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 チュニジアでの「ジャスミン革命」に端を発するアラブ世界の政治変動は、一般的に「アラブの春」とよばれる。この政治変動は、西側諸国の政府やメディアでは、長期「独裁」政権に対する国民の「民主化革命」ともてはやされた。また、SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)といった新たな情報技術が大規模な抗議行動の展開を可能にしたと考えられ、「インターネット革命」などと評された。 しかし、アラブ諸国のその後の政治に着目すると、そこには「独裁打倒」、「民主化」などといった評価とあまりにかけ離れた現実があることに気づく。通俗的イメージと乖離した「アラブの春」の現実とはいったいいかなるものなのか?

   未曾有の政治変動 「アラブの春」によって、アラブ世界が未曾有の政治変動を経験したことはいうまでもない。チュニジアでは2011年1月にザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー政権(ベンアリ政権)が瓦解し、またエジプトでは2月にムハンマド・フスニー・ムバラーク大統領(ムバラク大統領)が市民による大規模な街頭デモに圧されるかたちで辞任した(「1月25日革命」)。 一方、リビアではムアンマル・アル=カッザーフィー大佐(カダフィ大佐)による反体制運動弾圧が「人道に対する罪」とみなされ、国連安保理決議を「曲解」した西側諸国がNATOをもって軍事介入し、10月に政権は崩壊した。他方、バーレーンでは、「非民主的」と目されてきた同国政府の要請のもと、3月にGCC(湾岸協力会議)の治安維持部隊が介入し、「民主化」を求める反体制運動を掃

そう

討とう

した。さらに、イエメンでは、政権と反体制勢力との対立の激化と長期化が同国内政を不安定化させ、アラブ連盟のイニシアチブのもと、11月にアリー・アブドゥッラー・サーリフ大統領の退任と大統領権限の副大統領への移譲が行われ、

「幕引き」が図られた。

 これに対して、シリアでは、西側諸国、湾岸アラブ諸国、そしてトルコが反体制運動を弾圧するバッシャール・アサド政権に制裁を科す一方、離反兵(脱走兵)らに武器・兵

へい

站たん

・資金援助を行い、「真の(国家間)戦争」突入の危機がとりざたされている。このほか、サウジアラビア、モロッコ、ヨルダン、アルジェリア、オマーン、スーダン、レバノン、パレスチナなど、アラブ世界のほとんどすべての国・地域で、変革を求める動きが発生した。 これらの国々は、その政治変動のありようを異にするいくつかのグループに大別することができよう。第1に「ピープルズ・パワー」によって自律的に体制転換を実現した国であり、そこには「アラブの春」の発端となったチュニジアやエジプトが含まれる。第2に、外国の介入によって体制転換(ないしは政権交代)が実現した国であり、リビアやイエメンがその例である。第3に外国の介入を通じて反体制運動が弾圧された国であり、バーレーンがその代表である。第4に、政権と反体制運動の非妥協的な対立に、国際社会や周辺諸国がそれぞれの思惑のもとに介入することで、混乱が長期化した国であり、シリア、さらには(第2のグループにも含むことができる)イエメンをあげることができる。そして第5に、反体制運動の規模、政権による弾圧の厳しさ、そして外国の介入の規模に差こそあれ、既存の政治体制そのものには抜本的な変革が起きなかった

(ないしは今のところ起きていない)国であり、上記以外のアラブ諸国がこれに含まれる(図1を参照)。

0 1000km

自律的に体制転換を実現した国外国の介入を通じて反体制運動が弾圧された国既存の政治体制そのものには抜本的な変革が起きなかった(ないしは今のところ起きていない)国

凡例 外国の介入によって体制転換(ないしは政権交代)が実現した国国際社会の周辺諸国の介入により混乱が長期化した国

モロッコ

アルジェリアリビア エジプト

シリアイラク

サウジアラビアオマーン

イエメンスーダン

モーリタニア

西サハラ

チュニジアレバノン

イスラエル

ヨルダン

パレスチナ

クウェートバーレーン

カタール

アラブ首長国連邦アラブ首長国連邦

図1 アラブ世界(出所)Political Geography Now(http://www.polgeonow.com/)のデータをもとに筆者作成。

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「アラブの春」とは何だったのか?「民主化」運動がもたらした混沌

