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275 変わらなければならない「わたしたち」は誰なのか? ―ODA 実務者による「草の根」実践者へのまなざし Who is “We” that should change? ―ODA office-workers’ gaze at “Grass-roots” workers in international development activities 佐藤 敦 SATO Atsushi 要旨 2003 年に我が国の ODA (Official Development Assistance)の憲法というべき、 政府開発援助大綱、通称「ODA 大綱」が閣議決定し改正され、これにより「国民参加の 拡大」が明文化された。同年、従来の JICA (Japan International Cooperation Agency) 国際協力事業団が組織改編され、新たに行政特殊法人国際協力機構(通称は JICA のまま) が発足した。それに伴い、国際協力事業団法に代わり、国際協力機構法が制定され、その 中で「開発途上地域の住民を対象とする協力活動への国民等の参加」が唱えられ、一般市 民の援助活動への参加やボランティア活動への協力の促進が謳われている。これにより JICA ボランティアへの関心は高まると推測されるが、開発現象におけるその事業実施者 側についての研究は、途上国側対象者についての研究よりも圧倒的に少ない。開発実践に 直接関わる人々としての JICA ボランティアに向けられる事業実施者のまなざしは、彼ら に対する多大な期待を反映して、彼らが報告する「よい成果」にのみ向けられており、そ れを拾い上げ、事業実施者の「手柄」として日本社会に提示しているようにも見える。本 論文では、開発人類学の課題として、開発現象における事業実施実務者を対象とする研究 の重要性を提示しつつ、昨年 2007 年に行われた青年海外協力隊派遣 3 万人突破記念シン ポジウムにちりばめられた「草の根」で活動する青年海外協力隊という表象を取っ掛かり として、事業実施者のまなざしの構造の一端をさぐるものである。 1 はじめに―記念シンポジウム「国際協力を日本の外交に」で行われ、語られたこと JOCV (Japan Overseas Cooperation Volunteer)青年海外協力隊は、途上国において 現地住民らと生活や業務を共にし、その地域の経済や社会の発展に寄与することを目的と した日本国政府が実施する国際協力ボランティア事業である。2003 年 10 月に協力隊事業 の実施母体であるこれまでの外務省特殊法人であった JICA (Japan International Cooper- ation Agency)国際協力事業団から、独立行政法人国際協力機構(略称の JICA は変わら ず)へと改編し、青年海外協力隊事業を実施してきた青年海外協力隊事務局がこれまで JICA 本体で実施されてきたシニア海外ボランティアや、中南米の日系社会で活動を行う 日系シニア海外ボランティア事業、そして青年海外協力隊事務局で実施されてきた日系社 会青年ボランティア事業を一括して実施することになり、名称も新たに「JICAボランティ ア事業」となった。そして 1965 年(昭和 40 年)7月、日本の青年男女 26 名が日本青年 海外協力隊員(現 青年海外協力隊)としてラオス、マレーシア、カンボディア、フィリ ピンに向けて出発して以来 42 年間、2007 年7月には青年海外協力隊派遣累計 3 万人を突

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変わらなければならない「わたしたち」は誰なのか? ―ODA 実務者による「草の根」実践者へのまなざしWho is “We” that should change? ―ODA office-workers’ gaze at

“Grass-roots” workers in international development activities

佐藤 敦 SATO Atsushi

要旨 2003 年に我が国の ODA (Official Development Assistance)の憲法というべき、政府開発援助大綱、通称「ODA 大綱」が閣議決定し改正され、これにより「国民参加の拡大」が明文化された。同年、従来の JICA (Japan International Cooperation Agency)国際協力事業団が組織改編され、新たに行政特殊法人国際協力機構(通称は JICA のまま)が発足した。それに伴い、国際協力事業団法に代わり、国際協力機構法が制定され、その中で「開発途上地域の住民を対象とする協力活動への国民等の参加」が唱えられ、一般市民の援助活動への参加やボランティア活動への協力の促進が謳われている。これによりJICA ボランティアへの関心は高まると推測されるが、開発現象におけるその事業実施者側についての研究は、途上国側対象者についての研究よりも圧倒的に少ない。開発実践に直接関わる人々としての JICA ボランティアに向けられる事業実施者のまなざしは、彼らに対する多大な期待を反映して、彼らが報告する「よい成果」にのみ向けられており、それを拾い上げ、事業実施者の「手柄」として日本社会に提示しているようにも見える。本論文では、開発人類学の課題として、開発現象における事業実施実務者を対象とする研究の重要性を提示しつつ、昨年 2007 年に行われた青年海外協力隊派遣 3 万人突破記念シンポジウムにちりばめられた「草の根」で活動する青年海外協力隊という表象を取っ掛かりとして、事業実施者のまなざしの構造の一端をさぐるものである。

1 はじめに―記念シンポジウム「国際協力を日本の外交に」で行われ、語られたこと

 JOCV (Japan Overseas Cooperation Volunteer)青年海外協力隊は、途上国において現地住民らと生活や業務を共にし、その地域の経済や社会の発展に寄与することを目的とした日本国政府が実施する国際協力ボランティア事業である。2003 年 10 月に協力隊事業の実施母体であるこれまでの外務省特殊法人であった JICA (Japan International Cooper-ation Agency)国際協力事業団から、独立行政法人国際協力機構(略称の JICA は変わらず)へと改編し、青年海外協力隊事業を実施してきた青年海外協力隊事務局がこれまでJICA 本体で実施されてきたシニア海外ボランティアや、中南米の日系社会で活動を行う日系シニア海外ボランティア事業、そして青年海外協力隊事務局で実施されてきた日系社会青年ボランティア事業を一括して実施することになり、名称も新たに「JICA ボランティア事業」となった。そして 1965 年(昭和 40 年)7月、日本の青年男女 26 名が日本青年海外協力隊員(現 青年海外協力隊)としてラオス、マレーシア、カンボディア、フィリピンに向けて出発して以来 42 年間、2007 年7月には青年海外協力隊派遣累計 3 万人を突

