R・ローティの「リベラリズム」 - ritsumei.ac.jp · 1 Core Ethics Vol. 4(2008)...

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1 Core Ethics Vol. 4(2008) 論文 R・ローティの「リベラリズム」 その論理構造の究明安 部   彰 本稿の目的は、現代アメリカの哲学者リチャード・ローティ(1931-2007)の「リベラリズム」の論理構造を究明 することにある 。その課題の達成を本稿は、ローティの主要概念「公私の区分 publicprivate distinction」、 「偶然性 contingency」、「アイロニー irony」、「連帯 solidarity」および「我々 weの関係、およびそれらに関 連する言明の吟味と内在的な解釈をつうじて試みる 。かかる試みは、「錯綜したエッセイ」とも「複雑な論理構成」 (渡辺 1999: iii)をもつとも評されるローティの政治・社会思想を整合的に理解する視座を提供する点で、意義ある ものとなろう。 まず後の議論とも密接に関連する、ローティの〈公私の区分〉の内容と特性を見定めることからはじめよう。周 知のように、公私の区分はリベラリズムの特徴をなす主張のひとつである。たとえば、ヨーロッパのリベラリズム の礎石を築いたひとりでもあるバンジャマン・コンスタンによれば、公私は明確に区別される(べき)ものであっ た。すなわち、「私的な生活」は「家族、個人的な友人からなる親密なサークル、個人的な仕事をしたり財貨を消費 したりする空間、個人の信仰や選好の領域」であるのにたいし、「公共的な生活」とは「政治の世界における行為」 にほかならない(Geuss: 2001=2004: 1)。こうした区別立てによってコンスタンが企図したのは、人々の私的な生活 を「政治(国家)」の要求に従属させようとする価値の転倒古代ギリシア的な位階の転倒であった。近代人 にあっては、むしろ私的な善は公的な善にたいして優先性もつし、またもつべきであるとコンスタンは考えたので ある(Geuss: 2001=2004: 1-3)。 このようなコンスタンの企図/考えに明らかなようにまた西洋政治/社会思想における「公私の系譜学」を 試みたレイモンド・ゴイスがその分析をつうじて明らかにしているように、公私の区分とは「事実」命題では なく「規範」命題である。すなわち公と私を分かつ絶対的・客観的な基準というものがあるわけではなく、その線 引きはつねに「ある(任意の)」価値/基準に則して、いわば行為遂行的になされるものでしかない。したがって、 ある論者の「リベラリズム」内におけるその位置/特性を定めるには、彼(女)がいかなる論理のもとで公私を峻 別しているのかをみればよい。本節以下では、リベラリストを自認するローティにおけるその消息を押さえておく こととする。 まず確認すべきは、ローティにおいて公私の区分は「哲学」にたいする彼特有の批判に準拠しているということ である 。ローティによって批判の俎上に載せられるのは、「哲学」のひとつの想定「非歴史的真理 ahistorical truth」の実在、それを「表象 represent」する単一の言語が存在するとの想定である。ローティによれば、「哲 学」の歩みの嚆矢をなすプラトンの形而上学は「公共的なものと私的なものを融合しようとする試み」(CIS: x iiiであった 。すなわち「私的な生と人間の連帯の根源は同一である」(CIS: x iii)とするその見解は、その「根源」 である「人間本性 human nature」の発見 、、 を「哲学」が果たすべき至上命題として掲げるものであった。 さて、その発見 、、 という語に示されているように、「哲学」は言語を「自然(実在)」を表象する「真理」の媒体と みなす。だがローティの考えでは、言語とは我々がそれを用いることによって「真理」と名指される「信念 beliefキーワード:リチャード・ローティ、リベラリズム、公私の区分、偶然性、連帯 *立命館大学大学院先端総合学術研究科 2005年度入学 公共領域

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Core Ethics Vol. 4(2008)

論文

R・ローティの「リベラリズム」

―その論理構造の究明―

安 部   彰*

本稿の目的は、現代アメリカの哲学者リチャード・ローティ(1931-2007)の「リベラリズム」の論理構造を究明

することにある1。その課題の達成を本稿は、ローティの主要概念―「公私の区分 public‐private distinction」、

「偶然性 contingency」、「アイロニー irony」、「連帯 solidarity」および「我々 we」―の関係、およびそれらに関

連する言明の吟味と内在的な解釈をつうじて試みる2。かかる試みは、「錯綜したエッセイ」とも「複雑な論理構成」

(渡辺 1999: iii)をもつとも評されるローティの政治・社会思想を整合的に理解する視座を提供する点で、意義ある

ものとなろう。

まず後の議論とも密接に関連する、ローティの〈公私の区分〉の内容と特性を見定めることからはじめよう。周

知のように、公私の区分はリベラリズムの特徴をなす主張のひとつである。たとえば、ヨーロッパのリベラリズム

の礎石を築いたひとりでもあるバンジャマン・コンスタンによれば、公私は明確に区別される(べき)ものであっ

た。すなわち、「私的な生活」は「家族、個人的な友人からなる親密なサークル、個人的な仕事をしたり財貨を消費

したりする空間、個人の信仰や選好の領域」であるのにたいし、「公共的な生活」とは「政治の世界における行為」

にほかならない(Geuss: 2001=2004: 1)。こうした区別立てによってコンスタンが企図したのは、人々の私的な生活

を「政治(国家)」の要求に従属させようとする価値の転倒―古代ギリシア的な位階の転倒―であった。近代人

にあっては、むしろ私的な善は公的な善にたいして優先性もつし、またもつべきであるとコンスタンは考えたので

ある(Geuss: 2001=2004: 1-3)。

このようなコンスタンの企図/考えに明らかなように―また西洋政治/社会思想における「公私の系譜学」を

試みたレイモンド・ゴイスがその分析をつうじて明らかにしているように―、公私の区分とは「事実」命題では

なく「規範」命題である。すなわち公と私を分かつ絶対的・客観的な基準というものがあるわけではなく、その線

引きはつねに「ある(任意の)」価値/基準に則して、いわば行為遂行的になされるものでしかない。したがって、

ある論者の「リベラリズム」内におけるその位置/特性を定めるには、彼(女)がいかなる論理のもとで公私を峻

別しているのかをみればよい。本節以下では、リベラリストを自認するローティにおけるその消息を押さえておく

こととする。

まず確認すべきは、ローティにおいて公私の区分は「哲学」にたいする彼特有の批判に準拠しているということ

である3。ローティによって批判の俎上に載せられるのは、「哲学」のひとつの想定―「非歴史的真理 ahistorical

truth」の実在、それを「表象 represent」する単一の言語が存在するとの想定―である。ローティによれば、「哲

学」の歩みの嚆矢をなすプラトンの形而上学は「公共的なものと私的なものを融合しようとする試み」(CIS: x iii)

