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龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー 2010 年度公募研究成果論文 No. 11-122012 1 31 日) 仏教と日本文化 — 日本文化のもつ仏道的価値とその現代的意義 岩本 明美 (龍谷大学アジア仏教文化研究センター2010 年度公募研究員,鈴木大拙館主任研究員) I 本稿の目的 II ゼンアーツを実践する仏教徒 III トゥルンパの生涯と芸術 IV チューギャム・トゥルンパ著作集第七巻 V トゥルンパのアプローチ VI ダルマアート(dharma art) VI. 1 ダルマとアート VI. 2 メディテーション VI. 3 日常生活におけるアート VI. 4 シンボリズム VI. 5 天地人の原理 VI. 6 生け花 VII 結び— ダルマアートと禅 凡例・参照文献 【キーワード】チューギャム・トゥルンパ、鈴木大拙、ダルマアート、生け花、禅文化、 禅芸術

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龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー 2010 年度公募研究成果論文

No. 11-12(2012 年 1 月 31 日)

仏教と日本文化

— 日本文化のもつ仏道的価値とその現代的意義

岩本 明美

(龍谷大学アジア仏教文化研究センター2010年度公募研究員, 鈴木大拙館主任研究員)

I 本稿の目的 II ゼンアーツを実践する仏教徒 III トゥルンパの生涯と芸術 IV チューギャム・トゥルンパ著作集第七巻 V トゥルンパのアプローチ VI ダルマアート(dharma art) VI. 1 ダルマとアート VI. 2 メディテーション VI. 3 日常生活におけるアート VI. 4 シンボリズム VI. 5 天地人の原理 VI. 6 生け花 VII 結び— ダルマアートと禅 凡例・参照文献

【キーワード】チューギャム・トゥルンパ、鈴木大拙、ダルマアート、生け花、禅文化、

禅芸術

I 本稿の目的

仏教は、今や欧米に浸透し、その根を深くおろしつつある。多種多様な仏教が、幅広い層にあ

らゆるレベルで実践されている。北米における仏教の受容のされ方には、興味深い点が少なくな

い。その一つは、日本の芸道・武道が仏教僧院やセンターの修行システムの中に組み込まれてい

ることである。禅とともに日本文化(禅文化)を広く欧米に紹介したのは鈴木大拙 (1870–1966)

であったが、現在アメリカでは、書道、華道、弓道、茶道などがゼンアーツ (Zen arts)とも呼ば

れ、プラクティスとして実践されているのである。

ゼンアーツの受容の背景には、1970年に北米に登場した、チベットの活仏転生者、チューギャ

ム・トゥルンパ・リンポチェ (1940–1987)の強い影響がある。本稿は、トゥルンパ師のアートに

関連する教説(ダルマアート)を紹介することを主たる目的とする。その教説は、ゼンアーツに

示唆を得たと言われていることを証明するかのように、大拙の禅思想と通底するものをもってい

る。その点に留意しつつ、今後我々は、トゥルンパのダルマアートと大拙の禅思想に基づいて、

現代ではほとんど忘れ去られてしまった日本の芸道・武道のもつ、仏道的価値を再評価すること

ができるであろう。ひいては日本文化のもつ今日的意義も明らかとなろう。本稿は、標題に掲げ

た研究の第一部をなすものである。

II ゼンアーツを実践する仏教徒

ではまず、アメリカでゼンアーツを組織的に実践する仏教徒とはいかなる存在なのか、この点

を把握しておきたい。

昨年、ケネス・タナカ著『アメリカ仏教 — 仏教も変わる、アメリカも変わる』(武蔵大学出版

会、2010年 5月 20日)が出版された。この著作によって、アメリカにおける仏教全般の現状や

その普及の歴史が、初めて総合的に日本人に紹介された。その中でタナカ氏は、アメリカの「仏

教徒」を、300万人くらいと見積っている。著者のいう仏教徒とは、自分が仏教徒であるという

意識を持ちながら仏教的な行為を行う者のことで、必ずしも仏教組織のメンバーであるわけでは

ない。一方、仏教的な行為を行うにもかかわらず、特定の仏教寺院やセンターとは深い関係を持

たず、自分が「仏教徒」であると断定していない、「仏教同調者」がおよそ 250万人存在すると

いう。さらに、仏教に影響されている者が、約 2500万人いると推定されている。

これらの数字だけでも仏教のアメリカへの浸透ぶりが窺えるが、300万人と見積もられる「仏

教徒」に限ってみても、その集団はまちまちである。タナカ氏は、仏教徒を次の四種に分類する。

1. 旧アジア系仏教徒、2. 新アジア系仏教徒、3. メディテーション中心の改宗者、4. 題目中心の

改宗者。1は、伝来から百年以上を経過した中国や日本からの仏教を継承するグループである。

たとえば、浄土真宗本願寺派のアメリカ仏教教会 (Buddhist Church of America)は、ここに属

2

する。2は、一九六〇年代後半以降、主として台湾、韓国、東南アジアから渡来してきた仏教徒

である。1ほどにはアメリカへ同化しておらす、そのグループではほとんどの場合、祖国の文化

が重視され母国語が使用されている。3は、禅・チベット仏教・東南アジア仏教の三系統のいず

れかに所属し、多くは、大学卒で中流階級以上であり、また大半が白人である。4は、題目を唱

えることに専念する SGI-USA(創価学会インターナショナル)の改宗者を指す。白人だけでな

く、黒人やヒスパニック、アジア系の多様な人種や民族からなる。またその所得層も幅広い。

さて、この四つのグループのうち、ゼンアーツを組織的に実践しているのは、第二のメディテー

ション中心の改宗者であり、主に白人からなるグループである。その代表的団体に、トゥルンパ

の創設した教団(現在、シャンバラ・インターナショナル)と、マウンテン禅院 (Zen Mountain

Monastery)を中核施設とする山川教団 (Mountains and Rivers Order of Zen Buddhism)がある。

後者、すなわちジョン・大道・ローリー (John Daido Loori, 1931–2009)が創始した、日本の

曹洞宗の流れを汲むマウンテン禅院の特色の一つは、八門からなる高度に組織されたトレーニン

グ基盤である。そのトレーニングの一環として、禅水墨画の創作や、弓道・尺八の稽古などが行

われているのである1。他方、トゥルンパからその長男に引き継がれたシャンバラ・インターナ

ショナルでは、三種の門 (three gates)あるいは道を提供している。三門とは、ヴァジュラダー

トゥ、シャンバラトレーニングそしてナーランダである。ヴァジュラダートゥが、もっとも伝統

的なチベット仏教の道である。一方、最も革新的なのは、シャンバラトレーニングであり、いか

なる宗教伝統とも結びつかない、世俗のスピリチュアルトレーニングの道である。ナーランダ

は、芸術と文化の統合による智慧の修習のための道である。この道において、生け花、茶道、弓

道などが修習されている2

III トゥルンパの生涯と芸術

次に、トゥルンパの生涯を芸術との関わりに留意しながら、簡単に述べておきたい3。

チューギャム・トゥルンパ (Chogyam Trungpa)は、1940年に東チベットに生まれた4。生後

13ヶ月で活仏転生者(トュルク)として認定され、チベットの四大宗派の一つであるカギュ派

のスルマン僧院院長の第 11代トゥルンパとして就任する。以後、理論と実践の両面にわたる伝

1岩本 (2010b: 7–20)参照2岩本 (2010b: 27)参照。3トゥルンパの伝記については、チューギャム・トゥルンパ著作集 (CWOCT)の各巻にに掲載された

A Biography of Chogyam Trungpa、及び岩本 (2010a: 201–3) に付したトゥルンパの略伝参照。4トゥルンパの生年については、混乱がある。生年を決定するために師自身が与えるデータに矛盾があ

るためである。従来、大方の場合 1939年とされてきたが、師自身は晩年 1940年を自分の生年とみなすようになった。詳細は、CWOCT1 (p.xxi, n.1)参照。

