Die Aporie des inneren Sinnes in Kritik der reinen Vernunft

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九州大学学術情報リポジトリ Kyushu University Institutional Repository Die Aporie des inneren Sinnes in "Kritik der reinen Vernunft" 井上, 義彦 東海大学 : 講師 https://doi.org/10.15017/27464 出版情報:哲学論文集. 4, pp.57-78, 1968-09-28. The Kyushu-daigaku Tetsugakukai バージョン: 権利関係:

Transcript of Die Aporie des inneren Sinnes in Kritik der reinen Vernunft

九州大学学術情報リポジトリKyushu University Institutional Repository

Die Aporie des inneren Sinnes in "Kritik derreinen Vernunft"

井上, 義彦東海大学 : 講師

https://doi.org/10.15017/27464

出版情報:哲学論文集. 4, pp.57-78, 1968-09-28. The Kyushu-daigaku Tetsugakukaiバージョン:権利関係:

「純粋理性批判」

における内感

のアポリ

ントは、周知の様に空間と時間

をパラレルに論証しており、「従

ってかかる空間と時間

をそれぞれ

の形式とすると

ハユ

ころ

の外感

( 

)と内感

( 

)をも又、パラレルに論じていると思われる。

ントによると、

「我々は外感を媒介として、対象を我々に対して我々の外にあるものとして、即ち対象を全て空

ハ 

 

賜において表象する」( 

)のであり、他方、内感とは、

「それによ

って心性が自分自身を或

いは自分

の内的

状態を直観するものであるが、これは

一個の客観としての、心その

ものに

ついてのいかなる直観をも与えない。しか

しそれはやはりその下でのみ心の内的状態の直観が可能であるところの

}定の形式である。従

って内的状態に属する

ては時間関係にお

いて表象されるし

( 

)のである、

外感

の形式たる空間

によ

って、外的現象が可能となり、内感の形式たる時間によ

って、内的現象が可能となるので

ある。

そして、次に引用する文章が我

々の小論の重要な論点を示唆しているlf

「我々が外感の規定を窒賜において秩序

づけるのと丁度岡様にして、内感

の規定を時間における現象として秩序づけねばならないこと、従

って、もし我々が

外感

について、我

々が外的に触発される

( 

)限り

においてのみ、外感によって我々

が客観を認識するのであるということを承認するならば、我々は又内感についても、我々が内的に我

々自身によ

って

触発される

( 

)様にのみ、我々自身を直観するということを承認せ

ねばならない」

( 

)。

この引川文によ

っても、そこから、カントが彼自身、空間

と時衙、外感と内感、をパラレルに論究し、それに基づ

いて、外的触発と内的触発が起る所以をやはりパラヤルに論じていることを我々は明確に理解しうるであろう。そし

ハヨ

て、

に、

ント

こう

の仕方

、む

のパ

スム

スが前

され

が窺

.

の引罵を第

一版をA、第

二版をBと纏記す

る。

1

々が

で上

た文

( 

)

のは

それ

のパ

レリ

スを示

が故

、更

に尚

の文

にお

パラ

ルな現

よって

岡痔

、我

々が

の論

で論

よう

、即

アポ

の不

され

いる

、内

アポ

アと

「内

ラド

ック

ス」

( 

)

われ

、そ

「如

にし

て私

が私

に対

一般

一個

のか

かも

い慨観

び内

の客

たり

か」

( 

(wir

auSerlich affiziert

werden)

(wir

innerlich von

uns selbst

affiziert w

erden)

(B

156)

Weldon:

Kants

Critique

of Pure R

eason. (2 edit.)

p261./Vaihinger:

Kom

mentar

zu Kants

K.

d. r. V

. Bd.

II. s.4E

0.

Kritik

der reinen

Vernunft

cf. K

. Sm

ith: A

C

omm

entary to

Kant's

Critique

of Pure

Reason.

p292.

(B

156)

(B

152)

 )

端.肖す

「如

にし

て主

が自分

を内

に直

のか」

(匂dOoo)

いう

こと

であ

の前

に我

々は

こと

晶・嶽及

かね

い。

る内

の問

「現実

でな

こと

々が空間

の現

の単

る純粋

る隈

、次

の事

によ

って明

( 

)