であった4。すなわち「私的な生と人間の連帯の根源は同一である」(CIS: x iii)とするその見解は、その「根源」

である「人間本性 human nature」の発見、、を「哲学」が果たすべき至上命題として掲げるものであった。

さて、その発見、、という語に示されているように、「哲学」は言語を「自然(実在)」を表象する「真理」の媒体と

みなす。だがローティの考えでは、言語とは我々がそれを用いることによって「真理」と名指される「信念 belief」

キーワード:リチャード・ローティ、リベラリズム、公私の区分、偶然性、連帯

*立命館大学大学院先端総合学術研究科 2005年度入学 公共領域

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を創出、、するのに役立つ道具にほかならない5。したがって、「哲学」は〈自然(実在)を照らし出す〉ものとして自

らの「語彙 vocabulary」を特権視してきたが、ローティにおいてはそうした語彙間の存在論的階梯じたいがそもそ

も成立しない6。つまりあらゆる語彙は相互に並立した関係にある、それぞれに異なる目的に奉仕する言語ゲームに

ほかならない。

かくして、ローティによれば、「公私の融合」を企てたプラトンの誤りは畢竟、異なる言語ゲームに属する〈公的

な語彙〉と〈私的な語彙〉の相違に無自覚であった点に求められる。すなわち、〈政治の語彙〉と〈哲学や芸術の語

彙〉の区別―「世人 das Manの言語、公共の出来事を論じるさいに、または他の人間存在に対する我々の責任を

はたすさいに使用を義務づけられる平凡な日常の言語」と「独り自らの心とともに、あるいは孤独に浸っていると

きに自分自身に語りかける言語」(TPP: 29)の区別―の不在に、その瑕疵はあった。したがって、「哲学」はこれ

まで政治の語彙を自らの語彙による基礎づけの対象としてきたが、いまや政治は「哲学」から自律して本来あるべ

き場へ、すなわち我々の社会的な実践の領域へ差し戻されねばならないのだ、と。

さて、ローティにおいて公私の区別とは、ひとまずこのように語彙/言語ゲーム間の区別である。しかしその区

別はまた、リベラリズムの準則のひとつ―「正義と善の区別」―に対応してもいる。ローティにおいて「リベ

ラル」であるとは「残酷であることが、我々がなす最悪の事柄である」(CIS: xv)とみなすことを意味する7。した

がって、「リベラルな社会」とは他者からの/への残酷な振る舞いが抑止されるような社会、各人が各人によって

「そっとしておかれるleft alone」自由があるような社会を指す8。そうした社会を「最小公分母で結合した極大社会」

と渡辺幹雄は呼んでいるが、そこで「最小公分母」とは「残酷さの回避 avoiding cruelty」を、また「極大社会」と

は「残酷さの回避」を侵害しない限りにおいて個人の自由とその異質性を極大まで認めることを指している(渡辺

1999: 233-239)。この「最小公分母」である「残酷さの回避」が、社会のすべてのメンバーが遵守すべきルールとし

ての「正義」に、他方で「極大社会」における個人の多様な自由の尊重が「善」の尊重に、それぞれ対応している

ことはここで殊更に指摘するまでもないだろう。すなわち以上を要すれば、ローティはその言語観に則して、公を

〈「正義」をめぐる政治の語彙〉、私を〈個人の「善」をめぐる政治以外の語彙〉としてそれぞれ峻別している、とい

ってよい。

それでは次に、「偶然性」の検討に移ろう9。本節ではまず、「言語」と「自己」の偶然性をめぐるローティの見解

を素描するが、わけても本稿の関心は、次節でも論じるように〈ローティにおいて「偶然性の承認recognition of

contingency」が、いかなる事柄であり、いかなる含意をもっているのか〉を明らかにすることにある10。あらかじ

め約言しておけば、「偶然性の承認」とは〈言語や自己存在の歴史性と無根拠性を承認するという生の態度〉をいう。

その概念を貫いているのは、あらゆる事象や出来事の生成を徹頭徹尾、「歴史主義」的な観点から把握するというロ

ーティに固有の視座である11。

まず、「言語の偶然性」について。先述したように、ローティは〈言語が実在を表象する媒体である〉という見方

をやめること、そのかわりに、知の歴史にたいする「非目的論的な見方 nonteleological view」に立つこと、すなわ

ち言語の歴史を計画されたある目的をもった過程としてではなく「メタファーの歴史」ととらえることを推奨する12

(CIS: 16) 。ローティの「メタファー metaphor」とは、言語の「馴染みのない使い方 unfamiliar uses」、「新しい理

論を展開することに我々を従事させるような使い方」のことを指すが13、そのような観点から知のパラダイム・チェ

ンジもクーン的な見方によって、つまり〈旧来のメタファーがあらたなメタファーに取って代わられる事態〉とし

てとらえなおされることになる。ここで重要な点は、けれどもローティにおいてかかるメタファーの転換の生起と

その受容には、いかなる根拠もないとされることである。つまり言語は、そこでは徹底して「時間と幸運の産物

product of time and chance」として把握される。それはたとえば、「ロマン主義の詩のイディオム」―あるいは

「社会主義の政治」や「ガリレオの力学」―がヨーロッパにおいて受容されたのは「ヨーロッパではある言葉を用

いる習慣がだんだんと失われ、他の言葉を使用する習慣が獲得された」(CIS: 6)ことによって、たまたま生じた出

来事にすぎないとする言明にも明らかである。ローティのみるところでは、そうした出来事は「蘭の花や類人猿が

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Core Ethics Vol. 4(2008)

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ニッチを発見した幾千もの―そしてニッチを発見できなかったその他の何百万もの―突然変異の結果である」

