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文京学院大学人間学部研究紀要 Vol. 17, p. 73〜 82, 2016. 3

*人間学部児童発達学科

はじめに

2015年 7月,中央教育審議会教員養成部会(以下,中教審)は,「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について」(中間まとめ)をとりまとめた.これは,同年 5月に出された教育再生実行会議第七次提言(以下,第七次提言)を踏まえ,今後の教員 1)の養成と研修の在り方を検討したものである.ここでその内容を細かく検討する余裕はないが,一点だけ注目しておきたいのは「教員育成指標」なるものである.第七次提言は,「国,地方公共団体,大学等が協働して,教師がキャリアステージに応じて標準的に修得することが求められる能力の明確化を図る育成指標を策定する」よう求めた.中教審はさらに踏み込

んで,都道府県教育委員会が大学等の関係者と協議しながら教員育成指標を整備するとし,同時に「全国を通じて配慮しなければならない事項やそれぞれのキャリアの段階に応じて最低限身につけられるべき能力」については国が大綱的な指針を示すとしている.教員育成指標の作成主体は地方教育委員会と大学であるとしながらも,「全国的な水準の確保」を理由に,結局は養成と研修の一体的な国家統制に道をひらくものとなっている. では,その教員育成指標の中身はどのようなものか.すでに横浜市や高知県などで,そのモデルとなりうるものが先行的に策定されている.それが横浜市の「教職員のキャリアステージにおける人材育成指標」であり「高知県の教員スタンダード」である.横浜の場合(21年度版),達成すべき資質能力が,3つのキャリアステージ(基礎能

2015年 7月,中央教育審議会は,新たな教員の養成・採用・研修の改善策について「中間まとめ」を公表した.本稿では,中教審の提起する新たな教師の資質能力向上策について,ショーンの「省察的実践」論を手がかりに,その内容の批判的検討を行った.さらに「省察的実践」論を日本の教師教育に活かすための課題と方法について考察した.そして最後にその方法論として竹内敏晴の「演劇教育論」に注目し,その意義を検討した.その結果,第一に,中教審のスタンダードと PDCAサイクルに基づく教師の資質能力向上策は,ショーンの議論の対極に位置するものであり,省察的実践家としての能力の育成にはつながらないこと,第二に,省察的実践家としての教師の養成をめざすには,教師個人の省察的実践だけでなく,「省察的な組織」としての学校にも目を向けなければならないこと,そして第三に,教師が「省察的実践家」として成長するためには,竹内のいう「制度としてのからだ」という視点にも注目する必要のあることが明らかとなった.

Key Words:教師教育,省察的実践,スタンダード,からだ,演劇教育

木村 浩則*

今日の教師教育改革と「省察的実践家」論

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今日の教師教育改革と「省察的実践家」論(木村浩則)

力開発期・基礎能力活用期・教職経験力活用期)ごとに「情熱・人間性等」「授業力」「マネジメント力」「連携力」の 4領域,25項目にわたって明示されている.高知の場合(26年度版)は,採用から 2年,3〜 4年,6〜 10年の 3つのステージごとに,「身につけるべき到達目標」が,「学級・HR経営力」「学習指導力」「チームマネジメント力」「セルフマネジメント力」の 4領域,50項目にわたって記されている. こうした到達目標の指標化は,現在各大学の教職課程で作成されている「履修カルテ」にもみられるものである.たとえば,高知県は,「教員スタンダード」の開発に際して,兵庫教育大学の「教員養成スタンダード」を参考にしたという.この「教員養成スタンダード」は,平成 22年度,教職課程に「教職実践演習」が新設された際,教員としての基礎的な資質能力の確認手段として義務付けられた「履修カルテ」の改良版で,文科省が例示した 7領域 30項目の履修カルテ(自己評価シート)を参考にして,それをさらに精緻化したものである. このことは一体何を意味するのか.第七次提言は「国として,社会の変化を見据えて,教師が身に付けておくべき資質・能力を明示し,それに基づきつつ,教師が,4年間の教育課程での学びで終わることなく,教職生活全体を通じ,体系的に学び続けられる体制を整備する」としている.つまり教員育成指標は,大学における養成と教育委員会等における研修を一体化させ,教職生活全体を通じて教師が身につけるべきスタンダードとして機能し続けるのである. しかし,教師のパフォーマンスの理念型を諸要素に分解し,それをスタンダードあるいは尺度として個人の資質能力を測定・評価するような手法は,教師の力量形成にどれほどの有効性をもつのだろうか.いやむしろそれは専門職としての教師の豊かな成長を阻害するのではないか.なぜならスタンダードにもとづく教師のパフォーマンスの統治は,マイケル・パワーのいう「検証の儀礼化」を招くだけでなく,自己評価を通じた新たな教師の管理統制システムとして機能するからである.つまり,本来は個々の教師の力量形成の手段

