Title 十三・四世紀におけるモンゴル軍のインド侵入...

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Title <論説>十三・四世紀におけるモンゴル軍のインド侵入 Author(s) 恵谷, 俊之 Citation 史林 (1965), 48(5): 689-710 Issue Date 1965-09-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_48_689 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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  • Title 十三・四世紀におけるモンゴル軍のインド侵入

    Author(s) 恵谷, 俊之

    Citation 史林 (1965), 48(5): 689-710

    Issue Date 1965-09-01

    URL https://doi.org/10.14989/shirin_48_689

    Right

    Type Journal Article

    Textversion publisher

    Kyoto University

  • 十三・四世紀におけるモンゴル軍のインド侵入

    十三・四世紀におけるモンゴル軍のインド侵入(恵谷)

     A酬レ ’wttsv

     【要約】 十三世紀初葉のチンギス・ハン鷹下のモンゴル軍の侵入に始まり、その後十四世紀にかけてモンゴル族は西北インドへ }

    鰻難獄轄羅強直骸鹸薄緑噸綿雲砧嬉擁蘇避鞭碁縁懸い鷺

    本格的な征服戦を展開し、デリあスルターン政権(霊三ω葺・舞)の背後を脅した。本稿はその経過を跡づけ、あわせてその一

    史的嚢叢黒しようと試みたものである。         史林四八誉号一九六葦青 一

         …                                                           …一〈…一〈・一…〈…一}一〉、一〈…~㌧(f>、監(〆〉㌧ートちく(t

                               国と激しく衝突した。モンゴル軍はフワ…ラズム・シャー・

      一 序   雪

                               スルターソ・ムハンマッドの軍を破り、彼をカスピ海の一

     十三世紀の初めモンゴリア高原に都族絃二を完成したチ

    ソギス・ハソは、まず西夏を滅した後、当時華北を領有して

    いた金壷に対する征服戦を開始するとともに、蠣方に注意

    、を向け、やがてオトラル事件を契機として大規模な遠征事

    業に乗り出した。モンゴル軍はまずヵラ・キタイの嘱領土

    を占領した後、シルダリアの線を越えて西トルキスターン

    に進出したガ、長時この地を領有していたフワーラズム帝

    孤島に蒙塵を余儀なくせしめ、その子ジエラール・ウッデ

    ィーソを追跡してインダス河畔で決戦を挑んだ。モソ、瓢ル

    軍が初めてインドに姿をあらわしたのはこの時であった。

    チソギス・ハソの率いるモンゴル軍の本隊はやがて短日月

    の後、引き上げたが、その後、約一世紀にわたってモンゴ

    ル軍は繰り返し西北インドに侵入し、当時北インドを支配

    していたデリーのスルターン政権の背後を脅した。

    53 (689)

  • 本稿はこのモンゴル軍の侵入をめぐって、当時の西北イ

    ンドの事情を捉えることを目的セするものである。

    ニ インダス河畔のチンギス・ハン軍

     さて、チソギス・ハソの西域遠征は趨接にはオトラル事

    件に端を発しだといわれているが、もちろんそれは当時、

    東部イ…ラーソ・ホラーサーソから西トルキスタ!ソに領

    土を保有し、内陸アジアの心臓部をおさえていたフワ…ラ

    ズム帝国と東方の新興勢力モンゴルとの東西貿易路の占有

    権をめぐっての争いであったとみるべきであろう。

     チソギス・ハソの西域遠征の記事は元町には太祖十四年

    の條からみえている。

      〔十四年、 己卯〕百画面日〃、 繭域殺使丁、 帝率師、親征、 轡取皿糊

     一             ①

     苔刺城、檎其強縮只児只蘭禿、

     説苔刺はいうまでもなくオトラル(○霞霞)であり、恰只児

    湿雪禿は当時フワ!ラズム・シャーの任命していてオトラ

    ルの太守ガイル・ハソ・イナルチュク(○冨望騨囚訂⇔H影プ

    。営ρ)を指すものと考えられ、ガイル・ハソがモンゴル側

    の使者を殺害したのに対し討伐のため太祖自から兵を進め、

    この地を攻略した次第を述べたものである。これに続いて

    元史本紀は、

      十五年庚辰、春三月、帝克蒲藻城、夏五月、、克尋思干城、駐

                    ②

     躍也石的石河、秋攻斡脱羅児城、克之、

    と記している。蒲華はしd巳魯補習、尋思干はωρき鍵園ρ鐸創、

                     ③

    也石蟹石河は聖武親征録の也児的石河で目獣。,げ河、幹骨

    羅児は○鍾霞を指すと思われるが、元史の記述に混乱が

    あり、オトラル攻略が繰り返し述べられている他、次の十

    六年の條にもふたたびト恰児(b」巳.}、卿轟)、蘇迷思干(も。㊤β,

    鴛}(ρ叫益)攻略の記菓がみえる。

      十∴ハ年轟羊【巳春、 帝攻ト恰児。醇迷感心¶丁等城、 謝正エ」嵩み亦攻養士口

     干・八児真等城、並下之、夏凶月、駐灘営門胴、……秋意攻班

     霧等城、皇子乖赤・察禽台・窩闊台分皿玉龍傑赤満城、下之、

                  1      ④

     冬十月、鑑子抱雷克馬魯察葉可.馬魯.喜劇思等城、

     養吉干はシル河下流のく窪σq乙(①導、 八児真はじd錠㍗

    雛σqげ漸①暮、班重弁はじご巴障プ、王龍傑赤はO肩σq9且、馬魯賜

    田可は自㊤遷。ずpρ馬魯は鼠興く、昔春思はω錠二士げωを

    写したものであり、元史は続いてトゥルイの東部イーラー

    ソ・ホラーサーソ地方への進撃を述べ、

    54 (690)

  • +三・賜世紀におけ6tンゴル軍のインド優入(恵谷)

    篇瞬、,n,fiSEIui] R’ ttr;

    Otrar

    R.

     島々

    L. Batkiiashi

    ゆ・N//,

    Gurganio

          Sarak

        TuseNishapurO

    7

     

    獣『v

    Tashkent

    BO

    盾汲?ar?

    ojerfd

            Kashgar

    Samarqand

            Termez

    lt>rfehaq T.i.q,.Jop?T.aOli.q,afiB/adakh,h.nz...t,,.

          O ’ f’ Hind’u Kush

    lk,rat” s:t)J:5Bif.eig.A;g’!]s!bei

    Ha;;/ iIRIi17yls’h,,.,Pes};OasiiaTs.)3,sis)ge

                       侮’亀。し。h。,,

          Q・曲    (.s・’le,

                       eMult’an ’

    Khotanc

    Caspian=Sea =

    書髭

    西トルキス.タン・アフガニスタン譜図

     十七年壬午春、皇子描需克徒思・匿察兀児等城、還経木刺夷

    國、大論語、渡翻醐閲河、克也里等城、遂輿帝會、甲兵攻塔里

     寒塞、抜身、……夏避暑塔里雪塞、西域主従闘丁出奔、興滅里

     可汗合、忽都忽興戦不利、帝自活繋之、檎滅里可汗、札蘭丁遽

              ⑤

     玄、遣八刺追之、不獲、

    と記しているが、徒思は↓¢ω,匿察兀児は緊富げρや霞、木

              ⑥

    刺夷は親征録の木遣璽で嵐巳pぼ号(?.)、糊欄三河は燦貧出

    国鼠(P)、也里は缶興鋒、塔二二は8巴59であり、チ

    ソギス・ハソが塔璽寒塞を攻略し、附近の山地に夏の幕営

    を設けていたときフワーラズムのスルターソ・ムハソマッ

    ドの子ジェラール・ウッディーソ(札蘭丁賓藪毒q6冒)が

    部下のハ」ソ・マリク(滅里可汗囚げ9諸巴鱒)とともにシギ・

    フトフの率いるモンゴル軍と戦い、後者を破ったという報

    せが入った。当時ホラーサーソより帰還したトゥルイ、フ

    ワーラズムより帰還したチャガタイ・ウゲティの軍と合し

    て、直ちにジェラ:ル・ウッディーソ討伐に急行した。親

    征録はこの事件を、

      時西域速里憤札蘭r遁去、遂主宰鋼爲先鋒、追之、再遣速不

     台.抜都爲綴、又遣脱忽察児、殿其後、哲別至蔑墨可汗城、不

     犯而過、速不台・抜都塵如之、脱忽察早書、與其外軍戦、巴里

     可汗濯、棄城走、薮陰忽那書籍之、率兵進襲、時蔑里可汗與札

    55 (691)

