レゲエがジャマイカに与える影響と背景...このテーマについて調べようと思ったきっかけは、筆者自身普段から音楽の中でもレゲ...

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レゲエがジャマイカに与える影響と背景 国際学部 国際学科 20627017 石田 理紗 牧田東一ゼ ミ

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レ ゲエがジ ャ マ イ カに与え る 影響 と 背景 国際学部 国際学科 20627017 石田 理紗 牧田東一ゼ ミ

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目次 はじめに ・ ・ ・ 3 ページ 第1章 ジ ャマ イ カ と はどのよ う な国か ・ ・ ・ 3 ページ 第1節 ジ ャマ イ カ と は ・ ・ ・ 3 ページ 第2節 奴隷貿易か ら反乱まで ・ ・ ・ 5 ページ 第3節 独立後のジ ャマ イ カ社会 ・ ・ ・ 7 ページ

第2章 レゲエを生み出し た思想ラ ス タ フ ァ リ ズム ・ ・ ・ 8 ページ

第1節 ラ ス タ フ ァ リ アンについて ・ ・ ・ 9 ページ

第2節 ラ ス タ フ ァ リ 運動 ・ ・ ・ 14ページ

第3節 ラ ス タ フ ァ リ アン と はなにか ・ ・ ・ 15ページ

第4節 ラ ス タ フ ァ リ アンのゆ く え ・ ・ ・ 17ページ 第3章 ジ ャマ イ カ と 日本の ラ ス タ フ ァ リ アン ・ ・ ・ 19ページ 第1節 ボブ ・ マー リ ィ ・ ・ ・ 19ページ 第2節 ワ ン ラ ブジ ャマ イ カ と は ・ ・ ・ 20ページ 第3節 ワ ン ラ ブチャ リ テ ィ ー ・ ・ ・ 21ページ 終章 ま と め ・ ・ ・ 22ページ

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はじめに

こ のテーマについて調べよ う と 思った き っかけは 、 筆者自身普段か ら音楽の中で も レゲ

エを歌い 、 聞 く こ と が多いがレゲエ と い う ジ ャ ンルについて詳し く は知ら ない こ と に気づ

いたか ら だ 。 なぜレゲエは こ んなに も日本で人気が出たのだろ う ?いつか ら どのよ う な き

っかけで生まれたのだろ う ?た く さ んの疑問が生まれて き た 。 そ こ でい く つかの焦点に絞

って こ のテーマを調べてい こ う と 思 う 。 ジ ャ マ イ カで広 く 浸透し ている ラ ス タ フ ァ ニズム 、

世界に も広 く 知られている歌手ボブ ・ マー リ ー 、 歌詞に多 く 用い られている大麻 ・ 反同性

愛 。 レゲエを愛し歌って き たジ ャマ イ カの人々はどのよ う な歴史 、 文化を送って来たのだ

ろ う か 。 い く つかの参考文献を基に こ の論文を進めて行こ う と 思 う 。 こ の論文を通し てレ

ゲエ と い う ひ と つの音楽ジ ャ ンル と 、 特にジ ャマ イ カ と い う 国の文化 ・ 歴史がどのよ う な

も のかを理解する こ と ができれば と 思 う 。 第 1 章 ジ ャ マ イ カ と はどのよ う な国か レゲエが生まれたジ ャマ イ カ と い う 国はいったいどのよ う な国なのだろ う か 、 い く つか

に分けて詳し く 述べてい く 。 第 1 節 ジ ャ マ イ カ と は

ジ ャマ イ カは 、 カ リ ブ海に浮かぶ山 と 渓流の多い小さ な島であ る 。 面積は 1 万 1 千平方

キ ロ弱 、 人口は 270 万人ほど (2004 年 ) 。 人口の構成比は 、 90.9%が黒人 、 7.3 %が混血 、

1.3 %がイ ン ド 人 、 白人 と 中国人がそれぞれ 0.2 % 、 その他が 0.1 %で 、 多人種の共存が

国の目標 と されている 。 面積は日本の 30 分の 1 以下 、 人口は約 50 分の 1 であ る 。 日本

で言えば 、 新潟県 と ほぼ同じ と 考えればよい [ 牧野 2005 :11] 。 ジ ャマ イ カの顔は 、 ブ

ルー ・ マウ ンテン ・ コー ヒ ー と ラ ム酒であ る 。 高温地帯の冷んや り と し た朝には 、 熱いブ

ルー ・ マウ ンテン ・ コー ヒ ーがよ く 似合 う 。 低地のじ り じ り と 焼け る よ う な日中の暑さは 、

ラ ム酒に氷を落 と し て乗 り 切るのが良い [ 牧野 2005 :14] 。 また外務省の HP にはこ う 記されている 。 面積は11,424平方キ ロ メ ー ト ル ( 秋田県 と ほぼ同じ大き さ )、 人口は 270 万人 ( 2005年

世銀 )、 首都はキング ス ト ン 、 民族はアフ リ カ系黒人91% 、 黒人系混血 6.2 % 、 イ ン ド 系

0.89% 、 その他 ( 中国系 、 白人等 ) 1.2 % 、 言語はイ ギ リ ス英語 、 宗教はプロ テス タ ン ト

等 、 英連邦加盟国であ る 。 そのため 、 元首は英国女王エ リ ザベス 2 世 、 議会は二院制 ( 上

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院21名 、 下院60名 )、 政体は立憲君主制 、 政府は首相名ブルース ・ ゴールデ ィ ング ・ 外相

名ケネス ・ ボー 。 1962年 8 月 6 日にイ ギ リ ス連邦内で独立し た 。

主た る政党は 、 ジ ャマ イ カ労働党 ( JLP ) と 人民国家党 ( PNP ) の二つであ る 。 1980年

10月の総選挙で 、 JLP が 、 それまでの左傾化し たマン レ イ首相のPNP を破 り 、 セアガ JLP

党首が首相に就任し た 。 セアガ政権は自由主義経済路線を と り 経済再建に努めたが 、 必ず

し も成功せず 、 1989年 2 月の総選挙でマン レ イ政権が再び登場 。 同政権は 、 前回の1972~

1980年の政権時代 と は異な り 、 親米路線を と った 。 1992年 3 月 、 マン レ イ首相が健康問題

を理由に引退し た後 、 パターソ ン副首相が首相に就任 。 パターソ ン政権は前政権の内外政

策を継承 。 同首相は 、 同国史上初めて 4 期連続で長期に政権を担当し ていたが ( 1992年 3

月 、 1997年12月 、 2002年10月 )、 2007年までの任期満了を待たず首相を退任 。 次期PNP党

首 と し て 、 2006年 2 月25日 、 シンプ ソ ン ・ ミ ラー副党首が初の女性党首 と し て選出され 、

シンプ ソ ン ・ ミ ラー党首は 、 3 月30日 、 初のジ ャマ イ カ女性首相に就任し た 。 庶民派の首

相 と し て期待が寄せられたが 、 雇用増加や犯罪減少などの分野で期待されていたほどの成

果をあげる こ と ができ なかった 。 2007年 9 月 3 日に実施された総選挙において 、 JLP が勝

利し 、 18年ぶ り に政権交代が実現し 、 9 月11日 、 JLP のゴールデ ィ ング党首が新首相 と し

て就任し た 。

外交 ・ 国防

外交基本方針はカ リ ブ諸国 と の関係強化であ る 。 英連邦の一員 と し て 、 英国や米国をは

じめ と する西側諸国 と の関係を促進し ている 。 また 、 ラ米 ・ アジア地域 と の関係促進も は

かっている 。 さ ら に 、 非同盟諸国の一員 と し て 、 途上国 と の関係強化も行っている 。

経済 ( 単位 米 ド ル )

主要産業は鉱業 ( ボーキサイ ト 及びアル ミ ナ )、 農業 ( コー ヒ ー 、 砂糖 、 バナナ )、 観

光業等

GDP ( 名目 )

103 億米 ド ル ( 2006年 )、 107 億米 ド ル ( 2007年推定 ) ( IMF )

一人当た り GNI

3,997 米 ド ル ( 2007年推定 ) ( IMF )

経済成長率 ( 実質GDP成長率 )

2.4 % ( 2006年 )、 1.0 % ( 2007年 ) ( IMF )

物価上昇率

8.6 % ( 2006年 ) 6.6 % ( 2007年 ) ( IMF )

失業率

9.6 % ( 2006年 ) 9.7 % ( 2007年 ) ( ジ ャマ イ カ統計局 )

主要貿易品目

( 1 ) 輸出 アル ミ ナ 、 ボーキサ イ ト 、 衣類 、 砂糖 、 バナナ 、 コー ヒ ー

( 2 ) 輸入 鉱物 ・ 燃料 、 機械類 ・ 輸送機材 、 化学薬品 、 食料

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主要貿易相手国

( 1 ) 輸出 米国 、 カナダ 、 中国 、 英国 、 オ ラ ンダ ( 2006年 ) ( IMF )

( 2 ) 輸入 米国 、 ト リ ニダー ド ・ ト バゴ 、 ベネズエ ラ 、 日本 、 中国 ( 2006年 ) ( IMF )

通貨

ジ ャマ イ カ ド ル ( J $ )

為替レー ト

1 米 ド ル= 72J $ ( 2008年 4 月 )

