− 79 −
Ⅰ 平岡権八郎《裸婦座像》1936年
− 80 −
Ⅱ 平岡権八郎《踊りのコスチューム》1938年
支配人席に立つ画家・平岡権八郎とその画業
│新出の︽裸婦坐像︾を中心に
岡
部
昌
幸
﹁カフェ、それは悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純で、まるで恋のように甘い﹂
︵
世紀初めの外交官・タレーラン︶
19
目次1
、序
カフェの支配人席に立つ画家│立ち位置の異色さ
2、平岡権八郎の生涯│画業と実業のあわいで
3、帝展改組、画壇再編の時代│平岡権八郎の活躍期
4、新出作品とその背景
5、結語
− 81 −
1、序
カフェの支配人席に立つ画家│立ち位置の異色さ
劇場の舞台脇から見ている人物がいる。演出家や劇場支配人、舞台装置などのスタッフである。画壇という人
間劇場に、そうした人物がいてもおかしくはない。
日本近代美術家には、ユニークで多彩な活動をした画家が少なくない。なかでも明治から昭和にかけての洋画
家は、さまざまな職業に転職もしくは兼業した例が多い。
ここで紹介する、平岡権八郎︵一八八三│一九四三︶はそうした画家の典型といえる。
平岡権八郎は、画家としてより一九一一年︵明治四四年︶銀座日吉町に日本で最初のカフェーであるカ
フェー・プランタンを開業したことで有名である。共同経営者は、東京美術学校西洋画選科の卒業生であり、洋
画を目指していた松山省三︵一八八四│一九七〇︶(註1)であった。
これは、師の黒田清輝が、パリではカフェが文化人や芸術家たちがたまり場として文化の発信地となったと
語っていたところから、日本でもそうしたカフェを作ろうと着想したのだという。(註2)
黒田清輝がいったカフェとは、黒田清輝が留学したパリの同時代か、その直前にあったカフェのことだと想定
して間違いない。たとえば、印象派を誕生させたカフェ・ゲルボワ、あるいはカフェ・アキテーヌを指すと思わ
れる。さらには、エドガー・ドガやオーギュスト・ルノワール、そしてトゥールーズ=ロートレックやスタンラ
ンなど印象派や世紀末の画家・ポスター画家らの活躍の場となった、新開地モンマルトルのカフェ・コンセール
− 82 −
やキャバレー、ムーラン・ド・ラ・ギャレット、ムーラン・ルージュのことを指している。(註3)
ただし、もっと踏み込めば、同時期のモンマルトルのカフェ・コンセール、シャ・ノワールを上げることがで
きる。(註4)これは支配人のルドルフ・サリスが、カフェに音楽や影絵芝居を見せる舞台を設置し、毎週、新聞
やパンフレットを発行して観客に配布したプロデュ│サー的な存在であった。エンターテイメントの場に、芸術
的創造を持ち込み、美術家、音楽家、文学者を糾合した点で、二〇世紀初頭のバレエ・リュスの支配人、セルゲ
イ・ディアギレフの先駆者であったともいえる存在である。(註5)
また、一九世紀後半、ウィーンやフィレンツェ、そのほかヨーロッパ各都市でカフェは、政治的にも、芸術的
にも革命的活動家のたまり場であった。(註6)
日本最初のカフェもそうした、ヨーロッパの同時代状況を踏まえて、成立した点をここで強調しておきたい。
それは富裕な階級の画家たちが趣味で開店したものではないことは明らかである。そして注意すれば、一九世
紀近代美術、芸術、文化の揺籃の場であったカフェこそ、真の芸術を模索する若者たちが、求め憧れたもので
あったのである。カフェ・ゲルボワに集った印象派の影響を強く受けた近代日本の画家が求めていたものがカ
