「見る」ことと「触れる」こと ·...

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人文科学論集第 63 (2017.3) 「見る」ことと「触れる」こと 「生きる」ことの根源感覚を求めて一一 八回隆司 数年前,母を亡くした。危篤の母のもとに駆けつけ対面すると,いつの聞にか手を握ってい た。亡くなるその瞬間,握っている私の手を,昏睡しているはずの母が葎身の力を込めて握り 返してきた。そして息が絶えた。しばらくするとその手から温もりがなくなった。このとき母 の死を実感した。母は握り返すその手で,私に何を語りかけてきたのか。その意味を考えてい ると,今まさに握っていた母の手の感触が幼い頃の私の記憶を蘇らせた。 私が保育園児だ、った頃の話である。時間外保育で最後まで残っていた私は,一人とり残され た不安から,窓の外を眺め母の姿を待ちわびていた。時間締切りに母が「遅れてごめんねJ 息をきらせながら,園に入ってきた。ょうやく迎えにきてくれた嬉しさと安堵感から,母に飛 びつき,いつもは園児と遊びながら帰る道を,母と 2 人で帰宅した。その途中,私はこれまで の淋しさをうめるように, I お母ちゃん,手を握ろう」と言った。そのとき母が力強く握り返 してくれた感触と温もりを今でも覚えている。それから亡くなるまで,母の手を握ることはな かった。思うに, I 触れる」ことには,人間の生死に直結し不安や悲しみを癒す「不思議な力」 が宿っているようだ。泣いている赤ん坊を抱いてあげると,泣き止む。悲嘆にくれている人の 手を握ったり,ハグすると,癒されるからだ。 幼少の頃は, I 触れる」ことは特別な感覚ではなく,ごく当たり前の感覚だ、った。友達と体 に触れ, じゃれあいながら,遊んでいた。鬼ご、っこや相撲,ふざけ合うときにはいつも体に触 れていた。保育園外に出かけるときでも 互いに手をつないで歩いた。それがいつの聞にか, 手を握る・触れあうことはなくなった。小学校高学年の時にはフォークダンスで手を握ること さえ,恥ずかしくなった。それとはひき替えに,中学生になると「あいつは俺にガンを飛ばし ている」とか「冷たい視線J とか「目つきがよくないJ といった言葉をいつのまにか覚えるよ うになっていた。手で触れ,その温もりや感触から人の気持ちを察するよりも,その人の気持 ちやその「人となり」を目で判断することが多くなった。触れて物事を察することから, 目で 判断すること,それが大人になることなのかもしれない。 23

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人文科学論集第63輯 (2017.3)

「見る」ことと「触れる」こと

「生きる」ことの根源感覚を求めて一一

八回隆司

数年前,母を亡くした。危篤の母のもとに駆けつけ対面すると,いつの聞にか手を握ってい

た。亡くなるその瞬間,握っている私の手を,昏睡しているはずの母が葎身の力を込めて握り

返してきた。そして息が絶えた。しばらくするとその手から温もりがなくなった。このとき母

の死を実感した。母は握り返すその手で,私に何を語りかけてきたのか。その意味を考えてい

ると,今まさに握っていた母の手の感触が幼い頃の私の記憶を蘇らせた。

私が保育園児だ、った頃の話である。時間外保育で最後まで残っていた私は,一人とり残され

た不安から,窓の外を眺め母の姿を待ちわびていた。時間締切りに母が「遅れてごめんねJと

息をきらせながら,園に入ってきた。ょうやく迎えにきてくれた嬉しさと安堵感から,母に飛

びつき,いつもは園児と遊びながら帰る道を,母と 2人で帰宅した。その途中,私はこれまで

の淋しさをうめるように, Iお母ちゃん,手を握ろう」と言った。そのとき母が力強く握り返

してくれた感触と温もりを今でも覚えている。それから亡くなるまで,母の手を握ることはな

かった。思うに, I触れる」ことには,人間の生死に直結し不安や悲しみを癒す「不思議な力」

が宿っているようだ。泣いている赤ん坊を抱いてあげると,泣き止む。悲嘆にくれている人の

手を握ったり,ハグすると,癒されるからだ。

幼少の頃は, I触れる」ことは特別な感覚ではなく,ごく当たり前の感覚だ、った。友達と体

に触れ, じゃれあいながら,遊んでいた。鬼ご、っこや相撲,ふざけ合うときにはいつも体に触

れていた。保育園外に出かけるときでも 互いに手をつないで歩いた。それがいつの聞にか,

手を握る・触れあうことはなくなった。小学校高学年の時にはフォークダンスで手を握ること

さえ,恥ずかしくなった。それとはひき替えに,中学生になると「あいつは俺にガンを飛ばし

ている」とか「冷たい視線Jとか「目つきがよくないJといった言葉をいつのまにか覚えるよ

うになっていた。手で触れ,その温もりや感触から人の気持ちを察するよりも,その人の気持

ちやその「人となり」を目で判断することが多くなった。触れて物事を察することから, 目で

判断すること,それが大人になることなのかもしれない。

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これらの体験に突き動かされて, I触れる」ことにはどのような力が宿っているのか, I触れ

る」ことにはどのような意味が隠されているのか.この問題を「見る」ことと対照させなが

ら,考えてみる。

1 触覚と視覚の特性

1-1 視覚の触覚に対する優位

「触れる」ということは,人間にとってだけでなく,動物にとっても,世界とのもっとも根

源的な関わり方である。人聞は視覚・聴覚・嘆覚・味覚・触覚という五感をもっているが,多

くの脊椎動物もまたこれら五感を持っている。動物の祖先とされる単細胞のゾウリムシは,細

胞膜に何かが触れると,その表面にある繊毛の動きを変えて,逆方向に進み出す。脳をもたな

いこのような単細胞生物でさえも,周囲の異物に触れたとき,向きを変える。視覚も聴覚も暁

覚も味覚も持たず,ただ触覚しかない動物は存在しでも,触覚を持ない動物はおそらく存在し

ないだろう。生物の本質規定である「刺激一反応」からみて,触覚は動物にとって最も基底的

な感覚だと考えられる。しかし触覚が最も原初的で根源的な感覚だからと言って,触覚が世界

を認識する最も重要で本質的な感覚であるということにはならない。むしろ認識にとって最も

本質的な感覚は,一般的には視覚だとみられている。

視覚が触覚よりも上位に置かれる理由はいくつかある。第ーに触覚は,他の4つの感覚とは

異なり,対象と接触しなければ,対象の特性を捉えることができないからだ。そのため触覚は

対象との接触面に生じる感覚である。これに対し視覚や聴覚の受容器は,対象と接することな

く.隔ったっていても,売量や空気の振動などの物理量が伝達されれば,それを検出する。触

覚は,物の大きさを捉えることができるが, しかしそれは手に取って触れなければならない。

これに対し視覚は,手の届かない対象の大きさや形を一瞬にして認識する。物の大きさや形,

物同士の位置関係や隔たりを精確に認識することができるのだ。この点において視覚は触覚よ

り情報量が多い。ちなみに蚊に刺されたとき,療いその位置や様相を触感では正確に特定でき

ない。目で見て初めて,赤く膨れあがった箇所やそのふくれ具合を特定できる。

第二に,視覚は,触覚よりも対象に対し余裕をもち,能動的に対応することができる。すべ

ての感覚のなかで触覚は,たしかに動物の生死に最も深く関わる感覚であり, I生」に最も密

着した感覚である。「生きるJためには,獲物を捕獲しそれを食べ,子孫を残さねばならない。

そこには獲物や仲間と「触れる」という「生存」に直結した感覚が働いている。しかし他との

直接接触というこの身体感覚が,逆に触覚の致命的欠陥となる。なにか危険なものに触れたと

きには,既にわれわれは危害を受け傷害を蒙ってしまっている。刃物に触れたり,自動車に接

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「見る」ことと「触れる」こと

触するときは,既に傷を受けているときなのだ。こうした生死に関わる危険に触れる前に,み

ずからの生命を安定的に維持するために発達したのが視覚である。視覚は対象から隔たってい

ることで,これから起こるであろう危険を回避するための余裕をもつことができるからである。

「見る」ことは,対象と接する触覚とは異なって,隔たりのある対象を見る限り,距離の奥行,

対象に対する余裕が含まれている。「見るJことには,対象との隔たりという距離感が含まれ

ているのだ。視覚には対象との距離感が含まれている以上,r見る」ことには対象を「見る主体」

とは異なった隔たりのある客体として捉える「眼差し」の原型がある。

1-2 見ることの「眼差しJ

視覚が隔たりをもって見るということは,当然,対象との身体接触がないため,傷の痛みも

甘味を食したときの快不快といった感情も起こりにくい。裏から言えば,触覚(舌の触覚たる

味覚も含めて)こそが, 1自分にとって」の快不快.対象に触れている当事者という一人称的

感覚に最も深く関わることになる。たとえば,刃物に触れてできた傷の痛みは, 1私」にしか

分からない。それを見ている他人には,その痛さを感ずることはできない。そのために逆に,

触覚は対象に客観的に関わる三人称の感覚からはほど遠い。それは, 1触れる」ことそのものに,

対象との隔たりがないからである。対象との隔たりがなければ,対象に対し余裕をもって冷静

に対応できない。他の動物と人間とを区別する指標である「知Jの観点からすれば,触覚に埋

没している限り,人間の人間たる所以から離れた,動物の「生」に生きていることになる O 触

覚的「生」を視覚によって補完することではじめて,人間は対象に飲み込まれることなく,対

象と距離をとり,対象を客体化することができる。そのため人聞は「生」に対し場当たり的で

はなく, 1前もって」の展望のもとで,予測し準備できるのである。同時にまた触覚と異な

って,視覚は広い視野から対象を捉え,全体における対象の位置づけおよびその他の対象との

関連性を精確に示すことができるのだ。換言すれば,この隔たりは,これから起こるであろう

未来への時間的隔たりとして また「あそこjで起きていることが「ここに」及ぶであろう空

間的隔たりにほかならない。「見る」という行為は,ただ漫然と物を見ているのではない。「見

る」行為には,このような時間的・空間的枠組みが働いているのであり(1) 1見る」ことには,

一定の展望(=眼差し)が課せられているのだ。

見ることに「眼差しJの役割が課せられることで,視覚が五感の玉座に君臨した時代が近代

であった。聴覚は空間の空気の握動を聞く限り,視覚と並んで,隔たりをもった感覚である。

触覚は自分の皮膚でその情報を捉えることから,その情報は自己閉鎖的な一人称の情報であ

る。それに対し視覚や聴覚はその波動が空間を運動する限り,その情報伝達は複数の人々に

よって共有される。そのため触覚に比べて,はるかに三人称の世界における情報のコミュニ

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ケーションに優れている。かつて中世において人々は教会で聖職者から「神の声」を聴き,教

