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立命館経済学 三八 (四八四 資本主義杜会 真実、と嘩薦 資本制生産様式と人間的福 資本は一瞬もその価値の増殖をやめることはできない。 である。貨幣の数量として現わされるかぎり、価値は一般的な 体的内容-価値の担い手たる現実の商品、その使用価値ーをもたな 価値の増殖を唯一の推進的動機としているからこそ、資本は富伶それ自 てもけっして到達されるごとのない窮極の・無窮の・目的を追うよう宿命す 「使用価値はけっして、資本家の直接的目的として取扱われるべきでは在い。 (一) れるべきでなく、利得することの休みない運動のみがそう取扱われるべきである。」 資本の.このような本質が人格化されたものとしての資本家は、自分の取扱う商品の使 、一 ’一

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立命館経済学 (第五巻・第五号)

三八 (四八四)

資本主義杜会にわける矛盾のひとっのあらわれ

真実、と嘩薦

矢  二

      一 資本制生産様式と人間的福杜の関係

 資本は一瞬もその価値の増殖をやめることはできない。資本の存在の仕方は「利得することの休みない運動」

である。貨幣の数量として現わされるかぎり、価値は一般的な、抽象的な「富」を意味するとしても、それは具

体的内容-価値の担い手たる現実の商品、その使用価値ーをもたない数学的な「数」である。こうした無内容な

価値の増殖を唯一の推進的動機としているからこそ、資本は富伶それ自体への近接というような、何処まで行っ

てもけっして到達されるごとのない窮極の・無窮の・目的を追うよう宿命すけられているのである。

  、  、  、  、

 「使用価値はけっして、資本家の直接的目的として取扱われるべきでは在い。また、個ヵの利得もそう取扱わ

                                  (一)

れるべきでなく、利得することの休みない運動のみがそう取扱われるべきである。」

 資本の.このような本質が人格化されたものとしての資本家は、自分の取扱う商品の使用価値については無関心

、一

}止^

∴’一

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であり、無差別・無選択的-旨g箒曇昌1である。資本家炬とっての商品は、人間的労働がそれに対象化された

ものでありさえすれば、どんなものでもいい、その種類や晶質-商品の使用価値-は問うところではない。要す

るに価値の増殖、金儲けになりさえすればいいというわけだ。だから、資本家は人命を救うに役立つペニシリン

にたいしても、大量殺人に特効のある原子爆弾にたいしても、同様に無関心な無差別在態度をとる。価値をもた

らすという点で、二つの商晶は無差別だ。それらの商品の使用の結果が、人の生命を救うことになるか、破滅さ

せることになるかは、彼らの関知するとごろではない。資本は人間の福祉にとっては無縁の存在であり、資本家

は、金銭ごとと人情沙汰とは別物だ、という麓言で呪縛されている。商品のうちにふくまれる対立-交換価値と

使用価値との対立1は一般的には資本家の利得と人民の福祉との対立.矛盾となって現れる。

                                   、  、  、  、  、

 資本がん間的福祉にたいして無感覚だということに規定されて、資本家階級のものの理解もまたその階級的立

場に制約されることをまぬがれない。端的にいえば、彼レは金儲けに関連した以外のことについては、無関心で

あるばかりでなくそれを理解する能力を欠いている。貨幣で買え在いものの存在、貨幣的利得を受容れ淀いもの

の存在は、資本家の理解能力を越えた存在である。だから、世界におけるかかるものの存在を僧み、できるごと

在らそれを力で抹殺しようとする。

 たとえば、中国解放のための闘争に、何百万もの人民が生命を惜します参加した事実をまのあたり見ながら、

ブルジョアジーは革命にたいする人氏のかかる自発的借熱と献身とを理解することができなかった。一九三01

三七年頃の紅軍についての蒋介石ならびに資本主義国の報道の無理解さを、スメドレて(ト習o。。oo昌&-。<)は次

ぎのように記している。

  資本主義杜会における矛盾のひとっのあらわれ(阿部)               三九 (四八五)

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   立命館経済学 (第五巻・第五吾)                         四〇 (四八六)

 「政府側(国民政府)の諾新聞は、朱徳将軍のことを「紅匪の頭目」、「共匪」、人殺し、盗賊、放火犯、底どさま

ざまの名で呼び、それが国内の外字薪聞や国外の諾薪聞にこだましていったのである。

 しかし彼らは、それではどうして、何百万の正直で勤勉な農民や労働者や理想に燃える学生や知識人たちが、

彼が推進する主義のためには、よろこんで戦い、死んだか、ということを説明しようと試みたごとなどは、一度

        (二)

。もなかったのである。L                                         .

