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駒澤大學佛教學部論集 

第四十三號 

平成二十四年十月

七一

はじめに

 

明庵栄西(千光法師、葉上房、一一四一─一二一五)といえば、平安末期に二度の入宋渡航を果たした日本僧として知られてお

り、とくに二度目に南宋に渡航した際、浙江の禅林において臨済宗黄龍派の禅旨に触れ、逸早く臨済宗の法統を日本に将来導

入している。もっとも栄西の再入宋に先立って、近江(滋賀県)の比叡山延暦寺の天台僧であった覚阿(一一四一─?)が早く

に入宋し、杭州(浙江省)銭塘県の北山景徳霊隠禅寺において臨済宗楊岐派の瞎堂慧遠(仏海禅師、一一〇三─一一七六)に参じ、

その法門を伝えて帰国している)

((

。また達磨宗(日本達磨宗)の大日房能忍(深法禅師)がやはり門人の練中・勝弁を明州(浙江省)

鄞県の阿育王山広利禅寺に使わし、同じく楊岐派(大慧派)の拙庵徳光(東庵、仏照禅師、一一二一─一二〇三)の法門を間接的

に日本に伝持している。このように厳密には覚阿と能忍が宋朝禅を最初に日本に導入した僧であり、栄西が必ずしも日本への

禅宗の初伝者とはいい難い面も存しよう。しかしながら、覚阿の法統は後世に伝わることなく断絶しており、能忍の場合は師

資面授による真の伝法相承とはいい難い面が存したことから、現今では栄西をもって日本禅宗ないし日本臨済宗の始祖のごと

く捉える見方が一般化している。

 

栄西がその生涯に歩んだ足跡と彼の日本仏教史上における位置付けを語る上で、入宋渡航を通して禅宗を相承した事実は欠

くべからざるものであり、これを抜きにして栄西を語ることはできないであろう。栄西の二度に及ぶ入宋については、これま

で不明確な部分も多く、とりわけ在宋中の細かな動静については、いまだ論じ尽くされているとは言いがたい面が多々存して

いるといってよい。とくに近年では栄西をあくまで生涯にわたって台密の密教僧であったとして捉える見方が中心となってお

   

明庵栄西の在宋中の動静について(上)

       

  第一次入宋と重源および阿育王山広利寺をめぐって  

佐  藤  秀  孝  

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

七二

り、在宋中の記事を含んだ禅僧としての栄西の真面目は端に追いやられてしまった感すら存する。しかしながら、栄西が日本

仏教史上に大きく評価される所以は、密教僧としての活動面もさることながら、南宋代の禅宗を伝来して『興禅護国論』三巻

をまとめた点にあるといえよう。栄西は密教僧であったことが歴史上に高い評価を残しているのではなく、あくまで入宋して

禅宗とくに臨済宗を日本に伝来した事実をもって世間の注目を集めてきたと見なければならない。

 

本稿では栄西の二度にわたる入宋求法の軌跡を諸史料を通して詳細に窺い、栄西が入宋して宋代禅宗と触れ合った際の衝撃

や、在宋中に訪れた禅寺、本師である黄龍派の虚庵懐敞(生没年未詳)の事跡、懐敞との問答機縁や師資関係、在宋中の詳細

な行動などを整理することによって、栄西が実地に参学見聞した十二世紀後半における南宋浙江の禅宗について論ずるもので

ある。すでに栄西の入宋に関しては、米田真理子「栄西の入宋─栄西伝における密と禅─」(勉誠出版『海を渡る天台文化』に所

収)というすぐれた研究が存し、本稿は米田氏の二番煎じといった感を免れ得ないが、私なりに一通り栄西在宋中の動静につ

いて論じて見ることにしたい。

栄西の在宋中の動向を伝える著述と伝記史料

 

栄西の入宋渡航や在宋中の動向および帰国に際しての将来物などについて考察する上で第一等の史料として重要なのは、栄

西自身が著述や文書の中に書き残した記載であろう。栄西の主著である『興禅護国論』三巻の中には、彼が在宋中になした動

向を伝える記事が随所に散見される。また『興禅護国論』に付される「未来記」にも南宋の仏教とくに禅宗に関する記載が見

い出され、特殊な事情を伝えている。さらに『出家大綱』一巻と『日本仏教中興願文』一巻および『喫茶養生記』二巻などに

載る記事も貴重な参考史料となろう。

 

いま一つ栄西には『栄西入唐縁起』一巻が伝えられているが、そこに「祖師自作」とあり、本文の冒頭部分には「今行年七

十五歳」と明記されていることから、真に最晩年に至った栄西が七五歳で自らこれを撰述したのであれば、栄西が最晩年に当

たる建保三年(一二一五)に著したもので、往年の入宋参学に関する事跡を知る上で貴重な史料ということになろう。ただし、

『栄西入唐縁起』の史料的価値となると若干問題を含んでいるようであるが、近年、その史料的な価値や意義づけが増してい

る)((

ことから、私としてもこれを第一次史料と捉えて積極的に活用していくものである。

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

七三

 

つぎに栄西自身が著したものではないが、栄西について記した伝記史料も重要であろう。栄西に関してはいくつかの伝記史

料が伝えられており、それらに記された入宋および在宋中の記事もまた一連の流れとして貴重な動向を窺うことができる。

 

栄西の伝記を知る上でもっとも基本となる伝記史料は、鎌倉末期に臨済宗聖一派の虎関師錬(海蔵和尚、一二七八─一三四六)

がまとめた『元亨釈書』巻二「伝智一之二」に載る「釈栄西〈建仁寺栄西〉」の章であろう。『元亨釈書』は栄西が亡くなって

一世紀あまりを経て編纂されているが、師錬は栄西の記事を克明に調べ上げ、かなりの紙面を割いて詳しい記載をなしている。

とりわけ、入宋の経緯や在宋中の行動などに関して栄西のとった順路が大まかに窺われる点で重要なものがあろう。とりわけ、

栄西の第一次の入宋帰国に関しては、同じ『元亨釈書』巻一四「釈重源」の章も重要であり、栄西と行動を共にした俊乗房重

源(南無阿弥陀仏、入唐三度聖人、一一二一─一二〇六)の事跡も考慮しなければならない。ちなみに重源の伝記面に関する各種

の記載も重要であり、とりわけ『玉葉』巻三八「寿永二年〈癸卯〉春秋夏」の「正月二十四日」の条に載る、重源が九条兼実

(後法住寺殿、月輪殿、一一四九─一二〇七)に語った台州(浙江省)の天台山のことや明州の阿育王山のことについても、重源が

栄西とともに体感した貴重な内容といえよう。

 

つぎに『続群書類従』巻九輯上(巻二二五)などの僧伝史料には「日本国千光法師祠堂記」と「洛城東山建仁禅寺開山始祖

明菴西公禅師塔銘」が収められており、ともに栄西に関する単独の伝記史料として重要である。とくに「日本国千光法師祠堂

記」は記事内容こそきわめて簡略ではあるが、入宋した明全(仏樹房、一一八四─一二二五)が本師栄西を顕彰するために臨安

府(杭州)都税務の官僚虞樗に依頼したものである。ただし、明全は宝慶元年(一二二五)五月二四日に世寿四二歳で明州(浙

江省)鄞県東六〇里の天童山景徳禅寺の了然寮に示寂しており、その直後の八月に「日本国千光法師祠堂記」は天童山景徳寺

の一角に建立されている。虞樗が著した「日本国千光法師祠堂記」を拝見し、亡き明全の代わりにその立石に立ち会ったのは、

明全に随侍同行した門人の道元(仏法房、一二〇〇─一二五三)であって、道元によって石碑建立の大事業が天童山内で実際に

遂行されたものと見てよいであろう)

((

 

おそらく「日本国千光法師祠堂記」は天童山景徳寺の寺内でも栄西ゆかりの千仏閣の傍らに「天童山千仏閣記」の石碑に寄

り添うかのごとく立石されたはずであろうが、栄西に関するもっとも早い伝記史料であって、その文面の全文は書写ないし拓

本のかたちで道元によって日本に将来され、京都東山の建仁寺に齎されて後代へと伝えられたものである。このように「日本

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

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国千光法師祠堂記」は栄西が亡くなってわずか一〇年余を経て著されているのであり、記事内容こそ簡略ではあるものの、栄

西に関する第一等の伝記史料ということになろう。ただし、「日本国千光法師祠堂記」では二度の入宋を一度のごとくにまと

めており、どちらのときの行動であったのかという問題も含んでいるため、記事内容を精査した上で使用しなければならない。

 

さらに栄西に関しては「洛城東山建仁禅寺開山始祖明菴西公禅師塔銘」または「洛陽東山建仁禅寺開山始祖明菴西公禅師塔

銘」と称される塔銘が伝えられている)

((

。この「洛陽東山建仁禅寺開山始祖明菴西公禅師塔銘」は、室町中期に遣明使として入

明した臨済宗仏光派の堅中圭密の請に応じて)

((

、明の永楽二年(一四〇四)一月に杭州(浙江省)銭塘県の上天竺寺(正式には上

天竺霊感観音教寺)の前住であった天台宗の古春如蘭(支離叟)によって撰述されたものである。古くこの塔銘は建仁寺の開山

塔院護国院(栄西の塔頭)の一角に立石されたものであろう。栄西が示寂して二世紀近い歳月が経過して後に著されたもので

あるだけに記事内容には問題もあろうが、撰者の古春如蘭が中国天台の教僧であり)

((

、この塔銘にしか見られない記事も存して

いることから、在宋中の動向を知る上では重要な伝記史料といってよいであろう。

 

また栄西の門流に当たる黄龍派(千光派)の龍山徳見(真源大照禅師、一二八四─一三五八)が編集した『黄龍十世録』には、

徳見の法嗣である無等以倫が撰した「日本国京師東山建仁千光禅師栄西」と題する伝記史料が収められている。『黄龍十世

録』とは黄龍派の派祖である黄龍慧南(普覚禅師、一〇〇二─一〇六九)から栄西に至る一〇世代の祖師のことばを収録した禅

籍である)

((

。『黄龍十世録』に載る栄西の伝記史料は、先に述べた『元亨釈書』の栄西章の記事を簡略化したかたちでまとめら

れたものであるが、徳見と以倫は黄龍派に属して、

  明庵栄西─釈円房栄朝─蔵叟朗誉─寂庵上昭─龍山徳見─無等以倫

と次第相承していることから、南北朝期に栄西の遠孫の人々が栄西をどのように見ていたかを知る上でも貴重な伝記といえる。

とりわけ、徳見は入元して実地に法祖栄西ゆかりの史蹟を遍歴しており)

((

、『黄龍十世録』には随所に徳見が収集した貴重な黄

龍派と栄西に関する事跡が記録されている。ちなみにこの『黄龍十世録』に所収される栄西の伝記史料は、江戸期に京都建仁

寺で高峰東晙(魯峰、一七一四─一七七九)によってまとめられた栄西関係史料集『霊松一枝』上巻にも収録されている)

((

 

そのほかに江戸期の僧伝や禅宗燈史として、黄檗宗の高泉性潡(曇華道人、大円広慧国師、一六三三─一六九五)が撰した『扶

桑禅林僧宝伝』巻一「京兆建仁寺明菴西禅師伝」が存し、臨済宗大応派の卍元師蛮(独師、一六二六─一七一〇)に『延宝伝燈

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

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録』巻一「京兆東山建仁寺明菴栄西禅師」の章と『本朝高僧伝』巻三「京兆東山建仁寺沙門栄西伝」が存しており、それぞれ

簡略ながら在宋中の記事が載せられている)(((

 

また栄西に関する近年の成果として、多賀宗隼『栄西』(吉川弘文館『人物叢書〈新装版〉』)が存し、栄西の生涯に関して詳細

な考察がなされており、在宋中の動向についてもまとまられている。高木豊・小松邦彰編『鎌倉仏教の様相』(吉川弘文館刊)

には船岡誠「栄西における兼修禅の性格」の論功が存し、その中にも「入宋の意義」として「第一次入宋の意義」「第二次入

宋の意義」「入宋の意義」がまとめられている。中尾良信『日本禅宗の伝説と歴史』(吉川弘文館「歴史文化ライブラリー一八九」)

にも「栄西は禅僧か天台僧か」にも「二度の入宋と禅の受法」という考察が存している。さらに最新の成果として米田真理子

「栄西の入宋─栄西伝における密と禅─」(吉原浩人・王勇編『海を渡る天台文化』に所収)が存しており、「栄西の思想」「栄西の

伝記」「大陸での動向」「再び天台山へ」「栄西の足取り」「入宋の目的」「栄西の密と禅と」「新たな栄西像に向けて」に分けて

論じられている。また福岡市博物館開館二〇周年記念『栄西と中世博多展』(二〇一〇年、福岡市博物館刊)は、新出史料を含め

た栄西に関する最新の貴重な図録である。

栄西入宋当時の浙江禅林の趨勢

 

栄西は十二世紀の後半に二度の入宋渡航を果たしているが、そもそも栄西が入宋した当時の浙江禅林は如何なる状況にあっ

たのであろうか。この点について諸史料を通して窺ってみることにしたい。

 

金国の乱入による北宋末期の動乱で、建炎年間(一一二七─一一三〇)に江南に南宋が建国されたことにより、多くの官僚士

大夫が新たに行在所(仮の国都)となった杭州(浙江省)や南宋第一の港町であった明州(浙江省)を中心とする浙江の地に赴

いている。しかも臨済宗や曹洞宗の禅僧らも動乱の難を逃れて浙江・江蘇・福建などの地に集約するかたちで移動し、当地の

大刹に在って化導を敷いている。

 

栄西が入宋する直前には、紹興二七年(一一五七)一〇月に明州鄞県東六〇里の天童山景徳禅寺の住持であった曹洞宗(宏

智派祖)の宏智正覚(隰州古仏、宏智禅師、大覚、一〇九一─一一五七)が示寂し、これを追うかのごとく隆興元年(一一六三)八

月に杭州餘杭県西北の径山能仁禅院(後の興聖万寿禅寺)の住持であった臨済宗楊岐派(大慧派祖)の大慧宗杲(妙喜、大慧普覚

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

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禅師、杲罵天、一〇八九─一一六三)も示寂している。正覚は坐禅を重んじた黙照禅を唱え、宗杲は公案参究に依る看話禅を広

めたことで名高いが、この両者を始めとして曹洞宗真歇派の大休宗珏(小珏、一〇九一─一一六二)や臨済宗虎丘派の応庵曇華

(一一〇三─一一六三)など、紹興年間(一一三一─一一六二)に活躍した禅匠たちが相継いで世を去った直後、栄西は入宋して

浙江禅林に足を踏み入れているわけである。

 

栄西が入宋した当時、もっとも勢力のあったのは臨済宗楊岐派の各系統とくに大慧宗杲を派祖とする大慧派であり、これに

ついで曹洞宗と臨済宗黄龍派それに雲門宗が互いに篠木を削っていた状況にあったといってよい。十二世紀の後半はまさに大

慧宗杲の唱導した看話禅が浙江禅林に大きく躍進する一方、真歇清了・宏智正覚による黙照禅がしだいに影響力を失っていく

時期に相当しており、やがて臨済宗楊岐派のみが南宋禅林を席巻していくことになる。これと別に教宗として天台宗(趙宋天

台)もかなりの勢力を維持しており、杭州(臨安府)や明州(慶元府)・越州(紹興府)さらに台州の天台山などに教寺が数多く

存している。

 

栄西は二度目の入宋で臨済宗黄龍派の系統を受け継いで帰国しているが、栄西が在宋中に参学嗣法した虚庵懐敞は黄龍派の

最後を飾る禅者であり、栄西より以降に黄龍派を日本に伝えた禅者は存していない。栄西が帰国した後、黄龍派と雲門宗は急

速に衰退しており、曹洞宗も辛うじて法統を保つにすぎず、やがて浙江の禅林は臨済宗楊岐派一色に塗り替えられ、大慧派と

ともに虎丘紹隆(瞌睡虎、一〇七七─一一三六)を派祖とする虎丘派の諸派(松源派や破庵派など)もしだいに台頭していくこと

になる。

 

