グローバル化時代における文化のハイブリッド化 ― …奇蹟・知識・篤信...

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1 2008年度関東地区修士論文博士論文発表会 (博士-1) グローバル化時代における文化のハイブリッド化 ―ブラジル日系社会にみる「YOSAKOIソーラン」の受容と変容過程を事例に― 渡会 環 (上智大学) 本論文は、ブラジルの「YOSAKOI SORAN」を事例とした、グローバル化時代における民衆主体の文化の ハイブリッド化の過程の実証研究である。YOSAKOI SORANとは、1992年に札幌市で始まった「YOSAKOIソー ラン祭り」から誕生した舞踊「YOSAKOIソーラン」がブラジルの日系社会に伝えられて、独自の展開を遂 げているものである。YOSAKOI SORANは、参加者が考える、音楽や動きに関する「日本的なもの」と「ブ ラジル的なもの」の混合によって創作されており、文化のハイブリッド化の一事例である。 このYOSAKOI SORANの創作過程をサンパウロ州及びパラナ州の5つの日系団体において参与観察し、主体 となって日本の舞踊を変容させている参加者のパフォーマンスに着目して、ハイブリッド化の過程の検証 を試みた。参与観察と並行して、参加者の属性、参加者の舞踊に対する印象を把握するためのアンケート 調査を行った。 調査から、各団体は日本のYOSAKOIソーランを積極的に導入していたことが明らかになった。彼/彼女 らがグローバルな人の移動や情報流通の迅速化を利用して常に収集を行ってきた日本に関する情報の中 からYOSAKOIソーランを導入したのは、見た目も華やかで動きがダイナミズムに富み、かつ日本の祭りの 流れを汲むこの踊りが、ブラジルの日系人同士および日系人と非日系人の絆を強める契機となることを期 待したためである。 そして、その実践において、日本の模倣を超えてブラジル独自のものとしてYOSAKOI SORANを創作する 試みが生まれた。日系人参加者は非日系人の参加を奨励すると同時に、YOSAKOI SORANの独自性を動きや 音楽に複数の文化的要素を混ぜ合わせることに求めた。なぜなら、ハイブリッド化こそがブラジル社会の 独自性であると捉えたためである。 舞踊の創作過程においてしばしば、対照的ともいえる、「日本的」な、「ブラジル的」な動きや音楽が用 いられることがあった。だが、そのような二項対立的な枠は「文化間の優劣を示すもの」ではなく、日系 人参加者にとって、ハイブリッド化が進んできたブラジルに生きる自己を改めて認識するという再帰性を 促す機能を果たしていた。結果、日系人参加者はハイブリッド化という行為こそが自分らしさであると認 識した。また、その行為が異なる民族的、文化的背景を持った人々を舞踊に取り込むことを可能にしたた めに、YOSAKOI SORANを通じてこそ多文化社会で様々な人々と関り合いながら生きる自己を表現できると も認識した。このことは、文化のハイブリッド化を、グローバル化時代における文化の流動的な状態とし てだけでなく、多様な背景を持つ人々との間に関係を築き上げようとする民衆のダイナミックな文化的実 践としても捉えることができることを示唆している。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(博士-1)

グローバル化時代における文化のハイブリッド化

―ブラジル日系社会にみる「YOSAKOIソーラン」の受容と変容過程を事例に―

渡会 環 (上智大学)

本論文は、ブラジルの「YOSAKOI SORAN」を事例とした、グローバル化時代における民衆主体の文化の

ハイブリッド化の過程の実証研究である。YOSAKOI SORANとは、1992年に札幌市で始まった「YOSAKOIソー

ラン祭り」から誕生した舞踊「YOSAKOIソーラン」がブラジルの日系社会に伝えられて、独自の展開を遂

げているものである。YOSAKOI SORANは、参加者が考える、音楽や動きに関する「日本的なもの」と「ブ

ラジル的なもの」の混合によって創作されており、文化のハイブリッド化の一事例である。

このYOSAKOI SORANの創作過程をサンパウロ州及びパラナ州の5つの日系団体において参与観察し、主体

となって日本の舞踊を変容させている参加者のパフォーマンスに着目して、ハイブリッド化の過程の検証

を試みた。参与観察と並行して、参加者の属性、参加者の舞踊に対する印象を把握するためのアンケート

調査を行った。

調査から、各団体は日本のYOSAKOIソーランを積極的に導入していたことが明らかになった。彼/彼女

らがグローバルな人の移動や情報流通の迅速化を利用して常に収集を行ってきた日本に関する情報の中

からYOSAKOIソーランを導入したのは、見た目も華やかで動きがダイナミズムに富み、かつ日本の祭りの

流れを汲むこの踊りが、ブラジルの日系人同士および日系人と非日系人の絆を強める契機となることを期

待したためである。

そして、その実践において、日本の模倣を超えてブラジル独自のものとしてYOSAKOI SORANを創作する

試みが生まれた。日系人参加者は非日系人の参加を奨励すると同時に、YOSAKOI SORANの独自性を動きや

音楽に複数の文化的要素を混ぜ合わせることに求めた。なぜなら、ハイブリッド化こそがブラジル社会の

独自性であると捉えたためである。

舞踊の創作過程においてしばしば、対照的ともいえる、「日本的」な、「ブラジル的」な動きや音楽が用

いられることがあった。だが、そのような二項対立的な枠は「文化間の優劣を示すもの」ではなく、日系

人参加者にとって、ハイブリッド化が進んできたブラジルに生きる自己を改めて認識するという再帰性を

促す機能を果たしていた。結果、日系人参加者はハイブリッド化という行為こそが自分らしさであると認

識した。また、その行為が異なる民族的、文化的背景を持った人々を舞踊に取り込むことを可能にしたた

めに、YOSAKOI SORANを通じてこそ多文化社会で様々な人々と関り合いながら生きる自己を表現できると

も認識した。このことは、文化のハイブリッド化を、グローバル化時代における文化の流動的な状態とし

てだけでなく、多様な背景を持つ人々との間に関係を築き上げようとする民衆のダイナミックな文化的実

践としても捉えることができることを示唆している。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(博士-2)

セブ・チャイニーズの生の政治とアイデンティティ

宮原 曉(東京都立大学)

中国大陸から東南アジアなどに移住したチャイニーズのアイデンティティをめぐるこれまで研究は、研

究対象を同定する際に既に「華僑」や「華人」、あるいは「ディアスポラ・チャイニーズ」といったアイ

デンティティを織り込むことで、ある種の循環論に陥ってきた。こうした循環論の背景には、血縁的連続

性にもとづく生物学的本質主義と、近代国民国家の土地=場所の論理にもとづく文化的本質主義があった。

こうした既存の華僑華人研究を批判しつつ本論文は、フィリピン・セブを観測点として、本質主義的チ

ャイニーズ像の背後でチャイニーズのアイデンティティが生成される過程を生政治的過程、すなわち生物

学的な意味での「生」そのものが人間関係のなかで統御される過程にもとづいて明らかにしようする。

19世紀半ばから20世紀はじめにかけて中国大陸からフィリピン諸島へ移住したチャイニーズの多くは

男性であった。その後、1930年代までにフィリピン諸島におけるチャイニーズの男女比は均衡していく。

しかし、チャイニーズの男性の通婚は、今日に至るまで一定程度の割合を占め、このため一定程度の割合

のチャイニーズの女性は、未婚のまま生涯を送る。また、戦前、セブで生まれたチャイニーズの女性のな

かには、教育や結婚のため中国大陸に還流した者もおり、彼女たちのなかには、戦後、相当たってから、

セブにやってくる者もいた。

このような男女の移動と定着、通婚、商業、信仰における経験の違いは、男性の領域としての〈生理〉

(商業)と女性の領域としての〈拜拜〉(信仰)と結びつきながら男女の身体と家の再生産、さらにはチ

ャイニーズのアイデンティティの生成に関与する。

チャイニーズの男性にとって、通婚は父系的系譜を継承する手段とすることができる。これに対してチ

ャイニーズの女性は、チャイニーズの男性と結婚することで婚家の父系的系譜に〈咱人〉(われわれ)の

カテゴリーをもたらす。

一方、チャイニーズの男性と通婚したフィリピン人女性は、チャイニーズの男性に割礼(トゥリ)を導

入した。こうしてセブのチャイニーズの〈家〉は、チャイニーズの女性から〈咱人〉性を、フィリピン人

の女性から「加工された身体」を獲得することで再生産される。セブのチャイニーズは、父系的系譜、〈咱

人〉性、トゥリ、土地との紐帯が交錯するクレオール的身体を生きるのである。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(博士-3)

Community in Crisis:

Language and Action among African-American Muslims in Harlem

危機にあるコミュニティ

―ハーレムのアフリカ系アメリカ人ムスリムにおける言語と行為―

中村 寛 (一橋大学)

