Title 王安石の科擧改革をめぐって 東洋史研究...

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Title 王安石の科擧改革をめぐって Author(s) 近藤, 一成 Citation 東洋史研究 (1987), 46(3): 483-508 Issue Date 1987-12-31 URL https://doi.org/10.14989/154215 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Title 王安石の科擧改革をめぐって

Author(s) 近藤, 一成

Citation 東洋史研究 (1987), 46(3): 483-508

Issue Date 1987-12-31

URL https://doi.org/10.14989/154215

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

王安石の科翠改革をめぐって

同諸科廃止と五路針策

二三経新義編纂

』主

- 21ー

小論は、王安石の科奉改革を、特に嘗時の社舎や土人が改革にどう割腹したかを念頭に置きつつ考察したものである。

時期は紳宗朝の照寧、元豊年間とし、この開おこなわれた六回の科事が主な封象となる。

科穆改革も康義には王安石新法の一環であるから、本来は新法政策全鐙を見渡す康い視野から捉えねばならず、ほかに

も慶暦新政の貢奉改革案、高言の書にみられる安石の政策構想との関連など、踏まえるべき黙は多いが、種々の理由で限

られた考察となった。大方の御批正をいただければ幸いである。

483

41

止巾

を述べておきたい。検討すべき史料は

王安石の科摩改革は、

岡山寧四年二月一日の詔によって具強化された。ここに到る経過を含め、

(

1

)

『通考』=二、

まずこの貢皐新制の内容

『曾要』選準三、

『玉海』

一一六などにもみえるが、ここでは最

も詳細な『長編』二二

O

照寧四年二月丁酉朔の僚に援る。

「長編』の一該嘗記事は、二つの段落から成っている。

「中書言う」に始まる前中T

は、王安石「乞改科僚制」割子(『王文

公文集三三〉の節録であり、後牢はその中書の上奏を受けて制定された貢奉新制の幾つかの僚項を、恐らく大幅に省略

し牧録したものである。安石の訓子は、原文でも二八

O字に充たない短文ながら、改革の方向性と基本事項を明示した、

一方、

後牢は、その改革案を貫施するための具種的な諸規定であり、直接には岡山寧五年の

科翠史上、重要な内容をもっ。

秋賦、六年春の省試を念頭に置いたものであろうが、やがて照寧十年、活鎧らによって二巻、

一七二僚にまとめられる照

- 22ー

寧貢翠数式の原案に嘗ると考えられる(『玉海』

一一六、

『長編』二八四

同年八月笑未)。

安石の剖子が提示する改革は、

(一)準士科の試験を鰹義中心に改めること

つ一〉諸科の段階的贋止

会一)西北五

路針策の三鈷に整理できる。これらは内容上、密接に関連しているが、以下、三貼に針躍する新制の各候項を参照しなが

ら、改革案の狙いや問題鈷を考えることにする。但し、よく言われることだが、安石の最終構想は、科翠の駿止、挙校制

を整備して太事卒業生を官僚にする、すなわち慶麿以来、多くの論者によって繰り返し主張されてきた取士と養士の

一元

化にあ

ったことをここでも確認しておきたい。割子の官頭で「古の取士は皆な皐校に本づく。故に遁徳、

上に一にして、

習俗、下に成り、其れ人材、皆な世に篤す有るに足る」と述べ、三代の皐校制度復興を提唱しているが、これは単なる文

飾ではないであろう。

「今、古の制を追復し、以って其の弊を革めんと欲さば、則ち其れ漸無きを患う」

と、性急な嬰革

を戒め、嘗面貫現可能な改革の第

一歩として今回の貢暴新制を位置づけているからである。この上奏の前後は、朝野翠げ

ての反射を押し切り、強引に新法諸政策を寅現させている時期だけに、この慎重さは、安石が科奉皐校改革をより根本的

な施策として意識していたことを感じさせる。

安石の提議の第一は「聾病封偶の文を除去し、撃者をして以って意を経義に専らにせしむ」こと、すなわち進士科の試

験を詩賦から経義に替えることである。言うまでもなく今回の改革の主要事項であり、既に幾つかの専論で明らかにされ

(2〉

た改革の内容そのものについて附け加えることはない。それ故、ここではそれら先行研究を参照しつつ試経義採用の意義

及びその影響についてまとめてみる。

さて、新制の嘗一宮傑項には、進土の詩賦、帖組、墨義を罷め、経義、論、策を課すこと、及び詩、書、易、周曜、瞳記

の五経から一程を本経として選揮させ、論語、孟子を余程にするとある。科場は、解試、省試とも四場で、

一場が本経、

- 23ー

二場が粂経の大義各十道を問う。答案は義・理の逼否を重視し、注疏に全面的に依る必要のないことを明記している。ま

四場が時務策、解試は三道、躍部試は五道を出題する。従来、準土

(

3

)

科は、詩・賦・論各一首、策五道、論語の帖経十帖、春秋或いは暗記の墨義十僚を課せられていたが、これを経義、論、

策に蟹更した理由は、政治に縁遠い文皐の土や記請の皐ばかりを習得した者を斥け、

る。より具睦的には新法建行に不可依な人材の確保が狙いであったろう。

た中書は別に大義式を撰し配布する。三場は論一首、

「通経致用」の人物を得ることにあ

ところで、経義重視は、決して安石濁りの考えではなかった。照寧四年の改革は、経緯から言うと照寧二年四月の「議

皐校貢拳詔」に糊り、その論議の中で概ね経義中心の方向が定まったと言えるからである。神宗即位に伴う新しい機運を

(4〉

感じとった官僚は、既に科奉の弊害是正を提議していたが、照寧二年、事貫上、即位後最初の秋賦を前にして、神宗は閲

歳貢翠と三歳二貝の得失など科奉をめぐる諸問題を側近と話し合った。その結果、正式に詔を降して群臣に貢撃の法を議

485

486

御史蓋、三司、三館の臣僚に射して一箇月

以内に間学校・貢奉に闘する考えを上呈せよと求めたのである。詔に臆じた官僚のうち、司馬光、韓維、蘇須、蘇職、呂公

著、劉放、陳裏の文が現存している。もっともこのときの雁詔文として疑わしいものもあるが、論議の大凡をみる上に支

(

5

)

一障はない。この七名の一意見は、具怯的人物を推理する陳裏のやや特殊な例を除くと、次の三つに分類できる。一つは、詩

賦駿止と程義採用を主張するグループで、司馬光、呂公著、韓維がこれに麗し、照寧元年、主に同学校からの取士を論じた

三月九日)、

四月二十二日、

雨制、

南省、

論させることとなり(『舎要』選穆一

程聞や詩賦の腰止を主張した係究の一意見もこれに入る。次は、科撃の弊害は認めながらも、それは法制上の依陥ではなく

運用に問題があるからだとして制度の主旨を徹底させるような改善策を主張する蘇碩で、第一と次の第三を折衷する立場

にある。第三が改革そのものを否定する劉倣、蘇輔の一意見である。特に輯の論は頗る説得力があり、紳宗も一時、改革を

断念しかかったが、安石の懸命な反論で気を取り直すという場面もあった(『逼考』一三など)。蘇棋の改革反針論を一言で

要約すれば、筆記試験は人材を抜擢する手段として元来不完全なものである。しかしそれに替わる推薦制が、請託など更

に甚しい弊害を費す以上、限界ある筆記試験の中から難貼の比較的少い制度を選ばざるを得ない。文章の上から言えば確

かに論策は詩賦より政治に関連あるが、政治の貫際にあっては詩賦、論策ともに「無用」なのである。とすれば、より客

- 24ー

翻的採貼の可能な詩賦を試すべきであり、事寅、建園以来百年除り、名ある土大夫は殆ど全員、詩賦をもって登用されて

きた、

と述べる。同様な翻貼から経義での試験や同学校制度によって人材を確保しようという考えも否定する。要するに賦

「課試の格」を論ぜよという、詔が設定した論議の枠組みそのものを問題にし、制度が現質に運用され

た場合議想される結果を先取りして論じたのである。輯の意見は、元祐年間、蓄法黛下での科聞事政策に影響を興えること

』土

「敬育の法」

になる。

最も有力であった詩賦腰止、

経義採用論の代表は司馬光である。

麿詔という性格上、

論議の内容は

嘗然限定される

が、司馬光のほかの科翠関係の上奏から推して、基本的にはここでも持論を展開したと理解してよい。

かれの諸上奏に共

(6〉

遁する考えは、取土の基準は徳行が第一で次に鰹術、三番目が政事で塞能は最後であるべきだ、という鞘'にある。しかし

公正を期すため客観テストの形式をとろうとする科奉では、徳行の判定は不可能に近い。そこで光は、推薦制や保母制と

筆記試験をどのように組み合わせるかを問題とする。このときの上奏は、解試において一部保孝制を導入し、省試で準士

は経義策三道、子史策三道、時務策三道を課し、明経、諸科は本経と論語、孝経の大義四

O道、明鰹のみ時務策三道を加

えるというものであった。準土科の詩賦及び帖程、墨義を慶することなどを含めて、安石の改革と共通する黙が多い。

新法、奮法南黛の劉立が激化するのは、二年九月、青苗法施行の前後からであり、五月の段階ではまだ官界に改革への

期待を共有する雰圏気が濃かった。慶暦新政の、策論を重親し帖経、墨義を贋する科事改革は貫施されなかったが、「今、

進士の詩賦、明経の帖義、治民経園の術に於ては了に闘せず」

(夜間褒『端明集』二一一一

論改一科場僚制疏)との認識は、

この時

期、概ね一般化していたと思われる。従って貢暴新制は、黛争に係わりなく、照寧二年、既にその基本方針を決定してい

たと言えよう。

- 25ー

試経義採用については、もう

一つの背景を考えねばならない。

仁宗朝後牢、経書解緯において傍統的な注疏に拘束され

ることなく、大腫に自己の一意一見を表明する風潮が現われてきたという、思想界の新しい朕況である。こうした経書解樟を

(

7

)