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破した。これを記念して 9 月には記念シンポジウム「国際協力を日本の文化に―国際ボランティアの意義と可能性―」が、JICA と朝日新聞社との共催で行われた。 本論文では、筆者も来場者のひとりとして参加したこの記念シンポジウムおいて行われ、また語られたことに加え、筆者が行ったインタビューや JICA 発表の報告書の記述等を交えながら、いかにして JICA ボランティア事業の実施者側に、途上国の人々や青年海外協力隊をはじめとする JICA ボランティアへ向けられるまなざしが形成されていくのかを考察する。これは、開発実践に関わる人々にまつわる言説の形成過程の重要な一側面でもあるからである。 去る 2007 年 9 月 24 日、港区虎ノ門のニッショーホールにて青年海外協力隊派遣 3 万人突破を記念して、記念シンポジウム「国際協力を日本の外交に」が開催された。このシンポジウムは 1965 年(昭和 40 年)に青年海外協力隊の最初の派遣が始まって以来、派遣累計で 3 万人を突破したことを記念し、JICA と朝日新聞社の共催で開催されたものである。告知は新聞や雑誌記事あるいは JICA のホームページあるいは国際協力に関心がある者らが運営するメーリングリストによってなされた。入場は予約制であったが、会場は都心であったこともあり、入り口は来場者でごったがえしていた。受付開始とともに、揃いの法被を着た JICA 職員(そのほとんどが男性の若い職員だ)が、来場者を受付ロビーから会場内に至る階段や通路まで、まるで国賓を迎えるような厳重な雰囲気さえ醸し出す人数の多さで誘導する。彼らは通路の左右壁面に立ち、来場者を「迎え入れ」るのである。来場者で満員となった大ホールに 13 時の開始の合図のチャイムが鳴り響くと、途上国で活動する JICA ボランティアや現地の人々の写真(その多くが笑顔である)のスライドショーと共に、このような内容の、女性の声によるナレーションがゆっくりとした曲調のピアノ曲とともに流された。

「わたしたちの誓い。情熱を持って、世界の人々が一人でも多く幸せに暮らせるように、愛と使命感を持って仕事に取り組みます。 誇りを持って、国際協力のプロフェッショナルとして豊かな想像力と行動力を持ち、内外から信頼される仕事をします。 日本の人々と国際協力を志す日本の人々の活動を支援し、その思いをわかちあい、かたちにします。 世界の人々と協力が必要な人々のパートナーとして平和の基礎を築き、社会と経済の自立と発展を支えます。 未来のために、地球環境、貧困など国際社会が抱える課題に取り組み、希望に満ちた明日をつくります。 わたしたちの使命。わたしたちは、日本と開発途上国の人々を結ぶ架け橋として、互いの知識や経験を活かした協力をすすめ、平和で豊かな世界の実現を目指します。よりよい明日を、世界の人々と。 JICA(ここのみ男性のナレーション 画面は JICA のロゴ)」

 このオープニングで使われている言葉をはたして彼ら事業の実施者は誰に向けて発信しているのであろうか。このように疑問を抱いたのは、何も前述のような会場まで誘導され

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る際の雰囲気に違和感をかき立てられたからだけではない。もちろん、こういった映像のプランニングや制作は、多くの場合、広告代理店に委託されるものであり、ある意味で「理想的」と考えられる文言がちりばめられ、それに適当(Adequate)と思われる映像が組み合わされていくものである。当然、その団体や企業のイメージの売り込みを第一目的とすることから現実とは乖離する部分ができてくることは、彼らも十分認識しているだろう。加えて、職員をはじめとする JICA ボランティア事業を実施する側の人々それぞれの思いがあることも理解できる。しかし、この映像の制作を企画し、納入を承認したのもまた彼ら JICA ボランティア事業を実施する側の人間なのである。その彼らが「われわれの業務に対する姿勢」を対外的に示すためにこの映像を用いるタイミングとして、派遣累計 3 万人突破という彼らにとって「記念すべき日」こそが、またとない機会であると判断したということである。しかしこの映像が流されている瞬間、この映像の中に現れた人々は、自分たちの写真がこのような場で利用されていることはもちろん、このシンポジウムが行われていることすら知らされておらず、ニュースレターやメーリングリスト、あるいは機関誌などで「シンポジウムがあった」という事実のみを事後報告されるだけである。 本論文で問いたいのは、開発の実践に関わる人々の中でも、特に直接的に途上国地域のいわゆる「受益者」と呼ばれる人々と関わることのない実施者という「内側」の人々が、途上国の人々と共に活動している JICA ボランティアへ向けるまなざしである。チェンバースが「最後の人々」と称した、貧しくて弱い立場にあり、孤立し、脆弱で、社会的な力を持たない、普段目につかない農村の人々1 へ向けられるのと同じまなざしが、途上国で活動する青年海外協力隊をはじめとする開発実践に関わる実施者側の「最後の人々」である JICA ボランティアに対しても注がれていると考えられるからである。このことは、開発の実践に関わる「最後の人々」である途上国で活動する JICA ボランティアの実績が、実施者という「内側の人々」にスポイルされる構造の形成につながっているとも思われる。本論文は、開発実践に関わる「実施者」側についての言説分析の一環に位置付けられよう。

2 開発実践の「内側」研究と、「描くこと」の困難さ

 文化人類学において、開発実践を途上国の村落地域の人々の視点から描くことを試みた文献は今日まで数多く存在し、枚挙に暇がない。しかしながら開発実践に関わる「内側の」人々についての研究はそれらと比較すると数が限られる。欧米では、チェンバースの主張に代表されるように、国際機関やフィールドにおける「内側の」人々、すなわち彼が「アウトサイダー」と称した開発実践に関わる実務者や政府役人そして研究者、といった「わたしたち」が現地の人々へ向けるまなざしこそを問うべきであるという指摘がなされてきた2。チェンバースの著作『Rural Development : Putting the Last First』(日本語訳:第3 世界の農村開発 貧困の解決―私たちにできること)は、1983 年に出版された。また『Whose Reality Counts?』(日本語訳:参加型開発と国際協力 変わるのはわたしたち)は 1997 年に出版されており、彼の「アウトサイダー」こそ変わるべきであるという主張

