ハJンガリ『 勺友イじ~ - Osaka City...

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Transcript of ハJンガリ『 勺友イじ~ - Osaka City...

-1081 .

ハ Jンガリ 『勺友イじ~ •

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(はしがき)本稿は J {j人文研究Jl(第25巻第 7分冊)所収の

「白衣詩歌!,ζ

ー特K平安初期の文学K関して~J

iζ ぐζれ妥「在外研究報告付JとするうI相続ぐ;その である。

_ (1973年) 9月,帰国後ただちに箆を執ったが,. .:2年のぢの今回多少の1(lt

f兄流の嘆きは,あに万葉人lのみではなし。

-周知の如く,戸ーロ,I~ ペ安三分する大河!乙,ライムy河占ドナウ ..

「父なる ライン」は西ぺUつ「母なるドナウJ,は・東内,;お瓦し、lモ背をそh

品それぞれ大海に注ぐ。'''Va旬rR11ejB"はスイユのツゥーマi湖のよ誌に甑を

る'0 1970年〈昭和45年)lf赤毛布よろしくゼシゲYよりコデレ ンツまで約 3時i問

(60

-109ーハンガリ一文化瞥見

は偶然の乙とではあるが,中世浪漫街道の北端都市として今売り出し中の ロ

ーテンブ、ノレクにゆく中途の, ドナウウノレツの町名から推定される小さい流れを ・

ドナウと判断して以来のことである。乙の流れを湖れば, r黒い森J(Schwarz

wald)の上流へとつらなり, 下ればハンガリー, さらに黒海へと注ぐ。 ドイ

ツ・オーストリーの国境の町ノて ッサウの合流点を治々と白く濁りつつ流れるド

ナウ(i地理」第11巻11号参照), 古都ウィーンに淀む旧ドナウのさざれ波。その

頃,知ってか知らずか辻邦生の小説をしきりに恩ひ浮かべてゐた。 ドナウの流

域には,古いヨ戸zロッパの文化や歴史がひそむ。もし私に残年の命が余分にあ

るならば, I rドナウ河文学」でも研究したい念に駆られてゐる一実は昨年の「文

学概論Jの一節にやってみたいと決心はしたが,時間の余裕はこれを許さない

一。教会の尖塔を白く光らせながら或は長く細く流れ続き,森蔭や渓谷の聞を

或は濁り裁は澄み, ドナウはどこまでも流れてゆく 。 しかも水量の豊かさは私

の旅の最後に近い晩夏のハンガリーのドナウであり,首都ブダとペストを二分

する「ドナ」であった。•

-.圃・・・・

8月16日,流れ流れて人民共和国ハンガリーの最南端, I大平原の町J (a

prairie town)と呼ばれる古都セゲト (Szeged)の或るカフェテラスにゐた。

乙の国の最もすぐれた日本語学者一文部省交換学生として嘗て本学文学部に留

学一首都ブダペスト大学のハーラ君 (HallaI.) と私どもの 3人。此処はチサ

河を控へ, ユーゴースラビアとノレーマニアとの接点地帯に当たり,両国の国墳

にもほど近い。今夜野外で行はれるユーゴ一国立ベオグラード歌劇団のオペラ

Jイコごーノレ太公J(注 1) を観劇するために, ハーラ君の配慮によって,わざ

わざ首都から黄色い色彩をもっ屋並みの町にやって来たのである。木々を洩れ

る日ざしはほどよく,日本の10月頃を思はせる。 7月初旬モスコー飛行場で見

た燕の群はすでに乙乙に飛来し, やがてアフリカへ旅立つといふしぱしの悶-

を,青く澄んだ大空に楽しげに飛び交ふ。久しぶりに語る日本語のためか,そ

(605 )

...

