Tut-ankh-amen...Tut-ankh-amen ツタンカーメンの死 鈴木 菜津美 (ツタンカーメンの...

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エジプトの歴史 研究者:鈴木菜津美 下條翔子 久保尻恵 担当教論:中村宏 先生 エジプトには、非常に興味深い点がたくさんあります。それは、人物であったり、政治であったり、 民衆の生活習慣そのものであったり…その人個人によって異なりますが、その一つ一つはとても魅力的 なものです。そこで、私達は一人一人が興味を持った事柄について今回“エジプトの歴史”という形で 発表したいと思います。 Tut-ankh-amen ツタンカーメンの鈴木 菜津美 (ツタンカーメンの 黄金のマスク) (黄金の玉座) (黄金のサンダル) (矢車菊の花束) 1、動機 古代エジプトの悲劇の少年王ツタンカーメン・・・彼のミイラを CT スキャンした結果、中肉中背の 健康状態であり、二十歳に満たない年齢で死亡している事だけが解明されている。だが、彼がなぜ、死 んだのかは現在も解明されていない。そこで、私は仮説を立てて彼の死の謎に迫ることにした。 2、要旨 現在解明されている結果から、彼の死は明らかにおかしいと判断出来る。したがって私は〝彼は殺さ れた〟と仮定して研究を進めた。彼に関する文書を調べ、彼の家族構成、時代、政治などの面から彼に 近かった人物を絞りだし、ミイラや王墓に見られる手がかりから死因も判定しようと試みた。 3、ツタンカーメン治世に至るまでのエジプト 世界中で彼の名前を知らない人は、ほとんどいないだろう。古代エジプトで最も有名なファラオ 3-1

Transcript of Tut-ankh-amen...Tut-ankh-amen ツタンカーメンの死 鈴木 菜津美 (ツタンカーメンの...

エジプトの歴史

研究者:鈴木菜津美 下條翔子 久保尻恵

担当教論:中村宏 先生

エジプトには、非常に興味深い点がたくさんあります。それは、人物であったり、政治であったり、

民衆の生活習慣そのものであったり…その人個人によって異なりますが、その一つ一つはとても魅力的

なものです。そこで、私達は一人一人が興味を持った事柄について今回“エジプトの歴史”という形で

発表したいと思います。

Tut-ankh-amen

ツタンカーメンの死 鈴木 菜津美

(ツタンカーメンの 黄金のマスク)

(黄金の玉座) (黄金のサンダル) (矢車菊の花束)