フェであるのは、必然であったに違いない。誰か、絵画を志すもののなかからこそ、カフェは生れるはずだった
のである。(註7)
− 83 −
2、平岡権八郎の生涯│画業と実業のあわいで
東京美術学校に西洋画科が設立されたのが、明治三〇年︵一九九七︶であった。その教職にある教授陣は、特
に華族や上流階級であった黒田清輝や久米圭一郎は生活に困ることはなかったが、その生徒たちは、入学は当初
より高倍率で難関であったにもかかわらず、明治期には洋画は購入層が少なく、絵を売って生活することは、き
わめて難しいことであった。
そこで、黒田清輝、久米圭一郎、岡田三郎助、和田英作など教授陣は、各地に設立された中学校に図画教師が
置かれることになると、そのポストに卒業生を次々に送り込んでいった。そして、そのポストが横溢すると、劇
場の舞台美術、百貨店の広告部、新聞の挿絵家など、都会文化で生まれたさまざまな職種に弟子たちをアルバイ
トとして派遣していく。
平岡権八郎は一八八三年︵明治一六年︶東京・新橋竹川町に生れた。明治元年創業の料亭・花月楼の経営者・
平岡廣高は士族の出であり、その弟・半蔵の長男が権八郎であったが、後年、権八郎は廣高の養子となった。最
初、日本画家・鈴木華邨、竹内栖鳳に日本画を学んだあと洋画に転じ、白馬会研究所で黒田清輝に学んだ。(註
8)
一九一〇年︵明治四三年︶の第4回文展︵文部省美術展覧会︶の︽コツク場︾で三等賞、東京大正博覧会にも
出品、一九一七年︵大正六年︶第一一回文展の︽大隅氏の肖像︾で特選に選ばれた。文展の中心となっていた光
− 84 −
風会会員として、文展とその後身の帝展︵帝国美術院展覧会︶に出品を続け、﹁松田改組﹂﹁帝展改組﹂後の昭和
年の新文展では無鑑査になり、︽老給仕たち︾を出品した。(註9)
12その画題は異色であった。出世作であった︽コック場︾から画壇で再び注目を浴びることになる後半生の︽老
給仕︾、その前年の昭和
年の第1回新文展・招待展出品の︽旅芸人︾にいたるまで、大きな出品作は人物二人
11
による構図のものが多いが、そのモデルは、﹁家業﹂料亭・レストランに勤めるコックや給仕たち、またはそこ
で芸をする芸人たちであった。初期の作品で和服姿の女給を描いた︽おしゃく︾︵第6回文展︶も同じ趣向であ
る。出身の白馬会が、明治末の社会風俗を主に描くことを推進して、その系譜のなかにいるともいえるが、平岡
権八郎にとって、その社会風俗そのものが彼にとって、生活の場であり、制作の場でもあったことをここに強調
しておきたい。︵図
︶23
その後、︽大隈氏の肖像︾︵第
回文展︶はそれまでの傾向と異なり﹁ホイッスラーの﹁母の肖像﹂を思わせ
11
る﹂︵細野正信﹃日展史﹄第5巻総論、
頁。︶プロフィールの構図による本格的な肖像画で新機軸を見せ、特選
519
となった。が、これも、その背景にある長椅子やインテリアなど、生活感が感じられる作品である。そして、
︽ショウル︾︵第
回帝展︶、︽ハンガリーのブラウス︾︵第
回帝展︶、︽小兵士︾︵第2回新文展︶、︽ハンガリーの
14
15
ブラウス︾︵第3回新文展︶などの単身の人物像も、その家業の料亭・レストランや家族など近親に取材したと
思われる。つまり、この画家にとっては、ミリュー︵制作上の環境︶とは歓楽街であり、飲食関連の場であった
といえ、同じ画題を描いたドガやロートレックなど印象派・世紀末芸術の画家たちと異なり、彼にとっては歓楽
街・料亭の側、さらにいえばその経営者としての支配人の側からの視座であったといえる。
− 85 −
パリに留学し、パリで作品も制作。(註
)10