 ブルジョァジーは、彼らの階級にぞくさない人びとが、どうして金銭以外の何かのために働き、闘い、中傷と

死に立向うのか、けっしてわからない。彼らは彼らの自由のうちに抱きこめないものを、そうじて理解しない、

そしてそれらの存在は搦して気狂か狂信のようにしか思われない。これに反して、大多数の人民の側に立つと、

アジア大陸の大半にわたる地域で五億にあまる人びとが、外国の帝国主義の支配と利益からは独立に、自分たち

の力で、自分たちの創意で、つくりあげた薪らしい人民民主主義の国家を、国家として認識-承認できないとい

うような、そんな認識は、どうしても正常な頭脳の持主のする認識とは思われ在いのである。

 狂った認識は、彼らの階級的土台の腐朽をそのまま反映したものだから不冶の症状である。だから、たとえば

中国の「解放」というごとについても次ぎのような喰いちがい生じる。

 中国の人民が内外の封建的・帝国主義的支配と搾取から自身を解放して、薪氏主主義体制の中華人氏共和国を

うちたてたのち、世界最大資本の利益を代表するものは、彼らの立場から人氏中国を「解放」するまでは、その

良心はやすまら淀いと呼号し続けた。この場含、同じ「解放」という言葉に盛られた意味が、人氏の立場からの

ものと資本家の立場からのものとでは、完全に対蹄的にちがう。資本の欽し且つ理解しうるかぎりでの「解放」

一 …

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は、中国の人民を資本家、地主の前に.、その支配と搾取の対象としてふたたび自由に「開放」しろという意味の

              、  、  、  、

解放(?)にぱかたら友い。このかいほうのために、資本は力.すくで人民の嘗由を圧殺すろことをはばからないと

いうのである。その最近の実例はハンガーの反革命暴動において見られる。

 輯放という言葉に与える意味の相違は、杜会におけるブルジヨァジーとプロレタリァートとの階級的立場の相

違、対立をそのまま反映したものである。このような両者の見解の相違、喰いちがいは、単に二三の言葉や概念

について現れるのみではない、それは杜会の政治、経済、文化などあらゆる事象についてもぽとんど例外なく現

れる。杜会的事象全般に関する見方の相違は、とりもなおさす、二つの杜会階級がその上に立つ経済的土台を異

にし、したがって異なる土台を反映した哲学・世界観も当然根本的にちがうというふうに、つまり唯物論的に説

明されるべきものである。   一

 そこで、人びとは自分の生活を正しい軌道にのせ、誤りのたい目標にむかって前進しようと欽するならば、ま

す、社会における階級対立の事実を正視し、階級杜会の矛盾のあらわれであり、そのうちに矛盾解決の条件をと

とのえているところの階級闘争の理論を、しっかりっかまえ在けれぱならない。この認識とこの理論在しで、現

在を有意義に生まぬこうとしても、それは全く不可能であろう。「鋼はいかに鍛えられたか」の著者ニコライ.ア

レクセしエヴィチ・オストロフスキイは、その作品を次ぎのような「真のヒューマニズム、社会主義的ヒューマ

ニズ」で貫いている。        ・.

 「人間にあって一番大切なもの1去れは生命だ。それは人間に一度だけあたえられる、そして、それを生き

るには、あても友く生ぎてきた年月だったと胸をいためることの在いように生きねばならぬ、卑しい、くだらな

  資本主義杜会における矛盾のひとっのあらわれ(阿部)               四一 (四八七)

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   立命館経済学 (第五巻・第五号)                         四二 (四八八)

い過去だったという恥に身を焼くことのないように生き通さねば淀らぬ。

                                         、  、   、  、  、  、  、  、  、

 そして、死にのぞんで全生涯が、またいっさいの力が世界で最も美しいこと1-つまり、人類解放のための闘

、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、                           (三)

争にささげられたといい切ることができるように生きねばならぬ。」(一九四七年版、第二部第三章、二二〇頁)

