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「マルビーナス戦争30周年を振り返って、

4月2日と6月14日を考える」    アルベルト松本(俊二*)  Alberto Matsumoto

B U E N O S A I R E S - L A P L A T A H O C H I , 2 0 1 2 . 0 7

Para La Plata Hochi, 2012.07 Buenos Aires, ARGENTINA

30年ぶりに「戦場」を訪れた  今年は、我が国が以前か

ら領有権を主張し、30年前に実力行使で島を奪還したことで節目の記念年である。その実行支配は、激しい戦闘の後に70数日間で終わったが、当時の軍事政権の終焉をも意味したものでもあり、多くの命を引き換えに事由と民主主義が回復した。

  あの出来事からかなりの時間が経過したにもかかわらずその戦争に対する評価は国内でも一筋縄にはいかず、これまでどの政権も真剣に政治的、歴史的、外交的、経済的、そして軍事的に分析を総合的かつ専門的に行ってきたとはいいがたい。一部の退役軍人やジャーナリストによる出版物はいくつか出ているが、その内容も近年はイギリスやアメリカの資料も引用しているにもかかわらず、まだその戦争に関わった当事者からの証言と資料が不十分である。当初から、帰還

 国際空港がある英軍基地 ↓

兵の証言にもとづいた書物はあるが、かなり自虐的かつ被害者意識のものが多く、出版社の思惑もあって職業軍人に対する痛烈な批判が目立つ。映画化されたものもあるが、ほぼすべてが「兵士 vs 将校・下士官」という構造になっており、あまりにも単純化されたもので歴史的価値は低い。

  私も、一人のアルゼンチン国民として4月2日の上陸作戦から10日後所属部隊(当時はメルセデス市にあり、陸軍歩

兵機械部隊第6連隊)に自ら出頭して島に行くことになった。とはいえ、実際マルビーナス諸島に到着する30分前ぐらいに機内のアナウンスではじめて知ったのである(情報漏れを防ぐために中佐の司令官と側近以外は誰も知らされなかったのである)。我が連隊も様々な任務に付き一部の大隊、小隊は島の西側に配置されたため11人の戦死者を出している。我が小隊は、当初上陸の可能性が最も高いとされていた空港と街の間の湾近くに配置され、戦闘が始まった5月1日以降ほぼ毎日のように空襲警報と敵艦の艦砲射撃に見舞われた。

  あれから30年経つが、マルビーナス諸島の状況は大きく変わり、そうした変化を自ら確かめることと、戦友の慰霊を兼ねて今年の3月3日一週間の滞在で島を訪れた。当時の面影もあったが、家や店、街全体がかなりカラフルで活気に満ちていた。

  今回、愛知学院大学の杉山知子先生(国際関係を専門、ラ米の軍事政権とその後の真実追求委員会を研究)と、ブ

 街の警察署 ↑

エノスアイレス在住のメディア・コーディエーターで日系二世のモニカ小木曽氏が同行してくれたのだが、そのおかげで大変有意義かつ刺激的な体験になった。2人のおかげで街の隅々まで散策し、取材等も兼ねて島の行政担当者やヘイウッド総督とも面談することができた。島全体の事情もかなり把握することができ、イギリス軍の慰霊塔(街の中心にあり、島民によって「解放への感謝」という言葉が刻まれている)、アルゼンチン軍墓地(サンカルロス付近のダーウィンにあり、街か

ら90キロ西にかなり寂しいところにある300数名の墓地のうち123名のは未だに無名兵士という扱いで「神のみが知るアルゼンチン兵士」と刻まれている)、イギリス軍上陸の地サンカルロスの英軍墓地と戦争資料館、スタンレーの歴史資料館やスーパーマーケット、レストラン、土産店、そして観光名所の一つであるペンギンコロニー「ボランティア・ポイント」にも行くことができた。

  行政当局等からの資料でも分かるように、この島の人口

は2700人ぐらいで首都スタン

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レーには2500人が住んでいる。その他、国際空港にもなっているイギリス軍基地マウントプレセント(首都から50キロ西部に位置する)には2000人程度の兵士と400人の民間人が居住しているという。近年の島民総生産は2億ドル(160億円相当)を上回り、基地関係者以外の一人当

たり年間平均所得は4万ドル以上で、アメリカ大陸3位(米国とカナダに次ぐ)の高水準である。行政としては漁業権の収入が大きいようだが、年間200隻以上の大型クルーザーの一時寄港で45.000人が上陸し、その買い物や日帰りツアーでかなりの外貨収入になっている。その他、羊毛の生産と輸出、外国漁船への各種補修サービス、油田探査やその開発に関係するロジスティック・サービス等による収入も増えており、今後石