個展も開き、一九三〇年代には、得意とした競馬絵をまとめて展観し、その頒布会の図録﹃競馬絵頒布会図
録﹄も刊行した。(註
)競馬の絵画を独自に様式化した点、都会派の洋画家らしい特徴で、見直されるべきであ
11
ろうと思われる。
画業のかたわら、美術面の副業としては、帝国劇場の舞台装飾を手がけ、実業では、家業の花月楼を経営、後
年新橋演舞場の取締役となっている。いっぽう一九一四年︵大正四年︶には、養父・廣高が横浜の鶴見に遊園
地・花月園を開業している。(註
)12
権八郎はさらに、一九一一年︵明治四四年︶四月銀座日吉町︵現・銀座8丁目︶に日本で最初のカフェーであ
るカフェー・プランタンを開業した。共同経営者は、東京美術学校西洋画撰科の卒業生であり、洋画を目指して
いた松山省三︵一八八四│一九七〇︶である。店名のプランタン︵春︶は松山省三の親友であった戯曲作家の小
山内薫が命名した。(註
)13
﹁悠々と話し込んだり、人と待ち合わせたりするのに都合のいいような家、ヨーロッパのカフェのようなも
のがほしい。﹂(註
)14
これは、師の黒田清輝が、パリではカフェが文化人や芸術家たちがたまり場として芸術談義をし、文化の発信
地となったと常々語っていたところから、日本でもそうしたカフェを作ろうと着想されたものであった。
− 86 −
日本で初めてのカフェは、珈琲のほかに、酒、サンドイッチなど食事も用意された。会員制で、女給を雇い入
れた。会員には森鴎外、永井荷風、北原白秋のほか、文人が多く名を連ね、多いに繁盛し、関東大震災で店が消
失すると、牛込神楽坂で2年間、営業した。(註
)15
この時期、市川猿之助が上海で購入した麻雀を店で独自のルールによって営業したが、これが日本における麻
雀発祥といわれる。(註
)16
また、一九三四年︵昭和九年︶三月、近代建築の最高傑作として賞賛された丸の内の明治生命館が完成すると
その地下にカフェ・レストラン、マーブルを開店、その支配人ともなった。(註
)17
昭和一〇年代には平岡権八郎は五〇歳代になるが、この一〇年が、実業においても画業においても彼の生涯の
なかでもっとも充実していた年代といえるであろう。
この昭和一〇年代に、その文筆活動も盛んとなる。一般雑誌に随筆まで掲載するほどになっている。たとえば、
以下のような文章である。
﹁
繁華街の雨
平岡権八郎︵文と絵︶
繁華街の雨の美しさはどうしても夜で、外燈や点燈の光りが雨の中にいろいろの色彩を滲ませている光景
である。銀座は夏の夜更からがらりと街の様子を変へてしまふ。
これは震災前の印象であるが、大きな柳の並木が枝を張つて電燈と瓦斯燈の外燈が並んで青と黄の光りが
− 87 −
柳の葉に包まれて雨に光つてゐたころである。パリのコンコルド広場の瓦斯燈を交互に配列して青と黄の光
りを効果的に用ひてゐたのを観た時、銀座のその当時を思ひ浮かべて懐かしかつた。風の吹かないパリの雨
は静かに音もなく煙つてゐる。ことにグランオペラの二階の大窓から洩れるピンク色の光りは渋味のある色
つぽいもので、雨でも外出が億劫でない。パリは銀座とは大分開きがあるが、銀座も人力車の多く通る出雲
橋辺の裏町は色町が近いせゐか夏の夜更けの雨には一種すてがたい風情の街になる。
これも震災前であるが、銀座四丁目に秋葉といふ人力車製造店があつて、夜更けからこの人力車を二十台
も三十台も列を作つて横浜の港まで運んで行く行列が通る。車の背中に龍だの鳳凰だの彩色絵の描いてある
もので丁度夜明けに港に着くやうに歩いて引つぱつて行くのだが、支那や仏印辺への輸出で、銀座の夜更け