1、動機 古代エジプトの悲劇の少年王ツタンカーメン・・・彼のミイラを CT スキャンした結果、中肉中背の

健康状態であり、二十歳に満たない年齢で死亡している事だけが解明されている。だが、彼がなぜ、死

んだのかは現在も解明されていない。そこで、私は仮説を立てて彼の死の謎に迫ることにした。

2、要旨 現在解明されている結果から、彼の死は明らかにおかしいと判断出来る。したがって私は〝彼は殺さ

れた〟と仮定して研究を進めた。彼に関する文書を調べ、彼の家族構成、時代、政治などの面から彼に

近かった人物を絞りだし、ミイラや王墓に見られる手がかりから死因も判定しようと試みた。

3、ツタンカーメン治世に至るまでのエジプト 世界中で彼の名前を知らない人は、ほとんどいないだろう。古代エジプトで最も有名なファラオ

3-1

(王)と言えるかもしれない。だが、彼の名前は知っていても、いつ、どんな時代を生き、どのような

人生を送ったかは、あまり知られていないように思われる。ここではまず、彼の祖父アメンヘテプ3世

の治世から彼の父アメンヘテプ4世、そして少年王ツタンカーメンが生きた混乱の時代を政治・宗教な

どの面から簡単に説明したいと思う。当時のファラオは妻を何人も持てた上に異母姉妹や実の姉妹、娘

とも結婚していたと言うから、かなり複雑になってしまう。ツタンカーメンの死の謎を理解するのにも、

家族構成は欠かせない。したがって、わかっている範囲での家計図を用いて説明したいと思う。 時は紀元前 1325 年頃にさかのぼる。当時のエ

ジプト第18王朝(新王朝時代)はツタンカーメン

の祖父にあたるアメンヘテプ3世が国を治めて

いた。彼の治世は約40年におよび、エジプト史

上最も繁栄をみた時代・世界史上最も楽園に近づ

いた時代と言われる。この豊かな時代、神々もた

くさん居た。太陽神ラーから始まり冥界の王オシ

リス、ミイラ作りの神アヌビスなどと実にさまざ

まな神がいた。多神教が伝統で彼らの精神世界を

形作っていた。アメンへテプ3世の時代にファラ

オ以上の権威を持ち始めた、アメン神官団に対抗

するためアテン信仰が少しずつ育成されていた。

長男のトトメスが亡くなったため、アメンヘテプ

3世が亡くなると、次男のアメンヘテプ4世(ア

クエンアテン)が次のファラオとなった。神官団との対立が彼の面前にあった。 そして、彼の第一王妃がかの有名な“ネフェルティティ”である。

(右図:アマルナ時代を代表するネフェルルティティ像) この二人の間には六人の子供が生まれる。そのうちの一人が、後のツタンカーメ

ンの妻“アンクスエンアメン”である。ここではもう一人紹介したい。アメンホテ

プ4世の第二王妃“キヤ”、彼女が少年王ツタンカーメンを生んだ女性である。 彼の治世は約20年、その中でとても大胆でしかも、一方的に大きな宗教革命を

やろうとした。その内容を一言で表すと多神教から一神教の宗教改革である。この

改革を持って、政治的に対立していたアメン神官団に対抗しようとしたらしい。テーベからアマルナに

遷都したのもその一環である。アテン信仰は偶像を禁止し、他の神への崇拝を認めさせなかったのでい

ろんな神の像を破壊した。この際にアメンへテプ4世はさまざまな人物から反感をかったことだろう。

(ツタンカーメンは、この政治的、宗教的な混乱にあまり関与せずに平和に育った)後に彼がなくなると、

すべてが元に戻された。このアテン信仰は世界最古の一神教として名高いが、ファラオの狂言的性格に

元づくものとも言われ、多神教伝統に反し、追随者は少なく、改革は王一代で終わりを告げた。 そして、次にエジプトを治めることになるのが9歳で即位したツタンカーメンである。まだ幼かった

王が抱えるには難しすぎる問題が多かったため、20歳までは神官達や宰相アイなどが政治を動かすこ

ととなった。これで彼らは強力な権力を持つこととなる。宰相とは、今で言う総理大臣の様なもので彼

は、ツタンカーメンの祖父の時代から王家の役人として勤めていた。従って彼はツタンカーメンも心を

許していた人物と言えるかもしれない。

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4、研究内容 ツタンカーメン殺害の原因を探るには、ツタンカーメンの死後の様子を探る事から始まる。現在解明

されている事実や書物などを調べる事によって、紀元前1325頃に起きた事件ではあるが、疑わしい

人物を二人に絞りこむ事が出来る。 未亡人の手紙*まず、はじめに未亡人となったツタンカーメンの妻アンクスエンアメン(左図)が、

当時敵対していたヒッタイト国に送った手紙がある。エジプト側には残っていないが、ヒッタイト側に

残っていた。その手紙の内容が、彼女の心境を非常に良く語っていると言える。その内容は、以下のよ

うなものである。 あなたにはたくさんの子供がいると聞きます。私には子供がいません。もし

よかったら、あなたの息子の一人を私に下さい。息子を送って下さったら、彼

をエジプトの王として迎えましょう。 私は決して自分の部下を夫になどしま

せん・・・恐ろしいのです。(左図:ルクソール神殿、アンクスエンアメン像)