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-同

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--110ー

れとも再会のうれしさか,ハーラ君の鏡舌は静かな石だたみの上iζ反響する。

いちいちうなづく異邦人の我ら,夏の日の昼さがりの一こま。

以下のささやかな時期はづれの報告は,主として ζ 乙で得た同君とのや'りと

りjまた彼の親友,経済学者ショーヨム氏 (SolyomS.) の心のこもった教示

一但し私どもと共通する語はドイツ語のみー, それに加へて私の見閉した感

想Jさらにハンガリ一国に関する文化案内書(英 ・独訳本)数冊による〈注 2)。

私がハンガリーに関心を抱いたのは, -まづ深沢七郎氏の小説 f檎山節考Jが

乙の人民共和国でもてはやされてゐるといふ噂であり,その映画化も近く実現

されるといふ新聞報道であった。乙の小説が『東北の神武たちJと共に出版さ

れた当時,その文章の大胆さ,その素朴性に目をみはったのである。、構成法も

甚だ珍らしく,主題主互選ゐ如き作曲形式をもって作品全体を構成する。乙の

作法は多少なりとも反復法に関係し,文章の装飾性よりもむしろ素朴性につら

なる。素朴性をもっスタイノレは,老婆を野山に棄てぬと「食いぶち」もへらせ

ない庶民の哀れさ,その悲惨な舞台によくマッチする。佳作の所以である。

しかし一般読者は,乙の文体,その構成法よりも, w楢山節考』といぶ棄老

伝説,姥捨伝説を素材にした点に興味の中心をもつであらう。特に外国人なら

ば, w楢山節考』のかもし出す異国趣味,乙の棄老といふ東洋の庶民伝承の世

界に-それがたとへ事実か否かは別にしても一最も関心を向ける ζ とであら

う。しかも乙れがノ、ンガリーのかつての良民生活にも似通い,それがそのまま

受け入れられるやうになったのではなかったか。事実,音楽の都ウィーンを特

急、で出発して,やがてハンガリーに入国した時j沿線附近にみる農村風景はオ

ーストリーのそれに比して,やや寒い思ひがわが身を襲ったのである。

しかしブダペスト入りをして,多少見聞するうちに,小説檎!日農民・と洪牙利

農民のくらしの結びつきを考へるととは,必ずしも正しくない乙とに気がつい

た。首都までの沿線がやや寒冷に感じ包れたのは, 8月20日の国民祝祭日,即

ち新嘗祭にも当たる農耕祭日を待つ, 農作の端境期交替j切にあたるため・で、あ

る。端境J~jを除けば, 農作物,特に野菜と果物の箆かさは, ヨーロッパJ図の

(606 )

-111:ァハンガリー文化瞥見

日々の食膳を娠はしてゐるのである J 最近病中に読んだ,東欧諸国の経済に関

する「社会主義の中の資本主義J~r よれば,ハンガリーがチェコその他に比;し

て最もゆたかな国であるといふ一。首都の中央を悠々と流れるドナウが夏の日

の濁りを帯以て東南流するのは,乙の国の商工業の発展段階を意味し,もはや

何処にも『楢山節汚』の影のかけらも見出せない。仏人ベノレナーノレ fフランク

(Bernard Fran~) の仏訳もある以上,他の外国人にも受け入れられるべきこ

の作品のよさがどこかに存在する。ハンガリーの読者のみの,深沢作品に寄せ

る愛情によるものではなからう。,

ζの愛情の中には,東方日本に対する異国趣味や異状なテーマの稀少価値な

ども確かに含んではゐる‘。 しかし、深沢作品の紹介と称讃の最大の原因は,実は.

