台湾の経済発展 - Musashi...

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DevEconTogo2017_7 2017/5/26 (c) Ken Togo 1 1 開発経済学1 武蔵大学 2017年度 前期 ノート7 523担当:東郷 togo@cc.musashi.ac.jp 台湾の経済発展 キーワード: 蒋介石、蒋経国 日本植民地の遺産 228事件 台湾の逆コース スーパー官僚 米国の外交政策 科学振興政策 李登輝 2

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(c) Ken Togo 1

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開発経済学1武蔵大学

2017年度前期ノート7

5月23日

担当:東郷

togo@cc.musashi.ac.jp

台湾の経済発展

キーワード:

• 蒋介石、蒋経国

• 日本植民地の遺産

• 228事件

• 台湾の逆コース

• スーパー官僚

• 米国の外交政策

• 科学振興政策

• 李登輝

2

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台湾の基礎データ

• 面積:36,000㎢(九州よりやや小さい)

• 人口:約2,337万人(2013年12月)

台北市 約269万人 高雄市 約278万人

• 政体:孫文の三民主義(民族独立、民権伸長、民生安定)に基づく民主共和制。

• 外交関係のある国:22か国、欧州ではバチカンだけ

• 日本との関係:非政府間の実務関係

• 軍事力:予算は103億米ドル、兵役12か月、

陸軍20万人、海軍4.5万人、空軍4.5万人

3出所:外務省HP(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taiwan/data.html)

• 主要産業:電気・電子、鉄鋼金属、繊維、精密機械

• GDP:5,155億米ドル(2013年)

(日本は2012年で5兆9,359億ドル)

• 一人当たりのGDP:20,958米ドル(2013年)

(日本は2012年で4万6,537ドル)

• 実質経済成長率:2.11%(2013年)日本は1.6%(同)

• 失業率:4.18%(2013年平均)日本は4.0%(同)

• 外貨準備高:4,168億米ドル(2013年末)日本は1兆2,668億ドル(同)。

• 主要貿易相手先(台湾経済部国際貿易局)

輸出(2013年):中国、香港、米国、シンガポール、日本

輸入(2013年):日本、中国、米国、韓国、サウジアラビア

4出所:外務省HP(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taiwan/data.html)

内閣府(http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/menu.html)総務省統計局(http://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/tsuki/)

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1974 1.86

2001 -1.65

2009 -1.81

Due to world recession and FDI to mainland.→

台湾の一人当たり所得成長率推移

-4.00

-2.00

0.00

2.00

4.00

6.00

8.00

10.00

12.00

14.00

16.00%

グラフ1:台湾GDP成長率

(出所)Council for Economic Planning and Development (2012)

Bankruptcy of Lehman Brothers→

台湾の大企業• エイサー(宏碁・Acer)

• 鴻海精密工業(Hon Hai Precision Industry、Foxconn)世界最大のEMS(Electronics Manufacturing Service)企業。

• BenQ(明基・ベンキュー)2001年、エイサーグループから独立。ディスプレイ・メーカー

• TSMC((Taiwan Semiconductor Manufacturing Company、台湾集成電路製造公司)世界最大級の半導体製造ファウンドリ。

• UMC(United Microelectronics Corporation、聯華電子股份有限公司)世界有数の半導体受託製造会社。

• トレンドマイクロ(趨勢科技)ウイルスバスターなどを開発するソフトメーカー。

• ジャイアント・マニュファクチャリング(捷安特・GIANT) 自転車メーカー。

• 台塑関係企業(台プラグループ。Taiwan Plastic Group)台湾最大の民間企業のひとつ。

• エバーグリーン・グループ(エバー航空や長栄海運Evergreen Marineを含む )

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1895年 日清戦争後の下関条約により日本へ割譲

1945年 日本の敗戦。

1947年2月28日 ニ・ニ八事件勃発

1949年12月7日蒋介石(Chiang Kai-shek)、台北に「臨時首都」を遷都、輸入制限を行う(その後10年間の輸入代替化政策は成功といわれる)