ただ、栄西が在宋中に黄龍派の臨済宗を嗣承相続し得たのは偶然ではなく、当時、黄龍派はすでに北宋末期の頃のような隆

盛ぶりは薄れて衰退の一途を辿っていたものの、台州(浙江省)天台県の天台山中の平田万年報恩光孝禅寺と明州鄞県の天童

山景徳禅寺という二大寺院を拠点として辛うじて展開し、宗勢を維持していたのであり、栄西が天台山に上って万年寺を訪れ

たことが黄龍派の日本への伝来を可能ならしめた因由であったといえる。

入宋渡航への道と通事李徳昭との因縁

 

では、そもそも栄西はいつの時点から入宋渡航に対する志しを持つようになったのであろうか。この点について、栄西は自

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

七七

ら『栄西入唐縁起』において、

十三歳始登レ山、座主治山之時也。其後山門与二備中一往復、学二円宗之法一。雖レ未レ及二勤学一、道交友必有二名誉一。然予見二世上幻法一、厭

心日増、即廿一離レ山、志在二于渡海一。中頃成尋阿闍梨三河入道以後、入唐之僧所レ絶也。毎レ人雖レ語二此事一、還嘲弄。予意不レ倒、見二

真言聖教一、於二前仏垂跡之地、故仙遊行之処一祈レ之。宿願無レ不二畢果一。尋二処々霊窟一、伯耆大山契二此儀一。一夏百日爰修練、得二唐本小

字経一。然自知、渡海之伴先立来。行年廿七歳也。

と述べており、応保元年(永暦二年、一一六一)にすでに二一歳で比叡山を離れる際には渡海の志しが存したことを自ら書き残

している。それが具体的に如何なる動機に基づいていたのかは明確ではないが、わずかに「予、世上の幻法なるを見て、厭う

心は日に増し、即ち廿一にして山を離れ、志は渡海に在り」と語っているから、世法の無常なることを痛感し、これを厭う心

が日増しに募って比叡山を下り、志しが渡海へと向けられていったとされる。しかも一世紀前に活動した成尋(三河入道、善

慧大師、一〇一一─一〇八一)の入宋渡航がかなり栄西に大きな影響を与えたもののようであるから、あるいは成尋が撰した

『参天台五臺山記』などを実際に栄西は閲覧して啓発されたものであろうか。当時、人々に入宋渡航の志しを告げても、無謀

なことと嘲笑されるばかりであったらしいが、栄西の志しは挫けることがなかったと述懐している)

(((

 

栄西が入宋するに至る過程については「日本国千光法師祠堂記」においても、

年十一、出二家延暦寺一、薙髪染衣、初学二倶舎娑婆論一。十三受二大戒一、習二天台教観一。掩レ関八年、以為レ未レ至、誓下往二西域一求上レ

道。

と記されており、栄西は一一歳で延暦寺に投じて剃髪得度したとされるものの、一三歳で比叡山戒壇で受戒しており、この間、

初めに『倶舎論』『大毘婆沙論』を学び、さらに天台の教観を習得したとされる。しかも一三歳から八年間にわたって山内に

籠って関を閉ざして勉学に努めたものらしく、いまだ究め尽くせずとして西域に往って道を求めるという誓願を立てたと伝え

られる。ここにいう西域が中央アジアからインド(天竺)といういわゆる西域の地を指しているのか、単に日本から西方の中

国(南宋)の地といった意味で用いているのかが明確でなく、また第一次と第二次という二度の入宋の目的を合わせて表記し

ているとも解せられよう。少なくとも『栄西入唐縁起』や「日本国千光法師祠堂記」を通して、栄西がかなり若い頃より日本

から見て西方に位置する中国やインドに並々ならぬ関心を寄せていた事実が偲ばれる。

 

また『栄西入唐縁起』によれば、つづいて栄西は入宋直前の動静について、

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其年冬十二月三日、辞二父母一赴二鎮西一、詣二宇佐宮一。七日遇二元三一、詣二肥後阿素岳一。此処是八大龍王所居也。二七日修練、祈二渡海無一レ

難、一々得二勝利一。二月八日、達二博多唐房一、未レ庸レ舩。解レ纜之前、安楽寺・天神・竃門・法満・筥崎・香稚・住吉、如レ是霊社、無レ

不二経歴一、一々得二度海之感応一。

と書き残している。栄西は入宋する前年に当たる仁安二年(一一六七)一二月三日に備中(岡山県)吉備津宮の父母のもとを辞

して鎮西(九州)へと赴き、豊後(大分県)の宇佐八幡宮に詣で、さらに肥後(熊本県)の阿蘇山(阿素岳)に詣でて一四日間に

わたり渡海の無事を八大龍王に祈願していることが知られる。その後、仁安三年(一一六八)二月八日に筑前(福岡県)博多津

の唐房に到着した栄西は、しばらく商船の出港の都合を待ってかこの地に滞在している。この間、栄西は大宰府を中心に筑前

の安楽寺・北野天満宮・筥崎宮・香椎宮などの神社・仏閣に詣でて航海の無事を一々に祈願しており、入宋渡航に対して並々

ならぬ覚悟のほどが存した事実を窺うことができる。

 

一方、栄西は『興禅護国論』巻中「第五宗派血脈門」においても、

予、日本仁安三年戊子春、有二渡海之志一、到二鎮西博多津一。二月、遇二両朝通事李徳昭一、聞レ伝下言有二禅宗一弘中宋朝上、云云。

と述べており、仁安三年の春二月以前に渡海の志しをもって鎮西の博多津に到ったことを伝えている。その中でも禅宗との関

わりでひときわ注目を引く内容として、

二月、両朝通事の李徳昭に遇うに、「禅宗有りて宋朝に弘まる」と伝え言うを聞く、と云云。

という記事が存している。二月に栄西は博多津にて日宋両国の通事(通訳)であった李徳昭という人物と出会う機会を得)(((

、こ

の人から宋朝で禅宗が広く流布している事実を伝え聞いている。李徳昭との出会いは、天台宗の教僧として入宋渡航を決行せ

んとしていた栄西にとって、宋国に隆盛する禅宗の存在がより身近に真実味をもって脳裏に刻まれた記念すべきできごとで

あったといってよいだろう。

 

ちなみに『興禅護国論』巻下「第九大国説話門」には、これとは別にやはり両朝通事の李徳昭との関わりとして、

謂語二西天中華見行之法式一、而欲レ令三信行人入二仏法大海之中一矣。西天事伝言有レ四。

一、昔鎮西筑前州博多津、両朝通事李徳昭、八十歳之時語曰、余昔二十有餘歳、於二東京一見二梵僧一、下著二単裙一、上披二袈裟一、冬苦寒而

不レ著二餘衣一。明春帰二西土一曰、若在レ此犯二仏制一矣。〈宋乾道四年、日本仁安三年戊子〉。

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

七九

という記事も存しており、李徳昭その人の事跡について簡略な記載が残されている。仁安三年(南宋の乾道四年)の当時、

ちょうど李徳昭は八〇歳という高齢に達していたとされるから、逆算するとこの人は日本の寛治三年(北宋の元祐四年、一〇八

九)に出生していることが判明する。年齢的に李徳昭はまさに楊岐派(大慧派祖)の大慧宗杲と同じ年の生まれであったこと

になり、当時、博多の地で古老として重きをなしていた人物であろう。しかも李徳昭は二〇歳代の青年期に実際に北宋の都で

あった東京すなわち汴京(河南省)開封府に赴いた経験が存したことが知られる。李徳昭は開封府でインド僧(梵僧)が下半

身に単裙(スカートの類い)を纏い、その上に袈裟を掛けたのみの姿で過ごし、真冬の苦寒の中でも戒律(仏制)を守ってか餘

衣を着せずに我慢し、翌年の春に西土すなわち西方へと帰ってしまった一部始終を目の当たりにしたことを、五〇余年の歳月

を経て二八歳の栄西に語ったとされる。この記事は栄西が宋の国のみでなく、遥か西方のインド(天竺)に対してもより身近

な存在に感じた機縁としてきわめて興味深いものがあろう。あるいはこのことが後に栄西が第二次入宋をなした際に渡天計画

を実行せんとした一連の行動を起こす伏線ともなっているのではなかろうか。

 

また李徳昭は老境に至るまで日宋両国の通事としてその後も日本と北宋の地、さらに後には日本と南宋の地とを頻繁に往来

していたと見てよく、入宋を目前にした栄西に対し、ほかにも宋国の情報について多くの助言を与えたものと推測される)

(((

。博

多でこのような古老の李徳昭と知遇を得たことにより、栄西は入宋渡航と宋国での新たな活動に関して他に換え得ぬ貴重な事

前情報を収集したことになろう。

 

ちなみに栄西が入宋する直前の中国側の記事として、『仏祖統紀』巻四八「法運通塞志」の「孝宗」の「乾道三年」の箇所に、

日本遣レ使致二書四明郡庭一、問二仏法大意一、乞集二名僧一対レ使発レ凾読レ之。郡将大集、緇衣皆畏縮、莫二敢応一レ

命。棲心維那、忻然而出、

日本之書与二中国一同文、何足レ為レ疑。即揖二大守一褫レ封疾読、以レ爪掐二其紙七処一。読畢語二使人一曰、日本雖レ欲レ学レ文、不レ無二疎繆一。

逐一一為レ析レ之。使慚懼而退。守踊躍大喜曰、天下維那也。

という記載が存している。これは栄西が入宋する前年に当たる乾道三年(日本の仁安二年)に日本から使者が四明(明州)の地

に到り、書簡を四明郡庭(明州府城のことか)に致して「仏法の大意」を名僧に問うことを求めている。郡庭ではこれに答え得

る僧を明州地内の寺々から募ったもののようであるが、誰もが畏れをなして命に応じようとしなかったと記されている。この

とき明州鄞県東五里の棲心崇寿禅寺(後世の七塔寺)の維那が名乗りを上げ)(((

、これに応じて日本からの書簡を丹念に読んで七

Page 10: 鄞県の阿育王山広利禅寺に使わし、同じく楊岐派 その法門を ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/33165/rbb043...(杭州) 都税務の官僚虞樗に依頼したものである。ただし、明全は宝慶元年

明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

八〇

カ所の疎繆を爪で逐一に指摘したため、日本の使いは慚じ畏れいって退いたとされる。このため棲心寺の維那は「天下の維

那」と郡守(明州府主)から称えられたと伝えられるが、残念ながらその維那の法諱や後の動向などは明記されていない。

 

このとき日本からから到った使者が具体的に何れの寺院から来た僧であったのかも明確に記されていないが、おそらく状況

的には比叡山や南都(奈良)の寺院から派遣された僧であったと見られるから、すでに明州と日本仏教との間でかなり具体的

な交渉が開始されていたことになろう。あるいは仁安二年に日本から入宋した使僧とは、時期的にはやがて栄西と知り合うこ

とになる俊乗房重源その人であった可能性も否定できないであろう。もし、仮にこの使僧が重源その人であったとすると、乾

道三年に南宋に到った重源は明州の郡庭に書問を呈し、その返答を待つべく暫し明州府城の一角に寓居していたことになり、

棲心寺の維那が丹念に問題点を指摘したのを受け、その答えに愕然として失意の中にあったことになろうか。

博多から明州へ第一次の入宋

 

一方、ようやく入宋の準備が整った栄西は二八歳にして商船に便乗して筑前の博多津を出航し、東シナ海を越える遠遊渡航

の旅を決行している。すなわち、『元亨釈書』巻二「釈栄西」の章には最初の入宋について、

仁安三年夏四月、乗二商舶一、泛二瀛海一、著二宋国明州界一。乃孝宗乾道四年也。

と伝えており、『延宝伝燈録』の栄西章においても「仁安三年、乗二商舶一、達二宋国明州界一。孝宗乾道四年也」と月日こそ記さ

ないものの、ほぼ同様な内容が伝えられている。栄西は仁安三年(一一六八)夏四月に商船に乗って大海に航し、四月の内に

南宋の明州(浙江省)の界すなわち現在の寧波市の港に到着したことが知られる。

 

日本の仁安三年は南宋の乾道四年に当たっており、ときの皇帝は第二代の孝宗(趙

、字は元永、一一二七─一一九四、在位は

一一六二─一一八九)であった。明州の地は東浙(浙江省東部)の東端に位置し、南宋代には慶元府と称され、元代になると慶

元路、明代以降は寧波府と改められており)(((

、古くより中国随一の貿易港として栄えてきた地であって、日本や朝鮮半島など諸

外国から中国に入る関門として重要な位置を占めていた。当時、ようやく盛んとなった日本からの入宋僧らも明州に到って僧

侶の身分を点検され、その後に国内各地に赴くことができたのである。

 

これに対して、栄西は『栄西入唐縁起』において入宋渡航の経緯について「即四月三日解レ纜、同十八日放洋。廿四日、就二

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

八一

明州之津一」とかなり具体的な記載を残している。『栄西入唐縁起』によれば、栄西が筑前博多津から纜を解いて出航したの

が四月三日であったことが判明し、四月一八日には大海に繰り出して洋上すなわち東シナ海を漂った後に明州の沿岸に到り、

四月二四日にようやく商船が明州の津(慶元府港)に着岸していることが知られる。この点については『興禅護国論』巻中

「第五宗派血脈門」において「四月、渡レ海到二大宋明州一」と記しているから、栄西が四月に博多を離れて海を航し、その月

の内に明州に到ったことが確認される。また『黄龍十世録』の栄西章においても「仁安三年夏四月、乗二商舶一、着二宋国明州一。

乃孝宗乾道四年也」と記されており、栄西が仁安三年四月に明州に着いたことは広く知られた事実であったといえよう)(((

 

ところが、「洛陽東山建仁禅寺開山始祖明菴西公禅師塔銘」(以下、単に「明菴西公禅師塔銘」と略す)によれば「年二十八、夏

五月、乗二商舶一、到二明州一」とあり、栄西が入宋したのを四月ではなく、五月に商船に乗って明州に到ったと記しており、そ

こに一ヶ月の誤差が生じている。なぜ「明菴西公禅師塔銘」が栄西の入宋を一ヶ月遅らせて五月と記しているのかは定かでな

いが、いまは『興禅護国論』『栄西入唐縁起』および『元亨釈書』などに記された内容の方を是とし、栄西が明州に到ったの

は四月であったとするのが正しいであろう。ただし、明州の津に着いたのが四月二四日であっても、明州における栄西の実質

的な活動が五月に至ってなされたものと見られることから、それらを勘案考慮して「明菴西公禅師塔銘」はあえて四月ではな

く五月と表現しているのかも知れない。

 

いま一つ注目されるのは『随願寺文書』所収の「播磨国増位寺集記」(「播州増井山随願寺集記」とも)に、

長吏記曰、長吏二十代唯雅阿闍梨者、大原良忍之徒、而俗姓未レ詳。知能達二顕密之旨一、閲二大蔵経一数遍、傍精二儒書一之沙門也。長寛

二年、為二金剛院住侶一。仁安三年、与二明庵一共入宋。嘉応二年帰朝、梵本法華経請来。文治元年、賜二院宣一、勤二三会之講師一、任二僧都一。

文治四年、撰二法華密義抄二十巻一。建久元年、辞二長吏職一、昼夜不レ臥、而常入二阿字観一。建久三年五月二日、入二禅定一而寂。在レ職十二

年。

という記事が存していることであろう。その内容は播磨(兵庫県)すなわち現今の姫路市白国に存する天台宗の増位山医王院

随願寺の第二〇代長吏となった唯雅(?─一一九二)の事跡を記したものである)(((

。唯雅は俗姓も定かでなく生まれた年も伝え

られていないが、融通念仏宗の光静房良忍(聖応大師、一〇七二─一一三二)の門人であったとされる。問題は唯雅が仁安三年

に明庵すなわち栄西とともに入宋したと伝えられることであって、これが史実とすれば、唯雅は良忍との関係からしてもかな

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

八二

りの年齢で入宋したことになり、しかも「明庵と共に入宋す」とあるから、栄西と同じ船で入宋渡航しているわけである。た

だし、唯雅は三年間にわたって在宋し、嘉応二年(南宋の乾道六年、一一七〇)に帰国する際、梵本『法華経』を南宋から請来

したとされる。おそらく入宋した当初は栄西と行動をともにすることが存したかも知れないが、やがて栄西とは別行動を取っ

たものと見られ、栄西の帰国に際しても同行することはなかったわけである。

 