3

統的な僧院の英才教育を受けるほか、書道、タンカの画法、出家者の舞踊も真摯に学ぶ。1958

年に、具足戒を授かり、ケンポの資格も得る。1959年にインドへ亡命、ダライ・ラマの指名で、

青年ラマ僧研修所の精神面のアドヴァイザーとなった。

1963年にスポールディングの奨学金を得てオックスフォードへ留学し、西洋哲学、比較宗教

学、美術などを学ぶ。西洋に仏法を根付かせることを自分の使命とみなすに至り、1968年には、

スコットランドに西欧最初のチベット仏教のメディテーションセンター(サムエ・リン)を創設

した。布教活動は順調であったが、還俗と十六才のイギリス人女性との結婚が周囲の反発を招

き、1970年に北米に身を移す。

その後、1987年に夭折するまでの一七年の間に、トゥルンパは、自在な英語で北米とヨーロッ

パ各地でユーモアに溢れた何百回もの講演やセミナーを繰り返し、カリスマ的な存在となった。

他方、組織力も発揮し、欧米各地に百以上の小規模のメディテーションセンターを設置したほ

か、1974年には米コロラド州にナーローパ・インスティチュート(現在のナーローパ大学)を、

1984年には僧院Gampo Abbey(カナダ・ノバスコシア州)を創立した。また、あらゆるレベ

ルや状況に対応した多彩なトレーニングプログラムを練り上げ、西欧世界にチベット仏教の土台

を築いた。

弟子たちの間でヴィドヤーダラ (vidyadhara, 学者・持密呪者)とも呼ばれた、タントラ行者

トゥルンパはまた、芸術家でもあった。日本の禅的美もこよなく愛し、日の丸の扇子を片手に説

法することもあれば、着物や袈裟を身にまとうこともあった。

さて、トゥルンパは、どのようにして禅に惹きつけられたのであろうか5。師は、北米到着後

ほどなくサンフランシスコ禅センターを創設した鈴木俊隆老師 (1904–71)と出会った。その鈴木

老師が、最初に師が親交をもった禅僧である。師の造語であるスピリチュアリティの物質主義

(spiritual materialism)が蔓延するなか、鈴木老師の門下生だけは正しく修行していた。トゥル

ンパは、老師のスピリチュアルな力と指導力に敬服するとともに、老師を通して、禅のエレガン

スと簡素さに魅了された。両師は、親子のごとき感情を抱き、仏教をアメリカに浸透させるため

のアイデアを共有したが、二人の出会いからほどなく、鈴木はガンで急逝してしまう。

鈴木の死後、トゥルンパが次に親交を深めたのは、鈴木に紹介された知野(旧姓・乙川)弘文

(1938–2002)である。知野からは、日本の書道と応量器の作法を学んだが、知野とは兄弟のよう

な間柄であったといわれる。トゥルンパは、その後ロサンゼルス禅センターの前角博雄大山老

師 (1931–1995)や、ニューヨーク州に国際大菩薩禅堂を立ち上げた嶋野栄道老師 (b. 1932)らの

禅僧たちと交流をもつ一方、門下生のための弓道の先生として、第 20代柴田勘十郎御弓師を知

野を介して招聘している。柴田夫妻は、コロラド州に居住し、それぞれ弓道と茶道を指導した。

5トゥルンパの禅僧との交流やゼンアーツとの関わりについては、Iwamoto (2011)、Trungpa (2007:ix-xxiv)、CWOCT7: 5–11、CWOCT7: 170–3を参照。

4

トゥルンパとは家族ぐるみの付き合いであった。

このようにトゥルンパは、アメリカで盛んに禅とゼンアーツを摂取するが、イギリス時代にす

でに生け花と書道の稽古を始めている。華道草月流の師範の免状ももち、生け花展をたびたび

主宰した。書に関しては、好んで日本の筆と墨を用い、「神」などの漢字とそれらに対応するチ

ベット語とを並べて書いたり、抽象墨画のようなものも描いている。詩については、多くの英語

の作品を残しているが、晩年には俳句のような三行詩をよく書いたと言われる。

トゥルンパは、チベット時代から芸術を志向し、洋の東西を問わずその関心の幅は広く、アメ

リカでは、アヴァンギャルドの芸術家や詩人たちと積極的に関わり、計り知れないほどの影響を

及ぼした。ビートの教祖的存在であるアレン・ギンズバーグは、その代表である。また演劇や映

画製作にも意欲的に取り組み、ムドラー・シアターグループというワークショップを組織した

り、ミラレパ・フィルムワークショップなども企画した。

IV チューギャム・トゥルンパ著作集第七巻

トゥルンパは、生涯にわたって精力的に芸術活動を行ったが、師のアートに関する立場や考

えは、2003年と 2004年に Shambhala Publicationsから出版された八巻からなる著作集、The

Collected Works of Chogyam Trungpaの第 7巻(lxxx + 796ページ)に詳しい。本稿でも頻繁

に参照するので、その内容について概観しておきたい。

当巻の主要部分は、Dharma Art (1–162)、The Art of Calligraphy: Joining Heven and Earth

(163–258)、Visual Dharma: The Buddhist Art of Tibet (259–279)、Selected Poems (280–601)、

Selected Writings (602–715)の五部からなる。

第一部のDharma Art は、1996年に同社から出版されたものの再録であり、1971年から 1981

年に北米でトゥルンパによって語られたダルマアートの教えの選集である。その場面は、コー

ス、セミナー、一般講演、ディスカッションなど様々である。短い二十七章からなり、最初に

“Acknowledgments” (3) 及び “Editor’s Introduction” (5–11)が置かれ、最後に二十七章の出自

を示す “Sources” (161–2)が付される。以下、それらの章名と頁数を挙げる。

1. Dharma Art — Genuine Art, 13

2. Discovering Elegance, 15

3. Great Eastern Sun, 20

4. Basic Goodness, 26

5. Meditation, 31

6. Art in Everyday Life, 37

7. Ordinary Truth, 44

5

8. Empty Gap of Mind, 49

9. Coloring Our World, 56

10. New Sight, 80

11. The Process of Perception, 84

12. Being and Projecting, 88

13. Lost Horizons, 90

14. Giving, 94

15. Self-Existing Humor, 98

16. Outrageousness, 101

17. Wise Fool, 106

18. Five Styles of Creative Expression, 112

19. Nobody’s World, 117

20. Choiceless Magic, 121

21. One Stroke, 128

22. The Activity of Nonaggression, 132

23. State of Mind, 135

24. Heaven, Earth, and Man, 141

25. Endless Richness, 145

26. Back to Square One, 149

27. Art Begins at Home, 157

第二部の “The Art of Calligraphy: Joining Heven and Earth”は、1994年に同社から出版さ

れた同名作品の抜粋である。“Heven, Earth, and Man”と題された小論と、トゥルンパの墨蹟

のセレクションの二部構成である。小論は、1979年 7月 13日から 19日に、コロラド州ボール

ダーで行われた、“Dharma Art”と題されたセミナーが基礎になっている。そのセミナーの内容

は、講義、議論、集団のメディテーションプラクティス、そしてアートと生け花展であった。小

論 (“Heven, Earth, and Man”)は、次の六章からなる。

* Introduction by David I. Rome, 165

1. Dharma and Art, 179

2. Creation, 184

3. Perception, 186

4. The Mandala of the Four Karmas, 192

5. Discipline, 202

6. Art and Society, 212

6

第三部の “Visual Dharma: The Buddhist Art of Tibet”は、1975年にマサチューセッツ工科

大学のハイデンギャラリーで開催されたチベット仏教芸術展の図録の巻頭エッセーである。第

四部の “Selected Poems”は、168篇の英語の詩を掲載。主に既刊の二冊の詩集、First Thought

Best Thought: 108 Poems (1983)とTimely Rain: Selected Poetry of Chogyam Trungpa (1998)

からの抜粋である。第五部は、講演録、インタビュー記事、戯曲など、様々な機会に活字化され

た十五の小篇を含む。

V トゥルンパのアプローチ

さて、トゥルンパは、西洋にダルマを根付かせるためには、仏教が文化的な足枷と宗教的な魅

力から離れて教えられる必要があることを確信していた6。

トゥルンパのフランス人研究者であるファブリス・ミダルは、Midal (2005)の冒頭で、こう述

べている。

今日、真のスピリチュアルな伝統を伝播することを困難にする文化的・歴史的・イデオロ

ギー的障壁、それの乗り越え方の理解において、チューギャム・トゥルンパは、仏教を西洋

へ導入した者たちのうちで、天才的であった。仏教伝統の源に忠実である生きた言葉を見出

そうと努力した結果、彼はたいてい「近代世界」を鋭く分析することとなった・・・

多くのスピリチュアルの巨匠たちが 20世紀を教化したが、彼らの育った宗教的文脈を手放

した者はほとんどいなかった。そのことによって彼らの智慧と慈悲に我々が引き寄せられ

ることが妨げられたわけでは決してないけれども、彼らの言葉は我々の文化を富ませること

はなかった。それはもはや我々とコミュニケートしなかったのである。

こう評されるように、トゥルンパは、ドグマぬきに、現代人の心に響く言葉で法を説くことが

できた。また実践面では、世間的なものとスピリチュアルなものを一緒にするようなプラクティ

スを発展させることを最も重んじた、といわれる7。そしてその先例がゼンアーツであったこと

は、トゥルンパの次の言明によく示されている。

6チュギャム・トゥルンパ著・宮坂宥洪訳『心の迷妄を断つ智慧』春秋社 2002, p.269参照。71966年から 1968年に書かれた、トゥルンパの未公開の日記にこういう。「他の誰も、すべてを、すな