他民存在してゐたのである。それは終戦後,乙の首都に滞在した進歩派の→問

といはれる某留学生の発言に基づく。即ち円本現代文学の選集に深沢作品を紹

介し, 、f現代第一の小説家である」云々と。乙の決めつけた発言は,!そのまま

乙の国の人々を信じさせた。もし私ならば, I最大の作家」といふ代はりにド ,

y …であると思ふJr特異なすぐれた作家の一人である」などと控ヘ自に述べ

ておいたであらう。 現代文学の主軸はど ζ にある のか, r主流」をどう考へる

かは, 人によって意見が違ふ。 乙の方面に暗い私には何もいふことはできな

い。しかし現代文学はその複雑性に特色がある。川端もあり,太宰も,三島も、ー

野間,安部公房の作品もある。深沢作品iζ対する,一留学生の発言は,いまだ

餓色の去りやらぬ両国間の, しかも相互の消息もよくわからない当時として,理V

誰しも疑ふ余裕もなかったσ 紹介の結果はかへって一つの誤道となった。しか

し, 最近のこの国の知識人の批判力は, この作品の 評価にも及ぶ。 w檎rlr節

考』映画化のことも,!その実現性を否定する人さ今もある 0,深沢作品が乙の悶

でーで時的人気に終はるかどうか,近くア,カデミーによって刊行される『国際

環学辞典J第 3巻目予大山ζ拘待したい一科らくす七作刊行ミーれてゐ号マキb

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-112ー

-・・・・・-.悶悶-ハンガリーの

命。

ま,ハンガリーの生んだ世界的氏名一

作曲

ふの著 Uハンガリーの民族音楽~ (原若~,A ivlag)Tar Nepzene 19ω年肌。

品 目下叫kIVIusic of Hungar)T JJ 1'971年版) にみられるーなほ引用政の一部

ま,レコード盤, rlvlusica 'HungaricaJ などによって聴く乙とができる一。

"'Ln白の飾り窓、に必ずその姿をみせJ 37フリント,英訳本は70フ

リントの安掴でたやすく入手する乙とができる。英訳本は, Vargyas L. によ

る増訂本であり,そのかなり詳しい補注は,ハンガリ一語に全く暗い私をかf

り明るくする。

コダーイは,その若干?の中で,民族音楽lの伝統 ・その始原的地

いスタイル l・童謡 ・扱歌 l・民族音楽の相互関係 ・芸詔の痕|旧い

て't 音譜の実例を挙げながら説き F 故後l乙,

っし

化J(

守)をその結びとする。そのまEで

民族音楽への最短路は:,音楽教育にある(原自制ページ)

と主張するのは"民族音楽があらゆる人々の生活に関聯する乙とを述べたもの

..

であり,ハンガリーといふ社会主義の国|に大いに迎へられる一つの理由で

るーコダーイ未亡人は今も健在で町の中にひそやかにその余生を送ってゐると

聞く ,木蔭越し?とかいま見た窓はすべて|閉ぢたままに一。社会主設といへ

197.2年に,IG,. Ortutay のわ、 ンガリーの民俗学」と云ふ名著が出版された。

当国の血民の悶に伝玖された民話(伝滋)を方法論的に説いた古:物で,尖しし

表紙のカバーと共に楽 しい学術担:である。 lしかし,H pol itics'" といふ言葉が何

度も出現するのは,やはり 乙の闘の事f白をそのまま伝へるものであらう。 r内

問とは何ぞやJ,本計をlUGみながらちょっと忠ひに五

(608 )

-113ーハンガ リ一文化瞥見

もとに戻って,コ ダーイ の吉:に採用する歌詞は,背講を中心とするために,

歌詞はわづか二百首あまりに過ぎない。しかしそれにもかかはらず,その全貌

の一端をうかがふことは可能である。原文テキスト の翻訳しかねる「俗語J,

乙と ばの戯れ,象徴語,口承の聞に生じる変化などもあって,英訳者も苦心を

重ねた乙とであらう。 まして間接訳の和訳は困難を極めるが, 童謡(わらべ

唄), I挽歌l その他のー,こについて実例を少し紹介しよう。何れも英訳本

による試訳(誤訳などはすべて稿者に責任がある)。

れやUH円し

出の切角

んで

し'む

ル牛の

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'ω牛

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凪問

f'1¥

・出叩A

¥1J''

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ハU

ハU

唱14

tム

とたゆきと

(114) 粉雪来んこん(乙の下に音調を整える rdeho yeme rOlnaJの語句が続く)

乙れらの例は,北原白秋篇『円本伝承童謡集成j](第 2之さ〉 と比較してみても,

何処も同じ子供の世界の 「童謡J(gyermekdal, children's songs)である。し

かしこれを東洋より東洋のさい果てのこの国へと,I動いて」行ったとみなしで

は, 歌謡学の本質を誤るもの といへる(拙稿「文学は歩くと云ふととをめぐってJ)。からすむぎ

(108) 燕麦,オート は馬のため,

宝石,パーノレは委のため,

ノマーノレの背飾は娘のため,

楚の鞭は息子のため。

童謡は,子供の日常生活やその環境に近いものを合む。いたづら子に対する罰

の歌,教戒の歌か。

(116) 乙乙 の地面にや足跡が凡える,

乙れは討をの家? 患者の家,•

お乙

愚、なる者は乙乙に住む(ζの下lζ音調を整へる iI-Iejrego rejtem, rejtern

…Jが続く〉

第 2句は,おそらく子供の問答(かけ合ひ〉の部分であらう。答への「愚者の

家」の歌詞は,移動し-動く箇処であり,そ乙に村々町々で歌ふ児話集団の姿が

思ひ浮かぶ。

(609 )

.

... 、

...