経済概況

ジ ャマ イ カ経済は 、 観光業 、 鉱業 ( ボーキサイ ト 及びアル ミ ナ )、 農業 ( 砂糖 、 バナナ

等 ) 及び海外か ら の送金に支え られている 。 経済の動向は 、 これら の基幹産業の好不況に

大き く 左右される 。 1990年代の半ばには 、 パターソ ン政権の下 、 相次いで破綻し た金融機

関の不良債権の処理に公的資金を使用し たため 、 公的債務が増大し 、 その返済は現在に至

る まで大き な負担 と なっている 。 好調な観光業に支え られて経済が順調だった2006年 と 異

な り 、 2007年は 、 8 月にジ ャマ イ カを直撃し たハ リ ケーン 「 デ ィ ーン 」 の影響で農業が深

刻なダ メ ージを受けたほか 、 鉱業等に も影響がでた 。 ジ ャマ イ カ経済の課題は 、 債務問題

の改善 、 貿易赤字の改善 、 エネルギー源の多様化 、 農業の多様化等であ る 。 2007年 9 月の

総選挙で政権についた JLP 政権は 、 優先課題 と し て 、 「 海外直接投資 」 と 「 経済協力 」

によ る雇用促進を経済発展につなげてい く こ と をあげている [ 外務省 HP 2008,10] 。

言語について補足を述べる と 、 公用語は英語であ る 。 但し 、 ジ ャマ イ カ人の間では 、 英

語 ・ スペイ ン語 ・ アフ リ カ語などが ミ ッ ク ス された独自の言語パ ト ワ語が主に使用されて

いる 。 パ ト ワ と は 、 フ ラ ン ス語で地方語 と い う 意味 。 パ ト ワの例 Soon come( ス ン コ ム=

すぐ来ます ) 、 Irie( ア イ リ =良い)No problem ( ノ ー ・ プロブレ ム=問題ない 、 大丈夫 )、

Yah man ( ヤマン=はい 、 も ちろん ) [ ジ ャマ イ カ政府観光局 HP 2009,10] 。

国旗 /The National Flag

ジ ャマ イ カ国旗は1962年 8 月 1 日の独立記念日に制定され 、 対角線に交差し た十字によ

って 、 4 つの三角形が近接し て並んでいる 。 旗が象徴する も のは “ 困難はあって も国土は

緑豊かで 、 太陽は輝いている ” と い う も の 。 国旗の色については 、 黒は立ち向かい克服す

べき困難 、 金は豊かな自然 と 太陽光線の輝き 、 緑は希望 と 農業資源を象徴し ている 。

ジ ャマ イ カ国旗の色で 、 日本人に と って黄色に見え る部分は 、 ゴール ド と 呼ばれ 、 ラ ス タ

カ ラーに見られる赤 ・ 黄 ・ 緑の 3 色も 、 “ レ ッ ド ( またはア イ ツ ) ・ グ リ ーン & ゴー

ル ド ” と 呼ばれている [ ジ ャマ イ カ政府観光局 HP 2009,10] 。

第 2 節 奴隷貿易から反乱まで 奴隷貿易が本格化し た 17 世紀の初めか ら 、 奴隷制が廃止される 19 世紀後半までの間

に 、 約 1200 万人か ら 2000 万人の黒人奴隷がアフ リ カか ら搬送された と 推計されている 。

その う ち 、 およ そ 4500 万人がカ リ ブ海域で使役された と 考え られ 、 ジ ャマ イ カに 初の

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奴隷船が到着し た 1517 年以来長い間 、 黒人奴隷の数は白人植民者よ り ずっ と 少なかった 。

他の作物か らサ ト ウ キビのプ ラ ンテーシ ョ ンに重点が移され 、 大量の奴隷が必要にな り 比

率が白人の 10 倍に も な るのは 18 世紀になってか ら だ 。 やがて 、 マルーン と 呼ばれる逃

亡奴隷たちの逃亡が始ま り 、 東部のブルー ・ マウ ンテン山脈や中西部にあ る コ ッ ク ピ ッ ト

と 名付け られた穴ぼこ だ ら けの石灰岩の山岳地帯に巧みに隠れ 、 イ ギ リ ス軍の追手か ら逃

れた 。 長いゲ リ ラ線のすえ 、 1738 年イ ギ リ ス と の和平条約によ って 、 マルーンは山間部

に土地 と 自由を得た 。 しかし 、 その数は全部あわせて も 1000 人前後 と みられている 。 こ

の和平条約によ って 、 マルーンのジ ャマ イ カ史におけ る運命が変わる 。 マルーンが自由を

得た後も 、 多 く の黒人は奴隷のま ま残された 。 ジ ャマ イ カの現在につながる黒人の反乱はマルーンではな く 、 残された大多数の奴隷た

ちによ って担われた 。 その も っ と も重要な も のは 、 1831 年 12 月に始ま った 「 サム ・ シ

ャープの反乱 」 であ る 。 当時の奴隷たちの多 く は メ ソ ジス ト 派やバプテス ト 派のキ リ ス ト

教に組織されていたが 、 中には英語の読み書きができ 、 ヨ ーロ ッ パの事情に精通し ている

者も いた 。 サム ・ シ ャープはそ う い う 奴隷の一人で 、 バプテス ト 教会系の活動家だった 。

その頃 、 フ ラ ン スやイ ギ リ スでは自由主義的な傾向が強ま り 、 イ ギ リ ス本国ではすでに国

内の奴隷は解放され 、 植民地で も奴隷制を廃止し よ う と する動きが起き ていた 。 また 、 現

実にフ ラ ン ス領のハイチでは 、 黒人奴隷たちが解放 と 独立の戦いに勝利し ていた 。 サム ・

シ ャープは 、 新聞など を読んでそ う い う 情勢を知っていたのであ る 。 イ ギ リ ス国王が奴隷

解放を宣言し た と い う 噂を背景に 、 奴隷制度の廃止を求める反乱がモンテゴ ・ ベイ を中心

に勃発し 、 ジ ャマ イ カ島のほぼ西半分が反乱奴隷の手に落ちた 。 イ ギ リ ス総督は戒厳令を

発布し て 、 島の西部へ軍を送 り 、 恩赦をち らつかせて反乱を懐柔し た 。 結局の と こ ろ 、 そ

れに応じ た奴隷たちの多 く が殺される こ と になった 。 終的には 、 イ ギ リ ス軍の傭兵 と な

って出動し たマルーンの部隊によ って反乱は鎮圧された 。 これ以後 、 ジ ャマ イ カの黒人奴

隷たちに と って 、 マルーンは尊敬 と 畏怖の対象であ る と 同時に 、 怨嗟 と 憎悪の対象 と も な

ってい く 。 その関係は 、 ずっ と 後まで続 く こ と にな る 。 翌 1832 年 5 月に 、 反乱の指導者

サム ・ シ ャープは処刑される 。 こ の反乱が重要なのは 、 これを き っかけにイ ギ リ ス本国で

植民地政策の見直しが本格化し 、 わずか 2 年後の 1834 年には 、 ジ ャマ イ カの奴隷制度廃

止が宣言されるか ら だ 。 も う 一つ 、 「 モ ラ ン ト ・ ベイの反乱 」 も また 、 ジ ャマ イ カ史上の重要な事件であ る 。 中

心 と なった指導者は 、 ジ ャマ イ カ生まれの混血の資産家ジ ョ ージ ・ ウ ィ リ アム ・ ゴー ド ン

と 、 黒人バプテス ト 派の牧師だったポール ・ ボーグル と されている 。 舞台 と なったのは島

の東部で 、 セン ト ・ ト ーマス教区の海沿いの街モ ラ ン ト ・ ベイがその発端の地だ 。 奴隷解

放後のジ ャ マ イ カ社会は 、 自由を手にし た膨大な解放奴隷たちを吸収でき る仕事を用意で

きず黒人たちは失業者 と なった 。 特に 、 セン ト ・ ト ーマス教区は貧し く 、 富裕な白人植民

者たちへの黒人たちの不満は鬱積し ていた 。 政治家で も あ り 、 牧師で も あったゴー ト ンは 、

惨状を放置し ている イ ギ リ ス総督エ ド ワー ド ・ エアを激し く 非難し た 。

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1865 年 10 月 、 拠点のス ト ーニー ・ ガ ッ ト 村か ら 、 ボーグルは 200 名の仲間 と と も に

モ ラ ン ト ・ ベイに乗 り 込み 、 白人殖民者たちを殺害する 。 瞬 く 間に反乱は周辺に広が り 、

東部一帯に戒厳令が敷かれる 。 こ こ で も また 、 傭兵 と なったマルーンが鎮圧に活躍し た 。

ゴー ド ンは反乱には参加し ていなかったが 、 首謀者 と 目され 、 捕ら え られて絞首刑 と な る 。

同じ日 、 ボーグルも マルーンの手に落ち 、 形式だけの短い裁判を経て 2 日後には絞首刑に

処せられた 。 反乱は 2 週間足らずの短期に終わ り 、 400 人以上が絞首刑 と なった 。 し かし 、 こ の反乱を き っかけに白人植民者たちは植民地経営を維持し てい く 自信を失い 、

同じ年の 12 月 、 ジ ャ マ イ カはイ ギ リ ス女王の直轄植民地へ と 体制を変え る 。 こ の直轄統

治は 、 1962 年にジ ャ マ イ カが独立する まで 100 年近 く 続いた 。 そ し て 、 その間に 、 黒人

解放運動の闘士マーカ ス ・ ガ-ヴ ェ イが登場する こ と にな る [ 牧野 2005 :19-22] 。 第3節 独立後のジ ャ マ イ カ社会 1962 年 8 月 6 日 、 ジ ャマ イ カはイ ギ リ スか ら独立する 。 その と き格別の独立運動があ

ったわけではな く 、 独立への動きはゆるやかだった 。 1944 年に上下両院の議会ができ 、

初の普通選挙が行われる 。 アレ ク サンダー ・ ブス タマウ ンテン率いる ジ ャマ イ カ労働党

( JLP ) と 、 対抗馬であ る ノ ーマン ・ マン リ ー率いる人民国家党 ( PNP ) が争い 、 こ の

と きはジ ャマ イ カ労働党が勝った 。 1955 年の選挙では逆に人民国家党が勝っている 。 こ

のブス タマンテ と マン リ ーは 、 従兄弟ど う しであ る 。 1957 年には 、 イ ギ リ スか ら自治権が認め られ 、 その後の政治の焦点は 、 1958 年に加

盟し た西イ ン ド 諸島連邦に留ま ってその盟主 と な るか 、 脱退し て独立するかだった 。 国民

投票の結果 、 単一で独立し 、 イ ギ リ ス連邦の一員 と な る道が選ばれた 。 現在のイ ギ リ ス連

邦は 、 と て も ゆるやかな連合体で 、 必ずし も イ ギ リ ス国王への忠誠を必要 と し ないが 、 ジ

ャマ イ カは立憲君主制を維持し たので 、 依然 と し て元首はク イーン ・ エ リ ザベス二世であ

り 、 キング ス ト ンのキングズ ・ ハウ スがジ ャマ イ カ総督の官邸であ る 。 独立後の 10 年間はジ ャマ イ カ労働党が政権を握ったが 、 国内情勢は次第に緊迫し てい