(CIS:16)ことと何らかわるところがないのである。

つづいて、「自己の偶然性」について。人間を「具象化した incarnated語彙」とみなすローティの視座からすれ

ば、すでにみた「言語の偶然性」についての見解は、そのまま「自己の偶然性」へと代置される。つまり、自己も

非歴史的な「本性 intrinsic nature」をもつ存在(者)としてではなく、「歴史的偶然」の産物として把握されるこ

とになる。この点にかんしてローティはたとえば、フロイトによって明かされたとする知見を援用しつつ次のよう

に述べる。フロイトがその分析をつうじて我々に提示してみせたのは、「すくなくとも潜在的にはよく秩序づけられ

た諸能力の体系というよりは、偶然性の織物 a tissue of contingenciesとしての自己」(CIS: 32)というメタファー

であった。フロイトはそれを我々の良心の源泉をその成長過程の偶然性をたどることによって明らかにしてみせた14。

つまり、我々が感じる良心の呵責を「抑圧された幼時の性的衝動―これまでけっして経験のなかにはいりこむこ

とのなかった、無数にある偶然の所産である抑圧―にかんする罪の意識の更新」(CIS: 31)として説明してみせ

た。ローティによれば、その意義は、良心や道徳意識の源泉として自己を神格化するカント的転回を越えて、「道徳

意識を歴史的に条件づけられたもの、政治的または美的意識と同じく時間と偶然の所産」(CIS: 30)とみなす視座

を我々に示したことにあった。

ところで、自己(存在)のこのような根源的偶然性ゆえに、つまりその生の無根拠性から生じる実存的な不安か

ら、人間はふたつの相対する願望を抱くことになるとローティはいう。人々は自己の独自性をオリジナルの言葉や

形式の創出をつうじて確認したいと願う他方で、本当はそのような独自性は重要ではなく、すべての時代/すべて

の人に共通する何かをみつけたいと願うだろう、と。ローティによれば、このふたつの願望の対立は、「詩」と「哲

学」の対立―「偶然性を承認することによって自己創造 self-creationを達成しようとする努力」と「偶然性を超

越することによって普遍性を達成しようとする努力」のあいだの緊張関係―をあらわしている(CIS: 25)。だが、

それらの願望はともに窮極的には成就されることはないといわれる。なぜであろうか。

まず後者の、「哲学」の願望が果たされないことは、ここまでの議論に明らかである。偶然を超えた「必然/普遍

なるもの」は端的に存在しないとするローティの見解からすれば、それはもとより望むべくもない試みだからであ

る。しかしでは何故に「詩」の願いも成就されないのか。自らの偶然性を認めたうえで、「すべての『あった』を

『我、欲す』へ再創造する」(CIS: 29)ニーチェ的な「詩人」であることは何故不可能なのか15。

ひとつにそれは、かかる「強い詩人 strong poet」―ニーチェが人類の範型と仰いだような「超人Übermensch」

―に我々のほとんどはなりえないとの厳然たる事実にもとづいてのことだろう。また、「自分自身を知り、自らの

偶然性と向きあい、自らの原因の根拠をしっかりたどる」過程でもある自己創造の―「新しい言語を発明する、

すなわち新しいメタファーを編み出す」―過程が完了するには、我々/人間の生はあまりにも短い、つまり「有

限」だからであろう (CIS: 27) 16。しかしまたひとつに、いやそれ以上に、かかる自己創造という営みじたいが、次

のような条件/制約のもとでしかなされえないからであろう。

〔自己創造が〕未完成に終わることへの恐れ、強い詩人がいだく死への恐れは、……世界と過去を再記述する

という計画、つまり自分自身の特異なメタファーを刻印することで達成される自己創造の計画が、つねに周辺

的で寄生的なものにならざるをえないという事実の相関的な要素である。メタファーは、……他の旧来の言語

が馴染みのある仕方で使用されているという背景があってはじめて可能となる。「すべてがメタファー」である

ような言語があるとしても、それは利用価値のない言語、したがって言語ではなく意味のない戯言にすぎない。

なぜなら、たとえ言語が表象や表現の媒体ではないと認めたとしても、それがコミュニケーションの媒体、社

会的相互行為の道具、他の人間存在と自分をつなぐ手段であることには変わりがないだろうからである。(CIS:

41、〔 〕による補足は引用者)

この引用に示されている事柄とは、いったい何であろうか。それは〈純然たる自己創造の不可能性〉、つまり自己

創造にかんするもうひとつの、より基底的ともいいうる「有限性」である。すなわち、自己創造―「再記述」、あ

らたなメタファーの創出―は言語、それも根源的に〈社会的なものでしかありえない言語〉に依存している。し

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安部 R・ローティの「リベラリズム」

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かし、そうであるがゆえに、自己創造という試みはまさに可能となっている。我々は、「私的言語 private