東京外国語大学 准教授 青 山 弘 之

地理・地図資料 2012年度2学期号② p3

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 しかし「アラブの春」においてより重要なのは、このように類型化される政治変動の有無ではなく、変動の結果としてどのような現実が生じたのか、そしてそれが「アラブの春」の通俗的イメージといかにかけ離れているかという点である。

   「アラブの春」の通俗的イメージ 「アラブの春」への通俗的イメージとアラブ世界の現状を対比させるには、この通俗的イメージがそもそもどのようなものだったのかを思い出す必要がある。冒頭でも述べたとおり、「アラブの春」の通俗的イメージはおもに以下二つの認識を前提としていた。 第1の前提は、「アラブの春」を「独裁」に対する市民の「革命」とみなす認識である。この認識は、エジプトなどで市民による大規模な反体制抗議行動が連日行われた2011年初めに定着し、現在でもそうした認識を持つ人が依然として多い。その背景には、ほとんどのアラブ諸国が西欧において発展・定着し、「理想的政体」とみなされている制度的民主主義とは異なった政治体制・政治制度(権威主義体制)を採用し、「非民主的」とみなされてきたという事情がある。 むろん、「アラブの春」が、「独裁」政権のもとでの政権関係者の腐敗や経済格差の深刻化などへの民衆の不満や怒りを原動力としていたことは事実であり、それを改革しようとする志向はきわめて正当かつ自然なものだといえる。しかし問題は、民衆の不満や怒り(そしてそれらに対するわれわれの同情や共鳴)が勧善懲悪と予定調和に支配されていた点である。すなわち、アラブ諸国の既存の体制は、それを長期にわたって持続させてきた歴史的・社会的背景から切り離されて「悪」と断じられ、またその打倒が起きてしかるべき「善」であるとされてしまったのである。「国民は政権打倒を望む」、「(大統領よ)出て行け」といった反体制運動のスローガンはこうした先入観を端的に表すものだった。 しかも、この先入観は、体制打倒後、あたかも自動的に「民主化」が実現するという楽観主義、ないしは無責任も伴っていた。反体制運動を主導する活動家やその支持者・参加者は「自由」、「民主主義」といったスローガンを掲げ、体制打倒後に

「多元主義」、「民主主義」

を確立すると主張した。しかし、これらの制度を定着させる具体的なプロセスは、ほとんどの場合言及されなかったのである。 体制転換後の明確なヴィジョンを持たない「ワンフレーズ・ポリティクス」は、「テロとの戦い」と「民主化」を振りかざし、アフガニスタンとイラクを軍事侵攻したジョージ・W・ブッシュ米政権や、来世(天国)が約束されるとして異教徒へのジハードに邁進するアル=カイーダ(アルカイダ)などの過激なイスラーム主義者にも相通じるものである。それゆえ、アラブ世界の論壇においては、「アラブの春」が高揚した初期の段階から、「革命(サウラ)ではなく、混沌(ファウダー)をもたらす動き」との批判がなされていた。しかしこうした批判がクローズアップされることはほとんどなかった。

   「インターネット革命」の真偽 第2の前提は、「アラブの春」がSNSなど新たな情報技術を駆使した「インターネット革命」だという認識である。

「アラブの春」の拡大をめぐっては、「独裁」政権下での政治的腐敗や経済的不公平ゆえに、能力(そして高学歴)を活かすことができずにいた若年たちが、フェイスブックやツイッターを駆使して、不満や疎外感を共有することで、

「恐怖の壁」を打ち破ったとの説明がしばしばなされ、新たな社会・政治運動だとの評価を受けてきた。 「アラブの春」を「インターネット革命」とみなすこの認識は、日本においては今でもほとんど揺らぐことはない。しかし、当のアラブ世界においては、このような安易な見方は当初から疑問の目をもって見られていた。なぜなら、アラブ諸国におけるインターネット普及率は、図2を見ても明らかなとおり、日本と比べてきわめて低く、社会の成員を網羅的に動員するために十分に機能するとは到底思えなかったからである。