わち世間的[見解]及びスピリチュアルな見解と、いかに生きるか (how to live one’s life)を、ひっくるめて理解することができない、という事実をうけているのが、とりわけ私の状況である。私が、ダルマに関して、より方便にすぐれ、より知識をもち、より経験を有する、といっているのではない。私よりも方便でまさり、より多くの知識をもち、智慧 (wisdom)においてより向上している、多くの人々がいる。しかしながら、私は、スピリチュアルなものと世間的なもの (the worldly)とを決して区別しないのだ。ダルマの究極の様相を理解するなら、それが世界 (world)の究極の様相である。世界の究極の様相を修習するなら、それはダルマと調和するはずである。このように考える伝統を提示するのは、私だけなのである」(CWOCT1: xxxvi.3.7) 。

7

V.1 一般的にチベットのアプローチは、非常に保守的である。フリースタイルのタンカを

描こうとする時でさえ、主題は宗教的でなければならない、様々なグルたち、様々な神格た

ち、様々な守護神たち。そのためチベットでは、さほどフリーハンドをもつことができない

のである。また文化的態度は、チベットには世俗的アートが存在しないことである。他方、

中国と日本の禅伝統では、禅の言語で、人々はしばしば世俗的アートを描く。社会心理に

関する限り、彼らの思考パターンは、チベット人よりもはるかに優れていた。彼らは、教義

にはさほど忠実ではなかったが、教えを世俗的アートで表現する方法を見出したのである。

それは、異なった文化的含みを持つように思える。(CWOCT7: 39.2.1)

トゥルンパは、この日本の禅のアプローチを受け入れた。

V.2 日本で、禅は美術 (“fine” arts) と、そしてそれを超えて、それら自身が生得権をもつ

諸芸(“arts”)としてその他の多くのディシプリンの実践との密接な関係を発展させた。art

さえ超えて日本人は、人の活動あるいはディシプリンの感覚を、a “way”すなわち do(道)

として発展させた。すなわち chado(茶道)the way of teaや、kyudo(弓道)the way of

archeryや、kado(華道)the way of flowersなどである。通常の諸活動が行為中のメディ

テーション (meditation in action)の一形態であるというのは、あるいは別の言い方をする

なら、マインドフルネスとアウェアネスを人がなす何事にも向けるというのは、一般の仏教

理解である。しかし、do(道)すなわちwayの考えは、人の世俗の行為、日常の諸活動が、

聖なる見地 (sacred outlook)を実現する手段となり得る、そして目覚めへの道、さらには悟

りへの道でさえあり得る、ということである。トゥルンパ・リンポチェがこの考えに初めて

遭遇したのがイギリスであろうとなかろうと、彼が後半生にこのアプローチを理解し、受け

入れたことは明白である。・・・(CWOCT7: x.3.1)

トゥルンパがゼンアーツに触発され発展させた教説こそ、ダルマアートに他ならない。では、

そのダルマアートとは何なのか? 師自身は、ダルマアートを複数の視点から自在に語るが、次

は、その規定とされているものである。

V.3 ダルマアートという用語は、輪廻図 (Wheel of Life)やゴータマ・ブッダの物語のよ

うな仏教のシンボルやアイデアを描写するアートを意味するのではない。むしろ、ダルマ

アートとは、アーティストの側の、瞑想状態 (meditative state)と呼び得る、ある心の状態

からわき起こるアートのことである。それは、人の創造的仕事における、直接 (directress)

と無自己意識 (unself-consciousness)の態度である。(CWOCT7: 13.2.1)

V.4 真のアート、すなわちダルマアートは、単純に、ノンアグレッション(無攻撃性)の

行為である。(CWOCT7: 14.2.1)

8

ダルマアートがノンアグレッションの行為であるというのは、確かにそれの本質的な規定と

いってよい。というのも、アグレッション(攻撃性)こそ、ダルマアートの根本的障害の一つと

して、極めて頻繁に言及されるからである。

トゥルンパのいうアグレッションとは、実は三毒の一つである。師は、貪、瞋、痴を、それぞ

れ passion、aggression、ignoranceと英訳する。そして、この三毒を有している状態を、neurosis

と呼ぶ8。neurosisとは、精神医学では神経症のことであるが、師の neurosisは、特に病的な状

態をいうのではなく、我々凡夫の普通のあり方のことである。師がアグレッションというとき、

文脈上それに三毒を代表させている場合が多いように思われる。師はアグレッションを、現代西

洋社会でもっとも顕著な煩悩として認めたのかもしれない。

そのアグレッションの消滅した状態こそ、凡夫の神経症的生き方に陥らない原点である。

ノンアグレッションは、全く、生命への、そして知覚への鍵である。それは、リアリティを

最もよく知覚する方法である。(CWOCT7: 132.1.1)

VI ダルマアート (dharma art)

では、以下、ダルマアートについてトゥルンパの述べるところを、筆者が任意に設定したト

ピックに従ってまとめてゆこう。

VI. 1 ダルマとアート

まず、ダルマとアートに着目してみたい。ダルマについては、次のような言明がある。

VI.1.1  dharmaは、基本的規範 (basic norm)を意味する、サンスクリットの言葉である。

特に、宗教用語というわけではない。dharmaは、「調和を作り出すもの」「物事を実行でき

るようにするもの」を意味する、と言われている。言い換えるなら、それは、調和と威厳

(dignity)を促進するものである。(CWOCT7: 691.4.1)

これはダルマの一般的基本理解に、トゥルンパ独自の解釈を多少付け加えたものであるが、ダル

マが多義的なのは、師においても同様である。次の “Heven, Earth, and Man”の第 1章「Dharma

and Art」からの抜粋では、ダルマをアートと対比して示しながら、両者を規定している。

8「仏教伝統によれば、neurosisとは、物事を固定し、物事にしがみつく心の状態をいう。それは、三つのカテゴリーに分けられる。すなわち、ねばねばしすぎる (too gooey)、ねちねちしすぎる (too much glue)貪 (passion)と、激しすぎる (too sharp)、脅迫的すぎる (too threatening)、拒絶しすぎる (too rejecting)瞋 (aggression)と、左と右を、あるいは黒と白を識別できない、麻痺状態である、痴 (ignorance) である」(CWOCT7: 142.3.6)。

9

VI.1.2 人々は、しばしば、アートで始め、そこからダルマを発見する。しかし我々のアプ

ローチは異なる。つまり、 我々はダルマで始め、その後でそれにアートが存在するかどう

か見出そうとするのである。我々はまさにその初めにおいて、その基本点において、我々は

誰なのか、我々は何なのか、我々はアートの観点から何をしようとしているのか、という問

いで始める。ダルマアートを議論する場合は、ダルマに、そしてなぜそれがアートなのかと

いう興味深い問いに、少し馴染んでおくことは重要である。(CWOCT7: 179.1.1)

VI.1.3 ダルマは、規範あるいは真理 (truth)を意味する。それはまた、平和と冷静 (coolness)

としても規定される。なぜなら、それは、神経症の熱、すなわち瞋、貪、痴の熱を軽減する

からである。そのように、ダルマとは、非常に日常的で、非常に単純である。それは、筆、

粘土、キャンバスに手を伸ばす前のステージであり、非常に基礎的で、平和的で、神経症か

ら自由でさめている。(CWOCT7: 181.2.1)

VI.1.4 神経症は、真のアーティストがそうであるように、現象世界を正しくかつ十全に

知覚する、そのことへの障害を作るものである。明澄 (clarity)な知覚の基本的障害は、遍

在する不安 (anxiety)である。それは、我々が、我々自身及び我々の外の世界と関わること

を許さない。絶え間ない不安があり、その不安から、熱の感じがおこるのである。・・・

(CWOCT7: 181.3.1)

VI.1.5 根本的にアートとは、無条件の美の表現であり、それは優劣のある通常の美を超

越している。その無条件の美、それは平和的で冷めているが、そこから、リラックスしそ

してそれによって現象世界と自身の感覚を正しく知覚することができる、可能性が生起す

る。それは、才能の問題ではない。誰しも、本源的美と本源的善 (intrinsic goodness)に向

う傾向をもち、才能は自動的にそれにくっついて来るのである。・・・才能は、ダルマの根

本的平和と冷静から生じる、基本的美と基本的善の認識 (appreciation)から来るのである。

(CWOCT7: 182.2.3)