languages」を用いてそれを試みたとしても、それによって自らがいったい何をなしえたのかを知ることはできない

からである17。そしてそのことと切り離しえないこととして、ここにはまた、〈自己創造の条件をなすものとしての

他者〉というローティの観点が示されているといえる。ローティが批判する私的言語という考えは、「言葉には他の

言葉に依存することなく意味があるかもしれないとの期待」のみならず、「自足した即時存在になるとの、サルトル

によって精査された、より大きな期待」に根ざしたものだからである18(CIS: 42)。

以上、我々はまずローティの偶然性についての見解を概観した。そのうえで、つぎに論究してみたいのは、前節

にて提示しておいた課題である〈偶然性の承認が、いかなる事柄で、いかなる含意をもっているのか〉ということ、

わけても「偶然性の承認」が「リベラルな社会のメンバーがもつ主要な徳性 virtueである」(CIS: 46)とローティ

によって述べられることの含意である。この唐突にもみえる、一見して意味の判然としない言明は、いかなる論理

のもとで導出されるものであるのか。

その手がかりをまず我々は、先の「自己の偶然性」をめぐるローティの見解と我々の解釈のうちに求めてみよう。

すなわち前節にて、「偶然性を承認することによって自己創造を達成」(CIS: 25)との言明があったことを想起され

たい。これはいいかえれば、〈偶然性の承認は自己創造の手段である〉ということである。とすれば、〈偶然性の承

認は徳性である〉という問題の言明は、〈偶然性の承認は自己創造をもたらすがゆえに徳性である〉との言明として

とらえなおすことができるであろう。しかしこの解釈では、依然として意味が不明瞭であるし、不自然でもある。

〈自己創造をもたらすから徳性である〉というのは、徳性という語の語感にあまりにも馴染まないであろう。徳性と

は、人間の善さ、卓越性 aretêをあらわす性状のみならず、「正しい行為」にもかかわる概念だからである19。

とすれば、我々は別様の解釈を探索する必要があるだろう。そのさい、まず想起しておくべきは、ここで問題と

なっているのが「リベラルな社会におけるメンバーの、、、、、、、、、、、、、、、、

徳性」であるということである。そしてその想起をうながす

ことによって、我々が示唆してみたいのは次のことである。すなわち先にみたように、ローティにおいて「リベラ

ルである」とは〈他者にたいする残酷な振る舞いを忌避する〉ということを含意するのであった。そうであるなら

ば、かかる限定が付された徳性は「残酷さの回避」、すなわちローティにおける「正義」にかかわるものであるがゆ

えに徳性なのであると考えるのが自然であるし、また徳性という語の語感にもかなっているのではないか、と。

さて、このような解釈に立ったとき、けれども重要になってくるのは〈偶然性の承認がいかに「残酷さの回避」

と関係しているか〉ということである。つまり、このとき問題はひとえに、〈両者はいかなる関係にあるか〉を説得

的に示しうるかにかかってくることになるわけだが、それについては次のように応ずることができるだろう20。

ひとつは、我々が問題にしている言明の文脈において「偶然性の承認」とは、「リベラル」である「我々 we」の

偶然性を承認することにほかならないとの応答である。すなわちローティにあっては、自らを含む「リベラル」た

ちが、何の因果か「残酷さを忌避する」という経験的/社会学的事実を認めることが肝要なことであるからだ、と

応ずることである21。ローティにおいて何故それが肝要であるのかについては、しかし次節で論じることとし、ここ

では急ぎもうひとつの応答を試みておく。それは、「偶然性の承認」と「残酷さの回避」の両者の結びつきをより内

在的に考えてみる、という応じ方である。すなわち、すでにみたように、言語や自己の偶然性を認めることは、自

己を構成しているその価値や信念が根源的には歴史的であり無根拠であるということに自覚的になるということで

ある。とすれば、それはまず人が自己(の価値/信念)の絶対性を疑う視点をもつことにつながる契機となると考

えられる。そしてそこからさらに、他者、および他者の究極の価値/信念でもある「終極の語彙 final vocabulary」

を排除しないこと、つまり「残酷さの回避」にもつながる可能性をもつといいうる22。なぜなら、そこでは畢竟、自

己(の価値/信念)も他者(の価値/信念)も同じ位格において、すなわち「偶然的なもの」として併置されるこ

とになるはずだからである。かくして以上から、〈偶然性の承認は「残酷さの回避」―ローティにおける「正義」

―の契機となりうるがゆえに徳性であるのだ〉との応答が成り立つことになる。

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Core Ethics Vol. 4(2008)

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〈「偶然性の承認」が何故リベラルな社会のメンバーがもつ主要な徳性であるのか〉―前節にて我々は、かかる

