IMG 0006...Title: IMG_0006 Author: annog Created Date: 5/20/2020 8:46:21 PM

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使 一に -6-

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世田谷区教育委員会発行

「世田谷の中世城塞」所収

〔考察

作図者は作図だけではなく、この書全体

の著者

であ

る。公的機関の報告書なので、図は他の出版物にしば

しば引用され

ている。しかし作者自ら表明しているよ

うにこの図は

「想像図」であ

って、

‘一般にこの種

の報

告書

に用いられている実測図や平面図とは性格を異に

している。さらにこの人は他の著書

に自ら述

べている

ころによると、長く陸軍にいて中国戦線で活躍して

いたとのこと。そのためであろうか、現在の城郭研究

ではほとんど使わな

「城塞」の語が書名にな

ってい

る。内容は上述のように

「想像図」

であるから

一歩を

譲るにしても、次

の点については私は大いに疑間を感

じている。

「本郭」をこの位置

に比定しヽ

いる。しかし中世城

郭の場合、防備の弱いここに本郭を置く例はほとんど

見られない。多くは要害部分に面する台地の先端部に

近い位置である。

この図の場所は現在

の豪徳寺

の本

堂である。それ

に眩惑されたのではな

いだろうか。

② 北側や東側の土塁に

「遮蔽用並木」が描かれ

てい

て、陸軍用語であろうか。それは甲州韮崎の新府城

などに見られる

「シトミ」や

「カザシ」のような物

のことであろうから、ありうることである。しかし

「柵」はどうか、木材を縄で縛り合わせた柵は多く

の城に存在した。しかしこの位置に、しかもこの向

きに設けることは、険しい山城ならばともかく、平

地の城には多分ないと私は考える。

一に

ヽI

 

 

 

 

 

 

 

-6-

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G 東郭や巽郭はともかく、乾郭や西郭は明らかに後

世に設けられた墓地の境界を郭の堺にしている。ま

た、 乾

郭、 巽

郭などという郭の名称は、多くの場

・合は江戸時代に入

ってからで、中世の城には稀であ

る。何か根拠があるのだろうか。

この他、図には

「抜穴」を

「実在したとした場合」

としているが、文中では存在を否定している。これは

図2の作図者が抜穴を認めていることに反論したもの

である。抜穴伝説のある城は多い。城に神秘性を与え

るためと思われる。中には茨城県の関城のように存在

が確認されている城もある。しかしほとんどの城では

調査の結果、単なる伝承に過ぎないとされているもの

である。

「抜穴は

一面では攻め穴になるから」という

否定論が定説になっている。私は図に描かれている①

から③までは疑間に思うが、説明文で抜け穴を否定し

ている点には賛同する。

O図6

《世田谷城址地図》

昭和五五年 小幡 並日 作図

同氏著

「武蔵

の古城址」

(武蔵野郷土史刊行会発行 昭和五五年)

〔考察〕

この本には多くの古城が収め

られているが、どれも随筆風の

説明文にスケ

ッチ風の図が添え

られている。世田谷城について

はまず公園に触れた後

「からめ

手から入るとナショナル松下電

器の社員アパート、ここは第二

郭」とな

っている。しかし溺手

日も大手日も明確ではないはずである。これは正しく

「公園の反対側から入ると」であろう。そして

「松

下住宅は第二郭」としている点は肯定できる。しかし

なぜか第

一郭は図にも文にもない。また松下住宅の西

側の大きな土塁は書き落としたか、墓地内と誤記した

ものか。さらに豪徳寺については図には記入されてい

ないが説明文で

「ここは吉良の居館のあ

った第三郭」

としている。しかし三郭に居館とはまず考えられない

ので、著者の思い違いであろう。 一方、城域の西端に

ついては

「小田急線の通る低地帯が空堀跡」としてい

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る。小田急線ではなく東急世田谷線ではあるが、そこ

までを城域としている点は評価してよい。

○図

7《世

田谷城図》

昭和六〇年

 八巻孝夫作図

「図説中世城郭事典」所収

(新人物往

来社 昭和六

二年

〔考察

〕 

 

 

 

 

 

この図の最大の特色は台地

の先端部

にIと

Ⅱの二つ

の郭を認めていることである。文中で

「突端は櫓台」

としている点は図3と同じで、それに続く北側の現在

は更地

にな

っている部分を1としている。その西隣の

鉄筋集合住宅の位置がⅡであ

って、ここは図123と

さらに図6も共通して方形館と考えているらしい部分

である。

そして豪徳寺

については図卜に

は書

いてないものの、

文では境内地および墓地を

「Ⅲ郭ともいう

べき外郭で、

家臣団の屋敷地であろう」としてぃる。先に述

べた図

5では

「本郭」としている豪徳寺境内地を、この図で

は外郭とまるで逆転している。

この点に関しては他の

多く

の中世城郭は、主郭は先端部に所在し、陸続きの

部分は外郭である。したが

って私は図7の所説を支持

する。

○図8

《豪徳寺境内地

・墓地図》

昭和六二年 世田谷区教育委員会 作図

世田谷区教育委員会発行

 