提出した博士論文は、ニューヨーク市ハーレムのアフリカ系アメリカ人ムスリムを対象とした民族誌で

ある。ムスリム諸個人の日常的経験を描き、彼らの「リアリティ」に対する感覚、そうした感覚を認識し

伝達するために用いられる言語、そして言語活動を通じて彼らが構築するコミュニティや文化の3項の関

係を分析することで、言語と行為の関係やその間にある「ズレ」を明らかにしようとした。とりわけ本論

で検討した「リアリティ」とは暴力に関わるものである。検討を通じて、暴力的に見えることがらが必ず

しも暴力的な行為へと結実せず、非暴力的に見えることがらが暴力へと結びつくそのプロセスを明らかに

するのが目的であった。

フィールドワークを通じて私は、アフリカ系アメリカ人ムスリムたちが、ハーレムやアフリカ系アメリ

カ人、ムスリム等の現状に対して繰り返し不満や批判を語るのを耳にすることとなった。しばしば、怒り、

痛み、危機の感覚を伴った彼らの語りはどのように解釈し得るだろうか。そして、彼らの感覚や語りに対

してそうした解釈を与えることの意味は何だろうか。

以上の大きな問いを念頭に置きつつ、本論は、歴史、ストリート・ライフ、コミュニ(ティ/ケーショ

ン)の3部で構成されている。第1部「現‐在の歴史/歴史の現‐在――アフリカ系アメリカ人ムスリム・

コミュニティの形成とアーカイヴの位置」では、アフリカ系アメリカ人ムスリムの歴史が発想され、発話

されるその仕方、そうした発話によって暗示される暴力の位置を検証した。第1章「歴史のアーカイヴ化」

では、歴史や個人の生活史の問題、そしてそれらとアーカイヴとの関係を検討し、第2章「挫かれた過去」

では、歴史の問題をさらに追究し、「語りの文化」と「アーカイヴの文化」との関係を検討した。第2部「116

丁目を横切って――ストリート・ライフの民族誌的スケッチ」では、暴力と言語との間の複雑に絡み合う

複数の関係を考えるために、対立や衝突が顕在化するいくつかの場面を描写した。「差異化のダイナミズ

ム」と題された第3章では、アフリカ系アメリカ人ムスリムやニューカマーのアフリカ系移民たちが多く

暮らす116丁目で起こるいくつかの出来事を分析し、第4章「いくつもの境界、いくつものコンテクスト」

では、「ハーレム」と「非ハーレム」との間に生じる複数の境界を分析した。第3部「延期されるコミュニ

ティ――諸個人(間)とコミュニティ(間)におけるコミュニケーションとディスコミュニケーション」

では、ハーレムのムスリムたちによる社会運動について検討し、彼らの言語とコミュニティとの関係を考

察した。第5章「イスラーム組織の組成と解体」では、比較的新しく小さなイスラーム運動が組織され、

解体していくプロセスを分析した。

本発表では博士論文全体の概要を説明した上で、論文中のいくつかの状況を素描し分析したい。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(博士-4)

奇蹟・知識・篤信

―モロッコ・シュルーフ社会における聖者、知識人、民衆をめぐる人類学的研究―

齋藤 剛(東京都立大学)

本博士論文は、北アフリカのモロッコ王国をフィールドとして、「イスラームの民間信仰」とも形容さ

れるムスリム(イスラーム教徒)の聖者信仰を主題とするものである。ここでいう聖者とは、篤信行為な

どのゆえに神から恩恵(バラカ)を与えられ、またバラカを与えられていることの証左として一般の人に

は不可能な奇蹟を起こす能力を有するのと同時に、一般の人々が抱く難病治癒を始めとした様々な願いを

神に取り次ぐことが可能とみなされた人物のことである。通常、聖者と目される人物は死亡しており、彼

を記念して廟が建てられ、様々な願いの実現を求める人が訪れる対象となっている。聖者信仰とは、この

廟を物的シンボルとして展開する信仰現象であるといえる。

この聖者信仰を巡っては、これまでにも国内外において数多くの研究が蓄積をされてきている。その中

でも本論文は、モロッコ南部スース地方を故地とするベルベル人の事例を主たる手がかりとして、聖者と

「民衆」の関係を歴史人類学的観点から論じるのと同時に、聖者と「民衆」の関係をめぐる分析枠組みの

一つである「民衆イスラーム論」や、聖者信仰における中心的観念として注目を集めて来たバラカ概念を

再考することによって、聖者信仰という問題設定の妥当性を検討に付すものである。このための主要な論

点は以下のように要約される。

第一に、とくに19世紀後半以降のモロッコの歴史的状況の変化に注目をしつつ、「民衆」の社会生活に

占める聖者信仰の位置づけを明らかにすることが挙げられる。この場合に筆者は、聖者信仰を支える一般

のベルベル人の社会生活の変容と、今日のモロッコにおける政治状況という二つの側面を視野に収めつつ

議論を展開した。前者については、19世紀末以降、出稼ぎなどによって形成された広範な生活の文脈の中

で、故地における宗教的意識や宗教観のあり方を把握することを試みた。また後者については、王権が聖

者信仰と深い親和性を有するという特殊な宗教事情をもつモロッコにおいて、王権に対して批判的な姿勢

をとるイスラーム主義勢力が1970年代末以降台頭していることを受け、そのカウンター・バランスとして

聖者信仰が政策的に温存されているという、今日のモロッコ固有の政治的・宗教的環境の中で聖者信仰を

把握することを試みた。

第二に、既存の研究においては、聖者をはじめとして、イスラーム神秘主義者(スーフィー)や「伝統

的」宗教知識人(ウラマー)など、「民衆」の指導に一定の役割を果たしてきた人々と「民衆」の関わり

を、知識論的観点から理論化した民衆イスラーム論という分析枠組みが提起されている。本論は、知識の

多寡を基準の一つとして聖者などと「民衆」の関係を把握しようとする民衆イスラーム論が、結果として

「民衆」なるものを受動的な存在として一方的に規定してしまうことを問題点として指摘し、これを乗り

越える手掛かりを得るべくバラカ概念を再考に付した。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(博士-5)

旅行会社における商品生産過程の民族誌的研究

鈴木 涼太郎(立教大学)

旅行会社による大量生産/消費可能な形態の商品、いわゆるパッケージツアーの生産は、現代観光の発

展に重要な基礎を提供してきた。それゆえ、観光人類学を含む観光研究において、旅行商品の生産と消費

をめぐる問いは、これまでも様々な領域において主要なテーマであり続けてきた。しかしながら、これま

での研究の多くは、旅行商品の経済/文化の両側面に渡る複合的な性格を捨象し、その具体的な生産過程

をブラックボックス化しているという点において、限界を有している。

本論文では、旅行商品の生産と消費が、「旅行会社と観光客の間のサービス提供にかかわる『契約』の

遂行」、「社会的に構築された『イメージ』/まなざしの消費」という二つの側面を有しているという前提

を確認した上で、日本人観光客を主な顧客とする旅行会社を対象に民族誌調査を行い、パッケージツアー

商品生産の過程を考察した。商品生産の一般的過程の考察と共に、特にベトナム・ハノイ行きの特定方面

商品の事例を取り上げ、「契約」と「イメージ」という異なる次元の事象が、パッケージツアーの企画過

程において、いかにして関わり合っているのかについて詳細に検討した。

その結果明らかになったのは、既存の諸研究において十分に省みられることの無かった旅行商品の「契

約」/「イメージ」両側面の相互作用こそが、具体的な生産の場において重要な役割を果たしているとい

うことである。

たとえば、ベトナム行き商品企画の担当者は、「ノスタルジア」や「フレンチ・コロニアル」といった

日本人観光客がベトナムに投影する「イメージ」を認識した上でツアーのテーマを編集する一方で、バス

の年式やガイドの資質などのアメニティ、行程への適合可否といった「契約」としての適合性に基づいて

商品素材を選択する。さらに、造成された商品は、売上高や申し込み人員などのマーケティングデータか

ら推測される市場における消費者の判断、他社との競争、ベトナムの経済発展による社会変化、交通・宿

泊施設をはじめとしたインフラ整備など、様々な環境の変化に応じて、常に「契約」/「イメージ」の両

面において改変、更新されていく。結果として、これら一連の過程は、日本の海外旅行市場とベトナムの

観光地を、その独特の商業的文脈を介して結びつけているのである。

すなわち、旅行商品は、「契約」と「イメージ」という二つの側面からなる相互作用の弁証法的、再帰

的過程の帰結としてとらえられる。旅行商品の生産過程は、それを「契約」とみなす産業の論理と「イメ

ージ」とみなす文化の論理、これら二つの論理が交錯する場であり、旅行会社は、グローバルな「経済」

と「文化」のフローの結節点に位置する文化仲介者なのである。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(修士-1)

近代八重山諸島における遠距離通耕

藤井 紘司 (早稲田大学)