--114 -

「視歌J(sirato laments)は,主として死者"に対する哀悼の歌である。

(119) 挫よ娘よ,かはゆいイロンカ,

お前はすべてを終へた,わたしに即答埼魚践しなり。

(126) お父さんお父さんかと|り

なぜ乙んなK孤児にしたの?〈るしみ さかづ

孤児iζなるのは苦痛の酒盃。

ヨー ・1 、

前者は娘の死,後者は父!lζ先立たれた孤j尼の歎き lの歌。乙れらの例は,葬式に

、して,死者附してうたふ歌であり,音詰はって間いても, i童謡」はし

て,哀調を帯びる。定着した調子で哀れさを歌ふ例がタく ,弓乙に民族音楽と

しての挽歌の性格を知る l乙とができる。もっとも扱欧の中には,第 1次戦争で

息子を戦場で失った婦人の即興歌などもあり,コダーイの採集は,多方面にわ

'. • ,

たるム. を悲しむ歌といへば,他にも例がみえ,

iζは哀れきがある。その一例,CH!~

(14'5) 1]¥さい草:径がかはゆく欧ふ,

空中高く ,

兵士になって行がねばならぬ,

すべての乙女ら援を流す(民能四

おれは兵士,国の防人,

r芸謡J '~L分類され右、その歌詞•

• ...at..

"

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• •

--z-F

‘.

(154)

はわめくおれを死なせて,

はわめき,blは悲しむ,

喪服の黒い花がその窓で歎く(俗詔)

怯認jの中比は,教会音楽,俗語その他を合むが,特に珍らヤいもの守1-

「?紘J何faJg匂lek,flowers songs) と呼ばれる一群lC取で・ある 0.乙れは花を

象徴し-ki6・17世紀fの削j欧である。持f)'J的である?乙とは恋愛WRMなが

るp ,その歌詞のー, ~ 与を。み〈

(169) t・三極の花対私を争ふー

(610 )

点、」ことによって, i歌詞」はその瞬間いのちを失ってしまふ。農村に伝承さ

れた歌が採譜され,舞踏を伴ひ,芸術品として完成されたその精粋は, 国立民

族舞踏芸団の演奏にみる乙とができる。 8月18日の月明の夜, ドナウの大河に

浮かぶマノレギット小島の幽、深な森の中の, 3千人も収容する野外劇場で行はれ

た音楽祭,その「歌Jと, i楽器」と 「舞踏Jの融合は, あたりの夜の雰囲気

と巧みに結ばれ,なま身のわれか否か,われとわが身を疑ふほどであった。当

夜の出しものは,村の結婚式を演じる, rEcseri LakodalmasJ,花嫁と花婿を

主人公とし,乙れを祝ふ村人の歌と舞踏の大集団。 12場にわかれ,冒頭第 1場 1

-115ーハンガリ一文化瞥見

私の花よ,あなたと共に,

私の花よ,あなたを見捨てぬ。

(170) 庭にーばいサノレビヤの花,カップル

若い男女はよい見もの,

私のパーノレ,私のすみれ,

金の林檎はあなたこそ。きそ

(174) 誰と寝たのか 昨 日の夜?

ハンサムボーイ, 金髪と,

お〉私のばら,私のすみれよ(反復)

私の両頬にキスをして/

以上,ハンガリ一民族音楽の歌詞をいくばくか紹介した。 しかもその本質ダンス

は, r歌ふことJにある。歌ふことは同時に楽器の演奏と集団舞踏を伴ふ。「歌,

の歌は,コダーイの変曲による。

しかし乙れはむしろ芸術品ともいふべきであり,素朴で伝承的な民族音楽と

は多少のへだたりをもっ。むしろ翌19日の夜の祭典ーそれは国民祝祭日の前夜

祭に当たり, 7月 6日より開始された音楽祭のフィ ナーレでもあ る一,即ち「ド

ナウ河流域民族音楽祭Jの方が野趣を帯びて素朴であり,伝承的伝統的でもあ

る。参加国はユーゴースラビヤ・ブノレガリヤ・トノレコ・ソピエートを始め合計

11の国に及ぶ。 これは,ハンガ、リーを中心とするドナウ河流域の社会主義諸国

(611 )