にすぎないスタンダードが自己目的化し,儀礼的にその形式だけが追い求められるようになり,教育の自由や自発性が奪われ,専門職としての教師にとって欠くことのできない「反省的実践家」としての教師の力量が損なわれる危険性をはらんでいるのである. 本稿では,教育学の領域では度々取り上げられてきた「省察的実践」に関するショーンの議論をあらためて参照しながら,教員育成指標なるものの問題点を明らかにする.と同時に,「省察的実践家」をいかにして養成するのか,その課題と方法をさぐっていく.最後にその方法論として竹内敏晴の「演劇教育論」に着目し,その意義を明らかにする.そしてそのような作業を通じて現在の教師教育改革をめぐる論議に一石を投じたい.

1  省察的実践とは何か

 日本にショーン(Donald A. Schön)の「省察的実践(reflective practice)」の理論が紹介されてすでに久しい.にもかかわらず,彼の議論が日本の教育学研究者のあいだでどれほど正確に理解されているかは疑わしい 2).たとえば先述した兵庫教育大学が作成した「教員養成スタンダードハンドブック」では,「本学において養成・輩出される教師像の中核をなす領域」として「省察的実践」を掲げている.そしてその内容として「常に自らの学びを省察し,課題をみつけて改善することができる」と記されている.しかしながら,この記述には二重の意味で誤りがある.第一に,これは後に論じるように,「省察」の具体的方法を見る限り,いわゆる PDCAサイクルの言い換えにすぎず,ショーンのいう「省察的実践」を正確に捉えたものとは言い難い.第二に,スタンダードに基づいて個人のパフォーマンスを評価するという発想は,ショーンの議論の対極にあるものであり,その点でたんなる誤解として見過ごすわけにはいかない.そこで上記の指摘を根拠づけるため,以下,ショーンの「省察的実践」概念とは何かをあらためて確認しておきたい. ショーンの「省察的実践」概念は,専門職あるいは専門職養成を支える原理として近代に登

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場した「技術的合理性」に対置するかたちで構想されたものである.佐藤学によれば 3),「専門職(profession)」という言葉は,元来「神の信託(profess)」を受けた者を意味し,よって最初に専門職と呼ばれた職業は牧師であった.近代社会の進展とともに,専門職を基礎づけていた「神の信託」は,実証的な科学や技術に置き換えられていった.それをショーンは「技術的合理性(Technical Rationality)」の原理と呼ぶのだが,それは専門家の実践を,科学の理論や技術を厳密に適用する道具的な問題解決として捉える.そのとき専門家養成の目的は,科学的知識や技術をうまく問題に適用することのできる「技術的熟達者(technical expert)」を養成することである.実証主義にもとづくこの考え方は,理論と実践との分離をもたらすとともに,基礎科学を上位におき実践を下位におくような「知の階層化」を導いた.それは,基礎科学を学び応用科学を経て最後に実習が加えられるという大学の専門職養成カリキュラムの順次性にも反映している. しかしショーンは,こうした「技術的合理性」に基づく専門家像とその養成論はいまや限界に直面しているという.なぜなら現代社会の複雑化にともない,今日のわれわれは,「複雑性,不確実性,不安定さ,独自性,価値葛藤という現象を抱える現実の実践の重要性に気づいてきた」(Schön 1983 p.39)からである.それらは厳密に細分化された専門知識・技術の適用という「技術的合理性」のモデルではもはや解決できない.とりわけ医師や弁護士に対してマイナーな専門職とみなされてきた教育や臨床心理,看護,介護の領域では,その対象の複雑性のゆえに「技術的合理性」の限界はよりいっそう明白である 4). そこでショーンは新たな専門家像を提起する.それが「行為の中の省察」に基づく「省察的実践家(reflective practitioner)」5)である.専門家の日々の職業生活は,暗黙の「行為の中の知(knowing in action)」を基盤にして行われている.有能な専門家の実践ほど,暗黙の認識と判断,そして即興的で無自覚な振る舞いに依存している.彼らは言葉で説明のできない質の判断を無数に行い,手順として述べることのできない技能を実演してい

