Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史...

70
Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史」によせ Author(s) 山崎, 岳 Citation 東方學報 (2007), 81: 69-135 Issue Date 2007-09-25 URL https://doi.org/10.14989/71052 Right Type Departmental Bulletin Paper Textversion publisher Kyoto University

Transcript of Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史...

Page 1: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史」によせて

Author(s) 山崎, 岳

Citation 東方學報 (2007), 81: 69-135

Issue Date 2007-09-25

URL https://doi.org/10.14989/71052

Right

Type Departmental Bulletin Paper

Textversion publisher

Kyoto University

Page 2: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

東方學報

京都第八

一冊

(二〇〇七) 六九1

=二五頁

江海

の賊から蘇松

の冠

ある

「嘉靖倭冠前史」

によせて

山 崎

はじめ

一章

『太倉

州志

とそ

の背景

(一)

『太倉

州志

』と

『卒

海事

蹟』

(二)太

州簡介

第二章 成化以來雫海数事

(一)強賊劉通

(二)施天泰の齪

(一二)圖山の冤

(四)

董顧

の擾

齪と

侠勇

王様

(五)

秦瑠

・黄

の齪

(六)

王氏

兄弟

の反

三章

・松

・常

・鎭

の倭冠

(一)

倭、

沿海を

(二)

「沙民

「倭冠

おわ

嘉靖倭竃とは、中國沿海部

の商人を中心とす

る海上勢力が、明朝

の海禁政策

に反襲し、日本入やポ

ルトガル人等を巻

き込み

つつ展開した反政府活動

であ

ると

いう見解は、今日比較的廣く支持されて

いるよう

に思われる。「倭冠」

の本質

とは、人種

・民族

の別を問わな

い、多様な成員よりなる

「海賊」であり、

「商人」であり、その主要な活動範

團は、漸

ω

Page 3: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

・幅建等、明代を通じて

「密貿易」

の盛

んであ

った沿海地方

であ

ったと考えられて

いる。

日中關係史や海外貿易史等

の文脈においてならば、こうした理解で當面は十分な

のかも知れな

い。「倭憲」問題は、それぞれ完結した

一國史的文

脈で語られること

の多

い東

アジアの歴史的展開に、文字通り國境を越えたダイナミズムを添える

一大トピ

ック

である。

日本

で近年とみに盛んな海域史研究は、第

二次大戦期以前

の幽豆富な研究成果を大

いに縫承し

つつ、こうした海を越えた

ユソ

ヒトや

モノの動きをより廣

い世界史的文脈

に位置附けよう

とする試みであると考えてよ

いだろう。

かし、硯界を大きく廣げることで俘かび上が

ってくるも

のがある

一方

で、大きなも

のばかり追

って

いては見えな

のもある。十人が十人、聲をそろえ

て暗諦す

「大きな物語」だけが歴史ではな

いし、また、

いかなる

「重大事件」

も個別無数

の小さな

できごと

の連鎖

の中に位置附けられてこそ意味をも

つ。ましてや

「倭冠」

のよう

一元的な性質規

定を許さな

い概念

ついて、軍にその経濟獲展と

いう側面を謳

い上げ、平和

で牧歌的な文化交流

の個別事例を拾

い出す

ばかりでは、

かえ

ってそうした健全

この上な

「交流」を逆さに映す鏡像

のよう

に、今日的國家観

・民族観

に封する省

察を訣

いた抗倭愛國論は

いつま

でた

っても雫行線上に

ついて回るだろう。

一方、中國大陸

の學界

にお

いては、八〇年代

に再燃した資本主義萌芽論孚

が海外貿易に言及するよう

にな

って以來、

少なくとも學術的な次

元では、「倭竃」

について從前

の民族戦雫論とは異なる親鮎による研究成果

が少なからず磯表さ

てきた。それら

の研究

の基本的な見解を

一言

で表すならば、

「倭竃」とは、封建肚會

における官僚地主階級

の支配機

である明朝國家

が海上貿易

の猫占的管

理を意圖して施行した海禁政策

に封し、新興

の中小商人階級

が貿易

の自由を求

め、實力に訴えて襲動した反海禁岡箏だと

いうも

のである。大陸

におけるこうした潮流は、日中聞

の國交正常化を経て、

「肚會主義市場経濟」を掲げた改革開放

の推進と

いう中國肚會

の大きな轄換

の中から生まれ

てきたも

のであり、明代中

の商業経濟

の稜展を資本主義

の萌芽に摺り合わせることは、とりもなおさず文革期以前にも盛んに議論された中國肚

"

Page 4: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

への松蘇も励陶酒

の内在的襲展と

いう親貼を強調す

ることにほかならなか

った。ましてやそれまで學問

研究を妨げていた諸

々の要因か

ら相封的に自由にな

った個

々の研究者

が虚心に歴史資料と向き合

った時、嘉靖年聞

「倭冠」を軍なる日中間

の問題と

片づけることに蓮和感を畳えな

ったはずはな

い。

ただし、

こうした見方は

「倭冠」

の負

の側面、すなわちそ

の暴力的掠奪

がもたらした國土

・民生

の荒屡を輕覗しすぎ

るとして、當初から盛んに反封論が唱えられた。そこでは、嘉靖

「倭憲」

の中核は、戦國の封建領圭

に後押しされ、中

國側

の漢妊敗類

に手引きされた日本

「浪人」であ

り、「御倭戦箏」

は祀國防衛

のため

の封外戦箏

であると

いう

奮來

ヨソ

主張が繰り返された。爾來三〇年、大陸學界

の研究状況

は刻

々と相貌を新たにし

ており、海防や領海観念等

の問題に關

しては長足

の進歩を途げてきている。しかし、

こと

「倭冠」問題そのも

のに限

って言うなら、議論は如上

の正反封

の評

の聞を行き

つ戻り

つしながら、そ

のパターン自膿

にそれほど大

きな攣化も磯展も見られな

いよう

に思われる。

これに封し

て吉室潜

では、その地勢的要因によるも

のか、大陸に

一歩先んじて海洋

に目を向けた歴史研究

が進められ、

中國

の海上磯展を主題とした

一連

の研究叢書

が刊行されてきた。そ

こでは交易

・海防

・肚會秩序

・情報傳播と

った

々な角度からのアプ

ローチがなされ、嘉靖倭冠と

いう題材を軍なる

「外患」か

「内憂」かと

いう軍元的な本質定義

終わらせることなく、より自由な肚會史上

のトピ

ックとして捉えようとす

る動きを認めることができる。

本稿は、嘉靖倭竃

の舞壷とな

った江南

地方

に焦黙を當て、「倭竃」

に先立

って幾度となくう

ち績

いた

「民衆反齪」

現場に立ち戻り

つつ、そこに通底す

る系譜關係を問

い直す

ことを試みるも

のである。その題材として、嘉靖

二七年原序

「太倉州志』に附載された

『卒海事蹟』と題する

一連

の記事を精讃する。

ここで扱われる戦役

一つ

一つはどれも

過性

の局地的な事件

に過ぎな

いが、そうした小さな

できごとをさらに微細に分析して

いく中

で、その背後に廣がる複雑

な肚會關係が

「嘉靖倭憲」と呼ばれる

一連

の動齪に

いかなる前提條件を提供しうるも

のであ

ったかが、お

いおい明らか

Page 5: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

にされるであろう。周知

のよう

に、「倭冠」はこれま

でにもたびたび陸地と海洋、國家と肚會、中央と地方、官憲と海

商などと

った封立

の枠組みによ

って説明され

てきた。しかし本稿

では、そうした概括からは漏れ出てしま

いかねな

い、

より具艦的な肚會關係

に焦貼を當

て、從來

の硯黙とは異なる次元で何らかの肚會像を提示することができればと考えて

いる。まずは章を改め、題材とな

『太倉州志』及び

『卒海事蹟』編纂

の経緯と明代中期ま

での同州

の概況を略述して

おきた

い。

η

一章 『太倉州志』とそ

の背景

(一)