「五経正義」に劃する「新義の皐」と呼ぶとすれば、進土に鰹義の試験をとの主張は、

「新義の皐」勃興の科奉への反映

「春秋を治むるに傍注に惑わされず。曲読を矯し以って経を観さず。其の言、簡易にして諸侯大夫の功罪を明

らかに」した孫復(歓陽倫『居士集』二七孫明復先生墓奇跡銘)や、「五経論を異にすれば、弟子之れを記し、

と言える。

自ら胡氏口義

と鶏」した胡環(『端明集』三七太常博士致仕胡君墓誌)が、太準で講座をもち、しかも大いに人気を博したことに「新義の

照子」興隆の

一端をみることができよう。また照寧元年に渡した劉倣の『七経小停』にコ冗一肺の史官調う、慶暦の前、撃者

487

文詞を向び、多く章句註疏の皐を守る。散に至り始めて諸儒の設に異にす」(兎公武『郡据閣議書志』四)との解説が附せられ

ることもこの聞の事情を物語る。但し劉倣の弟倣は先に述べたように、田川寧二年の貢奉論議に改革反射論を唱えた人物で

488

ある。この兄弟は、共に慶暦六年の進土に及第し、倣が春秋祭に造詣深く『劉氏春秋俸』などの著作があるのに針し、放

は特に史皐に詳しく『資治通鑑』漢代の部分を分捨執筆している。得意とする専門はやや異なるものの、共著に『漢室目標

また兄の『公是集』に附けた放の序や同じく放の誌した倣の行肢から、二人は首時の皐術潮流にあって同じ

注』があり、

立場にあったと推測される。従って照寧の科翠改革が「新義の忽ご興隆を反映したものであるとすれば、劉飲は首然経義

汲であるべきで、これはどう考えればよいのであろうか。放の「貢奉議」を謹むと、確かに科摩は奮来のように文詞を問

えばよいと、現欣を肯定しているが、その論援は蘇賦同様、人材を得るか否かは制度に依ってではなく、選抜する人物の

如何に係わるとの翻粘からの肯定である。制度の依陥ではなく運用する人に問題があるのであるから、ここで改革を行な

っても必ず再び修正を迫られる。それならば奮制を維持するに如くはない、というのである。或いは、文詞の土と経塾の

士は異なるが、利様で誘われて徳性から離れる貼では同じだとも言う。要するに一定の制度で人材を得ることの限界を認

- 26

め、頻繁な制度第更が費す弊害の方を強調するのである。諸諸を喜んだという劉飲は献と親しく、議論の展開もよく似て

おり、詩賦の土と経義の土のどちらが政治に有用か、という生員面目な建前論こそ無用だとする論法なのである。このよ

うに「新義の皐」の措い手が全て試経義を支持したわけではないが、大勢としてみるならば、新儒皐興隆を科拳改革の背

景に想定して差し支えないであろう。

詩賦に替えて経義を問い、

しかも注疏に拘わる必要がないとなれば、各人の新義が百出する可能性がある。採貼する側

は何をもって基準とするか。ここに王安石『三経新義』の問題が出てくるのだが、それは後簡で検討することにして、次

に試経義採用が現寅の科場にどのような結果を賀したかをみよう。貢翠改革後、-初めての解試、省試は照宮T

五、六年に行

われるが、寅はそこでの結果を珠見させるような事態が、既に照寧三年の殿試で起っていた。前年の貢恕論議に力を得た

からであろう、神宗は従来、詩賦論の三題で行なわれていた御試を、このとき策聞に替えたのである。この饗更は突然の

(

8

)

ことであったらしく、準備にあたった係官は、奏名準士が席に着くといつものように瞳部の韻書を配ったと言われる。も

っとも神宗は執政に制策を示しながら「劃策で人材を網羅できるとは思わぬが、詩賦よりはましであろう」と癖解じみた

言葉を渡しており、蘇賦らの論議に影響された様子もみえる。突然の試題饗更は受験者を驚かせたが、採黙する側も混見

した。司馬光の『日記』によると、このときの考官は、初考官が韓維と口口恵卿、覆考官が宋敏求と劉放、詳定官が臭充と

(9〉

陳裏、編排官が李大臨と蘇輯、面讃官が陳升之であり、かれらの聞で葉租治の評債が大きく分れたのであった。すなわち

初考は三等上としたが、覆考で宋敏求、劉飲が五等中に降し、編排官は第三とし、紳宗が陳升之に面讃させ漸く朕元に決

(m〉

定した。或いは租沿を第一に推したのはロロ恵卿ともいう。この-評債の差が主に新法政策に劃する立場の違いから生じたこ

とは容易に想像がつく。

ず」「忠智豪傑の臣と合謀して之れを鼎新す」などの語句は、時政に阿課したものと非難され、かれの木惇(『宋史』三五

四〉は、「性、

狼慢、誤附を喜ぶ」

「牟利、顛貨を以って聞こゆ」など悪評に満ちているが、期策の内容は新法涯にとって

歓迎すべきものであったに違いない。時の政治に有用な人材を得るために策聞を採用する以上、科零が政争に直接巻き込

(

)

