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企業が発展していくためのイノベーションの必要 性,わけてもオープンイノベーションの重要性が議 論され始めてから十数年が経過し,既に技術・製品 開発における常識として語られるようになって久し い.本稿では,写真市場というコアビジネスを失い, 事業転換を進めてきた富士フイルムを例に, 「事業転 換のためのオープンイノベーション」という切り口 からその必要性と,同時にその難しさについて考察 した. 1.企業の事業転換と技術資産 周知のように,ハロゲン化銀を感光素子として用 いる所謂銀塩写真を中心とした写真産業は,19世紀 半ばの誕生から百数十年かけて市場を拡大させてき たが,デジタルカメラやカメラ付携帯の登場で10年 余りの短期間のうちに失われてしまった(図1). 写真感光材料の国産化を目的に,1934年に富士写 真フイルム株式会社として創立された当社は,銀塩 写真とその周辺製品・サービスを主力事業として成 長・発展してきたが,この市場の大変化により,そ の事業構成を機能性材料,ヘルスケア製品,および, ドキュメント製品へと大きく転換し(図2),2006年 には社名から「写真」を外し,富士フイルム株式会 社として現在に至っている . この事業転換に際し,企業が主力事業を転換する ことの難しさに直面し,それを乗り越える中で多く のことを学んだ. 当然のことであるが,それまでの主力事業が縮小 J.Jpn.Soc.Intel.Prod.,Vol.12,No.2,2016 48 【特 集 オープンイノベーション】 企業の事業転換とオープンイノベーション Changes of Business inanEnterprise throughOpenInnovation MasahiroASAMI 富士フイルム株式会社 知的財産本部 〒107-0052東京都港区赤坂9丁目7-3 FUJIFILM Cor por ation Intellectual Pr oper ty Headquar ter s 7-3, Akasaka 9-Chome, Minato-ku, Tokyo, Japan 企業の事業転換においては技術資産転換の断行が成否を握っている.自社の保有する技術資産 の把握,新規事業の立上げに必要な資産で不足するものの明確化とそれらの速やかな獲得,が求 められる.これを効率よく進めるには,社内の異部門も含め社外の大学・企業に至るまで広く見 渡し,必要な技術資産の源泉として選定し,協業を通じて技術獲得を進めるオープンイノベーショ ンのプロセスが有用である.こうした事業転換プロセスを富士フイルムを例に考察した.また, 未成熟市場の拡大を図るため,オープン化を活用したインセンティブの設定で,多数のプレーヤー の参加を加速する戦略も併せて考察した. At thecritical changesof businessin amanufacturingenterprise,changesof possessing technology assets are essential andmost important requirements.As a typical example of such changes of business,struggleof FUJIFILM against rapidshrinkof photographicindustryis discussed. Key Words: openinnovation,changeofbusiness,photographicindustry,FUJIFILM 業の歴史とデジタ 図1 写真産 ル化 ビシフト 3

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企業が発展していくためのイノベーションの必要性,わけてもオープンイノベーションの重要性が議論され始めてから十数年が経過し,既に技術・製品開発における常識として語られるようになって久しい.本稿では,写真市場というコアビジネスを失い,事業転換を進めてきた富士フイルムを例に,「事業転換のためのオープンイノベーション」という切り口からその必要性と,同時にその難しさについて考察した.

1.企業の事業転換と技術資産

周知のように,ハロゲン化銀を感光素子として用いる所謂銀塩写真を中心とした写真産業は,19世紀半ばの誕生から百数十年かけて市場を拡大させてきたが,デジタルカメラやカメラ付携帯の登場で10年余りの短期間のうちに失われてしまった(図1).写真感光材料の国産化を目的に,1934年に富士写真フイルム株式会社として創立された当社は,銀塩写真とその周辺製品・サービスを主力事業として成長・発展してきたが,この市場の大変化により,その事業構成を機能性材料,ヘルスケア製品,および,

ドキュメント製品へと大きく転換し(図2),2006年には社名から「写真」を外し,富士フイルム株式会社として現在に至っている .この事業転換に際し,企業が主力事業を転換することの難しさに直面し,それを乗り越える中で多くのことを学んだ.当然のことであるが,それまでの主力事業が縮小