79.53

1.254.555.57

1414.91171922.5

34.935.6239.1

47.55152

55

687074.277

86.2

日本

ソマリア

モーリタニア

イラク

コモロ

ジブチ

アルジェリア

イエメン

リビア

スーダン

シリア

ヨルダン

エジプト

チュニジア

サウジアラビア

モロッコ

レバノン

(パレスチナ)

オマーン

アラブ首長国連邦

クウェート

バーレーン

カタール

0

10

20

30

40

50

60

70

80

90

100(%)

図2 インターネット普及率(2011年)(出所)国際電気通信連合(ITU)統計(http:// www.itu.int/)より筆者作成。

地理・地図資料 2012年度2学期号② p4

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 また、「独裁」政権のもとでの人間関係がいかなるものかを想起すれば、インターネットを通じた反体制デモの動員が現実味を帯びていないかに気づく。というのも、治安当局による国民の政治生活、社会生活、日常生活の監視、恣意的な逮捕・拘留、そして裏切りが日常的に行われてきた「独裁」政権のもと、見ず知らずの人々がインターネットを通じて接触を求めてくることに人々が警戒心を抱かないはずはない。さらにインターネットを通じて情報交換を行ったとしても、弾圧で命を落とす可能性のあるデモにこぞって参加するとは到底思えず、ほかの媒体が反体制抗議運動の拡大・波及に寄与していると考えるほうが妥当なのである。 こうした疑問を踏まえるかたちで、アラブ世界では、「インターネットを通じて動員がなされた」との報道を繰り返し、大規模な反体制デモ(そしてそれに対する弾圧)のようすを連日連夜放映し続けた衛生テレビ放送が「「アラブの春」の真の仕掛け人」だとの解釈が常識となっている。 周知のとおり、権威主義体制のもとにおかれてきたアラブ諸国においては、国営メディアに代表される地上テレビ放送(そしてラジオ放送、新聞)は、厳しい検閲にさらされ、政権にとって都合のいい情報のみ発信してきたため、多くの人々から信頼を失っていた。だが1990年代のいわゆる「情報化革命」により、衛星テレビ放送が普及すると、人々は、外国だけでなく自国に関する正確な情報を容易に得ることができるようになった。カタールのアル=ジャズィーラ(アルジャジーラ)・チャンネルやアラブ首長国連邦のアル=アラビーヤ・チャンネルといった放送局は、こうしたなかで人々の信頼を獲得し、「アラブの春」が発生する2010年代初めまでに中東地域のメインストリーム・メディアとして地位を揺るぎないものとなっていた。 しかし、アル=ジャズィーラ・チャンネルやアル=アラビーヤ・チャンネルは「アラブの春」をめぐっては「煽動放送」との批判を浴びるような偏向した報道に終始した。その背景には、勧善懲悪と予定調和に支えられたある種の正義感を見て取ることができる。千葉悠志著「衛星テレビこそが「アラブの春」の仕掛け人」(『季刊アラブ』第141号、2012年夏)によると、これらのテレビ局のスタッフのなかには、政治変動(体制転換)を起こすために意図的に情報を流したと公言してはばからない者が少なからずいた、という。また、ジャーナリズムを逸脱したメディア関係者の