VI.1.6 基本的善・平和・美の、あの感覚で、我々が現象世界を知覚し始める時、衝突 (conflict)

が止み、世界をはっきりと完全に知覚し始める。どんな疑問も、どんな障害もない。不安が

なくなるとき、感覚知覚 (sense perceptions)は、神経症によってもはや歪められなくなるの

で、それらは[正しく]実行できるようになる。その理解とともに、メディテーションプラ

クティスは、大変強力なものとなる。そのメディテーションプラクティスを通して我々は、

我々の思考と、我々の心と、我々の呼吸とに関わることができ、我々の感覚知覚と我々の

思考プロセスの明澄を発見し始めるのである。真のアーティストの立脚点 (ground)は、無

条件の美とともに、平和と冷静とを含む。それは、神経症からの開放である。その立脚点に

よって、我々はダルミックピープルとなることができるのである。(CWOCT7: 182.3.1)

10

VI.1.7 その立脚点から、メディテーションのプラクティスに基づいて、我々は枝を張り、

我々があるところのもの、そして我々があるところの人として、我々自身をすっかり経験す

るのである。坐るプラクティス (sitting practice)は、我々自身を発見する方法である。・・・

(CWOCT7: 182.4.1)

VI.1.8 ダルマの原理が我々の内に存在するのを実感し始めるとき、神経症の熱は冷やさ

れ、純粋な洞察 (insight)が起こる。なぜなら平穏 (restfulness)が神経症を超えて存在する

ので、我々は全体 (the whole thing)について善を感じ始める。こういうことがいえるだろ

う、アートの原理は、信頼と弛緩 (relaxation)という、あのアイデアと関係している、と。

我々自身に対するそのような信頼は、我々が我々自身を神経症の餌食にする必要のないこと

を実感することに由来する。そして弛緩がおこり得る。そのような信頼が我々の存在の一

部となるからである。それゆえ、我々は我々の眼とすべての感覚知覚を十全に開く余裕があ

ると感じるのである。(CWOCT7: 183.2.1)

さて上記によると、ダルマは筆、粘土、キャンバスに手を伸ばす前のステージであり、アート

よりも先行すると考えられる。しかし「今晩我々は、ダルマの基本的理解としてアートについて

話している」(CWOCT7: 181.4.1)という発言などもあり、アートはダルマに包摂されるとみな

すこともできる。つまりダルマとアートは、単純な時間的前後関係にあるのではなく、その関係

は簡単に言語表現し得るものではないのであろう。一方、真のアーティストとダルミックピープ

ルが、同一の境地にある人をさすことは確かである。

真のアーティストとは、神経症(の熱)もしくは不安から解放され、正しい知覚をなし、無条

件の美を表現する者のことである。そしてその真のアーティストとなるためには、メディテー

ション(坐るプラクティス)の実践が不可欠であるといわれる。ダルマアートにメディテーショ

ンに焦点を合わせた教示が多いのも、そのためであろう。次に、そのような教示を引用したい。

VI. 2 メディテーション

VI.2.1 メディテーションによって、私はsamatha-vipasyana(止観)のプラクティスを意

味している。・・・私は、坐るメディテーションのプラクティスについて話している。メ

ディテーションのプラクティスを理解することなしには、誰一人完璧なアートの作品を創作

できないし、完璧なアートの作品を理解できない。だから、坐るメディテーションのプラク

ティスは、基盤 (basic ground)である。9 (CWOCT7: 32.1.1)

9次の段落で、トゥルンパは、ベートーヴェン、エル・グレコ、モーツアルトは、みな坐った、という。彼らがなしつつあることをなす前に心が真っ白になった (blank)という意味でである。さもなければ、つまり仏教的意味でのmind-less-nessが起こらなければ、あのようなすばらしい作品を創造することはあり

11

VI.2.2 その基盤から、being、opennessあるいは isnessの感覚が展開し始める。isnessは、

おそらく being よりも適切な言葉であろう、なぜなら生じている (happening)何かがあるか

ら。坐っている、あるいは坐っていない時、料理している、あるいは皿を洗っている時、起

こっている isnessがある。仏教の伝統では、それは、アウェアネスと言われる。しかし我々

は、“I should be aware that I have to take my medicine at five o’clock, since I’m allergic

to bugs.”と言う場合の、その種のアウェアネスのことを言っているのではない。・・・今言

及しているアウェアネスは、isnessであり、それは非常に重要で、力強い。我々は、それを

理解し、それを工夫しなければならない。それは、絶対に重要である。(CWOCT7: 32.3.1)

VI.2.3  isnessは、遍満 (all-pervasive)している。我々が何をしていようと、起こっている

何かがある。媒介とあなたとの間に乖離はない。We are here, we are actually here! その

種のアウェアネスが非常に重要である。・・・(CWOCT7: 32.4.1)

VI.2.4  isness、 beingness、アウェアネスの感覚は、ポストメディテーションとして知ら

れている。・・・生活で何をしていようとも、それは、すべて isnessの表現である。坐る

メディテーションにおいては、あなたは止まらず、ただ坐り、息と同一化し、あなたの思考

を工夫する。あなたは、すべてを非常にマニュアル的に、非常に明瞭に、絶え間なく行う。

しかしポストメディテーションにおいては、あなたはここにいる。あなたは、間違いなく

ここにいるのだ。髪をとかしていたり、服にアイロンをかけていたり、散歩していたり、桃

を食べていたりと、生活で何をしていようとも。それは、すべて isnessの表現なのである。

(CWOCT7: 32.5.1)

VI.2.5 アートの点では、もしあなたがアートをするなら、ただそれをする。・・・問題も

なく、難関もない。誰も何者とも競おうとはしていない。世界の主になろうとはしていな

い。あなたはただ、あなた自身であろうとし、極めて極めてシンプルな、瞑想的、ノンアグ

レッシブな仏教徒のやり方で、あなた自身を表現する。そして、あなたがさらにメディテー

ションをなし、アートにより励むにつれて、メディテーションとアートのプラクティスと

の、開け (openness)と行為 (action)との、境界がぼやけて来る。—それは過去に皆が経験

したことである。(CWOCT7: 32.6.1)

VI.2.6 アーティスティックな知覚において、坐るメディテーションプラクティスの役割を

みる場合、メディテーションのプラクティスがあなたがあなたの世界と関わる仕方をどう

変化させるかを我々は理解しようとすべきである。すなわち、それが視覚系と、聴覚系と、

得ない、という趣旨のことを述べる。その点からすると、坐るメディテーションのプラクティスは、必ずしも実際に坐ることを意味しないようであるが、トゥルンパのダルマアート全体の教示を鑑みるなら、そのようなケースはむしろ例外とみなす方が妥当であると思われる。

12

発話系とをどのように変化させるのか、をである。あなたがある人を見る仕方は、あなた

の確信 (confidence)に依拠し、あなたがその人をどれほど見たいと思っているかにかかって

いる。・・・はっきりさせておきたいのは、我々が話題にしているのは、純粋な美学ではな

い、ということである。アーティストの多くは、なんらかの美しいもの、素晴らしいもの、

花で覆われたようなもの、高尚なものを提示しようとする。しかし我々は、過度に高尚で

あったり、審美的であろうとはしないし、ついでに言うなら、過度に粗野であろうともしな

いのである。そのアイデアは、我々が振る舞う仕方と我々が感覚知覚を工夫する仕方とが、

シンプルで直接的な仏教に由来するということである。それを仏の性質 (buddha nature)と

呼んでもよい。(CWOCT7: 34.3.1)

VI.2.7 まず第一に重要なことは、目の前に一枚の白紙の紙を持つことである。すなわち、

あなたは厭わず開こうとし、厭わず踏み出そうとするのである。アートへの仏教のアプロー

チは、五仏の部族 (five Buddha families)10の秘訣を学ぶというよりはむしろ、開けとパー

スペクティブの感覚をもつことである。芸術的才能と視覚空間のコンセプトは、すでにあ

なたに利用可能 (available)である。あなたはそれを修養する必要はなく、またいかなるコ

ンテクストももたない何ものかをでっち上げる必要もない。それは自然に極めてあっさり

と起こるのである。タントラの仏教アプローチに従うなら、純粋な美学としてアートに関

係するのではなく、我々は自然現象として、芸術的才能と知覚とにただ接近するのである。

(CWOCT7: 34.4.1)

