏やかな主張期」(1951年 一1960年)か ら末期の 「重要問題

時期」(1961年 一1970年)に まですでに展開 していた。1961年 以降は 「2っ の中国」 を支持す

る論調が国際社会において増えっっあり,ま た長期的に広大な国土と国民および核兵器を持っ

中共を国連の外に排除 してお くことは適当でないとする主流的見解が徐々に影響力を持ち始め,

第25回 総会において 「中華民国の排除と中共の加盟案」 に対する表決結果は 「重要問題案」

の可決に必要な3分 の2の 多数 には達 しなか ったが,初 めて51対49で 中共加盟に対する支持

が中華民国への支持を上回る 「逆転表決」となった。 しか し,当 時の国際政治の情勢は中華民

国にとって極めて不利であり,か っニクソン政府が中共との関係改善の意向を表明していたに

もかかわらず,中 華民国が国連 においていかに議席を維持するかということに対 してアメリカ

は依然 として積極的に支持 していた。1971年 の第26回 国連総会では,ア メ リカは前 もってい

わゆる 「変則重要問題案」 を提出し,加 盟国の3分 の2の 同意が必要である 「重要問題」 を

「中華民国の国連代表権剥奪」 問題にのみ限定することを希望 し,多 くの加盟国が中共の加盟

に賛成 しているという主流意見に配慮 した。続いてアメリカは 「二重代表権案」を提出し,中

華民国が中共の加盟後 も現有の議席 を保持できるようにすることを総会に建議 した97)。

日本の政界では日本がアメリカの 「変則重要問題案」と 「二重代表権案」を支持すべきか否

か,お よびいかにアメ リカに配慮 して署名するかという問題にっいて,多 くの意見が出され激

しい討論が行なわれたが,最 終的に1971年9月22日 に佐藤栄作がアメ リカの国連総会におけ

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人 文 学 報

る2っ の提案を支持す ることを表明 し,日 本はアメリカ以外で唯一当該提案を支持 した 「主要

大国」 となった98)。同年10月25日 の国連総会では反対59,賛 成55の4票 差でアメ リカ,日

本など22ヶ 国が提案 した 「変則重要問題案」 は否決された。 中華民国代表団は親中共の加盟

国が続けて 「中華民国の排除と中共の加盟案」を提出 し,通 過するであろうことを考慮 し,当

該提案が表決される前に自主的に国連脱退を表明 した99)。

「変則重要問題案」の採決の失敗と中華民国の国連脱退 は佐藤栄作個人が国連においてアメ

リカと同様に中華民国を支持するという外交路線が失敗に終わったことを意味 していた。それ

ゆえ,国 内での大 きな政治的反対圧力を受けることとなったloo)。特に1971年7月 に中共を極

秘訪問 したキッシンジャー(Henry A. Kissinger)が 翌年2月 のニクソン大統領訪中を中共側と

取り決め,さ らに7月15日 にニクソン大統領がテ レビ演説の中で自らそれを認めると101),日

本国内は驚愕 し,「 ニクソンショック」 の下で野党や論壇,あ るいは企業は相次いで中共 との

国交樹立を主張 し,次 々と訪中団を結成 し,日 本だけが国際的潮流の中で中共との国交樹立 と

いう 「バス」 に乗 り遅れることを恐れた102)。中華民国政府はこれ ら一連の重大事件の衝撃の

中で,対 日政策の2つ の根拠を失っただけでなく,同 時に過去の日台間における 「政経一体」

の基本モデルはIE式 にもう1っ の多 くの不確定性に満ちた政経関係への転換期に突入すること

となった(図2参 照)。

(2) 「政経分離」 と 「不完全な政経分離」の間を揺れ動いた日中関係(1952年 一71年)