琉球弧のもっとも南に位置する八重山諸島では、水稲耕作のできない「低い島」からマラリアの蔓延す

る「高い島」へ耕作地を求めて通耕してきた歴史がある。いわゆる出作りである。従来の研究では、これ

らの海を越える出作りの原因は旧慣税法である人頭税によるものとされてきた。そのため、人頭税撤廃以

降の出作りは旧慣時代の暮らしを遡及的に想起させるものとして語られてきた。

本研究は明治36年の地租改正による新税法施行以降の出作りを対象とし、近代における海を越える出作

りの変遷、その消長をあきらかにすることを目的とした。研究に際して、地租改正後も出作りを続けてい

た「低い島」、そして明治期の豊富な史料「喜宝院蒐集館文書」を有している竹富島をおもな調査対象地

としている。

調査方法は聞き書きと古文書、そして土地台帳によった。とくに土地台帳は、地租改正後の土地利用の

様相をあきらかにできるものである。これらの調査によって、以下の点をあきらかにした。

1) 竹富島からの出作り地は、西表島東北部に集中していた。出作りの際には、マラリアの無病地であ

る由布島に田小屋と呼ばれる出作り小屋を建て、対岸のヨナラタバル、ホ子ラを中心に水稲耕作が行われ

ていた。明治中葉のこれらの耕作地は、西表島の高那村と古見村、そして離島の村々の耕作地として混然

とした状態にあった。

2) しかし、ホ子ラを含む字高那にあるほぼすべての耕作地において明治30年代後半から大正にかけて、

また、ヨナラタバルにおいても同じく地租改正後、そして終戦後の二段階、所有権の大幅な移転があり竹

富島の出作り地へと転換された。

これらの現象は、a) 海を往来する技術 (刳舟から大型帆船、エンジン船へ) 、b) 大正年間における蓬

莱種の導入、などの技術的な進歩、また、c) 近世以降衰退の過程にあった西表島東部村落の耕作地の放

擲などを背景としている。これらの社会背景のなか明治年間以降著しい人口増加にあった竹富島は、西表

島の耕作地を自らの出作り地へと変換することにより自島での生活を維持した側面がある。

従来、海を越える出作りは、先島諸島の負ってきた苦渋の歴史 (人頭税史) の一部として記憶化されて

きた。そのため、歴史的な文脈を引き継いで近代期の出作りはとらえられてきた。たしかに近代期におけ

る出作りは、近世の出作りの形式を引き継いでいる。しかし、その歴史的な文脈は断絶している。その証

左として、出作りの興隆期が近代にあったことからもあきらかである。これによりあらためて近代におけ

る出作りは、旧慣税制による残滓としてではなく、出作りの形式を活用した「文化的な適応 Cultural

adaptation」として捉えることができる。「高い島」と「低い島」を結ぶその海上の道はいかなる道であ

ったか。本研究は海を越える出作りに関する先行的言説に、一石を投ずるものとなる。

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(修士-2)

都市近郊漁協における海洋資源管理に関する人類学的研究

―横浜市漁業協同組合柴支所を例として―

穂谷 直亮 (首都大学)

筆者が本論文において主張したのは、大都市近郊の漁協において、高学歴化やアパート経営といった漁

業とは直接係り合いがない側面が、漁業資源管理に影響をもたらしていることが看取され、それらの影響

を考慮した、漁業資源管理における人類学的研究の必要性である。また、加えてこれまで研究蓄積の少な

かった都市近郊漁協に対する人類学的研究の必要性である。

本論文では、まず共有資源に関する研究史を取り上げ、続いて共有資源としての漁業資源に関しての人

類学における先行研究を取り上げた。それによると、人類学内において漁業資源管理に関する研究が本格

化したのは、1990年代後半からであると考えられる。各人類学者が対象としていた調査地においては、1960

年代からの漁業技術等の発展により漁獲高が増大したにも関わらず、漁業資源の利用の規制や、資源の持

続的利用のための法制度の整備といった動きが存在しなかったとされる。しかし、1990年代に入り、現地

において漁業管理のための制度や法体系の整備が行われる機運が高まり、それに伴い当該地域を調査の対

象としてきた人類学者の研究にも漁業資源管理に関するものが増えたと考えられる。

筆者は、本論文において横浜市漁業協同組合柴支所を研究の対象として取り上げた。そして、研究視点

として取り上げた、文化生態学、政治生態学、歴史生態学という三つの生態学の視点を意識しつつ、柴支

所が現在のような漁業方法を確立するまでの歴史を、主に東京内湾漁業全体との関係において把握した。

そして、柴支所に対する歴史的理解と合わせて、筆者が2007年中に行った聞き取り調査の結果に基づき、

考察を行った。それによると、港湾都市である横浜の近隣に所在する漁村として、柴を含む多くの漁村は

海面の埋め立てによってその漁場を失い、多くの漁業協同組合が解散することとなった。柴も海面埋め立

てに関する文書に調印をし、漁業存続は絶望視された。しかし、石油危機の発生や200海里漁業専管水域

の制定などの状況の変化により、柴では残存漁業が認められることとなった。その後、柴ではシャコ漁を

中心とした資源管理型漁業が展開されることとなった。筆者は埋め立てに直面した漁民の行動に着目し、

漁民が埋め立てによって漁業の存続が危ぶまれたことから、教育に対して熱心に取り組むようになったこ

とや、漁業補償を基に漁家経営を多角化し、収益源を多様化したといった事実が、高度な研究内容を発表

した研究会の存在や、特徴ある資源管理体制の開発に影響を及ぼしたのではないかと考察した。そして、

大都市近郊の漁業資源管理における研究蓄積が少ない漁業資源管理に関する人類学的研究に対して、都市

近郊漁協に関する研究の必要性を提示した。

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(修士-3)

和歌山県太地町立くじらの博物館が語る捕鯨

―展示資料をめぐるまなざしの交差―

田中 彩貴 (立教大学)

本論考は、和歌山県太地町立くじらの博物館(以下、くじらの博物館とよぶ)における捕鯨の歴史なら

びに飼育鯨類が、博物館スタッフによってどのように展示され、そして入館者によってどのように見られ

ているのかを明らかにすることを目的とした。具体的には、第一に、太地町の捕鯨業と観光産業がどのよ

うに結びついてきたのか、第二に、その歴史的変遷のなかで博物館がどのような役割を担ってきたのか、

第三に、現在の博物館の展示にどのような特徴がみられるのか、について文献資料やフィールド調査のデ

ータから検討した。そして、くじらの博物館に集まる人々が展示資料をどのように捉え、それぞれのまな

ざしはどのように交差しているのかについて考察した。

太地町における人とクジラのかかわりに関する従来の研究では、捕鯨という営みが太地の人々にエス

ニック・グループに近い凝集性を生み出してきたことが論じられてきた。そのなかで、くじらの博物館の

展示資料、とくに太地町の捕鯨に関する資料は「太地人としてのアイデンティティー・シンボル」のひとつ

として捉えられてきた。

しかし、そのように展示資料の意味を固定的にみる視点では、現在博物館に集う人々が、捕鯨や生き

た鯨類という展示資料とどのようにかかわっているのかを適切に捉えることはできない。むしろ今日のく

じらの博物館を、展示資料をめぐりまなざしが交差する場という視点から捉えると、主要なアクター、す

なわち博物館スタッフ、入館者、地域住民の相互作用の中で「くじらの博物館が語る捕鯨」が生み出されて

いることがわかる。言い換えれば、それぞれのアクターと、捕鯨ないし飼育鯨類との距離感によってくじ

らの博物館の展示資料は読みかえられるのである。

具体的な考察のなかで、飼育鯨類に対しては、「鯨類を町の資源やシンボル」、「飼育下で見る生き物」、

「生態学的に説明する個体」という異なった視点、そして捕鯨に対しては、「生活の一部としての捕鯨」、「国

際問題ないし環境問題としての捕鯨」、「国際問題ないし環境問題から生活の一部となりつつある捕鯨」と

いう異なった視点が交差していることを明らかにした。

以上から、くじらの博物館が語る捕鯨には、太地町において戦略的本質主義として重視される「クジラ

の町」の古式捕鯨や「クジラ」の飼育展示と、国際問題としての捕鯨との重層性があるという点を指摘した。

また、このような展示資料に対するまなざしの交差を見ることで、筆者は博物館という施設を通して生じ

るクジラと人のかかわりあいが、人と人の間においてだけでなく、個人の中でも複数みられることもあわ

せて指摘した。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(修士-4)

民族の創られ方

―在中・在満朝鮮人と中国朝鮮族との連続と断絶という視点から―

横田 浩一(首都大学)

中国朝鮮族(以下、朝鮮族)はいかにして在中・在満朝鮮人との連続性を見出され、一方で在中・在満

朝鮮人との断絶がなされたのか、本発表では主として民族政策の側面からこれらの問題を検討する。中国

朝鮮族は、中国東北部を中心に現在約220万人が居住している。とりわけ北朝鮮との国境地帯には、「延辺

朝鮮族自治州」をはじめ多くの朝鮮族の集住地区が存在する。そして朝鮮族は、中華人民共和国建国初期

の9の民族のうちの1つであり、抗日運動を漢民族と共に戦ったという歴史を共有していると一般には見な

されている。しかしながら、歴史を遡ってみると異なった様相が見えてくる。

本発表の目的は第一に、中国の民族政策の中での「民族」の意味内容の変遷を確認し、そこにはどのよ

うな政治・社会的状況が存在したのか考察すること。第二に、朝鮮族以前の朝鮮人の多様な存在様態を描

き、抗日主体としての朝鮮人―朝鮮族に対し、それとは異なる朝鮮人像を提示すること。第三に、在中・

在満朝鮮人が、中華人民共和国という国民国家に編入されるということの意味を問い、朝鮮族である現在

において遡及的に求められる民族のアイデンティティがいかにして選択されたのか考察することである。

朝鮮族に関する先行研究は、通時的な考察から、抗日主体としての朝鮮人―朝鮮族の連続性を強調する

研究と、ある時間軸を輪切りにし、同時代の関係性の中で朝鮮族が生成するプロセスを分析した研究とに

大別される。本発表では、共時的な関係性を重視しつつも、民族が生成していく通時的な過程に注目し、

国家と民族および民族間関係を歴史的に理解することを核とする。

このようなアプローチにより、中華人民共和国という国民国家を間に挟んで、在中・在満朝鮮人と朝鮮

族との間にどのような意味内容の相違があるのか論じていく。結果として、通時的な朝鮮人―朝鮮族の連

続性は、新中国の成立によって、もはや大きくずれる概念としてしか存在しえなくなり、一方で共時的視

点からは、朝鮮民族としての近接性は隠蔽され、韓国や北朝鮮との連続性は国境という明瞭な境界線の存

在によって、断絶へと変えられていったといえるだろう。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(修士-5)