『太倉州志』と

『平海事蹟』

現存する

『太倉州志』には諸版あるうち、弘治

一三年に桑悦と

いう人物

によ

って編纂された

エディシ

ョンが、今

々が目にすること

のできる最も早

いも

のであろう。現在

一般

に閲覧可能な

『弘治太倉州志』は、清末宣統元年

に太倉

の文人謬朝杢らによ

って復刻された版本

で、これと拉んで

『中呉紀聞』・『玉峯志』・『玉峯績志』・コ昆山州志』が合わせ

て復刊合刻され

『彙刻太倉州志五種』

に牧められ

ている。ただし、

『弘治太倉州志』

のほかは、

いずれも太倉

の記事を

含む毘山縣

の地誌

であり、嚴密な意味で太倉

の地誌に敷えることはできな

い。太倉と

いう地名そ

のも

のは、漢代

に遡る

と言われるほど古

い起源をも

つが、弘治州志以前にそ

の名を冠する地誌はわずかに二種

が確

認できるのみである。

明代

の太倉州

は、罠山

・常熟

・嘉定三縣

の交界に位置し、當時全國的な文化及

び経濟

の中

心であ

った蘇州府

の管下に

屡した。ただし、明初

の時貼

で同

地は太倉

・鎭海

の二衛に分轄される軍管匠

であり、初めて州制が布かれた

のは、明代

も牛ばの弘治年聞に至

ってのことである。初代知州李端

の依囑を承けた桑悦

の州志編纂

には、州制施行を記念し、濁立

Page 6: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ鵬嚇励畝田

した

一州としての歩みを固める意味もあ

った

のであろう。

本稿が主

に扱う

『嘉靖太倉州志』

は、現在目にすることができる

『太倉州志』

のうち二番目に古く、嘉靖

二七年

に當

の知州周士佐

の依囑を承けた張寅と

いう地元の文人によ

って編纂されたも

のである。張寅自身、翰林院に任官した経

歴もある英才であ

ったが、實際の執筆にあた

っては同郷

の陸之箕

・之裏兄弟

の多大な貢献

があ

った。

『嘉靖太倉州志』

のうち今日

一般

の目に鯛れうるのは、崇頑二年

に知州劉彦心によ

って重刻された版本

である。また、

これとは別に、崇

一五年に張采と

いう人物

によ

って新たに編纂された

『崇頑太倉州志』が存在するが、

これも知州朱士華によ

って康煕

一七年に重刻された版本

のみが傳世する。ただし、雨志ともその初版から重刻年次にわたる期聞の關連情報は記載して

おらず、内容的

には原序執筆時貼で完結したも

のである。刊刻年次も書誌情報

として落とす

ことは

できな

いが、記載内

容に準振するならば原序

が著された初版年次を無覗す

べき

ではな

い。本來、『崇頑重刻嘉靖太倉州志』・『康煕重刻崇頑

太倉州志』と呼び分けることが理想的だが、本稿

ではあえ

て冗長を避

け、前者を

『嘉靖太倉州志』、後者を

『崇頑太倉

州志』と構して匿別することとした。また行論中、断りなく

『太倉州志』と記す場合は、基本的

に嘉靖版を指すも

のと

する。

本稿

の主要な検討封象

である

『卒海事蹟』は、『嘉靖太倉州志』巻

「兵防」に附載され、元末

から嘉靖年間ま

で、

太倉周邊

で獲生した局地的な動齪を年代順に記録するも

のである。その記述は、こ

の時期

の江南

の地方志

に類例

のな

克明なも

ので、嘉靖倭竃

に先立

つ江南沿海部

の肚會状況を知る手がかりとして特筆

に値する。冒頭には、太倉出身

の陸

之裏と

いう人物による簡潔な序文を掲げ、内容はさらに方國珍

の齪

の顛末を記した

「元至正間雫海

一事」と

「國朝成化

以來卒海数事」と題す

る二部

に分かたれる。本稿が主要な検討封象とする

「國朝成化以來卒海数事」

の記事は弘治州志

にも掲載されておらず、現在確認できる範團内

では嘉靖版が初出

である。題目に見るよう

に、これは成化年聞から嘉靖

Page 7: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方束

中葉

に至る期聞に太倉周邊を騒がせた盗賊たち

の活動とそ

の討伐

のいきさ

つを年代順

に記述したも

ので、六篇

のそれぞ

れ濁立した記事より成

って

いる。

一連

の記事はその後

『太倉州志』諸版、及

び康煕版以後

『蘇州府志』等に相當

改訂を経ながら轄載されるが、

いずれも標題と陸之裏

の序文は削除され、膿裁も編年式に改ま

っている。管見

の限り、

標題及び序文

は嘉靖版に見えるのみで、おそらくはこれ

が嘉靖州志編纂時貼での原型に近

い姿

であろう。

一連

の海戦記

録を整理編纂

し、『卒海事蹟』と

いう名

の凋立した小篇に仕立

てた

のは陸之裏だが、本文

は彼

一人

の手

になるも

のでは

なく、少なくともその前牛部分は彼以前に著された史書を抄窮したも

のである。弘治州志

から嘉靖州志ま

での聞を

埋め

るその他

の地誌が傳わらな

い以上、さらに立ち入

ってそれぞれ

の記事

の記述者を特定することは、目下

のところ諦めね

ばならな

い。

陸之裏は地元太倉

の出身

で、婁東三鳳と謳われた名士陸容

の孫にあたる。若

い頃から文才を誇

り、経世濟民を志

して

一書生の身

分に甘んじな

い人物だ

ったと傳えられる。

かねがね宋儒張載

に心酔し、若き日の張載

が仲閲を募

って西夏

の覆滅を企て、

一歳

で意見書を持して萢仲俺に面會を求めた故事を賞賛し

ていたと

いう。ちなみに張載はこの時萢仲

俺に諭されて

『中庸』を讃

むよう

に勧

められ、それからは讃書

に働むよう

にな

ったと

いうが、陸之裏自身

は日頃

から塞

業には身を入れず、

ついに進士に及第することもなく

一生を終えた。そ

一方

で彼は、天下の形勢を論じては官府

の政

策を椰楡し、文を談じ

ては同時代

に名聲

のあ

った文人たちを歯牙

にもかけぬ風を装うなど、

周園からはう

ぬぼれ

の強

人物と見られて

いたよう

である。ちなみに、各種

の傳記によれば、弘治州志

の編者桑悦

にもこれと同様

の人間類型を見

けソ

出す

ことができる。彼らとて政界

での榮達を望まなか

ったわけではな

いだろうが、それよりも

むしろ當時

の文化的首府

に身を置く

一私人とし

ての立場から、個人的な興趣

の赴くまま

にも

のを言

い、終生

一介

の書生として身を庭したと

いう

で、ある意味明代蘇州士大夫

一典型を艦現して

いたと言

ってよ

いだろう。

Page 8: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ勘臓勲勧油

(二)太倉州簡介

嘉靖年聞

の上奏文や後世

の地方志

には、明代中葉以降

の東南沿海部

では、とりたてて大規模な戦役もなく、人

々は卒

和に慣れき

ってしま

ったため、

「倭冠」

の跳梁を前

にしてなすす

べを知らな

ったと

いう記述が散見される。實

際、明

朝建國後嘉靖年間

に至るま

で、江南

デルタの中櫃部

にお

いて、實録や地方志

に記録されるような大規模な動乱を確認す

ることはできな

い。かたや、その江南デ

ルタ

の邊縁にあたる、長江と銭塘江

が東

シナ海

に注ぐ汽水域は、軍盗入り乱れ

て良賊分かちがたく、私塵

の責人が大手を振

ってまかり通る、およそ卒穏とは程遠

い喧騒

の巷

であ

った。デ

ルタ

の外周

を園むこ

のアナーキーな空聞は、歴代中國

の文人文化を育んだ大小市鎭

の存在を考える上でも、明代中期

の肚會構造

實相を見究める上でも、決して忘れ

てはならな

い江南地方

のもう

一つの顔な

のである。

太倉

一躍磯展を途げた

のは元代

にな

って

のことだが、それを支えた

のは前代

に引き綾

いて蓄積され

つつあ

った民聞

の活力であ

った。至元二〇年に海道蓮糧萬戸府

が設置されると、太倉は江南と大都を結ぶ海蓮

一大起貼となる。

モン

ゴル帝

國の支配

の下、海運萬戸とし

て海上

における税糧蓮輸

の制度的な確立に主要な貢献を果たした

のは、「塵

賊」か

ら江南

一大財閥と成り上が

った朱清

・張壇であ

った。彼ら

の失脚後も太倉

の繁榮が騎りを見せることはなく、延祐元

年以降

元末に至るま

で山昆山州

の州治

が置かれ、州城南邊

の婁江沿

いに設けられた埠

頭は海外諸國の商船も磯着す

る國際

貿易港として六國砺頭の異名を誇

った。至正

一七年

に張士誠政灌

の下

で州治は再び罠山縣に遷されるが、さらにその十

年後、

明太組朱元璋

の勢力下に入

った呉元年

には、州治

の跡地に太倉衛が建てられる。同時に、嘉定縣

に接した管下

黄渡浦

に新た

に市舶司が設置され、

これ

が當初海外向け貿易港としての機能を引き縫ぐことになる。

しかし、太倉

の経濟襲展は、明初に至

って大幅な縮小をみる。黄渡市舶司は早くも洪武三年には磨止され、時を追

て軍戸を含めた民間

の海上活動に封す

る締め

つけが大幅に強化されてゆく。洪武

一二年には元代

の市舶司衙門

の跡地に

Page 9: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

鎭海衛が分立され、それま

で太倉衛

の管理下にあ

った人

々は二衛に分轄されることとな

った。明初

の経濟政策は、里甲

制に基盤をお

いた農村

の復興を最優先課題としており、それま

で海上交通

の要地とし

て繁榮してきた太倉

の経濟活動は、

洪武年聞を通じ

て強化された鎖國艦制

の下で潰滅的な打撃を蒙る。永樂

・宣徳雨朝にわたる宙官鄭和

の海外遠征期

には、

太倉も

一時國際貿易港とし

ての面目を回復し、劉家港はそ

の船團

の獲着基地として重要な役割を果たす

ことになるが、

やがてこうした國家主導

の事業投資が縮小されるのにともな

って、太倉

と海外諸國との

つな

がりは再

び文献資料には見

出せなくなる。

太倉における州治

の設立は、まず成化

一五年に慮天巡撫王恕

によ

って建議される。さらに弘治

一〇年にな

って、當時

漸江参政であ

った陸容が改めてこれを提起し、巡撫朱喧及び巡按御史劉廷壇

の上奏によ

って州制はようやく實現

の運び

とな

った。朱塩は立州

の必要性を説

いて六箇條

の事由を列塞し

ている。第

一に、太倉

の地は毘山

・常熟

・嘉定

の三縣

分轄され、縣署

からやや遠

いと

いう難

があ

った。第二に、太倉

・鎭海二衛

の軍糧は、當時それら隣接諸縣を通じ

て支給

され

ていたため、城内に立て籠も

る場合などに糧食を調達することが困難であ

った。第三に、當時城郭内

では軍戸と民

戸が雑居状態

にあ

った

が、民戸

の訴えを適正に庭

理する機關が存在せず、裁到ともなればしばしば長期間の拘留を強

られたため、民戸にと

って大きな負推とな

っていたことが指摘される。第四に、衛城附近

の住民が城内

で商責をしよう

と物資を持ち込むと、ゴ

ロツキ

(光棍)に安値

で買

いたたかれるか、因縁を

つけられては荷を奪われ

るので、

みな他所

の市場まで出向かなければならず、不便を強

いられていたと

いう。第五に、當時蘇州府

の管轄下

にあ

った崇明縣は府城

よりもむしろ太倉

の近傍

に位置し、そ

の守禦千戸所も鎭海衛

の管轄に属するため、州を立

てて崇明縣を直接管轄す

べき

ことが提案される。第六

に、當地

の軍戸

には衛學を通じて歳貢

の道が開かれて

いた

が、民

戸の生員

には手當

(糧康)の

支給すら行われておらず、著しく公卒を訣く状態

であ

ったと

いう。以上六箇條が正當な事由と到断されること

で、州治

Page 10: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ冠の松蘇も廊畝泌

の設立は皇帝

の裁可を得た

のであ

った。

しかし、嘉靖初年に至

って、常熟

の太僕寺丞眺奎

・箆山

の進士屈儒

・祁州知州でやはり罠山出身

の張安甫ら

によ

って、

州治撤去

の請願

が上奏される。さらに毘山出身

の春坊庶子方鵬

は、時

の巡撫と巡按御史

にあ

てて州制

の害を九箇條にわ

って列墾し、反封を表明した。これを巡撫李充嗣が勘案したところ、蘇州知府胡讃宗

・同知郭田

・太倉知州劉世龍ら

が、州學

の生員王梁ら

の議

に振

ってこれを論駁した。結局、後任

の巡撫呉廷塞

・巡按御史朱塞昌ら

の上奏によ

って州制

は維持されること

にな

ったと

いう。劉世龍は、州制腹止論が太倉州に沃土を割かれた罠山縣

の住民と衛所管下

で樒役を

免れてきた軍豪

による手前勝手な言

い分であるとして、先の六箇條に封す

る反論

に逐

一再反論を行

っており、後

に罠山

縣出身

の給事中朱隆禧が再び州治

の磨止を建議した際にも、皇帝

によ

ってその必要なしと

の結論

が下されることになる。

『太倉州志』は、州治

の建置と慶止にま

つわるこうした経緯を紹介し、以下

のよう

に結んでいる。

腹止

の便を唱え

るも

のは、おおよそ官が多ければ民は擾され、税

が分散されれば民は貧窮し、差役

が繁雑になれば

民は困苦すると主張する。磨止

の不便を

唱える者は以下

のよう

に言う。太倉

の住民は海を生活

の場とし、臨皿盗も出

没する上、軍戸と民戸

が雑居し

ており、

一概に管理することは難し

い。まし

てこれを軍事上

の要害とすることは至

である。宋

・元から今に至るまで、倭虜

・台竃

・沙醜が齪をなして、聖慮を偶まし廟議を煩わせ、京倉を磯して

官軍を遣わすことたびたびに及んで

いる。

これは太倉が東南

の要地で

〔鉄字〕だからであり、州治を修築し

てもま

だ足りな

いくら

いであるのに、

これを荒れるままに放置し

てお

いてよ

いはずがな

い、と。ことは州治

の重要事に關

わるので、その概略をここに記す。

新たに州衙門が立てられれば、そ

の施政を支えるため住民

の負澹

が増えることに

ついては、州制

への反封事由として

容易に理解

できる。にもかかわらず太倉州

「猫立」が維持された背景には、州制

の施行

によ

って軍戸

の横暴が抑制さ

Page 11: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

れることを期待する民戸側から

の強

い要求

があ

ったことが窺われる。も

ともと衛所管匠であ

った太倉

の地

には、當時多

の民戸が雑居していたが、彼らは軍戸との聞にもめ事

があ

った際には、暴力沙汰でもかなわな

いばかりか、訴訟にお

いてすら相當

に不利な立場を強

いられていたと

いう。民戸は生産に專心し軍衛はそ

の保護にあたるなどと

いった國制上

の原理原則は、現實肚會にお

いてそうそう機能的

にはたらくも

のではなか

った。當時、軍戸の生活基盤であるはず

の軍

の運管は各

地で事實上破綻しており、とりわけ軍役

にも

つかず從

って糧餉

の支給も受けな

い軍戸の絵丁は、民戸にと

って郷里の防衛どころか生産活動

の阻害要因にほかならなくな

って

いた。

また、當該地域

の治安秩序は、國防上

の問題にも關わることであ

った。先進的な農業地帯であり王朝國家

の穀倉

でも

った江南

デルタの

一隅を占める太倉州は、元末ま

では渤海濁岸や長江流域から東南沿海部

へと廣がる物資流通

の橿要

であ

った。しかし、表立

って海上経濟を論じうる状況になか

った明代前期

の中央朝廷にお

いては、こうした太倉

の地政

の重要性は、も

っぱら軍事的な側面から強調される

ことにな

る。前掲

の州志按語

に倭虜

・台冠

・沙醜と列記される

は、文字

の上では日本

の海賊

・漸江

の漁民

・崇明

の盤徒などを指すも

のだが、沿海肚會

に封す

るこれら

の脅威は、同時

にそれぞれ明朝建國期

「倭竃」・方國珍

・張士誠など

の記憶を象

徴するも

のでもあ

った。太倉

の防衛

は、

一地方

の治

安秩序と

った問題にとどまらず、

むしろ王朝國家

の安全保障に關わりかねな

い重大事項として議論されることもまた

ありえた

のであろう。『太倉州志』ではそ

の地勢を

「東呉

の藩屏」と稔

し、陸之裏も

『卒海事蹟』

の序を以下の書き出

しで飾

っている。

沿海地方は盗難

が多

いので、海上

の治安

(卒海)は大きな問題であ

る。太倉

は東邊

が海

に面しており、海賊

が婁江

から侵入すれば、まず太倉

が被害

に遭う。また、官府が出兵を議すれば、必ず太倉

で兵を集める。海上の戦績を語

るならば、太倉

ついて記さな

いわけには

いかな

いのである。

Page 12: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

太倉

の地理的條件と弘治年間當時

の世情とを鑑みて、國初以來

の衛所軍官

の專制支配に現地の行政

一般を委ねておく

ことは、州衛軍民

「衆論之公」

に反し、地政的見地からむしろ甚だ危瞼

であ

った。

こうした状況認識は、衛所制度

實態を十分に了解していたであろう中央當局もまた共有し得るも

のであ

ったと思われる。明朝國家も、たとえそれ

が沿

海地方

における髄制秩序

の安定を確保する

一方便

にほかならなか

ったとし

ても、太倉

の現地世論

に封する配慮を訣く

とは

できなか

った。そし

て、

こうしたことが太倉

における州治

の主要な設立事由とな

ったことは、その後

の太倉州

の歩

みを考える上

でも象徴的な事實となるであろう。

第二章 成化以來卒海数事

へ蝿轍栃賊勧酒

(一)強

賊劉

て、『卒海事蹟』

の主要部分をなす

「國朝

成化以來雫海数事」

が開頭に掲げる

のは、劉通と

いう

人物

の逮捕劇

であ

る。

この騒動

は、そ

の篇名

からも知られるよう

に成化末年に磯生し、『明實録』にも關連記事

が記載

され

ていることか

ら、當時

の江南士大夫にと

って決して小さな事件

ではなか

ったも

のと思われる。まずは

『卒海事蹟』本文

に忠實を期し

つつ、そ

の顛末を以下に課出し

てみよう。

鎭海衛

の軍卒劉通は、若年時には衙役に服する官奴であ

った。長じては、丈高く武勇に優れ、矢

石飛び交う修羅場

をも恐れなか

った。彼は、六艘

の船を率

い、江海を股にかけ

て私塵を商

っていた。當時、物盗りや私塵

の密責人は、

こぞ

ってそ

の名を借用し、「我らは劉長官

の船

だぞ」と構した

ので、劉通

の名は日に日に廣ま

った。ある日、劉通

は河岸で二人

の商人が泣

いて

いる

のに出會

った。理由を尋ねると、彼らは、積荷をす

べて劉通に奪われて途方

にく

Page 13: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

ている

のだと

いう。劉通は、「おれがその劉通だ」と明かすと、盗人

の行方を尋ね

てすぐさま追跡に向

った。

彼は盗賊に追

いつき、怒鳴り

つけて船を止めると、全員縛り上げて水中

に沈めたが、積荷

は全て持ち主

に返した。

しかし、彼自身は結局罪業から足を洗う

ことはできなか

った。成化

一七年、操江御史

の臼昂は、南京

の京

軍を獲動

することを建議した。兵部街書

の陳鉱が職方郎中

の陸容に諮問したところ、陸容は答えた。「通は水上

の盗賊に過

ぎな

い。どうし

て京軍を投入する必要などあるだろう。無理に京軍

に頼れば、至ると

ころで苛敏諌求がはびこり、

現地の住民は負憺

に堪えられな

いだろう。私

の計略によれば、衛官

}人

でも治める

ことができる。」臼昂

は建議

容れられなか

った

ので、巡撫や巡按等を呼び集

め、遠近

の軍船に傲を下して太倉に集結させた。劉通が擁す

る六隻

とど

の船は、官軍が兵を襲す

るとすぐ

に帆を揚げ

て逃亡するが、追跡をやめればそこに止まると

ったありさま

で、手

を出しようがなか

った。諸官はこぞ

って赦免状

(宥腰)を嚢し、指揮使武政を遣わして蹄順を勧

めることにな

った。

武政は劉通が母親

や友人を大切にしていることを知

っていたため、

一艘

の船

にそ

の母と友人を乗

せ、海上で劉通を

呼び寄せて蹄順を促すと、劉通は泣

いて降伏を誓

った。臼昂

は報を受け、學宮

で劉通

に面會し、そ

の場は

一堂…とも

ども蹄す

ことにした。しかし、しばらくして劉通が府城

に赴

いた際に、彼を拘束して京師に邊致した。劉通は後悔

したが時すでに遅く、諌鐵に服した。しかし、その他の人

々は全て不問

に附された。

ここに描かれる劉通と

いう男は、讃者にと

って必ずしも極悪人と

いう印象を與えるも

のではな

い。

むしろ強調される

のはそ

の威名を假りた盗賊たち

の悪行

であ

る。彼

の報復は手荒で残酷だ

が、

これとて物盗り目的

の行爲

ではなく、弱き

を助け自己

の汚名をそそぐための義行と見ることもできる。彼が官府に封して雪がねばならなか

った罪とは何な

のかも

明示されていな

いし、母親を人質にと

って露順を迫る武政と、助命を約束しながら結局は威刑し

てしまう臼昂

のやり方

は、

この記事

の讃者

の目には、當

の劉通自身よりもかえ

って陰険

に映る。

80

Page 14: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ嘱勲腸賊畝濃

もちろんこうした

一片

の記事

に封する印象論

で事情を割り切

ってしまうわけには

いかな

い。本文

では、劉通

の無實

あからさまに圭張されているわけでもな

いし、そこに白昂や武政

の計略を非難す

る語氣を讃

み取ることも

できな

い。明

代地方志

の兵防

・軍衛

・雑記と

った項目には、しばしば地方官の軍功を顯彰する記事

が見られるが、

そこで討伐を受

けた盗賊

の側

の冤

が唱えられることなど

一般的にはありえな

いこと

である。

明朝

の政治論理の上では、劉通はあくま

も根

っから

「盗賊」として威刑されたものである以上、そもそも

の筋として王朝側から

の覗貼を押さえておく必要が

あるだろう。

『憲宗實録』成化

一七年九月丁酉の條は、事件を以下

のよう

に記録して

いる。

強賊劉通ら六人を市に諌す。通はもともと直隷鎭海衛

の軍戸

で、成化

一五年

に罪を犯して逃亡した。衆を集

め、民

船を奪

って江湖を往來し、私臨皿を謬ぎ

つつ盗賊行爲をはたらき、掠奪

・殺人

に携わ

った。南京倉都御史臼昂が巡江

の命を奉じて追捕したが、久しく捕まらなか

ったので、人をや

っておびき寄せた。劉通らもまた飢えに苦しんでお

り、途

にその

↓窯ととも

に自ら縄縛して臼昂

に下

った。武器

一〇六〇件を押牧し、劉通ら二

一人を京師に逡致した。

法司は劉通を凌逞致死、そ

の他を

みな斬

に擬したが、以下

のような聖旨が下された。「通らが徒窯を組んで強盗殺

人に及

び、官軍に逆ら

った罪は、律に從

って庭罰す

べき

である。しかし、進退窮ま

って投降してきた以上は、罰則

を輕減せよ。通は斬首

とすること、これに

ついてはもはや議論

の絵地はな

い。首謀者五人は絞首とする。その他は

に繋ぎ、それぞれ罪の輕重に慮じて慮罰せよ。」

ここに見える劉通は、中國史上に現れるそ

の他

のあまた

の盗賊と同様に、個性を抹清され、刑場

の土を汚すことを運

命づけられた

一介

の罪人

に過ぎな

い。記述

の關心はも

っぱら逮捕と審理

のプ

ロセスに向けられており、當

の罪人

が何者

であ

ったかに

ついては、そ

の罪状以外にほとんど文面

に現れることはな

い。實録と

いう文獣

の性質上、事件は事柄そ

のよりも、王朝國家という

システムの内部

における威

理案件と

いう形で記録される。「盗賊」とは、案件上

の重要な

81

Page 15: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

一構成要素

であり、その記載償値はそれ以上でもそれ以下でもな

いのである。

また、同じく嘉靖年閲刊行

『常熟縣志』

にも、

この事件

ついての記述がある。

成化年間に呉瀬

の人劉通が私臨皿を商

って海上に往來した。やがてその手下は数百人に上るに至り、長江沿

いで掠奪

を行

ったので、住民は難儀を極めた。

一蕪はさらに墜鳳

に侵入して良家

の子女を拉致し

てまわ

ったが、官府が招撫

を試

みても露順させることは

できなか

った。そ

の手下はみな水上

の技術に長けており、官軍では相手にならな

ので、勢

いはますます盛

んにな

った。時に、都御史

の臼昂が操江

の命を奉じて自ら海上に赴き、鎭海衛指揮使

おソ

武と

いう者

に劉通を誘

い出さ

せた。劉通が投降してくると

これを逮捕して庭刑したが、そ

一蕪

の多くは逃亡した。

ここでは、劉通

の罪状とそ

の逮捕

の経緯

がごく箏明に叙述され、

いかにも地方志

の兵齪記事に似

つかわし

い。

一切の

悪事

は、劉通

の名

の下に行われる限りは彼自身

の責任に蹄せられ、それ以上

の洞察は何も見られな

い。

こうした事務的

な叙述とはまた

一風攣わ

った例として、正徳

『金山衛志』には以下のような記事が見える。

成化

一八年、塵徒劉通が四方

のおたずね者を集め、江海

に出没して強盗を

はたら

いており、人

々は偶まされて

いた。

當局は巡

江都御史臼昂と総督備倭郭鉱に命じ、封策を講じ

て逮捕す

ることとな

ったが、劉通は海上に逃げ、賊

蕪はますます増加した。臼昂は掲示を出して招撫す

ることとしたが、劉通は疑

って投降しなか

った。郭鉱は官軍

船隊を傘

いて洋上

に追跡した。賊はこれを遠望し

て驚き、小舟

で太倉

に潜入して命

に從

った。劉通

の母が問

い詰め

て言

った。

「なんで長

いこと降参し

てこな

ったんだ!お前

のせ

いで私は牢屋でひど

い思

いをしたよ!」劉通

は言

った。「今、海上では官軍

の戦艦ばかりがウ

ロウ

ロしている。手下はみんなビビ

ッちま

って防ぎよう

がな

い。こう

て降参す

るのも不本意な

のだ

が……。」しかし、郭鉱

の兵は千人、船は五

・六隻ばかりであ

った。

この記事

では、

『實録』

の叙述よりも

一暦作爲をともな

って勧善

懲悪

が強調され、劉通

はある種

ステレオタイプな悪

Page 16: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ嘱灘揚賊勧海

堂…として描かれる。その母親と

のやりとりは、彼が實母の身を案じて本心から蹄順した

のではなく、なりゆき上降伏を

っているだけであ

ったことを暗示するための演出

に過ぎず、盗賊には官府

への誠意も、肉親を思

いやる人情すらも與

えま

いとする記述者の意圖が見え透

いて

いるよう

である。

『卒海事蹟』

が劉通投降

の手柄を衛指揮使武政

の計略に蹄す

るのに封し、

『金山衛志』では備倭都御史郭鉱

の兵力

に侍まぬ不可思議な武徳が強調されて

いる。

以上、数種の記述を見

てきた上でもう

一度

『雫海事蹟』に立ち戻

った時、その聞の温度差

から、

いった

い何

が見え

くるだろうか。繰

り返すようだが、『雫海事蹟』は劉通

の冤を構え

るも

のではな

いし、官府

のやり方を正面から批到す

るような言僻

が見えるわけでもな

い。

これがもし軍に劉通

の逮捕と

いう事實経過

のみを簡潔雫明に述

べることだけを意

圖するも

のだとするならば、そ

の行間筆致に記述者個人

の立場や見解を強

いて護み取る必要

はな

いだろう。劉通

一堂…

が當地にお

いて犯罪集團と見られて

いた

のは確かであり、それを否定するだけの根振が何もな

い以上、彼はそもそも庭

刑されて然る

べき人物

であ

ったと考えられても仕方な

いのかも知れな

い。

ただし、世に悪名高

「盗賊」と

いえども、

「反齪」

に及ぶま

でにはそれなり

のいきさ

つがあることを、明代

の士大

夫たちは當然意識して

いた。官府

の假借なき弾堅

によ

って、本來政治的野心とは縁

のな

い人

々が

「反乱」

へと追

い込ま

れてゆくと

いう逆説がありうることを、同時代

の錯綜する現地情報

の中

で、心ある人

々は十分承知していたであろう。

實録をはじめとするその他

の記録が、劉通を

「賊」と割り切

って終始形式的な勧善

懲悪に徹するのと比較して、少なく

とも

『雫海事蹟』

の記述だけは、「盗賊」劉通

がも

つ人聞的な側面にささやかな光をあてて

いる。劉通と彼に最も近し

い五名は庭刑されたが、それ以外の人

々は

いずれも無罪放免とな

った。劉通

の威名をかた

って強盗をはたらく者

が他に

いたとしても、彼らは罰せられることもなく、依然とし

て江海

の間を横行す

るであ

ろう。

った

い何故劉通

一窯だけ

が、そうした身に畳えのな

い悪事ま

でをもそ

の身

に露せられ、「盗賊」

の罪名

の下に慮刑されなければならなか

った

Page 17: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

か。官府が招撫

の原則を踏み外してまで投降した劉通を諌殺したことは、果たして太倉

の安全保障

のために必要な措置

ったのか。そし

てそれは長

い目で見

て本當

に敷を奏した

のか。『卒海事蹟』

の叙述からは、官府

一方的な肚會浄化

の論理に封して、もはや答えを出すよしもな

いこうした問

いかけを讃み取ることができるのかも知れな

い。そこには表

った形ではな

いも

のの、

「裁く者」と

「裁かれる者」

の聞で自明硯されてしま

っている勧善懲悪

の論理から

一歩退き、

ある種斜に構えながらそれを達観しよう

とする硯線

があるよう

に思われ

る。『雫海事蹟』がもたらすこうした印象は、

これに績く

いく

つか

の事件

の叙述

からも裏附けられるだろう。

(二)施天泰

の齪

地方志

の記事

には、時に現地でのみ語り纏がれ中央

には届けられな

い貴重な情報を含む場合がある。我

々はこうした

記事を實録などと讃

み比

べることによ

って、

一つ

一つの事件

の筋道をより立髄的に捕捉し、吟味し、そして考えること

が可能となる。

これから検討する施天泰

の齪

は、事件

の主犯が最終的に當局

の情状酌量によ

って死罪を免れた事例だが、

『明實録』と

『雫海事蹟』

の聞には、記述者

の關心

のズ

レと言う

べきも

のが如實に看取

できる。まずは實録

の記事を掲

げて事件

の経緯を概観しておこう。

はじめ、直隷蘇州府崇

明縣

の人施天泰は、そ

の兄天侃とともに盛を密責して江海を往來し、機を窺

っては掠奪を行

っていた。その仇敵

であ

った董企と

いう者

が、知縣

の劉才

に告嚢し、捕縛することを願

い出た。才は衆を傘

いて追

に向か

ったが、天侃ら

がこれを迎え撃

ったため、その船團は潰滅

し、才は命から

がら敗走した。彼らに敵封し

いた十絵家

は全て焼き梯われた。しばらくして、巡捕監察御史

が天侃を招撫したと

ころ、天侃は降伏して獄中

で死

んだが、天泰らは依然として掠奪を行

っていた。折しも官軍が上海

で盗賊を追討することにな

ったので、再び天泰

Page 18: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ働嚇勲陶濁

を派遣し、戦功があ

った

ので賞與を給した。ほどなくして、董企

一家を墨げて八百絵人を傘

い、海を渡

って天泰

らを襲

った。天泰は反撃し、董氏

一窯は大敗して死者多数を出した。後に太倉州は董企を捕らえ

て獄

に繋

いだが、

天泰に

ついては爲す術

がなか

った。巡撫都御史魏紳

・巡江都御史陳橘らは、兵を出して逮捕

に向か

った

が、

天泰は

またもや太倉城下に至

って官

の雇

った兵船を焼き、勢

いはこの上なく盛んであ

った。紳らがしかたなく使

いを出し

て招撫すると、天泰はすぐ

に降伏した。

實録

の記述では、事件

の概要がよくまとめられ、またその背景

一端も十分に窺う

ことができる。まず、

シテの施

泰ら兄弟は江海を往來する盗賊とし

て現れ、

ワキ

の董企が

「其仇」として登場する。董企は、崇明知縣に訴えて施氏兄

けん

の追討を建議し、自らそ

の任務を買

って出る。

一方、

『卒海事蹟』は董企を董企とし、

この事件

の背景に

ついて以下

のような事情を傳え

ている。

明縣

の施天泰

・天常ら兄弟四人は、縣の牛洋沙に住んで

いた。同縣

の董企は豊

かで古くから

の住人だ

ったので、

天泰らは江海で臨皿を責

って露

ると、必ず董企に上前を納める

こと

にな

っていた。しかし、や

がて彼らは董企を輕ん

じ、上納をおろそかにするよう

にな

った。董企は、弘治

一七年

の春、

ひそかに蘇州府

に赴き、知府林世遠に會

って

った。

「天泰らが盗賊行爲をはたら

いており、早めに片附けな

いと後

々厄介な

ことになる

でしょう。願わくば、

私めがこの身をも

って追討

の責務

に任ぜられたく、ただその令

(公文)を申し受

けることさえ

できればと存じま

す。」世遠は反齪を煽ること

(激攣)を恐れて許さなか

ったが、董企は、施氏兄弟

の卒定などたやす

いことだと強辮

した。しかし、董企

の策謀は獲畳し、その狙

いは失敗

に終わ

った。

この部分

の経緯

の大筋は實録

の記事と矛盾しな

いが、注意を梯う

べきはむし

ろそ

の叙述

の細部

であ

る。『卒海事蹟』

には、施氏兄弟がはじめから盗賊であ

ったとは書かれておらず、實録

では

「其

の仇」

に過ぎなか

った董氏と施氏との關

Page 19: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

係に

ついては、よりリア

ルな現地情報

が提供され

ている。董企

一家はもともと施氏兄弟から商費

の上前をはねて懐を肥

やし

ており、また彼らが離反すれば自ら實力行使

に及

ぶだけの物

理的強制力を保持し

ていた。同時に彼は、蘇州知府に

で自ら働き

かけて施氏追討を志願するだけの肚會的背景を備えていたことから、恐らくはそ

の地元である崇明縣

にお

いて

「者民」や

コ蒙戸」と呼ばれるような實力者だ

った

のであろう。彼

が蘇州知府林世遠

に封して

「公文」を要求した

のは、その實力行使を官府

の公許

の下に正當化す

るためには訣かせな

い手績きであ

った。『卒海事蹟』は、林世遠

の判

によ

って董企

の意向が阻止されたか

のように述

べる

のみだが、『明實録』は、反齪

のき

っかけに

ついて崇明知縣劉才

による作職

の失敗と董企

一族郎蕪を塞げた襲撃事件

ついても言及し、事件

の経緯をより詳細に傳え

ている。相互に

い合う

これら爾書

の記述に共通す

るのは、

この時

の官軍による盗賊追討と

いう大義

の底流

に、董氏と施氏との怨讐

よる私的な抗孚が伏在していたと

いう事實

である。施

天泰は

一二隻

の軍艦を率

いて太倉

・鎭海雨衛

の官軍を脅かすが、

降伏勧告を受

けると敏速

にこれ

に慮

じ、結果、官軍にた

てついた

「盗賊」

の首魁

でありな

がら死罪を免れると

いう特例

的措置を受けている。實録

によれば、

この時罪状を勘案した慮天巡撫魏紳らは、以下のよう

に上奏して

いる。

天泰は、法理上は斬刑

に庭す

べきです。しかしそもそも

の始まりは、董企

の謀略

に陥れられたために、これと敵封

して人を殺めるはめにな

ったも

のです。そ

の事情には已むを得な

いも

のがある上、今は過ちを悔やんで降伏して來

ております。本人はかねがね官軍

に從

って他

の盗賊

の逮捕

にも協力

しており、ひたすら要害

にたてこも

って反抗を

績ける者と同様

に見なす

べき

ではありません。よろしく御裁定を賜りますよう。

封する聖旨は、施天泰

一家を貴州都句衛に磯して永遠充軍に威し、そ

の從犯および董氏

一蕪

は民戸として遠方

に遷すと

いうも

のであ

った。また、當初董企にそそ

のかされ、施天泰

の逮捕を謀

って失敗したとされ

る崇明知縣劉才は、徒刑を

って復職す

ることを許された。實録には、劉才の敗退後に上海

で起

った別件

の盗賊騒ぎに施天泰が協力し

て官府か

86

Page 20: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ伽構働勘酒

ら褒賞を受けたことが記されて

いる。董企が彼を襲

った

のはそ

の後

のことで、官府と施氏

・董氏が三

つ巴とな

った盧

々の裏事情を窺わせる。董企は討ち入り失敗

の後投

獄されたとされるが、

『崇禎太倉州志』は、彼

は事情が襲畳して

殺害された

(事洩被害)と附け加え

ている。

いずれにせよ、明朝

の公式見解としては、董企もしく

は董

一派は、今次

の攣事

を招き官軍に多大な犠牲を負わせた元凶として施氏側

の從犯と同等

に庭分し、施天泰は董企によ

って陥れられた

情状を酌量し死罪を免ず

ると

いうも

のであ

った。

施天泰個人

の庭分は以上

の経緯で片が附

いたが、反乱自髄は彼

一人

が降伏

に及んだところで、そうそう簡箪に治まる

のではなか

った。

一度燃え上

った反齪

の火種は、そ

の主を換えながら依然として燃え綾

けた。

『雫海事蹟』

によれ

ば施天泰

は四人兄弟

であ

ったとされる。

『明實

録』によれば、彼

の兄は天侃と

いい、天泰

の降伏に先立

って巡捕監察御

の招撫に從

った結果獄死する蓮命をたど

った。實録には、やはりそ

の兄弟とお

ぼしき天傑

・天常

の他

に、施安

・沈

・鉦東山

・鉦西山

・票廷茂等と

った

「賊窯」が名を列ねて

いる。天傑と天常は、天泰

の蹄順後もそ

一堂…千人絵り

とともに官府

に抵抗するが、まず天常が+叉撲ら

の降伏勧告を受け容れ、さらに天常

のとりなしに從

って天傑と鉦西山ら

総勢三六八人が投降した。正徳元年九月には、巡撫+叉僕が天常ら九六人を死罪に擬して裁可され、正徳

二年正月には、

同じく芙瑛が察廷茂ら六四人の罪状を奏上し、票ら

には斬刑

の判決

が下され

ている。九月には施安ら

の逮捕が傳えられ、

施安を筆頭とする二六

一人、及び彼らを匿

い財物

の取り分

に與か

ったとされる陳宗海ら二人

が斬、幼少

の張進保ら

一三

人および曲藝師

(伎藝)の黄永吉ら

一二人

は死罪を免れて、それぞれ南舟衛と靖州衛に充軍

の到決を受けたこと

が記録

(34)

(35)