には特色ある風景であつた。人力車の多い銀座裏は毎夜宴会のはじまる時間になると、色町の人力車が電車
通を横切つて出雲橋を渡つて築地木挽町辺に急ぐ列を見る。
近来ますます人力車が盛んになつたので再び昔に帰つたやうな感が深い。銀座通りの人力車は何んとなく
時代錯誤の感があるが、一寸裏町に入つたり橋の上を通る風情は、まだまだ捨て難い絵である。小林清親だ
の川村清雄先生を思ひ浮べて懐しいものであると同時に、アメリカ風の四角なビルヂングの増えてくる今日
は情ない気もする。﹂(註
)︵図
︶
18
24
なんと光と色彩の横溢した美しい描写であろうか。画家の眼、視点が感じられる文章であり、この文章の執筆
にそれほど遠くない時期に著者がパリを訪れていることも察せられる。古い東京とパリの美しさがともに好対照
− 88 −
をなして描かれている。
太平洋戦争の開戦まで6ヶ月。創造の意欲と喜びに満ちた、最後の年代であった。
3、帝展改組、画壇再編の時代と平岡権八郎の活躍期
さて、以上のような一九三〇年代。一見、二つの進路に見える平岡権八郎の実業と画業は、実は深く結びつい
たものであった。それを次に論及したい。
平岡権八郎が開店したマーブルが大変重要な場所であったことを言及しておかなければならないからである。
一九三五年︵昭和一〇年︶六月三日午後一時三十分、旧帝展第二部の審査員経歴のある有志一六名が、明治生
命ビル内マーブルに会合して左のような声明を発表した。
﹁文部省が採りたる今回の所謂帝展改組なるものは既に政府が認めたる一国の最高美術諮問機関に何等の諮る
こともなく全く門外漢が皮相なる政治的見地の下に行ひたる変態的行為にして措置すべて当を失し遂にそれに
信頼をおく能はず、即ち我等は今後何等の条件によるもその経営になる展覧会に我等の製作を出品することな
かるべし
昭和十年六月三日
− 89 −
石川寅治、伊原宇三郎、大久保作次郎、太田三郎、金山平三、吉田博、田辺至、辻永、中村研一、中野
和高、小林万吾、牧野虎雄、安宅安五郎、阿以田治修、柚木久太、鈴木千久馬﹂
続けて、旧帝展第二部︵洋画︶出品者のなかで、無鑑査の待遇を得た者や特選を受賞した画家たちが、同日夜、
新橋の料亭花月に集合し、決起集会をもった。
前述の一六名に加え、賛同した画家は六七名に及んだ、そのなかには巨匠から、若手で将来を期待されている
ものたちも含め、有力な画家たちが網羅されていた。
その声明には、
﹁
今度の帝展改組には些々たる世俗の風評に動かされ、すでに政府が認めたる一国の最高美術諮問機関に何等
諮ることなく、一朝にして美術振興に関する実績と歴史とを蹂躙した暴挙と思ひます。
故に私達はかかる信頼を置くに能はざる組織の下に開催される展覧会には今後一切私達の製作を出品しない
事に致します。
昭和十年六月三日
新橋花月に於いて
旧帝展第二部有志︵順序不同︶
− 90 −
﹂
以上の参加者が、直後の﹁第二部会﹂の設立にかかわったが、現在、﹁帝展改組﹂と呼ぶこの美術史だけでな
く、昭和史に残る事件は、洋画だけでなく、日本画、彫刻、工芸、評論界など美術の官・在野すべての分野に及
ぶ大事件であった。日本画家たちは、派閥や京都・東京の対立のなかで自陣営の利益を図り、態度を決めかねて
いたが、そのなかで特に官展の洋画家は一致団結し、すばやく政治に対抗した。まさに、洋画家たちにとっては
﹁洋画の動乱﹂といってよい。
その舞台として、平岡権八郎の経営するマーブルと花月が使われていた。そして、第二部会の
名のなかに、
67
平岡権八郎の名も連ねられていたのである。
4、新出作品とその背景