る.そのような知は文字通り行為の中に埋め込まれているのである.一方でふつうの人々も専門家も,自分がしていることについて,また時にそれを実際にやっている間でさえそのことについて考えることがある.行為について振り返り,行為の中で暗黙に知っていることを振り返る.これが「行為の中の省察(reflection in action)」である.そのような省察 =思考は「状況との対話(conversation with situation)」を通じて行われる.ある状況の中で対象に不確かさを感じるとき,その不確かさを解決しようと新たな状況をつくり出しながら,さらにそれを評価する探究が行われる.実践家は,状況との対話を繰り返しながら新たな「行為の中の知」を生み出していく.このような「行為の中の省察」の過程は,「不確実性,不安定性,独自性,そして価値の葛藤という状況で実践者が対処するアート(わざ)の中心をなすもの」(Schön 1983 p.50)である. なお,厳密に言えば,ショーンは,行為の真っただ中で直観的に行われる「行為の中の省察」に対して,行為の後に立ち止まって振り返る思考あるいは「行為の中の省察」についての思考を,「行為についての省察(reflection on action)」と呼んで区別している. それでは技術的熟達者の特徴は何か.それはひとことで言えば「考えてから行動する」ということである.つまり前もって設定された目的に沿って適切な手段を選択,判断し,そのうえで実行するのである.彼らは,目標に照らした状況や対象の診断は行うが,刻々と変化する状況や対象との対話は行わない.むしろ自己の保持する「知」の安定性を保つため,選択的な不注意,ジャンクカテゴリー,状況の統制といった技能を駆使するのである. それに対して,省察的実践家における思考と行為は同時進行的に行われる.特に教師のようなマイナーな専門職の実践では,問題の所在すら不確かであり,科学的根拠に裏付けられた規範的な解決法があるわけではない.問題解決のためには,実践を通じて,状況に語りかけ,状況からの応答を感じ取り,それに応えて新たな状況をつくりだすといった「状況との対話」がきわめて重要となる.

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今日の教師教育改革と「省察的実践家」論(木村浩則)

2  省察的実践と教員スタンダード

 以上の省察的実践の観点から再び「高知県の教員スタンダード」(以下,教員スタンダード)を取り上げてみよう.この「教員スタンダード」は「本県の教員が採用後から 10年終了までに身につけるべき到達目標のこと」と規定されている.身につけるべき資質能力は,4領域 8能力 50項目の到達目標として記述され,それぞれに若手前期(採用〜 2年)・若手後期(3〜 5年)・10年(6〜 10年)の 3つの到達段階が設定されている. では個々の若手教師は,いかにして段階ごとに設定された目標を達成するのか.そのために考案されたのが「到達目標を達成するための PDCAサイクル」である.これは 1年ごとに実施されるもので,次のように進行する. ①到達目標の内容を理解する.② 1年後の自己の到達目標を達成した姿をイメージする.③そのイメージを実現するために具体的な達成規準を作る.これを到達目標に対する「自己の達成規準」とする.④実践する.⑤達成目標に対する「自己の達成規準」を 3段階(十分できている できている できていない)で自己評価し,自分自身の教育実践を振り返る.⑥自己の振り返りを基に,次年度のスタートにつなげる. 高知県教育委員会は,個々の教師がこの PDCA サイクルに取り組むことを通じて,「教育実践に主体的に取り組むとともに,学び続ける教員を育成していきたい」としている.だが,ここで言う「学び続ける教員像」が省察的実践家像とは何ら接点をもたないことは明らかである.省察的実践の核心は「その人が実践の文脈における研究者になる」(Schön 1983 p.68)ということにある.しかし,あらかじめ教育委員会が規定した目標に基づいて自己の到達度を診断するという手法は,むしろ技術的合理性の原理に近い.たしかにそれは事後的な「振り返り reflection」ではあるが,既存の尺度をあてはめることで自己の到達度を評価するというような「振り返り」の仕方は,スタンダードと自己との関係に閉じられた一面的かつ形式的なものでしかない.そこでは自己の実践と状況との省

察的・探究的な対話など生じえない.省察の過程では,状況との対話を通じて,規準すなわち評価の枠組みそのものも問い直される必要があるが,当然それは許されない. 逆にこの手法が「技術的合理性」の原理に沿った実証的・科学的なものであるかというと,必ずしもそうとは言えない.なぜなら設定された規準を自己にあてはまめる場合,その根拠を客観的に見出すことがそもそも難しく,結局主観的な評価の域を出ないからである.いずれにしろ「教員スタンダード」にもとづく自己評価は,たんなる自己満足か自己卑下のどちらかに終わるだけであり,それはもっぱら教師の主観あるいはパーソナリティに依存する.それゆえその評価が次の改善へとつながる保証はどこにもないのである. 省察的実践家が「研究者 researcher」に喩えられるのは,彼らが状況との対話あるいはクライアント(教師の場合は児童生徒)との省察的対話を通じて,自己の認識や実践の枠組みをも問い直し,より良い実践を探求しようとするからである.そのような探究的プロセスを通じて自己の資質能力を高めていくのである.教師自身が自己の成長を実感するのは,数値や規準を通じてではなく,日常の問題解決や実践の手応えによってである.言い換えれば教師は,状況との対話や格闘を通じて得られた達成感によって,確かな自己の成長を実感するのであって,「達成規準」を書きこんだワークシートからではない. さらにショーンの議論を参照することで明らかとなる「教員スタンダード」の問題点がもう一つある.それは,「教員スタンダード」において教師に期待されるのは,あくまで既存の学校組織の一員としての役割であって,学校組織のあり方そのものは不問に付されているということである.つまりそれは管理者によって策定されたものであるがゆえに,その関心は,教師がいかに学校組織に適応的であるかという視点に限定されているのである. しかしショーンによれば,教師が学校の内部で省察的実践を実現しようとすれば,そこには必ずや軋轢や葛藤が生じる.なぜなら,学校のようなフォーマルな官僚組織は,近代の「技術的合理性」