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【特 集 オープンイノベーション】

企業の事業転換とオープンイノベーション

Changes of Business in an Enterprise through Open Innovation

浅 見 正 弘Masahiro ASAMI

富士フイルム株式会社 知的財産本部

〒107-0052東京都港区赤坂9丁目7-3

FUJIFILM Corporation Intellectual Property Headquarters

7-3, Akasaka 9-Chome, Minato-ku, Tokyo, Japan

企業の事業転換においては技術資産転換の断行が成否を握っている.自社の保有する技術資産の把握,新規事業の立上げに必要な資産で不足するものの明確化とそれらの速やかな獲得,が求められる.これを効率よく進めるには,社内の異部門も含め社外の大学・企業に至るまで広く見渡し,必要な技術資産の源泉として選定し,協業を通じて技術獲得を進めるオープンイノベーションのプロセスが有用である.こうした事業転換プロセスを富士フイルムを例に考察した.また,未成熟市場の拡大を図るため,オープン化を活用したインセンティブの設定で,多数のプレーヤーの参加を加速する戦略も併せて考察した.

At the critical changes of business in a manufacturing enterprise,changes of possessing

technology assets are essential and most important requirements.As a typical example of such

changes of business,struggle of FUJIFILM against rapid shrink of photographic industry is

discussed.

Key Words:open innovation,change of business,photographic industry,FUJIFILM

業の歴史とデジタ図1 写真産 史のル化 歴

ル★ ★ビシフト3

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を余儀なくされたからといって,すぐに別の事業を始められるわけではない.事業運営のためのアセットは,長い時間をかけてその事業に最適化されるプロセスを経てきたものであり,働く人々のスキルやマインドもまた然りである.特に,材料メーカーにとって,主力製品の製造設備はその製品の需要が減ったといって簡単に取り換えられるものではなく,また,顧客との間に築いてきた関係や販売ルートも,新たに始める事業に転用することは難しい.さらに,製品開発に携わる研究開発陣も,新たな技術分野にターゲットを設定し,研究成果を出すまでには長い期間を要する .当社においては,数十年に亘って写真事業を発展させる過程で,顧客への販路はもちろんのこと,生産能力や開発能力といった技術資産が銀塩写真感光材料およびその周辺製品事業に最適化され,社内に蓄積されてきた.急務となった事業転換にあたって,これらの資産の転換が重要課題となったのである.

2.オープンイノベーションによる技術蓄積の加速

2.1 企業の技術資産は簡単に取り替えられない保有する技術資産との適合性の無い新規事業は,たとえ十分な投資をしても成功確率は低く,失敗例も少なくない.一方で,手持ちの技術資産だけで始められる新規事業はそれほど多くないであろう.言い換えると,新たな事業展開には,新たな技術資産の獲得を並行して進める必要がある.前述のように,当社における生産能力や開発能力といった技術資産は,写真事業を発展させる中で長い時間をかけて蓄積され,最適化されてきた.その中には,製造設備や研究施設といった明示的な形で見えるものもあれば,研究者や技術者の知識や技能といった黙示的に保有されているものもあった.事業転換に際して,これらの資産をどのように活用・転用し,さらには,新たな事業を可能にする技術資産をいかに短期間に獲得するか,ということが重要な課題となったのである.

一般論で言うと,こうした技術資産の転換は極めて難しいプロセスである.研究者がそれまでとは異なる分野で開発研究を行なってすぐに成果を上げることができるのか,新しい製品の製造担当になった技術者が新たな生産プロセスを構築し,高い品質の製品の安定製造を維持管理していくことができるのか,そう考えれば難しさがわかるであろう.経営環境の激変に直面したときにどういう対応をとるのか,縮小しつつあることが分かっていながら旧来の事業に固執し,企業全体としてその立て直しに躍起になることが通常の対応となってしまうのも十分に理由のあることなのである.それを断ち切り,新規分野に向けて内部資産の転換を進めるには経営方針の転換を明確にし,トップダウンで断行していくことが不可欠である.既存事業に最適化された企業内資産に取り囲まれた状況で,ボトムアップで改革を待つことは極めて非効率で,実効性は殆ど期待できない.米国企業であれば,不要な資産は売却し,必要な資産をM&A等で獲得するという手段をとるであろう.これは,技術資産の転換が容易なものではないことを十分に認識しているからとも考えられる.技術が人に宿るとすれば,米国における労働市場の流動性が技術の組換え,新規技術の獲得といった流動性を支えていると見ることもできる.