油採掘が実現すれば(2014年を目安にしているようだが)行政も地元経済も更に潤うことになる。

 そうした中、アルゼンチン側は領有権主張や資源開発に対する制裁(船舶の寄港制限等)、米州機構等による外交圧力を強化しているが、むしろ、イギリスと島民の団結力を一層強くしており、自決権

 土産品の店 ↑

行使という名目で今後実施される住民投票は我が国と島民をもっと遠う退いてしまうかも知れない。

  街のスーパー等を見る限り、生活必需品だけではなくかなりのものが揃っており思ったほど価格も高くない印象を受けた(消費税が免除されている)。一部の野菜と生鮮フルーツは案外高価だが、その他はチリやアルゼンチン

とほぼ同価格か、むしろ島民の所得水準から見る限り妥当とも言える(家具や特注品、イギリスや他国から輸入しなくてはならないものは当然高額になるという)。

  人口の一割ちょっとは外国人であり、同じイギリス海外領土のサンタエレナやフィリピン、ペルーやチリからもかなりきており、漁業関連やサービス部門に従事している。国際結婚で定住しているものもいる。

  また、街を散策しているとあまりにもイギリスの国旗と英国への忠誠心を物語る落書きやシールが多かったことで多少戸惑いを感じたが、「俺たちはフォークランダーであり、祖国イギリスに守ってもらっている」、「心からイギリス人である」というような内容だった(一人になることへの不安の現れでもある)。

 自由は海から来たとある ↑

あの74日間はぎれもなく戦争だった  このマルビーナス戦争に対して、歴史的、政治的、外交的視点については当然両国間では多くの相違点があるが、軍事的な分析については案外互いに戦場での功績を認め合っているのが大きな特徴である。

  海外メディアは、あの出来事を「フォークランド紛争」として紹介するのだが、短期決戦と

 所属小隊の塹壕近くで ↓

はいえあれはまぎれもなく戦争であったと理解すべきである。だから、今も2000人以上のイギリス兵が常時駐留しており、地対空ミサイル基地は島のあらゆるところにあり、早期警戒システム、戦闘機、フリゲート艦、原子力潜水艦等を配備している。

  当時、イギリスと戦うことを我が軍も当然想定しておらず、そうした装備も訓練もしていなかったのは確かである(兵役では、仮想敵国はチリとブラジルであった)。4月2日の上陸から一週間後にサッチャー首相が、英海軍及びその機動部隊を派遣したことは想定外だったが、アメリカまでもが衛星写真等を提供したことによって、我が軍は世界最大の軍隊との戦争になってしまったのである。当初は我が国の方が有利だったのだが、制空権、制海権を失ってからは非常に困難になり、イギリス軍上陸後の戦闘は「ろう城」に近い状態が幾つもあったと言える。プエルト・アルヘンティーノが陥落したのも最終的には前線部隊を援護することもできず、武器弾薬、食糧の輸送がほとんど不可能になったからである。

  それでも、海軍と空軍は当時の最新武器を使用し、代表的な

 サンカルロス戦場資料館↓

のが海軍飛行隊のエクソセーミサイル、地対空移動式ミサイル「ローランド」などであった。英軍も複数の艦船を撃沈されあれだけ大きなダメージを受けたのは第二次世界大戦以来だったと認めている。その被害状況は今も機密扱いになっており、90年間非公開である。地上戦も凄まじいものであり、彼たちの上陸後の戦死者・負傷者の数は公式の倍を上回っているという見解も、英軍将校からある。確かに我々より訓練を受け、防寒服

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も武器も最新型だったが、あの地理的・気候的条件では攻める方からみると非常にやっかいな戦いだったに違いない。イギリスの司令官も、あれは「ピクニックではなかった」と断言しており、幾つかの丘での戦闘では銃剣を使用した一対一の戦いだったのである。

  様々な資料と証言によると、確かに我が軍の統制には不備が多く、装備も兵站も不十分で、陣地間の連絡体制も良くなかったのだが、それでも限られた装備と訓練しか受けていなかった兵士たちは英軍の想像を絶する戦いぶりをみせたと言える。

  これまで指摘されてきた通り、我が軍の海兵隊や一部の部隊以外はあの気候にはまったく適応しないアルゼンチン北部のチャコ州、ミシオネス州、コリエンテス州の連隊が派遣された(合理的な理由はなく、将軍たちの駆け引きと無能さによる結果だと解釈されて

いる)。5月末に気温が急激に低下し、6月に入ってからは一部の丘では雪も降るようになったのだが(南極の風で体感気温はマイナス

10~20度になることもあった)、夜間の攻撃や艦砲射撃への対応はかなりしんどいものであった。

  実戦ではマニュアルで定められているようにはいかないのだが、古い武器で使用期限が過ぎている銃弾でも、相手に当たればその殺傷効果は同じである。

  6月14日の正午ぐらいに停戦命令が下り、不思議な静けさに包まれた。我が小

 我が軍のヘリの残骸↓

隊も援軍として移動中だったが、すべての作戦が中止になり、命令に沿って暴発を避けるため武器の撃針を外した。そして、次の日敵軍に武器を納め、捕虜として収容された。一日目は空港敷地内の仮キャップでテントで過ごし、二日目からは街の倉庫に収容されたのだが、ここには我が軍によって配布されていなかった何千、何万という食糧の箱があったのでそれをみんなで食べ、英軍からは温かいスープが提供されたことを覚えている。