第二次大戦後,日 中の民間貿易の開始 は1950年 にまでさかのぼることがで きるlo3)。しか し,

日本の主権独立の地位を回復 した後,日 中の 「政経分離」 関係が始まり,1952年6月1日 に

日本の民間経済団体代表が中共 と 「第一次日中貿易協定」 を締結 した。1953年7月29日 から

30日 にかけて日本の衆参両議院では相次いで 「日中貿易を促進する国会決議」を通過させ,

政府に対 して日中貿易の制限を緩和するよう要求 した1G4)。同年10月29日 に日中双方 は 「第

二次日中貿易協定」(中 国側では 「第二次中日貿易協議」)を締結 し,対 中貿易規制を緩和 し,日

中の経済貿易は確実に進展 した。 しかし,当 時の中国側人員は日本の入国 ビザを取得する方法

がな く,双 方の政治的関係 は経済貿易の進展によってもた らされる転換をまだ達成することは

できなか った105)。戦後初期の日中政治的関係が実質的な経済貿易交流の進展にもかかわらず

転換が難 しか った原因 として,当 時の日本の対外関係が日米関係を基軸 とする外交的現実の制

約を受けており,ア メ リカを頂点とする資本主義陣営とソ連を頂点 とする共産主義陣営が鋭 く

対峙するという冷戦的構造の下で,日 本政府が中共との関係正常化することを徹底的に制限 し

ていたことが挙げられ る。それゆえ,1954年10月12日 に中共が ソ連 の対 日政策 に配慮 し,

「中ソの対日関係における共同声明」を発表 し,「日本との関係正常化を希望 し,か っ,日 本が

中華人民共和国およびソ連 と政治的関係および経済的関係を樹立す ることにっいて,中 ソの完

一198一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

全な支持を得 ることができるであろう」と表明 して も106),吉田内閣はいかなる積極的な反応

は示 さなか った107)。ここか らわかるように,吉 田内閣時期の日中双方の政治経済相互作用は

基本的には 「理想型」 の 「政経分離」関係に向けて発展 していた108)。すなわち,双 方 は 「非

公式」 な政治的枠組みにおいて経済貿易交流 はあるものの,「 政治的名分」 において双方の関

係は極めて緊密から極めて疎遠という 「親疎スペクトラム」 の中では 「やや疎遠」 の状態に

あった。

1954年12月10日 に鳩山一郎が首相に就任すると,鳩 山内閣は中共と翌年(1955年)5月4

日に東京で 「第三次 日中貿易協定」(中 国側では 「第三次中日貿易協定」)を 締結 した。 その中で

第10条 では以下 のように規定 している。「互いに相手国に常駐の通商代表部をお くこと,… …

双方の通商代表部および部員は外交官待遇 としての権利があたえられること。双方は上記のこ

とを速かに実現するよう努力することに同意する」lo9)。1956年12月23日 に石橋湛山が鳩山一

郎 に代わり首相に就任 して も,依 然として鳩山内閣の外交路線を踏襲 し,日 中,日 ソ関係の打

開を重視 した。それゆえ,日 中間の 「政経分離」関係は 「政治的名分」において も 「経済貿易

交流」 においても,「親疎 スペク トラム」において 「疎遠度」は次第に低下 し,逆 に 「緊密度」

は上昇 した。 日中双方は 「不完全な政経分離」関係に向かって移行 し始めた。

1957年 に 「第三次 日中貿易協定」 が間もな く満期を迎えようとしており,双 方の協議によ

り新協定の締結が待たれていた。 この時,同 年2月 に首相に就任 した岸信介は鳩山,石 橋内閣

とは逆の立場をとった。最初に対外関係において岸は 「国連を中心とし,自 由主義陣営と協調

し,ア ジアの一員となる」 という外交三原則を提起し,5月 に南アジアと東南アジア各国を相

次 いで訪問 した。6月2日 には台湾で蒋介石総統と会見 し,6月16日 にはアメ リカでアイゼ

ンハワー大統領,ダ レス国務長官 と 「日米安保条約」の改正 にっいて協議 した。岸信介は一方

では日米関係を強化 し,東 南アジァの開発に協力 しながら,ま た一方ではアメ リカの共産主義

国家に対する戦略物資の輸出規制に配慮 し,政 治外交および軍事安全においてはアメリカの東

アジア地域における共産主義拡張の 「封 じ込め」 に配慮 し,反 共の立場を固めた110)。そのた

め,岸 内閣時期の日中 「政治的名分」関係 は 「親疎スペクトラム」において,「 疎遠」 の方へ

傾 く運命にあった。

その後岸内閣は日中の貿易交流が拡大 しているという現実に鑑みて, 9月17日 に 「日本国

際貿易促進協会」,「日中貿易促進議員連盟」 および 「日中輸出入組合」 の3つ の団体による

11名 のメンバーと,伊 藤忠商事,東 京銀行,東 工物産等企業の9名 の専門委員および5名 の

随行人員か らなる25人 の中国通商使節団を北京に送 り,中 共側代表である中国国際貿易促進

会と 「第四次日中貿易協定」 の内容にっいて協議した。 その中で,双 方は通商代表部の待遇

(中共の中日機構の人員は一般の外交官と同様に2ヶ 月以上の滞在と指紋押捺免除などの待遇の権利を有

するのか),部 員数(日 本側は中共が大量の人員を派遣し日本で政治活動を行なうのを避けるため,人 数

一199一

人 文 学 報

の制限を希望した)お よび中共の駐日機構は国旗掲揚の権利を有するのかなど,3つ の 「政治的

名分」上敏感な議題 にっいて遅々として コンセ ンサスに達することができず,40日 あまりの

折衝を経て11月1日 か ら作成された本文および備忘録の定稿は,日 本側代表団の要求により

日本側が持ち帰 り,備 忘録の中の常駐通商代表機関設置問題にっいては,日 本政府の了解を経

て正式に締結されることになっだll)。

1958年1月30日 に日本の外務大臣の藤山愛一郎 と内閣官房長官の愛知揆一が日本社会党 日

中国交回復特別対策委員会委員長の勝間田清一,日 中貿易協定協議委員の帆足計,前 田栄之助

と 「第四次日中貿易協定」問題にっいて会談 した際に,民 間協定の形式で迅速に締結すること

を希望 したものの,協 定の備忘録にっいては肯定的な反応 はなかった112)。2月 初めになって

も岸内閣は遅々として回答 しなかった。 この時 「劉達仁事件」 が起 こり113),日 中関係に矛盾

が生 じた。4月9日 に岸内閣は協定に対 して正式に日本政府の立場を表明 し,以 下のように強

調 した;「(日本)政 府は日中貿易拡大の必要性をかんがみ,第 四次民間 『日中貿易協定」 の精

神を尊重 し,わ が国諸法令の範囲内で,か っ政府を承認 していないことに基き,現 在の匡際 関

係を考慮 し,貿 易拡大の目的を達成せ られるよう支持と協力を与え る」ll4)。

当時,岸 内閣は協定の中の 「政治的名分」にかかわる3項 目の提案にっいて,い かなる承諾

も与えることをしなか った。 この点にっいては同日に内閣官房長官の愛知揆一が発表 した談話

の中ではっきり見てとれる。すなわち 「その取決めは双方の民間団体間の ものであり,政 府間

のものではないが,政 府は彼我の貿易拡大を期する精神は尊重 したい」 と述べている115)。基

本的に日本政府は 「第四次 日中貿易協定」を 「民間」のものであるとし,「政府側」 の貿易協

定ではなく,日 中貿易を拡大するために尊重 しただけである。さらに,愛 知揆一は日本 「政府

としては現在中共を承認す る意向のない」,か っ 「わが国と中華民国および他国 との関係その

他国際関係を尊重 し」,そ れゆえ 「この民間取決めにより設置 される通商代表部に対 し,特 権

的な公的地位を認める所存 はない」 と強調 した。同時に 「通商代表部の設置が事実上の承認で

はないかとの誤解を起 こ」すことを懸念 した。それゆえ 「日本政府 としては中共を承認 してい

ないか ら,中 共のいわゆる国旗を民間通商代表部に掲げることを権利 として認めることができ

ないのは当然である」 と強調 しだ16)。っまり,「第四次 日中貿易協定」 は結局のところ民間協

定の地位にとどまり,日 本政府 はその機関,人 員に政府側の待遇を与えることを望まず,さ ら

に双方に国交はなくとも 「事実上の承認」であるとの誤った印象を与えることを望まなかった。

岸内閣の 「抑圧一緩和」 コントロールメカニズムによる日中関係の調整 の結果,「 政治的名分」

において 日中関係はそれまでの比較的緊密な 「不完全な政経分離」から比較的疎遠な 「政経分

離」のモデルに回帰 した。

1958年4月15日 に中共の立場を代表する 『人民 日報」 の社論で 「岸信介政府による中日貿

易協定の破壊を再び叱責する」 と題する文章が掲載 され,岸 内閣が4月9日 の回答の中で,

-200 一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

「第四次 日中貿易協定」 において中共の通商代表部の人員に外交官待遇を与えることと,通 商

代表部の部員数の制限緩和および通商代表部での中共の国旗を掲揚する権利に同意 しなかった

ことを厳 しく攻撃 し,中 日の 「政治的名分」 関係を要求 した/17)。5月2日 に 「長崎国旗事件

」118)が起 こると日中の直接的な政治的対立が起こり,そ の後2年(1959年 一1960年)の 日中経

済貿易交流は頓挫 し(表2参 照),停 滞状態に陥 った。

岸内閣の一方では経済貿易交流のルー トをっなぎ,他 方では 「政治的名分」を疎遠にすると

いう関係,特 に岸内閣の日中関係をやや緊密な 「不完全な政経分離」か らやや疎遠な 「政経分

離」へ と回帰 させる方法 に対 して,中 共は一連の反撃を展開 した。1950年 代末期に中共 は

「政治三原則」,「政経不可分原則」および 「貿易三原則」 など3っ の対策を提起 し,経 済貿易

と政治を連結 させ,岸 内閣の 「政経分離」政策を打破 しようとした。

1958年5月 に日中貿易は全面的な停滞に陥り始めた。6月11日 に中共は 「今後岸信介政府

が中国を敵視する態度を改めず,2っ の中国を作 り出すという陰謀を続け,中 日両国の正常な

関係の回復を妨害 し続 けるのであれば,中 日両国の民間漁業協定の締結問題は考慮することは

できない」119)と述べた。 この 「日中漁業協定」 は日本に対する反撃の第一歩であった。7月

7日 に中共 は 『人民 日報』の社論において 「中国人民は日本の潜在的な帝国主義に断固反対す

る」 と題 して,日 中間に存在する問題をいかに解決するかにっいて,日 本に対 して3項 目の類

似 した要求を提出 した12G)。8月 には社会党の参議院議員である佐多忠隆が北京を訪問 して彦

承志 と日中問題にっいて会談 し,帰 国後 「佐多忠隆中国訪問報告書」(通称 「佐多報告」)を提出

し,「政治三原則」 の具体的な内容を明確に指摘 し,岸 内閣に対 して 「中国を敵視する言論あ

るいは行動を直ちに停止 し,再 発させず,『2っ の中国』 を作 り出す陰謀を停止 し,中 日両国

の正常な関係の回復を妨げてはならない」121)と要求 した。

中共の不満 と反撃に対 して,岸 内閣 も日本側の立場を表明 した。1958年6月17日 に岸信介

は国会演説で 「国交が正式に回復 していない現状のもとにおいて,貿 易や文化交流を行わざる

を得ない相互の立場を理解 し合 うことを期待するものであります」122)と述べ,経 済貿易交流

が 「政治的名分」に波及 しないという 「政経分離」の原則を変えなかった。これに対 して周恩

来は1959年3月15日 に日本社会党訪中代表団団長の浅沼稲次郎 と会見 した際に,ま ず 「政経

一体」の主張によって岸内閣の 「政治的には中国を敵視 しながら,経 済面では商売を行なおう

とする」 という 「政経分離」の方法を批判 した123)。3月17日 に中共は 「中国人民外交学会」

会長の張臭若 と浅沼稲次郎 との共同声明を通 して,「両国間の政治および経済問題は分けるこ

とはできず,経 済および政治問題は同時に協議 し同時に解決 しなければならない。現在は政治

問題に優先的な地位を与えなければならない」124)との立場を述べた。3月19日 に中共はさら

に 『人民 日報』 の社論で岸信介を批判 し,「岸信介本人こそ従来か ら政治と経済を分けたこと

がない。彼のいわゆる政治 と経済の分離 という原則はすなわちアメリカに屈 し,一 貫 して中国

一2el一

人 文 学 報

を敵視するという最大の政治的具体的表現である」125)と述べた。中共 は日本は表面的には政

治的承認 と経済貿易交流を2っ のことがらと考え,分 離 しようとしていたが,実 際には終始政

治が経済貿易関係 に影響を与えることを考慮 していると考えていた。9月20日 に周恩来 は日

本の前首相である石橋湛山と北京で会談 し,「中日両国の政治および経済間関係の発展 は融合

させなければならず,分 割することはできない」と主張 したことにより,中 国側の政治は経済

に優位す るとする 「政経不可分」という対日外交の原則を確立 した126)。

明 らかに岸信介内閣時代の日中関係は鳩山内閣および石橋内閣の 「不完全な政経分離」によ

るやや緊密な関係から,吉 田茂内閣の 「政経分離」の堅持によるやや疎遠な関係 に後退 した。

北京は数々の挫折 により中日関係は単に経済貿易交流に頼るのみでは政治 レベルの交流 にまで

向上させ ることはできないと悟 った。 そこで,「 貿易三原則」 における 「民間契約」政策を継

続 して推進 し,過 去の鳩山および石橋内閣時期の 「民間交流,政 府側 リンク」の接触ルー ト以

外に,双 方の労働組合系統を通 して,一 部 に日本の中小企業 に対 して 「個別配慮」 の方式で

「民により官を促す」,「商により政を囲む」 という目標を達成 しようとした。 さらに,過 去の

「政治三原則」か ら 「政府協定」により新日中民間貿易政策に誘導 し,「今後は双方の政府 によ

る締結を経てこそ保証 される」 として 「民間協議」 レベルの政策効果に満足 しないことを強調

した127)。

1960年7月19日 に池田勇人が首相に就任 した。 この時日中関係 は依然混沌の中にあった。

8月27日 に周恩来が 「日中貿易促進会」専務理事の鈴木一雄 に会見 した際に,中 国の政策的

立場を表明 した。 周は中日間の未来において新たな経済貿易関係が展開す るために,「 政府協

定,民 間契約および個別配慮」 の 「貿易三原則」 に依拠 してのみ実現が可能であると強調 し

た128)。周恩来は 「貿易三原則」 の条件により中日関係を切 り開こうとしたが,依 然 として好

転 しなかった。それゆえ中共 は 「政治三原則」,「政経不可分原則」および 「貿易三原則」を前

提に,日 本の親 中商業団体を通 して,新 たに中日民間貿易交流を展開 し,か っ1962年12月

27日 に民間版の 「友好貿易議定書」129)を締結 し,中 日の民間友好関係をさらに深化 させるこ

とを希望 した。

この時,池 田内閣は経済発展を速め,国 民所得を倍増させる政策により,積 極的に海外市場

を開拓す る必要があった。 日本が日中貿易の回復を必要としているという状況下で北京 は経済

と政治を リンクさせ,池 田内閣に岸内閣時期の日中関係が 「政経分離」の疎遠な方法 に偏った

ことに関 して,一 定程度の調整 と譲歩をせざるを得ないように迫った。1962年 に高碕達之助

と摩承志による 「LT貿 易協定」の後,日 本政府は日中相互に連絡所設置や日本国家輸出入銀

行の借款提供,お よび相互の常駐記者の交換など,高 度に政府側の性質をもっ措置に相次いで

同意 した。 日中の政経関係が新 たに打開されると,一 方では中共のいわゆる民間団体 は実際は

政府代表に等 しく,他 方で日本の政府側は民間団体の名義を借 りて日中交流を進め,「 不完全

一202一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

な政経分離」のモデルの方に大 きく発展 し,か つ 「蓄積漸進」の方式により 「半官半民」の政

経交流モデルを展開 した。 このときに日中政経関係は1972年 の正式な国交樹立前において最

高潮に達 した130)。「LT貿 易協定」の推進により,1964年 か ら1966年 まで3年 間の日本の対

中輸出量が1949年 以来初めて対台湾輸出貿易の総額を上回った。 っまり,池 田内閣時期の日

中関係は親疎スペク トラムにおいて,岸 信介内閣時代の 「政経分離」のやや疎遠な関係から,

鳩山内閣時代の 「不完全な政経分離」 というやや緊密な関係に回帰 した。

しか し,日 本の対中輸出貿易が対台湾輸出貿易を上回るという盛況 は1964年 の日台政経関

係 の回復以降に消滅 した。日中双方 は1968年3月6日 にrLT貿 易協定」が5年 の期限を迎

えると,日 中覚書貿易事務所(も との高碕事務所)代 表の古井喜実,岡 崎嘉平太および田川誠一

と中共の中日備忘録貿易弁事処(も との靡承志弁事処)代 表の劉希文,王 暁雲および孫平化が協

議 し,『 日中覚書貿易会談」の形式(俗 にいうrMT貿 易」)に改めて もとの協定を延長 した13D。

しか し,図4の 日本の対中国および対台湾輸出総額の統計表か らもわかるように,1966年 以

降日本の対中輸出貿易が対台湾輸出貿易を上回るという盛況は1974年 まで再び出現 しなかっ

た。

実際に当時の台湾の工業および経済発展の程度は中国大陸よりも高 く,そ れゆえ中国大陸の

700,000

日本の 対台湾 600,000 輸出総 額

500,000 ■ 昌 ロ 日本 の 対中国

百 大陸輸

万400,000 出総額 円

300・000

200,000

100,000

0

ぎ講 黙囎騒轄隷顯鹸轄欝蓑鰭黙諮鰹 h曜br[陶 噌 肉 b噌 F■噌Nbyh噌h噌 偽rN髄rbrhrrh.一,"'t-'tPrNt N 【r by""tPr噌 【rP陶r br臼 噌

西元年

出典:本文の表2の統計資料による作成。

図4 戦後日本の対中国大陸および対台湾輸出総額の変化

一203一

人 文 学 報

日本の工業技術に対する依存性は台湾のそれよりも当然大 きかった。表2に おける日本の対大

陸貿易の輸出超過統計か らもわかるよ うに,1952年 以降主権独立の地位を回復 した日本 は敵

対陣営に属する中共との貿易交流は完全には断絶 していない。 しか し,日 本の中共に対す る輸

出超過は1965年 になってはじめて現われる。対 して日台貿易は1956年 に早 くも輸出超過の現

象が現われている。すなわち,日 本の対外貿易の実益という点か らみれば,日 中の経済貿易の

利益は日台のそれ と比べて10年 近 くは遅れていた。当時中共 は経済的に劣勢 にあっただけで

なく,政 治的にも日本の 「政経分離」枠組みの制限を受け,米 中関係の正常化と中華民国の国

連脱退に至るまで,日 中関係は日本の度重なる内閣の交代によ り,対 中国の 「政治的名分」一に

おける 「抑圧一緩和」の態度は 「政経分離」と 「不完全な政経分離」 というメイン,サ ブ類型

の間を揺れ動 くしかなかった。

1964年11月 に親台湾の佐藤栄作が組閣すると,日 中の 「政治的名分」 に対 して再び抑圧の

立場をとるようになり,佐 藤内閣の初期に日中関係は再度 「政経分離」の段階へ後退 した。

1969年11月21日 に佐藤栄作がニクソンと発表 したコミュニケの中の 「台湾条項」 において,

「台湾地域における平和 と安全の維持も,日 本の安全にとって きわめて重要な要素である」132)

と表明 した。 しか し,70年 代に入り国際情勢が急変 し,1971年 には米中関係の改善 と中華民

国の国連脱退に備え,佐 藤内閣は将来的に日中関係は 「政経一体」の方向へ発展させ る必要が

あると意識 し,双 方の関係を修復するたあに 「非公式」なルー トを通 して中共と交渉 し,将 来

的な 日中関係の正常化のために準備 しようとした。

1971年10月 に自民党幹事長の保利茂は佐藤栄作首相 と福田赴夫外相の許可の もと,対 中国

「非公式」 外交担当者の役割を演 じ,北 京を訪問 した東京都知事の美濃部亮吉に中共の国務院

総理である周恩来宛の私的書簡を托 し,日 本が日中関係正常化に関 して会談 を希望す る意向を

伝えた。 これがいわゆる 「保利書簡」である。書簡の中で佐藤は 「中国は1っ しかなく,中 華

人民共和国は中国を代表する政府である」と表明 した。しか し,周 恩来 は書簡の中で 「台湾は

中国人の領土である」 とあいまいに指摘されているのみで,「 台湾は中国の領土である」 と明

示 しておらず,そ れゆえ日本は依然 として台湾独立運動を支持 し,「2っ の中国」 の立場を保

持 しているとみなした。さらにその前 の9月 に,佐 藤内閣は国連総会でアメ リカの提出 した

「変則重要問題案」 および 「二重代表権案」を支持 していた。 これらは全て中共によって中国

を敵視す る政治的行動であるとみなされ,佐 藤栄作が期待 した 日中関係正常化交渉は起動 しが

たく,最 終的には中共が 「佐藤栄作が 日本政府の指導者である限 り政府間交渉は考慮できな

い」133)と述べ,日 中関係正常化工作は失敗に終わった。 しか し確実なことは,戦 後20年 近 く

維持されてきた日中関係における 「政経分離」の枠組みはこの ときにカギとなる転換期に入っ

たことである。政治的 「名分判別線」の突破口は最終的には 「政治の論理」により解決 される

しかなかったのである。

-204一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

5.「 不完全 な政経一体」対 「不完全な政経分離」 の もとにお ける日本の

対両岸関係の新 たな枠組 み(1972)

(1) アメ リカの世界戦略構想の変更と政治の論理

1970年 代初めにアメリカは世界戦略構想を改変 し始め,1971年10月25日 に中華民国は国

連脱退を迫 られた。 さらに追い討ちをかけるように1972年2月21日 から28日 まで,ア メリ

カ大統領のニクソンはさらに新世界戦略構想を推進 し,東 西対抗のタブーを破 り歴史的な中国

大陸訪問を展開 した。米中双方 は上海で 「中華人民共和国およびアメリカ合衆国の連合公報」

(通称 「上海コミュニケ」)(The Joint U. S.-C伽 αCo鋭〃zπ吻 磁Shanghαi)を 発表 し,「中国と米国

の関係正常化への前進 は,全 ての国々の利益にかなっている」 と声明した。 この他にも,コ

ミュニケの中でニクソン政府は台湾問題の解決に関する立場をはっきりと表明している。すな

わち:

米国は,台 湾海峡の両側のすべての中国人が,中 国はただ一つであ り,台 湾は中国の一部

分であると主張 していることを認識 している。米国政府は,こ の立場に異論をとなえない。

米国政府は,中 国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認す

る。かかる展望を念頭におき,米 国政府は,台 湾から全ての米国軍隊と軍事施設を撤退ない

し撤去するという最終 目標を確認する。当面,米 国政府は,こ の地域の緊張が緩和するにし

たがい,台 湾の米国軍隊と軍事施設を漸進的に減少させるであろう134)。

このコミュニケにおいてニクソン政府は戦後のアメリカ政府の長期にわたる政治的論理をっ

いに打破 し,政 治的にアメリカがこれまで中華民国政府を 「1っ の中国」を代表する 「唯一合

法」の政府であると支持 してきた立場を修正 しただけでな く,軍 事的関係においてもアメ リカ

と中華民国の間における 「米中共同防衛条約」に基づ く軍事同盟関係に意図的に言及 しなか っ

た135)。この他にも,ニ クソンが周恩来 と会談 した際に,「能力の及ぶ範囲内で日本の台湾進出

を阻止 し,日 本の台湾独立支持を奨励 しない」など5項 目を承諾 したi36)。

その後ニクソン政府 は中華民国政府に対 して台湾政策に変化がないことを表明した。 しか し

実際はアメ リカは中共を中国の正統的地位を代表する 「唯一合法」の政府であるとすることに

対 して挑戦する意図はな く,さ らに中共 とベ トナム戦争などの東アジア問題の処理に関 して協

力 し始めたことにより,中 共との政治,外 交および軍事安全関係における重大な転換は,中 華

民国政府の国連脱退後の国際的地位に関する憂慮に加えて,中 華民国と日本を含む諸外国間と

の外交関係の維持に直接影響を与えるものであった137)。

アメリカがベ トナム戦争の泥沼から脱出し,新 たに世界戦略を構想するために,中 ソを分離

させる 「連中制 ソ」の戦略を考慮 したことにより,国 際政治の局面に重大な転換がもたらされ,

さらに日本の情勢判断にも衝撃を与え,日 本国内において中共 「一辺倒」の政治的雰囲気が生

一205一

人 文 学 報

み出された。

(2) 断交後の日台 「不完全な政経分離」という新たな枠組みの形成

1972年6月17日 にそれまで政治的に中華民国政府を支持 してきた佐藤内閣はこのような圧

力の中で退任 した。7月7日 に自民党新総裁の田中角栄が組閣 した。実際は自民党総裁争いの

段階で田中角栄,大 平正芳,中 曽根康弘および三木武夫などの四大派閥では日中の早期国交樹

立で同意 しており,日 本 は 「政府間交渉を通 じて 『中華人民共和国』と平和条約を締結するこ

とを目標 とし,交 渉を行なう」としていた。それゆえ,田 中角栄の最大の目標 は中共との関係

正常化交渉を迅速に進めることであった138)。日台関係の急転直下 と日中関係の急上昇によ り,

ついに中共は 「名分判別線」を越え,中 華民国は 「名分判別線」か ら落ち,日 中 「国交樹立」

と日台 「断交」という結果にっながった。「名分判別線」を突破 したのは政治力である。

当時,「 漢賊両立せず」 とい う文化的価値観の影響を受けた政治的ゼロサムゲームの下で,

両岸は共 に 「1っ の中国 しか存在せず」と主張 し,さ らに中共は日本に対 して 「国交回復三原

則」を提起 し139),日本政府に対 して ① 中華人民共和国は中国を代表する唯一合法的な政府

である,② 台湾は中国領土の不可分の一部である,③ 日台 「条約」 は不法であり,無 効であ

ることか ら廃止する,の3点 を承認することを要求 した140)。それゆえ,中 華民国と断交 し,

外交承認を撤回 しなければならなかった。

この時,日 本政府は戦後初期のように一方では 「唯一合法」に中国を代表する地位の政権 と

政府側の枠組みにより 「政経一体」の関係を維持 し,他 方では 「政経分離」の関係により,民

間交流の枠組みを通 して もう一方の政権と政治経済交流を運営することにより,日 本にとって

最大の経済貿易利益を追求するという状況に直面 した。 日台断交前の日本の対中国および対台

湾の政経相互作用の経験か ら見れば,日 本の国益のためあるいは国内外の政治的環境において

複雑に利益が絡み合 う中で対応するために,両 岸双方 との交流モデルを追求することは日本が

政治および経済の現実的利益を求める上で必然的な選択であった。

しか し,こ の時の政治経済情勢およびそれまでの日中の 「政経分離」関係 と異なる点 として,

日台関係はその始まり以降,「 政経一体」の枠組みから 「政経分離」関係の基本モデルに入 っ

たとき,双 方はモデル転換の過程において,「 政治的名分」 の緊密度において過去の日中 「政

経分離」の枠組みが形成された初期的モデルをはるかに上回っていた。 さらに,双 方の経済貿

易の相互利益および相互補完において,日 台貿易の有する長期,短 期的利益は当時の日中貿易

によって完全に代替す ることはできなか った。このことは表2に より,日 本が中共 との貿易の

中で輸出超過になり始めた年である1965年 か らの時期 と,同 時期の日台貿易を比較 しただけ

で も理解できる。1974年 以前の統計で,当 時の日本の中華民国との貿易における輸 出超過額

は歴年で対中貿易における超過額よりも数倍多 く,日 台が正式に断交 した1972年 をとって換

一206一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

算すると,日 本の対台湾貿易の超過額は日中貿易のそれの5.68倍 であった。翌年(1973年)で

はさらに10.7倍 に達 している。あるいはここにも日本が台湾 と政治的に断交を希望 し,経 済

的には断交を望 まなか った理由が存在するかもしれない。 日本が中共と政治的な国交樹立を希

望 しっっ も,中 華民国と 「不完全な政経分離」関係を放棄 しようとしなかった重要な要素であ

るか もしれない。

当時の日台貿易が 日本に多 くの経済貿易の利益をもたらしているという現実のもとで,日 中

関係はすでに正常化 し,日 本政府は中華民国と 「正式な」外交関係を保持することができなく

な っていたが,経 済関係において田中内閣は中華民国と 「非公式な」政治的枠組みの下で各種

の 「実務関係」 を維持 しようとした141)。全体的にいえば,日 台間は1972年9月29日 に正式

に断交 を宣言 した後142),度重なる交渉を経て確立された日台関係の新枠組みは,基 本的には

かっての 「不完全な政経一体」関係からにわかに 「不完全な政経分離」関係のモデルに逆転 し

た(図2参 照)。 まさにこのため,双 方が断交後の 「非公式な」政治的枠組みを確立する際に,

背後には依然として相当程度政府側の性格が残っていた。中共がかって対 日関係において開拓

した 「不完全な政経分離」関係の状況と比べると,こ の時の中華民国が対 日関係において維持

した 「不完全 な政経分離」 関係は,日 本側による 「抑圧一緩和 コントロールメカニズム」 と

いった難題 もなく,日 本側の主導的な協力の下で準政府的な性質を帯びたものであった。

1972年12月1Hに 日本は台湾 と 「不完全な政経分離」の関係を維持す るために,東 京で

「財団法人交流協会」を設立 した。発起人は堀越禎三(経 団連副会長),井 口貞夫(元 駐華大使),

板垣修(元 駐華大使),大 川鉄雄(前 山陽パルプ会長),大 久保謙(三 菱電機会長),木 村四郎七(元

駐華大使),河 野文彦(三 菱重工会長),島 津久大(元 駐華大使),高 橋修(元 大阪通商産業局商工部

長),水 上達三(日 本貿易会長),守 屋一郎(守 屋商会社長),森 本寛三郎(武 田薬品会長),李 家孝

(横浜商工会議所会長)な どで,日 本の外務省あるいは通産省出身の元官僚であったか,あ るい

は政府機関と密接 に交流のある財界の要人であった。機関の経費にっいては,政 府の資金が当

初設立 した際の重要な財源であり,も ともとの計画によれば全経費の99.7%が 国庫の予算に

よるものであり,03%の みが利息収入および寄付金の利息により工面 したものであった143)。

中華民国の側では日台関係の転換に対応するために,日 本の 「財団法人交流協会」設立の翌

日(1972年12月2日)に 台北で 「亜東関係協会」 を設立 し,「財団法人交流協会」の対応機関

とした。 「財団法人交流協会」 に類似 した点として,形 式上 は民間社団法人の方式で組織され

ているものの,成 立大会の出席者の肩書 きは外交部長の沈昌換,経 済部長の孫運踏,内 政部次

長の雷飛龍など政府側の代表であり,政 府側の性格が濃厚であることが容易に判別できるのみ

ならず,運 営上 においても実質的には政府側によるものであった。協会の組織編制および経費

の財源からみると,外 交部が協会の関連業務に対 して直接的な指揮権を有 しており,か つ協会

業務のうち経済貿易業務および文書に関係する部分にっいては,外 交,経 済の両部による審査

一207一

人 文 学 報

が必要であった。 さらに,協 会の中で理事長,顧 問および臨時職員以外の全ての職員 は事実上

はこの2つ の部門の政府職員が出向 して充填 したものであり,協 会の経費 も政府予算か ら支出

されたものであった。それゆえ,協 会の成立 編制,経 費の財源および遂行業務の項 目か ら総

体的に見れば,実 質的に協会は外交部の直轄する司 レベルの機関であり,管 轄する東京,大 阪

および大阪弁事処福岡分処の3っ の弁事処の機能は,過 去の日台両国が国交を有 していた際の

駐日大使館および領事館に相当するものであった144)。

1972年12月26日 には,日 台双方の形式上は民間団体で,実 質的には政府側の接触 という

意義をもっ新 しい枠組みをさらに進めるために,日 本の 「財団法人交流協会」代表の堀越禎三

と板垣修が特別に台北を訪問 し,中 華民国の 「亜東関係協会」初代理事長の張研田および常務

監事の睾振甫 と 「財団法人交流協会 と亜東関係協会の駐外弁事処設立 に関す る協定」を締結 し,

当該の協定が双方の最終的な協議を経て確認 された後,過 去に日台が相互に大使館を設置 して

いた時期のあ らゆる業務が引継 ぎされた。続いて12月28日 に中華民国駐 日大使館が正式に閉

鎖された145)。この時に日台間は 「財団法人交流協会」 と 「亜東関係協会」 により,双 方の実

質的な政経交流ルートとしての 「不完全な政経分離」の枠組みが確定 した。 この 「不完全な政

経分離」 という新たな枠組みは双方における一連の 「政経関係転換期」の動揺 と衝撃の後に,

双方が政経交流を継続 させるために作られた最終的な局面であった。

(3)国 交樹立後における日中の 「不完全な政経一体」関係の成立

日台関係の急転直下 と比べて,1972年 における日中関係の構造的な転換はモデル転換の観

点からみれば,基 本的には 「名分判別線」を越え,「政経関係のモデル転換点」を経て 「不完

全な政経一体」の枠組みに向か って上昇 したといえる(図2参 照)。現実の政治から見れば日中

関係の正常化の加速 と,政 府間交渉の早期終結はすでに自民党内各派閥のコンセンサスとなっ

ており,新 内閣が実行 しなければならない第一の政策とな っていた。それゆえ,7月 初めに就

任 した田中角栄首相 は早 くも7月16日 に 「非公式」 ルー トを通 して対中国交正常化交渉を行

ない,日 本社会党元委員長の佐々木更三を北京に派遣 し,周 恩来に対 して日本政府は中共 と国

交正常化前に会談を希望する旨を伝達 した146)。佐々木更三は周恩来 との会見後,周 恩来の5

項目の回答を持ち帰った。すなわち;

① 日本が3つ の原則を受け入れられなくても,「 完全に理解する」 と表明すれば 「中国」

は満足だと表明する。

② 「中国」はニクソンと同様の様式で田中角栄の訪問を迎える。

③ 田中角栄が東京から北京に直行便で来ることができるように手配する。

④ 「中国」は田中角栄自身が党内の問題により,「日台平和条約」の問題処理に時間を要す

ることを理解する。

-208一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

⑤ 「中国」は戦魚賠償の問題については,柔 軟な立場をとる147)。

日本政府は中共が日中間の 「国交回復三原則」,「台湾問題」および 「戦争賠償」の三大議題

に関 して交渉の余地があるとの積極的な回答をしたことを知ると,8月11日 に大平正芳外相

が訪日中の中共上海舞劇団団長孫平化と中日 「備忘録貿易」弁事処駐東京連絡所首席代表薫向

前に対 して,田 中首相が 日中国交正常化実現のために自ら中国大陸を訪問する意向であるとの

情報を伝え148),そ の前の7月25日 には日本公明党委員長の竹入義勝を派遣 し,周 恩来と日中

関係正常化工作にっいて非公式の具体的会談を3回 行ない(7月27日 一29日)149),以 下の8項

目の要点を最終的に確認 した:

① 中華人民共和国と日本国との間の戦争状態は,こ の声明が公表される日に終了する。

② 日本政府は,中 華人民共和国政府が提出 した中日国交回復の三原則を充分に理解 し,中

華人民共和国政府が中国を代表する唯一の合法政府であることを承認する。これに基き

両国政府は,外 交関係を樹立 し,大 使を交換する。

③ 双方は,中 日両国の国交の樹立が,両 国人民の長期にわたる願望にも合致 し,世 界各国

人民の利益にも合致することを声明する。

④ 双方は,主 権 と領土保全の相互尊重,相 互不可侵,内 政の相互不干渉,平 等 ・互恵,平

和共存の五原則 に基いて,中 日両国の関係を処理することに同意する。中日両国間の紛

争 は五原則に基 き,平 和的な話 し合いを通 じて解決 し,武 力や武力による威嚇に訴えな

い。

⑤ 双方は,中 日両国のどちらの側もアジア太平洋地域で覇権を求めず,い つれの側も他の

いかなる国,あ るいは国家集団が,こ うした覇権をうちたてようとすることに反対する

ということを声明する。

⑥ 双方は,両 国の外交関係が樹立された後,平 和共存の五原則に基 いて,平 和友好条約を

締結することに同意する。

⑦ 中日両国人民の友誼のため,中 華人民共和国政府は,日 本国に対する戦争賠償の請求権

を放棄する。

⑧ 中華人民共和国政府と日本国政府は両国間の経済と文化関係を一層発展させ,人 的往来

を拡大するため,平 和友好条約が締結される前に必要と既存の取極に基づいて,通 商,

航海,航 空,気 象,郵 便,漁 業,科 学技術などの協定をそれぞれ締結する150)。

会談期間において,台 湾領土問題および 「日華平和条約」の廃止問題 に対 して中共 は日本国

内が短期的にコンセンサスに達することが難 しいことを熟知 しており,こ れ ら論争のある問題

にっいて周恩来は特別 にいわゆる 「黙認事項」により,宣 言あるいは声明に書 き込まないこと

で,日 本側がいくつかの間題により譲歩が難 しくなり,日 中関係正常化が延期されることを避

けようとした。「黙認事項」の具体的な内容にっいては151)主に以下の3点 である:

-209

人 文 学 報

① 台湾は,中 華人民共和国の領土であつて,台 湾を解放することは,中 国の内政問題であ

る。

② 共同声明が,発 表された後,日 本政府が,台 湾から,そ の大使館,領 事館を撤去 し,ま

た,効 果的な措置を講 じて,蒋 介石集団の大使館,領 事館を日本から撤去させる。

③ 戦後,台 湾における日本の団体と個人の投資及び企業は,台 湾が解放される際に,適 当

な配慮が払われるものである152)。

竹入義勝 は帰国後,会 談結果である 「8項 目要点」と 「黙認事項」を 「竹入 メモ」 としてま

とめて田中首相に提出 し,以 後双方の政府の正式な共同声明の原本 となった。

1972年9月1日 に田中角栄はアメリカ大統領のニクソンとハワイで会談 し,「 コミュニケ」

を発表 した。ニクソンはその中で田中角栄の中国大陸訪問について,ア ジアの緊張情勢緩和の

助けになるだろうとして,積 極的な反応を見せた153)。田中内閣はアメリカの公式の支持を得

て,大 平正芳外相 は9月9日 に自民党衆議院議員の古井喜実,田 川誠一および元外交官の松本

俊一を日中 「覚書貿易」(中国ではr備 忘録貿易」)の協議の機会に北京に直行させた。 さらにio

日には何香凝の葬儀の機会に慶承志の自宅で双方の国交樹立について協議 した。古井 は先に日

本政府の考えを表明 した:

① 日中首脳会談の合意事項は,共 同声明としたい。

② 日本側は,共 同声明を国会に批准 しないで,報 告事項とする。

③ 共同声明の前文 には,次 の点を表明したい。

(1) 日本は,過 去の戦争に対して,深 く遺憾の意を表明する。

(2) 日中両国は,一 衣帯水の関係にあり,両 国の国交正常化は,ア ジアおよび世界の

平和に大きく役立つものである。

(3) 両国は,政 治,経 済体制が違っても,お 互いに尊重 しあって友好関係を維持する。

④ 本文には,次 の諸点を盛 り込みたい。

(1) 日中両国は,共 同声明で戦争の終結を表明する。

(2) 日本は,中 華人民共和国を中国を代表する唯一の合法政府 と認め,直 ちに外交関

係を結び,す みやかに大使を交換する。

(3) 台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを,日 本は十分理解 し,

尊重する。

⑤ 台湾との外交関係は,こ れと同時に断絶されるが,日 本政府は台湾については,別 に具

体的な態度表明を行なう154)。

また,古 井は彦承志 に対 して 「日本は台湾を説得する必要があるが,こ の点については理解

をお願いしたい」 と強調 した。彦承志は 「椎名さんが飛行機に乗 って,台 湾へ飛んで行きさえ

すればいいので しょう」155)と述べた。中国側 はその日の午後1時 に北京飯店 の古井を訪れ,

-210一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

『日中共同声明要綱の日本側基本方針要旨」を受け取 った。原文は以下の通りである:

前文(略)

字句の修正を検討中であったため大平外相の手元においてきた関係で口頭で説明。

本文

① 両国政府は,戦 争状態が終結 したことを確認する。

② 日本側は,中 華人民共和国政府を中国を代表する唯一の合法政権として承認する;

③ 中国側は,台 湾は中国の領土の一部であることを再確認する。 日本側は,中 国の主

張を理解 し,尊 重する;

④ 中国側は,対 日賠償請求権を放棄する;

