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Peter Burke

A SOCIAL HISTORY OF KNOWLEDGE ⅡFrom the Encyclopédie to Wikipedia

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知識の社会史2―百科全書からウィキペディアまで*目次

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謝辞 8

序文

9

社会史 

諸知識

第一部 

知識の実践

第一章 

知識を集める

22

知識を集めること  

第二の発見時代  

科学的遠征調査  

第三

の発見時代?  

過去の文化をもとめて  

時間の発見  

測量  

標本の蓄積  

フィールドワークの多様性  

観察のさまざま  

話を聞くことと質問すること  

質問票  

録音  

ノートとファ

イル  

保存書庫  

結論

第二章 

知識を分析する

80

分類すること  

解読すること  

再建(復元)すること  

評価  

年代決定  

計数と測定  

記述すること  

比較すること  

明すること  

解釈すること  

物語ること  

理論化すること

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第三章 

知識を広める

134

話すこと  

展示すること  

書くこと  

定期刊行物  

書物  

視覚教材

第四章 

知識を使う

171

検索すること  

有用知識という考え  

実業と産業のなかの知識  

戦争における知識  

政治における知識  

帝国における知識  

大学における知識  

他の代替的教育機関  

収束現象

第二部 

進歩の代価

第五章 

知識を失う

216

知識を隠すこと  

知識を破壊すること  

知識を捨てること  

図書館と百科事典  

思想を捨てること  

占星術  

骨相学  

超心理学  

人種と優生学

第六章 

知識を分割する

249

博識家の没落  

科学者の出現  

学会、専門誌、集会  

学問分

野  

専門家と専門的技術  

領域  

学際的研究  

共同作業  

危険にさらされた種の生存

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第三部 

三つの次元における社会史

第七章 

知識の地理学

288

微視的空間  

知識を国有化すること  

学問の共和国  

中心と

周縁  

辺境からの声  

移民者と亡命者  

非国有化する知識  

知識を世界化すること

第八章 

知識の社会学

338

知識の経済学  

知識の政治学  

大国vs小国  

圧力を受ける学

者  

中央集権化の始まり  

知識と戦争  

研究の後援者として

のアメリカ政府  

知識労働者の多様性  

労働者階級  

知性あ

る女性たち  

組織と革新  

思想の学派

第九章 

知識の年代学

383

知識の爆発的増加  

世俗化と反世俗化  

短期間の動向  

知識

の改革、一七五〇─一八〇〇年  

知識革命、一八〇〇─一八五〇

年  

学問分野の興隆、一八五〇─一九〇〇年  

知識の危機、一

九〇〇─一九五〇年  

技術化する知識、一九四〇─一九九〇年  

再帰性の時代、一九九〇年─

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訳者あとがき 430

注 460

参考文献 507

事項索引 516

人名索引 534

  