この手紙で最も気になる事は、最後の一文である。何か助けを強く求めているよう

に聞こえる。彼女は何を恐れていたのだろうか?誰か、部下に婚姻を迫られていたのだろうか。純粋な

王家の血を引く男性がいない場合、当時の王位の継ぎ方は、王位継承権を持つ女性との結婚。女性は王

にはなれず、政治の道具として使われた。まだ、若かった王や王妃が政治を動かせるわけも無く、神官、

将軍が非常に強い権力を持っていた時代である。誰かが、次の王になるチャンスを狙っていたのだろう

か。 王妃が外国人に結婚を申し込み、相手を王にするなどと言ったのは、エジプト史上このときをおいて

他に無いらしい。当時、遠征から帰った将軍達は手かせをつけた捕虜のヒッタイトの一団をツタンカー

メン王の前に引き連れていた。このような場面を見ていながら、彼女が結婚したいと思うからには何ら

かの状況があったはずだ。エジプトの書記は、当時の国際語(アッカド語)を書くことができ、それは公

文書として、公文書館に収められた。だが、その公文書館にアンクスエンアメンの手紙はない。考えて

みれば、ツタンカーメンの顧問で宰相であったアイが外国によるエジプト支配など認める分けがない。

ヒッタイトと命をかけて戦ったホルエムへブ将軍もこの手紙の内容を心よく思わないのは当然である。

したがって、アンクスエンアメンの手紙は両国間の通信ではなかったと考えられる。一方、ヒッタイ

ト王は慎重にかつ疑い深くこの要求に応じた。今まで敵対していた国が、こんな突拍子もない事を言い

出してきたのだから驚くのも当然である。彼らは、“エジプト王妃は自分達をだまそうとしているので

はないか?”と疑い、初めに使者を送った。しばらくして、その使者がエジプトの使者と共に帰ってき

た。ヒッタイト王は“王子を送れば王どころか人質にされてしまうのではないか?”と尋ねた。だが、

懇願する使者の口調に事態がいよいよ切迫している様子が感じ取れる。『これは国の恥をさらしている

のです!王の息子さえいれば、外国にきてこんなに何度も我々の王となる人を求めるでしょうか?我々

は他のどの国のも行っておりません。この国だけにやってきたのです!どうかあなたのご子息をお送り

下さい!』(この史料も、当時のヒッタイトの書記が記録していたもの)情け深いヒッタイト王は王子の

一人をエジプトに送った。 しかし!王子はエジプト国境付近で何者かに殺された。これに、ヒッタイト王は激怒しエジプトに攻

め込んだ。《結局この時は小競い合い程度の小戦争で終わった様子》 王子は誰に殺されたのだろうか?エジプト軍の騎兵隊に出初を命じて、休戦旗を掲げてやってくる外

国の使者を殺害させる事のできる人物だろう。アンクスエンアメンがヒッタイト王子と結婚すると、最

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も損をするのは誰だったろうか? …‥それは、彼女に婚姻を迫り、王位を狙っていた人物であるは

ずだ。 その後実際彼女は、宰相アイと結婚しアイが王になっている。アイは疑わしい彼は、初めから王にな

るつもりだったのだろうか? ツタンカーメンの王墓*彼の墓は、準備が間に合わなかったせいもあって十九歳で生涯の幕を閉じ

た少年王にふさわしい「粗末」な小さい墓である。だが、その壁画は私達に実にたくさんの情報を与え

てくれる。

その一つが、死者が来世で口が聞けるようにとミイラの口を鋭い手斧で開けて

おくと言う“口開けの儀式”図である。(右図、右:アイ、左:ツタンカーメン)