いる。

みに、

と鉦

は、

史料

によ

っては

「施鉦

二姓讐

殺」

どと

され

こと

から

、彼

の活動

一枚

の反

いう

より、

に暴力

の慮

酬を繰

り返す

バ的様

を呈

るも

のであ

った

と想

され

る。

朝廷に施

天泰

の反乱

が報告される

のは弘治

一七年八月

のことだが、そ

の残堂…に数えられた施安に到決

が下されるま

で、

87

Page 21: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

少なくとも三年

の聞、

一連

の動齪は中央當局

にと

っても懸案事項とな

って

いた。實録はこの反齪

が長期

にわた

った理由

として、施天泰

への庭罰を充軍に止めたことで圭犯すらも死罪を免れる前例を作

ってしま

い、盗賊をますます増長させ

ることにな

ったのだと批判し、また

『嘉靖常熟縣志』等

の地方志も同様

の見解を示している。察廷茂

や施安らに封する

到決

が比較的

嚴し

いも

のとな

った

のも、こうした磯想に基づく庭置であろう。しかし

一方

で、投降者に嚴罰を課す

こと

は、民間における官府

の信用を損な

い、爾後

の招撫政策

の敷用を減殺させることになる。「反乱」に關わる司法行政は、

時として高度な政治的到断

が要求されており、官府

の主宰す

る法秩序は、形式上

の合法性と行政上

の功利とを雨にらみ

しな

がら、時

と場合

に慮じてこれを使

い分けねばならな

った

のである。

『卒海事蹟』によれば、最終的な事攣鎭定

に際し

て、崇

明の住民には男女を問わず兵士

の掠奪

を恐れて首を絡るも

が績出したと

いう。

一連

の反齪

の舞壷とな

った崇

明縣は、長江河

口部

の砂州上に位置し、塵賊

の…巣窟として悪名高

い土

地で、その住民は内地

の住民から

「沙民」と呼ばれ、

一般民戸とは異質な人

々であると見られ

ていたよう

である。彼ら

の崇

明の人

々に封す

る偏見は、た

びたび大規模な虐殺事件を引き起こした。

これを偏見と呼ぶのが

一面的

に過ぎるとし

たら、「沙民」と

いう範疇

にくくられる漁業や水運を生業とす

る人

々と、それ以外

の内

地住

民と

の闘

で杜會的通念

とし

て慣習化された不信感と言

い換え

てもよ

い。こうした不信感に基づく相互

の蔑親

・憎悪

・怨恨等

の感情は、現實

の接鯛

の中

で時に緩和されることはあ

っても、究極的

には

「沙民」が

「沙民」

の名

で呼ばれ、内地

の住民とは相容れな

い存在

として異人硯されて

いる限りは清え

てなくなるも

のではな

い。内地

の住民による

「沙民」

の観念上

の位置づけに

ついて、

『季海事蹟』の序文

には以下

のように述

べられて

いる。

太倉

の薦縣に崇明がある。崇

明の諸沙は盗賊

のすみかだと

いわれている。しかし、盗賊

の親玉は、必ずしもす

べて

が諸沙から出

ているわけではなく、江海

の流

賊がみな詐

って沙民を自稗して

いるだけ

のことである。

ゆえ

に、古今

Page 22: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

に名高

い盗

ついて

は、

それ

れそ

の出

地を

記す

べき

で、

民ば

にそ

の悪

が蹄

せられ

てはな

らな

い。

陸之裏

の沙民擁護

の姿勢は、

『平海事蹟』

の叙述全般

に通底するも

のである。

『明實録』もこ

の時

の動齪

の経過を数年

にわた

って詳細

に追

っているが、それはあくま

で簡潔卒明な年代記風の叙述

であ

って、城下に迫る官軍

におびえ、恐慌

と凌辱

の果

てに自ら命を絶

ってゆく現地住民の姿はとう

い見え

てこな

い。施天泰

の齪を締め括る惨劇は

「捜沙の役」

と呼ばれ、戦勝

が奏上されると諸官將士はそれぞれ褒賞にあずか

ったと

いうが、それは

いわば三沙住民

の犠牲

の上に成

り立

った軍功であ

った。

『卒海事蹟』

の記述者は彼ら官軍將士

の華

々し

い戦績を顯彰す

べく

これを記した

のだろう

か。

それとも官府が構揚すると

ころの聖戦

の犠牲とな

ってゆく人

々を悼み、官軍

の醜態を

ほのめかす意圖からこれを書きと

どめた

のだろうか。

『卒海事蹟』をさらに讃み進めることで、それは自ずと明らかになるだろう。

への松蘇も彫渤酒

(三)圖山

の冤

官府

によ

る盗

の追

際し

て、

土豪

や無

の輩

がそ

の役

目を

って出

こと

は、

前述

た董

の事例

に留ま

るも

ではな

い。太

州治

設立

の事情

からも

われ

よう

に、

軍衛

の吏

から

てす

でに、

一般

の民

から

見れ

ロツキ

の存

であ

る。

や報

酬目

で募

に慮

じ軍

功を

いわ

ゆる

「鳥合

の衆

は、

軍籍

にな

い分な

さら

規律

よきてつはすぎとならず よきひとはへいとならず ヘ へ

は無

の人

々であ

った。

「好

不當

不當

兵」

いう

を眞

に受

るわ

ではな

いが、

の種

の軍

の治

って、

結果

に無

の住

に封す

る冤

や無差

の虐

が獲

生す

のは避

がた

いこと

であ

った。

以下

にそ

一事例

こと

ができ

鎭江

の圖山等

にお

いて董敷

・董政

・施道士

・裳璽らが徒蕪を集めて強盗をはたら

いていた。嘉靖三年

の正月には、鎭

江衛指揮と千戸が殺害され、兵肚にも多数

の死者を出す

ほどであ

った。これを重く

見た操江都御史伍文定らが各官

に激

Page 23: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

を飛ばし、太倉知州劉世龍

が民兵を募

り、州同知を圖山

一帯に向かわせた。その結果、二月七日に施道士ら二人を殺害、

いて董敷ら

一〇〇人が逮捕され、

一六日には俘囚が州城に連行されることにな

った。しかし、その前

一五日

の夜牛、

の刻ばかり

のこと、州城

では地震が起

って大地が鳴動した。これを天啓と見た州人

の陸之蓑は、賊

の逮捕

に向

のは沿海

のヤクザ者

(豪鮎)で、逮捕者

の中にはき

っと無實

の者がおり、彼ら

の怨嵯

が地震を引き起こす

ことにな

のだとして、劉世龍に上書した。世龍はこれをも

っともだとしたが、自ら裁到を行う

ことは避けて虜囚を蘇州府に逡

致した。蘇州知府胡縷宗が法廷で審理に及んだところ、果たし

て無實

の者があ

った

ので、彼らを繹放した。十日ほど

聞に殺害

・拘留されたも

のは

一七四人に及び、諸官は孚

って戦勝を奏上し、それぞれ褒賞に與

ったと

いう。

陸之裏が知州劉世龍にあ

てた書朕は、そ

のほぼ全文とおぼしきも

のが

『雫海事蹟』

の割注

に引かれて

いる。彼

の読明

によれば、

こうした地震は、弘治年間と正徳年間、それぞれ施

天泰

の乱

と劉六

・劉七

の齪

に際して起こ

っており、今回

は爾來十三年、三度目にして最後

の啓示

(三徴)であろう

いう。人間肚會

の不條

理と地震

いう

自然現象と

の因果關

係を前提とする彼

の論法そ

のも

のは、今

日の科學的見地から見て読得力をも

つも

のではな

いが、手績き上

の非科學性に

とらわれるあまり主張

の骨

子を見失

ってはこ

の記事

の眞償を捉え損なうこと

になる。彼の立論

の核心は明らかにその経

世論

にあり、その意圖すると

ころ自艦は決して言下に不合理と言えるようなも

のではな

い。

陸之裏

の訴えによれば、

この事攣

に先立

つ嘉靖元年

の台風と翌二年

の旱害

の際には、生きるす

べを失

った民衆

が、あ

るいは盗賊のくびきを逃れては軍族

に身を投じ、ある

いは炊き出しを求めて佛寺

の門前

に市を爲すように群が

っていた

いう。彼は、降伏した者

・招撫に磨じた者

・脅され

て從う者

・享なき者

・疑わしき者の五者を塞げ

て、これを殺すこ

とは不群であり、人道

に悸る行

いであるとし、また、盗賊はことを犯してから罰するよりもそれを未然に止めさせるこ

とが理想な

のだと説く。そして、

それができれば民衆は生計を全くす

ることができ、民生が充足すれば盗賊は自ずから

90

Page 24: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

への松蘇も繍勘湿

遠ざか

って、殺生に及ぶことはなくなるだろうと

の展望を示した上

で、さらにこのよう

に績けている。

悪人を殺して善を行わせるのは上善、盗賊を殺して城邑を守

るのはこれに次ぐ

が、人を殺して富貴を求めることは

なす

べきでな

い。ましてや、顔色も青白く飢えた民

(菜色)を騙り立てて、同様

に飢えた民を襲わ

せるような

こと

があ

って

いいのだろう

かP菜色によ

って菜色を攻めるのは、潜在的な盗賊を傘

いて、齪

に及んでしま

った民衆を除

くようなも

のである。それに、賊を捕える

のは、齪を起こして

いる者を捕えるのであり、ただ見境

いなく捕えれば、

々は必ず催れる。催れれば二心を懐き、二心を懐けばやがては齪に及ぶだろう。

ひとたび齪が起

これば、患難は

多大なも

のとなる。

盗賊討伐

の名

の下、官軍に從う傭兵たちも、また討伐される側

「盗賊」も、同じ

「菜色」、すな

わち飢え

て血

の氣

をなくした青白

い貧民たちであ

った。「盗賊」と

一括される人

の群れ

の中

に、實際

には罪なき

「菜色」

が多数含まれて

いるのと同様に、彼らを討伐する官軍

の側も本來

の意味

で盗賊と匿別の

つかな

いような

「菓色」を相當数抱えて

いると

いう事實を、同時代

の士大夫たちが知らな

ったはずはな

い。

しかし、官府

が盗賊を討伐す

ると

いう名目が保たれ、作戦上

の名目的な形式がそ

「大膿」にお

いて全うされう

る限

りは、當局もそ

の摩下

「官軍」

の多少

の逸

脱には目を

つぶらざるを得な

った

のであろう。秩序

とは力であり、力あ

る者が力なき者を支配する

ことであ

ると割り切るならば、こうした官府當局者

一見無責任な封慮もありえな

い到断

はな

いのだろう。しかし、士大夫たち

の秩序観は、必ずしも常に既

の権力を追認するも

のだけ

のも

のではな

い。

「天

命」

の下に公道を行う

べき

「官軍」

が、剥き出し

の暴力によ

って無事

の良民を牧奪

し、抵抗するも

のを屠るなら、それ

はもはや

「官軍」ではなくそ

の名を假りた

「盗賊」

に限りなく近

いも

のとなろう。それはまた官府

の存在意義

の喪失で

あり、

いては現王朝が既成事實によ

ってそ

の自明性を主張する

「受命」

の帥秘を否定す

ることにもなりう

るのである。

91

Page 25: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

陸之裏が衝

いた

のはまさにそこであ

った。當地

の民衆

にと

って、

「正義」は必ずしも常

に官府

の側

にあるも

のではな

った。とりわけ、崇明

の住民にしてみれば、

「官軍」に封する積年

の怨みは骨髄

に徹

し、官府に封して

つのる憤懲

ヘ ヘ ヘ へ

彼らをさらな

る反肚會的行動に向かわせるという呪わし

い悪循環に階りかねな

い状況

にあ

った。官府

「正義」とは、

本來自明なも

のではなか

ったから

こそ、それは當局者

の自制

によ

って勝ち取られねばならな

った。「官軍」

の暴走に

めざとく反慮

し、あえて制止

の聲を上げようとする陸之裏

の姿勢は、そこごこで沙民の立場を擁護する

『卒海事蹟』

叙述全般

に共通するも

のである。本文からも窺えるよう

に、知州

への上書と蘇州知府

による俘虜

の審理と

の間の因果關

係は必ずしも

明らかでなく、必ずしも現地官府に自浮能力が訣如していたわけではな

いだろう。官府

の失態を暴

いて我

が意を得たりとす

ることはいわば傍観者

の特権とも言う

べきも

ので、この上書

がここに掲載された

ことも、ある

いは彼

自身

が功を誇

り名を揚げる意圖より出たも

のと見ることもできるかも知れな

い。しかし陸之裏

の指摘

は、當事官たち

できれば獣殺してしま

いたか

った

であろう官軍

「反齪鎭堅」

についてまわる

一面

の眞實を如實

に言

い當

てたも

のであ

った。そしてそれは蘇州知府

の審理によ

って裏附けられ、結果的には意味

のある義塞

であ

ったと言えるだろう。

ここに

って、我

々はようやく

『卒海事蹟』と

いう小篇そ

のも

のの性格を考え

る上で、

一つの手がかりを得ることになる。

(四)董顧の擾乱と侠勇王様

けん

前述した施天泰

一件

で、事件

の煽動者と見なされたか

の董企

一族は、その朋窯ともども遠方に遷徒されたはず

った。しかし、異郷に獲遣された罪人が密かに奮居に舞

い戻ることは、決して珍し

いこと

ではなか

った。董企

一門は、

その後も地元の崇

明縣に根を張り、郷曲に武断する

一大豪族としての地歩を保

って

いたよう

である。次

に述

べる

のは、

董企

の息子たちが

一方

の陣螢を占めた地元ヤクザの抗箏

であ

る。まずは、

『平海事蹟』

の記述に從

ってそ

の経緯を確認

Page 26: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

への松蘇も騨勧濁

てお

こう

董企には五人の子があり、末子

の董埼

が最も凶悪

で、次男

の董燦は頭

の切れる策士であ

った。同縣の王様と顧文義は、

それに劣らな

い勢力を誇

っており、董氏兄弟はこれを快く思

っていな

った。嘉靖

一二年にな

って、宋佐と

いう

男が董

と課

いを起こした。董環は、宋佐をおとりに顧文義を呼び出し

一族皆殺しにする計書を董埼

に持ちかけ、同年

一二

一四日、董埼

の居宅

の修築祝

いに招かれた顧文義

が、彼ら

の陰謀によ

って殺害されると

いう事件が起

こる。董燦

・董

・董埼ら兄弟は徒窯千人を牽

い、同席して

いた顧文義

の父顧楠を宋佐とともに船

の舳先に縛り

つけて顧氏

の屋敷

へ向

い、顧楠

の家財を奪

い蓋くした。そして顧楠と宋佐を盗賊と構して官府

に突き出すと、獄卒に袖

の下を差し入れ

て牛

殺しにしてしまう。顧氏

一族から加勢を頼まれた王様は、用心棒を雇

い入れ

て日夜警戒を怠らず、再三侵入を試

みる董

一家

と睨みあ

った。官軍は州城から様子を窺う

ばかりで手を出すことはなか

ったが、諸官は何度か彼らを呼び出して

諭そうとし、王榛はそ

のたびに官衙を訪れて顔を

つな

いだ。翌嘉靖

一三年閏正月晦

日のこと、たまたま董環

が小舟

で濤

壁を訪れると、後

ろから密かに附けていた顧文禮が蘇州府

に通報して董燦を捕らえ、そ

の身柄は呉縣

の獄中

に牧監され

ることにな

った。當時、箆山にあ

った慮天巡撫侯位

が董埼と王様を招致した

ので、董埼

は自ら出向

いてこれに拝謁する

が、露宅途上を待ちかまえ

ていた顧文禮

に新洋江で捕らえられ

てしまう。顧文禮は府城に戻

って巡按御史李鳳覇

に涙な

がらに訴え、顧文禮と董埼は衛と縣

の獄

に別

々に繋

がれる。巡撫侯位は普段から董埼

の肩を持

って王様を牽制していた

ので、

ここに至

ってますます顧氏

一族を憎み、今度は顧文忠を捕らえて杖打した。しかしそ

の後、董燦も杖打され

て死

に至

った。また、董埼と王様

にはそれぞれ腹心

の部下がおり、陳三と

いう者は董埼

に、王舜民と

いう者は王様

に與して

いた。巡撫侯位は王舜民に露順を促した

が、彼は恐れ疑

って慮じな

った。暫くして知州楊儒魯

が再び彼を招致すると、

王舜民は、よう

やくその手下の名を全て官に屈け出

て、武器を捨てて丸腰

で投降してきた。侯位はすぐさま、王舜民は

Page 27: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

手下を率

いて良家

の子女をさらう盗賊

の亘頭

であると上奏し、

一四年夏五月、彼を府治

の西

の吉利橋

のほとりで庭刑し

た。董埼と王様はとも

ども充軍

の刑に服す

ることとな

ったが、そ

一蕪

は軒拉みお処口めなし

であ

った。董埼は翌年、密

かに戻

ってとある祠

の堂守とな

ったが、仇家に察知され

て官

に突き出され、獄中で死んだ。

以上が

『卒海事蹟』に記された董氏

一門と、封立す

る顧氏及び王様陣螢と

の出入り騒動

の顛末

である。

この事件は、

實録や地方志等、同時代

の他

の文献

一切記載

がな

いため

一つ

一つの事實を検讃する手がかりはな

いが、

ここで繰り廣

げられる官民入り乱れた抗孚

のありさまは、實録

のお役所風の記述

には望

み得な

い現地官府

の裏事情が漏載されて

いる。

董氏兄弟

が慮

天巡撫候位

の後

ろ盾を侍む

一方

で、王隷

の側では府州衙門の呼び出しにそ

のつど癒

じて顔を

つな

いでいた

よう

で、『卒海事蹟』

の筆致からは、特

に巡撫侯位

の凋断專行

に封す

る批到

の色

が窺われ、王様と顧氏

の側に幾分同情

を示す節

が見受けられる。また本文

には、

王様

の舎弟

・王舜民

が庭刑されるにあた

って、冤罪を叫ぶ王舜民

の聲を耳に

した巡按御史郭宗皐はこれを哀れ

に思

ったが、蘇州に來任して未だ日も淺か

ったためなすす

べもな

ったと

いう記述も

見える。ただし、董氏側が獄吏を抱き込んで顧楠を再起不能なま

でに痛め

つける

一方、董燦

が獄中

で打ち殺された

のは

おそらく王様

と顧氏

一族

のさしがねによる報復だ

ったと考えてよ

いだろう。施天泰が當初董埼

の父

の董企によ

って

一方

的に反乱

に追

い込まれた

のと比

べてみれば、王様ら

の手腕はひとかど

のも

ので、雨陣螢はそれぞれ官府

の公権力

の後

盾を仰ぎながら、そ

の裏で公然と行われ

ていた法定外

の制裁をも騙使して、陰に陽

に封立す

る勢力を抹殺する

べく潰し

いを績けていた。董氏

の横暴に互角に渡り合う

だけ

の實力を備えた王氏も顧氏も、

一歩退

いてみれば同じ穴

のムジナ

った

のである。

爾者

の私岡が官府

の公的機構を借りて行われた

のは、官府

の側

が彼ら

の武圖能力を

「治安活動」に利用し

ていた

のと

うらはら

の關係にあ

った。治下

の民衆にと

って何が

「正義」かを愼重

に見極め、

それを實現す

ることこそが、王朝國家

Page 28: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

への松蘇も蝋畝酒

に下されたと

いう

「天命」

の、すなわち明朝皇帝による支配権

の合理的正當性

の、ほぼ唯

一の讃明

であ

った。「民

の父

母」としての地方官が、地方行政

の現場に

「衆論」を反映し

「民意」を酌

み取るには、必然的

に董氏

のような地場

の富

姓大族とも接鰯せねばならなか

ったであ

ろう。

一方、そうした官民

の聞

のパイプは、そ

の恩恵

に浴す

ことのできな

い者

にと

ってみれば、悟むべき縁故圭義以外

の何も

のでもな

い。

いかな

「專制國家」

にお

いても、民の聲は紳

の聲

である。

問題は、相互に

いがみ合

い打ち清し合う紳

々の聲

のうち、

いった

いどれを眞

「民意」と選び取るかであ

った。

ともあれ、巡撫都御史ほど

の大官

ですら地場

の豪民と接鯛する用意があるとすれば、ましてや州縣

の獄吏などは推し

て知る

べし

である。

ここで見るよう

に、獄中

の囚人はしばしば私刑

によ

って死亡する例

があ

った。『正徳松江府志』に

以下のような記事

が見える。

獄囚

は、往

々にして仇家

が獄吏に賄賂を贈

ったり、上官の意向などがあ

った場合、病氣と偽

って申告され、数

日を

経ずして死亡することがあるが、實際には殺されているのである。成化

・弘治年間に郷人

の曹文

という者が獄吏

長となり、文書

の作成を掌

って多く

の申状を書

いた。ある日、獄吏らとともに獄舎

にあ

ったが、突然外

から旋風が

ってきた。すると曹文は青くな

って目を見開き、ま

るで誰

かと話

でもし

ているかのよう

に、

「何某

が命じ、何某

が指示したんだ、おれのせ

いじ

ゃな

い!」と言

った。しゃべればし

ゃべるほど苦しみだしたので、抱きかかえられ

るよう

にして家に蹄

ったが、凋語は止むことがなく、その最期は亡者たちにとり殺された

のだと言われ

ている。里

の人

々がみな知

って

いる話

である。

この逸話

の主人公は、亡霊

に愚かれるだけ、まだナイ

ーブな感性を持

って

いたとも

言え

るだ

ろう。時代は下る

が、

『崇頑太倉州志』

によれば、當地

の盗賊は、月

ごと

の買季鏡、及び歳末

の年例

銭と

いう附

け屈けを捕盗

にあたる小役人

に納めて

いた。捕盗たちは盗賊の姓名をリストア

ップした盗珊を握

っており、彼らが官軍に敗れて拘留されてもすぐに

%

Page 29: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

繹放してや

ったり、審理を受けることにな

っても勝手に戒めを解

いて逃

がしてや

って

いたと

いう。また、場合

によ

って

は捕まえた盗賊を拷問にかけてありもしな

い事實を供述させ、別人

の罪を被らせることも行われて

いたし、財産

のある

家が無實

の罪を負わされ、破産するほど

の金銭を搾り取られることもあ

った。太倉

の人

々はみな盗賊

の審理はそ

の掠奪

よりもひどく、盗賊よりも恐ろし

いのは捕盗だと噂しあ

ったと

いう。

實録によれば、弘治年間

にはす

でに南京

の法曹諸官が思う

がまま

に私刑を行使し、無頼

の徒が獄吏に充

てられそ

の腹

心としてはたら

いていたことが、錦衣衛に問題親されて

いる。王朝國家

が原則とする罪刑法定主義から言えば、

こうし

たことは職権

の濫用として本來庭罰されるべきことである。しかし、獄囚

に官府

への畏怖を植え附けることで審理

の敷

牽化を圖るため、こう

した

「不正」がむしろ必要悪として職認されていたも

のとすれば、問題はなお

のこと根深

い。原

則論

のレベルにおける

「腐敗」

が、現場における切實な要求

から慣習化

してしまうことは、特に司法行政

に限

って見ら

れる現象と

いうわけではなか

った。

充軍に威せられた王標

には後

日談がある。

『雫海事蹟』によれば、その後王禄もまた密

かに江南に戻

って來たと

いう。

後述するよう

に、嘉靖

一九年に兵備副使王儀

が崇明

の南沙を攻めるために兵を募集

し、王様

はこの時

の追討軍に身を投

じている。しかし、彼はや

がて何らかの失敗

によ

って南京

の獄

に繋

がれ、陳西涼州

の軍に充

てられるが、しばらくする

とまた涼州から舞

い戻

ってくる。海濱

の住民は王様

の饒還を聞き

つけ、

その田土も家屋も荒磨して蹄るところがな

いの

を見

て、再び海上で私塵を責るよう説き含めた。『卒海事蹟』

の割注に引

かれた州人陳如論

『凋公弼盗

記』にはこう

述べられている。

先年、秦播と王艮が南沙を根城に齪を起こした。官府が兵を磯して卒定したが、そ

の残窯

が散らば

って、再び王標

いう者をか

つぎあげ、互艦を動

かし兵器を手挾み、江海を往來して私塵を商

った。王様は以前から任侠

の聞こえ

96

Page 30: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

への松蘇も励勧酒

、智

に優

れ、

は人

心服

せる

に足

る人

であ

った

それ

から

いうも

の江南

・江

では、

の名

たる

が多く

れ、

の輩

を集

て徒

窯を

み、

が物顔

に刻掠

った

が、誰

も手

でき

った。

こうした王様

の生きざま

は、

いかにも江海

の侠客と呼ぶ

のに相慮し

いも

のであ

ろう。彼は、

一度は官軍として南沙

反齪

の鎭堅に從軍しな

がら、再び身を持ち崩すと今度は私塵

の販費に携わり、またもやお尋ね者の立場

におかれること

になる。「清卒

の姦賊、齪世

の英雄」などとはよく言

ったも

ので、私璽業界における彼

の聲望は相當なも

のだ

ったよう

だ。この時、王様

の周りに集

った人

々が、『凋

公弼盗記』

が言うよう

に南沙

の反乱軍

の残

蕪であ

ったのか、それとも彼

と同様官軍からの脱落者であ

った

のか到然とはしな

いが、おそらくはどちらも同じこと

であろう。追討軍が解散すれば、

反齪

の参加者たちも、從軍した傭兵たちも、大部分はそれま

でと同様、江海

に私盤を商う

ほか生計を立

てるす

べがな

い。

良くも悪くも王様と

いう人物を祭り上げて生活

の望みを

つな

いだ

のは、そのような場に生きる人

々であ

った。そし

て王

榛自身もまた、官と賊と

の境界を股にかけ

つつ、そうした人

々の荒波

に津

かぶ

一葉

の舟

のよう

に、因縁

の赴くまま軽轄

反側して濁世を泳ぎ績けたのである。

王様

の最期に

ついて、『卒海事蹟』はこう語る。太倉知州漏汝弼

が牢獄にあ

った顧翼と

いう囚人を呼んで、

「王様を捕

まえたら、死刑を免じてやる」と言

った。顧翼はその言葉

に從

って、たまたま王様が沙頭

の市を訪れて知人と會

ってい

る時を襲

い、彼を捕え

て官府に突き出した。凋汝弼は王標を蘇州府

の牢獄

に邊り、王隷は恐れて食を絶

って死んだ。嘉

二二年

のことであ

った。

『鵜公輯盗記』によれば、

この顧翼と

いう男はもと盗賊

の追捕に携わる役夫

(追胃)だ

ったが、謳告

によ

って死刑を宣

告され、獄中

にあ

った

のだと

いう。何らかの非常時

に牢獄から死刑囚が呼び戻され、「功を以

って罪を購う」ことを許

される

のは、當時必ずしも珍し

い話

ではなか

った。事情によ

っては、知州

レベルでの裁量によ

って死罪を

「謳告」

に仕

97

Page 31: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

立て上げることも、難し

いことではな

ったのだろう。捕盗と盗賊とはまさしく紙

一重

の存在であ

った。

おうこん

(五

)秦

・黄

の乱

嘉靖

一九年、江海沿岸から水路沿

いに蘇松雨府管内各地に波及した動齪は、それま

では塵賊

の反乱

など所詮水上のこ

ととタカをくく

っていた江南人士を震憾させるも

のだ

った

であろう。蘇州府下

『太倉州志』、

『嘉定縣志』、

『崇明縣

志』などと同様

に、

『松江府志』や

『上海縣志』なども、

この反乱を嘉靖三〇年代

の大

倭憲期

に先立

つ重要事

として記

(47)