栄西と同時に入宋した日本僧として唯雅が存していることから、栄西が単独で入宋したのではなく、何人かの同輩とともに

商船の都合を待って南宋へと渡ったらしい事情が窺われる。唯雅が何を目的として入宋したのかは明確でないが、梵字で書か

れた『法華経』写本を日本に持ち帰っていることから、南宋の地から写本や刊本を日本に将来するのを目的として航海してい

ることになろう。

 

ちなみに播磨の増井山随願寺では仁安三年(一一六八)に平清盛(六波羅入道、法名は静海、一一一八─一一八一)が金堂などを

造改築しており、その頃に唯雅が入宋していることから、あるいは唯雅は平清盛の依託を受けて入宋しているのかも知れない。

唯雅は文治元年(一一八五)に院宣によって三会の講師を勤めて僧都に任ぜられ、文治四年(一一八八)には『法華密義抄』二

〇巻を撰したとされる。建久元年(一一九〇)に長吏の職を辞して昼夜に横に臥せず、常に阿字観を修して建久三年(一一九

二)五月二日に坐脱したと伝えられる。

明州広慧寺の知客との問答

 

では、乾道四年四月に明州府港に着岸した直後、栄西は具体的に如何なる行動を取ったのであろうか。『興禅護国論』巻中

「第五宗派血脈門」には、

四月、渡レ海到二大宋明州一。初見二広慧寺知客禅師一、問曰、我国祖師伝レ禅帰朝、其宗今遺缺、予懐レ興レ廃故到レ此、願開二示法旨一。其禅

宗祖師達磨大師伝法偈如何。知客答曰、達磨大師伝法偈曰、云云。又問曰、我日本国有二達磨大師知死期偈一、真偽如何。知客答曰、所レ

喩之法、乃小根魔子妄撰二其語一也。夫死生之道、在二吾宗一本以二去来生死平等一、初無二生滅之理一。若謂レ知二其死期一、是欺二吾祖之道一、

非二小害一乎。久聞、日本国仏法流通。幸逢二吾師一、須レ奉二筆語一。然人有二華夷之異一、而仏法総是一心。一心纔悟、唯是一門。金剛経所レ

謂、応無レ所レ住而生二其心一也。欲レ知二源流一、請垂二訪及一。当二一一相聞一、広知二祖師之道一、非三小乗知見所二能測度一也、云云。于レ時宋

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

八三

乾道四年戊子歳也。

という問答が載せられている。明州港に到着した直後に当たる四月中に、栄西は商船を降りて明州府城内の寺々を巡ったもの

らしく、おそらくその一環として広慧寺も訪れているのであろう。このとき広慧寺において応対に当たってくれた知客との間

で栄西はいくつかの問答を交わして居り、そのいくつかのやり取りを栄西は『興禅護国論』に収めているわけである。知客と

は知賓とも称する職位であり、禅寺で来客をもてなす接待長に当たり、六頭首の一として西班(西序)の第五位に列している。

当時、明州には日本や高麗など諸外国の僧侶が来訪する機会が頻繁になりつつあっただけに、府城の主要寺院においても知客

の職位がしだいに重要度を増していたことと思われる。

 

一方、『元亨釈書』の栄西章においても、広慧寺の知客との問答として、

初戊子之行、明州広慧寺知賓之者問曰、子之国有レ禅乎。対曰、我邦台教始祖伝教大師、伝二三宗一而帰。方今台密正熾、禅滅者久矣。

西承レ乏之者也。恨二祖意之不一レ

全矣。故航レ海来、欲レ補二禅門之缺一。不レ知得麼。知客又英衲也、頗多二発益一。

という記事が載せられており、この記事は後代の『延宝伝燈録』においても、

偶会二広慧寺知客一、問曰、日国有レ禅麼。師曰、我邦台教始祖伝教大師、伝二台密禅一而帰。今台密鼎盛、禅滅久矣。我今航レ海、将レ補二

闕典一。不レ知得否。知客曰、子欲レ得二祖師禅一、抛二下従前知見一、発二大機用一。精砺積レ年、自然有二契当分一。

と継承されており、同じく『本朝高僧伝』においても、

会二遇広慧寺知賓之僧一、与レ之相語。問曰、日本有レ禅乎。西曰、我邦台宗始祖伝教大師、延暦末年入レ唐、伝二台密禅三宗一。今台密鼎盛、

禅滅久矣。故航レ海来、不レ知得否。知賓曰、子欲レ究二祖師禅一、抛二下従前知見一、発二得大機一。精砺積レ年、自然有二契当分一。西聴而心服。

と記されている。字句の内容こそ若干ながら相違するものの、やはり『元亨釈書』を受けるかたちで栄西が広慧寺の知賓(知

客)と問答したことを伝えている。これらの記事の状況からすると、明州に着いた栄西はしばらくの間は明州府城に留まって

近隣の寺院を参観散策することに努めていたものらしい。おそらく南宋への入国に際して度牒(得度証明書)や戒牒(受戒証明

書)を提出して日本からの入宋僧であることを検閲され、身分が保証されて許可が下りるまでの期間を明州城内に在って待機

していたのかも知れない。

 

ところで、このとき栄西が訪れたとされる広慧寺とは、明州府城東南一里に存した禅寺のことであり)(((

、『宝慶四明志』巻一

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八四

一「郡志」の「寺院〈禅院〉」に、

万寿院、子城東南一里。在レ唐為二慧燈院一。咸通十三年、史君周景、捨二廨宇一以建、仍捨レ田以充二常住一。聞諸朝而賜レ額。皇朝開宝八年

重建、太平興国七年、改二崇寿一。政和八年四月、改二広慧一、専充二啓建祝聖道場一。建炎四年、火二于兵一重建。嘉定十三年、再火又重建。

或謂、慧字従レ彗従レ心、于レ星皆火讖、也為二寺額一不レ利。郡為聞二于朝一。紹定元年正月十三日、有レ旨賜二今額一。是日、東南廂火、環レ

寺皆延燎、而寺独存。人咸異レ之。本寺常住田一千四百五畝、山一百一十畝。

と記されており、当時、明州府城の主要な禅院の一つであった広慧禅院(広慧禅寺)すなわち後世の万寿禅院(万寿禅寺)の変

遷が知られる。唐の咸通一三年(八七二)に史君の周景が廨宇(役所)を寺に改めて慧燈院を建て、常住田を喜捨したのに始

まる。北宋代に重建されて崇寿院と称され、さらに広慧院ないし清凉広慧禅寺と改められて啓建祝聖道場に充てられている。

建炎四年(一一三〇)に兵火に焼けた伽藍が重建されており、嘉定一三年(一二二〇)にも再び火災に見舞われている。その後、

紹定元年(一二二八)に至って「慧」の字が火に因むことから、火難を避けるべく万寿院(万寿寺)と改められている。した

がって、栄西が到った当時は明確に清凉広慧寺という名称が通用していたのであり、栄西自身が「広慧寺」と表記しているの

は歴史的にも正しいことになろう。

 

栄西が日本から到った頃、広慧寺に住持していた禅者としては、曹洞宗の宏智正覚の高弟であった広慧法聡が住持として活

動していた事実が知られ、同じく曹洞宗真歇派の足庵智鑑(一一〇五─一一九二)や臨済宗黄龍派の慈航了朴などもこの寺に住

持している)

(((

。了朴は曹洞宗の宏智正覚の後を受けて第二〇世として天童山の興隆に尽力した人として名高く、栄西が第一次の

入宋をなした頃にはすでに天童山の住持として活躍しているが、栄西と直接の交流は存していないようである。一方、智鑑は

曹洞宗の系譜上では日本の道元にとって師翁に当たる禅者であり、『攻媿集』巻一一〇「雪竇足菴禅師塔銘」によれば、乾道

八年(一一七二)から淳煕四年(一一七七)まで広慧寺に住持しており、後に明州奉化県の雪竇山資聖禅寺に住持したことで名

高い。了朴が退住して後、智鑑が入寺するまでの間に広慧寺に住持していたと見られるのが宏智門下の広慧法聡であり、栄西

が到った頃に相当するものと推測される)(((

。さらに嘉定年間(一二〇八─一二二四)に至ると、虎丘派(破庵派)の無準師範(仏鑑

禅師、一一七七─一二四九)が嘉定一三年(一二二〇)三月に清凉広慧寺に開堂出世しており、嘉定一六年(一二二三)春まで住

持しているから、明州府城における名刹の一つとして機能していたことが知られる。

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

八五

 

では、栄西が明州広慧寺の知客との間で交わした問答とは果して如何なるものであったのか、問答の具体的な内容について

考察してみることにしたい。はじめに『興禅護国論』に載る両者のやり取りであるが、最初の問答を書き下してみるならば、

およそつぎのごとくなろう。

初めに広慧寺の知客禅師に見え、問うて曰く、「我が国の祖師、禅を伝えて帰朝するも、其の宗、今は遺缺せり。予、廃せるを興さんこ

とを懐うが故に此に到る。願わくは法旨を開示したまえ。其の禅宗祖師の達磨大師の伝法偈は如何ん」と。知客、答えて曰く、「達磨大

師の伝法偈に曰く、云云」と。

 

このとき広慧寺において来客の栄西に応対した知客が具体的に如何なる系統の禅者であったのかは定かでなく、法諱や道号

の類いも何ら伝えられていない。仮に広慧法聡の門人とすれば、あるいは曹洞宗宏智派の禅者であったかも知れない。栄西は

知客に対して最初に自ら「我が国の祖師、禅を伝えて帰朝するも、其の宗、今は遺缺す」と述べているから、日本に禅宗を伝

えた祖師として具体的に天台宗の最澄(伝教大師、七六七─八二二)が存した事実を明確に認識していたことが知られる。栄西

自身のことばとして「予、廃せるを興さんことを懐うが故に此に到る」とあるから、衰退してしまった禅を再び興隆せしめる

べく宋朝にやって来たことを栄西は明確に知客に対して語っている。この内容が史実とすれば、栄西は第一次の入宋で日本で

廃れてしまった禅の宗旨を参学するために南宋の地に赴いたことになろう。

 

さらに栄西は知客に対して禅の法旨を開示するよう迫っており、第一に禅宗初祖である菩提達磨の伝法偈について問い質し

ている。このとき知客は栄西に対して達磨が示した「吾本来二茲土一、伝レ法救二迷情一、一華開二五葉一、結果自然成」という伝法

偈について逐一に説明したものらしいが、残念ながら『興禅護国論』では具体的なやり取りの記述は省略されている。

 

この栄西自ら語っているところによれば、最初に入宋した時点から栄西はすでに禅宗の存在を十分に認識していたことにな

り、決して何らの知識もなく渡航したのでなかったことを窺わしめよう。それは博多で李徳昭から聞いた禅宗の情報などを遥

かに越えた内容であって、栄西としては入宋以前から禅宗に対するある程度の知識なり、中国仏教に関する情報なりを確実に

身に付けていたと見なければならない。また入宋当初に広慧寺という禅刹を自ら訪れて禅宗に関する情報を積極的に吸収して

いることは、栄西がかなり禅宗への拘りをもって南宋での活動を開始したことを裏付けるものといってよい。

 

一方、『元亨釈書』の栄西章も若干ながら内容が相違するものの、これを書き下してみるならば、およそつぎのごとくなろう。

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八六

初め戊子の行に、明州広慧寺の知賓の者、問うて曰く、「子の国に禅有りや」と。対えて曰く、「我が邦の台教の始祖伝教大師、三宗を

伝えて帰る。方に今、台・密は正に熾んなるも、禅の滅すること久し。西、乏しきを承くるの者なり。祖意の全からざるを恨む。故に

海に航し来たり、禅門の缺くるを補わんと欲す。知らず、得んや」と。

 

やはり『元亨釈書』においても、広慧寺の知賓(知客)との間で交わされた類似の問答が収録されている。戊子は日本の仁

安三年(南宋の乾道四年、一一六八)のことであり、この問答が第一次入宋の時になされたことが明記されている。最初に知賓

すなわち知客が栄西に対して日本に禅があるか否かを尋ねている。これに対して、栄西は日本の天台宗始祖である伝教大師最

澄がかつて明確に台密禅すなわち天台・密教・禅の三宗を伝来したことを示し、さらに天台と密教は日本で盛んであるが、禅

が行なわれなくなって久しいことを告げている。注目すべきは栄西がその乏しき禅を自ら継承する者と称していることであり、

祖師意が行なわれていないことを歎いて日本から海を渡ってきた点を強調し、禅門が欠けているのを補うことを目指している

点を知客に告げている。末尾の「知らず、得んや」というのは、果して自分のような者でも禅の宗旨を伝え得ることができる

であろうかと、自らを卑下しつつも知客に問い質していることばである。これによれば、栄西は第一次入宋の折りから天台と

密教に禅を加えることを目的として渡航しているわけであり、この点は栄西の第一次入宋を語る上で重要な示唆を与えるもの

であろう。

 

つづいて『興禅護国論』によれば、栄西はより具体的な内容を知客に問うており、

又た問うて曰く、「我が日本国に達磨大師が死期を知るの偈有り、真偽は如何ん」と。知客答えて曰く、「喩うる所の法は乃ち小根の魔

子が妄りに其の語を撰するなり。夫れ死生の道は、吾が宗に在りては本より去来生死の平等なるを以て、初めより生滅の理無し。若し

其の死期を知ると謂わば、是れ吾が祖の道を欺くこと小害に非ざるか。久しく聞く、『日本国は仏法流通す』と。幸いに吾が師に逢う、

須らく筆語を奉るべし。然して人に華夷の異なり有るも、而も仏法は総べて是れ一心なり。一心纔かに悟れば、唯だ是れ一門なるのみ。

『金剛経』に所謂る、『応に住する所無くして、而も其の心を生ず』となり。源流を知らんと欲せば、請うて訪及を垂れたまえ。当に一

一に相聞すべし、広く祖師の道を知ること、小乗の知見にて能く測度する所に非ざるなり」と云云。時に宋の乾道四年戊子の歳なり。

と書き残している。すなわち、栄西は日本に知られていた達磨の「知死期偈」について広慧寺の知客に真偽のほどを問うたの

である。達磨の「知死期偈」とは、達磨が予め死期を知って詠じたと伝えられる偈頌であり、京都栂尾の栂尾山高山寺に所蔵

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八七

される「達磨和尚秘密偈」という古文書によれば、「知死期偈」の内容とは「纔覚三玉池無二滴瀝一、次於二波底一取二神光一、無常

須聴二髏頭鼓一、得レ数方知二幾日亡一」というものである)(((

。これを書き下せば「纔かに玉池に滴瀝無きを覚え、次に波底に於い

て神光を取る。無常にして須らく髏頭の鼓を聴き、数うるを得て方めて幾日に亡ずるかを知る」と読むべきであろうか。先の

二句は梁の武帝(蕭衍、字は叔達、四六四─五四九)との問答で機縁なきことを知って蘆葉に乗って長江を渡ったことと、やが

て洛陽(河南省)登封県の嵩山少室峰の少林寺に到って門下に神光すなわち二祖慧可(太祖禅師)を得たことを述べている。ま

た後の二句は髑髏の鼓を叩く音を数えて、達磨が自らの死期を知ったという内容であるが、その故事の典拠は定かでない。

 

広慧寺の知客は達磨の「知死期偈」を小根の魔子が妄りに撰した偽作にすぎず、達磨の道を欺くものとし、その弊害が小さ

くないことを指摘している。さらに知客は日本が仏法の流布した国であることを伝え聞いていたとし、栄西に会って筆談で何

でも問いに答える姿勢を示している。おそらく南宋第一の港であった明州においては日本の情報が遠く海を越えて頻繁に齎さ

れていたはずであり、広慧寺の知客も日本仏教に対してかなりの知識を備えていたものであろう。この点、後に示すがごとく

栄西が到る前年に日本の仏教界から質問状の類いが明州の地に届けられているのも考慮しなければならない。また知客は仏法

においては中国(中華)と日本(東夷)の違いはなく、ともに一門である点を強調し、『金剛般若波羅蜜多経』の「応無レ所レ住、

而生二其心一」の語句を引用している。つづけて知客は栄西に禅の道を参究し、祖道を知りたいのであれば、一々に尋ねるよ

うにと勧めている。このとき栄西がさらに詳しく禅宗について問い質したのか否かは定かでないが、入宋当初から栄西は禅宗

に触れる機会を得ているわけであり、禅の教えを伝えたい気持ちも早くから存したことが窺われる。

 