                1 チェンバース(1995) p. 202 チェンバース(1995) p. 5

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は本書でも一貫している3。これら 2 書は開発の実践に関わる実務者や研究者に知られるところとなり、今や開発分野においては必読の著となっている。しかしながら、彼が問題視しているのは、彼が「最後の人々」と称した、いわゆる途上国の村落住民に対するまなざしの向け方であって、そうしたまなざしを向ける主体である「アウトサイダー」の形成過程に関しては特記すべき指摘はみられない。1994 年に出版された George と Sabelli による共著『Faith and Credit : The World Bank’s Secular Empire』 (日本語訳:世界銀行は地球を救えるか 開発帝国 50 年の功罪)は、いわゆる “ 第 3 世界 ” と地球全体の危機に深く関わっている「管制塔」である世界銀行の「内部」に踏み込んで議論を展開した最初の著であるとともに、経済機関であると名乗っている世界銀行を、厳格なドクトリンとヒエラルキーによって支えられ、異なった考えを認めない一枚岩的組織であった中世のキリスト教会になぞらえて分析を行っている4。George はこの著書を遡ること 17 年前の1977 年に『How the Other Half Dies : The Real Reasons for World Hunger』(日本語訳:なぜ世界の半分が飢えるのか 食糧危機の構造)において、当時新しい政治、経済力となったアグリ・ビジネスの実体を白日の下に曝すとともに、彼らの支配力が強化されることによってさらに貧困の度合いを強めていく第 3 世界の人々の窮状を描き出すことを試みてもいる5。ジョージは、そこで描かれているアグリ・ビジネスに集る多国籍企業群が、来るべき明日の国際社会を支配し得る世界主義の信奉者だと公言してはばからない姿を「現代のリヴァイアサン」と呼んだ6。これらの著作はごく一部であろうが、開発の実践に関わる実務者、あるいはその組織を批判する記述としては、その実務者に対してさえも影響力の大きい著作として知られることになる。 それでは日本はどうであろうか。人類学者の鈴木は、自身の論文「開発人類学の課題」においてこのように述べている。「開発人類学」の分類としてしばしば用いられるのは、開発援助機関へ直接関与し、政策科学としての人類学を標榜する立場と、基本的にアカデミズムの内部に留まり、開発政策に起因する諸変化を記述分析する立場の区分であり、通常、前者を「開発人類学」、後者を「開発の人類学」と呼ぶ、と7。そして、開発の影響を受ける人々の社会文化的変化に記述を集中することは、開発現象の理解という点では、「部分的な民族誌」にすぎない、と指摘している。さらに開発現象を構成している人間は、開発実践に関わる実務者の多様な人々、すなわち、政治家、官僚、技術専門家、NGO ボランティアなども含むことから、開発実践に関わる実務者が、プロジェクト対象地域の住民の変化の原因をつくりだしている以上、彼ら開発実践に関わる実務者の存在を無視した研究を方法論的に正当化するのは難しいと述べている8。このようなことからもわかるように、研究対象を個別のプロジェクトや地域に限定せず、開発の実践に関わる実務者が業務として行っている制度や、それを正当化する言説をも視野に入れた複合的な開発現象として把握するためには、開発実践に関わる実務者の「声」を拾う必要があると論じている。 しかしながら、実際上の問題点としてこの種の研究は、援助機関内あるいはプロジェク                3 チェンバース(2000) p. 134 ジョージ、サベッリ(1994) p. 3225 ジョージ(1977) p. 3456 ジョージ(1977) p. 3447 鈴木(1999)p. 2968 鈴木(1999) p. 297

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ト内でのフィールドワークの困難性が付きまとう。鈴木は「国際機関や途上国政府、地方自治体など様々な場所で開発計画を運営している以上、他所的フィールドワークを行わざるをえない」とその困難性を述べている9。また、調査者に対して提示される資料は、あくまでも「公式見解」や「一般原則」に限定されることだろう。よってこの種の研究者は、開発実践に関わる実務者の声を拾い、解釈していくには、外部の研究者という立場では限界があるのである。仮に調査研究を発表したところで、それは彼ら実務者にとって「都合の良い情報」に成り得ないのであり、むしろファースやコルソンが言うところの「不快な知識」であることは多分に予想がつくのである10。よって他所的フィールドワークを「提供」する日本国内の国際開発に携わる組織と「うまく」やっていくには、婉曲な言語表現を用いて波を荒立てないこと、そして不用意に「敵」をつくらないことが望まれるのである。しかしながらそれは日本の場合、過剰に作用する傾向がある。かつて JICA の職員として東京本部やケニア事務所での勤務経験がある杉田は日本の ODA の実施機関である JICAの組織文化がいかなるものか分析を試み、それが JICA によって実施されるプロジェクトにいかに体現されているかを検証した。杉田はそもそも JICA という組織は、各々異なる機能やスキームを持っていた団体が統合して設立され、その後も新しいスキームが徐々に追加して拡張しており、いわばスキームというブロックを積んだ建築物と例えることができると述べている11。しかしながら、杉田が述べている JICA という組織の特徴ははたして援助実施機関特有のものであるのかどうかの検証までには至らないのと、JICA という組織の体質を問うようなラディカルな議論に発展していないのは、執筆当時の著者が所属していた JICA という「内側」に対する「配慮」によるものであり、考察を淡白なものにしている点では更なる検証の余地はある12。筆者は修士論文にて開発実践に関わるアクターとしての青年海外協力隊員に代表される JICA ボランティアが、参加の動機付けから訓練過程を経ながら対象とする途上国の人々にまつわる言説を身につけていき、また同時に赴任先の日本人社会においてラベリングされた役割に身を置きながら活動せざるを得ない構造を導きだした13。同時に JICA という ODA の実施機関が身につけたまなざしは、途上国の人々にのみ向けられるわけではなく、途上国の人々と直接関わる、いわゆる「草の根」で活動する青年海外協力隊に代表される JICA ボランティアにも向けられる。彼らの実績は、東京からやってくる「ミッション」と呼ばれる視察団や、現地事務所の JICAボランティア調整員を通じてスポイルされるのである。 調査方法は、2007 年に実施した JICA 職員と、JICA ボランティア事業を実施しているJICA 内の青年海外協力隊事務局における業務を受託している、JOCA (Japan Overseas Cooperation Association) 社団法人青年海外協力協会職員へのインタビューを実施した(表 1)。これらを指摘しながら、その構造の一端を導きだしてみようと思う。

                9 鈴木(1999) p. 29710 山森(1996) pp. 220 22111 杉田(1999) p. 34312 と書いたものの、現実的に自身が所属している集団の批判はしにくいものである。しかし、多くの社会的組織は、矛盾を「あたりまえ」あるいは「常識」として処理し、問題点として表面に浮かびあがらせぬような装置となっている。13 佐藤(2007)

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3 動機にみる実施者の語り

 JICA の 2009 年新卒採用情報はホームページにて閲覧が可能14 である。ここでは「途上国、国際協力を愛する先輩たち JICA 仕事人」として男女 4 名ずつ計 8 名を紹介するページがある。それぞれの入構15 時期は 2000 年から 2005 年と幅があるが、いわゆる「若手」職員の入構のきっかけや、自身の所属する部署の概要とポジション、業務での悲喜交々と、パーソナリティを日々の業務でどのように生かしているのかが語られている16。こうした「選ばれた」職員は、海外でのホームステイや、バックパッカー、あるいはスタディーツアー参加で海外滞在経験を持つ。なかには自身の親の勤務の関係から海外生活を経験した者もいる。そして皆一様にその経験が今の業務につながっているとコメントしている。