その絵は普通、王墓では描かれない。その絵が意味する最も重要な事は、この行

為を施すのは次の後継者であると言う事である。つまり、その絵を見れば次の後

継者が誰であると言う事が明白になる。この墓で、ツタンカーメンの口に手斧を

あてている人物は、あの宰相アイである。この墓の監督をアイが行ったと考えれ

ば、なぜその絵を描かせたかは、だいたい想像がつくだろう。それに、この墓の壁画にはアンクスエン

アメンの姿がない。王は良く王妃の姿を一緒に来世に行けるようにと自分の墓に描かせた。二人は幼な

じみであり、夫婦であった、彼らの強い結びつきを考えると、彼女の姿が墓に無いのはとても奇妙であ

る。当然の事ながら、墓は彼女が生きているうちに作られた。アイとアンクスアメンの不和を王墓の壁

画はものがたっているのではないか。

次は彼の遺品である。王墓に何を入れるかは、すべて王妃が指示を出す。彼の遺品には、王が付けて

いただろう装身具、生活用品などがある。その中に1つ気になるものがある。それは、割れる事なくそ

のままの形を留めていたワイン壺である。古代エジプトでは、新しく出来たワインを神に捧げそれを王

が飲むという儀式が三月末にある。そのワインは毒見係も飲んではいけないとされている。その後、ワ

インの壺は割ってしまって形は残らない。それでは、なぜこの壺は割れずに残っていたのだろうか?こ

れには二通りの説がある。1つ目は、この儀式を行う前にツタンカーメンは亡くなったので儀式は行わ

れず、壺も割られる事がなかった。二つ目は、彼はワインの中に入っていた毒で殺害され、アンクスエ

ンアメンが割れていない壺を密かに王墓にいれ、殺害の原因を探らせるために来世にメッセージとして

残した。というものである。

ツタンカーメンのミイラ*彼のミイラを CT スキャンし、手脚の骨端(こったん)と呼ばれる骨を見

て、年齢推定をする事ができる。この骨が骨幹と結合するのは20歳頃だが、こ

のミイラは結合していない。18歳・19歳で結合する、大腿骨頭は大腿骨顎と

つながっていたが、結合部の線が関節のまわりにはっきりと残っていた。つまり、

結合して間もないと言う事がわかる。以上から、ツタンカーメンの死亡時の年齢

は18歳以上20歳以下となっている。

次に、左足の膝にかなり深い傷、発見。(骨折?)

頭蓋骨の中に血腫を確認。事故とは考えにくい、首と頭の付け根の傷つきにくい部分。骨折はしてい

ない。頭部に打撲を受けた可能性あり。(矢印の位置が打撲を受けた可能性がある位置、図上矢印)