「阿時する者多く高等に在り、汗直なる者多く下陳に在り」との評慣に

租治の針策中「粗宗以来、

今に至るに紀綱法度、

荷簡因循にして師事げざる者、

誠に少きと信用さ

まれる事態は避け難いが、司馬光の述べる結論、

ついては、少し附け加えておきたいことがある。

- 27ー

劉放とともに租沿の期落を主張した蘇献は御試の最終結果が出ると、

(

〉た。その「表」の中で、拳人が廷試改一革の員意を理解せず、直言を避け「阿誤順旨」の者が上位合格している。科奉の答

案は世論

への影響が大きくこうした事態は坐覗できないとし、そこで「模範答案」を書いて

「嘗世の切務」を陳べるので

「擬進士封御試策」を書いて不満の意を表明し

と執筆の動機を述べている。その上で、策聞の一句一句を引用しつつ自分の考えを披躍して

ゆくが、それは新法塗行のための政治機構から始まり、主円苗法、均轍法などこの時黙で行なわれていた新法の諸政策、更

には信用政者の政治姿勢まで、新法瞳制を員正面から全面的に批判した内容となっている。御試策に擬するという形を借り

て、より大きな政治数果を狙った新手の新法批剣とも理解できるが、同時に

「阿諌順旨」の葉組治批剣であったことは誰

天子は直言を容れて欲しい、

489

携の議以来、

の自にも明らかであったろう。献は前年の秩に、園祭解試の試官として安石専権を風刺する策聞を出題しており、翠校貢

何かにつけての改革批判は安石を痛く刺激していたが、

それはさて措き、

その献が後牢、

葉租治への弾劾

490

に、

鼎護とはいえないが異議を唱えたことがある。元祐二年十月、組治を兵部員外郎から集賢校理躍部郎中に昇進させる

命に劃し、給事中越君錫が、曾て封策において宗廟を議制した人物であるとの理由で反射をした。このとき拭は劉彼とと

もに租沿の針策を引用しつつ、

撃術浅暗で議論者鯵と言うべきで宗廟議制は誤りだと主張したのである(参定葉租治廷試策

『文集』

二八

奏議)。

同じ第二朕では粗沿が針策中の、都合の悪い部分を隠して自己鼎護していると述べ、相襲わらず

厳しく射しているが、職、放の態度から、この時代の批判、弾劾は、

激しい言葉遣いにもかかわらず、批判する針象を客

「時政に阿設した」か否かは、立場の違いで全く逆の評債になるが、

観的にみようとする徐裕のあったことを知り得る。

いずれにしてもそうした中での批判であったことに注意しておきたい。

- 28一

ところで、この照寧三年の科奉に省元、殿試は第五で合格した陸佃の御試針策が存している(『陶山集』

九)。陸佃は安石

の経皐上の弟子と言われ、小論においても動向の気になる人物の一人であるが、列俸(『宋史』

三四三)に記された行黙と

この針策を比べると、先の司馬光の評語はある一意一味で肯定できるように思われてくる。陸佃、

{子は農師、越州山陰の人。

南宋の詩人陸携はその孫である。本俸によれば、若い頃、貧困の中で苦皐し、

金陵に赴いて安石から鰹を授けられた。や

「法、善からざるに非ず。但し推行、初一意の如き能わず、還て民を擾

すを篤す。青苗の如きは是れなり」と答え、安石を驚かせた。登第後、安石は

「佃、己に附せざるを以って、専ら之れに

がて雁同事のため上京し、新政について関われると、

経術を付し、

復た答るに政を以ってせず」と、

謬術上の弟子として遇したとある。安石の皐問と人となりを理解し、新法

の理念につ

いては賛同しつつも、その質施については批判的であったのである。その陸佃の針策は.とうであったのか。ま

を述べ

よ、

ず策問を要約すると、詩、書にみえる三代の治を質現するために、現今の政治が抱える問題の解決策及びその施行の次第

というものである。自由課題に近いこの設問に劉し、

陸佃の針策は、前牢で古典を引用しながら理想的な政治

が行なわれる状態について説明し、

後半、

今、帰すべきことを述べてゆく、論は終始抽象的で具睡性に乏しいが、その中の「陛下の意、至誠、側但求治の志有り。

安石に述べた言葉と素直に結びつかない。

これに近い朕況が唐にはみられたとして律令官制、均田制などに燭れつつ、

而して其の創設の法、

叉た己に良し」という新法肯定の語句は、

上京の折、

確かに新法貫施を特に褒めているわけではなく、績けて、良法であるから着買に、慎重に、人材を得て質施せよと述べる

のであるから、先の言葉と大きく事離してはいない。しかし賓施されている新法への批判めいた言僻は一切書かれていな

ぃ。蘇輔のような激烈な批判はむろん期待できないが、問題の核心がどこにあるか適確に把握していたと思われる陸佃の

答案にそうした記述が全くみられないことは、やはり封策という場が筆先を鈍らせた結果であろう。南宋初、曾惜の「照

土人、得失を計り較べ、山一旦敢えて時政を極言し、自ら瓢落

寧、殿試改めて策を用い、詩賦に比べ有用と謂うは、知らず、

を取らんや」

(『高鷲漫録』)との評は、概ね受賞と言うべきであろう。そしてこうした事情は、試経義においても同様で

- 29一

あったと考えられる。。

試鰹義と科場

試経義採用の影響の第一は、科場に太同月干の師弟関係が持ち込まれたことである。田川寧五年の秋試を前に、知制詰粂剣躍

部貢院の王盆柔は、本経を五道、論語、孟子を各三遁に減ずるよう要請し(『長編』二三四六月美亥〉、林希『野史』

r、、-司

編』一一一一一七

八月戊戊の篠所引)に擦れば、

願いは入れられたという。この程義問題数削減について林希は、以前から安石

の子穿に従皐していた外舎生練亨甫が、太翠春試に下等の成績であったことが切っ掛けであると指摘している。優等を務

想していた安石は、管勾園子監張琉らを詰問して亨甫が九問しか解答できなかったことを知り、出題数を五聞に削減した

491

というのである。亨甫はその結果、秋試を一位で通過した。事の員偽はともかく、この話は、安石父子の門生と太築、科

事の関係をよく示している。照寧四年十月、貢奉改革に績けて太皐に三舎法が施行され、皐術、品行の卓越した祭生を抜

492

試校

書郎睦州推官郡州州島十数授となったのが五年八月である。後述するように、首時の皐官は、安石の門人、友人が多く、間学

受験者は太摩に走った。

(

)

十月戊辰〉。

その最-初のケIスとして太皐生葉通が進士及第を賜わり

擢、除官する旨が明示された(『長編』

一一一

一七

官の縁故が合格の早道と、

葉通の任官はこの傾向を

一一層助長したことであろう。前記『野史』

は、五年の秋試に、園子監解試の合格者

一五

O人中、

一三O人が、同じく開封府試二六

O人中、二

OO鈴人が諸家門生で

あったと記す。直講らは

「此れ自り科事を罷め、但、太皐春秋雨試を用い、上等を占むる所、葉遁の如く、直ちに除する

に官を以ってせん」と豪語したと言う。しかも照寧八年、開封府解額三三五名、太宰解額

一六

O名は

「通計取人」、すな

わち開封府、太皐の受験生を

一グループにして成績順に上から四九五名を合格とした後、元豊二年、再び府・皐解額を分

離し、今度は開封府

一OO名に針し、太皐は五

OO名と、大量の割り嘗てを得た(『長編』一一一O一

さに林希の言うように「是に於て土心憧催し、惟、諸皐の門に出づを得ざるを恐る」紋況が出現した。これに劉して御史

資廉は、試験官が自分と同じ見解の答案に甘くなるのは人情であるから、息ナ官を試験官に任命する慣例を止めるよう提言

元盟二年十二月戊成)。ま

するなど(『長編』二九O

元盟元年七月丁酉)、

政府としても太皐の師弟関係への封策を考えねばならなくなった。元豊二年

- 30ー

の太同盟十の獄は、こうした欣況の中で起ったのである。そこで試鰹義採用の影響の第二に、太皐の粛正を考えてみる。

(UH)

