No · 2012-01-21 · 62003 No.83 特別企画 収蔵映画特集 収 蔵 映 画 特 集 特 別 企 画 「映像書簡9“寺山修司がいた”」 「清朝最後の宦官・李蓮英」
Title 直睿思殿と承受官 --北宋末の宦官官職-- Citation …...直 睿 思 殿 と 承...
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Title 直睿思殿と承受官 --北宋末の宦官官職--
Author(s) 藤本, 猛
Citation 東洋史研究 = THE TOYOSHI-KENKYU : The journal ofOriental Researches (2015), 74(2): 261-293
Issue Date 2015-09-30
URL https://doi.org/10.14989/234873
Right
Type Journal Article
Textversion publisher
Kyoto University
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直
睿
思
殿
と
承
�
官
︱︱北宋末の宦官官職︱︱
�
本
猛
はじめに
第一違
睿思殿・宣和殿と宦官
一︑睿思殿・宣和殿の宦官貼職
二︑睿思殿�字外庫
第二違
宦官の承�官
一︑走馬承�から廉訪�者へ
二︑承�官
おわりに
は
じ
め
に
北宋末*宗�の後�といえば︑皇が
敎に傾倒し︑宦官が跋扈した時�だと言われている︒﹃東都事略﹄宦者傳は︑
その冒頭に北宋宦官の禍をまとめ︑�のようにいう︒
李憲
諸將を西邊に�制せしより︑越貫
之に因りて︑以て兵秉を握り︑*宗旣に貫を寵用し︑而して梁師成は坐して
帷幄に籌り︑�武二柄は此の兩人に歸し︑宰相は特だ�書を奉行するのみ︒內にして百司は悉く宦者を以て�領せし
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め︑外にして諸路は則ち廉訪承�の官�り︒宦者の勢︑盛んなり︒(王稱﹃東都事略﹄卷一二〇・宦者傳)
*宗�における宦官の�について︑地方で兵柄を握った越貫と中央で活動した梁師成の二人を取り上げ︑當時の權力がこの兩
者に歸したと槪觀を営べる︒おそらくこの記事が基づいたと思われるのが蔡絛の﹃鐵圍山叢談﹄で︑より�確に�のように営べる︒
本�宦者の盛︑宣和の閒繇り盛んなるは莫し︒⁝⁝政和三︑四年に�び︑上自ら權綱を攬りしより︑政
九重に歸し︑
而後皆な御筆を以て從事す︒是に於いて宦者乃ち出で︑復た自ら 藉すること無く︑祖宗垂裕の模盪じたり︒⁝⁝政
和末︑(越貫)"に寖く樞筦を領し︑武柄を擅にし︑Á算を#り︑而して梁師成なる者は則ち坐して帷幄に籌り︑其
の事任は古の輔政する者に類にる︒一時の宰相︑執政︑悉く其の門に出で︑中書︑門下の如きは︑徒だ�書を奉行する
のみ︒是に於いて國家將相の任︑�武二
︑咸な此の二人に歸し︑公に因りて黨伍を立つること︑水火より甚だし︒
印た是の時に當たり︑御筆旣に行われ︑互いに相い抵排し︑都邑の內外︑&從する'無し︒群臣�司大いに罪を得る
を懼れ︑必ずや宦人を得て之を領せしむれば︑則ち入奏す可く︑()#る'�り︑故に諸司務局爭いて奏し︑中官の
提領を乞う︒是の後大小百司︑上下の權︑悉く閹寺に繇る︒外路は則ち廉訪�者�り︑或いは承�官を置き︑是に於
いて天下一に聽
したが
いて紀律大いに紊る︒(蔡絛﹃鐵圍山叢談﹄卷六)
やはり越貫・梁師成を�武を牛耳った巨魁とし︑宦官が勢力を持った根本原因は御筆政治の展開にあったという︒御筆が
-後矛盾して行出していたため︑それを�ける官僚側が保身のために宦官との提携を求めたというのである︒
しかし實は宦官・梁師成による政策への關與ということでは︑禁中において御筆を僞.し
(させ)︑こっそりと本物に
混ぜて出す︑という姑息な手段が喧傳されるのみで(1
)︑具體/な政策立案01について︑どのような手順が踏まれていたの
か︑そこに宦官がどのように介入していたのかについては具體/な記錄がない︒
筆者は拙著において︑この政和年閒を*宗による﹁親政﹂體制が始められた時�と目し︑その中で梁師成らいわゆる巨
璫が'持していた宣和殿
(保和殿・睿思殿を含む)にまつわる稱號について5目したことがあった(2
)︒宦官の跋扈と御筆政治
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が表裏一體であったということならば︑御筆作成の場である睿思殿・宣和殿と︑そこで活動していたことを窺わせる直睿
思殿・直宣和殿という宦官官職の存在は無視できない︒
また先の7料では宦官が外では廉訪�者・承�官となっていたことが指摘されていたが︑これらも當時の政治狀況と密
接な關わりがあったと考えられる︒﹁宦官跋扈﹂と稱される*宗�後�における政治狀況の解�には︑これらの宦官官職
が果たした役割を�らかにする必:があるだろう︒
そこで本稿では︑まず御筆作成の場であった宣和殿・睿思殿に關わる宦官官職について改めてこれを檢討し︑つづいて
蔡絛が指摘する廉訪�者・承�官について考察を行う︒
第一違
睿思殿・宣和殿と宦官
一︑睿思殿・宣和殿の宦官貼職
かつて拙著において;�したのは︑仁宗�の﹁管勾天違閣﹂に倣って︑*宗の政和年閒に三十人の宦官が<ばれ︑﹁直
睿思殿﹂・﹁直宣和殿﹂の稱號を帶びたということだった︒關聯した詔は政和三年
(一一一三)九=と十二=に出されてお
り︑それによればこれらは�力宦官に對して與えられた貼職であり︑�官の集賢殿修Uから直祕閣までの館職と竝稱され
るものであった︒
言うまでも無くこの﹁直﹂は︑宿直を?味しており︑睿思殿・宣和殿という宮殿に出入することが許された者に與えら
れたものであろう︒當時睿思殿を含む廣義の宣和殿一帶は禁中の�も奧まった場'にあり︑*宗が日中を0ごす場であっ
たため︑當然そこに侍るというのは︑*宗に�も親@する宦官であったことが强く推測される︒そこで諸7料から﹁直睿
思殿﹂﹁直宣和殿﹂を持つ者をBべたところ︑︻表一︼のような結果が得られた︒
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表一 直睿思殿あるいは直宣和殿就任者 (初出年代順)
姓 名 # な 官 銜 年 = 出 典
①黃經臣內客省�、円雄軍�度觀察留後、知入內內侍省事、直睿思殿 →右衞將軍致仕、任D居E
政和 2 (1112) 5.26 『宋會:』職官 68-25
②楊戩
保靜軍�度觀察留後、直睿思殿 政和 2 (1112) 10.2(3) 『宋會:』禮 28-58
保靜軍�度觀察留後、直睿思殿 政和 3 (1113) 8.28 『宋會:』禮 34-14
保靜軍�度觀察留後、提舉龍德宮、直睿思殿 政和 3 (1113) 9.22 『宋會:』儀制 3-43
提舉龍德宮、直睿思殿、同提舉大晟府 政和 4 (1114) 3.15 『宋會:』禮 5-3
靜難軍�度觀察留後、直睿思殿 →頴J軍�度�、依-直睿思殿
政和 4 (1114) 5.20 『宋會:』職官 38-3『十�綱:』17
③越貫
中太一宮�、武信軍�度�、"州管內觀察處置橋等�、檢校太尉、持�"州諸軍事、"州刺7、直睿思殿、提舉龍德宮、熙河蘭湟秦鳳路宣撫� →太尉
政和 2 (1112) 12.3 『宋會:』職官 1-12
中太一宮�、武信軍�度�、檢校太尉、直睿思殿、提擧龍德宮、熙河蘭會秦鳳路宣撫� →太尉(4)
政和 4 (1114) 1.丙戌 『紀事本末』128
太尉、武寧軍�度�、中太一宮� →直宣和殿、陝西河東路宣撫�
政和 6 (1116) 1.5 『宋會:』職官 41-19
太尉、武信軍�度�、閏中太一宮�、直宣和殿、陝西河東路宣撫�、鴈門郡開國公、食邑四千五百户、食實封壹千參百戶 →檢校少保、閏護國軍�度�、開府儀同三司、中太一宮�、加食邑五百户、食實封參百戶、差O、封如故
政和 6 (1116) 9.30 『宋大詔令集』94
④譚稹
西上閤門�、德州防禦�、直睿思殿 政和 2 (1112) 11.5 『宋會:』職官 36-100
保康軍承宣�、直睿思殿 政和 7 (1117) 9.庚戌 『十�綱:』17
Q侍大夫、保康軍承宣�、直睿思殿、在京神霄玉淸萬壽宮提 (𠛬)[點]、同知入內內侍省事
宣和 2 (1120) 12.丁亥 『紀事本末』141
持T人、常德軍�度�、閏上淸寶籙宮�、直睿思殿、在京神霄玉淸萬壽宮提點、食邑一千六百戶、食實封四百戶 →V復
宣和 4 (1122) 5.17 『宋會:』職官 77-12
V復常德軍�度�、閏上淸寶籙宮�、直睿思殿、廣W郡開國侯、食邑一千二百戶、食實封四百戶 →V復太尉、武信軍�度�、閏寶籙宮�、在京神霄玉淸萬壽宮副�、直睿思殿、加食邑五百戶、食實封二百戶
宣和 4 (1122) 5.23
V復太尉、武信軍�度�、閏上淸寳籙宮�、�神霄玉淸萬壽宮副�、直睿思殿、河東燕山府路宣撫�
宣和 5 (1123) 5.7 『山右石刻叢X』18「Y母Á謝雨�」
V復太尉、武信軍�度�、閏上淸寶籙宮�、�神霄玉淸萬壽宮副�、直睿思殿、閏河東燕 (上)[山]府路�河北路宣撫� →檢校少保
