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49 弦間正彦・吉野久生 編『技術選択と経済発展』調査研究報告書 開発研究センター 2011--20 アジア経済研究所 2012 3 20 世紀後半の日本およびドイツの自動車産業における 技術選択ダイナミクス 小山田和彦 要約 本章では、国ごとに異なる制度や文化、習慣などの「外生変数」のもとで、創業時もし くは戦争などによる中断を経た後の生産再開時に与えられた技術を「初期値」として、生 産者全体を取り巻く経済環境の変化という「ショック」に対応していくことが、生産者ご との技術選択のダイナミクスを生み出すことになると考え、おもに日本およびドイツの自 動車産業を例にとり、初期値や外生変数の違いによる技術選択ダイナミクスのパターンに ついて比較検討する。分析の結果、日本の自動車メーカーにおける量産体制は、生産シス テムの柔軟性や開発生産性の向上によってモデルの多様化と生産規模の拡大を両立するよ うな、おもに労働集約的な技術によって確立されてきたものであるのに対し、ドイツの自 動車メーカーにおける量産体制は、柔軟性を併せ持つ自動化という資本集約的技術の導入 と作業組織の柔軟化という労働集約的技術の両方の側面を持つものであることが明らかに なった。また、外国企業から生産技術を学習し導入する際や自らを取り巻く外生変数が変 化した際には、創業時に与えられた初期値や風土・文化・制度などの外生変数に合わせた 調整が行われるとともに、どの企業においても必ず取捨選択が行われ、自分達が追求すべ き基本方針は堅持する姿勢が見られる。たとえば、戦略構想力やブランド力などアイディ アという面で強みを持つ欧米の企業が、モジュール組立方式を導入することによって「閉 鎖・統合型」の製品アーキテクチャを持つ自動車をアイディアを素材の上で表現すること が容易な「開放・モジュラー型」の製品アーキテクチャを持つものへと近づける努力を行 っている一方で、アイディアよりも製造品質の面で強みを持つトヨタは導入に消極的であ る点などに企業ごとの姿勢の違いを見ることができる。 キーワード 技術選択 製品アーキテクチャ リーン生産方式 労使関係

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弦間正彦・吉野久生 編『技術選択と経済発展』調査研究報告書 開発研究センター

2011-Ⅳ-20 アジア経済研究所 2012年

第 3章

20世紀後半の日本およびドイツの自動車産業における

技術選択ダイナミクス

小山田和彦

要約

本章では、国ごとに異なる制度や文化、習慣などの「外生変数」のもとで、創業時もし

くは戦争などによる中断を経た後の生産再開時に与えられた技術を「初期値」として、生

産者全体を取り巻く経済環境の変化という「ショック」に対応していくことが、生産者ご

との技術選択のダイナミクスを生み出すことになると考え、おもに日本およびドイツの自

動車産業を例にとり、初期値や外生変数の違いによる技術選択ダイナミクスのパターンに

ついて比較検討する。分析の結果、日本の自動車メーカーにおける量産体制は、生産シス

テムの柔軟性や開発生産性の向上によってモデルの多様化と生産規模の拡大を両立するよ

うな、おもに労働集約的な技術によって確立されてきたものであるのに対し、ドイツの自

動車メーカーにおける量産体制は、柔軟性を併せ持つ自動化という資本集約的技術の導入

と作業組織の柔軟化という労働集約的技術の両方の側面を持つものであることが明らかに

なった。また、外国企業から生産技術を学習し導入する際や自らを取り巻く外生変数が変

化した際には、創業時に与えられた初期値や風土・文化・制度などの外生変数に合わせた

調整が行われるとともに、どの企業においても必ず取捨選択が行われ、自分達が追求すべ

き基本方針は堅持する姿勢が見られる。たとえば、戦略構想力やブランド力などアイディ

アという面で強みを持つ欧米の企業が、モジュール組立方式を導入することによって「閉

鎖・統合型」の製品アーキテクチャを持つ自動車をアイディアを素材の上で表現すること

が容易な「開放・モジュラー型」の製品アーキテクチャを持つものへと近づける努力を行

っている一方で、アイディアよりも製造品質の面で強みを持つトヨタは導入に消極的であ

る点などに企業ごとの姿勢の違いを見ることができる。

キーワード

技術選択 製品アーキテクチャ リーン生産方式 労使関係

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はじめに

生産技術の選択は、どのように行われるのであろうか。国ごとに異なる制度や文化、習

慣などの「外生変数」のもとで、創業時もしくは戦争などによる中断を経た後の生産再開

時に与えられた技術を「初期値」として、生産者全体を取り巻く経済環境の変化という「シ

ョック」に対応していくことが、生産者ごとの技術選択のダイナミクスを生み出すことに

なる。異なる初期値および外生変数のもとで、必ずしも常に合理的であるとは言い切れな

い「人間」が主体となって行われる技術選択は、基本的には経路依存的なものとなろう。

他方、一国のなかで各生産者に与えられる初期値や外生変数などが似たようなものとな

るケースや、一国内での、もしくは国境を越えた技術提携や協調関係などによって生産者

間で技術やノウハウの一部が共有されるようなケースでは、国ごとに何らかの技術選択パ

ターンが現われたり、そのパターンに収束傾向が見られる可能性がある。本章では、製造

業における自動車産業を例にとり、日本およびドイツの企業を中心として上記のようなパ

ターンが見られるのか、また、見られるのであればそれがどのような内容のものであるの

か、いくつかの先行研究をもとに比較検討することにしたい。

まず第1節では、自動車という財がどのような性格を持つものであるのか定義するとと

もに、日本およびドイツにおける初期値の前提となる黎明期から 20世紀前半に至る自動車

産業の発展の歴史、そして、各国の自動車産業を取り巻く 20世紀後半の経済環境がどのよ

うに変化してきたのかについて概観する。続く第2節および第3節では、それぞれ日本企

業およびドイツ企業における技術選択の経路について、上記の初期値、外生変数、および

ショックに注意しながらより深く考察する。そして第4節では、同様の「初期値」が与え

られた企業にとって外生変数の違いがどのような影響を与え得るのか確認するため、日系

企業のヨーロッパ戦略について整理する。

1. 自動車産業と経済環境

本節では、自動車がどのような特性を持つ財であるのか、製品設計における基本特性で

ある「製品アーキテクチャ」に着目した定義付けを行うとともに、日本およびドイツにお

ける初期値の前提となる黎明期から 20世紀前半に至る自動車産業の発展の歴史、そして、

各国の自動車産業を取り巻く 20 世紀後半の経済環境がどのように変化してきたのかにつ

いて概観しておきたい。

1.1 製品アーキテクチャから見た自動車

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自動車やコンピュータなどの製品は、数多くの部品が組み合わさることにより構築され