会音楽で「天の音色jを聴いた。この意味で聴覚は「神の意志」を我々に開示する働きを担っ

ていた。ロラン・バルトが言うように「中世は聴覚の時代でもあったJ(2)。しかし活版印刷術

によって情報伝達が音声には届かない所にも,また後世に記録として残せることからも,感覚

の玉座に視覚が座ることになる。人々は. I神の意志jを聖職者から「神の声」として聴くの

ではなく,活版印刷によって普及した聖書を見,そこから「神の意志jを読み取ることが,

人々に浸透していく。「神の意志」を「聴く」ことから「読み取る」ことへのこの変化は,当

然のことながら,自然を見,そこから「神の業jを読み取ることへと変化した。マクルーハン

によれば,印刷された活字は同ーのモノを大量につくる。そのため活字文化は画一性,規格

性.同質性,反復性,連続性をもたらし均質化・画一化された計測可能な空間と時間の発想

をうみだした(3)。自然を見ることは,自然に示されている「神の意志」を数学的時間空間の枠

組みとして読み取る「眼差し」へと変化した。自然を見ることは 自然の風景をただ「見る」

のではなく,自然を観察し,その基底に潜む数学的構造を浮き上がらせて「視る」ことへの転

換が行われたのである。中世から近代への時代の変化とは,聴覚から視覚への主役交代でもあ

る(4)。言葉の「見える化」でもある活字・印刷文化によって,視覚が感覚の最上位を占め,あ

の「眼差し」によって.数学的構造として自然を「透かして視る」ことを可能にしたのが近代

である。

2 r見るJことから「視るjことへの転換

2-1 近代の空間の意味するもの

〈遠近法〉の語源であるラテン語の IperspectivaJは. I透かして視るjの意味をもっo 近

代においてこの「透かして視る」を「眼差し」として具体化したものが. I透視図法J(線遠近

法)であった。エルヴイン・パノフスキーによれば,遠近法の真の意味での成立は十五世紀の

イタリアにおいてである。もちろん古典古代でも絵画において奥行は表現されていた。そこで

の遠近の隔たりは,近い山は緑に,遠い山は青く見えることから,色彩で表現したり,また遠

いものは,その細部がはっきりしないため,ぼやかして描くことによる遠近の表現、法だった。

古典古代において,真の意味での遠近法が成立し得なかったのは,古典古代の関心が,主に造

型芸術,とりわけ個々の独立した彫像を中心とする立体芸術に向けられたからだL彫刻が三次

元の立体をそのまま三次元の立体としてリアルな現実感をもたらすのに対し絵画は三次元の

立体を平面の二次元でしか示すことができないからである。そのため一つの平面にさまざまな

素材を配置し,構図をおくことになれば,素材相互の関係が考慮されねばならず,平面の二次

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「見る」ことと「触れるjこと

元では縦(高さ)横(幅)は示せても,正確な奥行(深さ)は示せない。これでは人物や樹木

や建物それぞれの素材相Eの位置関係がチグハグとなり, リアルな三次元の世界を描いている

とはいえなかったからである。この点を克服するために,近代の透視図法(線遠近法)は,物

体相互の関係に客観性をもたせ奥行感をだすために,等質で無限定な量的システムのうちに,

すべての物体を包摂した。この空間把握においては,アリストテレス的世界観のように,もは

や上下,左右が特別の階層的意義を持つということはない。情緒的,呪術的,質的性格は剥奪

され, I長さ,幅,深さ」における「延長」という規定のみが与えられた結果,位置は,任意

の一点の原点から延びる三本の直交する座標軸によって決定された空間にすぎないものとなっ

。た

これは明らかに,前近代の空間に対する考え方とは異なっている。プラトンの『テイマイオスJ

52Bにおいても示されているように(5) 前近代では空間(場)は,物に内属している。物はそ

の場において存在し,場と物そのものとは不可分である。その限り,物の存在にはその物にふ

さわしい場がある。植物が花を咲かせ実をつけるには,それにふさわしい場があり,魚が泳ぎ

産卵するには,それにふさわしい場がある。世界には多種多様なものが存在する限り,それに

応じた多種多様な場があるとされていた。「空間」にあたるとされる「場」は,物体の拡がり

であると同時に,その物質を構成する物質の基盤でもある以上,純粋な幾何学空間とは異なる。

物と物の場とが互いに浸透しあうからだ。場は物から分離独立した抽象的な空間ではない。

これに対し透視図法では,二次元の平面なキャンパスに三次元の世界を描くためには,物と

場である空間を引き離し物の後景をなしていた場を透視し数学的な純粋空間として浮かび

上がらせることで,だれにでも客観的にリアリティをもって知覚されるように考案されたので

ある。人によって見られる空間は,人それぞれによって意味の異なる空間のように感じられで

も,その根底には定量化可能な空間があるがために,科学主義や合理主義の母体たりえた。世

界を,中世キリスト教的世界観のように, もはや神意に満ちたテクストとして解釈することは

ない。観察者であればだれであっても その客観的な目によって世界は観察され,数学的に規

則化された空間と時間の関係の中に存在しているにすぎないのだ。物が空間を包含しているの

ではなく,今や物は空間上に配置されているにすぎない。

2-2 透視図法とは何か

透視図法の特椴は,二次元の平面に三次元の奥行を与える「仮象的な無限の空間」のなかに,

建物や入,物の素材を合理的に配置する点にある。透視図法を絵画に取り入れたアルベルティ

によれば,絵画とはいまや次のようなものとなる。「画家が視的ピラミッドに集約されたいく

つかの面を描こうとする壁や画板等の場合には.このピラミッドをどこか一定の場所で横に裁

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ると都合が良いだろう。そうすれば画家は,自分の線でもってそれに似た輪郭や色を表し得る