であ

「次

の事

って」

いう

に指

る文

、我

々が

の引

一部

七ご嵩

O

ージ

る長

い単

一の理山

の文

のであ

こにお

ける

の論

こう

である。1

我々が空間を外感の形式として認める限り、時間はそれ自体表象しえないが故に、

一木

の直線を引くこ

(空間的表象)によ

ってしか、表筆されえないこと、又同様に、内的知覚に対する時間

規定は結局空間

表象によら

ざるをえぬこと、従

って内感

の規定は外感の規定と同じ様な仕方で秩序づけられねばならぬこと、それ故に、外感に

ついて、我々が外的に触発される限りにおいてのみ対象を認識することを認めるならば、我々は又内感についても、

我々はただ我々自身によ

って内的に触発される様に我々自身を漉観するということを認めねばならな

いこと、換言す

れば、内的直観に関しては、我々は我々自身の主観を、それがそれ自体あるがままに認識するのではなくして、それ

が我

々に現われるがままに即ち現染としてのみ認識するということが承認されねばならないのである。ーi

ここから我々は重要な論点を推察しうるであろう。即ち、カントは、空間と蒔問を、従

って外感と内感を、パラレ

ルに論じているというよりもむしろ、外感の形式としての空間の考え方を基にして、それにパラレルに時悶や内感を

論究していると言えるであろう。そして、

一般的に、内的なものの表象は外的空間

的表象によるということから、内

約現象は外的現象に依存することとなり…ー外感が内的経験を可能ならしめる条件とも云われ( 

)1…

内感が外感

からその認識の全素材

(質料)を得る

( 

)とも考えられることになる。

いずれにせよ、カントが外感と内感とを、その当.否はともかくとして、パラレルに考えて論及していることは明ら

かであろう。すると前述の様に、その際内感の方には内感のアポリアが生じたが、もしこの両感のパラレリスムスが

是認されるならば、逆に我々は外感の方にも、外感のアポリアが生ずるのではないかと推測しうるであろう。だが、

カント白身はかかる事態を内感の場合

のように予測していない。これは如何に琢えられるべきか。というのは、既述

の如く、内感の問題は、

「外感について、我

々が外的に触発される限りにお

いてめみ、対象を認識す

ることを我

々が

認めるならば」、内感についても同様の事態が生起せねばならないということから生じたのであるから。

ントが外感の問題を内感のそれのように予測しなか

ったのは、恐らく内感の間題をカント自身内感のパラド

ック

スと言表する如く、それが根本的に真

のアポリアを形成するというよりはむしろ、それは

「思惟する私が岡

鱒の私で

ありながら、認識された私と異な

っている」という

 発奇妙で矛盾に満ちた(.貞い廻しを取るが、しかしそれがそれ程

解決

困難な難問であるとは考えていなか

ったのではないだろうか。そのことは、内感のアポリアに関して、

つてれが

どうしてそんなに難周たりうるのか、私は分らない。注意という活動

( 

〉はすべてこれ

についての例証を我々に㌧、えうる」

( 

)とカント自身洩しているところから窺い短りえな

いであろうか。

又、かかる間題は内惑のみに、特有のものであり、従

って、内感と外感とは嚢態的に根本的に異な

っているのではな

いかという異議が生じうる.、だが我々は、間題のアポリアから考えて、むしろ事態的には同じだと考えるのであるウ

そこで我

々は今

一度内感のアポリアの問題提起と、それに倣

って作られるであろうところの外感のアポリアとを考

察し、なぜ爾

アポリアがその問題性において同じと云えるのかをも併せて考察しよう。

先ず、内感のアポリアを述

べると、

英知者

であり、

思惟する主観としての私は、

私自身を嗣時に思惟された客観

い換えれば客観化された私として認識する、しかも、かかる客観化された私は単に思惟された私というだけではな

くて、その上に尚、流観においても与えられている私である。ただその際、この私は他の現象と同じく私に現われる

まま

の私であ

って、悟性によ

ってのみ思惟されるような私窪身

(先験的主観)ではないということである。簡単に云

えば、先験的主観

(物自体

)としての私が、私自身を触発し、内感を規定するという働きを通して、私自身

に現われ

ころ

の現

や経

な私

であ

が故

、先

主観

の私

では

こと

いう

こと

であ

て、

これ

に外

つい

て述

べる

、物

の対

って、

の心

発さ

が我

々に与

られ

。何

「対

々に与

のは

る仕

で我

々の心

性 

こと

によ

って

のみ

可能

であ

る」

( 

)

。か

れ自

々にと

って

の現

であ

n体

であ

がま

の対

(物自体

)

いう

であ

の様

、外

の場

の事

を生

いる

の場

の両者

に共

アポ

アは

「触

〉鶴Φζ

δコ

の問

であ

の問

ト哲

の核

「今

のと

ころ

の困

に成

   

い」

ころ

の物自体

「最

も難

アポ

であ

の、特

に外

アポ

の物

アポ

アを

アと

は、要

に、こう

であ

ーー

「カ

ント

は感

の概念

にお

て、物

自休

を素

〔実

に前

こと

の後

の考

は単

の前

を問

にす

でな

ハ  

の前

て感性

の概

を再

いう

こと

であ

つま

、感

る能

であ

「対

によ

って主

う受

つ」

(>8

じdお

)

「触

発さ

いず

よ、

一種

の閃

であ

、物自体

の範

関係

に従

って、時

、空間

閃果

に入

こと

の表

一切

の内

(質料

)

に根

には

の物

のあ

る作

ら導

いる

にも

、我

々の表

であ

って、

自体

はな

物自体

関係

に考

れば

い。

一言

で帯.口え

「物

の前

ント

の学

に入

の前

カントの学説に留まりえぬ」ということになるのである。そしてかかる物蜜体のアポリアが両感のアポリアの根底に

あると推察される.というのは、両感のアポリアにおいて、物自体と現象の関係、及びそこに介在する触発の問題と

いう物自休のアポ弓アがあると見受けられるからである。

て、外感のアポ弓アと内感のアポリアを比較した場合に、そこでは全てが相互に対立するようにー…例えば客観

の問題と主縄の問題

の様にーー見え、従

ってアポリアとしては、相異なる事情にあるように思われるが、我々は根本

にやはりは同じ事情

にあると思う。

それを考究しよう。杷対立せるように見える両感

の経験的現われである

「内感によ

って時閤において表象される私

と、私

の外なる空間

における対象とは、成程磁燐的 

に全く違

った現象ではあるが、しかし両者はそれによ

って異な

った物とは号えられない観

( 

)のである。

感牲とは受容性である.受容性とけ何か或る物

91<蜜

によ

って触発される能力である。感性の直観形式は空碍と時

である。

って、

その或る物は

空鍔

と痔門に対する

2≦器

である。

即ち、

それは二重

の触発する或る物 

ハヨ

 であ

.