たシステムとして機能する。そのようなシステム製品を設計する際の基本コンセプトには

二つの側面があるとされ、それらは①中核となる部品技術の選択、および②部品間の連結

方法の選択であるとされる。前者は、製品のもっとも重要な機能に関係する選択であり、

自動車の動力源となるエンジン、コンピュータにおける演算装置や記憶装置などを例とし

て挙げることができる。後者は、複雑な機能を有する最終製品における各機能の配分を決

定するうえで重要な選択であり、部品間の連結方法に関する設計コンセプトは「製品アー

キテクチャ」と呼ばれる。

製品アーキテクチャには大きく分けて二つあり、(a)各部品機能の配分を調整して最適

化しなければ製品全体の機能を十分に発揮させることができないタイプである「統合(イ

ンテグラル)型」、および(b)部品の接合部分(インターフェース)の設計を標準化する

ことによって既存部品を組み合わせるだけで製品の機能を十分に発揮させることができる

タイプである「モジュラー型」に区別することができる。前者の例が自動車であり、走行

性能や快適性、デザインや安全性などに関する設計のバランシングおよび部品間の連携調

整が要求される。後者の例はコンピュータであり、各部品の独立性が高く、他の部品の設

計に大きく影響されることなく比較的自由に部品の設計することが可能となっている。

さらに、別の側面からも製品アーキテクチャを分類することができる。それは、企業間

での部品選択の自由度に着目した分類であり、(c)インターフェースが業界レベルで標準

化されていることにより異なる企業が製造した部品を自由に組み合わせて最終製品を組み

立てることが可能な「開放(オープン)型」、および(d)インターフェースの設計ルール

が一つの企業内で完結している「閉鎖(クローズド)型」からなる二つのタイプに分けら

れる。藤本 [2003:59]によると、現代の量産自動車に採用される部品の 90%以上がその企

業特有の特殊設計部品によって構成されており、自動車は「閉鎖・統合型」アーキテクチ

ャを持つ製品に分類されることになる。また、自動車という工業製品における製品アーキ

テクチャが 20 世紀後半をとおして変わることがなかった点を藤本 [2003:60]は重要視して

おり、そのために自動車産業における競争は既存の基本設計コンセプトの範囲内で行われ

てきたとしている。

生産される財の製品アーキテクチャの違いは、技術選択ダイナミクスの経路依存性の強

さにも影響を与えているように思われる。すなわち、製品アーキテクチャがより「開放・

モジュラー型」になるに従い、インターフェースが標準化されていることによって他社か

らの技術導入も容易になり、企業間の技術水準が平準化しやすくなるのではないか。基本

的に、他の企業と同じ部品選択をすればほとんど同じ機能を持つ製品を作り出すことが可

能となる。他方、「閉鎖・統合型」の自動車産業における技術選択ダイナミクスの経路依存

性は強く、他社が持つ技術やノウハウを調整なしでそのまま導入することは難しい。その

点に関しては、第2節以降でより詳しく見ていくことにする。

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1.2 黎明期から 20世紀前半に至る自動車産業の発展

続いて、日本およびドイツにおける初期値の前提となるであろう黎明期から 20世紀前半、

第二次世界大戦までの自動車産業発展の歴史を簡単に振り返っておきたい。

自動車の歴史は、18世紀後半にフランスで考案された蒸気自動車から始まったとされる。

蒸気自動車はその後、19世紀前半にイギリス、19世紀後半にフランスで普及していった。

現代にまで続くガソリン式自動車の基礎は、1876 年にドイツのニコラウス・オットー

(Nikolaus Otto)が発明したガソリン・エンジンを、1880年代半ばにゴットリープ・ダイ

ムラー(Gottlieb Daimler)およびカール・ベンツ(Karl Benz)がそれぞれ独自に改良し車

体に取り付けたことによって形づくられた。1890年代半ばにまずベンツが商業生産を開始

し、その後にダイムラーも続いているが、当時はまだ馬車や自転車を製造するための職人

が手作りで生産を行っており、非常に高価で貴族や大金持ちだけが所有できるものであっ

たようである。Womack et al. [1990]をもとに、風間 [1997:37]はその「手作り生産」の様子

を以下のように整理している。

(1)当時の自動車生産には馬車製造・自転車製造・機械工業といったさまざまな生産部

門がかかわっており、自動車生産企業のオーナーが自らそれらサプライヤーや従業

員、顧客と直接連絡を取りながらシステム統合を行っていた。

(2)設計・機械操作・取り付け作業における熟練度の高い専門労働者が必要とされてお

り、それらの労働者は徒弟制度のもとで修業を積みながら技術の習得・研鑚を行っ

ていた。

(3)生産には汎用工作機械が利用されていた。

(4)非常に限られた生産台数のもとで同一の設計で作られるものは 50台以下であり、手

作りであるために全く同じ仕様の車は皆無であった。

このような熟練工による手作り生産の伝統は、第二次世界大戦後に「フォード・システ

ム」と呼ばれるベルト・コンベアを利用した大規模生産方式がドイツに導入され発展する

過程においても南部ドイツの量産高級車メーカーに受け継がれており、現代のドイツ的生

産モデルの重要な特徴の一つとなっている。その一方で、ドイツには中世以来の手工業者

による同職組合の伝統があり、専門労働者が豊富に供給されるとともに生産現場における

強大な支配力を保持していたために生産のスピード・アップなどの大規模な合理化をなか

なか行うことができず、第一次世界大戦前のドイツにおける自動車産業の発展はフランス

やアメリカに比べて緩慢なものとなっていた。例えば、ダイムラーでは 1900年にプラット

フォームと車体を分離して設計するという生産方式上の重要な変更を行い、それにともな

ってエンジン生産における高度な機械化や足回り製造における広範な規格統一が可能とな

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るとともにサプライヤーから供給されていた部品の内製化が進められたにもかかわらず、

従業員の3分の2は熟練工によって占められており、作業速度や製品の品質は彼らの熟練

度に大きく左右されるものとなっていた。1913年にアメリカのフォード自動車(Ford Motor

Company)がベルト・コンベアの導入による大量生産体制を構築したのに対し、ドイツに

おける同様のシステムの導入は 10 年以上遅れ、1920 年代に入ってから始められたことを

風間 [1997:37]が指摘している。

フォード・システムとは、アメリカの技術者であり経営学者でもあるフレデリック・テ

イラー(Frederick W. Taylor)によって発案された科学的管理手法をヘンリー・フォード

(Henry Ford)がさらに発展させて作り上げた、ベルト・コンベアを利用した流れ作業方

式の大量生産システムである。フォード自動車が設立された 1903年当時のアメリカでは、

ドイツと同様に自転車工場や馬車工場で訓練を積んできた熟練工による手作り生産が中心

となっており、高価な製品は限られた富裕層にしか所有できないものであった。フォード

はその富裕層向けの贅沢品を一般大衆の生活必需品にしたいと考え、最良質の大衆車を最

低限の価格で提供するための試行錯誤を繰り返し、1908年に「T型」と呼ばれる製品を完

成させた。その際、一般大衆の購買力に見合う製品価格を実現するため、生産の大規模化

による単位コストの削減、つまり規模の経済性の追求を行った。また、すべての車種のプ

ラットフォームにこの T型のものを利用するという製品の単純化および部品の規格化、部

品間の互換性確保をも行っている。その結果として完成した大量生産システムがフォー

ド・システムであり、手作り生産では実現できないような低い生産コストを実現すること

が可能となった。

フォード・システムにおいて各作業に配分される時間はベルト・コンベアの移動速度に

よって管理・維持されており、徹底した機械化によって作業が単純化されるとともに、細

分化および分業化が進むこととなった。ただし、職人的技術に基づく熟練工が直接生産部

門から排除される一方で、間接部門において新しい熟練工が必要とされるようになってい

る。それは、機械設備の維持管理を担当する技師や修理工、製品の仕上げや品質検査を専

門とする熟練工である。そして、そのような間接部門の肥大化傾向が第二次世界大戦後に

顕著となり、20世紀後半にみられる間接部門の合理化につながっていくことになる。

ドイツにおけるベルト・コンベア・システムの導入は 1920年代における資本集中運動お

よび産業合理化運動に基づく企業再編・合併の過程で行われ、1924年にオペルのデュッセ

ルドルフ工場、1925年に設立されたフォードのベルリン工場、1926年にダイムラーとベン

ツが合併して誕生したダイムラー・ベンツによって導入されていった。その後、ヒトラー

による 1934 年の国民車構想のもとで T 型フォードに匹敵する生産体制実現に向けた努力

が行われたものの、①生産車種が高級志向のものであったこと、②アメリカに比べて市場

規模が極めて小さかったために量産化が進まなかったこと、③熟練工労働者たちによる抵

抗、④第二次世界大戦開戦による軍需生産へのシフトなどの理由によって、ドイツにおけ

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る生産システムのフォード化の進展は第二次世界大戦の終了を待つ必要があった。

日本におけるガソリン式自動車の生産は、1910年前後に始まる。ドイツやアメリカと同

様に自転車や馬車の製造経験のある町工場での試行錯誤によって手作りで試作が行われて

いたが、本格的な市場の形成は 1920 年代以降のようである。1920 年代半ばにアメリカの

フォードおよびゼネラル・モータース(General Motors: GM)によるノックダウン生産が行

われるようになり、トラックを中心とするアメリカ企業製の組み立て車が 1930年代日本の

国内市場を席捲した。そのような状況のなか、日本政府は保護主義的政策のもとでアメリ

カ企業を日本市場から排除し、その代わりにトヨタ自動車や日産自動車などが政府の許可

を得てトラックの生産に乗り出した。ただし、ともにアメリカ企業の製品設計に依存して

いたとはいえトヨタと日産では技術の導入方針に違いがみられ、前者はリバース・エンジ

ニアリングによってコピーした部品を改造して組み合わせ、全体の設計は自力で行う傾向

があったこと、後者はトラック生産を断念したアメリカ企業の製品図面と生産設備を丸ご

と買い取って導入したことを藤本 [2003:147]が指摘している。特にトヨタは、アメリカ企

業から学んだ製品技術や生産技術をそのまま使用するのではなく、悪路の存在や市場の小

ささといった日本特有の状況に適合するように修正を加えたうえで、価格および性能の面

でアメリカ車に対抗できるような製品を作り上げることを明確な目標として掲げていたと

いう。その結果、アメリカ式の大量生産方式に変更を加え、より少量生産に適した生産シ

ステムが導入されることになった。

以上、自動車産業の黎明期から 20世紀前半の第二次世界大戦までの発展の歴史を簡単に

まとめてみた。第二次世界大戦以降、20世紀後半の日本およびドイツを中心とする自動車

産業の動向については、第2節以降で見ていくことにしたい。

1.3 自動車産業を取り巻く経済環境

ここでは、第二次世界大戦後の 20世紀後半において、おもに日本およびドイツの自動車

産業の方向性に大きな影響を与えたと考えられる主要なショック、すなわち経済環境の変

化について簡単にまとめておきたい。

まず、1970年代に二種類の大きなショックが発生している。その一つは、乗用車市場に

おける構造変化である。1950年代から 1960年代にかけての時代は「モータリゼーション」

と呼ばれる自家用車の普及期に当たり、新規購入需要が中心となっていた。その後、1960

年代をとおして買い替え需要が徐々に増加し、1970 年代から 1980 年代は新規購入需要に

代わって買い替えのための需要が中心になっていった。乗用車を新しく購入しようという

ユーザー層と買い替えを検討中のユーザー層とではそのニーズが大きく異なり、前者には

より低価格で標準化された大量生産適合型の大衆車で対応できるのに対し、後者にはより

多様で差別化された高性能かつ充実装備のモデルを用意することが求められる。このよう

に市場が成熟し、より多様な製品が求められるようになったことを背景として、それまで

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国内需要への対応が中心であった各国の自動車メーカーは、外国市場での販売を目的とし