2.2 オープンイノベーションによる技術資産獲得こうした難しいプロセスをどのようにマネージしていったらよいのか,そこにはオープンイノベーションの発想が極めて有用であると考えている.事業転換を試みる企業が自社だけの努力で技術資産の転換を進めるプロセスは時間を要する過程である.これを加速するには,社外の技術資産に目を向け,必要なものは積極的に取り込んでいくことが効率的である.一方,事業転換といっても全く新規の領域を目指すことはリスクが高く,かつ,非効率である.自社に全く経験のない領域の技術資産を整備するには,丸ごとM&Aで獲得する場合を除き,多額の投資と

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図2 デジタル化に伴う富士フイルムの事業構成変化

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時間を要する.従って,事業転換を短期に進めるには,自社の技術資産が活用できる分野で新規事業化テーマを選定することが基本となる.つまり,それまでの事業で獲得してきた資産の転用を基本に,新規事業で不足する資産を外部から獲得することを目指すことになる.オープンイノベーションでは,他社との協業を漠然と考えるのではなく,自社の技術資産を補完する資産の取込みを念頭に協業先を考えるべきである.

2.3 富士フイルムの事業転換時の技術資産転換事業転換,新規事業開発,といった議論では,開発,製造,販売,のそれぞれについて保有する資産と転換方針を考える必要がある.現業の縮小が急速に進む中で,短期間に確立できる事業と,長期の開発や設備整備が必要な事業とを明確に区別し,それぞれに必要な資産整備を実行することになる.こうした技術資産の転換を会社の外から見ると,売上の製品構成の変化と同時に,設備投資とR&D投資の変化として顕著に表れる.写真事業の縮小に伴う富士フイルムの設備投資(図3)と,R&D投資(図4)のセグメント別の変化をまとめて下段のグラフに示した.2000年をピークにして縮小の一途をたどった写真市場の変化に対応して,まず設備投資がイメージング分野からインフォメーション分野にシフトし,続いてR&D投資もイメージング分野からインフォメーション分野にシフトした.この変化が技術資産の転換プロセスを明確に示している.富士フイルムが写真産業の縮小に直面した際に採った行動は,まず当時保有していた技術資産の棚卸しと,それに基づいた新規事業分野の選定であった.長年に亘る銀塩写真感光材料とその周辺材料,また,写真に関わる機器開発により,社内には膨大な技術資産が蓄積されていた.この資産を改めて洗い直し,整理することで事業転換の方向性を定め,それに向けた新たな研究開発投資を開始したのである .銀塩写真感光材料はそれ自体,数多くの素材から構成される極めて複雑な材料システムであると同時に,その製造,市場での利用,周辺機器等に関わる多種の技術を総合して事業が成り立っているという

特徴がある.例えば感光材料中の感光素子であるハロゲン化銀粒子の設計・調製技術,発色材料となる多種の色材化合物の設計と合成技術,画像安定化のための褪色防止剤設計技術,有機材料の微細分散技術,ベースフィルム製膜技術,精密多層塗布技術,現像処理剤等のredox素材技術,カメラ,プリンタ等の光学機器技術,画像処理技術,といった多様な技術を挙げることができる.富士フイルム社内では,多岐に亘る技術開発を担当する多くの部門がそれぞれのコア技術を深耕,進化させる過程で,強力な基盤技術を醸成し,膨大な技術資産が保有されていた(図5).これらの技術資産を構成するコア技術の新たな組合せ,また,転用により,銀塩写真以外の新たな機能材料事業を構築できるはずである.こうした考えから,将来に亘り発展拡大する市場はどこか,その市場の中で当社の技術資産の活用により実現できる競争優位な製品は何か,市場参入後も競争優位を保ち続けられるか,その結果として高い売上と利益を継続して確保できるか,を指標に新規事業を狙う新規製品のターゲッティングと,それらの研究開発を開始した.富士フイルムの,「第二の創業」と呼ばれる事業転換 では,「融知創新」を掲げ,それまで別の組織体系に細分化されていた技術資産を統合して,その中から新たな組合せを創出していく,謂わば社内におけるオープンイノベーションを実施したのである.こうしたプロセスの有用性を実感し,現在は社外とのオープンイノベーションを積極的に展開するフェーズに入っている.創立80周年の2014年,顧客との価値共創の場としてオープンイノベーションハブを開設し,活性化を図っている.事業転換のターゲットにした新規分野は,高機能材料,ヘルスケア分野である.高機能材料分野は,写真市場の急激な縮小にやや先立つ90年代後半から偏光板保護フィルムを中心とした液晶ディスプレイ材料事業が拡大し始めていた.それら機能性光学フィルム分野への注力に並行してさらに新規材料開発を進め,透明導電材料,高耐久性太陽電池バックシート,遮熱フィルム等の様々な高機能材料を上市した.これらの材料開発には,それまでの長期間に亘る写真材料開発で蓄積されて