また『元亨釈書』には「知客又た英衲なり、頗る発益すること多し」とあり、英衲とはすぐれた衲僧のことであるから、栄

西にとって広慧寺の知客はきわめてすぐれた人物として受け止められたことが知られ、上記の問答のほかにも発益するところ

が頗る多かったと伝えられる。とりわけ『延宝伝燈録』や『本朝高僧伝』では、知客のことばとして「子、祖師禅を得んと欲

せば、従前の知見を抛下し、大機用を発せよ。精砺して年を積めば、自然に契当の分有らん」とあり、知客は栄西に祖師禅を

究めるよう勧めたことになっている。栄西が南宋の禅僧として最初に触れたのが広慧寺の知客であり、この人物が栄西に及ぼ

した影響にはかなりのものが存したと見てよいであろう。

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

八八

日本僧重源との遭遇

 

その後、栄西は奇しくも明州の地で同じ入宋僧の俊乗房重源(南無阿弥陀仏、入唐三度聖人、一一二一─一二〇六)と知り合う

ことになり、そのことが両者にとってそれぞれの生涯を規定するほど大きな道交をなすきっかけとなっている。重源は左馬允

紀季重の子とされ、醍醐寺を中心に密教を学び、後には法然房源空(黒谷上人、一一三三─一二一二)のもとで浄土教をも修し

たといわれる。また入宋すること実に三度に及んだことから、世に「入唐三度聖人」と尊称されている)(((

。そんな重源が最初の

入宋で奇しくも明州で遭遇したのが栄西であったわけで、両者はそのまま帰国まで行動を共にすることになる。

 

いま、諸史料に載る栄西が重源と出会った記事を列記してみるならば、つぎのような内容となっている。『栄西入唐縁起』

では、入宋した直後の栄西の動向について、

即四月三日解レ纜、同十八日放洋。廿四日、就二明州之津一。東大寺前勧進大和尚重源、従二他舩一入唐、於二明州一相視、互流レ涙。同登二

育王山一、見二釈尊舎利放一レ

光。同詣二天台山一、礼二生身羅漢一。臨二于帰朝之時一、源和尚同詣二育王山一、請二舎利殿修造之事一。即其年上二同舩一

帰朝。彼上人其時四十八、予廿八。

と記されており、栄西が入宋して間もない頃に明州の津で日本僧の重源と知り合ったことを伝えている。「東大寺前大勧進大

和尚」とは後に南都(奈良)の東大寺大仏殿再建に大勧進職を務めた重源のことを晩年の栄西が尊崇した表現である。南宋の

乾道四年四月二四日に栄西は明州の津に着岸しているが、このとき重源はすでに他の船に乗って前年の内に一足早く入宋して

おり、両者は奇しくも明州の地で相見する機会を得、互いに異郷の地で遭遇し得たことに涙を流したとされる。このとき栄西

は二八歳であり、重源はすでに四八歳に達しており、両者はあたかも二〇歳もの年齢差が存している。

 

この点は『元亨釈書』巻一四「釈重源」の章においても「仁安二年、跨レ海入レ宋。適与二明菴西公一遇二于四明一」とあり、

重源は仁安二年の中に入宋渡海したとされ、たまたま栄西と四明すなわち明州の地で遭遇したことになっている。この表現に

よれば、重源が栄西と出会したのも仁安二年すなわち南宋の乾道三年であったかのごとくに受け取られやすいが、栄西が入宋

したのは仁安三年であることは動かないであろう。いずれにせよ『栄西入唐縁起』と『元亨釈書』重源章によれば、両者は仁

安三年の四月末か五月初めに明州の津で相見したことが知られる。さらに重源ゆかりの播磨(兵庫県)すなわち兵庫県小野市

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

八九

浄谷の極楽山浄土寺に所蔵される『浄土寺開祖伝』においては、

仁安二年、企二入宋一、泛二冥海一。猛風頻起、船舶簸蕩、殆危時、赤衣神与二天童八十餘人一現二船中一曰、吾是育王山之神也。船中皆相欽、

風波忽定、早著二明州浜一。五月適与二本国明菴西公一遇二四明一。

と記されており、重源が仁安二年に入宋を企て大海を渡ったときの逸話が載せられている)(((

。重源が大海を航しているとき暴風

雨が頻りに起こり、船舶が煽られて揺れ動いたとされる。まさに難破せんとした際、重源らの前に赤衣の神が天童八〇余人と

ともに船中に現われて「吾れは是れ育王山の神なり」と告げたという。船中の人々が明州阿育王山広利寺の神(護伽藍神)の

姿を仰ぎ眺める中で風波が忽ち収まり、速やかに明州の浜に着岸できたとされる。記事の真偽はともかくとして、重源が入宋

した事跡を阿育王山と結び付けんとした発想が背景に存したことが知られて興味深い。その後、仁安三年五月に至って重源は

遅れて日本から到った栄西と奇しくも四明の地で遭遇したとされ、『浄土寺開祖伝』においても両者は明州地内で会ったこと

になっている。

 

ところが、これに対して『元亨釈書』巻二「釈栄西」の章ではこれらの記載とは相違し、栄西が最初に入宋したときの記事

として「五月発二四明一、赴二丹丘一。適与二本国重源一遇、相伴登二台嶺一」と記されており、栄西は仁安三年五月に四明を発って、

丹丘すなわち台州(浙江省)寧海県に赴いており、このとき本国の重源とたまたま遭遇する機会を得、互いに班を組んで天台

山に上ったことが伝えられている。ただし、この表現では「五月に四明を起ちて丹丘に赴く」と「適たま本国の重源と遇い、

相い伴いて台嶺に登る」というのが一連の行動と解するべきか否か、栄西が重源と遭遇したのが明州であったのか丹丘であっ

たのかは、文脈上では明確に判断できないであろう。

 

状況的には仁安三年に両者は四明すなわち明州の地で遭遇する機会を得たと解するべきであり、しかもその時期は仁安三年

四月末から五月初めのことであったと見てよい。その後に両者は班を組んで丹丘から台州天台県の天台山に赴いており、天台

石橋(石梁瀑布)の阿羅漢を礼拝したと解するのが正しいであろう。

 

また興味深いのは九条兼実の日記である『玉葉』巻三八「寿永二年〈癸卯〉正月二十四日」の条に、

廿四日〈庚寅〉天晴、東大寺勧進聖人重源来。余依二相招一也。聖人云、大仏奉二鋳成一事、偏以二唐之鋳師之意巧一可二成就一、云々。来四

月之比、可レ奉レ鋳、云々。件聖人渡唐三箇度、彼国之風俗委所二見知一、云々。仍粗問レ之、所レ語之事、実希異多端者歟。五臺山被レ打二

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

九〇

取大金国一了、渡海之本意為レ奉レ礼二彼山一也。

という記載が存していることであり、「入唐三度聖人」と称せられた重源が最初に入宋したときの逸話を重源自身が兼実に

語っている。重源が最初に入宋した目的はもともと代州(山西省)五臺県の五臺山(清涼山とも)に文殊菩薩の霊場を拝登した

かったものらしいが、当時すでに中国の北半分は金国の治下にあったため、重源は残念ながら五臺山拝登を断念せざるを得な

かったとされる。栄西より一年早く明州に到った重源は憧れの五臺山に赴くことができず、悶々とした日々の中で日本に向う

船を待って帰国せんとしていたもののようである。そんな折りに重源は遅れて明州に来た栄西と遭遇する機会を得たのであり、

旧来の知己のごとく行動を共にすることとなったわけである。

重源とともに阿育王山の仏舎利塔を拝す

 

上述のごとく栄西は明州の地で重源と遭遇して互いに知己となっており、やがてともに連れ立って天台山に上り、蒸餅峰の

阿羅漢を拝したことが知られている。しかしながら、両者は天台山を目指す前に、最初に同じ明州地内に存する阿育王山広利

禅寺を拝登したものらしい。『栄西入唐縁起』では「同じく育王山に登り、釈尊舎利の光を放つを見、同じく天台山に詣りて

生身の羅漢を礼す」とあるから、両者は同行して先ず初めに明州鄞県東五〇里の阿育王山広利禅寺に赴き、寺内の舎利殿に祀

られている釈迦牟尼仏の仏舎利が光を放つさまを仰ぎ眺めていることが知られる。

 

この点も九条兼実の日記『玉葉』巻三八「寿永二年正月二十四日」の条に、

仍空敷帰朝之処、天台山・阿育王山等可レ奉レ礼之由、宋人等勧進。仍暫経廻、詣二件両所一。

とあるから、山西の五臺山への拝登をあきらめて空しく帰国を考えていた重源が、明州の宋人から天台山と阿育王山に赴くべ

きことを勧められている。おそらく重源は栄西と知り合って後、まもなく明州府城からほど近い鄞県東五〇里の阿育王山広利

寺にともに赴きたい旨を栄西に告げたものと見られ、地理的にも両者が先ず最初に訪れたのが阿育王山広利寺であったと解す

るのが自然であろう。

 

当時、阿育王山の住持を勤めていたのは大慧派の大円遵璞(?─一一六〇)の高弟である普門従廓(妙智禅師、一一一九─一一

八〇)にほかならない。従廓は楊岐派(大慧派祖)の大慧宗杲(妙喜、大慧普覚禅師、一〇八九─一一六三)の法孫に当たる禅者で

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

九一

あり、大慧宗杲・大円遵璞・妙智従廓という師資三代は阿育王山の住持として伽藍修復や荘田開拓などに尽力したことで知ら

れている。『攻媿集』巻一一〇「育王山妙智禅師塔銘」によれば、従廓は紹興年間(一一三一─一一六二)の末年頃から淳煕七

年(一一八〇)三月に至るまで、実に二〇年近い歳月を阿育王山の住持として活動しており、この間、仏舎利殿を修復するな

ど、阿育王山の歴史に大きな足跡を残している。住持の従廓は日本から来た栄西・重源に対しても親しく接したようであり、

その後も帰国した重源を介して日本の後白河上皇や平清盛らの支援を得ていたものらしく、とりわけ後白河上皇は従廓に対し

て海を隔てて弟子の礼を尽くしたとされる)(((

。『栄西入唐縁起』によれば、栄西と重源の両者は明州の地で相見し、互いに異郷

の地で知り合ったことに涙を流した後、ともに鄞県の阿育王山広利寺に拝登して仏舎利の放光するさまを仰ぎ見たとされる。

当時すでに阿育王山は南宋禅林でも著名な大刹として機能しており、また仏舎利信仰の霊場として僧俗の帰崇を得ていたこと

が知られる。

 

先に示した『玉葉』巻三八「寿永二年正月二十四日」の条には、阿育王山広利寺と寺内に祀られる舎利宝塔についても、

又云、謂二阿育王山一者、即彼王八万四千基塔之其一、被レ安二置彼山一。件塔四方皆削透、云々。其上奉レ納二金塔一〈当時帝王所レ被二造進一、

云々。件根本塔、高一尺四寸、云々〉、其上銀塔、其上金銅塔、如レ此重々被二奉納一、云々。件舎利現二種々神変一、或現二丈六被摂之姿一、

或現二小像一、或現二光明一、云々。此聖人、両度奉レ礼二神変一〈一度ハ光明、一度ハ小像仏、云々〉。雖二末代一、此事不二陵遅一、云々。但彼

国人、心ハ以二信心一為レ先、或道或俗、徒党五百人、若ハ千人、如レ此同時始二精進一、起二猛利之浄信一、三歩一礼ヲ成テ参詣。其路雖レ不

レ遠、或三月、若半年之間、遂二其前途一。参着之後、皆悉奉レ唱二釈迦之宝号一、一向成下奉レ礼二神変一之思上。其中随二罪之軽重一、有二神変

之現否一、云々。実是重殊勝之事也。

とあり、重源自身がいくぶん詳しく述べたことばを九条兼実が書き残している。これによれば、阿育王山が古代インドのア

ショーカ王(阿育王)が建てた八万四千塔の一つと信じられ、金塔(根本塔)の高さやその神変などが記され、また五体投地に

似た三歩一礼の参詣のやり方などについても触れられている。重源にとって阿育王山と舎利塔の存在が如何に興味深い信仰の

対象であったかが偲ばれ、その点は栄西においても同様であったものと見られる)(((

 

さらに別に重源が阿育王山でなした活動として興味深いのは、鎌倉初期に歌人の源顕兼(一一六〇─一二一五)が編した説話

集である『古事談』巻三「僧行」に、つぎのような記述が存していることであろう。

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九二

東大寺聖人舜乗房、入唐之時、教長手跡之朗詠ヲ持渡レ唐、入二育王山一。長老以下見レ之、感歎之無レ極。其中天神御作、春之暮月々之三

朝之句、殊以褒美、不レ堪二感懐一。遂乞取納二育王山宝蔵一、云々。

 

重源は入宋に際して能書家として名高い同世代の藤原教長(朱雀宰相、一一〇九─一一八〇)が揮毫書写した『和漢朗詠集』

二巻の写本を持参しており、阿育王山に到った際に、長老(住職)その他の人々にこれを見せたとされる。この記事は明確に

最初の入宋のときとは述べられていないが、状況からすると重源が栄西とともに阿育王山を初めて訪れたときのできごとで

あったと解してよいであろう。『和漢朗詠集』とは平安中期の藤原公任(四条大納言、九六六─一〇四一)が編集した歌謡集であ

り、和漢の漢詩と和歌の朗詠を集めて分類している。重源がこの『和漢朗詠集』を阿育王山で長老以下の人々に見せたところ、

皆がその筆致のすばらしさに感歎の声を挙げたとされる。その中に菅原道真(北野天神、八四五─九〇三)の作として「春之暮

月、月之三朝」という句があり、阿育王山の長老らはこれをことのほか褒美し、感激に絶えなかったと伝えている。実際に

『和漢朗詠集』巻上「春」の「三月三日〈付桃花〉」の箇所には、

春之暮月、月之三朝、天酔二于花一、桃李盛也。我后一日之沢、万機之餘、曲水雖レ遙、遺塵雖レ絶、書二巴字一而知二地勢一、思二魏文一以翫二

風流一。蓋志之所レ之、謹上二小序一。〈菅三品〉。

という菅原道真の漢詩が収められているから、阿育王山の長老らは菅原道真の漢詩の内容とそれを書写した藤原教長の筆捌き

に圧倒されたことになろう。しかも阿育王山側では教長筆写の『和漢朗詠集』を重源に願い求めて寺内の宝蔵(宝物殿)に納

めたことになっている。この記事は状況からして重源が栄西とともに初めて阿育王山に足を踏み入れたときのことであり、こ

こにいう阿育王山の長老とはときの住持であった妙智従廓その人にほかならないであろう。この記事がどこまで史実を伝えて

いるのかは問題もあろうが、栄西と重源の両者が初めて阿育王山の従廓と交渉を持った経緯を窺うことができよう。これは阿

育王山の長老従廓が日本人の詠じた漢詩や筆写した筆捌きの巧妙さに舌を巻いた内容となっており、日本の書籍ないし書筆が

南宋禅林で高く評価された興味深い事例であったといってよい。

 

阿育王山に到って暫し滞在した際、栄西や重源はおそらく厳粛な威儀によって日常の起居進退をなす禅宗修行僧らの姿を目

の当たりにしていたはずである。当時の阿育王山は大慧宗杲が住持して以来、一〇〇〇人に近い修行僧が集う一大叢林であっ

たと見られるから、栄西と重源こそ禅宗清規に基づく南宋禅林の実際のありように直に触れた最初の日本僧といってよいであ

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九三

ろう。栄西や重源がこのとき阿育王山の従廓のもとを訪れて仏舎利を拝したことが、やがて帰国後に後白河上皇や平重盛をし

て阿育王山に良材や黄金を奉納させる遠縁となっているのであろう。

天台山拝登と石橋の阿羅漢

 