アイヌ民族をめぐるメディア媒体としての博物館表象について

吉本 裕子(放送大学)

国内の博物館におけるアイヌ民族の展示は、アイヌの現代を積極的に展示する姿勢がみられない。伝統

的な様子を展示すると和人との違いが浮き彫りにされ、民族の独自性が明示される一方で、アイヌはかつ

て存在していたが、今は存在しない人々との印象を来館者に与えかねない。その反面、現状を強調する展

示ではアイヌが直面しているさまざまな問題を前面に出せるが、和人と変わらないのではないかとするド

ミナント(和人)側の感情によって、民族権利運動の勢いがそがれるなどの要因となりうる。そのため博

物館関係者はアイヌの現代をどのように展示すればよいか戸惑いがあり、積極的にアイヌの現代を展示し

ている博物館は極めて少数である。

本論文では、これらの視座から展示できるアイヌの「現代」とは何かを追究し、アイヌ民族の新たな博

物館表象の一案を提示することを目的とする。

はじめに、アイヌ民族を展示している国内の博物館で実地調査を行なった。アイヌ民族と博物館の共同

作業による展示制作過程や展示内容、展示方法について調査し、各博物館の展示の特質や問題点を明らか

にしている。現在、アイヌ民族の展示を行なう博物館の中には、展示する側とされる側で共同作業を行な

いながらも、アイヌの「現代」を展示しない博物館が存在する。その要因のひとつには、博物館に潜む権

力性が関わっているのではないかと推察する。クリフォードは著書『ルーツ』のなかで博物館を接触領域

と捉え、非対称の権力関係が存在すると言及していることに着目する。この概念から現在のアイヌ民族の

展示は、非対称の権力関係が博物館側に大きく傾倒している状態であるといえるだろう。アイヌの人々が

展示の構想段階から展示制作過程に関わっていない限り、展示内容の選択は博物館側に委ねられる。この

様な状況下では互いの権力関係が不均衡であると捉えることができる。

現在、アイヌの人々は表面的に和人と変わらない生活をしている。どこに和人との差異が見られるかを

検証すると、アイヌの心の中にあるアイデンティティであると考察する。近年、国内の博物館では伝統を

加味した新たな作品を展示する博物館は増加しているが、アイヌの語り、心の中の叫びを取り上げている

博物館は少数である。

さらにオーストラリア、ニュージーランドの博物館で展示内容や展示方法、博物館と先住民との関係性

について調査した結果から比較考察を行なった。アボリジナルやマオリが博物館と対話をし、展示の構想

段階から展示制作過程に参画する事例を取り上げる。

本発表では博物館の権力性、展示可能なアイヌの現代について詳しく論じ、まとめとして<展示方法>、

<展示内容>、<博物館の機能>の3つの視座からアイヌ民族の新たな博物館表象の指針案を提示する。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(修士-6)

生物医療のグローバリティを考える

―インドにおける医師・患者・情報の移動を事例として―

梅村 絢美 (首都大学)

医療人類学において生物医療は、国家の制度的医療としての位置づけから議論される傾向があり、政治

統治や資本主義との親和性が頻繁に指摘されてきた。また、「第三世界」における生物医療に関する医療

人類学的研究では、生物医療が現地の解釈枠組みによって読み替えられる「生物医療の土着化」が指摘さ

れてきた。しかし、こうした先行研究では、生物医療が国家の制約に依存し、国家の内部において自己完

結的に存在することや、生物医療の地理的境界が前提されており、生物医療の越境性や流動性を隠蔽する

危険性を孕んでいることが指摘できる。

以上の先行研究をふまえ、本発表では、生物医療の実践が構成する医師、患者、モノ、情報がインドに

集結し、拡散していく過程を検証することで、インドを生物医療のハブとして位置づけ、グローバルな領

野における継続的な移動性の渦中に成立する生物医療の存立形態を明らかにする。また、生物医療のグロ

ーバル化の背景に生物医療に対する国家の影響力の弱体化を指摘し、生物医療が、国家の制度的医療とし

てだけでなく、国家の制約から自由に存在しうることを指摘する。

インドでは、英国植民地時代より生物医療の教育課程が整備され、多くの優秀な医師を輩出してきた。

しかし、社会主義的な体制を維持してきた独立後のインドは、こうした医師らに十分な職場を提供できず、

英連邦内の他国で診療活動を行う医師も少なくなかった。こうした状況は、91年の経済自由化以降、移動

手段の整備や情報技術の進展によって一層顕著となってきている。例えば、英国の登録医師の30%近くが

インド人であることや、合衆国における医療費高騰や英国における国民医療保険の不履行が多くの治療難

民を生み出し、患者が安価な治療費を求めてインドにやってくるメディカルツーリズムの興隆、合衆国に

おける深刻な医師不足と医療過誤訴訟の増大がレントゲン写真や血液サンプル等の医学的データの解析

作業や治療過程記録の作成など医療業務の需要を促進し、インターネットを通じてコストの低いインドへ

とアウトソースされることなどを挙げることができる。

他方において、インドは国内の生物医療の供給が不十分であるという現実も抱えている。こうした状況

において、インド国内の医療資源に対する国外からの需要の増大は、都市部の民営病院の病棟の外国人患

者による占拠や、税金で運営される国営病院の医療サーヴィスの外国人患者への提供など、インド国内の

生物医療の実践に大きな影響を与えている。すなわち、本来は輸出産業ではないインドの生物医療が、国

内の需要を満たしていないにもかかわらず、国外市場化されることによって大きな亀裂が生じているので

ある。

本発表では、生物医療をめぐる極めて複雑な世界秩序を、インドを基点として明らかにしていく。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(修士-7)

大衆的公共空間と開発

―ラオス・ナショナリズムの構築過程―

小椋 千裕 (筑波大学)

東南アジアの内陸に位置するラオスは、植民地政府によって引かれた恣意的なラインによってその国家

領域が画定された。人びとは国境線の内と外とに分断され、結果多数の文化的、言語的に異なる民族によ

って構成される「国民」が外部者の政治的便宜のために創出された。フランス植民地時代の文筆家が「国

民というより、部族の集塊」と形容したように、近代国民国家のシステムに想定される先在的統一体とし

てのラオス国民など存在しなかった。アンダーソンに依拠すれば、この国民国家の構築性は「想像の共同

体」の作動によって隠蔽されるはずであった。しかし、長期に及んだ内戦はラオスが想像力作動のための

教育制度や言語的共同性を確立することを困難にした。1975年の独立以降、ラオスでは「平和、独立、民

主主義、統一、繁栄」をスローガンに国家建設が推進され、その中核をなす開発を国是とする国家体制が

ひかれている。そして、1980年代後半に導入された経済自由化政策は、社会主義陣営に限られていたドナ

ーを国際援助機関をはじめとする西側諸国に広げたことで、ラオスにおける開発ラッシュに拍車をかけて

いる。このような状況下にあるラオスにおいて、国民の統合と国家の建設(開発)は相関関係に置かれてい

る。本発表は、多数民族ラオを中心とするナショナリズム(「国民」意識)が、開発現象によって強化さ

れていく(非ラオに広がっていく)状況を公共空間という枠組みから考察することを目的とする。

ここでいう公共空間とは、ハーバーマスの公共圏論を踏まえ、国家と国民の間に存在し、国家への批判

機能と国民を支配するための機能という両側面を持つ「公権力が連続的な行政行為によって民間人との連

絡を保っていく地帯」のことを指し、「公権力と私的個人を結ぶ媒体」と位置付ける。さらに、公共空間

を多数の公共圏の総体として捉えることで、公共圏同士の関係に着目する。また、ハーバーマスの公共圏

から締め出されていた読み書きの出来ない大衆に焦点をあて、この大衆が理性による議論ではなく、「連

帯言説」という国家統合イデオロギーによって公共空間に組み入れられていく状況を示す。そして、大衆

が組み入れられた公共空間(大衆的公共空間)には階層原理であるドメスティック・イデオロギーが存在

し、多数民族ラオを頂点とする階層関係の形成を検証することによって、大衆的公共空間が国家による支

配の媒体であることを指摘する。 後に、この大衆的公共空間で行われる開発が観念上の民族の階層関係

を経済的格差として実体化することで、ラオを中心とする国家の繁栄という「真理」を顕在化させること

を明らかにする。そして、この「真理」の顕在化による、大衆的公共空間の、ラオを中心とした「ラオス

国民」が創出される「国民的公共空間」への転換を結論として示す。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(修士-8)