た輸出用製品の生産にシフトしていくこととなる。風間 [1997:75]は、主要先進工業諸国に

おける乗用車市場成熟化の結果、市場競争がグローバルな規模でゼロ・サム・ゲーム化し、

1970年代以降、他企業のシェアを奪うことによって生産量を拡大する排除競争を各企業が

繰り広げることになったと指摘している。

1970年代における二つ目のショックは、1973年および 1979年の二度にわたって発生し

た石油ショックである。二度の石油ショックは、おもに二つのチャンネルをとおして自動

車産業に影響を与えたとみられる。一つは、技術面での影響であり、燃料価格の高騰はユ

ーザーのニーズをより小型で低燃費の製品にシフトさせることになった。もう一つは、特

に欧米で深刻であった長期不況の発生と失業の急増であり、自動車産業を始めとする加工

組み立て型産業におけるそれまでの生産方式の見直しと合理化が模索されるようになる。

1980年代における大きなショックは、1985年のプラザ合意であろう。1980年代の前半、

アメリカは巨額の財政赤字と貿易赤字からなる「双子の赤字」を抱えている一方で、日本

の対米貿易黒字が突出しているという貿易不均衡が問題視されていた。そのような状況の

なか、先進5ヶ国(日本・アメリカ・ドイツ・フランス・イギリス)が協調的なドル安を

実現する方向で取り交わした合意が「プラザ合意」であり、実質的には円高ドル安を誘導

するためのものであった。これ以降、円高が急速に進展することとなり、特に日本企業の

海外現地生産が本格化することになる。また、プラザ合意によって懸念された円高不況へ

の対応策として日本で実施された低金利政策が、その後の「バブル景気」および 1990年の

「バブル崩壊」を発端とする景気後退の遠因となっていると考えられており、バブル期お

よびその後の「失われた 10年」における日本の自動車産業の方向性に大きな影響を与えて

いる。

1990年には、もう一つのショックがヨーロッパで発生している。それは東西ドイツの再

統一であり、ヨーロッパ経済に二つの相反する方向での影響を与えた。一つは正の効果を

持つものであり、旧東ドイツ地域での経済復興需要が旧西ドイツ地域およびヨーロッパ各

国に「統一特需」と呼ばれる景気浮揚効果をもたらした。もう一つは負の効果を持つもの

であり、ドイツにおける旧東ドイツ地域への公的資金投入の増大が財政赤字を拡大してイ

ンフレ圧力を高め、その対応策として実施された金融引き締めによるデフレ効果が欧州通

貨制度(European Monetary System: EMS)と呼ばれる半固定為替相場制のもとでヨーロッ

パ各国に波及した。これは、1993年の欧州連合(European Union: EU)発足と前後して、

ヨーロッパ市場に統一特需の反動として戦後最悪ともいわれる不況をもたらすことになる。

1990年代には、大きなショックが立て続けにヨーロッパ経済を襲っている。1991年には

ソビエト連邦が崩壊するとともに、東欧諸国で市場経済化が進んだ。また、1992年末にヨ

ーロッパ市場統合が完成し、翌 1993年に EUが発足した。これらは、ヨーロッパ地域にお

ける市場を拡大し、生産拠点の国外設置や国境を越えた流通ネットワークの形成を加速さ

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せることにつながっていく。

以上、簡単ではあるが、20世紀後半におもに日本およびドイツの自動車産業の方向性に

大きな影響を与えたと考えられる主要なショックについて整理してみた。次節以降、これ

らのショックに各国の生産者がどのように対応し、技術選択を行ってきたのか、創業時も

しくは戦争などによる中断を経た後の生産再開時に与えられた技術などの「初期値」、およ

び国ごとに異なる制度や文化、習慣などの「外生変数」に注意しながら考察していくこと

にしよう。

2. 日本企業における技術選択ダイナミクス

本節では日本の自動車企業に焦点を絞り、日本における初期値および外生変数に注意し

ながら、前節で概観したショックにどのように対応し技術の選択を行ってきたのか、藤本

[2003]などを参考にしながら考察する。まず、第二次世界大戦直後に日本の自動車産業に

与えられた初期値とその後の外生変数について整理することから始めよう。

2.1 日本における初期値と外生変数

第二次世界大戦直後、日本の自動車メーカーは戦争での破壊を免れた既存の生産設備を

利用して戦前から行われていたトラック生産を再開した。敗戦国である日本では、当初、

資金や生産設備が大幅に不足していた。

そのような状況のなか、各部品メーカーは大ロットで生産を行い、できた部品から順次

持ち込まれるために必要な部品がすべて揃う月末に集中して自動車の生産が行われていた。

また、同種の工作機械ごとにまとめられた「機械別レイアウト」が採用されており、生産

ロットがまとまるまで加工に着手されず、次の工程を待つ仕掛け品の在庫が工場内に大量

に置かれていた。そして、伝統的な職人的生産システムや手工業的な要素が色濃く残って

おり、生産量や製品の品質が彼らの熟練度や「やる気」に大きく依存して決まる傾向が強

かった。

他方、各企業の出身母体産業にも見られるように、他産業から学んだり影響を受けたり

しやすい環境が存在していた。例えば、トヨタおよびスズキが紡績・繊維産業、富士重工

や三菱、後に日産と合併したプリンスは航空機産業、マツダとダイハツが三輪車、本多技

研やスズキは二輪車、三菱は造船業とも深い関係にあった。藤本 [2003:190-191]によると、

日本の自動車産業は紡績業から生産・管理手法を、航空機産業から製品技術を学んだとさ

れる。後者については、敗戦による航空機産業の解体により、優秀な航空技術者が労働市

場にあふれていたことも重要なポイントとなろう。資源の希少な日本で性能面での極限設

計を求められてきた航空機技術者たちのレベルは高く、戦後、それら優秀な人材を採用す

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ることによって自動車生産技術を飛躍的に向上させることが可能となった。

以上が、第二次世界大戦後に生産を再開し現在に至る日本の自動車産業に与えられた初

期値であると考えられる。それでは、外生変数としては何が考えられるであろうか。それ

は、コーポレート・ガバナンスのあり方に注目することで明らかにすることができる。

戦後の日本における経営慣行の特徴としてしばしば挙げられるのは、「メインバンク制」

や「株式持ち合い」といった企業間関係、および「終身雇用」、「年功序列」や「企業別労

働組合」といった雇用制度に関するものであろう。企業が取引する金融機関を1行に定め

て密接な関係を保つメインバンク制や複数の株式会社による相互の株式保有は、モニタリ

ング機能の弱さが指摘される一方で、利害関係者による外部からの影響力行使の可能性を

最小限に抑え、経営を臨機応変に行って会社の成長・発展に邁進することを可能ならしめ

るものである。特に創業者一族によって支配される同族経営企業であれば、経営効率を最

大限に高めることができるであろう。さらに、雇用面では終身雇用や年功序列によって社

員の忠誠心を高め、企業別労働組合は労使協調を基本として行動する。これらの社会環境

は、日本の自動車メーカーにおける意思決定の自由度を確保するうえで重要な役割を果た

していたものと考えられる。

最後に、日本の道路・車庫事情も外生変数として見逃すことができない要素であるとい

えるだろう。狭隘で踏切などによる段差が多く、信号の設置も多い道路状況は、より低速

度での安定性とストップ・アンド・ゴー向きの足周り、そして何よりも小型の車体を備え

た製品を数多く市場に登場させた。また、石油資源に乏しく、燃料に課される税金の高さ

も、省エネ型のエンジン設計に寄与している。

以上の条件や制約を所与のものとして、日本の自動車産業は経済環境の変化というショ

ックに対応するための選択を行ってきた。

2.2 20世紀後半における日本の自動車産業

それでは、20世紀後半の経済環境の変化に対して、日本の自動車メーカーはどのように

対応し、技術の選択を行ってきたのであろうか。トヨタ自動車のケースを中心に見て行く

ことにしよう。

前述のとおり、戦後の日本における自動車産業は、限られた資金や生産設備のもとでト

ラックの生産を開始した。そのような状況のなか、トヨタでは3年でアメリカの生産性に

追いつくことを目標に掲げていたようであるが、限られた資源・設備のもとで設備投資を

行わずに生産性を向上させる努力を必要とした。そのため、1940年代後半における生産シ

ステムの変化は、①必要な時に必要な部品がそろうようにして仕掛け品在庫を減少させる

「ジャスト・イン・タイム(Just In Time: JIT)方式」の追求、②「機械別レイアウト」か

ら加工順に機械を配置する「製品別レイアウト」への変更、③1人の作業員が複数の機械

を担当する「多工程持ち」や機械の「多台持ち」の導入、④職人作業の標準化と標準化さ

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れた作業の不断の改訂、そして⑤治具の導入などによるものとなっている。