宣和 5 (1123) 7.7 『紀事本末』144『北Z會X』18
V復檢校少保、太尉、武信軍�度�、閏上淸寶籙宮�、�神霄玉淸萬壽宮副�、直睿思殿、閏河北河東燕山府路宣撫� →V復檢校少傅
宣和 5 (1123) 11.18 『北Z會X』18
⑤黃積 滑州刺7、直睿思殿 政和 3 (1113) 『忠惠集』4
⑥藍從熙Q (直)[侍] 大夫、保寧軍�度觀察留後、知入內內侍省 →落Q侍大夫、依舊保寧軍�度觀察留後、罷知入內內侍省、除直睿思殿
政和 3 (1113) 11.15 『宋會:』職官 36-22
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表一 直睿思殿あるいは直宣和殿就任者 (初出年代順) (続き)
姓 名 # な 官 銜 年 = 出 典
⑦梁師成
興德軍�度觀察留後、直睿思殿 政和 5 (1115) 3(5) 『竹隱畸士集』17「韓粹彥行狀」、『宋7』21
檢校少傅、護國軍�度�、中太一宮�、直宣和殿、�堂�在京神霄玉淸萬壽宮提舉、Q領頒朔布政詳定事
政和 8 (1118) 10.1 『(郡齋讀書志)讀書附志』
檢校少師、鎭東軍�度�、太一宮�、直保和殿、�堂�在京神霄玉淸萬壽宮提舉提\
宣和 1 (1119) 8.15 『閩中金石略』8「神霄玉淸宮碑」
持T人、-檢校太傅、河東�度�、中太一宮�、直保和殿、�堂提舉、�在京神霄玉淸萬壽宮副�、安定郡開國公、食邑三千八百戶、食實封一千三百戶 →V復、依-官職、食邑、實封如故
宣和 2 (1120) 6.11 『宋會:』職官 77-11
V復太尉、江東�度�、閏中太一宮�、�神霄玉淸萬壽宮副�、直保和殿、�堂提舉、安定郡開國公 →V復開府儀同三司、淮南�度�、閏中太一宮�、�神霄玉淸萬壽宮�、直保和殿、�堂提舉、食邑如故
宣和 4 (1122) 1.7 『宋會:』職官 77-12
⑧梁和Q侍大夫、昭慶軍�度觀察留後、直睿思殿 →_贈安J軍�度�
政和 6 (1116) 3 『宋會:』儀制 13-3
⑨梁W拱衞大夫、康州防禦�、直睿思殿 政和 6 (1116) 12.25 『宋會:』
蕃夷 3-4
⑩越師敏 Q侍大夫、保康軍�度觀察留後、直睿思殿 政和 7 (1117) 春 『竹隱畸士集』17「韓粹彥行狀」⑪鄧忠仁 協忠大夫、保W軍承宣�、直睿思殿
⑫馮浩拱衞大夫、康州防禦�、直睿思殿 政和 8 (1118) 閏 9.1 『宋會:』
c曆 1-18
⑬何訢 直宣和殿 宣和 1 (1119) 7.辛酉 『十�綱:』18
⑭�景純武�大夫、忠州刺7、直睿思殿 宣和初 『松隱集』36
「�門司墓銘」
⑮梁揆 左武大夫、f州防禦�、直睿思殿 宣和 2 (1120) 『宣和畫�』12
⑯劉g慶兩浙制置�、直睿思殿、知入內內侍省事 宣和 3 (1121) 1.7 『宋會:』
職官 38-7
⑰高中立右武大夫、�州觀察�、直睿思殿、勾當'林書藝局
宣和 3 (1121) 1.18 『宋會:』職官 77-11
⑱蔡攸
淮康軍�度�、開府儀同三司 →少保、鎭海軍�度�、開府儀同三司、直保和殿
宣和 4 (1122) 1.7 『宋會:』職官 1-3
少保、鎭海軍�度�、開府儀同三司、上淸寶籙宮�、直保和殿
宣和 4 (1122) 4.8 『宋會:』職官 41-20
少傅、鎭海軍�度�、�侍讀、直保和殿、河北河東路宣撫� →少師、安i軍�度�
宣和 5 (1123) 5.11 『宋會:』職官 1-3
⑲關弼(供)[拱] 衞大夫、相州觀察�、直睿思殿 宣和 5 (1123) 5.14 『宣和奉�高麗
圖經』34
⑳李彥翊衞大夫、安德軍承宣�、直睿思殿 宣和 7 (1125) 4.2 『宋會:』
方域 10-39
㉑李彀檢校少保、慶i軍�度、醴泉觀�、直保和殿 宣和末 『繫年:錄』11
円炎 1.12.庚午
㉒�弼 入內東頭供奉官、直睿思殿 紹興 4 (1134) 4.丁酉 『繫年:錄』75
*出典中の『宋會:』は『宋會:輯稿』の、『紀事本末』は『續m治Q鑑長X紀事本末』の、『十�網
:』は『皇宋十�網:』の、『北Z會X』は『三�北Z會X』の、『繁年:錄』は『円炎以來繁年:
錄』の略稱。
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o部で二十二名の直殿就任者を得られたが︑そのうち①~④四人の初見は政和二年
(一一一二)であった︒拙著では直
睿思殿の設置は政和三年だとしていたが︑實際にはその-年にすでに就任者が四名も確pできた︒:するにこれは政和二
年に行われた武階の官制改革の一qであったと考えられ(6
)︑四人いずれも大物宦官であることから︑あらかじめ�力宦官數
人に旣成事實として與えられた稱號が︑r年になって正式な貼職と_pされたのだろう︒そのとき一擧に五人の宦官
(姓
名不詳)が直睿思殿に任命されているのは(7
)︑これにともなう措置と考えられる︒
また怨g福宮の.營に携わったという當時の五人の大璫︑越貫・楊戬・賈詳・藍從熙・何訢のうち︑早Rしたと思われ
る賈詳以外の四人に早くから直睿思殿が與えられているなど︑直睿思殿に就任した宦官らは︑從來の宦官官職の範疇を超
越した者が多く︑かかる事實に對處するための怨たな方策であったと考えられる︒つまりそれまでは內侍本官を'持した
まま︑寄mとして橫行班官あるいは遙郡を持つとしても︑せいぜい遙郡留後に止まっていた宦官の中から︑その先例を越
えて正任の�度�を持つ越貫・梁師成らが登場すると(8
)︑從來であれば彼らは內侍官階をuててv部銓に歸し︑轉出
(出
職)せねばならなかった︒しかしそうなるとQ常の高w武官と同一xいされて︑禁中に出入りができなくなる︒それでは
困るというので︑禁中と結びつける怨たな貼職が設けられたのだと考えられる︒表中の者のほとんどが︑�度�・防禦�
などを持っていることは︑それを?味している︒
また表のうち直宣和殿
(のち直保和殿)就任者は③越貫・⑦梁師成・⑬何訢・⑱蔡攸・㉑
李彀の五名に限られ︑うち
蔡攸のみが宦官でないことは︑その特衣性がやはり際立っている(9
)︒彼も含めて直宣和殿の初見は政和六年
(一一一六)の
越貫で︑直睿思殿に遲れて登場している︒しかも兩方に就任した經驗のある越貫と梁師成は︑いずれも直睿思殿ののちに
直宣和殿に就任しており︑-者よりも後者が格上となっていたことが推測される︒
一方︑同じ政和三年に直睿思殿とともに貼職とされたという睿思殿供奉は︑7料中二名しか見當たらず︑一名は宣和三
年
(一一二一)の﹁入內內侍省︑武�大夫︑閏睿思殿供奉︑權殿中省尙輦局司圉典御
梁忻﹂(﹃宋會:﹄方域一○-三五・宣和
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三年三=十三日條)︑もう一名はおそらく宣和年閒の﹁睿思殿供奉
黃珦﹂である(10
)︒梁忻はその官銜から見ても諸司�レベル
で︑先に見た直睿思殿よりもかなり下位にある︒黃珦については他の手がかりがないが︑女眞との{涉で賜與や旨を傳
えており︑�らかに@侍の宦官ではあった︒
二︑睿思殿�字外庫
冒頭に見た如く︑*宗�後�で�も5目すべき宦官は武の越貫と�の梁師成であるが︑兩者とも直睿思殿から直宣和殿
(のち直保和殿)の貼職を持つ者だった︒兩者のうち︑禁中における活}という?味でとりわけ重:なのは梁師成である︒
それは彼の活動の據點がまさにその貼職の示す如く︑睿思殿・宣和殿であったからである︒
彼はもと�違能力があり︑賈詳に附いて'林院書藝局に從事し︑その死後︑
師成專ら奇巧を以て始めて君を得︑之を久しくして︑睿思殿�字外庫と爲り︑益ます事を用う︒政和の閒︑廼ち盛ん
に艮嶽をVこし︑�堂を円て︑宣德門を改作す︑時已に陰かに上の�書を#り︑"に宰相の事を行い︑王黼をして外
に在りて之と表裏せしめ︑內に關決を爲す︒上
行し︑外に宿れば︑則ち師成入りて殿中に處り︑�字外庫に因り
て︑�を能くする筆vを擇びて其の下に隸し︑凡そ御筆號令批答︑ね其の徒に命じて以て自らに代わらしむ︒(徐
夢莘﹃三�北Z會X﹄卷三二・靖康元年正=三十日條)
という風に言われ︑王黼が父事し︑蔡京父子も諂うほどの權勢を持ち︑﹁隱相﹂と呼ばれたとされる(11
)︒一部の7料には︑
*宗が梁師成に御筆を掌らせていたと�記するものもある(12
)︒そしてこのように御筆に絡んだ當時の政治體制の中心となっ
ていたのが睿思殿�字外庫であった︒
この�字外庫とは︑宣和元年に保和怨殿で蔡京らが宴に招かれた際︑�初に食事を賜った﹁�字庫﹂がそうであろう(13
)︒
彼らはここから臨華殿門に入り︑玉華殿で*宗に拜謁している︒睿思殿・玉華殿はいずれも廣義の宣和殿
(のち保和殿)
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に屬しており︑同一區劃にあった(14
)︒その中でも睿思殿�字外庫は玉華殿に@かったのであろう︒のち*宗が內禪を決?し
たその日︑宰執を玉華閣に引對したが︑その待機場'がここであり︑同日召對豫定であった李綱が︑宰執の奏事がわる
のを丸一日待ちぼうけた場'でもあった(15
)︒
推定では廣義に宣和殿と呼ばれる區劃のうちでも︑睿思殿は南寄りに︑玉華閣は北寄りに存在していた(16
)︒したがって睿