は醜

労.↓と内

を触

、客

々外

(空間)

と内

鰹.(時

)

こで

、先

、空

って外

貯.だ

「或

る物

とし

て認

の或

る物

の触

る多

を先

って

、綜

に仙,.一し

こに対

(認識

)

鼻・一し

ても

に生

た対

はも

や触

る或

る物

い、

一襲

って

、統

の総

一に

いて我

々に成

(対

)

に対

るも

、常

に単

「或

る物

一艘

」 

×

のみ

思惟

( 

)

それ

、そ

「非

勃・、誓

Xと

(》

μ8

)

であ

.、先

対象

は我

々の認

にお

て常

に同

一の

X

であ

( 

)

的対

(X)

の統

 の

コレラ

であ

( 

)

に時間従

って内感に対する

「或る物」を対象として認識しようとする場合、この

「或る物」は思惟するn我

(主

観)

であり、この自我が思惟しつつ与える、換言すれば内感を触発することによって自我についての何らかの多様を

与えると云える。そこにはやはり先験的統覚が働いているのである。それによ

って、思惟する主観が自己を認識すれ

ば、その自己は経験的自我と言え、他方、純粋に思惟する自我を求むれば、それは外感におけると同様、先験的L観

(X)であり、あらゆる経験的認識に常に伴う

「私は考える」 

であり、それは我々にと

ってはやはり、

何か或る物

一般」 

である

( 

)。それ故に、こうした先験的主観と先験的統

覚の統

一は

コレ

ラートであると云え、しかも同時に両者は同じものの別の表現であると云える。

今や、先験的対象と先験的主観が

「X」として、又先験的統覚のコレラートとして、従

って或る物

一般として、同

格と見なしうるであろう。両者は、

「或る物として、感性に対する真のコレラートである」

( 

)。

そし

て、

々は

こう

ハ..ロえ

であ

「外

の基

、我

々の感

の或

る物

とし

(も

っと適切には先験的対象として)見られるものであるが、この或る物は又同時に思考の主体になることが

できるであろう。」

( 

)。

々は我々の心性を触発し、現象するものの根拠を探求しようして、かかる或る物を先験的対象や先験的主観とし

て、措定する。こうした或る物はそれ自身直観されえず、従

って認識しえず、それ故明確な述語規定をしえず、ただ

「X」として措定し、ただXと名づけうるのみである。かくして

「一方

の関係においては、物体的と称される同

一の

ものが、他方の関係においては同時に思惟体である」

( 

)ということになろう。

それ故に、内感のアポリアと外感のアポリアとは同じ事態であると↓.ロえよう。

そして又、それは本質的に物自体のアポリアでもあると。1

って、カントは内感のアポリアの形で、物自体のアポリアに関する彼の

一つの考えを提出していると言えー

八蓼や我

々は

かか

る観

、内

アポ

(及

ひ外

アポリ

アも

)

よう

そし

、併

て物

アポリ

アに

いて

の考

そう

々は内

び外

アポ

アを一

「あ

る 

(X)

が我

の心性

々は

現象

てし

い。

であ

ころ

こう

ント

の考

え方

ヘユ 

背景としてカントの同時代人の心飛学者テーテンスの考え方の影響がしばしば指擁される。

によると、外感の表象の意識における生起は、対象による感覚器宮の刺激の結果として、外皮

8箕Φ×

における

理的変様の生起を前提している。他方、内感の機能は覚知の直接的覚知を与えることであり、そし

てその存在は内

省によって自明である。又かかる内省的根拠によ

って、覚知と覚知の覚知とは事実

において、決して同時的でないと

生.張される。そして、これが

究概的には

内感の表象的性格を

主張するためのテーテンスの根拠とな

っている.そし

て、彼は、内感の出来事は外皮における物理的な変様に対応しており、従

って、心身問の関係の説明として、

~種の

ハヨ 

予定

調和あるいは 

と両立する立場をとる、

とえ、カント自身がそのことには

っきりと気付いていないにせよー

、我

々は、この内感のアポリアを考究すること

って、

ント

アポ

アた

つい

の考

い知

ると

こと

は看

ント

であ

と思

註Martin: Im

manuel

Kant.

§ 29. S.209-410.

Windelband:

Die G

eschichte der

Neueren

Philosophic. B

d. II.

S.195-6. S.

Korner:

Kant.

p. 41.