「正義感」に加えて、これらのテレビ局のスポンサーと目される国の思惑が、後述するように「煽動放送」を助長したことはいうまでもない。

   「民主化」とはかけ離れた混乱 勧善懲悪と予定調和に彩られた先入観と、新たな社会・

政治運動だとの過大評価によって与えられた「アラブの春」の通俗的イメージは、大統領の退任(チュニジア、エジプト、イエメン)や殺害(リビア)といった「メイン・イベント」をもって「革命」が完了していたのであれば、歴史的事実となっただろう。しかし、「メイン・イベント」後の状況(ないしはこの「メイン・イベント」がいまだ発生していない国においては、そこに至ろうとする過程で生じた惨状)に目を向けると、そこには「民主化」といった美辞とはかけ離れた混乱が待ち受けていたことに気づく。体制転換のプロセスがもっとも成功裏に進んだチュニジアを除くと、「アラブの春」は、アラブ世界に政治対立の激化と社会の不安定化をもたらしたのである。 エジプトにおいては、ムバラーク大統領の辞任は、同国の政治体制の完全なる転換を意味していなかった。なぜならムバラーク大統領の最大の権力基盤である軍部が暫定移行プロセスにおいて強い影響力を行使し、「アンシャン・レジーム」の維持をめざしたためである。 これに対する反体制勢力もまた、質的変化を遂げていった。エジプト国内で大規模な反体制抗議デモが始まった当初、反体制運動は、グーグル中東・北アフリカ担当マーケティング責任者ワーイル・グナイム氏に代表される無名の

「ネチズン」(netizen、ネット市民)らによる「指導者なき革命」だとみなされていた。しかし、その後の体制転換に向けた政治的プロセスが具体的に展開を始めると、等身大以上の評価が与えられた「ネチズン」は政治の舞台から姿を消し、代わって既存の政治組織、なかでも長らくエジプト最大の反体制組織と目されてきたムスリム同胞団が次第に頭角を現していった。 ムバラーク大統領退任直後の2011年2月にムスリム同胞団が結成した自由公正党は、11月から翌2012年1月にかけて実施された人民議会(定数508)選挙で235議席を獲得し第一党となり、1月から2月のシューラー議会(270議席)選挙でも公選180議席中105議席を獲得した。さらに5月から6月にかけて実施された大統領選挙で、ムハンマド・ムルシー党首を当選させることに成功した。 しかし大統領選挙直前の最高憲法裁判所による人民議会選挙への違憲判断、大統領選挙決選投票後のアフマド・シャフィーク元首相との選挙違反をめぐる非難の応酬など、エジプト政治は「アンシャン・レジーム」を死守しようとする軍部やムバラーク前政権支持者と、「革命」を「ハイジャック」したムスリム同胞団の権力闘争と化しており、

「革命」の主役であったはずの国民は、政局混乱のなかで疎外され続けているのである。 一方、アル=カッザーフィー大佐が殺害された後のリビアの状態はより深刻である。同国では、反体制武装勢力の

地理・地図資料 2012年度2学期号② p5

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徹底弾圧を試みたアル=カッザーフィー政権が「国民を守る責任を履行していない」とみなされ、西側諸国の主導のもとに採択された安保理決議にもとづき、NATOが軍事介入を行った。2011年10月に政権が崩壊すると、国際社会が「リビア国民の正当な代表」と一方的に断じたリビア暫定国民評議会が、西側諸国の後援のもとアル=カッザーフィー後のリビアの実効支配を試みた。だが2012年3月、東部地方の主要部族、民兵指揮官、政治家が、制憲議会などにおいて西部地方を優遇するリビア暫定国民評議会の支配からの決別を宣言し、自治を開始したのである。国家分裂、ないしは国家破綻とでもいうべきこの政治的混乱は、同様の外国の介入(GCCの介入)によって、反体制勢力の側が掃討され、実質的な政治的改革も経ないまま、政治的安定を回復したバーレーンの現状とはきわめて対象的である。 さらに「アラブの春の墓場」などと称され、現在もなお政権と反体制勢力の対立が収まる気配を見せないシリアでは、「アラブの春」の通俗的イメージからは想像もつかない激しい紛争にさいなまれている。シリアの政治的混乱は、