  そして4日目に、病院船になっていたBahía Paraíso号に乗せられ、国に戻ったのである。

 

マルビーナス戦争の戦後とは  良い結果を出せなかった戦争となるといかなる国でも後味の悪いもので、政治的及び軍事的な戦争責任と、現場での不備と失態をどのように追求するかでその後始末に苦慮する。

  我が国の場合ガルティエリ大統領が辞任し、その一年後には6年間の軍事政権は幕を閉じ民主主義が回復した。それ

だけでも、649名の命は救われたに違いないのだが、その犠牲の重さについて政治家や指導的な役割を果たす者たちがどれだけそれを理解しているのか近年の動向を見る限り疑問に思えてならない。

  いずれにしても、軍事的な

責任については、1982年末にラテンバッチ陸軍大将によるマルビーナス戦争調査委員会の調査報告が軍部上層部に提出された。これには、ガルティエリ大統領を軍事法廷にかけ銃殺刑に処すべきであるという結論まで出したため、委員会はすぐに解散になり、報告書も非公開扱いになった。つい最近、クリスティーナ・フェルナンデス大統領がこれを正式に公開し、当時の軍の「不始末」を改めて強調したのである。

  この30年間は、帰還兵に対する恩給や医療保障、雇用等については徐々にだが、それ

  アルゼンチン議会 ↑

なりに充実したと言える。しかし、名誉回復については十分とは言いがたい。国民レベルでは多分多くの人は我々の功績を認めているようだが、しかしその歴史的・政治的背景があまりにも複雑であるがため、我々をどう位置づけるかについてはまだ時間がかかるに違いない。また、現政権のように「軍人=悪」という偏ったイデオロギーである以上、もう少し客観的な歴史検証することさえ不可能に近い。我がアルゼンチンの場合、ペロン後どの軍事政権にも多くの政治家や労組幹部、カトリック教会や業界団体、そして国民の黙認そのものが関わっており、単純に軍事政権にすべての責任を押し付けることはできない。人権侵害問題については、世界には類のないほど多くの関係者を裁き、処罰してきたのだが、近年当時下級将校だったものまでがその対象になっており、昇進前もしくは退官前に十分かつ明確な証拠もないまま、単なる間接的な証言のみによって告発され、拘束されている将校も多数いる(中には、この戦争の帰還兵もいる)。また、そうした政治パフォマンスに加担する検事や判事がいることも情けないのだが、三権分立が泣くぐらい

今のアルゼンチンは議会も、

司法府も、行政監察機関も、 ブエノス市内戦死者慰霊碑 ↓

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 英軍戦死者慰霊碑(島)↑

大統領府の強い圧力に屈しているのである。

  歴史を裁くことは、その国とその社会がどれだけの教訓を学ぶかであり、すべてを訴訟にして白黒をつけることはできない。政治が報復の場と化すれば、間違いなく現政権も力が衰えた時には同じように追放され、後には醜い報復が待っているだけではなく、政治制度は更に弱体化し、制度的に政策運営が今以上に困難になることが予想される。

  マルビーナス戦争は確かに軍政権によって決定され実行されたものだが、将校も含めて我々兵士は国民の義務としてあの任務につき、それを想像を絶する環境のなか全力で尽くしたのである。英軍が、我々の功績と忍耐、勇気と戦いぶりをたたえるぐらい、あの限られた状況の中我が軍は戦ったのである。上層部の認識の甘さや、現場での不十分な統制と命令系統の粗末さなど、不備は数えきれないほどあるが、あそこで育まれた戦友同士の連帯感と友情や、あの戦争体験に対する思いはその島でしか得られなかったのも事実である。

  多くの人命が失われ、そのうち巡洋艦「ヘネラル・

ベルグラノ」の323名のは英海軍潜水艦の卑怯な攻撃(封鎖海域外で撃沈され

た)によるものだが、それも戦争の一部であるというふうに受け止めることしかなく、尚更せめて彼たちの英霊を弔うのが我々の、国民全体の責務であり、永久的にアルゼンチン社会の記憶にとどめておくことが必要である。

  しかし残念なことに我が国の政治は、このマルビーナス問題を真剣に議論してこなかっただけではなく、我々帰還兵の社会的位置づけを正面から取り上げることも避けてきた。

 我が英霊の墓地、無名兵士も ↑

  2010年5月建国200周年記念パレードという晴れ舞台に、現大統領も国防省上層部も、帰還兵だけの進行は認めなかったのである。独立戦争から存在する多くの伝統的部隊、将校や下士官学校の現役