装幀/虎尾 隆

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謝辞こ

のたびの研究成果は多くの研究機関の援助によって得られた。とくに大半の仕事の場となった

ケンブリッジ大学エマニュエル・カレッジと二〇一〇年秋に人文学研究所の客員研究員として過ご

したロンドン大学バークベック・カレッジ、いずれ対しても本書の構想の一部を出版に先立って発

表させていただいたことを感謝している。さらに本書であつかう広範な話題のさまざまな局面につ

いて、ブリュッセル大学、グローニンゲン大学、モントリオール大学、ニューヨーク大学、シェフ

ィールド大学、サセックス大学で講演させていただいたことを感謝する。二〇〇二年ケンブリッジ

大学で開催されたCRASSHワークショップ「ヴィクトリア朝イギリスにおける知識の組織化」

の主催者にもお礼を述べたい。

多くの研究者や友人にも感謝の言葉を述べたい。十九世紀、二十世紀を含む研究計画を共同でお

こない、近代初期から抜け出すことを容易にしてくれたアーサ・ブリッグズと妻のマリア・ルシア

に感謝する。マリア・ルシアと旧友クリス・ストレイの二人は草稿を読み、多くの有益な助言をも

たらした。妙案、勇気、参考文献を与えてくれた、フィリッポ・デ・ヴィヴォ、アクセル・ケルナ

ー、ジェニー・プラット、そしてアンヌ・サルミにも有難うと言おう。

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9︱

序 文

「知識の歴史はいまだ書かれていない」。経営理論家で未来学者でもあるピーター・ドラッカーは

一九九三年にこう断言し、この主題が「ここ二、三十年のうちに」重要な研究領域となると予言し

た)((

。ドラッカーもこのときばかりは少々時流に遅れていたようで、知識の歴史への関心はその当時

すでに広まりつつあった。『知は力なり』(K

nowledge is Pow

er, (989

)とか、『知識の諸分野』

(Fields of Know

ledge, (992

)、あるいは『植民地主義とその知識形態』(Colonialism

and its Forms of

Know

ledge, (996

))2(

といった表題の書物が歴史家によって書かれていたからである。

『知識の社会史―グーテンベルクからディドロまで』(二〇〇〇年)を書いた頃、私は「知識社

会学」の草分け的存在であるハンガリー人、カール・マンハイムに先んじて目をつけ、長年関心を

抱いてきたことを自負していたけれど

)((

、振り返って考えてみると、明らかに、私はドラッカーの予

言を誘発した「知識社会」(本書三三八頁)をめぐるその当時の論争に、自覚的であれ無自覚であれ、

影響を受けた多くの研究者のなかの一人にすぎなかった。一九九八年、すでに二人の著者がこの主

題について「知識志ブ

ーム向

」と表現していた

)((

。二〇〇〇年以降、この傾向はさらに強くなり、出版状況

にだけでなく、研究課テ

ーマ題

に反映することも多くなった。その傾向は特にドイツ語圏に限られるわけ

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︱ 10

でもない。

本書はこれだけで読んでもよいし、『知識の社会史―グーテンベルクからディドロまで』の続

編として読んでもかまわない(いずれ両者を併せて『知識の社会史―グーテンベルクからグーグ

ルまで』のタイトルで改訂版を出したいと考えている)。本書を書いたきっかけは、「われわれはど

のような道をたどって、現在の知識全体を得たのか?」という問いに対して答えてみようという個

人的な好奇心であった。折しも大学を退職し、職業が強いる「授業時間」と「専門分野」から解放

されたこともあり、以前よりもこの好奇心に没頭することが容易になった。

『グーテンベルクからディドロまで』を引き継いで、本書では、『百科全書』(一七五一―六六年)

からウィキペディア(二〇〇一年)にいたるまでの、学問の世界における全体的な変遷を概観する。

主題とするのは、〔知識の〕処理(processes

)であり、とりわけ、定量化(quantification

)、世俗化

(secularization

)、職業化(professionalization

)、専門化(specialization

)、大衆化(dem

ocratization

)、

グローバル化、そしてテクノロジー化に焦点を当てる。

だが、互いに対抗し合う傾向を忘れてはならない。実際のところ、この論考に主題があるとした

ら、それは正反対の方向に向かおうとする、ときおり拮抗状態が崩れて不安定になることもある、

諸傾向の共存と相互作用の重要性であろう(本書二七五、三二八、三八八頁)。知識の国有化

(nationalization

)は国際化(internationalization

)と、世俗化は超俗化と、職業化はアマチュア化と、

標準化は個別注文方式(custom

-made products

)と、専門化は学際的共同研究(interdisciplinary

projects

)と、そして大衆化はそれを抑えようとする反動と共存している。知識の蓄積でさえ、あ

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る程度は知識の喪失によって相殺される。このなかでテクノロジー化だけは、深刻な反作用を受け