図3 富士フイルムの設備投資額推移 図4 富士フイルムのR&D投資額推移

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きたコア技術が新たな組合せで転用され,顧客ニーズに適合した高機能材料として製品化され,新規事業拡大に貢献した.ヘルスケア分野は,創業当時から長期間に亘り発展してきたX線診断材料や診断機器・システムなど診断分野に既存事業を展開していたが,新たに化粧品やサプリメントといった予防分野,医薬品や再生医療材料等の治療分野を加え,新規事業開発を進めた.化粧品やサプリメントの開発には,写真材料の開発に用いられてきたナノ分散技術が高機能を付与する技術として活用された.

3.事業拡大のためのオープン戦略

オープンイノベーションの重要な目的が,自社にない技術資産の獲得にあることを述べた.しかし,オープンイノベーションという概念には,ビジネス生態系における優位なポジションの確立を目指す活動も含まれる.自社の得意部分をクローズ化して独占し,そうでない部分をオープン化することで,市場を成長拡大させる原資とすると同時に,自社が手を出さないビジネスの付加価値を減じる戦略である .こうした大戦略を構想するには,自社にとどまらず,ビジネス全体の構造を俯瞰し,その中でいかに自社の利益最大化を図るかを見通し,オープン化を仕掛ける部分と自社で占有するクローズ部分を明確に区別したうえで事業化を進めることが必要である.既存事業を中心とした自社の立場を何層も超えたスケールでビジネスの構造-生態系を構想することは日本企業の不得意な分野といわれてきたが,今後の国際競争の中で勝ち抜くには是非とも必要な能力である .銀塩写真市場は,35mmフォーマットという標準

規格のオープン化により,多数のカメラ企業が参入することで巨大な市場が形成され,その中で高度な技術の集成物であるカラーフィルムが,多数の特許

と製造ノウハウでクローズ化されたコアビジネスとして存在していた.当社はこのオープン/クローズの枠組みの中で利益を享受していた.写真産業が縮小した後,富士フイルムの材料事業では液晶ディスプレイ用の光学フィルムが大きく成長したが,パネルメーカー各社の液晶ディスプレイに共通で用いられるという意味で,偏光板や輝度向上フィルム,反射防止フィルムなどは形状が規格化,オープン化された部材と見ることができる.急激に拡大した液晶ディスプレイ市場を舞台に,機能性光学フィルムに他社にない高機能を付与し,その技術を特許で独占する,クローズ化の競争が展開された.スケールの大きい新規事業の確立には,こうしたオープンな構造を持ち込むことで市場の拡大を促すビジネスフレームの構築が仕掛けられるか,ということが極めて重要なポイントとなる .

4.プロフィットシェアとクローズ戦略

ある市場が形成されつつあるとき,それが有望であればあるほど(巨大市場に成長する可能性があればあるほど),多数の企業が参入し,その中でいかに付加価値の高い部分を独占できるか,を競争する状況が生まれる.この競争に参加する企業が多過ぎると,一社で付加価値を独占することが困難になり,かつ,価格競争が発生し,利益は低下してしまう.多くの場合,複数社で有用な基本特許を持ち合う関係になるため,多数企業が参画する一方で,成功する企業が生まれにくい状況に陥ってしまう.また,有用な特許を持っている企業は,事業化が進まなくとも将来の可能性を信じて,撤退することを選択せず,開発競争が激化するものの製品化が進まず,開発経費だけが増大していく状況が長く継続する事態にもなりやすい .通常の技術開発プロセスでは,独占できるコア領域を技術的にも事業的にも確保する施策を着々と進めることになるが,往々にして製品開発が目的化し,