獄の瑳端は、元豊元年十二月、建州郷貢進士虞蕃が畳間鼓を叩き、太与の現献を告渡したことにある。蕃は、講官が太

同学の試験で不正を行ない、向学生の及落が情買によってなされているとし、更に習皐紋況について、天子が夜明け前から政

務に蹴んでいるのに講官は十時にならぬと出議せず、十二時にはもう退出ししかも休講が多い。天子は激務のなかなお

数年ならずして詩粧を誼了しているのに議官は周躍を講ずるに七年かかってやっと四巻までである。また道徳の中心だと

して必修にした論語、孟子は未だに講誼が始まらない云々、と事細かに弾奏した。この上書を重視した紳宗は開封府に調

やがて案件は御史蓋に移され、

二年五月、

参知政事元締が、族孫伯虎の太皐内合生への升補を摩官に頼み込ん

査を命じ、

だ責を問われて知事州に縛出させられたのを皮切りに、十一月まで二二名が虚罰される事態に護展した。

この中には厚生

から竹箪、陶器を贈られ、内舎生の升補に不正があるとされた管勾園子監沈季長、属官の監督不行届を責められた剣園子

監黄履及び生員張育から銀、綾を受けたとされた聾原ら五名の直講が含まれ、後簡でみるように安石門下の名前が数多く

(

血やっている。劉撃の言によると、この事件に関連して巌しく追求された者は侍従から州問師事子に至るまで無慮数百千、遠

かれ自身は起獄に批剣的であった。虞蕃の上書は科奉落第の怨みが動機で、御史の推

くは闘呉の地まで及んだというが、

治も勘官何正臣らが成績を上げるため殊更苛酷になったとし、皐官が畢生から贈物を受けたことは確かに巌密には法律違

集』四

反だが、それらも茶薬紙筆など弟子が師に見える躍の範圏内であり、賦罪にするのは誤りだと寛罪を強く主張した(『忠粛

論太皐獄奏)。同様の見解は、獄の前に太皐を離れ、経鐘に侍していた陸佃が一脚宗に語った言葉の中にもみえている

元盟五年五月葵未の僚割注〉。新奮雨黛汲から緯護されていることは興味深い。確誼はないが、新法黛の反安

(『長編』一一一一一六

石涯が関係している可能性も捨てきれない。しかし起獄、推治の貫情はどうであれ、元豊二年十二月に太皐三舎・選・察・

升補の法が整備され、永年の懸案であった取土と養土の一致に向けて、皐制を正に始動させようとしていた時期だけに、

太皐の粛正は十分必然性があったと思われる。特に考官の主観が入りやすい経義、論、策を試題とした以上、情買による

弊害はその穿から摘みとっておかねばならない。獄は不可避であったと言ってもよいであろう。この結果、皐官、皐生の面

(

曾禁止のような行き過ぎた規定も作られたが、

- 31ー

「土子奔競の風、少しく挫かる」(『東軒筆録』六)肢況が生まれたという。

鰹義試題をめぐる問題の最後に、本経の合格率について一言しておく。雁試者は五経から一鰹を選揮するのだが、各経

田川寧五年六月笑亥、四場制を述べる記事中に

各々一場を分ち考校し、考畢れば衆官、高下去留を参定す」とあり、四場それぞれ別に採黙

し、それら採黙官(衆官)が集議して合否順位を決めている。従来の逼場去留制であろう。これであると、各経合格者数

が不均等になる恐れがある。元豊元年、御史責廉は、この是正を求めた。かれの指摘によれば、照寧八年の解試は一巡鰹護

解の人数が均しくなく、別試所の例で言うと、詩経を治めた者が四J五割合格しているのに、

書経は僅か一割であった。

の及第者数はどのように調整されていたのであろうか。

「試官、

『長編』二三四

一人の試巻毎に、

493

494

そこで

「今自り、逐経内にて各々取人の分数を定めん」と乞うたのである(『舎要』選摩三

七月二十五日、『長編』二九O

月了酉)。

この上言に射する詔が前後して二つ出された。一つは、黄廉の言に捕捌いて記される「詔す。今自り在京護解並に南省考

試、詩

・易は各々三分を取り、書は二分、周峰

・雄記は二分を通取す」であり、もう一つは、八月十三日の詔「在京護解

の進土、試に入る人数に擦り解額を立定す。治むる所の紐に随い十分を以って率と信用し、均しく之れを取れ。躍部、此れ

に準ず」(『長編』

ニ九一

八月甲寅)という在京解試、省試の各組合格率を均しくするという措置である。

「逐控均取」の

後者が、その後の原則になったと思われるが、

とすれば前者はどう理解すればよいのであろうか。

『通考』一一一

一には同文

を「:::詩・易は悉く三分を占め、書は二分、周躍

・雄一記は通じて二分」と記し、この分数が解額、省額に占める各組合

格人数の割合であることを示している。もっとも『舎要』

『長編』の記述でも詩

・易を「各取」、二穫を「通取」と区別

しているから、分数をもし各組内の合格率とするとこの区別は意味がなくなる。やはり合格者総数に占める各経の割合で

ある。恐らく照寧八年の解試の各組麿試者数を分母にすると、その分数でほぼ均等となったのであろうが、八月十三日に

- 32ー

なり各組ごとの合格率を均しくすることに控えたのであろう。その後、元盟四年十二月、知謀院朱服が「分経均取」の法

を罷め、五経今一聞の答案を合わせ「義理文僻を以って高下去留と魚す一ょう要請したが容れられなかった(『長編』

三一一一

十二月甲寅)。

ところが合格率を均しくしても経による麿試者数の偏りは無視できぬ程となり、特に周峰、躍記が敬遠され

たため、特例として他経の倍の合格率にした(『長編』二九九

元盤二年八月辛酉〉。後の時代になるが、

南宋の紹興年問、組

義進士の艦記、周躍の臨応募者が少く、封躍に苦慮している記事などを目にすると膿の不人気は後世まで綴いていたようで

(

)

ある。以

上、詩賦、帖程、墨義から経義、論、策への算化が惹き起した幾つかの間題をみてきた。

「客観試験」から「主観試

験」への嬰更とも言える安石の改革は、出題者や採貼者の考えが直接合否に影響を輿えることになりかねないため、

様々

(

)

の問題を抱えていたと言えよう。

諸科底止と五路針策

次に改革事項の第二勲、明経・諸科の慶止についてみる。安石の割子に「明経及び諸科は贋罷を行ない、元解せる明経

の人数を取り、増して進士を解せんことを欲す。一次の科場を侯つを更るに及びては、諸科新人の麿拳を許さず、漸く準

土に改習せしめん」と述べる事柄である。明経は照寧五年の解試から即底止、その他の諸科は、一回を従来通りの規定で

行ない、岡山寧八年の解試からは新規受験を認めず、それ迄諸科に鷹じたことのある者だけに受験を許すという漸減策がと

省額は進士に充嘗するが、移行措置を伴う諸科の場合、

具瞳的にどう封慮したの

(川口〉

か、貢拳新制の記述‘か断片に過ぎるためよくわからない。ここではその大略を紹介するにとどめ、詳細は後考を待つ。ま

ず解試は、照寧二年の明鰹護解数を進士に回し、奉人(進土科受験者か〉が照寧二年より多い場合は十人増すごとに諸科の

解額一名を進士に回す。但し諸科解額が三人に及ばぬ慮は蓄に依るを許す。また明経合格者の無い慮は、進土科鷹募者が

二十入場すごとに諸科の解額一名を準土に回す。次に躍部奏名では、諸科の解額(省額?〉の十分の三を準土省額に回し、

京東・快西・河北・河東・京西の全ての進士と開封府・園子監及び諸路の諸科から進士科に獲更した準土は別枠で考査す

る。安石の言を参照すると、新たに準土科に回した、諸科省額の十分の三がその特別枠に嘗ると思われる。

られた。底止された明経諸科の解額、

- 33ー

明経とは、仁宗嘉一茄二年十二月に設置された所謂「嘉一筋明経科」のことで、諸科の一つであるが、記諦ばかりが問われ

る従来の諸科に劃し、経義を問うことで土人に経典の習得を促そうとしたものである。経を大・中・小の三経に分け、大

経は躍記、左停、中経は毛詩、周躍、儀躍、小経は周易、尚書、穀梁俸、公羊俸とし、大中小程より一鰹づっ選揮させ、

(

三経から墨義、大義各十道(三年三月に二十道に改める〉、論語、孝鰹から帖経十道、策三道を八場に分けて課した。嘗時、

開封府、園子監の解額は、準士科がそれぞれ二一

O名、

495

一OO名、諸科が一六

O名、

一五名であったのに劃し、明鰹に割

496

り嘗てられた額は各一

O名と多くはなかった。それでも明経科設置は「新義の皐」の捨い手たちに大きな希望を抱かせ

た。胡環の弟子徐積は、侍御史越弥への書簡の中で「議論する者、以篤らく、此の科、之れを行なうこと十年にして古人

の察、以って復すベし、而して雛轟築刻の率、以って厳すベし。此れ量天下の一帽に非ざるや。山一旦首問世の一帽に非ざるや'」と

(

)

明鰹への期待を述べている。このように明経科は膳試者に記請ではなく経義を要求して設けられた科目であり、目的にお

いて改革後の準土科と重復するので、町底止され解額は準士科に因されたのである。

明経に針し、従来の諸科の取扱いはそう簡単ではなかった。この問題は、安石の提議の第三黙、

しているので、以下併わせて考える。

五路針策と密接に関連

段階的にせよ諸科が贋止されることは、特に北方の土人にとって大きな打撃であった。嘗時の論議の中で、たびたび繰

(

り返されるテlマに、南人が進士合格者の多数を占める地域的不均衡をどう解消するかというものがある。田川寧二年三月、

今回の改革の護端となった輔臣との針話の中で榊宗も、「西北の人材多く駿さる」と述べ、その善慮を要求している。言

うまでもなく、時人の認識は「進土の翠業文賦、唯、間窃・江漸の人の長ずる所。南省に至れば則ち西北の人と一盛に糊名

- 34ー

上神宗乞設特摩之科分路考絞取『園朝諸臣奏議』八O〉と、南人は詩文に

ひとし

巧みであるから進士合格者が多い、というものである。その結果「東南の進士、西北の諸科、則ち数は略ぼ相時」(孫究

註〈4)参照〉と言われていた。従って詩賦の南人に鈎し鰹皐の北人と考えれば、進土科試題の詩賦から経義への饗更と、

(

)