さらに 1950年、トヨタではその後のトヨタ生産方式(Toyota Production System: TPS)の

基本となる重要な選択が行われている。1948年~1949年の金融引き締めの影響によりトヨ

タは経営危機に直面し、金融機関からの緊急融資を受けるとともに 2000人規模の人員削減

を断行しようとした。その雇用削減が 1950年に大規模な労働争議に発展してしまったので

ある。この大規模争議の経験が、成長期には労働投入を増加させることなく生産性を向上

させることによって生産量の拡大を図り、不況期には売れるだけしか製造しない限量生産

を行うことによって低操業時でも利益が出せる体制を確立することにつながっていく。

1950年代には徐々に乗用車の国産化が行われ始めるが、先に国産化に成功していたトラ

ック生産によって蓄積された資本設備、および製造技術や製品技術を流用することが可能

であった。ただし、トラックの技術をそのまま乗用車に移転するだけでは商品の競争力に

限界があったため、一部のメーカーではヨーロッパ車のライセンス生産を行うことによっ

て技術の吸収を図っている。

他方、トヨタでは 1950年代前半に老朽設備の更新やベルト・コンベアの導入、自動化に

よって生産能力を倍増させる計画を立て、マルチスポット溶接機や大型プレス機、エンジ

ンブロック鋳造設備などの最新設備とともに、フォードから学んだ二つの制度を導入して

いる。それは、改善提案制度と現場管理者に対する教育制度である。また 1950年代後半に

は、米軍への納入車両の品質の低さを指摘されたことを受けての「全社的品質管理(Total

Quality Control: TQC)」や、後工程の作業員が前行程に必要な部品を取りに行き、前工程は

減った分だけ部品を補充する「かんばん方式」が導入され始めている。

1960年代は、一般家庭に自家用乗用車が急速に普及したモータリゼーションの時代に当

たる。国内市場の急拡大に対応する形で乗用車を一貫して組み立てる工場が相次いで操業

を開始し、加工や成型の工程でも大規模な機械化や自動化が進められた。藤本 [2003:159]

は、戦後日本の自動車産業の一つの特徴として、この時期の生産量の増加がモデルの多様

化をともなっていたことを挙げている。単一車種の大量生産によって生産量を拡大させた

T 型フォードとは異なり、生産システムの柔軟性(フレキシビリティ)や開発生産性の向

上によってモデルの多様化と生産規模の拡大を両立している。

購買面では、取引先を分散させて専門の部品メーカーからの納入を受ける方向に、また、

単体の部品を多くの部品メーカーから購入するのではなく、少数の部品メーカーから機能

完結的な集成部品(サブアッセンブリー)にまで組み立てを行った状態のものを購入する

「ユニット発注」の方向に、シフトしている。また、受け入れ時の検査を重視する体制か

ら、TQCをサプライヤーにまで拡大して品質を確保する体制へのシフトも見られる。この

国内での量的拡大と生産システムの質的向上という能力の蓄積が、続く 1970年代の輸出拡

大を支えることにつながっていく。

1970年代は、輸出の拡大と国際競争の時代であった。1979年の第二次石油ショックが発

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生するまで、北米市場においてアメリカの自動車メーカーが利幅の大きな大型車を中心に

製品を大量販売していたのに対し、ヨーロッパ型の一体型ボディを持つ小型車がアメリカ

のベビーブーマー世代の若者たちの支持を得た。安価で効率的な小型車という製品コンセ

プトが受け、日本のメーカーによる対米輸出は急増した。輸出の拡大は、輸出仕様車のバ

リエーション増加という多品種生産の必要性を高め、生産面での柔軟性をいかに実現する

かという課題を日本のメーカーに与えた。その後、第二次石油ショックによって大型のア

メリカ車の売り上げが減ったことにより、アメリカ企業は小型車製造へと手を広げること

を模索し、莫大な設備投資と小型車価格の引き上げが行われた。この時以降、日米の貿易

摩擦がクローズアップされることになる。

1960年代のモータリゼーションを経て、1970年代はその影の部分に人々の目が向けられ

た時代であるともいえる。交通事故や大気汚染などの公害問題、および石油ショックによ

る燃料価格の高騰などへの対策に追われるなかで、日本のメーカーは低燃費・低公害型エ

ンジンの開発に取り組み、成功している。

また、1973年の第一次石油ショック以降、日本の自動車産業は低成長期に入ったとの認

識がなされるようになり、前述のように限量生産を行うことによって低操業時でも利益が

出せる体制の構築が行われるようになった。限量生産を背景とした部品コストの継続的な

引き下げがサプライヤーに対しても要請されるようになり、長期安定的な取引関係を前提

としてトヨタ型の生産方式をサプライヤーに導入するなど、管理体制が確立されるように

なったのもこの時期である。

1960年代以降、市場の拡大による生産台数の急拡大、および新技術への投資や継続的な

改善活動などによる生産システムの質的向上を背景に、日本の自動車メーカーは欧米メー

カーに対する競争優位を確立してきた。この状況は、1985年のプラザ合意を境に急変する

ことになる。

プラザ合意による急激な円高の進展と日米貿易摩擦の激化は、部品サプライヤーを含む

各メーカーの海外生産を本格化させ、日本企業の高い競争力の顕在化は欧米企業による追

い上げ努力や企業間提携などを活発化させた。そのような状況下で、生産システムの質的

向上を継続的に追求し続けた日本企業の問題点、すなわち能力の過剰蓄積が顕在化する。

それは、多すぎる製品バリエーション、低すぎる部品共通化率、頻繁なモデル・チェンジ

といった過剰設計として現れた。藤本 [2003:324-326]によると、過剰設計は①高い開発生

産性の濫用、②短い開発期間による設計簡素化への取り組み時間の減少、③顧客満足度へ

の過剰依存、④高級化路線の追求しすぎ、⑤高い部品製造能力の濫用、そして⑥製品コン

セプトの創造と技術への翻訳の両方に対して責任を持つ強力なプロジェクト・リーダー(重

量級 PM)を置くことの副作用などを原因として発生するものである。例えば、研究熱心

な技術者は持てる技術を少しでも多く製品に詰め込もうとする傾向があるといわれる1。そ

の結果、製品の機能や品質が過剰なものとなり、高コスト構造が定着することになる。こ

60

のような過剰設計はその高コスト構造によって国際競争力を低下させる一方で、北米市場

では中古車価格が高く設定されることにつながっており、一種のブランド力ともなってき

た。

1980 年代後半から 1990 年代の初頭にかけてのこの時期、(a)継続する円高傾向、(b)

上記の高コスト構造による日本企業の生産性上昇率の低下、(c)日本企業の北米進出や日

米の企業間提携を通じた経営資源の移転、(d)アメリカ企業による学習および改善努力な

どを背景に、製造コスト、組み立て生産性、製造品質や開発リードタイムなど競争力に関

係する重要な要素について、アメリカの自動車メーカーが日本のメーカーに急速にキャッ

チアップしてきた。ここからはどちらかといえばアメリカの自動車メーカーにおける技術

選択の話になってしまうが、(c)および(d)に関して補足しておきたい。1970 年代に経

営危機に陥り、トヨタ的な生産方式や開発方式を導入することによってそこから脱却した

マツダと 1979 年に資本提携したフォードは、1980 年代初頭の経営不振の時期に十分な設

備投資を行うだけの資金力がなく、かえってそのためにマツダから日本型のもの造りを効

率的に学ぶことができたといえることを藤本 [2003:292]が指摘している。また、1980年代

に入って高コスト構造に苦しめられていたGMは、低コストで効率的な生産工場を実現す

るためにトヨタの「かんばん方式」などの導入を図り、トヨタと合弁でNUMMI(New United

Motor Manufacturing, Inc.)を設立している。さらに、日本企業側も貿易摩擦と円高をきっ

かけとする北米での現地生産が本格化することにより、現地で雇用した従業員をいかに教

育し配置・投入していくかという課題に取り組む必要があった。技術者や管理者、機械設

備などの経営資源を日本から移転し、日本型の生産システムを現地労働者向けにマニュア

ル化するとともに、現地の労働事情に合わせたアメリカ式の考え方や方法をも効果的に利

用しようとしたのである。このような過程を経て、アメリカの自動車産業は日本的なもの

造りを概念化・体系化するとともに自分達の体質に合うように調整・改変して吸収してき

た。

藤本 [2003:294-304]が指摘するアメリカ企業によって「調整・改変」された内容とは、

以下のようなものである。

(1)日本企業におけるもの造り能力が国内競争を動機として現場での工夫などをもとに

したボトムアップ形式で構築されてきたのに対し、欧米企業における組織能力は国

際競争を動機としてマネジメント側の計画に基づいてトップダウン形式で構築され

る傾向がある。

(2)日本企業のもの造り能力の体系は概念的に明確化されていることが少なく、自然発

生的な暗黙知の部分が多かったものを、概念を言葉によって明確化するとともに合

理的システムとして体系化することをとおして、原理原則から理解するように努め

た。

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(3)日本企業における TQC が品質管理部門にとどまらない全部門の社員全員が参加す