であろうから。絵を眺める者は,その絵が前に述べたようにして描かれたものであれば,視的

ピラミッドのー裁断面を見ることになろう。それ故,絵画とは与えられた距離と視点と光に応

じて,ある面上に線と色を以て人為的に表現された,ピラミッドの裁断面にほかならないJ(6)。

描こうとする対象を底面として,眼を頂点とする円錐(あるいは角錐)を考え,これを「視

角のピラミッド」と名づけると,絵画というのはそのピラミッドをどこかで、切った裁断面なの

だ。これは,視点を固定して物を見るとき,視点と物との聞に透明な面を立てて,その上に見

えるかたちを描くことになる。そのため 絵画を制作する場合に,単に縦横の二次元的な構成

だけではなく,奥へ向かつての奥行の三次元的な配列,位置関係や距離関係が,二次元におい

てではなく,三次元において把握されねばならなくなった。これまでの絵画では描写対象をど

こからどのような角度から見て描くのかという意識はなかったが,いまやアルベルティによっ

て人聞の眼と描写対象との位置関係が,客観的に認識されることになったのである。換言すれ

ば,画家の位置を正しく認識しなければ,眼の位置が変わり,それによって対象の形も変わっ

て見えてしまうことが,明確に意識されることとなった。空間を幾何学的に捉えるアルベルテ

イの「絵画論」は,当時の視覚構造に大きな影響を与えていた「カメラ・オブスクラJ(7)に則

して論じられている。

カメラ・オブスクラの原型は 暗い空間の中に 小さな穴から差し込む太陽の光が,外界の

対象を映し出すピンホール現象を利用したものである。図 1を見てほしい。暗室の壁に穴を開

けると,その反対側の壁に外界の対象像が投影される。このとき外界の蝋燭を底辺としピンホ

ールを頂点とした三角形と,壁に投影された蝋燭像を底辺としピンホールを頂点とする三角形

は,幾何学的な相関関係に置かれる。

図 1

ピンホールは,数学的に規定される一点に対応し,その一点から世界は演鐸され,表象され

ることになる。カメラ・オブスクラのこのような幾何学的光学によって,世界を「視る」こ

とは,個々人の感覚によってではなく,客観的な視覚構造として捉えられることになった。

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「見る」ことと「触れる」こと

「視線は眼を頂点としたピラミッドをつくるJ.I絵とは,このピラミッドを底辺に平行な任意

の平面で切り取った裁断図であって,これは底面つまり見られるものの形と相似形である」と

いったアルベルテイの考えは,カ;J.ラ・オブスクラから容易に連想される射影像のモデルなの

である。

このカメラ・オブスクラをもとに考案された透視図法は,静止した一眼を前提とする図法で

あり,視点を不動の一点とすることで,整然とした図法が成り立っている。逆に眼の位置をず

らせば,その絵画空間が査み.雑然としたものとして見えることになる。透視図法は,描写対

象とともに描写する眼を意識しその関係を数式的に客観的に表現しようとしたのである。そ

のため観察する視点は. I不動の点」として 観察される対象世界の外側に設定されねばなら

なかった。このように見る主体が対象世界の外側に存在し,外界から独立していることを自覚

するとき,透視図法の「観察者」の視点が成立する。

しかし透視図法によって表現されたこのような視空間は,実際に生きているわれわれにとっ

てリアリティをもった空間なのだろうか。晴れの日か雨の日か,また四季折々の周囲の変化に

よって,そこを歩く人の体調によって,同じ坂道空間で、あっても,急勾配で長く続く坂道に見

える時もあるように,その視空聞は常に等質というわけではない。観察者の視覚や認識は,そ

れほど明断で確固としたものではないのだ。見られる対象(客体)は,変わることのない固定

的存在ではなく,観察者の能動的な働きかけや見方・解釈によってその表象は様々に変化す

る。さらに観察者自身が対象世界で行為する限り,その世界の内部にとどまらざるを得ず,決

して対象世界の外に出ることなどできない。対象を外側から見る観察者の視点など不可能なの

だ。パノフスキーは透視図法の空間観念を次のように批判する。

「透視図法は,完全に合理的な空間つまり無限で連続的な等質空間の形成が保証されるよう

に,暗黙のうちに 2つのきわめて重要な前提を立てている。一つは,我々はただひとつの不動

の目で見ているということ,もう一つは,視覚のピラミッドを通した平らな裁断面は,われわ

れの視線の再現であるとみてよいという前提である。だが実際には,こうした二つの前提は,

現実(この場合の現実とは実際の主観の視覚印象)を大胆にも捨象している。なぜなら無限で

連続的な等質的空間,つまり純粋に数学的空間の構造は,精神生理学的空間の構造とは正反対

だからであるJ(8l。現実の視空間も触空間も,計測可能な等質空間とは対照的な〈異方的〉で

〈不等質〉な空間だからだ。このような透視図法への批判に対し,当然のことながら,次のよ

うな反論が予想される。透視図法とは,そもそも坂道空間を歩く人(主観)の精神生理的状態

を述べているのではなく,そのような精神生理的状態がどんなものであれ,坂道の空間構造そ

のものの客観性を見ているのだという反論である。そこでこのような反論に答えるためにも,

透視図法が前提とする「無限で、連続的な等質空間Jを思想的に根拠づけているデカルトの思想

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を見てみよう。

2-3 r世界の中で見るjから「世界の外から視るjへの転換

デカルトは,すべてを疑い,外界から遮断された純粋内面世界において, I我思う,故に我

あり」の絶対的真理に到達した。感覚的に知覚されるものすべてを排除したものとして「ただ

考えているだけの私」を真理においた。この真理を踏まえて外界の対象の真理とは何かと問え

ば,当然返ってくる答えは,感覚的に知覚される対象の側面ではなく,純粋に思考することに

よって捉えられる「ものの延長」だと言うことになる。ものの感覚的に知覚される側面は, も

のの実体である「延長」の上に乗っている付属物にすぎない。たとえば, 1時間後に水が2L

流入する水槽を,私は具体的な水の入った水槽として知覚することはできる。 2時間後にはさ

らに 2倍の水が流入した水槽を,知覚することができる。 3時間後……, 4時間後……。各時

間点 (x)の水の流入する水槽 (y)は,視覚像としてはそれぞれ異なっているが,しかし「水

槽に水が流入する」ことの実体は.各時点の視覚像ではなく, y = 2xであり,各時点を通底

する数的関係なのである。 y= 2xを捉えることは,各時点の水槽の具体的存在すべてを押さ

えることになる。 1,200時間後の水槽に流入する水の量も瞬く聞に把握することができる。デ

カルトは,身体感覚を排除し「純化された思考」を基点にして,世界を数学的方法によって合

理的に再構築しようとした。これによって人間は,身体をもつことなく,神にも等しい「精

神」でもって,世界の諸原理を認識しかっ世界を構造化することができるのである。

デカルトは『第二省察』の中で, I注目すべきことは,蜜臓の認識は,視覚や触覚や想像に

よるのではなく,たとえ以前にはそう見えても,そうであったのではなく,むしろただ精神の

洞察のみによることであるJ(9) と述べているO すなわち「このように私は目で見ていると,思っ

ているものを,私の精神の内の判断の能力によってのみ理解しているのであるJ(10)。われわれ

の知覚する行為とは,目という器官が司る視覚ではなく, I精神の内観」であって,われわれ

は世界を目によって知るのではないのだ。デカルトに言わせれば,人間は世界を「精神の知覚

作用」のみによって知るのであり,対象世界と一線を画した「心の内部Jに「観察者の視点」

を定めることが,外に広がる対象世界を知るための前提条件なのである。「純粋自我」に準じ

られた透視図法の観察者は,対象の外側に立つ自立的な存在として,感覚から浄化された「純

粋自我」として,自らの精神の内面に設定されたものに他ならない。外部の対象世界との関係

を制御するために,自らを純化し世界の外へ退かねばならないのである。このような観察者

の視点は,見るという行為を観察者の身体から切り離すこと,視覚を非肉体化することに他な

らない。

そうであれば,当然,次のような疑問が生ずる。デカルト的「純粋自我」の視点を具現化し

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「見る」ことと「触れる」こと

た「観察者J.r無限で連続的等質空間」だけをひたすら「思考するだけの私(自我)Jは,

体誰のことなのか。このような「私」など本当に存在するのか。デカルト的「純粋自我」の視

点は,実際は矛盾そのものに他ならない。「方法的懐疑」によって身体感覚をはじめとするい

っさいを懐疑し排除した結果,最も確実な「考える私」である純粋自我は,身体感覚を否定す

ることにおいて成り立っているからだ。裏から言えば,否定されるべき身体感覚がなければ,

純粋自我の確実性は成り立たない。ではこの「純粋自我の確実性を支えている,否定されるべ

き身体感覚がなければならない」とは,いったい何を意味するのだろうか。身体感覚は,純粋

自我にとって否定されなければならないが,純粋自我の確実性のためには存在していなければ

ならない。つまり身体感覚を否定する純粋自我(=純粋意識)が行っている「否定」とは,身

体感覚を人間存在から消去するのではなく,明断判明な意識から排除し,無意識下に押しやり

隠ぺいすることにほかならない。純粋自我の「視る」ことの裏側で,実際には身体感覚が意識

の外で働いているのである。

2-4 透視図法の欠陥

透視図法の致命的な欠陥は,観察者の生きた身体感覚が全く考慮されていない点にある。つ

まり人聞が対象を観察し対象の存在する環境に関わるとき,その身体の働きが環境の外に置

かれているのである。このような視覚モデルでは,当然矛盾が出る。その矛盾点を二つ指摘し

ておこう。たとえば,空間に縦線を51いたとき,そこには「左Jr右」の区別ができるが, ど

ちらの空間が右か左かを決めるのは,私の身体の位置に基づいている。私と相対している相手

からみれば,左右はその逆になる。さらにまた遠近法の本質である「遠近」は,身体の位置を

基点として「遠い」・「近い」が決められるからだ。左右,前後.rここjと「そこ」などは,

自分の身体がどこに位置しているかによって決められる限り,観察者の身体を対象空間の外に

置くことなど不可能である。身体のない純粋に「観察する」主体には,左右,前後.rここj

と「そこJ.r遠いJ.r近いjなどの言葉を使うことはできても,それが何を意味するかは理解

できないだろう。観察する主体から身体感覚をそぎ落としただ純粋思考によって観察するの

であれば,人は,左右,前後. rここ」と「そこJ.r遠いJ.r近いJなどの意味も分からなけ

れば,動くこともできず生きることもできなくなる。透視図法が前提とする「視る」主体は,

本当に現に生きている生身の人間なのだろうか。

身体感覚を排除した透視図法のもう一つの自己矛盾は,透視図法そのものにおいて露呈され

ている。透視図法によって 2次元の網膜像に三次元の知覚が可能となるためには,奥行(距離)

の知覚が成立しなければならない。そのためにはある種の手がかりによって奥行情報が抽出さ

れるような仕掛けが必要となる。奥行の手がかりを示せば,現実の対象を見なくても,線画を

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含む単純な画像を観察しただけで,奥行のある三次元空間の知覚が成立するからだ。ではどの

ような手がかりによって平面上の画像が奥行のあるものに見えることになるのか。

透視図法では,奥行を知覚させるための仕掛けとして,複数の平行線を 1点に収束するよう

に放射線状に描く。これは,対象までの観察距離が長ければ,それだけ対象の網膜像も小さく

なるという視覚の特性を利用したものである。これによって 2つの対象聞の遠近関係(奥行方

向)と, 2つの対象聞の距離の比についての情報が得られる。しかしこの比から得られるのは,

二つの対象聞の距離という相対的な比で、あって,観察者と対象との絶対的な距離の情報は得ら

れない。対象までの距離の知覚を成立させるためには,さらなる情報として水平な地面を加え

ると,放射線状の拡散する線は相互に平行となり,対象までの絶対的距離を決定できる。つま

り対象までの観察距離である拡散方向と水平な横方向の変形した Y字形接合という手がかり

によって,三次元空間が知覚されることになる。これは実際には二次元の平面な画像であって

も,錯視によって三次元空間のように知覚されるということだ。

〉ぐ

図2

くごλ

図2をみると,両端にある二本の矢羽根の方向によって,中央部の線分の長さが違って見え

る。矢羽根が外向きの拡散する Y字型であれば,中央部の線分は実際より長く,内向きの閉

じた Y字型であれば中央部の線分はより短く知覚される。このような構造があると自動的に

奥行情報に辻棲が合うように.線の長さが処理されるため, Y字型が外向きか内向きかの方向

性によって主線部分の長さが,過小評価されたり過大評価されたりする。

図3

32

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「見る」ことと「触れる」こと

図3は,拡散する横線に,図 2の二本の矢羽根線分がaとbとして縦に配置された仮想的

な立体空間である。 Y字型構造により,観察者から見て内向きの Y字型の bは,凸の立体角

としてより手前にある部位として知覚され,外向きのY字型のaは凹の立体角として知覚され,

より遠くにあることが示唆される。二次元の平面上では,物理的には aと同じ長さである bは,

立体空間では aと同じ長さの cの一部となる。 2次元の画像に Y字型接合のような局所的な奥

行情報が得られると,立体的な構造の知覚を成立させてしまうのである (11)。

私たちは生きている限り,身体を動かし,身体感覚を通して三次元の世界で生きている。生

物は現実の三次元空間で生き抜くための身体感覚を進化させ,それを生命の記憶として培って

きた。このため目に入る二次元映像は,この生命の記憶が集積する身体感覚に従って,無意識

に脳によって三次元空間に補正される。私たちの生きている場は,三次元の世界である限り,

これは絶対に揺らぐことがない。生きるためのセンサーである感覚は,三次元情報を基準とし

て機能する限り,奥行の手がかり情報が与えられると,それを三次元のものとして知覚するこ

とになるのだ。これをしなければ,私たち人類は自然界を生き抜くことはできず,淘汰されて

いただろう。透視図法は,二次元の平面画像に三次元の立体感を知覚させるために,観察者か

ら身体感覚を排除し数学的空間を作り出した。しかしその透視図法においては,排除したは

ずの身体感覚が無意識に働き,三次元知覚へと補正していたのである。それは,視覚も「生き

る身体感覚」の一つである限り,身体から遊離した視覚など,存在しないからである。透視図

法は,視覚を「身体Jから切り離し「思考」の側に再編成したデカルト主義的「視覚論Jに

他ならない。こうした視覚論に身体感覚の重要性を唱え. 1見るjことに身体感覚を復権させ

たのが,イギリス経験論のロックやパークリである。その際彼らのとった戦略は,身体感覚の

根底で働いている触覚を挺子にして,近代の視覚優位の「視覚一触覚」論を逆転させることに

あった。

3 視覚から触覚へ一一モリヌークス問題

3-1 ロックの「視覚一触覚J論

一六九三年のある日. r新屈折光学』で知られるアイルランドの光学者モリヌークスから,

ロックは一通の書簡を受けとった。ロックはその書簡で提起された問題を重大に受け止め,そ

れを『人間知性論J第二巻第九章で紹介している。

「ここに,成人した先天的盲人がいるとしよう。彼は同じ金属でできた,ほほ同じ大き

さの立方体と球をその触覚で区別できるように教えられ,それぞれに触れれば, どちらが

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立方体で, どちらが球かを言うことができるとしよう。それからこの立方体と球がテーブ

ルの上に置かれて,この盲人の目が突然見えるようになったとしよう。聞い。盲人の目が

見える今,それらに触れる前に,視覚によってどちらが球でどちらが立方体かを区別し.