諸科の厳止は、南人、北人整方の利害を相殺する措置と理解できないこともない。しかし賞情は全く遣っていた。その開

通考す。故に西北の人、進むを得る者少し」(活純仁

の事情は神宗と側近の劉話から窺える。

『長編』

二二三

照寧四年五月丙申の僚には、京東の兵が精惇であること、

土大夫に法令を習熟させる必要があること

などを論ずる紳宗、文彦博、臭充らの言を載せるが、その中で、京東の皐への論及がある。すなわち文彦博は「済

・魯の

諸生、常に諦粧を以って業と魚す。近ごろ朝廷、科場を澄改するを聞くも、此の輩、未だ逮に業とする所を改む能わざる

を恐る。必ず失職の憂い有らん」と言い、また臭充も「斉・魯専経の率、諦書の外、其の他を知らず。登第の後、官政人

事に至りては漫として通暁せず」と述べる。山東の程準は、賓のところ記請の皐に過ぎないというのである。更に『長

編』二三三隈寧五年五月甲午の僚では、神宗、鴻京、王安石が「西北人」について論評した折、ここでも北人が科事国学

校の新制に遁雁し難いことを話題にしている。安石は「西北の人、蓄、

思ナ究魚り。習う所、義理無し。今、改めて進士と

篤し、習う所、義理有り。皐究を以って進士と篤すは、土人に於て悦ばざると篤さず。義理無きを去りて義理有るに就く

は、習う所に於て善らざると篤さず。其の蓄、合に放つべき解額は並に本路に還し、東南の土人、侵奪する能わざれば、

土人に於て乃ち損う所無し。云々」と、北人にとって今回の改革は、決して不利でないと力説したが、鴻京は「西北の

人、魯にして費じ難し」と一蹴している。安石も結局、諸科を準土科に拙担えてゆくには、嘗-初三J四割が襲わればよく、

残りは徐々でよい。奮を新に革めるということは、十年後にその数果が現われればよいのだ、と気長に構える護言をして

いる。要するに嘗時の一般的認識は、北人の経拳とは「組義に通じない記請の皐」

ハ前掲孫究奏議)だというものであり、

- 35ー

諸科融政止は、準土科の経義採用で相殺されるものではなかった。とすれば、腰止に劉し華北士人の抵抗が議想されるのだ

が、史料にあまりそうした動きは出てこない。僅かに照寧八年八月の科場で、園翠、開封府諸科事人孫義らが底止に抗議

して騒ぎ、首謀者が受験停止一回の慮分を受けた記事が目をひく程度である(『長編』一一六七

八月庚戎〉。

照寧八年以降諸科の新規臆募を認めない、との規定は、全瞳として巌格に運用されたらしく、元豊八年には、酒、博、

棟三州の諸科挙人が、三州の解額は、進土に因された残りも全て新科明法科に充賞され、諸科に合格しても解説慌の枠が

ないと訴えている。その結果、奮諸科解額の十分の一を「奮人」のための粋として残すよう決められたハ『舎要』選翠一五

同年二月十八日〉。

このように大きな混凱もなく諸科が腰止された理由は、何といっても「記請の翠」批判が一般の風潮に

までなっていたからであろう。それに加えて安石の段階的解消策と華北への救済手首が一定の数果を奉げたからであろう

と考えられる。以前から河北、河東、険西三路の準士特奏名は、

他路より一撃を減ずる特典が興えられており(『曾要』選

497

498

望基はいh

え、 嘉一蹴八年三月五日など)、朝廷の華北針策には傍統があっ

た。

今回は、諸路の諸科から進士科へ嬰更した拳人を含むと

五路の離部奏名額を別枠で規定したのであるから、嘗て司馬光が提議した路ごとに奏名額を決めよとの案(『司馬

また照寧五年以前の明鰹諸科奉人のために、

貢院乞逐路取人吠)に近かったことになる。

断案、律義を

文正公傍家集』

三二

課す新科明法科が新たに設けられ、神宗朝の法官重視策とも重なりつつ準士科に改雁できぬ「蓄人」にもう一つの救済手

段が講じられてぺ問。この科目は態学九年に三九名、元豊二年には

一四六名の正奏名合格者を出したが、元豊二年九月、

(M)

五路の雄部奏名特別枠に組み込まれ、特典の一意味はやや失われたと考えられる。

また安石の五路劉策として見過せぬものに皐官の汲遣がある。貢翠新制によると、一般の拳官が、雨制、雨省、館閣、

蓋諌臣僚の推薦に基づき、中蓄が現任の京朝官、選人から路官として堂除し本州教授を粂任させるのに針し、五路への皐

官汲遣には特別規定を設けてある。

まず

他路に先駈け、

中量一国が路ごとに三J五人を選差するが

選任の針象は現任官

- 36-

僚に限らず、布衣でも経術行誼が相嬉しければ櫨教授として任命し、下鯨主簿尉の俸を興える。自渡的な臆募も認め、三

年の任終了後、五人の推拳があれば、本州の判司、主簿尉に堂除し再び数授を粂ねさせる。経術行誼が特に秀れた者は

足飛びに官に除し数授とする、というものである。この優遇策は、安石が、五路の土人を記請の皐から経義の拳に向わせ

ようという先の言葉を具陸的施策によって裏附けていたことを=意味する。その上、照寧四年七月には、園子監直諮に川駅員

)

五路の同学官内から選差するとの詔が降され(『長編』一一一一五

れなたお

とこを月ホの唆規す(定る251こ。)よ

り四年

まず陸佃らが五路皐官に任命されたことは、

西北で安石「義理の皐」が逸早く講じら

このような五路優遇策には、

やがて批判が出てくる。その理由の一つに、

五路の穆人が低摩力で合格してくることへの

反感があった。

王明清『揮塵録』前録三には、元盟五年の「黄道夫(裳)腸、

俸臆して第四甲党崎町の巻子に至る。紳宗、

大笑して日く、此の人、何に由りて省を遁ぐるやe

知事管信道(宣〉針えるに以って、

五路の人、分散を用って取り、末

名にて省を過ぐ、と。上、命じて降し第五甲末と作す」との逸話を記すが、五路の特別枠でかろうじて合格した党錦の例

はその典型であったろう。しかし何といっても批判の主要な原因は、麿試者全置からみた南北の合格率の差である。従来

から解試の段階で、受験者が殺到する南人の合格率が北人に比べ極端に低いことが問題にされてきたが、元豊八年、陸佃

も四川、南街、一踊建、江南の解額を増すことを主張し、五路は五、六人に一人の合格に封し、川、断、一繭建、江南は五、

六十人に一人だ、と述べている(『陶山集』四乞添川、街、一漏建、江南等路進士解名劉子)。解額の不均等をそのままにして五

路薩部奏名を特別枠とすれば、嘗然「濫取」の批判が出てくる。次の哲宗朝の元結五年になって、この枠の見直しが園ら

(『舎要』選翠三十二月十八日〉、紹聖四年、五路躍部奏名額は、十分の三が開封府、

残りの五分は園子監が自取と、

因子監、諸路の準士と通取、二分

を五路が遁取、

五路優、遁は大幅に後退し(『禽要』選翠一四

二月四日、『逼考』四一一

紹聖年

閲〉、この問題は賓質的に結着がついた。

- 37ー

このように明経諸科の底止は、華北土人に及ぼす影響の大きさにもかかわらず、比較的スムーズに行なわれた。それは

記請の皐に劃する一般の冷淡な態度に加えて、底止の代償として新科明法科を設置したり、五路進士奏名額を特別枠にし

て一定の合格者を保護するなど適切な樹虚がなされたからであると推測してみた。しかし安石が主張した肝心の、「記請

の土」から「経義の土」への移行は、神宗朝に限って言えば、特に目的を達したと思わせる史料は見嘗らないのである。

三経新義編纂

三鰹新義の編纂は、今回の科事改革の必然的結果とも言える。固より三経新義は、安石の思想、皐問全鐙を把握する中

で論じなければならないが、今、その徐裕はない。極く表面的に編笛罪過程を追いつつ、最後に貫暴改革との関連を若干述

(Mm〉

べてみたい。

499

既に照寧二年四月の詔で、紳宗は「道徳を一にする」必要を述べていたが、

五年正月、皐官採用の試験結果を報告した

500

安石に「経術、今、人人事異す。何を以って道徳を一にせん。卿、著わす所有らば以って頒行し、墨者をして一に定めし

めよ」と、玉泉が皐問と政治の世界にあって規準の役割を果すよう促した。安石は、詩経については、自分と打合せをし

ながら門人の陸佃、沈季長が「義」を作成している旨、答えている(『長編』一一二九

(

)

安石は早くから準備していたのであろう。

正月戊戊〉。

こうした事態を竣想して、

正式な経義局の設置は、翌六年三月、試経義による最-初の科穆が行なわれたときのことである。提琴に安石、修撰が呂

恵卿、同修撰に安石の長子雰が任命された。また口口恵卿の弟升卿も検討に任ぜられたが、一週間も経たぬうちに「鰹義は

長ずる所に非ず」との理由で外任を命ぜられている(『長編』二四一一一一一一月庚午、同二四四四月乙亥)。升卿はその後、安石

が一時知江寧府として京師を離れていた七年五月、崇政殿読書を奔し紳宗の侍講となったが、『長編』は「升卿、素より

皐術無し。進講する毎に多く経を舎で、財穀の利害、

営繕等の事を談ず。上、時に経義を以ってすれば、升卿、針うる能

(

)

わず」と、相嬰わらず無能振りを護揮したことを記す。しかし同年九月には同修撰として経義局に復蹄した(『長編』二五

ー』

ノ、

九月庚子)。

以上のトップ人事に封し、

安石の政治手法がよく表われているのが若手の大臆な起用である。まず六年四

- 38ー

月、貢翠新制による初めての及第者の中からいきなり六名を検討官に任命した(『長編』二四四四月壬辰〉。朕元の余中、

省元の部剛及び朱服、葉唐誌、葉杖、練亨甫である。因にかれらの本籍は、余中、部剛が常州、朱服が湖州、葉唐誌が南

銅州、葉杖、練亨甫が建州というように新西、一帽建から各三名となっており、日恵卿、升卿兄弟も泉州であることなど、

(

)

一噛建出身者が自につく。更に布衣からも検討官を任命している。洪州進士徐稽及び出身不明の臭著と陶臨である。徐轄は

(

)

この後、安石が若手の新法波官僚をプールし買務経験を積ませるため設けた中書五房習翠公事の戸房習皐公事に任命され

六年十二月庚辰〉。ほかに七年五月、検討官となった曾眠、劉浬、劉谷の名がみえるが、かれらは口口氏兄

た(『長編』二四八

弟の人事色が濃い(『長編』二五一

五月甲辰、同輯本二六四

八年五月丁亥)。

こうしたスタッフによって編纂は進められたが、新義に関わったもう一つの有力なグループに、安石の門人及び門人が

中心となっていた皐官の存在がある。照寧四年十月の太皐整備後、同学官に封する審査が巌しくなり、十一月には安石門下

が占めるようになっていた。直議の在任期聞は特定できない場合が多く、姓名のみ列奉すると、陸佃、襲原、饗宗孟、葉

(MU)

