フォーカシング ~ひとりでできるカウンセリング技...
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フォーカシング
~ひとりでできるカウンセリング技法~
2003HPOI O 林 優樹
目的
現代社会はストレス社会である。社会ではストレスに対して、個人で立ち向かうこと
も多くの場合に必要とされる。他からの援助を受けること無しにストレスに立ち向か
っていくに必要なのは、普段からの心のケアとストレスに対する心構えをしておくこ
とではないだろうか。そこで、プロフェッショナルの援助を受けること無くして自分
自身の心を平静に保つ術を持つことは、健康に生活をしていくうえで大きな手助けと
なるのではないだろうか。そこでこの論文では文献研究によって、ひとりでできるカ
ウンセリングの技法としてフォーカシングをとり上げることにした。
考察
フォーカシングが一人で行うにあたっての有効性について、 ①Gendlinの研究に対す
る考察②筆者の一人で行ったフォーカシング体験の分析③他の心理療法の技法との比
較考察、という3点から検証した。その結果、 ①からはGendlinの体験過程とフォー
カシングの考え方から、カウンセリングの場面で行われているようなフォーカシング
の効果がひとりで行っても期待できることが、 ②からは臨床の経験をもたない著者が
行ったひとりでのフォーカシングでも一定の効果が得られたことが、 ③からは他の療
法と比較してもフォーカシングはひとりで行っても危険性が少なく、練習も容易で取
り扱いやすいこと、などが表された。その結果、フォーカシングはひとりで行っても
臨床場面のような一定の効果は期待できること、他の技法と比べて多くの経験がなく
とも比較的容易に療法としての効果を得ることができることが示された。また、調べ
てみるとひとりで行われたフォーカシングの体験記録というものはあまり残っておら
ず、理由としてはフォーカシングでは自分の変化について表現したり書き表したりす
ることを必要としないことから、自分ひとりでフォーカシングを行いながら記録する
ことの困難さが挙げられるが、その記述法や観察法の確立は今後の課題のひとつであ
ると考えられる。
昔話が心に与える影響
一口承文学という形式の有用性-
2003HPO74 白井真理子
本研究は、昔話が心に与える影響について、文献調査及びインタビュー法による研究を行った
ものである。
現在我々が目にする昔話の多くは、 「再話」により、本来の形とは違ったものとして存在する。
元々の昔話には、残酷な部分や、バッドエンドの結末を持つものも数多くあった。しかし「子ど
も」という概念の誕生により、それらは純粋で守るべき存在である子どもには相応しくないとさ
れ、大人の考える理想の世界へと書き換えられることとなった。それは昔話が、成立の基盤が「子
どものためのもの」である童話と区別されなくなったということでもある。
しかし昔話は本来、子どもだけではなく、全ての人に語り伝えられていくものであった。そし
て「語る」ことにより、昔話の特徴的な形式が作られ、守られていくこととなったのである。昔
話はその文学的特徴により、聞き手の心に影響を与える効果を導くことができる。聞き手は昔話
の「語り」を聞くことにより、発達的・教育的・臨床的に、プラスの効果を得ることができるの
である。それは、昔話が口承文学であるがゆえに可能となったと考えられる。昔話が心に与える
影響を考える上で、昔話が口承文学であるということを切り離して考えることはできないのであ
る。
再話によって削除・書き換えが行われた残酷性やバッドエンドは、本来人間にとって必要なも
のである。昔話はそのような要素を象徴的に取り込むことにより、人間が本質的に必要とするも
のを聞き手に与えることができるのである。その際、残酷性が子どもの心に悪影響を与えるので
はないかということを憂慮するべきではない。昔話の特徴により、それらの要素は意識レベルで
は隠されるが、無意識レベルでは好影響を与えることができるのである。
昔話は、口承文学であったがゆえに、子どもに限らず全ての人にとって価値のあるものであっ
た。しかし現代では、社会の変化により,昔話を「語り伝える」という、口承文学の形での保存
は難しいと考えられる。現代において昔話の本来持つ力を享受するためには、元々の形式に近い
形で保存されること、さらに大人が子どもに昔話を工夫して「語る」ことが必要なのではないだ
ろうか。
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グリーフ・ケアに関する研究
一癒しのプロセスを探る-
2003HPO78 鈴木竜太
厚生労働省「人口動態統計」によると、 2005年の日本での死亡者数は1,083,796人にも
上る。日本全土において、これだけたくさんの人の死別に立ち会っている人がおり、その