言うことができるだろうか。これに対して,鋭く明敏な問題提起者は,言えないと答える。

なぜなら,盲人は球体がどう触覚を感発し立方体がどう触覚を感発するかを経験してい

るが,触覚をかくかく感発するものは,視覚をかくかく感発しなければならないという経

験,すなわち手を不平均に押す立方体の尖った角が. 目に立方体の尖った角の現れ方をす

る経験をまだしていなし、からである。私は,誇らしく友人と呼ぶこの考え深い紳士のこの

問題に対する答えと考えが一致している。盲人は触覚では立方体と球体を誤りなく示し,

触れた形の違いを間違いなく区別できるが,視覚だけの場合は,初めて見てどちらが球体

で,どちらが立方体かを絶対に言えないだろうという意見だJ(2)。

ロックによれば,開眼手術を受けた人は,見る経験をこれまでしていないため,視覚情報の

ストックがない。今まさに目が見えるようになった以上,その視覚は純粋視覚の状態にある。

そのため過去に経験してきた触覚を,その視覚と対応させることなどできない。触覚を介して

いない純粋視覚の状態で¥球と立方体とを識別をすることなどできるのか,これがモリヌーク

スが提起した問題であった。ロックはモリヌークスのこの論点を,球と立方体との形の識別と

してではなく,実際にわれわれが見ている視覚像は,網膜に映った平面像にすぎないのに,な

ぜ、奥行をもった三次元空間として見えるのかという「見るJ構造の問題として再提起したので

ある。触覚の働きと連動していない単なる純粋視覚の状態で,三次元空間の観念をもつことな

どできるのか。われわれは赤ん坊の頃から視覚と触覚の協同経験を繰り返すことで,三次元の

空間観念を形成してきた。もし触覚経験しかない盲目の成人が開眼したとき,われわれと同じ

視覚世界を持つことができるのか。ロックによれば,対象の色彩と陰影のグラデーションが目

を刺激するとき,それに対応する触覚的刺激が常に経験されているならば,視覚的刺激による

多様な陰影の平面像を見た瞬間,習慣的な「無意識の判断Jによって,その視覚像は一様色の

立体像に変わる,とされている。

「金や白石膏や黒大理石などの一様色をした球体がわたしたちの目の前に置かれると,

間違いなくわたしたちの心に刻まれるのは,様々な程度の明るさと輝きとをもって目に入

いってくる,多様な影のある平らな円の観念である。しかしわれわれは,立方体がどんな

類の現象がわれわれの内に生じるのか,物体を感覚する形の違いに応じて光の反射にどの

ような変化が起きるのかを,習慣的に知覚し慣れているので,蒔踏することなく,一つの

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「見るjことと「触れる」こと

習性になった習慣によってこの目に現われた「平面的な円」を変換させ,その原因を「立

体的な球」であると判断するのであるJ(13)。

ロックの問題は,球体が網膜に映るときその視覚像は二次元平面の円形であるはずなのに,

なぜ三次元の球形に見えるのかということであった。その答えとして,ロックは,球について

の視覚は,球についての触感との常日頃の連動経験の積み重ねによって,網膜に映った「平ら

な円」を「三次元の球」に無意識に変換させていると考えた。視覚は触覚との連動経験が習慣

化されることで¥瞬間的に無意識に視覚像を「二次元から三次元へ修正している」のだという

見方を提起したのであるO ロックのこの考えは.Iカメラ・オブスクラ」の「網膜の二次元的平面」

を一方で、認めながら,他方でまた幾何学的空間を超えた,触覚の捉える三次元空間をもまた認

め,両者は「無意識の判断」によって連動し,それが「習慣」にまで落とし込まれた結果である,

というきわめて陵味な形で決着させている。視覚の二次元空間と触覚の三次元空間の両者の連

動は. I習慣化Jされたことによると答える前に,なぜ異なるこの両者が連動しなければなら

なかったのかに,答える必要があったはずである。視覚と触覚の連動という両者の関係性を認

めても,それがどのように関係しあっているのかが,ロックにおいては論じられてはいなし、

3-2 パークリの「視覚一触覚」論

ロックの「視覚一触覚」関係の暖味な決着に対し.パークリは「カメラ・オブスクラ」とし

て捉えられた視覚の「見えJは虚妄であり,その実体は「触覚」によって担われていると主張

し視覚の「虚妄性」を徹底的に暴いた。パークリの『視覚新論』のテーマは,なぜ,どのよ

うにして,われわれは視覚で自分と対象との隔たりである距離(奥行)を知ることができるの

か, という点にある。 I(網膜では)距離はそれ自体として,そしてまた直接的には見ることが

できないということについては,誰もが同意するであろう。距離は,端点を目にまっすぐに向

けた直線であるから,それは眼底にただ一点しか投影されない。その一点は,距離が長かろう

と短かろうと全く変わらないJ(4)。例えば立方体が網膜に映し出されるとき,三次元の立方

体は網膜の二次元面に投影されている。そのため三次元の立方体は,当然,二次元の平面体と

して映し出される。立方体の角をなしている部分は,点として見えるだけであり,それが奥行

をもった三次元のものとして見えることなどないのだ。

「隔たり(奥行)は目だけでは知覚しえないはずだ」というこの問題提起の背景には,目を

光学装置(カメラ・オブスクラ)と同一視する視覚モデルへの批判がある。有名なデカルトの

『屈折光学』はそのモデルの典型である。デカルト以降の光学・解剖学的な知見の発達をみれ

ば,パークリにとって幾何学的な視覚モデルはどうしてものり超えねばならない問題で、あった。

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この幾何学的モデルの特徴は次のように集約される。第ーは,人聞に眼球が二つ具わっている

ことで¥対象から二つの眼球に向かう二本の光軸がつくる角度は,その対象の距離に応じて変

化するから,この幾何学的な関係を手がかりに対象距離を目で見ることができるという考えで

ある。第二は,たとえ眼球が一つしかないとしても,日は距離を捉えることができるという点

にある。目の水晶体は対象(光源)から発散する光線を屈折させ,網膜上に焦点を結ばせるが,

対象が目の近くにあるときには光の拡散度は大きく,対象が遠ざかるにつれて小さくなる。そ

のためこの拡散度が大きいか小さいかによって対象距離を計ることができるからである。

しかしパークリは,このような幾何学的モデルでわれわれの視覚が成り立っていることを,

否定する。なぜなら人がものを見るとき,このような幾何学的な計算や操作を決してしていな

いからだ。「一部の人々が,距離の知覚を説明すると称する際に用いる,こうした直線や角度

は,それ自体全く知覚されないし光学に詳しくない素人ならば,およそ考えつきもしないだ

ろう。誰の経験でもよいから,私は次のように問うてみたい。ある対象を見るとき,二つの光

軸の角度の大きさからその対象までの距離を計算したり,あるいは一点から自分の瞳孔に達す

る光線の拡散が大きいか小さいかを考えたりしているのか,とJ(J5l。

パークリによれば,視覚はこのような幾何学的モデルにおいて成り立つのではなく,むしろ

触覚によってその実質が与えられているのである。たとえば「平面」は,われわれにとって幾

何学的二次元空間の「平面」としてあるのではなく,真っ平らな均一な触感によって「平面」

なのである。視覚的対象である距離や大きさといった幾何学的な知覚は,実際は触覚にもとづ

いている。「平面」であっても,それは触覚的対象なのだ。「というのも,絵は平面だと我々が

言うとき,そこで意味されているのは,絵は触覚にとってなめらかで均一的に現れる, という

ことだからである。しかしそうなると,このなめらかさや均一性,換言すれば,絵が平面であ

ることは,視覚によって直接的には知覚されないことになる。なぜなら絵は,眼にとっては,

多様な模様に富んだものに見えるからであるJ<16l0 決して平面なものと見えているわけではない。

このようなパークリの考えに従うならば,開眼手術直後の純粋視覚では,光と色を感じるこ

とができても,形の識別はできない。当然ながら,円と球の識別はできない。われわれの見え

ている形は,実は脳内に蓄積された触覚情報を,純粋視覚情報を手がかりにして作り上げたも

のにすぎない。純粋視覚では輪郭のボケた明暗のある唆味な像しか見えない。触覚を介さない

純粋視覚には,幾何学的モデルで言われている形の識別など成り立たない。幾何学的な形の識

別は,触覚経験なしには不可能なのである。このパークリの考えに説得力をもたせている報告

がある。 11世紀から 1931年までの 66例を集めて研究したゼンデンの報告書によると,先天

的盲で成長した人が.開眼手術後直ちに立方体と球体を見分けたというデーターは,ほとんど

ないからだ問。

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「見る」ことと「触れる」こと

4 r視覚ー触覚j論の生理学的展開

4-1 コンディヤックの『人間認識起源論』における「モリヌークス問題J

「モリヌークス問題」は,イギリスのみならず,一八世紀のフランス思想界にも大きな論争

を巻き起こした。ここではこれまでの「視覚一触覚」関係に,新たな視点を持ち込んだコンデ

イヤックの「視覚ー触覚J論を取り上げることにする。コンデイヤックの「モリヌークス問題」

に対する関わり方,つまり「視覚」と「触覚」との関係には,大きな立場の転回があるとみら

れている。『人間認識起源論j(一七四六年)では,ロックやパークリと異なり, I純粋視覚」

であっても「触覚」で得られる類似の観念を持っているとされたのに対し, r感覚論j(一七五四

年)では「触覚」こそが,他の諸感覚と比べて第一義的感覚とされたのである。これは,コン

デイヤックの「視覚一触覚」把握が,ロック・パークリに対する批判から賛同へと,その立場

を転回したとみられている。しかしコンデイヤックのこの転回には一貫した思想が流れている。

その一貫した思想を貫くものは,視覚を幾何学的モデルとしてではなく,生理学的モデルとし

て捉える姿勢である。こうした姿勢には,コンデイヤックに限らず,当時の一八世紀啓蒙哲学

全体を貫く思想的背景がある。後世の史家が名付けた「啓蒙主義philosopiedes lumieresJと

いう言葉から, r理性の光JI真理の光」の力が強調され,視覚優位の哲学が論じられたと思

われるが,実際は,それとは正反対に.触覚の重要性がこれほど強調された時代はなかった。

一人世紀は「触れることJの生理学的意義が主張してやまなかった時代なのである(18)。

コンデイヤックは, r人間認識起源論J(一七四六年)において,モリヌークス問題に関する

ロックの見解を批判する。先に述べたようにロックは,視覚それ自体では大ききや形につい

てのいかなる観念も捉えることができず,こうした観念は,触覚に由来する観念との結合によ

って初めて生じるものだと主張した。しかしそうであるなら,視覚と触覚の聞を結合する何ら

かの判断,ないし推論が必要となる。ロックはこれを「無意識の判断」と呼んだが,ものを見

るとき,通常の人聞はこのような「判断jをしてはない。コンデイヤックは,視覚像にこうし

た「判断」が混入していることを否定するために,視覚そのものにすでに凹凸や大きさの感覚

が含まれていると主張する。「延長が我々に認識されるのがどのような感官を通してであれ,

それが全く相異なる二つの仕方で表象されるということはありえないからである J19)。そのた

めコンデイヤックは,空間観念の把握において視覚と触覚との聞には何らかの共通性があるこ

とを認めることとなる。

またコンデイヤックのパ}クリに対する批判は,我々の視覚世界に空間性(拡がり)がもた

らされるのは,もっぱら「触覚の導き」に負っているという点に向けられる。触覚による視覚

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への導きが習慣となって視覚に補正が働くというが,なぜ触覚による一方的な主導によって,