H. C

ohen: Kants

Theorie

der E

rfahrung. (3A

ufl.) S. 429.

influxus physicus

こうしたテーテンスの奇妙な

( 

)考え方には驚くほどカントのそれに類似した見方を見鵡しうるのである。

ントは、勿論、内感が我々に心の作用の複接的覚知を与えるという

(テーテンスの)

見方を却

ける。

というの

は、かかる見方は、内感を純粋統覚と混同し、内感は 

として受容性であり、統覚は悟性として自発性であり、

カントが両者の間に引くところの鋭い区燐を抹殺するからである。

「内感と

統覚との両語は、前者

のみが心理学的

(適用的)意識を意味し、後者はこれ

に反して、全く論理的

(純粋)意識を意味す

べきものであるにも拘らず、心飛

へき 

学者

達によ

って通例周じ意義に解されているのがかかる誤謬の療因なのであるし

それにも拘らず、カントは、内感が尚、覚知の

(薩接的ではない)覚知、あるいは過去の知覚の覚

短たりうるとい

うことを受け入れる、というのは、カントも認識作用そのも

のと、それ

の生起についての覚知の潤を区別するからで

ある。我々は認識作用そのもの、即ち、統覚の働きそのものを直接的に覚知しえずして、過ぎ去

った作場に

ついて、

換言すれば、それ

の結果についての、いわば間接的覚知を有しうるにすぎないのである。ここに内感

のアポリアが生

ずる所以がある。

 (X)としての恵惟する

(先験的主観)は私慰体としての私を認識しえずして、単に客観化された私、難

ち、経験的自我としての私を認識するにすぎない。

それでは、 

(X)として先験的主観が

私の心性を触発するとはいかなる客態であろうか。

ントは内感に関して知覚

の生理学的理論或いは、内感の生理学 

の考えを取

っていると思われる.無

論、カントはこの学の限界、即ちそれが

「内感の現象の説明にしか役立ちえない」( 

ことを熟知してい

る。だが、我々にと

って重要なのは、この学説の考えから、導出しうる思想である.それによると、物飛的感官に刺

激を与えるのはやはり物理的なものと考えられることになり、従

って、経験における因果性は時間空間

的なものとし

ての対象即ち現象にのみ妥当な適用関係を有すると解されることになる

ハ演鐸論により)。それ故、触発された自我を

触発する対象は両者とも同じ次元の現象

でなければならぬことになる。

そうすると、

(内外の)先験的な 

(X)が我々の心性を触発するとは如何なる事態を意味するか。

或る物が我々の感官を通して触発すると、そこに触発されたものが、即ち感覚物が生じる。す

ると、上述の如く、

感覚物を惹起するのは感性的なものでなければならず、感官が感性である以上、それを触発するものは感性的なもの、

って、時間空間的なものでなければならない。非経験的な、従

って、直観化されない

(それ故)非直観的非感覚的

な先験的な或る物

(物自体)が感性的な感官を直接に触発するとは

一概に言えなくなる。何故なら、両者の問には、

非感性的あるいは超感性的と感性的という越え難たい断絶があるから。又、両者の間に、時醐空間的な場面での囚果

関係を考えることも困難である。

h

かかる難問を克服するために、カントは二重触発 

を想定していたと考えられるのではないだ

 る 

二重

、先

発と

であ

。先

る物

(X)

の心

にお

て触

発す

のは

、も

感官

そう

はな

て、先

(X

)

ヘヨ

 

「非経験的な対象は非経験的な自我を触発する」そこにおける触発の関係はそれ自身非経験的

なものとして考えら

れねばならず、従

って、先験的である。

「無空間的

・無時間的物自体から出立する超越的

な触発は、無空間的

・無時間的な自我自体

のみに作川しう舎

.の

である。この物自体としての自我自体 

と、それと等しく精神的に思惟された物自体

とは、

「論理的口的

  

論的な仕方の純粋に内的な関係にある」と考えられ、「かかる関係は、先験的な自我が先験的対象

(物自体)の超感性

的な、従

って無時間的

.無空間的な秩序を感性的な従

って時間的空間的関係において描写するという点に導びく限り

 ア 

において触発として表示される」。

先験的な主観は、その統覚の綜合的な統

一の働きにおいて、

この先験的な触発の

結果を経験的な対象や経験的な自我に変様させるのである。こうした先験的触発が根底にあ

って我

々の日常生活の場

面では、物自体の現象としての経験的な対象が我々の感官を経験的に触発して、そしてそれは経験的な感覚物を経験

的な自我において惹起すると言われうるのであろう。

これが経験的触発である。

って、経験的触発は先験的触発に基づいて初あて可能であると言える。しかるに又、先験的触発の存在は逆に、

この経験的触発の現存によ

って推察されると言える。

って、もしアディッケスも指摘する如く、先験的触発のみが存在して、経験的触発が存在せぬとすれば、先ず、

原狸的に無空間的

・無時間

的であるべき物自休は、最も不器用な仕方

で、全く時空間的な出来事に引

っぱり込まれるこ

とになり、そして、先験的触発があらゆる経験的触発の代りとしてそのあらゆる場面に立ち現われることになり、こ

れは不条理であろう。更に経験的触発を全く欠くとすれば、経験現象は

一切の経験内容

(素材)を欠くことになり、

経験界はあらゆる真なる客観性や実在性を失うであろう。又逆に、もし経験的触発のみがあ

って、先験的触発がない

とすれば、我々の得る現象は文字通り、

「単なる表象」あるいは

「単なる現われ」であり、浮動的で可変的であり、

そこには、カント的に言えば、学問にと

って不可欠ないかなる普瀬性も必然性も存在する余地がなく、従

って、確実

(真なる)学問は成立しえず、単にせいぜい

「蓋然的」な学闘が成立しうるのみであろう。これは不くロ理である。

かくして、経験的触発と先験的触発とは相互に不可欠のみならず、不可分離的である。我々は、もはや

「非経験的

対歌

〔X)

による非経験的自我

〔X)

〔先験的)触発と、

現象的対象による私の感覚的感官

〔経験的)