 人類解放の真実の意味は、人類を階級から解放するということである。政治的に支配し、経済的に搾取する階

級と、その支配のもとに隷属搾取される階級とに分裂している社会の階級構造を一掃して、すべての人びとを階

級的なあらゆる関係から自由にーすること、それがぼんとの解放だ。現在歴史によって人類の前につきつけられ、

その解決を追られている課題、それがこの「人類解放」であり、その否定的な面が資本主義の腐朽や危機と在っ

て現れている。この課題を成功的に遂行している国ぐにと、未だ遂行するにいたらない国ぐにとについて、それ

ぞれの経済的基本法則をくらべてみると誰にでもわかるような本質的な相違があきらかに見られる。

資本主義杜会-資本制的生産様式が支配的に行われる諾杜会、商品の使用価値がネグレクトされて価値の考慮が

優先するような生産が支配的に行われる諾社会ーの基本的経済法則は、スターリンによって次ぎのように定式化

された。

 「現代資本主義の基本的経済法則の主要特徴と要求はだいたつぎのようにいえるだろう。

 すなわちその国の大多数の住民を搾取し、零落させ、貧困にし、次に他の国ヵ、とくに後進国諾氏族を隷属さ

せ系統的に掠奪し、さいごに最高の利潤をあげるため戦争と国氏経済の軍事化という方法によって最大限の資本

             (四)

安的利潤を保証するごとである。」

 最大隈の資本家的利潤の取得を、独占資本の価値増殖欽、「利得することの休み淀い運動」が、資本家に強要す

」 …

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る。この資本の強要にあって資本家は人聞的心情を喪矢する、だからこそ、大多数の住氏にとってのあらゆる不

幸と災害-貧困・.級隷化・戦争・死-が平気で看過されるのである。ブルジョアジーが棄てたところの人間性、

人生的福祉への関心を拾ひ上げ、それを全面的に発展させる歴史的使命を背負うものはプロレタリアート以外に

                    、  、

はない。ブルジョアジーは自已に1かわるべきよりよき後継者・プロレタリァートを鍛え育成しつつ世界から去り

つつある。

 一九五六年十二月二十日から二十四日までの五日間ひらかれたソヴェト同盟共産党中央委員会総会は、その採

択した決定のうちで、盗本主義世界の現状と矛盾について次ぎのように述べている。

 「資本主義世界においては各国間、各独占資本間の競争がますます深刻化し、拡大の一途をたどっている。独

占資本は最大隈利潤を追求するため、労働者、農民にたいする搾取を強化し、勤労九衆の生活水準にたいし攻撃

をおこ,なつている。

 植氏地主義国家はその帝国主義的膨脹政策によって新しい投資圏を探しもとめ、経済的に発展のおくれている

国を奴隷化するととによって資本主義的搾取圏の拡張に努めている。しかしながら、これらの帝国主義的-拡張政

策は不可避的に後進諾国民の抵抗をよびおこす。すべてこれらのことは必然的に資本主義経済の軍事化、軍拡競

                      (五)

争および資本主義制度の内部的矛盾の激化をもたらす。」

 右のような資本主義の杜会体制にたいして、杜会主義のもとでは生産の杜会的性格に照応した生産手段の杜会

的所有が実現され、その結果労働の生産物は資本家的利潤を生むための手段ではなくなって、人氏のたえすたか

まりゆく諾需用を満たすため資料-有用物-となっている。生産手段とそれによって作られる生産物から資本と

  資本主義社全における矛盾のひとつのあらわれ(阿部)                 四三 (四八九)

, 良幽f三}

芽{壷蒙}一-曳,甜王亡

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  立命館経済学 (第五巻・第五号)                      四四 (四九〇)

しての性格が失われて、人生的・福祉的性格がよみがえらされたのである。杜会主義の基本的経済法則の本質的

特徴と要求とをスターリンは、次ぎのように要約して述べた。それは、「杜会全体のたえすたかまりゆく物質的、

文化的需要を高度な技術にもとすく杜会主義的生産の不断の発展、改善によって最大限にすたすことを保証する

   (六)