思殿本殿と睿思殿�字外庫が實は離れた場'にあったこととなり︑少し奇妙な感じがする︒これはおそらく︑この區劃に
宣和殿が.られる-は︑區劃の總稱が﹁睿思殿﹂だった可能性が高く︑その北寄りにあった﹁�字庫﹂に廣義の﹁睿思
殿﹂が附いたものだろう︒と同時に狹義の宣和殿の外部にあるため︑のちには﹁外﹂の字が入れられて﹁�字外庫﹂とも
呼ばれたと考えられる︒
そのような場'に﹁能�の筆v﹂が集められ︑梁師成に屬していたのだった︒梁師成自身は何ら�才がなかったとも言
われるが(17
)︑
�違の事の如きに至りては︑責は詞臣に在り︑�廷の典誥︑各おの自ずから體�るも︑師成必ずや其の�悉く己が格
の如からんと欲し︑或いは一つ背すれば︑輒ち譖斥を行う︒(陳東﹃少陽集﹄卷一﹁登聞檢院三上欽宗皇書
((靖康元
年)正=三十日)﹂)
とあり︑その指方針の下で�書の作成が行われていたことは確かである︒
またのち靖康元年
(一一二六)に余應求が︑
梁師成・時若愚皆な時姦諛の甚しき者︑罪は當に誅斥すべし︒⁝⁝印た聞くならく︑臣僚上る'の書駅尙お昔�に
仍りて�字庫にれば︑外議咸な謂えらく陛下復た信任を加うと︒(﹃靖康:錄﹄卷一・靖康元年正=二十八日條)
と言っており︑﹁昔�﹂つまり*宗�に官僚の上奏�が�字庫にられていたことがわかる︒字面Qりだとすれば︑﹁�字
庫﹂にはそれら上奏�が保存されていた可能性もあり︑まさに禁中�奧部における�書行政の據點であったことを推測さ
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せる︒
ではそこに集められた﹁能�の筆v﹂とはどのような者たちだったので
あろうか︒それがおそらく睿思殿の名稱を書きに持つ者たちであり︑7
料中からは︻表二︼の者らの存在が;�する︒
まず確pしておかねばならないことは︑九人のうち七人が﹁睿思殿
(御
-)�字
(外)庫﹂と記される一方︑⑧李質・⑨曹組の二人は﹁應制﹂で
あり︑兩者を同列にxって良いのかという點である︒先に見たように︑睿
思殿本殿と睿思殿御-�字
(外)庫が同一區劃
(廣義の宣和殿境內)にはあ
るものの︑完oに同じ場'ではないと推測される以上︑李質・曹組らは睿
思殿本殿に置かれた者らで︑他の者が御-�字
(外)庫に奉仕するのとは
っている可能性がある︒この場合︑睿思殿本殿にいる者は*宗當人に直
接侍る者︑御-�字
(外)庫の�臣らは直接には梁師成の下ということ
になる︒
しかし後に見る﹃宋會:﹄が應制の曹組を﹁梁師成下の�臣﹂と表現し︑
﹃東都事略﹄も﹁其の小7﹂とすることなどから(18
)︑應制が梁師成の下に屬し
ていたことが强く示唆される︒よっていまは彼らも同じカテゴリーに屬し
ていたものと考えておく︒
さて以-拙著で指摘したのは︑⑥楊球がもと蔡京家の家vで︑崇寧年閒
に'林待詔であったのが︑宣和殿東における御筆作成に携わっていたと
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表二 睿思殿關係の�臣
姓 名 官 銜 年 = 出 典
①徐珣 睿思殿御-�字外庫鐫字藝學 政和 4 (1114) 『水東日記』25「太淸樓特宴記三幅」②張士亨 睿思殿御-�字外庫鐫字藝學
③兪邁 睿思殿御-�字外庫祗應、武郞
④鄧惟賢右侍禁、閏'林書藝局祗候、睿思殿御-�字庫祗應
?『摛�堂集』6
⑤郭景倩睿思殿御-�字外庫書寫�字→三班借職
?『摛�堂集』8
⑥楊球 睿思殿�字外庫�臣 宣和年閒 『寶眞齋法書贊』2「*宗皇諸閣荏影御筆」⑦張補 睿思殿�字外庫�臣
⑧李質 睿思殿應制 宣和 4 (1122)5.1
『揮麈後錄』2
⑨曹組睿思殿應制
閤門宣贊舍人、睿思殿應制 宣和年閒 『宋7』379曹勛傳
-
いう事實であったが(19
)︑その他八人のうち②張士亨は︑米芾の筆になる﹁太W州蕪湖縣怨學記﹂(崇寧三年)に﹁'林張士
亨摹刊﹂として登場している︒ここから彼はもと'林御書院の鐫字�臣であったらしいこと︑その技をもって睿思殿御
-�字外庫に籍を移したことが想定される︒
睿思殿御-�字外庫が禁中における�書作成に携わっていたならば︑それを擔っていた�臣らの�才がいかなるもので
あったのかが知りたいところだが︑憾ながら零細な7料しか殘っておらず︑詳しい分析を加えるのは難しい︒唯一履歷
が;�するのは⑨曹組である︒彼は宣和四年
(一一二二)に完成した艮嶽を稱える賦を殘した二人の睿思殿應制のうちの
一人であった(20
)︒
(曹)組
本と兄の雲と太學に聲�り︑亦た詩�を能くするも︑而れども滑稽下俚の詞を以て世に行われ名を得たる
は︑良に惜しむべきなり︒謝克家任伯
集序を爲り︑其の子・勛其の後に跋し︑略ぼ其の出づる處を見る︒蓋し宣和
三年始めて登第し︑郊禮に﹁祥光賦﹂をめ︑旨�りて武階に奄え︑閤職を�ね︑中書に詔して召試せしめ︑仍お殿
中に給事し︑未だくならずして卒す︒然れども集中に﹁�第を謝するの﹂�り︑自序に﹁蚤く諸生に預り︑悦に
右列を
叨むさぼ
る﹂と云えば︑則ち未だ第せざるの-︑已に西班に在り︑未だ何を以てか知らざるなり︒曾慥﹃詩<﹄に
云えらく﹁六舉に第せず︑宣和中に詔もて廷試に赴き︑第を賜う﹂と︒中に謂う'の﹁特に孱を舉げ︑俊.に從
うを許す﹂︑慥の言
良に是なり︒序︑跋は其の實を著さざるのみ︒(陳振孫﹃直齋書錄解題﹄卷一七﹁﹃箕潁集﹄二十卷﹂)
とあるように︑曹組は兄とともに太學で名聲あり︑詩�の才があったが︑特に俗語による詞で�名であった︒他の7料も
參照すれば︑幼くして父の曹之器を失った兄弟は︑母・王氏に育てられたが︑彼女には詩才があり︑その薰育を�けた兄
弟はともに�才を身につけた(21
)︒兄の曹雲は性豪邁で行・楷に長じ︑劉燾・瞿執柔・劉正夫と太學の﹁四俊﹂と稱され︑
士に合格︑貴池縣尉となったが閒もなく早世したという(22
)︒
その弟である曹組は︑科擧には六度失敗する一方︑すでに政和年閒のうちに長短句
(詞)で知られ︑特に﹁紅窗迥﹂な
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ど雜曲數百解が人口に膾炙し︑﹁聞く者絕倒し︑滑稽無賴の魁なり﹂と稱されるようになる(23
)︒この ;を聞きつけたもの
か︑宣和初めに*宗に玉華閣に召された︒そこで︑
*宗 みて曰く﹁汝が是れ曹組なるや﹂と︒卽ち﹃囘波詞﹄を以て對えて曰く﹁只だ臣Dち是れ曹組︑會たま閒言長
語を
う︒字を寫すこと楊球に�ばず︑錢を愛すること張補に0ぐ﹂と︒大いに笑う︒球︑補は皆な當時の供奉者︑
因りて以て之を譏る︒(﹃名賢氏族言行類稿﹄卷一九)
という當?卽妙の作詞で�け答えをした︒面白いのは楊球と張補が引き合いに出されていることで︑兩者とも東御筆の
作成に携わる睿思殿御-�字外庫�臣だった(24
)︒おそらくこれによって*宗に氣に入られ(25
)︑西班の諸司�副を與えられて睿
思殿御-�字外庫を取り仕切る梁師成の下に入ったものと思われる︒あるいは曹組は﹁彥違
(曹組の字)多く中貴人の門
下に依棲す﹂(﹃苕溪漁隱叢話﹄-集卷五四)といわれ︑この惡 が事實であれば︑すでに梁師成を介した上での目Qりだっ
たのかもしれない︒
曹組はその後も*宗に寵され(26
)︑禁中における苑射の場で︑*宗の弓の腕-を稱える詞を獻じ︑これまた世閒でもてはや
されたという(27
)︒また題を與えられて賦を作ると︑筆を下ろせば立ちどころに成って推敲の必:もなく︑古體詩の風格が
あったとされる︒*宗から﹁曹組︑�違之士﹂と書いた宸'を賜るほど寵愛を�けると(28
)︑宣和三年
(一一二一)四=には︑
詔すらく﹁梁師成下の�臣・忠訓郞c宏︑承信郞曹組︑特に殿に就きて試考せしめ︑第五甲に中たり︑同士出身を
賜い︑仍お一官を轉ず﹂と︒(﹃宋會:﹄職官六一-一八・宣和三年四=二十九日條)
と︑詔によって殿試に臨み︑科擧に合格した︒周知のQり殿試では基本/に落第者はおらず︑:するに特旨により同士
出身を賜ったのであった︒ここでは﹁轉一官﹂とのみ記され︑�階が與えられたわけではなさそうである(29
)︒
宣和四年
(一一二二)五=には︑睿思殿應制として艮嶽の賦を作り︑同年の郊祀には﹁祥光賦﹂を詠んで獻じた︒これ
を賞されて特旨を得︑中書後省に召試を�けて閤職を�任したが︑そのまま禁中に奉仕し︑
州刺7に至ったという(30
)︒
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このように曹組は早くから作詞の才高く︑そのことによって*宗の寵愛を�け︑睿思殿で奉仕した�臣であった︒その
詞作品は世に傳えられて絕贊され︑怨作が出るたびに︑またたくまに人口に膾炙したといわれ︑南宋初�の士大夫の多く
は曹組を學んだという(31
)︒
だがその�才はあくまでも﹁滑稽無賴之魁﹂(﹃碧雞漫志﹄卷二)と されるものであった︒その一方ですでに見たよう
に﹁詩�を能くするも︑而れども滑稽下俚の詞を以て世に行われ名を得たるは︑良に惜しむべきなり﹂(﹃直齋書錄解題﹄卷
一七﹁﹃箕潁集﹄二十卷﹂)という 價や︑﹁皆なm謔の詞︑故に其の�名を掩う﹂(趙與時﹃賓¥錄﹄卷六)︑﹁¦筆せば立ちど
ころに就り︑�は點を加えず︑深く古風を得たり﹂(﹃名賢氏族言行類稿﹄卷一九)という諸書の表現があり︑これらは彼は