ずに邁進しているように思われる。

一般的にいえば、知識の諸様相に関する歴史は、他の多くの歴史の場合と同様に、国家的な枠組

みのもとで書かれる傾向があり、読者に対して自国民の業績についての印象をことさら誇張して与

えることが多い。極地探検を例にとってみよう。これについてイギリス人ならロバート・スコット

やアーネスト・シャクルトンを考えるだろうし、アメリカ人ならロバート・ピアリを、ロシア人な

らオットー・シュミットを、ノルウェー人ならフリドショフ・ナンセンやロアルド・アムンゼンを、

スウェーデン人ならアルフレッド・ナトールストを、フィンランド人ならアドルフ・ノルデンショ

ルドを、デンマーク人やグリーンランド人ならクヌド・ラスムセンを思いつくだろう

)((

。国家的な

偏バイアス向

を何とか避けようと思い、本書では分かりやすい比較的手法を採用するつもりだ。

本書では西欧を中心に扱うが、「五大国」つまりイギリス、フランス、ドイツ、ロシアそしてア

メリカ合衆国に話を限定するようなことはせず、他のヨーロッパ諸国やラテンアメリカの話も盛り

こむようにしたいと思う。たとえばオランダのような小国でも、自国の知識の歴史に関する膨大な

研究―植民地の知識、科学史、博物館の歴史など―がなされている

)6(

本書で通覧する広域にわたる話題のさまざまな局面に関して、これまで多くの傑出した専門書が

刊行されてきた。とくに科学史の分野において顕著である。こうした専門書のほとんどは、単一の

学問分野の歴史に限定されている。だが本書では、前述した国家的な偏バ

イアス向

ばかりでなく、専門分野

固有の偏向を避けるためにも、比較という手法を用いるつもりだ。以下に書くことは全般的な総合

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(general synthesis

)の試みであり、精髄だけを凝縮する仕事(distillation

)であり、あるいはより正

確には、科学史家が言うところの「仲間の歴史家たちの研究を集めてきて、そこから略奪し

(raiding)、組み直し(rearranging

)、そしてときおり改変(revising

)すること

)((

」である。他のもの

と比べるとこれまで研究者からの注目が極度に低かった話ト

ピックス題

もあることから、空隙を埋めることも

この仕事のもう一つの側面である。そのため、異なる地域や異なる分野の研究成果をつなぎ合わせ

ることも本書の仕事となる。

重要なことは、専門家にはしばしば見えない全体像、つまり専門化という現象それ自体をもとり

こむような、全体的描写を含む描像を提供することである。一七五〇年から二〇〇〇年にいたる期

間の全体図は、私が学問人生の大半をその研究にささげた、近代前期の一四五〇年から一七五〇年

までの全体図との比較によって明確なものとなるだろう。だが近代前期と後期との連続性を忘れて

はなるまい。とりわけ今では「情報過多

)8(

」として知られる現象に関して、近年とみに問題意識が高

まってきている。私の望むことは、あまり互いに語り合ったりしない二種類の学者、すなわち近代

前期と後期の歴史家の間に対話を促すことである

)9(

本書の題名から、あらかじめ二つの疑問―「社会史とは何か」「知識とは何か」―に答えて

おかなければならない。

社会史

第一に「社会的」という言葉には明らかに問題が多い。ここでは、これから述べる、おもに一七

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五〇年から二〇〇〇年にいたる時代の総合的な精神史(intellectual history