「物乞いをする貧しい子供たちを見ても、私には何もできず、無力な存在であると感じました。彼らのために何かできないか、お金をあげるようなその場限りの人助けではなく、彼らの暮らす環境を変えられる長期的な取り組みを。それができるのは、JICA だと考え、入構しました。」 (地球環境部 N 女性)

「幼い頃、父が運転する車の中から見たストリートチルドレンの姿が原体験になっています。その想いはずっと持っていたものの、それを職業につなげるかどうかは分からなかった。(中略)やはり地球規模で解決すべき問題を扱いたいと思うようになり、昔からくすぶっていた想いが再燃しました。」 (JBIC 開発第 3 部 H 男性)

 彼らの発言からは自己の体験を通じて抱き続けてきた、「思い」を体現すべく JICA という組織に身を置いたことがうかがえる。同時にこれらの発言は何も特別な様子は感じら

                14 JICA 新卒採用情報 2009 http://www.jica.go.jp/recruit/shokuin/people_t.html 2008 年 6 月 26 日閲覧15 JICA では組織に入ることを「入社」ではなく、「入構」という言葉が用いられる。16 JICA は 2009 年より JBIC (Japan Bank for International Cooperation)国際協力銀行の ODA 部門と合併するため、本年は JBIC と合同の採用選考を行っている。

表1 インフォーマントリスト

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れず、ごく普通の職業選択の動機でしかないとも感じられる。しかしながらその「思い」は、現場での実動部隊としてではなく、あくまでも東京からのサポートに徹する姿勢をもうかがわせる。 そこでインタビューに場を移してみよう。まず M1 氏は JICA の正職員であり、調査時点で勤務をはじめて 3 年目であった。JICA ボランティア事業の募集と選考を担当し、事務所に来訪し JICA ボランティア事業についての情報提供も行っている。

* :…JICA に入られたきっかけっていうのは何ですか?M1:きっかけですか…もともとわたしは先生になろうと思って、ただ、もっと視

野を広げたいなって思って、そのためにどっぷりその、先生になるための勉強をしていたので、それ以外のところを見てみようと(思った)教育分野とか、子供たちにかかる仕事がしたいなぁと思っていて、その時に単純に「ほかの国のそういうことに携れないかな」と思って、JICA をめざし就職活動して、エントリーして…まぁ、就職活動するなかで、(JICA は)自分のやりたいことが達成できそうだなと思ったんで、JICA に惹かれて入ったんで。はい。

 M1 は学生時代に教育学部に所属していた経歴を持つ。教育という側面を通じて海外に関わりたいという思いがあった。そこで JICA に就職すべくエントリーしたのである。しかしながら、その思いは JICA スキームにおいて最も「最後の人々」に近い、青年海外協力隊にアクセスするには至らないことが次のやりとりで明確になる。

* :…最後になるんですけど、学生時代のときに協力隊行ってみたいって思ったことありますか?

M1 :そうですね、1 回くらいはありますけどね。やっぱり海外に行ってみたいなっていうのはあって、まあ、あのー、行きたいなっていうふうには思いましたけど…まあ、そのくらいですかねぇ。じゃあ今なぜ思わないのかというと、いまどれだけ現地の人のために(自分が)活動できるのかというときに、自分として確かに(自分の活動が)向こうのひとのためになる、という自信もないので、いまはそんなに行きたくないという気持ち、ですかね。はい。ぼく個人的には協力隊に参加したいっておもったことがなかったので。

* :あー、そうですか…。M1 :ただ、一番おもしろそうだなぁとおもうのは…そうですね、村落開発普及員

なんかは人気のある職種でもあるし、活動も幅広いと思いますし、自分の創意工夫で活動が展開できる職種だと思うので、いいかな…あこがれっていうのでもないですけど(笑)。あと、他の職種は、かなり専門性が問われるものが多いですからね。そういうものに対して、ぼくがあまり知識がないので、現実味がなくて、あまり興味がないっていう意味で。はい。

 青年海外協力隊員の 150 にもおよぶ職種の中で村落開発普及員は、とりわけ人気が高く、一般的に専門の技術を必要としないことから、「協力隊員は技術がないと参加できない」

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という言説に今なお縛られている参加対象となっている青年たちにとって協力隊参加にアクセスできる職種のひとつである。10 数年前までは中学校あるいは高等学校の社会科教師が参加者の多くを占めていたが、近年は国内の大学あるいは海外留学で社会学や人類学、開発学を学んだ者あるいは国内外の NGO 経験者が増加しているようである。「自分の創意工夫で活動が展開できる職種なので」という発言から、特別な技術を必要としないこの村落開発普及員の特徴への興味関心を示すものの、次の「他の職種は、かなり専門性が問われるものが多いので」という発言から、「協力隊=技術が求められるもの」という言説が職員でも存在していることがわかる。反対にこのことから、専門性が問われるような職種は彼の興味関心からは離れてしまい、「現実味がない」ものとして認識されるのである。そして日を改めて M1 氏に行ったインタビューではこのようなコメントを残している。 また「自分として確かに(自分の活動が)向こうのひとのためになる、という自信もない」という言葉にもあらわれているように、直接的に現地の人々と関わることに関しては二の足を踏んでいる様子がうかがえる。もちろん M1 のパーソナリティにもよるだろうし、貢献できるようなある特定の技術を持ち合わせているわけではないという、今現在の立場にもよるだろう。しかしながら、先述の新卒採用情報でコメントしている 2 名のモチベーションとは異なっているのはやはり「選ばれた」職員であるからであろう。 ここでもう1人、F の語りを挙げてみる。F は入構 2 年目で、社会学を学んだ後に入構した経歴を持つ。

* :…もともとどういったバックグラウンドをもって JICA に入られたのですか?J :えー、わたしは社会学の学卒(学部卒)なんですけど、まあ、開発教育の勉

強なんかしていて、そちらから興味をもって、こちらに入ったんです。* :御自身は、(協力隊に)参加されたいとは思わなかったですか?J :協力隊ですか?ちょっと思ったんですけど、わたしまったく技術がなくって