  •  蘭丁合、就戦不利、遂遺使以聞、上臨塔里寒塞、率精鋭親旧之、

     追及辛自画河、獲蔑盟可汗、屠其衆、札馬丁脱身入河、泳水而

     遁、遂遣八刺那顔、將兵急追之、不獲、因大野祈都人民之半蒲

      ⑦

     還、

    と記している。タ!リカーソより急行したチソギス・ハソ

    言下の精鋭はピン下ウークシュ国食像O搾竈馬を越えて(シ

    バル峠を越え、バ…ミヤーソを経て)、一旦ガズニーに出、そ

    こから(カイバル練を越え)ペシャーワルに進出し、ジェラ

    ール・ウッデ宮ーンの軍とインダス河畔で会戦したと思わ

    れる。元朝秘史もこの戦の有様を、

            て

      ヂエベ (考駆 斡。σ①)、 スゥベーティ (速溺礁狽ムロQQOσ⑦ひ穿。梓。一)、

     トフチャル(脱忽察児80ρ餌α鍵)の三人をジェラルディン・ソ

                く

     ルタン(札刺勒丁渉勒壇N二巴(剛ぎωo器ρ海)、 ハン・メリク(緊

     簸力克ρ習諸窪σq)二人の後から入れて、かえって彼らを破っ

     て殺した。ブ出花(不A口児 一W自ゆρ履)、セミスカブ(蘇米思加トωo-

     B一①同学σ)、オトラル(貸馬晶馬鐸dα鴛.錠)の城に彼らを合わせな

     いで、勝利をえつΣ、シン河(五器漣oo言ヨ鐸op)に到るまで

     追跡したとき、シン河に跳込んだ。多くのサルタグル(撒児塔兀

     里ω鎚夢即巳)たちはそこでシン河で鼓笛されたのだ。ジェラル

     ディン・ソルタ‘ン、ハン・メ夢グニ人はその命を全うしてシン河

                          て

     を遡って逃れた。チンギス・ハガン入威吉思會緊Ω鐸σ登ぼρ斜誉昌)

     はシン河を{遡って判り、バドケセ’ン(巴湯客先ゆ餌位響①こ。①博)を 糠

     め去ってエケゴロハン(額客・翻羅筆)、ゲウンゴロハン(格温・

     露羅學)に到って、バルアン・ゲール(巴魯安・客額児bづρ禁ず帯

     銀£礪)に下馬してジャリジャルタイ・パラ(札風合既習巴刺

     く

     N鉱こ9学費膨巴ρ)をジェラルディン・ソルタン、 ハン・メリグ

     日録の追繋に派遣し、ジエベ、スベーティの二人に大いに恩賞

        ⑧

     を与えた。

    と記している。 ラシッード・ウッディーンの「集史」、ジ

                   ⑨

    ユワィニーの「世界征服者の歴史」、 ミソハージ・ウッデ

                          ⑭

    イーン・ジュズジャ…二一の「ナーセリー物語しなど、ペ

    ルシャやインドの史家たちもこのインダス河畔の戦いを生

    女と描写している。今、ラシッード・ウッディーソの記載

    を訳出してみると、

      そしてガズニー(¢ぼrN巳εに到碧したとき、すでに十五日前

     にスルタ!ン(G。巳暦9寄}巴誌(70営)はシンド河(卿げ,㍗ω営鳥)を

     渡る意図をもってここを出奔したことを聞いた。チンギ…ス・ハ

     …ン(Ω同ヨσq貯δ感錫)はバ…バー・ヤルアジ(¢d騨び卿ノ、mピξa)

     をこの地の総監(QQ冨一説ρσq同)に任命し、可能な限り急いでス

     ルターンを追跡し、渡河に備えて河岸に舟を集めさせた。オル・

    56 (692>

  • 十三・四世紀におけるモンゴル軍のインド侵入(恵谷

    ハーン(○目汽ぴ91瓢)が指揮する後衛軍はモンゴル軍の前衛と交

    戦し、敗北した。チンギ…ス・ハ…ンはスルターンが翌暁を期

    して渡河しようとしていることを偵知し、機先を制して夜中疾

    駆 

    オ、翌日早蔚院画仮(スルターソ)の晶削後を捕捉し、モンゴル軍は

    あらゆる側から包囲した。そして彼らは幾重にも環をな七て互

    にその後に立並んでまるで罵のようにし、シンド河を弓弦のよ

    うにした。太陽が昇るや、スルタ…ンは自からを水と火の間に

    見禺した。そしてチソギース・ハ…ンは次のように命令した。

    汝らスルタ…ンに矢を放たず、全力を挙げて彼を捕虜にせよと。

    そしてオカル・クルジャー(9(鍵9&餌)とクトル・クルジ

    ャー(ρ暮暑ρ巳圃)を派遣し、岸辺より追跡せしめた。彼ら

    は二人とも全力を尽した。岸辺でスルターンの軍隊が行軍する

    のをみた。その後、モンゴル軍は攻繋をかけた。そしてハーン・

    マリク(緊鼠¢認巴節)が指揮する右翼と彼らの前衛を殺獄し

    た。そしてハーン・マリクはペシャーワル(℃¢Qoプ卿♂く欝騰)の方

    向へ敗走した。モンゴル軍は途上で捕獲した。そして彼を殺害

    した。そして左翼をも壊滅させた。スルターンは七百人置歩兵

    からなる中堅を守った。そして明方より正午に至るまで、軍勢

    は対冷した。あたかも心が身から抜け出したようであった。左

    と右より前進せしめ、中堅を攻繋した。そして法令(ピ節ω91)ど

    ・おりに彼を矢で射ずに半円型の包囲陣を狭ばめた。そして彼は

    獅子即身の勢いで戦った。抵抗の限界を懐ると岸辺で最後の突

    撃を試みた。かなり遠方で乗馬に跨がった。そしてモンゴル軍

    に攻撃を加え、彼らを背進させ、蓬巡させて、馬首を廻らせ、

    胴甲を脱ぎ捨て、自からの楯と標旗を癬んで馬に鞭うち、江波

    にきらめきがあらわれると、その方へ向って跳び降りた。そし

    て刀剣を水上にかかげた。チンギ…ス・ハ…ンは驚嘆の極み、

    手を口にあて、彼の息子たちとともに見守った。そして云った。

    このような患子にはしかるべき父があるに違いないと。そして

    このようにして戦場と江流より離脱し、対岸に上陸することが

    できた。彼については無数の行為と無限の驚嘆が生れた。モン

    、コルの兵土たちは彼が江流に跳び込んだのをみて、彼を追って

    自から水中に跳び入ろうとしたが、チンギ…ス・ハーンは制止

    した。そしてスルターンの軍隊を金滅させた。そして彼の家族

    の男子を乳幼児をも含めて金てを殺した。そして彼のハレムの

    貴重品を略奪した。そしてスルタ…ンの財宝は大抵金貨と宝石、

    貴金属であったが、当時全てをシンド河中に投じたと云うこと

    である。その後チンギレス・ハーンは潜水業春に命じて潜水さ

    せ、その主なものを収得した。そして戦利晶を撹習に従って分

      ⑪

    配した。

    57 (693)

  • とあるように、フワーラズム軍はここに決定的な打撃をう

    け、ジェラール・ウッディーソはかろうじてインダス河の

    急流を泳ぎ渡って逃亡することができた。この戦場は恐ら

    く一今日のべシャ!ワルの東南方、インダス河本流にパ:

    キスターン北・西鉄道(窯O答7奢①簿①諺菊9置ミρ楼)の鉄橋

    がかかっているアトック (》簿Oo騨)附近であったであろ

    hつ。

     さて、こうして逃亡したフワーラズムのスルターソは東

    南に向い、当時北・中インドの支配権を握っていたデリー

    を首都とするトルコ系イスラ:ム政権、奴隷王朝のスルタ

    ーソ・イルトゥトミシュ(剛一げ鐸汁ヨ一ωプ)の許に走った。「ナ

    ーセリー物語」の著者ミソハージ・シラージ・ジューズジ

    ャーニーは、

      その後、六一四〉・麟・(一二一七年四月十日~一二一.八年 二月二

     十九日諺.U.)にシャムス・ウッディ…ン ωぴ㊤ヨω-蝿自山)明澤〔イル

     トウトミシュ〕はマリク・〔スルターソ〕ナ…シル・ウッディー

     ン・カパージャ(竃巴一}(QQ巳時嵩瓢四豊7g早U圃昌ρ曽び91宣財当蒋

     のシンドの領主)と戦闘を交え、後配を破った。そしてモンゴ

     ルのチンギース・ハーンが侵入した結果、ホラーサ…ン(麟ン,

     零細。。警)に悲劇が訪れたとき、すなわち六一八年》.瓢.(一二

      =』ヰ残月二十五日~=== 年二月十四日}マσ.)にスルタ…ン・

     ジェラール9・ウッディーン・フワーラズム・シャーは異教徒の

     軍に破れ、ヒンドゥースターン(瞑ぎ鎌潮。。け91昌)の方へ逃れた。

     フワーラズム王国の騒擾はラホール(び巴萄同)にまで及んだ。

     そこでスルターン・シャムス・ウッディ…ンはヒンドゥ…スタ

     …ンの軍勢を率いてデリー.(O①げ5からラホ…ルに向つた。ス

     ルターン・ジェラール・ウッディーン・フワーラズム・シャー

     はヒンドゥースタ…ン軍との衝突を避け、シンド(ωぎ傷)とシ

                       ⑫

     ーヴェスターン(QQ同≦Φも厚汁卿溢)に向って去った。

    と記していて、ジェラール・ウッディーソはシソドを経て、

           ⑬

    ペルシアに逃れた。  .