一人一人が死別体験者となっている。死別体験は人生の中で必ず訪れると言ってもよいラ
イフイベントである。普段我々は、死別体験をどのように意識し、克服しているのだろう
か。また、この体験をどのように受け止め、どのように生きているのだろうか。
死別の際に生じる感情を悲嘆(Grief)、または悲哀(Mourning)という。悲嘆研究は、
欧米においては20世紀初頭のFreudの啓蒙的な報告に始まり、 Lindemannにより実証的
に検討された後、 Bowlby, Parks, Sanders, Worden, Burnelらの精神科医、臨床心理家の
努力により日常の心理カウンセリングの場に取り入れられた。日本においては1980年代
から積極的に死別・悲嘆研究が行われてきた。
死別の際の悲嘆を決定付ける要因は、 「死別の対象との関係」、 「死別のタイプ」、 「死因」、
「死の状況」、 「遺される人の特性」、 「遺された人に役立つ資源」、 「その他」である。死別
体験後の過程で重要なことは、遺された人-のソーシャル・サポートである。
悲嘆のプロセスは、段階説、位相説、課題説、と諸説あるが、河野(1986)が述べるよ
うに、過去に生きた人と同じ数だけ悲嘆のプロセスがあるとも言える。しかし、上記のプ
ロセスの過程で生じる通常の悲嘆反応や病的な悲嘆反応を知っておくことは、今まで多く
の人が経験してきた悲嘆について学ぶことであり、自分が死別を経験した時に、有用な予
備知識になるに違いない。死別の悲しみを癒すための具体的で有効な手段としては、各研
究者それぞれが主張している「思いの言語化」である。言語化とは口話によるものと、文
字にすることの2種類である。グリーフ・ケアとしてゲシュタルト療法のエンプティ・チ
ェァ技法を使った、故人-の思いを言語化し、故人の思いを言語化し受け取ることが、癒
しにつながるようである。また、自助グループにおける体験も、死別体験者の悲嘆を促進
する役に立つであろう。
しかし、宮林(2005)が指摘するように、社会的に認知された悲嘆表出の場が現在にお
いては乏しいことが問題点である。死別体験者が安心して話しができる場所の確保が必要
である。そのためには、一般の援助者から研究者まで、死別体験者に向けて積極的に場を
提供することが望まれる。
これからの課題として、 「悲嘆の文化差」を考慮し、研究する必要がある。欧米の知見を
利用しつつも、日本文化に基づいた死別・悲嘆研究がなされるべきである。
死別体験者として自己のグリーフ・ワークをする際には、故人に対する思いを語り、故
人のイメージと対話することが大切である。遺された人が周りにいる場合には、よい聞き
手になり、実際の手を差し伸べることが悲嘆を促進させ、グリーフ・ケアとなるであろう。
共感的理解に関する文献研究
2003HPO91 柳生 邦紀
カウンセリングの過鎧においてクライエントに共感することの_重要性が,様々な心理療
法において,指摘されてきた。また,共感の1つの形態として共感的理解という概念があ
るD共感的理解とは, Rogersが,クライエント中心療法において,クライエントの人格の
建設的変化を生じさせるためのセラピストの3つの態度特徴のうちの1つとしてあげたも
のである。共感的理解は,カウンセリングにおいて,重要な概念であると考えられる。し
かし,概念としての捉えにくさや,概念として理解できたとしても,実際に作業すること
とは繋がり難いことから,共感的理解は,作業することが,非常に困難なものとなってい
る。そこで,本研究では,共感的理解の概念の把握,および,実際に作業するために必要
なことを明らかにすることを目的とする。
研究方法は,文献研究で行った。まず, Rogersの1985年の講演における語りを見て,
共感的理解について概観した後,共感的理解の疑問点について,筆者なりにいくつかあげ
てみた¢その疑殿に答えていく影でチ共感と姓何なのか,共感的理解のメカニズム娃どの
ようなものなのか,共感的理解が果たしている役割とはどんなものがあるのか,共感的理
解の必要条件とは何かについて, _論じていったD
以上のこと論じた結果,共感的理解とは,治療者によってなされる専門的で理解を重点
においた共感であり,その意味するところは,クライエントを知ることに向けての態度,
およびその態度の中で内的状態を経験的に知ることであり,治療者の態度から体験,理解
を含む循環的なプロセスであるとまとめられる。共感的理解についての理解は得られた。
しかし,共感的理解を作業として行っていくためには,臨床経験を積むこと,対象者との
面接を重ねること,自己の理解を深めること,感受性を高めること,人格の構造論に関す
る知見を広めること,独自の共感駒理解論を持つことなど,様々な要素が必要になること
を忘れてはならない。また,今後の研究として,共感的理解に関する,実証的な研究を多
く行って行くべきではないかと考えるD