行為としての信念

―米国の保守福音派キリスト教徒を事例に―

丹羽 充 (一橋大学)

私は米国の保守福音派キリスト教徒(Conservative Evangelical以下C/E)を対象にフィールドワーク

を行ってきた。保守的かつ戦闘的であり、極めて信心深いとされる彼らは、確かに自らの「信念」を高ら

かに宣言していた。だが一方で、彼らは自らが宣言した「信念」に反することを平然と行ってしまうので

あった。例えば、「酒を飲んではならない」と言いながら、何ら悪びれることなく飲酒をし、「隣人を愛さ

なければならない」と言いながらにして平然と悪態をつくのである。これは一体どういうことなのか。「信

じている」はずではないか。

C/Eについての先行研究の多くは、彼らの社会的動向や教義の動向を主要なテーマに据え、それらを歴

史的・社会的背景から説明することに腐心してきた。だが、これらの研究の殆どに対しては、重要な問題

を問われないままに放置しているとして批判せざるを得ない。何故なら、「C/Eたちが信じている」という

ことを自明なこととして捉えており、「信じる(名詞形「信念」)」ということがどういうことなのかとい

うことを扱えていないためである。

一方で人類学者のハーディングとクラパンザーノは近年、フィールドワークのデータを用いて「信じる」

ということがどのような事態なのかということを問題化しながらC/Eたちを描いている。このような両者

の試みが、これまでの研究の限界を突破しようとするものであることに間違いはないだろう。だが、ここ

でさらに根本的な問題に直面する。ハーディングとクラパンザーノが「信じる」ということを問題化でき

ていると言ったところで、果たして具体的には何が問題化されているのだろうか。彼らの「信念」理解は

適切だと言えるのだろうか。

「信じる」という言葉は、ウィトゲンシュタインの言う「『半端仕事』言葉」であり、明確な意味の規

定がなされないままに使用されることが非常に多い。われわれは、「信念」という言葉を他者について語

るための分析概念として頻繁に用いるが、しかし、この言葉によって表現される事柄について余り良く分

かっていないのが現状なのである。つまりこの概念の有効性は必ずしも定かであるとは言えず、故に詳細

な検討を通した定式化がなされるべきなのである。

以上の問題関心から、私はこれまでC/Eを事例として、「信念」という分析概念の検討を行ってきた。よ

り具体的には、「信念」を巡る人類学上の議論を確認し、その系譜の上に「信じる」ということを問題化

しながらC/Eたちを描こうと試みるハーディングとクラパンザーノの「信念」理解を位置付ける作業を行

った。そして、各々の可能性と限界について明確にし、より適切な「信念」概念の定式化を目指し考察を

加えてきた。

本発表では、私が以上の問題に行き着いた経緯についてより詳しく、また結論に至る推論過程について、

そして今後の課題について説明を行っていきたい。

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(修士-9)

カンボジアにおける参加型農村開発

―住民組織におけるリーダーシップを手がかりに―

秋保 さやか(筑波大学大学院)

本論は、カンボジア農村社会における開発現象について、「組織化」の観点から考察したものである。

カンボジアは、1991年にパリ和平協定が締結されるまでの20年以上もの間、内戦による混乱を経験し、

内戦終結以降、復興を目的とした大量の援助が国内に流入した。そのような援助の様子は「援助の氾濫」

とも呼ばれる程である。

こうした過程を経たことから、現代カンボジアの農村社会を理解するためには、開発援助を通して導入

されるグローバルな論理が、在地社会と接合されることによって起こる新たな変化に注目する必要がある。

本論では、以上の問題関心から、タケオ州のT村における「伝統的」な組織活動を行う「在地組織」と、

ローカルNGOであるCEDAC(Centre d’Etude et de Developpement Agricole Cambodgien)の援助の受け

皿として作られた「開発組織」の双方が、農村社会においてどのような意味をもつのか、またそれがどの

ように維持されているのかを、それに携わる人びとのネットワークとリーダーシップを中心に考察した。

CEDACはT村において農業技術支援を行っており、新たに農民グループを組織化した。農業生産性の向上

など、開発に関わる活動は、このグループのリーダーであるB氏のリーダーシップの下に行われる。一方、

同村には寺組織をはじめとする「伝統的」な組織も存在しており、それぞれの結合の機会=組織の形態に

よってリーダーが異なっている。人々の家族以外への帰属意識は希薄であり、仏教の実践や経済的な必要

性などのニーズを相互に認識した場合にのみ、一時的な協力関係を構築するという関係性が見られる。こ

のような個人の所属の流動性は、東南アジア研究において指摘されてきた二者関係を基礎としていると考

えられる。NGOによる開発のための組織化は、在地の社会関係のあり方の中に接合され、重層的に並存し

ている。そして、それらの組織を農民は文脈の違いに応じて主体的に行き来していると言える。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(修士-10)

Ethnic Media and Identity Construction:

the Case of the Japanese-Peruvian Community in Japan

Yeng Abad, Jaime Fernando (宇都宮大学)

This study explores the social functions of the ethnic mass media from an empirical approach inside of the Peruvian community settled in Japan, registering and analyzing the areas on which the ethnic media exert their influence over the identities of the Japanese-Peruvian. This research found that the Japanese-Peruvian community is divided in two salient groups, “the Nostalgic Generation and the Young Generation”. This itemization responds to their differences in personal backgrounds, language abilities and individual preferences as Japanese-Peruvians struggle to accommodate in the host society. This research also underscores the role that the Ethnic Media have been playing with the production of locality.

As the outcomes of the research show, the Japanese-Peruvians are located in a complex social context where they deal with various social dynamics that include connections with the Japanese society, with Peru, and within their own community. In this context, it is important to stress that there is no a unique bounded place where the community perform their activities. Peruvians do not interact within well-defined geographic areas, i.e. they are not structured in the classical sense of a community with face-to-face ethnical correspondence vis-à-vis a ghetto with a homogeneous ethnic population. Japanese-Peruvians live in neighborhoods jointly with households of other nationalities, with an overwhelming majority of Japanese households. In this context the ethnic mass media made its debut in 1994 with the weekly newspaper in Spanish “International Press”. Nowadays we can find them in a variety of forms and range (Newspaper, magazines, online forums, stream television, etc.), which indicates that they not only provide an alternative to a homogenized mainstream media, but (mainly for the nostalgic generation) they have become a powerful instrument from where immigrants obtain useful information for the construction of knowledge about their new environment. Furthermore, the research found that the most important influence that the ethnic media exert in the community rely on the fact that they help to construct physically and symbolically the longing homeland in Japan. According to the results, the members of the nostalgic generation focus their consumption on Peruvian ethnic media in Spanish. It basically responds to the facts that 1) nonetheless Japanese-Peruvians have been living in Japan for many years their Japanese language abilities are still low 2) cultural resistance, which principal manifestation can be observed with the daily consumption of ethnic products and 3) nostalgic feelings to return to the homeland. Simultaneously, the results show that the ethnic media allowed them to continue living within their own culture, to release the anxieties of being a foreigner and to gain update information of the homeland to when the time to return comes. On the basis of the evidences this study posits that the subjects of the Nostalgic Generation are not integrating to the host society; on the contrary, they are becoming increasingly isolated and remain different from the mainstream society. Meanwhile, the young generation’ social knowledge, values and behavioral modes are modified, influenced and changed as they integrate to the host society.

The data collected to the achievement of this research were extracted from multiple sources. To give detail examination, I employed qualitative methods, including participant observation, interviews (9 Nostalgic Generation and 8 Young Generation), and discourse analysis. This research is also based on the fieldwork done in the shopping center Lev up in Utsunomiya city and the restaurant La Frontera in Oyama city; two places that for the local Japanese-Peruvian community are important ethnic points of reference, both as real places and as symbols of their distinctiveness.