1951年 アメリカの援助始まる。

1958年

中国人民解放軍が台湾に砲撃(8月23日)。アイゼンハワー大統領は台湾を支持。アメリカが提供した大砲により反撃を行う。米国国務長官ダレス、蒋介石に大陸回復政策を軍事から経済発展に変更することを要請。

1959年USAIDの高官が軍事費削減、インフレ低下、国営企業の民営化等を進めるのなら援助を増やしても良いと提案。

1960年 19項目経済・金融改革案を発表。輸出志向政策へ。

1965年 アメリカの援助終わる。 7

台湾略史

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1966年 世界で初めての輸出加工団地を建設

1971年10月25日国連総会において、北京政府を承認し、蒋介石の代表を追放することが決まる。

1973年「10大プロジェクト」始まる。工業技術研究院(ITRI)設立される。

1974年 電子工業研究所設立される。

1975年4月5日 蒋介石総統死去

1978年 蒋経国(Chiang Ching-kuo)総統に就任、変動為替制度採用。

1979年米国、大陸中国と外交を結び、台湾との外交を断絶。新竹科学工業園区(Hsinchu Science and Industry Park)を建設。

1980年 UMCが電子工業研究所のスピンオフとして設立される。

1987年7月15日 戒厳令解除、資本自由化が行われる。

1988年1月13日 蒋経国総統死去

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1988年1月13日 本省人である李登輝(Lee Teng-hui)副総統、総統に就任

1990年3月21日 李登輝、第8代総統に当選

1996年3月23日 李登輝、第9代総統に当選

2000年3月18日 陳水扁(Chen Shui-bian、民進党)、第10代総統に当選

2004年5月20日 陳水扁、第11代総統に就任

2008年5月20日 馬英九(国民党)、第12代総統に就任

2012年5月20日 馬英九(国民党)、第13代総統に就任

2016年5月20日蔡英文(Ts‘ai Ing-wen、ツァイ・インウェン)民主進歩党、第14代相当に就任

総統は大統領に相当。英語では President of the Republic of Chinaと表記。1996年以降総統、副総統は国民による直選挙となったが、それまでは国民大会における選挙で総統が決められていた。国民大会の代表の殆どは外省人で、かつ終身代表であった。

日本植民地の遺産• 第二次世界大戦の中国戦線で日本軍と戦ったウェデマイヤー陸軍中将が、1947年8月17日に国務長官あてに書いた文章で「日本政府は辺鄙な田舎にまで電気を引き、立派な鉄道と自動車道路を敷いた。また八割以上の住民が読み書き出来るという事実は中国大陸の状態と全く相反するものだ。」(カー2006、p.v)としている。

• Jacoby(1966, p.71)も台湾の持続的成長は、崩壊しつつある清(Manchu government)から下関条約で帝国日本が台湾を取得した1895年から始まったとしている。

• Mizoguchi(1979, p.95)では1911年から1938年の間の台湾の実質国内総支出(GDE)の年成長率は3.80%と推計され、日本の3.36%より高かったと報告されている 。

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中国本土での国民党

• 中国大陸では満州族によって建国された清を植民地化しようと欧米諸国などが進出するなかで、中国を近代的な国家に変えようとする辛亥革命(Xinhai Revolution、第一革命とも呼ばれる)が1911年~12年に起こった。

• 1912年1月1日に共和制の中華民国(the Republic of China)が樹立され、2月には宣統帝(愛新覺羅溥儀、あいしんかくらふぎ、Aisin-Gioro Puyi)が退位したことにより、清朝は滅亡した。これにより、中国で古代から続いた君主制が終焉したこととなる。

• この中華民国の初代臨時大総統(Provisional President)に就任したのが孫文(そん ぶん、孫中山、孫逸仙という名もある、Sun Yat-sen )である。 11

• しかし、その後、清朝で軍人であった袁世凱(Yuan Shikai)が中華民国の第二代臨時大総統に就任し、袁世凱打倒の第二革命が始まった。この革命は失敗し、孫文は日本に亡命することとなる。