平岡権八郎の作品は今日稀少であるが、新出の作品を収集したので、以下に示したい。︵カラー図Ⅰ︶
平岡権八郎作
︽裸婦坐像︾
一九三六年作
P
号12
デフォルメされた女性のヌードで、布を掛け、椅子の上に足を組んだ女性が描かれている。
− 91 −
マチスかエコール・ド・パリの画家の影響をうかがわせる。特にスーチンの画風に似た典型的なデフォルメの
表現に特徴がある。
今日残される平岡権八郎の作品が少なく、特に、戦前期の油彩作品は貴重として作例であろう。
作品を分析するに際して、さらにもう1点、参考資料を提示したい。
それは、同時期の平岡権八郎の個展の図録である。
︽裸婦坐像︾︵一九三六︶はその展覧会に出品作と制作時期を同じくするものであるからである。
この展覧会が、平岡権八郎という画家にとって意義深かったのは以下の、画壇の巨匠でもある恩師たちの推薦
文でも明らかである。
先ず最初に、東京美術学校の教授で、平岡権八郎と松山省三の師にもあたる岡田三郎助の推薦文から始まる。
﹁平岡権八郎
第二回近作油絵展覧会
昭和十三年六月十五日│十九日
於
銀座
青樹社
﹂
﹁平岡君が近年画業の方に精進されて制作が相当な数になつたので第二回の展覧会を青樹社で開かれる事にな
りました就ては御散歩の御序に御立寄御鑑賞を願い度く私からも御願申上ます
− 92 −
岡田三郎助
﹂
次いで、同じく官展の審査員経験者で、その中心にいた和田三造によって、さらに強力に画家のプッシュがな
されている。
﹁
平岡君が青樹社画廊で近作数点を纏めて展観するといふ、実にうらやましい態度だ。
君は平常その画業の資を料理店経営から得て全部の力を両分してゐる訳であるがこれこそ吾々画をやるも
のゝ願ふ理想的な生活振りである。本来ならば料理店経営の余暇を単に安逸にすごしても世間には申し訳のた
つ身分でありながら絵を描く事が好きな天性とはいへ暇さえあれば真面目な制作研究に没頭してゐるのは君に
対する世間の想像に大分距りがある。
そんな訳で老来君の意気はます〳〵昂り永く鍛へあげた堅実な手練を土台に今こそ自由闊達な境地に遊び変
化自在、豊富な題材に将来を約束するのを見る、とかく年と共に技に熟しながら陥り勝ちの無気魄な傾向のあ
る老大家の群と撰を異にするのはこの点にある。
和田三造
﹂
岡田三郎助の文章が短く、抑え目なのは、性格に加え、和田三造の先生にあたり、元老的な立場のより高い立
場のため、影響を考えてのことと考えられ、実際的には、和田三造に強く言わせていると考えられる。
− 93 −
図録には続けて、作品の図版が転載されている。
カラー図版
踊りのコスチユーム
陳列目録
1
後向き
号
︵図
︶
25
16
2
布を巻いた裸婦
︵図
?︶
25
19
3
赤い布
20
4
緑の布を持つ女
15
5
永い椅子の裸婦
︵図
?︶
19
12
6
シュミーズ
6
7
緑のスヱターの女
︵図5︶
30
8
酒場の女
30
9
赤い帽子の女
︵図
︶
25
20
二人の女
︵図9︶
10
25
− 94 −
踊りのコスチユーム
︵カラー図版Ⅱ︶
11
25
バラA
︵図
?︶
12
20
14
バラB
︵図
?︶
13
20
21
バラC
14
15
バラD
15
15
バラE
8
16
バラF
6
17
バラG
6
18
バラH
19
12
海老1
6
20
赤絵の皿に車海老
︵図
︶
21
13
海老2
3
22
芦の湖の雪1
︵図
?︶
23
10
10
芦の湖の富士
8
︵図
︶
24
18
芦の湖の雪2
3
25
銀座夜景
6
26
ネオンの銀座
6
︵図
︶
27
17