⑤ 両国政府 は,1972年 ○月○日から外交関係を開設 し,な るべ く速やかに大使を交

換する156)。

草案に目を通 した後,中 国側はす ぐに綱要の中に日本側が以前摩承志邸で承諾 した 「日台条約

の終結の確認」と 「日台断交」の2っ が履行されていないことにっいて確認を求めた。 これに

対 して古井 は 「この部分は共同声明には盛 らないが,外 務大臣の談話ないし声明という形で,

共同声明調印の直後に日本側か ら発表する」157)と述べた。

日中双方が関係正常化の準備工作を急速に進めていた9月17日 に,田 中内閣は日本政界の

親台人士 による圧力を受け,ま た資本主義陣営に属するアジアの各国もそれぞれ日中関係の正

常化はこのように急いで進めるべきではないとす る慎重論を表明 し,こ のような国際世論の影

響を受けて田中内閣は自民党副総裁の椎名悦三郎を特使として派遣 し,田 中角栄総理の直筆の

書簡を蒋介石に渡 し,中 華民国政府 に対 して日本政府の日中関係正常化に関する決定 と,以 後

の日台関係の位置づについて説明することにした158)。9月19日 に椎名悦三郎は台湾に到着す

ると,田 中角栄直筆書簡を渡 し,「 自民党日中関係正常化協会」 の対台湾に関する基本方針を

も伝えた。 「自民党 日中関係正常化協会」 は日本はこれまでの外交関係を含む日台関係にっい

て配慮す ることを強調 した159)。言 いかえれば協会は日本は二重承認の方式によ り台湾との国

交問題を処理することを主張 した。

「自民党 日中関係協会」の論調 は不運にも田中角栄の書簡で表明された立場 と異なるところ

があった。直筆書簡の中で田中角栄 は両岸政権が共に中国は1つ しかないという立場を主張す

るのであれば,日 本は中共 と関係正常化 した後に日台間の外交関係を継続す ることはできず,

中華民国政府が特に異議を唱えないのであれば,日 本政府は民間交流の方式により日台間の貿

易経済など実質的な関係を維持す ることを希望すると述べた160)。つまり田中内閣は 「政経分

離」関係の枠組みにおいて以後の日台関係の位置づけることを決定 したのであった。それゆえ,

椎名悦三郎が伝えた 「自民党日中関係正常化協会」の二重承認の建議は面子に配慮 しただけの

ものであった。それは日本政府の外交政策に抵触す るだけでな く,日 本政府は両岸と同時に

一211一

人 文 学 報

「正式な」 外交関係を保持することは根本的に不可能であることがわかっていたことか ら,日

中国交樹立交渉の過程の中でこのことにっいて論及 しなかったのは当然のことであった。

さらに分析するならば,断 交後の日台関係はす ぐに 「不完全な政経分離」の枠組みに転換 し

たことから,「名分判別線」(国交回復により突破した 「政治的名分」の境界線)を 越えた日中関係

は 「政経一体」関係のサブ類型である 「不完全な政経一体」にならざるを得ず,中 共がもとも

と期待 していた 「政経一体」(政経不可分)の 理想モデルに両国関係を発展させ ることはできな

かった。 この他にも日本政府には計算があった。政治的に日台断交後双方の実質的な関係を維

持するためには交渉の余地を作り出す必要があった。軍事安全上は 「台湾は中華人民共和国領

土の不可分の一部である」 と軽率に 「承認」(recognize)し,1960年 の新 「日米安保条約」 に

おける 「極東条項」161)に抵触 して 日米関係 に不要 な問題を もた らす ことを避 けねばな らな

かった。 さらに,日 本政府 は終始 「理解 し尊重する」(understand and respect)と いうあいま

いな用語で中共の 「台湾は中華人民共和国領土の不可分の一部である」との主張 に回答 したと

ころに162),日本の深謀遠慮があった。1972年9月29日 に日中は正式に国交を樹立 した。 日台

関係はこれにより同日断交せざるを得ず,双 方は過去の 「不完全な政経一体」関係か ら 「不完

全な政経分離」 関係に後退 した。 日台関係の20年 間(1952年 ~1972年)に 固め られた硬い基

盤は50年 の植民地経験 と歴史的文化的感情にまで遡 り,さ らに日本 は中華民国に対 して短期

のうちに完全に断ち切ることの難しい政治,経 済貿易,文 化および軍事安全上の直接,間 接的

利益 と複雑に絡まりあった感情的なもっれを有 していた。それゆえ,日 台間がこれまで維持 し

てきた緊密な政経関係をす ぐに 「政経分離」の理想モデルに後退 させ,中 共が望むような日台

の 「政経断絶」状態にすることができる可能性はおそらくほとんどなか ったといえる。

6.結 論

戦後 日本の台湾政策の形成と転換は日本の対外政策全体の一環ではあったが,そ のおよぶ範

囲は広 く,変 化の過程は疑いなく戦後東アジア国際政治および経済発展の鮮明な縮図であった。

100年 前に 「法治主義」 を主 とする西洋国際法の秩序の中か ら生まれた重商主義の思潮 は,戦

後日本がいかに国家経済の復興 と富強を構想 し,対 外政治および経済関係を運営するのかとい

う点にっいてわれわれが とらえ る際に大きな影響を与えた。同様 に,「礼治主義」を主 とし,

「法治主義」 を従 とする東洋の国際法秩序の中で 「中華世界帝国」が 「名分論」 と 「秩序論」

を堅持 してきたことにより,わ れわれは 「名実」間の弁証関係と過去の東アジア国際秩序安定

の重要性にっいて理解することがで きた。このような研究の中で 日本の対両岸政策を分析する

際に,い かにして 「政治的名分」と 「経済的実益」の取捨 と調整を通 して日本の国益を最大化

しよ うとしたのかを理解することで,わ れわれは理論構築において多 くの刺戟を受 けた。

-212 一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

戦後初期においてアメリカの世界的な冷戦戦略はケナンの構想に基づいて,共 産主義陣営に

のみ 「重点封 じ込め」を実施するというものであった。朝鮮戦争勃発後アメ リカの世界戦略構

想 は改変を迫 られ,「 重点封 じ込め」 から 「全面封 じ込め」 に変わった。米 ソを頂点 とする資

本主義 と共産主義陣営の先鋭な対峙により,戦 後アメ リカの冷戦戦略構想の勢力下で国家経済

の復興を望んでいた日本は不可避的に資本主義陣営に参入 し,共 産主義陣営に対 して 「政経断

絶」モデルにより対応 した。

この東西冷戦 という国際的根本的要素により中国の政局は変動 し,さ らに日本の東アジアに

おける発展の枠組みも制約 して行った。国共内戦の悪化により中国は2っ の政権に分裂 し,台

湾海峡両岸に対峙 した ことにより,日 本は両岸政策において戦後以降は果た してどちらの 「中

国」と政府側の政経関係を樹立 し,ど ちらと民間の政経関係のみにとどめるのかという難題に

直面することになった。勃興 した中共政権は中国の大部分の領土を継承 したが,敗 れて台湾に

逃れた中華民国政府は依然 として台湾,膨 湖,金 門および馬祖地域を有効的に統治 し,「1っ

の国家,2っ の政府」という対峙 した政局を形成 した。 日本はこの中国内部で発生 した 「不完

全な王朝交代」(国 際法上における 「不完全な政府承継」)と いう情勢により,「分裂分治」 という

政局の発展に順応 しなければならなかった。 しか し,日 本が最 も解決 しがたかった問題は対峙

する両岸が同時に 「1つ の中国」 を主張 し,「漢賊両立せず」 を堅持 していたことであった。

両岸は 「漢賊両立せず」 と 「一っの中国」 との主張を強調すればするほど,「政経一体」関係

が要求される。 日本はいかにして現実の政治的難局を突破 し,最 も国益に符合する外交選択を

したのだろうか。

帰納的にいうな らば,国 際的政局において米ソニ強の鋭い対峙により,資 本主義陣営と共産

主義陣営間において 「政経断絶」モデルを推進 していた。さらに,海 峡両岸で も2っ の敵対的

陣営に分かれ,双 方は文化的価値観において 「漢賊両立せず」を堅持 し,政 治的立場において

ゼロサム ・ゲームに従事 し,中 華民国政府は双方の関係において日本に対台湾 「政経一体」,

対中国 「政経断絶」のモデルを貫徹することを強 く要求 した。中華民国政府が堅持 したことに

より,戦 後対外貿易を拡大 し,国 家経済の復興を責務 としていた日本政府の外交の知恵が試さ

れることになった,

吉田茂総理の前期,と りわけ1950年12月 か ら1952年6月 の間は日本政府は両岸 との政経

関係にっいて,大 部分は対台湾 「政経一体」,対 中国 「政経断絶」の交流枠組みに依存 してい

た。 しか し吉田内閣後期,特 に1952年6月 から1954年12月 の間,日 本政府は両面手法をと

り,対 台湾 「政経一体」,対 中国 「政経断絶」 の政経交流モデルについて,日 本政府は一方で

はアメリカと中華民国政府の圧力により中華民国政府を中国の代表とし,「 唯一合法」 の正統

的地位を有する政経(国 交と経済貿易)交 流対象として選択 しなが ら,他 方では対外経済貿易発

展の需要に基づき,ひ そかに中共 と実質的な経済貿易交流を進めるという最良の政策を選択 し

一213一

人 文 学 報

た。 日中が終始一定程度の政経接触を保持 していたことにより,元 の理想的な 「政経一体」の

日台外交の枠組みは事実上 「不完全な政経一体」というサブ類型に発展 し,ア メリカと中華民

国政府が望んだ情勢から完全に逸脱 した。

鳩山内閣時期(1954年 ~1956年)の 台湾政策は,「 不完全な政経一体」 という軸による発展

を保持 しながらも,日 中政経関係は鳩山内閣がアメリカに対 して 「自主外交」を強調 したこと

により,中 国に対 しても先 に経済貿易か ら着手 し,徐 々に国交回復を達成するという政策をと

り,日 中関係を 「政治的名分」がやや疎遠な 「政経分離」関係か ら,「政治的名分」がやや緊

密な 「不完全な政経分離」 という交流モデルに転換させた。石橋内閣(1956年 ~1957年)は 鳩

山内閣の両岸政策を継承 し,中 国に対 してはやや緊密な 「不完全な政経分離」を継続 し,台 湾

に対 してはやや疎遠な 「不完全な政経一体」の交流モデルに転換 しようとした。 このような情

勢下で,政 経交流モデルの 「上下移動」 と 「左右振動」という現象 は,岸 信介首相の任期中ま

で変化 し続けた。

岸内閣時期(1957年 ~1960年)の 日台関係は日中関係が依然 として 「政経分離i」関係にあり,

中華民国が期待 した 「政経断絶」モデルではなかったことから,「不完全な政経一体」 関係を

維持するのみであった。 しか し,口 本の対中政策は岸内閣が意図的に鳩山派の親中およびアメ

リカに対 して相対的な自主を保持するという路線を 「抑圧一緩和 コントロールメカニズム」に

より,吉 田派の 「親米反共」路線に回帰 させた。 日中関係 は原点 に回帰 しなか ったものの,

「政治的名分」においてはさらに疎遠な方向に移動 し,「政経分離」 というもともとの交流モデ

ルに回帰 した。

池田内閣(1960年 ~1964年)に なると,池 田首相は日中政経関係の改善を決め,日 台の 「不

完全な政経一体」関係 は 「政治的名分」の関係上いったんは疎遠になりかけたが,ア メリカの

東アジア戦略構想や中華民国が国連において中国を代表する正統的地位にあるなど国際政治の

要素による影響を受け,か っ日本が台湾に有する経済貿易の利益がますます増大 していたため,

「不完全 な政経分離」 の佳境 に達 していた日中関係は 「名分判別線」 に再接近 したものの突破

する力はなく,日 台の 「不完全な政経一体」関係という根本的な枠組みを変動させることはで

きなかった。

佐藤内閣時期(1964年 ~1972年)の 日台の 「不完全な政経一体」関係 は,佐 藤が政治あるい

は軍事安全上において支持 したため,双 方の 「政治的名分」関係はさらに緊密になった。対 し

て日中関係は対立の中で一定程度の実質的な政経接触を維持 していたが,佐 藤が 「抑圧一緩和

コントロールメカニズム」 を調整すると,双 方の交流は再び 「政経分離」 の疎遠なモデルに

陥った。

ここか らもわかるように,全 体的に中共は,戦 後日本の 「対台湾 「不完全な政経一体』,対

中国 『政経分離」」 というモデルの 「左右振動」による 「左右逢源」 という狙いをうまく利用

一214一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

し,一 定程度の実質的な政経接触を保持 し,「民をもって官を促す」あるいは 「半官半民」 と

いった 「商を もって政を囲む」と行った外交戦略を利用 し,日 中関係は 「政治的名分」の疎遠

さの程度において改善 し,「不完全な政経分離」 の局面に入ることを図った。 しかし,中 共は

終始 「政治的名分」のカギとなる要素を克服できず,「名分判別線」を越えることはできな

か った。 このため,こ のような実質的な政経交流 という状態は,双 方が 「政治的名分」のない

ままで,「 非公式な」 政治的枠組みを通 して双方の実務関係を発展させるという便宜的な措置

にすぎなかった。 日中関係 は波風は立 っていたが,1972年 の正式な国交樹立までは度重なる

日本の内閣交代によって 「政治的名分」関係が変化 し,日 本側は 「抑圧一緩和 コントロールメ

カニズム」を通 してそれぞれ異なる程度において調整 し,情 勢の起伏によって 「政経分離」の

理想型 と 「不完全な政経分離」というサブ類型の間を揺れ動いていた。

1972年 以前 は日中関係 は構造的な制約を受 けており,国 際政治上の要素以外にも,経 済的

条件において日台の経済貿易交流に遅れているという現実があり,当 時の中華民国が対 日外交

において中共よりも多 くの交渉手段をもっていた主要な要因であった。当時の日本国内全体の

経済の生産高からいえば,日 中あるいは日台貿易はその占める割合からいえばそれぞれ限界が

あった,し かし,戦 後の日台経済貿易はそれまでの 「植民地依存経済体制」の延長であり,中

華民国の経済発展モデルが 「輸入代替」か ら 「輸出主導」工業化戦略に転換すると,「 日本一

台湾一アメ リカ」の 「太平洋貿易三角形」において日本は対米輸出の重要な中継点となった。

この構造的な優位性により日本政府は日台関係を処理する際に,国 際政治の圧力を考慮する以

外 にも,日 中の 「政経分離」関係の変動が日本が台湾で獲得 した長期,短 期的経済貿易の利益

に影響するのかどうかを判断 しなければならなかった。結果的に中国大陸市場の長期的な潜在

力を日本 は見通 したが,1965年 以後になってようや く輸出超過の効果により大陸市場は拡大

し,早 くも1956年 に損失が出始め,輸 出超過 による成長の趨勢にあった台湾市場が,対 外経

済貿易の軽重を選択する際に考慮せざるを得ないところであった。この時,対 台湾 「不完全な

政経一体」関係の維持 と,同 時に日中 「政経分離」枠組みを堅持することは,「両立せずを誓

う」 両岸政権 の鋭い対峙という情勢の中で日本が一方の 「政治的名分」 に配慮 し,双 方か ら

「経済貿易の実益」を獲得することができる最もよい選択であった。

1970年 代にベ トナム戦争の情勢が悪化 し,ア メ リカの世界戦略構想は変更を迫 られ,米 中

関係は緩和に向か った。ニクソン政府による中華民国政府が中国を代表する 「唯一合法」の正

統的地位にあるという政策 は全面的に調整された。中華民国が国連において中国を代表 してい

た議席 は中華人民共和国に代位された。戦後 日台関係を 「政経一体」の枠組みの中にコント

ロールしていたこの2っ の重要な支柱が失われると,情 勢は急転直下に変動 した。 この時,ア

メリカの政治的ロジックが日台の政治的紐帯に生死の瀬戸際に至るまでの衝撃を与え,日 台関

係と日中関係は政経交流モデルの双方における転換という重要な時期に突入 した。

-215一

人 文 学 報

1972年 に田中内閣はニクソンの北京訪問の衝撃を受けて,日 中外交をもって日台外交 に代

えることを決定 した。 理論上,中 国 ・日本 ・台湾三者の交流モデルは,「 政経関係の類型転換

のメカニズム」を通 して,日 中関係が迅速に 「不完全な政経一体」類型へ転換す ると,日 台関

係は 「不完全な政経分離」に転換するのであった。当時,両 岸はそれぞれ 「1っ の中国」の立

場を堅持 していたため,日 本が中華人民共和国を中国の 「唯一合法な」代表であると承認 した

ことにより,日 台の国交は断絶 した。断交後,双 方は 「財団法人交流協会」 と 「亜東関係協

会」を設立 して日台実務関係の交流メカニズムを維持 し,双 方の文化,政 治,経 済,軍 事およ

び安全の利益が完全に断ち切れないという状況の下で,日 台関係は 「不完全な政経分離」とい

う新 しい交流枠組みに急転換 した。 この時,日 台関係のモデルは双方が 「不完全な政経分離」

モデルの下で,依 然 として実務的な政経交流関係を保持 して運営す るというものであった。そ

れゆえ,日 中国交樹立後の日台関係は,実 質的には中共の理想である 「政経断絶」状態に完全

に入 ったわけではなかった。明らかに戦後日本の台湾政策は国内外の複雑に錯綜 した要素によ

り影響され変動 したが,一 定の国際政経情勢の制約の下で,日 本は両岸が 「1つ の中国」を要

求 し,終 始 「政経一体」 という高度な戦略を保持 しようとすることに対 して 「政経分離」とい

うモデルを発展させ,日 本の対 「両岸」交流の基本的枠組みとし,そ の後に 「両岸を合わせて