隊員等合わせて5000人と、招待された南米諸国の小隊が、大統領や政府要人・在外公館の代表の前を、誇らしげに行進したのであるが、マルビーナス戦争の陸海空の各部隊は、そうした栄誉は許されなかったのである。しかし、一部の帰還兵は、現在普通の民間人であるが、強引にセキュ

リティーを破り「649名の英雄に栄光あれ!」と書かれた大きなアルゼンチン国旗を持って要人の前を横断し、数

  我が軍のダーウィン墓地 ↓

   街の生活は平穏 ↑

十メートル行進したのである。市民からは大きな拍手が上がり、大統領もガレー国防相も気まずい顔をしながらも拍手を送った。一瞬とは言えこの映像は全国に流れたのだが、政府系メディアはほとんど報道はしなかった。完全な主役でなくてはならない大統領にとってこれほど大きな屈辱はなかったのである。これが今の政権の認識であり、帰還兵を讃えることは軍部を認めることであり、戦争を正当化することであり、絶対的な人権政策の限界を認めることを恐れているのかも知れない。

  複雑な歴史の出来事であるがため、まだみんなが共有できる認識と評価ができなくとも、国のために戦ったものをこのような形でないがしろにすることは、褒められることではない。帰還兵たちは、この30年間常に世間を意識しながら歴史の矛盾とそのもどかしさ、国民としての義務とはいえ軍事政権が判断した作戦に参加した後ろめたさ、そしてどうにも果たすことができなかった任務に対するむなしさとの戦いだったとのかも知れないが、“英雄扱い”で政治に翻弄され、社会生活の中でのギャップが次第に家族や地域社会とあつれきを生み、一部は自信喪失になったり、社会を恨んだり、孤立の中命を絶ったものもいる(どこまで信頼できる統計であるか分からないが、これまで400人近くが自殺しているという)。当然、その因果関係を立証することは中々難しいが、帰還兵の精神的サポートを行ってきた医師やソーシャルワーカーの話を聞く限り、

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何らかの葛藤があったことは間違いないし、社会からきちんと認知されていないことでプライドに傷つき被害者意識が増してしまったのである(ベトナム戦争後も同様の現象が起きている)。 

  いずれにしても、地域レベルでは帰還兵たちはかなり暖かく迎えられており、従軍した兵士がいる町には必ずと言えるほど慰霊碑又は記念碑が建立されている。そし

て、毎年4月2日の式典にはその出身地の帰還兵とその家族は市長から招待されることも多い。また、もう一の救いは、所属部隊の仲間や上官からの暖かい励ましと連帯である。定期的にアサード(バーベキュー)をしたり、帰還兵たちの職や家庭についても相談にのり、多くのものは親交を深め、家族ぐるみの付き合いをしている。他方、中には未だに直属の下士官等を憎んでいるのも否定はできないが、近年絆は深まり定期的にメールで会合や行事の案内を受ける私もその心遣いには感謝している。3月に戻った際、その元司令官や、現役将校、戦友仲間と会い、私のマルビーナス訪問の報告をとても喜んでくれたのである。また、母校のサルバドル大学政治・国際関係学部では学長の計らいで、学部生に「マルビーナスの今」という題名で講演をさせてもらった。

  あの戦争からたった30年しか経っていないのだが、まだ30年である。この体験を消化するには半世紀もしくは一世紀ぐらいは必要なのも知れない。そして、領有権の主張も長い年月と未来志向が必要であると実

感している。だから、4月2日と6月14日の意義とその背景をもっと知る必要があり、現実的に自覚しなくてはならない。

  連帯感を示してくれている南米諸国等も、個別の国益に関してはきちんとイギリスと利害調整をしており、チリをはじめ、ウルグアイやブラジルも今後の動向を注視しながらこの問題についてはあまり深入りしないことを模索している。

  最後に、30年前日系社会も日本人会AJAを通じて9 de Julio大通りの集会で、マルビーナス領有権回復への支持を表明してくれたことに皆様に心から感謝したい。また、本紙の高木編集長及びその編集者たちには、長年私のマルビーナスでのことを報道してくださり、そしていつも温かい気持ちで見守ってくださったことを改めてお礼を申し上げたい。もちろん、両親をはじめエスコバールの皆さんにも同じ気持ちであ

る。¡MUCHAS GRACIAS!

2012.07-08月に、La Plata Hochi新聞に連載された原稿です。

 母校Salvador大学国際関係学部で講演 ↑

アルペリン元将軍(当時少佐、我が連隊長)とラマドリー大佐(当時准尉)と会食 ↓

陸軍病院(院長も元帰還兵、現在中将)↓


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