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の原理と堅く結びついているからである.フォーマルな組織は,組織の安定性と予測可能性に強い関心を持ち続ける.省察的実践にとって重要な意味を持つ「驚き」という要素は,組織の機能を円滑に進めるという点ではむしろ有害である.行為の中の省察は,予期せぬ状況に直面して生じる「驚き」の結果であり,またそれをもたらす原因でもある.混乱や不安定な状況をみずから経験し,自身の判断の枠組みと理論を自覚的な批判と変化のもとに問い返すことによって,彼は意味ある組織学習に貢献する能力を高めていく.しかしながらまた同じ理由から,通常彼らが専門技術的に業務を進めていく際の基盤となる諸規則と諸手続きの安定的なシステムに対しては,危険な存在ともなり得るのである. 省察的実践に取り組もうとする教師は,特定のルールによる統制を受けた学校のシステムに拘束されていると感じるようになり,そうしたシステムに対抗して取り組みを進めようとするようになる.教師が子どもの活動と状況に深く耳を傾けるならば,固定的な授業計画を超える授業展開を考えるようになる.またクラスのサイズをより小さくしたり,より小さな単位に分割したりしなければならない,あるいは制度化されたスケジュールに対して,授業展開の必要に応じて変化を加える自由が認められなければならないと考えるようになる 6). ショーンにしたがえば,学校のような官僚組織において,省察的実践は組織自体の変革なしには成立しえない.あるいは省察的実践は必然的に組織改革をともなう.日本の場合,ナベブタ式と言われた従来のフラットな学校組織は,いまや職階制が拡大され上意下達の官僚組織としての性格を強めている.そのうえ,教師がつねに評価の目にさらされ,それが処遇に反映されるような管理システムのもとでは,組織との緊張というリスクをともなわざるをえない省察的実践力が,教師の中に育つ余地はほとんどない. また中坪史典らの指摘にもあるように 7),教師が自らを「技術的熟達者」から「反省的実践者」に変えていくのは決して安易なことではない.それは,ルーティン化された教師の実践的思考を,

無意識の深層部分から意識化し,表に引きずり出す作業である.これは教師の信念や制度によって多大な発達危機をもたらす.なぜなら教師が自らの実践的思考を振り返ることは,自分自身の教育思想を解釈することであり,教育場面で自らの実践がどのように展開されているのかを吟味することであり,それには自己効力感を脅かすほどのエネルギーを要するからである. だからこそ教師個人の省察的実践の追求には学校組織自体の支えが不可欠となる.よって省察的実践家と同時にそれを支える省察的組織のあり方が検討されなければならないのである.

3  官僚組織から省察的組織へ

 M.ウェーバーを引用するまでもなく,技術的合理性と官僚制システムは近代が産み落とした双生児である.それゆえ技術的合理性の原理と対抗関係にある省察的実践は,官僚組織と相いれず,省察的実践家であろうとする教師は学校という官僚組織と衝突せざるを得ない.よって,文部科学省や教育委員会等の官僚組織が自らの研修システムのうちで省察的実践家を育成しようとすることは矛盾以外の何ものでもないということになる.では研究組織でもある大学ではそれが可能かというと,これも「養成と研修の一体化」を指向する現在の改革の流れの中ではやはり困難をともなう.むしろ教育委員会との連携が強化されれば,大学自体も官僚制システムの一部に組み込まれる可能性がある. ショーンはいう.「行為の中の省察は,個人が意味ある組織学習の主体として働くプロセスにとっては欠くことのできない本質的要素であるが,同時にそれは組織の安定性を脅かすものである.その中心的な原理や価値についてみずから検証し再構築することのできるような組織には,その検証・再構築にともなう緊張に耐え,それを生産的なパブリックな探究に変えることのできるシステムが必要となる.省察的実践を導く組織は,これと同様の根本的な組織の組み立て直し,革命的な転換が求められる.」(Schön 1983 p.338) ここでショーンは,官僚組織に対置するものと