一中とする」「対中国」および 「対台湾」の基本政策の上に,情 勢の変化に応 じてメイン,サ

ブ類型の比重を調整 した。対 して,両 岸の対 日関係 は日本が情勢 により 「抑圧一緩和 コン ト

ロールメカニズム」を調整することに対応 して,メ イ ン,サ ブ類型の間を振動 した。

「政経関係の転換メカニズム」 に至 っては,外 交関係の 「有無」を操作する 「スイ ッチ」 に

よって主に決定される。 この 「スイッチ」を設定する基準は,す なわち国家の 「政治利益」で

ある。国家の最高政治利益 に符合するならば,「 スイッチ」 は開 くし,国 家の最高政治利益に

違反するならば,「 スイ ッチ」 は閉 じてしまう。 それゆえ,そ れは交流の過程の中で,双 方の

関係が 「名分判断線」の 「政治名分」の上で継続するかどうかをけっていす る。国家の 「経済

利益」は,交 流の過程の中で 「親疎関係」の 「明暗の程度」を調節する役割を演 じるのみであ

る。 国家の 「経済利益」 に符合するならば,関 係はやや 「親 しく」 なり,光 度はやや 「明る

く」なる。国家の 「経済利益」 に符合 しないならば,関 係はやや 「疎遠」になり,光 度はやや

「暗く」なる。それゆえ,こ のように言える。政治利益はすなわち 「スイッチ」の 「オンオフ」

調節メカニズムである。「経済利益」はすなわち光度の 「強弱」を調節するメカニズムである。

前者は国交の 「有無」であり。大局を決定する生死の分かれ目である。後者は外交の 「親疎」

関係の強弱調節メカニズムにすぎず,生 死に関わ らない。

まとめて述べれば,政 治利益は 「電源の有無」 のスイッチのようであり,そ れは 「国交関

係」の有無を決定する。経済利益は 「光度」の調節器のようであり,そ れは 「経済貿易関係」

の親疎冷熱を決定する。 それゆえ,「 スイッチ」 に加えて 「調節器」があって初めて,電 気器

216一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

具の性能を発揮できるのである。 ゆえに,「 スイッチ」+「調節器」=国 家の最高の 「政治利益」

+「経済利益」というのが,本 論文における 「政経関係の類型転換のメカニズム」である。

帰納的にいうな らば,第 二次大戦後から1972年 まで,両 岸は国際的生存空間を開拓するた

め,日 本の支持を争 った。 これに対 して,日 本は 「政経分離」 の原則の下で,ど の 「政府内

閣」 も両岸 との関係に関 しては 「大同小異」 の 「政経モデル」 であり,か つどの 「政経モデ

ル」 も 「親台」と 「親中」の 「抑圧一緩和」コントロールメカニズムの中で揺れ動いていた。

両者は共に 「政経一体」から 「不完全な政経一体」の間,あ るいは 「政経分離」から 「不完全

な政経分離」の間で揺れ動き,「上下移動」と 「左右振動」の幅が 「大小不一」だけであった。

両岸は日本に対 して 「政経一体」による交流を要求するも,日 本の 「政経分離」原則により

モデル転換を迫 られた。中華民国の交流モデルは 「不完全な政経一体」モデルに転換 し,中 共

は 「不完全な政経分離」 モデルに転換 した。 同様に,双 方において日本が 「親台」 あるいは

「親中」の 「抑圧 一緩和 コントロールメカニズム」を採用 したことにより,政 治の 「上下移動」

と経済の 「左右振動」とい う類型転換による揺れ動きの幅が起 こった。マクロの視点からみれ

ば,モ デル構築を通 して 「政経分離」と 「政経一体」のメイン・サブ類型に基づいて分析する

と,そ の振動の幅 も 「親台」あるいは 「親中」の 「抑圧一緩和」 コントロールメカニズムによ

り 「大小不一」であった。振動幅の大小にっいては,歴 代 「内閣」単位でさらに振動幅現象の

研究を行ない,「 あいまいな集合方法」(fuzzy-set methods)に よる定性分析 と 「統計データ」

(statistical data)に よる定量分析を通 して,上 下移動の比率および左右振動の幅を計算できる

ようになる。

総 じて,「 政経分離」 は第二次大戦後の日本の両岸に対する政策手段であり,「政経一体」は

両岸の日本に対する政策要求であった。本稿では日本の立場か らみて,「 政経分離」 は手段で

あり,「政経一体」 こそが目的であると明 らかにした。 日本は両岸に対 して 「政経分離」の手

段を採用 したことにより,「政経一体」 の効果を達成で きた。 その理由として,両 岸が政治的

に 「漢賊両立せず」と対立する情勢の中で,日 本にとってみれば経済貿易において対台湾およ

び対中国で成果をあげることこそが最高の国益であったからである。それゆえ,日 本政府は

「政経分離」政策を採用 し,最 初は 「まとまったものをばらばらにする」(一中を両岸に分ける)

という方法を通 して,そ の後はさらに 「ばらばらなものをまとめる」,す なわち 「両岸を合わ

せて一中 とする」 という政経利益を獲得することが日本の最高の国益 となった。 「政経分離」

の外交的枠組みを通 して,日 本 は 「台を捨て中を取る」あるいは 「中を捨て台を取る」という

両立 しがたい政経の困難を突破 しただけでなく,「両岸を一中とする」 ことに成功し,政 経に

おいて二兎を得るという目標を達成 した。 これはまさに世界が資本主義,共 産主義の二大対立

陣営に鋭 く分裂 し,中 国が互いに両立 しないROC対PRCと いう政権に分裂す る中で,日 本

が採用せざるを得ない便宜的な措置であった。これに対 して両岸は 「漢賊両立せず」という政

一217一

人 文 学 報

策の下で,ゼ ロサム的な 「政経一体」という対策 と願望を有 していた。基本的に両岸 は相手を

封 じ込め,協 力する余地を喪失 し,互 いに隙を与えただけでなく,最 後までどちらも 「政経一

体」 という願望を達成できず,ど ちらも 「政経一体」という政策 目標を実現できなかった。

さらにわれわれは日台および日中の政経関係モデルの変化において,最 も決定的な力は,か

って日台経済貿易関係あるいは日中経済貿易関係がどのような水準 に達 していようとも,経 済

貿易 は双方の 「ロー ・ポリティックス」(Low Politics)の関係において一っの起点 しかないこ

とであり,最 終的に突破することが困難な政治的限界であった。第二次大戦以降の日台および

日中関係の形成 と変化を歴史的経験からみれば,政 治外交の構造的な問題は往々にして政治の

ロジックによってこそ突破できるのであり,政 治のロジックによる突破があって初めて政経交

流関係にモデル転換が生 じ,構 造的な変化をもたらすのであるとい うことが確認できる。結論

的にいうと,「経済貿易」 を手段 として 「政治」的目的を達成す ることを意図するという状況

のもとでは,「 経済貿易関係」 の緊密化によっても 「名分判別線」 を突破で きず,「 政治的な

壁」を突破す るという目的を達成することはできない。っまり,経 済貿易は影響をあたえる要

素にすぎず,政 治的な壁は政治的なロジックにより解決 しなければな らない。逆 に政治的条件

の変化は往々にして国家間の経済貿易交流の盛衰を決定する。

また,「政経分離」の基本的枠組みの下で,日 本が両岸 と政経関係をすすめる過程において,

サブ類型である 「不完全な政経分離」 は日本が両岸と交流する政策手段であり,「政経一体」

は日本 と両岸が交流する政策目標であった。 これに対 して,「 政経一体」 は両岸の対 日外交に

おける基本的枠組みであったが,「 不完全な政経一体」 こそが両岸が対 日外交を争 った際に実

際の運用モデルであり,実 際に獲得 した不完全な政経利益で もあった。1972年 に両岸の情勢

が逆転 しても,日 本の両岸に対する政経交流モデルの基本的枠組みと両岸の対 日外交の局面は

基本的には変わらず,た だ適用対象が入れ代わっただけであった。

すなわち,第 二次大戦後主権独立 してから20年 の間,「政経分離」が日本が両岸政権 との政

経交流の過程の中で用いた基本的枠組みであり,「不完全な政経分離」 は政策手段であり,そ

の間における起伏現象 は政治的な 「上下移動」あるいは経済貿易上の 「左右振動」のどちらに

おいても,日 本政府が 「抑圧 一緩和 コントロールメカニズム」 という政策手段を通 して生み出

した可変性あるいは交換性によるものであり,最 終的には政経モデル転換による効果を もたら

し,そ の中で国益 も獲得 した。 この三者はまさに戦後日本政府の両岸 との政経交流過程 におけ

る唯一不変で一貫 した政策であったといえよう。

1)連 合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の 前身は元はアメリカと連合国軍に分かれた2つ の組織で

一218一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

あ った。GHQは 「アメ リカ太平 洋陸軍総司令部」 であ り, SCAPは 「連合国軍総司令」 である。

1945年10月2日,GHQは 横浜 か ら東京 に移転 し,元 のSCAPの 枠組 みを統 合 し,か っ対 日占

領政策 を執 行す る2つ の管理機構で ある 「極 東委員会」 と 「対 日理事 会」の機 能を持つ ことで,

アメ リカは戦後 の日本単独 占領政策 を貫徹す ることが可能 にな った。 金煕 徳,《 日美基軸 與纒濟

外交 一 日本 外交的轄型》(北 京:中 國社會科學出版社,1998年),p.19。

2) 張啓雄,〈 中 日和約締結前後的國際政局與 日本政纒情勢 一 以美國戦 略布局下 的台湾蹄属問題為

焦黒占〉,牧 入胡春恵,宋 成有主編,《 東北亜嚢展的回顧與展望國 際學術 討論 會論文選集》(台 北:

正中書局,2003年),p,84-85。

3) 張啓雄,〈 中 日和約締結前後的國際政局與 日本政纒情勢〉,p,85 一 86。

4)「 第二十七 部 平和 条約及 び日米安全保障条 約特別委員会会議録 昭和26年10月29日 」 第五

号,『 第十二 回国会参議院委員会会議録』四ノ四(東 京:参 議 院事務 局,昭 和26年11月1日),

P.5。

5) 「第一類 第五号 第十二 回国会衆議院外務委 員会議録 昭和26年10月31日 」 第二号,『 第十

二回 国会衆 議院委 員会議録』 四ノー(東 京:衆 議院事務局,昭 和26年11月10日),p.5。

6) 池 田勇人,「 第44回 国会(臨 時会)に おける所信表明演説」,1963年10月18日,「 東京大學

東洋文化研 究所 田中明彦研究室:帝 国議会 ・国会 内の演説」,2005年2月4日,〈http://www.

ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/〉(2006年9月28日);

李恩民,《 中 日民間纏 濟外交(1945 一 1972)》(北 京:人 民 出版社,1997年),p.244。

7) 司馬桑 敦,《 中 日關係二十五年》(台 北:聯 合報社,1978年),p.227。

8) このモ デルの研究 にっいては,以 下 を参照。

李恩民,《 中 日民間纒 濟外交(1945 一 1972)》;

陳肇斌,『 戦後 日本 の中国政策 一九五〇年代東 ア ジア国際政治 の文脈』(東 京:東 京大学出

版会,2000年),pp.1-5;

王 偉彬,「 中国 と 日本 一 1950年 代 を中心 にみた国交正 常化 へのプ ロセ ス』(京 都:ミ ネルヴァ

書 房,2004年)。

9) Hedley Bull, The Anarchicαl Society :αStudy of Order in World Politics (New York:

Columbia University Press,1995), p.156.

10) Jacob Viner,"Power Versus Plenty as Objectives of Foreign Policy in the Seventeenth

and Eighteenth Centuries,"World Politics,1:1 (1948), p.10.

ll) かって筆者 は 「中華世界秩序 原理 」に関 して一通 りの研究を行 ない,近 代西洋 の国際政治 シス

テムの形 成 および運 用原則 と異 な り,か つ東洋に起 源を もち,東 洋の国家交流行為を解釈す る国

際秩 序原 理 のモデル化を試 みた ことがある。 その中で 「名分秩 序論」の概念枠組 みお よび実証研

究 にっ いて は拙 著 を参照;張 啓雄,《 外 蒙主権 臨属交渉1911-1916》(台 北:中 央研究院近代史

研 究所,1995年),pp.9-19;

張 啓雄,《 海 峡雨岸 在亜洲開褒銀 行的中國代表権之孚:名 分秩序論観瀦的分析》(台 北:中 央研究

院東 北亜 塵域研究,2001年),pp.3-6。

12) 西 洋国際法秩序 にお ける 「主 権国家」概念 との混乱を避 けるた あ,こ の特別 な 「政治主体」 と

い う用語 によ って 「国家」に代え,東 洋,西 洋の国際秩 序の運営主体 における差異 を明 らか にす

る。 「東洋型」 の国際法秩序においては異 なる政治主体の運営 は,最 後 にいたるまで一つ の 「中

華 世界帝国」 を核心 とす る世界秩 序の下 に統一 されて いる。 それ ゆえ,「 東洋型」 国際法秩序 に

おいて は異 なる政 治主体間,す なわち近代以来の西洋国際法秩 序 にお ける 「主権国家」あ るいは

一219一

人 文 学 報

「主 権 国 家 」 間 の 「対 等 な交 流」 関 係 は 「礼 治」 の 国 際 シス テ ム に お い て は 常 態 で は な か った。

13) 張 啓 雄,〈 東 方 型 國 際秩 序 原 理 之 型 模 建 構與 分 析 一1956年 墨 爾 本 奥 運 會前 後 中 國 代 表 灌 之 孚 〉,

牧 入 張 啓 雄 編 著,《 戦 後東 北 亜 國 際 關 係 》(台 北:中 央 研 究 院亜 太 研 究 計 量,2002年),p,114。

14) 張 啓 雄,《 海 峡雨 岸 在亜 洲 開嚢 銀 行 的 中 國 代表 椹 之 雫:名 分 秩 序 論 観 黙 的 分 析 》,p.7。

15) 張 啓 雄,《 海 峡 爾 岸 在 亜 洲 開獲 銀 行 的 中 國代 表 椹 之 孚:名 分 秩 序 論 観 黒占的 分 析 》,pp.4-5。

16) 張 啓 雄,《 海 峡爾 岸 在亜 洲 開登 銀 行 的 中 國 代 表灌 之 事:名 分 秩 序 論 観 鮎 的 分 析 》,pp.7-8。

17) こ の 「主 権 国 家 」 の基 本 的構 成 要 件 の規 定 につ いて は1933年12月26日 に ホ ン ジ ュ ラ ス,ア

メ リカ等 の19の ア メ リカ 州 国家 が 「第7回 アメ リカ州 国 家 国 際 会 議 」 で制 定 した もの で あ り,

そ の後 発 効 した 「モ ンテ ヴ ィデ オ国 家 権 利 義務 条 約 」(Montevideo Convention on the Rights

αnd Duties of States)の 第 一 条 に お い て は,「 国 家 は一 っ の 国 際 法 人 と して 以 下 の 資 格 を有 して

い な けれ ば な らな い:(a)恒 久 的 な国 民,(b)明 確 な境 界 を持 つ 領 土,(c)政 府,お よ び(d)

他 国 の交 流 す る能 力」。 The Seventh International Conference of American States,

Montevideo Convention on the Rightsαnd I)uties of States,1933,190ctober 1999,

〈http://www.taiwandocuments.org/montevideo Ol.htm>(110ctober 2004).

18) 国 力(national power)と い う用語 に 関 して ひ と まず 定 義 す る と,「 そ の 国 が 目的 あ る行 動 を

通 して そ の戦 略 的 目標 を 追及 す る能 力 」 で あ る とい え る。 現 在 学 界 に お い て は国 力 の研 究 に つ い

て,概 ね 以 下 の 三 種 類 の異 な る範 疇(realms)に ま とめ られ る。 す な わ ち,国 家 資 源(nation-

al resources),国 家 能 力(national performance)お よ び軍 事 的能 力(military capability)

で あ る。 国 家 資 源 とは そ の 国 の科 学 技 術,企 業,人 的 資 源,金 融/資 本 資 源 お よ び物 質 的 資 源

を 含 む 。 国 家 能 力 と は国 家 の 外 部 的 な 制 約,基 礎 的 な 構 造 能 力 お よ び観 念 的 資 源(ideational

resources)に か か わ る も ので あ る。 軍 事 的能 力 と は そ の国 の 戦 略 的 資 源,転 換 能 力 お よ び両 者

を総 合 して達 成 で き る戦 闘 に精 通 した能 力 を含 む。

Ashley J. Tellis et al., Measuring National Power in the Postindustrial.Age(Santa Monica,

Calif,:RAND,2000), pp. 44 一 51.