− 95 −
ライラツク
4
28
競馬
︵図
︶
29
10
22
競馬スケツチ
サムホール
30
シヤツの女
︵図
︶
31
12
15
熱海
32
軽井沢
33
お酌
34
10
鈴木さん像
35
12
乙女椿
36
柏若葉︵軽井沢︶
37
以上
この個展が開かれた前後の昭和
年~
年の第二部会展、新文展などの大きな展覧会に出品した作品には、
10
13
﹁憂鬱なる生活のなかに、何か生活と戦ほうとする表情がいい。﹂︵田口省吾﹃中央美術﹄、昭和
年
月号︶、﹁異
11
11
彩を放っている。少なくともここでは生活のセンチメントに触れてゐる。二人の老給仕の組合せ方も効果的であ
る。﹂︵森口多里﹃美術時代﹄。昭和
年
月号︶などのように、労働感の漂う、やや陰鬱で重い、﹁生活﹂が描か
12
11
れている。しかし、この﹁近作洋画展覧会﹂の出品作は、明るいものばかりである。
そのことが逆に、展覧会出品作の重いテーマを浮き出させている。出品作には、支配人席に立つ視点で描かれ
− 96 −
たものなのである。平岡権八郎の作品に秘められたものは、労働と生活である。
5、結語
平岡権八郎は実業と画業の﹁二足の草鞋﹂を履いた画家と思われている。さらに、画業は東京美術学校西洋画
科の最初期の卒業生の一人であり、その後、官展のなかでエリートであった白馬会・光風会に所属し、文展帝展
で特選も得ていた有力な画家であったにもかかわらず、大正期後半から昭和初期は、あまり活躍していなかった
ようにも見える。そうしたハンディを背負い、ブランクのある画家であったといえる。
しかし、昭和一〇年、画壇の状況が風雲急を告げ、奇しくも本業として、料亭やレストランという画家たちの
美術運動の揺籃の場を提供する主役となった。そのとき、彼は画壇の支配人の席に立ったのである。
そして、その直後に平岡権八郎の画業が活発化する。それは、この状況と自分の立場の重要性が生み出した昂
揚感からではなかったろうか。
実業︵家業︶は画業を大いに助け、画壇の流れを作った。そして、画家は生き返ったのである。
平岡権八郎は、丸の内のカフェ・レストラン、マーブルの支配人として、一九三五~三三年にわたる日本近代
洋画壇再編の動乱期に重要な議論と活動の場を与えるのに大いに貢献した。
そして、自ら、その刺激を受け、その混乱期に画家としての再起を図り、翌年から活発な制作活動を発表をし
ていったのである。そのなかの作品が、新出の︽裸婦坐像︾である。
− 97 −
註︵1︶
松山省三は広島市出身、実父・渡辺又三郎は伊藤博文門下の代言人︵弁護士︶で、広島市議会議長のあと第八代広
島市長を務めた。三男でのちに松山家の養子となった。東京美術学校西洋画撰科で、岡田三郎助に学んだ。戦後は文
春クラブの支配人を務めた。長男は、歌舞伎役者となった河原崎国太郎。その子は俳優の松山英太郎、松山政路。
︵2︶
どこで黒田清輝の話を聞いたかは、白馬会美術研究所時代に平岡権八郎が聞いたものか、東京美術学校で松山省三
が聞いたかは明確ではない。
︵3︶
カフェ文化と美術運動については近年、研究が進められている。G
eorgesBernier,
Paris
Cafes:
Their
Role
intheBirth
ofM
odern
Art,
New
York:Wild
enste
in,1985.Robert
L.Hebert,
Impressio
nism
:Art,
Leisu
re,&
Parisia
nSociety,
New
Have
n:
Yale
Unive
rsityPress,
1996.