ですね、調整役や職員ならいいかなとは思ってたんですけど。はい。

 技術がないと協力隊に参加できないという言説は M1 同様、JICA の世界では支配的なのかもしれない。しかしながら技術がなくても、調整役やサポートを行う職員という立場で関わりたいという発言は一見安直であり、御都合主義的な発想であるように思える。しかし好意的にとらえるのであれば、何らかのかたちで国際協力の分野に身を投じたいという意志のあらわれなのであろう。ここでもう 1 人の語りを挙げる。M2 は社会人採用で入構した中途採用者である。

* :えっと、なぜ JICA だったんですか?M2 :私はですね、学生のころに結構バックパッカーやってたんですよ。こう、結

構途上国なんかを歩いてて…学生時代は、勉強しないで本ばっかり読んでて…ジャーナリズムの本なんか結構読んでいて。

* :学生時代も、そういったことを勉強されていた…?* :勉強はまったく(関係ない)。経済学部だったんで。勉強まったくせず本ばっ

かり読んでいて。バイトしてお金ためて、東南アジアとかですね、あの、中

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国とか、マレーシアとか、インドネシアとか。* :結構な国の数まわられたんじゃないですか?M2 :そうですね。結構まわりましたよ。それで、もともと、だから海外向けの仕

事がしたいな、と。海外も先進国とかじゃなくって、途上国相手の仕事がしたいなって思ってたんです。それで私が就職活動したときには、あのバブルのときで、会社も「もう好きな仕事させてやる」って言ってた時期で。でもJICAって就職活動時期早いんですよね?気づいたときにはもう終わってて(笑い)「じゃあ、もうべつに民間でもいいやって」思って。民間でも海外に出られるチャンスはいくらでもあるかなって思って(船舶会社)入ったんですけども、そのー、入ったと同時に…入って1年するかしないかくらいにバブルが崩壊して、それでもうずっとドメスティックな仕事ばっかりやってて、なんか…最初に思っていた「海外で仕事したいな」っていうのが、なんか、こう方向が変わっていって、「これじゃいかんなぁ」と思っていたんですけど、ふんぎりがつかなくて。で、ある時、新聞に「JICA が社会人採用」っていう記事が一面にでてたんですね。で「申し込んでみよう」と思って申し込んだら。とんとんとーんて決まって(笑い)

* :あ、いいなぁ。M2 :まぁ、すごい幸運でしたね。そういう意味では。JICA は不定期には中途採用

はやってたんですよね。それが…定期的に社会人採用っていうふうになったのが、私の代の前の年…くらいからですかね。まあ、わたしはそういう意味ではラッキーだったし、転職して、そしてフィリピンとかワシントンとか行ってですね、(JICA に入らなかったら)知り合えなかっただろう仲間と知り合えたし、まあ、(毎日)楽しいですよ。

 M2 のような社会人採用者で、かつ入構前から海外しかも途上国への関心が高い人材を迎え入れる「社会人採用」が定期的に行われるようになったのは 1996 年頃であり、M2はその先駆け的存在であったであろう。中途採用に関してはさまざまなバックグラウンドを持った人材を幅広く受け入れるわけではなく、筆者の経験では 2005 年の社会人採用では 3 万人以上が応募し、採用は 10 人にも満たなかった。また採用者の多くは JICA の関連取引先企業出身者で占められている。しかしそのこと自体は問題にはしない。国際協力という業種が生産性を伴わないものであるにも関わらず、高学歴かつ狭隘な人脈で構成された世界であることは社会人採用と銘打って見せかけの幅広い人材の募集を行っていても隠すことはできないのである。 入構の動機は上記 3 者それぞれの思いがある。しかし JICA ボランティアと異なる点はやはり「サポート役に徹する」という実施者の命題に即した発言と態度が現れている。しかもそれらが「自然な」ふるまいとして筆者の前で展開されることから、それは「与えられる業務に忠実なふつうの態度」と評価され、批判を免れることも可能である。「最後の人々」と共に働くのは JICA ボランティアや専門家でよく、椅子に座ったままで得られる彼らが現地から送付する定期報告書からの情報は、彼ら実施者が「自分の手柄」とするには多分に魅力的なものなのである。あたかも 19 世紀も押し迫った頃まで主流であった「肘

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掛け椅子」に座り、宣教師や商人などの片手間の観察から情報を得て研究を行っていた文化進化論や文化伝播主義的な人類学者と何ら変わらない17 とも言えよう。

4 「在外」へのインセンティブ

 実施者は、日本国内の勤務地以外の国や地域を、「在外」と呼ぶ。そもそも「在外」とは、“在外資産”のようにそのもの自体が外国にあること、あるいは “ 在外邦人 ” のように、対象となる人々が外国にいることを指すために用いられる18。彼らが「在外」と呼ぶ海外赴任についてはどうだろうか。再び M1 の語りを挙げる

* :在外にはこれから行く機会があると。M1 :そうですね。入ってから 1 年目に在外での研修…1 年間の研修があるんです

けども、4ヶ月は国内で、で、残りを在外でやる研修があるんですけども、緒方さんが JICA の理事長になられてからはじまったんですけども、その 1 年目のときに 8ヶ月間だけフィリピンに行ってるんですけども。はい。

* :あ、そうなんですか。M1 :まあ、その時は研修なので、あと 2 年か 3 年か 4 年か JICA にいれば、また

在外に(笑い)。* :なるほど、そうですか。うーん。フィリピンでは、研修としてどのようなこ

とをやるんですか?M :フィリピンでは、まあ、在外事務所によって研修のやりかたって違うんです

けどもね。基本的には事務所長がいて、何らかの方針に基づいて、やると。で、(東京の)人事部のほうから、やっぱりこれだけのことを最低限やらせてくれ、みたいなことを言われて、その 2 つで研修の中身が決まってくるんですけども、はい。あのー、フィリピンでやったことで、主には事務所内の業務ですね。はい。そのなかで、まあ、基礎的な知識…社会人としての基礎的な知識を身につけたりとか、あとは、在外事務所で働くうえで、あのー、やらなければならない業務…たとえば、在外事務所ってナショナル・スタッフ(現地雇用の職員)がいるんですけれども、そういう人たちと一緒に仕事するので、そういう人たちと仕事するなかで、まあ、なんて言ったらいいんですかね、こう、マニュアル化されないような、リアルな体験をさせてもらって。あとはその国によって経理の仕方も違うし、あの、結構公金扱ってるから、領収書をしっかりとらなければならないんですけど、途上国ってなかなかかんたんにはいかないので、じゃあどうすればとれるのかといって現場的な経理の仕事をやったのと、あとはプロジェクトに入って、現場で専門家にくっついて回って、サイトを見せてもらったりとか。