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今日の教師教育改革と「省察的実践家」論(木村浩則)

して「省察的実践を導く組織」について述べている.それは自身を支える構成原理について自ら検証・再構築することのできる組織である.そのような新たな組織像をここでは「省察的組織」と呼んでおこう.それは省察的実践家と相補的な関係を結びうる組織である.日本の教育現場が省察的実践家としての教師像を追求しようとするなら,同時に省察的組織としての学校像が探究されなければならない. そこで,この省察的組織の内実をさらに検討するために,C.アージリスの学習論を取り上げる 8).アージリスは,ショーンとともに実証主義的な認識論・方法論を批判する立場から独自の学習論を展開した.それが,相互に対照的な「多重ループ学習」と「単一ループ学習」である.「多重ループ学習」とは,実践・探究を通して導かれた帰結を通して,その組織の最も根本的な価値や規範を含む編成のあらゆる局面が捉え直され再構築されていく学習プロセスである.それに対して「単一ループ学習」では,検証は組織編成の根本的規範には及ばず,問題の原因は個々の構成員や個別の要素に帰せられ,組織規範や基本的編成は温存される. 「単一ループ学習」と「多重ループ学習」の違いをより具体的に把握するため,「単一ループ学習」の作動する学校組織について事例をあげて説明してみよう.例えば,学校でいじめ自殺事件が起こったとする.そのときまずいじめを見落としていた,あるいは見てみぬふりをした教師個人に責任が帰される.と同時にその教師をきちんと管理・指導できなかった校長や教育委員会の責任が問われる.そして,カウンセラー派遣,保護者説明会やいじめ防止委員会の設置などのリスクマネジメントが制度化される.しかし対策はそこまでである.いじめを生み出す学校そのものの構造的な原因や背景,学校組織そのものが抱える課題について教師集団自らが省察することはない.また子どもや保護者と省察的な対話を通じて学校改革を進めていくこともない.重大事件の場合,第三者委員会が組織され原因の分析と課題が提示されることもあるが,それは報告書の提示とともに終了する.人事異動が行われれば,学校そのものは

以前とは何も変わることなく,「正常化」されていく. 現代の学校組織において,このような「単一ループ学習」が一般的であるとするなら,学校組織に「多重ループ学習」を作動させることはいかにして可能なのだろうか.ショーンによれば,官僚組織が「画一的な手続きとパフォーマンスの客観化された測定,支配の中心的 /周辺的システムを重視する」のに対して,省察的組織は「状況に応じた柔軟な手続き,個別のケースに応じた対応,複雑なプロセスにかかわる質的な識別眼,そして判断と行為に対する脱中心化された責任に高い優先順位を与える」ものである(Schön 1983 p.338). しかし,こうした条件を実現するには実効性のある組織学習が必要である.「組織学習」は,組織における「多重ループ学習」を作動させる.つまり「単一ループ学習」に囚われた組織を,省察的組織すなわち省察的に自己を再構成していくシステムへと変化させるのである.学校も,組織学習を通じて,組織の恒常性に固執することなく,状況との省察的対話を通じて自己を構成し,再構成していくことができる.それを担うリーダーが省察的実践家としての教師である.彼らの省察的実践と組織学習を保障するためには,「教師の最善の能力は自由の空気のなかにおいてのみ十分に現される.この空気をつくりだすことが行政官の仕事なのであって,その反対の空気をつくることではない」という『アメリカ教育使節団報告』(1946)の一節があらためて想起される必要がある.あるいは,教育行政の役割を専ら「必要な諸条件の整備確立」に制限した旧教育基本法の原則が取り戻されなければならない 9).

4  省察的組織としての大学と教員養成

 組織の性格が官僚的であるか省察的であるかという問題は,教員養成を担う大学組織にもかかわる.大学という教育組織のあり方を不問にしたまま,省察的実践家の養成に取り組もうとしたらどうなるか.その点に関して,村井尚子の紹介するヴァン =マーネンの議論が興味深い. 「当時北米の教師教育のプログラムにおいて『省