︵4︶
シャ・ノワールの活動とその意義については、拙稿、﹁シャ・ノワールとその時代﹂、﹃アルテリア﹄資料、二〇〇
三年。いくつかそのテーマで展覧会も企画されてきたが、最近のものでは、﹁シャ・ノワールとその時代﹂︵美術館連
絡協議会、八王子夢美術館ほか、二〇一一年︶などがある。
︵5︶
セルゲイ・ディアギレフ︵一八七五│一九二九︶は法学から芸術に転じ、最初﹃芸術世界﹄を創刊し、その編集に
携わっていた。
︵6︶
ウィーンのカフェ文化については、平田達治﹃ウィーンのカフェ﹄大修館書店、一九九六年。参照。
︵7︶
カフェ・ゲルボワは、パリのバティニュール街にあった。一八六〇年代、毎週木曜日の夜、当時、問題作を次々と
− 98 −
サロンに出品し、アヴァンギャルド︵前衛︶の先端にいたエドュアール・マネを囲み、エドガー・ドやまだ二〇歳台
のクロード・モネやオーギュスト・ルノワールなど若い画家たちか集い、芸術論を交わした。
︵8︶
平岡権八郎の画歴は、黒田清輝門下の画家、杉浦非水︵一八七六│一九六五︶と類似している。
︵9︶
平岡権八郎は官展・東京美術学校系に属する主力団体である光風会に所属していた。
︵
︶
平岡権八郎のパリ留学は、一九二〇年代末と思われる。
10︵
︶
平岡権八郎﹃競馬絵頒布会図録﹄、一九四〇年、五一頁。
11︵
︶
花月園はパリのフォンテンブローの遊園地をモデルとして造成されたといわれ、動物園、花壇、噴水、ダンスホー
12
ルなども備えていた。﹃花月園観光三十年史﹄花月園観光、一九八〇年。斎藤美枝﹃鶴見花月園秘話東洋一の遊園地
を創った平岡廣高﹄鶴見区文化協会、二〇〇七年。参照。
︵
︶
小山内薫の妹・八千代︵一八八三│一九六二︶は劇作家で、東京美術学校教授の画家岡田三郎助の妻でもあった。
13︵
︶
奥原哲志﹃琥珀色の記憶[時代を彩った喫茶店]﹄河出書房新社。
14
高井尚之﹃日本カフェ興亡記﹄、日本経済新聞出版社、二〇〇九年五月、九六頁、参照。
︵
︶
維持会員の名簿には、画家として黒田清輝、岡田三郎助、和田英作の名があり、いずれも、東京美術学校の教授で
15
洋画家であった。松山省三や平岡権八郎の恩師である。
︵
︶
神楽坂のカフェー・プランタンでは菊池寛が麻雀に熱中し、﹃文藝春秋﹄などで麻雀が広められた。
16︵
︶
明治生命館は東京美術学校教授の建築家、岡田信一郎が設計し、竣工したばかりであった。
17︵
︶
平岡権八郎﹁繁華街の雨﹂、﹃週間朝日﹄、一九四一年六月一日号、三二頁。同号に名を連ねている画家はほかに、
18
− 99 −
小島善太郎、三岸節子、足立源一郎、石川寅治、向井潤吉である。また、表紙の絵の作者は、鈴木千久馬である。
− 100 −
− 101 −
図1《裸婦座像》(上半身部分)
図3
図2《裸婦座像》全図
− 102 −
図5 《裸婦座像》(右手部分) 図4 《裸婦座像》(左手部分)
図7 『平田権八郎第二回近作油絵
展覧会図録』表紙
図6 裏面出品標
− 103 −
図9《二人の女》 図7 『平田権八郎第二回近代油絵
展覧会図録』扉ページ
図11《緑のスヱターの女》 図10《芦の湖の雪》
− 104 −
図13《赤絵の皿に車海老》
図12
図15《シャツの女》 図14《バラ》
− 105 −
図17《ネオンの銀座》
図16《後向き》
図19《布を巻いた裸婦》
図18《芦の湖》
− 106 −
図21《バラ》図20《赤い帽子の女》
図22《競馬》
− 107 −
図23 平岡権八郎 (文展出品作)
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図24 (文と絵)平岡権八郎「繁華街の雨」『週刊朝日』(1941年6月1日号)
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