った 。 1972 年ジ ャマ イ カの政治は大き な変化を迎え る 。 こ の年 、 ノ ーマン ・ マン リ ーか

ら人民国家党を引き継いでいた息子マ イ ケル ・ マン リ ーが 、 選挙に勝って政権を取る 。 マ

イ ケルは急進的な社会主義を唱えて 、 それまでア メ リ カ と カナダの大企業に独占されてい

たボーキサイ ト 産業を規制し 、 半ば国有化する 。 また 、 非同盟中立の外交路線を打ち出し

て 、 ア メ リ カの経済封鎖にあっていたキ ューバ と も関係を深める 。 こ の政権は 、 台頭し て

き た ラ ス タ フ ァ リ アン と も友好な関係を結び 、 それを支持基盤に取 り 込も う と し たので 、

ラ ス タ派のレゲエ ・ ミ ュージシ ャ ンの活動は一気に活性化し た 。 しかし 、 それは同時にジ

ャマ イ カの混乱期で も あった 。 8 年間続いたマン リ ー政権の任期中 、 ア メ リ カが加え る さ

ま ざ まな圧力 、 砂糖生産の落ち込み 、 ボーキサイ ト 企業の撤退 、 激しいイ ン フ レ と 失業の

増大 、 そ し て政治的対立の激化によ る暗殺や銃撃戦の頻発によ って 、 治安は大き く 乱れ 、

頼みの観光客も激減する 。 ついに 、 国際通貨基金 ( IMF ) の資金援助も停止され 、 ジ ャマ

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イ カ経済は瀕死の状態に陥る 。 1980 年の総選挙ではそれが内戦状態にまで拡大し 、 655人の死者を出す惨事 と な る 。 選挙の結果は 、 親米派のエ ド ワー ド ・ シアガ率いる ジ ャマ イ

カ労働党の勝利に終わる 。 シアガ政権は 、 ア メ リ カのレーガン政権の路線を踏襲し よ う と し たが 、 充分な成果はあ

げられず 、 貧困や失業は改善されなかった 。 1988 年 、 追い撃ちをかけ る よ う にハ リ ケー

ン ・ ギルバー ト が襲 う 。 暴風雨がジ ャマ イ カ全土をなぎ倒し 、 国民の25%以上が家を失っ

た 。 シアガ政権は 1989 年の選挙で敗北し 、 マ イ ケル ・ マン リ ーが政権に復帰し た 。 こ の二期目の政権の時か ら 、 マン リ ーは穏健な路線に転じ 、 ア メ リ カ と の関係も対立的

な も のではな く なった 。 1992 年マン リ ーは病気のため引退し 、 ジ ャマ イ カ初の黒人首相 と な るパーシヴ ァル ・ J ・ パターソ ンに職を引き継いだ 。 人民国家党の党首 と なったパタ

ーソ ンは 1993 年の選挙に圧勝し 、 その後も選挙戦連勝し て 2006 年まで長期政権を維持

し ている 。 奴隷解放の と き以来ずっ と 、 こ の島には労働力を呼吸でき るだけの産業が存在し ない 。

失業 と 不安定な雇用は構造的な問題で 、 年間 20 万人が海外に出稼ぎに行き 、 2 万人が移

住し ているのが実情であ る 。 企業で働 く いわゆるサ ラ リ ーマンの比率が 、 労働人口の10%程度のジ ャ マ イ カでは 、 安定し た中流層が形成されに く い 。 事態の解決は容易な こ と では

ない 。 一般に第三世界 と 呼ばれる地域の国々では 、 都市 と 農村 、 中産階級 と 一般庶民 と の生活

の格差は 、 日本よ り ずっ と 大きい 。 ま った く 別世界 と 言っていいほどの違いがあ る 。 ジ ャマ イ カ社会も また 、 その階層的な落差は誰の眼に も明ら かなほど激しい 。 キング ス

ト ンの街の平坦な部分の山裾寄 り 、 面積的に言えばおよ そ半分がア ッ プダ ウ ンで 、 回 り を

囲む山々の眺めの良い斜面に も豪壮な邸宅が建ち並んでいる 。 これに対し て 、 海岸寄 り の

残 り 半分が 、 旧市街を含むダ ウ ン タ ウ ン と い う こ と にな る 。 ま るです り 鉢の底にいる よ う

に 、 黒人を主体 と する ダ ウ ン タ ウ ンの住人はそれら の邸宅を仰ぎ見る 。 ごみごみ と し て喧

騒にまみれたダ ウ ン タ ウ ンには 、 ス ラ ム化し たブロ ッ ク も まだ部分的に残っている 。 こ の

2 つのエ リ アには 、 ほ と んど交流がない と 言っていいほど隔絶されている 。 映画 『 ハーダー ・ ゼイ ・ カム 』 (1972 年製作 ) で 、 ジ ミ ー ・ ク リ フが演じ る主人公のア

イ ヴ ァ ンは 、 田舎か ら キング ス ト ンに出て き て 、 バス を降 り た途端に 、 荷物を全部持ち逃

げされて し ま う 。 ダ ウ ン タ ウ ンの住人になったア イ ヴ ァ ンは 、 仕事を求めてア ッ プダ ウ ン

の高級住宅地を訪ねるが 、 虚し く 断られる 。 そんな風景の中に 、 キング ス ト ンに隔絶され

た 2 つの世界があ る こ と が う ま く 写し込まれている 。 その構造はいま も ほぼ変わ ら ない

[ 牧野 2005 :22-25] 。

第 2 章 レゲエを生み出し た思想ラ ス タ フ ァ リ ズム

こ の章ではレゲエを語る上で欠かせない思想であ り 、 宗教であ る ラ ス タ フ ァ リ ズム , ラ

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ス タ フ ァ リ 運動についてい く つかの項目に分けて詳し く 述べてい く 。 第1節 ラ ス タ フ ァ リ アンについて 1. 概要

キ リ ス ト 教の聖書を聖典 と し てはいるが 、 特定の教祖や開祖は居らず 、 教義も成文化さ

れていない 。 それゆえ宗教ではな く 、 思想運動であ る と される 。 基本的にはアフ リ カ回帰

運動の要素を持ち 、 エチオピア帝国 後の皇帝 、 ハイ レ ・ セ ラ シエ 1 世をジ ャーの化身 、

も し く はそれ自身だ と 解釈する 。 名称はハイ レ ・ セ ラ シエの即位以前の名前ラ ス ・ タ フ ァ

リ ・ マコ ンネン ( アムハラ語で 『 諸侯タ フ ァ リ ・ マコ ンネン 』 の意 ) に由来する 。 主義 と

し てはアフ リ カ回帰主義 ( またはアフ リ カ中心主義 ) を奨励し た 。 その指向は 、 ラ ス タの生活様式全般 、 例えば菜食主義や ド レ ッ ド ヘア 、 ガンジ ャ を聖な

る も の と し て見る こ と などに現れている 。 1970 年代にレゲエ音楽や 、 と り わけジ ャマ イ

カ生まれのシンガーソ ング ラ イ ター 、 ボブ ・ マー リ ーによ って全世界に波及する 。 全世界

に 100 万人の ラ ス タ フ ァ リ 運動の実践者がいる と 言われる 。 なお 、 ジ ャマ イ カの多数派宗

教はキ リ ス ト 教 ( プロ テス タ ン ト ) であって 、 ラ ス タ フ ァ リ ズム を信仰するのは全国民の

5 ~10%前後であ る 。 呼称については英語では Rastafarianism ( ラ ス タ フ ァ リ アニズム ) だが 、 日本ではラ

ス タ フ ァ リ ズム と 呼ぶのが一般的であ る 。 ラ ス タ フ ァ リ ズムの実践者は 「 ラ ス タ フ ァ リ

アン 」 だが 、 口語的には 「 ラ ス タマン 」 ( 女性な ら 「 ラ ス タ ウーマン」)または 「 ラ ス タ 」

と 呼ぶ 。 ラ ス タ フ ァ リ アンは母音の /i/ ( イ ) を強調する傾向があ る ため 、 「 ラ ス タ フ ァ

ーラ イ 」 (rasta-far-i) と 発音される 。 そ し て頭にジ ャー (Jah) を付けて 、 「 ジ ャー ・ ラ

ス タ フ ァーラ イ 」 と 言 う のが一般的 。 ラ ス タ フ ァ リ アンは 、 「 イ ズム 」 (-ism) ではな く

「 暮ら し方 」 (way of life) と 考え る ため 、 それを踏ま えて ラ ス タ フ ァ リ 運動 (Rastafari movement) と 表現される [ 後藤 1997:114] 。

2. マーカ ス ・ ガーベイの 「 予言 」

1910 年代 、 ジ ャマ イ カ生まれのマーカ ス ・ ガーベイはア メ リ カ合衆国に渡 り 世界黒人

開発協会アフ リ カ社会連合 (UNIA-ACL) を組織しパン ・ アフ リ カ主義を提唱し た 。 当時 、

カ リ ブの黒人社会に根強 く 残っていたエチオピアニズム ( 近代になって も植民地化されな

かったエチオピアを黒人の魂の故郷 と する考え方 ) を拡大解釈し 、 黒人に対し てアフ リ カ

に帰る こ と を奨励し た 。 ガーベイ の主張はア メ リ カのみな らず 、 カ リ ブや南ア メ リ カなど

の多 く の黒人の支持を得た 。 カ リ スマ的な演説活動をするマーカ ス ・ ガーベイは 、 1927 年に 「 アフ リ カを見よ 。 黒人の王が戴冠する時 、 解放の日は近い 」 と い う 声明を発

表する ( こ の声明はラ ス タ フ ァ リ ズムにおいては 「 預言 」 と と ら えている )。 これが ラ ス

タ フ ァ リ ズム出現へ と つながってい く 。 [ 牧野 2005 :33-36;Lenard/Barrett 1996: 126-134] 。

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3. ハイ レ ・ セ ラ シエ即位 1930 年 11 月 、 エチオピアの皇帝にハイ レ ・ セ ラ シエ 1 世が即位する 。 マーカ ス ・ ガ