視覚世界が補正されることになるのかが,述べられていない。コンデイヤツクによれば,パー

クリは,視覚を介さない純粋触覚そのものとは一体どのようなものなのか,を論ずることがな

かった。触覚を介していない視覚の中にも,奥行の空間観念は潜在的に含まれているのだ。

「彼の目の前に広がる世界が一つの点のようなものでないことは確実で、ある。それゆえ彼は,

長さとか広さとか深さといった,延長を知覚しているにちがいない」側。そうであるとすれば,

先天盲の人が開眼したとき,その人が視覚によってはじめて得る空間観念は,彼がすでに触覚

によって獲得してきた観念と同じものになるはずである。「この視覚的観念は,触ることをと

おしてすでに彼が獲得していた観念と相似たものであるだろう O なぜならば,延長が我々に認

識されるとき,それがどのような感官であっても,それが全く相異なる仕方で表象されるとい

うことはありえないからである。……それゆえ,この先天盲も,見ただけで球体を立方体から

区別しうるはずである。なぜなら彼は 触ることによって得たのと同じ観念を視覚像の中に再

認するだろうからであるJ(21l。

この『人間認識起源論』が書かかれた時点において,十四歳の白内障の若者を手術し,パー

クリの予見の正しさを実証したチュセルデンの実験結果を,ヴォルテールを介して,コンデイ

ヤックも承知していたはずである (22)。それにもかかわらず,コンデイヤツクはなぜ「この先

天盲の開眼者も,見ただけで球体と立方体を区別できるはずだJと主張したのか。これに対す

るコンデイヤックの答えはこうである。チェセルデンの被験者が開眼直後に,ものをすぐに見

ることができなかったのは,眼球や水晶体などを動かす筋肉の未訓練のためなのである。もの

を「見るjためには,ただ目を開ければ見えるというものではない。「光線の通過を制御する

瞳孔の拡大収縮」ゃ「光の束を正確に網膜上に集めるための水晶体の前後運動」といった生理

学的運動が,瞬時に行われなければ,対象像を網膜に結ばせることはできないのである。

「……長い時間のなかでこわばってしまったばね仕掛け[筋肉]をしなやかに動かせるよう

になるまでには幾日もの訓練が必要だ、った。この若者が二か月もの間,暗中模索状態で触り回

ったのは,こういう理由からなのである。彼にとって触覚の助けは確かに必要で、あったが,そ

れは, [パークリが言うように.触覚だけが延長の観念を与えるからではなく, ]触ることによ

って得られる対象の観念を目で見て取ろうと努力することが,見るための感覚を訓練するよい

機会になったというだけの理由からなのである。もし仮に光を見るたびに彼が手を使うのをや

めていたとしても,非常に時間はかかるであろうが,いつかは彼が触覚で得られるのと同じ観

念を視覚だけによって獲得したであろうことは間違いないJ刷。パークリのように,視覚は触

覚の裏付けを必要とするのではなく.すでに視覚には触覚の働きが潜在的に含まれている。そ

のため平面をみても立方体を感じとることができるのだ。このとき見る働きには, 目の生理学

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「見る」ことと「触れる」こと

的運動が連動することになる。

コンデイヤックは.r私自身の経験に照らしていえば,ある球体を見るとき,私は平たい円

形とは別の何かを見ているのである」凶と述べている。「球を見ている」ことは,もはや「網

膜上の二次元の平面」とみなす「視覚モデル」として把握されているのではない。そのため視

覚は必ずしも触覚によって主導される必要がなくなったのである。視覚がカメラ・オブスクラ

の幾何学的モデルとして捉えられる限り,網膜に映し出された二次元的平面の「視覚」は,

「触覚の導き」がなければ,三次元の球の「視覚」にはならない。逆にこうした幾何学的視覚

モデルから解放されるとき. r視覚jは「触覚の導き」を必要としなくなる。コンデイヤック

が.r視覚」の「触覚」依存を否定した背景には.r視覚Jの幾何学的モデルからの脱却があっ

た。「見るJことは,そもそもカメラの光学器械のように「視る」こととは異なるのだ。

4-2 コンディヤックの触覚優位への転回

ところが,一七五四年に発表されたコンデイヤックの『感覚論』の中では.r触覚」の意義

が強調され.r単独で外部の対象を判断する唯一の感覚Jと見なされることになる。ここでは,

触覚以外の四感(聴覚,視覚,味覚,喚覚)は.r魂の変様」にすぎず,感覚の原因である外

部対象と関係していないとされている。これらの諸感覚が外部対象と関係するのは.r触覚の

導き」によるのだと,コンデイヤックは主張のトーンを変えることになる。これではパークリ

の「触覚論」への回帰ではないか。『感覚論』におけるコンデイヤックは,単なるパークリの

代弁者なのか。

コンデイヤックの『感覚論』は,モリヌークス問題におけるように,視覚と触覚の関係を扱

っているわけではない。むしろ,視覚,聴覚,味覚,嘆覚という四つの感覚と触覚の関係が『感

覚論』での重要なテーマとして論ぜられている。視覚は,他の三つの感覚と完全に同列に扱われ,

対象そのものの性質ではなく,われわれの「自己変様jとして捉えられているのに対し触覚

は他なる対象の存在を開示する感覚として位置づけられているのである。

『感覚論』の叙述構成は,全く無感覚な彫像にまず嘆覚のみを与え,この感官をとおして彫

像がどのような観念を形成していくのかを考察していく。そして,単独の嘆覚の次には単独の

聴覚を,さらには味覚を視覚を,というように一つ一つ感覚を増やしていき,そこで生じる彫

像の内面の変化を想像するという思考実験によってこの書は貫かれている。これは,彫像に見

立てたいわば生まれたばかりの赤ん坊が,さまざまな感覚を発達させながら,ものごとを認知

していくプロセスを連想させる。

この思考実験をとおしてコンデイヤックは,次の二点をテーゼとして掲げている。まず第一

に,最も高度で抽象的な思考能力まで含めた人間の全精神活動は,感覚に由来しているという

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点である。「この書物の目的は,人間の全ての認識と機能が,感覚に由来することを立証する

ことである」倒。ただしここでいう「感覚」は,視覚・聴覚・触覚といった認知に関わる受

容的感覚だけを言うのではなく,これらの感覚印象に伴う快不快の感覚にも注目し,それを含

んだ感覚こそが,一切の精神作用の唯一の基礎をなす。「感覚はどんなものでも必然的に快不

快をはらむのであって,それに従って人聞はあるものを求めたり避けたりする関心を抱く J(26)。

こうした生の衝動は「不安」とも呼ぴかえられる。「それゆえ,触れ,見,聞き,嘆ぎ,味わ

い,比較し判断し反省し愛し憎み,恐れ,望み,欲する習慣をもたらす第一の原理は

この不安で、あるJ(27)。コンデイヤックの「感覚」には,単なる対象の知覚の問題だけではなく,

それに関わることで自らの生きょうとする衝動が根底に働いているのだ。生きょうとする衝動

を促進させてくれる対象は快として感じられ,それを阻害する対象は不快として感じられる。

すべての感覚は,この生の衝動に由来している。生存にふりかかる危険.それに伴う不安を回

避するためのセンサーとして感覚は働いている。

『感覚論』の第二の論点は,いかにしてこの彫像が,自我(心)の外側にある世界(外的対象)

を.r自我の変様Jとしてではなく,自我ならざる世界.r他」として了解するようになるのか

を明らかにすることである。この彫像がはじめてこの外の対象世界と触れるのは,まさに触覚

においてだけなのだというのが,コンデイヤックの第二の論点をなす。触覚こそが,そして触

覚のみが,自ーイ也の未分化の状態にまどろむ彫像(赤ん坊)をその自問的世界から自ー他の世

界に引きだす決定的な役割を果たすのである。

触覚以外の他の四感は,それ自身では「自我の変様」の意識しかこの彫像に与えない。例え

ば,物を見ても,それは幻かもしれない。それを手にとって触れてはじめて,その物が存在す

ることが分かる。また何かの音を感じても,それは気のせいかもしれない。それが手によって

触れられる物であることで,はじめて音を出している物の存在を確認することができる。触覚

以外の,視覚,聴覚,味覚,嘆覚は,自分にとってそのように感じられるといった自分の感じ

方の変化であり.r自我の変様」である。そのために,自分の体調などによって,これらの感

覚はしばしば錯覚をもたらす。これに対し触覚は「他なる存在」を開示する感覚であり,自

分を超えた「他なるものJ.すなわち「外の対象」の世界を開示する感覚である。外的対象が

どのように感じられるかではなく,外的対象が存在するかどうかの感覚である。「自我の変様」

といった感覚は,刺激によって自分を変様させる「他なる存在」を前提とする限り,視覚,聴

覚,味覚,嘆覚の四感の根底には.r他なる存在」を開示する触覚が「根源感覚JCsentiment

fondamental)として働いていなければならないのだ(28)。

しかしコンデイヤックによれば,触覚が与えられているからといって,ただちに彫像(赤ん

坊)は「外部世界」を発見することにはならない。コンデイヤックは触覚章をこう始める。

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「見る」ことと「触れるjこと

「唆覚・聴覚・味覚・視覚を奪われ,ただ触覚だけに限られた彫像がまず感じるのは,自分の

身体内部の生理的運動(呼吸運動など)である」倒。この段階での彫像は自分に身体があるこ

とを知らないが,こうした動物的生命の鼓動によって与えられるこの根源感覚は,彫像に漠然

とした自我の感覚をもたらす。次に,周囲の空気の寒暖や風のそよぎのようなものも感じるだ

ろう。だが,それらいずれもそれ自体としては外界を示さず,自我の変様としてのみ感じられ

る。これは,純粋嘆覚や純粋視覚の段階と同じである。では一体,自一他未分化の状態を超え

ていくためには,どのようなプロセスが必要なのか。

コンデイヤックによれば, r隣接しながら一つの連続をなすく私の〉身体J(却)という世界と

の境界がまず発見されねばならない。コンデイヤツクは,身体を介した「自一他Jの成立過程

を赤ん坊の発達過程に求め,それを生まれもった「自然の促しJ(自然的成長)ともいうべき

生理学的過程として示している。「私は彫像に四肢の使用を与える。ところで,いかなる原因

が四肢を動かすのか。それは四肢を使おうという彫像の意図ではありえない。なぜなら彫像は

自己が互いに重ねたり外部対象の上に運んだりできるような身体部分からできていることを知

らないからである。だからこそ,始めるのは自然でなければならない。彫像の四肢に最初の運

動もたらすのは自然の役目である J(31l。

4-3 触れることによる「自ー他j関係

彫像(赤ん坊)は,生きょうとする「快および不快」への反応として自分の四肢をばたつか

せることになる。むろん この段階ではまだ彫像は自分に身体があることなど分からず,自分

が何をしているかを意識しないまま,それをしている。そのため自分の動きを空間的に定位す

ることなどできないしその外側に自分とは異なる世界が広がっていることも意識しない。し

かしその盲目的な運動の繰り返しは,やがて彫像にある発見をもたらす。それは,イ本を動かし

触れることで感じとる「不可入性J(固さ・抵抗)の経験である。コンデイヤックは言う。

「不可入性Cimpenetrabilite)はあらゆる物体に固有な属性である。正確に言えば,わ

れわれはそのことを感じるというよりは,そう判断するのであるが,その判断は物体が我々

に働きかけるときに生じる感覚に由来する。その感覚とはとりわけ固さである O というの

も,互いに押しあうこつの固い物体の中に我々は,それらが互いに互いを排除しようとす

る抵抗感をはっきりと感じるからである。もしそれらが相互浸透するとすれば,両者は一

つに溶け合ってしまうだろう。だが,それが互いに浸透しないことになれば,それは必然

的に区別され,常に二つのものとなるJ(32)。

41

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この固さを感ずることで,自分が触れることでの抵抗力を感じ,そこに「触れる自分」とは