• 1913年10月に袁世凱は中華民国大総統に就任、さらには1915年には帝政を復活させ自ら皇帝に即位したが、批判が激しくなり退位、1916年に死去した。

• その後、中国大陸は地方の軍人が独自政権を樹立する軍閥割拠の時代となっていく。

• このように軍閥が割拠し、混乱を極めた中国で、孫文の後継者として頭角を現したのが軍人の蒋介石(しょう かいせき、蒋中正という名もある、Chiang Kai-shek)であった。

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宋美齢 宋靄齢 孔祥熙宋慶齢

宋耀如(宋嘉樹)

蒋介石宋子文

蒋経国

孫文〇 〇 毛福梅

• 宋嘉樹(そう かじゅ、耀如(ようじょ)と言う名もある):聖書販売などで財を成した。

• 宋靄齢(あいれい):孔子直系の子孫を名乗る財閥の御曹司孔祥熙(こう しょうき、Kung Hsiang-hsi)と結婚した。

• 宋慶齢(そう けいれい)• 宋美齢(そう びれい、Soong May-ling)• 宋子文(しぶん、T.V. Soong):ハーバード卒

華麗なる宋一族

• 蒋介石と婚姻関係でつながった宗家と孔家は強い利権を持ち、宋子文、孔祥熙は政府の要職にもついていた(カー2006、p.80)。

• 米国は第二次世界大戦中から中国の国民党政権を援助し続けてきた。しかし、大陸では米国の援助が横領あるいは横流しされ、本来の目的を果たしていなかった。

• 第二次大戦の末期、戦後の復興を担う機関としてUnited Nations Relief and Rehabilitation Administration(UNRRA、国連救済復興機関)が計画されたとき、蒋介石夫人である宋美齢の弟の宋子文は「中国人の尊厳」を持ち出して、援助物資の法的管理は一切中国人の手に委ねられなければならないとし、国民党政府はUNRRAのカウンター・パートとしてChinese National Relief and Rehabilitation Administration(CNRRA、シンラ、中国善後救済総署)を組織した(カー2006、p.200)。

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• 当時の中国では宋美齢の一族が中国の倉庫業と船運業を独占しており、UNRRAの救援物資が荷揚げされ、入れられる倉庫は宋一族の所有物であった。

• カー(2006、p.203脚注)によれば、UNRRAの援助物資である缶詰が倉庫に入れられたとたんに、倉庫の反対側の端から持ち出され、市場で販売される様子が見受けられたという。このような援助の着服は台湾においても同様であったとされる(カー2006、pp.203-211)。

• 日本が真珠湾攻撃を行って以来、米国は日中戦争を戦っていた蒋介石を支援することを決め、援助を始めたが、蒋介石は逆に米国の足元をみて巨額の援助を引き出していった。例えば、中国のいうような条件で米国の援助が供与されなければ、日本と独断で和平を結ぶと米国に示唆したことが知られている(Department of States 1967, Volume 1、p.2)。

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• 国民党政府の腐敗や傲慢さの話が次第に米国政府にも知れ渡るようになり、米国政府は第二次大戦後の1949年にアチソンが国務大臣になるとThe China White Paperを発表し、国民党政府の腐敗の現実を米国国民に伝えることとした。

• それまでに国民党に渡った米国の援助については110百万ドルから59億ドルという数字まであり(Department of States 1967, Volume 1、p.11)、具体的な金額はわかっていない。

• その一方で、中国の国外公的資産は1947年6月30日時点で327百万ドル、個人所有の外貨は少なくとも600百万ドル、最大で1,500百万ドルといわれている(Department of States 1967, Volume 2、p.770)。

• 1950年1月、トルーマン大統領とアチソン国務長官は台湾を西太平洋の米国の第一防衛線の外に置いた。 16

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2・28事件• 1947年2月27日、台湾市内で台湾人(内省人)未亡人が密輸タバコを売っていたところ、外省人の取締官がタバコを巻き上げただけでなく、売上金も没収し、抵抗した未亡人に暴力をふるった。