ーベイの信奉者に と っては 、 ま さ に預言どお り の奇跡が起こ ったのだ 。 こ の 「 神の啓示 」

を き っかけにし て 、 ジ ャマ イ カの首都 、 キング ス ト ンでレナー ド ・ ハウエルを中心にガー

ベイ主義の布教がはじめ られ 、 初期ラ ス タ フ ァ リ 運動が始ま った 。 イ ギ リ スによ る植民地

支配 と 度重な る自然災害で 、 多 く の黒人は疲弊し ていた こ と も あ り 、 救いを求める下層階

級の人々を中心に信者が増えた 。 1934 年 、 運動に危機を感じ た政府当局は弾圧を始める 。

こ の弾圧を逃れた ラ ス タ フ ァ リ アンは山の奥地に逃げ込み 、 そ こ でコ ミ ューン を展開する 。

こ のコ ミ ューンでの共同生活によ って 、 ラ ス タ フ ァ リ アン達は ド レ ッ ド ロ ッ ク スや大麻に

よ る儀式など 、 ラ ス タ フ ァ リ ズムの基本ス タ イル と 信仰を確立し た 。 政府当局によ る ラ ス

タ フ ァ リ アンの弾圧は断続的に続いたが 、 一方で 、 一般市民に も 「 ラ ス タ フ ァ リ ズム 」 の

存在が知られる よ う にな る 。 1961 年 、 ラ ス タ フ ァ リ アンであ る ラ ス ・ ブ ラ ウ ンが議員選

挙に立候補し 、 政界に進出する 。 こ こ で初めて黒人知識層が ラ ス タ フ ァ リ ズムの 「 主義 」

の部分に注目する よ う にな る 。 1962 年 、 ジ ャマ イ カは英国か ら独立 。 しか し社会情勢は不安定のま まで 、 ラ ス タ フ ァ リ

アンのアフ リ カ回帰の渇望は募るばか り だった [ Marsha1994 :66-67 ]。 4. セ ラ シエ来訪 と レゲエ音楽

1966 年 、 ハイ レ ・ セ ラ シエ 1 世がジ ャマ イ カに来訪 。 ラ ス タ フ ァ リ アン達は熱狂的に

ジ ャーを歓迎し た 。 こ こ でジ ャーは 、 「 ジ ャマ イ カ社会を解放する まではエチオピアへの

移住を控え る よ う に 」 と 言 う 内容の私信を主な ラ ス タ指導者に送った 。 これによ って 、

「 ザイオン ( アフ リ カ ) 回帰よ り バビ ロ ン ( ジ ャマ イ カ ) 解放 」 と い う 新しい考えが定着

し 、 ど こ か世捨て人風で厭世的な ラ ス タ達を 、 社会へ参加させる と い う 思わぬ効果も現れ

た 。 当時のジ ャマ イ カの音楽シーンに目を移す と 、 1960 年代半ばまではジ ャ ズや R&B の

影響を多大に受けた ス カ 、 ロ ッ ク ス テデ ィ が流行し ていたが 、 セ ラ シエ来訪を契機に ラ ス

タの思想や メ ッ セージを伝え る手段 と し ての音楽 、 すなわちレゲエへ と 流行が変遷し てい

った 。 ラ ス タの ミ ュージシ ャ ンやシンガーが 、 さ ま ざ ま な ラ ス タの メ ッ セージを音楽に乗

せ 、 国民の多数に支持される よ う にな るのだ 。 特にボブ ・ マー リ ーは国際的な名声を得る

に至 り 、 ラ ス タ フ ァ リ アンか ら も支持が篤かったため 、 1975 年にハイ レ ・ セ ラ シエ 1 世

が死亡する と い う 悲報を受けて も 、 ラ ス タ フ ァ リ 運動のモチベーシ ョ ンは決し て下がる こ

と はなかった 。 むし ろ 、 "Jah Live" ( ジ ャーは生き ている ) と 歌っていたのだ 。 少な く と

も 、 1981 年にマー リ ーが死亡する までは 、 ラ ス タ フ ァ リ 運動は活発であった 。 ボブ ・ マー リ ーの死後ジ ャマ イ カにおけ る ラ ス タ フ ァ リ 運動は一時的に停滞するが 、 ラ

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ス タ フ ァ リ アンのレゲエ ・ シンガー 、 ガーネ ッ ト ・ シルク の活躍 と 突然の死や 、 ブジ ュ ・

バン ト ン 、 ケ イプル ト ン と いった人気レゲエ DJ が ラ ス タ フ ァ リ アンになった こ と などに

よ り 、 1993 年頃か ら若年層を中心に再び活発化し た 。 ラ ス タ フ ァ リ アンによ る と 、 彼ら

はセ ラ シエが復活し 、 再臨する こ と を 「 信じ ている 」 のではな く 、 「 知っている 」 集団な

のだそ う であ る [Lenard/Barrett 1996:249-254] 。 5. ナイ ヤビ ンギ (Nyahbinghi)

ナイ ヤビ ンギ (Nyahbinghi) と は 、 ラ ス タ フ ァ リ アンの宗教的な集会 、 またはその集会

で演奏される音楽の こ と 、 あ るいはラ ス タの宗教的一派の こ と であ る 。 ナヤビ ンギ 、 あ る

いは単にビ ンギ と も言 う 。 ナイ ヤビ ンギでは 、 円陣を組んでガンジ ャ を吸 う 、 太鼓を叩い

て歌 う ( チャ ン ト /Chant) 、 話し合い ( リ ーズニング /Reasoning) など をする 。 ラ ス タ フ

ァ リ アン同士の交流の場であ る [ 後藤 1997:102] 。

6. 髪型

ラ ス タ フ ァ リ アンの特徴 と し ては 、 髪型 ド レ ッ ド ロ ッ ク スがあ る 。 ド レ ッ ド ロ ッ ク スは 、

ラ ス タ フ ァ リ ズム信奉者が 、 生に対する冒涜であ る と い う 信念か ら 、 身体には さみを入れ

ない 、 だか ら髪の毛を切ら ない 、 櫛も入れない こ と か ら生まれた髪形であ る 。 それで棒状

の髪の毛 、 ド レ ッ ド ロ ッ ク ス ( ド レ ッ ド dread =恐ろ しい 、 locks =房状の ) と なった 。

白人社会への反抗のシンボルで も あ るが 、 現代においては必ずし も ラ ス タ= ド レ ッ ド ヘア

と い う わけではない 。 ド レ イ ンヘアは 、 ド レ ッ ド ロ ッ ク スの変型で 、 女性のお洒落な髪形

と し て生まれた [ 山下 2004:30-31] 。 ド レ ッ ド ロ ッ ク スについての戒律は旧約聖書の中の記述に基づいている 。

レ ビ記21-5 「 頭髪の一部をそ り 上げた り 、 ひげの両端をそ り 落 と し た り 、 身を傷つけた り し てはな ら

ない 」 士師記13-5

「 その子の頭に剃刀をあててはな ら ない 。 彼は 、 ペ リ シテ人の手か ら イ ス ラ エルを解き放

つ救いの先駆者 と なろ う 」 7. シンボルカ ラー

レ ッ ド ・ イエロー ・ グ リ ーンの ラ ス タ カ ラーは 、 ジ ャマ イ カのあち こ ちで見かけ る象徴

的なカ ラーであ る 。 ラ ス タ と は 、 祖先の地アフ リ カに帰来する宗教的思想ラ ス タ フ ァ リ ズ

ムか ら き てお り 、 色の意味はそれぞれ 、 赤は血 ・ 黄色は太陽 ・ 緑は自然を表現し ている と

い う 。 ボブ ・ マー リ ィ は 、 その ラ ス タ フ ァ リ ズム を レゲエ と い う リ ズムにのせて代弁し 、

ジ ャマ イ カンの心を と ら えた 。 ボブ と ラ ス タ カ ラーは切って も切れない関係であ る [ ジ ャ

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マ イ カ政府観光局 2009,10] 。 し かし ラ ス タ カ ラーは 、 赤 、 緑 、 金色 ( 黄色 ) の 3 色 と 思われがちだが 、 正確には黒 、

赤 、 緑 、 金色 ( 黄色 ) の 4 色の こ と 。 これはジ ャマ イ カ独立のために戦った黒人戦士の黒 、

戦いで流れた血の赤 、 ジ ャマ イ カの自然の緑 、 ジ ャマ イ カの国旗の金色 ( 太陽の色 ) を表

す 。 フ ァ ッ シ ョ ンや日用品など 、 ラ ス タ フ ァ リ アン達のあ ら ゆる生活の場に こ の色の組み

合わせが頻繁に用い られる 。 汎アフ リ カ色 と し て も知られる 。 一方で 、 ラ ス タ フ ァ リ 運動の指導者マーカ ス ・ ガーベイが組織し た UNIA では赤 、 黒 、

緑の 3 色をシンボル と し てお り 、 これを ラ ス タ カ ラー と 呼ぶ と い う 説も あ る

[Lenard/Barrett 1996:227] 。 8. ガンジ ャ ( マ リ フ ァナ ) 自然回帰指向の ラ ス タ フ ァ リ アニズムに と って 、 ガンジ ャは神聖な草であ る 。 も と も と は

呪術的な色の濃いアフ リ カ土着的な宗教主流だった こ ろか ら 、 ガンジ ャは薬草 と し て扱わ

れて き た 。 ラ ス タ出現以降は 、 ガンジ ャ ( ≒マ リ フ ァナ ) の吸引はバビ ロ ン社会への反抗

の手段 と い う 意味に も と れる 。 ラ ス タ思想において 、 ガンジ ャは精神を よ り 穏やかな も の

にする 、 と されている 。 ガンジ ャはも と も と ヒ ン ド ゥ ー語であ る 。 イ ギ リ スの植民地であ

ったジ ャマ イ カに 、 ヒ ン ド ゥ ー教徒のイ ン ド 人労働者が入植し た際 、 大麻の種子が持ち込

まれて普及し た 。 これがジ ャマ イ カで も ガンジ ャ と 呼ばれる よ う になった由来 と 言われて

いる 。 以下のよ う な旧約聖書の中の言葉を解釈する こ と で 、 大麻の使用は正当な行為であ る と

位置づけ られている 。

• 創世記 1 章 11 節 神は言われた 。 「 地は草を 芽生え させよ 。 種を持つ草 と 、 それぞれの種を持つ実

をつけ る果樹を 、 地に芽生え させよ 。」 そのよ う になった 。 • 創世記 3 章 18 節

お前に対し て 土は茨 と あざみを生えいで させる 野の草を食べよ う と するお前に 。 • 箴言 15 章 17 節

肥えた牛を食べて憎み合 う よ り は 青菜の食事で愛し合 う がよい 。 • 詩篇第 104 篇 14 節

家畜のためには牧草を茂らせ 地か ら糧を引き出そ う と 働 く 人間のために さ ま ざ

まな草木を生え させられる 。

ガンジ ャの正当化は思想上の も のであ り 、 ジ ャマ イ カでは吸引 、 所持 、 栽培 、 日本では

法律上で所持 、 栽培を禁止し ている [ 後藤1997:66;Lenard/Barrett 1996: 203-216] 。

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9. 食 ラ ス タ フ ァ リ アンはア イ タルフー ド (Ital Food) と 呼ばれる自然食を食べる 。 Ital と は

「 自然な 」 「 真の 」 と い う 意味で使われる 。 基本的には菜食主義で 、 特に豚肉やエビなど

の甲殻類 、 貝類などは旧約聖書にのっ と って禁じ られている 。 こ う し た菜食主義やラ ス タ

フ ァ リ ズムは少なか らずイ ン ド 系の移民の思想の影響を受けて誕生し た と も言われている 。 厳密に言えば自然か ら採れる も のを摂取し なければな ら ない と い う 教義のために 、 塩など