傳瓜/詩�も創作できたのだとことさら强Bするものであるが︑事實として科擧には落第し續けており︑傳瓜/�違作成
能力が廣くpめられていたとは言いがたい︒そんな彼が皇の�書作成の任に堪え得たのであろうか︒
このことに關して參考になる7料が殘されている︒
先時の詞臣
後宮の書命を草して上?に中たる者�る莫し︑制詞にして多く中より出づ︒(孫覿﹃鴻慶居士集﹄卷三
八﹁宋故'林學士莫公墓誌銘﹂)
これは宣和六年頃のことだというが︑後宮關係の制誥について︑むしろ*宗は型にはまった�違を好まぬようになってい
たことが窺われる︒その結果禁中から制詞が出ていたというが︑おそらくは禁中の尙書內省あるいは睿思殿�字
(外)庫
で作成されたものであろう(32
)︒
定型/なもので事足りる制誥であっても︑特に身@な後宮人事に關するものにはその內容にこだわりを見せるのが*宗
であった︒これが皇自ら草し︑その宸筆を円-とする御筆であれば尙§であろう(33
)︒皇の個性が强く反映されるのは當
然のことであり︑その眼鏡にかなうものでなければ︑代筆の作成はできないであろう︒そのように考えたとき︑*宗は曹
組のような者を求めたのではなかろうか(34
)︒
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これには*宗個人の嗜好が關係していたものであろう︒特に宣和年閒の*宗は︑俗/な表現をとりわけ好んだ︒蔡攸・
王黼は俳優のような仕草をして*宗の寵を�け(35
)︑浪子宰相李邦彥の登用があり(36
)︑これらは洒脫さを求める﹁風液天子﹂の
好尙に叶ったものであった︒
曹組の得?とした長短句のような鄙俗な�違は︑﹃碧雞漫志﹄によれば仁宗�以-は盛んでなく︑神宗�の張山人・孔
三傳︑元祐の王齊ªらから盛んになった俗�學の類であり︑のちの元曲につながる勾欄演藝中から生まれた�學の怨潮液
であった︒いわば�怨の液行�學の大家を︑皇がその好尙のままに自らの�違に取り入れたとしても不思議ではあるま
い︒もちろんo面/にそのような:素が¬用されたとは思わないが︑可能な範圍でそのような氣風がただよっていたこと
は想宴しうる︒
以上︑7料の不足から臆測の域は脫し得ぬものの︑睿思殿で活}した�違の士は︑おそらくいずれもが*宗の嗜好に
合った者らであったことが推測でき︑槪してそのような者たちは︑從來の科擧などには&合しない者︑すなわち�v・�
臣であったと思われる︒そのような者らが集められたのが�字
(外)庫であり︑皇の?に叶う�書作成に携わっていた
のだろう(37
)︒
ここまでは*宗�後�の宦官政治の高w宦官がその基盤とした睿思殿とそれにまつわる宦官官制について檢討した︒續
いてはそれらに頤�され︑手足となっていたと思われる中下w宦官らが保持した承�官について︑違を改めて檢討を加え
る︒
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第二違
宦官の承�官
一︑走馬承�から廉訪�者へ
本稿冒頭の7料で﹁外の廉訪�者・承�官﹂と呼ばれていたのは︑後者の呼び名には後営するように特殊な時代性がみ
られるのだが︑基本/には兩者は同一のものと考えてよく︑いわゆる走馬承�のことを指している︒廉訪�者とは*宗�
になって走馬承�を改稱したものであった︒
走馬承�は正式には走馬承�公事�臣だとされるが︑單に承�と呼ばれることもあるなど多數の略稱が用いられる︒宋
初︑おそらく太宗�に設けられた官職で︑#に邊境の軍に皇の命令を傳える�者であった︒この特殊な官職は︑いわゆ
る宋代﹁君#獨裁制﹂の確立に寄與した制度として5目され︑我が國でははやく佐伯富氏に專論がある(38
)︒以下まずはそれ
らに依據して槪略を営べつつ︑これまで輕視されてきた*宗�における制度改定について再考察する︒
走馬承�ははじめ邊境の轉c�司に屬したが︑のち經略安撫總管司など帥司に隸屬した︒だがその完oな屬官だったと
いうわけではなく︑名稱が﹁某路都總管司承�公事﹂であったということらしい(39
)︒基本は皇自らが<任して各路に一員
置かれたが︑眞宗・仁宗�のときに北方・西方の一部邊境路では內侍宦官と三班�臣各一人の二員制がとられた︒
走馬承�は各路守將の政治動靜から生活の瑣事までを監視し︑軍の騷擾行爲・裝備點檢等を譏察し︑邊事敵®を査察
した︒そして事無ければ年に一度︑邊防に警あれば不時に直接入京して奏上することができた︒その際には四方館�以外
は接觸を許されず︑-殿で入見したのち後殿奏事を行い︑そこでは樞密院の官員のみが陪席を許された︒奏事がわると
ただちに歸路につくこととされ︑できうる限り他の官との接觸を限定されていた︒この入奏の機會は神宗熙寧三年
(一〇
七〇)には春と秋の年二囘となり︑﹁季奏﹂と呼ばれた︒
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このように走馬承�は皇が直接¯Oした﹁耳目の任﹂であり︑邊境武將の跋扈を抑制し︑重�抑武政策を體現する特
殊な差Oだった︒
ところがこれが*宗の頃に變Jする(40
)︒*宗�でははやく崇寧年閒
(一一〇二~〇六)に走馬承�は帥司に屬さず︑かつ
基本/に邊境問題に關與しないこととした(41
)︒そのかわり︑もとは軍事關係以外に言�することが許されていなかったのが︑
各路の封樁見在錢物數�び糧草數を取索して︑季�ごとに開具聞奏できることとなった(42
)︒軍事に關聯するとはいえ︑諸路
の會計を檢査し︑直接皇に報吿する役割を擔うようになったのだ︒同じ頃︑四川方面の走馬承�に宦官が添差され︑そ
れまで北邊・西邊の路だけだった走馬承�の複數制が擴大したが(43
)︑これも對溪峒蠻ということで︑その設置箇'は邊境地
域に限られていた︒
しかし大觀元年
(一一〇七)十二=に︑風聞による言事が許されるようになると(44
)︑これは從來の走馬承�の權限を大き
く擴大させたものだった︒加えて同三年
(一一〇九)には﹁內臣一員︑武臣一員﹂の走馬承�複數制が東南諸路にも³衍
され︑結果としてo國各路に宦官の走馬承�が存在することとなり︑彼らは軍政・民政ともに見聞したところを聞奏でき︑
必:とあらば)脚遞を�用することも許された(45
)︒その見聞というのには︑諸路州軍から報吿された重:な機密事項も含ま
れており(46
)︑先に見た各路の糧草�帳�び封樁見在錢物︑糧斛の取索・入奏に關しても︑﹃大觀走馬敕﹄としてX敕され︑
さらに各路から走馬承�公事'に關係�書がられることとなり︑制度として完備されていった(47
)︒
このように走馬承�は︑定�/にられる地方政治に關する報吿�書をとりまとめ︑同じく定�/に皇に直に報吿す
る存在となった︒もはやここまでくれば︑走馬承�は地方において怨たな監司の如き存在となっていく︒しかも宦官と下
w武臣によって擔われる衣形の存在であった︒
その衣形さゆえに彼らの存在は︑形式面︑とりわけそれまでの地方秩序に對して樣々な波´を投げかけるようになる︒
(政和)二年正=二十五日︑詔すらく﹁比ごろ聞くならく諸路走馬承�公事�臣
@來州軍の�拜︑燕集等の處に於い
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て︑內に官mの稍や崇き者�れば︑多く守臣の上に居り︑甚だ千里の寄を重んずる'以に非ず︒今より後︑走馬承�
は州事守臣を除くの外︑竝びに雜壓に依りて敘位し︑餘は舊制に依る︒仍お著して令と爲せ﹂と︒(﹃宋會:﹄職官四一-一
二八・政和二年正=二十五日條)
州軍の�拜宴會において︑やや官の高い走馬承�が知州軍より上席に座るようになっていたという︒これもその職責の重
さから來たもので︑實質/な監司であれば︑地方官の上座にあるのも當然だと感じていたためであろう︒
このように*宗�-�の走馬承�は︑從來の軍の覺察のみならず︑地方の財政・民政をも譏察するようになり︑すで
に大幅な職掌の擴大があった︒奄骨奪胎とまでは言わぬとしても︑從來の職制からは大きく逸脫して︑實質/な監司の一
種に變貌していた︒そこに改めて怨差Oとしての地位が與えられることになる︒それが廉訪�者への改稱であった︒
(政和六年)七=十三日︑詔すらく諸路走馬承�公事を改めて廉訪�者と爲す︒(﹃宋會:﹄職官四一-一三〇・政和六年七
=十三日條)
さらに地方に出た場合の序列について改めて規定がなされた︒
(政和)八年正=二十八日︑詔すらく﹁諸路廉訪�者の序位はQ;の上に在り︑其の職由・接人は竝びにQ;の例
に依る︒⁝⁝﹂と︒(﹃宋會:﹄職官四一-一三二・政和八年正=二十八日條)
として一般にQ;よりも上であり︑その他官位の高さによっては他の監司よりも上の場合もあった(48
)︒これを�けて︑
臣契勘するに廉訪�者は舊と·路帥司に隸したる走馬承�︑昨ごろ睿旨を蒙りて名稱を改正し︑敘官営職はど監司
の列に廁まじう︒(﹃宋會:﹄職官四一-一三三・(宣和)五(=)[年]十二=九日條)
というのは︑當時の廉訪�者の實態を言い得ているであろう︒彼らは諸路を覺察して︑事巨細なく皇に直奏することが
できる實質上怨たな監司となった(49
)︒
その改稱と�待される働きについては︑�のように說�されている︒