• 見かねた民衆が抗議したところ、逆に発砲されて一人が死亡。翌2月28日、これに怒った民衆が台湾省行政長官公署の前の広場で大々的なデモを行ったところ、外省人は機関銃を掃射して数十人の死者が出た。

• 3月1日には騒動が台湾全土に波及したが、当局は戒厳令を敷き、3月8日大陸から1万人以上の国民党軍を呼び寄せ、事態を鎮圧した。犠牲者の正確な数は不明であるが、遺族側によれば犠牲者は2万2000人から3万人。

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(参考)上坂(2001)

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輸入代替工業化政策(1949~59年)• ヴォーゲル(1993)によれば:

台湾は四小龍の中で、一番初めに産業化を遂げた国である。(ページ22)

1949年に蒋介石と100万人以上の外省人(mainlander)が台湾に撤退してきた時点では、...一人当たり所得は100米ドル以下、およそインドと同じ水準であった。(ページ22)

1895年から1945年まで台湾は日本の植民地(Japanese colony)であり、...台湾は日本から繊維製品その他の工業製品を輸入し、砂糖、米、パイナップルを日本に輸出していた。(ページ23),

1949年以降台湾にやってきた国民党(Kuomintang, National Party)の指導者たちは、...「輸入代替政策」を実施し、それまで輸入してきた製品を島内で生産するようにして、台湾を自立経済たらしめようとしたのである。(ページ24)

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台湾が基礎的消費財の生産に専念していたちょうどそのときに、島内の産業は日本から安価な製品が大量に押し寄せてくるという脅威を受けた。1949年6月に国民党の指導者たちは...輸入制限政策を敷いた。(24ページ)

日本からの輸入財が減少した後、台湾の消費財のうち最も欠けていたのは繊維であり、経済政策の立案者たちは、繊維生産に努力を集中した。そのための技術は、上海および山東省から繊維業の企業家たちが到着したことによって大きく改善された。

1952年の時点で、台湾はすでに綿繊維糸と織物を製造することが出来、政

府の指導者は自転車、小麦粉、セメントその他、島内住民が切実に必要としていた財の生産に専念するようになった。

国民党が輸入代替政策を実施した10年間は絶大な成功を収めた。

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台湾の逆コース

• 1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、米国は態度を180度転換する。日本で「逆コース」が採られたのと同様に台湾に対する政策も変更された。

• トルーマン大統領は第7艦隊を台湾海峡に派遣し、再度国民党政府にコミットし、7月に援助を再開するのである(Haggard and Pang 1994)。冷戦の激化が国民党政府を救ったと言ってよい。

• 1950年代の初めの台湾の問題は高インフレと膨大な軍事費であったため、米国からの援助は当初、この2つの解決が目的であったとされる。援助によって基礎物資を提供し、インフレを抑えるとともに、膨大な軍事費を維持できるように援助を提供した。

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輸出志向工業化(1960年~現在)

• 1858年の台湾海峡危機を克服、中ソ関係に亀裂が入り、台湾にとっての危機は薄れた。

(台湾海峡危機とは中国人民解放軍が台湾の金門島を侵略すべく砲撃を加えた事件。米国は第七艦隊を派遣し、武器を供与。大陸側へ反撃を加え、事態は沈静化。)

(中ソは1956年フルシチョフが平和共存路線を採用したあたりから対立する。)

• アメリカの援助が終わることがわかっていたので、武器の輸入のための外貨獲得および自国での武器生産のため工業製品の生産能力強化と輸出促進が必要だった。

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スーパー官僚

• 李国鼎 (Li Kuo-ting, あるいはK.T. Li、1910-2001)は1950年代初めから1980年代末まで経済官僚として様々な政策を行う(経済大臣1965-69、財務大臣1969-1976)。