彼のミイラの胸上に手作りの矢車菊(右図)と言う花の花束があり。この花がエ

ジプトで開花するのは4月~5月頃とされているので、ミイラ作りに必要な二ヶ

月間を逆算すると、死亡時の時期は2~3月頃と推測できる。よって、ワインの

儀式(3月末)と時期がかろうじて一致するともいえる。

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消された王名表*

エジプトには、歴代の王たちの名が彫ってある王名表が神殿などによく見られる。だが、現在ツタン

カーメンの名が残っているのはルクソール神殿だけである。彼は王家の碑文・神殿の王名表などから名

前だけでなく、彼の生涯についての出来事がほとんど消されている。しかも、そのように消されている

のがツタンカーメンだけでなく、彼の祖父のアメンホテプ3世以下の治世にあたった、アクエンアテ

ン・ツタンカーメン・アイ全てが消されていると言う事である。アイの治世が終わった後は、ホルエム

へブが王位についている。つまり、ツタンカーメンの名前の上にはアイの名前を彫った後があり、アイ

の名前の上にはホルエムへブの名前が彫られている。従って、現在の王名表ではアメンへテプ3世以下

の治世はホルエムへブと言う事になっている。<ホルエムへブが疑わしい二番目の人物である。>

だが、ホルエムへブがツタンカーメン殺害に直接関っていた可能性は低いと考えられる事実が二つあ

る。1つ目は、彼は低い身分の出身であるが、実力者であり、特にツタンカーメン王の下で「軍司令長

官」などをはじめとする十個の称号を獲得し今まで以上に出世できたと言う事。二つ目は、彼はアマル

ナ時代(多神教から一神教への大変動時代)に関ったとされる人物の墓をすべて破壊しているが、ツタン

カーメンの墓だけは破壊されていない。しかも、一回盗掘にあっている彼の王墓を再封印したのは彼だ

と言う可能性もある。もし、彼が殺していたとしたら彼の墓も他の王と同じように破壊していたはずで

ある。

5、考察

以上の研究内容から言ってツタンカーメン殺害の真犯人は宰相アイ(左

図)であったと私は考えた。アイの一世紀前に彼と同じ職に就いていたレミ

クラと言う人物の墓に『宰相の知らないところで、何者も王宮に出入りさせ

てはならない。』という記録が残っている。アイにとって、自分の都合の良

い機会を作り出すのは簡単であったはずである。彼には、実力もあり信頼も

あった。彼が一声かければどれだけの人物が動いただろうか?ヒッタイトの

王子殺害については、死んでもヒッタイトなどに従わないホルエムへブ将軍に話を持ちかけたのかもし

れない。

彼の動機を考えると、やはりアメンへテプ4世時代の大胆な宗教改革と関わりがあるのだろう。多神

教伝統を破り、強引に改革を進めたアクエンアテンに怒りを覚えていたと考えられる。そして、ツタン

カーメンが、自分で政治を動かせるようになったら、父の政治を再び繰り返されるのではないか?と恐

れていたと想定した。

では、どのようにして殺されたのであろうか?私は、「アイは二回ツタンカーメンの殺害を試みた」

と考えた。一回目は、遠征中のツタンカーメンの頭部を後ろから鈍器のような物で殴り、事故に見せか

け殺害を試み、この時に彼のミイラに発見された血腫が出来た。だが、これは致命傷にまで至らず、計

画は失敗に終わった。

二回目は“ワインの儀式”を利用してワインの中に毒のある物質を入れ、自然死に見せかけ、中毒死

させた。これが成功したものと考えられる。(その毒の物質名は「ドクニンジン」ヨーロッパ原産のセ

リ科ドクニンジン属の植物で、北アフリカなど広く生息している。古代ギリシアの哲学者ソクラテスが

この毒杯で死んだとして有名。四肢の末端から次第に毒が多少の時間をかけて回り、意識はそのままに

肉体だけが硬直していく。呼吸に必要な横隔膜の筋肉も麻痺するから心臓は動いていても呼吸困難にな

り、最後は窒息死する)これによって、アイは完全犯罪を試みたと仮定した。

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6、研究を終えて

できる限り多くの資料を使い、ツタンカーメンのミイラ、王墓、当時の政治や人間関係を知ることに

よって少しでも当時の状況を再現する事が出来て良かった。今回の研究から、ミイラとなった死体から

も実にたくさんの情報が得られる事を学ぶことができた。ツタンカーメンの“死体”にはその死の原因

となりうる可能性の、あらゆる証拠が秘められていると実感した。ワインに入れられた毒の種類の特定

や、撲殺が可能となるような状況があったのだろうか、などの疑問点がまだ残っている事が残念ではあ

るが、なにしろ紀元前 1325 年頃の殺人事件なのだから犯人を断定することは出来ないのは仕方のない

ことかもしれない。それでも自分なりの仮説をたて、歴史的な文献などから、犯人を絞り込むことがで

き、良かったと思う。ただし、死の原因を探るために、一つの視点からだけではなく、さまざまな視点

から見る必要があったにも関わらず、一つの考え方にこだわってしまったのは反省点の一つである。

写真資料及び本文引用・参考文献*

http://yasashi.info/ya_00002.htm

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/yorokoko/ejiputo/ejiputo5day.html

http://www.age.jp/~anubis/EGYPT/TWT/mammy/mammy.htm

http://www.asahi-net.or.jp/~VR3K-KKH/egypt/egypt4tutankmn/kamen.htm

http://www.drugsinfo.jp/contents/data/ta/dato4.html

http://www.rpm.or.jp/home/GreenBell/k-web/k-birthday/march/3-15.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89

http://www.m-n-j.com/medianetjapan/frog/tutankhamen.htm

『誰がツタンカーメンを殺したか』ボブ・ブライアー著 原書房出版

『古代エジプトうんちく図鑑』 芝崎みゆき著 画・文 バジリコ株式会社出版

『毒草大百科』 奥井真司著 株式会社データハウス出版

古代エジプト音楽について

下條翔子 1、はじめに 古代エジプトを調べるにあたって、その時代にあった音楽を調べてみたいと思ったから。 そしてまた、音楽の重要性、エジプトという神秘的な場所で人は音楽をどのようなものとしてとらえて