の ミ ネ ラル分を加え る こ と も禁止されている 。 ただし 、 小型の魚は食べて も いい と されて

いる し 、 人によ ってはチキンやヤギ肉は食べる人も いる 。 禁酒も戒律のひ と つであ る 。 か

わ り に野菜スープやハーブテ ィ 、 果物のジ ュース を飲む [ 後藤1997:78;Lenard/Barrett 1996: 222-226] 。

10. 言語

ラ ス タ フ ァ リ を信仰する人々は実際には母国語 ( ジ ャマ イ カにおいては英語 ) を主に使

用するが 、 それ以外にアムハラ語を学ぶ 。 これはハイ レ ・ セ ラ シエ 1 世が使っていた言葉

であ り 、 信者が自ら をエチオピア人であ る こ と を認識する ために学習する 。 また 、 アムハ

ラ語以外の言語はすべて植民地の言語であ る と 考えている 。 そのため 、 ポジテ ィ ブな信念

を反映させる ためにい く つかのネガテ ィ ブな言語を変えた り し て話し ている 。 例 と し ては以下の通 り 。

• "me" や "you" 、 "we" と いった人称代名詞を "I and I" と 言い換え る 。 • 特に I ( ア イ ) は重要な単語で 、 "Ras tafari" を "Rasta-far-I" ( ラ ス タ フ ァーラ

イ )、 "Selassie" を "Selassi-I" ( セ ラ シア イ ) と 発音する 。 • "Ital" ( ア イ タル ) と い う 言葉は 、 英語の Vital か ら派生し た造語 。 "Irie" ( ア

イ リ ー ) は 、 あい さつの時や肯定の時に使われる造語 。 • "understand" を "overstand" と 言い換え る 。 "under-" と い う 部分を嫌ったため 。 • "dedication" は "livication" と 言い換え る 。 "dedi-" が"dead" ( 死 ) を連想させ

る ため 。 • "oppression" ( 圧迫の意味 ) は 、 よ り 権力者の力を強調する ために

"downpression" と 言い換え る 。 • "Zion" ( ザイオン ) は通常はシオンの意味だが 、 ラ ス タに と っては 「 天国 」 また

は 「 エチオピア 」 の こ と を意味する 。 • "Babylon" ( バビ ロ ン ) は 、 西洋の文明社会を意味する [Lenard/Barrett 1996;

228-230] 。

11. 異性愛主義

ラ ス タ フ ァ リ ズムでは同性愛を不自然な行為であ る と し 、 強 く 異性愛を尊重し ている 。

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同時に 、 同性愛者を強 く 迫害し ている 。 そのため人権団体や同性愛団体か ら差別的であ る

と 度々批判されている 。 根拠 と な る旧約聖書の記述は以下のよ う な も のがあ る 。 • レ ビ記18-22 女 と 寝る よ う に男 と 寝る者は両者共にい と う べき こ と を し たのであ り 、 必ず死刑に処

せられる 。 彼ら の行為は死刑に当た る 。 12. 記念日

• 1 月 7 日 エチオピアン ・ ク リ スマス ハイ レ ・ セ ラ シエ 1 世の誕生日 • 2 月 6 日 ボブ ・ マー リ ー誕生日 • 4 月 21 日ごろ グ ラ ウ ンデーシ ョ ン 皇帝ジ ャマ イ カ訪問 ( 1966 年 4 月 25

日 ) を記念し た日 • 8 月 1 日 奴隷解放日 • 8 月 17 日 マーカ ス ・ ガーベイ誕生日 • 11 月 2 日 皇帝戴冠式

13. 主な指導者

• マーカ ス ・ ガーベイ • レナー ド ・ ハウエル • プ リ ン ス ・ エ ド ワー ド ・ エマニ ュエル • ウ ォルター ・ ロ ド ニー

第 2 節 ラ ス タ フ ァ リ 運動

ラ ス タ フ ァ リ 運動は 、 ジ ャマ イ カで生まれた宗教集団のなかで 、 も っ と も新しい運動で

あ る 。 こ の集団はよ く 組織されていて 、 神 と し ての象徴であ るハイ レ ・ セ ラ シエがその中

核 と なっている 。 新しい宗教運動のすべてがそ う であ る よ う に 、 こ の運動も三つの段階を

へて き た 。 第一段階での運動の信条は 、 粗削 り で未熟な も のだった 。 次の第二段階は 、 こ

の運動の宗教 と し ての成熟期間であ る 。 運動が組織化するにつれ 、 こ の集団の儀礼はよ り

一貫し た も のになって 、 こ の集団 と 対立する さ ま ざ まな宗派か ら も注意を払われる よ う に

な る 。 そ し て第三段階にいたって 、 宗教 と し て純化され 、 さ ら な る発展を と げる こ と にな

ったのであ る 。 こ の運動はおも に 、 高等教育を受けたの 、 「 生えぬき 」 の ラ ス タ フ ァ リ ア

ン 、 そ し てほ と んど読み書きのでき ない信奉者で構成されている 。 いまではジ ャマ イ カの

キ リ ス ト 教宗派の多 く も 、 心のよ り ど こ ろ を求める疎外された も のたちの精神的な渇望に

応え る も の と 認めて 、 こ の運動を承認する よ う になって き ている 。 あ ら ゆる層の若者 、 そ し てあ ら ゆる人種が 、 こ の運動に惹き よせられている 。 ハイ レ ・

セ ラ シエは生き ている 、 神は死ぬこ と はない 、 マ リ フ ァナは神聖な も のであ る 、 と い う ゆ

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るがぬ信条を も っている 。 自然の摂理にし たが う こ と 、 および神秘的な宇宙観 、 さ ら に 、

いかな る抑圧に も強 く 反対する態度などによ って 、 こ の運動はまた 、 きわめて革命的なカ

ル ト と なっている 。 少な く と も 、 ラ ス タ フ ァ リ 運動がカ リ ブ海に広がった理由のひ と つは 、

次のよ う な事実によ る 。 すなわち 、 カ リ ブ海地域の若者の大半が 、 機会のない空虚な貧困

生活しか知ら ない と い う こ と であ る 。 ラ ス タ フ ァ リ アンの生活は 、 困窮生活に対する順応

の結果であ り 、 さ ら に 、 約束の地でのよ き未来を 、 と い う 希望を抱かせて く れる千年王国

思想によ って支え られている 。 信仰篤い民族文化に根ざ し た こ の希望を大衆運動にまで広

めるには 、 あ と は真の信仰者の集団があればよかった 。 こ う し て ラ ス タ フ ァ リ アニズムは 、

即成のキ リ ス ト 教諸宗派の生気のない説教に代わる も の と なった 。 従来の宗派は 、 社会の

不正義や階級 、 それに肌の色 と いった問題を 、 ほ と んど無視し て き たのであ る

[Lenard/Barrett 1996: 10-11] 。 現在の ラ ス タ フ ァ リ アニズムは 、 国際的に活動する複合的な運動 と なっている 。 1930年に小さ なグループ と し てはじ ま った こ の運動は 、 世界のいた る と こ ろに支部を もつまで

に成長し た 。 また 、 こ の運動自身の書き手を抱え る よ う に も な り 、 彼らは こ の運動の意義

をあ き ら かにし よ う と つ と めている 。 その作業は着手されたばか り だが 、 数年先には重要

な論文が輩出するだろ う 。 運動の メ ンバーで修士号や博士号を もつも のたちが 、 ラ ス タ フ

ァ リ アニズムについての資料を収集し ている 。 こ の運動はいまや 、 50 周年を祝 う までに

なった 。 また近年では 、 ラ ス タ フ ァ リ アン国際会議 と い う 年次大会も開催されている 。 ジ ャマ イ

カの第 2 回会議に出席し て議論を参観し たレナー ド は次のよ う に述べている 。 代表者には 、

教育を受けていない信奉者たち と 、 男女それぞれ と も に広い知識のあ る学者たち と がな ら

んでいた 。 大学のキ ャ ンパスで 300 人も の ド レ ッ ド ロ ッ ク ス を見る こ と を想像でき る人は

ほ と んどいないのではないのだろ う か 。 これは これはた しかに驚 く べき光景なのだが 、 同

時に 、 ラ ス タ フ ァ リ アンが社会のほかの構成員 と 同じ よ う に受けいれられている と い う こ

と で も あ る 。 ジ ャマ イ カは 、 こ の運動を認める までに成長し たのだ 。 ジ ャマ イ カがついに 、

こ の運動の メ ンバーをふつ う の人び と と なん ら変わ り のない も の と みなすよ う になったの

であ る 。 だが 、 こ のよ う な見かたはまだ一般的ではない 。 ラ ス タ フ ァ リ アンはこれまで 、

長い道の り を歩んでき た 。 その道程で激しい抵抗に もぶつかったが 、 これら の障害を乗 り

こ えて き た 。 ラ ス タ フ ァ リ 運動は 、 ジ ャマ イ カの新しい宗教なのであ る [Lenard/Barrett 1996:12-13] 。

第 3 節 ラ ス タ フ ァ リ アン と はなにか ラ ス タ フ ァ リ アン ・ カル ト はジ ャマ イ カ特有の メ シア運動で 、 こ の メ ンバーはエチオピ

アの先の皇帝ハイ レ ・ セレシエが 、 白人によ る圧制下にあ る こ の世界で流浪の身 と された

全ての黒人を救済する黒い救世主 ( メ シア ) の現し身だ と 信じ ている 。 こ の運動ではエチ

オピアを 、 約束の地 、 黒人が流浪の身 ( 奴隷の身分 ) と なっている西洋の国か ら大脱出

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( エ ク ゾダス ) し て帰還する と こ ろ と みなす 。 母国帰還は必然的で 、 その時期はハイ レ ・

セレシエによ ってのみ決め られる 。 実際の出発時期について具体的な こ と は極秘で 、 それ

は真の信仰者だけに知ら される と い う 。 こ の大移動の目的は 、 実はこ う し た夢想家たち自

身に と って もはっ き り し ておらず 、 たいていはエチオピアを母国 と みな し ているが 、 アフ

リ カその も のを真の母国 と みなすも のも いる 。 全員一致の目的地はない 。 多 く の人に と っ

て 、 エチオピア と いえばアフ リ カの意味にな る 。 ほかに も 、 アフ リ カ大陸のど こ かに定住

する こ と にな るだろ う が 、 約束の地だ と 思っている人たち も いる 。 しかし 、 こ の信条は古

手の ラ ス タ フ ァ リ アンにのみ遵守される 。 若い層はジ ャマ イ カ内での解放に取 り 組んでい

る [Lenard/Barrett 1996: 23-25] 。 ラ ス タ フ ァ リ アンの増加 と ボブ ・ マー リ ィ の関係についてレナー ド は こ う 述べている 。