煮、沈季長、曾肇らとなる。

田川寧六年四月辛卯に、目恵卿の言として「修撰園子監経義乞うらく、直講

をして月に雨員を輪し、本経口義二巻を供せしめんことを」とあり裁可されていることから、皐官は単なる編集スタ

vフ

以上の、新義の内容に影響を及ぼし得る立場にあったといえる。また、先の内舎生陶臨が検討に任命されたことは特例で

あるが、拳生も編纂に興っていた節がある。それは、園子監上舎生顧襲、安惇、丁執古、虞黄、葉唐榎が新義完成後の八

年十月、菟解或いは兎躍部試の特典を賜わっており、李煮は、経義局がその理由だろうと注しているからである(『長編』

(

)

十月甲辰〉。

『長編』二四四

二六九

七年四月から八年二月までの安石が知江寧府に抽持出した時期も緩けら

れ、八年六月に一腰の完成をみた。安石は、余中らが江寧府に赴くとき障行吏人に食銭と騨料を給するよう願っているの

六年三月から正式に始められた編纂は、

途中、

- 39ー

七年五月美卯〉、京師と江寧の聞を打合せの検討官が往き来し、安石の指示を仰いでいたのであろう。

しかしその問、病いで入朝できない王穿も父に従い京師を留守にしており、呂恵卿が同提嗣卒、升卿が同修撰を授けられ貫

で(『長編』二五三

質的に編纂を主宰した。回一方の詩義を改剛したのはこのときのことである(『長編』二五二

七年四月庚寅〉。

詩・書

・周躍義の副本が因子監に迭られ、

(

り、二十一日には、安石、恵卿、雰、升卿に加官の推恩が施された。績いて二十四日、安石は三経新義の序を奉ずる。以

三経新義完成後の動きを追うと、

六月十九日、

約一千部印刷することにな

前、神宗を文王に田智?え潜越だとして紳宗に書き換えを求められた序文である。今度は受け入れられ三経義解の首に置かれ

ることになった(『長編』二六五六月甲寅〉。次いで七月に入ると十一日に検討官は一官を縛じ、選人は雨資を循じ、事人

は絹五十匹を賜わる酬奨を受けた。十三日、新修経義が宗室、太準、諸州府撃に配布され〈『長編』一二ハ六〉、また二十一日

七月辛巳)。

501

には杭州と成都府轄運司での印刷が決められた(『長編』一一六六

502

おおよそ以上のような経過で新義は刊行されたが、照寧八年九月になって、安石は詩義の改定と詩序に目升卿の解を用

(M)

いることを願い出て許されている。安石、実の原稿を恵卿、升卿が改鼠したというのが理由であった。十二月、安石は再

江寧に引退してから

これも園子監にて刊行された(『長編』二七一

その後、

(お)

やはり園子監にて修訂された。晩年の安石は、三経新

十二月辛亥)。

撰した閥雄義解などを上呈し、

も新義に手を入れつづけ、元豊三年には、三経の誤字改定を願い、

義の改定と字読の編纂に一芯を注いでいたのである。

こうして王皐は、刊行された三位新義を中心に、

科翠を志す士人らに匪倒的影響力を及ぼすようになる。

南宋の晃公

武、陳振孫は、照寧八年、新義成ってより王皐は「濁り世に行なわるること六十年」と述べているが、その影響は北宋に

(お)

かなりの時期に亙ると考えるべきであろう。今、参考までに『通考』

一七六以降の経籍考から、王製

援の著作で特に科場との関連が記される書名を抜き出すと以下のようである。王安石『易解』二

O巻及び盟原、敵南仲の

止まらず南宋初め、

ニ経新義のうち書は王宝刀撰、

詩は僻を宝刀が、

周躍は安石撰。

王昭百円『周躍詳解』四

O巻。方柏町『躍記

- 40一

註易各二

O巻(紹翠以降の科場)。

「新経向書』

『新経詩義』三

O巻、

義を安石が訓じ、

一三巻、

『新経周躍義』一一一一巻(共に照寧八年以降)、

解』二

O巻(政和以降)、

方書とともに朱蒸から高く許債されている馬希望『瞳記解』七

O巻も恐らく科場に影響力をもっ

たであろう。王安石『論語解』

一O倉、

王宝刀『口義』

一O巻、陳鮮道『論語(全解)』

一O巻ハ紹聖以降)。

王安石、

王秀

許允成

『孟子解」四二巻(崇寧、大観年開)。

北宋末までに、

試程義の本経、粂鰹七鰹の全てに王鼠干の解読者一回、が出揃った様

子が窺える。

むろん王壌は科場のみで問題にされていたわけではない。元結年間、嘗法議が政権を占めたとき、時流に阿ねて太皐生

の三経新義向学習を禁じようとした園子司業資隠が、奮法黛の劉撃や口口陶から手巌しく弾劾され、或いは字説の禁止にもか

(

)

かわらず、三組新義は古注疏や諸家の読とともに依然、科場での引用を認められたことは、王開学が嘗時の思想界に占めて

いた位置を十分推測せしめる。しかし、宋代新儒祭壇頭の中、諸家に先んじて王皐が官皐の地位を獲得し、しかもそれが

地味な講皐活動など皐涯の裾野を贋げた結果としてではなく、上からの力でいきなり科場の唯一の規準となったことは、

王皐涯の将来に決定的な悪影響を及ぼしたと言えるのではないか。安石個人の員撃な皐究態度を俸える話は、筆記類に敏

多く見いだせる。例えば三十代後半の知常州時代、鰹書の研究に授頭して片時も書物を手離さず、宴舎の最中でも易の解

(

穫に夢中であった話。或いは世間で言われるように注疏を決して軽んじたわけではなく、陸佃の話によると安石手淳の

『毛詩正義』は、朝夕手元から離さず字の大字は讃めぬまで擦り切れていたこと(陸務『老皐庵筆記』一〉、など精腸振りは

有名であった。

従って安石の謬聞を批判する者も、前提としてその深遠さは認めざるを得なかったのである(孫升『孫公

談園』中〉。

しかし官準化は、こうした安石個人の皐問への態度やその内容を片隅に追いやってしまう程の、激しい現質的

欲望の渦の中に王皐を巻き込んでしまった。人々は築達を求め競って安石門下を稽したが、この門生は政権が蟹わるたび

に門生であったり、なくなったりする不確貧で

E大な人の波に過ぎなかった(王闘之『沌水燕談録』一

OYまたたとえ皐問

- 41ー

上の護言をしようとする者も、

王撃の枠内で自設を展開しなければならないので、勢い新奇を追うことになる(徐度『却掃

編』中)。更に科場では本経を一経選掴博すればよいため、

士人は以前のように経全韓を讃まなくなっていた。

元符、

建中靖

「乾魚金、坤叉震金、何也」と「釜」字を「金」と

園年問、杭州州皐数授であった挑祐が、撃生に易義を出題したとき、

誤って問うた有名な話がある。これを記す諸書は、皐生の指摘したように数授が蹴沙本を使っていたため起きた誤りとす

るが、

少し違った見方を附け加えている。

「鰹術改めて自り、

人の子に数える者、

往往にして

葉夢得『石林燕語』は、

一経を以って之れに授け、他組、縦え讃むも亦た精なる能わず。其れ之れを教える者も亦た未だ必ずしも皆な五経を讃ま

ず。故に経書の正文と雄も亦た遣誤多し」と、その背景に一粧のみ習熟すればよしとする風潮が教官にも及んでいたから

(

)

だと述べている。

自分の選揮した本経を皐習するのみで、それも王拳の章句を丸暗記するか徒に新奇を求める大量の土人の出現。しかも

503

かれらは時の政権の動向で定見なく揺れ動く。安石が晩年、

「同学究を蟹じて秀才と魚さんと欲するも、秀才を饗じて皐究

504

と潟すは謂ざりき」と嘆いたとしても不思議ではない(陳師道『後山叢談』一)。

これらの逸話がどこまで事買なのか明らかではない。しかし確かなことは、これが宋人の目に映った王撃と王皐涯の姿

であるということである。

為、

安石の貢事改革は、政治に有震の人材を得るために行なわれた。より直接には、新法推準に不可依な人材を求めるため

であった。それは、

どのように改革の理念を高く掲げても、

それを遂行する官僚が陸官護財の債値観から自由でなけれ

ば、改革の結果が意圃した方向と正反射になることは自にみえていたからであろう。しかし、

宋人の残した断片的な史料

は、その貢穆改革でさえも、事態は嘗初一一意聞した方向とは逆に展開しつつあることを示しているかのようである。

- 42ー

照寧九年十月、安石は宰相を罷め剣江寧府として金陵に戻った。翌十年六月には洞禄を賜わり、名賓ともに犠退生活に

入る。この金陵時代の安石に射し、時人は一箇のイメージをもっ。それは、臨馬に跨り、村僕を連れ、鍾山に遊ぶ超俗の

土の姿である。元結四年、陸佃を訪ねた李公麟は、

かれのために「王荊公遊鍾山園」を描きあげた。そこには腫馬に乗っ

(

)