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察的実践』があまりに強調された結果,…教えるという行為のまっただ中において,『自分がなぜ,そして何をやっているのか.その行為のねらいとするところや方法についてのオルタナティブを常に考えていること.授業の流れを変える準備を常にし続けていること,生徒の行動の意味を常に省察し続けていること,生徒が課題を学習している際に,社会学的,心理学的な意味で彼らに起こっていることはどんなことか,そしてその解釈のオルタナティブについて考慮に入れ続けていること』が求められる.」(村井 2015 p.178) たしかに省察的実践における暗黙的思考すなわち「行為の中の知」を言語化し,整理すれば,ここに示されたように諸々の行為規範として記述可能であろう.だが,これらの行為規範を実践の最中に要求することは,当人にとってプレッシャー以外の何ものでもない.そしてこれは言うまでもなくショーンの議論とは無縁である.なぜなら具体的な「行為の中の省察」を,その省察が生じうる状況自体から分離・一般化(理論化)し,自らの実践に適用するという方法論は,まさに「技術的合理性」の原理に他ならないからである.それは大学の教師教育プログラムの構成原理に,そしてそれに基づいて指導しようとする教育組織の方法論に「技術的合理性」が染みついていることの証左であろう. 日本の教員養成の場合,さらに状況は厳しい.教員免許法に規定された教職課程カリキュラムは,「技術的合理性」をその構成の基本原理としている.それは基礎理論→応用理論→実習という順次性に示されている.また「省察的実践」を重視した教員養成を構想しようとすれば,当然実習先の学校との連携が重要となる.だが,連携の対象である学校や教育委員会も官僚組織としての性格が強い.そのため大学と教育委員会の連携が進めば,大学の教育の在り方自体も官僚組織の一部に組み込まれ,機能していくことになる.例えば東京都の場合,教育実習における評価の基準や大学教員の指導の在り方は教育委員会によってあらかじめ策定されている.そして各大学には一方的にそれに従うことが要求される. たしかにショーンの「省察的実践」論に基づい

た教員養成改革の試みは存在しないわけではない.柳沢昌一は,教職大学院のカリキュラム改革を通じて「実践の場での共同研究を中心に据え,実践のプロセスを探り省察し再構成していく取り組みを学校とのパートナーシップを築きながら進めてきている」(柳沢 2013p.333)という.しかしその目的が教師個人の実践力の向上に限定されてしまえば,省察的実践のダイナミズムが及ぶより広い領域,すなわち学校改革や制度改革といった課題が等閑視されてしまう.省察的組織への展望がなければ,省察的実践家としての教師はおそらくどこかで行き詰まることになるだろう. 日本の教育学研究における「省察的実践」への注目をたんなる一過性のブームに終わらせないためには,ショーンの幅広い理論射程をあらためて確認しておく必要がある.ショーンが,その理論によって明らかにしようとしたのは,たんに専門的力量形成のプロセスや方法だけではない.研究や実践の背後にある実証主義哲学の批判,専門家とクライアント(教師と子ども・保護者)の関係性の変革,組織や制度,社会のあり方と専門職の役割の問い直しと実に広範な問題意識をともなったものなのである.だからこそ,現在の学校教育の閉塞状況を憂慮し,それをいかに打開するかに関心を持つ教師や教育学研究者にとって,ショーンの「省察的実践」論は追求すべき価値と魅力をもつのである. 日本の教師教育の分野において「省察的実践」を探求しようとするならば,教師個人の資質・能力だけでなく,学校組織のあり方をも省察的に探究することのできる主体の養成が視野に入れられなければならない.さらに学校組織の問い直しは,教育行政と学校との関係をも問い直すものになるはずである.その場合,教育行政のあり方自体が検討の対象とならなければならないだろう.その意味で,「省察的実践」に関する研究は,教師の養成と研修の領域にとどまるものであってはならない.学校経営論,教育行政論といった分野を含めたより包括的な研究として取り組まれる必要がある.

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今日の教師教育改革と「省察的実践家」論(木村浩則)

5  「過剰学習」と「制度としてのからだ」

 最後に,「省察的実践」論を論じる上で看過しがちな論点をもうひとつ取り上げる.それは,ショーンが「過剰学習 overlearning」という概念を提示し,専門家の「行為の中の知」が陥りがちな問題点を指摘している点である.ショーンによれば,実践が反復と決まり事になるにつれ,「実践の中の知」は暗黙的で無意識的になる.そのとき実践家は,自分の「行為の中の知」のカテゴリーに合わない現象には選択的に注意を向けないことを学ぶ.その結果,彼は偏狭で頑なになり,自分自身退屈やバーンアウトに苦しむと同時に,クライアントを苦しめるようになる.このとき,実践家は自分の知っていることを「過剰学習」している (Schön 1983 p.61) .長く経験を積み,かつ自分の実践に自信をもつ教師ほど,このような「過剰学習」に陥りがちであろう.自分の実践がうまくいかない場合,それを安易に子どもや保護者のせいにしたり,あるいは自信を喪失し,ストレスを抱え込んだりする教師たちは,このような「過剰学習」に陥っていると言えるかもしれない. 「行為の中の知」は,暗黙的,無意識的であるがゆえに,「過剰学習」のリスクをともないがちである.そこでそれを修正する役割を担うのが実践家の省察である.そのときの省察は,行為のまっただ中で行われる場合もあれば,事後的に行われる場合もある.では省察はいかにして生じるのか.ショーンは「行為の中の省察の大半は,驚きの経験とつながっている」という.「直観的な行為が驚き,喜び,希望あるいは思いもかけないことへと導く時,私たちは行為の中の省察によってそれに対応する」のである(Schön 1983 p.56). しかし,そのような「驚き」は,いつでも自然発生的に生じるわけではない.たとえ一瞬驚きを経験したとしても,「過剰学習」した教師は使い古された自己の枠組みに固執してしまうかもしれない.つまり実践家が省察的になるためには,驚きや困惑の経験を自らの実践や認識の枠組みを再構成する作業へと結びつける必要がある.ショーンは,実践家が対処困難な問題状況に陥った時,