ことである。」

 杜会主義が他の杜会制度とくらべて格段に優れた杜会制度たというごとは、絶えす急テンポで発展しつっある

その国の生産と、その発展につれて高まりつつある人畏の生活水準、この二つの点を取りあげただけでも十分に

わかる筈だ。さきに揚げたソヴェト同盟共産党中央委員会総会の決定は、ソヴェト同盟に関して次ぎのように述

べている。

 「ソヴェト同盟の杜会主義制度はすべてこれらの欠かんや矛盾から解放されている。1前掲、ソ同盟共産党中央委

員会総会の決定参照ーソヴェト同盟は全杜会主義国間の団結のためにたたかい、かつその友好的な協力関係を発展

させながら確信をもってレー三ン主義的路線を前進している。ソヴェト国民は共産党によって定められた計画を

生活上に具現化するため全力をささげている、ソヴェト国民はソヴェト国家が諾国民の利益と世界平和の偉大在

事業を一貫して擁護していることを知っている。

 現在わが国には、共産主義建設の現段階に適応した高度在経済発展段階に移行するため必要放すべての条件が

    (七)

そろっている。」

 杜会主義の出現が、人類史の上で飛躍的な進歩を画するものだということは、今では、言葉や文章などによっ

1ては打ち消すことのでき在い客観的事実である。それは、ソヴェト同盟が前進しつつある姿によって、また、ソ

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ニト同盟の前進しつつある蒼たいする恐怖の表甲箕カンパ一アの狂暴午によ一ても実証荒ている・

 一九五六年二一月二九日付人民日報所載の論文「ふたたびプロレタリアTト独裁にかんする歴史的経験につい

 て」のうちには、ソヴェト同盟について、その社会制凌としての優れた点に関する次ぎのような記述がある・

  フ同盟は革命後三十九年間ひじょうに多くの成功をおさめた。ソ同盟は搾取制度を消滅させることにょって・

 経済生活の中にある無政府性、恐慌、失業に終止符をうつた・

  ソヴ一トの経済と文化は栗主義国では考えら砦阜さで前進した。一九五六年のソニトの工業生産高は・

革命前の最高をしめした一九二二年の三十僅実る。革命前には工業発展が言れ、書が姦をしめて茎

.国が、いまでは貰第二の大工業国と膏、いかなる票らみて妾すんだ科学と技術の力をち・高唐発展

 した社会主義文化をもつている。

  革命前には琵されて差ソ同盟の勤労者は自分たちの国の主人と芳、革命的闘争と建蒼偉大奮熱と創

造性を発揮し、その物質的生活と文化的生活は根本的墓化董げた。また十月革命いぜんには一シァは諾罠

の牢讐あつ奈、革命後ごれらの畏はソ同盟内で平等をかち言、急速堤進的窪会主義の罠に発展し

た。、.これらは、人民がすっと似前か島一ている争う余地の奮事実で払デ

  、  、

 吉よく膏つっあるもの、前一進みつつあるものが、ふたたび逆転して六悪い方一、うしろむ凄後退す

るようなことを、人類史はかって経験し奈った。歴史の歩む道は不断の前進、不断の進歩の方向を指してい

る。老朽して時代言れ隻つ言竃、新らしく生れて伸びてゆくものが交替する、后が永久纂び奮で

発展する生命・生活・歴史の法則である。

   筆主義杜会における矛盾のひとっの着われ一阿部一      四五一四九こ

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                                           四六 (四九二)

   立命館経済学 (第五巻・第五号)

註(一) 長谷部文雄訳「資本論」第一部 二九三頁

 (二) A・スメドレー・阿部知二訳「偉大なる道」-朱徳の生涯とその時代- 二頁

 (三)オストロブスキイ・杉本良吉訳「鋼鉄はいかに。鍛えられたか」第一部.ナウカ杜版三六五頁

右の書圭わせてヴ一・ポレヴォーイ「古一一実の人間の物語」上、下、一青銅杜版一を読むことをすすめたい。

階級対立の事実の認識について。

「さいきんの国際問題を検討するばあい・われわれは芝より妻ず、も一と基本的茎実、すなわち世界における帝国主義

侵略ブロヅクと人民勢力の対立から出発しなければならない。

帝国義の侵略にょるくるしみを十分に味一てきた中国人民は、帝里義がっねにすベィの人民の解放隻対、奮ゆる被抑

圧国民の独立に反対して美ことを忘れることはで差い。また、帝里義は人民の利益をもつと圭警竜つている共産主

義運動をっねに自分たちの肉の{あるトゲとみなしてきた。最初の杜会主義国家であるソヴイ一ト同盟が生れて以来、.帝里

義者は奮ゆる手段を使ってこれを破かいしよづとしてきた。」一アカ一タニ九五六年十二旦一一十呈「ふたたびプ宮レタリァ

ート独裁にかんする歴史的経験に。ついて」)