• 李はケンブリッジに留学し、物理学を修め、ケンブリッジで初めての中国人研究者となった人物。李は米国の援助受入れ機関である「美援運用委員会」(Council on U.S. Aid:CUSA;アメリカ援助運用委員会)の事務局長を務めた。

• 彼は輸出加工区、新竹科学工業園区を設立し、在米中国人研究者やビジネスマン(例、Morris Chang)の帰国を促した。

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• 李登輝(Lee Teng-hui、 1923-)は京都帝国大学農学部で農業経済を修め、コーネル大学でPh.D.(博士号)を取得。帰国後「中国農村復興連合委員会」(Joint Commission on Rural Reconstruction:JCRR、米国の援助を受けていた)で働いたのち、台北市長、副総統を経て総統となる。

• 1950年代と60年代において、台湾で最も高い地位を占めた経済政策立案者のうち43名が大学卒業者であり、その52%がアメリカ、9%がヨーロッパで博士号を取得していた(ヴォーゲル1993、p.39)。

• CUSAは国民党政府からは半独立の組織で、援助資金は政府の外で管理されていた。CUSA職員の給与もそこから出されたため、他の一般の官僚の給与よりも高く設定でき、優秀な人材を集めていた(Jacoby1966、pp.60-61.)。Haggard and Pang (1994)によれば、CUSAおよびJCRRの職員は通常の政府職員の5倍の給料をもらっていたとされる。 24

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輸出加工区とは• 輸出加工区(Export processing zone, EPZ),自由貿易地域(Free trade zone, FTZ)などの名称で呼ばれるが、輸入関

税や法人税などの優遇を行ったり、インフラ整備、公的な手続きの容易化を行ったりする地域(区画)。

• 台湾では高雄が有名。アジアでは他に、シンガポールのジュロン工業団地、マレーシアのペナン、スンガイウェイなども有名。中華人民共和国の経済特区もその一種。

• 輸出加工区は先進国の企業が部品を輸出し、現地で安い賃金を利用し組み立てて、他の地域へ輸出する基地となっている。大きな雇用を生むために、現地政府も積極的に展開。

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工業技術研究院と新竹科学工業園区

• 工業技術研究院(Industrial Technology Research Institute, ITRI)

は、経済部(日本の経済産業省に相当)を監督官庁として1973年に設

立。台湾の科学技術の発展に貢献し、経済発展にも多大な影響を与えたとされる。

• ITRIの近くに新竹科学園(Hsinchu Science and Industrial Park)が1980年に設立された。2003年12月現在で、400社以上のハイテク企業がこのなかに設立されてきた。

• 近くには優秀な理系大学である国立交通大学(National Chiao Tung

University)と 国立精華大学(National Tsing Hua University)がある。

• 在米の台湾科学者を呼び寄せるために國立科學工業園區實驗高級中學(International Bilingual School at Hsinchu Science Park )を作ったといわれる。

• UMC(聯華電子股份有限公司, United Microelectronics

Corporation) は台湾で最初の半導体企業で、ITRIからスピンオフした。

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TSMCとMorris Chang

• Taiwan Semiconductor Manufacturing Company, Limited

(TSMC, 台灣積體電路製造股份有限公司) は、1987年に工業技術研究院で設立され、現在は世界最大手の半導体製造会社の1つ。本社とメイン工場は新竹科学園の中にある。

• TSMCはMorris Changによって設立された。チャンは1964年にスタンフォード大学でPh.D.を取得した科学者で、米国のTexas

Instrumentsで副社長まで務めた。1986年に工業技術研究院の院長(President)にリクルートされた。このチャンがTSMCを設立。

• チャンは1994年に工業技術研究院を退職し、Vanguard

International Semiconductor Corporationの社長となり2003年まで務めた。その間もUMSCの社長でもあり続けた。

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台湾の成功:ヴォーゲルの評価

• 台湾の政府と企業家は、多国籍企業による支配を見事に回避することが出来た。幼稚産業を保護し、新技術を導入し、海外投資を制限し、他方では国内貯蓄率を上昇させるという台湾政府の決意が、民間企業に力量を蓄える余裕を与え、海外での多国籍企業の支配を防いだのである。実際、数十万の重要な小企業に加えて、台湾プラスチック公司が世界最大のPVCメー