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-116ー

あるいは地方予選を通過した優勝者11組を一堂に集め,色とりどりのきらびや

かな民族衣裳のむれ,その総数 200名以上の男女が森の野舛舞台狭しとその技

を競ふ。出演者は寒村の少年少女からはち切れんばかりの肥満体の老婆にも及

ぶ。彼等のエネ Jレギーは周囲を圧倒する。時I~Cは森の中の舞台ゆゑ lζ場馴れぬ

失敗もあり, はじ 1らひもあり, 爆笑と喝采と感嘆の渦が絶え間なく巻き起乙

る。聴衆は勿論の乙と,出演者の方がむしろ熱狂し,最後の夜の諸民族の交歓

のぞめきは,幕も降りた10時過ぎの深|い森の中lζζ だました。乙の前夜祭に参

した聴衆の中iζは"それとわかる東方アジアの要人たちの姿もちらほら見ら

た'0 国乙そ違へ, r音楽はひとつ」といふ, コダーイ主義は乙乙に美しい実

を結ぶ。ぞめきを近くに開きながら遅い夕食をする私ども,ジプシーが音楽を

奏でつつ各席を回るーとの国のヅプシ一政策は稿を改めたい一。 ZZの星空のだ

さにそっと妻i~C外套をかけてくれた「イゴーJレ太公J Iの夜の観劇の主婦, ロシ

ヤ語で「今晩はJと語りかけられて鷲き,二, 三党えていた単語で返事をした

と乙ろ,突然ったない日本語をかへしたユーゴースラピヤの貴婦人,音楽なれ

ばζそ道|は一つである。

四•

-近,との国の学界で問題となってゐる hのの一つは,江上被夫氏によって

提唱された「騎馬民族日本征服説J,即ちr騎馬民族説jであり,その批判検討で

る。江上説はわが国においても,甲論乙駁,その論議の給計はつかないが,

史学考古学民族学民俗学など諸研究を総合したと乙ろに,乙の説の価値があ

る。ハンガリーの学界で乙の説加盛んに取上け・られてゐるのは,主としてこの

の民族歴史に関係するためであるーハーラ買にも “EquestrianCulture"

(f新ハ ンガリ一季刊J'52号)の論文があるー。その歴史については,末尾のX

献の l~J にもみえるが(注 2 ),手近な表現でいへば,大河ドナウの地理的位置が

大きな役割jを演じたといってもよからう。現在の首都ブダペス ト市を11:1心とす

る乙lの|闘の西北部は小丘地;!日;l,東南部は果てしなく続く JYJ耕地待。その,*,聞を

(612 )

-117ーハンガリ一文化瞥見

挟んでドナウが西北より南流、し,その果ては東の黒海にそそぐ。その昔,時と l' ~"'I'" "

処を奨ばして草原アジア遊牧民の移動があづた止特にこの東方アジアより侵入 liLv・

じだ草原騎馬民族1はドナウ河畔まで進出じ, ドナウの右岸デダ市に擦ったロー -

マ人との聞には,.幾たびかの激戦が続けられたーブダ市の一隅に今もその廃塩 !日

が残ぎー。,そり結果,異民族聞の紛雑を起乙し, 人種 ・言語‘・文化など諸文化 :一

層:に幾多の混合を生む。

乙の国の人文科学の一部は, ζ の研究に力点を置く。特にアジアのゲラノレ山

脈の西側に関するy研究成果ぱ著じし1。じかも最近ではさらにその東側のそれに

も関心が傾いてゐ、る、と聞ぐ。騎馬民族の出自,東側のアジア諸国,その最東端

ピ日本が存在する。騎馬民援の祖先をい'だく東端の日本,西端のハツガリー,

とのやうな等式が乙の国の人文科学を動かし, 騎馬民族説の検討が開始され

?こo

~. 19世紀ゐ後半三ほぼ出来上がった複雑なノ¥ンガリー(マジャーノレ〉言語学に

ば,比較言語学派と言語史学派とが対立する。しかもなほ騎馬民族説を裏付け

るためには,言語の問題もからむ。日 ・洪両国語の言語の「語序」の類似性,

池上・有坂両氏発見の日本古代語の母音調和とハンガリ一語のそれとの類似性

など,素人の自にも関係は深い。また民俗学を中心とする神話伝説民話などの

伝承,たとへば,.わが草薙銅と草原地帯jζ伝承された剣の伝承との比較研究,

馬r~ζつ;ながる伝説の比較など,東方民族の管理する諸伝承の比較研究は, J 現在

乙の国の学者たちの課題のーっともなってゐる。 e -l

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しかじ;ζれ氏以東方諸国の言語がまづ研究されねばならない。ブダペスド-犬