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(修士-11)

歴史的環境保全の潮流と川越一番街に見る視点の転換

井上 晶子(立教大学)

本論文では、東京から約30キロ圏にありながら、蔵造りの町並みが残された川越一番街を対象地とし、

近代化する生活の中ではむしろ負の存在として受け止められていた歴史的建造物・蔵造りが、あらためて

価値あるものとして地域の人々に捉えられるようになった、その背景とプロセスについて記述・考察した。

川越一番街は江戸との活発な交流によって、蔵造りの立ち並ぶ県内有数の商業・文化の中心地として繁

栄したが、戦後は衰退の一途を辿り、1960年代には蔵造りは時代にそぐわないとして壊され、「通るのは

車ばかり」の様相を呈していた。

現在は、多くの観光客で賑わいを見せる観光地となっているが、その経緯については、「藏の会」

や「町並み委員会」の活動を中心に語られることが多く、川越のまちづくりはこれらの活動によって始ま

ったものとして捉えられている。

60年代末、一番街の壊されかけていた蔵造りが、外部の専門家・浜口隆一(建築史)の目に止まり、保

存に向けての活動が展開されたことは、人々の記憶も薄れ語られることも殆どない。その浜口は、60年代

初頭、全国的な話題となった京都タワー論争で、古都景観の観点から建設反対を唱えた一人であった。し

かし、こうした背景を持つ浜口の「まなざし」が一軒の蔵造りに向けられたことが、その後の一番街の変

化にもたらした意味を明らかにする研究はなされていない。

本研究では、川越一番街の蔵造りの町並み形成という、ある時代に一つの地域で生じた変化を、単にそ

の地域の中から自然に発し、地域の中だけで成熟していった事象としてではなく、時代の影響や外部の出

来事との相互作用から生じたものとして捉える視点から、各種の調査結果、川越市議会議事録、刊行物等

を資料としながら、時間軸に沿って具体的に分析した。

その結果、

①川越一番街の町並み形成は、歴史的環境保全の世界的潮流、日本全体の潮流の中で生じたもので

あること

②80年代半ばの「蔵の会」に始まる活動の流れ以前に、浜口のまなざしがスタートとなる70年代

の“もう一つの流れ”があったこと

③外部からのまなざしが蔵造りや町並みに意味と価値を捉えたことが、70年代から80年代にかけ

て、内部の人達のまなざしを蔵造りへと向けさせ、負の存在として捉えられていた蔵造りへの視

点の転換をもたらし、内にある資源の意味や価値への発見がなされていく経緯があったこと

等が明らかとなった。

ただし、この内部の人達のまなざしの転換過程は必ずしも一様なものではなかった。

外部からのまなざしへの反発や、立場の違いから生じる内部の人達の考え方の相違、外部の人との関係

のあり方の相違などから、変化の具体的様相は多様なものであった。

しかし、70年代からのまなざしの変化があったことで初めて、90年代にはマンション建設問題が人々の

間で共通の危機として受け止められ、「重要伝統的建造物群保存地区」選定(1999年)が共通目標になり

得たと考えられる。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(修士-12)

観光開発の社会変動による生活環境変化と文化の再生産

―広西壮族自治区侗族の刺繍製品を例として―

金 裕美 (宇都宮大学)

本論文は、広西壮族自治区柳州市三江侗族自治県程陽橋で侗族文化を民族観光を中心とした観光開発を

背景に、工芸品の製作・販売を行う女性たちによる文化の再生産を論じた。

程陽八寨の観光開発は現在新農村建設計画に指定されたことにより、国や自治県が設けたレベルをクリ

アし、観光地としての高いステイタスを目指して積極的に進められている。その結果、程陽八寨外の専門

家や外部の開発業者が村の観光開発に関わる傾向が強くなっている。

このような民族観光開発を背景に、程陽橋で刺繍を製作販売する女性たちはエキゾチシズムの一部とな

り、村の景観とともに観光客の鑑賞対象となっている。また、地元のメディアからは「観光開発に積極的

に参加する侗族の女性」とシンボル化されている。しかし、彼女たちは刺繍を製作・販売する女性たちは、

刺繍の技術や北京語という技能を持っており、程陽八寨では決して一般的な女性とはいえない。村の他の

女性たちとの間には収入の面でも、北京語と英語というコミュニケーション能力の面でも差が生じ始めて

いる。

このような、観光開発による生活環境の変化を背景に、女性たちが製作・販売する「龍樹」とよばれる

ガジュマルの樹のモチーフには、観光開発を背景としたいくつかの変化を指摘することが出来る。ガジュ

マルの樹のモチーフは現在でも伝統的に作られてきた構図がそのまま作られている一方で、モチーフが簡

略化やアレンジされ、効率化を図る商業的観点の強まりが指摘できる。モチーフの簡略化は比較的簡単に

製作ができる点から、新たな伝統として伝承されていく可能性を有している。

また、ガジュマルの樹のモチーフの応用として、キリスト教化的傾向とエスニックシンボルの利用の二

つの傾向が見られる。キリスト教に改宗したことによるモチーフの応用の傾向は、女性たちの改宗によっ

て、伝統的な構図に新たにキリスト教的なモチーフが取り入れられているものであり、彼女たちの宗教観

を示している。観光開発によって観光客とともに流入してきた宣教師によるキリスト教徒の布教は、従来

から信仰されている在来宗教と折衷する形で、女性たちの生活にみられる。また、キリスト教信仰は、宣

教師や信者が彼女たちの刺繍作品を購入することから、経済活動と結びつきながら信仰が広がっている。

エスニックシンボルを利用したモチーフは、全国的に知名度も高くポジティブなイメージの文化財であ

る程陽橋を刺繍したものである。積極的にエスニックシンボルを取り入れることにより、女性たちは刺繍

を観光客に対し、分かりやすく価値のあるものにしようとする姿勢が反映されている。このように女性た

ちは刺繍を生産過程において、観光客のまなざしを意識し、それにこたえる形で製作を行う一方、自分た

ちの文化を彼女たちの価値観のもとに積極的にとらえなおし、再生産しているのである。

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(修士-13)

充溢的現前と共同体

-ナショナリズム研究にみる共同体観-

坂田 敦志 (一橋大学)

東西冷戦の終結が予感され、殺戮の場が国家間および民族間に収斂していくかにみえた1980年代、ナシ

ョナリズムをめぐる重要な著作が次々と発表された。なかでも1983年にほぼ同時に世に問われた2つの著

作、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』とアーネスト・ゲルナーの『民族とナショナリズム』

は、2001年9月11日の同時多発テロを背景に、一度はお蔵入りになったかにみえた「文明」対「野蛮」と

いう野蛮な構図が再び担ぎ出された現在においても人文社会科学の領野で未だ絶えることなく間歇する

ナショナリズムに対する侮蔑的感情のシンボルにして起源とでもいうべき位置を分け合っている。

本論『充溢的現前と共同体』は、「なぜ、人文社会科学の領野において、ネーションやナショナリズム

を忌避する傾向が一般的であるのか」という問題意識の下、ジャック・デリダによる現前の形而上学批判

を手掛かりに、ナショナリズム研究を代表する3つのテクスト(ベネディクト・アンダーソンの『想像の

共同体』、アーネスト・ゲルナーの『民族とナショナリズム』、そしてアントニー・スミスの『ネーション

とエスニシティ』)を、20世紀を代表するフランスの人類学者レヴィ=ストロースのテクストを介してピエ

ール・クラストルのテクストと交錯させ、「抽象」への不信と「具体」への礼賛に彩られたナショナリズ

ム研究が胚胎する独特の共同体観から人文社会科学を展望する。

第1章では、アーネスト・ゲルナーとアントニー・スミスのテクストを批判的に読解する作業を通じて、

ナショナリズム研究の領野に広く流布する近代主義対歴史主義というお馴染みの対立を動揺させる。続く

第2章では、「ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』において、「『日々顔付き合わせる原初的

な村落』はいかなる点で他の共同体から切り離され特権化されるのか」という問いを検討し、歴史主義と

近代主義の対立の彼方にアンダーソンのテクストを展望する。

第3章では、脱構築の提唱者として名高いジャック・デリダが『グラマトロジーについて』の中で提示

した現前の形而上学批判の視点から今世紀を代表するフランスの人類学者レヴィ=ストロースの共同体

観を照射し、レヴィ=ストロースが「あらゆる成員が、直接的で『水晶のように』透明で生きたパロール

の中で充溢的に自己に現前している」ような「本来的社会」に対して手向けるノスタルジーを浮き彫りに

する。

第4章では、第3章において析出されたレヴィ=ストロースの共同体観を念頭に、若くして夭折したフラ

ンスの人類学者ピエール・クラストルの『国家に抗する社会』を、ナショナリズムをめぐる3つのテクス

トと交錯させ、これら一連のテクストが、近代(文明)と前近代(未開)、文化と自然といった二項対立

を基点に互いに反転しつつも、「具体」を尊び「抽象」を忌避しながら現況を憂え観念論的他者に自らの

理想をあずける精神を共有していることを明らかにし、締めくくる。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(修士-14)

民俗的知識の「所有」をめぐる人類学

―メキシコにおける二つの生物資源探索プロジェクトを事例として―

中空 萌 (東京大学)