     一方、チソギス・ハソはインダス河畔の戦いの直後、軍

    をかえして北上したが、部下の将軍バラ・ノヤソらを派遣

    してジェラール・ウッディーソを追跡せしめた。ラシッー

    ド・ウヅディーソはさきに引用した箇所に続いて、

      その後、チンギース・ハーンはジャラーイルハ智話す)部出

     身のパラf・ノヤ…ソ(bご戸口犠。蛍節謬)と……部出身のドゥル

     バ…イ・ノヤ…ソ(U自巴ぴ餌唄瓢○《卿5)の両者に軍兵を授け、ス

     ルタ…ン・ジェラール・ウッデイーンを追跡してヒンド(鵠ぎ⊆)

    58 (694)

  • 十三・四世紀におけるモンゴル軍のインド侵入(恵谷)

     地方へ派遣し、彼を探し求めんがために行かしめた。そして彼

     の足跡をついに発見しえず、ヒンドゥ…スタ…ンの都市の一つ、

     ビア(頭巴F)城塞を陥落させ、カマル・ウッディーン・ケルマ

     …二…(ρ曽三斜7¢争ψ剛⇒緊⑦同三聖高)を捕えた。またスルタ…

     ンの軍隊の将校の一人を捕虜にした。そしてムルタ…ン(竃諾,

     }赫づ)へ向って強行軍を行った。そしてムルターンには騒砲の

     用にあてる石がなかったので、石柱を探し、これを河水の辺に

     求め、ムルターンに運搬した。かの地へ到着したとき、努砲の

     準備は完了した。まさに占領しようとしたところ、滞在を拒む

     暑気がやって来た。そこでムルターンとラボ…ルとべシャ…ワ

     ルとマリク・プール (竃箋菩鐸)市を劫…回してシンド河を溝隣

                      ⑭

     り、チンギース・ハーンの幕下に合流した。

    と記している。バラ・ノヤソらのモンゴル軍はジェラール・

    ウヅディーソをついに発見しえず、ラホール、ムルターソ、

    ペシャーワルなどのパンジャーブ・シソド地方の諸都市を

    劫掠した後、引上げた。その後、 モンゴル軍は、親征録

    に、

      癸未春、上兵循辛口連却而上、命玉太子循河蒲下、至昔思丹

     城、欲芝之、遣使來稟命、上日、隆暑特及、宜携遣將攻之、夏

     上避暑於八魯轡川、候八刺催顔、園討入敵、悉平之、八刺虚心

     軍至、遂行至可勘違、三太子亦至、弁難既定西域、置達魯花赤

     於各城、監治之、甲申、旋師、住冬避暑、且止真心、乙酉春、

                ⑮

     上蹄國、自縄墨至心凡七年、

    とあるようにインダス河辺より北上し、三太子ウゲティは

    シースタ…ソ(昔思丹QQ訪翁嵩)の攻略に向っ’たが、暑気のた

    め引返した。パ.ルワーソ(八魯醗℃霞毒碧)に夏の幕営を設

    け、やがて北上してアム河を渡り、サマルカンドに着き、占

                               ⑯

    領した地域にダルガチ(達魯花赤、ラシッードのω剛峯#琴σq讐μ)

    を任命してモンゴリア本土へ帰還した。なおうシヅード・

    ウッディーソやジュワィニーは、チソギス・ハソがインド・

    .チベット経由でモンゴリアへ帰還しょうと試み、気候と地

                          ⑰

    勢に附まれて断念したという記述を伝えており、ジュズジ

    ャー二iはこのと営デリーのスルターソ・イルトゥトミシ

    ュとチソギス・ハソとの間に前者の領土の通過許可をめぐ

                       ⑱

    って書翰がとり交わされたと伝えている。

     こうして第一遡のモンゴル軍のインド侵入は終りを鰻げ

    たが、このときのモンゴル軍の主目的はフワ!ラズム・シ

    ャー打倒にあり、インドに侵入したのは、たまたまフワーラ

    ズム・シャーがパンジャーブに逃れたのを追跡したまでで

    59 (695)

  • あったといえる。

     次にこのインダス河畔・における両軍の対戦の紀年につい

    てであるが、元町と親征録は太祖十七年壬午の条に記録し

    ており、 ペルシ鯉・のうシッードも午の年、回暦六一九年

    (一

    jニ周年二月十五欝~ご三三年二月三日〉・O・).としてい

    る。(なお、元朝秘史にはこの戦の紀年は示されていない。)と

    ころが、長春真人西遊記に「〔辛巳歳+月〕西行七日、度西南一

    山、逢東夏使團、禮師於帳前、囚問来訪何時、使者田、自七月

                   ⑲

    十二艮辮朝、帝將兵追算端手至印度」とあり、秘儀の歳

    ( 二一二〉●O.)七月十二日にチソギス・ハソの許を去り

    帰途についた使者と嵐会い、使者の出発時にチソギス・ハ

    ソはジェラール・ウッディーソを追跡してインドに入ろう

    としていたという記事がみえている。長春の記録はチソギ

    ス.ハソに直接貸した人のそれであるとともに、その紀年

          ⑳

    は同年五月朔の日蝕の記事によって間違いないと思われる。

      ⑳   ⑫   ㊤

    王国維、那珂、岩村の諸氏が元史、親征録の壬午の記事を

    一年繰り上げて辛巳とされる理由である。ところでペルシ

    アの記録をあたってみると、ラシッードはなるほど午の年

    にかけているが、ジュワィニ;の「世界征服者の歴史」は、

    インダス河畔の戦を叙述したあと、「この事件は運命の不思

    議の一つであるが、六一八年のラジャブ(ヵ餌冨ぴ)月に起つ

    ⑳た。」と記していて、それは、西紀一二二一年の八月二十一日

    から九月十九瞬にあたり、長春真人の記録を裏づけている。

    長春の七月十二日置西紀では一二二一年八月一日にあたる

    からであり、八月初めにヒンドゥークシュを越えて南進し、

    同月末頃にインダス河岸に達したと解すればよい。また、

    ジュズジャー二一の「ナーセリ…物語」に、 「六一八年中

    モンゴルのチソギース・ハーンの侵入の結果、ホラーサー

    ソに悲劇が訪れたとき、ジエラール・ウッディーン.フワ

    ーラズム・シャーは異教徒の軍に敗れ、ヒンドゥースターン

          ⑮

    の方へ退却した膿とあり、著者の、・・ソハージ・ウヅディ

    ーン・ジュズジャーニーは妾時、直接この事件に遭遇した

    人物で、しかも六二二}瓢・にデリーのスルターソに命ぜ

    られて自からゴ…ル地方からクーヒスターソに旅行してお

    り、六五八年》’瓢●ラビ・ウルアッヴ}!ル図鉾玄、とr諺甫≦巴

                          ㊧

    月の五日(一二六〇年二月十九摂》」>yに著作した本書は

    軍畑性が高いと思われるからである。こうして王国維氏、

    那珂氏、岩村教授らの一年繰上げ説はペルシ},側の認録に

    60 (696)

  • 十三・四世紀におけるモンゴル軍のインド侵入(恵谷)

    よっても裏づけることがでぎた。

    三 モンゴルとデリー・サルタナット

     すでに述べたように一二二一年のモンゴル軍の侵入は彼

    らのインド侵入のいわば前奏曲であって、それはこの後、

    十四世紀にかけて十数回にわたって繰り返され、当時の北・

    中央インドの支配者デリー・サルタナットの背後を脅し、歴

    3.鵠

     ド

    緯無難

    灘嫡

    r騨畿騒…イルトゥトミシュの墓(ニューデリー南平)