(48)

いる。

蘇州府

の山昆山縣

・嘉定

・呉

漱所

は、

いず

れも

の事

に前

て城壁

いてお

り、ま

當時

ゆソ

がな

った

上海

では、

動齪

の波

及を

れた富

の多く

が松

府城

へと避難

いる。最

の反

の首

謀者

おうこん

目さ

れた

のは

、秦

旙及

いう

二人

の人物

であ

った。

の事

は、後

に彼ら

の名を

って秦

・黄

の乱

と呼

こと

にな

る。黄

所傳

によ

って王艮

とも

され

が、

呉方

「黄

「王」

が同音

に磯音

るた

の不統

一が生

たも

と思

る。

『明實

録』

めと

「王

艮」

の表

むし

一般

が、

れを

でき

るだ

の根

は見出

せな

い。

では引

用文

ついては

典接

の表

を踏

し、

の文

ではあ

『平海

事蹟

に從

って

「黄

艮」

の表

記を

こと

した。

『四庫全書総目』には、

『孚呉凱旋録』と

いう書目が探録されて

いる。提要

によれば同書は、秦旙

・黄艮

の反乱を平定

した総兵官湯慶

の功績を構え

て蘇州近邊

の士大夫から寄せられた詩文

が、定海縣

の朱澤と

いう人物

の手

によ

って

一書に

まとめられたも

のだと

いう。同書

『欽定績通志』や

『欽定績文献通考』にも文淵閣所藏

の四巻本とし

て探録され

てい

るが、残念な

がら目下傳世は確認できな

い。ただし、

『雫海事蹟』には、太倉知州萬敏

による

「太倉州卒海記』、太倉出

の監察御史陸瑚による

『平海百韻』、そし

てか

の陸之裏

による

『庚子紀事』等

が割注として附載され

ており、

いず

%

Page 32: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ竃の松蘇も励勘沮

も反齪

の平定からほどなくして著されたも

のと考えられる。また關連記事として、『明文海』に牧められた呉縣出身

禮部筒書

・徐繕による

『東呉靖海録』及

び海臨皿縣

の學生

・朱元弼による

『雫沙事略記』などがあり、

これら

の記事を附

き合わせ

つつ、まずはこの秦瑠

・黄艮

の乱

の経過に

ついて、事實關係から明らかにして

いきた

い。

『卒海事蹟』によれば、秦播は通州

の人、黄艮は常熟

の白茅と

いう港町

の出身

で、ともに崇

明の南沙に住ん

でいた。

徒窯を組んで魚盤

の利を漁り、しばしば不法をなした

ので、同縣

の富戸者民十数名

が日夜官府

に赴

いて、彼ら

の罪状を

申上していたと

いう。『康煕蘇州府志』には、二人

の素行に

ついてより詳細な情報が記され

ている。その記述によると、

秦旙と王艮は武勇

と腕力

に侍

み、家には肚丁百人ほどを養

っていた。彼らは大船

に魚盤を積

み込

み、近海

で小船に移し

替えては積荷を分載して入港した。そ

の際に大官

の家名をかた

って知州以下

の官にはみな贈物を用意した

ので、官府

動静に

ついて知らな

いことはなか

った。しかし、敵封す

る者があればしばしば殺し

て海

に沈めたため、縣民からはたび

たび盗賊とし

て訴えられて

いたと

いう。

かねがねこれを問題覗して

いた蘇州知府王儀は、嘉靖

一九年、兵備副使

に昇任すると早速使者を遣わして彼らに出頭

を命じた。

『卒海事蹟』によれば、このとき招撫

の役目を負

って秦旙と黄艮

のところに赴

いた使者は、「官府

の法は嚴格

で、そ

の言葉は信用できな

い」と言

った

ので、秦旙

・黄艮らは疑念を起こし

て蹄順しなか

った。使者は戻ると、今度は

おソ

「秦旙と黄艮は勢威

に侍

み、官府を輕んじて

いる」と報告したと

いう。

秦旙と黄艮が蹄順勧告を拒んだと

の報が傳えられると、王儀

の指示により江海

の軍船が集められ

て礒装を整え、太倉

州到官石魏が、鎭海衛

・呉瀬所等

の千戸

・百戸から勇敢

で弓箭に長けた者を

六名、管下

の富戸

のうち長者

(者民)の聞

こえある者

一二名を選び、五螢

に分けて作戦準備に入

った。六月二七日、石魏らは軍船を率

いて南沙に迫り、三〇日未

明、西洋江陰の者民の呉嚴らがそ

の手勢を率

い、泥土を踏

み分け

て上陸した。石魏

の出兵に先立

って、王儀は彼に、輕

"