その後、栄西は重源とともに台州(浙江省)天台県の天台山を目指して旅立っている。天台山はやはり東浙に位置し、いう

までもなく隋代の天台智顗(徳安、智者大師、五三八─五九七)に始まる中国天台宗発祥の聖地であり、かつて唐代に日本から

最澄(伝教大師、七六六─八二二)が入唐求法した有縁の地でもある。入宋した日本僧にとっては一度は訪れねばならぬ仏教霊

場であったといってよく、とりわけ比叡山で受戒した栄西にとっては特別な思いが存した憧れの地であったはずである。『栄

西入唐縁起』では、阿育王山で仏舎利塔を拝登した記事につづいて、栄西の動向として「同詣二天台山一、礼二生身羅漢一」と簡

略に記されているから、このとき栄西は重源と同じく天台山に赴いていることが知られる。また『元亨釈書』の栄西章には、

戊子歳、上二台山一、見二青龍於石橋一、感二羅漢於餅峯一。因而供レ茶、異花現二盞中一。

と記されており、『黄龍十世録』の栄西章においても、

五月発二四明一赴二丹丘一。登二台嶺一、見二青龍於石橋一、感二羅漢於餅峰一。因而供レ茶、異花現二盞中一。

とあり、さらに「明菴西公禅師塔銘」においても、

与二本国重源一、同入二天台一、見二青龍於石橋一、応真現二於餅峰一。因而茶供、異花満レ盞。

と『元亨釈書』の記事を踏まえたかたちで載せられている。これらによれば、阿育王山を拝登した両者は、五月には相伴って

四明を発って台州寧海県の丹丘へと赴き、同じく台州天台県の天台山に登っていることになろう。栄西と重源が知り合った地

そのものを丹丘とする説もあるが、すでに述べたごとく両者が初めて遭遇したのは明州の地であって、それ以来、二人は行動

を共にして丹丘へと赴いたと解するのが正しいであろう。

 

丹丘(丹邱)とはもと仙人の住む所といった意味であるが、具体的には台州寧海県南九〇里の獅山(獅子山)の近辺を丹丘

と称し、その地には丹邱院も存したと伝えられる。ただし、『嘉定赤城志』巻三「地里門三〈館駅〉」の「州」には、

丹邱駅、在二州東南一里一。旧伝三葛元錬二丹於此一、故名。乾道九年火、今為二民居一。按二孫綽賦一、仍二羽人於丹邱一。丹邱今寧海有レ之。天

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九四

台記載、晋虞洪入二丹邱山一、遇二丹邱子一求レ茗、則得レ名旧矣。今臨海有二丹邱観一、寧海有二丹邱院一、亦此義也。

という記載が存しているから、必ずしも寧海県の獅子山の付近のみを丹丘と称したものでもないらしい。台州府城東南一里に

は丹邱駅が存しており、また台州臨海県西北三〇里にも丹邱観(古くは成徳観)が存している)(((

から、広く台州の地を丹丘また

は丹邱と称していたともいえよう。したがって、単に「丹丘に赴く」とあるのは寧海県に到った意と解するより、あるいは栄

西と重源がともに台州府城の丹邱駅あたりに到着したこと、あるいは広い意味で台州に赴いたことを述べた表現と見た方がよ

いかも知れない。

 

天台山は台州天台県の北に位置し、一に桐柏山または大小台山と称されている。いうまでもなく隋代に智者大師智顗がこの

地に居し、とくに国清教寺を創建して『法華経』に基づく天台教学を打ち立てている。また唐代には日本から伝教大師最澄が

天台山に到って道邃(興道尊者、止観和尚、?─八〇五)より天台学を修得して帰国し、近江に比叡山延暦寺を開いているから、

比叡山はまさに日本の天台山といってもよいだろう。

 

栄西と重源が天台山へと足を運んだ理由は、当然のことながら天台宗発祥の聖地をその目で実際に確かめ、智顗や最澄ゆか

りの寺院や史蹟を拝登することにあったはずである。おそらく栄西にとっては入宋以前から必ず訪れなければならない目的地

であって、比叡山で受戒した栄西にとって天台山は漸くにして到ることのできた憧れの聖地と映ったことであろう。したがっ

て、両者は遊山巡礼のために天台山に赴いたことになり、いわば霊場巡りが天台山拝登の主目的であったと見てよいであろう。

 

ところで、『元亨釈書』栄西章によれば、天台山に到った両者は青龍を天台石橋(石梁瀑布)で見、蒸餅峰で生身の阿羅漢が

応現するのを感じたとされ、栄西が茶を献ずると異花が盞(茶碗)の中に現ずるという奇瑞に遭遇したことを伝えている。一

方、『元亨釈書』重源章でも明州(四明)で栄西と知り合った記事につづいて「相伴上二台山一、拝二蒸餅峯阿羅漢一」と記されて

いる。また播磨(兵庫県)浄土寺に所蔵される『浄土寺開祖伝』においても『元亨釈書』重源章を受けて、両者が明州で遭遇

した後の記事として同じく「相伴上二天台山一、拝二蒸餅峯阿羅漢一」と記されている。ここでも栄西と重源は互いに班を組んで

天台山に上り、蒸餅峰の阿羅漢を遥拝したことが伝えられる。それら奇瑞に関する記事内容の真意はともかくとして、おそら

く両者は石橋など天台山中の多くの伽藍や史蹟を巡礼し、その景勝に魅了せられたものであろう。

 

天台石橋については『嘉定赤城志』巻二一「山水門三〈山〉」の「天台」に、

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九五

石橋、在二県北五十里一。即五百応真之境。相伝為二方広寺一。有二石梁一、架二両厓間一、龍形亀背、広不レ盈レ咫。其上双澗合流、洩為二瀑布一、

西流出二剡中一。梁既峭危、且多二莓苔一甚滑。下臨二絶澗一、過者目眩心悸。昔僧曇猷、欲三渡レ梁訪二方広一、忽有レ石如レ屏梗レ之。旧号二蒸

餅峯一。孫綽賦所謂、践二莓苔之滑石一、搏二壁立之翠屏一、是也。

という記載が存している。石橋(石梁瀑布)は台州天台県北五〇里に存し、五百羅漢が応現する霊境とされる。この地には古

くから方広寺が建てられていたものらしく、石橋ないし石梁とは滝の水が岩石を穿ち抉って流れ落ちたものであり、石橋はわ

ずかな幅しかなく、しかも苔が生して滑りやすい状態になっている。石橋を渡って対岸に達して茗茶を献ずると五百羅漢が応

現すると言い伝えられ、古来より多くの僧俗を魅了してきた聖地である。また「石橋(中略)旧く蒸餅峯と号す」とあるから、

天台石橋が存する地を古くは蒸餅峰と称したことが知られ、とくに栄西・重源の史料では石橋を渡った対岸の地を蒸餅峰と表

現しているようである。ところで、天台山における栄西の足跡を整理すると、一つに「青龍を石橋に見る」とあり、二つに

「羅漢を餅峯に感ず」とか「生身の羅漢を礼す」とあり、三つに「因りて茶を供うるに、異花、盞の中に現ず」とか「因りて

茶を供うるに、異花、盞に満つ」と記されている。一方、『元亨釈書』重源章においても「相い伴いて台山に上り、蒸餅峯の

阿羅漢を拝す」とあるから、両者の記事とも天台石橋での事跡のみを収録していることになろう。

 

第一の青龍を石橋に見たとは、石橋の下を流れる瀑布を青い龍の姿に見立てた表現であって、両者が石橋に到ってこれを望

み見たことを意味しよう。第二の羅漢を餅峰に感じたとは、栄西が実際に石橋を渡って対岸の蒸餅峰に達したことを意味し、

おそらく対岸に達した栄西が羅漢の応現したかの余韻に浸ったことを述べたものであろう。第三の茶を供えると異花が盞に現

じたとは、栄西が対岸で実際に茶を立てて五百羅漢を一々に供養したことを述べたものであり、あるいはこのとき実際にいく

つかの茶碗に花弁が舞い落ちる奇瑞のごとき現象が起こったのかも知れない)(((

 

また重源の史料でも、石橋の対岸の蒸餅峰で羅漢を拝したというから、栄西と同じように石橋を無事に渡り切ることができ

たものであろう。この点はやはり『玉葉』巻三八「寿永二年正月二十四日」の条に、重源が天台山と石橋などについて九条兼

実に語った内容として、

天台山ニハ有二石橋一、破戒罪業之人無二渡得一。其橋事、本国之人十之八九ハ不レ遂二前途一。但於二日本国之人一者多分渡レ之、令レ感下依レ此

願二渡海一之志上歟、云々。即此重源聖人所レ渡二其橋一也。尤可レ貴可レ貴。其橋体、広四寸、長三四丈、亘二大河上一〈河自レ南流レ北、橋

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

九六

自レ東亘レ西〉。其橋西辺有二大巌一、縦横共六尺許也。其左右無二人之可レ通之路一、仍不レ知二其奥一、云々。如二伝聞一者、自二石橋一六町入レ

奥、天有二銀橋一、云々。奥有二金橋一、云々。其奥正身証果之羅漢五百十八人見住、人致二信心一備二供具一、祈念之時、顕二現石橋西頭一。奉レ

礼二彼正身一之人、万千万人之中、一人猶難、云々。

とあり、その具体的な経緯が書き残されている。これによれば、天台山の石橋は破戒罪業の輩は渡ることができない霊跡とさ

れ、中国の人でも一〇人中で八人ないし九人は途中であきらめてしまうとされる。重源はこのとき実際に石橋を渡り切ること

ができ、石橋が幅(広さ)が四寸(一二センチ)であり、長さが三丈(九メートル)から四丈(一二メートル)であったことを述

べており、五百羅漢の応現に預かる霊地であることを強調している。このように栄西と重源が天台山を拝登した第一の目的は、

天台石橋に到って羅漢に茶を献じて霊験に預ることにあったといってよく、天台石橋の奇瑞はやがて遠く日本の地にも知れわ

たっていくのである。

 

ちなみに『興禅護国論』巻中「第五宗派血脈門」には、後に南宋の紹煕二年(日本の建久二年、一一九一)七月に第二次の入

宋求法から帰国する栄西に対して黄龍派の虚庵懐敞が付与した文書の内容が記されている。その文中の一節に第一次の入宋で

栄西が天台山を訪れたときのことに触れ、

乾道戊子歳、遊二天台一、見二山川国土勝妙道場清浄殊特一、生二大歓喜一、嘗施二浄財一、供二十方学般若菩薩一。已至二石橋一、拈レ香煎レ茶、敬二

礼住世五百大阿羅漢一。

という記載を書き記している。この内容は興味深いものであることから、書き下してみるならば、およそつぎのごとくなろう。

乾道戊子の歳、天台に遊び、山川国土の勝妙なると道場の清浄殊特なるを見て、大歓喜を生じ、嘗て浄財を施し、十方の学般若の菩薩

に供す。已にして石橋に至り、香を拈じて茶を煎じ、住世の五百大阿羅漢を敬礼す。

 

重源とともに天台山に到った際、栄西は天台山が醸し出す山水の風光や風土のすばらしさに圧倒され、また修行道場の清浄

にしてすぐれているさまを目の当たりにし、大いに法悦に浸ったものらしい。しかもこのとき栄西は持参した浄財を喜捨して

学仏道の修行僧たちのために供養の斎を設けたと述べられている。ここにいう道場というのが具体的に天台山中の何れの寺院

を指しているのかは明記されていないが、状況的には隋代古刹として名高い国清寺、すなわち当時の景徳国清禅寺などであっ

たと解するのが自然であろう。あるいは栄西は重源とともに国清寺に限らず天台山中の他の寺々をも経巡り、各寺で同様の喜

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

九七

捨ないし財施をなしたものであろうか。

 

この喜捨をなした記事につづいて、栄西が山中の石橋に到って香を拈じて茶を煎じ、五百羅漢を敬礼したことが記されてい

る。このように虚庵懐敞が書き記した表現の方がより真実に近いものと見られ、そこにはいまだ羅漢応現などの奇瑞までは述

べられていない。いずれにせよ、天台山に滞在していた日々は栄西と重源にとってきわめて意義深い体験に満ちていたことが

窺われる。しかもこのときすでに栄西は天台山の寺々との結びつきも強めていたものと見られ、それが後に第二次の入宋でや

がて天台山を再び訪れる伏線となっていたと解してよいであろう。

阿育王山の仏舎利塔修復への加担

 

さらに興味深いのは両者が帰国に際して再び明州の阿育王山を訪れていることであろう。『栄西入唐縁起』には天台山を拝

登した記事につづいて「臨二于帰朝之時一、源和尚同詣二育王山一、請二舎利殿修造之事一」と記されている。天台山を下った栄西

と重源は明州に舞い戻って、再び阿育王山へと足を運んでいる。『元亨釈書』の栄西章には「又返二明州一、詣二阿育王山一、見二

舎利放一レ

光」と伝え、『黄龍十世録』の栄西章でも「又返二明州一、詣二阿育王山一、見二舎利放一レ

光」と全く同文で載せており、

「明菴西公禅師塔銘」によれば「又詣二阿育王山一、覩二設利放一レ

光」と記されている。また『浄土寺開祖伝』では「又返二明州一、

見二鄮嶺舎利瑞光一」とあり、重源も明州に帰って鄮嶺すなわち阿育王山の仏舎利を見たことになっている。鄮嶺とは鄮山な

いし鄮峰のことであり、『明州阿育王山志』巻一「地輿融結」の「別論鄮山」に「一支於二東北一過レ峡起二高頂一為二鄮峰一、即

舎利湧出之所、今上塔是也」とあるから、阿育王山の東北の上塔の地を鄮山と称しており、この地が往古に仏舎利が湧き出た

場所とされている。ただし、『浄土寺開祖伝』にいう「鄮嶺の舎利」とは、単に阿育王山広利寺の仏舎利塔の意で用いている

ものと見てよいであろう。

 

これら栄西・重源の阿育王山での記事の中でとくに注目を引くのは『栄西入唐縁起』に「帰朝の時に臨みて、源和尚と同じ

く育王山に詣り、舎利殿修造の事を請う」と記されている点であろう。この記述によれば、栄西は帰国に際して重源とともに

再び阿育王山に到り、阿育王山の当局に対して寺内の舎利殿を修造する大事業を願い出たことになろう。おそらく両者はこの

舍利殿の修造に参画したい意向を伝えるべく、再び阿育王山を訪れたものと見られ、実際に住持の妙智従廓と相見して舎利殿

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

九八

の修造のためのかなり具体的な交渉をなしたのではないかと推測される。おそらく両者は帰国した後には日本の為政者を動か

して阿育王山に資財を投ずることを約束した上で、阿育王山を後にして帰国の途に着いたものと見られる。

 

栄西や重源は阿育王山において厳粛な威儀によって進退する禅宗修行僧たちの姿を目の当たりにしていたはずであり、当然、

在宋中に禅宗に対する具体的な知識も持ち合わせていったことであろう。栄西や重源がこのとき阿育王山の従廓のもとを訪れ

て仏舍利を拝したことがやがて後白河上皇や平清盛による日本から阿育王山への良材の運搬や、平重盛をして阿育王山に黄金

を奉納させる遠縁となっているのであろう。

 

いずれにせよ、栄西にとって第一の入宋は期間的にも短期に限られ、訪れた地も東浙の沿岸部に限られており、思うような

成果も得られないまま帰国の途に着いているわけであり、消化不良のごとき思いがあったに違いない。

日本への帰国と将来物

 

栄西が在宋していた期間はきわめて短期に限られており、『興禅護国論』巻中「第五宗派血脈門」には「于レ時宋乾道四年

戊子歳也。即及レ秋帰朝」と記されている。また『栄西入唐縁起』にて「即其年上二同舩一帰朝。彼上人其時四十八、予廿八」

と書き残している。まもなく栄西と重源は明州の津より南宋の乾道四年九月に同じ船で帰国の途に着いている。その間、栄西

が南宋の地に留まっていたのはわずかに半年であり、重源といえど一年あまりに過ぎなかったのである。

 

ところで、『元亨釈書』栄西章によれば、栄西の帰国に関して「而西縻二于損友一、其秋早帰」という興味深い記事が残され

ている。これによれば、栄西は損友すなわち交わって損になる悪友に繋がれて滞在することわずか半年にして、乾道四年秋九

月に明州より重源とともに帰国の途に着いたというのである。ここにいう損友というのが重源のことを指しているのか、ほか

に同行の者があってその人物を損友と称しているのかは、この文章からでは明確でない。少なくとも栄西としてはいま暫く南

宋の地に留まっていたかったものらしいが、損友との関わりからやむなく帰国を早めたことになろう。仮に損友が重源その人

のことを指していると解すれば、なお南宋の地に留まりたい栄西に対し、重源がともに日本に帰国したい旨を執拗に栄西に告

げ、栄西としては悩んだあげくにやむなく重源の申し出を受け入れて帰国の途に着いたということになろうか。

 