カーになり、エバーグリーンが世界最大のコンテナー船の会社になり、エイサーが国際級のハイテク会社になった(ヴォーゲル1993、ページ55)。

• 欧米諸国と日本が一世紀もしくはそれ以上の長い期間をかけて完成した工業転換を、台湾はおよそ40年間で完成することが出来た。(同、ページ56)

• 台湾における富の均等配分は、土地改革、高水準の国民教育、労働集約的産業における幅広い就業の機会、全国各地に広く分布する小企業の存在によってもたらされた。(同、ページ58)

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蒋経国の貢献• 蒋経国はモスクワに留学し、共産主義者であった。夫人はロシア人。1937年に帰国すると、父蒋介石と和解、綱紀粛正などで手腕を発揮。

• 1975年には国民党主席になり、1978年に総統に就任と駆け足で出世して行った。

• 台湾人で初めて総統となった李登輝は、こういっている。

「思えば蒋介石は台湾に対して無法な統治はしたけど、良くも悪くも一つの政権の形を作ったことは認めねばなるまい。蒋経国はその政権をバックにしてこの島に力をつけたといえよう。私は蒋経国を尊敬しており、少なくとも当初は組閣も政策も蒋経国路線を無にせぬようにして進めたつもりだ。蒋経国と私とのちがいは台湾人による台湾の政権を作りたいと思っていたか、いなかったかだけだろう。」(上坂2001、p.194)

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ヴォーゲル(1993)の挙げる工業化成功要因

1.政治的安定

• 大陸では蒋介石は軍閥に依存していたが、台湾には腹心の部下のみを連れてきた。

• 1975年から1988年まで蒋経国は国民党、軍隊、政府を支配することができた。(上坂2001では李登輝が副総統時代に、国民党内のまとまりのなさに驚いたとの記述がある。)

2.インフレの制圧と家族農業の成功

• アメリカからの援助が重要な役割を果たした。1951年の援助はGNPの10%。

• 需要に見合って農産物と製造業品の供給を増やすことができた。

• 国民党は地主との関係が薄かったことから、容易に農地改革を実施することができた。また、政府は農業の生産性向上のために支援を行った。

3.適度に開発された産業基盤と人的資源

• 植民地時代に最新の鉄道、通信網、銀行制度、公衆衛生システム、農村の灌漑システムなどを整備した。また、農村協同組合、識字率向上や技術訓練などを通じて地方の発展を促した。

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QuestionsQ1:あなたはボーゲルの考えに賛成ですか?

Q2:もし「逆コース」になっていなかったら、どうなっていたと思いますか?

Q3:なぜ米国政府は台湾を見捨てたような発言をしていながら、実際に朝鮮戦争が起こると態度を変えたのでしょうか?

Q4:あなたの考える台湾発展の原因はなんでしょうか?

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Page 17: 台湾の経済発展 - Musashi Universitytogo/DevEcon/2017Spring/DevEconTogo2017...DevEconTogo2017_7 2017/5/26 (c) Ken Togo 4 1895年 日清戦争後の下関条約により日本へ割譲

DevEconTogo2017_7 2017/5/26

(c) Ken Togo 17

<参考文献>• カー、ジョージ・H(2006)、『裏切られた台湾』、川平朝清 (監修), 蕭成美 (翻訳)、同時代

社(原書はGeorge H. Kerr (1965), Formosa Betrayed)

• ヴォーゲル、F.エズラ(1993)、『アジア四小龍 いかにして今日を築いたか』、渡辺利夫訳、中公新書、1993年(Vogel, Ezra F. (1991), The Four Little Dragons, Harvard University

Press, Cambridge.)

• 上坂冬子(2001)、『虎口の総統李登輝とその妻』、文藝春秋.

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