図5 写真感光材料事業で培われた富士フイルムのコア技術群

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プロトタイプの作成や問題点の改良に没頭してしまい,製品を市場に導入した後でどのようなビジネス生態系が構成されるのかに思いが至らないケースが多い.特に多数のプレーヤーがひしめき合う有望市場では,開発の初期に将来に亘って構想される市場全体を俯瞰し,付加価値の総額を見積もり,想定されるコアプレーヤー間での配分-プロフィットシェアを自社に有利に設定するための仕掛けを考え出し,布石を打って進めていくことが成功のための必須要件となる.

5.事業転換の成否を握るファクター

5.1 競合の排除,ビジネスを補完する仲間作り富士フイルムも例外でなかったが,事業転換は極めて難しいプロセスである.その成功のための要点をまとめると,第一に,仕掛ける新規事業の舞台が成長市場であるか,という点である.成長市場であるからこそ,新規参入者にもチャンスがある.成熟市場に後発で参入しても高い利益率を得ることは難しい.第二に,成長市場に投入する,強い製品・サービスを開発できるか,という点である.確実性が高いのは,自社が既保有のコア技術を転用・活用し,これに新たな技術開発and/or他社技術を組み合せて,十分な競争優位性を有する製品を開発するパターンである.さらに,第三の要点として,その製品の競争優位を継続して確保する技術戦略と,その権利を保護する知財戦略が策定されている必要がある.競争優位な製品で市場参入しても,その後のビジネスあるいは開発ロードマップに見通しが立てられないケースは,新製品の市場導入に成功したとしても販売が単発で後続がなく,新規事業確立にはつながらない.また,競合社の参入を防ぐ知財権の確立も必須である.競合を排除してこそ,参入した新規事業の中長期の発展が可能となる.さらに,自社で製品に必須の知財権を保有していることは,オープンイノベーションを成功させるために不可欠の要件である.一つには,クローズ領域を確保するためであるが,それらを用いたクロスライセンスの枠組みで事業拡大を図ることも可能である .

5.2 企業のアイデンティティーと求心力これらの点以外に,企業の求心力に関わる問題も

重要である.新たに始める事業,新たに開発する製品・サービスが企業のアイデンティティー,従業員のマインドにどういう親和性を持つか,という問題は,明確な指標はないものの事業転換の成否に大きく影響する.既に述べたように,事業転換にともなう企業の資産の転換は,非常に広範囲に亘る.そうした複雑なプロセスを進めるため,多くの従業員のモチベーションのベクトルを合せるには,新規事業がそれまでの企業アイデンティティーにどう位置づけられるか,ということが極めて重要である.木に竹を接ぐのは難しく,風土に合わないものは育てることが難しいのである.所謂飛び地の新規事業の成功率が低いのも,この寄与が大きいと考えられる.新製品開発のための新たな技術の獲得,新たな製造設備の建設立ち上げ,そして,製造技術の修得,さらにはセールスのための製品知識の学習,顧客との良好なコミュニケーションの確立等々,新たに獲得するためのエネルギーは,企業としての強い求心力があればこそ存分に発揮できる.こうした状況は,材料メーカーがIT事業を始めることの困難性を想像すれば容易に理解されるであろう.富士フイルムの場合を例にとると,液晶ディスプレイ用光学フィルムが新規分野向け高機能材料の筆頭に挙げられる.写真市場がピークを迎え,間もなく速いスピードで縮小が始まったのと同時期,新たな市場として液晶ディスプレイ市場が勃興し,ノートPC,デスクトップモニター,そして大型TVへと急激な成長を遂げた.図6に示すように,液晶ディスプレイではバックライトの裏側に反射フィルム,光が射出される表側から光が進む順に,レンズフィルム,拡散フィルム,偏光板保護フィルム(支持フィルム,視野角補償フィルム),表面反射防止フィルム等の実に様々な機能性フィルムが使われている.富士フイルムでは,それまでに蓄積した技術資産を活用することにより,この分野で競合に対して優位性のある,高機能,高品質の機能性光学フィルムを開発し,事業拡大することができたのである.液晶ディスプレイの性能を左右する重要な部材として,偏光板があり,それを構成する保護フィルムがある.偏光に悪影響を与える複屈折の少ないフィルムベースとして用いられたのがTACフィルムであったが,これは写真フィルムのベースフィルムに用いられてきた素材である.つまり,偏光板保護フィ