問いへの応答をつうじて「偶然性の承認」と「残酷さの回避」の関係を明らかにした。つづいては、そこで我々が

抉出した論理と「アイロニー」、「我々」、そして「連帯」という概念との関係を明らかにしたいと考える。そのさい、

我々が導きの糸としたいのは、〈私の構想するリベラル・ユートピアは「アイロニズムがその適切な意味で普遍的で

ある」(CIS: XV)ような世界である〉とのローティの言明であるが、その前に「アイロニー」とは何かをまず押さ

えておこう。アイロニーとは、約言すれば、〈自己にたいして徹底的に懐疑的であること〉を指す。たとえばローテ

ィは、かかる性質を身につけた人、すなわちアイロニストの要件として以下の三点を挙げている。

第一に、自分が現在使っている終極の語彙を徹底して疑い、たえず疑問に思っている。……第二に、自分が

現在使っている語彙であらわされた論議は、こうした疑念を裏打ちしたり解消したりすることができないとわ

かっている。第三に、自らの状況について哲学的に思考するかぎり、自分の語彙の方が他の語彙よりも実在に

近いとは考えていない。つまり、自分の語彙の方が他の語彙よりも実在に近いところにあり、自分以外の力に

触れているとは考えていない(CIS: 73)。

引用から窺い知れることを、数点確認しておこう。第一に、「アイロニスト」とは〈自己の絶対性を懐疑する人〉、

それゆえ自らの「終極の語彙」の価値でさえも、他者のそれに権利上、優越する根拠はないと考えるような人であ

る。とすれば、第二に、ローティにおいてアイロニーが先にみた「偶然性の承認」と等価な概念であることは明ら

かである。じっさいローティも述べるように、アイロニストとは「自らを記述する用語が変化をこうむりやすいこ

とをつねに自覚し、自らの終極の語彙、、、、、、、、

、したがって自己の偶然性と脆さにつねに自覚的である、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

がゆえに、自分自身

を生真面目に受けとめることがまったくできない」(CIS: 73-74、強調は引用者)ような人物にほかならない。また

以上のことから第三に、「偶然性の承認」同様、アイロニーもまた「残酷さの回避」の契機となりうると考えられ

る。

しかし他方で我々は、ローティがアイロニーについて「本来的に私的な事柄である」(CIS: 87)と述べているこ

とにも、あわせて注目しておかねばならない。すなわち、アイロニーは数ある「善」のひとつにすぎない―「ア

イロニーは公的にはほとんど使えるところがない」(CIS: 120)―とされたうえで、公的なリベラルと私的なアイ

ロニーの両立可能性は認めるが、共約可能性―リベラルとアイロニーの結びつき―は否定されるのである23。

以上をふまえたうえで次いで留目したいのは、先に示したように、ローティのリベラル・ユートピアにおいては、

そのようなものとされるアイロニズムが「その適切な意味で、、、、、、、、

普遍的である」(CIS:x v、強調は引用者)といわれて

いたことである。ここで鍵となるのが、「その適切な意味で」の解釈であることはいうまでもない。ローティがわざ

わざそのような但し書をつけるのはほかでもない、〈形而上学的な普遍性〉と自らがいうところの「普遍性」の種差

を示したいからである。つまり、形而上学が依拠してきた「非歴史的な真理」にかわる自らの普遍性の基準を明示

することにその意図はあると考えられる。では、その基準とはいったいなにか。

それは、「強制によらない合意 unforced agreement」である。ローティは普遍性や客観性のあらたな基準として、

それを提起していると考えることができる。ローティの「『客観性』の観念を『強制によらない合意 unforced

agreement』の観念と取り替えたいと思う」(PP-1: 38)との主張が意味しているのは、客観性のあらたな基準は共

同体のメンバー間の合意に置かれるべきだ、ということだからである。しかしこのことは、共同体のメンバーであ

る「我々」によって合意されたものが、動かしえない「真」であるということではない。それはひとまず合意され

たものにすぎず、その意味でさらなる/よりよい合意に開かれている。にもかかわらず、我々はそうした合意を起

点に活動し、出来事に対していくしかない。すくなくともローティがそこに自らを帰属させている「我々」のもと

では、そのようになる。どういうことか。

ローティのいう「我々」は、彼の唱える「エスノセントリズム ethnocentrism」、すなわち「我々は現在いるとこ

ろから出発するしかないこと、つまり決して真面目に受けとめることができない多くの考え方がある」(PP-1: 29)

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安部 R・ローティの「リベラリズム」

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という立場とわかちがたく結びついている。そしてその立場が「我々西洋のリベラルな知識人がうけいれるべき事

実」(PP-1: 29)であるとされることに明らかなように、ローティの「我々」とはまず「リベラルなエスノセントリ

スト」のことにほかならない24。しかるに入不二が明快に指摘するように、「リベラルなエスノセントリスト」には、

(a)「所与性(現在の要因)」と(b)「開放性(本来の要因)」のふたつの構成要件がある。すなわち一方で、ローテ

ィは実際に西洋のリベラルな知識人であり、そのスキームで物事を考えていくほかないが(a)、他方で、ローティ

が内属するリベラルのスキームには「開放性」―「所与である出発点にも懐疑の目を向け、他の文化との出会い

にオープンになって、自由や開放性を増大させていく」こと―が求められる(b)(入不二 2007: 253-254)。よって、

このようなローティの「我々」を形容するに相応しいイメージは、入不二も述べるように、「拡大していく同心円の

イメージ」である。つまり、「リベラリズムという所与から出発して、リベラリズムをリベラリズムによって循環的

に正当化しながら、リベラリズムを拡張していく」、その「我々」は「リベラリズムの自己増殖運動」(入不二 2007:

254)とみなされるのが適切である。

さて、かかる入不二の指摘をふまえつつ、先の問いに立ち戻れば、次のようにいうことができよう。すなわち、

ローティにおいて普遍性や客観性は、第一に、ある共同体のメンバーにおける「強制によらない合意」のもとで暫

定的に担保されるものとしてまずある。しかし第二に、その「合意」は、いまは「我々」には属さない潜在的な

「我々」、すなわち「他者」へ、また別なる「他者」へと拡張されることをつうじて漸進的に「普遍化」可能なもの

としてある、と25。そしてローティのいう「普遍性」、いや正しくは「普遍化」がそのようなものであるとするなら

ば、いまや以下のことも明らかであるといえよう。すなわち第一に、〈私の構想するリベラル・ユートピアは「アイ

ロニズムがその適切な意味で普遍的である」(CIS: XV)ような世界である〉との問題の言明は、ローティがリベラ

ルな社会の目標/ユートピアとして掲げるのは〈アイロニズムの普遍化〉にほかならないとの事柄を指すものであ

るということ。また第二に、その〈アイロニズムの普遍化〉が〈アイロニーの拡張〉と同義であるということ。と

いうのも、ローティにおいては「人間本性 human nature」といった非歴史的な契機に訴えることができない以上、

アイロニズムへの志向をもった人々を現実に拡張していくことによってしか、かかる「普遍化」は達成/創造され

ないからである。

それでは、かかる問題の言明の指示するところ明瞭になったとして、その含意は果たして何か。本節の最後に

我々はこの問題について考えたい。すなわち、まずローティにおいては何故、〈アイロニズムの普遍化〉が目指すべ

き目標とされるのか。それは、すでにみたように〈アイロニカルであることがリベラルであることの契機となりう

る〉、つまりアイロニーは「残酷さの回避」(リベラル)と結びつく契機とみなしうるからである。しかし、そうで

あるとすれば正しくは、つまり真に目指されるべき目標は〈「残酷さの回避」の普遍化〉ということになるが、つづ

いてはこう問わざるをえない。「残酷さの回避」は何故目標となるのか、と。

かかる問いは、ローティ/アイロニストに向けられた決定的な問いかけ―「なぜ、残酷であってはならないの

か」(CIS: x v)といった問いかけ―であるといえよう。というのも、「自分自身を生真面目に受けとめることがま

ったくできない」(CIS: 73)ローティ/アイロニストの懐疑は、自らの掲げる「正義」である「残酷さの回避」と

いう価値にも当然、差し向けられるはずだからだ。果たしてこの問いにローティは、どのように応じるのであろう

か。彼は次のように答えている―「残酷が恐るべきものであるという信念 beliefを、循環論に陥らずに理論的に

支えることは不可能なことである」(CIS: x v)。ここでいわれていることはふたつあり、後者が前者の理由になって

いるといってよい。すなわち、かかる問いに合理的な答えを与えることはできない。というのも、私/ローティに

おいて「残酷さの回避」とは、ひとつの信念/信仰、それも「終極の語彙」にほかならないからである、と。しか

しながら、ここまでローティの思想を吟味してきた我々としては、同じ問いにたいして、より積極的に次のように

応じることができる。すなわち、「残酷さを忌避する」という事柄こそが、「我々」の現在の居場所/出発点だから

である、と。そのようにいうのはほかでもない、「リベラル」である「我々」にとって「残酷さの回避」は、「強制

によらない合意」のもとで暫定的に担保された出発点にほかならないからである。つまりそれは、「我々」の経験

的/社会学的事実である点で、すでに「合意」されたものとみなしうるからである。そしてこの応答はまた、我々

が前節で残しておいた問いへの回答でもある。すなわち、これこそが〈ローティにあっては何故、自らを含む「リ

ベラル」たちが、何の因果か「残酷さを忌避する」という経験的/社会学的事実を認めることが肝要なのか〉につ

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いての回答にほかならない26。

それでは最後に、我々はこう問わねばならないだろう。そのような拡張/普遍化はいかにして可能となるのか。

なるほど、これももっともな問いである。けれども、かかる問いにたいしては、それは「連帯 solidarity」によって

であると明快に応ずることができる。

私が構想するユートピアでは、人間の連帯は「偏見」を拭い去ることや、これまで隠されていた深淵に沈潜

することによって認識されるべき事実ではなく、むしろ達成されるべき、ひとつの目標とみなされる。かかる

目標は、探求ではなく想像によって、すなわち見知らぬ人々を苦しみに曝された仲間とみなす想像力によって

達成されるべきである。連帯は反省によって発見されるのではなく、創造されるのである。かかる連帯の創造

は、遠くの他者の苦痛や屈辱の個々の細部にまで我々の感受性を拡張することによってなされる。(CIS: x vi)

引用に明らかなように、ローティは「他者の受苦への共感」を「残酷さの回避」という「正義」の「理由」とし

て指定する。すなわち、我々の多くは他者の受苦に共感してしまっているという経験的/社会学的事実についての

認識をその根拠とする。しかしながらローティにおいて、この「他者の受苦への共感」は人間本性に起因する、

ア・プリオリな原理ではない。非歴史的な真理が実在するという形而上学的な見解を斥け、実践―「行為者の観

点の至高性 supremacy of the agent point of view」(PS: 88)―を旨とするプラグマティスト/ローティは、当然

そのような〈普遍主義〉の立場をとらないし、とることができない。繰り返せば、あくまでそれは「我々」の経験

的/社会学的事実であるにすぎない。このことはたとえば、サイモン・クリッチリーへのローティの応答に端的に

示されてもいる。

〔クリッチリーがそう述べるように〕私は「道徳的義務の根源を他者の苦しみについての感じ方に求め」よ

うともしていないし、その他のどういう「人間本性の普遍的事実」にもそういう根源を求めようともしていな

い。そういう感じ方というものはあるかもしれないが、それは実にさまざまであって―質の悪い連中の苦し

みには無関心であるかもしれないのであって―とても頼りになるものではない。人間の苦しみにはほぼ確実

に必要以上にぞっとする人々が、今日では実に多いという幸運にこそ感謝すべきだ。(Mouffe ed. 1996=2002:

81、〔 〕による補足は引用者)

したがってローティにおいては、現時点においてさしあたり有用であるように思われる道具/手段をつうじて、

「残酷さの回避」という「正義」の達成が目指される。つまり、我々の課題は、いかに想像力を駆使して「他者の受

苦への共感」という経験的/社会学的事実を、いまだ「我々」ではない「他者」へと拡張し―「連帯は創造され

る」―、「残酷さの回避」という目的を達成するかにあるのであり、かかる「事実」の合理論的、あるいは自然主

義的な「基礎づけ(正当化)」は必要でも有用でもない―「連帯は反省によって発見されるものではない」。この

ことは換言すれば、「(我々は何の所以か)残酷さを避けたいと感じる」ということ(経験的/社会学的事実)から、

「残酷さを避けるべきだ」ということ(規範/当為)が(当必然的には)導かれないということでもある。ゆえにロ

ーティは、すでにみたように、「残酷さの回避」の規範としての(合理論的)正当化を―それが基礎づけ的になる

という理由から―放棄し、それはただ自分を含めた「リベラル(「我々」)」にとっての究極的な信であると述べる

にとどめるのである27。

だが、そのうえでローティは、「残酷さの回避」という「正義」を達成するための実践的な契機/手段を、「心を

揺さぶる物語 sentimental story」を用いることをつうじてなされる「感情教育 sentimental education」の意義を

強調するというかたちで、より積極的に提起してもいる(HRS: 133)28。ローティによれば、「連帯という感情は必

然的にいかなる類似性や非類似性が私たちにとって顕著なものと感じられるかにかかわっており、何が顕著なもの

として感じられるかは歴史的に偶然な終極の語彙の働きに依存している」(CIS: 192)。だが、「我々(リベラル)」

にとっては「残酷さを忌避する」ことこそが、「終極の語彙」にほかならない。したがって、「伝統的な差異(種族、

宗教、人種、習慣、その他)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要ではないと考える能

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安部 R・ローティの「リベラリズム」

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力、私たちとかなり異なる人々を『我々』の範囲のなかに包含されるものと考える能力」(CIS: 192)を高めること