ラ ス タ フ ァ リ アンが増加し た第二の理由は 、 ボブ ・ マー リ ィ がス ターの座に昇 り ついた

こ と だろ う 。 マー リ ィ が ラ ス タ フ ァ リ アンに改宗し たのは 1970 年代のはじめだが 、 その

時か ら亡 く な る までに 、 彼は生涯をジ ャー ・ ラ ス タ フ ァ リ ーの賛美に捧げつづけた 。 彼が

歌 う こ と によ って 、 こ の運動は世界中か ら その審美的威信を認め られる こ と になった 。 北

ア メ リ カ 、 カナダ 、 イ ギ リ ス 、 さ ら に東カ リ ブ海では 、 男も女も 、 若者はみずか ら を ラ ス

タ フ ァ リ アン と 呼ぶこ と を誇った 。 数多 く の人たちが 、 こ の運動の教義すら知ら ないま ま

に “ ド レ ッ ド ロ ッ ク ス ” と “ ハーブ ” を受けいれた 。 マー リ ィ はその生涯を終え る こ ろに

なって 、 こ の運動内の新しいセ ク ト であ る 「 イ ス ラ エル十二部族 」 に加わったのだが 、 こ

の結果 、 運動その も の も彼がえた名声を共有する こ と になった 。 ド レ ッ ド ロ ッ ク スにし て

いる多 く のジ ャマ イ カのレゲエ ・ シンガー と は異な り 、 ボブ ・ マー リ ィ は公私 と も に真の

ラ ス タ フ ァ リ アンだった 。 「 生えぬき 」 の ラ ス タ フ ァ リ アンは死を信じ ないはずなのだが 、

1981 年の彼の死を 、 運動にかかわる も のすべてが悼んだ 。 1970 年代に ラ ス タ フ ァ リ 運動が勢力を広げた第三の理由は 、 運動内に 、 こ の イ ス ラ エ

ル十二部族 と し て知られる グループが出現し た こ と であ る 。 彼らは名だた る高級地であ る

セン ト ・ アン ド リ ュー郊外に住んでいる 。 こ のグループは中流および上流階級の若者の心

を満た し て 、 白人の メ ンバーを も獲得する こ と に成功し た 。 十二部族はラ ス タ フ ァ リ アニ

ズム をい く ら か修正し て 、 教義のい く つかを解釈し なおし た 。 それによ って運動を 、 大学

出や高校出も含む 、 教育を受けた メ ンバーの慣習に も合 う も の と し たのであ る 。 十二部族

は強烈な母国帰還の方針を唱え 、 エチオピアに移住し たい と 願 う メ ンバーを支援し ている 。

また 、 こ のグループは福音主義的であ り 、 ア メ リ カやイ ギ リ スそのほかの地域に支部があ

る こ と を誇っている 。 こ う し て 、 こ のグループの出現 と と も に学識あ る人び と が擁護者 と

なって運動の信仰への支持を表明し 、 ラ ス タ フ ァ リ アンは これを喧伝する こ と ができ る よ

う になった [Lenard/Barrett 1996: 11-12] 。 ボブ ・ マー リ ィ と レゲエの関係性については 、 次の章で詳し く 述べる 。 また 、 牧野直也の 『 レゲエ入門 』 の中では こ う 述べられている 。 ラ ス タ ( ラ ス タ フ ァ リ アンの略 ) の宗教的な活動であ る ラ ス タ フ ァ リ アニズム ( ラ ス タ

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フ ァ リ ・ ムーブ メ ン ト ) は 、 1920 年代にア メ リ カで黒人解放闘争の先頭に立ったジ ャマ

イ カ人マーカ ス ・ ガ-ヴ ェ イの思想 と アフ リ カ帰還運動 と を引き継いだ も ので 、 エチオピ

アのハイ レ ・ セ ラ シエ皇帝を神 と し て崇拝する と こ ろに特徴があ る 。 ラ ス タはジ ャマ イ カ

で生まれた歴史の新しい小集団の宗教で 、 活動を開始し た当初はジ ャマ イ カ政府 と 激し く

対立し た 。 いまで も 、 ジ ャマ イ カ国内ではあ く まで も少数派だ 。 彼らは 、 教義的にはユダ

ヤ教やキ リ ス ト 教の旧約聖書的世界 、 特に 、 イ ス ラ エルの民に自分たちをなぞら えている 。 また 、 同じ よ う に旧約聖書的な文脈か ら 、 西洋文明やそれを受け入れている ジ ャマ イ カ

社会 、 と り わけ政府 、 役人 、 警官 、 そ し てア ッ プダ ウ ンの暮ら し を 、 彼ら に と っての 「 バ

ビ ロ ン 」 と 位置づけ 、 拒絶し廃棄すべき も の と 見な し ている [ 牧野 2005 :28] 。 バビ ロ ンは 、 紀元前のバビ ロ ニア 、 つま り 現在のイ ラ ク中部に栄えた古代都市の こ と で 、

バグダ ッ ト の南 90 キ ロの と こ ろ を流れるユーフ ラ テス川の岸辺にあった と されている 。

レゲエの歌詞の中に盛んに登場する こ の 「 バビ ロ ン 」 は 、 旧約聖書の語る と こ ろでは 、 イ

ス ラ エルの民が虜囚 と なって移住させられた場所であ り 、 ラ ス タ たちが好んで引用する

『 ヨ ハネの黙示録 』 ( 新約聖書の中の旧約的文献 ) では 「 悪霊の住む と こ ろ 」 など と 形容

される場所であ る 。 そ こ で 、 ラ ス タは 「 堕落し た悪の都 」 を象徴する言葉 と し て これを使

う 。 保守派か ら マ イ ケル ・ マン リ ーのよ う な左翼まで 、 こ ぞって イ ギ リ スやア メ リ カの白

人社会を模倣する こ の島の支配的な価値観に対する 、 ほ と んど唯一のアンチ ・ テーゼが 、

ラ ス タ フ ァ リ アンの 「 ジ ャマ イ カ=バビ ロ ン 」 説だ と 言っていい 。 し たがって 、 彼らはア

フ リ カへの帰還を唱え 、 エジプ ト か ら イ ス ラ エルの民が脱出 ( エ ク ソ ダス ) し た と い う

『 出エジプ ト 記 』 の記述になぞら えて 、 バビ ロ ンであ る ジ ャマ イ カか ら脱出し よ う と 考え

るのであ る 。 教義的に見ればそ う い う こ と にな るが 、 実際の と こ ろ 、 ラ ス タは個々の人間やグループ

の独立性が高 く 、 それほど厳格な宗教に見えない 。 外見は 「 野人 」 のよ う だが 、 彼ら の自

然指向や菜食主義には 、 アフ リ カ的 と い う よ り 、 都会生活か ら ド ロ ッ プア ウ ト し た脱社会

型の黒人版 ヒ ッ ピー と 言っていい側面があ る 。 ラ ス タ と されている ミ ュージシ ャ ンの中に

も 、 ラ ス タ を宗教 と は見ず 、 「 生き方 」 ( ザ ・ ウ ェ イ ・ オブ ・ ラ イ フ ) 指針 と 据えている

人が多い 。 ラ ス タは 、 ジ ャマ イ カ国内では 、 ほん と う に小さ な集団であ る [ 牧野

2005 :28-29] 。

第 4 節 ラ ス タ フ ァ リ アンのゆ く え ラ ス タ フ ァ リ アンのよ う な社会的 ・ 宗教的運動の来るべき姿を予想する こ と は危険な こ

と だが 、 こ の種のほかの運動がい く つかの指標を示し て く れる 。 それで も 、 も ちろん同じ

よ う な文化はふたつ と し て存在し ない と い う 点を心に留めな く てはな ら ない 。 運動の行動

が常軌を脱するほどにな る と 、 彼ら がかつて掲げた こ と が らはほ と んど一晩の う ちに変更

されて 、 そのために予測がま った く 無意味にな る こ と も あ る 。 一例をあげる と 、 ブ ラ ッ

ク ・ ム ス リ ムの白人に対する態度の急激な変化であ る 。 彼ら の も っ と も厳しい戒律のひ と

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つは 、 白人がム ス リ ム寺院を訪問する こ と の禁止だった 。 これは 、 すべての白人は悪魔で

あ る と い う 理由によ る 。 だが こ の教理は予告も な く 変更された 。 しかし なが ら 、 こ の種の

運動の大半は 、 運動が出現し た前提がな く な る と 変わって し ま う と い う こ と はよ く 知られ

ている 。 運動を活性化する力は 、 社会で経験する重圧に直接比例する 。 その重圧もはや存

在し な く な る と 、 その運動も また消え去るか 、 かつて掲げていた理想を単に称え るだけの

温和な団体に再編されるかのいずれか と な る 。 現在の多 く の教団は こ う し た範疇に入る 。

現在 、 ジ ャ マ イ カ社会は劇的に変化しつつあ る 。 その変化の多 く は 、 かつて存在し ていた

非人間的な生活様式に対する ラ ス タ フ ァ リ アンの挑戦によ って 、 間接的に も た ら された も

のだ 。 だが これら の変化に対する抵抗は根強い も のだった 。 そ こ で 、 やがてはラ ス タ フ ァ リ 運動におこ る と 予測でき るのは 、 基本的に次の 4 つの こ

と が ら であ る 。 第 1 に 、 島内の教派のひ と つ と し て 、 独自の ラ ス タ フ ァ リ アン教会が現れ

る 。 第 2 に 、 レ ッ ク ス ・ M ・ ネ ト ルフ ォー ド 教授が 「 機能的ラ ス タ フ ァ リ アン 」 と 呼ぶ 、

前者 と 同じ よ う な規模の大集団が 、 宗教色の強い も のか らはるかに離れた運動へ と 世俗化

し なが ら も 、 島に存続し てい く だろ う 。 第 3 に 、 ラ ス タ フ ァ リ アンの多 く はまた 、 混淆宗

教 と し てのエチオピア正教会を選ぶ 。 第 4 に 、 も し ジ ャマ イ カの社会経済状況がひっ く り

返る よ う な こ と になれば 、 運動は抵抗の先頭に立つ と い う こ と であ る [Lenard/Barrett 1996:388-390] 。 ラ ス タ フ ァ リ アンのよ う な運動の メ ッ セージや展望は 、 あ ら たな社会様式への道を示し て