このセクションの冒頭から、トゥルンパのいうメディテーションが、samatha-vipasyana(止

観)の実践であることがわかる。ちなみに師は、samathaをmindfulness(マインドフルネス)、

vipasyanaを awareness(アウェアネス)と英訳するが11、ダルマアートでは、サンスクリット

原語のまま用いられることも多い。

メディテーションの実践形態としては、坐るメディテーションとは別に、ポストメディテーショ

ンについても述べられている。それは、アウェアネス、すなわち vipasyanaに他ならない。ここ

ではそれは、isnessとも言い換えられ、そのあり方がいくつか述べられている。一方、Dharma

10「五仏の部族のマンダラは五つの基本的なエネルギーの様式をあらわしており、それは二元論的には混乱として、非二元論的には悟りとして現示しうる。悟りのマンダラは五如来のマンダラとして図像化される。全体験は、これら五つのエネルギーの中の一つとして色分けされるといわれる。・・・」(チュギャム・トゥルンパ著・宮坂宥洪訳『心の迷妄を断つ智慧』pp.262-3)。トゥルンパは、五仏の部族の原理を応用したセラピーなどを開発した。

11アメリカでは、vipasyanaは、Insight meditaionと英訳される場合がほとんどである。またmindfulnessは、smr

˚ti(念)の訳語として定着しており、マインドフルネスと呼ばれるメディテーションは、vipasyana

として言及される。このような表面的食い違いには、samatha-vipasyana(止観)の本質あるいはその古典的解釈などとも絡む、極めて興味深い問題があるが、今は立ち入らない。

13

Art の第 6章「Art in Everyday Life」(日常生活におけるアート)では、アウェアネスとアート

との絡み方がより詳しく説かれる。

VI. 3 日常生活におけるアート

VI.3.1 サンスクリットで vipasyanaと呼ばれる、アウェアネスのプラクティスには、ap-

preciation(評価・認識・理解)もしくは artfulness(技巧)の一般的な感覚に対する欲求

があるようだ。アウェアネスメディテーションは、極めて心理的である。それは、我々が

すでにもっている素材を利用するとともに、多くの新素材を我々の生活にもたらす。心の

appreciationが、日常生活の appreciationをもたらすといえよう。つまり、いわば我々は

我々の芸術的才能を経験し表現するあらゆる種類の方法に取り囲まれているのを見出すの

である。(CWOCT7: 37.2.1)

VI.3.2 マインドフルネス [Skt. samatha]のアートへのアプローチとアウェアネス [SKt.

vipasyana]のアートへのアプローチとの間には相違がある。マインドフルネスの場合には、

義務と制約の感覚がある。鋭く、正確なマインドフルネスを発達させる要求が我々になされ

る・・・アウェアネスの経験の場合には、単に appreciationがある。何者も我々を悩まさず、

我々から何ものも要求しない。その代わり、アウェアネスのプラクティスによって、我々は

単純に、現象世界に内向きと外向きに波長を合わせ得るのである。(CWOCT7: 37.3.1)

VI.3.3 瞑想経験 (meditative experience)のアートは、真のアートと呼ばれるかもしれな

い。展示や番組 (broadcast)のためにデザインされていない。その代わり、それは永遠に成

長するプロセスである。そのプロセスで我々は、生活のなかで我々を取り巻いているもの

を、それらが何であれ—必ずしも、良く、美しく、人を楽しませるものである必要はない—

appreciateし始める。アートの定義は、この見地からは、日常経験の独自性 (uniqueness)を

見ることができることである。刻々、我々は同じことをしているかもしれない— 毎日歯を

磨き、毎日髪をとかし、毎日食事を作っている。しかしそのうわべの繰り返しが、日々独自と

なるのである。あなたが経験する日常的習慣 (habits)及びそこに関わるアートに、ある種の

親密さが起こるのだ。それが、日常生活におけるアートと呼ばれる所以である。(CWOCT7:

39.3.1)

VI.3.4 この国には、アウェアネスのプラクティスに関して多くの伝統や思想の学派があ

る。身体のアウェアネスを通して、周囲にあるもののアウェアネスを通して、様々な種類

の encounter groupを通して、アウェアネスを発展させる試みがなされている。それらもま

た、アートの作品として含み得る。しかし、もし我々が日常生活の取るに足らない細部と関

係し、appreciateできないとしたなら、問題がある。日常生活を欠いた特別な身体アウェア

14

ネス[プラクティス]をなすこと—教室へ行き、事を済ませ、戻ってくること—は、桁外れ

に実りが多く、[自身を]解放しているように思えるかもしれない。にもかかわらず、あな

たの生活において、なお二項対立がある。あなたはあなたが関わっているアート作品あるい

はアウェアネスプラクティスの重要性と重大さを感じる。しかし、実際、全体が重要であり

重大であると感ずれば感ずるほど、あなたのアウェアネスの展開は、ますます破壊されるよ

うになる。もしあなたがあなたの経験をカテゴリーへ寸断し、それを分類棚に並べるなら、

真のアウェアネスは発展しないのである。(CWOCT7: 39.4.1)

VI.3.5 アウェアネスのプラクティスは、型通りの坐るメディテーション、もしくは行為

中のメディテーション (meditation-in-action)のみではない。それは、奮い立った人間とし

ての、奮い立った有情としての振る舞い方におけるユニークなトレーニングプラクティス

である。それが、アーティストになる、ということによって、意図されていることである。

(CWOCT7: 40.3.5)

VI.3.6  vipasyana経験には、多くのアートの含みがある。絵画やその他の芸術的媒体に

対してのみではなく、大抵の諸関係、つまりどうコミュニケートするか、どう話すか、どう

料理するか、お店でどのように服を選ぶのか、スーパーマーケットでどのように食品を選

択するのかなど、そのようなすべての瑣末なことに対しても、である。・・・(CWOCT7:

41.2.1)

VI.3.7 我々は、vipasyana経験の可能性で始めることができる。つまり、もしノンアグレッ

ションの観点から日常生活を見るならば、それはひとつのアート作品である、ということで

ある。・・・(CWOCT7: 42.3.1)

VI.3.8 日常生活におけるアート及びアウェアネス経験に関する限り、アグレッションを超

えることが、人が想像し得る、あらゆる芸術的才能の根である。(CWOCT7: 43.2.5)

さて、この「日常生活におけるアート」から、日常生活の些細な事をも評価する (appreciate)

ことができるようになることが、トゥルンパのアートプラクティスの第一義であることがわか

る。そして、そのような appreciationが、真のアウェアネスによってもたらされることも理解さ

れる12。ところで、この appreciationと密接に関係すると想定される概念に、シンボリズムがあ

る。そのタームの現れる文章うち、ダルマアートの基本的理解を深めるうえで、特に有益と思わ

れるものを次に取り出してみたい。

12このような文脈で使われる appreciation (appreciate)に対して、ピッタリとした訳語を見出せずにいる。引用文中には、とりあえず評価、認識、理解という訳語を添えた。

15

VI. 4 シンボリズム

VI.4.1 シンボリズムは、道標や広告板のような、自分の外にある何ものかであり、それは

人々に標識、おそらく宗教的意味のある標識を与える。シンボリズムについての人々のア

イデアはこのようであるが、それは、まったく当たっていない。シンボリズムは、あなた

自身、つまりあなたの内なる存在 (being) と結びついているのである。言い換えるなら、あ

なたは、あなた自身の最も大きいシンボルである。それがシンボリズムなのである。・・・

たとえば、あなたが視覚的シンボルを創作するとき、最初は、それ自身を表現する。観念

(ideas) はのちに来る。それがすべての要点である。あなたがある部屋で室内装飾をするな

ら、それはそれ自身で語るのだ。後に、それについての概念的もしくは形而上的フィーリン

グを人々は得るだろう。・・・シンボリズムは、我々の生活において、個人的にそして直接

的に経験するものに基づいている。つまり、痛み (pain)や悦楽など、なんでもである。そ

の観点からは、シンボリズムとは、心の状態である。(CWOCT7: 44.2.1)

VI.4.2 あらゆる経験は、一つのメッセージと見なされる。・・・それは状況の自然なメッ

セージである。それは、自然なメッセージであるから、それゆえ我々はそれをシンボリズム

と呼ぶことに決めたのである。(CWOCT7: 57.1.2)

VI.4.3 我々の人生において起こるすべては、なんらかの種類のシンボリズムと関わってい

る。(CWOCT7: 47.1.10)

VI.4.4 我々の簡素な日常生活は、つねにその種のステートメントと関わり得るが、我々

はそれをまったくの世俗的な事として拒否している。それをひどく煩わしいこととみなし、

すべて忘れてしまうのである。・・・(CWOCT7: 47.2.1)

VI.4.5 世界におけるいかなるシンボリズムに関してであれ、シンボリズムを知覚すること

は、かの現象的経験の成長に基づいている。我々は、そのような現象的経験をシンボリズム

として分類し得る。しかしそれは、絶対的シンボリズムというよりも、相対的シンボリズム

である。(CWOCT7: 50.2.8)