    代のデリーのスル

    ターソたちにとっ

    て西北辺境におけ

    るモンゴル人の侵

    略行動をいかにし

    てくい止めるかが、

    かれらの最も重大

    な課題の一つとな

    った。当時のイン

    ド側の年代記を調

    べてみると、まず

    一二四一》■嵩陰に、

    当時イルトゥト、ミシュの妓後、スルターソ位を継承した彼

    の娘ラジイヤ(菊ρNぐ饗)を廃して王位についたパフラーム

    (切pげ鼠旨)の治世中であったが、 モンゴル軍の侵入をうけ

    た。

      スルターン・ムイズ・ウッディーン・パフラーム・シャー

     (ωβ一け鯛昌 ツ臼β魑一Nl口Ω一同)団睡 じdρげ同㎝国P  ωゴ帥げ) の治世中に起った悲

     劇め一つはラホール市の事件で、異教徒モンゴル人の軍隊がボ

     ラーサーンとガズニーの方面から市に殺到し、相当の期聞戦闘

     が継続した。ラホールの知事はマリク・イフティヤール・ウッ

     ディ!ソ・カラー・カシュ (護細濁H犀び鉱鴇節目己α-U団ロρ麟感

     ρ霧げ)であった。彼は生れつき非常に勇敢で精力的で大胆で恐

     れを知らない人物であったが、ラホールの市民は一致協力すべ

     きときにまとまらず、戦闘に、夜警に、おろそかな点が多かっ

     た。その配備が明らかになったとき、マリク・カラー・カシュ

     は彼の手持の軍隊に行動を起させ、夜陰に乗じて市から撤退し、

     首都デリーの方へ向つた。異教徒モンゴル人たちは彼を追跡し

     たが、神の恩寵に守られて、彼らから無事逃れることができた。

     ラホール市内には今や統治者がいないので、六三九}¢¶のジ

     ャマ!ディ・ウル・アーヒル(冒臨調堕巳出犀匡H)月の十六日

     (ロ一二四一年十二月二+二日)に異教徒モンゴル入たちは、その・

    61 (697)

  •  都帯を占領し、回教徒を殺賦し或は捕虜とした。この不吉な報

     せが首都にとどいたとき、スルターン・ムイズ・ウッディーン・

     パフラーム・シャーはデリレの市民たちを白城〔ヵスル・イ・サ

     フ揮ードρ綬ヱあ鉱置〕に集めた。この文章の著者に彼は命じ

     て演説をなさしめ、雪暗はスルターンに彼らの忠誠を〔改めて〕

       ⑳

     誓った。

    という有様でラホールは陥落し、首都デリーの市民も恐怖

    におののいた。パフラーム・シャーはマリク・クトゥブ・

    ウッディーソ(諸ρ一一搾の郎旧び一βα』)圃降)をはじめとする将軍た

    ちに兵を授けてラホLルに向わしめ、辺境の守備を固めた。

    モンゴル人はラホール周辺のパンジャーブの中枢部を略奪

    した後、引き上げたらしいが、一二四五年に再び侵入し、

    ムルターソ(窯巳縛騨⇔)を経てウーチュ (d6げ。げ9げ)に迫

    った。

     当時のスルターソはパフラームの甥にあたるアラー・ウ

    ッディーソ・マスード(へ》一陣-蒲鳥一一)圃ゆ 崔ρqe刷Oα)であった。

      この同じ年〔催六四=一跨参国.〕のうジャブ月〔ロ一工四五年十一

     ~+二月〕に北方の丹州から異教徐モンゴル人の軍隊がウrチ

     ュ(qoげ。げ磐)に向っており、その指揮者は憎むべきマングi

     タ(ソ、円霧σq望鋳)であるとの報せがとどいた。スルターン.ア

     ラー・ウッディーン・マスード・シャ…はモンゴル軍を駆逐す

     るために各地からイスラーム箪を集めた。ビーアー(しd川警)河

     の岸に彼らが劉着したとき、異教徒はウーチュから引き上げつ

     つあり、饅的は成功した。本書の著者はこの遠征に際し、近衛

     軍に参潴した。……栄難あるイスラ~ム軍の兵員数と装備が異

     教徒たちに伝えられたとき、彼らは天幕をたたみ、ホラーサー

     ンの方向へ再び退いて行った。

     さて、ここで当時の内陸アジアの情勢の推移を眺めてみ

    ると、チソギス・ハソの大モンゴル帝岡は彼の死(ご一三

    三)とともに彼の諸子の采領に分裂した。東方では第三子太

    宗ウゲテイが即位したが、彼の没後(一二四一)、即詰トゥラ

    キナが称制し、やがて定宗グユックが三位に推戴された

    (一二四六)が、短い治世の後、皇后オグルハイミシュの簾

    政を経て憲宗メソゲが登位した(=聾一)。中央アジアで

    は旧カラ・キタイの領土を第二子チャガタイが統治したあ

    と(一二四二没)、孫のカラ・フレーグが継いだが、グユック

    の干渉をうけて点けられ、イス・マソグがこれに代った

    (=「四六)。しかし、大汗位継承をめぐって一族が争った

    62 (698)

  • 十三・四世紀におけるモンゴル軍のインド侵入(恵谷)

    とき、ウゲティ家に加担した彼はメソゲの即位とともに廃

    せられ、代って再びカラ・フレーグの登位が決ったが(一二

    五三、同年残し、その妃オルガーナが政柄を執った。西アジ

    アでは、さきに落ちのびたフワーラズムのジェラ!ル・ウッ

    ディーソが西部イーラーソを統一してフワーラズム帝国を

    部分的に團復したのに対し、チョルマガソを将とするモン

    ゴル軍のイーラーソ遠征が行なわれ(一二三〇~三一)、遂

    に第二次フワーラズム国を滅した。チ箪ルマガソの後、太

    宗の命をうけてバイジュが代ってイーラーソ統治にあたる

    ことになったが(=}四二)、フレーグが一二五一年のクリ

    ルタイで憲宗メソゲよリイーラーソの太守職を授けられ、

    アラム!トのイスマーイール派を滅し、次いでバグダード

    のアツバース朝カリフを倒し、正式にイル・ハーン国の成立

    をみることになる(一二五八)。こうした内陸アジアの情勢

    の推移に対し、北インドのデリー・スルタ!ン政権は無関係

    ではありえなかった。フワーラズム国は滅亡したが、代っ

    てチャガタイ汗国とイル汗国の圧力を蒙り、モンゴル軍の

    侵入はますます重大な脅威となりつつあった。マスード・

    シャ弓に代ってイルトゥト、ミシュの末子ナーシル・ウヅデ

    イーソ.マフムード(ワ『牌ω一脱一二山山)一別 り薩ρゲ慧ρ口α)が王位に

    ついたが(六四四〉・寓’9一丘ρ獲ρ響卜。ω琵一二四六年六月)、

    その治世第十二年のコ一五七年の終りに、

      この年〔六五五鋭踏〕の終りに異教徒モンゴル人の軍隊がホ

     ラーサーンからウーチュとムルターン地区に現われた。そこで

     マリク・イズ・ウッディーソ(竃巴鱒.HNN己祭U冒)バルバン。

     イ・カシュル・ハーン(⇔d巴σき山、囚㊤段ぽ緊募εは彼らと禰

     諾し、彼らの指揮者モンゴル入ノヤーン・サーリーン(窯。巻昌

     ω鋒冒)の軍営に赴いた。新年を迎えて六五六年のムハッラム

     月に入り、その六日の日曜臼にスルターンの軍旗は首都から異

     教徒モンゴ.ル人に対して聖戦を敢行し、彼らを駆逐するため動

     き始めた。デリー布の近郊に屯所が設けられた。信頼ザべき筋

     の情報によれば、同月の九日、水曜日に異教徒モンゴルの旧領

     プラーク…(類巳巴臨)はカリフ・ムスターシム・ビィルラー

     (ツ角餌。謄けρ.o弓一霞回 ゆ.二一餌財)の軍の前にバグダード(切即σqプ傷卸幽)の城

     門から敗走した。スルタ…ンの軍隊が異教徒に対し戦を挑むた

     め進軍を始めるにあたり、マリクやアミールたちが部隊を率い

     て各方面に出動した。そしてスルタ…ンの親衛軍の主力はラマ

     ザ…ン月の一日に港都に帰還し、スルターンは五ヶ月間そこに

        ㊧

     留まった。

    63 (699)