19) 張 啓 雄,〈 東 方 型 國 際秩 序 原理 之 型 模 建 構 與分 析〉,p. 94。

20) い わ ゆ る 「国家 承 継 」 と は人 口,領 土,主 権 等 国家 を構 成 す る要 素 に重 大 な 変 更 が 発 生 す る こ

と を指 す 。 ま た,「 政府 承 継」 とは一 国 の 内 部 に お い て政 府,政 府 組 織 お よ び憲 法 構 造 の変 更 が

発 生 す る こ とで あ る。 あ る 国 にお いて 「国 家承 継 」 が 発 生 した場 合,「 承 継 国 家 」 が 完 全 あ る い

は不 完 全 に 「被 承 継 国」 に代 わ っ て国 際 法 主 体 と して の権 利 お よ び義 務 を 引 き継 ぐ。 「政 府 承 継 」

に お いて は 国際 法 主 体 を 代表 す る 旧政 府 が 新 政権 に完 全 あ るい は不 完 全 に交 代 す る際 に 引 き起 こ

さ れ る法 律 関 係 の こ と を い う。西 洋 国 際 法 の 観 点 か らみ れ ば,完 全 な 政 府 承 継 と は 「交 代 」

(substitution),「 解 体 」(dissolution)あ る い は継 続 して 存 在 しな い(discontinuity)と い う

客 観 的事 実 を有 して い な けれ ば な らな い。 それ ゆ え,新 政 府 が 完 全 に 旧 政 府 に代 わ る こ とが で き

ず,ま た は 旧政 府 が 解 体 せ ず に 同時 に継 続 して存 在 す る場 合 に は い わ ゆ る 「不 完 全 な政 府 承 継 」

と い う現 象 が発 生 す る。 張 啓雄,〈 琉 球 棄 明 投 清 的認 同轄 換 〉,張 啓 雄 編 著,《 琉 球 的 認 同與 編 属

論 孚 》(台 北:中 央 研 究 院 東 北亜 匝 域 研 究,2QO1年), p.57。

21) Malinda K. Goodrich,"Appendix B:The Council for Mutual Economic Assistance,"In

Soviet Union'αCo窃 η妙Study, ed, Raymond E. Zickel(Washington, D. C.:U. S. G. P. O.,

1991), 〈http://hd1.loc.gov/loc.gdc/cntrystd.su> (4 July 2006).

22) Robert Gilpin,7「he Politicαl Economy of Jnternational Relations (Princeton, N, J,:

princeton University Press,1987), p. 57;

-220一

「政 経 分 離 」 対 「政 経 一 体 」 の 「名 実 論 」 的 分 析(張 ・葉)

John McDermott,"Trading With the Enemy:British Business and the Law During the

First World War, Cαnadian Journal of Histo73i,32(1997), pp.201-219;

Panikos Panayi,"German Business Interests in Britain during the First World War,"

Business His to ry,32:2 (1990), PP,244-258.

23) Gilpin, The Politicαl Economy()f lnte77tαtionαl Relαtions, p.57.

24) 張 盛 護,〈 論 蘇 聯 在 「冷 戦 」 形 成 中 的 墾 措 〉,《 上 海 師 範 大 學 學 報 》,期1(1995年),pp.104-

109;張 盛 登,〈 職 後 初 期 斯 大 林 大 國 合 作 政 策 的 結 束(根 篠 新 解 密 的 梢 案 材 料)〉,《 東 欧 中 亜 研 究 》,

期5(2000年),pp.73-82。

25)Kenneth G. Weiss,"Export Controls:the Price of Nonproliferation,"ノburnal of Poωer

αnd Ethics:An interdiscif)linαry Reviezv,1:2 (2000), pp.169-200.

1993年4月 に ア メ リ カ 大 統 領 の ク リ ン ト ン(Bill Clinton)と ロ シ ア 大 統 領 の エ リ ッ ィ ンが バ

ン ク ー バ ー で の 首 脳 会 談 の 期 間 中 に,か つ て 国 際 社 会 が 伝 統 的 な 武 器 や 軍 民 両 用 技 術 が イ ラ ク に

流 入 す る の を 有 効 的 に コ ン トロ ー一ル で き な か っ た た め,1991年 の 湾 岸 戦 争 の 勃 発 を 招 い た こ と

か ら,冷 戦 終 結 後 の 国 際 的 安 全 の 新 局 面 に 応 じ て 率 先 し て 「新 フ ォ ー ラ ム 」(New Forum)に

よ っ て 従 来 の 多 国 間 輸 出 管 理 メ カ ニ ズ ム に と っ て 代 わ る こ と を 提 唱 し た 。1994年3月31日 の コ

コ ム の ハ イ レ ベ ル 会 議 で の 決 議 で 正 式 に コ コ ム の 運 営 の 停 止 が 宣 言 さ れ た 。 新 し い 多 国 間 輸 出 管

理 フ ォ ー ラ ム 「ワ ッ セ ナ ー 協 約 」(the urassenaar.Arrangement),は 原 加 盟 国 の28力 国 の 長 期

に わ た る 協 同 交 渉 を 経 て1995年12月18日 一19日 に オ ラ ン ダ の ワ ッ セ ナ ー一に て 可 決 さ れ,1996

年7月12日 に 正 式 に コ コ ム に と っ て 代 わ り,冷 戦 終 結 後 の 新 し い 国 際 的 輸 出 管 理 シ ス テ ム と

な っ た 。 詳 細 は 以 下 を 参 照 。

Michael Lipson,"The Reincarnation of COCOM:Explaining Post-Cold War Export

Controls,"The Nonproliferation Review, Winter(1999), pp.33-51.

26) Gilpin, The Political Economy()f ln te rnα tional Relations, p.57.

27) James D. Morrow, Randolph M. Siverson, arld Tressa E. Tabares,"The Political

Determinants of International Trade:The Major Powers,1907-90,"American Political

Science Revietv,92:3 (1998), pp.649-661;

James D. Morrow, Randolph M Siverson, and Tressa E. Tabares,"Correction to`The

Political Determinants of Internationa互Trade',"Americαn Politicαl Science Review,93:4

(1999), pp.931-933.

28) Gilpin, The Politicαl Economy()f lntemational Relations p,58.

29)鈴 木 健 人,『 「封 じ込 め 」 構 想 と米 国 世 界 戦 略:ジ ョ ー ジ ・F・ ケ ナ ン の 思 想 と 行 動,1931年 一

1952年 』(広 島 市:漢 水 社,2002年)。

30) Graharn T. Allisorl and Philip D. Zelikow, Essence of Decision :Explaining the Cubα

Missile Crisis(New York:LQngman,1999), pp.23-26.

31)胡 為 真,《 從 尼 克 森 到 何 林 頓:美 國 封 華 「一 個 中 國 」 政 策 之 演 攣 》(皇 北 市:皇 湾 商 務 印 書 館,

2001年),p.5;

Tang Tsou,ノ1魏2γ 歪cαむFailure in China, J941-50 (Chicago:The University of Chicago

Press,1963), pp,507-508.

32) ∫ohn Lewis Gaddis, Strategies of Containment :。A Critical.Appraisα1 of Postwαr A merican

Na tiona l Securi ty Policy(New York:Oxford University Press,1982), pp.54-55.

33) Efstathios T. Fakiolas,"Kennan's LQng Telegram and NSC-68:AComparative

221一

人 文 学 報

Theoretical Analysis," East Europeαn Quαrterly,31:4 (1998), pp.415,418 一 420.

34)X(George Kennan),"The Sources of Soviet Conduct,"Foreign Affairs,25(1947), pp.

566-582.

35) Gaddis, Strategies()f Containment, pp.59-60,

36) Tsou,ノ4挽 ε短oα智Failure in China,1941-50, pp,527 一 536.

37) Gaddis, Strategies of Contαinment, p.42;

Fakiolas,"Kennan's Long Telegram and NSC-68,"p.423.

38) NSC-68,"United States Objectives and Prograrns for National Security,"14 April 1950,

〈http://www.fas.org/irp/offdocs/nsc-hst/nsc-68.htm>(10 November 2004).

39) "Interview with Arrlbassador Paul H, Nitze,"6December 1995,〈http://www.gwu.edu/

~nsarchiv/coldwar/irlterviews/episode-2/nitze2.htm1>(10 November 2004);

Gaddis, Strategies()f Contαinment, pp.90-91;

林 正 義,〈 韓 戦 封 中美 關係 的影 響 〉,《美 國 研 究 》,巻19期4(1989年),p.83。

40) 張 啓 雄,〈 中 日和 約 締 結 前後 的 國 際 政 局 與 日本 政纒 情 勢 〉,p.85。

41) ヱ)epαrtment()f Sta te、Bulletin, July 3,1950, p.5,

42) 外 交 部 梢 案,012.6-021,〈 關 於 美 方 所 提 封 日和 約 稿 之 説 帖 〉(日 付 な し),《 美 國新 提 封 日和

約 初 稿 》,民 國40年12月31日 。

李 榮 秋,〈 第 一 次 台 海 危 機 期間 的 美 國 封 華 政 策 〉,《政 治 學 報 》,期9(1981年),pp,196 一 198;

林 正 義,〈 韓 戦 封 中美 關係 的影 響 〉,pp.94-95;

張 啓 雄,〈 中 日和 約 締 結 前 後的 國 際 政 局 與 日本政 纒 情 勢 〉,pp.87-88。

43)「 参 議 院 会 議 録 国務 大 臣 の演 説 に関 す る件(第 三 日)昭 和27年1月26日 」 第 七 号,『 第 十 三

回 国 会 参 議 院会 議 録 』(東 京:参 議 院 事 務 局,出 版 年 月 な し),p.59。 中 華 民 國外 交 問 題 研 究 會

編 《金 山和 約 與 中 日和 約 的關 係 》(台 北 市:中 華 民 國外 交 問 題 研 究 會,1966年),p.208。

44) 中 華 民 國 外 交 問 題 研 究 會編,《 金 山和 約 與 中 日和約 的 關係 》,p.211。

45) Chalmers Johnson,"The Patterns of Japanese Relations with China,1952-1982,"Pacijic

Affaiγs,59:3 (1986), p,404.

46) United States Department of State, Foreign Relations of the United States(FR US),1951

(Washington, D. C.:U. S. Govt. Print Office,1977), pp.1437-1439;

∫ohnson,"The Patterns of∫apanese Relations with China,1952-1982,"p.404.

47) Johnson,"The Patterns of Japanese Relations with China,1952ヨ982,"p.404.

48)Qingxin Ken Wang, Hegemonic Cooperationαnd Conflict :Postwαr/Opan 's China Polic),

and the United States(Westport, Conn.:Praeger,2000), p.114;

中華 民 國 外 交 問題 研究 會 編,《 金 山和 約 與 中 日和 約 的 關 係 》,p.211。

49) 張 啓 雄,〈 中 日和 約 締結 前後 的國 際 政 局 與 日本 政纏 情 勢 〉,pp,94 一 96。

50)資 料 に よ れ ば,中 華 民 国 政 府 は1950年 の 初 め に ア メ リ カ で 「チ ャ イ ナ ロ ビ ー」(China

Lobby)を 結 成 し,ア メ リカ の 行 政部 門 に圧 力 をか け,56名 の 上 院 議 員 の連 名 で トル ー マ ン大

統 領 に要 望 書 を提 出 し,ア メ リカ が 日本 政 府 が 中 華 民 国 と平 和 条 約 を 締 結 す るか ど うか に よ り上

院 で の 「サ ン フ ラ ン シス コ平和 条 約 」 の批 准 を 考 慮 す る こ とで,早 期 の 主 権 回復 お よび 独 立 を希

望 して い た 日本 に 対 して譲 歩 さ せ るよ う に希 望 した。1951年6月3日 に ア メ リカ 国 務 長 官 の ダ

レス が訪 英 し 「対 日平 和 条 約」 を協 議 す る際 に,行 政 院 は 「対 日平 和 条 約 研 究 グ ル ー プ 会 議 」 を

開 催 し,「 ア メ リ カ民主 共 和両 党 の有 力 人 士 によ るわ が 国(中 華 民 国)へ の 声 援 の 発 動 」 を 決 議

一222一

「政 経 分離 」 対 「政 経一 体 」 の 「名実 論 」 的分 析(張 ・葉)

し,さ ら に6月4日 に は駐 米 大 使 の顧 維鈎 と国連 代 表 の蒋 廷 骸 に そ れ ぞ れ 電 報 を送 付 した 。 中 華

民 国政 府 は ア メ リカ の 支 持 に よ り 「中 日平 和 条約 」 の 締 結 を左 右 す る こ とが で き,「B本 は今 後

数 年 の 外 交 政 策 に つ い て は ア メ リカ に 従 うだ ろ う。 ア メ リカ が 日本 が わ が 国(中 華 民 国)と の 平

和 条 約 締 結 を断 固 と して 主 張 す れ ば,日 本 は必 ず服 従 す るだ ろ う。 しか し,ア メ リカ の態 度 が あ

ま り積 極 的 で な け れ ば 中 日二 国 間平 和 条約 の早 期 締 結 は難 し くな るだ ろ う」 と みて い た。 す なわ

ち,中 華 民 国 の建 議 は ア メ リカの極 東 戦 略構 想 に符 合 して い た こ とに よ り ア メ リカ に よ って 採 用

さ れ,ア メ リカ極 東 戦 略 構 想 の 新 た な 調 整 が 「日華 平 和 条 約 」 の 締結 を 促 した根 本 的 な原 因 で あ

る。

許 介 鱗,〈 戦 後 中 日關 係 之 輔 攣 〉,牧 入 中央 研 究 院 近 代 史 研 究 所 主 編,《 第 三 届 近 百 年 中 日關 係 研

討 會 論 文 集(下 冊)》(台 北:中 央 研 究 院 近 代 史研 究 所,1996年),p. 848;

何 思 慎,《 擁 盈 在 爾 岸 之 間 一 戦 後 日本 封 華 政 策(1945 一 1997)》(台 北:東 大 出版 社,1999年),

P. 46;

FI~US,1951, pp.1445-1446;

外 交 部 梢 案,012.6-106,《 封 日和 約 辮 理 纒過 節 要 案 》,民 國39年10月20日 至 民 國40年7月

12日;

張 啓 雄,〈 中 日和 約 締 結 前 後 的 國 際 政 局 與 日本 政纒 情 勢 〉,pp.94-96;

Johnson,"The Patterns of Japanese Relations with China,1952-1982,"pp.403-404,

51) 中 華 民 國 外 交 問 題 研 究 會 編 《金 山 和 約 與 中 日和 約 的 關 係 》,p186-187。

52) 《中 華 民 國 與 日本 國 間 和 平 條 約 》(日 本 語 で は 「日華 平 和条 約 」)の 全 文 にっ い て は 「中 華 民 國

外 交 部 光 礫 影 像 査 詞 系 統 」HP(http://210.69.210. 30/mofaimg/default.htm)で 参 照 で き る。

(2004年12月12日)。

53) 外 交 部 梢 案,031.3-0102,〈 封 日纒 濟 合 作 計劃 綱 要 草 案 〉(日 付 な し),《 有 關 中 日合 作 案 》,

冊1,民 國41年5月1日 至41年9月8日 。

54) 《中 華 民 國 與 日本 國 間 貿 易 辮 法 》,《中 華 民 國 與 日 本 國 間 貿 易 付 款 辮 法 》 お よ び1954年 か ら

1961年 ま で毎 年 提 出 さ れ た 《中 日貿 易計 劃 》 な どの 全 文 は 「中 華 民 國 外 交 部 光 諜 影 像 査 詞 系 統 」

HP(http://210.69.210.30/mofaimg/default.htm)で 参 照 で き る(2004年12月12日)Q

55) Susan Greenhalgh,"Supranational Process of Income Distributior1,"In Contending

Approaches to the Political Economy of Tαizvαn, eds. Edwin A. Winckler and Susan

Greenhalgh(Armond, N. Y.:M. E. Sharpe,1988), p.77;

Thomas B. Gold,"Entrepreneurs, Multinationals, and the State,"In Contending.Approaches

to the Political EconoMy of Tαizvan, eds. Edwin A. Winckler and Susan Greenhalgh

(Armond, N. Y.:M. E. Sharpe,1988), p.179.