触発と

ハおレ

は、実際的には異なる立場からみられた同じ出来事なのである。」ということを是認しうるであろう。

かかる先験的触発及び経験的触発という

(自我の)二煮触発によって、カントがしばしば曽い及ぶところの

「物自

休と現象とは二つの相異なる存在 

とみなされてはいけない。両者は相異なる立場から見られた同

 のもので

ある。つまり同

一の或る物が

一方では経験的に我々の直観形式における現象として我々に与えられる。だが他方では

  

 

それ

は直

から

寸.に絶

であ

る」

いう考

え方

理解

であ

ろう

。先

、既

の如

、物自体

(X

)が

の自

我自体

(X)

こに

・プ

リな

、換

、、口す

々の受

る感

・プ

リな

いえ

。我

々が

々人間

の先

.天的

つい

て語

る時

、常

「触

いう

ては

らな

であ

。と

いう

「直

て感

て触

って生

る」

( 

)

のだ

「直

の形

、先

に我

の表

に存

。だ

の直

の形

、羊.観

にし

いう

れ方

以外

のも

では

い」 

に我

々が

の形

上学

(演

)

た論

推察

のは

みす

'、」あ

か。

っと

ント

i

「け

だし

、我

々の

の内

の感

の起

の秘密

が存

+

であ

、感

の関

の統

一の先

、極

て深

] 

で、

「あ

る現

の形

一切

の現実

の知

に先

て、

って先

心性

の中

に与

こと

そし

の形式

、純

て、対

の諸

の原

一切

の経

に先

って含

一( 

)

のは

「対

って

ると

う主

の受

性 

 が

これ

の客

のあ

る直

韻.に先

ヴ.って存

(10

)

( 

)

であ

「空

間時間

る物

'目体

の関

に属

であ

る。

々は

な直

一般

的統

へ口的統

一に

って

(原

理的

には

)可

一般

へ構

)

ウ.さ

そし

て措

る。

の時

の可

一般

の境

限界

念 

て、

しう

こと

は今

や自

であ

極的

の物

'目体

(本

)

であ

、感

るた

の限

て不

のも

であ

( 

って、

の意

の先

は、感性の真のコレラートであり、又直観

一般のコレラートである。というのは、「我々が物に対する我々の諒観の様

式を捨象して、我々の感性的蔽観の対象とならない物を、その限りにおいて、本質体

( 

)と

名づけるとす

れば、それは消極的な意味における本質体である」

(こご

ωO圃)から。それ故に、この意味で

「先験的対象は決して感

覚的所与と分離されるものではない」(〉

醗μ)のである。そこで、感性について語るということは、根本的に物自体

によって触発されるというその受容性を語ることであり、同時に問接的には触発する先験的対象を語ることになる。

それ故に、今や

「感性の論は同時に消極的意味における本質体の論である」

( 

)という

ことになる.

さて、可能的な経験

一般

(経験界)は物理学の対象たりうる様な客観的経験界であるとしても、やはり依然として

一方では

①薯器

(X)の現象に外ならないのである。そこには、いつまでも依然として、何かが

ヵ霧一が残るのであ

る。その限り物自体は消えない。

一方、日常の経験は我々にこの現象界の実在を経験の次元で個

々甥々に告知してい

る。この経験的触発では経験的統覚が感覚や知覚を成立させる。そして、この統覚の根底にある

いはそれを可能にす

るものとして、先験的統覚がある。従

って、日常経験と可能的経験

一般をつなぐパイプは先験的統覚である。

今や次の様に言えるll我

々に可能な経験界は先験的には観念的であり、経験的には実在的である、と。かかる事

態は、現象の場合、

「その現象形式たる時間空間

一面では先験的観念性を有し、他面では経験的実在性を有する」

と疹えられるところから、根源的に明らかであろう。そして、それは.一電触発の想定においてのみ明白に理解される。

ここにカントが

「先験的観念論は経験的実在論でもある」と考える所以があり、それどころか先験的観念論と経験

{11)

(捻

)

一体

いる

「ここ

に、正

ント哲

のあ

理解

の核

心が

るし

ルト

マンが

 .}口え

こに

物自体

。ポ

アに

ント

の考

えを

では

いだ

ろう

こう

(外

)

、内

(内

)

にも

、我

々が

に比

π

て論

のは

ント

の様

、内

の全

(質料

)

を外

ら受

、内

た、外的空間的多様に単に時間変様をもたすにすぎないとするからである。というのも、

「我

々の心の性質について

は、心が

一般に外界の事物をはなれて存在しうるとされる限り、それがいかなる仕方によ

ってであろうとも、それに

ついて何事も認識されえない」

( 

)からである。ところで、カントが内感に関する問題を

心理学的にではなく

て認識論的に論理的に考えているのは、

「我

々の認識において、直観に属するものは全て、単な

る諸関係を含む

(従

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

って、奈然認識でないところの快、不快の感情や意志は除去する)」

( 

〔傍点筆者〕)

.とされていることから明

らかであろう。それ故、内感そのものについて殆んど論ぜられていず、それが

一層内感の理解を困難にしている。

「内的時間

直観においては外感の表象は、我

々がそれでも

って我

々の心を占有するための本来

の素材を形成するも

のであるというばかりでなく、時間とは我

々が外的表象をその中におくところのものである。」

( 

)

ハね

の働

にと

ると

「内

は何

いな

い」

こと

「内

のも

ハね

 