  • という事件が起った。モ.ソゴル軍はムルターソ城の外郭を

    傷めたのみで、翌五八年春に引き上げた。このときのモン

    ゴル軍の指揮富はノヤーソ・サーリーソ、すなわちサリ・

    ノヤソであり、元史巻三、憲宗紀に、

      〔三年癸丑〕夏六月周、 ム叩諸王組…烈兀及兀良ムロA照等舳師、 征西

     域恰鼓舞八恰塔等購、又命塔欝児帯撒盤土止花等、征欣都思・

          ⑳

     暴富迷児等国、

    とみえている。憲宗の三年絵書は=一五三》聾O.であり、

    紀年にずれはあるが右下土塁花らにヒソドス(山都思)、カシ

    ュミール(怯失迷児)の征服を命じている。

     さて、この侵入後証らくして一二六六年にかってナーシ

    ル・ウッディーソの宰相をつとめていたギャ…ス・ウッデ

    ィーソ・バルパソ(〇三《筒伊¢α-Uぎ切巴げ曽⇔)が玉位につ

    いたが、この頃からますますモンゴルの侵入は激しくなっ

    て行った。 しかし、もとキプチャク(困(げ酌{6ゴ箇ズ)の奴隷出

    身の彼は優れた軍事指導者でもあり、よくその脅威を退け

    た。一二七一年、自からラホールに進出し、先きのモンゴ

    ル軍の侵入によって破壊された城塞を修復し、第一皇子ム

    ハソマッドをムルターソに、 畠山一一白雪子ボグラー。ハーン

    (這d鎧σ窺び目節目くげ鋤膨)をサゲマ…ナ(の簡導痛事)に駐在せしめ、弧

             ⑪

    北辺境の守備を謹めた。一二七九年、モンゴル軍はサトレ

    ジー河を渡って侵入して来たが、これらムルターソ、サー

                             ⑫

    マーナ、デリ…からのスルターソ軍に挾撃されて退却した。

    しかし、一二八五年には皇子ムハソマッド・ハ…ソはうヴ

    ィ河を渡りラホールに侵入したイティマル(目沈奪錠)の指

    揮するモンゴル軍と戦い、戦死した(六八三}戸N囲.;ま筈

    月駈一二八五年二~三月)。そ,の直後の一二八七年、バルバソも

    残すると、カイクバ…ド(零三Nと争U貯£蝕ぬ三)篇α)が王

    位を襲ったが、 やがて費族たちの推戴をうけたハルジー

    (頃ぎ著)・派のジエラール・ウッディーソ・フィローズ

    (庸芭と騨U貯司胃欝)が奴隷王朝に代ってハルジ…朝を

    創建した(一二九〇)。 一二九二年に約十万といわれるモン

    ゴルの大部隊がスナム(QQ¢暴ヨ)まで侵入して、彼らはス

    ルターソの軍隊に敗北を喫し、退却したが、将校の一人ア

    ルダー(とαq冨)を始めとする捕虜となった数千のモンゴ

    ルの将丘ハはイスラーム教への改宗を条件に、デリ…近郊に

    居住することを許された。彼らは人々から新ムスリムと呼

    ばれ、その居眠区はモゴール・プールと称されたといわれ

    64 (70e)

  • 十三・四世紀におけるモンゴル軍のインド侵入(恵谷)

    る。その地域はバダ!ウニー(切巴気立)によれば、今日

    のニューデリー東南部にあるニザーム・ウッディーソ・ア

    ウリヤーの霊廟附近であった。すなわち、

      穴九~年〉.踏陰〔「二九一年十二月二十湘霞~一二九二年十 }月十

     一B〕、チソギース・ハーンのモンゴル族が大軍をもってヒンド

     ウ…スターンに侵入し、スルターンの軍隊とサナ!ム(○りρ鼠ヨ)

     の近辺で激戦を交えた。モンゴル人たちはヒンドゥ…スタ…ン

     の軍隊の規模を知って、和平交渉に入った。スルターンはそこ

     で彼らの指揮官を招いたが、その人物はフラーグ・ハーンの近

     親のもので、スルターソを父と呼び、スルターンは彼を息子と

     呼んだ。彼らは会見し、互に贈物を交わし、軍隊を,引き上げた

     が、チンギース・ハーンの孫にあたるアルダー(巴σq葛)とい

     うものはイスラーム教に改宗し、数千の他のモンゴル人たちも

     彼にならって神聖な祈鵡の殉を学び、スルターンに仕えるため

     残留した。アルダーはスルターンの女婿となり、モンゴル人た

     ちは今臼、聖ニザ…ム・ウルアウリャi(上繭N卿ヨ巳、〉三蔓91)

     の墓域i彼の憩の地に神の平安あれ--にあたるギャース・

     プール (Oぼ滋萌や貯)に住居をあてがわれた。そこはモゴー

     ル・プール〔モンゴル入の町の意〕と名づけられ、彼らモンゴル

                              ⑭

     人たちは「新イスラーム教徒」(窯窪試仁。。鉱日9)と呼ばれた。

     一 一九山ハ年(六九五〉・頃・菊節ヨ騨N餌コ)、 ジェラール・ウッ

    ディ!ソを殺した甥のアラー・ウヅディーソ(ら}}91一β鳥一回)圃謬)

    が王位についたが、この頃からモンゴルの侵入は以前にも

    まして激しくなった。翌一二九七年秋にモンゴルの侵入が

    あったが、スルターソの部将ウルグー・ハーン(一〕一σQび蔚 }〈げ91瞬)

    やザファル・ハーン(N今夏囚劉海)らの活躍でジャーラン

    ドゥル(旨巴§穿霞)の近くで撃破した。ところが、即位第

    三年の一二九八年秋、 サルディーω巴象というものに指

    揮されたモンゴル軍がシヴィスターソ (Qo三千9)を占領

    した。ザフヅル・ハーンが大軍を率いてシヴィスターソ攻

    略に向い、まもなくこれを降し、サルディーとその一族を

    始め、モンゴル人らを多数捕え、頸枷をはめてデリ1に送

    った。しかし六九八二二・の終り、すなわち一二九九年の

    秋には、

      この同じ年〔六九八〉・国・〕の終りに、クトゥルグ・フワージ

     ャ(ρ鄭梓一蘇σqげ H(プ毛卸噺9)とその子を始め、二・三千のモンゴル

     人がマーワラー・ウンナフル(鼠騨≦錠騨、御守劉ρピ)からヒンド

     ゥースタ…ソ征服にやって来た。彼らはインダス河を渡った。

     そして彼らはこの国土を占領する意閣をもっていたので、彼ら

    65 (7el)

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    DELHI SULTANATの最大彊域略図

    の進軍の途中にある村落や都会を破壊・劫掠しなかった。彼ら

    はそれらを彼らの王国の一部分とみなしていたからである。彼

    らはデリーの〔城門〕前に軍鴬を設け、包囲戦を開始した。附

    近の町や村からモンゴルへの恐怖のため非常に多数の住民がデ

    リー市に避難していたので、大混雑を来たし、モスクや、辻、

    市場、その他の市内の広場に立錐の余地もなかった。人々は人

    ソの簾政(一一一五一~轟ハ一)の後、

    治した。その残(=一六五~六)後はムバーラク・シャーが

    即位したがムトウゲソの孫バラク(bd錠9ρ)がフビライの

    勅書をたてにとり汗位を奪った(一二六六)。しかし彼はカ

    イドウから圧力を蒙り、その対イル汗戦はかえってイル汗

    アバカの破るところとなり、まもなく没すると( 二七 )、

     口過剰に悩まされ、穀物その他の食糧を輸入

                   ⑰

     する途をふさがれ、物価が高騰した。

    という有様で、モンゴル軍はこのときは首

    都の占領とヒンドゥースターン征服をめざ

    し、真直にデリーに向って進んだ。デリー

    市民は恐怖におののいたが、ザファル・ハ

    ーンの率いる右翼軍は勇敢にモンゴルの陣

    中に突入し、彼らを退却せしめたが、追撃

    の途中、タルガイ(6霞σqげ巴)の指揮する

    モンゴル軍の伏丘ハに囲まれ、戦死した。彼

    の死を聞いたスルターソは嫉妬からかえっ

    て喜こんだという。

     十時チャガタイ汗雫はオルガ!ナ・ハト.

             アルダー(とσq言)が統

    66 (702)

  • 十三・酉世紀におけるモンゴル軍のインド侵入(恵谷)

    バラクの子ドゥワ(Oo毛㊤)が汗位についた(一二七四頃)。

    カイドウの死後、ようやくチャガタイ汗家はその麹由を園

    復したが、ドゥワは一三〇六年に窮し、クソジュク(囚8鄭争

    〕○β〆)とタリクi(出鉱芽。)の短い治世の後、ケベク(隊?

    ぴ①開)が即位したが、彼は北京にいたドゥワの子エセン.

    ブカ(や瓢ω2焦げ○¢ρ9)を迎えて位を譲った。後者の死後、再

    びケベクが政権をとったへ一三二〇頃)。このようにして統

    治者に転移はあったが、ドゥワによって完全な主権を回復

    したチャガタイ朝はやがて外部に向って勢力を振い始める。

    しかし.東、北、西の各方面ではフビライ、ヂ訊チ、フレ

    ーグの各家がすでに確固とした地歩を築いていて、その領

    土拡張を許さなかったので、専ら南方のアフガーニスター

    ソとインドに向って進路を開いた。しかし(アフガーニス

    ターソ西部には土着のタルト(囚霞け)朝があり、彼らは東

    部アフガーニスタ…ソに出て、ここから藪北インドへの途

    をとり侵略を繰り返したのである。一工九九年に侵入した

    クトゥルク・フワージ㍗一とは東部アフガーニスターソに

    采領を授けられていたドゥワの子の一人であった。

     さて、デリーのアラ弓・ウヅディーソは、このクトゥルク・

    フヴージャーの侵入を退けた後、ラージャスターソ(影ε㍗

    。・

    「窯)のチトール(Oプ詫。同)とランタンボール(菊一員夢㌣

    鶯σ財自)の征服事業に乗り出したが、そのすきをねらって

    .再びチャガタイ・モンゴルが侵入した。

      スルターン・アラー・ウッディ…ンが遠方の城塞の攻略に従

     芳しており、その地に長期闘留まるであろうとの情報がマーワ

     ラー・ウンナワルに達したとき、すでに述べたモンゴルのタル

     ギi(6鍵σQ}島)は大軍を率いてヒンドゥースターンの劫掠にや

     って来て、デリー芦辺のジャムナ…河目騨一に駐押した。しかしス

     ルターンはチト…ルの攻略を終え、一ヶ月前にデリーに帰還し

     ていた。もっともスルターソの軍隊の兵土たちは南方のデッカ

     ンのアランガル(冴H銘σq鍮)遠征に繊かけていて、 ランタンボ

     ールの征服後、大部分の将軍たちは各膚の榮饒(祁σQ導)へ帰還

     していたので、スルターンの手許にある軍隊は附と長期間の遠

     征のため装備も充分でなかった。スルターンは当惑しながら手

     勢を率いてデリーを娼て、シゾi(ω菖)の野に陣を張った。

     亜壕を掘り、茨をめぐらすなどの防禦手段を構じ、各地から召

     還した将軍たちの到着を待った。しかしモンゴル人たちが一7ーリ

     一の周辺を占領し、その地際を築いたときまでに将軍たちは彼

     の許に参集しなかった。あるものはコール(鍛巳)で、あるも

    67 (7e3)