異なる存在を感知する。意識以前の「自然の促しjによって,自分の手をあちらこちらに動か

すこの彫像は.あるとき偶然に自分の身体,例えば胸に触れることになる。その瞬間をコン

デイヤックはこう描いている。「ここにおいて彫像は,自らの身体を認識しその身体を構成

するあらゆる部分において自分を再確認することを学ぶ。なぜなら,膨イ象が自分の身体のあれ

これの部分に手を触れるやいなや,その感触を感じているのと同じ存在が,あたかも誰かが誰

かに瞬くようにこう答えるからである。〈これは私だ),とj(33)。

触覚にあって他の感覚にはないもの,それは,触れること(主体)と触れられること(客

体)が相互に転換しあうというこの感覚の二重性であり,そこにこそ「自分の外へと脱出させ

る感覚j,自己客体化の感覚が, I触れる」ことにおいて生じているのである則。こうして彫

像は,自分の身体がまさに抵抗と厚みと拡がりのある身体(=物体)であることを,次第に感

じていく。身体を外的空間の祖型として感じとられることで,外的世界が開示されていく。自

分が自分の体に触れる限り,そこには「刺激一反応」の生理的関係が生ずる。自分が他なる生

命に触れれば,そこには「呼びかけと応答Jの生命的「刺激一反応Jが起こる。しかし物体に

触れたときには,このような生命の「呼びかけと応答」関係は起こらない。この経験を通して

外的世界における自分と他なる生命.自分と他なる物体の区別を感じとる。

「彫像が自分の手を自分の体の上にしか置かないでいる限り,彫像にとってはあたかも自

分だけが存在する全てであるかのように思われている。だが,彫像がたまたま外にある物

体に触れることがあれば 自我は手の中で自分が変様されたと感じるのにもかかわらず,

相手の物体の中には同じような変様を感じないということが生じる。手はく私〉と言って

いるのに,相手からは何の応答も受け取らないのである。このことによって彫像は.今自

分が触れている物体の在り方が全く自分の外部にあるものと判断する。彫像はこの経験,

〈触れることにおける呼応〉から自らの身体を形成したのであったが,同じその経験から

他なる物体をも形成するのだ。……もちろん,かつて〈私〉と答えたその〈私〉が,

ではそう答えるのをやめるという違いはあるにせよj(35)。

、事、ーにー

触覚が他の四感覚と異なるのは, I他jの存在を捉えることができるからだ。それによって,

外界の「他」を摂取し,それを外に排出し,物質代謝によって生きることができる。そのため

に身体の生理的運動が行われるのだ。この生理的身体の動きの中で, I他」に触れる触覚は,

自分の身体感覚を培い, I他」を感じとり,同時に「自Jを感じとっていく。もちろんこれは,

「自」や「他」という観念を認知することではなく 意識化される以前の情動レベルにすぎな

42

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「見る」ことと「触れる」こと

い。触覚は「生きるjことに直結した身体的運動であるとともに. I自 他」関係を感じとる

感覚なのである。したがって触覚こそ生の根源感覚であり,その他の四感は. I生きる」こと

をより確実に安定化するための,触覚の補完的な感覚だということになる。その限り,当然の

ことながら,視覚には触覚の痕跡がある。

4-4 コンディヤックにおける「視覚一触覚J論の転回

奥行のある外的世界を「見る」ためには,触覚の裏付けがなければならない。『人間認識起源論』

ではパークリのこの視覚における「触覚の裏付け」を否定したにもかかわらず,コンデイヤッ

クは『感覚論』において触覚を「生きるjことの第一義的な感覚として評価する。これは自ら

の見解を一人O度変えたように見えるが.そこにはある意味での一貫した見方が通底している。

『人間認識起源論』において強調されたことは,視覚の働きには凸凹や大きさの触覚の働き

が含まれている限り,反省された視覚の観念は,反省された触覚の観念と相似るとする考えで

ある。視覚には,見る働きだけでなく,すでに「奥行」感覚も含まれているのだ。『人間認識

起源論Jでは. I何らかの感覚によって触発されるとき,そこで感じられているものを反省し

てみることだけが.この知覚の観念をもたらすのである」側と述べられているように,この

「視覚一触覚」関係を「反省Jの姐上に載せ分析した結果. I視覚」と「触覚」との共通の働き

を. I視覚」と「触覚Jという異なった立場から語らざるをえなかったのである。これは,コ

ンデイヤック自身が高く評価した.感覚と反省による観念に基づいて分析するロック・パーク

リの方法論を踏襲したためである (37)。観念にもたらされる限り,それは言葉によって語られ

ることになる。「視覚」と「触覚」という異なる言葉を使う限り. I視覚Jと「触覚Jは異なっ

た働きとして想定され,そのために両者の共通性である「視覚には奥行感覚が含まれているj

という感覚を. I視覚観念は触覚観念と似たものとなる」といった表現で述べざるを得なかっ

たのである。

このある種の「もどかしさ」を解消するためには. r人間認識起源論』の方法的原点に立ち

帰り,視覚観念や触覚観念がどのようにして形成されてきたのか,その起源は何であるのかを

徹底化せざるをえなかった。「デカルトは,われわれのもつ諸観念の起源や生成を知らなかっ

た。彼の方法の限界はこの点にあった。なぜならわれわれの思考がどのようにして形成される

のかを知らない限り,その思考を導く確実な方法は発見できないからであるJ(38)。この徹底化

をはかったとき,視覚観念や触覚観念の生成やその起源は. I意識による反省」の立場にとど

まるのではなく,意識化以前の「生きる」ことの感覚へと遡及されることになる。『感覚論』

では,意識をもち反省能力のある人間の視覚観念や触覚観念は,もはや問題にされることはな

い。そこで論じられるのは,まだ意識をもたない彫像である「赤ん坊jが,どのようにして視

43

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覚や触覚を発達させていくのか,そのプロセスである。「赤ん坊」は,自らが生きていくため

に,触覚を基点としてそれぞれの感覚機能を特化させ,同時に身体運動を通して特化された諸

感覚を関わらせながら,発達させていくという考えが,コンデイヤックには貫かれている。感

覚にはこうした「自然の促し」によって自ら学習能力があること,生まれたときは無力であっ

たこの感覚が,試行錯誤を繰り返しながら他の感覚との協同を学習し自らの働きを特化し形

成すること,つまり「触れる」という原初的な身体的生理的運動を通して,諸感覚が自律的に

生成されることが主張されているのである。視覚の発達には確かに根源感覚である触覚の契機

が必要であるが,しかし同時に視覚は自分自身に潜在する「拡がりJ(奥行)感色触覚の働

きを受けながら,視覚自身の働きによって顕在化し完成させていくのである。

5 生命感覚としての「視覚ー触覚」論

5-1 視覚には触覚の痕跡がある

コンデイヤックの「視覚一触覚J論の特筆すべき点は,二点ある。一つは,視覚には奥行感

覚が含まれており,それが触覚との協同で顕在化させ,視覚の働きを完成させる点である。も

う一つは,生存の危うさに伴う不安を克服し,自らの生を安定化させるためのセンサーとして

発達し特化した五感の基底には, I他」に「触れるJという「触覚」が根源感覚として働いて

いるという点であった。コンデイヤックの「視覚一触覚」論の特徴は,感覚を,ロックやパー

クリのように意識による観念の問題として論じたのではなく, I生きる」ための身体機能発達

のプロセスの一環として位置づけた点にある。生物が生きるためには,外界の生命を摂取し

それを消化し排出しなければならない。その意味で生物は他のものと関わらねば生きていけ

ない。同時にまた外界のものから刺激をうけ,それが自らの「生きること」に危害を及ぶもの

であれば,それを避けようとする。生きている限り, I物質代謝」が行われ,他なるものと接

触しなければならない。第一章ですでに述べたように,どんな原始的生物であっても「触覚J

がなければ,生きていくことはできない。触覚が他の感覚よりも基底的な感覚とされているの

は,触覚が生存に最も直結する感覚だからである。

コンデイヤックが示唆しているように,生物の進化(自然の促し)とともに,視覚や聴覚を

はじめとする四感覚は,触覚から分化し発展してきた(39)。そのため視覚には何らかの触覚の

痕跡があるはずである。触覚に密着した視覚の最も根源的機能として示されるのが, I自分に

迫り触れてくる」動きの視覚だ。このことは赤ん坊の視覚の発達形成をみればよくわかる。生

まれたばかりの赤ん坊は,視覚による対象の形の認知はできないが,自分に迫りくる対象の動

きは認知する。動きを見る能力は生まれっき具わっている (40)。動いているものに反応する能

44

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「見るjことと「触れるjこと

力は,新生児の時からある。例えば明暗だけの得体のしれない物体が目の前に迫ってくると

き,それは自分の生存に関わる危険な状況だ。そのようなとき,赤ん坊はその危険を避けよう

と顔をそらしたり, 目を閉じたりする。徐々に大きくなってくる大きさの変化は,生存に関わ

る重要な情報の 1つである。このため新生児であっても,その防御反応として「眼を閉じる」

という行動をする。この自分に迫ってくるものは,自分の生存と密接に関わる脅威として感じ

とられているのである。生後3ヶ月の赤ん坊であれば,大人と同じように,自分に迫ってくる

動きに対し敏感に反応する (41)。迫ってくる感覚は,迫りくる距離(奥行)の変化を感じとっ

ているからに他ならない。自分には得体のしれない「他なるもの」の存在が「動き」として,

そして自分にまさに迫り触れてくるものとして感じとられているのだ。赤ん坊が物の動きに敏

感に反応するのは,それが自分の生に密着していることを本能的に感じとっているからだ。そ

の意味で「触れる」感覚は自分の生に直結する根源感覚である。「迫りくる動き」を見る赤ん

坊の視覚は. I動き」を触覚的に見ているのであり,その意味で視覚の祖型には,生に直結す

る触覚の働きがある。

これに対し,対象の形を見るときは.対象をしっかりと目の中心に合わせてみる必要がある。

細かい情報を処理できる錐体細胞が, 目の中心部分にあるためである。このため「対象とは何

か」を認知するためには. I光線の通過を制御する瞳孔を拡大収縮させたりJ.I光の束を正確

に網膜上に集めるために水晶体を前後に動かすJといった生理学的運動の訓練が,必要となる

のである。しかし観点をかえれば,対象の形を見るための生理学的運動の訓練は,対象の動き

を見る感覚とは異なり,当面は直ちに自分の生命に直結しない余裕を示している。そのため視

覚における対象の形の認知と対象の動きの認知とは,赤ん坊の発達時期において異なることが

報告されている倒。

5-2 大脳生理学における「視覚ー触覚」論

赤ん坊における視覚の発達形成を大脳生理学の観点からいえば, 目の中心でじっくり形を見

るようなとき,細かい情報を処理する「皮質」と呼ばれる部位に情報が届く。ものの形を見る

視覚は,触覚から自律し発達した働きだからである。視覚がその機能を発揮させ,ものの形を

識別するためには,赤ん坊は自ら環境に関わり,さまざまなものに触れていかねばならない。

例えば「丸い」形を理解することは. I四角いJ.I尖った」……が暗黙裏に「分かつて」いな

ければならない。「丸い」形が「分かる」ことは. I丸い」を他の形から「分けるJことであ

り. I丸い」を抽出し,他の形を捨て去ることなのである。触覚によって「何かがある」と感

じとることとは異なり. Iここに丸いものがある」と見ることは,意識に「丸いもの」を注視

させると同時に,その他の形あるものを意識の外に置くことなのである。そのため物の形を見

45

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ることは,その物だけを見ているのではなく,その後景には他の物との関連性が潜んでいる。