Page 33: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

基妄動を愼むことを言

い含め、交戦

の際

には必ず番號

の入

った制服を着

用するよう指示していたと

いう。しかし、石魏

は呉嚴らが上陸を始めた後

にようやく制服

の支給を忘れていた

ことに氣

づき、あわてて白旗を振

って退都

の合圖をした

が、軍勢はもはやそ

の采配に從おうとはしな

った。やがて、不意を

ついて騎馬

の敵軍が長槍を構えて來襲し、氣勢を

上げて火を放

つと、泥

の上に乗り上げていた呉嚴ら

の船はみな焼けてしま

った。そ

のほか二〇〇隻絵りの官側軍船も大

混齪

に陥り、船を奪

い合

って殺傷

・溺死する者が多数出

て、作戦は完全な失敗

に終わ

った。

『李海事蹟』

によれば、

この勝利

の絵勢を騙

って州境に侵入しよう

とする秦瑠に封し、黄艮は、「この状態を保守して

いれば、まだ命乞

いをする機會もあるだろう。もし、さらにことを大きくしてしまえば、赦免

の可能性は望めなくなる

ぞ」と言

って戒めたと

いう。黄昏

の薄闇

の中、彼らが西

の方を望むと、劉家港には船

が集

い、帆柱には燈火が揺らめ

て見えた。彼らは官軍が固守しているも

のと考え、あえ

て手を出さず、露天に宴席を張

って酒や肉を拉

べ、さら

ってき

た樂人たちに音樂を演奏させて樂しんだあげく、

みな醇

って大斯を

かきな

がら眠

ってしま

った。

ころが、

石魏らの敗退

からほどなくして、南京

の街匿に

「靖江王」を名

のる榜文

が貼り出され、科道官たちは孚

て王儀をはじめとする關係諸官を

弾劾した。榜文

の内容

の詳細

ついては記載がな

いが、『卒海事蹟』本文は、これを

何者かが秦旙

と黄艮の名を詐

って不遜

の言僻を拉

べたも

のだと述

べ、陸之裏

『庚子紀事』もまた、「誰か贋書を爲し

て都市に掲げ、皇司は誕を受け盗もまた冤なり」と、第三者による犯行

であることを前提視して

いる。しかし、徐緒

おソ

『東呉靖海録』は、

これを秦播と黄艮

のしわざと断じて疑わな

い。

この怪文書を墨げて秦播と黄艮の割篠を官府

に封す

る公然たる

「反齪」と定置する見解は、當時廣く行われ

ていた

ことと思われる。

ともあれ、この敗戦を受けて、

『明實録』には以下のような聖旨が下された

ことが記録される。

海冠はこれまでにもたびたび蹴をなし、官軍はそれを捕えることも

できず、何かと

いえば招撫に訴え、災渦を助長

Page 34: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ蜷輔能賊勘酒

ることにな

った。王儀

は輕率か

つ無謀

に出兵して富府の権威を失墜させた。夏邦誤

・王學愛

・周倫は、巡

撫の職

にあ

りながら、冠を泳がせておき民に祠

いをもたらした。

この時、王儀と王學憂は住俸を言

い渡され、早急に事態を牧拾することを命ぜられるにとどま

ったが、石魏を筆頭と

る官民こもごも

一九人

が京師に途致され、獄に投じられたと

いう。江海を行き交う諸船が治安秩序

に服す

る見返りに

身分保障を與えられることが、どう

った基準でど

の程度行われ

ていた

のかは實際

のところよく分からな

いが、江南デ

ルタ

の外周に位置する長江下流域

でさえ、招撫は現地官府にと

ってごくごく

一般的な治安封策

であ

った。また、

明朝國

の軍事機構は、本來五軍都督府と全國

の衛所、

それに敷任

の総兵官等によ

って構成されていたが、實際には、州縣系

の地方官府もその裁量によ

って適宜兵力を動員し、管内行政にあた

って相當

の強制力を行使することができた。しか

し、招撫にしろ征討にしろ、そうした強大な権限の背後

には常に身命を賭した重責が

ついて回

った。地方官府

の招撫に

いた集團

が放縦

に流れることは當局者

のゆゆしき失政

ではあ

ったが、ひとたび官府の威信を賭けて出兵に及んだ以上、

敗退

の汚名はなお

のこと許されるも

のではなか

った

のである。

新たに巡捕江准総兵官として反齪鎭堅を命ぜられた

のは湯慶と

いう人物

であ

った。實録によれば、

この時湯慶

「防

勤事宜」と題して、「募精兵」・「裁海路」・「重將権」・「專責任」・「選民兵」・「設守禦」

の六事

に渡る作戦大綱を提起し、

皇帝

の承認を得

ている。このうち

「精兵を募

る」

では、當時、徐州

・郵州雨府

一帯は久しく旱越

に見舞われ、人

々は互

いに結束

して盗賊とな

っているが、役にも立たな

い江南

の官軍

に換え

て蘇北

の住民を募

って戦線

に投入すれば

一墨爾得

だと主張する。また、「海

路を裁

つ」とは、賊を南沙

のアジト

に攻撃すれば海

上に逃げること必定

であることから、漸

江海道

に救を下して賊軍

の四散に封慮す

べきことを訴えるも

のであ

る。湯慶

は信國公湯和

の後喬と構し、もともと當

那州衛の衛官

であ

った。彼

の手兵は那兵、すなわち貧困に苦しむ蘇北地方

の出身者によ

って構成されており、彼らを戦

Page 35: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

線に投入することは漸江軍船

の動員とも相侯

って、江南

デルタ

一角を異郷から調用した軍隊によ

って包園制堅するこ

とを意味して

いた。事態

のこうした展開は、當然

のことながら地元人士たちにと

ってはできる限り回避した

いシナリオ

であ

った。

湯慶

は、千

絵り

の蘇

の兵

りすぐ

って長

江を

り、

江南

に軍を

めた

。陸

之裏

『庚

紀事

は、

これを

「口

ひきい

る郵

は、

牛ば降

と募

にし

て、

を提

て市

過ぐ

ば鱗

た鳶

に同

じ」

と椰

いる

。湯慶

の報

を受

けた王

は、

太倉

萬敏

と協

し、

萬敏

の提案

に從

って、

を秦

と黄

の根振

に派遣

て蹄

順を

め、

が慮

れば

の部

下た

の離

こと

にし

た。

八月

一三日、萬敏は自ら南沙に渡

ったが、秦播と黄艮はたまたま不在

であ

った。彼は宿所とな

った興教寺

で沈惟良と

いう人物を筆頭とする諸酋に面會することとな

った。彼らは囚人

の装

いをし

て萬敏

に拝謁し、萬敏

が利害禍幅を説

いて

懇切に諭すと、みな涙を流し

て畷り泣

いたと

いう。

その夜、萬敏は沈惟良を寝所

に招き入れて官府

への協力を促すと、

沈惟良は唯

々とし

てこれに慮じた。

一五日

の夜牛過ぎにな

って、ようやく秦旙と黄艮が南沙に戻

った。翌日、萬敏は二人を呼んで言葉を交わしたが、彼

らは信用せず、萬敏

はそ

の日のう

ちに船

で南沙を離れた。

『卒海事蹟』によれば、

二人は萬敏を水際ま

で逡り、船

が出

ると遙拝して涙を流したと

いう。

『康煕蘇州府志』は、こ

の時秦旙と王艮は沈惟良

が呆然と船を眺めたままぐずぐずし

ている

のを見て深く誹

った

(見惟良濁顧望猶豫、深以爲疑)と績ける。萬敏

の來島後、沈惟良は仲間内

でも二心を疑われる

存在とな

った

のである。

九月になると、総兵官湯慶

・巡撫夏邦誤らを筆頭とする諸官

がこぞ

って太倉

に集結した。沈惟良は謀略

が獲覧してそ

の身

に危瞼が及ぶことを恐れ、脱走して官に蹄順した。もはや免罪は望めな

いと開き直

った秦旙と黄艮はようやく攻め

Page 36: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

魅伽臓瞬勧油

に轄じた。彼らは、北は瑠浬

の市から南は呉漱江沿岸ま

で掠奪し

てまわり、さらに七鴉港に入り沙頭鎭

にま

で至ろうと

したところで引き潮とな

って退釦した。彼ら

の至ると

ころ、守備兵はそ

の姿を見たとたん、戦わずに逃げ出したが、賊

船はわずか二六隻

で、甲を被り弓を執る者も

いなか

ったと

いう。彼らの方

でも官軍が南沙に上陸することを恐れ、

日々

船を連ねて劉家河を塞

いで

いた。

一一月四日、湯慶

は進軍を始め、

その夜、敵軍から数里のところに船を止めた。翌日、官軍は敵を催れて進むことが

できなか

ったため、湯慶

は乗

っていた亘艦を捨て、八漿船

に乗り換え

て氣勢を揚げ、さらには進軍途上

で退御しようと

した

一船主の耳を切り落とさせた。船はこう

して先を雫

って進むよう

にな

った。官軍

の先鋒

二隻

が返り討ちにあ

って退

卸しかけたが、数

にして反乱軍

の十倍はあろう

かと

いう後績

の兵船が途切れることなく詰め寄せた

ので、反齪軍は支え

きれず退創した。午後

になると潮が滴ち始め、湯慶

は敵

の軍船

が逃げるに逃げられなくな

ったところを追撃し、これを

團んで矢を雨

のよう

に降ら

せた。燃え上がる炎と煙はさな

がら天を覆うよう

であ

ったと

いう。こ

の時

の衝突で官軍は反

乱軍を潰滅させ、二百絵りの首級を基げて船二

一隻を捕獲した。秦旙は戦死し、黄艮らは五隻

の船

で逃亡した。

朱元弼

『雫沙事略』によれば、逃げた黄艮をとらえるため湯慶

が人物を募

ると、陳煕と

いう藝人がこれに慮

じた。

彼は仕事

がら賊と

つきあ

いがあり、賊

の方

でも彼をよく知

って

いた。陳煕

はまず

一味

の宋文盛に接鯛した。當時、宋文

盛は背中

のできも

のを理由

に秦旙や黄艮と行動を共にしておらず、互

いに疑惑を懐

いていた。陳煕

の教唆に乗

った宋文

盛は、面會

の機會をとらえ

て黄艮を刺し殺し、そ

の首を持

って官府に投降した。

萬敏

は湯慶と王儀

に從

って南沙に至

った。

「卒海事蹟』

によれば、郵兵はわれ先

にと老人や子供を殺し

て恩賞を得よ

うとするので、萬敏は爾公を諌めて四方に人を走らせ、「今

日の事は、賊を捕えた者

には十分に褒美

をやる

が、殺した

者には罰を與える」と呼ばわらせた。郵兵は、ようやく斬

った首を泥

の中

に捨て、二千人絵りを生捕りにした。萬敏は

Page 37: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

再び賊

の眞儒を辮別す

べきだと主張し、自ら取り調

べに當たる事を願

い出た。賊珊に名前

がな

い者、

および老人や子供

はみな赦し、實際

の盗賊

一七〇人を選り抜く

ことができたと

いう。勝利

が傳わると官軍將士はそれぞれ恩賞を賜

ったが、

内閣諸公の中

にも相件に與る者

が少なくな

った。沈惟良は赦免されるはずだ

ったが、巡按御史督汀の判断

で結局庭刑

され

てしまう。黄艮の殺害

に功

のあ

った陳煕は、恩賞を受けて蘇州

の盤門

に居を構え、西園居士と名乗

って天壽を全う

したと

いう。

以上が

『卒海事蹟』に描かれる秦旙

・黄艮の乱

の概略

であ

る。ここに見える湯慶

の蟹勇

ぶりはさす

がのも

ので、彼

蘇北人らし

い無骨

・無遠慮なリーダーシ

ップ

がなければ、官軍はまたも

や敗退を重ねる結果

に終わ

ったかも知れな

い。

しかし同時に、彼

の牽

いた郡兵によ

って行われたとされる沙民虐殺

の光景は、施天泰

の乱

に際しての

「捜沙

の役」と呼

ばれる悲劇にも劣らず凄惨なも

のだ

った

ことであ

ろう。陸之裏

が言う

「菓色を以

って茱色を攻める」とはまさにこのこ

とであ

った。官府

の正義

の代行者として、良民を助け、賊堂…の諒裁に徹すること

こそが、官軍

の存在意義を支える理念

であ

った。しかし、湯慶

一團

の本籍地である那州

・徐州等

の蘇北地方もまた頻繁な水害

と飢謹

の襲生

によ

って

「盗

匠」として知られた地域であり、募兵に慮じた難民

の中

には、錦

の御旗に隠れた職業的な盗賊と言

ってもよ

い人

々が少

なくなか

ったも

のと思われる。その上、崇明地方もまた内地

の住民からは

「盗賊

の淵薮」と見られていた。官軍

の非道

な殺鐵

の背景には、勝利

の狂熱に酔

った兵士たち

の集團心理という要因以外に、關係諸官や近隣士大夫

の聞に、

これを

反齪鎭璽の

一環として職認するような雰園氣があ

ったとし

ても不思議

ではな

い。

『李海事蹟』本文

によれば、太倉知州萬敏

が秦旙と黄艮に再度降伏を促すため崇

明縣

に赴

いた際

に、現地

の婦女子

聲を

かけると、

みな泣きな

がら拝伏し、秦旙らに從

って露順す

ることを願

ったと

いう。記述者

にと

って、ある

いはこの

エピソードの主人公である萬敏自身

にと

って、沙上

の住民、特

にそ

のうち

の婦女子たちは内

地の人

々と攣わらぬ無享

Page 38: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ鵬嚇励勧酒

良民であ

った。萬敏

の目には、彼女たちは自らを導く者が

いなければ何も

できな

い無力な存在と映

ったこと

であろう。

しかし彼女たちを導き、その命運を握

って

いるのは、お尋ね者の秦旙と黄艮

にほかならな

った。そこには官府

による

救濟は及び得な

いばかりか、彼女たちも今や秦旙らと

一蓮

托生して、官軍

の征討を待

つばかりな

のである。「盗

の淵

薮」

に生まれ

ついた無事

の婦女子からすれば、

「反齪」もまたその

「鎭堅」も、同様に不條

理極まりな

いも

のであ

った。

一方、秦播と黄艮が萬敏と

の別れを惜しむ光景は、沈惟良

の裏切りを導入す

るため

にも必要な場面設定

ではあるが、

ある

いは讃者にと

っても何がしか印象に残るシー

ンであろう。萬敏と

の別れを本當

の意味

で惜しんだ

のは、内通

の密約

を交わした沈惟良ではなく、降伏を最後まで拒んだ秦瑠

・黄艮ら自身であ

った。萬敏は、秦旙と黄艮が心底では赦免を

望んでいることを知

って

いたであろうし、この時

の降伏勧告が官府

の最後通牒

である

ことを、彼ら

の方

でもよく承知し

いた。涙な

がら

の別離には、多分

に儀禮的側面もあ

っただろう

が、秦瑠と黄艮にと

って萬敏を沙上に見邊ることは、

何よりも川向

こう

の娑婆世界と

の今生

の別れを意味した

のである。

この反乱

のそも

そも

の噛矢とな

った

のは兵備副使王儀

による降伏勧告

であ

る。王儀によ

って遣わされた使者がこれを

秦旙と黄艮に傳え

る場面は

『康煕蘇州府志』

ではなぜか創除されており、各種

『太倉州志』のみに見え

る逸話

である。

この話を信じるとすれば、使

いにた

ったこの男は最初

から蹄順を勧める努力もせずに、二枚舌を使

って彼らを反齪

に追

い込んだかのよう

である。當時

の士大夫

の閲にも、彼ら

「反齪」がそ

の本來

の意圖ではなく、施天泰

の例

のよう

に何

者かに隔れられたも

のと見る同情論が成立する絵地もあり得た

のだろう。

一方、朱元弼

『卒沙事略記』

には、王儀

こそ伏せられているも

のの、無能で及び腰な

「兵備」

が湯慶とそ

の子克寛

の引き立て役とし

て登場し、彼

の意向によ

って關係諸官が秦瑠ら

の招撫に赴

いた話が傳えられるが、この時

一人

の知縣が聲色を荒げたために、彼らが蹄順を拒む

に至

ったことが、むしろ美事として語られ

ている。

Page 39: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

秦旙

の出身地通州と黄艮

の出身地臼茅は、とも

に當時

の長江沿岸

の商業流通

の要津

であり、彼らが何らかの商業活動

に從事していたのは確かである。

二人が

「反齪」

に及んだ経緯からも分かるように、彼らは別に掠奪を專業とするプ

の盗賊

ではなか

った。彼ら

が劉家港を押さえ

ていた

のも、官軍

が崇

明に上陸する

のを防ぐ目的以外に、海上

の商業

ルー

トを確保する意味があ

ったのかも知れな

い。また、彼ら

が當初行

っていたよう

に、贈物を媒介として現地官府

の庇護を

仰ぐ

ことも、當時

の船運業界

ではごく

一般的な慣習であ

った。

『卒海事蹟』によれば、秦播と黄艮が名實とも

に反乱

の首領となる以前には、宋高や王武と

いった首領

がより上位にあ

ったが、彼らが前後して官

に降

ったため諸酋は秦旙と

れソ

黄艮を首領に推したのだと

いう。

これがい

った

いど

の時貼

のできごと

であ

ったも

のか史料からは確認できな

いが、ある

いは當時、同業者が次

々と官府

の招撫に就

いてゆく中で、これ

に乗り渥

れた秦瑠と黄艮が結果的に

「裏肚會

のボ

ス」と

して、反齪

の首謀者に祭り上げられてしま

ったも

のかも知れな

い。反齪軍

の内實は、沈惟良や宋文盛と

った

「諸酋」

が寄り合

って互

いに疑心暗鬼を生ずるまとまり

のな

い集團

であり、秦瑠と黄艮は、江海に樟さすま

つろわぬ人

々が自ら

結集し

一致團結して生存を計るため

のミ

コシに過ぎなか

った。同時

に官府

の側

でも、

いざ

「盗賊」

の追討

に及ぶとなれ

ば、名

のあるお尋ね者を

「賊首」と設定し、征討の封象をしぼ

って作戦

の目的を明確化す

ることは、官軍

による無差別

な虐殺を防止する上でも必要な段取りであ

った。それ以前

の劉通や施天泰などにも共通す

ることだが、秦瑠と黄艮もま

た、時あたかも緊張

の極みにあ

った官

・賊讐方が何がしか目に見える反齪

の核となるも

のを求めた時、不幸にして江海

の英傑

の中から指ぎ出され

てしま

ったスケープゴートにほかならな

ったと見ることも

でき

るだろう

たとえば假

にここで、

いかな

「善」も

「悪」も、究極的

には状況と解繹に依存する相

封的なも

のと假定し、彼ら

反齪

に、富戸と官府と

の結託に反抗

の刀を向ける義賊的側面を指摘するとすれば、その暴力的な管みに相磨

「正義」

を主張す

ることは不可能ではな

い。秦旙と黄艮らが具膿的にどれほど

の悪行を行

ったのか、資料からはそれほどは

っき

Page 40: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ齢嚇騰陶湿

りとは見え

てこな

いが、南沙覗察時における萬敏

の経験

したと

ころを踏まえると、ある

いは彼らも南沙の住民からは

種義民硯されるところがあ

ったとも考えられる。施天泰

と董企、王様と董埼等、崇明島をめぐる

一連

の抗孚を見てきた

讃者にと

って、秦播と黄艮を死地に追

い込んだ

一群

「富戸」たち

が、廉潔

一黙

の曇りなき積善

の家

々であ

ったと信じ

ることはとう

てい無

理だろう。陸之裏は

『庚子紀事』で

「海濱

の者豪は利を兼取し、官府

の前

に技を逞しくして謀を獄

したが

ず。功を喜び攣を憂うるは守臣

の職、撫召は聴わずして心は煩煎

たり」と詠じ、反齪

の要因として、南沙周邊

の漁臨皿の

の掲占を狙

って官府を抱き込んだ老目民豪族

の策謀を想定している。

一方

で、彼ら

の不法行爲

ついて卒素から盛んに訴状

が上げられて

いたと

いう事實を取り上げるならば、

その暴力的

な螢爲を激

しく敵硯し、杜會秩序

の阻害要

因と見なして排除すると

いう

「正義」が

「富戸」たちにと

って錦

の御旗とな

った

のは確かであ

ろう。たとえ秦播らに附き從う

「無享

の民」が、彼らを父母と仰

いでそ

の生計を委ね

ていたとしても、

王朝國家

の彊域内

における卒和と安全を至上償値として最前面に打ち出し、そこから

の逸脱者を

「盗賊」として排除す

ることは、兵備副使王儀に代表される官側

の論理ではあくま

で正當な到断

であり、またそ

の義務

でもあ

った。最終的な

償値到断を彼岸

に委ねるのでな

い限り、現實肚會

にお

いて裁く者と裁かれる者との封立構造

の裡にあ

「正義」

とは、

究極的に

「裁く者」

「正義」に露することになる。それは第

一に、官と民とを裁然と分か

「名分」によ

って法秩序

を司ることを保謹された権力と

いう形を取る。これは王朝交替

にでも至らな

い限り覆

るものではなく、反乱者

の側

に何

ほどの言

い分があ

ったにせよ、「名分」

に基

づく現實肚會

に生きる限り、「反乱」は永遠に

「正義」たりえな

い。

これこ

そが官府と官軍

が掲げると

ころの

「殺す側

の論理」

であ

った。

『雫海事蹟』もまた同時代

のあまた

の文献

の例に漏れず、明朝

「名分」に基

づく慣値

観を共有す

るも

のであ

る。同

07

ヘ ヘ ヘ ヱ

Page 41: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

その政治的立場はむしろ當時

のある種の良識を反映したも

のであり、

いわば膿制内批到

の域を出るも

のではなか

った。

しかし實際、

その良識ある中道

のゆえにこそ、

『雫海事蹟』本文

には、今日

の我々でも當時

の肚會

の生きた現實を讃み

取るに足るだけの情報が織り込まれ得た

のだとも言えるであろう。

秦旙と黄艮は、

一度は官軍に盾を

つきな

がらも、

いずれは機會を捉え

て官府

の招撫

に慮じ、命を長らえようと

いう望

みを捨てては

いなか

った。しかし彼らは、助命

の確約

が難し

いとなると、我が身かわ

いさに縣下の婦女子を巻き添えに

して徹底抗載することをも

いとわな

い人聞であ

った。陸之裏

にと

って、ある

いは

『卒海事蹟』

の著述者にと

って、結局

のところ彼ら二人は、

一國

の圭

の座を慾して

「靖江王」を悟構する大逆賊

でもなければ、人民大衆

のために

一身

の犠牲

をも顧みぬ無私

一徹

の義民

でもな

い。

一戦に利あらば大酒をあお

って高イビキをかき、投降

の肯んじ難きを恨んでは江

上に涙をそそぐ、憎む

べくもまた哀れな小悪蕪だ

った

のである。

(六)王氏兄弟

の反獄

『卒海事蹟』

の最後を飾るのは、

『太倉州志』

の序文

が著された嘉靖二七年から遡ることわずか三年、嘉靖

二四年

に太

で嚢生した脱獄事件である。非常に短期

聞で決着が

ついたためか、この事件は

『康煕蘇州府志』等

には記載がな

い。

この種

一地方

の小齪が州志

に採録されたのも、それが州志編纂

の直前

に襲生したと

いう偶然に負う

ところも大きか

のであろう。

嘉靖二四年、太倉

の王泓は、沈瑛と

いう男ともめごとになり、互

いに訴訟を興した。王泓

の弟

の王海は沈瑛

の娘増だ

ったが、兄弟

のよしみで王泓

の肩をも

った。彼ら

はともども州獄に繋

がれたが、太倉衛

の舎絵傅好義そ

の他

の獄囚が

日々彼らを取り巻き、とも

に脱獄を企

てるよう

にな

った。七月三日の夕刻、訴訟

のため州衙門に押し寄

せる群衆に、王

Page 42: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ伽噺励勧沮

一味

が儒装して紛れ込んでいた。折しも兵備道

によ

って江陰

の許貴と

いう囚人が護邊されてきた。王泓

・王海それ

に傅好義らは牢獄

の内外

に慮援があることを知ると、勢

いにまかせて獄門を破

った。州衙門は大混齪に陥り、脱獄囚

一團は夜陰に乗じて城門を出て海上に逃亡した。知州周士佐ら

の調

べによれば、逃亡者は三〇絵名

であ

った。王泓

・王

・許貴

・傅好義らは、互

いに相談して言

った。「先年

の秦旙

・黄艮らは無爲無策

のまま、むざむざと捕まるだけに終

った。今、おれたちはた

った百人絵りだ。

ここで攻

めに出て力を示さねば、生き延びるす

べはな

いそ。幸

いにも官軍

は未だ備えが十分ではな

い。州城

の南岸まで攻め込み、火を放

って内外

の住民をうろたえさせ、その後

で官船と兵士を

って引き潮

に乗

って逃げると

いう

のはどうだ。」彼らは、六隻

の船

で放火掠奪を行

い、

一六日には劉家港に侵入した。

太倉衛巡捕署指揮使馬子龍ら

がそれを迎え撃

ったが、官軍は瓦解し、馬子龍

は殉職した。兵備副使教旙らは軍船四〇隻

を州城

の南を流れる婁江

の埠頭に結集させ、諸船

には秦旙

・黄艮の乱

に際して押牧された武器が配備された。時に、か

つて王氏兄弟と敵封して彼らと同時に投獄されていた沈瑛が從軍して罪を償

いた

いと願

い出

てきた

ので、彼ら

一堂…は官

の先鋒に充てられることにな

った。月が明るく潮

の流れも速

い夜

であ

った。王泓ら

の船は肚士たちを乗せ、上げ潮に

って州城に迫

ってきた。沈瑛は灰を運

ぶ舟

の水手から

いち早く

これを聞き

つけて王泓ら

の奇襲を迎え撃

った

ので、二

の衝突

で反乱軍は瓦解した。王泓

は陣没し、王海

は生捕りにされ、傅好義と許貴は残

った三隻

の船

で海上

に逃亡した。

それから三日と経たずして幅山の羅卒が好義を捕え、許貴は八月

にな

って江陰で縄に就

いた。

この時逃亡した獄囚たちは三〇名絵りに過ぎなか

ったとされる

が、

一〇〇人絵りに達したと

いう反齪軍

の物理的力量

は、彼ら

の脱獄を助け、そ

の呼號に磨えたシ

ャバの荒くれ男たち

であ

った。彼らは秦瑠と黄艮

の敗因をそ

の無謀無策

ためと考え、積極的に攻勢に出ることで、自

分たち

の力を見せ

つけ、さら

に官府側

の水軍を奪

って味方

つける

つもり

でいたと