いたかを知りたいと思い、研究する事にした。 2、古代エジプト音楽の現状 古代エジプト音楽には謎が多く、現在もよくわかっていない部分が数多く存在する。そしてさらに、

古代の楽器には現存する物も多い一方、その楽器の演奏者においては詳しく記されておらず、また、録

音物や楽譜が残っていないため、資料による研究も難しいとされている。しかし、古代エジプトに楽器

による音楽が存在した事は、浮き彫りに楽器が描かれている事から明らかである。図像資料からの解釈

ではあるが、“ハープ奏者が触れている弦によって音階が・・・”もしくは“歌詞になったとされる文章の

語句から何らかの手がかりがつかめるかもしれない”と、研究者たちは研究を進めてきた。よって今現

在、旋律やリズムなど、全てが解明されたわけではないが、研究によって明らかになった事も確実に存

在するのである。 3、研究内容 (1)庶民の音楽 芸術としての音楽を楽しめる者は、古代エジプトにおいても少数である。それ以外の者たちは、日常

生活の一部として音楽を取り入れた。 例としては、種まきや収穫の時に農民たちが歌う歌や、漁師たちが息をそろえてオールをこぐ時の労

働歌があげられる。 [麦刈りの一場面] 古王国時代 問いかけ:仕事のできる奴ぁ、どこだ? 別の男の笛の音を背景にして、もう一人がムギの束を片手に応える。 応 答:おいらのことさ。

このように二手に分かれた歌い方には、歌詞を交互に歌う事で作業をはかどらせる助けをしたのではな

いかと言われている。 (2)神官・高官の音楽

先程紹介した農民たちは生活のリズムと

して祭りを行い、そこにも音楽は登場したが、

それなりに身分の高い者たちのそばにも、ま

た、違う考え方の音楽が存在する。それは墓

の壁に頻繁に描かれているアンサンブルで

ある。これは、死後の世界を意識した非常に

エジプトらしい考え方だと言われるが、その

アンサンブルに描かれた「葬儀の楽師たち」

の務めが、墓の主や、そこに葬られている家

族への供物が運ばれる際に付き従う事だっ

たことが想像される。葬儀と音楽が密接に結

びついていた。 また、中王国時代のハープの壁画では唯一

丁寧に装飾が施されたものがある。アンテフイケルといわれた人物の墓に描かれたもので、彼は自分の

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死後永遠に音楽のある生活を楽しむ事ができるようこれを描かせたと考えられている。このことから、

彼らにとって音楽とは生前だけではなく死んだ後も共に持って行きたい重要な物だったと推測する。 (3)音楽をつかさどる神々 ここでは多神教のエジプトにあって、音楽とかかわりのある神をひろい出してみた。

トト神 エジプト各地で崇拝されていた神。ギリシアの歴史家は、トト神が初めて「星々の規

則正しい配置と、音楽の響きの調和とその性質を観察し・・・・・・また彼はリラを創ってそ

れに3本の弦を与えた。それは1年の季節になぞらえたもので、高音は夏から、低音は

冬から、そして中間の音は春から採られていた。」と記している。彼がこれを書いた時

代的背景はよくわかっていないが、「書記の守護神」であり、「魔術の王」とも呼ばれて

いたトト神が、さらに宇宙の音楽に関連した役割を担っていたとしてもおかしくはない

と言われている。

オシリス神 紀元の頃のある史書によると、アレキサンドリアでとりわけ好まれている管楽器モナ

ウロス(アウロスは双管のリード楽器で、モナウロスについては詳細不明)を発明した

のはオシリス神であるといわれている、と記されている。ちなみにオシリスは「冥界の

王」として最もよく知られているが、「音楽と踊りを愛し楽しむ者」でもあった。 ベス神 「家庭の守り神」、「妊娠・出産をつかさどる神」。さらに踊りや音楽を披露して庶民