視覚は自ら積極的に環境に関わり「分けるJことを学習していかねば,形を見分ける能力は発

達しない。ものが分かり,世界が見えてくるようになるためには,世界への意識による能動的

働きかけが不可欠なのだ。「かたちを見る」ことには,ものを分別・分析するという知的働き

がすでに稼働していることを示している。このために見る経験は脳の視覚に関わる神経細胞を

活性化させる。逆に外界からの刺激を全く遮断し赤ん坊の視覚経験を奪うと,神経細胞の成

長は大きく損われるo

他方,対象が何であるかにかかわらず,迫りくる対象が自らの生存に関わり,素早い動きの

反応が求められる時は,より原始的な「皮質下」と呼ばれる部位に情報が届く。「皮質下」は

反射的行動に関わっており,意識に上る前の行動を処理する。「皮質下」での「見る」行動は,

より高度な認識や意識的な判断などに関与する「皮質」とは異なって,無意識的な行動なので

ある。「皮質下」での見る行動は,視覚の発達段階の基層にあるため,出生直後の赤ん坊にお

いても機能する。だからこそ赤ん坊で、あっても,自分に迫り触れてくる動きを「皮質下Jで見

て,危険なものを避けようと本能的に防御反応をするのだ。生まれたばかりの赤ん坊の場合,

「皮質Jはまだ未発達の段階にある。「皮質」が機能するまでしばらくの時聞がかかるため,こ

の時期の赤ん坊の目や身体の動きは,私たちのそれとは全く異なるのである。

赤ん坊にとっての視覚風景は,対象を意識によって客観的に観察する風景ではなく,私を包

む風景である。対象が私の生に触れ食い込んでくる風景なのだ。赤ん坊にとって,物とは観察

される対象ではなく,自分の生に密着した対象であるため,それに触り,時には口の中に入れ

ようとする。その感触によって,その物が自分に好もしいかどうかを感じとるのである。赤ん

坊が物を掴むとき,その物の固さは,赤ん坊が物を掴む力の強さに比例する。赤ん坊の物への

働きかけが,物の赤ん坊への働きかけでもある。このとき赤ん坊は,物に手を伸ばし,それを

掴み,口に物をあてるといった身体行動を通して,自分と物との距離(奥行)を感じとると同

時に,自分と対象との聞に「呼びかけ一応答」関係をも感ずるのである。「自」を感じとることは,

同時に自分以外の「他Jをも感じとることなのである。

5-3 触覚の生きる力

母親によって抱かれた赤ん坊の光景は,この感覚を蘇えらせてくれる。「自」と「他」の「触

れる」スキンシップの原初的な働きは(43)生まれたばかりの赤ん坊の体温が低下しないように,

母親が触れて保温することであり,生命を維持するためであった。温かい身体で触れられるこ

とで,赤ん坊は母親に守られている安心感を,それによって自分が生存することができるのだ

という自己肯定感を情動レベルで得ると同時に,不安や恐怖.ストレスからの癒し感情と結び

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「見る」ことと「触れる」こと

ついたのである。さらにこの皮膚感覚から発展して.触れて安心させてくれる人に特別な愛情

の粋である愛着関係を築き,その関係を強め,そういう人を信頼するようになったのである。

「触れる」ことが,本稿の冒頭に掲げた「不思議な力Jをもつことができるのは,自分と他

が直接接触するが故に, I自」と「他Jに通底する共通の生命をダイレクトに感ずることがで

きるからだ。裏から言えば, I他」と触れることがなければ, I自」を感ずることもなく,自分

とは異質な「他」を感ずることもない。「触覚」とは, I自」と「他」との違いをもたらす境界

線であるが,同時に「触れる」ことにおいて「自」と「他」とが接する接線でもある。生命活

動の根源的働きである物質代謝や「刺激一反応Jは, I触れる」ことにおいて「自」と「他」

を区別しながら, I自」と「他Jを結びつける。「生きている」ことを端的に感じとることがで

きる場が, I触覚」なのだ。

あとがき

「触れる」力は,生きる力を与えてくれる。触れることに裏付けられた眼差しと,触れるこ

とから切断された眼差し,同じ眼差しでも両者は異なる。前者は,母子にも似た一人称と二人

称聞の同胞や兄弟の「共に生きている」ことの親愛な眼差しであるのに対し後者は三人称の

眼差し「メドゥーサの眼差し」なのだ。三人称の眼差しで見られる限り,人は分別され,そ

の社会的属性や社会秩序のどこに位置しているかといった既成秩序で判断され,その判断知は,

既成的価値観が映し出される。そうなれば三人称の世界は自分との関わりを失い,いつまでも

批評されるだけの「他人ごと」の世界であり,自分自身の生きる舞台とはならない。「触れる」

力は,ただ批評するだけの観客ではなく,その舞台にたつ演者になることを要求する。「生きる」

実感の希薄化がすすむ今日, Iバーチャjレリアリティ」に象徴される圧倒的に視覚優位の時代,

SNSやインターネットなどにみられる間接的三人称の人間関係および情報の支配する現代だ

からこそ, I他Jであるものに直接触れ,その実体を一人称の「自分のこと」として感ずる「触

覚」のもつ意味を,いま一度問わざるを得ない。それが「生きる」ことの根源感覚だからである。

最後にこの根源感覚のさらなる見方を自らの舞台で提示している,小林秀雄とツルゲーネフ

の言葉を記すことで,本稿の結びとする。

誤解されっぱなしの「美」凶)

そういう土台〔根源〕になっているものが,インテリゲンジャの美というものに対する態

度に欠けているんですよ。非常に欠けているな。だからどっちから入るかというと,頭の

方から入る。上の方の思想、とか,知識,個性などから美の中に入ろうとするから,道が逆

47

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なんだ。

土からだんだんと育って,ロクロに乗って形ができ,粕がかかり,絵付がされて,人為的

なものがそこにできてくるでしょう。そこに時代が出たり,個性が出たりなんかしましょ

うが,ともかく材料が仕上がる方向に,ものを見る見方ですよ。そういう見方が,インテ

リゲンジャには養われないんです。だから美術の様式だとかなんとかというところを,観

念的にうろつくのです。

[中略1

だいたいこれに親しんでいると,自然にそうなるのですね。例えば瀬戸物なら瀬戸物は,

目につきやすい絵付が初めにパッと見えるが,親しんでいると,絵を抜けて先へ行くので

すね。触覚の世界へ,どうしても行くのですよ。膚や,地だな。土の味に入っていくので

す。表面的な付き合いが,つまらなくなってくる。絵付からボディーにいく。いじってい

ると自然とそうなる。人間の付き合いでも,同じ意味合いのものがあるじゃないかね。付

き合いの経験が,そうさせる。焼き物を手元に置いているとは,そういうことだ。

手元に置かず,展覧会に行って見るということでは,どうも具合が悪いのだな。年季の入

れ方みたいなものだな。瀬戸物でボディを見ている人は,案外少ないんで、すよ。外側を見

ているんです。

乞食(45)

通りを歩いていると,ひとりの乞食に呼び止められた。よぼよほの老人である。

赤くただれた,涙っぽい眼。青ざめた唇。毛羽だ、ったボロキレ。膿くずれた傷口。

おお,貧苦に蝕みつくされた不仕合せな男!

彼は赤くむくんだ,汚らしい手を,私にさしのべた。

うめくように,つぶやくように, rお助けを」と言う。

私はポケットというポケットを探しはじめた。財布も,時計もない,ハンカチ一枚ない。

何一つ持ち合わせていなかったのだ。

乞食は待っている。さしのべたその手は,力なく揺れ,わなないている。

途方にくれ,うろたえた私は,ぶるぶる震える汚い手を,強く握りしめた。

「わるく思わないでおくれ,兄弟,私は何ももっていないのだよ」

乞食は,ただれた眼で,じっと私を見た。青ざめたその唇に,かすかな笑みがこぼれた。

そして彼は,私の冷たくなった指を握り返してきた。

「結構ですとも,旦那」と彼はささやいた。

「それだけでも,ありがたいことです。それもやはり,施しですから。」

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「見るJことと「触れる」こと

私はさとった,私の方でもこの兄弟から施しを受けたことを。

。主》

(1) I見ること」の時間的・空間的枠組み構造を,さらに「感ずること」の時間的・枠組み構造とし

て詳細に論じた研究として以下のものがある。

Erwin Straus. Vo押tSinn der Sinne, Springer-Verlag Berlin 1978. S.403-405

(2 ) ロラン・バルト『サド,フーリエ,ロヨラ』篠田浩一郎訳 みすず書房 89-90頁

( 3 ) マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』森常治訳 みすず書房 2003年 173-174頁

(4 ) 聴覚から視覚優位への転換の文化的背景については,以下の研究が参考になる。 WJ'オング『声

の文化と文字の文化J桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳 藤原書庖 242-270頁

(5 ) これについての詳細は以下の研究が参考になる。オギュスタン・ベルク『風土学序説』中山元訳

筑摩書房 38-43頁

(6 ) レオン・パテイスタ・アルベルティ『絵画論J三輪福松訳 中央公論美術出版 20頁

(7) カメラ・オブスクラの思想的意味についての詳細は以下の研究を参照。

J onathan Crary. Techniques 01 the Observer, MIT Press 1992. p.25-34

( 8 ) Erwin Panofskz. Aulsatze zu Grundlragen der Kunstwissenschajt (Hrsg. Hariolf Oberer und

Egon Verheyen). Verlag Volker Spiess. Berlin 1980. S.101

(9 ) デカルト『省察』山田弘明訳筑摩書房 20日年 54頁

(10) 前掲書 55頁

(11) 一川誠『錯覚学』集英社 2012年 65-72頁

(12) John Locke. A冗 Essayconcerning Human Understanding, edited by J ohn W. Yolton. Vol. 1

p.1l4

ジョン・ロック『人間知性論(l).J大槻春彦訳岩波文庫 205頁

(13) ibid. p. 113f. 前掲書 204頁

(14) A. A. Luce and T. E. Jessop (ed.) : The Works 01 George Berkeley Bisho,ρ01 01 Cloyne, Vol. 1.