VI.4.6 無条件のシンボリズムを実感するために、我々は、我々の心の状態の空っぽのギャッ

プ (empty gap)を、そしてかの無参照点 (non-reference point)にいかに我々自身を投げ出

し始めるかを、理解しなければならい。(CWOCT7: 55.1.4)

VI.4.7 絶対的シンボリズムの考えはまた、passionlessであり、egolessである。なぜか。

実際、絶対に関する限り、あなたは来るのではなく、行くからである。それは、a coming

processというよりもむしろ、a going processなのであり、コレクターのメンタリティでは

ない。その[メンタリティ]ではあなたは、大金を貯蓄している大銀行に、もしくは大きな

16

ボトルにすべてを蓄える。絶対的シンボリズムは、無我 (egoless)なのである13。なぜなら、

あなたはすでにあなたの心理的な参照点を捨てているからである。それは、あなたの両親、

あなたの身体、もしくはそのような何ものかを捨てていることを意味しない。では参照点と

は、何なのか。それは、あなたを気分よくする、再保証の感覚である。あなたが泣いている

時、友達がやってきてあなたを抱きしめて、「泣かないで。すべてうまくいくから。心配す

ることは何もないよ・・・」というようなものである。そのタイプの心理的参照点は、相対

的真理の考えに基づいている。(CWOCT7: 51.4.1)

VI.4.8 無我の絶対的真理は、どんな慰めも必要としない。・・・我々が参照点を失うと

き、空っぽの心をもっている感覚 (a sense of empty heartedness)が起こる。もしあなたが

どんな参照点ももたないなら、あなたは工夫する何ものも、比較する何ものも、戦う何もの

も、あなたのシステムに減じたり加えたりしようとする何ものももたない。あなたは、あな

た自身をいかなるところにも見出すことはなく、空っぽの心 (empty heart)を、脳の中の大

きな空洞を見出すのである。あなたの神経組織は、何ものとも関係せず、特別なロジックは

なく、ただ空っぽの心のみがある。その空っぽの心を、悪魔の攻撃とみなす集団もあれば、

satoriの経験、もしくは頓悟とみなす集団もある。(CWOCT7: 52.2.1)

VI.4.9 あなたは、スペースに、一種の大きな穴に、宙ぶらりんになるのである。・・・

(CWOCT7: 52.3.9)

VI.4.10 絶対的シンボリズムの知覚に関する無参照点の見方に従えば、その宙ぶらりんの

感覚が基盤である。宙ぶらりんのその経験は、あなたがあなたの絵やあなたのシンボリズム

を描く、キャンバスもしくは黒板である。それが基盤なのだ。・・・(CWOCT7: 52.4.1)

VI.4.11 跳躍し、ホームグランドを捨てる時、あなたは先入観をもたない、裸の子供のよう

になる。あなたは、その場でシンボリズムを経験できるのである。・・・(CWOCT7: 97.2.6)

VI.4.12 我々が世界を拒否するのをやめたとたん、世界が我々に陳述し始める。シンボリ

ズムが我々に押し付けられるのである。ありとあらゆるリアリティの実現と知覚が具体化

し始める。前後左右にシンボリズムが存在する。(CWOCT7: 97.4.6)

トゥルンパは、シンボリズムを非常に広い意味で使用しているが、それらは相対的シンボリズ

ムと、絶対的もしくは無条件のシンボリズムとに大別されるようである。ダルマアートが関わる

のは後者の絶対的シンボリズムである。それを実感するためには、心理的な参照点を捨てる必要

があるが、そうなれば空っぽの心をもつことになる。それがアートを創造する原点といえよう。

13ちなみにトゥルンパは、無我に関してこう述べている。「この観点から我の非存在 (nonexistence ofego) — thisnessあるいは堅固な定着 (solid fixation)、の原初的状態–とは、哲学的な問題ではなく、純粋に知覚の問題である」(CWOCT7: 117.2.6)。

17

さて、そのような空っぽの心、あるいは宙ぶらりんの感覚と相通ずるような記述は、アートを

創造する場合の原理としての天・地・人 (heaven, earth, man)の天の原理にもみえる。そこで次

に、その天地人の原理についてみてみたい。

VI. 5 天地人の原理

VI.5.1 天地人の原理は、アート作品にとって基本であるように思える。この原理は視覚

アートの響きをもっているけれども、詩もしくは音楽のような聴覚アートにも、身体あるい

は三次元アートにも適用され得る。天地人の原理は、書道、絵画、室内装飾、都市建設、天

と地の創造、飛行機や外洋航路船の設計、最初に洗う皿を選んで皿洗いを組織立てること、

あるいは床掃除にまで当てはまる。それらのアート作品はすべて、天地人の原理に完全に含

まれるのである。(CWOCT7: 184.5.1)

VI.5.2 天地人の原理は、中国の伝統に由来し、日本でさらに発展した。現在、“天・地・

人”というフレーズは、生け花の伝統と最も多く関連する。・・・伝統的に述べるなら、西

洋的であれ東洋的であれ、我々のなす何事も、天地人の基本原理を含んでいる。この点にお

いて、我々は、聴衆の観点というよりはむしろ、アーティストの観点から天地人の原理につ

いて話している。(CWOCT7: 185.2.1)

VI.5.3 天地人の概念のうち、最初の局面 (aspect)は、天である。天の原理は、無思考、も

しくはヴィジョンと連結している。天の観念は、大きなキャンバスと、油絵具一式と、よ

い筆とを与えられているようなものである。画架を目の前にし、スモックをはおり、描く

態勢にある。その時点では、恐れをなし、おじけづいてやめてしまいたくなり、何をなす

べきかわからない。・・・その最初のスペースが天であり、最高のものである。それは、退

行とはみなされない、特には。それは、基本的スペースであり、その[スペース]におい

て、it が何をしようとするのか、もしくは you がそれについて何をしようとするのか、あ

るいはその中へ何をおこうとするのか、あなたにはまったくわからない。不十分に対する、

この最初の恐れが、天、基本的スペース、完全なスペースとみなされるだろう。知識のそ

のような恐れは、さほど大きな恐れではなく、あなたを尻込みさせるスペースのギャップ

(a gap in space)である。それは、第一の洞察 (insight)であり、いわば肯定的当惑である。

(CWOCT7: 185.3.1)

VI.5.4 その後、あなたがキャンバスもしくはメモ帳を見る時、第一の思いつき (first thought)

が浮かぶ。あなたはそれを恐る恐る試みる。筆で絵の具を混ぜるか、メモ帳に恐る恐る走

り書きをするか。スローガン、“first thought best thought”は14、かの第二原理の表現であ

14最初の思いつきが最良の思いつきである、という有名なトゥルンパのフレーズであり、師の詩集のタ

18

り、それが地である。(CWOCT7: 186.2.1)

VI.5.5 第三の原理は、人(じん)と呼ばれる。その人(じん)の原理は、天の原理の最初

のパニックと地の原理の “first thought best thought”が一緒になるのを確認する。あなた

は、あなたが提示すべき具体的な何かをもっていることを実感し始める。その時点で、喜び

の感覚と、口にかすかな笑みと、ちょっとしたユーモアの感覚がある。実際、あなたは、あ

なたが創造しようとしているものについて何か言うことができる。それが、第三原理、人

(じん)である。(CWOCT7: 186.3.1)

VI.5.6 このように、我々は天地人をもつ。三つの原理すべてをもつためには、まずはじめ

に、空 (sky)をもたなければならない。その後空を補完するために地をもたなければならな

い。そしてすでに空と地をもっているので、あなたはそのスペースを占有する誰かをもたな

ければならない、それが人(じん)である。それは、創造、もしくは発生のようである。こ

の天地人の原理は、アート作品の理想的形態と結合している。それは、はるかにより多くを

含んでいるけれども。(CWOCT7: 186.4.1)