を楽しませるという、自らも楽を奏でる唯一の神である。エジプト庶民にとっては、

国家神、都市神などのおもだった神よりもずっと身近な存在だったようである。この

神が得意とした楽器は、太鼓、タンバリン、ハープ、リラ、オーボエなど数多い。ま

た、人間がベス神に向かってタンバリンなどの楽器を演奏しているような図も見られ、

まるでベス神が国家の主要な神々と同じように深く崇拝されていたかのように思える。

ハトホル女

女神たち

神 「愛の女神」、「死者の守護者」などと呼ばれ、様々な神性を持つ神。同時に「踊りの

女主」や「音楽の女主」としても知られる最も音楽と関係の深い神であり、彼女を褒め

称える言葉や歌は多い。シストルム(下図)という打楽器の持ち手の上部がハトホルの

頭部をあらわしているという。ハトホル神殿階段室には次のような詩が刻まれている。 天空とその星々は御身のために楽を奏でる 太陽と月は御身をほめたたえる 神々は御身をほめそやす は御身のために歌う

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(4)神と楽師 歌によって褒め称えられる神はハトホル女神だけではない。神殿の楽師(神々の栄光をたたえるため、

音楽を奏でる職業集団)がその信仰の証として、神に向かって一人で演奏している姿を描かせた個人的

な記念物もよく見られる。そうした記念物の多くには、楽師の名が記されている。 例えば、メンデスのハルナクトは雄ヒツジの頭部を持つその地方神の前で双管オーボエを、ジェドケ

ンスウアンクはラー・ホルアクティの前でハープを奏した。(下図)なかでも、ハープの独奏者が信奉

する神の前で演奏するという画は、たいへんよく見られる題材だ。

4、まとめ

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古代エジプトでは、音楽は仕事歌として、そして芸術・娯楽

としての価値だけでなく、死後も死者を楽しませるために重要

な役割を担っていたことがわかった。また、人々の崇拝するエ

ジプトの神々と、彼らを称える歌を歌う楽師たちの関係も深い

ものだった。古代の楽器が発見され、それらの楽器や壁画から

次々に新しい可能性が研究されている現在、もしも今までの理

論を覆すような大発見・・・・・・例えば、楽譜として音が記された

ような痕跡が見つかったとしたら、古代エジプト音楽はさらに

興味深いものとなるだろう。 5、おわりに 資料が少なく、加えて『音楽考古学』という未知なる分野の

ため、「・・・と考えられる。」 「・・・と想像される。」ということばかりで、どれも断言はできなかったけれど、関係する本を読み、意

外な一面を発見する事も多かった。「もしかしたら・・・だったんじゃないか。」など、考えてみるとエジ

プトが以前より身近に感じられた。 そして、やはり古代エジプト独特の思想は、私たち現代の日本人の考え方とはだいぶ違い、あらため

て文化の違いを見つける事になった。それが今回とても面白いと感じた。 6、参考文献 古代エジプトの音楽 リーサ・マニケ著 弥呂久 物語古代エジプト人 松本弥

古代エジプトの死生観について 久保尻恵

研究の動機 古代エジプトの考え方は日本とは随分違うと感じ,もっと詳しく知りたいと思いました。特にエジプト

の死生観については前々から興味があったのでこのテーマを選びました。

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1. 人々は死をどう捉えていたか 古代エジプトの人々にとって死後の世界は生前の世界と全く変わらないものだとされました。死後も