)とは区別するために、

この言葉〔社会史〕を用いることにする。

精神史において重要と思われる思想家たちのことを語らないわけにはいかないだろう。彼らは実

際に違いをもたらしたが、そのなかから八百人ほどの者に言及する。多すぎると思う読者もいるだ

ろうが、全体的な流れを人名なしで語るよりはいいだろう。同じように、この研究の主人公は、社

会学者が「知識関連団体」(know

ledge-bearing groups

)と呼ぶ人びとである。特にあつかうのは、

小さくて閉鎖的な、互いに直接交流のある集団(face-to-face groups

)ではなく、共通の目的をもっ

て定期的に会合を開き、規則にしたがい、僧侶から教授、総理大臣から会社重役にいたるさまざま

社会的役割を生み出すような人間集団として理解されている、「知識生成機関(組織)」(know

ledge

generating institutions

)を中心に扱うことになるだろう

)(((

ポーランドの社会学者フロリアン・ズナニエツキが「知識人の社会的役割」について書いている

が、その問題領域において、本書では知性のある人びとの多くの社会的役割に関心をもつことにな

る。大学、文ア

ーカイヴス

書館、図書館、博物館、頭シ

ンクタンク

脳集団、学術学会(learned societies

)、そして科学専門誌

のような知識組織が生み出すさまざまな役割に関わることになるだろう。知識が制度化されてゆく

過程もまた論ずることになる

)(((

本書では、思想を語らないというわけではない―制度を理解するうえで思想を省くことはでき

ないのだから―、ただ、思想の内在的歴史より外在的歴史を、知的な問題より知的な環境の方を

重視するということだ。例を挙げるならば、アルバート・アインシュタインの相対性理論を語るの

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ではなく、彼がかつて属したプリンストン高等研究所の方に重点が置かれるだろうし、エドワー

ド・トンプソンによる英国労働者階級の成立に関する研究よりも、彼のなしたウォーリック大学批

判の方が注目されるだろう。

仲間の集団であれ、競合しあう集団であれ、直接に交流する小規模の集団に注目することになる

だろう。というのもこのような集団は、いい仕事をしても個人のみが称賛されるようなことが多か

ったからである。たとえば、十九世紀後半までは英雄的探検家の神話が生きていた(以前ほどでは

ないにしても)が、「探検の主体は集団であって、決して個人ではなかったのだ

)(((

」。ふたたび時が経

って、実験研究はますます集団によってなされるようになってきたが。

簡潔にいうならば、これから述べる話は、古い時代の考古学史の方法にしたがった、人類学、地

図学あるいは医学などに関する社会史であると言える

)(((

。本書は知識の歴史社会学としても書かれて

いる。知識というものを世間から隔絶されたものと考える伝統的な学者とは違って、本書は、社会

学者と同様に、知識が実験室、天文台、図書館や象牙の塔のなかに位置づけられている、という事

実に重きをおく。学者というものは余念なく仕事に集中するため「自分だけの空間」を必要とする

けれど、その隔絶性は相対的なものでしかない。第四章で述べることになるが、学問の成果はしば

しば世間のために役立つことが多い一方で、研究者たちは世間を政治ともども実験室のなかに持ち

こんでいるのである。

本書はそれゆえある節のタイトルと同様に「知識の政治史」と名づけてもよかったかもしれない。

だがそれでは、本書の目的が広範になりすぎ、「社会的」という言葉で狭い意味での社会史だけで

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なく、経済史や政治史をも含めようとしている事実にふさわしくなくなる。他にも、知識資源をも