  •  のはバラン(切恥奏eで待っていた。こうして二ヶ月経過した

     が、、タルギーは絹らかな理由もなくたち法った。デリーの藤下

     たちはこれを墾シャイフ・ニザーム・ウッディーン (ω丁即節げ

     累益ヨ毒争Uご)1彼の霊願は神聖なれかし…iの法力に帰

     した。そしてこれを彼の奇蹟の一つに数えた。タルギ…は恐慌

     におち入り、狼心してたち去ったといわれる。

     タルギーとは同じくチャガタイ家の王子の一入であった。

    この戦の後、アラー・ウッディーソは真剣にモンゴル侵入

                       ⑳

    防衛策にとり組み、各種の改革を実施した。まず、シリー

    を首都に定め、この地に新宮殿を造営するとともに、破壊

    された嘱デリーの城壁を修復し、モンゴルの侵入ルートに

    沿って新しく城塞を設け、兵員を常駐せしめ、食糧・武

            ⑪

    器の供給を確保した。 ことに辺境の拠点サーマーナ (ω?

    営箇づ鋤プ)、ムルターン(竃巴叶箇質)、ディバールプ!ル(】)デ

                    ⑫

    げ巴℃鍵)などに精鋭を駐屯せしめた。またモンゴルの騎兵

    と戦うため強力な常備軍を整える必要を認め、多数の兵員

    を養うためには重税を課さねばならなかったが、米、麦、

    塩、砂糖、油などの必需物質の公定価格を定め、安い給料

                      ⑬

    で兵士たちが生活できるようにはかった。また王領地の生

    産物は首都の穀物庫に跡えて非常時に備え、一般の農央も

    農作物を国家によって指定された米穀商に引き渡し、露家

                            ⑭

    ,の貯えを許さないなど徹底した統糊経済を実施した。

      これら一連の政策はある程度成功を収めたらしい。ムガ

     ール朝の宮廷史家ニザーム・ウッディーソ・アフマッドは

     これについて、次のように記している。

       食糧と兵士の軍装が安価になった後、軍事力は増大した。モ

      ソゴル人の侵入と圧政の門戸はこのようにして閉ざざれた。モ

      ソゴルの軍隊がデジーに向えば、彼らはことごとく捕えられ、

      殺された。例えば、あるとき、チンギース・ハーンの孫アゾ…

      ベグ(、〉麟切④σq)とタルタク(8節Hけ9⊃5が四万騎を伴ってシ

      ヴァリク(つ。プ,艶δ丘陵の沿辺、アムロ…バー(〉欝8プ91)め

      ざして侵入した。スルターソ・アラー・ウッディーソはマリク・

      ナヤク・アフル・ベグ(ソ向9・厳内犠3葵と^冨二四㊦σq)に命じて

      大軍をもって迎撃せしめた。彼らはアムロ…バーの領域に入り

      会戦した。大部分のモンゴル人は殺され、アリー・ベグとタル

      タクは捕えられ、鉄鎖を首につけられ、捕獲された二万頭の馬と

      ともにスルターンの適適に引き出された。その臼スルタ;ンは

      布から出て、スブハー二一・チャブタラ(ω暮田島Ω嫁げ暮ρ㌶)

      において閲兵式を催した。軍隊はこの地からインダルパト(営,

    68 (704)

  • 十三・四樵紀におけるモソdル軍のインド侵入(恵谷)

    鼠壱鉢)まで二列に整列したひこのときアリー・ペグとタルタ

    ク・ベグその他の捕虜はスルタ…ンの薦前に導かれ、彼らの多

    くは象の脚下に投げられ、殺された。……

     第二早目にはケベク(囚。げ①εという名のモンゴル人が大軍

    を率いてバカル(丙劉ρ閑賃)の町に現れ、デリーの軍隊と戦っ

    た。しかし、彼らの多くは殺され、パダーウーン(切ρ轟劉)門

    の附近に彼らの頭蓋骨で塔が築かれた。暫らくして、別のモン

    ゴル軍が一二万の精鋭をもってシヴァーリク (曽乏餌賦醤)地ゐカに

    現れ、その地方で掠奪を始めた。これがスルタ~ンの耳に入る

    と、彼は大軍を派遣した。この軍隊はモンゴル軍の退路にあた

    るラ…ヴィー(肉嬰.矧)河の近くに陳取った。多くの掠奪晶を背

    負ったモンゴル軍がラーヴィー河の岸に到擁したとき、デリr

    の軍隊は勇敢に芸北し、輝かしい勝利をえた。彼らは多数のモ

    ンゴルの将校たちを捕え、近くのタラ!イナ(8鴛9ーヨ筈)の城

    塞中に幽閉した。そして彼らの家族や従者たちをデリーに送り、

    市場で奴隷として売に出した。その後、マリク・バース・ハー

    ジブ (り臼ρ謡閃麟び蝉噸廻附鴇σ) はタラ…イナに派遣され、 繍潔鵬を

    処刑した。 この後暫くして、イクパルマンダ(剛のσ巴羅ρ髪㌶)と

    いう名のモンゴル人が大軍を率いてヒンドゥースターンに侵入、

    した。ディハンダ(O旨9巳㊤財)で彼とデリー軍との闘に戦が

     行われた。そして彼は殺され、他のモンゴル人らは捕えられ、

     デジーに送られた。そして象の脚、下に踏み潰された。その後、

     モンゴル人の心は恐怖に襲われ、ヒンドゥ…スターン征服の野

     望は挫かれた。この国土は彼らの圧迫からクトゥブ・ウッディ

     ーン・ムバ…ラク・シャー(ρ葺ぴ凸早O団鵠累郎σ一三犀ωげ弩目)の治

     世の終りまで解放された。その銭轡、ガージー・マリク(07卿N目

     ㌶a陣)と呼ばれていたスルターン・トゥグラク・シャ…(ω巳臓昌

     目盛巴3。。銀び)はディバールプールとラホールに采邑を受け、

     モンゴルの縦域に毎年のように軍隊を送り、それらの地方に圧

     力を加えた。モンゴル人は彼に抵抗することもできず、彼らの

                 ⑯

     國土の境界附近で守備についた。

     このようにしてチャガタイ.ウルスのモンゴル軍は一時

    はデリレの葉、アムローハーにまで進蹴しながらことごと

    くデリーのスルターソ軍にはばまれ、彼らのインド征服戦

    は成功しなかった。もっともインド側の防衛強化のためば

    かりではなく、チャガタイ諸王の立場からみれば、もとも

    と顯トルキスターンからの長距離遠征であり、しかも楽時

    アフガーニスターソ東部の領有をめぐってイル汗のウルジ

    ェイトゥーとの抗戦、東方からは愚蒙治下の元朝の干渉を

    うけ、彼らの行動は著しく舗約をうけていたことも考えに

    69 (7e5)

  • 入れなければならない。

     ざて、さきにイスラーム教に改宗し、デリーに定住を許

    されていたモンゴル人たちは、アラー・ウヅディーソの治

    世晩年の一二九七年に殺識された。生活苦に堪えかねた彼

    らがスルターソの出猟中に暴動を企てているとの情報が入

    ったので、彼は直ちに全員の殺獄を命じ、一日のうちに数

                      干のモンゴル人は

    落磐

    シリー城跡(ニューデリー南郊)