「所有」は人間の社会生活の法的、経済的、政治的、文化的次元に関わる極めて人類学的な主題であり

ながら、これまで纏まった考察の少なかった領域である。本研究の目的は、民俗的知識— 先住民が「伝統

医療」の中で用いる植物や「第三世界」の農民の開発種— と知的所有権をめぐる諸問題を事例として、人

類学が「所有」という主題にアプローチするために必要な分析枠組みを提案することである。

まず、1980年代以降の人類学における「所有」研究を、「所有」を「権利の束」と捉える主流派の議論

と、それへのアンチテーゼとして登場した「ローカルな所有モデル」研究の二つに区分して整理する。そ

して、それぞれの問題点を乗り越えるものとして、ストラザーンの枠組みの有効性を示す。ストラザーン

の研究は、権利概念が想定するような普遍的な所有の主体が存在しないことを前提としつつも、単に「所

有」の文化的多様性を主張するにとどまらない。それは、「所有の主体=所有者」が交換関係の中で一時

的に抽出される仕組みに注目することで、「境界付け」「取り込み」「排除」といった、幅広い現象に適用

可能な分析概念を用意した点で評価できる。

この枠組みの有効性を、製薬会社による「第三世界」の民俗的知識の利用と、「知識の所有者」への利

益配分をめぐる問題の分析の中で示す。この問題へアプローチした法学、応用人類学的研究は、ジョン・

ロックの労働所有説に依拠し、自然に労働を投下した集合的主体としての「境界化されたコミュニティ」

を普遍的な権利の主体として想定していた。本研究では、そのような普遍的な「知識の所有者」は存在し

ないことを明らかにし、むしろ「知識の所有者」が個別の利益配分契約の中で作られる過程を、ストラザ

ーンを援用した論者たちのアプローチに即して明らかにするべきだと主張した。

事例分析は、米国生物多様性国際協力グループ(ICBG)のメキシコにおける二つのプロジェクトを扱う。

民族植物学者ロバート・バイ率いるICBG Latin Americaは、メキシコシティーの市場において収集活動を

行い、アクティビストの批判を免れた「成功例」として有名である。一方、ロバート・バーリン率いるICBG

Mayaは、チアパス州のツォツィル・ツェルタル語族の「コミュニティ」において収集活動を行い、地元伝

統医療師集団COMPITCHの反対運動により計画を中断するに至った「失敗例」とされる。

これらのプロジェクトの結果について、それぞれの科学者の利益配分戦略— 「知識の所有者」として誰

を含み、誰を排除するのかの「境界付け」―を焦点化することにより、先行研究とは異なる説明を試みる。

それと同時に、このアプローチが、「過去の知識の生産者」ではなく、「未来の自然の『管理者』」という

「今まさに生み出されつつある」「所有」の一側面を明らかにしたことを指摘し、その有効性を強調する。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(修士-15)

日本人のアジア観光

―観光人類学からのアプローチ―

田中 孝枝 (東京大学)

本論文は、観光は商品であるという認識から出発し、観光の「社会性」、観光客を取り巻く社会関係を

包括的に明らかにすることを目的とした。

まず、人類学における観光というテーマを整理し、ホストとゲストではなく、消費者としての観光客と、

それを仕掛け生産する文化仲介者という視座から、これまで自明の存在とされがちであった観光客を、特

定の社会文化的、制度的、商業的背景から包括的に捉えるというアプローチを見出した。

具体的には、海外観光自由化(1964年)以降の、日本人による東・東南アジア観光を事例として、3つ

の観点から考察を行った。まず1点目は、観光客を移動させる原動力となる観光イメージとその変化。2

点目は、実際に観光客を移動させるパッケージツアーの商品特性と、その生産過程。そして3点目は、標

準化・組織化された「観光経験という商品」を観光客が消費する過程である。研究方法は諸分野の文献研

究を基本とし、分析資料には旅行会社のパンフレット、旅行雑誌、女性誌を用いた。

観光産業の地理学におけるアジアは、市場や社会情勢、一般的なアジアイメージに対応して用語や対象

範囲が「東南アジア」から「アジア」・「アジアリゾート」へと変化した。そして、アジアの観光イメージ

は、「懐かしさ」と「新鮮さ」を二項対立的に組み合わせ、その対象や強調点を変えることで生成されて

きた。「懐かしさ」は経験主義的なものから「過去らしさ」へと変化し、「新鮮さ」は固定的で静的なエキ

ゾチシズムから経済成長と共に「変化するアジア」へと向けられた。

また、アジア向けパッケージツアーの商品形態は、航空会社の制度や行政政策の影響を大きく受けてい

ると同時に、観光客の行動に一定の枠付けを与えている。そして、費用、距離、時間という観点から相対

的に購入しやすいアジアという観光地は、必ずしも「場所」ではなくグルメ・エステ・ショッピングなど

の「テーマ」によって、重要な目的地となっている。観光商品は「現実を映し出す」ためではなく、あら

かじめ設定された時間や費用という商業的文脈の枠内で不特定多数の消費者の関心と共感を喚起する「わ

かりやすく、かつ新鮮な物語を提供する」ことを目的としている。

さらに、一般的な観光地イメージを観光客が個別化する方法には、観光客の抱くイメージと観光の商業

的文脈の相克、差異の生産と消去による一時的なカテゴリー化など共通のテーマがある。観光客の消費は、

瞬間的な焦点化されたまなざしに特徴があると考えられる傾向があったが、その特徴は視覚を含む身体性

による直接的経験としての「所有」にある。身体の空間的移動が伴う観光において、そのまなざしはコン

テクストを持ち、身体を介した全体的経験となる。

観光の生産、流通、消費には複数の当事者集団が関わる。問われるべきは、異なるアジェンダを持つ実

践の場における相互交渉の過程そのものである。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(修士-16)

在日フィリピン人の職業選択における介護職の有利性に関する分析

飯山 辰之介 (立教大学)

近年、エンターテイナーとして日本に来日し、日本人男性との結婚を通して就労制限のない滞日ビザを

取得している在日フィリピン人がホームヘルパー2級養成課程を経て、介護人材として日本の介護労働市

場に参入している。そして彼らにとって介護職は比較的安定して就労できる職業であり、彼らの介護職へ

の就労は職業選択の内、「経済的に有利な選択」であるという指摘もなされている。

しかし在日フィリピン人ヘルパーに対する就労状況についての聞き取りにおいて、その賃金は仕事に見

合うものではないと語られており、経済的メリットは少ないと認識されていた。むしろ彼らは経済的な側

面に関してはメリットのなさを受容しながら就労しており、現段階で介護職が経済的に有利であるとは断

言できない。

経済的メリットが少ないにも関わらず彼らが介護職に就労しているのは、介護職がそれまでの仕事に比

べて経済的側面以外にメリットをもっているからだと考えられる。具体的には介護職が「欠くことのでき

ない労働力であると認められる分野」の仕事であり、その結果「社会的地位の向上」に繋がり得る仕事で

あることが、彼らの介護の仕事を続ける大きな動機となっている。

さらに聞き取りにおいて、「ケア上手なフィリピン人であること」が介護の仕事をするうえでの大きな

強みとして主張された。それは自分達が日本人労働者の代替ではなく、オリジナルな労働力であることの

明確な表現でもある。外国人介護労働者受け入れに関する議論が盛んな現在、この言説は非常に政治的な

ものとなっている。しかしこの点を認識しつつ本発表では、「フィリピン人であること」を主張しながら

働けることが、介護職の も有利な点であると結論付ける。

しかし介護職に経済的メリットが少ないのは大きな問題である。上に述べた介護職のメリットは経済的

基盤をもった一部の在日フィリピン人しか実現できないものであり、在日フィリピン人一般にとって介護

職が有利であるとは言えない。また彼らにおける介護職の将来性について考察すると、現在進められてい

る外国人介護労働者受け入れや、介護現場における任用資格の見直しといった介護労働市場をめぐる動き

は介護労働市場の二重化に繋がる恐れがあり、在日フィリピン人ヘルパーの就労にとって不利になる可能

性がある。ただでさえ経済的メリットが少ないなか、これ以上不利な環境下で働くのは難しい。

彼らは既に大きなマンパワーを日本の介護労働市場に提供しているのであり、彼らを「介護人材」とし

て認めることがまず重要になる。それが対等なコミュニケーションが可能となる場で働くこと、独自性を

含みこんだ関係性のなかで働くことができるという、彼らにとってのこの職業の「有利性」を維持しなが

ら、経済的側面も含めた統合の促進と、介護労働市場の人材の確保とを共に実現する可能性に繋がるだろ

う。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(修士-17)

モーラム・スィン

―東北タイにおける現代ラオ芸能の動態―

平田 晶子 (東京外国語大学)

タイとラオスには、メコン河を隔てて居住するラオ(民族名称:lao)と呼ばれる人たちがいる。本論

文は、このラオと呼ばれる人々によって受け継げられてきたモーラムと呼ばれる職業的民謡歌手ないし芸

能者におけるタイ東北地方の村落社会を基盤とし、芸能活動を行うモーラムに焦点を当て、モーラムの「商

業化」について論じていこうとするものである。

モーラムとは、仏教的行事、または冠婚葬祭などの折に招かれ、公演を行う職業的民謡歌手である。か

つてのモーラムは、農閑期や法事が行われる時期に公演を依頼され、宿の世話を受け、食物を貰いながら

東北タイの村々で歌を歌ってきた。しかし、いわゆる「近代化」の影響を受け、モーラムは、芸の形態、

伝承形態、歌詞内容のみならず、モーラムの芸能活動の在り方を変化させてきた。1960年代以降、経済成

長を遂げるため、タイ中央政府は経済開発を主眼に置いた経済政策を打ち出し、貨幣の流通が発展してい

った。それに伴い、社会的・経済的な変化を契機として、東北タイのモーラム芸の業界では、モーラム芸

の一層の商業化・経営組織化が進んできた。

今日の東北タイにおけるモーラム関係者の間では、モーラム芸を運営するモーラム事務所の経営や芸能

の在り方をめぐって、「」や「」という見解が交錯し合う。いわゆる伝統的なモーラム芸を演じる古老モ

ーラム世代は、「」と自称し、モーラム芸の形態のなかでも現代的なモーラム・スィンを「本物ではない」

と批判する。このような古老モーラムによる「伝統的かつ本物であるモーラム芸が消えていく」という語

りは、本論文においては、人類学の真正性の議論において取り上げられてきた「喪失の語り」と位置づけ

た。したがって、本論文では、今日の東北タイにおけるモーラム芸の全貌を解き明かしていくために、古

老モーラムたちによる「喪失の語り」にとらわれることなく、現代的なモーラム芸であるモーラム・スィ

ンを研究対象とした。

本論文は、モーラム芸をめぐる「喪失の語り」を契機に、現代的なモーラム芸が生成される芸の形態や

伝承形態、運営形態を調べ、村落社会を基盤として芸能活動を続けるモーラム芸能者たちによる現代ラオ

芸能の実態を明らかにしていく。結論部では、モーラム芸の一層の「商業化」とは、東北タイの村を基盤

とした地域社会や血縁社会を組み込みつつ、伝統的芸能の社会組織化を確立していくモーラム芸能者たち

に何を与えたかという問いに対し考察した。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(修士-18)