とめる競争、知識の差異化(differentiation

)、個々の研究機関や分野にとっての好ましい環境なり

社会的地位(niche

)、あるいは博識家(polym

ath

)のような種類の学識者、こういった事柄への関

心を考えると、本書を「知識の歴史生態学」としてもよかったかもしれない

)(((

(本書二四九頁以下)。

考えられる第三のタイトルとして、「知識の文化史」もありえた。「知識の諸文化」(あるいはド

イツ語の W

issenskulturen

を訳した「知的諸文化」)という用語は、最近ますます使われるように

なっており、知識概念を複数形で表現することにより、確かに使い勝手のよいものとなっている

)(((

以下に述べる内容は、観察、地図製作、文書記録などの知的行為、すなわち文化的とも社会的とも

言い表わされる行為に関わることが多い。だが(知的)制度に重点を置いている点からすれば、

「社会的」という表現が必要となる。すでに半世紀も前に成立した知識社会学の伝統をあわよくば

再興するというさらなる利点もあるからだ。

諸知識

第二に、「知識とは何か」という問いを考えよう。この問いは、フランシス・ベーコンによると

「答えなど期待しないならず者の戯れ言」である「真理とは何か」という問いに嫌になるほど似て

いる。踏むべき第一の段階は、ポーランド人の人類学者ブロニスラフ・マリノフスキーが「情報を

そのまま集めただけの素材

)(((

」(the brute material of inform

ation

)と呼んだものと知識とを区別する

ことであろう。「われわれは情報の海に溺れている」と聞かされるけれど、「情報に飢えてもいる」。

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︱ 16

われわれは「情報の巨人」になることもできるが、「知識の小人」になりさがるリスクも背負って

いる

)(((

。もう一人同じ人類学者のクロード・レヴィ=ストロースの有名な隠喩を用いて、知識は「調理さ

れたもの」であるけれど、情報は「生な

のもの」であると考えることは役に立つかもしれない。もち

ろん、「データ」というのは客観的に「与えられるもの」ではなく、さまざまな仮定や偏見をもち

こんでしまう人間精神が知覚したものであるのだから、情報が「生な

」だと言っても、相対的な意味

で言っているのである。それでも知識は処理されるという意味では「調理される」ことになる。こ

の処理には、第二章でたっぷり議論する、検証、批評、測定、比較そして体系化といった過程が含

まれている。

諸知識あるいは知識の伝統は、すでに一九七〇年代に哲学者ミシェル・フーコーがしたように、

複数形で考えられねばならない。確かに単数形で捉えられることも依然として多く、よく知られて

いる知識がすべてであると考えられがちではあるけれども。ドラッカーを再び引くと、「われわれ

は知識から諸知識へと見方を変えてしまった

)(((

」のである。首都の道ト

ポグラフィ

路網くらいの意味で「知識」を

語るロンドンのタクシー運転手は、不当にも(オクスフォード大学〔で最も古い〕ベーリアル・カ

レッジ学長である)ベンジャミン・ジョウイットが言ったとされる「わたしの知らないことは知識

ではない

)(((

」と尊大に考えるわずかの連中とはまったく違う人間なのである。諸知識は二種に大別さ

れる。明示的なものと暗示的なもの(あるいは暗黙のもの)、純粋なものと応用的なもの、地域的

なものと普遍的なもの、などである。技ス

キル能

の歴史はめったに書かれることはないものの、「方法の

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17︱序 文

知識」(know

ing how

)は明らかに「事物の知識」(know

ing that

)に優るとも劣らぬ地位をもつ

)(((

。同

じように、被支配的あるいは隷属的な諸知識(savoirs assujettis

)は、支配的な諸知識の下位にある

のではなく、同等の価値がある

)(((

。「知識とは何か」という問いには政治的側面がある。誰が、知識

とは何か、を決める権威をもつのだろう?