    殺職され、家財鳳

        ⑯

    没収された。この

    スルターンの宮廷

    に仕えた詩人アミ

    ール・ホスpIに

    よればデリーの新

    城郭建築の際、

     新しい建築には

     血潮がふりかけら

     れるべきであると

     して彼は寸言の羊

     のような猛をもつ

                      ⑰

     モンゴル人たちをその目的のため犠牲にした。

    とあるように羊の代りに犠牲に供され、またイクバールの

    侵入後、

      スルターン・アラー・ウッディーンは残っているモンゴル人

     たちを殺職し、城壁の中に塗り込めるべきであ.るとの勅令を発

       ⑱

     卜した。

    と伝えられる。彼が造営したシリーの城郭は今日ニューデ

    リーの東南部に城壁の一部が残っている。

     こうしてチャガタイ汗国からの侵入は暫くとだえたが、

    ハルジー朝に代って北・中インドの覇権を握ったトゥグラ

    ク朝の二代目の君主ムハソマッド・ピソ・トゥグラク・シ

    ャー (7Rβ昼9bρbPρα げ一昌 ]りβσq】P一ρρ QDプ揺げ) の治世(二二二

    五~五一)にタルマーシーリーソ(ロリρ目bP帥。嗣げ一目一昌)の侵入

    をうけた。タルマーシーリーソ・はチャガタイ汗ケベクの後

    を襲ったエルヂギディ(国蔓σq乙巴)、 ドゥーワチムール

    (Uロ毒甲ゴ目5,同)の短かい治世を経て汗位についたもので、

    再び伝統のインド掠奪遠征を復活したのであった。パダー

    ウーニーに、

      七二九〉.国.〔一三二八~二九跨∪・〕年に、以前にヒンドゥー

    70 (706)

  • 十三・四世紀におけるモンゴル軍のインド侵入(恵谷)

    スターンに侵入したクトゥルグ・フワージャーの兄弟でホラー

    サーンのモンゴル人支配者タルマーシーリーソ(]り9H目P91Qゆ一P岡目団】P)

    が大軍を率いてデリー地方に侵入し、多くの城塞を破壊し、殺

    識を行ないながら進み、ラホール、 サーマーナ、インダリー

    (H

    テα鎚団)を陥し、バダーウーソ(切四α餌凶昌)の境界に迫った。

    そこでイスラーム軍と衝突し、彼はもと来た途をとって退却し

    た。スルターンはカーラーノール (囚餌扇昌α吋)の国境まで追撃

       セじド

    鞍1

    、晦

    トゥグラク朝の都城(ニューデリー南郊)

     し、彼を破った。

     その地の城の攻略

     をムジール・ウッ

     ディーン・アブー

     リジャー(蜜ε団㍗

     損阜U冒鋭σ凶吋ごe

     に委ね、デリーに

       ⑲

    帰還した。

    とあり、タルマー

    シーリーソはデリ

    ーの東、バダーウ

    ーソまで侵入して

    いる。なお、トゥ

    グラク朝第三代スルターソのフィローズ・シャー (曽旨N

    ωげ警)の治世の七五九》昌国.(一三五七~五八}コ)年に

    モンゴル軍はラホール近辺に迫ったが、なすところなく引

    上げてい⑱フ・。ーズ・シ・あ覆(一三八八)、・・

    グラク朝は王位継承をめぐって混乱に陥っていたが、やが

    てティームールの侵入(一三九八~九九)を招き、史上有名

    なジャムナー河畔で十万人の三三が行われた。そしてその

    ティームールの系統をひくバーブルはついにインドの征服

    に成功し(一五二六)、ムガール帝国を創建したのである。

    四 結

    証口口

     以上、十三世紀初葉のチソギス・ハソ鷹下のモンゴル軍

    のインド侵入に始まり、その後十四世紀にかけてモンゴル

    族の対インド征服戦の経過を眺めて来た。この間に北・中

    ・インドの支配者は奴隷王朝からハルジ!朝、トゥグラク朝

    と交替したが、これらデリーを首都とする一連のトルコ系

    イスラーム政権、いわゆるデリー・サルタナット歴代の皇帝

    はモンゴル族の侵入に悩まされた。大局的にみれば、初期

    のモンゴル軍の侵入は西北辺境の一部は犯されてもイソド

    71 (707)

  • の歴史の流れを大きく転換せしめるほどの効果をもたなか

    った。彼らの主囹的はフワーラズム朝の打倒と東西交通路

    幹線の確保にあったからである。しかしながら、その後の

    チャガタイ汗国の成立とその南進政策はデリーのスルター

    ソ政権に少なからぬ脅威を与え、一時置インドもモンゴル

    族の支配下に置かれるかにみえた。ハルジー朝のアラー.

    ウッディーソに新経済政策を断行せしめたのも、モン.翠ル

    の侵入が第一の動機であった。この傾向はその後十四世紀

    末にいたり、ティームールの侵入となり、さらに十六世紀

    になるとその血統をひくパープルによるムガ!ル帝国の建

    設へと進んで行く。こうして十世紀以後、すなわちガズニ

    ー朝の成立以来、北・中インドの歴史は内陸アジアのトル

    コ・モンゴル系乃至はアフガーソ系民族の活動と密接な関

    係をもって展開していったのである。

     ①元山巻一、本紀 、太担十四年の条。百納本、工十a。

     ②元史巻一、本紀 、太祖十五年の条。菅納本、二十a。

     ③王国維、聖武親征録校注(蒙古史料校注四種、丙寅季夏清華学校研

      究院刊)九+二b。

     ④元史巻~、本紀一、太祖十六年の条。善南本、二十b~二十一a。

     ⑤元史巻一、本紀…、太祖十七年の条。菅納本、二十…a~b。

     ⑥王国維、前掲書、九十四b。

    ⑦王囲維、前掲書、九十五a~b。

      那珂二世、皇元三二親径録、 (那珂通世遣盤駈収、校正増注本) 一

     二一~三〇頁。

    ⑧由鳥庫齎、膏訳芸文元朝秘史、続集巻一、三十六b~三十九b。四

     鶴叢刊本、元朝秘史、続集巻「、E十八b~三十九b。那珂通世、成

     一思汗実録、改訂版、 四一 三~四二八頁。国二。7鵠器国凱ωoげ…り冨

     O①げ鉱ヨoO島98簿。島賃蜜。盗σqo一①鋒ピ。ぢN茜曽一㊤蒔◎。’ω.憲¢噛

    ⑨ 轡鋭切。属⑦…円げ。講一ωε同鴇。{昏Φ≦oユ早Oo博の琶お村』く。一。・二

     呂雪畠。ωけΦさお切。。.く9一曽℃唱.一ωωゐ。。ご

    ⑩戸9男9く・ぽ質8pσ簿鋒-学雲譲三”》σQ①冨窮}箪ω汁。蔓。囲

     酔ず①鼠煽財餌巳ヨρ山p類U同臨霧訟①ωoh}。ほ一Pσ罵8ぴゆ竃ρ巳帥コ餅認一㌣

     7aと争O冒》σ乎.d欝鴛-㍗.d。喚舅帥穿恥くoM恥噛い。嵩岱。戸一G。Q。一.く。炉

     鉾℃や一〇這INωρ↓窪貧(ヒd一σ=o夢。$ダ貸oρo。o蔦①。。yO巴。簿雷.

     一Q。忠■娼や。。劇Q。ムP

    ⑪図霧ぽ争巳6ヨ…蜜鐙陣、暮肖婁く曾認只切。器N坤ロH.塑”Q。g≡降

     =①8箕ωΦ一噛同ω8同ぞ騨窯。目αqoHoくωoo三器巳。国霧ゲ一争悶山a昌2♪’67

     鐸篇冤く。。・♂oげ■○浅一⑦一。Hヨや濁諺ω.諺誌紘日■○ぴ珍9こOび器仲。<”

     oe壁 ℃簿曾ωσ霞σq魍一。。qQ。.℃℃.一ま幽。。・)o捗匂菅巳、葺-8ρ護貯欝げ⑦鐸

     ご団切帥ぼヨ帥口渓舞§押鱒く。】。ウ辱擁㊦げ謎戸嵩◎。G。曜く。ド智鳴やω誤-刈Φ.

    ⑫国.ρ図ρぐ鶏畠…○ワ9げ二く9ゲ憎℃.①O?一〇・

    ⑬ ジ濫ズジャ…二一(韻’○.力撃♪ぐΦ誌《…○℃・9けこぐ9一唱やbρ¢もQiΦ蒔)

     によれば、ジェラール・ウッデイーソはまずウーチ皿とムルターソに

     向い、そこからキルマーソ(緊蜀き9ーコ)地区に入り、やがてファール

     ス(切帥騎)に並篇いた。

    ⑭郊三三争工む田翁。審ぽコYOやg炉署」b。。。ゐO顧

    ⑮ 王国維、前掲轡、九十六a~b。

      那珂通世、皇元饗武親征録校注。一二一~三〇買。

    72 (7e8)

  • 十三・四世競におけるモンゴル軍のインド侵入(恵谷)

    ⑯図ω。・節良-&e冨(礎O巴ΦN一一同)…Oや。搾や騰ド8。ξρ胃く。讐け

      三無。。’

    ⑰閃器ゴ争鼠6ぢ(じ6賃ON一鍔)いU。ρg鉾冒二巴巳(ごdO蛍ぼ)}○や

      O岸こくO一.ど℃℃.一ω刈1ωQQ・

    .⑱甘N滋巳(犀p〈興蔓)旧○℃9皇汁■、〈。「騨竈」◎濫-駐

    ⑲ 長春真人西遊記、 (王国維、蒙古史料四種校注所収)。圏十[b~

      四十二bゆ.