いる こ と が多い 。 これはしばしば無視される こ と だが 、 ふつ う 新しい運動には 、 社会が進

むべき道についてのはっ き り し た展望があ る 。 ラ ス タ フ ァ リ アンがつねに求めている も の

は 、 生活ができ 、 働け る場だ 。 彼ら の指導者のひ と り がいった よ う な 、 「 ヤコブの幕屋を

建て る ための土地 」 であ る 。 も し正しい進路をあたえ られれば 、 新しい運動には期待以上

の可能性を生みだす原動力があ る こ と は 、 どんな社会科学者で も認める と こ ろであ る 。 そ

のモ ッ ト ー 「 自分のためにおこ なえ 」 によ って 、 ア メ リ カの黒人社会の心理を変革し たブ

ラ ッ ク ・ ム ス リ ムの メ ンバーに 、 その例証を見る こ と ができ る 。 彼らは都市部や地方に草

の根的な事業を展開し ていった 。 メ ンバーがその事業のス タ ッ フになって 、 自分のために

努力する黒人には奨励金をあたえたのであ る 。 今日では 、 こ の運動は巨額の利益を生む事

業を運営し ている 。 これ以外に も 、 外か ら の援助を受けずに社会経済に発展し た新しい宗

教運動の例は 、 世界中に多 く 見られる [Lenard/Barrett 1996: 397] 。

後に 、 レナー ド はジ ャマ イ カに対する ラ ス タ フ ァ リ アンの愛を次のよ う に述べている 。 それは彼ら の彫刻に反映されている し 、 彼ら の歌に も表されている 。 はじめて 、 黒い顔

が正し く 認識されている 。 外国人が漫画で風刺する顔ではな く 、 黒人の哀しみ 、 願望 、 尊

厳のすべてが映しだ されている 。 はじめて 、 歌のなかでジ ャマ イ カ人の姿や 、 願望 、 そ し

て抗議が風刺 と し てではな く 、 心の痛みを体験し た歌 と し て 、 表現されている 。 ラ ス タ フ ァ リ アンはど こへい く のか明確に答え られる も のはいないが 、 いえ る こ と がひ

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と つあ る 。 彼らは 、 私たちがみずか ら を理解し てその可能性へ と 向か う ための 、 長い道の

り の先頭を歩いて き た 。 社会が偉大な発展を と げる と い う こ と 、 それは 、 国会議事堂や学

問の砦のなかでな される と はかぎ ら ない 。 これら の機関は 、 創造的な大衆の夢に反応を示

すも のにすぎない 。 国家の発展におけ る も っ と も創造的な動きが 、 夢想家やラデ ィ カル 、

先見者やカ リ スマ的予言者のなかに生まれる こ と があ る 。 これは歴史の巧妙さ のなせるわ

ざであ る 。 真実はおそ ら く 、 今日の異端者が 、 明日の聖者にな る と い う こ と なのだろ う

[Lenard/Barrett 1996:400-401] 。 第3章 ジ ャ マ イ カ と 日本の ラ ス タ フ ァ リ アン

レゲエの神様であ る ボブ ・ マー リ ィ について と 、 筆者が参加し たジ ャマ イ カ イベン ト や

ジ ャマ イ カを支援し ている団体の イ ン タ ビ ューか ら 、 日本で行われている ジ ャ マ イ カ支援

について詳し く 述べる 。

第 1 節 ボブ ・ マー リ ー ボブ ・ マー リ ー ( Bob Marley )、 本名ロバー ト ・ ネス タ ・ マー リ ー ( Robert Nesta

Marley ) は 、 ジ ャマ イ カのレゲエ ミ ュージシ ャ ン 。 その音楽はラ ス タ フ ァ リ ズムの思想

を背景 と し てお り 、 彼の音楽 ・ 思想は ( 音楽制作者のみな らず ) 数多 く の人々に多大な影

響を与えている 。 以下に 、 彼の生涯を年譜でま と めてみた 。

1945 年 2 月 6 日 ジ ャマ イ カ ・ セン ト ・ アン教区のナイ ン ・ マ イルズで 、 イ ギ リ ス海軍

大佐 ( 白人 ) の父親 ノ ーヴ ァル ・ マー リ ー と ジ ャマ イ カ人 ( 黒人 ) の母親セデラ ・ ブ ッ カ

ー と の間に生まれる 。 当時 、 父親は 40 代 、 母親はテ ィ ーンエ イ ジ ャーであった 。 1950 年代 キング ス ト ンに移 り 、 バニー ・ ウ ェ イ ラー と 共に音楽活動を開始する 。 1959 年 14 歳の と き音楽に専念する ため学校を中退する 。 ト レ ンチタ ウ ンに在住し ジ

ョ ー ・ ヒ ッ グ スに音楽的薫陶 と ラ ス タ フ ァ リ ズムの教えを受け る 。 1962 年 、 レ ス リ ー ・ コ ンのビバ リ ーズ ・ レーベルか ら 『 One Cup of Coffee 』、

『 Judge Not 』 を発表 。 プロ と し てデビ ューする 。 なお 、 上記 2 楽曲のシングルにはボビ

ー ・ マーテル ( Bobby Martell ) と 表記されていた 。 1963 年 ピーター ・ ト ッ シ ュ ら と ザ ・ ウ ェ イ リ ング ・ ウ ェ イ ラーズを結成しデビ ュー 。

当初は 6 人組だった 。 1966 年 リ タ ・ アンダーソ ン と 結婚 。 1970 年 キング ス ト ン市ホープロー ド 56 番地に自身のス タ ジオ 、 レーベルであ る タ

フ ・ ゴングを設立 。 1972 年 英国ア イ ラ ン ド ・ レ コー ド と 契約し 、 翌年 『 キ ャ ッ チ ・ ア ・ フ ァ イ ア 』 を リ リ

ース 。

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1974 年 エ リ ッ ク ・ ク ラ プ ト ンがカヴ ァーし た 『 ア イ ・ シ ョ ッ ト ・ ザ ・ シ ェ リ フ 』 が全

米第 1 位 と なった 。 その後 、 バニー ・ ウ ェ イ ラー 、 ピーター ・ ト ッ シ ュがウ ェ イ ラーズか

ら脱退し た 。 1975 年 ボブ ・ マー リ ー ・ アン ド ・ ザ ・ ウ ェ イ ラーズ と し て新たに活動を開始する 。 1976 年 12 月 3 日 PNP 支持を表明し た こ と か ら政治闘争に巻き込まれ 、 狙撃され重傷

を負い 、 亡命を余儀な く される 。 1970 年代後半のジ ャ マ イ カは 、 マ イ ケル ・ マン リ ーが率いる PNP と 、 エ ド ワー ド ・ シ

アガが率いる JLP と の二大政党の対立が激化し 、 しばしば抗争が勃発し ていた 。 1979 年 ジ ャマ イ カに舞い戻 り 、 “ One Love Peace Concert ” を開催する 。 こ の と き 、

コ ンサー ト を見に来ていたマ イ ケル ・ マン リ ー と エ ド ワー ド ・ シアガの 2 人の党首を ス テ

ージ上に招き 、 和解の握手を させた 。 1979 年には 、 かねてか ら の念願であった ラ ス タ フ

ァ リ ズムの聖地 、 エチオピアを訪問 。 こ の と きの体験を も と にアルバム 『 サヴ ァ イ ヴ ァ

ル 』 を発表し ている 。 4 月には日本公演を行った 。 1980 年 アフ リ カ訪問 、 さ ら にアルバム 『 ア ッ プ ラ イ ジ イ ング 』 発売 。 1981 年 5 月 11 日 脳腫瘍を患いア メ リ カ ・ フ ロ リ ダ州の病院で死去 。 36 歳没 。 同月

21 日 、 キング ス ト ンにて国葬された [ Marsha 1999:184-189 ]。 第 2 節 ワ ン ラ ブジ ャ マ イ カ と は

例年 40,000 人~ 45,000 人が訪れる日本 大のジ ャマ イ カ イベン ト 「 ワ ン ラ ブ ジ ャ

マ イ カ フ ェ ス テ ィ バル 」 が 、 5 月 9 日 10 日の 2 日間 、 代々木公園で開催された 。 本フ ェ ステ ィ バルは 、 「 ジ ャマ イ カの生んだボブ ・ マー リ ィ の メ ッ セージを伝えて行き

たい 」 と い う 趣旨の も と 、 「 ボブ ・ マー リ ィ ソ ングズデイ 」 と し て 、 第 1 回が 1995 年

に葉山の海の家 「 オアシス 」 で開催され 、 その後東京の ク ラ ブで も開催される よ う にな る

が 「 よ り 多 く の人に知って も らいたい 」 「 ボブ ・ マー リ ィ だけでな く 、 ジ ャマ イ カの こ と

も知って も らいたい 」 と 、 2004 年か ら代々木公園に会場を設けている [ 渋谷文化プロ ジ

ェ ク ト H P 2009,10] 。 今回筆者 と 友人は 2 日目の 5 月 10 日代々木公園で開催された 、 「 ワ ン ラ ブ ジ ャマ イ

カ フ ェ ステ ィ バル 」 に参加し た 。 野外音楽堂に設置されたス テージでは 、 在日ジ ャマ イ

カンによ る ダン スや 、 日本在住のジ ャマ イ カ人女性シンガーによ る ス テージ 、 そ し て メ イ

ン イベン ト 「 ボブ ・ マー リ ィ ソ ングズデイ 」 が行われていた 。 こ の中で も今回で 24 回にな る 「 ボブ ・ マー リ ィ ソ ングズデイ 」 は 、 ボブ ・ マー リ ィ

への熱い思いを書いた作文 と ボブ ・ マー リ ィ の曲を歌った メ デ ィ アの 2 つで審査を通過し

た人び と が 、 自分が選んだボブ ・ マー リ ィ の曲をバ ッ クバン ド に合わせて唄い 、 優勝者に

はジ ャマ イ カ旅行がプレゼン ト される と い う も のだ 。 小さ な子供たちを コーラ スに含めた

チームや 、 プロ シンガー並みの迫力あ る ス テージを繰 り 広げるチーム も いて 、 ボブ ・ マー

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リ ィ の曲やレゲエ と い う 音楽が好き な人び と がス テージ前に溢れていた 。 他に も フ リ ーマ

ーケ ッ ト やジ ャマ イ カのグ ッ ズやフー ド のブース 、 ジ ャマ イ カ人によ る ダン ス レ ッ ス ンな

どジ ャマ イ カの文化を体験でき る コ ミ ュ ニケーシ ョ ンブース も設け られていた 。 参加者は

日本人だけではな く 、 外国人も た く さ ん居た 。

第 3 節 ワ ン ラ ブチャ リ テ ィ ー 第 2 節で紹介し た イベン ト 「 ワ ン ラ ブジ ャ マ イ カ 2009 」 で 、 筆者はい く つかの団体の