本書は西欧における知識に関するものであると同時に、おもに学術的な知識をあつかっている。

それゆえもっと正確なタイトルをつけるならば「西欧の学術知識の社会史」となるだろう。だがこ

のタイトルでは長ったらしいだけでなく、この種の知識だけを他から分離して扱っているような、

誤った印象を与えてしまう。

実際、さまざまな知識が相互作用することこそ、本書の中心的テーマである。だから、探偵やス

パイが何度も登場するし、政府機関や共同体にふれることも多いだろうし、化学、経済学、地質学

などの新しい学術分野と、薬局、商人、鉱夫などの実践的な知識との間の結びつきについての議論

も紹介することになる。たとえばアダム・スミスはグラスゴーの政治経済クラブの一メ

ンパー員

であった。

スミスは名著『国富論』(一七七六年)を書くにあたって、クラブの商人たちとの会話から多くの恩

恵を受けた。事実、英国における経済学の発展は「学術的なものや他の公的な知識とほとんど無関

係に」なされたのである

)(((

学術研究と諜

インテリジェンス

報活動とは、とくに戦争時に限らず、しばしば境界を超えて交流する。アメリ

カでは、戦時戦略が大勢の教授を輩出している(本書一一九頁以下)。英国では、スペイン研究への

傑出した寄与で知られるピーター・ラッセルは、一九三〇年代には諜報機関に加わっていたし、一

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︱ 18

方、芸術史家のアンソニー・ブラントは、英国情報局保安部(MI()とソ連の同様の機関である

NKVDの両方で働いていた。

地理学に話題を移すならば、本書は西欧とアメリカに焦点を置いてはいるものの、世界の他の地

域、たとえば十九世紀のエジプト、中国、日本などについても議論することになる。なぜこれらの

地域を論ずるのかというと、この時期、西欧の知識が外部世界へと広がったからである。もちろん

ここでの「広がる」という言い方は、移動するものが不変であると思われて、決して適切な表現で

はない。むしろ、西欧をこえた地域の個人や集団が、西欧の知識を流用して(appropriate

)、それ

ぞれの目的にあった形に変容させたと考える方が現実的である。第二に、西欧をこえた地域には、

西欧ではつい最近になってその重要性が認識されるようになった逆方向の人的移動(traffi

c

)があ

るため、この地域について論ずる必要がでてきたのである。たとえばこの時期の探検家は近代初期

と同様に、現地の案ガ

ド内人と地図に依存していた。植物学者や言語学者などの学者たちが、たとえ結

果として自分で何かを「発見」したとしても、現地依存という点では変わりはないのである

)(((

本書の主題は広範に及ぶものであり、数十万語程度の書籍一冊におさめることは困難であること

は明白である。だからわたしが主題を論じるだけでなく、情報をつめこみすぎているなどと読者が

感じないことを願うばかりである。その広範な話題の概あ

らまし略

を述べるならば、どちらかといえば思い

がけない発見を優先していて、ゆっくりと辛抱強く知識を蓄積した末にやがて主流の解釈方法とな

ったものについてはあまりふれていない。本書が個人的な観点から書かれていることもまた明らか

である。わたし自身の知識に関する知識といえば、控えめにいっても決して公平なものではないし、

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19︱序 文

自然科学についても公平に扱おうという気持と、わたしが精通している芸術史から人類学にいたる

分野の事例研究に目を向けようとする気持のあいだで何度も心が揺れ動いた。本書で扱う期間の二

〇%にあたる、ここ半世紀ほどの時代に知識の領域でおきたさまざまな変化を生き、そして関わり

をもち、歴史学という視点から、そしてオクスフォード、サセックス、ケンブリッジ大学という三

つの場所からそれらの変化を眺めてきた、という理由でも、本書の試みは個人的なものにとどまる。

換言するならば、以下の話は長いものではあるけれど、試論と見なすべきなのである。広範な主

題の基本的な問題を網羅したなどと言うつもりはさらさらない。全体を見渡す鳥瞰図を提供してい

るにすぎない。ある意味で本書は試論の連続のようなものだ。最初の四章は、知識の収集、分析、

分類、利用といった処理に焦点をおく。これらの活動は不変のものと思われることが多いが、その

歴史性を強調するつもりである。第五章と第六章では、知識の連続的進歩、あるいは「学問の進

歩」というよくある思い込みに対して、知識の蓄積について問題点を認識することで反論を試みる。

第七章と第八章は、地理学、経済学、政治学、社会学の観点から知識の歴史を吟味するが、最後の

章では本書の本質的な関心である、知識の継時的変化についてより明確にすることになるだろう。

専門化の動向は、知識の歴史ばかりでなく歴史記述自体にも影響を与えてきた。たとえば科学史