56) Chengtian Kuo,"The Origins of State-Local Relations in Taiwan:A New

Institutionalist Perspective,"Issues&Studies,35:6 (1999), pp.29-58.

57) Gold,"Entrepreneurs, Multinationals, and the State,"pp. 179 一 184.

58) 国 営 機 構 が 対 日輸 出貿 易 を 独 占 して い る こ とに 関 して,1952年10月31日 に華 僑 代 表 の 周 崇

奇 ら15人 が 僑 務 委 員 会 が 開 催 した僑 務 会議 にお い て,政 府 が わ ず か な 国 営 企 業 に 集 中 す る対 日

輸 出 貿 易 項 目を 華 僑 に よ り転 売 させ,民 間 科 協 の取 扱 範 囲 が 狭 く,貿 易 の地 位 が低 下 して きて い

る 問 題 を 改 善 す る よ う提 案 して い る こ とか ら確 認 で き る。 外 交 部 梢 案 を参 照;031.3-0103,

〈僑 務 委 員 會 致 外 交 部 函,有 關 僑 務 會 議 提 案 附 件 一 第281號 〉(民 國41年10月31日),《 有 關 中

日合 作 事 項 案 》,冊2,民 國41年10月24日 至45年9月30日 。

-223一

人 文 学 報

59)中 華民 國纏濟部國貿局,〈 台 日隻邊脛貿關係資料〉,2003年,〈http://wwwdoc.trade.gov.

tw/BOFT/web/report-detaiLjsp?data..base..id = DB 009&category_id=CAT 858&report_

id=4904>(2004年11月24日)。

60)金 子貞 吉,「 高度成長期 の貿易構造」,中 央大学経済研究 所編,「 戦後 日本資本主義 一 展 開過程

と現 況』(東 京都:中 央大学出版部,1999年),p.127。

61)外 交部 梢案,012-0023,〈 中日關係之検討〉(日 付 な し),《 中 日關係案》,冊L民 國41年4

月1日 至50年7月 。

62) 外 交 部梢 案,031.3-OlO3,〈 僑務委 員會 致外 交部 函,有 關僑 務 會 議提 案 附件 一 第223號 〉

(民國41年10月31ED,《 有關中 日合作事項案》,冊2,民 國41年10月24日 至45年9月30日;

外交 部梢 案,012-0025,〈 沈次長接見 日本大使 館公使宮 崎章談話簡要紀 録〉(民 國43年8月25

日),《 中 日關係案》,冊1,民 國43年8月16日 至44年4月14日 。

63)本 稿で はモデル構築 において,横 軸のモデル判 断について は貿易量 の 「大小」 による もので あ

り,貿 易 額の 「有無」 を分析枠組み にす るものではない ということを個別実証分析 の原 則 と して

い る。 それゆえ,1950年12月 か ら1952年6月 までの 日中政経関係 は本稿で提起 した 「政経断

絶」 に近 い。表2に よれば1940年 か ら1947年 までの 日本 の対中 国大 陸お よび台湾 との貿易統計

か らわか るように,日 中双方の貿易額 は従 来か ら完 全にな くな ったわ けで はない。 しか し,朝 鮮

戦争 の勃 発後,ア メ リカ政府 は1950年12月6日 にGHQに 対 して対 中共の物資禁輸措 置を指示

し,吉 田 内閣 もGHQの 対 中貿易 禁止命令 に従 った。 それ ゆえ 日中貿易 の総 額 は1950年 の212

億2600万 円か ら,翌 年 には98億7600万 円に,翌 々年 に は55億8100万 円 に減少 した。李 恩民,

《中 日民間経濟外交(1945 一 1972)》,p.135を 参照。

64)外 交部 梢案,012-0025,〈 駐 日大使館四十三 年十二 月十六 日日大(43)情 字第7136號 代電抄

件 〉(民 國43年12月16日),《 中 日關係案》,冊1,民 國43年8月16日 至44年4月14日 。

65)外 交部 梢案,012-0025,〈 駐 日大使館四十 四年元月二十 日日大(44)情 字第一三八 號代電抄

件 〉(民 國44年1月20日),《 中 日關係案》,冊1,民 國43年8月16日 至44年4月14日 。

66)外 交部 梢案,012-0027,〈 周匪告亜非會 日代表,匪 願與 日建立外交 〉(民 國44年4月27日),

《中 日關係案》,冊3,民 國44年4月6日 至45年7月31日 。

67)外 交部 梢案,012 一 0027,〈 駐 日大使館四十 五年三 月二 十 日日大(46)情 字第七六五 號代電抄

件 〉(民 國45年3月20日),《 中 日關係案》,冊3,民 國44年4月6日 至45年7月31日 。

68)五 百旗頭真編 『戦後 日本外交史』(東 京都:有 斐閣,2004年),pp.79-80。

69) 資本主義陣営 と共産主義 陣営が鋭 く対立す る中で,日 本政府 は1952年2月25日 に 日本の民間

経済団体の代表で ある帆足計,宮 越喜助,大 山郁夫な どが4月 にモス クワを訪 問 し 「国際経済会

議 」 に参加す る ことに対 しては明確 に反対を表明 した。対 して,同 年6月1日 に高良富,帆 足計

お よび宮越喜助 などが 「日中貿易促進会」,「日中貿易促進議員連盟」 な どの 日本 の民問団体 を代

表 し,北 京 で 「第一次 日中貿易協定」 を締結す ることに対 して は公に反対 しなか ったばか りか,

黙認す る態度 をとった。李恩民,《 中 日民間纏濟外交(1945-1972)》,p,140,148-149。

70) 張啓雄,〈 百年來東亜政 治格局的攣遷〉,《歴史月刊》,期190(2003年),p.63。

71)外 交部梢 案,012 一 0023,〈 封 日外交 一 四十八年 四月二 十五 日立 院外委 倉秘 密會報 告〉(民 國

48年4月25日),《 中 日關係案》,冊1,民 國41年4月1日 至50年7月 。

72)外 交部梢 案,Ol2-0023,〈 封 日外交 一 四十八年 四月二 十五 日立 院外委 會秘 密會報 告〉(民 國

48年4月25日),《 中 日關係案》,冊1,民 國41年4月1日 至50年7月 。

73)外 交部梢案,012.22-0062,行 政院新聞局編印,<加 強中 日合作 日首相岸信 介訪華,時 事参

一224一

「政 経 分離 」 対 「政 経 一 体 」 の 「名 実 論 」 的 分 析(張 ・葉)

考 資 料 第三 十 一 號 〉(民 國46年6月20日),《 日首 相 岸 信 介 訪 台 》,冊2,民 國46年5月31日 至

46年6月30日 。

74) 外 交 部 梢 案,012 一 0023,〈 封 日外 交 一 四 十 八年 四 月 二 十 五 日立 院 外 委 會 秘 密 會報 告 〉(民 國

48年4月25日),《 中 日關 係案 》,冊1,民 國41年4月1日 至50年7月 。

75) 外 交 部 梢 案,Ol2-0023,〈 封 日外 交 一 四十 八年 四月 二 十 五 日立 院 外 委 會 秘 密 會報 告 〉(民 國

48年4月25日),《 中 日關 係 案 》,冊1,民 國41年4月1日 至50年7月 。

76)張 啓 雄,〈 百 年 來 東 亜 政 治 格局 的 攣遷 〉,p. 63。

77)張 啓 雄,〈 百 年 來 東 亜 政 治 格局 的 攣遷 〉,p.63;

察 増 家,《 日本 轄 型:九 〇 年 之 後 政 治 脛 濟 艦 制 的轄 攣 》(台 北:五 南 出版 社,2004年),pp.59-

60,64。

78) Cheng-tian Kuo, Globαl Competitivenessαnd Industrial Grotvth in Taiwanαnd the

PhiliPl)ines(Pittsburgh:University of Pittsburgh Press,1995), pp.60-61;

Denis F. Simon,"External Incorporation and Internal Reform,"In Contending.Approaches

to the Political Econonzy(ゾTaiwan, eds. Edwin A, Winckler and Susan Greenhalgh

(Arrnond, N. Y.:M. E. Sharpe,1988), pp.212-213.

79) 外 交 部 梢 案,032.2-001,〈 附奉 第 二 次 會 議 有 關 各 案 議 題,中 日讐 方 意 見 及 結 論 請 参 考 卓 辮 賜

覆 由 〉(民 國57年 正2月13日),《 中 日貿 易 協 進會 案 》,民 國57年10月1日 至12月31日;

郭 承 天,〈 東 亜 民 主 化 與 経 濟 登 展:政 治 纏 濟 策 略結 構 理 論 〉,中 華 民 國 行 政 院 國 家科 學 委 員 會 專 題

計 書 執 行 報 告,計 垂 編 號:NSC 86-2414-H OO4-017,1997年, pp.48-49;

Greenhalgh,"Supranational Process of Income Distribution,"pp.83-86;

80)Frank S. T, Hsiao and Mei-Chu W. Hsiao,"Taiwan in the Global Economy:Past,

Present, and Future,"In Tαizvan in the Global Economy'ノ'roM an Agrαrian Economy to an

Exporter of High-Tech Products, ed. Peter C, Y. Chow(Westport, Conn.:Praeger,2002),

pp.189-190.

81) Hsiao and Hsiao,"Taiwan in the Global EconQmy:Past, Present, and Future,"pp.190-

192.

82) 外 交 部 梢 案,Ol2-0024,〈 政 情 研 究(卯 字 第一 號)一 池 田 内閣 在 第 四十 三 届 國 會 所表 示 的外

交 方 針 〉(民 國52年2月4日),《 中 日關 係 案 》,冊2,民 國50年4月25日 至53年2月28日;

張 健,《 職 後 日本 的 纒 濟 外 交 》(天 津 市:天 津 人 民 出 版 社,1998年),p.81・ 一・84。

83) 田桓 主 編,紀 朝 欽,蒋 立 峰 副 主 編 《戦後 中 日關 係 文 献 集(1945-1970)》(北 京:中 國 社 會科

學 出版 社,1996年),p.345。

84) 外 交 部 梢 案,012-0024,〈 一 九 六 三年 之 中 日關 係 〉(日 付 な し),《 中 日關 係 案 》,冊2,民 國

50年4月25日 至53年2月28日;

外 交 部 梢 案,012-0024,〈 中韓 封 日匪貿 易 之 態 度 〉(日 付 な し),《 中 日關係 案 》,冊2,民 國50

年4月25日 至53年2月28日 。

85)周 鴻 慶 は1963年10月 の 中 共 訪 日油圧 機 械 代 表 団 の通 訳 で あ った 。10月7日 に 周 は ホ テ ル か

ら外 出 し,タ ク シー に乗 って 中 華 民 国駐 日大 使 館 に 投 降 しよ う と した が,道 路 事 情 に詳 し く な

か った た め に 誤 って ソ連 大 使 館 に 入 り,政 治 的保 護 を 求 め た。10月8日 に 日本 の 外 務 省 か ら東

京 の警 視 庁 麻 布 警 察 署 に 引 き渡 さ れ,処 理 され た。 中華 民 国 大 使 館 は 情 報 を 聞 き,日 本 の 外 務 省

に対 して周 の個 人 的 な 希 望 に よ り来 台 す る こ とを 要 求 した が,受 け 入 れ られ な か った。 中 共 は

度 々周 に 対 して 人 員 を 派 遣 して 説得 を行 な った。10月22日 に 日本 出 入 力 管 理 局 は周 の 中 国 大 陸

225一

人 文 学 報

へ の強 制 送 還 を決 定 し,10月24臼 に周 は中 共 人 員 の説 得 の も とで 中 国 大 陸 へ の 帰 国 に同 意 した

が,ハ ンス トを 行 な った。11月7日 に 日本 出入 国 管 理 局 は病 気 治 療 を名 目 に,周 を赤 十 字 病 院

に移 送 した。12月25日 に 日本 政 府 は外 務 省 ア ジ ア局 局 長 の後 宮 虎 郎 を訪 台 させ,中 華 民 国 外 交

部 長 の 沈 昌 換 と周 事 件 に っ いて 協 議 した。 そ の 後 後 宮 虎 郎 は26日 に帰 国 した 。12月27日 に 日

本 政 府 は中 華 民 国 の立 場 を 尊 重す る こと な く,中 共 人 員 と共 に周 を 帰 国 さ せ る こ とを 一 方 的 に決

定 し,1964年1月9日 に周 は中国 大 陸へ 帰 国 した。

外 交 部 梢 案,012-0024,〈 一九 六 三 年 之 中 日關 係 〉(日 付 な し),《 中 日關 係 案 》,冊2,民 國50

年4月25日 至53年2月28日 。

86)外 交 部 梢 案,012 一 0024,〈 最 近 中 日外 交 關係 〉(日 付 な し),《 中 日關 係 案 》,冊2,民 國50年

4月25日 至53年2月28日;

外 交 部 梢 案,012-0024,〈 外交 部 次 長 朱 撫 松 於 立 法 院 外 交 委 員 會 的 談 話 〉(民 國52年10月9日),

《中 日關 係 案 》,冊2,民 國50年4月25日 至53年2月28日 。

87) 外 交 部 梢 案,012-0024,〈 一 九 六 三 年 之 中 日關 係 〉(日 付 な し),《 中 日關 係 案 》,冊2,民 國

50年4月25日 至53年2月28日 。

88) 高 朗,《 中 華 民 國 外 交 關 係之 演 攣(1950-1972)》(台 北:五 南 出 版 社,1993年),p 259 一 260。

89)外 交 部 梢 案,012.22・ 一・0078,〈 佐 藤 首 相 訪 華 参 考 資 料 〉(民 國56年8月28日),《 佐 藤 訪 華(會

議 参 考 資 料)案 》,冊3,民 國56年8月28日 至9月9日 。

90)外 交 部 梢 案,012.22 一 0078,〈 佐 藤 首 相 訪 華 参 考 資 料 〉(民 國56年8月28日),《 佐 藤 訪 華(會

議 参 考 資 料)案 》,冊3,民 國56年8月28日 至9月9日;

外 交 部 梢 案,012.22-0078,〈 部 長 出 席 立 法 院 報 告 中 日 關 係 参 考 資 料 〉(民 國56年8月18日),

《佐 藤 訪 華(會 議 参 考 資料)案 》,冊3,民 國56年8月28日 至9月9日;

高 朗,《 中 華 民 國 外 交 關係 之 演攣(1950-1972)》,pp.185-190。

91) Richard Nixon and Eisaku Sato,"Joint Statement Following Discussions with Prime

Minister Sato of Japan,"21 November 1969,〈http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.

php?pid=2334&st=&st l=〉(2December 2004).

92) Quansheng Zhao, lapαnese Policymaleing : the Politics behind Politics : Informαl

Mechαnismsαnd the Mαking of China Policy(New York:Oxford University Press,1995),

P.72.

93)外 交 部 梢 案,012.22 一 0078,〈 部 長 出席 立 法 院 報 告 中 日關 係 参 考 資 料 〉(民 國56年8月18日),

《佐 藤 訪 華(會 議 参 考 資料)案 》,冊3,民 國56年8月28日 至9月9日 。

94) Lyndon B Johnson and Eisaku Sato,"Joint Staternent Following Meetings with the

Prime Minister of Japar1,"13 January 1965,

〈http://www. presidency. ucsb. edu/ws/index. php?pid=26852&st=&st l=〉(2

December 2004).

95)外 交 部 梢 案,005.24-0036,〈 如 何 慮 付 日本 封 匪 貿 易 〉(民 國52年7月4日),《 我 封 日 匪貿 易

問 題 之 封 策 》,民 國52年5月1日 至52年9月30日 。

96)唐 耐 心(Nancy Bernkopf Tucker),新 新 聞 繍 睾小 組 繹,《 不 確 定 的 友 情:皇 湾,香 港 與 美 國,

1945至1992》(台 北:新 新 聞文 化 事 業,1995年),pp.189-197。

97)高 朗,《 中 華 民 國 外 交 關 係之 演 攣(1950-1972)》,pp.183-195。

98) Zhao,/apanese Policymαking:the Politics behind Politics, PP,72-73.