が主要な課題のひとつなる。かかるローティが提起する手段/方法が、しかし現実にどの程度、奏功するものであ

るのかについては、けれどもここでは論じることができない。

我々は以上、ローティの「リベラリズム」の構造の究明を、彼の主な概念や言明の吟味をつうじて試みてきた。

本稿を閉じるにあたってまずはその議論を若干の補足を加えながら要約しておこう。

1.「哲学」による公私の融合の試み、「哲学」とは「真理(実在)」を表象する、したがって「政治」や「倫理」

を基礎づける特権的な言語を探求する営みであるとする伝統的な考えを批判するローティは、公を〈「正義」をめぐ

る政治の語彙〉、私を〈個人の「善」をめぐる政治以外の語彙〉としてそれぞれ峻別する。

2.ローティにおいて「偶然性の承認」とは、「歴史主義」的な視座に則って導出された〈言語や自己存在の歴史

性と無根拠性を承認するという生の態度〉を指し、それが「リベラルな社会のメンバーの徳性」でもあるのは、「残

酷さの回避」という「我々(リベラル)」の「正義」の実践の契機となりうるからである。

3.「偶然性の承認」同様、「アイロニー」もまた、「残酷さの回避」という「我々(リベラル)」の「正義」の実

践の契機となりうる。したがってアイロズムの普遍化が、「我々(リベラル)」の「理想社会(残酷さの回避された

社会)」の実現のための手段として掲げられるのである。「我々(リベラル)」の目標はすなわち、あくまで〈「残酷

さの回避」の普遍化〉にこそある。

4.リベラルなエスノセントリストである「我々」にとって「残酷さの回避」という価値は(合理論的に)正当

化可能なものではなく、経験的/社会学的事実としての価値、あるいは究極的な信にすぎない。ゆえに、かかる価

値の普遍化は、「我々」を拡張すること、いまだ「我々」ではない潜在的な「我々」、すなわち「他者」との「連帯」

―「他者」への想像的な同一化や共感―をつうじてなされるしかない。つまり「他者」とのあいだの多種多様

な差異を、ともに傷つきやすく脆い存在であるという点での類似性と比較するならばそれほど重要ではないと考え

る能力を高めていくしかない。アイロニーがその主要な手段となるのは、「我々」同様、「他者」の抱く価値や信念

も偶然的なものにすぎないとして、つまりその本質的な差異がアイロニカルに否定されることによって、「苦痛を不

快と感じる存在」であるという「我々」と「他者」との類似性が前景化されることになるからである。

以上をふまえたうえで、最後に我々が提起しておきたい疑問/論点は、次のことである。すなわち、Ⅰ節におい

てみたように、ローティの〈公私の分離〉は、私的な価値と公的な価値の区分を主張するものであった。そして自

らのそうした規定にしたがって、〈私的なアイロニー〉と〈公的なリベラル〉は共約不可能であるともされていた。

だが、本稿の議論をつうじて我々が確認しえたことは、〈アイロニカルであることがリベラルであることの契機とな

る〉ということ、すなわちアイロニーは「残酷さの回避」(リベラル)に結びつく契機とみなしうるということであ

った。とすれば、ローティによるアイロニーとリベラルの区分―その共約不可能性―は、適切なものではなか

ったとはいえないか。つまり、ローティは自ら〈公私の区分〉に抵触しているとはいえないか。

かかる疑問への応答、あるいはその是非については、けれども今後の課題として先送りにし、ここではまた別の

課題を、本稿を書くことをつうじて生まれた私じしんの課題として銘記しておきたい。すなわち、小泉義之が喝破

するように、我々が抱く「信の内容に絶対性があるはずもない」が、その絶対性は「信の作用を突き詰めて探され

るべきである」(小泉 2006: 130)とするならば、それぞれの「信の内容の真偽ではなく、信の作用の真偽」(小泉

2006: 124)こそが賭金となるべきなのではないか。この問いかけ―氏一流の挑発―をなるほどと思う、という

のもいわれてみればそう思ってこれまで生きてきた気がする私は、けっして死によって証されるのではなく、「そう

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Core Ethics Vol. 4(2008)

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信じているおかげで現に生きていけるような……そう信じなくなってしまえば、生きていけなくなって死んでしま

うような信」(小泉 2006: 126-127)の候補のひとつとして躊躇なく「残酷さの回避」を挙げたいと思ってしまう、ほ

かでもない「この」私にたいして、かかる信の強度にともなう実践をつうじて自らの信仰の証を立てることこそを

要請しなければならない。

1 ローティ教授は、去る2007年6月8日にご逝去なされた。この場を借りて、謹んでご冥福をお祈り差しあげるとともに、僭越ながら本

稿をローティ教授に捧げたい。

2 以下、ローティのテーゼとしての「公私の区分」を指す場合には〈公私の区分〉と表記する。

3 ローティによれば、以下にみるような形而上学の想定/伝統は、近代哲学認識論や分析哲学にも継承されている(see. PMN)。ここで

は、かかる想定/伝統を汲むものを総称して「哲学」と表記する。

4 以下、(略号: 頁数)にて示されるローティからの引用/参照は拙訳を用いた。略号とそれに対応する文献は巻末の文献表を参照のこ

と。

5 「真理がそこにあるということ―真理が人間の精神から独立して存在すること―はありえない。文がそのようなかたちで存在し、

そこにあるということはありえないからである。世界はそこにある、しかし世界の記述はそこにはない。世界の記述だけが真か偽になり

うるのである。世界そのものじたいは―人間存在が記述行為によって補助しなければ―真や偽になりえない」(CIS: 5)。

6 「語彙」はローティが頻繁に用いる語であるが、独自の定義が付されているわけではない。したがって、それらが用いられる文脈を勘

案して辞書的に、つまり「特定の人物や集団の目的に応じて用いられ、理解される単語の総体」と理解してよいだろう。

7 ローティはかかる「リベラル」の定義をジュディス・シュクラーに負っている(CIS: xv)。だが、シュクラーのいう「残酷さ」とロー

ティが指示するところのそれは同じではない。この点については、たとえば齋藤(2005: 75-77)。

8 「リベラルな理想社会とは、……希求される唯一の人間的自由が、アイザイア・バーリンのいう『消極的自由』であるような、つまり

そっとしておかれることであるような社会だろう。」(PP-3: 322)

9 本節以下の議論は、『哲学と自然の鏡』と並ぶローティの主著である『偶然性・アイロニー・連帯』の読解にもとづいている。同書は、

第一部を「偶然性 contingency」と置き、そこに「言語の偶然性 the contingency of language」、「自己の偶然性 the contingency of

selfhood」、「リベラルな社会の偶然性the contingency of a liberal community」の各章が順に配されている。

10 したがって、ここでの素描は後の議論とかかわる点に限定される。ローティの「偶然性」概念をめぐり丁寧な検討を展開している論考

として米永(2002)。

11 バーナード・ウィリアムズが明確に指摘しているように、たとえば「何故、別の立場ではなく、この立場を我々は採用しているのか」

という問いにたいして、「この立場」を正当化してくれる議論をもちだして応ずるのではなく、歴史的な物語を考察することで応ずると

いうのが、ここでいう「歴史主義」的な観点である。つまりその観点は、「この立場」の「別の立場」にたいする優位性については論証

できないが、「この立場」が現にこうして「生き残った」ということを示すことはできる(Williams 2000: 487-488)。

12 ローティによれば、「〔真理の〕媒体としての言語という考えがいったん成立すると、言語は一つの目的を持つという考えが成立する」

(CIS: 16、〔 〕による補足は引用者)。

13 ローティにおいてメタファーと「再記述 redescription」は、ほぼ同義である。他方で、それらの対義語は「リテラル literal」である。

リテラルは、メタファーとは逆に、言語の「馴染みのある使い方」、「人々がさまざまな状況下で何を述べるかについて旧来の理論で対処

しうる使い方」(CIS: 17)を指す。

14 ローティはたとえば、次のようなフロイトの言を引用している。「我々はともすれば忘れがちである。じっさい、我々の人生における

一切のことが偶然であるということを。精虫と卵子の出会いによる我々の発生からしてすでに、その手の偶然であることを。……我々は

みな、(ハムレットの科白を思わせるレオナルドの意味深い言葉を借りるなら)『けっして経験されることのなかった無数の原因 causes

(‘ragioni’) に満ちている』自然 Natureにたいして、あまりにも尊敬を払わなさすぎる。/我々人間存在はひとり一人がそれぞれ、そう

した自然の『原因』が経験のなかにはいりこんでくる、無数にある実験のひとつなのである」(CIS: 31)。また本書の議論とも密接に関

連するローティのフロイト論として、Rorty, [1986] 1991, “Freud and moral reflection” ([PP-2]に再録)のほか、Rorty, 1980, “Freud,