る全社的活動であり、現状維持よりも継続的な改善を重視するものであるのに対し、

アメリカ企業における総合品質経営(Total Quality Management: TQM)は経営全体に

対する戦略的な視野を持つ経営トップの積極的関与を強く意識したものとなってい

る。

そして、アメリカ企業によって行われた日本的なもの造りの概念化や体系化の成果は、

Womack et al. [1990]によって「リーン生産方式」と名付けられ、アメリカをはじめとする

世界中の製造業に広く普及していくことになる。

1990 年代、バブル崩壊をきっかけとする「失われた 10 年」と呼ばれる長期低迷期に日

本経済が入ったのとは対照的に、アメリカ経済は低インフレと労働生産性の上昇による高

成長を同時に達成し「ニュー・エコノミー」と呼ばれる好況期に入った。その好況を背景

に 1990年代後半にアメリカの自動車メーカーはトラック系市場を開拓して大成功、また、

同時期に一部のヨーロッパ企業がブランド構築と大量生産を両立させるなど「もの造り」

以外での収益確保に成功していたため、日本企業に対するもの造り能力の面でのキャッチ

アップは速度を緩めることとなった。

1990年代半ば以降の日本企業は、過剰設計による高コスト構造から脱却するための部品

共通化、プラットフォーム統合、モデル・チェンジ周期の延長、および「割り切り設計」

などの設計簡素化を実行している。プラットフォームの共通化による設備投資費用の削減

効果は非常に高く、また、過剰設計がコスト削減の余地を残していたという意味で一種の

含み資産ともなっていたこともあり、設計の簡素化は円高差損を相殺したうえで日本企業

の競争力を最大限に復活させることに貢献した。

最後に、1990年代後半以降の情報技術(Infomation Technology: IT)の発展が自動車産業

における技術選択に与えた影響についても触れておきたい。デジタル技術の発達は、コン

ピュータ援用エンジニアリング(Computer Aided Engineering: CAE)、コンピュータ援用設

計(Computer Aided Design: CAD)、コンピュータ援用生産(Computer Aided Manufacturing:

CAM)の導入による開発リードタイムの大幅短縮を可能にした。基本設計の段階でコンピ

ュータ・シミュレーションによって製作する部品などの形状や強度を解析(CAE)するこ

とは、問題解決のスピードを速めて実物を試作する回数を減らすことを可能とする。CAD

は基本設計段階に続く詳細設計段階でのコンピュータを利用した部品などの設計・製図で

あり、CAMは CADによって設計・製図された図面をもとに生産準備段階で工作機械への

加工情報をプログラムとして入力し製品を加工する作業のことであるが、どの技術も開発

期間のなかでの問題解決スピードを速めるものでしかなく、開発プロセスの一部を省略し

たり、別のプロセスに変更するようなものではない点に注意が必要である。すなわち、結

局は製品開発における問題解決作業に対する深い知識と高いもの造り能力を持つ企業だけ

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が、デジタル技術を活用したパフォーマンスの向上を実現できることになる(藤本

[2003:340])。この点で、ITの発達による自動車産業における競争力の源泉への影響は、基

本的には生じていないといえる。

2.3 日本企業による技術選択の特徴

ここでは、これまでに見てきた日本企業による技術選択の特徴について、藤本 [2003]を

もとに簡単に整理しておきたい。日本の自動車メーカーにおける技術選択は、「もの造り組

織能力」と呼ばれる開発・生産能力を高めることと同義であった。まず、①流れ作業によ

る組み立て方式、②ベルト・コンベア・ライン、③トランスファー・マシンと呼ばれる自

働工作機械、および④提案制度をフォードから、⑤少ロット生産、⑥多台持ち・多工程持

ち、および⑦製品別レイアウトを紡績産業から、そして⑧高い技術力を持つ人材および⑨

重量級 PM制度を航空機産業からそれぞれ学習・導入した後、細分化した国内市場に対応

するため、おもに二つの方向で能力蓄積が行われてきた。一つは多品種少ロット生産を実

現するための生産システムのフレキシブル化であり、もう一つは開発システムの効率化で

ある。後者を実現するため、製品の設計・開発と工程の設計・開発を同時に進行させる方

式が採択され、設計担当者と生産担当者間のコミュニケーションや情報共有をスムーズに

行う機能が備わることとなった。

そして、その競争力強化の源泉となったのは、資源の乏しかった第二次世界大戦敗戦直

後の教訓であり、困難を乗り越えるために熟練労働者が現場で行う工夫の積み重ねである。

20世紀後半にアメリカ式の大量生産方式が失速したのは、徹底した機械化による作業の単

純化、細分化、および分業化の結果、過剰専門化の状態に陥って生産システムが硬直化し、

調整コストや無駄が蓄積されることによって競争力が低下してしまったことが原因である

といわれる。それに対し、日本の企業は過剰専門化を抑制して一人の労働者に広い職務範

囲を与え、多能工を育成して多工程持ちをさせるとともに、外部の部品サプライヤーを活

用する方向で「ユニット納入」や部品の開発から製造までを一括して依頼する「承認図方

式」を採用して高度成長期における生産の急拡大と採用人員の制約に対応してきた。その

ように、労働や資本などの生産要素投入量を増加させる方法ではなく、それ以外の手段で

生産性を向上させる能力を身に付けていた企業が、高度成長期における本格的な量産効果

を享受することができたのである。

藤本 [2003:175]は、開発・生産能力を構築するうえで重要な要素として、(a)事前合理

的計算、(b)偶発試行、(c)環境制約、(d)企業家的構想、および(e)知識移転の5つを

挙げている。そして、その中で日本企業にとって最も重要な役割を果たしてきた要素が、

偶発試行であるとしている。日本企業の技術選択においては、事前合理的な意思決定のシ

ナリオでは説明できないようなシステム構築がなされてきており、それを藤本 [2003:174]

は「創発(emergence)的能力構築」と呼んでいる。そして、そのような能力構築が日本企

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業で集中的に行われた理由として、意図せざる事柄が発生した場合に学習する能力や、意