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比來の監司・郡守はo然失職し︑贓汚を坐視し︑竝びに舉按せず︒州縣の姦贓汚vは︑公事に因緣して民財を乞取し︑
錢物を斂すること︑¾げて計うべからず︒或いは良民を驅役して私事に應副し︑公法を みざるに至る︒公人・v
人は相與に市を爲し︑頴露すること無からず︑監司・郡守己は廉¿ならざれば︑懼れて敢えて發かず︑"に吾が民を
して陰かに其の�を�けしむ︒廉訪�者をして廣く耳目を布きて覺察し︑密かに具して以聞し︑重くXを行わしむ
べし︒(﹃宋會:﹄職官四一-一三〇・政和七年五=十四日條)
すなわち從來の監司・知州らの働きが不十分だというp識からだった︒この背景には從來の路の監司の行政官Jがあった
と思われ(50
)︑本來の監察官としての機能が十分でなくなっており︑その缺を補うべく廉訪�者による監察が�待されたの
だった︒
そのため廉訪�者は走馬承�のときと同じく︑轉c司等から樣々な事項を報吿してもらう權利をもっていた︒それは特
に季奏の時�に合わせて︑春は正=下旬︑秋は七=下旬までに廉訪�者'にられてくることになっていた(51
)︒
ただ槪して身分の低い武官と宦官が監司になったとなれば︑多方面から多くの�Àが報吿されるようになり︑すでに走
馬承�の時代からこれを戒飭する詔が出され(52
)︑それを刻石して廳舍に立ててもいた(53
)︒また廉訪�者となってからは︑その
人<を嚴しくするほか︑もし贓罪を犯したならば︑一般よりも二等重く處罰されることも規定されている(54
)︒
これらの記営を�けて先行硏究はいずれも走馬承�=廉訪�者がどうしようもない�Àをもたらしていたと営べるが︑
その 價はどうであろうか︒彼らが武臣や宦官の身分であり︑皇の親任を�けて怨たな監司として地方に臨んだとき︑
從來の監司や知州軍ら�官からは︑その存在はどう見えたであろう︒特に彼らが﹁監司をÂし︑州縣を凌ぐ﹂という不滿
を営べるとき(55
)︑そのような事實がoく無かったとはいえないにしても︑はじめから廉訪�者という存在そのものに對する
拒否感が强かった中での不滿の表�とは考えられないだろうか︒その場合︑必:以上に聲高に�Àを言いつのったであろ
うし︑その不滿を和らげるために戒飭の詔を出したとしても︑それは本心から*宗が廉訪�者の�Àの大なるに苦しんだ
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からとはいえまい︒その後も廉訪�者が存續したのは︑それなりの�用性がpめられていたからだといえる︒
同じく�の7料の 價についても再考の餘地があろう︒
(政和)七年二=八日︑詔すらく﹁邊防諜報は︑至重・至密にして︑動もすれば機:に繫がり︑閒に髮を容れず︒@
く聞くに沿邊に探報�る每に︑重輕虛實を論ぜず︑互いに相い關報し︑諸司は諠傳Æ播し︑增ます百出せるにより︑
顯らかに漏露�り︑實に邊防にÀ�り︒自今探報は聞奏するを除くの外︑§に諸司に報ずるを得ず︒(謂うこころは轉
c・提𠛬・提舉・廉訪等司の類の如し︒)如し著令�れば︑竝びに衝改を行え︒或いは擅ままに輒りに取索する�びう
者︑論ずるに御筆にうの法の如くす﹂と︒(其の後宣和三年三=二十四日︑臣僚の上言に因り︑廉訪の二字を除去す︒)(﹃宋
會:﹄職官四一-一三〇・政和七年二=八日條)
この7料について先行硏究は︑監察の必:から︑元來は諜報を聽取する權利があったが︑政和七年
(一一一七)にその特
權を奪われたものと 價する︒そしてこれは本來の機能が發揮されなくなったことを示しており︑奄言すれば天子と走馬
承�との關係が形式Jして︑もはや信賴されなくなったことを表すとする︒
だがこの7料を仔細に讀めば︑それまでは路の監司らが探報の內容を互いに聯絡し合う閒に機密漏れの恐れが多々あり︑
これを防ぐために以影は上奏のみして®報の共�はやめよ︑という內容であり︑その對象は轉c�司・提𠛬司・提舉司・
廉訪司すべてで︑廉訪�者の權利のみが制限されたわけではなかった︒しかもその後に附く5では︑宣和三年
(一一二一)
にその對象リストから廉訪�者のみが除外されている︒つまりそれ以影は︑廉訪�者のみが探報の內容報吿を�けること
が許されたことを示している︒言い奄えれば他の監司よりも特權を承pされたものと讀めるのではないだろうか︒
ではなぜ廉訪�者が他の監司よりも特權を�していたかといえば︑それは皇からの親任がひときわ厚かったからに他
ならない︒廉訪�者には直睿思殿を帶びた者が就くことも想定されており︑そうなれば禁中に出入りのできる宦官が︑地
方の監察に直接出ることもあったわけである︒
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政和中︑走馬承�を改めて廉訪�者と爲す︑其の權は監司と均敵し︑�廷每に爲す'�れば︑輙ち廉訪の雌黃する'
と爲り︑樞密院藉りて以て宰相を摇する︒(李心傳﹃円炎以來繫年:錄﹄卷一一・円炎元年十二=丁卯條)
という廉訪�者の權勢がそれであった︒ちなみにこの李心傳の?味深長な書きぶりは︑當の樞密院を牛耳っていたのが越
貫・�居中・蔡攸らであったことを踏まえてであろう︒
この廉訪�者は*宗�では堅持されたが︑他の政策が祖宗の法に戾された欽宗�に︑同じく走馬承�に戾され︑その權
限は縮小された(56
)︒高宗�以影は監司・帥臣が走馬承�の不法を彈云することができるようになり(57
)︑それぞれの力關係はÉ
轉した︒廉訪�者としての權限・任務は︑*宗�のみの特衣なものであった(58
)︒
この廉訪�者と時を同じくして︑名-に共Q點も見られる﹁承�官﹂が︑地方ではなく中央の官署に置かれていた︒こ
れも*宗�後�に特Ëを見出せる宦官差Oであり︑その政治/役割は小さなものではなかったと思われる︒以下︑�を改
めて檢討する︒
二︑承�官
『三�北Z會X﹄に引かれる朱邦基﹃靖康錄﹄は︑*宗�の宦官跋扈の樣を�のように嘆く︒
蔡京寵を怙み位を固むるより︑@倖に{Îして之をÏ寵し︑內外の政事小大無く︑未だ內侍省に關せざるもの�らず︒
或いは�旄を円て︑或いは師傅を領し︑印た三舘を領する者�り︑侯王に封ぜらるる者�り︑天子呼びて名いわず︑
侍して立たず︑宰相にして其の門生たり︑執政大臣の?に順う者は榮華し︑旨にÉらう者は枯槁す︒(﹃三�北Z
會X﹄卷三四・靖康元年二=五日條・朱邦基﹃靖康錄﹄)
ここに見える宦官批難のÐ圖は︑他にもしばしば見られるものだが︑その中で特衣なのは︑內外の政策が細大漏らさず內
侍省に報吿されていたいうことである︒內侍省は正確には入內內侍省のことであろうが︑いったいどのような�第で︑あ
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らゆる®報が入內內侍省に知らされるという態勢になっていたのであろうか︒おそらくそこに關わっていたのが﹁承�
官﹂であり︑のちに南宋の陸游が︑
宣和中︑百司庶府悉くに內侍官の承�と爲るもの�り︑實に其の事を專らにし︑長貳皆な焉に取決す︒梁師成は祕書
省承�と爲り︑長貳の上に坐す︒承�を置かざる'の者は︑三省︑密院︑學士院のみ︒(﹃老學庵筆記﹄卷三)
とまとめ︑より早く靖康元年
(一一二六)に胡舜陟が︑
昨ごろ影されし指揮に﹁內侍
外局の職事を領するは︑竝びに祖宗の法度に依れ﹂とあり︒⁝⁝況んや祖宗の內侍を
して外局を領せしめざるは︑萬世の法爲り︑今外廷と聯事せしむれば︑則ち必ず因緣{結し︑招賕市恩し︑宮禁の密
旨にして傳漏し︑而して城狐社鼠の勢
士夫を陵轢せん︒今都水・將作監に皆な承�官�るは︑皆な祖宗の制に
非ず︑乞うらくは罷廢を賜わらんことを︒(十萬卷樓本﹃靖康:錄﹄卷八・靖康元年六=二十六日條)
と宦官批難の上奏でいうことからは︑*宗�後�において宦官が各官廳に﹁承�官﹂として入りÓみ︑實質/にそこを荏
していたことが分かる︒
では承�官とはどのような政治/背景から登場したものであったのか︒これについては龔g�﹃宋代官制辭典﹄(中華
書局︑一九九七年)が限定/に觸れるのみで︑關係する先行硏究は見當たらない︒以下檢討を加えてみよう︒
まず﹁承�官﹂が﹁承�﹂という動詞に基づく差Oであろうことは容易に想宴される︒もちろん﹁承�﹂は�書等を
﹁�け取る﹂という?味であるが︑すでに閤門司には︑特に儀式等で樞:な�書などを取りxうからであろう︑北宋初め
から﹁閤門承�﹂という職制が存在していた︒閤門承�は長年にわたって存在し︑契丹國信�に儀式の作法を敎示する役
目を果たしたり︑官僚に人事を傳えたり︑宰臣に制をÕける儀式でのÖが7料に垣閒見えている(59
)︒そのうち﹁行首﹂(班
首・筆頭)で長年勤務したものが︑ようやく三班�臣として﹁提㸃承�﹂になれるといい(60
)︑ほぼv職としての存在であっ
た(61)
︒﹃�野類:﹄が言�する﹁承�﹂もこの閤門承�にQじる胥v/立場の者であった(62
)︒
― 102 ―
280
-
しかしこれとはい︑ある種の特別事業の際に︑皇との聯絡役として設置される宦官の承�もあった︒その典型は7
書X纂事業においてである︒仁宗�に﹃三�國7﹄がX纂されたとき︑修國7・同修國7・X修官といった#たるX纂官
以外に︑﹁管勾內臣韓守英﹂と﹁承�藍元用︑羅崇勳﹂が見えている(63