出店に出会った 。 その中で今回はワ ン ラ ブチャ リ テ ィ ーの山下純司さ んにお話を伺 う こ と

が出来た 。 山下純司さ んは 、 1977 年共同通信社に入社 。 1986 年にカ メ ラ を持ち取材活動を開始 。

以来 、 写真企画部に籍を置き作家やタ レ ン ト などのカ ッ ト 写真を撮 り 続け る 。 たまに海外

取材が舞い込む [ 山下 2004] 。 その傍ら 、 ラ ス タ フ ァ リ ズム と ブ ラ ッ ク ・ ム ス リ ムの思想か ら ジ ャ マ イ カに興味を持ち 、

仕事 と し てジ ャマ イ カに出向き 、 ジ ャマ イ カの写真集を作成 。 現在は 、 ラ イ フ ワーク と し

て ワ ン ラ ブチャ リ テ ィ ーの活動を行っている 。 ワ ン ラ ブチャ リ テ ィ ーの始ま り は 、 山下さ んが 2000 冊の写真集を 200 万円掛かって作

成し た こ と に始ま る 。 孤児院が多いジ ャマ イ カに 、 自分が出来る恩返しはないか と 考え 、

H P など を検索し 、 野外ダン スやラ ス タ フ ァ リ ズム色の強いジ ャマ イ カ イベン ト を探し 、

手売 り での売 り 歩きだった 。 現在は活動に賛同する人も現れ 、 ポス ト カー ド ・ CD ・ シー

ル ・ T シ ャ ツ ・ 写真集を 、 国内各地で催される レゲエ イベン ト で販売を行っている 。 集ま

った売上金で支援物資を購入し 、 毎年現地ス タ ッ フが孤児院を訪問し 、 子供たちの支援活

動を し ている 。 今年は 11 月現在で 、 10 万円が集ま っている 。 山下さ んは 、 入 り 口 ( お金を集める ) か ら出口 ( 現地チャ リ テ ィ ー ) まで全部自分達が

行 う こ と で 、 向こ う の子ど も たちの笑顔が実際に見え る 。 そ し て現在の日本はジ ャマ イ カ

か ら レゲエを通じ てた く さ んの も のを貰っているのだか ら 、 ジ ャマ イ カを助け る本当の意

味で 、 「 支援ではな く 子ど も たちに繋がっている 、 日本人は友達同士であ る と 判って も ら

いたい 」 と 話し ていた 。 具体的に今の目標 と し て 3 月 25 日のハイ レ ・ セ ラ シエ 1 世の妻

メ ネン皇后の誕生日 、 日本が貰っている物のお返し と し て 、 ジ ャマ イ カの子ど も たち全員

に 1 個ずつチ ョ コ レー ト を送 り たいそ う だ 。 また 、 山下さ んか ら見たジ ャマ イ カにおけ る レゲエについて もお話を伺った 。

ジ ャマ イ カは国のほぼ全員が低所得者であ り 、 レベル ミ ュージ ッ ク と し てルーツ レゲエ

は発展を遂げていった 、 下層の人々の音楽であ る 。 ジ ャ マ イ カ人にはジ ャマ イ カ人の血に

は 、 生まれた と きか ら レゲエがあ る 。 大多数のポピ ュ リ ズムであ り 、 ジ ャマ イ カ人の ソ ウ

ル ミ ュージ ッ ク であ り 、 下層の人々の声であ り 、 ジ ャマ イ カ と レゲエは切って も切 り 離せ

ない も のであ る 。 しか し 、 近のジ ャマ イ カにはHip Hopが流行し 、 若者達はルーツ レゲ

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エをあ ま り 聴かない 。 年寄 り 達は残念がっている 。 その意味で真の ラ ス タ フ ァ リ アンは減

って き ている 。 日本人のルーツ を大事にする性格上 、 ルーツ レゲエを聞き 、 ジ ャマ イ カやラ ス タ フ ァ リ

アン を調べて知 り 、 レゲエを歌い 、 ジ ャマ イ カを支援し 、 こ のよ う な人々が増えている 。 30 年ほど前か ら ジ ャー ・ ヒ ロ さ んはジ ャマ イ カを行き来し 、 ラ ス タマン を尊敬し 、 今で

は北海道にコ ミ ューン を作 り 自給自足に近い生活を し ている 。 彼は日本人初の ラ ス タ フ ァ

リ アンであ る と 言え る 。 他に若い人で も ジ ャマ イ カの ラ ス タ コ ミ ューンで 1 、 2 ヶ月修行

し た と い う 話も い く つかあ る 。 また 、 ワ ン ラ ブチャ リ テ ィ ー日本人ス タ ッ フのパンプキン ・ ヨ ーコ さ んはラ ス タマン を

パー ト ナーに持ち 、 彼女自身も ラ ス タ フ ァ リ 会議に出ている 。 こ のよ う に日本人に も ラ ス

タ フ ァ リ アンはいる 。 黒人の宗教であ る ラ ス タ フ ァ リ 運動に 、 黒人でない日本人が共鳴するのは 、 誰か と 何か

を共に分かち合 う こ と で生まれる 、 仲間意識や心のよ り ど こ ろ を 、 音楽ではレゲエ 、 国で

はジ ャマ イ カ 、 宗教ではラ ス タ フ ァ リ 運動やラ ス タ フ ァ リ ズム を通し て求めているのでは

ないだろ う か 。 終章 ま と め

ジ ャマ イ カは奴隷制度が行われていた時代に 、 プ ラ ンテーシ ョ ンで働 く 労働力であ る男

性は 、 プ ラ ンテーシ ョ ン と い う 移動し なが ら行 う 仕事柄か ら 、 動産つま り ひ と つの場所に

留ま る こ と を し なかった 。 その反面女性は と い う と 、 ひ と つの場所に留ま り 子ど も を産み 、

労働力を作っていった 。 1400 年か ら現在で も こ のサイ クルがジ ャマ イ カでは続いている

ため低所得者の社会 、 ギ ャ ングの社会が残っている 。 ジ ャマ イ カの社会は 、 ト ッ プでは少数の富裕層の男性が政治や指示を行い 、 政治 、 経済 、

社会の中枢は男性が占めている 。 中間層の男性も それな り にジ ャマ イ カの経済発展寄与し

始めている 。 その一方で 、 大多数の女性が労働力 と な り 、 安い賃金で商店の売 り 子 、 ガ ソ

リ ン ス タ ン ド の給油係 り などで働いている 。 ジ ャマ イ カは 、 女性中心の社会であ る 。 男性

は現在もひ と つの場所に留ま らず 、 ト レ ンチタ ウ ンやゲ ッ ト ーに住んでただ座っているだ

け 、 レゲエを歌っているだけ 、 博打や暴力 、 強盗 、 強姦など思いのま まに過ご し 、 ト ッ プ

か らお小遣いを貰って生活し た り 、 女性に寄生状態も多 く 見られる 。 ジ ェ ンダーフ リ ーへの流れも あ るが 、 下流の人々には ト ッ プの支援が目に見え る形で現

れないため 、 なかなか抜け出すこ と ができ ない 。 仕事も そんなにあ るわけではなかったが 、

こ こ数年は海外投資のお陰で仕事も増え 、 少しは良 く なって き ている 。 また外貨所得の第

1 位は海外に出たジ ャマ イ カ人の送金だったが 、 近は観光業へ と 変化し て き ている 。 ジ ャマ イ カの現状を変え る ためには 、 持続的に教育が必要で 、 そのためには経済発展が 1

番重要であ る 。 ジ ャマ イ カ と い う 国は音楽や 、 近ではスポーツの分野でウサ イ ン ・ ボル

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ト など注目を集めているが 、 歴史や宗教について詳し く 知った上でジ ャマ イ カを好む日本

人はまだまだ少ない 。 筆者も その中の一人であった 。 し かし 、 ジ ャマ イ カについて歴史や宗教 ・ 思想 、 現状を知ったいま 、 ジ ャマ イ カ と レゲ

エの関わ り がどのよ う な も のか未熟ではあ るが 、 理解する こ と が出来た 。 生まれた時か ら

あ る も のには人は抵抗がな く 受け入れる 。 それがジ ャマ イ カの国においてはラ ス タ フ ァ リ

ズムであ り 、 レゲエ と い う 音楽であった 。 ラ ス タ フ ァ リ アンは少な く なって き ているが 、

レゲエやジ ャマ イ カを愛する人々は海外に も年々増えて き ている 。 筆者自身に置き換えて

みれば 、 日本語であ り 日本の文化であ る 。 多種多様なジ ャ ンルの音楽や宗教が入って来て

いる日本では 、 良い意味でジ ャマ イ カの音楽に興味を持ち 、 思想や宗教を知 り 、 自分自身

も信仰する ために学ぼ う と する人々が少なか らずいる 。 こ のよ う な人々が 、 ラ ス タ フ ァ リ

アン と 呼ばれ 、 も っ と 音楽の分野だけではな く ジ ャマ イ カを広める こ と が出来れば 、 日本

と ジ ャマ イ カの関係は親密な も の と な り 、 仲間であ る ジ ャマ イ カに何か出切る事はないか

支援の面か ら も考え る こ と が多 く な るのではないだろ う か 。 まずは筆者自身が出来る こ と か ら始め 、 ジ ャ マ イ カ と レゲエについて日本に も広め られ

た ら と 思 う 。 〈 参考文献 〉 バレ ッ ド 、 レナー ド ・ E 、 山田裕康訳 (1996) 『 ラ ス タ フ ァ リ アンズ レゲエを生んだ思

想 』 平凡社 ブロ ン ソ ン 、 マーシ ャ 、 五味悦子訳 (1994) 『 ボブ ゙ ・ マー リ ー~レゲエを世界に広めた伝

説の ミ ュージシ ャ ン~ 』 偕成社

後藤 亘 (1997) 『 ジ ャマ イ カ&レゲエ A to Z 』 TOKYOFM出版

牧野直也 (2005) 『 レゲエ入門 』 音楽之友社

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山下純司(2004) 『 Hot Walking Jamaica ジ ャマ イ カの熱い日 』 光村印刷株式会社 〈 参考H P 〉 渋谷文化プロ ジ ェ ク ト http://www.shibuyabunka.com/soft.php?id=7300

ジ ャマ イ カ政府観光局 http://www.visitjamaica.jp/

外務省 http://www.mofa.go.jp/mofaj/