一人は字読を抱き、一人が木の虎子を背負って描かれていた筈である。経

は恐らく三組新義であろう。黄庭堅も同じく李公麟描く所の「荊公騎瞳圃」に肢を書いている(『山谷題紋』三)。山谷はそ

の置に、字説の完成に打ち込む安石の姿をみている。金陵の安石が悌数に熱心であったことはよく知られているが、同時

に三組新義の修訂、字読の編纂にも情熱を注いでいた。その成果は、前簡に述べた元豊三年の三組義誤字の改訂や元豊五

た安石の横に三人の村僕が、

一人は組を持ち、

年の字説進呈となって現われている。晩年に至るまで、自らの経皐完成を求めて己まなかった安石であるが、その姿が超

俗のイメ

ージに昇華してしまっていることは、最早、

王皐の追求が「道徳をごにするという現貫嬰革とは異なった次元

の結局みになっていたことを示唆するのである。

505

『績資治通鑑長編』|『長編』、『宋曾要輯稿』

l『曾要』、

『文献通考』

|

『通考』と略記する。

〈1〉『通考』は、この記事を照寧二年に繋けているが、後にみ

るように科翠改革についての論議と新制の貧施は分けて考え

るべきである。

(

2

)

荒木敏一『宋代科奉制度研究』(同朋舎一九六九)第四

章科目、三四六頁以下。】

oE巧・。

EF0・叫

4Z吋

4F司ミ

casミドE33hS句史認のFNab-PBrE向。

CEZ『白石

pgpS8・3・213・張希清

「論王安石的貢傘改革」

(『北京大拳皐報』哲社版一九八六|四〉など。

〈3)

『宋史』一五五選翠一、科目上。

(

4

)

例えば照寧元年六月の孫究「論取土之弊宜有改更」は、自

らの改正案を述べつつ、雨制、雑皐士、待制以上、茎諌官、

三館秘閣の臣僚に論議させるよう促している(『園朝諸臣奏

議』八

O

僑皐門貢奉上)。

(5)

各人の論は以下の書にみえる。司馬光議貢掌朕(『司馬

文正公停家集』四

O)、韓維議貢翠吠(『南陽集』二五〉、

蘇頒議貢奉法(『蘇致公文集』一五)、蘇紙議皐校貢掌紋

(『経準東波文集事略』二九)、呂公箸上一洞宗答詔論皐校貢

翠之法(『圏朝諸匡奏議』七八儒皐門皐校上)、劉叙貢摩

議(『都世城集』二四)、陳衷議皐校貢穆劉子(『古勉集』八)。

蘇拭のものは文集など、いずれも照寧四年正月の上奏とする

が、『長編拾補』囚が考査するように二年五月とすべきであ

る。因に『諸匡奏議』は照寧二年五月、直史館剣官議院のと

きとして同文を収録している(なおこの時期の東波史料につ

いては、信一沙雅章「『西国慣帖』の東披俸資料」〈『書論』一一

O

一九八二〉を参照)。小川環樹氏は、直接の詮援はないと

されながらも、これが「東放の作であるかどうか、すこぶる

疑わしい」とされる(『中園文明選二蘇東波集』解説朝

日新聞社一九七二〉。確かに内容上、一部、卒生の棋の言

動から納得しかねる箇所がある。しかし論の展開はいかにも

蘇紙らしい機智に溢れたものであり、且つ主要部分の論旨は

元結以降の科翠に関する紙の諸上奏と一致する。そこから逆

に、元秘以降の論を下敷にして創作したと考えられなくもな

いが、小論においては一懸紙の論として考えることにする。

また『玉海』一一六には程瀬の上奏もこのときのものとして

載せる。『河南程子文集』一に請修皐校律師儒取土劉子、及

び『閣朝諸臣奏議』七八僑象門皐校上に上一洞宗請修摩校以

信用王化之本として牧められている文で、雨書とも熊寧元年の

上書と注している。恐らく『玉海』の誤りであろうが、論の

内容は態詔とすることも可能である。

(

6

)

夢路六年八月二十一日の論傘選朕(『司馬文正公博家集』

二OV

(7〉「正義」に劃する新義については、土田健次郎「伊川易停

の思想」(『宋代の祉曾と文化』

汲古書院一九八三)、同

「胡褒の皐問ーーその性格と位置||」〈『東洋の思想と宗

教』一一九八四)を参照。

(8〉荒木前掲書

二九八頁。詳細は『曾要』選翠七

- 43ー

照寧三年

一一一月八日。

(

9

)

『経進東波文集事略』一一一擬進士廷試策表の割注に引か

れた『司馬光日記』に嬢る。なお

『日記』は面談官を陳裂と

しているが、『綱目備要』

一八など他の諸書に従い陳升之に

改める。また租沿の順位についても諸史料で多少の異同があ

る。

(叩)醇腹筋『宋元資治通鑑』一一一一一。

(日)司馬光『日記』、畢況『繍資治通鐙』六七など。なお『太

一や賓訓政事紀年』四嘗一該年の僚は『編年』及び『事質類

苑』を引いて、組治の同郷策履が側近として紳宗の孟子愛認

を知り、祖治に告げたため、孟子を多く引用して答案を書い

たため第一となったとの話を載せる。

(

M

U

)

註(

9

)

参照。

(日)より完備した規定は、元盟二年十二月、園子政数式令並製

令一

四O僚として波布される。なおこの時期の園子監、太宰

の詳細は別稿にて考察することにし、ここでは行論に必要な

限りで述べる。

(

H

)