Morality, and Hermeneutics”がある。

15 「哲学にたいして詩が公然と勝利をおさめた文化において、つまり必然性ではなく、偶然性の承認が自由にかんする広く受容された定

義であるような文化において、……そこでは、有限性にいだかれる悲哀感などないだろう。しかしながら、そのような文化が可能になる

ことなど、ほとんどありそうもない。かかる〔有限性にたいする〕悲哀感は、おそらく消し去ることが不可能なものなのだ。」(CIS: 40、〔 〕

は引用者による補足)

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安部 R・ローティの「リベラリズム」

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16 「自分自身を自らの用語で理解するという理想……を代わりに据えたとしても、そのような意志は結果というよりはむしろ企図、すな

わち十全に完遂するには生があまりにも短すぎるような企図にとどまるだろう。」(CIS: 40)

17 同じ引用につづけてローティは述べている。「以上によって想い起こされるのは、私的言語は存在しないというウィトゲンシュタイン

の論点である。すなわち、なにか非言語的な意味、つまり使用済みの一群の言葉やすでに書かれた詩の一群以外の何ものかと対照させる

ことによって、言語や詩に意味を与えることは不可能であるという議論にほかならない。」(CIS: 41)

18 このことは次の引用により直截に示されている。「……〔ニーチェのような〕最も強い詩人でさえ自分の先人に寄生しているのと同様

に、そして彼女でさえ自分自身のうちのほんのわずかな部分しか生み出すことができないのと同様に、彼女は未来に存在する見知らぬ

人々の好意にも依存している」(CIS: 41、〔 〕による補足は引用者)。そして齋藤純一の以下の言は、そこにある含意をより明示したも

のといえるだろう。「思考や行為における「運動の自由」は他者との〈間〉において可能となるものであり、その条件を離れることはで

きない。私の思考や行為をそもそも可能にする言語は、すでに私たちの〈間〉にあるものであり、私が排他的に所有しうるものではない。」

(齋藤 2005: 71)

19 徳倫理は一般に行為者中心の倫理説とされているが、それは「正しい行為」にも関説するものである。かかる指摘を含む、徳倫理学の

精査として神野(2002: 185-220)。

20 本節以下そして次節における議論の一部は、安部(2006、2007)にてすでに論じたことがあり、したがって議論の重複している箇所が

ある。

21 このような「残酷さの回避」という規範と経験的/社会学的事実との結びつきの指摘をはじめとした興味深い議論として北田(2003:

114-118、127-137)。

22 「終極の語彙」とは、「自らの行為、信念、生活を正当化するために使用する一連の言葉」である。それは「その言葉の価値が疑われ

たときに、その言葉の使用者は循環論法に陥らざるをえない」という点で「終極」であるとされる。(CIS: 73)

23 ローティの「リベラルなアイロニスト liberal ironist」とは、かかる両立可能性をあらわすための術語にほかならない。

24 したがってローティのいう「エスノセントリズム」は、いわゆる「自民族/自文化中心主義」と混同されてはならない。それは、「普

遍的な真理や合理性を立てること(普遍主義・絶対主義)でもなく、複数の真理や合理性の横並び状態(相対主義)に陥るのでもない、

第三の考え方を表すローティ独自の用語」にほかならない(入不二 2007: 252-253)。また、その点とも関連しつつ、本文でも参照したロ

ーティの「我々」をめぐる入不二の指摘はさまざまに示唆に富むものであり、―その通俗的な誤解を避けるためには―きわめて有益

である(入不二 2007、同書第7章の脚注5)。

25 本文における「開放性(本来の要因)」の説明箇所に明らかなように、それは「『普遍性』を措定しえない『普遍化』の運動」(入不二

2007: 254)にほかならない。

26 ヒラリー・パットナムは、我々がここで述べたその同じことを、また別の言い方で論じている(see. Putnam 2004=2007: 154-155)

27 その意味で、ローティにおいて「他者の受苦への共感」は「賭けるに値するオプションとして推奨」されているにすぎないともいえる

(北田 2003: 131)。

28 かかる「物語」として、たとえばローティが挙げているのは、アイキュロスの『ペルシャの人々』、ハリエット・ビーチャー・ストウ

の『アンクル・トムの小屋』、あるいはボスニアでの集団殺害を流すテレビ番組である。またローティの教育論の検討として柳沼

(2001)。

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The Logical Structure of Richard Rorty’s Liberalism

ABE Akira

Abstract:

In this paper I make three points about the logical structure of Rorty’s liberalism.

1) Rorty criticizes the traditional philosophical attempt, namely, “the attempt to fuse the public and the

private.” This requires us to acknowledge a common human nature, which Pragmatists do not think exists.

Therefore, Rorty makes the distinction between justice as public rules and private good. He also regards justice

as “to be liberal,” namely, “avoiding cruelty.”

2) “The recognition of contingency” means recognizing that language and self are historical and groundless.

Rorty says “such recognition is the chief virtue of the members of a liberal society.” By recognizing language

and self as contingent, one will have a relative view of oneself and one's own beliefs, and will not eliminate

others and their beliefs.

3) Rorty says that, in his liberal utopia, “ironism, in the relevant sense, is universal.” “Irony” in his sense is to

be skeptical about oneself. He thinks irony is linked with avoiding cruelty as is “recognition of contingency.”

The justice of liberals can be universalized only by solidarity, namely, by gradually expanding our sympathy

with others.

Keywords: Richard Rorty, Liberalism, public-private distinction, contingency, solidarity

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