図せざる経緯で試行された活動のなかに潜在する競争機能を事後的に見つけ出して精製し、

制度化する能力が備わっていることを挙げ、その源泉となるのが、組織の成員が日常的に

パフォーマンスの向上を指向する意識を持続的に持ち、何か意図せざる事柄が発生した場

合にそれを競争力の向上に生かせるか否かを考える習慣を共有していることであると指摘

している。

3. ドイツ企業における技術選択ダイナミクス

続いて本節ではドイツの自動車企業に焦点を絞り、ドイツにおける初期値および外生変

数に注意しながら、経済環境の変化というショックにどのように対応し技術の選択を行っ

てきたのか、風間 [1997]などを参考にしながら考察する。

3.1 ドイツにおける初期値と外生変数

第二次世界大戦直後、日本同様の敗戦国であるドイツの自動車メーカーの生産設備は壊

滅状態に陥っていた。そのなかにあって、フォルクスワーゲン(Volkswagen: VW)は例外

的に恵まれた再スタートを切ることができたとされている。多くの工場建物や機械設備が

空爆によって失われ、戦後は工場にあった物資や工具などが連合軍によって接収されるな

か、VW の工場があったボルフスブルグを占領したイギリス軍が、占領地を管理するうえ

で必要となる自動車をイギリス本国から持ち込むのではなく、VW の設備を利用して生産

することを選択したからである(風間 [1997:66])。VW は、戦前のヒトラーによる国民車

構想のもとフェルディナンド・ポルシェ(Ferdinand Porsche)によって開発された「ビート

ル」を、単一車種大量生産の対象として 1974年までモデル・チェンジすることなく国内生

産し続けることになる。ビートルは、フォードの T型モデルに匹敵する低価格・低維持費

用の小型大衆車である。他方、ドイツにおける他の自動車企業も、大規模な投資と最新の

近代生産技術の導入によって生産の回復を図っている。その過程で、戦前からの課題であ

ったフォード・システムの導入が進められた。

次に、ドイツにおける外生変数について考えてみよう。日本のケースと同様にコーポレ

ート・ガバナンスのあり方に注目してみると、経営者の意思決定への制約が強いことが分

かる。ドイツでは、監査役会への労働組合代表および従業員代表の参加が法的に保証され

ているとともに、もともと国営・公営企業が多かったという背景から株式の一部が州政府

などによって保有されるケースや、銀行が株式の多くを保有することによって支配力を強

めているケースなどがみられ、意思決定の際には多様な利害関係者からの影響を強く受け

ることになる。南ドイツにおける BMWやポルシェのように同族経営を行っている例も見

64

られるが、基本的に労働側の立場が強く、経営は硬直化しがちである。ドイツにおける自

動車産業の労働者を組織してきた労働組合は、金属産業労働組合(Industriegewerkschaft

Metall: IGメタル)と呼ばれる産業別組織であり、それとは別に各企業内に従業員代表とし

て「経営評議会」と呼ばれる組織が存在する。これらの労働者利益代表から二重の影響力

行使を受ける点がドイツの労使関係の特徴である。

労使関係に加え、ドイツ車の製品差別化戦略を考えるうえで無視できないのが、速度無

制限での走行が可能な「アウトバーン」の存在である。ドイツのメーカーでは、より高速

度域での走行安定性や快適性が重視された製品設計が行われることが多い。

以上の条件や社会環境、特に労働組合との関係のあり方が、経済関係の変化というショ

ックに対応していく際のドイツの自動車メーカーにおける意思決定に大きな影響を与えて

きたといえよう。

3.2 20世紀後半におけるドイツの自動車産業

それでは、20世紀後半の経済環境の変化に対してドイツの自動車メーカーはどのように

対応し、技術の選択を行ってきたのであろうか。前述のように、敗戦後のドイツの自動車

産業は壊滅状態にあった生産設備に大規模な投資を行うとともに最新の近代生産技術を導

入することで生産の回復を図り、1950年にはほぼ戦前の水準にまで乗用車の生産を回復す

ることに成功している。

1950年代のドイツは国内のモータリゼーションが展開した時代であり、同時期の輸出も

持続的に増加したことによって、自動車の生産規模は急速に拡大した。そして、その戦後

ドイツの自動車産業発展の象徴が、前述のVWビートルであった。VWの採った戦略はフ

ォードの戦略と同様であり、大衆車需要の拡大を背景に低価格・低維持費用の小型車であ

るビートルの生産に経営資源を集中的に投入し、規模の経済性を最大限に追求して生産規

模を拡大した。

同時期の自動車産業の発展は、企業の合併・資本集中による生産集中の過程とも連動し

ていた。その結果、1960 年代後半から 1970 年代初頭にかけて現在にまで至るドイツ主要

自動車メーカー5社(アウディ・ダイムラー・BMW・フォルクスワーゲン・ポルシェ)の

寡占体制が完成した。寡占体制の成立にともなう生産集中は生産の大規模化をも可能にし、

この期間における生産過程の「アメリカ化」、つまり機械化と自動化を中心とした合理化に

よる大量生産体制が確立されていった。

ドイツにおいてアメリカ的な大量生産が普及する一方で、1960年代には労働力が不足し、

成長が阻害されてしまう可能性が指摘されていた。また、アメリカ的大量生産の普及は徹

底した機械化による作業の単純化や細分化につながり、最小単位にまで分解された作業工

程は非熟練労働者が担当していた。その結果、1960年代をとおして外国人労働者がドイツ

国内に大量に流入し、自動車生産現場での単純な反復組み立て作業を支えることになる。

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労働組合もまた、ドイツ国内での生産拡大と業績向上を背景に、給与の改善・雇用保障・

労働時間の短縮・有給休暇の拡大といった経営側からの譲歩と引き換えに機械化や自動化

を中心とする合理化に協力した。このような過程を経て、1950 年代から 1960 年代にかけ

てドイツでは生産のアメリカ化が急速に進展したのである。

ただし、アメリカで発展したフォード・システムがそのままドイツに導入されたわけで

ないことを風間 [1997:60]は指摘している。北部ドイツにおいて大量生産メーカーである

VW、フォード、GM オペルが操業する一方で、南部ドイツには伝統的な職人的要素を残

した BMW、ダイムラー・ベンツ、アウディやポルシェといった量産高級車メーカーが存

在していた。それら南部ドイツの高級車メーカーにおいても部品の標準化や専用機械の使

用、流れ作業といったフォード的手法が取り入れられ、外国人労働者が非熟練労働に従事

してはいたが、高品質・高性能という高付加価値戦略がとられるとともに、それらを実現

するための職人的手作り生産の要素が残されていたことによって、生産部門に一定数の熟

練工が存在していた。

その後、1970年代に入ると状況は一転、二度の石油ショックを契機として長期不況が発

生するとともに失業が急増してその状態が定着することになり、ドイツの自動車産業は構

造的転換期を迎えることになる。風間 [1997:70]によると、その構造的変化には3つの側面

があり、①製品市場の構造的変化、②柔軟(フレキシブル)な生産システムを実現するた

めの合理化要求、および③フォード・システム下での単純労働が持つ「非人間性」への反

発が挙げられている。

まず、製品市場の構造的変化は、第1節でも述べたようなモータリゼーション後の市場

の成熟化と顧客ニーズの転換、および日本車によるシェアの拡大である。顧客ニーズの多

様化によって高級車市場が拡大する一方で、圧倒的な価格競争力を持つ日本の小型車との

競争の激化は、特に北部ドイツの大量生産メーカーに対してモデル・チェンジ周期の短縮

化や製品バリエーションの拡充へと戦略の転換を迫るものとなっていた。そして、そのよ

うな企業戦略の転換はより柔軟な生産システムを必要とし、その実現に向けた生産合理化

が進められることにつながっていく。

生産合理化の中核をなしたものが、NC 工作機械やマニシング・センター、産業用ロボ

ットなどの「新技術」を大規模に利用した近代化および自動化水準の一層の高度化であり、

マイクロ・エレクトロニクス(Microelectronics: ME)技術の発展がそれを可能とした。そ

うしたME技術に基づく新技術は、フォード・システムのもとで採用されていた応用のき

かない硬直的な専用機械とは対照的に、製品の変更や多様化に迅速かつ柔軟に対応するこ

とが可能ないわば「ドイツ型フレキシブル量産体制」の実現に寄与した。このように資本

投入によって製品の多様化と生産規模の拡大を両立する方向性は、おもに労働生産性を向

上させることによって同様の事を実現した「日本型フレキシブル量産体制」とは対照的な

方向性であり、興味深い。

66

自動車生産へのフォード・システムの導入が普及する一方で、1960 年代末から 1970 年

代にかけて、ベルト・コンベア労働における「労働疎外」が世界的に問題視されるように

なっていた。ドイツにおいても、生産現場、特に最終組立部門における短いタクト・タイ

ムのもとでの反復的単純労働に対する労働者の不満が高まっており、高い欠勤率や転職率、

稼働率の低さや欠陥品の多さが問題となっていた。その一方で、ドイツにおける「労働の

人間化」の問題は、労働組合や経営評議会、監査役会を通じた共同決定過程のなかで雇用

保障や労働時間の短縮、職業教育の充実、健康と安全といった幅広いテーマの一環として

取り扱われ、議論された。そして 1960年代同様、新技術の導入による生産の近代化努力が

他の産業部門よりも相対的に高い賃金水準などの既得権益の保護や雇用の安定を保証する

限りにおいて労働組合側もその方向性を支持し、経営側も良好な労働条件と新技術のもと

で生み出される生産の柔軟性に期待する形で、協力的に合理化が進められることとなった。

ただし、あくまでも人間に相応しい労働が実現され、労働者の職業資格の向上やそれによ

る賃金報酬の改善が見込める範囲内で労働者側は技術と労働のフレキシブル化を支持して

いたのであり、経営側からの無制限のフレキシブル化要求に対しては、常に労働側からの

監視と社会的規制による制約がかけられていたことには注意が必要である。

1970 年代末以降、特に若いドイツ人を中心とした構造的な失業問題が深刻化するなか、

労働者側からの上記のような職業訓練要求に応じる形で、自動車メーカーは若い専門労働

者を大量に養成した。その結果、熟練工資格を持つ専門労働者を大量に直接生産部門に投

入することが可能となり、また、専門労働者側も自分の職業資格よりも低い内容の直接生

産部門の仕事を担当することになるとしても、他の産業部門よりも高い賃金を得られる自

動車メーカーでの就業を選択した。こうして、ME 技術が導入された職場を中心に、熟練

工資格を持つ専門労働者が大量に投入される環境が形成されていった。

ME 技術に基づく広範な生産の機械化および自動化が行われる一方で、高度な技術を身

に付けた熟練工を生産現場に大量に投入することが可能となっていたことにより、1980年

代にはそれまでにない著しく専門職化された新しい職種がドイツの自動車製造業において

形成されることになった。それは、「システム規制工」と呼ばれ、プレス部門や機械加工部

門など自動化技術が導入されたハイテク現場に配置された装備工や電気・エレクトロニク

ス工、そしてライン制御担当者たちのことを指しており、彼らのような生産と保守機能に

またがる新しいタイプの熟練労働者が以後の自動車生産現場における戦力的基幹集団とし

て位置付けられていくことになる(風間 [1997:127])。機械制御が労働者でなくプログラム

によって電子的に行われるのが現代の自動化技術の特徴となっているが、工程に障害が発

生しないように点検整備を行うとともに障害が発生していないか監視し、障害の発生時に

は速やかに介入して回復を図るのがシステム規制工の役割である。その際、(a)機械と工

程の両方にかかわるなかで目や耳をとおして感覚的に習得される特殊かつ具体的な経験

的・実践的知識、(b)システム開発や点検整備を行ううえで必要となる開発部門や計画部

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門などのエンジニアたちとの専門的・社会的コミュニケーション能力、そして(c)不慮の