「世界に搾取者と被簑者とがいるかぎり、また権力をっ資本家と労働者階級とがあるかぎり、歴史的諾事件を分析する出発

点はブルジ一アジーとブロレタリァートの対立である。これまでに奄正義者は何雫このマルクス主義の羅針竿事態纂

展の方向をモく見さだめるための羅針竿を労働一轟級の手か暴いとろ-ピしたものバ一、つた。」一アカ一タ.一九五六年十二

月二十一目号「このことで利益を得るのは誰か」プラウダ紙論文)

一…

山…

一 …

、~ …

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(四)(六) スターリソ「ソ同盟におげる杜会主義の経済的諾問題」五月書房版.上.五三!五五頁

-・ooけ與-目・、、向8目。旨-。勺89o昌。口◎{○o◎a竺げ冒-目亭o弓ooIOo.甲、阯o.畠.勺目9オプ&巨峯易o◎事お竃.

(五)(七)「アカハタ」一九五六年二一月二七目刊第二一六〇号「二つの決定を採択」

(八) 「アカハタ」一九五六年二一月三〇目刊第二一六三晋

二 資本家的利害と科学的真実

 資本主義社会では、社会的生産が資本家の私的企業にゆだねられているので、この社会の物質的・精神的生活

をささえるところのすべての財貨は、資本家の財産として、資本家の手に握られるごとになる。かくて、資本家

はごの杜会のすべての人六の生活の根を押えているという意味で、資本主義杜会の主権者であり、何人によって

もその意思を拘東されることのない自由な人格・独裁者である。資本家の白由・独裁は人間の労働力をもふくむ

    、  、

あらゆるものの商品化、したがって、姿本の生活様式・G-WIGが人類の社会生活の全両をおおうにいたって

その絶頂に達する。貨幣はすべてのものを買うこと、自由にーするごとを要求してやまない。

 それだから、「絶対的に何らの商品でもないもの、たとえば良心・名誉などは、その所有者にーより貨幣で売ら

               、、、・            (一)

れ、かくして、その価格を通して商品形態を受取ることができる。」というよう淀事態が普通あたりまえのごと

になる、婆本はすべてのものを金儲けの目的で買うのだから、買われたものはこの目的にのみあてられる。それ

で、買われたところの良心.名誉在どは、当然盗本の金儲けのために仕えるという特殊な商品形態をとらされた

良心・名誉などと在らざるをえ在いのである。

  資本圭藩杜会におげる矛盾のひとっのあらわれ(阿部)              四七 (四九三)

;;讐…ぬ弘’{,、 、ヨ廿・.羨茎一       ・至

、  - チ’、         ’  ・、

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  立命館経済学 (第五巻・第五号)                      四八 (四九四)

 このような事情は学問や政治の関係においても少しもかわらない。いろいろな学説にしても政治上の意見や政

策にしても、資本はそれらが自己の金儲け目的に役立つかぎりで買う-つまり奨励したり、保護したり、援助し

たりする。ごの場合、学者や政冶家が自分の学者、政治家としての良心や節操を資本に売り渡したことを意識し

ているか、否かは問うとごろでは在い。彼らが意識して、資本とは利害を異にする社会階級の立場に立っていな

いかぎり、結果として、客観的事実として、彼らの言動が資本の利益を守り援けるということに淀るのである。

 反面において、資本は金儲けにとって不都含なごと、.妨げになるようなことにたいしてはがまんできない、そ

れらを僧み、それらを排除し抹殺するためには、どんな手段でも採ることを敢て嬢購しない。資本の利益に奉仕

する…か昌身を自虐するためには、人びとは華の猛烈姦害や攻芭耐え対抗しつづける覧りるだけ

のかたい操守と不動の階級的認識を身につけねぱならない。資本の支配する社会で、真実の科学的研究がどんな

に烈しい敵意を巻き起したか、マルクスは「資本論」第一版への序一言のうちで次ぎのように述べている。

 「経済学の領域では、申帥か枠常淋弥弥は、他のすべて。の領域におけると同じ敵に出会うぱかりではない。経

済学の扱う材料の独自な本性は、人心の最も烈しく最も狭量で最も厭わしい情念を、私的利害からの念怒を、自

由な科学的研究に対する戦いに呼びだす、たとえば、イギリスの高教会は、その貨幣収入の三十九分の一にたい

する攻撃よりも、むしろ、その三十九の信仰箇条のうちの三十八にたいす・る攻撃の方を赦すのである。今目では

                              (一一)