この天地人の原理は、アート作品を見る者の知覚を説明する原理としても用いられる。その場

合は、“first thought best thought”は、天の原理となる。また別の箇所では、これら三つの原

理—天・地・人—は、我々の心の状態を、いかにアート作品に統合し得るかを扱う」ともいわれ

る (CWOCT: 144.3.1)。

さて、ここまで述べてきたことは、ダルマアートの基礎的と考えられるところを、筆者が抽出

したものである。それ以外にも、我々の好奇心を掻き立てる教示が多々ある。筆者の力量不足

と紙幅の都合により、本稿でそれらを紹介することはできない。いずれにせよ、ダルマアートの

全貌あるいは深みは、その他のトゥルンパ独自の思想と実践、さらにはそれらの母体ともいえる

彼が継承した伝統的チベット仏教を参照して吟味することなしには、明らかにはならないであろ

う。それは、今後の課題である。本稿では次にゼンアーツの一つである、華道に対するトゥルン

パの評価を考察し、ダルマアートの紹介を締めくくっておきたい。

VI. 6 生け花

トゥルンパが言及しているように、天地人という言葉は、華道で今も用いられているが、日本

の生け花に対する師の洞察は、示唆に富む。

VI.6.1 基本的善 (basic goodness)は、生け花のようである、それはそれ自身のコントラス

トとそれ自身のまとまり (togetherness)をもっている。それは完全にまとまっていると同時

イトルにもなっている。この言葉は、詩人アレン・ギンズバーグとの議論から生まれたといわれる(Midal2004: 377–8参照)。

19

に、気をそそり、恐れを知らない。そのような生け花は、私に言わせれば、基本的善の産

物である。それは一団となっている (It hangs together.)。予め計画されたものは一切ない、

それは、スポットにただ現れるのである— 基本的善。(CWOCT7: 28.3.1)

ここから、生け花が基本的善の産物であるとみなされていることが知られるが、“Perception

and the Appreciation of Reality” (CWOCT7: 683–5)では、より詳細に生け花について語られ

る。以下は、その抜粋である。

VI.6.2 空間と知覚のようなものが、この特殊な形態、生け花に表現されている。我々はこ

う言い得る。「生け花は、一般の社会現象に入る方法である。その現象とは、感覚知覚と、生

命及びアーティスティックなディシプリンとを統御する仕方のことである。生け花は、我々

がディシプリンの感覚を発展させることを可能にし、それは世界に存在することに対する一

般の appreciationと一般の感覚とを人がどの程度統御しているかを投影する。生け花の修

業 (discipline)は、単に美しい花をアレンジすること、もしくは美しいアレンジメントを組

織することではない。それは、自己自身の投影である。我々は時々、困惑するほど我々自身

が花器に実際に顕現しているのを見出すかもしれない。その観点から、それは精神分析医へ

通うよりはるかによい。(CWOCT7: 683.3.1)

VI.6.3 初めて生け花をみた時、私は威厳とリアリティがその特殊なアレンジメントによっ

て表現され得ることに驚いてしまった。そこには、美と残酷さ (cruelty)があった。ことに

よると、いざないがあり、誘惑がある。そして全体が仏教の教えのようである。したがっ

て、それは一個の純粋な芸術作品なのではない。それは、簡素に、しかし広々とした仕方で

提示されている。生け花のプラクティスは、どう人生を渡っていくかを教える。それは、極

めて注意深くあることと、ノンアグレッションで、迅速でないことを要求する。(CWOCT7:

684.2.7)

VI.6.4 広大さは、ノンアグレッションであり、状況を観察することであり得る。だからあ

なたは、状況を徹底的にみることができるのである。広大さはまた、インスピレーションも

もたらす。(CWOCT7: 684.3.3)

VI.6.5 必ずしも生け花を学ぶ人は坐って瞑想しなければならないという意味ではないが、

彼らは、稽古 (study)で、作品で、samatha-vipasyana原理を用い得る。(CWOCT7: 685.1.3)

VI.6.6 原理全体が、スペースを創造することに基づいているようにみえる。(CWOCT7:

685.2.3)

さて、チベット仏教の活仏・トゥルンパからみた、生け花とは何なのか? 師にとって、基本的

善の産物である生け花が、ダルマアートの作品であることは確かである。しかしダルマアート

20

の完璧な作品を創作するには不可欠とされるメディテーションの実践は、必ずしも要しないとい

う。従って、花を生けるという行為は、メディテーション・プラクティスと同じ働きも持ち得る

と考えられる15。さらに、生け花のプラクティスは、どう人生を渡っていくかを教えるとさえい

われる。そう言われるのは、そのプラクティスが要求する、極めて注意深くあることと、ノンア

グレッションで、迅速でないことによって、我々は状況を正しく判断し、その深い意味を知るこ

とへと向うためであろう。一方、生けられた花には、自己がおそろしいまでに反映するのは、ノ

ンアグレッションの状態における経験が、直接的で非常に個人的である16、ということと関連す

るであろう。

そして「全体が仏教の教えのようである」といわれる所以の一つは、生け花のもつ広大さがノ

ンアグレッションで、徹底的に状況をみることを可能にし、インスピレーションをもたらすから

であろう17。

1974年に “Zen and Tantra”と題して行われたセミナーでは、トゥルンパは、生け花について

こうも述べている。

たとえば、生け花は、仏教の大乗的表現である。黒い坐布に坐ることのみが、菩薩の活動な

のではない。実際、そうではないんだ。あなたは、人と、文化と、そしてあなたを取り巻く

環境と関わらなければならない。・・・花を生けることは、prajnaあるいは空性の観点から

は、さほど禅であることはない。パーラミターレベルからよりそうなのである。(Trungpa

2007: 43)

パーラミターが六波羅蜜のことで、菩薩行の代表として言及されていることに疑いはない。つ

まり生け花はより利他的なディシプリンとみなされているわけである。ちなみに、ダルマアート

には、菩薩の思想も盛り込まれている。ダルマアートの重要な側面であるので、一例を示してお

こう。

15トゥルンパが次のように述べていることは、その傍証となろう。「心 (mind)と身体 (body)とを適切に同調させるのを助長する東洋のディシプリンとして、私は、弓道すなわち日本のアーチェリと、茶道と、生け花とを薦める」(CWOCT8: 247.3.4)。ちなみにダルマアートにおいて、心と身体を同調させる重要性は、特に “Heven, Earth, and Man”の第 5章「Discipline」に詳しい。

16たとえば次にそういう。「我々がノンアグレッションの状態に届く時、それは何ものも知覚するのをやめるのではなく、われわれは特殊な方法で知覚し始めるのである。アグレッションの不在とともに、更なる明澄がある。なにものも不安に基づいておらず、何ものもアイデアや理想に基づいていないからである。代わりに、我々はどんな要求もなしに、物事を見始める。我々は、もはや何かを誰かに売ったり買ったりしようとしない。それは、直接的で、非常に個人的な経験である」(CWOCT7: 85.2.1)。

17もっともそれが、花を生ける人にとってのことなのか、生け花を鑑賞する人にとってのことなのか、判然とはしない。次は、この点を考えるうえで参考となろう。「瞑想的アートにおいて、アーティストは、作品の創作者のみらず、観察者をも体現する。ヴィジョンは、オペレーションと分離しておらず、下手であるとか、熱望を達成するのに失敗するとかという恐れはない」(CWOCT7: 13.4.1)。

21

他人の正気 (sanity)を養うことは、明らかにはるかに難しい。・・・人間社会を正気の状態

に保つ基本的誠実 (integrity)がなければならない。それが、アートで働く唯一の道であり、

あるべきだ。アート作品の目的は、菩薩の行為 (bodhisattva action)である。つまり、あな

たの制作物、マニフェステーション、デモンストレーション、パフォーマンスが、人々を

神経症から目覚めさせる方向へギアを入れるべきである、という意味である。(CWOCT7:

183.5.4)

VII 結び — ダルマアートと禅

以上、本稿では、トゥルンパのダルマアートの教えを知るために、その基本的説示のいくつか

を取り上げた。師が強調したものは、「日常生活におけるアート」(art in everyday life)と呼ぶも

のであった。それは、日常生活そのものをアート作品にする行為であり、永遠に続くプロセスで

ある。つまり、狭義の芸術作品の創作に託して、真のアーティスト、すなわちダルミックピープ

ルとなる道が示された、ともいえるのだ18。「アート作品を創作するために人がもつ、態度、洞

察、そして技術 (skill)は、人が生活のあらゆる側面にアプローチする際の、態度、洞察、そして

技術と異ならない」(CWOCT7: 165.3.1)からである。

興味深いことに、鈴木大拙も同様にアーティストを引き合いに出して、禅者の世界を語ってい

る。そしてその世界は、ダルマアートの世界と重なり合うものをもつ。最後にこの点に触れ、結

びとしたい。以下は、Zen and Japanese Culture の第 1章 (What is Zen?)の最後に、十一項目

にまとめられた、禅の特質である。

(1) 禅修業 (Zen discipline)とは、悟り (satori)を獲得するのを本質とする。

(2)  satori は、食べたり、飲んだり、あらゆる用事といったような、我々の日常の具体的

な個々の経験において、これまで隠されていた意味を見出す。

(3) このようにして開示されたその意味は、外側から付加された何ものかではない。それ

は、それ自身であることに、それ自身になることに、それ自身を生きることにある。これ

は、日本語で kono-mama、あるいは sono-mama の生命 (life)と呼ばれる。kono–もしくは

sono–mama は、物事の “isness”、つまりそれの isnessにおけリアリティを意味する。

(4) こう言う人もあろう、「単なる isnessには、いかなる意味もあり得ない」と。しかし、

それは禅によってなされる見解ではない。それによれば、isnessが、その意味である。私が

18ちなみに、止観の実践に基づく菩薩道を説いた古典『大乗荘厳経論』は、五種の修行者を説く。そのうち修行の最終段階にある者は、アヌダルマチャーリン(anudharmacarin, ダルマに従って働くもの、随法実現者)と呼ばれる (岩本 1998: 68–72参照) 。この呼称は、修行には終わり(ゴール)はなく永遠に続くプロセスであることを示唆する。この点でもダルマアートとと符合し、筆者の関心を強く惹く。古典テクストと照らしつつ、ダルマアートの教えを解きほぐしていくことは、筆者の今後の楽しみである。