第一次の入宋に際して栄西にはすでに南宋の禅宗に対してそれなりの関心が存したこと、明州府城の広慧禅寺や阿育王山広

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

九九

利禅寺それに天台山の景徳国清禅寺など在宋中に栄西が実際に訪れた寺院の多くが禅寺として機能していたこと、広慧寺の知

客や阿育王山の妙智従廓など道交を結んだ僧侶の多くが禅僧であった点などを考慮すれば、栄西をしていま暫く南宋禅林に留

めしむることができたなら、あるいは栄西が阿育王山に逗留して住持の妙智従廓のもとで親しく参禅し、従廓の法を嗣ぐなど

して帰国することすら可能であったかも知れない。そうした栄西の無念の思いが後世に何らかのかたちで伝承反映され、虎関

師錬が「損友に縻かれて」という微妙な表現で書き記したものではなかろうか。

 

一方、『元亨釈書』栄西章には、先の記載とは別に栄西が第一次の入宋を終えて帰国したときの記事として「秋九月、共レ

源理二帰檝一」という一連の流れが記されており、この点は同じく『黄龍十世録』の栄西章でも「秋九月、理二帰檝一」とある。

また「明菴西公禅師塔銘」では簡略に「九月、共レ源帰国」と「時年三(二)十八、廼宋孝宗乾道四年也」としか記されていない。

とくに『元亨釈書』栄西章に「秋九月、源と共に帰檝を理む」とあり、「明菴西公禅師塔銘」に「九月、源と共に帰国す」と

あるから、帰国に際しても栄西は重源と同じ商船で日本に向ったことが知られる。この点は『元亨釈書』重源章でも「三年秋、

偕二明菴一帰」とあり、『浄土寺開祖伝』でも「三年秋九月、共二西公一帰二本邦一」と記されているから、重源側の史料でも仁

安三年秋九月に栄西とともに帰国したことは疑いないであろう。

 

このように栄西が念願であった南宋の地に滞在していたのは僅か半年間でしかなかったのであり、満足し得る状況にないま

ま帰国の途に着いているのは如何にも解せないものがあろう。ようやく南宋の風土や仏教に慣れ、更なる研鑽に邁進するつも

りであった栄西は、明州や台州など浙江の沿岸の地を巡っただけで、無念にも日本に舞い戻っているわけである。永年にわ

たって栄西が入宋にかけてきた情熱なり覚悟の程を踏まえるならば、わずか半年間の見聞のみで早々に日本に帰るつもりなど

毛頭なかったに違いない。おそらくこの第一次の帰国の時点から栄西はいずれ再び南宋の地を訪れることを独り心に誓ってい

たものと推察される。

 

いま一つ興味深いのは栄西が帰国に際して日本に将来したとされる典籍や文物のことである。『元亨釈書』の栄西章には、

先の記載とは別に栄西が第一次の入宋を終えて帰国した記事につづいて、

以二所レ得天台新章疏三十余部六十巻一、呈二座主明雲一。明雲見レ疏加嘆。西又以二宋地台宗酬酢之言及彼地名徳書文一与レ雲。雲曰、汝於二

支那一揄二揚台教一、亦我国之法華也。

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

一〇〇

という一連の流れが記されている。この点は同じく『黄龍十世録』の栄西章でも後半の記事を欠くものの、

以二所レ得天台新章疏三十餘部六十巻一、奉二呈睿山座主明雲一。雲見レ疏加嘆。

とまとめられている。また「明菴西公禅師塔銘」では簡略に「以二天台章疏六十餘巻一、呈二睿山法主明雲一」としか記されてい

ない。とくに『元亨釈書』の栄西の章によれば、

得る所の天台新章疏三十余部六十巻を以て座主の明雲に呈す。明雲、疏を見て加嘆す。西又た宋地の台宗酬酢の言、及び彼の地の名徳

の書文を以て雲に与う。雲曰く、「汝は支那に於いて台教を揄揚す、亦た我が国の法華なり」と。

と記されており、栄西は重源とともに帰国する際に、南宋の地で入手した「天台新章疏三十餘部六十巻」と「宋地台宗酬酢之

言」および「彼地名徳書文」を日本に持ち帰っており、これを比叡山の天台座主であった明雲(慈雲房、円融房座主、一一一五

─一一八三)に呈している)(((

。この点は「明菴西公禅師塔銘」においても「天台章疏六十餘巻を以て、睿山法主の明雲に呈す」

と記されており、将来物が「天台章疏六十餘巻」のみと簡略化されてはいるが、栄西が明雲に「天台章疏」を呈したことが述

べられている。

 

最初にある「天台新章疏三十余部六十巻」とは、南宋の天台宗(趙宋天台)でなされた新たな註釈書の類いであろうが、具

体的に「天台新章疏」というのが如何なる天台典籍を指しているのかは定かでない。宋代には杭州・明州・台州など浙江の地

では天台宗も盛んであって、四明知礼(約言、法智大師、九六〇─一〇二八)や孤山智円(無外、中庸子、九七六─一〇二二)など

が活躍しているから、栄西が将来した天台の新章疏とは、北宋から南宋初期に活躍した趙宋天台の教僧たちが撰述した新たな

註釈書の類いを指すのであろう。しかも典籍は三〇余部、巻数は六〇巻に及んだとされるから、栄西は限られた滞在の中で、

刊本(宋版)や写本の天台典籍の註釈書を意欲的に入手することに努めたものと見てよいであろう。おそらく栄西は帰国が早

まった中で天台関係の典籍とくに宋朝の天台僧によってまとめられた註釈書の類いを求めて買いあさり、これを日本への将来

物として持ち帰り、帰国してまもなく比叡山に上って座主の明雲に呈して接近を図ったものと見られる。あるいは入宋に際し

て比叡山側からの財政的な支援を取り付けていて、それに対する返礼の意も含んでいたのかも知れない。

 

つぎに記される「宋地台宗酬酢之言」とは、栄西が南宋の地の天台僧と交わした問答の記録と見られるから、これも「天台

新章疏」とともに天台宗関係の史料ということになろう。酬酢とは主人が客に酒を奨めることと客が主人に酒杯を返すことで

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

一〇一

あり、応対報答する意であるから、栄西は在宋中に天台宗の教院を訪れた際に、南宋の天台僧と親しく交遊し、天台教義など

について問答をなし、その内容を筆録して帰国したものと見られる。

 

一方、最後に挙げられる「彼地名徳書文」とは南宋の名徳高僧が記した書文のことであり、おそらく天台宗の教僧の作のみ

でなく、栄西が在宋中に訪れた禅寺の禅僧が揮毫した墨蹟なども含まれていたものと見られる。おそらく栄西は在宋中に交流

を持った天台僧や禅僧などから紙面に法語や偈頌などを揮毫してもらい、それらを南宋からの土産として持ち帰ったものであ

ろう。彼の地の名徳の文とは栄西が在宋中に訪れた寺々の住持らの墨蹟と見られ、阿育王山広利寺の妙智従廓やこのとき禅寺

となっていた天台山国清寺の住持などが揮毫した書の類いのことであろう。あるいは明州府城の寺々の住持の墨蹟や、栄西が

入宋当初に感化を受けた明州広慧寺の知客が揮毫した墨蹟なども含まれていたかも知れない。とりわけ、栄西は第一次の入宋

で重源とともに二度にわたって阿育王山を訪れているのであるから、住持の妙智従廓に対して墨蹟を依頼することは当然あり

得たはずである。

 

いずれにせよ、栄西は帰国した直後に比叡山の明雲と積極的に関わりを持とうとしたことが知られる。栄西が入宋に際して

比叡山から何らかの支援を得ていたのか否かは明確ではないが、帰国した時点で栄西は九州から上洛し、さらに比叡山に到っ

ているわけであり、宋朝の天台宗文献や当代南宋の教僧・禅僧らの墨蹟などを土産物として比叡山に奉納したことになろう。

妙智従廓の墨蹟と後白河上皇の出家

 

ところで、公家の三条実房(転法輪三条、三条入道、法名は静空、一一四七─一二二五)の日記である『愚昧記』の「仁安三年十

二月十三日」の箇所に、

又左大丞語二入唐上人事一。此間夜更転闌、漏刻頻移。

という「入唐上人」に関する簡略な記事が載せられている。このとき左大丞にあったのは源雅頼(猪隈中納言、一一二七─一一九

〇)であり、栄西と重源が帰国して数ヶ月を経た一二月一三日の夜に「入唐上人」のことが話題になっており、源雅頼は「入

唐上人」のことをかなり熱弁を込めて語ったものらしい)(((

。ここにいう入唐上人が重源のことを指しているのか、栄西のことを

指しているのか、あるいは両者を含めた表現であったのかは明確でないが、仁安三年冬一二月の時点で「入唐上人」と称され

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

一〇二

る人物といえば、栄西と重源のほかに該当者は存しないであろう。おそらく栄西と重源が南宋から文物を携えて帰国したこと

は、朝廷においても注目すべき話題として論議される性格のものであったといえよう。

 

一方、楼鑰の『攻媿集』巻一一〇「塔銘」の「育王山妙智禅師塔銘」には、

日本国王、閲二師偈語一自言、有レ所二発明一。至三遜レ国以従二釈氏一、歳修二弟子礼一。辞幣甚恭、且以二良材一建二舎利殿一。器用精妙、莊厳無レ比。

というきわめて興味深い記事が伝えられている。ここにいう「日本国王」とは後白河上皇のことにほかならず、後白河上皇が

妙智従廓の偈語を閲覧して自ら発明するところが存したとされ、国を譲って仏門に帰して海を隔てて従廓に対して弟子の礼を

取ったという内容であり、いわば後白河法皇の出家が従廓の法語に啓発されてなされたとするわけである。従廓の偈語とはお

そらく栄西か重源によって日本に持ち込まれた従廓揮毫の墨蹟法語の類いを指すものと見られ、それがやがて宮中にも齎され

て後白河上皇の目に止まり、出家剃髪の要因の一つとなったものらしい)(((

。少なくともそうした情報が後に海を隔てて阿育王山

にも齎され、やがて楼鑰によって「育王山妙智禅師塔銘」に特筆すべき情報として記されている。『玉葉』によれば、後白河

上皇は嘉応元年(仁安四年、一一六九)六月一七日に出家して法皇となっている)(((

が、これは栄西と重源が帰国したまさにその翌

年に当たっている。後白河上皇の出家に際しては近江(滋賀県)の長等山園城寺の長吏であった覚忠(宇治僧正、長谷前大僧正、

一一一八─一一七七)が戒師(受業師)を勤めているが、覚忠といえば後に入宋帰国した比叡山の覚阿を介して杭州銭塘県の北

山景徳霊隠禅寺に文物を送り、楊岐派の瞎堂慧遠(仏海禅師、一一〇三─一一七六)と交流を持ったことで知られる。

 

阿育王山の従廓が書した偈語とは、栄西や重源の求めに応じて従廓が揮毫した直筆の法語・偈頌の類いであり、それが両者

によって直接に日本国内に将来されたものと見てよい。仁安三年九月に栄西と重源は帰国し、その年の内にはおそらく両者は

京都に入ったものと見られ、先のごとく朝廷でも話題に上ったものであろう。やがて嘉応元年(仁安四年)の春頃には従廓の

墨蹟が朝廷に持ち込まれて後白河上皇のもとに齎され、何らかのかたちで後白河上皇の心を動かして出家に導く要因の一つと

なったと見られるだけに、従廓が揮毫した偈語の内容が定かでないものの、その背景にはきわめて興味深いものがあろう)(((

 

栄西とともに帰国した重源は、その後も二度にわたって入宋しており、世に「入唐三度聖人」と称せられている。重源が二

度目の入宋と三度目の入宋を果していつ決行したのかはこれまで明確ではなかったが、おそらくそのいずれも阿育王山広利寺

の舎利殿修造に関わる渡航であったと推測しておきたい。二度目の入宋は後白河上皇の命により周防(山口県)の良材を重源

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

一〇三

が海を越えて明州鄞県の阿育王山広利寺に届けたときのことであろうと見られ、おそらくこのとき重源は阿育王山の舎利殿修

造の竣工式を目の当たりにして帰国したのではなかろうか。つぎに三度目になした入宋とは、阿育王山の舎利殿が落慶する際

に祝賀の式典に参列するのが目的であったのではないかと推測され、やはり後白河上皇の名代としてこれを目の当たりにして

帰国したことであろう。その間、阿育王山では妙智従廓が長年にわたって住持を勤めていたのであり、日本側の支援に対して

格段の便宜を図ったものらしく、山内の一角に重源の肖像画や木像を造らせて飾ったとされる)(((

 

帰国した栄西は一旦は比叡山に上山したが、その後は北九州に戻って独自の活動を展開している。帰国して後、栄西は再び

台密の密教僧としての立場で行動しているが、栄西が九州を中心に活動していた背景として、阿育王山への良材運搬に加担し

て重源を助け、同じように尽力していたものではないかと推測される。

おわりに

 

第一次の入宋はわずか半年間の滞在にすぎず、栄西としては悔いの残る結果となってしまっている。第一次の入宋において

も栄西には禅宗を学んで天台・密教に禅を加えた三宗を日本仏教の鼎としたい発想が存したのであり、そのことを果たせぬま

まに終わったことになろう。ただ、栄西が比叡山の明雲に呈した文物は南宋仏教界の趨勢を日本に知らしめる上で大きな収穫

であったと見られる。おそらく栄西としては早い時期に第二次の入宋を決行して宋朝の禅宗に触れたい気持ちが強かったはず

である。

 

とりわけ注目すべきは栄西が日本に舞い戻ってまもなく、比叡山の覚阿が禅宗を求めて入宋渡航を決行している。覚阿の伝

記によれば、海商が比叡山に到って南宋の禅宗のことを告げたため、覚阿は日本の承安元年(嘉応三年、南宋の乾道七年、一一

七一)に禅宗を求めて門人の金慶とともに入宋したことになっている。覚阿が入宋したのはまさに比叡山を開いた最澄が弘仁

一三年(八二二)に示寂して三五〇回遠忌の年に当たっており、覚阿もまたおそらく最澄の立場を踏まえて天台・密教に禅を

加えんとする発想を持っていたものと見られる。

 

栄西の第一次の入宋は、結果的に南宋仏教の現状を視察しただけに止まっており、中途半端な段階に終わった感があろう。

禅を日本仏教の中に再び取り入れようとする発想も果たせずに帰国したのであり、その面では栄西は帰国直後から第二次の入

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

一〇四

宋を念頭に入れていたのではなかろうか。ところが、そうした栄西の思いを横から先取りするかたちで比叡山の覚阿が入宋渡

航を果たしたわけであり、それはまさに栄西が天台典籍を将来して比叡山の明雲に呈してわずか三年後のできごとにほかなら

ない。おそらくこの海商は時期的に栄西に伴って比叡山に到った人物ではないかと見られ、その情報をもとに覚阿は入宋を断

行しているのであろう。あるいは海商とあるが、実際には海商を伴って比叡山に舞い戻った栄西の言動に揺り動かされて覚阿

は入宋を決意したものとも推測される。

 

覚阿は杭州銭塘県の北山景徳霊隠禅寺に到って楊岐派の瞎堂慧遠(仏海禅師、一一〇三─一一七六)のもとで参禅学道し、乾

道九年(日本の承安三年、一一七三)に慧遠の法を嗣いで帰国している。覚阿は比叡山に舞い戻って一時は活発に宋朝禅を広め

んとしたものらしいが、やがて受け入れられずに挫折して消息を絶っている。栄西は遠く九州の地からそんな覚阿の一部始終

を眺め見ていたのではなかろうか。覚阿による禅宗導入の失敗を繰り返したくないという気持ちから、その後、栄西は周到な

計画を立て、永い歳月を経て第二次の入宋を決行することになったといえよう。

註(1)

覚阿の活動に関しては拙稿「覚阿の入宋求法と帰国後の動向

(上)(中)─宋朝禅初伝者としての栄光と挫折を踏まえて─」

(『駒澤大学仏教学部論集』第四〇号・第四一号)を参照。

(2)