ののための何らかの内容を見出すことの問題は克服できない」と思われる。

又、

「我

々の内的出来事そのものの直観従

って、感情や意志の直観がその内容上でなくて、その機能上 

ってい蟄

・ー

何故ならば感情も・慧

も・少なくとも広義には認識能力なのだか強「

「これらも外的直観

へめ

 

の素材同様に論証されてしかるべきだ

った」。少なくともこうした難点は残

っている。

それはともかくとして、二重

触発において、外的には、同

一の対象が

一方では先験的対象となり、他方

では経験的

対象とな

ったが、この事情は内的にもあてはまる。即ち、同

一の主観

(白我)が先験的自我

となり、他而では経験的

n我となる。

即丸前者は、思惟

の主体たる自我

(論理学における)としてである。これは畢寛純粋統覚を意味し

(単に反省する

白我)、これについてはもはや何事も言い得ず、それは

一つの全く不可分な表象である。後者は内的経験を可能にす

るヒ川規定

の多様を含む内感即ち知覚の客観としての自我である。その際、カント白身が言う様に、二重

の白我がある

と言うのは、矛盾であろう。

「人間の自我は成殺形式

(表象様式)の上からは二重であるが、実質

(内容)から言え

か 

ばそうではない」のであるから。だがしかし、我々はカントが無批判的に前提している、そのことを、即ち何故に二

 ほ

 

重な肖我を同

一の自我と考えうるかを後に問題にせねばならないのである。

先験的自我

(主観)は先験的統覚であり

(心意行動

の純粋統覚)であり、 

なも

のとしての自己白身の意識

であり、単純不可分な意識である。反省の自我は多様なものを自己の内に含むことなく、あらゆる判断において常に

一である。何故なら、それは意識のかくの如き形式的なも

のを含むにすぎないから。これに対して、内感は経験的

統覚であり、覚知

の自我

であり、 

のなも

のとしての自分自身

の意識である。我

々は内感に関しても、やはり内

感の二璽触発を示しうると思う。先ず、内感

の経験的触発については、

『人間学』の次の叙述がそれを示唆している

と思う。

「思惟する存在者としての自我

〔先験的自我〕は、感覚的存在者としての白我

(経験的自我)と同

一の主観ではあ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

るが、内的、経験的直観の客観としては、換言すれば、私が、時間における感覚から、内的に触発される限りにおい

ては、ー1かかる感覚が同時的或いは継起的であるに従

って1

私は私を物肖体としてではなく、私が私白身に現象

として現われるままに認識するにすぎない。何故ならば、経験的自我は、時間的制約に依荏するものであり、従

って

ハゆ

私の表象能力を受動的に

(即ち受容性に属する様に)作用せしめるところの制約に依存しているからである。」

、他

方、内感の先験的触発に

ついては、こうである。ー1制約の根源は梧性従

って先験的統覚である。先験的統覚はあら

ゆる結合の源泉として、直観

一般の多様に関係し、カテゴリの名

の下に、あらゆる感性的直観に先立

って客観

一般に

関係する。先験的主観

(X)は内感の先験的触発において、自己

(X)を触発する。外感の場合と同様に、その結果

内感に、先天的な純粋な時間の直観が生ずると思われる。

「内感は直観

の単なる形式を含むが、しかし直観の多様を

結合するものではなく、従

ってまだ明確な直観を含まない」

( 

そこで、梧性がかかる内感を統覚

の綜合的統

一において規定し、あるいは触発するのである。

つまり、

「内感を規

定するのは、直観の多様を結合するところの、

即ち統覚

の下にもたらすところの、

悟性及び悟性の根源的能力であ

る。」 

)、従

って、

「悟性は内感の内にかかる多様の結合を見蹴すのではなくて、内感を触発することによ

ってこのような多様の結合を生みだす。」

( 

)のである。il

このことが、

「構想力の先験的綜合」

( 

)とか

「形像的綜合」

( 

)とか

「構想力

の先験的行為」

へ内

感に対する悟性の綜合的影響力)

( 

)とか言われているのである。

ところで、我々は内感のアポリアを最終的に検討し、考察す

べきところに来たようである。

「心の醐接的で経験的な認識の受容と心の不蟹知性

璽、U明

の碍には、いかなる媒介的な過程 

お 

いし

てそ

そう

こに

て生

経験

が畢

覚同

一の自我

(主観

)

であ

にし

て言

いう

であ

ろう

(我

々は

る両

を結

つけ

て前

節来

験的

て柔

。」、

「同

一性

に関

て、'自然的

の人

の人

醐自

の問

の接

点 

、患

の能

の働

いて

の、

の意

の申

ハぷ

べき

であ

るし

には

、次

の鳳

の疑

が耀.じ

てく

一に

、自

己意

にお

人間

のは

の中

る何

でな

こと

一、

る時

で知

にあ

る物

のと

の人間

自身

の意

でな

(そ

て、

なn

己意

歴史

を有

それ

でな

いと

ころ

の存

在者

の歴.史

に属

であ

)

る疑

にお

つ、

己意

て考

、先

的自我

(X)