学において,,中国語べ朝鮮語の講座が存在するにもかかはらず, 日本語及び日

本文化の講義は,昨年よりやっと開始されたに過ぎない。 しかし日本をよ 円下騎

馬民族の東西の血縁」とみなすこの国は,近い将来院おいて, 日本学の講座を

堂々と言語学の一隅に開設する乙とと信じ,また期待もする。 ¥ 61: .J両国の学問文化交流の締結は, .γ一刻も早く実現されねばなるまいム早ければ

数年の聞に実行される可能性もあるといふ。資本主義と社会主義,両国の主張

(613 )

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-118ー

元来必ずし

川「えにしj と

7る

のをもっ。しかし学問文化といふ女神は両国を-

bう。文学のl商に限定していへば,ハンガリーにお

の刊行は盛んである。周知の J [rポワリ一夫人JWプッデ

ー~一一個 也l 寸ー11 1'-ー l比[・戸 n 紅どの古典ものを始めと

して. ロレンス どの 作品に ぷ。しかもそ 安価なポケッ

ト阪iζよって,_謀者花

大正の名作E ある川

る。もし岡本の小説が深沢作品iζ限らずp 明治

1・川端 l・三島など,近く鬼籍Ifζ入った人々の作品

1るな lり

をいやす乙と情

互の努力Kよれ

.七といふ某作家|の,その作品数が

'のあや ~.r " 乙の国の読者はその

の乙とばは語版を等しくする。

を -,その仲介の通訳者は:,乙~

L:t小説の翻訳を通じて,両国の

ど前, 日本作家を代表して入国し

及ぶためー勿論,週刊誌類の小説

をどのやうにして,歓迎会iζ集まった

の文化人達iζ伝へょうかと,と

「パン小説」と文学作品の信教と

さへも,その人の佳作.一一

乙とばが, 如何なる事情にせよ

「文化国家Jを主隠する日

8月20日の早朝,私らは,赤旗と

ためく人民広場を駆けぬけてE

の枝の Jといふ践を如

しを聞いた。生きるための

別 な Zーさい。私の如き系人同に

1る。「作家代表」 とい4

3乙の国の文化人たちを誤らせかねt•

, それが附 掛け声に終はつてはならf

白亦三色の とが立ち並び,朝lill¥i~ c. l!

へと向かった。 rドナウはアジアのブ

してくだ

(注1υ) A. Bor吋din の 「位恒人の釘舞;曲と合n町I:UJ (伊Polov,ez北ki恒sclぬhe訂r Tanz '111百1it d仇el1111 1

Chor)として名高し-。

〈住2) fGeschichte der Ungarischen Litera tur J (1963), fH'istory of l~lung.arjan

:L,iteratureJ (1964) l' rCultural Life in ,liungary J (1'966), fliungarian

(614 )

-119ーハンガリ 一文化瞥見

Survey J (1967, No. 2), iThe New Hungarian Querterly J (1969, No. 34),

,Hungary 70J (1970), iハンガリ ーJ(ハンガリ一大使館編,昭和41年〉など。

今回の渡洪に際して,ハンガリ 一日本大使館付広報文化担当者 Matyus

Sandor氏の御厚情を感謝する次第である。

〈追加) ハンガリーの歌謡については語学力のなさをかこちながらともか

くも訳してみた。 しかしはしなくも, 関鼎氏の訳『ハンガリーの民俗音楽』

(音楽之友社〉が昭和46年出版されてゐることを知り,早速購入してみた。同

氏の訳と違ふ点もあるが,かへって自己の無能力を示すためにもあへて加筆 し

なかった。還暦も過ぎるとすでに頑固になってゐるのである。さらにまた幾固

にも亘って聞いた大聖堂における宗教音楽の私感,スイスのベノレン,ハンガリ

ーのブダ, ドイツのパイロイトの裏街の教会などにおける教会音楽などは,紳

士淑女の行き交ふきらびやかなノてイロイト ・ザノレツフツレク音楽祭などとはちが

って感銘深く ,一度はその感想を筆にしたいとは思ってゐるが,現在の私の健

康はすべて乙れらを許さない。なほ昭和48年 9月12日,朝日新聞夕刊に載せた

「ドナ ウ河はアジアの西端」は,本稿と相関聯する。 (10月 7日〉

(615 ) •