肉体はあるので、食事をしたり畑を耕したりもします。このように死は一生の延長線上でした。そうな

ると死者があの世で暮らすためには体が必要になります。砂漠に埋めた遺体がカラカラに乾いた干物の

ような状態で見つかることがありました。人々はそれをもとにミイラを作り始めました。ミイラは保存

が利くので死者の復活のためには都合が良かったのです。

2. 人間を構成するもの ところで,日本では人間には魂とそれが宿る肉体の2つがあるという考えが一般的なのではないかと

思いますが、エジプトは分類の仕方少し違います。人間は「見えるもの(ケト)」と「見えないもの(シ

ュト)」でできていると考えられていました。ケトは身体または死体を表し、シュトはさらにバァとカ

ァに分かれます。バァは,生命力を人格化した霊魂のようなもので死後一旦体から離れますが、鳥の姿に

なり定期的に遺骸に戻ってくるのです。それによってその人間は永遠に命を更新することができます。

(ミイラはここで役に立つのです。)カァについては考察で述べたいと思います。

3. 死者の為の呪文 死者があの世へ行くのを助けるための呪文は古王国時代(前3100~前2700)からすでにあり,

その頃の文章は『ピラミッドテキスト』と呼ばれました。ピラミッドテキストはピラミッド内部の壁に

刻まれ、そこに葬られた王が来世で幸福に暮らせるようにつくったもので、呪文は王だけの特別なもの

でした。しかしその後諸侯が独自に軍隊を蓄えるなど力をつけていくにしたがってファラオによる国の

統一が難しくなっていきました。王朝とは名ばかりでエジプトの中心地はその頃有力だったテーベ候が

治めるテーベに移っていったのです。 そして中王国時代(前2050~前1800)になると『コフィンテキスト』というものが作られま

した。「コフィン」とは棺という意味で呪文は棺の内側に刻まれました。これは神官や先の古王国時代末

期から力をつけていった神官や高官などの身分の高い人間の間に広まりました。 さらに一般の民衆にも呪文が広まっていきました。(民衆の地位が以前に比べて上がり、宗教面でも

平等を求めた。)そしてある考えが生まれました。皆が来世で幸せに生きられるのなら、現世ではどんな

ことをしてもいいのかという疑問です。ちょうどその頃,新王国時代(前1570~前1090)に『死

者の書』が作られたのです。これはピラミッドテキストやコフィンテキストの影響を受けてそれをさら

に発展させたものですが、一番の違いはパピルスに書かれていることです。それはつまりより多くの人

に広まったということを意味しました。これでほとんどの人が来世の心配をしなくて良くなったかとい

うと,そういうわけでもありませんでした。死者の書には「死者の審判」について書かれていたからです。

4. 死後の審判 死者は死後「二つの真理の間」というところでオシリス神によって裁かれます。真理の間には天秤が

置かれ,一方の皿には死者の心臓を,もう一方には真理を象徴する羽を乗せます。(ところで古代エジプト

では心臓が思考と感情を司り、脳はそれほど重要視されなかったようです。)そして神の前で罪は犯さ

なかったと否定告白をするのです。告白が真実ならば天秤はつりあいあの世の楽園へ行くことが出来ま

すが,嘘だと天秤はつりあわなくなり、完全に傾いてしまうとその人間は地獄の猛獣アメミトに食べられ

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てしまうのです。一般的にも知られている死後の審判は初めからあったのではなく、時代や世論が変化

するにしたがって徐々に作られたものだったのです。 考察 この研究を通してよくわかったことは、日本と古代エジプトの人々の死に対する考え方の違いについ

てです。日本では仏のいる極楽浄土と地獄という二つの現世とはまったく違う別個の世界として市を捉

えられていると思うのですが、エジプトでは死は現世での延長にすぎず「死者は復活する」という思想

があったのが大きな違いになったのではないかと思います。生と死は日本では相反するもので、エジプ

トでは同一のものだったではないかと考えました。 逆に、調べてみて分からなかったこともありました。それは「2.人間を構成するもの」で出てきた

カァです。資料にはカァは「肉体を動かす生気・生命を創造し維持する力」であるという記述があり、

また「カァは人と一緒に成長し、パンやビールを食べる(飲む)」というものまでありました。カァは

「見えないもの」であるはずなのに、なぜ食べ物を食べられるのでしょうか。この日本で言う肉体と霊

魂の特徴を矛盾して併せ持っているというところが今回分からなかったことでした。 エジプトの死生観はまだまだ分からないところがたくさんあるということが分かりました。しかし、

分からなかったとしてもこのテーマは十分調べる価値のあるものだと思いましたし、とても面白かった

です。 参考文献 『古代エジプト―失われた世界の解読』笈川博一著 『古代エジプトの神々―その誕生と発展―』三笠宮崇仁著 『エジプト神話シンボル事典』マンフレート・ルルカー著 山下主一郎訳 『多神教と一神教』