* :じゃあ、もう、在外で OJT だったと。

                17 織部(1984) p. 39、p. 4518 岩渕(1994)

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M1 :そうですね。* :うーん。そうですか。うーん。じゃあ、協力隊とかシニア海外ボランティア

の現場なんかも見て…M1 :いーや、1 回くらいしか見てないんで。まあ、あの、現地にボランティアの

方がいるので、一緒に話をしたりとか、ごはん食べにいったりとか、そういったレベルでは一緒にいさせてもらいました。はい。

 次に F の語りを挙げる。

J :いままで途上国とか行ったことなかったですね。* :えっと、もう結構(JICA には)長くいらっしゃるんですか?J :いえ、今年の 5 月に外国から戻ってきましたので、まだ半年程度ですね。* :職員のキャリアパスとして、入構して研修を受けて、国内業務がメインですか?J :えっとー、そうですね、初めの配属が国内で、海外っていうことはないと思

います。はい。* :将来的には、海外に赴任される機会も当然あると。J :そうですね。勤務の平均的なプランとして、本部…新宿に本部があるんです

けど、新宿の方と、全国の研修所や機関と、海外の事務所をくるくる回るかんじになるんですね。ひとつの部署は 2 年から 3 年ですので、9 年に一回は海外勤務がまわってくるということになりますね。でもその機会がいつ来るかはわからないので、2 つめの場所かもしれないし、はい。

 在外での研修は、入構1年目のうち 8ヶ月を費やす。派遣された在外事務所においてOJT によって経理といった事務のやり方を学ぶ。日本国内のようにシステマティックに事が進むわけではない。M1 の語りにもあるように、その国によって経理の仕方も違うし、領収書も簡単にとれない事も多いので、まさに「マニュアル化されないような、リアルな体験」を学ぶことにより、対処法を身につけていくのである。しかしながら、現地の人々と直接関わる JICA ボランティアの活動現場は期間こそ不明であるが、1 回のみと答えるに留まった。筆者の経験によると、JICA は在外経験 3 回で一人前とされる傾向がある。職員間でしばしば語られることとして、「今度はいつ“行く”(在外に出る)の?」あるいは、「(在外は)何回目?」、「早く在外出た方がいいよ」といった在外での勤務経験の回数で、個人の能力やあるいは意欲を測るような言葉は日常的に交わされるのである。F のように在外に対する思いがそれほど強いわけではない印象を与える者もいるだろう。しかしながら在外勤務を希望するというインセンティブは、「在外」の草の根で活動する JICAボランティアや専門家の活動といった最前線の声を聞き、業務に反映したいというよりもむしろ、自身の出世コースを彩るための装飾にすぎないのだろう。それは海外で活動することが自己実現という意味合いが濃い青年海外協力隊に代表されるような JICA ボランティアとは異なるものである。実際、在外であればどこでもその箔がつくわけではなく、中南米やアジアといった環太平洋地域でも ODA 出資額が大きい国が好まれ、アフリカは近年国際協力のフィールドとして再び脚光を浴びているもののステータスとしては依然低

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い位置にある。要因としては案件の規模や現地での日本人人脈の規模が挙げられるだろう。また案件にかかる費用や本邦からの資材調達に関しても優位であることからこの構図は揺るぎようのないものになっている。しかしながら「箔がつく国」と、「行ってみたい国」はその捉え方に差が生じているようである。このことは、次に挙げる M2 の語りからも「在外」への捉えかたが理解できよう。

M2 :海外に赴任して、フィリピンに一旦ですけども。はい。* :はあ、そうですか。M2 :で、フィリピンに赴任して 3 年…3 年 2ヶ月くらい行ってましたかね。* :そうなんですか。はじめての、赴任が…フィリピン。M2 :フィリピンですね。* :印象はどうでした?M2 :実は私はですねぇ、あの、フィリピンって言われたとき(辞令を言い渡され

たとき)インドネシアのほう行きたかったんですよ。こう、(フィリピンって)中進国じゃないですか?すごく(仕事が)盛り上がってきたときだったんで、そこでフィリピンて言われて「えっ」と思っちゃったわけですよね(笑)まあ、行ってみたら、行ってみたで、それなりにやることもあったんで、

* :え?なんで「えっ」って思ったんですか?L :やっぱり、何もないところから…ゼロから立ち上げられるようなところに行

きたかったんですよ。フィリピンって ASEAN の中でも…ASAEAN の原加盟国だから、フィリピン、タイ、インドネシア、なんてところは、中くらいまで発展してるところだったんで、そこに行くっていうことは…「なんかなぁ」って思ったんですね。まあ、行ったら行ったでなにかあったんですけど…まあ、地域間格差は激しいですし、まぁ…やることはありましたね。まぁ、楽しかったです。

 M2 は、最初の在外の赴任先が中進国であるフィリピンであったことに不満をもらしている。M2 としては、M2 の位置付けとしてフィリピンよりはインドネシアのほうが魅力的であった。その理由としては M2 の表現として「ゼロから立ち上げられるようなところ」としてのインドネシアという位置付けがある。自らの手で「何か」を成し遂げる、あるいはその礎となるような業績を残したいという心境のあらわれなのかもしれない。既にアジアの至る国々では開発の分野において多くの案件とそれをめぐる納入業者や政府間のかけひきが行われ、むしろドナー国政府による「開発の現場探し」が行われている現状がある。M2 が挙げるインドネシアとてその例外ではないだろう。その後につづく「まぁ、地域間格差は激しいですし、まぁ…やることはありましたね。まぁ、楽しかったです」という発言から、その一端をうかがうことができるだろう。

5 実務者に対する実務者のまなざし

 開発の実務者は、正職員ばかりではない。派遣会社からやってくる契約社員や受託業務

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として請け負った外郭団体の契約職員もいる。ここでは、後者のインフォーマント M3 の語りを挙げる。M3 は社団法人 JOCA (Japan Overseas Cooperation Association)の契約職員として JICA 内の青年海外協力隊事務局にて勤務しており、彼自身は青年海外協力隊経験者でもある。M3 は自身の JICA ボランティア調整員経験を振り返り、「在外」での正職員の印象を語った。