    ⑳誉陣飢ニニ十b。彰ヒd器駐。ぎ。裁㊦三二a隔Φ奏一労Φ。・。舘.畠Φω隷9路

      司伊ω仲㊦増鄭}ω一㊤仲戸OωO¢同O①ω.群O切篇O類曽一¢一9<O同.ゲ℃’α一・鵠.一bQO噛

                        島U         、   一        呂

    @@ 一 as op @@@ as @ op

      鱒王国維、

    那珂通世

    岩村忍、

    験留毛ρ一難一(回

    }蒲N一帥昌}(顕.

    験¢N一鮮鵠一(類’

    }¢N一98μ一(鎖’

    一二N一98冨一(類.

    や。。Oり幽

    }嘔綿自白⇒一(類「

    元史巻三、

    なお、サリ

     ル会典」

     の.

      一㊤畠.℃.

    灘瓢

    瑞e征録校注(前掲書所収) 九「六b~九雇-七b。

    、皇元鍵武親征録校注。 (前掲簿所収)、ご二頁。

    搭r里寒考(『東洋史研究』十五巻一号所収)三六…同一二頁。

    oooo>切。覧。)…

    図騨く㊦税梓嘱)…

    閃旧くO噌酔℃)“

    図曽く①磨汁蜜)…

    類Pぐ⑦門け《)旧 O

    ℃.O一けこくO一.

    ○勺.O

    ○℃.

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    O二こく〇一.ピ唱●c島OΦ.

    O岸こくO一.一、】)℃’一bo燈駅1⑩9

    0搾こくOド 一”℃勺’O帆q臼1切①●

    O搾こ くO一』”℃℃. ΦΦ圃一③GO・〈oド

                O.図9<O同け嘱)…○℃●O潔こくO一.碧唱℃.↓一一1一込∂.

              本紀三、憲家三年・の条。首納本、鷲a。

              ・ノヤソの侵入については、アブール・ファズルの「ア

     クバ   にも言及されている。》σ⇔7鳴窟・Nご、〉”響-7≧白σρロ

                                   ●

     (譲噛  }騨塊門O汁け欝コ住.冒QQρ同犀欝円い鴨〉一嵩-7>犀げρH.一冒くO一.H同押09一〇一

     戸訴け麟ヤ      ωQQQ◎昌)

    ⑳  、》ヴ鎌嘗一一-ρ帥岱写.ρ7じづ僻伽帥O謡ご》圃葛ゴ爾二(プ騨σ自-峠-↓曽勇騨},岡昇甥(ゴ.留欝ω一

     一P曾O鳥 ρ嵩創 ¢島滞Oασ鱗OcQD’諺.口ρ5搾坤員σqり.09一〇環重げ2一QQ㊤◎◎) 〈O炉

     ㌍娼や一QQ①一。り『.犠協N躰日露‘山-O一昌誤ぴ日出鳥山8帥σ㊤峰帥↑㍗匪搾ぴ騨ユ(挫戦鎖-

                 9                     ●

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    ⑫  N一磯帥一鐸α晶)圃ロ】W食種口一…8僧橘『一岸びムー屑O同⇔Nω『紳げ剖④鎚’ぴ《oD¶》げ導帥畠

       ●                                                                       9

     剛(岸帥5”O㊤同O鐸酵けP}cQc海ba曽℃℃.G◎OlG◎同・

    ⑬ 切勲“帥9昌(○噛oQ’}.男㊤口評刷二σq)…○℃.O江二ぐ〇一.ドもe一。◎Q◎.

       屠一N騨き-学海-り}員》げ髭一価(φUo)恥○やO詳こくOピ一、勺やごq∴◎Q■

         ,                          ●

    ⑭ 切曽α910コ一(O.oQ.》.幻P昌劇画μσq)…○やO犀こくO一「一、℃’館ω◎

       翼一N帥ヨー鐸噺}U圃昌諺げヨ勲O(切.UΦ)…○やO一戸りくO一凸ピ娼.一一ω.

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       帽O巴一ωにけ餌げ…89.嵩閑7酢学男Oユωげけρげ■い償O搾ロOノ~H◎σ畷蒔.℃孕㊤軒

       尉節誉昌…○℃■O岸ζ勺eひ⊇qΦ.

    ⑯to tw @ en鱒⑭⑬⑫㊨      ・ウッディーソの漸経済政策につ    Oロ碧餌話℃ρご

    》一路6α-∪ヨ.ω℃ユ800馨δ同QQ岩什O臼.(Hω罫ヨ80巳2壇Φ”謬)ム?

    N騨σ帥q-旧)旨二 一ゆ心膳層 験曽ご.℃℃.海聯一U込0’)鞠 ℃■QD鶴一,騨類嚇 肩げΦ国OO昌Oヨ一〇

    ℃O瓢O唄親轟α娼同一O① OO昌伸HO一〇臨 》}餌漏自価一昌 困(げ僻一門’ (ω倖藍島一〇匂階一轟

    窯Oα一〇<響一Hβ畠一卿昌類院けOHく層】)O一げどH㊤凱bo℃℃℃’一二↓…GQメ)参昭酬。

    ご写欝鳥O”μ…○℃.O齢豪くO一.一”℃℃.

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    アラー

    客冒帥ヨ占争U冒㎞○や

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    累一N帥呂一賃α-U一鐸噛○喝.

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    屠μN帥き一に恥山)}鵠…O℃.

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    翼一N帥渇μ一βユ占)一瓢…○℃.

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    〇一峠こ

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    一層唱.一α◎◎’

    ド℃・一αcQ.

    一層目℃.一αΦ1ζゐO.

    一、唱唱’一刈もQ一刈典

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    くO一哨一回唱.一団心■

    〈O一.ど℃。一Q◎O.

    く〇一.『℃唱■一刈膳一刈Q◎■

    なお、アラー・ウッディー.ソの辺境政韓策につ

    軋》圃曽一露臼一U隅μ 緊口詩諭.m霞O昌σqO回

    くO一・ジ唱℃.一醐O-Q◎P

             いては、Oヴ碧p毒℃巴…

      層O一一〇繁・(円鶏日ヨ一〇6質津犀樽O暫寓団俄-

    73 (7e9)

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    History of

     India

     as

     teld 

    by its 

    own 

    1-

    listor

    ians

    , 

    Caleut

    ta,

     2nd.

     Ed.

     1954,

     pp・

     71-

    97.) p.

     74.

    齢 An録

    r KhusrO;

    Op. citり

    p.78.

    W’ Baclaoni;

    Op. clt.

    , vo!

    . 1,

     p.

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    $ NiziLm-

    ud-D’

    in; Op,

     cit.

    , vol.

     1,

     p.

     246.

         .

       Badaoni;

     Op,

     cit,

    , voL 

    1, p.

     328.

    (蚤薫k舞

    繋〉

    (Oζ)寸卜

  • The Mongolian lnvasion into lndia in the

            13th and 14th Centuries

                      by

                Toshiyuki Etani

      From the invasion of the Mongolian army under Chinggis-Khan at

    the begiiming of the 13th century, the Mongolian made a repeated

    rald on the. north-western lndia till the 14 th century. The first

    invasioR was projected to dissolve the Kh.warizm-Skah dynasty and to

    secure the possessory right of the principal road between East and

    West, happened to reach the bank of the IRdus in pursuit of the

    south-routing Khwarizm-Sh2h king. Soon, with establishment of the

    kingdom of Chaghatai-Khan, the Mongolian started the earnest invasion

    to lndia and threatened the bacl〈 oi Sukanat in Delhi, the development

    of which this article tries to trace with the examinatioB of its historical

    importance.

    Saint-Simon, Fourier and Owen

    A Cornparison between’French and        English Socialist Thinkers

                 by

            Toshio Horii

      Saint-Simon, Fotirier and Owen were almost contemporary socialist

    thinkers in France and Great Britain, and up to this time these three

    have been regarded as “Utopian socialists”, and especially 一Fourier

    and Owen as “assoslationist socialists”. But, when their ideas are・

    examined, their shades of opinioR lead us to another interpretation.

    Though they thought of the protection of laborers, the differen’ce

    between Saint-Simon and Owen is great ; in spite of the same plan of

    utopia, their attitude fowards the actual society was differet. On the・

    other hand, the fellow countrymen, Saint-Simon and Fourier, have

    many points of similarity in their social thoughts.

     This article presents that their own・ideas refiect iR tuyn the fate

                                (793)