「問題を設定する新たなやり方,つまり新たな枠組みを構成するだろう」(Schön 1983 p.63)という.彼はここで注意深く「だろう(may)」という助詞を用いる.それは,驚きや困惑は,省察の必要条件ではあっても十分条件ではないと考えたからであろう. ではどうすれば驚きや困惑は「省察」への契機となりうるのだろうか.そこで着目するのが,竹内敏晴の「制度としてのからだ」である 10).長年, 教師を対象とした演劇ワークショップに関わってきた竹内は,教師の規範的で硬直したからだを「制度としてのからだ」と呼んだ.「制度してのからだ」は内なる身構えとして現れる.また,硬直したからだは,そこから発せられる声をこわばらせ,ことばが他者に届かない状態をつくりだす.演劇とは,そのような制度化したからだを解放し「主体としてのからだ」を取り戻すための技法である.その作業を竹内は「からだを劈(ひら)く」と呼んだ.「劈く」は通常「つんざく」と読まれ,「ひらく」というよりは「やぶる」というイメージに近い.おそらくそれは,彼が,教師の「制度としてのからだ」はあまりに強固であり,それを内側から破ることでしか,「自己をひらく」ことができないと考えたからであろう. しかし,ただ演劇を学んだからといって,すぐに「制度としてのからだ」が劈(ひら)かれるわけではない.学んだものをどのように組み合わせ,変形したときに,自分の内部に動いたものとぴったりするか,それを他者の前に差し出したとき,他者が了解できるかどうか,自らのなかで手ごたえをもって成立させるというまさに省察的行為が必要となる.それは, 言葉や理論で教えられるものではなく,実践の中で,実践を通じて学び取られるものである.演劇的体験の場において,教師や仲間との交わりと協働のなかで,深められ,高められていくものなのである. そのとき教師に求められるのは,一般的な演劇その他の技術の習得ではない,と竹内はいう.必要なのは,自らが「創造の場に身をおいて自らを動かし,変え,そして他者につき動かされることを体験」(竹内 1989 p.129)してみることである.教師は,このような体験を通じて自らの「制度と

文京学院大学人間学部研究紀要 Vol. 17

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してのからだ」を劈(ひら)くことで,子どものからだまで,自分を劈き,届け,共振することができるのである. 以上の竹内の議論から明らかになるのは,教師のうちに省察的実践が成立するためには,彼の「制度としてのからだ」が劈(ひら)かれていることが必要だということである.「過剰学習」というのは,竹内の言葉を使えば「制度としてのからだ」に囚われた状態である.教師のからだは,その囚われから解放されることで,状況との出会いにおける驚きや困惑を省察的実践へとつないでいくことができる.教師が,省察的実践家として成長するためには,省察を一つの方法として学ぶというよりも,まずは自らの「制度としてのからだ」と向き合うことから始めなければならない.

おわりに

 以上の考察から明らかになった点をまとめてみよう.第一に,中央教育審議会の提起した新たな教員の資質能力向上策とは,教師に対して,あらかじめ政府や教育委員会によって策定された目標(スタンダード)の達成に向けて絶えず PDCAサイクルを作動させるよう求めるというものである.それは「省察的実践家」によってショーンが構想した教師像とは何ら共通性を持たず,むしろ対立的なものである.第二に,ショーンの「省察的実践」論によれば,教師が省察的実践家として成長するためには,教師個人の省察的実践の探求だけでなく,省察的な組織あるいはそれを導くための組織学習をいかに促進するかに目を向けなければならない. そして第三に,省察的実践家としての教師を養成するためには,彼らの「制度としてのからだ」に向き合わなければならない.そのためには演劇教育の方法論に注目する必要がある.この省察的実践を演劇教育へとつなぐ試みは,たしかに若干の飛躍を含んではいてもあながち間違いではないと考える.いや,むしろ「からだ」という視点から「省察的実践」論を捉えることはショーンの議論をより深めることにつながるのではないか.教育とは,さしあたって(オーラルな)言葉を媒介