事柄に即興的に対応することを可能にするために自分の作業行動を自分で計画し調整する

能力が求められる。また、プレス部門や機械加工部門などのハイテク部門では、速やかに

工程の異常を発見して予防的に介入するとともに故障発生時には専門家を支援する熟練労

働に加え、部品補給などの単純作業が行われている。ハイテク部門において技術がより資

本集約的である場合には、人件費などのコスト以上に稼働率の向上が生産効率向上の面で

重要であり、何よりも現場での迅速かつ適切な対応が求められるため、労働組合と経営評

議会の協力のもと、上記の熟練労働と単純作業の両方をシステム規制工に担当させるケー

スが多かった。

他方、ローテク分野に分類される組立部門では、1980年代初頭の段階でまだ自動化・機

械化が進んでいたとはいえなかった。しかしながら、製品の多様化と高度化が進められる

にしたがって組立作業の重要性が次第に高まるとともに最大の合理化利益が期待される部

門であると考えられたため、二つの方向性から組み立て効率を上げる試みがなされた。一

つは製造技術によるアプローチであり、もう一つは製品技術によるアプローチである。前

者はエンジンやギアの組立部門における組付けロボットの導入など、ハイテク部門と同様

の自動化を指しており、後者は自動化が可能となるように最終組み立てを容易にする設計

を行う方向性で、「モジュール組立方式」の導入が代表的な例である。組み付け作業の効率

化、車体内部での組み付け作業の実現、組み立て自動化に向けた前提構築などの面でモジ

ュール組立方式はメリットを持つと考えられ、より高い技術力と開発力を持つユニット部

品サプライヤーの選別や育成を行うとともに統合的な生産を行うことを目的とした、その

後の情報ネットワーク構築につながっていく。

ヨーロッパ市場における 1970年代以降の日本車のプレゼンスの高まりを背景に、組立部

門における効率性追求の一環としてのモジュール組立方式や JIT 方式の確立を目指した部

品サプライヤーの選別、ユニット部品を納入するシステム・サプライヤーの育成、QC サ

ークルの導入など日本的な生産システムの導入も進められはしたが、1980年代にはそのよ

うな「日本化」の動きはごく限られたものとなっていた。しかし、1990年代に入ってWomack

et al. [1990]による「リーン生産方式」が発表されるや否やドイツにおける経営合理化論を

席巻すると、北米におけるGMとトヨタの合弁事業であるNUMMIやGMのカナダ現地法

人とスズキの合弁事業である CAMI(CAMI Automotive, Inc.)の生産モデルの中核をなす「チ

ーム労働」が注目され始めた。それは、テイラー・システムにおける分業と専門家とは対

照的に、生産現場での垂直的かつ水平的な「職務・機能統合」をとおして労働内容を拡充

するとともに、作業の計画や割り当てなどの権限委譲を通した集団の自己組織化の可能性

を追求しようとするものであった(風間 [1997:151])。テイラー・システムにおいては、生

産の制御と作業計画、保守・整備、品質検査といった機能を間接生産部門に集中させるこ

とによって、直接生産部門における労働を単純化して機械化・自動化を進めようとするも

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のであったが、それは間接部門における熟練工の必要性を高めるとともに、間接部門の肥

大化をもたらすものであった。さらに前述のようなハイテク部門における資本集約的技術

のもとでの稼働率向上が要請されたことなどを背景として、品質検査や保守・整備などの

間接機能の一部を直接生産部門におけるチーム労働と統合することによって、間接部門の

スリム化と合理化の実現が図られたのである。チーム労働においては、(i)チーム・メン

バーの学習機能、(ii)職務交代を通した技能の混成化、そして(iii)改善や QC などの小

集団活動による問題解決能力の向上が目標とされており、それによる異常や撹乱への対応

能力の向上、機械装置の稼働率向上などをとおして生産性向上とコスト削減効果が図られ

ることになる。

その後、1993年の EU発足にともなうヨーロッパ市場統合、および東西ドイツ再統一に

よる統一特需の反動としての深刻な不況を背景として、国内生産拠点のスリム化と国外へ

の移転が進むとともに、労働時間を柔軟に変動させることによる設備稼働率の向上が行わ

れるようになった。

3.3 ドイツ企業による技術選択の特徴

ここでは、これまでに見てきたドイツ企業による技術選択の特徴について、風間 [1997]

をもとに簡単に整理しておきたい。ドイツの自動車メーカーにおける技術選択の特徴は、

労働者利益代表による社会的規制の強い影響を受けるなかでの熟練工に支えられた機械

化・自動化の実現にある。

生産コストよりも製品差別化および高付加価値を重視する戦略のもとで、柔軟性を併せ

持つ自動化技術の導入、生産現場への熟練工の投入、および熟練工を中心としたチーム労

働によって、高品質と信頼性、技術的完璧さ、製品や仕様の多様性を実現してきた。変化

する経済環境によって競争優位性の低下とコスト削減圧力に直面したとき、リーン生産方

式の導入とグローバル化戦略によってそれを克服する方向性を選択した。ただし、労働者

利益代表の影響力が強いことを反映して、リーン生産方式の導入は労使関係が硬直してお

らず、旧西ドイツでどのように自動車が生産されているかを従業員が良く知らないような、

旧東ドイツ地域に新しく設置された事業拠点から行われている。

日本でのフレキシブル量産体制は、生産システムの柔軟性や開発生産性の向上によって

モデルの多様化と生産規模の拡大を両立するような、おもに労働集約的な技術によって確

立されてきたものであったが、ドイツでのフレキシブル量産体制は、柔軟性を併せ持つ自

動化という資本集約的技術の導入と作業組織の柔軟化という労働集約的技術の両方の側面

を持つものであったといえよう。ドイツにおいては、リーン生産方式はスピードと低コス

トという大量生産の最良の特徴と、柔軟性と高い品質という手作り生産の最良の特徴を同

時に併せ持つ生産構想であると考えられてきた。そこに至るまでの段階では、まず技術的

解決方法が先行して志向されており、そこに責任分散型マネジメントという人的資源を活

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性化させる方向での組織開発が志向されるようになったのである。

4. 日系企業のヨーロッパ戦略

本節では、同様の初期値を持つ企業にとって外生変数の違いが技術選択にどのような影

響を与え得るのか確認するため、高橋・芦澤 [2009]などを参考にしながら、おもにトヨタ

自動車のケースについてヨーロッパ戦略を整理してみたい。

トヨタ自動車が海外生産を始めたのは 1950年代末からであり、先進国以外の周辺国でノ

ックダウン方式による乗用車の組み立てを行っていた。その後 1957 年に北米市場向けに

「クラウン」を輸出したが失敗し、1984年にGMとの合弁でNUMMIを設立するまで先進

国における現地生産は行われなかった。その間、1979 年にホンダ技研が、また 1983 年に

日産自動車がそれぞれ北米での現地生産を開始している。

トヨタ自動車のヨーロッパにおける活動の歴史は、1968年ポルトガルでのノックダウン

方式による生産から始まる。1992年にイギリスに生産拠点を設立するとともに、1994年に

は需要増加に対応するための関税回避目的から、トルコにおいて合弁でトルコ国内市場向

けの小規模ノックダウン生産を開始した。その後、2001年にフランス工場が設立されると

ともに、当時発生していた金融危機のもとで生産活動が停止状態にあったトルコの生産拠

点を対ヨーロッパ輸出向けの生産基地へと転換させた。それまで日本で生産し輸出してい

た分をトルコ製に切り替える戦略である。そして、2005年にヨーロッパ事業全体の総括を

目的として、100%トヨタ出資のヨーロッパ・トヨタ自動車(Toyota Motor Europe: TME)

がベルギーに設立された。それまでは日本のトヨタ本社が世界中の拠点を総括し、各拠点

は出先機関のような扱いであったものを、TME本社がヨーロッパを総括し、全体戦略のも

とで開発・生産体制を確立する方向性への転換である。そして、イギリス・フランス・ト

ルコの工場がヨーロッパにおける重要な生産拠点となっていった。

日本の自動車メーカーは、北米市場の場合とは異なり、ヨーロッパ市場では苦戦を強い

られてきた。前節でも見たように、ヨーロッパ市場は成熟が進んでいて成長性が低く、北

米市場には規模の面で、また将来性の面では新興国市場に遠く及ばないからである。それ

にもかかわらずヨーロッパに進出するのは、歴史のある有力な部品メーカーが存在すると

ともに、メーカー間の激しい競争、先進技術へのアクセス、環境規制などへの対応をとお

して得られるものが重要であると考えているためである。厳しい競争環境のもとで、トヨ

タは各生産拠点と部品メーカーに TPSを教え、ヨーロッパのメーカーからはエンジンや部

品を共通化し、組み立てメーカーとの協力によって生産量を確保する戦略を学んできた。

また、開発面で小型車製造の得意なフランスの企業から設計思想やデザインを学んだ例も

ある。

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ヨーロッパの企業は経営トップから末端までが一体となって量産効果を追求する傾向が