無神論そのものは、伝来の所有諾関係の批判にくらべれば軽い罪である。」

 科学としての経済学は資本主義社会を分析解剖し、その矛盾の発見を通じて、この社会。の運動法則をあぱき出

すことを窮極の任務としている。この社会における「私的利害」の背反は、その大きな矛盾の根源なのだが、と

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                                           、 、

 の矛盾を突くことは、この矛盾の存在している現状によって最大の利益を享受しているものの念怒を激発する結

、果とならざるをえない。というのは、資本主義社会の運動法則はブルジヨアジーの私的利益の揚棄を客観的底必

 然として定立したものだからである。

  支配し搾取する階級は、その支配と搾取の現状における私的利害に妨げられ、白已の利益の終滅を立証する客

観的法則を容認することができない。ごの客観的法則を認めえないというその点で、ブルジヨアは自らその階級

的存在の不合理性.反動性を暴露している。彼らの階級的存在が進歩的意義を失いつつ反動化して行くにつれ、

彼らの全力は歴史の歯車を逆転させることに、すなわち、彼らの階級的存在を自ら否定することに、集注されざ

 るをえないような破目におちいる。

  というのは、支配.搾取階級は、社会の運動法則の科学性を否認することによって、資本主義社会に去けるす

    、  、

べてのものの観方についての科学性を放棄し、自らの社会的支配と指導の合法則性を喪失するからである。亡び

るものは亡びるための条件を白らつくりつつ亡んでゆく。ブルジヨァジーが、真実を、科学を、おそれ、忌避す

ることは結局、その進路を示す羅針盤を白ら破壊して、自らの難破を、自ら招来するにひとしい。ブルジョアジ

ーは白分の墓穴を自分の手で掘る。これが資本主義社会の運動法則の合法則性が自らを貫徹する様式である。

 真実をおそれるブルジヨァジーの真実にたいする態度にたいして、真実を求め、真実に従い、自已の行動を客

観的法則によって規定することに利益をもつもの、プロレタリァートの立場に立つもの、の真実にたいする態度

は、次ぎのようにくっきり対照される。

 「搾取階級に奉仕し、政権についている政党あるいは政治団体で、自分たちの党員大衆をまえにし、人氏大衆

   資本主義杜会におげる矛盾のひとっのあらわれ(阿部)                四九 (四九五)

一〃              .

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  立命館経済掌 (第五巻・第五号)

をまえ侭して・自已の大差誤星真剣隻ばきだす:を敢てしそのは、い妻での歴芝差かったし、

現在のどんな資本主義国にも、ひとつもない。

 ところが、労働者階級の政党は、それとはまったく異なっている。労働者階級の政党は、広はんな人氏大衆に

奉仕する政党であって、このよう底政党にとっては、白已批判をおこ在うことによって、誤りを失う堆か、在に

                                   (三)

ひとつ失うものとてはなく、得るものはかえって、広はん在人氏大衆の支持である。L

人笑衆纂仕する政党が大衆の前で公然と行書自已枇判に二ても、菜露級息するものはそ聖た

んに敵側の誤りや欠陥の暴露として、一面的で、消極的kしか理解でき在い。自已批判の積極的な意味、「溝にお

ち涯そ装け利巧隻る」というよう促俗的表現をとった圭ろの真理、を理解する力さえ彼芝は奮。

                                へ 、        、 、

真奮つ.いての荒荒の認識は、誤り美敗喜む実践によってのみ吉深く、より正しく奪てゆく、誤り

美敗の昌批判は、誤りと失敗の六少奮実践をかちとるためにとる不可欠李段である。ごの手段を思い

切ってとる…のできるものだけが社会の客観的法則の科学的必然性をかたくつかむことができ、.したがって杜

会を前一推し進めるための進歩的役割を誤りなく果たす…ができるのである。絶えす大阻巨己批判するごと

によって、「誤りを失い」、いよいよ増大する人民大衆の支持をえつつあるとごろの人民勢力は、自由諾国の支配

                                               、  、

階級のあびせかけるところのあらゆる「螂笑」と侮蔑とデマ宣伝とにかかわりなく、かえって、瑚笑者のあだな

ねがいをあざ笑うが如く、打消しがたい事実としてその威信と力を加えつつある。  最後に笑うものが最もよ

く笑うものだ。

 「世界のあらゆる反動勢力は、この肖来事をあざけり笑っている。彼らは、われめれの陣営が自己の誤りを克

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払ム〕」

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服するのをあざけり笑っているのである。こうした瑚笑からはどんな結果が生じるであろうか?