『長編』二九五元塑元年十二月乙巳。なお『東軒筆録』

六太壌の獄に闘する項では蕃を鏡州進土とする。

(日)四名のほかは、孫誇、葉唐抽出、元番寧、沈妹、葉潟、許

勝、李君卿、奈淘、王愈、周常、許婚、李寧、熊泉、陳襲、

王沈之、余中、王汚之、沼綱が庭罰された(『長編』二九八

J三O一)。

(日)『忠新築』

修太皐僚制疏、

元年四月己丑王殿受の上言など。

506

『長編』三七四

フ巳踊

ハげ〉近藤一成

「南宋初期の王安石評債について」

究』一一一八三一九七九)。

(四)照率九年の殿試において、第一甲に不適格な人物が入って

いたという理由で初考官、間後考官各六名が罰銅の底分を受け

たこと(『長編』二七三、二八O。

不適格な人物とは以前太

製を追われたことのある暫時間美のこと)、元堕五年の殿試に

て結果的に扶元となった策裳らを不嘗に低く許債したという

ので初考、覆考官各六名、詳定官三名がやはり罰銅に庭せら

れたこと(『長編』一一一一一四)は、考官の主観的意向の頂貼に

一洞宗の一意一向が在る、という意味で貢摩新制の「主観試験」的

特質を象徴している。

〈mm〉貢穆新制候文中の原文は「:::量取諸科解名増解進土、以

照寧二年解明経敷居同率、如翠人数多於隈率二年即一徳十人更取

諸科額一人、諸科額不及三人者聴依替、不解明経路復増二十

人如十人法、躍部奏名於諸科解額取十分之三増進士額。京

・侠西

・河北・河東

・京西進士、開封府・園子監、諸路嘗

磨諸科改態進士者別作一項考校。其諸科内取到分数並充進土

奏名、賂来科場諸科宜令依奮態翠、候経一次科場、除奮人外

不得態諸科翠。:・・」である。

〈初)『禽要』選翠三嘉一疏二年十二月五日、同三年三月十一日

の係。なお『長編』一八六

嘉祐二年十二月戊申、『通考』

一一一一

嘉祐二年の僚などの明経科設置の記事には、試法を関

経、三経、五経の選擦とし、それぞれ八一週、六通、五通で合

格させるとあり、『曾要』と相違する。経を大中小三経に分

類したことを考えると『舎要』の試法がより合理的に思え

(『東洋史研

- 44ー

507

る。

(幻)『節孝集』三

O

上越殿院書。但しこの書簡の要黙は、明

経僚制は、八場が、墨義で注文を、大義は注疏までを範囲と

し注疏の皐から完全に脱却していないことへの疑義にある。

(幻)進士合格者の地域差については、の

ZR2前掲書一一九

頁以下を参照。

(幻)の

EFo同書、七一

頁。

(但)『曾要』選穆一四新科明法を参照。元塑二年九月の措置

は、原文に「詔、五路躍部進士、興新科明法人通理人数均

取」(九月八日。『長編』一一一

OO同月美酉も同文)とある

のを、本文の如く解したが、文意なお明らかでない。元一服八

年四月二十二日の大名府新科明法人の欽によると、諸科の駿

止に伴い、七J八割か新科明法科に遷ったと言う。

(お〉但し陸佃は、同年十一月、園子監直講として京師に戻る

ハ『長編』二二八十一月戊申)。

(お)近年、三経新義の伏文収集とその再-評債の動きが顕著であ

る。主な著作には、郎漢生『詩義鈎沈』(中華書局一九八

二〉、程元敏コ二経新義輯考奨評付|向書』『同口|詩経』

(園立線-誇館一九八六)、劉坤太「周官新義夏官補扶」(『河

南大幅四千皐報』一九八五|一〉などがある。程氏雨書には、氏

が数年来設表されてきた王皐関係論文のうち「三経新義修撰

逼考」「三経新義輿字設科場願微録」「王安石父子享紀廟庭

考L

(

以上付)「三経新義修撰人考L

(

口〉が附載されてい

る。小論で記す編纂過程の事賞関係史料は殆どがこれら程氏

論考に鋭出であり、多くを参照させていただいた。これら近

年の著作は、朱子皐が正統思想として紹大な祉禽的影響力を

有した後世の、道象者的観熱からではなく、歴史的事寅に即

して王摩を位置づけようという試みの一つの表われである。

なお安石の皐聞については圧司荘一「王安石「周官新義」の

大宰について」(『集刊東洋皐』一一一一一一九七

O〉を参照。

(幻)例えば、

書義は照寧二年に進講したものが基礎となってい

る。

『臨川先生文集』八四

番義序。

(お)『長編』二五三七年五月丙辰。『長編』は績けて「概目

(沈)季長従芳代封。上問難甚苦、季長辞屡屈。上問従誰受

此義。封目、受之王安石。上笑目、然則且繭。云々」と述

べ、升卿が助けを求めた侍講沈季長も安石の考えを鎚鵡返し

にするだけであったので、一脚宗の質問に立ち往生したとい

う。但し李煮は、此の記事は司馬光記聞に嬢るとし、升卿が

これ程無皐であるとすれば、後に新義詩序が全面的に升卿の

解に錬った理由が分らぬ、と疑問を曇している。

(勿)『長編』輯本ニムハ二回一等八年四月丁卯には、

江寧から再

び宰相として上京する途中の安石に、母の病いで謁告蹄省す

る内合生陶臨が回り道をして面曾したため、後、事情を知っ

た安石は臨を退皐庭分にした、との話を記す。

(鈎)中書五房習皐公事については、梅原郁『宋代官僚制度研

究』第六章

宋代脅吏制の概観五二四頁以下に、

嘗時の新

法政治の中での位置付けがなされている。

(沼)『長編』二二八隈寧四年十一月戊申、同一一一一六

月己卯所引林希『野史』など。

(mM

〉以上の他に『宋元皐案補遺』九八

- 45ー

四年八

荊公新風平略補遣には

508

編纂に係わった門人として、任務、張僅、願栄を翠げる。また

『長編』

一一六六照準八年七月辛未にやはり編纂に摘わった

人物として張湾、葉原の名がみえる。これら諸人の略俸は程

氏「三経新義修撲人考」参照。

(お)『長編』二六五隈寧八年六月己菌、辛亥。呂希哲『呂氏

雑記』下。王努は結局、加えられた龍闘閣直皐土を辞退し

た。なお一千部印刷については

『長編』

二六八照寧八年九

月辛未呂恵卿の上言にみえる。

(鈍)『長編』二六八照的事γ

八年九月辛未。『臨川先生文集』四

詩義劉子、

答手詔言改経義事制子。『長編』が引く

呂惑卿「家停」の務論と安石の申し立てには食い違いがあ

る。程元敏「三経新義板木輿流体」〈『園立豪相同大皐文史哲摩

報』一一一

O

一九八

一)は、恵卿の鰐論を分析して改作の事貨

はあったと論鐙ずる。

(お)『長編』三

O七元盟三年八月丙辰、『臨川先生文集』四

三。制改すべき誤字は、乞改三経義誤字劉子二道にみえる。

(お)

『郡清説書士と

て『直粛書鍛解題』二。註(げ〉拙稿参

刀同い刊。

(初出)程氏前掲コニ経新義輿字設科場顕微録」に詳しい。

(叩ぬ)彰乗『墨客揮犀』四。もっとも後代にはこうしたエピ

ソl

ドも安石の非人間性の透明として語られるようになる。安石

の人間像は描く人によって、嘗然のことながら様々である。

三浦園雄

『王安石』〈『中園の人と思想』七集英社一九八

五〉は、一般向けの書ながら、氏の安石像が卒易に描かれて

いて興味深く讃める。この遜話をはじめ安石にまつわるエピ

ソードも多く紹介されている。

(ぬ)『石林燕語』八。他には朱該『部洲可談』三、方勾『泊宅

編』、『老皐庵筆記』七にもみえる。

(幼)『陶山集』一一

書王荊公遊鍾山園後に「荊公退居金陵、

多騎邸遊鍾山、毎令一人提経、一僕抱{子設前導、一人負木虎

子随之、元祐四年六月六日、伯時見訪、坐小室、乗興震予岡

之、云々」とある。

(補注)本稿校正中、卒田茂樹「宋代鐙選制度の一考察|王安石

の改一草を中心に

i」(『歴史』六九〉が設表され、新科明法科

についても倒れられている。併せて参照されたい。

- 46-

it to the environs, and to fix one's attentionon themigration of the ducal

households with regard to all the city-statesin question.

CONCERNING THE EXAMINATION REFORMS OF

           

WANG AN-SHI

KONDO Kazunari

  

The reform of the examination system that Wang An-shi carried out

in the 2nd month of Xining 煕寧4 (1071) consisted mainly of :

  

1. The abolishment of Poetry Exposition (jhi-fu詩賦), Memorization

of Classics (£泳丿緬g帖経) and Elucidation of Classical Passages (mo-yi

墨義), and the adoption of Meaning of Classics Qjing・yt経義) and Policy

Questions (li£n, ce論,策)・

  

2. The abolishment of the Understanding of the Classics (刀lingj加g

明経)and the Various Fields Exam (zhuhe M科),and the establishment

of the Examination for the New Degree in Law ('xinke iningfake新科

明法科)・

  

3. The policy of special treatment towards the five northe「n circuits.

  

The purpose of the reform was to promote talented men who would

be capable of practical application of government, rather than to promote

men of letters. In particular, there was an urgent need to select the

necessary competent o伍cials to advance Wang An-shi's New Laws.

  

The third point was devised as a relief measure for the northern

circuits, which had large numbers of candidates for the Various Fields

Eχam.

  

As g result, the reform itself proceeded smoothly. With the eχception

of a small group of opponents like Su Shi蘇弑, the reforms were

supported by the majority of literati of both the old and new factions.

  

Ho"wever・when an attempt `″・smade to carry out the new system,

candidates simply memorized Wang An-sh?s A NetoEエplicationoft㎞

ThreeClassics(SaniingXtりi三経新義), and the examiners passed their

own disciples, etc, so that the object of selecting capable o伍cials with

                  

-2-

new politicalphilosophy could not always be accomplished.

  

Furthermore, the fact that politicalpressure made, べA'^angAn-shi's

new learning take the place of the old ofScial teaching came to affect

adversely the future of the Wang school.

ON THE 1465(成化元)PETITIONFOR RELEASE

FROM THE ACADEMY ―an Examination of the

     

Ming System of Hanlin Bachelors

Sakakura Atsuhide

   

In the £rst year of Chenghua成化, Ji Li計it and other Hanlin

Bachelors (shuiishi庶吉士) petitioned Grand Secretary Li Xian李賢to

be “released from the academy”(sanguan散館), that is, to be assigned

o伍cial posts. The fact that Hanlin Bachelors would request a release from

the academy was in itself unusual. Ji Li's negotiating point was that. if

only the period of the bachelors' training was complete, they should be

released. There was also the question of Li χian's own qualifications as a

Grand Secretary. Nevertheless, these were not the only reasons behind

the request.

   

In

 

the

 

first place, the system of Hanlin Bachelors was one that

secured talented men from the j加盾f pool and gave them. special training

in order to nurture outstanding o伍cials for the future of the state. Also,

it was a source of Hanlin Academicians who would rank with those in

the first class o£jinshi eraduates.The early Hanlin Bachelors served in

close attendance on the emperor, and they could appropriately be called

true elite. However, those Hanlin Bachelors who did not become Hanlin

Academicians were not given any special treatment compared with other

鋤血 when being assigned to o伍ce. Moreover, after χuande 宣徳5

(1430), when the system of the Grand Secretariat was established, all

aspects of government, including appointments, came to re且ectthe inten-

tions of the Grand Secretaries. A system of eχaminations for Hanlin

Bachelors was brought in with the result that the training for bachelors

                   

-3-