「豪徳寺文化財総合調

T8-

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査報告書」昭和六二年

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〔考察〕

この図は明らかに豪徳寺の図であ

って、世田谷城の

図ではない。それなのに本稿で九とおりの図の

一つと

して扱うのは次の理由による。寺の区域内にこの図の

作図者が名付けた名称であるが、 一号から六号までの

「土塁」がある。これが確実に世田谷城の上塁である

とすれば、これまでの私の論述は完全にく

つがえるこ

とになるからである。ところが報告書によると

「寺の

聖域であるため発掘はもちろんのこと、ボーリングに

よる調査も、場所によ

ってはトランシットによる測量

すらできなか

った」という。このような制約がありな

がら、結論は次のようにな

っている。

「一号

。二号

。四号土塁は発掘もボーリングもして

いないが、土塁である可能性が高い。しかし三号

五号

・六号は部分的には発掘もしたが、電球

。びん

などのガラス製品が出土しているところから、現代

のものらしい」と。

この報告書は教育委員会による文化財調査の報告で

ある。豪徳寺の歴史

・建築

・美術

。考古等の総合調査

で、 一般にその成果は高く評価されているものである。

] 再事フ

当嶋ル/

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しかし私見では他の項は知らず、考古

については、中

でも

一。二

・四号の土塁の論述は承服しがたい。明確

な理由を明らかにしないまま、

「土塁の可能性が高い」

と断じているからである。同じく教育委員会なので図

5の主張に盲従したのではな

いだろうか。

○図9

《世

田谷城縄張図》

平成三年 西

ヶ谷恭弘 作図

同著

「戦国の城0」学研発行 平成三年

〔考察

作図者は図3と同じ人であるが、それから十七年後

の別な著書

の図である。図には書

いてないが同書

の文

「民家の部分が

一曲輪、松下電器アパートが館跡

で二曲輪、豪徳寺は三曲輪と外構え」とな

っている。

これで結論が出たと言えるのではな

いか。

「住宅地が

本郭で寺は外郭」と、図6から図9までの四枚の図が

共通して指摘している。これ

だ図1から図3までがそ

の住宅地を方形館としていることを加えると、九枚の

うち七枚までが

「主郭は住宅地」としている。私もも

ちろんこの説に賛同する。

さらにこの図のュニークな点は、推定城域を示して

いることである。原図はうす紫色なのでここには半黒

にな

っている。南

。北

。東の三方面は空堀の跡が今

は道路、西は図5が説くよう

に墓地

の西端ではなく、

世田谷線の線路敷

である。

注 以上の九枚

の図

の他に

「日本城郭大系」も世田

谷城を収録している。しかしその図は

「城址付近

図」であ

って縄張りなどを示していないので、こ

こでは取り上げなか

った。

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三、私

は世

田谷城

こう考える

(結

論)

歴史事象

の検証

は刑事裁判と

同じ

で、キ

メ手と

なる

のは

「物的証拠」

であ

る。城郭

の場合

には証拠となる

「物」とは、古

文書

・遺物

・遺

がそ

の三要素

である。

ころが世

田谷城

の場合、古

は存在しな

い、発掘調

できな

い、遺構

は改変が激し

いことなど、ま

「三方ふさがり」

である。そ

のため誰もが

「部分を探

る」

ことしか

できな

いのも、

やむをえな

いと

いう

べき

か。こ

のような大きな制約

の中

で書

かれた、

そし

てこれ

でに出版された全部と思われる九とおり

の図を検討

てきた。少

なくとも世

田谷城

の縄張り

や城域

に関す

る限り、先行研究

のす

べてを踏

まえたと言える。

言う

でもなく

この場合、多数決

でき

める

べき

では決

い。是は是と

し、非

は非と

てそ

の上

に立

って、私

は次

のよう

に結

論づける。

1.城趾公園

は城地全体

の東南隅

で、台地

の先端部

るから、城

の物見台または櫓台

のあ

った場所

と思

われる。しかし現存す

る台

の地が直ち

に物見台と

は限らな

い。

2.城地の全域はその時代

の城

にしてはかなり広大で

あるから、現在の公園の面積は目算ではあるが城域

の二五分の

一か三〇分の

一にしかならない。

3.後世

にいう本丸

にあたる往時の主郭は、公園

の隣

の鉄筋住宅か、またはそれに続く

一戸建

て住宅群

のある

一角

のどちらかである。それを巡

って現存す

る土塁がかなり直線的

であ

ることから、方形館

のよ

うな形態と思われる。

4.主郭付近

の土塁の

一部

には、比高二重土塁と思わ

れる個所も認められる。小田原北条氏との縁が深く

なてから改修したものか。

5.豪徳寺

の境内地や墓地は主郭ではなく、外郭また

は外構えと

いう

べき区画で、武者溜りや武器庫など

防備

のための施設、または家臣の屋敷群

のあ

ったと

ころと思われる。

6.城地

の北

。東

。南の三方

には土塁と空堀が巡

って

いて、現在の道路は堀跡と思われる。ただし横矢な

の防御施設もあ

ったであろうから、直線的なのは

現代

の改修

によるものである。

7.城地の西端は今の宮の坂駅付近であるが、台地の

― H―

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