が自己

を触

の先

であ

の結

果統

の統

一にお

がそ

の自

意識

であ

ろう

では

い。

「統覚の綜合的

・根源的統

酬においては、私が自分自身を意識するということは、私は自分自身を現象としても、

自我自体

(英知体)としてでもなくて、ただ私が存在するということを意識するにすぎないのである」

( 

「この表象は思惟であ

って、直観ではない」

( 

)。そして

「自己自身

の意識はまだ到底自己自身の認識、で

はない」

( 

)。かかる自己意識は認識ではなく、従

って未だ認識しえないが、しかし、私が存在するというこ

とだけは我々に意識せしめうるのである。

自己意識は意識

の統

一性であり、意識

の統

一性は根源的に意識

一般としての純粋統覚、或いは根源的統覚によ

って

可能である。換言すれば、

「統覚の分析的統

輔は何らかの綜合的統

酬を前提してのみ可能である」

( 

。そし

て、今や

「統覚とは何か実在的なもの 

であり」

( 

)、それはあらゆる判断や認識あるいは表象

作用の根底にあるも

のであり、又それらは統覚なしには不可能なのである。

って、かかる意味で、統覚はあらゆる私の表象に常に伴い我々の

一切の表象から分離しえず、それは

「終験的で

あるが、しかし直観のあらゆる仕方に関しては何ら限定しえない」

へ 

)

ものである。

かかる統覚は

「私は

考える」 

である、「私は考える」は私の現存在

( 

)を焼定する働きを表現している

( 

)。従

って、私

の現存在はこの表現によ

って既に与えられている。それ故に、

「私は考える」は経験的命題であ

って、

笥私

は存在する」 

という命題をその内に含むものであるとされる。

「『私は考える』という命題は無規定的な、経験的直槻即ち知覚ん表現するも

のであるが、しかしそれは知覚

の客観

を範疇によって時間

に関して限定すべき経験に先行するものである」 

)。この

「私は考える」ということは、慰

バむ 

時に根源的な自発

性を意味しているが、論理的形式性のみではない

コ私は考える」は、

一方では、経験的であり、他

では、経験に先立

つものと言われている。換言すれば、コ私は考えるしという命題は経験的命題と言われるが、-私

は考える」における

『私』は経験的表象ではなくして、思惟

一般に属するから、純粋に知的な表象である

( 

),

又、「私は考える」は無規定的な経験的な直観 

即ち、知覚と言われている。

これは如何なる事態を意味するのか。

それは、結論的に述べれば

『私が考える』が意味するのは、

「あらゆる自己規定、自己認識の根底において、既に

へき

存在せる

一つの規定するものの意識ではないだろうか膿、」ということである。

「私が考える」はあらゆる私の表頃に

常に伴うものである。βを換えれば、

「私は考える」という意識は、与えられた表象を先験的綜合において私の麦象

として意識の統

一をもたらす。だが逆に誌えば、かかる与えられた表象なしには、

「私は考える」という意識も生じ

えないであろう。

「まさに、全く

一般的に経験的所与の動機や

内容的結合

なしには如何なる純粋自己意識

も存しな

へぶ

い」

であ

ン、し

て、

「思

に素材

(質

)

る纏

『私

は考

る』

いう

 もやはり生じはしないであろう。だから、経験的なものは単

に純粋な知的能力の適用ある

いは使掲の条件

にす

ぎないのである」( 

)尊そして、他面では、「英知的性格は経験的性格に即して蓄えられねばならない」

へ〉総o

 )

つまり、

「淀、鐸論

で先験的統覚の概念は経験的汽己意識の類推によ

って明確に形成されている。そこで籔

お 

一般の概へ・心も又経験的主観の類推によ

って形或されている。」とも考えられる。

そうすると、説湧されるべき自我の同

一性即ち

「経験的に'口己意識的な主観と 

なちるいは超感性的なー鏡と

ハあ

の岡

一性がいささかも解明されることなしに単純に前提されている」という批判及び、「カントはかかる縄

一性

の読困

難に打ち勝

つア}とに実、敗しており、岡

一性について、思想

や知覚

の精神的歴史をも

った人附と、いかなる歴史ち与さ

ぬ超感性的存在者とω間の連絡が如何にしてなさるべきかという問題からの支離滅裂以外の逃げ場

お貯碧

はない㌦

という重大な批判に対して、少なくともこう答えることは出来るであろう.我

々が萌述した様に、純枠な自己意識或

いは、

「私は考える」という

ことは、経験的な自己意識

(自己認識)あるいは経験的表象を配揚

しつつ、それら4通

して暗示されるということである。それらは、

一方では、知的で思惟

一般に対して成、立し、時間を越えて作珊してお

り、従

って先験的であるが、他方では、時間的であり、経験的であり、何か無規定的な知覚であり、我々に何か実在

的な或るものを告知している。

「この無規定的な知覚は、この場合、単に与えられた而もただ思惟

一般に対してのみ与えられた何か実在的なも

 を意味している.従

ってそれは現象としてではなく、又私自体

(本質体)としてでもなく、実際に存在

し、

「私は考える」という命題において、このような存在として、示される或るもの 

とし

ての何か実在的なも

脅)

のである」

( 

).かかる何か実在的なものと言表わされている無規定的な知覚は、

「現存在の感じ」

OΦ叢三

とも識、、口う

べきものである。

かかるものは現象と物自休の問に存花していると言えるであろう。というのは、それは現象としてでもなく、又物

白体としてでもなく、ただ何か実在的なものとして存在するだけだから。それ故に、かかるも

のが経験的な自己意識

(主観)と超梱的な認識論的な主観の抽象的思想

(意識

一般)との問を媒介しうる第三者( 

)ではないであ

ハ28)