にして成立するものである.教育の場において,その言葉は,私の「からだ」から発せられた「こえ」にのせて,他者へと届けられる.言葉によるコミュニケーションが「からだ」なしには成立しえないものだとすれば,教育もまた「からだ」なしには成立しえない. ショーンのいう「行為の中の知」が,意識と身体の不可分性を示すものであれば,それを「からだの中の知」と呼ぶこともできよう.ショーンの「省察的実践」論を「からだ」という視点から捉えなおし,深めることは,省察的実践を導く組織の在り方を探求することと同時に,省察的実践家としての教師を育てるための重要な研究課題として位置づけることができるのではないだろうか.

注 1) 本稿では,文部科学省や教育委員会の文書に関

連する文脈では「教員」という言葉を使い,それ以外は「教師」という言葉で統一した.また教育再生実行会議は「教師」という言葉を用いている.

2) 佐藤学も「あまりに『反省』の概念が広義に流行し,ほとんど意味をなさなくなっている状況」を指摘している.佐藤学(1998)『教師というアポリア』世織書房.

3) ドナルド・ショーン著,佐藤学・秋田喜代美訳(2001)『専門家の知恵』ゆみる出版,佐藤学による訳者序文参照.

4) ショーンと同様の問題意識は,200年前の教育学者ヘルバルトの「教育的タクト」概念に注目する近年の日本の教育学における議論などにあらわれている.例えば,鈴木晶子(1990)『判断力養成論研究序説―ヘルバルトの教育的タクトを軸に―』風間書房など.哲学では,中村雄二郎(1992)『臨床の知とは何か』岩波書店に同一の問題意識がみられる.

5) “Reflective Practitioner” の訳語として,佐藤学は「反省的実践家」,柳沢昌一は「省察的実践家」をあてているが,ここでは柳沢の訳語を用いた.

6) Donald A.Schön(1983),The Ref lect ive Practitioner: How Professionals Think in Action,Basic Books,Inc.p.332〜 p.333参照.

7) 中坪史典・當山しのぶ(2003)「反省的実践家

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今日の教師教育改革と「省察的実践家」論(木村浩則)

としての教師の専門性形成に関する研究―アクション・リサーチの手法を手がかりにして―」日本教育学会第 62回大会研究発表要項参照.

8) 柳沢昌一(2011)「実践と省察の組織化としての教育実践研究」『教育学研究』第 78巻第 4号参照.

9) 2007年に成立した改正教育基本法では,教育行政は抑制的であれとするこの原則が完全に反転させられた.文科省の策定する教育振興基本計画と PDCAサイクルという永続的目標管理システムにしたがって,教育行政による学校のパフォーマンス統治はより強力で微細なものになった.

10) 竹内敏晴(1999)『教師のためのからだとことば考』筑摩書房参照.本書は教師や子どもたちの「制度としてのからだ」と格闘した竹内の思索と実践の記録である.

引用文献中央教育審議会教員養成部会,これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について(中間まとめ),平成 27年 7月 16日.

高知県教育センター,教員の資質能力向上に係る先導的取組事業報告書,平成 26年 3月.

教育再生実行会議第七次提言,これからの時代に求められる資質・能力と,それを培う教育,教師の在り方について,平成 27年 5月 14日.

村井尚子(2015),教師教育における「省察」の再検討―教師の専門性としての教育的タクトをみにつけるために―,大阪樟蔭女子大学研究紀要,第5巻 .

Donald A. Schön(1983), The Reflective Practitioner: How Professionals Think in Action, Basic Books, Inc.

竹内敏晴(1989),からだ・演劇・教育,岩波書店 .柳沢昌一(2013),省察的実践と組織学習,教師教育研究,vol.6.

横浜市教育センター,教職員のキャリアステージにおける人材育成指標,平成 21年度.

参考文献中村雄二郎(1992),臨床の知とは何か,岩波書店 .中村雄二郎(2001),魔女ランダ―演劇的知とは何か,岩波書店 .

ドナルド・A・ショーン,佐藤学・秋田喜代美訳(2001),専門家の知恵―反省的実践家は行為しながら考える,ゆみる出版 .

ドナルド・A・ショーン,柳沢昌一・三輪健二監訳(2007),省察的実践とは何か―プロフェッショナルの行動と思考,鳳書房 .

竹内敏晴(1999),教師のためのからだとことば考,筑摩書房 .

柳沢昌一(2011),実践と省察の組織化としての教育実践研究,教育学研究,第 78巻 4号 .

(2015. 9. 25受稿,2015. 10. 21受理)