いう。反乱軍は劉家港から内陸

へ侵

入を試

み、

一時は州治間近ま

で攻め寄せるが、それを迎え撃

った官軍

の先

Page 43: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

鋒は、もともと彼らと敵封し、同時に州獄に繋がれて

いたはず

の沈瑛

一堂…であ

った。彼ら

の來襲を灰掻き

の通報

によ

ていち早く察知した沈瑛は、そ

の手勢を牽

いて宿敵王泓を撃ち破

り、見事官府

への

「願罪」を果たす。まさに蛇

の道は

ヘビと言う

べき

であろう。

王泓が戦死し、王海が捕えられると、逃げた許貴や傅好義は、またもや江海

の間に生き延びる道を探すことになる。

彼らが捕えられた

のは、官府にと

っては幸蓮なこと

であ

った。だが、そうした成功は、結局

のところ彼らが官軍に封す

る敗者

であり、反齪者たちにと

ってすでに用濟み

の存在であ

ったからこそ得られたも

のであ

る。もし、彼らより強力な

指導者

が現れて、亡命者たち

のアジー

ルを反齪

の海にしてしま

ったなら、江海を行き交う

「捕盗」たちは官府

の走狗と

いう

地位に

いつま

でも甘んじて

いるだろう

か。嘉靖改元以降、太倉周邊

にお

いて規模と頻度を塘し

てゆく地方反齪

は、

抜本的な解決を見出せな

いまま將來

の祠根とし

て心あ

る士大夫

の念頭を去らなか

った

であろう。

『卒海事蹟』は、

つか

の間の小康に安らう嘉靖二七年

の江南

デルタに、不安

の陰を落とし

つつ兵防

の巻を締め括

っている。

三章

・松

・常

・鎭

の倭

かす

(一)倭

、沿

を掠

崇頑

一五年、州人張采

の主導

の下、およそ百年ぶりに

『太倉州志』

の編纂が行われた。知州劉彦心によ

って嘉靖州志

が重刻された

のは、崇頑二年

の秋

のことだ

った

が、嘉靖

から萬暦

・崇頑

にかけての世相

の移

ろいを経験し

てきた太倉

々にと

って、

それは必ずしも十分漏足

のゆくも

のではなか

った。地方志とは、現地の人

々が父租

の事績を文字に書き

留める以外

に、同時代

のより多く

の識字暦が郷土をめぐる時事政論を共有するため

のも

のでもあ

った。そ

の意味にお

Page 44: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ伽蘇励勘泪

て嘉靖州志も百年後

の崇頑年間には、多く

の人

々にと

って、もはや膿験的實感を訣

いた遠

い過去の記録以上

のも

のでは

なくな

っていたのである。たとえば、

『平海事蹟』

の序

で陸之裏は

「倭竃」に

ついて次

のよう

に言及して

いる。

永樂

一四年

に倭

が入冠したが、奮志

はただ、鎭江

・鎭海二衛

の百戸から

一〇人を磯して崇明の守

りに充て、太倉

危瞼

が及ぶことはなか

ったとす

る。おそらく外夷は海上にあ

ってもすぐ

に去

って行き、

(その害は)江海

の群盗

の比

ではな

いのであ

ろう。

『嘉靖太倉州志』

の初版が刊刻された嘉靖二七年

の時貼では、陸之裏

にと

って

「倭」こと

「日本人」

の存在

は、ほと

んど想定外と言

ってもよ

い要素

であ

った。これよりよほど深刻

で現實的な問題として、そ

の近傍

にあ

るいは潜伏し、あ

いは蹟雇す

「江海

の賊」があ

った。小規模な反乱は宿痢

のよう

に江海

の卒安を脅

かしており、またそれは回を重ね

るごとに大規模なも

のとなるよう

に感じられた。しかし、世界は彼が氣つくよりもず

っと速やかに、遙か遠く海

の彼方

にまで廣が

っていた。それから数年後、彼もまた蘇松地方

にお

いて展開す

「倭竃狙獺」

の惨状を實際

に目のあたりに

することになる。

『崇禎太倉州志』

は基本的

に前志

の記事を轄載

つつも、禮

裁上大幅な改訂を

ほど

こし

いる。嘉靖州志

では巻

「兵防」に附載されて

いた

『卒海事蹟』は題目と序文を削除され、春秋呉國以來歴代

の海戦を編年膿

で記録す

る巻

=

「海事志」

の本文

に組み込まれている。また、本文

に附せられ

いた割注も全て姿を清し、圖山

の役

に際して陸之裏が

知州劉世龍に宛てた上書は言及すらされていな

い。さら

に、「海事志」には

『卒海事蹟』

には見られな

い洪武

・永樂年

間の

「倭竃」記事

が附加され、嘉靖二四年

の王氏兄弟による反獄事件に績

いて、嘉靖三

一年

「倭掠沿海」と題される

記事

以下、連年にわた

って

「倭」

の入冠

が記録され

ている。ここではさしあたり嘉靖三

一年

の記事を説明す

るだけに止

ておこう。

Page 45: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

この年

の秋、呉瀬所、七鴉

口、崇

明沙上

でそれぞれ倭船

の漂着

が報告された。乗員は百人

に漏たず、みな飢えに苦し

んでいた。呉瀬所

に至

った

一團が百戸の凋塞と宗元を殺した。守備兵が二人

の賊を捕えたが、どちらも中國の亡命者で

った。七鴉

口の

一團は、住民

の楊氏

によ

って十数人が捕らえられたが、そ

のうち眞倭は四

・五人

の女だけであ

った。

明では、巡検が彼らを前にし

「武器を棄

てれば船を返してやろう」

と言

ったところ、賊

が刀を手放したので二十人

絵りを生捕りにす

ることができた。彼らが言う

には、船主襲十八が倭と通じて商費をして

いたが、風向きが悪く朝鮮に

漂着してしま

った。彼らは朝鮮

でも現地住民

に襲撃されたが、死圖の末

に脱出し、順風に恵まれて七日で中國沿岸

に至

った。本來盗賊をする

つもりではなか

ったが、官軍が逃げ腰な

のを見て、中國を輕んずる心を生じたも

のだという。

『明實録』嘉靖三

一年九月戊戌

の條には、磨天巡撫彰鞍から黄永忠及び襲

十入と

いう名

の盗賊が捕らえられたことが

上奏され、その場で謙鐵す

べき

ことが詔せられて

いる。また

『日本

一鑑』

の記述からも、聾十入が王直

と同時期に海上

での交易

に携わ

っていたことが知られる。

『朝鮮實録』には、

この年

の五月、濟州島

の川尾浦に正髄不明

の荒唐大船が漂着し、濟州牧使金忠烈及

び族義縣縣監

金仁らが辛くも

これを撃退したことが記録されて

いる。金忠烈はこの時

の封慮

の不手際を責められ

て更迭され、新たに

南致勤が牧使として赴任した。そ

の報告によれば、こ

の船

の乗組員

は倭人以外

に唐人が牛数を占めており、當初糧食

支給

と船隻

の支給を乞うたと

ころが當事官に拒絶され、やむなく

一戦交える羽目

に階

ったも

のだと

いう。

この事件は

「明實録』

の襲十八

一件

とはやや時期

がずれるため同

一硯す

ることは難し

いが、

の前後数年

の間に、「倭船」とも

「唐船」とも

つかな

「荒唐船」が朝鮮近海

に漂着す

る事例

『朝鮮實録』

の記事

に目立

つよう

になる。襲十八が奉

た船も、ある

いは何らか

の事情

で中央

に報告されなか

ったそうした無数

「荒唐船」

一隻

であ

った

のかも知れな

い。

崇頑州志には、その後嘉靖三二年から三五年にわた

って連年

「倭竃」

の侵入が記録され、やや跳ん

で嘉靖三八年、同

Page 46: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ櫛臓贈観湿

四四年に至るまで、官賊隻方

の人名、戦闘の舞憂とな

った太倉周邊

の具髄的な地名、それに官軍が塞げた首級の数と

った情報を列記す

る無機的な叙述が績く。『手海事蹟』にお

いてあれ

ほど雄辮

に語られ

ていた個

々の事件

の肚會的背景

は、もはやほとんど見えてこな

い。「倭」

の出現は、確かにそれ以前

の現地諸反齪とは比較

にならな

い背景

の廣

がりを

っており、太倉周邊

の裏事情

だけ

では説明しきれな

い新

たな局面であ

った。

『萬暦嘉定縣志』や

『康煕崇明縣志』

は、

一般

の海賊や反齪

の記事とは分けて

一項目を立て、わざわざ

「倭冠」

のために別個

の概念範疇を設定している。後

に編纂される多く

の地方志

が、それがあたかも明初以來江南地方における唯

一の動乱

であ

った

かのよう

に記す

のも、

「倭冠」と

いう非常事態

の衝撃

の大きさを窺わせるも

のである。

陸之裏も、事態

の新たな展開を座硯して

いたわけではな

い。崇禎州志

には

一連

「倭冠」記事

に績

けて

「賊始末」・

「破倭法」・「使日本針路」・「倭犯風向」・「瞼隆」等

の條項が附載

されており、

『民國太倉州志』によれば、少なく

とも

のうち

「険隆」・「倭犯風向」・「破倭法」が陸之裏

の著作だと

いう

こと

にな

っている。「険隆」と

「倭犯風向」は日本

の來襲に封する防衛策を説くも

ので、

「破倭法」は、日本人と養子縁組して

いた廣東省掲陽縣出身

の李

七師と

いう男

が、官軍に捕えられ

て訊問され、日本人と

の戦岡

のコツを述

べ傳えると

いうも

のである。もし、

これら

の條項が確かに

陸之裏自身

の手になるとすれば、先行する編年部分もあるいは彼によ

って記録されたも

のである可能性も否定

できな

い。

しかし、「沙民」

の反乱に

ついて相當

の裏情報を提供してくれる

『雫海事蹟』に比

べ、崇頑州志

「倭冠」記事は、全

く別種

の事務的な叙述

に終始する。やはり

「倭冠」とは、太倉や崇

明の地場

の力學

では説明

のつかな

い外來

の災禍

であ

り、漸江や幅建を超え

て遠く海

の向こう

の異國にま

で廣

がるそ

の背景を、

一書生

の情報網をしては捉えきれなか

った

だろうか。

「倭冠」構成員

の大多数が中國人

であ

ったことは、當時からよく知られ

ていた。崇頑州志本文

に目を通せば、至ると

Page 47: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

ころで

「眞倭」

の存在が強調され

ているにもかかわらず、そこで

「賊首」とし

て現れる王直

・徐海

・薫顯らは

いずれも

中國人

であり、そ

の集團内

での日本人

の役割

にそれほどの關心が向けられ

ているわけではな

い。編年記事に績けて附載

かどわ

された

「賊始末」と題する記事

は、「倭竃」を王直

・徐海

・薫顯

・陳東等、中國

の叛徒が

「倭」を勾

かして内地を蹉躍

るも

のだと説明し、そのうち蘇松地方

一團は徐海、南沙

一團は薫顯、柘林

一團は陳東

の部衆

で、みな王直

の配

下であ

ったとする。また、「倭冠」

のき

っかけとして、漸江省黄巖縣

の禮部省書黄縮

「倭商

・閏舶」

の交易

品を没牧

したのを

「倭」が恨んだと

いう風説が記され

ている。この記事が誰

の手

になるも

のな

のかに

ついては今

のところ手がか

りは見出せな

いが、少なくとも崇頑府志

の編者たちも

「倭憲」にま

つわる當時

の常識を共有しており、それが中國内外

に廣

がる密貿易

のネ

ットワーク、およびそれに封する官憲の拙速な封慮と深く關わるも

のであ

ったことは十分認識して

いたよう

であ

る。

話は前後するが、秦播

・黄艮

の乱

が起こ

った嘉靖

一九年は、

一方で

「倭冠」に連なる人

々の初期

の活動が記録される

あつま

でもある。

『簿海圖編』によれば、「嘉靖

一九年、賊首

の李光頭と許棟

が倭を引き込み、墜嘆港

に聚

って巣窟とした」

といい、そ

の朋蕪

の王直

・徐惟學

・葉宗漏

・謝和

・方廷助らが諸番に出没し、分散し

て剰掠を行

ったので、海上は多難

の時代を迎えたとされる。墜填港とは、寧波沖合

の六横島と佛頭山

の間に位置す

る水道沿

いの停泊地で、漸江巡撫朱紋

が嘉靖

二七年四月に官軍を派遣して磨港とするま

で、海禁制下

の密貿易基地であ

ったことはよく知られ

ている。

『日本

一鑑』によれば、密貿易港としての隻喚

の繁榮は、嘉靖五年、幅建

の都某が按察使

司の獄を破

って海上

に逃げ、

番夷を誘引し

て商責を始めて以來

のこととされる。これはポ

ルトガ

ル人

が嘉靖二年

一旦廣東から放逐された事件と關

があると考えられ、嘉靖初年あたりから、隻嘆がす

でに外國人

の隠れ集う密貿易港として機能していたのは確かなよ

である。同じく

『簿海圖編』

「冠踪分合始末圖譜」

では、嘉靖

一八年に金子老と

いう人物

が西番を勾引して交易し、

Page 48: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

への松蘇も繍蘭沿

嘉靖

一九年には李光頭がそれに加わ

ったことにな

っている。金子老は、早くも嘉靖

一年

には幅建に蹄還して二度と現

れなか

ったとされるが、翌二二年には許棟が讐嘆に合流、さら

にその翌年

には王直

が許棟

一味に加わ

っている。

王直

は徽州獄縣

の生まれである。若

い頃

から奔放で義侠心に富

み、長じ

ては知略

がはたらき氣前もよか

った

ので、

れソ

々の信服を得て

いたという。上記

の徐惟學

・葉宗漏

・謝和

・方廷助らも

みな當時

の不良仲聞で、ともに放蕩し、互

に謀

って、中國は法

が嚴しく何かと

いうと禁

に鯛れる

ので、海外を渡り歩

いたほう

がましだと

いう話にな

った。

こうし

た王直

の前牛生は、前章

で見た崇

明縣

の王様

の人物を彷彿とさせるところがあ

る。雨者とも、同じく侠氣に任じ、威信

絵人を堅する江海

の蕩見

であ

った。かたや王隷が塵賊

の首領としてそ

の生涯を通じて崇明を足場とした

のに封し、王直

は同様

に徽州

の朋蕪と江海

の聞に遊蕩しながら、

いつしか海外世界

に新天地を見

いだした。彼が中國の法網を逃れ

て、

同郷

の葉宗漏らとともに廣東に移

って亘艦を建造し、海外諸國

に足を伸ばす

べくそ

の第

一歩を踏

み出したとされるのが、

嘉靖

一九年、すなわち

「海冠」・秦旙と黄艮

が崇明南沙を根城

に官府

への反旗を翻し、完膚無きま

でに打ち敗られた、

まさにそ

の年

であ

った。

また、『李海事蹟』

には、次

のような記事

が載せられ

ている。前

述した施天泰

の齪

の後

牛、天泰

の降伏後

の弘治末

正徳初年

のことである。鎭海衛指揮

の陶綱が船隊を率

いて敵軍を海上に追

って

いた。しかし

一除は軍猫

でやや遠洋

に出

すぎてしま

い、不意に出會

った船中

の人

々の容貌がみな

黒いのを硯て驚

いたと

いう。本文は陶綱

が浜海

にま

で達

したも

のであろうとしており、

この時

の官軍

の航行範園が豫想外に廣大なも

のであ

ったことを窺わせて

いる。また、これに關

連す

る話は鄭若曾

『江南経略』

にも述

べられて

いる。彼

の幼少期、同郷

に璽秋蠣

いう老人が

いた。璽

老人

の語ると

ころでは、彼は以前、讐者として太倉

の衛官

の下ではたら

いていたが、鉦東山の追

討に從軍して廣東

の東南海上に至り、

さらに幾千里かを航行した経瞼があ

った。五

ヶ月にわたる船上生活

のおかげで、老人は海船

の特性に

ついてあらかた知

Page 49: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

り盤くしていたと

いう

16

改めて強調するま

でもなく、太倉

から廣東まで、そし

て廣東から東南

アジア海域

へは、

一片

の切れ目

のな

い海

である。 ヱ

太倉から襲した船舶が、船頭

の意志

一つで海外諸國にま

で航行範園を廣げることができた

のは、璽老人

の追憶を待たず

とも自明のこと

であろう。江漸閾奥・間

の商業交通は、

明代中期には相當

の襲展をみていた。東南沿岸

の海上航路では閾

鯉海商

が堅倒的な優勢を占めた

が、嘉靖年閲當時、江漸方面からも徽州商人が同

ルート上

に乗り出して相當

の勢力を築

れソ

いていた。すなわち、許氏兄弟や王直を筆頭とする

「倭竃」

に連なる人

々の流れである。

崇禎州志

「使

日本

針路」を見れば、太倉から日本

へと向かう船舶にと

って、墜嘆は航路上

の重要な目印の

一つとさ

れて

いた

ことが分かる。恐らくは明代より蓬か以前

から知られて

いたと思われるこう

した渡海

ルートを嘉靖期

「海

賊」も

「商人」も縦横に航行したが、彼ら

の中

には、中國本土

で罪を犯し、官軍

の追捕を逃れて海外諸國に亡命した者

が相當数含まれて

いたであろう。秦旙

の齪

に際し

て江准総兵湯慶

が漸江の軍船を動員して南沙を包

園することを提議し

いるよう

に、戦

いに敗れた

「賊」

の群れは、た

いて

いの場合海上

に四散した。明代中期ま

での海上

は官府

の法による

治安秩序が確立され

ておらず、カネと暴力

のみがモノを

いう

アナーキーな空聞が、亡命者たち

の恰好

のアジールとな

ていた。秦旙

・黄艮と王直とを結ぶ確實な史料的根檬は今

のと

ころ見出

せな

いし、本稿はそこに直接

の關連を指摘しよ

うと意圖す

るも

のでもな

い。ただし、たとえ王直自身が南沙の反齪軍に加わ

っていなか

ったとしても、太倉

と崇明をめ

ぐる度重なる反齪とそ

の鎭堅

の過程で、「官軍」

の殺裁

から逃

げ延

びて隻嘆周邊に新たな生存

の場を見出した者は決し

て少なくなか

ったであろう。下海通番

の禁と

いう有名無實

の國是

の背後

で、海上

の無統制とそこに跳梁する暴力

の強大

化は加速度的

に進み

つつあ

った

のである。

Page 50: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

への松蘇も励離湿

(二)

「沙民」と

「倭冠」

南沙と髪填は、以上

のような

「海竃」

の活動を媒介

にす

ると、ある種

の共時性を帯びてくる。嘉靖

二七年、當時漸江

巡撫

であ

った朱紋

が、隻喚をはじめとする沿岸諸島

の攻略に先立

って海禁を拗行した背景には、海に生きる人

々に封す

る根本的な不信感

がはたら

いて

いた。彼

の見た海とは舶來

の洋貨行き交う交易

の巷ではなく、禮教及ぼず、良識

の行き

渡らな

い文明肚會

の最果てであ

った。救任

の巡撫都御史と

いう立場上、波立ち騒ぐ海上

のアナーキーを座覗し

て荒れる

にま

かせておくわけには

いかな

った

のであろう。朱紋にと

っても海禁は至上目的

ではなく、治安秩序確立

のための戦

略であり手段であるに過ぎなか

ったが、彼

のストイ

ック

で國権主義的な秩序観は、現地民生の擁護に回

った閾漸士大夫

たち

のそれとは大きく異な

って

いた。蘇州附郭出身

のエリートである朱紋が閾漸沿海

の民衆

にそそぐ冷徹なまなざしは、

あたかも江南士大夫

が沙民

に封して懐

いた憎悪や蔑覗と重なり合うも

のであ

った。

江南

の住民が恐れ蔑み、排除しようとし

ていた海上

の暴力とは、軍に崇

明土着

の住民と

いうよりは、

むしろ三沙周邊

の江海上を往還する雑多な人

々の中

に胚胎するも

のであ

った。正統年閲

『重修崇明縣志』は、三沙

の住民は元來

みな

江准や漸江等

の地方から來附したも

のであるとする

一方、その多くが戸籍

は本縣に置きながら自身は他所に居住してい

ると述

べる。當時廣く行われた

「沙民」と

いう呼構も、特定

の集團に蹄属する

一群

の人

々と

いうよりは、江南

デルタの

住民が三沙水域

で見られる雫底

の小舟を操る人

々を指す場合に漠然と用いたも

のであ

ったよう

に思われる。また、海上

に渦巻く

カネと暴力

の問題は、嘉靖倭題期

に至

って初めて意識されたも

のではな

い。時代は成化弘治年間に遡るが、陸

之裏

の租父陸容がその著

『寂園雑記』

にお

いて、太倉周邊

の水産業界をめぐ

る経濟構造とそこに胚胎する暴力

に言及し、

以下

のように述

べて

いる。

17

石首魚

の漁期は四

・五月である。漸東

の温州

・台州

・寧波近海

の民は、毎年船

に乗

って出海し、金山や太倉附近ま

Page 51: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

でや

ってきて網を打

つ。太湖

の淡水はここで東に注

いでおり、魚

はみなそこに集ま

る。他に健跳千戸所などにもも

ちろん魚は

いるが、

ここほど多くはな

い。金山

・太倉

の近海

の民はただ魚を捕

って時鮮に供す

るのみだが、温州

台州

・寧波

の民は、

これを捕

って塵漬けにしたり、膠を取

ったりと、その用途は廣く、利盆は大き

い。以前私は、

沿海地方

の人

々は漁業と製臨皿の利盆に生活を依存して

いるため、

これらを禁止するのは甚だ便宜

に惇ることだと思

っていた。しかし今

日、そうした利盆はみな勢力ある家

々が猫占し

ており、貧民たちはただ彼ら

からその雇

い賃を

得ているに過ぎな

い。それら

の船は、出海して魚を捕

って戻るだけならまだ

いいが、獲物

がな

い時

に魚を積んだ船

に出會うと、恐るるに足らずと見ればそ

の乗員を皆殺しにして掠奪

に及ぶこともあ

る。これ

ではやはり禁止しな

わけには

いかな

いと

いうも

のである。幅建や廣東

のように密かに外蕃と通じて邊境を騒がせるようなことはな

いが、

淡菜

・亀脚

・鹿角菓

の類を探るには日本近海

の島喚にまで赴かなければならず、あ

るいは外患を惹起しかねな

い問

である。これは邊防を責務とするも

のが知

っておかねばならな

いことであ

る。

陸容が説くところでは、太倉

周邊海域

の治安悪化

は漸江から出漁してくる漁船群

にその責めが蹄

せられる。彼ら

の間

で磯達した雇用勢働制とそ

の必然的な結果

である不均等な富

の分配は、漁民聞

の貧困問題を助長し、

ひいては凶悪犯罪

の温床ともな

っていたと

いう。彼自身、漸江布政使司に右参政として任官した経験もあり、とりわけ山間や海濱

に居住

する

「頑民」に

ついては、自然とよくな

い噂が耳に入

っていた。幅建や廣東から南洋方面

へ向

かう密航者の存在は當時

からす

でに知られて

いたが、日本

ついては

この時黙

では陸容も警鐘を鳴らす

のみに止め

ている。「倭冠」は彼にと

ても、膿験的實感を訣

いた未生以前

の記憶

であ

った。しかし、

ここに見る陸容

の懸念

は、嘉靖年聞の士大夫たち

「倭

冠」を論ずる際のあ

る種典型的な言説に重な

るも

のである。明代

の國際卒和は中國と海外諸國と

の聞

「人臣に外交な

き」朝貢關係によ

って維持されて

いると見立てられ

ていたが、海を越えてゆく船乗りたちはその阻害要因であ

り、また

Page 52: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

跡勘構励励酒

その退腹

の表れでもあると考えられて

いた。そして、蘇州近傍

の士大夫

にと

って海禁とは、彼らが郷里にお

いて特権的

に享受する卒和と安全を維持す

るた

めには、確

かに合

理的な措置

であ

った。

『簿海圖編』

の著者

・鄭若曾

は、そ

の著

『江南経略』

の中

「黄魚船議」にお

いて、次

のよう

に述べて

いる。

倭攣が起

ってからと

いうも

の、當事官は、倭が漁民になりすまし、漁船を奪

って紛れ込み、さら

には漁民を捕ま

もや

て道案内をさせたり、漁船を鎮

で肪

って味方に充

てたりす

ることを憂慮していた。また、賊が兵船

の攻撃に遭

て内地に追

い込まれたり、漁船を追

い回して内港

に紛れ込んだりする場合もあ

って耕別のしようもなか

ったため、

のソ

に漁業を禁止してしま

い、あえ

て口を開く者もなか

った。

「倭」と民船と

の判別の難しさは、必ずしも倭

の備装

によるも

のばかりではなか

っただろう。

この場合

「倭」とは、

もちろんイ

メージの上

では日本人を想定するも

のだが、現實には多く

の場合、時

には倭

に偽装すらした中國人海

賊を指

して

いた。そして、治安當局も

「賊」

の活動を陰に陽に甜助す

る現地住民を、軍に嚴罰をも

って封慮するだけ

では事態

の打開が望めな

いことを十分承知して

いたであ

ろう。松江府出身

の内

閣大學士徐

階が、

「倭冠狽獄」甚しかりし嘉靖三

三年ごろに総督軍務張経にあてた書簡には次のよう

に見える。

聞けば、蘇松海濱

の小民は、しばしば賊と往來貿易し、賊は彼らを買牧してスパイとして使

って

いるよう

である。

ゆえ

に我が方

の動静

ついて、賊

の方では知らな

いことがな

い。もし賊をし

て堀と防量とで守りを固めさせ、我が

と全く往來を絶たせようとし

ても、こちらからはどうすることもできな

い。現今す

でに相手は我が方

の民と聞断

なく往來し、彼らを用

いることを心得て

いる

のに、どうし

てこちらからはそれができな

いのかP海濱

の富民はす

に城中

に居を移して久しく、海上にあるのはその佃戸や家僕たち

である。もし、府縣の方で意を用

い、富戸のうち

の豪傑を訪ね

て厚く禮遇し、そ

の佃戸や家僕を我が方

で用るならば、賊

の情報を得られるだけでなく、彼らを内慮

"