ろうか。

換言すれば、それが経験的自我と先験的自我

(自我自体)との賜を連結するものではないか。

それらの間に、従

って、

「主観の絶対的な自体存花と経験的な自我意識との間の境界線上に、

この純粋なだが内容

(29)

の貧弱な現存在意識が存する」のではないだろうか。

もしそうだとすれば、今や、自我の同

 性に関連する問題はそれ自身明らかであろう。又歴史を有する経験的人間

と歴史

を有さぬ超感性的存在者との問の連結も、やはり、かの第三者によ

って、同様に明らかにされる。かの第三者

は両存在者に接触しており、それらの間の述結点であると言えるであろう。つまり先験的自我

(X)はそれ自体

何の

述語規定もしえないが、それが自己触発によ

って自発的作用的な自己意識を有するー

無論、この意識は何ら規定的

な明確な知覚あるいは認識ではなくしてー

が、その際、かかる思考が成立するためにほ、思考の素材としての経

験的なものが必要である。そこで先験的自我は内感の触発を通して経験的自我

(意識)を成立せしめながら、それを

いて自己を意識していると言えるであろう。

「私は私自身を岡時に、現象としては内感の前において、そして、英

§)

知的存在者としては、直接的自己意識の荊において経験する」。このように経験的なも

のを媒介させながら、先験的

白我

へ統覚)が自己措定をなしうるということは、

逆に言えば、

それは既に

何らかの形で、

るいは何らかの意味

で、経験的なものを

自己の中に孕んでいると言え、

ってそこに

歴史性を有しうると言えるのではないだろうか。

それ故、もし、そうだとすればそのことによ

って、両者における自我の同

一性を言いうることになろう.

又、同時に、この指摘が

(もし正しいとすれば)、そこにかかる自我

の偶我性ないしは人格性

の問題が示唆される

まも

ことになろう。だが、これは今の我々の問題の範幽を越えることであり、別の機会に譲りたい。

この要約はウ

ェルド

ンに依

っている。

尚、アデ

ィッケスは超越的 

と先験約 

とを伺義に解して

いる 

Weldon:

Kant's

Critique

of Pure

Reason.

p261.f. /K

. Sm

ith: A

C

omm

entary to

Kant's

Critique

of Pure

Reason.

p. 294.

Paton: K

ant's M

etaphysic of

Experience.

vol. I.

p. 138,

p. 365.

n. 2.

Tetens:

Philosophische V

ersuche O

ber die

mensehliche

Natur

and ihre

Entw

icklung. N

eudrucke der

Kantgesellschaft

Bd.

IV.

§ VII.

SS. 44-56. W

eldon: ibid

p. 261-3.

Kant:

Anthropologie

in pragmatischer

Hinsicht.

(Insel- V

erlag) B

d. V

I. §7.

S.430—'1

Weldon:

ibid. p. 253.

E. A

dickes: K

ants L

ebre von der

Doppelten

Affektion

unseres Ich.

S. 47. S.54.

Weldon:

ibid. p. 253.

Adickes:

ibid. S. 47.

transzendenttranszendental

Adickes:ibid.

S. 47.

Weldon:

ibid. 254.

Adickes:

ibid. s.

3. vgl.

 

 

 

 

 

々は、無論ここで、カ

ント自身

「心性

の内的な種

々の変化

にも拘らず、かかる変化を意識す

る人間

は、白己が全く

一の

 

 

人間

(心の上から)

であ

ると言

いう

るかどうか、という問いは背

( 

)である。何故なら、そうし

た変

 

 

 

 

化を人間

が意識するのは、種

々の異な

る状態にいながらも、自

己の同

一の主観として表象す

ることによ

ってのみ可能だから」

( 

刈)を見落

している訳ではない。

 〔傍点筆者〕

マルチ

ンは

「認

の主

とし

別的

かし

、純

ナ.

「、

?

、おり

知的

主額

.を

理解

べく」

いる

Kant: Prolegom

ena. (Philos.

Bibli.)

§ 11. S.

36.

N. H

artmann:

Diesseits

von Idealism

us and

Realism

us. K

ant Studien

Bd.

29. S. 178.

Adickes:ibid.

S. 36.

Hartm

ann:ibid. S.

178.

Weldon:ibid.

p. 259.

H.

Vaihinger.

Kom

mentar.

Bd.

II. S.

478.

Kant:K

ritik der

Urteilskraft.

Die

erste E

inleitung. X

I.

Vaihinger:

ibid. B

d. II.

S. 478.

Kant:A

nthropologie. §4.

S. 417.

(eine ungereim

te Frage)

(Anthropologie

§ 4. S. 417)

Kant:A

nthropologie. §7.

S. 430.

K.

Smith

:ibid. p.

296.

P.E.

Strawson:

The

Bounds

of Sense.

p. 24S.

Martin:K

ant S.

203.

H.

Heim

soeth:Studien zur

Philosophie Im

manuel

Kants.

S. 241.

Heim

soeth:ibid. S.

244.

Hartm

ann:ibid. S.

169.

Strawson:ibid.

p. 249.

Heim

soeth:ibid. S.

243.

Heim

soeth:ibid S.

241.

(東海大学講師、昭和四十二年木学大学院博士課程中退・哲学)

M

artin :K

ant. S,

203f.

Martin:K

ant. S.

198.

Heim

soeth:ibid, S.

245.

G.

Bird:

Kant's

Tbeory

of K

nowledge.

p. 176.