図6 液晶ディスプレイの断面構造例

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ルムは,その技術基盤を写真感光材料製造に置いているということができる.長い年月に亘り,写真フィルム用に高精度,無欠陥のベースフィルムを開発・製造してきた間に蓄積された技術資産を,液晶ディスプレイ用光学フィルムに転用することで,他社に対して競争優位な製品を開発,そして製造することができた.さらに,TACフィルム上に特殊な円盤状液晶分

子を塗布,配向させることで,液晶ディスプレイの抱えていた,見る方向によってコントラストや色味が変動してしまう欠点を抑制する,視野角補償フィルムを開発,導入することで,競合に勝ち続ける体制を構築した.また,化粧品や医薬品の事業展開も,写真感光材料製造により蓄積された技術資産が活かされている.もともと,写真感光材料は多くの機能性化合物を組み合せて構成されるファインケミカル製品である.高度な機能を有する分子を設計し,合成する技術力は,医薬品開発に欠かせない分子デザイン力として活かすことができる.また,多種多様な化合物を20μm程度の薄い塗布層に組込むために開発してきたナノ分散技術,安定化技術等は,狙った部位に最適量の医薬品を届けるドラッグデリバリー技術や,化粧品に高機能素材を組込み,競争優位な性能を付与するのに極めて有用な技術として転用することができる.こうした事業転換の過程で,富士フイルムという企業の目指す姿はどのように変わったのであろうか.写真事業を主体としていた時代,富士フイルムの企業理念は「映像と情報の文化を創造する」というものであったが,これは事業転換の後,「人々の生活の質のさらなる向上に寄与する」というものに変わった.しかしながら,その根底に流れる企業ポリシーは,写真時代から一貫している.写真を生業としている時代は,写真を「人々の大切にする感動に貢献するもの」としてとらえ事業に取り組んできた.

新しい事業を手掛けるようになっても,「人々の大切にする感動,健康,美しさに貢献する」ことは全く変わらないのである.その意味で,富士フイルムという企業の求心力はしっかりと維持されてきたということができる.

6.オープンイノベーションの成否を分けるもの

6.1 新製品開発の技術デザインと連携スタイルまず始めに,新規事業の主軸となる新たな製品の開発にはどのような技術が必要なのか,それらは既に保有しているのか,これから開発するのか,あるいは,社外から獲得するのか,といった具体的な技術資産の状況と技術デザインの方針を明確化することが重要である.これに基づいて製品開発のシナリオが作られ,また同時に,社外連携のスタイルも明確になる.いくつかの連携の形態を図7に示した.既に述べたように,事業転換に際しては,社内の技術資産の組換えが必要になる.そこで求められるのは,高い視点から俯瞰した技術資産の整理と,開発が求められる製品(の完成と競争優位性付与)に必要な技術の把握である.新たに必要となる技術は何か,それはどこにあるのか,まず探すべきは社内のそれまで関連の薄かった部門である(図7の企業Aと企業Bが社内の別部門であるケース).このプロセスは,社外を対象にしたオープンイノベーションプロセスの考え方と全く同一である.言ってみれば,社内オープンイノベーションともいうべきプロセスであるが,社内だからといって容易いものではない.開発目標の製品をデザインするのにどれだけの技術が必要で,自部門ではそのうちどれだけの技術を保有しているのか,を知り,不足する技術を他部門から導入することを適確に,スピード感を持って進めなければならないが,自社内ですらこれができないとすると,他社とのオープンイノベーションの枠組

図7 製品開発のタイプと連携スタイル

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みを作ることなど覚束ないと考えなければならない.社内か社外かを問わず,新製品開発の遂行に適切なアライアンス関係(図7)を,狎れ合いでなく確実に構築できるかどうかは重要な観点である.こうした関係を作る中で,自社の強み技術は何か,それをクローズにして収益源とできるのか,といったことも見定めていかなければならない.