は多くの大学で独立した学科となっている。さらに国際諜報史学会(International Intelligence

History A

ssociation

)が設立され(一九九三年)、『諜報史雑誌』(Journal of Intelligence H

istory

)も刊

行されるようになった(二〇〇一年)。知識の歴史に関する二次文献はその大部分が、国別、分野別

に編成されているが、それと比べるならば、本書の狙いと執筆理由は、まさにそうした境界、つま

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︱ 20

り国家的、社会的、分野的な境界を横断することにあるのだ。E・M・フォースターの助言

「たオ

ンリー・コネクト

だ結びつけよ」を念頭におきつつ、諸知識の多重奏的歴史を、多元的視点から眺めた歴史を書

きたいという希望から、アビイ・ワールブルクが知的な「国境警察」(border police

)と呼んだもの

の網をかいくぐろうと思う。

本書では、知識に対して特定の態度をとることも、ましてや一つの方針さえ推奨してはいないけ

れど、知的な対話や対立でさえ理解を生み出すことにつながるという理由から、知識というものが

人びとの意見と同様に複数存在することが好ましいと信じている、という意味で、本書の著者が多

元論者であることを読者は知っておいてほしい。

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第一部 

知識の実践

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︱ 22

第一章 知識を集める

知識の社会史を語るのであれば、さまざまな集団の人間が、知識を獲得し、処理し、普及し、利

用する、その方法に関心をもつ必要がある。知識に対するこの一連の行為は、諜報活動の世界――

つまりスパイ稼業――では、ときおり四つの段階に区分されている。すなわち、〔情報〕収集、分

析、広報〔ばらまき〕、そして実行である

)((

(あるいは、頭文字をとってCADA=collection,

analysis, dissemination and action

)。もちろんこれらの段階を完全に分離することは不可能である

)2(

収集あるいは観察は、無知な人間には無理である。人類学者のクリフォード・ギアーツが言ったよ

うに、「文化の研究においては、分析は対象自体に入りこんでくる」。この指摘は、ほとんどすべて

の事柄について「文化的構築」(cultural construction

)を語る学者が、決して誇張ではなく繰り返す

言葉である

)((

。知識の普及には分析が含まれていることが多い

)((

。これらの段階は時間に縛られること

はないように思われるが、それぞれの段階ごとに空間ばかりでなく時間のなかにも位置づけられ

る。こ

れら四段階は本書の第一部で順次検討することになるだろう。検討が進むにつれて、さらなる

区分が導入されることになる。この章では第一段階として、知識の収集または蓄積の過程に焦点を

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23︱第一章 知識を集める

当てる。

知識を集めること

知識というものが、海辺で貝殻を拾い集めたり、灌木や樹木から実をもいだり、あるいは蝶のよ

うに網をかけたりして得られるのであれば、知識の「収集」とか「蓄積」といった明白な隠喩は、

呪文のように働いてしまい、明らかに過度に単純化したイメージを生み出すだろう。同じことが

「狩猟」(hunting)や「捕捉」(capturing

)(今日の経営学研究では好んで使われる)などの隠喩につ

いても成り立つ

)((

。これらの言葉をここで用いることはあっても、買ったり、拾得したり、とりわけ

土地の人に質問をして情報を得ることはもちろん、探求したり(exploring

)、観察したり、調査し

たり(surveying

)、実験することなども含む一連の過程を手短に言っているにすぎない。

学術的な言語においては、この過程のことを「研究」(research

)する、と称する。一七五〇年以

前にもこの「研究」という言葉は用いられていたが、十八世紀半ば以降は、次第に多くの西欧の言

語において(recherches, ricerche, Forschung

など)、書物のタイトルに頻繁に用いられるように

なっていき、さまざまな知的分野、とりわけ、解剖学、天文学、政治経済学、人口統計学、地理学、

物理学、化学、古生物学、医学、歴史学、そして東洋学における探求を表わす言葉となっていった。

有名な例を少しばかり挙げてみよう。

一七六八年 

ド・ポー『アメリカ人に関する哲学的研究』(R

echerches philosophiques sur les