M3 :だから、最近は、最初から大学院出てきたような人が、ロジックの部分から村を見たりとかね。しだすんで…まぁ、それもねぇ…それも国際協力の部分で仕方のないことなのかもしれないのかなぁって思うところなんですけどね。どうなのかなぁって、ね。現地の人たちなんかも思ってるんじゃないですかね。「(日本人が)淡白になったな」って。

* :「俺が知ってる日本人じゃねぇ」っていう(笑)M3 :そうそうそう(笑)そう思ってると思いますよ。あと、冗談につき合わない

とか。仕事終わったらさっさと帰っちゃうとか。(仕事以外での余暇を)楽しむのは職員同士でも構わないと思うんですけど、あの、たまに任地の(現地人)人とかと飲みに行くとかっていう話、あんまり聞かないですよね。あと楽しみ方も人の目に触れないような楽しみ方をしていて、やっぱりウチ帰ったらメールチェックしなきゃとか、仕事は仕事で割り切っちゃって、(余暇で)現地の人の話なんか聞きたくないってなっちゃうんだろうし。

 「在外」での振る舞いは、「在外」という場において特別なものとはならない。日本国内にいるときとの違いを見つけることは困難であり、自己の周辺を取り囲む組織規模の小ささがむしろ日本国内にいたときよりも、「疎」の人間関係を生み出す。よってこの語りにあるように、共に働く在外の現地スタッフはおろか、日本人職員との関係すら築くことを拒むようである。日本のシステムそのままに業務が遂行されることが確かに日本国内で業務を行っている者にはこれほど楽なものはない。しかし、途上国に限らず「在外」は日本国内にいたときには予想もつかないような出来事やアクシデントが待ち受けている。業務とプライベートをわけることはいわゆる社会人にとっては必要とされることのひとつである。しかし現地の人々から何を知ることができるのか、何を学ぶことができるのかという意欲を持たぬ限りは、途上国地域におけるいわゆる“受益者”と呼ばれる対象者や JICAボランティアといった、国際協力の場におけるともに「草の根」の存在から発せられる“声”を聞くことはできないのである。

6 JICAボランティアの声

 それでは開発実践に関わる「草の根」の JICA ボランティアの声はどのように実施者を語るのであろうか。JICA ボランティアの先駆的存在である青年海外協力隊の職種は 8 部門 120 職種以上ある。看護や医師などの医療職や教師などの教育職はもちろんのこと、近年は日本語教師も日本語教授法の資格保有が受験の必須条件となっており、村落開発普及員といった資格が不要な職種に応募者が殺到するのは理解できよう。さらに 2003 年の

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ODA 大綱改正により明文化された「国民参加の拡大」や「国民各層の広範な参加」に則したかたちで、同年組織改編を受けて制定された国際協力機構法において「開発途上地域住民を対象とする国民等の協力参加の促進」が唱われることにより、多くのポストを確保しなければならないことから、協力隊派遣国となっている国々では隊員派遣に伴う事前調査が疎かになっているのは今に始まったことではない19。 現在派遣中のある協力隊員が SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)における自身の「日記」にてこのような記述を残している。

   先日 20 年度一次隊がきた。   19-4 が来てからちょうど 3ヶ月。

   来過ぎ。

   な気がするのは僕だけだろうか?

   協力隊 3 万人!なんて JICA はアピールしてるけど、   送ってる数が多けりゃいいってもんじゃないだろ?

   現場を見てほんとに要請だしてんのか?

    そりゃー現場は金も払わないでスタッフ増やしてくれんなら何でも大歓迎だろうけどさ・・・

   もちろん一概には言えないけど・・・

   なんかちがうんじゃないかなーなんて思う今日この頃。 (派遣中のある協力隊員の SNS における日記より 文字間隔まま)

 この隊員は 2008 年 6 月現在も活動中である。またこの隊員も自身の交替が必要か否かを決めなければならない時期である。昨年より派遣隊次が年 3 回から 4 回に増加したことを受けて、隊員が次から次にやってくることに疑問と、派遣前の調査が疎かになっているのではないかという不安が入り交じった様子が理解できよう。このような不安を筆者も感じていたことがある。そのことは筆者が記述した「隊員報告書第 6 号」20 にて、要請主義を語っていても結局「要請開拓」と称して案件をつくりあげていることは問題であるという指摘をしたことからも明らかであるが、これまで挙げてきた実施者の語りからも明確であるように、案件は「あがってくる」ものではなく、「あげる」ものであり、実施者自身

                19 筆者は、自身が青年海外協力隊員時代の 1995 年に「隊員活動報告書」において同様の指摘をしている。20 通常、協力隊員は派遣前訓練中に自身の派遣予定国の概要や赴任先の状況を調べてまとめた「ゼロ号報告書」そして活動期間中に1号から5号までの「隊員活動報告書」の提出義務を負う。筆者は活動期間中に別冊で1号分追加の報告書を執筆している関係上、通常の最終報告書は5号であるが、筆者の最終報告書は 6 号となった。

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が問題発見装置となり「探す」ものなのである。この隊員に対して筆者は 2003 年の ODA大綱改正と JICA 改編の流れが影響しているのではないか、との旨の文章を送信したところ次のような回答が送られてきた。

     なんか「後任要請しますか?」って聞かれる前に「後任を要請するように JICAでは決めているのですが」って話を持ってこられたりしてさ、まさに何それ? だよ。

 隊員に対して後任を要請する義務はない。要請をする必要があるかどうかは当事者の隊員と現地の配属先の協議で決断すればよいのである。派遣前に隊員各自に渡される「隊員ハンドブック」には着任後 12ヶ月目に提出が義務づけられている隊員報告書 3 号に、(C)後任の問題という項目の a)活動期間延長の有無と交替の必要性、そして b)交替要員に希望すること、この 2 項目が後任に関する記述を行う箇所であり21、隊員と配属先との協議で必要であれば後任を申請する理由とそれに応じた活動計画を提示しなければならない。不必要となった場合も同様である。しかしながら隊員の配属先との協議の有無も関係なしに「後任を要請するように JICA では決めている」という根拠はどこにあるのだろうか。JICA ボランティア調整員は、先述の JOCA が JICA の受託業務として請け負っている。そのほとんどが青年海外協力隊帰国隊員である。しかも JICA ボランティア調整員は契約職員であるため、1カ国のポストが終了した後の雇用保障は一切ない。その関係上、現場判断で対処できる問題処理以外の決定権を保有しない。よって日常業務はもとより、在外から JICA 本部への連絡ですら在外の JICA 職員を通じて行うことになる。ここで言う「…JICA では決まっている…」は、JOCA の見解として発言できない部分であり、それは JICA 受託業務で行っている JOCA、そしてそこで期限付きで雇われている協力隊帰国隊員である契約職員が右からの命令を左に流すしかない身分を物語っている。そしてその皺寄せは「草の根」で活動する JICA ボランティアが受けるのだが、JICA ボランティア調整員もまた、かつてはその JICA ボランティアだったのである。