近世後期の温泉地における滞在生活と交流に関する研究

内田 彩(立教大学)

1.研究の目的と方法

近年、長期滞在の可能な魅力ある温泉地の構築が目指されるなか、近代以前の温泉地が長期滞在リゾー

トの原型であったことに注目が集まりつつある。こうした温泉地の長期滞在生活の「つれづれ」のなかで

みられるのが「交流」である。

本論文では、近世後期の温泉地での滞在生活を支えた具体的仕組みを明らかにしたうえで、長期滞在生

活の余暇のなかで生まれた温泉地独特といえる交流に焦点を当て、その発生と形態について考察した。研

究方法は、主に近世後期の温泉地に関して書かれた当時の紀行文等の史料の分析によった。

2.江戸時代の温泉

古代から存在した「温泉療養」が広がりをみせたのは江戸時代中期であり、江戸後期には温泉療養に観

光的な要素が見られるようになっていた。「湯治の旅」は療養・保養・遊楽等の要素をあわせもつ旅にな

り、温泉地での滞在生活には湯治者の要望に応じて生活をおくれる仕組みが存在していた。こうした滞在

生活の中にみられるのが交流であった。

3.温泉地における交流

温泉地の特徴は、見知らぬ人々、それも身体の具合の良くない人々が長期間にわたって同じ空間に生活

すること、つまり「長期滞在」と「病」という共通性が存在したことにある。温泉地では、体調などの理

由で積極的に外出できなくても、同宿の人や共同湯を訪れる人が共に語らうことができた。いわば長期間

滞在のつれづれを減らすために行なわれた湯治場独自の滞在の過ごし方が、交流であったといえる。

4.交流の特徴

湯治者は、宿の決定、滞在生活、入浴方法等も好みと財力に応じて選択できた。また、宿主が滞在生活

をサポートしており滞在に大きな影響を与えた。そして、湯治者が体調や老若男女を問わず行ないやすい

滞在行動が交流であった。温泉地の交流は、滞在の魅力となると共に長期滞在生活をより豊かに起伏のあ

るものとしていたといえよう。この交流の特徴としては、以下の点を指摘することができる。

①温泉地では自然なかたちで様々な人々が出会え、交流をもてる複数の「場」が存在した。

②交流は各人のもつ趣味や能力により広がりと深みを増した。

③滞在生活には出会いと別れの場が存在した。湯治者には新参者の立場、古参者として新参者を迎える

立場、去る人を惜しむ立場、 期には自らが去る立場と、順に役割が回ってきた。また、帰宅時には

別れの宴などの儀礼的催しも行なわれた。こうした交流形態は長期滞在において単調になりがちな生

活に豊かな起伏を与えた。

④様々な人々が集う温泉地は情報の集積場であり、行動的な活動のほかにも、知的な活動を行なうこと

が出来た。

⑤温泉地を去っても湯治者同士が互いに訪問し合うなど交流は継続し、温泉地再訪の一つの要素になっ

た。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(修士-19)

情報システム開発の失敗と経営文化との関係 ―日本企業のコンピュータ・システム開発の経営人類学的考察―

小林 陽子(放送大学)

本研究は、日本企業におけるコンピュータ・システム開発による情報システム開発の失敗原因について、

経営文化との関係を絡めて考察したものである。 これまでおこなわれている情報システム開発の失敗原因についての研究は、経営論や組織論、コミュニ

ケーション論、情報技術論からのアプローチによるものがほとんどであった。しかし技術は人が創るもの

であり、使うのも人であるということ、また情報システム開発はもちろん、コンピュータ技術は私たち人

間の社会システムに沿って構築され、運用されるという実態、そして情報システム開発が企業経営及び企

業の業務処理と密接に関係しており、また企業が人によって成り立っているという現実を考察するのなら

ば、文化人類学を基礎とした研究アプローチが必要だと私は考えたのである。更に私は、自らの経験上、

企業において情報システム開発の失敗を引き起こす潜在的な起因は、経営文化及び人間的要素が深く関わ

っていると考えたのである。 本研究は企業を研究対象とするため、経営学の要素も重要といえる。したがって本研究は文化人類学の

一分野である、経営人類学視野からの考察を目指したものである。 本研究を考察した結果、日本企業が情報システム開発をおこなう場合、文化的背景の差異が発生源とい

える葛藤が生じやすいということがわかった。欧米で誕生し、欧米の社会システムに沿って発展してきた

コンピュータ技術を、日本企業が使用することによって、言語の違いや社会システムの違いなどの文化的

背景が発生源といえる問題が生じやすいのである。 このことからも日本企業が情報システム開発を問題なく遂行させるには、経営論や組織論、技術論を中

心としたアプローチも重要だが、それよりもまず、経営者はもとより、情報システム開発に携わる者や利

用者たちが、情報システム開発をおこなう上でさらされる文化的葛藤を理解し、共有することが大切だと

いうことがわかった。特に経営者は、自社の経営文化や経営理念、そして情報共有に対する社員の認識が、

情報システム開発を遂行する上でどのような問題を発生させるのか、また、情報システムの利用が自社内

だけでなく、社会においてもどのような葛藤を生じさせるのか、もしくは今現在、どのような葛藤が生じ

ているのかを冷静に分析し理解することが重要であり、その上で自社の組織形態と照らし合わせ、必要で

あれば、情報システム開発部隊と利用者、経営者の三者間の意見・要望事項の調整、及び葛藤の軽減・解

消を図るための調整部署を設立させるなど、柔軟な対応をとることが重要であるということが理解できた

のである。

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2008年度関東地区修士論文博士論文発表会

(修士-20)

在日コリアンの多様的・流動的・両義的な日常生活についての考察

―ライフコースの事例を通して―

宮脇 裕子(放送大学)

1910 年の日韓併合以来、日本には多くの朝鮮人、韓国人が移住し、定住してきた。そして、意識的にも

無意識的にも日本人は在日コリアンと関わり持って暮らしてきた。しかし、彼らに対する社会的認識は依

然として不十分なままである。パターン化された偏ったイメージや一方的にラべリングされた固定観念が

現存している。その理由として、日本社会の複雑な状況が、とりわけ日本と朝鮮半島の政治的問題が在日

コリアンの実態を見えにくくしてきたためだと考えられる。それは法的地位や就労問題などの点で、在日

コリアンの権利が十分に保障されていないため、必然的に彼らは多様的で流動的で両義的な人生の選択を

余儀なくされたことが関与している。つまり個々のおかれた状況に応じて彼らは時として日本人として振

るまい、韓国人や朝鮮人に戻り、またどちらでもないというような目まぐるしい変化の中で生きてきたか

らである。

これらの問題点を前提としながら、本論文では在日コリアンの生活実態の解明の為にオールドカマ―で

ある一世から三世の世代を対象として考察をおこなっている。また日常生活における彼らの多様的で流動

的で両義的な認識と経験に焦点をおいて具体的なライフコースの事例を取り上げながら考察をおこなっ

ている。

さらに従来、文化人類学のフィールドワークは参与型観察(participant observation)が主流とされ、

その方法論のもとに調査研究が進められてきた。しかし本研究においてはインフォーマントに対してより

接近し、多角的なアプローチを試みるといった展望のもとに、インフォーマントにパートナーとして研究

に共働参画を求めるアプローチが求められることを踏まえ、そうした相互参与型(participatory

research)研究といった手法により調査をおこなうことを心がけた。その利点はインフォーマントが単な

る話者としてばかりでなく、間接的に研究に関わることで相互間での討論や内容についての確認作業を通

して、彼らの実態を研究の中により正確に反映させることが可能であるからである。これらを踏まえなが

ら、在日の現在の日常生活を規定しているさまざまな生活要因についての分析をおこなっている。そして

それだけにとどめず、過去の歴史的背景からもアプローチをおこない、それらの関連要因が在日コリアン

の日常生活の実態にどのような影響を与えたか、与えているかについての包括的な分析と記述をもとに日

常生活の実態をより正確な情報として伝えることに留意している。さらに一連の作業を通して、現在在日

コリアン三世以降の世代や民族団体から生み出されてきた日韓の関係における新しい潮流についてのさ

まざまな活動を紹介しながら、その意義について考えると同時に、日本人と在日コリアンの共生社会へ向

けての新しい関係を模索する一助としていきたいと考える。