)︒このときすでに羅崇勳は﹁巨璫﹂と稱される存在
でありながら﹁7院承�﹂となり︑のち宦官が書物完成にともなう恩賞を擅にする濫觴となった(64
)︒元祐年閒の﹃神宗實
錄﹄X纂時には︑都大管勾として入內內侍省都知の張茂則が︑承�として內侍押班・�思�・嘉州刺7の梁惟鯵︑內東頭
供奉官・管當御藥院・寄供備庫�の陳衍︑供備庫副�の郝吉︑內殿承制の馮珣の四人が確pできる(65
)︒
また司馬光が﹃m治Q鑑﹄をX纂する際にも宦官が承�となっている︒司馬光は皇の慮を感謝する中でそれに觸れ
ており︑この宦官承�が置かれることは︑おそらくは皇からのm金¦助の見Ùりに監察を�けることであり︑皇との
Ú離の@さをも感じる處Ûであった(66
)︒
その他︑仁宗�の玉淸昭應宮円設時にも宦官承�が置かれているが(67
)︑これらはその事業が完結するまでの臨時/なもの
であり︑かつ重大な政治/�命をもつ差Oというわけではなかった︒
このような宦官承�に怨たに政治/重:性を付與したのが神宗であった︒その﹁親政﹂�に︑保甲法に關聯して民兵の
監察のために¯Oされたのが宦官承�だった︒
上批すらく﹁河北・陝西・河東三路は見に敎えたる民兵第一番は︑⁝⁝竝びに已に敎成したり︒⁝⁝仍お入內東頭供
奉官宋鼎臣・高品劉友端を差して承��監視案閱に閏つ﹂とあり︒(﹃長X﹄卷三一四・元豐四年七=甲辰條)
ほかにも﹁提擧按閱保甲'承�公事﹂(﹃長X﹄卷三三六・元豐六年閏六=丙戌條)という呼稱も確pでき︑神宗の御批に出た
この差Oは︑皇が親任する宦官を監察のために¯Oしたものだった︒のちには諸將兵馬の按察にも承�が置かれたが︑
やはり神宗の御批によるものだった(68
)︒これらはそれ以-にある特別事業に關聯したもののバリエーションといえないこと
はないが︑神宗﹁親政﹂下における怨法實施に關聯したもので︑かなり實質/な政治/�命を帶びたものだった︒皇
― 103 ―
281
-
﹁親政﹂が展開する中で︑その手足として宦官承�が現場に出るようになったことは︑樣々な點で5目すべきことだった︒
つづく哲宗・元祐年閒にも﹁經
承�﹂(朱熹﹃X庵先生朱�公�集﹄卷九八﹁伊川先生年�﹂)や﹁修河司承�﹂(蘇轍﹃欒
城集﹄卷四一︑﹃長X﹄卷四三八・元祐五年戊申條)の存在が確pでき︑いずれも宦官の差Oであったことが分かっている︒し
かしその存在がより�Þ/に確pされるようになるのが*宗�であった︒
現存する*宗�の7料で�も早く確pできる宦官承�は︑政和五年
(一一一五)の�堂円設に關わるものであった︒蔡
京の�堂�をはじめとして︑蔡攸・蔡儵・宋昪ら蔡京の一族や姻戚が擔當官を占めるなか︑宦官の梁師成が都監︑越師敏
が承�となっている(69
)︒
また違如愚﹃群書考索﹄も*宗�の戶部について論じる際に︑
况んや政和の後︑鉅鐺を以て承�と爲し︑獨り財計を總べ︑D宜を以て取れば︑則ち戶部尤も其の職業を守り難し︒
(違如愚﹃山堂考索﹄後集卷五四﹁財賦總論﹂)
といい︑やはり政和年閒以影に宦官承�が出現したとp識している︒それだけでなく︑ここではすでに部局の實權を握り
始めていたことも示唆している︒同じく楊時も�のように言う︒
臣謹んで按ずるに︑梁Wは嘗て大理寺︑開封府承�と爲り︑結びて陰獄を爲し︑無罪の人を殺すこと數え計うべから
ず︑罪盈ち惡貫かさなり︑人の切齒する'︑陛下の知る'なり︒(趙汝愚﹃國�諸臣奏議﹄卷六三・楊時﹁上欽宗論不可復@奄
人
(係第二狀)﹂)
やはり宦官承�が擔當官廳の權限を行�し︑𠛬獄を操っていたとの見解を示す︒
本來の宦官承�の役割がそのようなことでなかったのは當然である︒
奏報は竝びに)遞に入れ︑入內內侍省に投し︑仍お越師敏を差わして承�奏報�字に閏つ︒(范成大﹃吳郡志﹄卷一
九・水利下・政和六年九=)
― 104―
282
-
これは政和六年
(一一一六)︑御筆によって趙霖を兩浙提舉常Wに任じ︑早)に治水對策を命じたとき︑皇への聯絡がã
やかになされるよう措置したときのことである︒この時�︑皇が御筆によって任じた現地擔當者からの報吿は︑)脚遞
という�ã手段をもって直接禁中の入內內侍省にられていたことが分かる︒またこのときの承�は越師敏であり︑正式
名稱は承�奏報�字であった︒趙霖の上奏�書を�け取り︑皇まで傳fする差Oであったと推測される(70
)︒
少し時�は遲れるが︑南宋・紹興二年
(一一三二)に李綱は宦官一員をOわして﹁發來�字を承�させる﹂ように願う
奏狀で︑
伏してäむはY慈特に睿旨を影され︑臣の申奏如し事の軍�)ãに干わるに係れば︑徑ちに內侍省に赴きて投する
を許され︑入內內侍省一員を差して專一に承�せしめ︑'�る�廷箚影せるY旨指揮は︑竝びに金字uを用いて)脚
遞に入れ︑鋪に入るを得ず︑星夜傳-來するを聽さるれば︑報應疾ãにして︑事をåるを致さざるに庶からん︒
(﹃梁溪集﹄卷六七﹁乞差內�一員承�發來�字奏狀﹂)
という特別措置を願っている︒これはおそらく*宗�の承�の働きを念頭に置いたものであろう︒
また先に出てきた越師敏は︑*宗�末�にしばしば名-が登場する宦官だが︑
內侍越師敏︑貫の養子なり︒太師蔡京府承�と爲り︑奏æ�る每に︑御-に傳fす︒政和六年春︑師敏
駕に從い︑
g福を0ぎりて宴飮し︑是の日果たして府第に到らず︑狀を以て申して京に白す︒(馬純﹃陶朱怨錄﹄)
とあるように越貫の養子で︑政和六年-後に蔡京の太師府承�となり︑蔡京の上奏�を御-に傳fする役割を果たしてい
た︒越師敏が*宗の行幸に從って︑g福宮での宴飮に參加していたため太師府に到れず︑そのことを狀申で蔡京に辯�し
たという︒このことから見れば︑承�は擔當する官署に自ら赴き︑上奏�を上-まで自ら傳fするのが役目であったと思
われる︒
これら*宗�の宦官承�が-代までのそれと大きくうのは︑�閒限定ではなく常置されていたことで︑神宗�の承�
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283
-
を繼承して︑より規模を增したものといえた︒そのいが大きく現れているのが︑*宗�の承�が﹁承�官﹂と呼稱され
ていることである︒これまで見てきた宦官承�は︑あくまでも﹁承�﹂とのみ表記されてきたのが︑政和末年に至って
﹁承�官﹂という呼び名が出現する(71
)︒これはたった一�字﹁官﹂が附いただけのことではあるが︑當時の士大夫の?識の
上では︑非常に大きな變Jであったと考えられる︒皇直下からOわされてくるとはいえ︑'は宦官官職にすぎない承
�は︑﹁官﹂というよりも﹁v﹂に@い存在であり︑その區別は嚴然たるものであったにいない︒にもかかわらず﹁承
�﹂に﹁官﹂を附けて呼ぶようになったことは︑そうせざるを得ないような﹁承�官﹂の存在感が政和年閒以影にあった
ことを想宴させる︒
その行き着いたところが︑先に見たように承�官が官署の權限を牛耳ってしまうという事態であった︒もとは�書傳f
の任にあったものが︑どのようにしてかかるところまで至ったのか︒それについては靖康年閒の李綱が參考になる︒彼は
﹁承�官を置かんことを乞うの箚子﹂を出し(72
)︑自らのところに承�官を¯Oしてくれることを希äしている︒ここで李綱
がäんでいる承�官は軍に附隨していることから︑走馬承�=
廉訪�者の後繼/存在の可能性があり︑﹁承�と名づくと
雖も︑其の實は監軍なり﹂(﹃國�諸臣奏議﹄卷六三・百官門・余應求﹁上欽宗論中人預軍政之漸﹂)と言われているように︑この
承�官は監察官・監軍としての役割を擔っていた︒このとき李綱が承�官の¯Oをわざわざ欽宗に求めているのは︑やは
り皇直\の宦官だったからであろう︒特にこのとき李綱は︑宰執と對立した結果地方に出されたものであり︑承�官を
Qじて皇とのつながりを確保しておかねば︑出征中にいかなる陰謀がçらされ︑災いが身にふりかかるか分からない狀
態であった︒そのような中で︑本來の監督官廳による﹁è束﹂から外れた制度外のルート︑皇との直Qルートである承
�官の存在を求めたのである︒このように官僚の側からの需:が高まると︑一部の承�官がこれに乘じて實權を掌握する
ことにつながったのであろう︒
南宋に入っても軍以外に承�は存在していた︒7書X纂時やé義官など北宋初以來の傳瓜/承�はもちろんであるが(73
)︑
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-
*宗�における承�官の系�を引くものもあり︑臨安府の承�がそれであった︒﹁臨安
宦者を以て承�と爲し︑府尹反っ
て之を奉ず﹂と言われ︑必ず府尹が承�に挨拶に行くこととなっていたが︑中にはそれをよしとしない者もいたという(74
)︒
ともあれ本來は�閒を限って設けられていた宦官承�は︑神宗﹁親政﹂のときに怨法關係官署に設けられて︑禁中との�
書行移に携わった︒これが*宗�の政和年閒以影に廣範に常設されるようになり︑﹁承�官﹂と呼ばれるに至った︒彼らを
Qじて樣々な官廳の®報が禁中の入內內侍省に集まるようになった︒これが政和年閒以影の政治狀況であったと思われる︒
お
わ
り
に
*宗�後�における﹁宦官跋扈﹂の狀況に關して︑當時中樞にいた宦官が'持していた直睿思殿の稱號と︑その下僚と
して活動していた睿思殿にまつわる官職について考察し︑つづいて地方における走馬承�=