Thomas Nelson and Sons Ltd. London 1948. p.171

パークリ『新視覚論』下保信輔・植村恒一郎・一ノ瀬正樹訳勤草書房 21頁

(15) ibid. p. 173 前掲書 24頁

(16) ibid. p.234 前掲書 125頁

(17) 鳥居修晃・望月登志子『先天盲開眼者の視覚世界』東京大学出版会 2000年 12-18頁

(18) ・「モリヌークス問題Jに対する 18世紀フランス思想界の反応として,ヴォルテ}ルは『ニュー

トン哲学要綱Jでロック・パークリの「触覚の裏付け」の立場を支持した。デイドロもいわゆる『盲

人書簡』で. I事物と事物から受ける像との一致について正確な知識を目に与えるのに,触覚が大

いに貢献していることを否定することはできませんJ(デイドロ著作集第一巻 哲学 I 法政大学

出版局 88頁)と述べている。これをうけてコンデイヤックも『感覚論』で「感覚」を再検討し

最終的には「視覚に潜在する奥行感覚」に「触覚」の積極的関与を受け入れている。さらにまたコ

ンデイヤックの影響をうけたルソーは. I触覚の判断はほかのどの感覚よりも不完全で、粗いものと

なっている。私たちは触覚を用いるにあたって,同時に視覚を用いているので, 目は手よりも早く

対象を捉え,精神は大抵の場合手を待たずに判断を行うからだ。そのかわり触覚による判断は最も

確実であるJ(Wエミール』上,岩波文庫 229頁)と述べている。まさしく 18世紀啓蒙主義は「触

覚」の意義を再発見した思想でもある。当時のフランス思想界における生理学分野の学問的展開を

知るうえで,主にビ、ユフォンの観点から考察した以下の研究は,参考になる。

ジャック・ロジ、エ『大博物学者ピュフォン』ベカエール直美訳 工作舎

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-フーコーは. I古典主義時代」のエピステーメ(知の枠組み)を支配した数量的幾何学モデル

から,コンデイヤックにみられる生理学的認識モデルへの転換が,どのようなものであったかを以

下の著作において示唆に富んだ分析をしている。

ミッシェル・フーコー『言葉と物J渡辺一民・佐々木明訳新潮社 338-339頁

・コンデイヤックの「転回」に関して,本稿と異なる視点から論じた以下の論文から多くの示唆

を得ている。

古茂田宏「魂とその外部J(r一橋大学研究年報 人文科学研究.134巻 1997年所収)

(19) CEuvres philoso,ρhiques de Condillac, vol.l. Texte etabli et presente par Georges Le Roy. Paris.

Presses universitaires de France. 1947. p. 57

コンデイヤック『人間認識起源論(上).1古茂田宏訳岩波文庫 244頁

(20) ibid. p. 57 前掲書 244頁

(21) ibid. p. 57 前掲書 244頁

(22) ibid. p. 58 前掲書 245-247頁

(23) ibid. p. 59 前掲書 249-250頁

(24) ibid. p. 54 前掲書 232頁

(25) ibid. p. 323 コンデイヤック『感覚論』加藤周一・三宅徳嘉訳創元社 昭24年 29頁(訳文は

必ずしも左記邦訳と同じではない。)

(26) ibid. p.324 前掲書 33頁

(27) ibid. p. 325 前掲書 34頁

(28) Iすべての認識は感覚から由来する」が『人間認識起源論』のコンデイヤックのテーゼで、あった。

しかしこれは,感覚表象をわれわれ自身の状態にすぎないとして捉えるならば,われわれは外部の

客体をどのように感覚するのか,外界実在と感覚認識との対応関係が,問題となることを意味する。

コンディヤックは次のように述べている。「われわれが自分の中に延長の観念を知覚する時,この

延長の観念に似た何かが物体の中にもあるということは何の不都合もなく想像することができる

が,それと同じように,色や匂いといった観念の場合にも,それらに似た何かが物体の中にもある

のだと想像できるかどうか,これが困惑の種なのである。できる,というのはあまりにも性急な判

断である。なぜならこの判断は. [延長の場合に妥当するからといって,色や匂いの場合にも妥当

するという]類比にしか根拠をもっておらず,実際にはそれについてなんらの観念をも持てないの

だからJ(r人間認識起源論』上 38頁 ibid. p.9)。この点を解決するために,コンデイヤックは『感

覚論』で. I自我の変様」である他の四感と異なって,他在である外部の延長(奥行)を捉える感

覚として「触覚」に特別な「根源感覚」の位置を与えたのである。

(29) Condillac. ibid. p.251 r感覚論.1159頁

(30) ibid. p.251 前掲書 165頁

(31) ibid. p.254f.前掲書 169頁

(32) ibid. p. 256 前掲書 172頁

(33) ibid. p. 256 前掲書 174頁

(34) ibid. p. 256 前掲書 173頁

(35) ibid. p. 257 前掲書 175頁

(36) ibid. p. 11 コンデイヤック『人間認識起源論(上).1古茂田宏訳岩波文庫 45頁

(37) コンデイヤックとロック,両者の立場の共通点と相違点については,以下の研究が詳しい。

Ernst Cassirer. Die PhilosoPhie der Aufklarung, in: Ernst Cassirer Gesammelte Werke

Hamburger Ausgabe Bd.l5 2003. S.17

(38) Condillac. ibid. p. 3 r人間認識起源論.115頁

50

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「見るjことと「触れるJこと

(39) r触覚が起点となって他の四感覚が分化し特化したjというコンデイヤックのこの考えは,デイ

ドロにも大きな影響を与えた。 1769年の『ダランベールの夢』においてデイドロは,コンデイヤッ

クの立場をほぼ踏襲し,次のように記している。「この純粋で単純な感性,この触覚は.糸の各々

から発展した器官によって分化していきます。耳を形成している糸は,我々が響きとか音とか呼ん

でいる一種の触覚を生じ,舌を構成している他の一つは,我々が味と呼んでいる第二の種類の触覚

を生み,鼻および鼻粘膜を構成している第三のものは,我々が匂いと呼んで、いる第三の種類の触覚

を生じ,目を構成している第四のものは,我々が色と呼んでいる第四の種類の触角を生じます。J

(Wディドロ著作集第1巻哲学 U 228頁)

(40) 動きを見る能力が生得的であることの詳細は,山口真美『赤ん坊は世界をどのように見ているか』

平凡社 38頁,参照

(41) 前掲書 42頁を参照

(42) 動きの認知は新生児からあるのに対し,形をしっかり認知するための脳がほぼ完成するのは,生

後8ヶ月ぐらいであるとされている。

山口真美『視覚世界の謎に迫る』講談社 31頁,参照

(43) スキンシップは,セロトニン神経を活発にし,深部体温を下げる効果があること.C触覚線維を

刺激することで自律神経が調整され自然治癒力が高まるといった効果が報告されている。またただ

寄り添うだけでも,困難に共に立ち向かうエネルギーが増え,積極的にものごとに取り組むように

なると言われている。

詳細は以下を参照。山口創『人は皮府から癒されるJ草思社 149頁

(44) W小林秀雄対話集』講談社文芸文庫 220頁

(45) ツルゲーネフ『散文詩』神西清・池田健太郎訳岩波文庫 26-27頁

ツルゲーネフはベルリン留学時代に隆盛期のヘーゲル哲学を集中的に勉強している。この散文詩

の「生の相互関係」は,ヘーゲル『精神現象学H主と奴」関係をモチーフにしていることが覗える。

ヘーゲルは.r精神哲学』でコンデイヤックの『感覚論』に言及している。また若かりし頃.r触覚」の重要性を『彫塑』において論じたへルダーを研究している。そのヘルダーはパリでデイドロと交

流し,コンデイヤックの「触覚」論を承知していた。ここに,現段階ではテキストでの裏付けを明

示できないが,情況証拠においてツルゲーネフとコンデイヤックとが「触覚」の糸で結びつく可能

性は,大いにある。

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Sehen und Tasten 一-Suchenach dem Grundsinn zum Leben一一

Takashi Hatta

Die heutige Anwendungsentwicklung fur virtuelle Realitaten bringt die Auffassung mit

sich. dass von den funf Sinnen des Menschen der weitaus wichtigste und bedeutendste der

Gesichtssinn ist. Das Ziel der vorliegenden Arbeit ist. gegen di巴seAnsicht die Aktualitat

und die Bedeutung des Tastsinns im Vergleich zum Gesichtssinn festzustellen; es soll巴ndie

folgenden Aspekte analysiert werden.

1. In der Neuzeit nimmt der Gesichtssinn durch eine mathematisch-geometrishe Raumstruk-

turierung eine hervorragende Stelle ein. Erst mit dem geometrischen Blick findet man in

der W巴Iteinen messbaren Raum; damit kann die Welt als wissenschaftliche Gegenstande

betrachtet werden. In der Malerei ermoglicht dieser Raumbegriff die Anwendung der Mit-

tel der Zentralperspektive. womit dreidimensionale Objekts auf einer zweidimensionalen

Flache abgebildet werden konnen. Hier wird jedoch der in der Zentralperspektive einge司

schlossene Widerspruch vom Gesichtspunkt der Korperlichkeit aus kritisch beleuchtet.

2. Gegen das Gesichtssinnmodell der Zentralperspektive heben Lock und Berkeley die Funk-

tion des Tastsinns im Sehen hervor; man kann ohne haptische Erfahrung keine Tiefe eines

Wurfels wahrnehmen. Die Erkenntnis von Gegenstanden gehort nicht zum Grundinhalt der

optischen Wahrnehmung. Die Gegenstande konnen erst erkannt werden. wenn die entspre-

chende haptische Erfahrung gemacht worden ist und dann mit der optischen Wahrneh-

mung kombini巴rtwird. Berkeleys Thes巴 besagtalso letztlich nichts anderes, als dass die

Tiefe-und Raumwahrnehmung vom Tastsinn als dem k凸rperlichenGrundsinn nur geliehen

sel.

3. Bei Condillac handelt es sich darum. wie sich der Tastsinn in der sensorischen Inter-

dependenz entfaltet. Seiner Meinung nach kommt der Haptik eine zweifache Bedeutung zu.

Zum einen erganzt sie den Selbstbezug durch eine entgegengesetzte Komponente, indem

sie den Kontakt zur Ausenwelt ermoglicht. Zum anderen unterrichtet sie die ubrigen Sirト

ne daruber. diesen Kontakt auch selbst herzustellen. Hier funktioniert ein zwischen den

Sinnen stattfindender und vom Tastsinn angeleiteter Lernprozess, der unterhalb bewusster

und intentionaler Vorgange lauft; mit anderen Worten wird die primare Lebensform des

Menschen im Tastsinn verortet, d.h. einer auf niedrigster Stufe wirksamen Operativitat des

Grundsinns. Condillacs Au旺assungvom“Gesichtssinn-Tastsinn" besteht darin, dass sich der

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「見る」ことと「触れる」こと

Gesichtssinn aus dem Tastsinn sinnesphysiologisch entfaltet. Dies impiziert gleichzeitig.

dass im Gesichtssinn die Spur des Tastsinns ist.

4. Condillacs Behauptung bestatig sich auch in d巴rEntwicklungsphysiologie einer Saugling.

vor a11em in ihr巴rSehentwicklung. Hier unterscheidet sich die Bewegung eines drohenden

Gegenstands von seiner Form; jene ist schon von Neugeborenen erfassbar. diese konnen de-

mentgegen Babys erst mit acht Monats erkennen. Hinsichtlich der Hirnphysiologie lieget

die Sehfunktion der Bewegung unter der Hirnrinde. aber die der Form in der Hirnrinde. Die

drohende Bewegung verbindet sich unmittelbar mit unserer Existenz; mit korperlicher Be-

wegung konnen wir unbewusst der Gefahr ausweichen. Das Bew巴gungssehenist insofern

der am Leb巴ndichtere Grundsinn als das Sehen der Form. Die Spur des Tastsinns im Ge-

sichtssinn ist nichts anderes als der zur Lebenserhaltung instinktive optische Sinn. Der

Grundsinn bewahrt sich in der erst巴nPhase der Sehentwicklung als das Bewegungssehen.

worin sich der Gesichtssinn noch nicht klar vom Tastensinn differenziert und spezialisiert.

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