Page 53: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

せる

こと

でき

るだ

ろう

前章ですでに十分語り壷くしたよう

に、太倉

近海沿岸地帯

の住民は、以前から官府

に封し

て叛服常ならぬ危瞼な勢力

であ

った。彼らは

「倭竃」

の出現以降

はしばしば

「倭憲」勢力

に與しており、三沙は

「倭竃」

の巣窟

一つとも見られ

いた

のであ

る。實際、「倭冠」と呼ばれた

一群

の反齪者たちは、

ごく少藪

の日本人を除く大多数

が彼ら

「沙民」

に類

する江海

の流民

に占められ

いたも

のと思われる。しかし同時

に、

「倭冠」が江南

を脅

かす

よう

にな

ってからも、「沙

民」たちは依然として髄制秩序

の中

で自ら

の居場所を確保し

ていた。「沙民」とはあくま

「倭冠」とは別個

の概念範

疇である。彼らは、官府及

びそ

の統治

に服す

る内地

の良民

一般

にと

って、時に憎む

べき盗賊であり反齪

者であ

ったが、

同時

に招撫と

いう形での赦免可能性を與えられた存在

であ

った。それはあたかも

「倭冠」を構成す

「脅從者」たちが、

官府

の蹄順工作

に取り込まれると、状況次第

では

いつでも海上

に奔る心積もりで、腰掛け代

わりに官軍

の武力を形成し

ていた状況と重なり合うも

のであろう。さらに言えば、彼ら

「沙民」は、「倭竃」と

いう敵性概念

の並日及をま

ってはじ

めて、「禦倭」と

いう共通

の目的

の下に官府や内

の良民

一般

と連帯する契機を得た

のかも知れな

い。同じく徐階が慮

天巡撫周琉

にあ

てた書簡には、また以下のよう

にある。

沙民は本來賊を殺鐵す

るだけの力をも

って

いるが、これま

でのところ給與も十分

でなく、賞罰も

一貫していな

いた

め、彼らは賊

のなすがままに任せてこれを殺さず、かえ

って賊に用いられると

ころとな

って

いる。今、もし彼ら

おソ

俸給を優遇し、褒賞

の格を上げ、装備を支給して信頼關係を築く

ことができれば、必ずや協力が得られるであろう。

漁船を動員して

「禦倭」に充てることは當時

一般

に廣く行われていた。武装した民船は、現地官府

にと

っても沿海民

にと

っても雨刀の創だ

が、そ

の出海を禁止して人

々の生計

の手段を絶

つこと

が、「倭竃」

の掃討ど

ころか問題をより

深刻化させるも

のとして漸江や幅建

の沿海地方

でも大

いに異論を呼んで

いたことは、

ここで繰り返すま

でもな

いだろう。

Page 54: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

への松蘇も騰細湿

鄭若曾は、『江南経略』

「沙船論」に以下

のような問答を記載して

いる。

が尋

ねた

「盗

を捕

らえ

のは沙船

が、盗

たら

のもま

であ

る。

はめ

った

に磯

のでな

く通

は卒和

のだ

から

沙船

を常

備す

る必要

どな

いではな

いか。」

(答えて)曰く、

「そん

はな

い。

の諸

は面積

は廣

いが税

は輕く

、太

・嘉

・崇

・常

の富豪

の所有

や人

々の居住

があ

る。

こを

來す

には沙

によ

かな

い。

これ

を禁

ことな

でき

よう

か。」

(尋ねて)曰く、

「な

ば沙

が盗

あ し

らく

のを

どう

いのか

P」

(答えて)曰

「魚

・塵

・藍

天然

のも

たら

であ

り、

のあ

ると

ころ、

は必ず

こに集ま

。荷

を積

みな

がら盗

賊を

なす

いる

はず

はな

い。

空荷

で蹄

ては

じめ

て掠奪

行う

であ

る。

の掠奪

のゆ

に、

の生業ま

で禁ず

いう道

理があ

だろう

かP」

「沙民」

の敵性とその軍事的有用性

とは、あくまで内地

の側

から見た雨義性

である。實際、兵員として官軍に從

った

多く

の士卒たちにと

って、戦岡に際して金目のも

のを略奪す

ることは報賞代わり

の役得として牛ば公認された行動

であ

り、彼ら

の戦闘参加

の主要な目的を占めたであろう。この貼にお

いて、官軍と盗賊を匠別す

ることは時

として無意味

ある。同様

に、盗賊として

「沙民」と良民としての

「沙民」との間に明確な

一線を引くことは難しか

った。なぜなら、

の場そ

の時

の自然條件に大幅に依存する漁業という生活基盤

の不安定さが、恐らくは陸容

の言うような経濟構造

の不

卒等

の問題と相倹

って、しばしば彼らを窮迫をし

のぐため

の掠奪と

いう暴力的な行動に追

い込んだから

である。しかし、

江南

の経濟生活は、沙船

の漁業や水運に負う

ところもまた大きく、彼らを完全に排除することは現實

に不可能

であ

った。

「沙民」があくま

「沙民」

である限りは、そ

の生業を全くすることを

一方

で求められても

いたのである。

ある意味、「沙民」と

「倭竃」とは、同

一の實膿を指し示す異なる二

つの名

に過ぎな

い。あえ

て極論す

るならば、「倭

竃」とは、「沙民」

の潜在的な敵性を換骨奪

胎し、國家肚會

の存立を脅

かす

「他者」とし

て新たに焼き直

したも

のであ

Page 55: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

った。そして、依然

「沙民」たる

「沙民」は自ら

のネガとしての

「倭竃」と封置され、外來

の侵略者である

「眞倭」に

封する抗戦力と假想されることによ

って、そ

の積極的存在意義を構揚される

ことになる。こうした條件

の下、

「沙民」

こご

は、あ

かも

江海

の散

が凝

っては沙

州を

なす

よう

を据

ってゆく

のであ

る。

、槍海攣じては桑田とな

って、明朝主導下

の髄制秩序

一翼

お わ

以上、本稿で論じてきたこと

の総括にあた

って、筆者は三

つの論難に關して私見を提示す

ること

でこ

の稿を閉じよう

と思う。すなわち、本論中

で扱

った事件

のそれぞれ肚會史的

・政治史的

・文化史的側面に

ついての結論である。

一に、本論考

の基調となる肚會史的な側面に

ついて述

べよう。本稿

は、明代中期

の中國肚會を

『卒海事蹟』と

いう

「限られた

一つの窩」から見たも

のに過ぎな

いが、

いわゆる

「嘉靖倭冠」以前

の長江下流沿岸地帯が、決して他

の地方

志などで漠然と語られるような太雫

の無風状態にあ

ったわけでな

いことは明ちかである。十年を

おかずし

て繰り返され

る追討劇

は、時

には煙雨

の模憂を後景に配し、また時には夜牛

の鐘聲を遠耳に聞きな

がら江海

の水面を赤く染めたこと

であろう。それは騒人醇客

が傾城

に膝枕す

る春風秋月

の裏舞垂

であ

った。

「盗賊」とし

て追討

の封象

とな

ったのは、當時江海

の聞で私盛

を商

い、時

とし

て強盗ま

いのヤクザ稼業に携わ

った

々の、ほん

の僅かな

一部を占めるに過ぎな

い。劉通

の事例

に見るよう

に、主犯格

のお尋ね者が捕らえられると、通常、

の手下を自構する者

の諸

々の悪行は

「賊首」

一身に負わされ、從犯とされた者は、その罪状

の立謹が難し

いことも

って、脅從者として放免されることが多か

った。

これは名

のある

「賊首」を見せしめにす

ることで

一罰百戒が期

せら

Page 56: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ冠の松蘇も㈱陶油

れたも

のである。そ

の當否

ついては當時から蓋きせず議論

が交わされたが、

いずれにしろ

「盗賊」

の出没は後を絶た

なか

った。

また、捕らえられて有

罪と裁定されながら死罪を免ぜられ

て遠方に充軍させられた者

が、密かに故郷

に舞

い戻

ってく

るようなことは珍しくなか

ったも

のと思われる。さらに、中には王様

の逮捕に遣わされた顧翼

のよう

に、知州

の裁量

って死刑囚が

「功を以

って罪を願う」こともありえな

い話

ではなか

った。規定上

の制裁が意味をなさな

いとなれば、

罰する側もまた法定外

の手段に訴えざるを得な

い。審理過程における杖殺

や獄中

での私刑がはびこ

った

のも、また無理

いことであ

った。

そして、本稿を通じて筆者が何よりも強調

した

いのは、如上の戦役

に際し

て官軍

の側

に就

いた者も、状況

が攣われば

たちまち盗賊

の罪名を蒙

って追討される立場

となり、逆にか

つて盗賊

の群れ

の中

に身を置

いた者が形勢

の蹄趨を見なが

ら官軍

に寝返

ると

った状況はいくらでもあ

りえたと

いう事實

である。明朝

の膿制下で軍役

の中核を澹う

べき衛所軍戸

が、州縣民戸からは相當

にや

っか

いな存在と見られ

ていた

ことは

一般

によく知られて

いるが、衛所問題

に限らず、官府

による盗賊追討

の實質は、時として私盛

の費人や無頼

の遊民同士

の私的な抗孚

にそ

の美名を冠しただけのも

のに過ぎな

った。頻獲する反齪

の背景には、季時は市井

「良民」とし

てカタギ

の生活を逸りながら、指導力

のある頭目が出現

するた

び盗賊團に加わ

って反肚會的行爲

に手を染め、官軍

の追討を受ければ招撫に磨じ、投降後は逆

「盗賊」

の討伐

に從事し

て恩賞に與り、反乱

が雫らげば足を洗

って再び

「良民」として日常生活に沈潜してゆく人

々の廣汎な存在を窺

ことができる。敢え

て反論を恐れず言うならば、衣冠整齊、文質彬彬とした官僚

士大夫

よりも、軍

・民

・良

・賊

「名分」

のはざまをお構

いなしに渡

り歩く江海

の侠客たちこそは、傳統的な中國肚會

のある種本質的な

一面を膿現す

存在

であ

った。

そして、彼らは傳統中國

「中央集権禮制」を絶えず脅かす反面、

その物

理的強制力を代行することに

Page 57: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

ってそれを

構造

に支

いた

のであ

る。

第二に、如上

の肚會像から導かれる政治史的側面に

ついて述

べておこう。本稿で取り上げた諸事件

に封して何らか

歴史的意味附けを行う

とするならば、

これら

の事件が、從來

「嘉靖倭冠」に

ついて語られてきたような

日中關係史や海

外貿易史

の文脈と完全に

一致するも

のではな

いにしろ、むしろそ

の基層

にお

いて

「嘉靖倭竃」

の前提

となる諸條件を準

備するも

のであ

ったと

いう事實

に注目せねばならな

い。

つまり、嘉靖三

一年以降数年

にわた

った江南

の動齪

は、日本人

の海外進出や海禁令

の不條理等もそ

一因として数えられるとは

いえ、少なくとも

『平海事蹟』の意を汲む限り、そ

主要な因子はむしろはじめから江南デルタにほど近

い江海上に長年

の聞たゆとうて

いた

のである。

官府は治安維持

のため江海上

の盗賊たちをそ

の指導

の下に招撫し、拒むも

のに封しては時として軍事力に訴えたが、

本來カネと暴力

が支配するアナーキーな世界

に官府による統制

の論

理を持ち込

むことは、かえ

って彼らの

一部をより過

激な反齪

に追

い込むも

のでもあ

った。それでも當局者たちが羅魔

の手綱を緩めようとしなか

った

のは、そこに流れ込

み、

蓄えられてゆくカネと暴力

が、

いずれは官府

の秩序を脅

かし、肚會と人倫を攣性させる危瞼な存在となりうることが豫

測されたためであろう。陸上から江海上

へ、中國近海から日本をはじめとする海外諸國

へと、官府

の法秩序を逃れ

てゆ

くヒト

・モノ

・カネ

・ウ

ワサ

の流れが、漸江や幅建等

の沿海諸省を直接

の窩

口とし

ていることは、す

でに耳聰

い士大夫

の聞

では常識

に属しており、それを

いかに食

い止めるかが嘉靖年聞には國家的な政治課題として浮上し

つつあ

った。蘇

松地方

の士大夫

にと

って、

「倭冠」よりも何

よりもまず、江海上を往還す

るカネと暴力

こそ

が、既存肚會

の平和と安全

に封する眼前

の脅威だ

った

のであ

る。漸江巡撫朱紋

の悲劇はこうした文脈を前提とした上

で、

はじめて正當

に理解され

うるであろう

第三

に如上

「倭冠」観

の出どころである

『卒海事蹟』

の文化史的側

面に

ついて述

べねばならな

い。まず、

『李海事

Page 58: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ蜷齢競賊勘海

蹟』

の序文

は、太倉

の文人陸之裏によ

って著されたも

のだが、その内容

の全文が彼

の手になるわけではな

い。太倉

の地

誌は、州制施行以前

の山昆山

・嘉定

・常熟三縣

の地誌等を参照し

つつ、國初洪武年聞から嘉靖中葉までの間、當地

の文人

たちによ

って代わる代わる書き縫がれ

てきたも

のであ

った。ただし、少なくとも圖山

の役に關する記事内容に陸之裏

個人的膿験が織り込まれて

いることから、それ以後

の事件に

ついては、關係者から

の傳聞を整

理して記事

にまとめたの

は彼自身

ではなか

ったかと

いう推測も成り立ちうるであろう。

『平海事蹟』は、何らかの

一貫した思想を見

いだすには抽象度に訣け、政論にしては具髄的な提言はあまりに乏し

い。

ただし、沙民を擁護し、官軍

の非道を暴き、

「盗賊」たち

つか

の聞

の哀歓を描き出すそ

の筆先

には、時

の灌力

と政治

的現實に封する記録者たち

の冷めた覗線を感じ取ることができる。ただし同時に、彼らは決し

て當時

の償値観を革命的

に覆そう

いうような意識

は持

って

いな

い。陸之裏は塞人

の身分でありながら、

一介

の書生に終わることを慾せず、胸

の内

に経世

の志を秘めた相當

の野心家

であ

った。官位

にこそ恵まれなか

ったとは

いえ、彼もまた名望高き書香

の家

に生

まれ、文蓮天下に甲たる蘇松

の名士に立ち交じ

って文壇に功名を競

い、晩

年は貧寒に甘んじながらも生命にかかわるよ

うな飢餓にさらされることもなく、自ら信ずるところの

「経世濟民」を放談することができた。その意味

では、彼自身

いかに不羅

の才子を氣取ろうとも、結局は

一士大夫として既存

「名分」から自由であ

ったわけではな

い。彼にと

て、眼前

の時代

の混迷は、肚會膿制のありかたそのも

のの問題ではなく、あくまでそ

の運用の巧劣

にあ

り、最終的には

當局者個人

の賢愚得失

に蹄

せられる。彼

の境遇からすれば、明朝

の天命を見限

って理想肚會を夢見る自由も、また政府

のも

のの存在意義を否定してアナーキーな無頼

の自由を求める理由もなか

った

のである。

しかし、よりよ

い肚會とは、そこに生きる人

々にと

って、必ずしも常

に禮制

の暴力的な攣革

によ

って得られるも

ので

はな

い。また、膿制内に身を置くことが批到そ

のも

のの意味を減ずるわけでもな

い。官府によ

る勧善懲悪を追認するだ

Page 59: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

けのありきたりな地方志

の記述と比

べれば、「卒海事蹟』は確

かに膿制内

における良心

の聲とも言う

べきも

のであ

った。

「一介

の書生」

に過ぎな

い陸之裏

にできる

ことは、何

よりもまず、彼

の知

る限り

のあ

りのままを傳え受け、それを書き

記して公共

の場

に曝す

ことであ

った。そしてそれが

『太倉州志』と

いう牛ば公的な媒禮

に載せられた

ことも、明代後期

の言論

のありかたを象徴的

に示すも

のと

いえるだろう。折しも、人

々は官府から下される椹威ある教條よりも、野史小

説に描かれる醜

「眞實」を求めていた。正徳

・嘉靖年聞

に至

って、ようやくその他

の地方志

の記述

にお

いても

「大き

な道理」よりも

「小さな現實」が語られ始めていた。作爲と欺隔

で凝り固めた

「美し

い國」を禮賛す

るより、現實肚會

を見渡す限り

の矛盾

に良くも悪

しくも改革

のメスを

入れるべく、野心的な士大夫たちはそれぞれ

の思うがままを主張し、

實行しようと手ぐすねを引

いていた。『雫海事蹟』と

は、陸之裏

にと

ってまさにそのような時政講究

一環だ

った

ので

あろう。それは、太倉と

いう場で繰り返されていた

「小さな現實」が、再び

「動滅倭冠」を叫ぶ主戦論者たち

の怒號に

掻き清される直前に、當地

「一介

の書生」によ

って記録された

「嘉靖倭冠前史」

であ

った。陸之裏

の見た太倉

の海は、

「沙民」たちの血潮

に汚れる動乱

の海

であ

った。そして、それは今

日の我

々の目に映る限り、やがては

「嘉靖倭冠」

狂騒に至る江南肚會

の歩みとして、さも似

つかわし

いも

のであろう。

陸之裏

が同郷

の士大夫たち

の間でろくな評到を得

ることができなか

った原因

のひと

つは、同時代

の肚會に

ついて彼自

身が描

いていた何らかの構想が、結局

のと

ころ極めて個人的なも

のに止ま

っており、それを杜會

一般

のレベルで共有す

ることが困難だ

ったためかと思われる。彼とその兄陸之箕

の文章をまとめた

『陸氏伯仲集』

の序文

は、同郷

の王世貞が

記したも

のである。王世貞は陸氏兄弟と奮知

の聞柄だ

った

が、この文集

の編纂に彼自身

が積極的であ

ったわけではなく、

序を寄せた

のも

むしろ當時

の州同知

のた

って

の申し出を断り切れなか

ったためであ

った。

一代

の文豪として盛名をほし

いまま

にした王世貞から見れば、陸氏兄弟は郷里

の名門とは

いえ進士の身分さえ手にすることもできな

い斜陽貴族に過

Page 60: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ蜷轍競賊畝酒

ぎなか

った。文人

としての之箕は人が

いいだけ

の凡才、之裏は破

れかぶれ

のデカダ

ンで、酒が入ると悪まれな

い身

の憂

さをかこ

ってめそめそと泣き、周園からは攣人あ

つか

いされていたと

いう。之箕は職

に就くことなく早世し、之裏

には

漸江省威州府

の田舎町

・景寧

の縣學教諭と

いう閑職があ

てがわれたが、任官先

でも上官から重んじられることはなく、

々に職を僻して郷里で絵生を邊

った。晩年

の陸之裏

は、貧し

い生活

の中、文筆にも倦ん

では、自分には人望も権勢も

むべくもな

い、もはやこの世

の中

で誰に理解されることをも期待するま

いなどと漏らし

いたと

いう。人生

の勝利

・王世貞が自ら持するところでは、當世に訴えかけ、同時代

の人

々に共感されることこそ文人

の本懐

であ

り、後世

評債をあ

てにした文筆活動など迂遠

の業であ

った。あ

からさまには言わな

いも

のの、それは陸之裏を特

にそ

の典型とす

るような、我が身

の不遇を周園

の無

理解

のせ

いにしてかぼそ

いプ

ライドを保

って

いる世

の文人才子に向

けた皮肉であ

たように思われる。王世貞

にはそれだけ

の自負

があ

ったに違

いな

い。彼

の著した

「倭志」など、その史料的債値

はどう

あれ、彼

の在世時

にはさぞかし廣く讃まれたこと

であろう。彼が陸之裏などと誼みを通じたのも、傾きかけた同郷

の善

家に封する慈善

一環

であり、蚊び立

つも

ののな

い成功者としての虚榮心とな

い交ぜにな

った憐欄以上

のも

のではなか

ったと言

ってよ

い。

だが、王世貞

に憐れまれ、蔑まれ

ていた陸之裏がまとめた

「雫海事蹟』

は、玉石混清

の海防論議

の中

でも

一種猫特

地位を占め

ている。それはやがて蘇松地方

「倭竃」

へと攣貌を途げるであろう江海

「盗賊」たち

の生きざま死

にざ

まを絵すところなく描き出し、凡百

の倭竃論には及びも

つかな

い無類

の謹言とな

った。そしてそれは後世

『太倉州

志』諸版

に組み込まれ、太李の盛世

に沸き立

つ江南市鎭

の底邊

に、暗

い地下水

のよう

に伏流して

いた

「嘉靖倭憲前史」

を語り縫

いでゆく

ことになる。人

々はともすれば彼

の名を忘れ

がちではあ

ったが、その文と意は今日に残された。貧窮

と孤濁

のうちに世を去

った陸之裏は、まさしく後世

に知己を得た

のであ

る。

Page 61: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

注(1

)

「倭冠

に關

る戦

の研

のう

には

でも参

れる

少なく

いが、

こでは

冗漫を

け、

小葉

田淳

『中

世南島

通交

貿

易史

の研究』

(初

日本

一九

九)、同

『中

交貿

易史

の研究』

(刀江

書院

一九

一)

を塞

ておく

にと

どめ

る。

戦前

の研究史

の詳

ついて

は、田中

『中世

海外交

の研

究』

(東京

大學

出版

一九

五九

)第

一〇章

「中世

海賊

研究

の動

」を参

照。

戦後

の研

究状

いても

田中

健夫

『封

外關係

のあ

ゆみ』

(吉

川弘文

〇〇三

)

が参考

にな

る。

載後

間も

い時期

「倭竃

研究

ては、

石原

道博

『倭

竃』

(吉

一九六

四)

が、さ

しあ

たり

日本

の言

い分を

蓋く

した

であ

。ま

た、

『明實録

』等

中國

の官

製史

に依振

した

研究

とし

て、

佐久

闘重

『日

明關係

の研究

(吉川

弘文

一九九

二)

があ

り、

では檀上

の明初

の海

に關す

一連

の論文

が墾

られ

る。

〇年代

牛から

野善彦

・村

井章

・高良

倉吉

によ

って、

史研究

にお

いても海

を越

たボ

ーダ

スな

世界観

が廣く普

始め

る。

荒野泰

・石井

正敏

・村

章介

『ア

ジア

のなか

の日

史』

六巻

(東

京大

版會

一九九

二\

一九

)

は、九

年代

におけ

こう

た研

の集

成と

ってよ

い。

しか

し、

の後

十年

絵り

の間

に瑳表

れた

研究

成果

は膨大

な数

に上

り、關

情報

の蓄

積は

著し

い。

聞け

ば近

々こ

のシリ

ーズ

の績編

の刊

定さ

ており

、さ

に二〇

〇八

には岩

波書

から

『海域

ア史

研究

入門』

と題

るア

ジア海

域史

研究

の手

引き

が出

版さ

いう

。ま

た、

者も

研究

て参

一七年

~二

一年度

文部

科學

省特定

研究

「東

アジ

の海

域交

日本

傳統

の形

成」

(通構

「寧

ロジ

ェクト

」)

は、

「東

ア海

にお

ける人的

・物

的交

の歴史

を多

野横断

に分析

し、

日本

の傳

統文

化形

成過

程を再

討す

ことを

目的

とす

る」も

ので、

(2)

(3)

(4)

以前

の海

越え

た國

際關

に封す

る學

の關心

一端

を窺

でき

る。

「寧

ロ」

ついて

以下

d幻ピを

照。耳8"\\

≦零ゑ」■質・εξ

9碧

\日p昏

Φ〉巳

Φ×.ずけ巨

中國

大陸

の研究

によ

「倭冠

」問

の扱

いに

ついては、

萢中

『明代

史略

(中

華書

二〇

四)

「前

言」

にま

研究

回顧

が参

る。

「反海

圃孚

論」

の代表

的な

ては、

戴喬燈

『明代

嘉隆

聞的

倭竃

海盗

與中

資本

圭義的

芽』

(中

國肚

會科學

版肚

一九

二)

が筆

に墾げ

られ

るだ

ろう。

た、

明代

中期

以降

「倭憲

や密貿

の盛

行と商

経濟

の襲

展と

の關

係を

實謹

に探求

たも

のと

て、

仁川

『明末

初私

人海

上貿

易』

(華

東師範

學出

版吐

一九

八七)

は、

資料

集と

ても必

の文献

であ

る。

「倭竃

の本

質を

日本

と中

いう

族聞

の戦争

見る考

え方

では明代

來連綿

受け

がれ

いる。陳

慰恒

『明代倭

憲考

(初

吟佛

燕京

]九

三四)

日中

戦孚期

に刊

され

ので、

近代

スタイ

ルをと

った

この種

の研究

ては古典

であ

る。

八〇

年代

「民族

戦争

論」

して

は、陳

學文

「明代

與倭

竃」

(『中

肚會

研究』

一九

一)、

「論

的倭

冠問

(『文史

一九

八三

i

五)、同

「朱

歴史

功績

(『幅建

論壇

一九

八三

)が暴

られ

る。

また

年焚

表さ

れた

の種

の論著

ては、前

の苑中

『明代

倭竃

略』

(中

華書

二〇

〇四)

が典型

的なも

のであ

る。

明清時

の海防

と海

外貿

に關

する

最新

のアプ

ローチ

とし

て、

日根

『明清

政策

展』

(幅

六)を

ておき

い。

だし

、著

「倭竃

概念

には

疑問

す。

咋今

でやや流

の感

ある

「民

族戦箏

論」

に封す

る反

とし

ては、

焚樹

「"倭

"新

論ー

『嘉靖

大倭

冠』

爲中

(『復

旦大學

學報

二〇

〇〇1

一)

が比較的

よく

られ

いるよ

Page 62: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

への松蘇もカ賊の海江

(5)

(6)

(7)

であ

る。

かし、

これは

著者

身も

述懐

に、

「新

論」

はあ

る意味

皮肉

に響

くほ

ど、古

典的

な議

に基

いた

啓蒙

的論述

に終始

した

であ

る。

「倭

」問

に關

て、

憂轡

は、陳

「明嘉靖

沿海

憲乱

私販

貿易

的關

係」

(『中央

研究

院歴

史語

研究所集

』三

一九

六五

"後

『明清

治肚

會史

上』

一九

一)

比較

い時期

の研

て塞

る。憂

「倭冠

」問

研究

者と

て、鄭

の名

を落

とす

こと

でき

が、

の基本

的な

は、

「倭

」問題

明代

日中關

いう

で理解

るも

のであ

る。

の代

的な

とし

て、

『明

正補』

(文史

哲出

版肚 一九

一)、

『明代中

關係

研究

一以

日本

傳所

見問

題爲中

心』

(文史

哲出

版肚

一九

一邦

『明

日關

の研究

』雄

一九

五)、

『明

料』

(一

~七)

(文

史哲

版肚

一九

~二

〇五

)等

があ

る。中

『中

國海

洋襲

展史論

文集

』は

一九

四年

から

二〇

〇七年

の聞

に九編

が刊

行さ

いる。

のう

ち、

嘉靖

倭竃

に直

接關

係す

る論文

とし

て、

張彬

「十

六世

紀舟

山群

走私

貿

易」

(第

一輯

一九

四)

一讃

に値す

る。

吉室濁

の研究

によ

「倭

冠」

問題

に封す

る近年

の研究史

理とし

て、呉

大所

「明嘉

靖倭

研究

回顧」

(『明代

研究通

訊』

二 一九九

九V

があ

る。

程穆

『太倉

州名

考』

(郡

廷烈

『様

香齋

叢書

』鞄

集)。

『嘉

靖太

州志

の巻

には、

同書

に先立

つ太倉

の地誌

が列

れ、

それら

の原

が掲載

され

いる。第

一に洪

武年

の進士

陳伸

によ

『太

倉事

蹟』、

に陸容

『太倉志

稿

』、第

三番

に桑

の弘治

が暴

れ、

に都

『太

』、襲

『太倉

が綾く

ただ

し、桑

の弘治

州志

く諸

、今

いず

れも散

侠し

て傳

は確認

され

てお

らず

、残

され

た序文

らそ

の相貌

を偲

ぶよ

ほかな

い。

(8)

(9)

(10)

(11)

(12)

は、

代雍

正年

以降

の直

隷州

とな

り、鎭

・崇

・嘉

・寳

の四

縣を管

した。

國期

以降

は太倉

に改

めら

、さ

に日本

の占領

期を

んだ紆

絵曲

折を

るが、

民共和

來蘇

州地

に編

入され、

現在

に至

る。

『嘉靖

太倉

志』

は、

國内

では宮

内鷹

部と

経閣

が所

てお

り、

の他複数

の圖

書館

いずれ

の複窺

が牧

められ

いる。筆

が使

用し

た京

大學

人文

科學

研究

の藏本

は、

後者

照し

たも

のであ

る。

また

、状態

は劣

るも

のの、

一閣

の奮

藏本

『天

一閣藏

明代

地方志

刊績

編』第

〇冊

とし

て景印

出版

され

いる

。目

によ

っては

重刻

の年次

のみを記す

め、崇

年聞

編纂

と見ま

がう

よう

記載も

ので注意

が必要

『崇

太倉

州志

は、

奮北

雫圖

館所

藏善

マイ

ロフ

ルム

が國會圖

書館

に、

の景照本

が京都

大學

人文

科學

研究所

と東

洋文

に所藏

され

いる。

のう

「元至正

聞卒

一事

とは

、當

時元朝

に與

した

士誠

と、

に明朝

に露

順す

る方

國珍

の抗箏

の記録

であ

り、

桑挽

の弘治州

の記事

たも

であ

る。

の記

、陸

『太

稿』

の引

にも、

や字句

を異

にし

がら掲載

され

いる。

記述

は太倉

を守

る側

であ

った

張士

に肩入

れす

るあま

り、

がて

から官

位を

授け

れる

こと

にな

る方國

珍を

「海

盗」

と稽

して

る。

これ

明代

の編纂

記事

とし

はそ

の名分

に惇

るも

のであり

陸之

は割注

にお

いて、

これ

は藍志

の叙

であ

るため

記述

には

りを

む、と

った旨

コメ

ントを

加え

いる。

陸之

の傳記

ついては、

『列朝

詩集

小傳

丁集

『民國太

倉州

一八

「人物

二」、

『倉

四部

稿

』巻

「陸

等を

参照

。彼

の文

は、

の出

生環

に負

ころも

大き

った

と思

われ

る。

の租父陸

は、

兵部

系統

の官

職を歴

し、南

"

1

の職方

清吏

司郎中

を務

たほ

の政治的

實力

で、太

Page 63: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

(19)

州制施

にも當

主導的

な役

割を

果た

たと

され

る。ま

た、

陸容

は生前

やは

り蘇州

の文

とし

て名を

せた張

・陸銭

とと

に婁東

三鳳

とそ

の文名

を拉

び構

れ、

三者

とも

『明史

』文

苑傳

に名を

列ね

いる。

陸容

は詩

の才

にお

いては後

二者

「歩

を譲

った

とされ

が、博

學多

で史學

の方

に秀

でて

いたと

いう

。彼

『太

倉州

志』

の雛

とな

った

地誌

『太倉

志稿

』を

ており、

の文

『式齋

生文集

や随筆

『萩園雑

』な

の著者

とし

いる。陸

の傳

は、

『明

史』

六、

『國

』巻

四、

『嘉靖

州志

「人

・宙

蹟」

を参

。陸

の子

で陸

之箕

・之

兄弟

の父

であ

る陸

伸は

正徳

三年

に進

士とな

るが、

宙官

劉瑛

の粛清

に巻

き込

まれ

、ま

もな

獄死し

いる。

『嘉

太倉

州志

』巻

「人

・文

學」

を参

照。

『宋史

』巻

四八

「張載傳

を参

照。

の傳

は、

『嘉

靖太

州志

』巻

「人

\文

」、

『國

朝獄

』巻

一〇

「桑

傳」、

『明史

』巻

二八

六、

『明詩

綜』

四等

参照

松正

「現代

の海運

戸府

と海運

世家

(『京

都女

子大學

大學

院文

研究

研究紀

要史

學編

二〇

〇四-

)。

『太

實録

』巻

四九

洪武

三年

二月甲戌

明初

洪武年

の海洋

政策

いては、曹

永和

「試

明太

祀的海

交通

政策」

(『中

國海

洋磯

展史

論文

(こ

研究

民主

研究

一九

四)、檀

「明初

の海

と朝

明朝

の理解

に寄

(『明清時代

の基

本問

題』

汲古

書院

一九九

七)等

を参

『太

組實

録』

一二六

洪武

一二年

一〇

月甲

申、

『弘

治太

志』

}

沿革

『嘉靖

太倉

州志

』巻

一〇

雑志

下、州

施行

の経緯

いては、

『嘉靖

志』

「建置

沿

革」

を、

また

に關連

具禮

な議

ついて

は、

『嘉靖

(20)

(21)

(22)

(23)

(24)

太倉州志』巻一〇

「遺文」、『呉都文梓績集』巻一〇

「公癬」等を

参照。

1

『嘉

靖太

倉州

志』

置沿

「夫

爲殿

之便

者大

要謂,

多則

擾,

賦分

則民

貧,差

則民

困也

。以

爲駿

不便者

謂,太

居民

附海

,塵

出没,

民雑庭

,事

難蹄

一,

當城

守要害

!歴宋

元迄

今,

虜、

台冠

、沙

醜作齪

,

至塵

廣慮

,勢

廟誤

,護

京儲,

官軍

者,

。是

地,

也。修

及,

況其

崩堀

也耶

p事

關州

治之

大,

因書

其略

以傳

。」

王銃鐙

『明代的

軍屯

(中

華書

一九六

五)。

『嘉靖

太倉

志』

「瀕海

多盗

患,

其事

大。太

東瀕海

,

海盗

入婁

江,

則太

倉先

受患

上官

之議

用兵

者,

必從太

倉集

謂雫

海之

績,

不當

紀之

太倉

!」

『嘉靖

太倉

志』

「鎭海

小卒

通,

年服

爲官

,

長身有

勇技

,

不畏矢

石,

六舟

販盤

江海。

他劉

掠及

匿臨皿者,

「我

長官

船」,

通之

日著

一日

出,

偶直

二商

水濱

嬰。問

之,

「我商

,財

壷爲

劫去

,故

留此

耳。」

通日

「我

即通

。」問

所往

,遽

之,

盗止

舟,

,金

畠壷

以蹄

商。

然通

不能

自解

。成

十七年,

江都

御史

患通,

議嚢

京軍

捕之

兵部

省書

陳鍼

以問,

職方

中陸

容封

「通,

水盗

。用

軍何

p必

用之

,

則所

擾費

民將

堪。

計,

一衛

耳。」

昂既

得請

,

乃與

按諸

會太

倉傲

師遠

威集

通所

六舟

,毎

出追

,

則揚

走。

止則

訂,

如之

何。

上官

拉爲

宥腰

授指

揮使

政持往

諭之

政素

知通篤

母,

而厚

人。

綱橋

其母

人,

,

,

與爲

不死誓

,通

泣拝

降。昂

聞報

,

坐學宮

召見

通,

復縦

遣率

厭蹄

。既

而遣

通至

府城

,

遽執

逡京

師。通

悔恨

就謙,

絵悉

不問。」

『憲宗

實録

』巻

一九

十七年

月丁

「謙

強賊

劉通等

六人於

市。

通本

鎭海

衛軍

成化

年,

犯罪

,

厭,

Page 64: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

への松蘇もカ賊の海江

(25)

(26)

(27)