6.2 オープンイノベーションの罠市場分析に基づいて新規事業のコアとなる製品ターゲットを設定し,開発に取り掛かるが,その際に自社で保有していない重要技術の獲得が必要な場合,他社との間でオープンイノベーションを活用して効率的な開発を目指すことになる.しかし,このプロセスで躓くことも多い.日本企業間では,「牧歌的なオープンイノベーション」 が喧伝され,当事者間に厳しいビジネス意識が乏しい.グローバルレベルでは,企業の生き残りを懸けてオープンイノベーションを巡るせめぎ合いが繰り広げられている.こうしたオープンイノベーションで陥る失敗のパターンには,以下の表1に示すようなタイプがある.日本では,オープンイノベーションと言えば仲良く協業することに集中しがちだが,グローバル企業間ではオープンと言いながら厳しいビジネスの戦いの場であり,「したたかな戦略」無しには利益を得ることは難しい.オープンに連携する相手とどのような関係を作り,どのように利益を分配するのか,連携を始める時に最終的に狙う姿,ビジネスモデルを構想しておくことが必要となる.日本企業は往々にして「全部独り占め」をしようとして相手と決裂したり,「どうぞ持って行って」とばかりに利益を殆ど諦めてしまったりする残念なケースが見られる.

6.3 オープンイノベーションによる事業拡大先に述べたように,オープンイノベーションの効用として,これを活用することでビジネス生態系を豊かなものにし,その中で優位なポジションを確保していくための活動も含まれる.未成熟市場を大きく成長させるビジネス環境を構築するためには,参加するプレーヤーを増やして彼らの力を借りることが必須となる.この場合,外部からの技術獲得を狙ってオープンイノベーションを進めるときと異なり,ビジネス生態系への参加者のインセンティブを高めることが極めて重要な目的となる.招き入れる側は,より広範囲の市場構造について目指す姿を明確に描き,参加プレーヤーには,そこに大きいビジネスチャンスを感じてもらう必要がある.そうした関係を構築するための戦略的手段としてオープン化を活用していくのであるが,どこをオープン化すれば最も効果的に市場拡大が達成で

きるのか,形成されたビジネス生態系の中で自社の利益を確保するためには何をクローズ化して押さえなければならないのか,といった全体俯瞰に基づき,予め戦略シナリオを練り上げることが重要である .

7.まとめ

企業の事業転換では,技術資産の転換がうまく進むかどうかに成否がかかっている.富士フイルムの場合,事業転換に際してまず自社の保有する技術資産を棚卸しし,それらを整理把握することで,新規事業立上げに必要な資産の中で足らないものを明確にし,それらの速やかな獲得を進めることを行なってきた.これを効率よく進めるには,オープンイノベーションのプロセスの理解と実践が有用である.その際,社内の異部門も,他の企業や大学と同様に必要な技術資産の源泉となる可能性がある.また,オープンイノベーションを活用して未成熟市場の拡大を目指す場合には,広いパースペクティブでビジネス生態系を構想し,オープン化を活用したインセンティブの設定で,多数のプレーヤーの参加を加速することが極めて重要である.さらに,以上を必要なスピードで進めることができるかという点も重要なポイントである.狙った新規市場,新規製品,その競争優位性に間違いがなくとも,市場参入のタイミングを逸してしまえば,成功にはつながらない.

引用文献1)古森重隆「魂の経営」東洋経済新聞社2)伊丹啓之「新経営戦略の論理」日本経済新聞社3)妹尾堅一郎「技術力で勝る日本が,何故事業で負けるのか」ダイヤモンド社

4)小川紘一「オープン&クローズ戦略」翔泳社5)鮫島正洋「知財戦略のススメ」日経BP社

表1 オープンイノベーションの罠

失敗パターン 陥る罠 そうならないために

宮沢賢治「注文の多い料理店」型

料理を注文して食べるつもりが,実は食べられる立場に……

相手企業のビジネス戦略をしっかり把握して臨むことが肝要

イソップ童話「狐と鶴のご馳走」型

相手が食べられない食器でご馳走を振舞うふりだけ……

ビジネスプランが双方の利益につながるかの確認が必要

イソップ童話「ずるい狐」型

利害を争う2社の間を取持ちながら,しっかり肉を食べてしまう……

特に標準化,フォーマット等の争いでは全体を俯瞰すること

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