廉訪�者︑各官署における承
�官の存在について見てきた︒實際にはこれらの職制が�機/に聯關して政治c營が行われていたのであろうが︑殘念な
がらそれを具體/に�示する7料は發見できなかった︒槪して當該時�は殘存7料が少なく︑殘されたわずかなそれも多
分にê向を含んでおり︑その實宴を_うことは憾ながら難しい︒
そうでなくともこの政治體制は︑直後に北宋滅ëという事態に陷ったことから︑安定したシステムとしての組織形成は
果たされなかったものと思われる︒ただそこで;�したのは︑第一違でみたように睿思殿�字外庫が上奏�書をxいつつ
御筆作成の場として機能し︑第二違第一�でみた廉訪�者が禁中と直結しつつ地方を監察し︑第二�でみた承�官が各中
央官署の®報を禁中の入內內侍省にもたらすという政治システムのÖであった︒いずれも禁中における行政能力の向上を
もたらす官職であったといえる︒
さてそこで考えねばならないのは︑このシステムの#者が本當に宦官ら自身であり︑﹁宦官跋扈﹂というのがì當な
表現なのかどうかということである︒確かに多くの場面で宦官が從來の官僚體系に食いÓみ︑出していたのは確かであ
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285
-
るが︑それは宦官が獨自に形成したものなのであろうか︒本稿冒頭の7料などではその役割を宦官・梁師成が果たしてい
たとし︑事實彼自身︑走馬承�となったこともあれば︑提擧官として祕書省や三館祕閣を牛耳り(75
)︑直睿思殿として禁中に
おける�書行政を擔當していた︒本稿で考察してきた︑*宗�後�における重:宦官ポストを歷任してきていたのである︒
しかし﹁はじめに﹂でも営べたように︑せいぜいいくつかの私/な命令を御筆に混ぜÓみ︑甘い汁をíった1度でしかな
い︒彼が*宗をないがしろにし︑あるいはその政治/關心を完oに斷して︑政策一般を自ら決定していたとは思えない︒
やはりこれら宦官によって禁中の睿思殿や入內內侍省から各官廳に張りçらされた聯絡網を上から瓜べていたのは︑皇
*宗であったと考えられる︒筆者は﹁君#獨裁制﹂から皇﹁親政﹂への移行が神宗�からはじまり︑その液れの中で
*宗が蔡京と權力爭いを經た上で︑怨たな﹁親政﹂體制のÐ築に着手するのが政和年閒後�からだと目していた︒本稿で
見てきた各種宦官官職らは︑いずれもその同じ時�に出現し︑機能していたことから︑これらが怨たな皇﹁親政﹂體制
に寄與するものだったと考えられる︒いわばこの時�︑皇*宗は從來Qりの士大夫らによる官僚システムは保持した上
で︑宦官のネットワークをも張りçらし︑そこから上がる報吿を禁中の睿思殿や入內內侍省で�けるという形になった︒
結果/に皇は二つのルートによって�政を荏することが可能となったのである︒
だが特に後者に比重が移るとすれば︑®報收集も命令行下も禁中で行われることとなり︑より重:な政治空閒は禁中に
移っていたと言わねばならない︒これはいわゆる內�政治の樣相を帶びていたということであり︑その表層/な表現こそ
が﹁宦官跋扈﹂だったのではないだろうか︒
�(1)
『東都事略﹄卷一二一・梁師成傳︒
(2)
拙著﹃﹁風液天子﹂と君#獨裁制﹄(京都大學學出版會︑
二〇一四年)第五違︑二五七~三五四頁︒
(3)
楊戩の第一項
(政和二年十=二日)は︑出典の﹃宋會:﹄
では年號のない﹁二年十=二日﹂とあり︑素直に見れば-條
と同じ崇寧二年と讀める︒しかしそれでは時�/にあまりに
― 108 ―
286
-
も早すぎ︑かつ第一項に見られる官銜と第二項
(政和三年八
=二十八日)のそれとがoく同一であることから︑この﹁二
年﹂は政和二年であると解釋した︒
(4)
ここでは-項において政和二年にすでに太尉となったはず
の越貫が︑二年後再び太尉になるとして矛盾が生じている︒
これについては各7料にåりがないとするならば︑一應以下
のような解釋で整合性はつけられる︒-項の政和二年は武官
の官制改革が行われた時�であり︑太尉がそれまでの三公の
一としてのそれでなくなり︑武官の首と改められた︒その直
後に行われた越貫の人事は︑從來の三公としての太尉ではな
く︑武官としての太尉への讀み替えを?味し︑特に昇のよ
うな?味合いはなく︑したがって正しくはこのときまだ﹁檢
校太尉﹂である︒一方政和四年の方は玄圭
(元圭)を�ける
儀式にともなうもので︑�らかに昇の?味合いが含まれて
おり︑檢校太尉から太尉に昇った︑という解釋である︒しか
し牽强附會の±いは免れず︑より&切な解釋については後考
に俟ちたい︒
(5)
趙鼎臣による韓粹彥の行狀
(﹃竹隱畸士集﹄卷一七﹁故龍
圖閣學士宣奉大夫中山府路安撫��馬步軍都總管�知定州軍
府事提擧本府學事�管內勸農�開封縣開國子食邑六百户贈特
m政殿學士韓公行狀﹂)には︑嘉祐の定策
(韓琦による英
宗擁立)について︑*宗が梁師成に韓家の家傳を取りに行か
せ︑それを讀んで韓琦を王に_封したことを記す︒これに對
應するのが﹃宋7﹄卷二一・*宗本紀で︑政和五年三=﹁甲
申︑_論至和・嘉祐定策功︑封韓琦爲魏郡王︑復�彥ò官︒﹂
とある︒
(6)
政和の武階官制改革については︑張復華﹃北宋中�以後之
官制改革﹄(�7哲出版社︑一九九一年)參照︒
(7)
翟汝�﹃忠惠集﹄卷四﹁內侍五人直睿思殿制﹂︒翟汝�は
政和三年に中書舍人︒
(8)
『宋會:﹄職官三六-二一・崇寧二年五=四日條︒
(9)
-揭¸
(2)拙著三〇二~三〇九頁︒
(10)
王安中﹃初寮集﹄卷四﹁謝賜器甲表﹂︒
(11)
『宋7﹄卷四六八・宦者列傳・梁師成傳︒
(12)
王稱﹃東都事略﹄卷一二一・梁師成傳︒
(13)
陳均﹃皇�X年綱目備:﹄卷二八・宣和元年九=條︒
(14)
-揭¸
(2)拙著二六二~二七六頁︒
(15)
李綱﹃梁溪集﹄卷四一﹁召赴�字庫º候引對劄子﹂(宣和
七年十二=二十三日︑�旨﹁赴都堂議事訖︑隨宰執赴�字庫
º候引對︑具己見箚子︒﹂)︑李綱﹃靖康傳信錄﹄卷上・宣和
七年十二=二十三日條︒
(16)
-揭¸
(2)拙著二六五~二七四頁︒
(17)
『穀山筆麈﹄卷一五・雜記二︒
(18)
『東都事略﹄卷一二一・梁師成傳︒
(19)
-揭¸
(2)拙著二八三~二八九頁參照︒
(20)
王�淸﹃揮麈後錄﹄卷二︒
(21)
胡仔﹃苕溪漁隱叢話﹄-集卷五四︑樓鑰﹃攻媿集﹄卷一〇
三﹁工部郞中曹公墓誌銘
(代汪尙書)﹂︑周必大﹃�忠集﹄卷
九六﹁�度�曹勛贈三代
(登極赦恩)﹂︒
(22)
違定﹃名賢氏族言行類稿﹄卷一九︑胡仔﹃苕溪漁隱叢話﹄
― 109―
287
-
-集卷五四︒
(23)
王Â﹃碧雞漫志﹄卷二︒
(24)
-揭¸
(2)拙著二八三~二八九頁參照︒
(25)
『宋7﹄卷三七九・曹勛傳︒
(26)
曹組は*宗の@くに侍っていたことを窺わせる宸筆を'持
していたという︒(王�淸﹃玉照怨志﹄卷二)
(27)
『苕溪漁隱叢話﹄-集卷五四︑周紫芝﹃太倉稊米集﹄卷六
七﹁書曾處州ö詞後﹂︒
(28)
『名賢氏族言行類稿﹄卷一九︒
(29)
先の﹃直齋書錄解題﹄や�¸の﹃攻媿集﹄ではこの後︑旨
�りて武階に奄わったとするが︑これは科擧合格者は當然�
階を'持したものという考えから來た勘いであろうか︒の
ちに見るように宣和三年の科擧は︑Q常の科擧とかなり趣の
うものであった︒
(30)
『攻媿集﹄卷一〇三﹁工部郞中曹公墓誌銘
(代汪尙書)﹂︒
﹃碧雞漫志﹄卷二では︑官は防禦�に至ったとする︒ちなみ
にその子・曹勛も父の後を嗣いで閤門宣贊舍人となり︑*宗
の北狩
(拉致)に隨行︒高宗に卽位を促す*宗の密旨をもっ
て脫出し︑御衣とともに高宗に屆けたとされ︑南宋で紆餘曲
折を經て�度�・太尉に至るという數奇な人生を步み︑この
とき曹組も譙國公を_封されている︒(﹃宋7﹄卷三七九・曹
勛傳︑﹃攻媿集﹄卷五二﹁曹忠靖公松隱集序﹂︑﹃�忠集﹄卷
九六﹁�度�曹勛贈三代
(登極赦恩)﹂)
(31)
『碧雞漫志﹄卷二︒
(32)
尙書內省については德永洋介﹁北宋の御筆手詔﹂(﹃東洋7
硏究﹄五七-三︑一九九八年)︑鄧小南﹁掩映之閒
︱︱宋代
尙書內省管窺﹂(﹃÷潤學7叢稿﹄中華書局︑二〇一〇年)參
照︒
(33)
御筆は皇の宸筆を円-とはするものの︑女官などの代筆
などいくつかの段階が存在した︒拙著二〇四~二一一頁參照︒
(34)
當時の御筆も︑定型には嵌まっていなかったことが指摘さ
れている︒拙著二一二~二一三頁︒
(35)
『宋7﹄卷四七二・蔡攸傳︑徐夢莘﹃三�北Z會X﹄卷三
一・靖康元年正=二十四日條︒
(36)
『三�北Z會X﹄卷二八・靖康元年正=六日條︒
(37)
南宋に入ると臨安の皇城內に睿思殿庫と呼ばれる財寶庫が
あり︑これを掌るものとして﹁睿思殿掌管ø書
(掌書管ø)﹂
なる職があり︑四名確pできる︒またより多く﹁睿思殿º
候﹂という書きを持つ宦官が確pされる
(後揭︻表三︼)︒
これらは南宋に入ると宦官官職﹁:@職任﹂となる
(﹃v部
條法﹄(﹃永樂大典﹄卷一四六二九)﹁尙書右<考功Q用申
�﹂)が︑*宗�の直睿思殿・睿思殿供奉の系�を引く貼職
であった可能性が高い︒
(38)
佐伯富﹁宋代走馬承�の硏究︱︱君#獨裁權硏究の一齣﹂
﹃中國7硏究﹄第一
(東洋7硏究會︑一九六九年︒初出は一