船,往來江湖中,販盤爲盗,剰掠殺人。南京倉都御史臼昂,奉命

巡江,逐捕久不得。因遣人誘致之,通等亦機困,途與其窯束身自

露於昂。牧其器

一千六十件,械通等二十

一人邊京師,法司當通凌

渥虞死,除悉當斬。有旨,通等聚厭劫殺,拒敵官軍,當依律治罪。

但力窮投首,倶減等。通當斬,命不必覆奏。首悪五人皆絞。籐繋

獄,擬罪有差。」

『嘉靖常熟縣志』巻十 卒竃

「成化中,呉瀬人劉通以販臨皿,出入

海上。久而有厭至数百人,劫掠濱江,民被其害。其窯至入墜鳳,

携人子女以去。有司招之不能下,其厭習於水技,官兵不能當,勢

釜張。時都御使臼昂領操江,躬至海上,使鎭海衛指揮使武誘出之。

通來降,檎之鐵干市。支蕪多逸去。」

『正徳金山衛志』下

巻二

軍功

「成化十入年,臨皿徒劉通誘集四方

通逃、亡命、出没江海上,劇劫屠掠,人甚苦之,有司以聞。命巡

江都御史臼昂、総督備倭郭鉱,設法勒捕。通遁入海中,賊蕪愈罧。

昂榜諭招撫之,通疑而不至。鉱牽官軍戦艦追之海洋,賊遙望驚

逸,以輕舟潜入太倉從命。其母問日,何招撫之久而不來乎p毒我

干獄者,汝也!通告以近在海洋惟見官軍戦艦,散漏四出,厭皆懊

怖,無以拒。今之來,非本情也。然,鉱兵止千人,五、六艘而

己。」

『孝宗實録』巻二二

一弘治

一八年二月丙寅。「初,直隷蘇州府崇

明縣人施天泰,與其兄天侃,篶販賊臨皿,往來江海,乗机劫掠。其

仇董企者,臼干知縣劉才,請往捕之。才途傘罧以往,天侃等迎敗

之,焚其舟略壷,才急遜得免。凡其仇十絵家,悉縦火焚之。既而

巡捕監察御史,招天侃,出降,死干獄,天泰等劫掠如故。會官兵

捕盗上海,復遣之往,以功給賞。未幾,企使其子僅傘厭八百絵

人,渡海襲撃之。天泰與戦,董氏堂…大敗,死者甚罧,後太倉州執

企繋獄,而天泰寛不可制。巡撫都御史魏紳、巡江都御史陳橘等嚢

兵往捕,天泰復潜至太倉城下,焚所募船,勢甚猫獄。紳等不得

(28)

(29)

(30)

(31)

(32)

(33)

(34)

(35)

(36)

(37)

(38)

(39)

(40)

已,遣官持傲招之,天泰乃降。」

『嘉靖太倉州志』巻三

「崇明縣人施天泰、天常兄弟四人,居縣之

牛洋沙。其同縣董企家富而奮,天泰等出販臨皿江海,還必後遺企。

後漸易企,怠於歳醜。企怒,以弘治十七年春,西潜見知府林世遠

言,「天泰等爲盗,不速庭,後將難制。復請身任動捕之責,但求

得公文耳。」世遠催激攣,不許。企力陳其不足雫,然企謀洩,寛

以憤事。」

『孝宗實録』巻二一= 弘治

一八年二月丙寅

「紳等奏謂,天泰法當

斬,但始由董企謀害,途至拒敵殺人,勢非得巳。況今悔過來降,

人常從官兵捕獲他盗,較之負固不服者,似有不同,請賜裁塵。」

『孝宗實録』巻二二

一弘治

一八年二月丙寅。

『武宗實録』巻

一四

正徳元年六月己巳。

『武宗實録』巻

一七

正徳元年九月庚辰。

『武宗實録』巻二

一正徳二年正月戊戌。

『武宗實録』巻三〇

正徳二年九月癸卯。

『嘉靖太倉州志』巻三

兵防

準海事蹟

「太倉人王泓」の條、「露盆

州知州州人周表東海無波序

〔割注〕」。

『孝宗實録』巻一=

弘治

一七年八月癸亥。

『武宗實録』巻三〇

正徳二年九月癸卯。

『嘉靖太倉州志』巻三

兵防

卒海事蹟

「太倉之薦縣日崇明。崇明

之諸沙,錐號有盗,然盗之渠傘亦不審出諸沙,江海中流劫爲姦

者,奉多詐構沙民耳。故歴世以來,其著名於盗者,當各識其里

縣,無令沙民猫蒙其悪也。」

『嘉靖太倉州志』巻三

兵防

卒海事蹟

「鎭江圖由等庭賊董敷、董

政、施道士、衰堕等,聚徒流劫。嘉靖三年春正月,鎭江指揮奨邦

勇、千戸劉欽倶被害,兵肚死者甚厭。(以下省略)」

『嘉靖太倉州志』巻三

兵防

準海事蹟

「殺悪以進善者上,殺賊以 叙

衛邑

者次

之,

殺人

以要貴

不取

也。

矧騙菜

以攻菜

p・騙菜色

Page 65: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學

(41)

方東

(42)

(43)

(44)

(45)

(46)

(47)

以攻菓色,是傘未形之盗,除巳齪之民也。且執賊,執其方爲齪者

也。概而執則人必催,催則武,武則攣,攣則爲患多夷。」

『嘉靖太倉州志』巻三

兵防

卒海事蹟

「崇明人董企有五子,埼最

少而好暴。王様、顧文義與埼同縣,而名復相軋,埼兄弟忌之。

(以下省略)」

中國的

「民本主義」に關わる言説は古來枚墾にいとまがないが、

ここでは弘治州志の編纂

者である桑悦の

『桑子庸言』(郡廷烈

『楡香齋叢書』即

『婁東雑

著』金集)から以下の一節を紹介して

おこう。「天之覗鼎同乎民,民之至愚通乎帥。人君寄民之上,厭

心量之爲高位,厭力固之爲崇傭,厭有蹄之爲富,有其可不重民

耶p牛羊以畜之,草菅以刈之,虐乎民,則是慢乎神,慢乎耐,則

是逆其天 ,天腺不永終乎!書日,豫臨兆民,凛乎若朽索之駅六

馬。先王其畏民哉!」ちなみに雫生うぬぼれ屋として有名だ

った

桑悦は、自身を孟子になぞらえていたという。

『正徳松江府志』巻三二

遺事、『正徳華亭縣志』巻

一六

遺事。

『崇頑太倉州志』巻五

風俗志。

『孝宗實録』巻八二 弘治

六年

一一月乙卯

「南京錦衣衛指揮使王

鏡言,近年以來,刑官多恣意用刑,獄囚毎掩禁致死,無干之逮繋

者,不與決遣,隷人之羅織者,不爲禁治。無籍之徒,謀充獄卒,

積年爲害,刑官或喜其便利,托爲腹心,姦弊皆由此出。叉有負利

之徒,治亘艦出海與夷人交易,以私貨爲官物,沿途影射。今後商

貨下海者,請即以私通外國之罪罪之。都察院覆奏,從之。」

『嘉靖太倉州志』巻三

兵防

卒海事蹟

「比歳秦瑠王艮振南沙構鑑,

所司請兵準之,其絵蕪多通窟又擁王標者爲長。操朦瞳,挾器械,

沿海入江,以販私臨皿爲事。様故構侠,多智略,恩信結人心腹。由

是江南北比假其姓名,猶能囎聚,群不逞横行剰劫,莫敢誰何。」

『萬暦嘉定縣志』巻

一五

「兵防考上\海冠」、『康煕崇明縣志』巻

「武備\冠警」、『崇禎松江府志』巻四九

「兵焚」、『萬暦上海縣

(48)

(49)

(50)

(51)

(52)

(53)

(54)

(55)

士心』 巻

一〇 「曲雑士心\

丘ハ焚

」。

『萬暦

山縣

』巻

「城池

」、

『萬

嘉定

』巻

「管

建考

\城

池」、

『康

蘇州

府志

「城池

」。ち

に箆

の城壁

は、

嘉靖

一八年

の二月

に着

工し

、翌

年五

には完

成し

いる。

の工事

には當時

の蘇

州知

王儀

の盟

であ

る禮

省書

顧鼎

の後

があ

った

とさ

れる

が、

っとす

と當局

の側

にも

、あ

じめ

「反齪

の嚢

生を豫

期す

ころがあ

った

のかも知

れな

い。

『萬暦

上海

縣志

』巻

一〇

雑志

『嘉靖

倉州

志』

兵防

雫海

「通

人秦

瑠、

臼茅

黄艮,

拉居

明南沙

。南

沙廣

除里,

八十

里歳

多取

稻萩荏

葦之

利,亦

鳩厭

撰魚

臨皿爲

姦,

同縣富

號者

民者

十絵輩

,

日夜

譜官

艮等爲

盗状

。」

『康煕

蘇州府

志』

一一

「十

九年,

討海

賊秦

、王

艮,

。瑠

通州

人,

艮常

熟人

,拉

居崇

明南

。有勇

力,

畜肚

丁可

人,

舟装

魚臨皿,泊

近洋

,

小舟

分載

入港,

托貴

官家

名,

州守

下皆有醜

,

一墨

動無

不知

凡所

雛恨,

執殺

之,

投海

爲常,

憩盗

状。」

『嘉

志』

「蘇

州府

王儀

之,

擢兵備

使守

太倉,

使

招旙、

艮等

。使

詣播、

所,

言官

甚嚴,

不足

信。

播、

艮等

疑,

莫肯

來。

回報,

又言,

瑠、

艮等勢

盛,

畏官

。」

『崇頑

太倉

』巻

海事

「既

王儀

副使

,

兵太倉

干是

旙、

艮。

使

者顧

言,

嚴,

可信

者。蹄

言,

瑠、

艮等

強,

文牒

可致

。」

『嘉

靖太

倉州

志』

卒海事

「瑠慾

勝犯

州境,

不從,

日,

守此

可求

生,

筍壊

大事

則無

赦期

!」

『嘉

太倉

志』

巻三

季海

「山人

裏庚

子紀

〔割

〕誰爲

優書

都市,

司受

謳盗

亦冤

。」

『明文

』巻

「近

瑠、

良、

認ヱ

Page 66: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

へ冠の松蘇もカ賊の海江

(56)

(57)

(58)

(59V

(60)

(61)

(62)

(63)

席、

晟、

漢、

顧良

、徐

,

皆前

之蕪

,

曲,

世濟

兇醜

,出

没江

海,

盗販流

劔,

日久

。兵備

司,屡

州縣

招撫

之,

不肯

降,

自分

不赦,

盆嚇

聚亡

命華

盗,

鋳造

兵器,

立旗

號,

偶構

靖江

王,内

自太

倉諸

地,外

自大

江千

里間,

日殺

人,

劔市

鎭,

掠質

舶,

可勝

計。

沿

江瀕

海之

,騒

然奔

,

而斥

士,

誰何

乃麩

運艘

,

殺兵

,

言,

無所

顧忌

,畿

屯家

突,

勢漸

獺狽。」

『世宗

録』巻

四三

一九年

一一月丙

辰。

『世宗

録』巻

四三

一九年

一一月丙

辰。

『嘉

靖太

州志

』巻

兵防

卒海

「山人

裏庚

子紀

〔割

注〕

口來

郵兄

牛降募

,提

兵過

市同鰻

。」

『明文

海』

三八〇

平沙

事略

「賊既

至海

上,

習知

海道

者,優

人陳

熈慮

。陳

熈者,

以其

往來三

沙,

賊所

押也。

密受

湯指

,先

於宋,

宋疽

背,

不同蕃

艮策鷹,

聞反覆

,

疑之。

令其

要艮

事,

於坐

上,

持首

與煕

來奔

自瞭。」

湯慶

は謀殺

され

た黄

の屍髄

の皮を

いで軍

鼓を

作ら

せた

いう

『荊

川集

』巻

「海上

歌贈

將軍

首」

に、「五

下准

郵,

自是

沙洲命

。將軍

卒戎鼓

,

須借

貌腹

下皮

。」

の作

があ

、注

「湯侯

以渠

賊王

艮皮製

鼓」

と記

され

る。

『李海

蹟』

によ

ば、

々に投

降し

宋高

・王武

の庭

への充

にとど

ったよ

であ

る。

『嘉

太倉

志』

卒海事

「山人陸

子紀

〔割

〕海

濱者

豪利

兼取,

逞技

獄謀

官府

前。喜

功憂

守臣

職,

撫召

聴心煩

煎。」

『崇

太倉

志』

「三

…年,

倭掠

沿

。是

秋,

上報倭

船。

一在

呉瀬

所, 一七鴉

口, 一崇

沙。

人不

滴百,

困。

在呉

瀬所

者,

殺百

戸凋

畢、宗

。我

兵獲

二賊,

乃中

亡人。

……

(中

)

……在

七鴉

者,

民楊

,

,

婦女

(64)

(65)

(66)

(67)

(68)

(69)

(70)

(71)

(72)

(73)

(74)

四、五,差得眞倭。在崇明者,有巡簡給之日,「棄爾兵、則與爾

船!」賊投刀海中。獲二十絵,自言,「船圭襲十八與倭通販,逢

悪風瓢入朝鮮。朝鮮人襲之,死戦脱,風便七日至此,本非爲憲。」

既知官兵易走,乃有輕我意。」

『世宗實録』巻三八九

嘉靖三

一年九月戊戌。

『日本

一鑑』「窮河話海下

・海市」。

『明宗實録』巻

二二七年五月辛亥。

高橋公明

六世紀中期

の荒唐船と朝鮮の封慮」(田中健夫編

『前近代の日本と東アジア』吉川弘文館

一九九五)。

『萬暦嘉定縣志』巻

一五

「兵防考上」、『康煕崇明縣志』巻五

「武

備」。

ここで名指しで批判される漸江省黄巖縣の禮部術書黄縮は、漸江

巡撫朱紋が在世中の嘉靖二八年の時貼で

『醤絵雑集』に序文を寄

せており、彼の海禁政策を支持する立場を表明している。嘉靖三

一年に黄巖縣が

「倭冠」の掠奪を被ったことは、當時

一般にその

來襲を象徴する事件として知られていた。

『簿海圖編』巻五

「漸江倭攣記」。

林仁川

『明末清初私人海上貿易』第四章

(幅建師範大學出版肚

一九八七)。

『簿海圖編』巻九

「檎獲王直」、無名氏

『海憲後編』(衰裟輯

『金

聲玉振集』所牧V。

『江南経略』巻八

「雑著\水操法論」一「曾嘗憶少時聞郷老璽秋蠣

云,吾昔爲讐生,随太倉衛官勒鉦東山,直追之廣東之東南大洋,

又去幾千里,歴五越月,備知夫海船利弊。」

明代の江南と禧建廣東方面の交通については、萢金民

「明清時期

江南與禧建廣東的経濟聯繋」(『瀟建師範大學學報』二〇〇四i

])が詳しい。また、藤井宏

「新安商人の研究

(二V」(『東洋學 詔

1

』三

-

一九五

三)

も、

王直

の活動

州商

の海

Page 67: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

報學方東

(75)

(76)

(77)

(78)

(79)

(80)

見る

『崇

頑太倉

州志

』巻

一一

「海

事志

・使

日本

路」。

これ

おそら

『簿

海圖

』巻

「太倉

使

日本

路」

から

縛載

たも

であ

う。

『簿海

圖編

』は、

の典

『渡海

』及

『海

』と

いう

名を

暴げ

いる

が、爾

とも書

物と

の傳

は確

できな

い。

『康

煕崇

明縣志

』巻

「戸

口」、

巻五

「宙

蹟」。

陸容

『萩

園雑

記』

一三

「石首魚

,

四五

月有

之。

漸東

温、

台、寧

近海之

民,

歳駕

船出海

,直

山、太

倉近

庭網

之。

蓋此庭

,太

淡水東

注,

魚皆

聚之

,他

健跳

千戸所

等塵

,固

有之,

不如此

也。

山、

,僅

耳。

温、

台、寧

民,

取以

煮,

膠,

利博

。豫

,

瀕海

以魚

利,

使

↓切禁

之,

誠非

所便

。但

日之利

,皆

勢力

之家

專之,

過得

其受

雇之

耳。

其船

得魚

還則

已,

則遇

之船

,

可奪

,

則蓋

殺其

人而奪

之,

不可不

禁者

也。

若私

通外

蕃,

啓邊

,如

廣之

弊,

之。

其探

淡菜

、亀

脚、

鹿

角楽

,

至日本

相近

山島,

不可

得,

或有

啓患

理。此

固職

巡徴

者,

當知

也。」

『式齋

生文集

』巻

藩文稿

封事

『江南

経略

』巻

黄魚船

「自倭

攣後

,當

道慮

倭偶

充漁

人,櫨

漁舟

入,

執縛

漁人

爲引

導之

計,

執鎖

漁船

爲帯

備之

資,

叉有

兵船追

撃,

入内地

者有

之。有

船起

漁船

,乗

勢混

入内

港者有

。莫之

能辮,

禁止

採捕,

開端。」

『世

経堂集

』巻

二三

張牛

洲総督

「一,

聞蘇

松濱

海小

民,

頗與

往來

貿易,

因而

賄之,

使爲

耳目,故

之動

静,

賊無

不知

者。夫

使

賊深溝

塑,絶

不與

我相

通,

我則

可奈何

今既

與吾

民往

聞,

彼能

用吾

民,吾

不知

用之,

耶p・濱

海大

家,

久已

入城

中,

居海

上者,

皆其

佃戸

入,

若郡縣

肯留

心,

就大

家中

訪求豪

(81)

(82)

(83)

(84)

,

深結

而厚

勢之,

使通

佃戸家

以爲

我用,

不惟

可得

賊情,

可使爲

内慮

也。」

『簿海

編』

『江南

略』

はし

しば

「三沙

賊」

いう

が現

れる。

明は

「倭冠

の根嫁

一つとさ

れ、

ってま

たも

や激

戦地

とな

る蓮命

にあ

った。唐

『新

荊川

先生

外集』

「三沙

報捷

疏」等

あわ

て参照

のこと。

『世経

堂集

』巻

二三

與周

厘撫

=

,

沙民本

能殺

賊,

但爲

前此

不足,

賞罰

明,故

賊不殺

,

或反爲

用。今

若優

養之

,重

以賞

之之

格,

資以

械,結

恩信,

必當

得力

至於郷

民斬

獲賊

級,

即時

行賞,

母使

習弓

措侵

漁,

明信之

下,

亦必

競奮

任兵憲

,素

士民所

服,

專以

任之,

也。」

『江南

経略

』巻

沙船論

「或

問、

捕盗

者,

沙船

也。

爲盗

者,

沙船

也。海

生機之

少,

卒靖

之時

多,

沙船

可無

設歎

。日,

然。

,地

輕,

、嘉

、崇

明、常

別業

,

居民

廉在

,

其所

以往

入者

,

沙船

也,

可磨

p日

,

使

其爲

也,

P・日

,

魚臨皿藍

,

生自

,

在,

民必趨

之。

方其

販載

時,

未有

爲盗

者也,

回洋,

始行

耳。

若因

其劫,

併其

探捕

業而

禁之,

有是

理哉

!」

こう

した

々は、本

稿

が題

材と

した

明代

の江

に特

の存

では

い。

いわ

「裏

肚會

いう

テー

マは、

の學

的な

意義

問わ

れる

以前

に、

多く

の人

々にと

って墨

せぬ興

味關

の封象

あり

績け

てき

た。

こに生

きる

の秘密

いた

生態

、そ

の資金

調達

のカ

ラク

リ、表

肚會

の法秩序

は別個

の髄

系を

なす

の掟、

組織

や権力

屈しな

ハー

ドボ

ルドな人

生観

々、

さま

ざまな

から拮

り出

され

た虚

こも

ごも

の言説

が、

憶測

や誇

張を

交え

がら確

たる

根振も

いま

に現在

でも

世上

に濫れ

いる。

一般

に、中央

椹的官

による

一元的

な統

治機

構を

徴とす

る帝

政中

國は

、日本

ヨー

ロッパ史

見られ

るよ

うな

、あ

いま

いで

忽ヱ

Page 68: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

弱小な公権力の下に強大な私灌のせめぎあいが展開する

「中世肚

會」とは別個の肚會類型に属すると考えられがちである。しかし、

當然のことながら、中國魅會において法的秩序を逸脱しながら自

己の生存を切り開いてゆく

「私権」と呼ぶべきものが存在しなか

ったわけではないし、それは實際、官僚機構という法理上の公共

空閲に人々の生活の場としての命を與える、いわばその血肉とし

て、中國肚會の歴史的展開

の原動力であり績けてきた。中國史に

おける任侠的な習俗が、漢代の肚會秩序の構築に果たした不可映

の役割を強調する、増淵龍夫

『中國古代の肚會と國家 秦漢帝

國成立過程の肚會史的研究』(初版

一弘文堂

一九六〇)は、こう

したテーマに肚會科學的分析を導入した古典的研究としてよく知

られている。時に國家権力に封する反抗者として、また時にその

實質的な推い手として、時代を超えて生き績けた中國史上の

「盗

賊」たちについて、これをあるべき肚會秩序から逸脱した非合法

的存在と見るか、それとも專制國家の外皮に隠れた中國肚會の本

附記

來的

形態

と見

か、あ

いは國家

と肚

會と

の關係

を媒

介す

る中

的な

聞團禮

と見

か、は

たま

たそ

んなも

のは

権力

が人

民を

支配

るた

にで

っち

あげ

た虚像

に過ぎず

、實

には大

が根も

葉も

い作

り事

である

と見

るか、

そらく

は立

によ

って多

様な

見解

成立

しう

に違

いな

い。

「反

會」

の代

でも

「盗

賊」

は、あ

る特

の艦制

秩序

に封す

るネ

のよう

なも

のであ

る。中

國肚

の理論

的把

「究極

の結

論」

が成

立し

がた

いよう

に、

に、草

に、沼

に、

そし

て江海

に蹟雇

「盗

賊」

たち

の位

づけ

いて、

これ

からも

議論

が壷

ること

はな

いであ

ろう

本稿は文部科學省特定領域研究

「東アジアの海域交流と日本傳統

文化の形成」による研究成果の一部である。

への松蘇も力賊の海江

拓1

Page 69: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

between Huizong and Cai You. That's because Cai Jing as Prime Minister could not

enter the Forbidden Palace and participate in issuing the Imperial Edicts from the

Emperor Himself, but Cai You as Xuanhedian Xueshi could. Cai You was one of the

most influential officials in the last decade of the Northern Song. When we study the

political history during Huizong's reign, we have to pay more attention to the

political role of Xuanhedian as well as of Cai You.

The T6h6 Gakuh6 Journal of Oriental Studies(Kyoto)No.81(2007)69~135

From Water-side Bandits to`lapanese Pirates":

Another Pre-History of the Jiaj.ing Wokou嘉 靖 倭 冠

Takeshi YAMAsAKI

It is well known that theッtlpanese pirates"during Ming dynasty, the Wokou倭

冠,included not only Japanese, but even larger nulnbers of Chinese, who resided

along the southeast coast of China. It is also widely believed in Japan as well as in

China that the piracy represented a righteous protest against the prohibition against

overseas trade,勿 吻 η 海 禁. However, the violent plunder and massacres should not

be explained as the principled stand of sea-traders, most of whom were only inter-

ested in the profits to be gained through smuggling, which was possible through

cooperation with Iocal Chinese governments rather than waging devastating cam-

paigns against them.

The origins of"Japanese Piracy of the Jiajing Period"(ノ 勿 ゼ㎎IVoleou)must be

sought in local traditions of collective violence. The Jiaj'ing Gα2etteer(ゾTaicang,

Taicang zhou2hi太 倉 州 志contains detailed information regarding the frequent

occurrence of banditry and armed conflicts in the Yangzi River estuary region;these

accounts provide clear evidence for a well-established pattern of bloody feuds and

fights involving fishermen, salt-brokers, gangsters and governlnent officials before

the Wokoza Campaign, In the Yangzi River estuary region, imperial Ming govern-

ment's rule was deeply compromised by the collusion of local and provincial officials

261

Page 70: Title 江海の賊から蘇松の寇へ : ある「嘉靖倭寇前史 …...東方學報京都第八一冊(二〇〇七) 六九1=二五頁 江海の賊から蘇松の冠へ ある「嘉靖倭冠前史」によせて

with autonomous sea-nomads, who eventually joined in the Wokou rebellions and

comprised a sizeable proportion of the "Japanese Pirates."

The TOhO Gakuho Journal of Oriental Studies (Kyoto) No. 81 (2007) 258 — 191

Historical Investigations on the Dynamism of Land

Reformation by the CPC Central Committee: 1946-1948

Guisong YANG

What were the reasons of the "May 4th Instructions" formed in 1946? Why was

the CPC Central Committee further considered more moderate policy to buy land to

solve the land problem after a few months time? Why was Liu Shaoqi suddenly

turned fierce policy of land reform in April 1947? Why did Mao Zedong which

insisted that the movement of peasants must break with landowners, interfered with

Liu Shaoqi for the agrarian reform, will twist the violent land reform movement to

back the land reform a relatively moderate line in the 1948? This series of dramatic

policy changes and adjustments apart from the historical memory under the domi-

nant ideology of the Party and with the KMT relations at that time, are right or not,

to a large extent, depends on the true extent of the information.

260