榎本渉「『栄西入唐縁起』から見た博多」(五味文彦編『中世都

市計画』第一一巻に所収)では、『栄西入唐縁起』の史料的価値

を強調している。

(3)

臨安府都税務の虞樗が撰述して明全の門人として道元が日本に

将来した「日本国千光法師祠堂記」は、『続群書類従』第九輯上、

『禅林僧伝』一、『禅林諸祖伝』九などに収録されている。一山派

の天隠龍沢(栗里、黙雲、一四二二─一五〇〇)の『翠竹真如

集』一「東山建仁入寺」の「開山諱拈香」(五山新集五・七二一)

には、仏樹房明全と「日本国千光法師祠堂記」について、

  

竊按、臨安府虞樗先生千光祖師祠堂記曰、祖師滅后十年、其

徒明全、復來二天童一、捐二楮券千緡一、設二七月五日忌齋一也。

其后三年、示二寂於了然斎一、闍維得二舎利無数一。付二道元一蔵

帰二故国一云。蓋虞樗記祖御祠堂之次、事渉二明全一、歴々可レ

辨也。所謂道元者、日本永平寺道元乎。始見二千光一、後参二

天童如浄老一。其時則与二明全一同時也。明全何人乎。吾祖弟

子伝逸二其名一、為可レ惜矣。雖然、不レ蓄二一粒米一、而飽二大唐

国裏之僧一、不レ変二四大身一、而雨二八斛四斗之珠一。其人可レ知

也。

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

一〇五

と記しており、龍沢は臨安府都税務の虞樗が撰した「日本国千光

法師祠堂記」(ただし、『翠竹真如集』では単に「千光祖師祠堂

記」と記す)を閲覧しているものの、明全の事跡が何ら明らかで

ない点を指摘している。道元については「所謂る道元とは、日本

永平寺の道元か。始め千光に見え、後に天童の如浄老に参ず」と

記し、永平寺の道元であろうと推測し、初め栄西(千光)に見え

て後、入宋して天童山の如浄に参じたと解している。一方、明全

については栄西の弟子の中にその伝記がないことを惜しみ、「日

本国千光法師祠堂記」を通して知り得る明全の人となりに対し、

龍沢は感歎と崇敬の意を表わしている。当時、すでに建仁寺にお

いては明全に関する記事が何も存しなかったものらしく、永平寺

ないし曹洞宗側からの情報もいまだ齎されていなかったことが窺

われる。

(4)「洛陽東山建仁禅寺開山始祖明菴西公禅師塔銘」は『名僧行録』

二上、『禅林僧伝』一、『禅林諸祖伝』九、『禅林諸祖行状』四、

『続群書類従』第九輯上などに収められており、『禅林僧伝』『禅

林諸祖伝』『禅林諸祖行状』では表題が「洛陽」であるが、『名僧

行録』『続群書類従』では「洛城」となっている。

(5)

堅中圭密は遠江(静岡県)横須賀の金剛山安国貞永寺の住持で

あった仏光派の璣叟圭璇に法を嗣いでおり、その系譜は無学祖元

─高峰顕日─玉峰妙圭─南溟殊鵬─璣叟圭璇─堅中圭密と嗣承し

ている。入明三度に及び、最初の入明の際に如蘭が撰した「洛陽

東山建仁禅寺開山始祖明菴西公禅師塔銘」を得ている。勘合貿易

に貢献した功労で圭密は天龍寺第三六世や南禅寺第七五世に住持

しているが、示寂年時は定かでない。詳しくは玉村竹二『五山禅

僧伝記集成』の「堅中圭密」の項を参照。

(6)『中国仏寺誌叢刊』第六七冊に所収される『杭州上天竺講寺誌』

巻三「尊宿住持品」には、

  

五十代、止堂大山法師、洪武十九年。

  

五十一代、古春蘭法師、洪武三十二年。

  

五十二代、宗源梵法師、洪武三十五年。

と記されていることから、古春如蘭は止堂大山(?─一四〇二)

の後席を継いで洪武三二年(実際は建文元年、一三九九)から洪

武三五年(建文四年、一四〇二)まで上天竺寺の住持を勤めてい

たことが知られる。永楽二年(一四〇四)に「洛陽東山建仁禅寺

開山始祖明菴西公禅師塔銘」を撰した時点では、如蘭は上天竺寺

の住持を退いて間もない前住位に当たっており、「明菴西公禅師

塔銘」に「前住」とあるのと合致している。同じく『杭州上天竺

講寺誌』巻四「列伝」にも、

  

古春法師、名如蘭。富春人。淹通二経論一、餘及二詩文一。所レ著

名二支離叟集一。忠粛愍公彌月時、師赴二湯餅会一、摩二其頂一曰、

此児他日救二時宰相一也。後果騐。

とあり、古春如蘭が富春県(浙江省)の人で支離叟と号したもの

らしく、広く経論に通じ、詩文も善くしたことを伝えており、

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

一〇六

『支離叟集』という詩文集の類いが存したことが知られる。『上天

竺山志』巻四「列伝」の「一庵如法師」の項にも「蘭古春贈レ詩

云」として如蘭が一庵一如に贈った詩文を載せている。

(7)

龍山徳見が編集した『黄龍十世録』は、玉村竹二編『五山文学

新集』第三巻(思文閣出版刊)に所収されて一般に知られる。

(8)

徳見は下総(千葉県)香取の人で、俗姓は千葉氏とされる。鎌

倉寿福寺で黄龍派の寂庵上昭に参学してその法を嗣いでいる。二

二歳のときに入元し、東巌浄日・竺西妙坦・東州寿永・古林清茂

などのもとに歴参し、さらに江西に入って撫州疎山・袁州仰山・

洪州黄龍山などに赴き、江州廬山に到って東林寺の蔵主を勤めて

いる。その後、洪州の雲巌寺や兜率寺に住持し、在元すること実

に四五年の久しきに及んでいる。観応元年(一三五〇)に帰国し

て後、京都の建仁寺・南禅寺・天龍寺に住持している。帰国して

後の活動は一〇年にも満たず、延文三年(一三五八)一一月一三

日に世寿七五歳で示寂している。大慧派の中巌円月(中正子、一

三〇〇─一三七五)が撰した伝記史料として「真源大照禅師龍山

和尚行状」が存している。

(9)『霊松一枝』は江戸期に建仁寺第三三五世の高峰東晙によって

まとめられた栄西関係の史料集であり、上巻に「千光祖師行状」

が収められている。本稿では建仁寺両足院本を大正三年(一九一

四)五月に謄写した東京大学史料編纂所本を使用した。

((0)『本朝高僧伝』巻三「京兆東山建仁寺沙門栄西伝」には、栄西

に関する伝記の参考史料として、

  

日本国千光法師祠堂記・吾妻鏡第二十二・沙石集第十・元亨

釈書第二、洛城東山建仁禅寺開山始祖明庵西公禅師塔銘・延

宝伝燈録第一。

を挙げており、『吾妻鏡』巻二二と『沙石集』巻一〇を加えた諸

史料に基づいていることが知られる。ただし、栄西の在宋中の動

静については『吾妻鏡』や『沙石集』をそれほど参考にする必要

はなかろう。

((()

この点、『本朝高僧伝』の栄西伝では、一九歳より栄西が天台

や密教を学ぶ傍らの記事として「細閲大蔵、掩関八載、常聴支那

禅法之盛、寄思南詢」とあり、比叡山において大蔵経を細かに閲

覧すること八年、常に中国で禅法が盛んであることを知って南詢

求法に思いを馳せていたと伝えており、早くから栄西が南宋の禅

宗に興味を寄せていたと解している。

((()

李徳昭について両朝通事とあるが、両朝とは宋朝(南宋)と日

本との両国のことである。通事とは両国の交際や往来のことを意

味するが、とくに通弁・通訳官の類いを指している。おそらく李

徳昭は博多を拠点としながら、南宋から到った役人や商人のため

に通訳を業いとしていた人物であろう。

((()明州鄞県の棲心寺とは、鄞県東五里に存した棲心崇寿寺すなわ

ち後世の七塔寺のことである。この寺は古く東津禅院と称し、唐

の大中一二年(八五八)に分寧令の任景求が宅を喜捨して伽藍を

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

一〇七

建て、棲心蔵奐(心鏡大師、七九〇─八六六)を開山祖師に拝請

している。寺内には現今も「唐敕賜心鏡禅師真身舎利塔」という

心鏡大師蔵奐の舍利塔が残されている。ちなみに蔵奐は馬祖道一

─五洩霊黙─棲心蔵奐と次第し、馬祖道一の法孫に当たってい

る。棲心寺は北宋の大中祥符元年(一〇〇八)に崇寿寺の勅額を

賜わったが、一時期、北宋末期に神霄玉清万寿宮に充てられた。

まもなく寺院に復しており、後世は七塔寺と称せられている。寺

志として『七塔寺志』八巻が存する。

((()

明州すなわち現今の寧波については、奈良国立博物館編『聖地

寧波【ニンポー】日本仏教1300年の源流〜すべてはここから

やって来た〜』(平成二一年七月刊)の図録が存し、また汲古書

院編『東アジア海域叢書〈特定領域研究─「寧波プロジェクト」

叢書〉』全二〇巻が逐次刊行されている。

((()

室町中期に夢窓派の瑞谿周鳳(臥雲山人、興宗明教禅師、一三

九二─一四七三)が撰した『善隣国宝記』巻上にも、

  

六条院仁安三年四月、釈栄西、乗商人舶入宋国。着明州界、

乃孝宗乾道四年也。

とあり、栄西が日本の仁安三年(南宋の乾道四年)四月に商人の

船に便乗して宋国に入り、明州の界に到着したと伝えている。

((()

唯雅の記事は『大日本史料』4─4の「建久三年五月二日」の

箇所に『随願寺文書』の「播磨国増井寺集記」からの引用として

載せられている。唯雅は三会の講師を勤めており、また著書とし

て『法華密義抄』二〇巻を撰述したとされる。

((()

古田紹欽『〈日本の禅語録〉栄西』では「広慧寺」について

「清涼山広慧寿聖禅寺、法眼文益を開山とする」と注記している

が、禅宗五家の一つ法眼宗祖の法眼文益(浄慧禅師、大法眼禅

師、八八五─九五八)を開山始祖としているのは建康府(南京)

に存した石頭山清凉広慧禅寺であって、ここにいう明州府城の清

凉広慧禅寺のことではない。ちなみに南京の清凉広慧寺は道元の

本師である長翁如浄(浄長、一一六二─一二二七)が嘉定三年

(一二一〇)一〇月に開堂出世した禅寺として知られる。

((()

明州府城の広慧寺(万寿寺)に住持した禅者については、拙稿

「明州における禅寺と禅僧─宋元を中心として─」(『宗学研究』

第二五号)および拙稿「雪竇山の聞庵嗣宗について」(『曹洞宗研

究員研究生研究紀要』第一五号)に付録した「明州の禅刹に住し

た禅僧」の系図と索引を参照されたい。いま、この成果に基づい

て明州府城東北隅の広慧寺(万寿寺)に住持した禅者を挙げてみ

るならば、北宋代には法眼宗に広慧志全がおり、雲門宗に広慧清

順・天童澹交・広慧用舒・広慧利和・広慧了澄・広慧道亨・広慧

宗賢がおり、南宋代では曹洞宗に広慧法聡・足庵智鑑がおり、臨

済宗黄龍派に慈航了朴・雪林僧彦がおり、臨済宗大慧派に大円遵

璞などがいる。その後も南宋後期には臨済宗虎丘派の無準師範や

大慧派の偃渓広聞などが住持している。ちなみに栄西が広慧寺に

赴く以前にすでに大円遵璞や慈航了朴が住持しており、また『攻

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

一〇八

媿集』巻一一〇「雪竇足菴禅師塔銘」によれば、乾道八年(一一

七二)に曹洞宗真歇派の足庵智鑑が広慧寺に住持しているから、

栄西が到った乾道四年の当時、広慧寺の住持を勤めていたのは時

期的に曹洞宗の宏智正覚の高弟である広慧法聡あたりではなかっ

たかと推測される。また広慧寺は南宋後期以降は万寿禅院ないし

万寿禅寺と称されているが、元代には松源派の庸叟時中や華国子

文(慈覚円通禅師、一二六九─一三五一)が住持し、明初にも大

慧派の天淵清濬(随庵、一三二八─一三九二)が住持している。

((()

宏智門下の広慧法聡については、拙稿「宏智正覚の嗣法門人に

ついて」(『駒澤大学仏教学部研究紀要』第六三号)の「広慧法

聡」の項を参照されたい。栄西が明州広慧寺に到ったのは、宏智

正覚が天童山で紹興二七年(一一五七)一〇月に世寿六七歳で示

寂してよりわずか一〇年余のことであり、法聡が広慧寺に住持し

ていた時期に相当する可能性が高い。

((0)

京都栂尾の高山寺に所蔵される保延一一年(実際は久安元年、

一一四五)に伝授された「達磨和尚秘密偈」という古文書に、

  

達磨和尚秘密偈云、纔覚三玉池無二滴瀝一、次於二波底一取二神光一、

無常須聴二髏頭鼓、得レ数方知二幾日亡。

  

雲州修行者善慶語云、以二先年比一、大宋国船頭、雖レ在レ俗

也、即称二法号一、名曰二範勝一、通二達磨宗一、道心堅固。即渡二

鎮西一、欲レ伝二此偈一、依レ無二其機一、空経二三箇年一。於レ是鎮西

陽尋聖人、而問二其要一。仍範勝適得レ機、伝二陽尋一。陽尋伝二

門人陽円一、陽円伝二叡山源範一、源範伝二求法僧善慶一、善慶伝二

良深一、良深伝二澄仁一、澄仁伝二有西一、有西伝二勝尊一、勝尊伝二

基舜一、□□□□□矣。深収二函底一、勿レ伝二他門一。〈別在二相

承印信一、云々〉。口伝云、先検二十二月朔日子時一、読二阿弥陀

経一、念仏百返。而文聴頭鼓者、検明年大小月日数畢、展二二

手一掩二二耳一、以二左右指峰一、互打二頂上一、其声似レ鼓。数レ日

打レ之、以レ無レ音日知二定期一、三度為レ限。又玉池無滴者、不

慮得レ病、唾溢二口中一、塗二指端一見レ之。若無二泡沫一者、可レ

知二定期一也。又波底取レ光者、以二指峰一指二目畔一、見如レ散レ

星。若不レ然者、可レ知二定期一矣。範勝之定限無レ違、陽尋又

無レ違、云々。

  

保延十一年甲申十一月十五日、伝受了。

と記されている。範勝という船頭が宋より達磨の「秘密偈」(「知

死期偈」のこと)を書写して帰り、鎮西の陽尋に伝え、それが日

本国内に代々に秘伝されたとされる。また『渓嵐拾葉集』巻八六

「知死期法事」の項に、

 

、達磨四句偈、云云。同証道歌、云云。一山家大師御伝、云

云。従二行表和尚一伝。

 

、慈覚大師御伝、云云。従二法全和尚一伝、已上以二達磨四句

偈一為レ本也、云云。口伝別有也。

  

問、達磨伝外別有二知死期法一乎。示云、一伝云、死期近付之

時、眼光先達云也。夜陰之時、灯明与二暗所一、皆黄色見也、

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

一〇九

死期不レ幾也。暗所皆成レ黄所事者、黄泉先相也、云云。尋

云、名二黄泉一意如何。示云、命根有二中有時一者也。

とあり、達磨の四句偈(「知死期法」とも)が課題に挙げられて

いる。飯塚大展「林下曹洞宗における相伝史料研究序説(二)─

永平寺所蔵史料(下)─」(『駒澤大学仏教学部論集』第三九号)

を参照されたい。

((()

重源については、堀池春峰編『重源上人の研究』(有隣堂刊)

と小林剛編『俊乗房重源史料集成』(吉川弘文館刊)と中尾尭・

今井雅晴編『重源・叡尊・忍性』(日本名僧論集)などが存する。

((()

この記事は小林剛編『俊乗房重源史料集成』に「仁安二年(一

一六七)宋に赴き、翌三年(一一六八)栄西と共に帰朝し、浄土

五祖画像や五劫思惟阿彌陀像等を将来すという」(一七〜一八頁)