7 考察と結論―変わらなければならない「わたしたち」は、誰なのか

 これまで開発実践の「内側」の研究を困難にしてきたのは、情報源あるいは雇用主としての対象者との関係が崩れることを恐れたり、あるいは「われわれ側の人々」のフィールドが途上国ではなく同じ文化圏で育ったような共通点を多く持った人々であったことから、研究対象として扱われてこなかったりしたのであろう。いずれにせよ、その対象者が研究者にとって同じオフィスやプロジェクトサイトにおいて同僚であったり上司/部下の関係であったりという「われわれ側の人々」であるという“都合”の問題であったためにその研究は疎か、かつ表面上のものになりがちであったという事実は否めない。本論文では今回の執筆のために行った調査の報告というよりはむしろ、修士論文においてとりこぼした部分を扱ったのでデータや分析に再考の余地があることを自認し今後も着目すべき課

                21 青年海外協力隊事務局(1998) p. 24

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題として扱っていくとする。ともあれ開発人類学における実務者の人類学的研究はまだ始まったばかりなのである。これまで挙げてきた開発実践に関わる実務者の語りからどのような傾向が見えてきたかを分析してみよう。彼らは入構以前にバックパッカーや両親とともに滞在した途上国の経験を持つものもいれば、大学生の学部時代に専攻していた専門分野での興味関心を途上国で反映したいという思いで入構した者もいる。しかしここでは最前線で活動する JICA ボランティアや専門家のサポートに徹することが求められる。在外勤務はキャリアアップを望むならアジアや環太平洋岸地域の赴任が望ましく、また案件実績がまだ蓄積していない国で自身の実績を作ろうと画策する者もいるだろう。そして基本的には 3 回の在外経験を持てば「一人前」とされる。しかしその在外経験は、日本社会をそのままトレースもしくはより自らを内に閉じ込めてしまうような振る舞いをすることになる。その姿勢からは「草の根」の人々…途上国の“受益者”と呼ばれる人々はおろか、JICA ボランティアという開発実践に関わる「最後の人々」…の声を聞くことはない。余暇で現地の楽器や舞踊を習うということは表面上の現地の体験となるが、そこで得られる「楽しさ」や「異国情緒」に浸るのみに終始するだけで、そこに集う人々もまた現地の大使館員や外交官といった近似した階層にある人々なのである。新人研修での在外経験はわずか 8ヶ月でその中でほとんど「草の根」の人々と触れあう機会をもたず、さらには東京からは「身の危険があるので不用意に村落地域に行くべからず」との指示を守らねばならないため、JICA ボランティアの活動が展開されている村落地域で何が起こっているのかを身をもって知ることなく、帰国するのである。 かのチェンバースが語った「アウトサイダー」の形成プロセスは、新人研修の時点で既に始まっている。いやむしろ職員募集段階から始まっているのかもしれない。自らの体験や見聞きした「草の根」で起こっている出来事に関心を寄せる者もいることは重々承知である。しかし援助業界に横たわる「特権」的な意識が、そこに関わる人々のポジションを決めていくかのようである。すなわち、ある階級にある者は直接的に「草の根」を知らなくても、その「草の根」で日々活動している人々から送られてくる情報を自分たちの都合のよいものばかりを吸い上げて、それを己の実績のように謳いあげるというスポイルが行われていても何ら不思議ではない。それがまさに「アウトサイダー」の営みであり、それ以上の行動は求められていないのである。 冒頭でとりあげたシンポジウムで語られたナレーションのフレーズは、いくら広告代理店が作り上げたシナリオであったにせよ、それを発注し承認した開発実践に関わる実施者にとってリアリティのない、青年海外協力隊に代表される JICA ボランティアの「イメージ」や報告から抽出した、実施者という「わたしたち」にとって“都合のよい部分”をかいつまんだものでしかないであろう。よって青年海外協力隊などの JICA ボランティアにとってもナレーションのフレーズは、預かり知らぬところで発せられた、リアリティのないものなのであると言えよう。チェンバースが指摘した「最初の人」はまさに「わたしたち」と発言する実施者であって、批判されているのは「わたしたち」なのであるということを無自覚的になってはならないのである。また、変わらなければならない「わたしたち」は誰なのか、という問いの答えはまさに開発現象に着目する「わたしたち」であることを自覚すべきであり、またわたしたちが持つまなざしこそが変わらなければならないのである。 (さとう あつし 人文社会科学研究科博士後期課程)

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参照文献岩渕悦太郎 1994 『岩波 国語辞典 第 5 版』岩波書店織部 恒雄 1984 『文化人類学 15 の理論』中公新書佐藤  敦 2007 『「そして“誰の”世界は、ひろがった」のか―JICA ボランティア事業の言説、実践、

表象 千葉大学大学院人文社会科学研究科修士論文』佐藤  敦 1995 『隊員報告書 第 6 号』青年海外協力隊事務局ジョージ、スーザン 1994 『世界銀行は地球を救えるか 開発帝国 50 年の功罪』朝日選書 567、朝日

新聞社ジョージ、スーザン 1977 『なぜ世界の半分が飢えるのか 食糧危機の構造』朝日選書 257、朝日新

聞社杉田 映理 1999「援助実施機関の組織文化と住民参加」『民族学研究』64/3、日本民族学会鈴木  紀 1999 「開発人類学の課題」『民族学研究』64/3、日本民族学会青年海外協力隊事務局 1998 『隊員ハンドブック』青年海外協力隊事務局チェンバース、ロバート 1995 『第 3 世界の農村開発 貧困の解決―私たちにできること』明石書店、

2000 『参加型開発と国際協力―変わるのはわたしたち』明石ライブラリー、24 明石書店山森 正巳 1996 「第 6 章 開発援助と文化人類学」『援助研究入門 援助現象への学際的アプローチ』

アジア経済研究所 JICA 新卒採用情報 2009 http://www.jica.go.jp/recruit/shokuin/people_t.html 2008 年 6 月 26 日閲覧ソーシャルネットワーキングサービス mixi http://mixi.jp 2008 年 6 月 28 日閲覧