あり、プラットフォームを共通化して機能単位や周辺の部品までを含めて一体化した「モ

ジュール」を組み合わせることによってコンセプトの異なる製品を作るモジュール組立方

式を積極的に導入している。これは、第1節で見た「閉鎖・統合型」アーキテクチャを持

つ自動車という製品を「開放・モジュラー型」に近付けようとする方向性である。ただし、

そのような方向性について学びはしても、トヨタはあくまで品質や仕様にこだわりを持つ

企業であり、設計の簡素化を行いはしても積極的に部品の組み立てメーカーになるつもり

はないようである。

コストの引き下げ効果が少ないこと、およびモジュラーにコア・コンピタンス(Core

Competency: 競合他社に真似できない経営戦略上の根源的競争力)と製造コストの仕組み

を握られる可能性があることを理由としてトヨタはモジュール組立方式を採用せず、1960

年代に確立した TPSを堅持し、さらに成長させる戦略がとられている。人事制度には完全

に現地の制度が採用されている一方で、現地の幹部や従業員の養成は、「トヨタ・ビジネス・

プラクティス(Toyota Business Practices: TBP)」と呼ばれる問題解決力を養うためのプログ

ラムや方針管理学習によって行われる。さらに、北米では購入部品の7~8割が日系部品

メーカー製のものであるのに対し、有力な部品メーカーが存在するヨーロッパでは日系メ

ーカーからの購入が4割程度にとどまっていることなどを背景に、部品メーカーの協力会

を組織して問題解決技法を教えている。その成果としてヨーロッパの有力部品メーカーの

技術力が TPSの採用によって急速に進歩し、著しい品質改善を見せているという。

次に、労使関係について見ておくことにしよう。トヨタは、全米自動車労働組合(United

Auto Workers: UAW)の力が強力な北米工場では労働組合を認めず、UAW本部のあるデト

ロイトから距離があって影響を受けにくいケンタッキー州・テキサス州・インディアナ州

などに工場を建設している。イギリスには機械工業労働組合(Amalgamated Engineering

Union: AEU)という単一組合が存在しており、労使協調組合であることからイギリス工場

はそれを承認している。フランス工場では、政党や組合組織がフランス社会に根付いてい

ることを背景に、現地の労働事情をそのまま受容して労働組合の活動を認めている。ただ

し、会社の組合対策が政府によって監視されており、経営者と組合には交渉する義務があ

る一方で、交渉には必ずしも合意する必要はなく、また、組合の組織率が低いために経営

側の意思決定への影響は小さい。トルコ工場では、北米工場からの伝統を受け継ぎ、労働

組合不在での経営が行われている。その代わりに職場連絡会が定期的に開催され、人事の

トップと従業員代表との話し合いをとおして人事や賃金、労働条件が協議されている。こ

のように、経営への影響力が大きい場合には労働組合を認めず、フランス工場のケースの

ように現地の制度が許容範囲内であれば受容するという方針がとられている。

現在のトヨタが抱える課題は、世界中に展開する生産拠点の自立化であり、その成否は

TPS が現地における工場運営思想として浸透するかどうかにかかっていると高橋・芦澤

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[2009:211]は指摘する。自立化には二つの方向性があり、一つは品質・数量・コストの面で

世界的競争力を持つことであり、もう一つは人材育成と技術開発力を備えることである。

後者は、製造準備を計画してその通りに実行するとともに将来の成長に向けた対応能力を

持つことを意味しており、現地の人材が TPSの指導者となることが必要となる。トルコ工

場の社長はトルコ人であり、会社スタートからの生え抜きで TPSを本質的に理解している

という。また、製造責任者にもトルコ人が登用されている。その一方で、自立化は未だ完

全ではなく、副社長を含めた各部門において日本人のベテランによる補佐が行われている。

本節では、海外進出による外生変数の変化が技術選択の経路にどのような影響を与え得

るのか考察するため、トヨタを中心とした日本メーカーのヨーロッパ戦略について簡単に

整理してみた。社会制度の違いなどに直面しながら、企業の基本的方針は一貫して守り続

ける一方で、許容できる範囲内で現地の労働事情を受容していこうとする姿勢が見られる。

おわりに

本章では、おもに日本およびドイツの自動車産業を例にとり、初期値や外生変数の違い

による技術選択ダイナミクスのパターンについて比較検討してきた。分析の結果、フォー

ド・システムの日本企業やドイツ企業への導入時や TPSに基づくリーン生産方式のアメリ

カ企業およびドイツ企業への導入時、さらには日本企業の海外進出先において、外国企業

から生産技術を学習し導入する際や自らを取り巻く外生変数が変化した際には、創業時に

与えられた初期値や風土・文化・制度などの外生変数に合わせた調整が行われることが明

らかになった。高橋・芦澤 [2009:189]は「TPS の本質は人間を考えさせて成長させること

にある」と指摘しているが、企業展開のグローバル化が進むなか、他社からの学習や企業

間の技術提携や協調関係などによって技術選択のパターンが収束に向かう可能性もゼロで

はないであろうが、日常的にパフォーマンスの向上を指向する意識を持ち続け、何か意図

せざる事柄が発生した場合にそれを競争力の向上に生かせるか否かを考える習慣をもとに

積み上げられた能力は、簡単には身につけることができない。

そして、どの企業においても必ず取捨選択が行われ、自分達が追求すべき基本方針は堅

持する姿勢が見られる。アメリカ企業は戦略構想力と資金力、ヨーロッパ企業はブランド

力と設計品質、日本企業は製造品質の面で強みを持つとされるが、裏を返せば、強みを持

たない部分は弱みであり、欧米企業におけるリーン生産方式の導入は弱みの部分を克服す

るための方向性に他ならない。ただし、弱みが克服できても最初に持っていた強みを失っ

てしまっては意味がなく、だからこそ各メーカーは基本方針を堅持するのである。日本的

な「もの造りシステム」も「リーン生産方式」もベースはあくまでフォード・システムで

あり、それを顧客ニーズの多様化に対応できるよう進化させたものであることを藤本

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[2003:368]は指摘している。また、どの企業においても人間である経営者が誤解をしたり戦

略を誤るようなケースも少なからずあり、そのような偶発的な内側からのショックによっ

て経営困難に陥ったり、そこからの回復過程で新たな競争力を身につけたりするなどのダ

イナミクスを生み出してきた。

興味深いのは、戦略構想力やブランド力などアイディアという面で強みを持つ欧米の企

業が、アイディアを素材の上で表現することが容易な「開放・モジュラー型」の製品アー

キテクチャを持つものへと、自動車という製品を近づける努力を行っていることである。

それがモジュール組立方式の導入であり、アイディアよりも製造プロセスに強みを持つト

ヨタが導入に消極的である理由が理解できよう。

最後に、自動車産業の今後について考えておきたい。1997年の気候変動に関する国際連

合枠組条約(United Nations Framework Convention on Climate Change: UNFCCC)第 3回気候

変動枠組条約締約国会議(3rd Conference of the Parties: COP3)において、先進諸国の温室

効果ガス排出量について法的拘束力のある数値目標を各国毎に設定した京都議定書が採択

された辺りから、先進諸国、特にヨーロッパや日本における環境配慮の重要性が強調され

るようになり、ハイブリッド・エンジンや改良ディーゼル・エンジンなどの排気ガスクリ

ーン化技術が開発されてきた。ただし、現時点ではガソリン式エンジンやディーゼル・エ

ンジンなどの中核部品を他のものと置き換えるような、製品アーキテクチャに大きな変更

が加えられるような状況には至っていない。他方、世界的な人口増加と中国・インドを含

む中所得新興国における自動車市場の急拡大を背景に、近年、現実味を増してきた原油の

枯渇問題に対応するため、エタノールや電気、太陽光や水素燃料などの代替エネルギーを

動力源に使用する自動車の開発が急ピッチで進められつつある。その過程で自動車が、現

在の「閉鎖・統合型」から「開放・モジュラー型」へと製品アーキテクチャを変えていく

可能性は大いにあり、そのような場合には、その分野に強い欧米企業がより競争力を持つ

ケースも出てくるかもしれない。その一つのきっかけがモジュール組立方式なのではない

か。

自動車という製品には常に安全性や快適性が求められ、走行性能とそれらの要素が統

合・調整されたうえで市場に出される。その傾向は今後もしばらくは続くだろう。もしそ

うであるならば、日本型もの造りシステムの強みを最大限に発揮することが可能である。

なぜなら、統合や調整こそが日本型もの造りシステムの最も得意とする分野であり、近年

の自動車のようにあらゆる場所にセンサーが取り付けられ、それらからの情報をもとに高

精度なマイクロコンピュータによって総合的な制御が行われるような製品では、制御プロ

グラムの開発において統合・調整能力の高さが求められるからである。特に異なる2つ以

上の動力源を同時に持つハイブリッド・カーは動力源を同期させる必要があり、高い電子

技術の存在が前提とされている。

今回の研究では、おもに日本およびドイツの自動車産業について見てきた。今後は、考

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察する対象をイギリス・フランス・イタリアなどドイツ以外のヨーロッパのケース、アメ

リカのケース、韓国やタイなどのケースにまで広げるとともに、本章で提示した仮説に基

づく一般化やモデル化を行うことを検討したい。

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【参考文献】

〈日本語文献〉

風間信隆 [1997]『ドイツ的生産モデルとフレキシビリティ』中央経済社

高橋泰隆・芦澤成光 [2009]『EU自動車メーカーの戦略』学文社

藤本隆宏 [2003]『能力構築競争』中公新書

〈外国語文献〉

Womack, James P., Daniel T. Jones, and Daniel Roos [1990], The Machine That Changed the

World: The Story of Lean Production - Toyota's Secret Weapon in the Global Car Wars That Is

Now Revolutionizing World Industry, New York: Rawson Associates, Macmillan.(ウォマッ

ク, ジェームズ・P / ダニエル・T・ジョーンズ / ダニエル・ルース [1990]『リーン生

産方式が、世界の自動車産業をこう変える。: 最強の日本車メーカーを欧米が追い越

す日』沢田博訳 経済界)

1 2011年 12月 1日に開催されたアジア経済研究所アジ研パワーランチ(APL)セミナーにおけるデンソー

テクノ常勤監査役・北原敬之氏の発言。