として載せられている。

((()『攻媿集』巻一一〇「塔銘」の「育王山妙智禅師塔銘」に、

  

日本国王、閲二師偈語一自言、有レ所二発明一。至三遜レ国以從二

釈氏一、歳修二弟子礼一。辭幣甚恭、且以二良材一建二舎利殿一。器

用精妙、荘厳無レ比。

という記事が載せられており、ここにいう日本国王が後白河上皇

を指すとされる。

((()

すでに随処で触れたが、九条兼実の『玉葉』巻三八「寿永二年

〈癸卯〉正月」の「廿四日」の項の重源との遣り取りの全文はつ

ぎのようなものである。

  

廿四日〈庚寅〉天晴、東大寺勧進聖人重源来。余依二相招一

也。聖人云、大仏奉二鋳成一事、偏以二唐之鋳師之意巧一可二成

就一、云々。来四月之比、可レ奉レ鋳、云々。件聖人渡唐三箇

度、彼国之風俗委所二見知一、云々。仍粗問レ之。所レ語之事、

実希異多端者歟。五臺山被打二取大金国一了、渡海之本意為レ

奉レ礼二彼山一也。仍空敷帰朝之処、天台山・阿育王山等可レ

奉レ礼之由、宋人等勧進。仍暫経廻、詣二件両所一。天台山ニ

ハ有二石橋一、破戒罪業之人無二渡得一。其橋事、本国之人十之

八九ハ不レ遂二前途一。但於二日本国之人一者多分渡レ之、令レ感下

依レ此願二渡海一之志上歟、云々。即此重源聖人所レ渡二其橋一

也。尤可レ貴可レ貴。其橋体、広四寸、長三四丈、亘二大河上一

〈河自レ南流レ北、橋自レ東亘レ西〉。其橋西辺有二大巌一、縦横共

六尺許也。其左右無二人之可レ通之路一、仍不レ知二其奥一、云々。

如伝聞者、自二石橋一六町入レ奥、天有二銀橋一、云々。奥有二金

橋一、云々。其奥正身証果之羅漢五百十八人見住。人致二信心一

備二供具一。祈念之時、顕二現石橋西頭一。奉レ礼二彼正身一之人、

万千万人之中、一人猶難、云々。又云、謂二阿育王山一者、即

彼王八万四千基塔之其一、被レ安二置彼山一。件塔四方皆削透、

云々。其上奉レ納二金塔一〈当時帝王所レ被二造進一、云々。件根

本塔、高一尺四寸、云々〉、其上銀塔、其上金銅塔、如レ此

重々被二奉納一、云々。件舎利現二種々神変一、或現二丈六被摂之

姿一、或現二小像一、或現二光明一、云々。此聖人、両度奉礼二神変一

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一一〇

〈一度ハ光明、一度ハ小像仏、云々〉。雖二末代一、此事不陵遅一、

云々。但彼国人、心ハ以二信心一為レ先、或道或俗、徒党五百

人、若ハ千人、如レ此同時始二精進一、起二猛利之浄信一、三歩一

礼ヲ成テ参詣。其路雖レ不レ遠、或三月、若半年之間、遂二其

前途一。参着之後、皆悉奉レ唱二釈迦之宝号一、一向成下奉レ礼二神

変一之思上。其中随二罪之軽重一、有二神変之現否一、云々。実是重

殊勝之事也。我朝之人、比レ彼敢無二可レ及之者一、可レ悲可レ

悲、云々。数刻之後、聖人帰了。此聖人之体、実無二餝詞一、

尤足レ可二貴敬一者也。件聖人又云、大金国欲レ伐二漢朝一之意

趣ハ、為レ取二三ケ之宝一也。所謂、其一ハ難定真本〈是秘書

也、此書之得、金銀錦繍及布絹米穀之類、凡人間之要物、書

二其字一之所、其物化現足レ用レ之、更無二尽期一。此秘蔵之説等

ヲ令二書顕一之書也。第一之宝、云々〉。其二ハ金帯〈不レ知二

其功用一、云々〉。其三ハ玉印〈即卞和玉也、云々〉。漢朝之

習、以二此三物一為レ宝、云々。

これは寿永二年(治承七年、一一八三)一月二四日の記事である

が、この時点ですでに重源は入宋すること三度に及んでおり、世

に「入唐三度聖人」と尊称されていたものらしい。そこには金の

治下にあった五臺山拝登が叶わなかったこと、その代わりに天台

山と阿育王山に赴くことになった経緯、天台山の石橋のこと、阿

育王山の舍利塔のことなどが重源の口を通して語られている。こ

の兼実の『玉葉』の記事は、重源が最初の入宋に関して自ら述べ

た貴重な体験を書き残したものであり、引いては栄西の在宋中の

事跡を知る上でも重要な示唆を与えるものにほかならない。以

下、かなり煩瑣にわたるものの、内容によって改行するかたちで

書き下し文も載せておくことにしたい。

  

廿四日〈庚寅〉天晴、東大寺勧進聖人の重源来たる。余が相

い招くに依るなり。聖人云く、「大仏、鋳成し奉る事、偏に

唐の鋳師の意巧を以て成就すべし」と云々。「来たる四月の

比、鋳し奉るべし」と云々。

  

件の聖人、渡唐三箇度、「彼の国の風俗、委しく見知る所」

と云々。仍りて粗ぼ之れを問う。語る所の事は、実に希異多

端なる者か。「五臺山は大金国に打ち取られ了わりぬ。渡海

の本意は彼の山を礼し奉らんが為めなり。仍りて空しく帰朝

せんとする処、天台山・阿育王山等、礼し奉るべきの由、宋

人等、勧進す。仍りて暫く経廻り、件の両所に詣る。天台山

には石橋有り、破戒罪業の人は渡り得ること無し。其の橋の

事、本国の人も十の八九は前途を遂げず。但し日本国の人に

於いては多分、之れを渡らん。此れに依りて渡海を願いし志

を感ぜしむるか」と云々。即ち此の重源聖人は其の橋を渡る

所なり。尤も貴ぶべし、貴ぶべし。「其の橋の体は、広さ四

寸、長さ三四丈、大河の上を亘る〈河は南より北に流れ、橋

は東より西に亘る〉。其の橋の西辺に大巌有り、縦横は共に

六尺許りなり。其の左右には人の通るべきの路無し、仍りて

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明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

一一一

其の奥を知らず」と云々。伝え聞くが如くなれば、石橋より

六町奥に入りて、「天に銀橋有り」と云々。「奥に金橋有り」

と云々。「其の奥に正身証果の羅漢五百十八人が見住す。人、

信心を致して供具を備え、祈念するの時、石橋の西頭に顕現

す。彼の正身を礼し奉るの人は、万千万人の中、一人も猶お

難し」と云々。

  

又た云く、「阿育王山と謂うは、即ち彼の王、八万四千基塔

の其の一、彼の山に安置せらる。件の塔、四方は皆な削り透

る」と云々。「其の上、金塔〈当時、帝王が造進せらるる所

と云々。件の根本塔は高さ一尺四寸と云々〉に納め奉り、其

の上の銀塔、其の上の金銅塔、此の如く重々に奉納せらる」

と云々。「件の舎利は種々の神変を現じ、或いは丈六被摂の

姿を現じ、或いは小像を現じ、或いは光明を現ず」と云々。

此の聖人、両度、神変を礼し奉る〈一度は光明、一度は小像

仏と云々〉。「末代なりと雖も、此の事、陵遅せず」と云々。

「但し彼の国の人、心は信心を以て先と為し、或いは道、或

いは俗、徒党五百人、若しくは千人、此の如く同時に精進を

始め、猛利の浄信を起こし、三歩に一礼を成して参詣す。其

の路は遠からずと雖も、或いは三月、若しくは半年の間、其

の前途を遂ぐ。参着するの後、皆な悉く釈迦の宝号を唱え奉

り、一向に神変を礼し奉るの思いを成す。其の中、罪の軽重

に随い、神変の現ずると否と有り」と云々。「実に是れ重ね

て殊勝の事なり。我が朝の人、彼に比して敢て及ぶべきの者

無し、悲しむべし、悲しむべし」と云々。

  

数刻の後、聖人、帰り了わりぬ。此の聖人の体、実に餝る詞

無し、尤も貴敬すべきに足る者なり。件の聖人、又た云く、

「大金国が漢朝を伐たんと欲るの意趣は、三个の宝を取らん

が為めなり。所謂る、其の一は難定真本〈是れ秘書なり、此

の書の得、金銀錦繍及び布絹、米穀の類、凡そ人間の要物、

其の字を書くの所、其の物、化現して之れを用うるに足り、

更に尽くる期無し。此の秘蔵の説等を書き顕わしむるの書な

り。第一の宝と云々〉。其の二は金帯〈其の功用を知らずと

云々〉。其の三は玉印〈即ち卞和の玉なりと云々〉。漢朝の習

い、此の三物を以て宝と為す」と云々。

このように重源はこまめに天台石橋や阿育王山舎利塔について

語っており、在宋中にかなり詳細な記録を書き記していたのでは

ないかと目される。

((()『嘉定赤城志』巻二九「寺観門三〈寺院〉」の「寧海〈教院〉」

には、

  

丹邱院、在二県南九十里一。宋元嘉二年、梅長者即所レ居レ庵而

建。以三其誦レ経感二丹鳳一、賜二名丹邱霊鳳山一。国朝開宝中、

改為レ院。大中祥符中、賜二今額一。

とあり、台州寧海県南九〇里の丹邱霊鳳山の教院が丹邱院と称せ

られている。また同じく巻三〇「宮観」の「臨海」には、

Page 42: 鄞県の阿育王山広利禅寺に使わし、同じく楊岐派 その法門を ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/33165/rbb043...(杭州) 都税務の官僚虞樗に依頼したものである。ただし、明全は宝慶元年

明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

一一二

  

丹邱観、在二県西北三十里一。旧名二成徳一。梁時建、隋大業中

廃。国朝政和八年、重建改二今額一。

とあり、台州臨海県西北三〇里には丹邱観が存したとされる。

((()『興禅護国論』巻下「第九大国説話門」に「又宋朝奇特、有二二

十箇一」として伝える説話の中に、

  

二、天台山時生身羅漢現、足跡亦光明。三、石橋青龍現、現

則雨下。四、国清寺等聖跡、一一儼然。

という天台山に関する記載が三つ存している。これは栄西が実際

に天台山を訪れたときに伝え聞いた説話と見られ、一つに天台山

では生身の羅漢が現われるということ、二つに石橋には青い龍が

出現すると雨が降るということ、三つに国清寺など聖跡はきわめ

て厳粛であることが述べられている。これらが『元亨釈書』に受

け継がれて石橋での奇瑞として書き足されたものであろうか。

((()

慈雲房明雲は永久三年(一一一五)の生まれであり、源顕通の

子であり、比叡山の辨覚に顕密の教えを学び、天台座主で梶井門

跡最雲の弟子となる。仁安元年(一一六六)に僧正となり、仁安

二年に天台座主に就任している。安元三年(一一七七)五月に延

暦寺僧徒の強訴が後白河上皇の怒りを招き、伊豆(静岡県)に配

流される。六月に許されて京都大原に隠棲し、治承三年(一一七

九)に再び座主に就任し、翌年には大僧正となっている。寿永二

年(一一八三)一一月一九日に木曾義仲の乱で流れ矢に当たって

没したとされる。「平家の護持僧」といわれ、平清盛の信認が厚

かった。『天台座主記』『玉葉』『平家物語』などに記事が存する。

((()

東京大学史料編纂所編『大日本古記録〈愚昧記上〉』(岩波書店

刊)によれば、当該箇所の「左大丞」を「源雅頼」のことと頭注

し、また「入唐上人」を「重源カ」と割注している。源雅頼は大

治二年(一一二七)の生まれで、父は権中納言の源雅兼で、母は

大納言源能俊の娘である。長寛二年(一一六四)に参議となり、

仁安三年に正三位に、嘉応元年(一一六九)に権中納言となって

いる。治承三年(一一七九)に解官、寿永二年(一一八三)に正

二位に至るが、文治二年(一一八七)に出家し、建久元年八月三

日に六四歳で没している。

((()

渡邊誠「後白河法皇の阿育王山舎利殿建立と重源・栄西」(『日

本史研究』第五七九号、二〇一〇年一一月)という論考が存し、

「育王山妙智禅師塔銘」を踏まえて詳細な検討を加えている。拙

稿「阿育王山の妙智禅師従廓について─平安末期の日本仏教界と

の関わりを踏まえて─」(『駒澤大学禅研究所年報』第二三号、平

成二三年一二月)も参照。

((0)

後白河上皇の出家については『玉葉』「嘉応元年六月十七日」

の項に詳しく記され、園城寺僧侶の伝記史料である『寺門伝記補

録』巻一四「僧伝部〈戊〉」の「長吏高僧略伝」巻下「法務前大

僧正覚忠〈聖護院龍雲坊青蓮院長谷〉三十二世」の章にも、

  

嘉応元年六月十七日、太上皇祝髮、聖算四十有三。御戒師、

長吏前大僧正覚忠。唄師、法印公舜・憲覚。剃刀、法印尊

Page 43: 鄞県の阿育王山広利禅寺に使わし、同じく楊岐派 その法門を ...repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/33165/rbb043...(杭州) 都税務の官僚虞樗に依頼したものである。ただし、明全は宝慶元年

明庵栄西の在宋中の動静について(上)(佐藤)

一一三

覚・権大僧都公顕〈已上〉。御戒師、上法諱行真。法皇始自二

今日一五十昼夜、有二御逆修一。

とあり、嘉応元年(一一六九)六月一七日に後白河上皇が四三歳

で祝髮したことを伝えている。このときの戒師を長吏で前大僧正

の覚忠が勤め、唄師を法印の公舜と覚憲(宝積寺僧正、壺阪僧

正、一一三一─一二一二)が行ない、剃刀を法印の尊覚と権大僧

都の公顕(本覚房、本覚院、一一一〇─一一九三)が行なったこ

とを伝えている。このように後白河上皇は嘉応元年六月一七日に

出家して法皇となっているが、これは重源・栄西が帰国した翌年

に当たっている。後白河上皇の出家に際しては近江(滋賀県)の

園城寺長吏であった覚忠が戒師(受業師)を勤めている。

((()

渡邊誠「後白河法皇の阿育王山舎利殿建立と重源・栄西」(『日

本史研究』二〇一〇年一一月号〈五七九号〉に所収)を参照。

((()

重源の木像と画像のことは、建仁三年(一二〇三)以降まもな

い頃に記されたと見られる『東大寺造立供養記』に、

  

上人(中略)壮年当初入唐三度。大宋国育王山舎利殿、二階

三閣之精舎也。其最中一間、弘三丈也。精舎之勢分、以レ此

可レ察也。而破壊年久、営作失便。於レ是上人、運二我朝之大

材一、以訪二大唐之造寺一、渡二万里之蒼波一、以成二希代之大願一。

故大唐、造二上人像一、安二先徳之列座一、図二和尚影一、為二後代

之証験一。因レ茲、綾羅錦繍之奉加、甲冑弓箭之助成、乃至牛

馬雑物之類、併出二和尚之聖徳一也。如レ此等之施物、過二二

箇国之所一レ

当也。

とあり、重源と阿育王山との関わりが列記されている。重源は阿

育王山の舎利殿が完成するまでの間に三度にわたって入宋してい

ることが知られ、世に「入唐三度聖人」と称されている。『東大

寺造立供養記』では、重源が日本の材木を送って大宋(大唐)の

阿育王山の伽藍修造に貢献し、希代の大願を成就したことを特筆

している。しかも阿育王山の舎利殿の実地の寸法が記入されてい

るのは、三度目の入宋で重源が舎利殿完成の姿を実際に拝してき

たためであろう。さらに注目すべきは阿育王山側が重源の徳を称

えて木像を作って先徳の列座に安置し、また重源の画像を描いて

後代への証験としたと伝えていることである。この記事は先の

『南无阿弥陀仏作善集』の阿育王山の記事とも符合することから、

おそらく阿育王山住持の従廓が日本側の貢献に対して格段の配慮

をなし、舎利殿完成後に三度目の入宋を果たしたと見られる重源

の姿を特別に木像や画像に刻み描いて残させたものであろう。