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それを見抜くとき、私は鏡に映った自分自身をみるのと同じくらいはっきりとそれをみるの

である。

(5) これが、龐居士、八世紀の在家信者をして次のように言明させたものである。

これは、なんという驚くべきことか、なんという霊妙か!(神通幷妙用)

私は、まきを運び、水を汲む。(運水与搬柴)19

まきを運ぶこと、あるいは水を汲むことそれ自体が、その功利主義から離れ、意味に満ちて

いるのである。それで、それの「驚き」(wonder)であり、それの「霊妙」(mystery)なので

ある。

(6) それゆえ禅は、抽象に、あるいは概念化にふけらないのである。その言語表現におい

ては、時おり、禅がこれを大いにするかのようにみえるかもしれない。しかしそれは、禅を

まったく知らない人たちによって最も共通して抱かれた誤りである。

(7)  satori とは、道徳的な、スピリチュアルな、そして知的な、解放である。私が私の

isnessにあり、知的なあらゆる滓から徹底的に浄化される時、私はその主要な意味での自由

をもつ。

(8) いまやその isness — 禅の言い回しを使うなら、それは isnessではないが — に留まっ

ていて、それゆえ知的複雑さやあらゆる種類の道徳的執着から自由になった、その心が、諸

感覚 (senses) の世界をそのすべての多様性において見渡す時、それはその中に、これまで

視界から隠されていた、あらゆる種類の価値を発見する。ここで、アーティストに、驚きと

奇跡に満ちた世界が開くのである。

(9) そのアーティストの世界は、自由な創造の世界である。それは、諸感覚と理性によって

邪魔されていない、物事の isnessから直接的に無媒介に生起する、直観のみから生じ得る。

彼は、形なきものと音なきものから、形と音を創造するのである。この限りにおいて、アー

ティストの世界は、禅のそれと符合する。

(10) 禅をアーツから区別するものは、それである。アーティストは、自身を表現するため

に、キャンバスや筆、あるいは機械的な諸道具、あるいはその他の媒介に頼らなければな

らない。一方、禅は、外の事物を必要としない、身体を除いて。そこにおいて禅人間は、い

わば具現化されるのである。絶対的な観点からは、このことは完全に正しいわけではない。

私は、それを、物事を言うための世俗の方法に譲歩して述べているにすぎない。禅がなすこ

とは、無限の時間と空間のキャンバスのうえに、それ自身を線描することである、飛んで

19原文(漢文)を、入矢義高『龐居士語録(禅の語録 7)』筑摩書房、1972、p.15から補った。

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いる雁がその影を下方の水面に投影するように。そうしていると考えることなしに。一方、

水は、その雁を、自然に、意図なく、その通りに反映する。

(11) 禅人間は、以下の点でアーティストである。ちょうど彫刻家が不活性物の固まりに深

く埋もれた大きな人物をノミで彫るように、禅人間は、彼自身の生命を創造の作品へと変容

するのである。そ[の作品]は、キリスト教徒なら、神の心に存在するというであろう。20

さて、一瞥しただけで、ダルマアートとの近似性が看取されるであろう21。また相乗効果で、

ダルマアートそれ自体の、そして禅それ自体の、おのおのの理解も深まるのではなかろうか。

ただ、その仔細な検討は、ダルマアートの吟味とともに、別稿に譲らざるを得ない。今は示唆

されるもので留めたい。

大拙とトゥルンパによって、それぞれ英語で語られた仏教は、芸術家をはじめとする多くの西

洋人に受け入れられた。その点、西洋近代文化をもはや異文化と感ずることの少なくなった日

本人にとっても、大拙の禅思想はいうまでもなく、ダルマアートの教えもまた親しみやすいはず

である。そもそもダルマアートは、日本の芸道・武道から示唆を得て創出された教説であった。

その日本の芸道・武道は、今日ではむしろ西洋において、より正しく理解され実践される機会が

与えられているのではなかろうか。

西洋の合理的精神に訴えることのできた、大拙やトゥルンパの思想を通して、日本文化の忘れ

去られた価値を取り戻し、新たな価値を見出すことは、喫緊の課題であるように思われる。

凡例・参照文献

* CWOCTは、 The Collected Works of Chogyam Trungpa の略号である。たとえば、当著

作集の第七巻は、CWOCT7と標記。

* CWOCTの和訳文中、( )で括ったものは訳者が与えた原語や訳語であり、[ ]で括った

ものは原文にはなく訳者が補足したものである。また太字の [ ]で括ったものは、原文に同様

に[ ]で括って存在するものである。なお、サンスクリット語の標記は、正規形に直した。

*  CWOCTの引用は、一段落を一単位とし、将来的便宜も考えてそれぞれに番号を付した。

引用箇所は、(CWOCT7: 132.1.1)という形式で標記したが、それはCWOCTの第 7巻の 132頁

20Daisetz T. Suzuki, Zen and Japanese Culture, Bollingen Series LXIV, First Princeton Classic Edi-tion, with a new introduction by Richard M. Jaffe (Princeton University Press, 2010) pp. 16–17.

21たとえばトゥルンパも、大拙と同様に特殊な語である isnessを用いる。両者が出会った可能性はほとんどないが、トゥルンパが大拙の著述を読んでいた可能性はなきにしもあらずである。少なくとも、大拙の禅思想の強い影響を受けた、アラン・ワッツの著作を英国で読んでいたことは知られている(Trungpa2007: 397)。ただ両者の思想の類似性は、そういった影響関係を憶測するよりも、英語で、近代西欧世界に仏教を根付かせようと、効果的な方法を模索した結果の、必然的一致とみる方が、より妥当であろう。

24

の第一番目の段落の第一行からめからの引用であることを示す。

* 引用文の末尾に、省略記号(・・・)があるものは、その段落がさらに続くことを意味する。

Iwamoto, Akemi 2011. “Zen and Tibetan Buddhism in North America: East Meets East,”Dharma World, vol.38 (Buddhism in North America) pp.26–29.

Midal, Fabrice 2004. Chogyam Trungpa: His Life and Vision, tr. Ian Monk, Boston:Shambhala Publications.

Midal, Fabrice 2005. (comp. and ed.)Recalling Chogyam Trungpa, Boston: ShambhalaPublications.

Suzuki, Daisetz T. 2010. Zen and Japanese Culture, Bollingen Series, First Princeton Clas-sic Edition, with a new introduction by Richard M. Jaffe, Princeton University Press (firsted. 1959) .

Trungpa, Chogyam 2003. The Collected Works of Chogyam Trungpa, Vol. 1, ed. CarolynRose Gimian, Boston: Shambhala Publications.

Trungpa, Chogyam 2004a. The Collected Works of Chogyam Trungpa, Vol. 7, ed. CarolynRose Gimian, Boston: Shambhala Publications.

Trungpa, Chogyam 2004b. The Collected Works of Chogyam Trungpa, Vol. 8, ed. CarolynRose Gimian, Boston: Shambhala Publications.

Trungpa, Chogyam 2007. The Teacup and The Skullcup: Chogyam Trungpa on Zen andTantra, eds. Judith L. Lief and David Schneider, Halifax: Vajradhatu Publications.

岩本明美 1998.「『大乗荘厳経論』第 13章「修行章」—サンスクリットテクストと和訳—」『インド学チベット学研究』3: 52–91.

岩本明美 2010a.「ユダヤ人と仏教 —仏法を愛するユダヤの民」『京都産業大学論集・人文科学系列』41: 183–211.

岩本明美 2010b. 「アメリカ禅の誕生 —ローリー大道老師のマウンテン禅院—」『東アジア文化交渉研究』別冊 6(文化交渉としての宣教・布教 — 近代以降の新しい趨勢 —): 11–31.

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