99)高 朗,《 中 華 民 國 外 交 關 係之 演 攣(1950-1972)》,pp.194-195。

-226一

「政経分離」対 「政経一体」の 「名実論」 的分析(張 ・葉)

100) Zhao, fal)anese Policymaleing'the Politics behind Politics, P.73.

101) 台3培徳(Patrick Tyler),聯 合報編繹組言睾,《中美交鋒》(台 北:聯 経出版社,2000年), pp.

126-1270

102)外 交部 梢案,005.22-0005,外 交部亜東太平洋 司編 印,〈 日匪關係正常化 問題報告書〉(民 國

61年8月7日),《 日匪勾搭前後案》,民 國61年7月29日 至8月16日 。

103)李 恩民,《 中 日民間纒濟外交(1945 一 1972)》,p.133。

104) 田桓主 編 紀朝欽,蒋 立 峰副主編,《 戦後中 日關係文献集(1945-1970)》,p.149。

105) 林連徳 編著,《當代 中 日貿易關係史》(北京市:中 國封外纏濟貿易 出版社,1990年),pp. 17 一 18。

106) 田桓主 編,紀 朝欽,蒋 立 峰副主編 《戦後中 日關係文献集(1945-1970)》,p.168。

107)李 恩民,《 中 日民 間纒濟外交(1945 一 1972)》,pp.212-213。

108) 「第二次 中 日貿易協 定」 の交 渉過程 において,双 方 は付記第3条 の協議 の際 に 「双方は互 に貿

易代表機 関を置 くことに同意 す る。 中国 が 日本 に常駐の貿易代表機関 の置 くことを実現す るとき

は,日 本 も中国 に常駐 の貿易代表機関 を置 くもの とす る」 と表明 した。 しか し,当 該の条項が

「常駐 の貿易代表機 関」 の設置時間を明確 に規定 して いなか った ことか ら,こ の構想の実 現 には

当時 あ る程度 の困難 と不確定性 が伴 っていた。

日中貿 易促進議員連盟,『 日中関係資料集(1945-1966年)』(東 京都:日 中貿易促進議員 連盟,

1967年), p.151;

石川忠 雄,中 嶋嶺雄 お よび池井優編,「戦後資料:日 中関係』(東京都:日 本評 論社,1970年),p.70。

109) 外交部梢案,005.24-OO19,〈 關於 日本政府准許共匪派貿易聯絡員駐 日案之読帖〉(民 國53年

7月7日),《 日匪交換記者互 派貿易代表及互設聯絡事務所案》,民 國53年4月 至7月;

田桓主 編 紀朝欽,蒋 立峰副主編 《職後 中 日關係文献集(1945-1970)》,p.208;

石川忠 雄,中 嶋嶺 雄お よび池井優編,「 戦後 資料:日 中関係」,p.71。

110)李 恩民,《 中 日民間纒濟外交(1945-1972)》,pp.228-229;

古屋 奎二編著,『 蒋総統秘録:中 日関係八十年 の証言(第14冊)」(台 北:中 央 日報社,1978年),

P.140。

111) 林連徳編著,《 當代中 日貿易關係史 》,pp,43-47;

李 恩民,《 中 日民間経濟外交(1945 一 1972)》,pp.214-221。

112)李 恩民,《 中 日民間経濟外交(1945 一 1972)》,p.222。

113) 「劉達 仁事件」:1944年10月,山 東省諸城県出身 の農 民で ある劉達 仁 は日本軍 に強制 的 に北

海道 に連 行 され,当 地 の明治鉱業 で労働 させ られた。!945年7月 に流派 脱出す る と深い山 の中

に13年 にわた り隠れ ていた。1958年2月9日 に北海道石 狩郡当別村で発見 されると,間 もな く

日本社 会 の注 目の的 とな った。1958年2月26日 に劉 は抗議 声明 を発表 し,日 本製 に対 して14

年 にわ た り受 けた物質 的,精 神的損害 に対 して賠償 す るよ う要求 した。 しか し,日 本 の入 国管理

局札幌事務所 はまず 「不法入国 の嫌疑」で劉 に対 して尋 問を行な い,そ の後 は劉 は 「契約 に基づ

いて」 日本 で労働 したと して,賠 償責任を逃れよ うとした。1958年3月3日 に中共 は赤十字 を

通 して 日本 の3団 体 に打電 し,劉 の中国帰国へ向けた協 力を要求 し,日 本政府 の この事件 の処理

に対 して不 満を表明 した。最終 的に岸内閣 は劉の帰 国に同意 したが,賠 償責任 問題 についてはな

ん ら表明 しなか った。 この件 で中共 は岸内閣 は政治的に中共を敵視 しているだけでな く,過 去 の

侵略戦争 の責任 につ いて も回避 しよ うと していると認識す るよ うになった。

何思慎,《 羅 盤在雨岸之間 一 戦後 日本封華政策(1945 一 1997)》,p.59;

田桓主編 紀朝欽,蒋 立峰副主編,《 戦後中 日關係史(1945-1995)》(北 京:中 國社 會科學 出版

一227

人 文 学 報

社,2002年),pp.145 一 146。

114)日 中貿 易 促 進 議 員連 盟,『 日中 関係 資 料 集(1945-1966年)」,p.180;

石 川 忠 雄,中 嶋 嶺 雄 お よび 池井 優 編,「 戦 後 資 料:日 中 関 係 」,p.251。

115)日 中貿 易 促 進 議 員 連 盟,『 日中 関係 資 料 集(1945・ 一・1966年)」,p. 180;

石 川 忠 雄,中 嶋 嶺 雄 お よ び 池井 優 編,『 戦 後 資 料:日 中 関 係 」,p,251。

ll6)日 中貿 易 促 進 議 員連 盟,「 日 中関 係 資 料 集(1945-1966年)』, p.180;

石 川 忠 雄,中 嶋 嶺 雄 お よ び 池 井優 編 「戦 後 資 料:日 中 関 係 』,p.251。

117) 田桓 主 編,紀 朝 欽,蒋 立 峰副 主 編,《 戦 後 中 日關 係 文 献 集(1945 一 1970)》,pp.361-363。

118)「 長 崎 国 旗 事 件 」:1958年4月3日 に 日 中友 好 協 会 長 崎 支 部 が 長 崎 の百 貨 店 「浜 屋 」 で 「中 国

の 切 手 切 り絵 展 覧 会 」 を 開 催 した 際 に,会 場 で 中 共 の 「五 星 紅 旗 」 を 掲 揚 した。5月2日 に旗 が

2人 の 日本 人 青 年 に よ って 取 り外 さ れ た。 事 件 発 生 後 長 崎 県 警 は 簡 単 な取 調 べ を 行 な っ た だ け で,

2人 を釈 放 した。 中共 は この 中共 の尊 厳 を侮 辱 す る事 件 に対 して 厳 重 な抗 議 を行 な った が,岸 内

閣 は 「外 交 関 係 の な い 国 家 の国 旗 を侮 辱 して も刑 事 事 件 に は な らな い。 日本 の刑 法 にお い て外 国

国 旗 を損 壊 した 際 に処 罰 を 受 け る と い う条 項 は中 共 に は適 用 しな い 」 と述 べ,中 共 は岸 内 閣 は政

治 的 に中 共 を敵 視 して い る と確 信 し,双 方 の関 係 は さ ら に悪 化 した 。 呉 學 文,林 連 徳 與 徐 之 先,

《當 代 中 日關 係(1945-1994)》(北 京:時 事 出 版 社,1995年),p.86;

田 桓 主 編,紀 朝 欽,蒋 立 峰 副主 編,《 戦 後 中 日關 係 史(1945-1995)》,pp,160-161;

何 思 慎,《 罹 盟 在 爾 岸 之 間 一 戦 後 日本 封 華 政 策(1945-1997)》,p59。

ll9) 田 桓 主 編,紀 朝 欽,蒋 立 峰副 主 編,《 戦 後 中 日關 係 文 献 集(1945-1970)》, p.383。

120) 田 桓 主 編,紀 朝 欽,蒋 立1峰副 主 編,《 職 後 中 日關 係 文 献 集(1945 一 1970)》,pp. 386 一 390。

121)佐 多 忠 隆 「日本 参 議 員 佐 多 忠 隆 訪 華報 告 書」,1958年8月29日,「 東 京 大 學 東 洋 文 化 研 究 所

田 中 明 彦 研 究 室:日 中 關 係 資料 集 」,2004年9月6日,〈http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/%7

Eworldjpn/〉(2004年12月9日)。

122) 岸 信 介,「 第29回 国 会(特 別 会)に お け る所 信 表 明 演 説 」,1958年6月17日,「 東 京 大 學 東

洋 文 化 研 究 所 田 中 明彦 研 究 室:帝 国 議 会 ・国 会 内 の 演 説 」,2004年ll月29日,〈http://www.

ioc.u-tokyo.ac.jp/%7Eworldjpn/〉(2005年2月1日)。

123) 田 桓 主 編 紀 朝 欽,蒋 立 峰副 主 編,《 職 後 中 日關 係 文 献 集(1945・ 一・1970)》,pp,438 一 439。

124) 田 桓 主 編,紀 朝 欽,蒋 立 峰副 主 編,《 職 後 中 日關 係 文 献 集(1945-1970)》,p.441。

125) 田 桓 主 編,紀 朝 欽,蒋 立 峰副 主 編,《 戦 後 中 日關 係 文 献 集(1945-1970)》,pp,443-444。

126) 田 桓 主 編,紀 朝 欽,蒋 立 峰副 主 編,《 職 後 中 日關 係 文 献 集(1945-1970)》,p.453。

127)陳 答 才,播 換 昭,《 以 民 促 官:周 恩 來 與 中 日關 係 》(重 慶:重 慶 出 版 社,1998年);

呉 學 文,林 連 徳 與 徐 之 先,《 當 代 中 日關 係(1945-1994)》,pp. 104-108。

128)周 恩 來,〈 周 恩 來 會 見 日中貿 易 促 進 會 専 務 理 事鈴 木 一 雄 時 的 談 話 〉,1960年8月27日,「 東 京

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160) 林 金 董,《 戦 後 中 日關 係 之 實 謹 研 究 》,p.299。

161) 1960年 に改 訂 され た新 「日米 安 保 条 約 」 第6条 の 規 定 に よ る と,米 軍 が 日本 の軍 事 基 地 を 使

用 す る 際 は 「日本 国 の 安 全 およ び極 東 の 国 際平 和 と安 全 に 資 す る」 と い う条 件(詳 し くはhttp:

//www.jda.go.jp/1/library/treaty/anpo/anpo.htm参 照)に 符 合 し な け れ ば な ら な い。1960

年2月 に 日本 政 府 は 「極 東 」 とい う用 語 に つ い て統 一 見 解 を 発 表 し,そ の範 囲 を 「フ ィ リピ ン よ

り北 で,日 本 お よび 周 辺 海 域,韓 国,台 湾」 と規 定 した。 この ため,日 本 が 軽 率 に台 湾 を 「中 華

人 民 共 和 国 領土 の 不 可 分 の 一 部 で あ る」 と 「承 認 」 す る と,日 本 政 府 の 「極 東 」 に対 す る解 釈 と

抵 触 し,同 時 に ア メ リカが 当 該 条項 に よ り極 東 に お い て実 際 に 武 力 攻 撃 とい う情 勢 が 発 生 した 際

に対 して,反 撃 す る裁 量 権 に影 響 す る可 能 性 が あ った。

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「政経 分離」対 「政経一体 」の 「名実論」的分析(張 ・葉)

An Analysis of"Separation of Politics from

Economics"versus"Unity of Politics and Economics"in terms of

the"Name-Fact Theory":

Formation and Transformation of Japan's Policy towards China

during the Postwar Era,1952 一 1972.

Chang Chi-hsiung*, Yeh Chang-chen**

Abstract

This paper aims for a mode building to explain the formation and transformation of

Japan's postwar foreign policy toward the ROC and the PRC from 1952 to 1972, Since

1952,under the divided international layout of the USA-USSR bipolar system, Japan,

after regairling its sovereign statehood, had faced the dilemma of the divided governance

of the cross-strait in which both sides all claimed"only one China"and"China won't sit

with renegades side by side". How to adopt the framework of the"separation of politics

from economics"in the cross-strait relations while both sides of the Taiwan Strait all

claims the"unity of politics and economics"and to accommodate the proportion of the

primary and secondary types of diplomatic model to the evolution of circurnstances.has

become Japan's consistent politica1-economic policy toward the two sides of the Taiwan

Strait for consecutive 20 years after WWII with its independent sQvereignty.

From l952 to 1971, because Japan had adopted the policy of the"separation of politics

from econornics"to form and develop its relations with two sides of the Taiwan Strait,

the Japan-ROC relations only had"incornplete politics-ecorユomics unity"status. On the

contrary, the Japζn-PRC relations, benefited from Japan's"incomplete unity of politics

and economics"toward the ROC, had gained consequently some substantial political and

economic engagements. Because of the PRC's foreign strategy of"using people to

promote official relations"and"semi-official and semi-civilian relations"with Japan,

their relations had once en七ered the stage of"incomplete politics-economics separation",

but both sides were still unable to cross the "status-and-Qrder line". Thus, the

*Chang Chi-hsiung Research Fellow, Institute of Modern History, Academia Sinica.

**Yeh Chang-chen The Ph. D. Candidate, the Graduate Institute of Political Science, National

Cheng-chi University。

-237一

人 文 学 報

phenomena of prosperous and substantial pQlitical and economic engagements were after

all a stopgap measure to develop the"tight"and"loose"pragmatic relations with the PRC

under"unofficial"political frameworks. Therefore, before their formal diplomatic

relationship in 1972, Japan and the PRC could only operate within the confine of the

degree of tightening-loosening up in the"political status", and vacillate from the ideal

type of"the separation of politics from econQmics"and the sub-ideal type of"the

incomplete separatiQn of politics from economics".

By the 1970 sl in response to changes in international circumstances, the USA-PRC

relations were getting less tense, whi正e the USA started to adjust comprehensively its

support for the ROC's"sole legitimate"representative status for China in the United

Nations, which eventually led to its replacement by the PRC, The USA's support and the

ROC's seat in the United Nations were two major pillars ensuring Japan-ROC relations

within the framework of"the unity of politics and economics", and with their loss-these

two pillars-was to witness key moments in the shift of models in both Japan-ROC and

Japan-PRC relations.

In 1972, while both sides of the Taiwan Strait were still insisting on"the only one

China"policy, the international circumstances had changed. Japan immediately

recognized the PRC as the"sole legitimate"government and established formally

diplomatic relationship with her. Therefore, the ROC had to break off its formal

diplomatic relations with Japan. After the severance of formal diplomatic relations, Japan

and th6 ROC immediately founded"the Interchange Association, Japan(IA∫)"and"the

Association of East Asian Relations"as mechanisms to maintain the practical and

substantial relations. Under the bond of inseparability of interests in culture, politics, and

economy, defense and security, the Japan-ROC has since shifted to a new framework of

engagement the"incomplete separation of politics from economics". On the contrary,

Japan-PRC relations, influenced by this framework, were unable to achieve their

expected goal-the"unity of politics and economics", but the"incomplete unity of politics

and econQmics"only.

During the 20 years after WWII, Japan, with independent sovereignty, had adQpted

the"separation of politics from economics"as its basic framework during the process of

the political-economic engagement with the two sides of the Taiwan Strait and

"incomplete separation of politics from economics"as its political leverage. The

phenomenon of fluctuation, the"vacillation and dangle", were the range of model shifting

caused by the degree of tightening-loosening up policy measure. Those three are the

only consistent policies during the Japan's postwar politica1-economic engaging process

with both sides of the Taiwan Strait,

Key Words:the Separation of Politics from Economics, the Unity of Politics and

Economics, the Incomplete Separation of Politics from Economics, the

Incomplete Unity of Politics and Economics,"Name-Fact"Theory, Status-

and-Order perspective, Japan's China Policy.

-238一