九四四年)︑申忠玲﹁宋代/走馬承�公事探究﹂﹃靑海社會科
學﹄二〇一一-五︑秦克宏﹁走馬承�公事與宋代信息Q硏
究﹂﹃求是學刊﹄二〇一二-五︒
(39)
先行硏究ではあまり觸れられないが︑太宗�末�の至
元
年
(九九五)に轉c司承�公事が置かれている︒これは�官
― 110―
288
-
�び三班から<ばれて各路に二員が置かれ︑轉c�と聯署し︑
非常時には驛傳を�って入奏することが許された︒その役目
は州縣の𠛬政︑官vの治迹の察擧であった︒これはわずか二
年�後の太宗ú御︑眞宗卽位にともなって廢止されたが︑武
事を監察する﹁都總管司承�公事」=
走馬承�に對して︑�
事を監察する﹁轉c司承�公事﹂として對置されたものかも
しれない︒(﹃皇�X年綱目備:﹄卷五・至
元年十一=條︑
李燾﹃續m治Q鑑長X﹄(以下﹃長X﹄と略稱)卷四一・至
三年二=條︑五=壬申條︑羅從彥﹃豫違�集﹄卷三・集
錄)
(40)
ここでまず指摘しておかねばならないことがある︒それは
*宗�初�の狀況を傳える根本7料の﹃宋會:﹄職官四一・
走馬承�のX年が不整なことである︒四一-一二四で哲宗�
の記事が﹁元符元年十二=十六日﹂條でわったあと︑突然
*宗�三番目の元號である①「大觀二年十一=九日﹂條が表
れ︑四一-一二五まで續いたあと︑②「三年正=二十一日﹂・
③「二十八日﹂・④「二十九日﹂の三條につながる︒すると�
に再び⑤「三年五=十九日﹂條が來て︑*宗�二番目の年號
である⑥「*宗崇寧二年二=十七日﹂・⑦「四年九=八日﹂
條が四一-一二六はじめまでつづく︒すると今度は⑧「四=
十四日﹂が表れ︑⑨「六=二十七日﹂・⑩「七=八日﹂・⑪
「十一=一日﹂とつながり︑四一-一二七の⑫「四年正=四
日﹂以影は﹁二=十六日﹂・﹁三=三十日﹂から政和年閒とな
り︑ほぼ年=順でつながっていく︒
したがって四一-一二四で﹁元符元年十二=十六日﹂のあ
と突然①「大觀二年十一=九日﹂まで年代が飛ぶ箇'と︑四
一-一二五の④「(三年正=)二十九日﹂のあとに⑤「三年五
=十九日﹂と再度﹁三年﹂を繰りÙす箇'︑四一-一二六の
⑦「四年九=八日﹂のあとに⑧「四=十四日﹂が來て=が
戾ってしまうかのように見える箇'︑この三箇'でどうもX
年がうまくつながっていない︒しかも⑥﹁*宗崇寧二年二=
十七日﹂に見られるような年號の-に皇が示されるのは︑
Q常は當該皇が卽位後に改元をして以影の︑�初の記事の
ときである︒周知のQり輯佚書である﹃宋會:﹄にはしばし
ば見られるX年不整であるが︑同年號の省略が加わって︑こ
こではとりわけ複雜に入り組んでいる︒
この點については-揭¸
(38)の先行硏究はいずれも言�
せず︑慣þQりに繫年しているが︑問題なしとしえない︒例
えば職官四一-一二七﹁二=十六日﹂條を崇寧四年の記事と
しているが︑同條には﹃大觀走馬敕﹄が出てきており︑�ら
かに矛盾を來している
(大觀は崇寧の�の年號)︒
他に對照できる7料がないため繫年の特定は難しいが︑內
容や-後の狀況から見て︑まずは①~④︑⑤~⑦︑⑧~⑪が
それぞれ一聯のものだと推測される︒
そのうち⑪「十一=一日﹂條には﹁發
(兵軍)[c]副�龐
寅孫﹂が出てくるが︑龐寅孫は大觀三年
(一一〇九)五=十
一日と同四年二=十二日に發c副�であることが他の7料で
確pできる
(﹃宋會:﹄職官四二-二七)︒ここからおそらく
⑧~⑪は大觀三年だと推定できる︒そうすると⑫「四年正=
四日﹂も大觀四年となり︑つながりも良い︒
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-
結論として正しいX年に戾せば︑⑤元符﹁三年五=十九
日﹂︑⑥「*宗崇寧二年二=十七日﹂・⑦「四年九=八日﹂・①
「大觀二年十一=九日﹂・②「三年正=二十一日﹂・③「二十八
日﹂・④「二十九日﹂・⑧「四=十四日﹂・⑨「六=二十七日﹂・
⑩「七=八日﹂・⑪「十一=一日﹂・⑫「四年正=四日﹂とい
う順になろう︒﹃宋會:﹄のX纂時に①~④の大觀二・三年
の四條が︑すでに*宗が卽位した後の⑤元符三年條より-に
きてしまったと考えられる︒
以下本稿ではこのX年により論をめる︒
(41)
『宋7﹄卷一六七・職官志﹁走馬承�﹂︒
(42)
『宋會:﹄職官四一-一二五・崇寧四年九=八日條︑大觀三
年正=二十一日條︒
(43)
『宋會:﹄職官四一-一二五・崇寧二年二=十七日條︒
(44)
『宋7﹄卷一六七・職官志︑﹃皇�X年綱目備:﹄卷二七・
大觀元年十二=條︒
(45)
『宋會:﹄職官四一-一二六・大觀三年六=二十七日條︒こ
の二員というのは︑のちの詔を見れば︑江南東西路では洪州
と江寧府に分�していた︒
(﹃宋會:﹄職官四一-一二八・大
觀四年十=八日條)
(46)
『宋會:﹄職官四一-一二七・大觀四年正=四日條︒
(47)
『宋會:﹄職官四一-一二七・大觀四年二=十六日條︒
(48)
『宋會:﹄儀制三-四四・�儀班序・政和七年八=二十五日
條︑﹃宋會:﹄職官四一-一三一・政和七年八=二十五日條︒
(49)
南宋の陸游は︑このときの走馬承�・廉訪�者について�
のように言う︒
昔祖宗置走馬承�︑本欲D於奏報耳︒而小人恃勢︑日增歲長︒
�改稱廉訪�者︑則監司・帥守反出其下︑敗亂四方︑危�社
稷︑實走馬承�之末液也︑可不危哉︒
(﹃渭南�集﹄卷五
﹁條對狀﹂)
(50)
小林隆
﹁北宋�における路の行政J
︱︱元豐帳法成立
を中心に﹂﹃宋代中國の瓜治と�書﹄�古書院︑二〇一三年︒
(51)
『宋會:﹄職官四一-一三三・宣和六年三=七日條︒
(52)
『宋大詔令集﹄卷二一二﹁走馬不職澄汰御筆﹂︒﹃宋7﹄卷
一六七・職官志では政和五年の詔︒
(53)
『宋會:﹄職官四一-一二九・政和六年四=一日條︒
(54)
『宋會:﹄職官四一-一三三・宣和元年九=一日條︒
(55)
『宋7﹄卷一六七・職官志︒
(56)
『宋會:﹄職官四一-一三五・靖康元年七=二十五日條︒
(57)
『宋會:﹄職官四一-一三五・円炎元年十二=十二日條︒
(58)
先行硏究で佐伯氏は︑走馬承�が円炎末に自然�滅したと
する︒また申忠玲氏は︑紹興三年
(一一三三)で7料からÖ
を�し︑おそらくこのあたりでやめられたものと推測してい
る︒しかし紹興末年に@いころ︑﹁內侍官承�諸軍奏報�字﹂
なる官職が廢止されており︑そのとき高宗自身が﹁今の承�
は︑卽ち祖宗�の走馬承�︑專ら邊將の奏報を掌らしむ︒﹂
(﹃円炎以來繫年:錄﹄卷一八六・紹興三十年十=丙午條)と
営べている︒これに關する7料が詳細には殘っておらず︑李
心傳も按語の中で事實關係の不�瞭さを指摘してもいるが︑
ここから見れば走馬承�は名稱を變えながら︑實質/には高
宗�一代にわたって存在しつづけたようだ︒
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-
(59)
歐陽脩﹃太常因革禮﹄卷八三﹁契丹國信�副元正Y��見
宴﹂︑宋ì﹃景�集﹄卷三〇﹁讓'林學士狀﹂︑司馬光﹃溫國
�正公�集﹄卷五一﹁奏爲病未任入謝箚子﹂︑�居中﹃政和
五禮怨儀﹄卷一九七・嘉禮︒
(60)
『職官分紀﹄卷四四﹁東西上閤門﹂︒
(61)
閤門承�は南宋にも存在しつづけたが︑成忠郞や秉義郞の
小�臣ランクであることは變わらなかった
(陳傅良﹃止齋先
生�集﹄卷二二﹁繳奏閤門承�趙銓乞將轉官囘Õ封贈狀﹂︑
﹃�忠集﹄卷九四﹁掖垣類藁一﹂﹁秉義郞閤門司提點承�常士
廉﹂)︒
(62)
趙昇﹃�野類:﹄卷五﹁承�﹂︒
(63)
『長X﹄卷一〇九・天Y八年六=甲午條︒
(64)
『揮塵後錄﹄卷一︒
(65)
『長X﹄卷四五六・元祐六年三=癸酉條︒
(66)
『m治Q鑑﹄卷末﹁m治Q鑑表﹂(司馬光﹃司馬�正公傳
家集﹄卷一七)︒
(67)
『長X﹄卷一〇八・天Y七年七=乙丑條︒
(68)
『長X﹄卷三四八・元豐七年八=丙戌條︒
(69)
楊仲良﹃長X紀事本末﹄卷一二五・�堂・政和五年八=壬
子條︑﹃皇�X年備:﹄卷二八・政和五年八=條︒
(70)
「承�奏報�字﹂という名稱は他の7料にも見えている
(趙汝愚﹃國�諸臣奏議﹄卷六三・百官門・余應求﹁上欽宗
乞罷隨軍承�﹂︑卷六三・百官門・余應求﹁上欽宗論中人預
軍政之漸﹂︑﹃攻媿集﹄卷二九﹁繳闗禮張宗尹特與隨龍恩數﹂)︒
また﹁承�奏報�書﹂も一例見える
(十萬卷樓本﹃靖康:
錄﹄卷四・靖康元年三=三十日條)︒
(71)
『宋會:﹄c曆一-一八・政和八年閏九=一日條︑桑世昌
﹃蘭亭考﹄卷三︑﹃靖康:錄﹄卷八・靖康元年六=二十六日條︑
﹃梁溪集﹄卷五二﹁乞置承�官箚子﹂︑李攸﹃宋�事實﹄卷九
﹁祕書省﹂等︒
(72)
『梁溪集﹄卷五二﹁乞置承�官箚子﹂︑﹁乞令承�官王褒隨
軍箚子﹂︒
(73)
7書X纂の承�は︑陳騤﹃南宋館閣錄﹄卷二・省舍︑﹃宋
�事實﹄卷九・祕書省︒é義官については︑林希逸﹃鬳齋續
集﹄卷二四﹁湖南提舉宮é太7禮部李公行狀﹂︑﹃攻媿集﹄卷
二九﹁繳關禮張宗尹特與隨龍恩數﹂︑卷三四﹁嘉王府é尙書
園違官屬諸色祗應人各轉一官m制﹂︒
(74)
佚名﹃續X兩�綱目備:﹄卷一一・嘉定二年十一=丙辰條︑
楊萬里﹃�齋集﹄卷一一六・李侍郞傳︒
(75)
朱熹﹃X庵先生朱�公�集﹄卷九一﹁司農寺丞
君墓碣
銘﹂︑黃宗羲﹃宋元學案﹄卷一﹁中奉
先生彥深﹂︑﹃宋會:﹄
職官