 その結果として、彼らの目のまえに1、これまでよりもいっエ、う強大な、永久にうち破ろことのできない、ソ同

盟を先頭とする平和と社会主義の偉大な障営がたちはだかり、工、して、めざけり笑うものの人会い事業の方がか、元

                           (四)

ってはなはだ芳しく淀いごとになるのは疑いのないところである。L

 マルクスの学説は現在に-いたるまで、数知れぬまで論破され否定されてきている。それらの論破は世界的な権

威をもつ学者によってなされたものだといっても、「世界的」が「ブルジョァ的」であるかぎりは、本質におい

て、  非科学的だという点  凡俗の政治屋どもの社会主義にたいしてあびせる漫罵、瑚笑とぼとんど選ぶと

ころのない「論破」である。

                                       (五)

 それについて、一つの例として「今や彼は国際政治学者として、世界的な権威者である。」といわれる力1

(塁妻己}竺等O彗)の著書をあげることができる。その書名は邦訳では単に「カール・マルクス」だが原本で

は..内邑峯胃■>gog身巨霊量け巨。・昌..である。この書名-ファナチシズムの研究1がすでに明らかに彼のマルク

                                      (六)

ス主義についての理解(?)を暴露している通り、彼は「マルクス主義者は盲目的放熱狂者」だと書いておる。最

も科学的であるところのマルクス主義をつらぬく合理性を、その反対物・ブァナチシズムとしてしかとらええな

い彼の頭脳こそは、彼の属する階級の利害だけを最もはっきり映しだすことのできる階級的被造物だということ

を証明している。不合理性の上に立つ階級は、その土台に照応してその要求に奉仕する頭脳を必然につくりだ

す。

.このような頭脳の一つ、力-にとっては、マルクスの完成した労働価値説は「一種の信仰としては信じ得られ

  資本主義社会におげる矛盾のひとつのあらわれ(阿部)                五一 (四九七)

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  立命館経済学 (第五巻・第五号)                         五二 (四九八)

                            (七)

ても、論理によっては証明するごとも否認することもできない。Lだから「資本論はもはや一つの議論ではなく

            (八)

なった。それは護符であった。」資本論に、それは偶像崇拝者の「おふだ」という判決を下して、資本論を論破

したつもりの学者の眩想にはかかわりなく、資本論は、その原理のつくりあげたものの実在-杜会主義国の実在.

1によって、何人によっても論破されないことを実証しつつある。

 眩想の上に立つものは、自らの錯覚のために、その眩想を意識するごとができない。そこにブルジョアジーに

とっての悲哀があり、歴史の法則の必然がある。「ブルジヨァのうしろにはプロレタリプが立っている。」だが、

ブルジョァはプロレタリァを、自己の後継者を認めえたいのである。

     一九五七・一・九・松ケ崎の寓居にて

謹(二) 前出「資本論」 二一八頁

 (二) 右同書 七三頁

「いまや問題なのは、もはや、この定理が正しいかあの定理が正しいかということではなくて、それが資本にとって有益か有害

か、好都合か不都合かということ、警察の忌講にふれるか否かということであった。私心のない研究の代りに慾得づくの論難攻

撃が現われ、とらわれない科学的研究の代りに心やましく意図あしき論弁が現われた。」(「資本論」第二版への後書・同書七九

頁)

(三) 「人民中国」第七号付録『ブロレタリアートの独裁の歴史的経験について』  この文章は「人民目報」編集部が、中

 国共産党中央委員会政治局拡大会議の討議にもとづいて書いたもので一九五六年四月五目づけの同紙に掲載された1三頁

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(四)

(五)

(六)

(七)

(八)

右同書 一〇頁

カー著・石上良平訳「カール・

右同書 七頁

右同書 三六四頁

右同書 三八○頁

イルクス」 四二〇頁

資本主義杜会に。おける矛盾のひとつのあらわれ(阿部)

五三 (四九九)