「自由」や「民主化」を求める散発的・小規模な反体制デモへのアサド政権の弾圧が続くなかで、反体制勢力が過激化・武装化し、両者の対立が武装紛争に発展した。また、西側諸国、湾岸アラブ諸国、トルコが、脆弱な反体制武装勢力への武器・兵站・資金援助を行うだけでなく、イラク、アフガニスタンのアル=カーイダ戦闘員、リビア、チュニジア、西側諸国のイスラーム主義者をシリア国内に潜入させることで、国内を不安定化させ、アサド政権の治安維持能力に揺さぶりをかけ続けている。そのさまは、西側諸国がいうような「内戦」などでは到底なく、「真の戦争」といっても過言ではない。 シリアへの各国の介入が、アラブ世界に「自由」や「民主制」をもたらしたいという人道的な動機にもとづいていないことは誰の目からも明らかである。 西側諸国、とりわけ米国は、アサド政権の正統性を否定しつつ、実際のところは、同政権を弱体化させたまま温存しようとしているかのようである。周知のとおり、アサド政権は、イスラエルの殲

せん

滅めつ

や占領地の完全解放を究極目標に掲げるレバノンのヒズブッラーやパレスチナの諸派などといったレジスタンス組織を陰に陽に支援することで、西側諸国の利害に対立してきた。しかし同時にアサド政権は、レジスタンス組織とイスラエルの対立が地域戦争に発展し、自国が巻き込まれることを回避するために、これらの組織の「暴走」を抑止する努力を続けることで、地域の安定化維持に対して西側諸国が追うべき負担を軽減してきた。つまり、西側諸国にとって、微妙な均衡の「要石」としての役割を演じてきたアサド政権は依然として利用価値が高く、

体制転換によって東アラブ地域全体の安全保障体制の抜本的な再構築に踏み切るよりは、政権の存続を消極的に受け入れるほうが、費用対効果が高いのである。 一方、湾岸アラブ諸国は、アラブ世界においてもっとも

「非民主的」な体制の維持のための「防波堤」、ないしは「スケープゴート」としてシリアの混乱を長期化させようとしている。その旗手を務めているのがカタールである。カタールは自国の「非民主的」な支配のありようを隠蔽するための一つの政策として、アル=ジャズィーラ・チャンネルに周辺アラブ諸国などに関する報道を「自由」に行わせることで、国民の目を内政から逸らしてきたとされる。「アラブの春」の高揚に際しても、アル=ジャズィーラ・チャンネルはこうした政策を反映するかのように各国での反体制抗議運動を精力的に報道した。だが、この政治変動がチュニジアからエジプトを経て、アラブ世界全体に拡がるなか、カタールの為政者は、自国への波及の期待(ないしは不安)を抑えるべく、国内外の耳目を集中させるような「未完の革命」を他国に求めるようになった。そしてこうした意向に沿うかたちで、アル=ジャズィーラ・チャンネルは、事実と著しく異なるシリア報道を展開、カタール政府もシリア国内の政情不安定化を陰に陽に画策していったのである。

   「ヴァーチャル・リアリティ」への共感がもたらしたもの

 以上のように「アラブの春」を経験したアラブ諸国は総じて、「自由」や「民主化」といった理念とはほど遠い現実のもとに身をおいており、そこでは不安定と混乱が横行している。にもかかわらず、「アラブの春」とそれに伴う政治変動についての情報を受け取るわれわれの姿勢は依然として、通俗的なイメージに支配されているのが現状である。本稿において前述したとおり、勧善懲悪と予定調和を特徴とするこの通俗的なイメージにもとづいて、われわれの多くは、「独裁」という「悪」は滅び、「民主制」という

「善」が実現するはずだと確信し、この確信に合致するような情報のみを意識的、ないしは潜在意識的に取捨選択してしまっている。 かくして、情報の受け手であるわれわれの認識のなかでも、「アラブの春」は現実とはまったく異なった「ヴァーチャル・リアリティ」として展開してしまっている。現実と「ヴァーチャル・リアリティ」の乖離に気づいたとき、「アラブの春」、そしてアラブ世界の政情への関心が失われることは当然の帰結ではあろう。しかし、「ヴァーチャル・リアリティ」への共感や同情が、将来へのヴィジョンを欠く「アラブの春」を不必要にあおり、アラブ世界で暮らす人々を、「独裁」以上に過酷な混乱へと追いやったことは否定し得ない事実であり続ける。

地理・地図資料 2012年度2学期号② p6


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