戦後復興期における商社強化政策 -...

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〔愉 文〕 弘前大学経済研究第 19 November1996 戦後復興期における商社強化政策 ーその形成過程,内容と帰結ー 孝春 ーはじめ日本の産業政策に関する研究は実証的,歴史 的なものから理論的なものまで多様化してい る。研究の深化に伴い,産業政策に関する定義 も試みられてきた。たとえば伊藤元重他著『産 業政策の経済分析j は次のように述べている。 産業政策とは「競争的な市場機構の持つ欠陥 一 市場の失敗ーのために,自由競争によっては資 源配分あるいは所得分配上なんらかの問題が発 生するときに,当該経済の厚生水準を高めるた めに実施される政策である。しかもそのような 政策目的を,産業ないし部門聞の資源配分また は個別産業の産業組織に介入することによって 達成しようとする政策の総体である」。この定 義によれば,「産業政策は市場メカニズムを代 替するものではなしそれを補完するものでし かない」 1 )というのである。 俗に「産業政策とは通産省が行う政策である」 というが,ここでの通産省とはいうまでもなく 通商産業省の略称であるが,厄介なことに通商 政策という用語も存在しており,そっちも通産 省と深い関係がある。学者のなかにも産業政策 と通商政策を同一視する向きがある。両者の関 係をどう理解すればよいであろうか。 第一回の f 通商白書』 (1949 年版)は次のよ うに訴えている。「われわれはわが国の経済が 戦前戦後を通し如何に海外に依存しているか, 従って通商の振興が如何に重要であるかを知っ た。通商の振興なくしては経済の自立は望み得 1 )伊藤元重他著『産業政策の経済分析』東京大学出版会, 1988 年, 8 ページ。 べくもない。われわれの究極の目標とする経済 の自立も安定も,通商の振興を媒介としてのみ 達成されるのである J 2 )。すなわち経済の自立 と発展がすべて貿易の振興, とくに輸出の増大 にかかっている。そして輸出の振興をはかるに は「直接の輸出入面における陸路の打開はもと より,産業面においても生産技術,経営の改善 等企業の徹底的合理化,設備の近代化等が単な るお題目としてではなく,真剣且つ積極的に取 り上げられなければならないJ 3 )。ここでいう 産業面における技術の改善,経営の合理化およ び設備の近代化はいうまでもなく戦後通産省が 主導する産業政策の支柱であった。他方,「直 接輸出入面における陸路の打開」は輸出入体制 の強化という言葉に言い換えられる。輸出入体 制の強化はまさに通商政策の基幹をなしている。 1950 年代の f 通商白書j は,当時の通商政策 を, 1 )輸出管理,輸出振興,輸出保険と輸出 品検査,2 )外貨予算,輸入管理,関税。 3 )外 国為替および貿易金融, 4 )条約,協定および 経済協力, 5 )貿易商社など,貿易と直接かか わる項目を列挙している九 つまり,通産省は貿易掻興という戦略的目標 の下に産業政策と通商政策というこつの政策部 門を持っている。産業政策が主に産業の圏内側 面を対象にしているのに対して,通商政策はよ り直接的な貿易振興策を指している。もっとも 同一の戦略的政策目標を達成するために実施さ れるこつの政策部門は相互に関連しあししまた 2 )通商産業省『通商白書J 1949 年版, 85 ページ。 3 )向上。 4 )最近の『通商白蜜』を見てもいわゆる通商政策の基 本的枠組は変わっていないことがわかる。 -23

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〔愉 文〕 弘前大学経済研究第 19号 November 1996

戦後復興期における商社強化政策

ーその形成過程,内容と帰結ー

黄 孝春

ーはじめに

日本の産業政策に関する研究は実証的,歴史

的なものから理論的なものまで多様化してい

る。研究の深化に伴い,産業政策に関する定義

も試みられてきた。たとえば伊藤元重他著『産

業政策の経済分析jは次のように述べている。

産業政策とは「競争的な市場機構の持つ欠陥一

市場の失敗ーのために,自由競争によっては資

源配分あるいは所得分配上なんらかの問題が発

生するときに,当該経済の厚生水準を高めるた

めに実施される政策である。しかもそのような

政策目的を,産業ないし部門聞の資源配分また

は個別産業の産業組織に介入することによって

達成しようとする政策の総体である」。この定

義によれば,「産業政策は市場メカニズムを代

替するものではなしそれを補完するものでし

かない」 1)というのである。

俗に「産業政策とは通産省が行う政策である」

というが,ここでの通産省とはいうまでもなく

通商産業省の略称であるが,厄介なことに通商

政策という用語も存在しており,そっちも通産

省と深い関係がある。学者のなかにも産業政策

と通商政策を同一視する向きがある。両者の関

係をどう理解すればよいであろうか。

第一回の f通商白書』 (1949年版)は次のよ

うに訴えている。「われわれはわが国の経済が

戦前戦後を通し如何に海外に依存しているか,

従って通商の振興が如何に重要であるかを知っ

た。通商の振興なくしては経済の自立は望み得

1)伊藤元重他著『産業政策の経済分析』東京大学出版会,

1988年, 8ページ。

べくもない。われわれの究極の目標とする経済

の自立も安定も,通商の振興を媒介としてのみ

達成されるのであるJ2)。すなわち経済の自立

と発展がすべて貿易の振興,とくに輸出の増大

にかかっている。そして輸出の振興をはかるに

は「直接の輸出入面における陸路の打開はもと

より,産業面においても生産技術,経営の改善

等企業の徹底的合理化,設備の近代化等が単な

るお題目としてではなく,真剣且つ積極的に取

り上げられなければならないJ3)。ここでいう

産業面における技術の改善,経営の合理化およ

び設備の近代化はいうまでもなく戦後通産省が

主導する産業政策の支柱であった。他方,「直

接輸出入面における陸路の打開」は輸出入体制

の強化という言葉に言い換えられる。輸出入体

制の強化はまさに通商政策の基幹をなしている。

1950年代の f通商白書jは,当時の通商政策

を, 1)輸出管理,輸出振興,輸出保険と輸出

品検査,2)外貨予算,輸入管理,関税。 3)外

国為替および貿易金融, 4)条約,協定および

経済協力, 5)貿易商社など,貿易と直接かか

わる項目を列挙している九

つまり,通産省は貿易掻興という戦略的目標

の下に産業政策と通商政策というこつの政策部

門を持っている。産業政策が主に産業の圏内側

面を対象にしているのに対して,通商政策はよ

り直接的な貿易振興策を指している。もっとも

同一の戦略的政策目標を達成するために実施さ

れるこつの政策部門は相互に関連しあししまた

2)通商産業省『通商白書J1949年版, 85ページ。

3)向上。

4)最近の『通商白蜜』を見てもいわゆる通商政策の基

本的枠組は変わっていないことがわかる。

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重なることもあろう。産業政策は広い意味では

貿易振興策の一環として位置付けられてきた

し,また日本経済の国際化が進むにつれ,両者

の境界を分けるのもますます難しくなった。通

商政策は産業政策のなかに組み込まれていった感

すらある。

本稿は戦後復興期における商社強化政策を分

析の対象とする。すでに述べたように,貿易の

直接的担い手である貿易商社の育成強化は貿易

体制の強化を目標とする通商政策の一環として

位置付けられている。一方,商社はその活動が

貿易にとどまらず,関係会社を通して産業部門

にも進出しているし,また取引を通して諸産業

の主要企業と密接な関係を持っているので産業

政策の影響を直接的また間接的に受けている。

さらに貿易商社に施された諸施策の中身も明ら

かにいわゆる通商政策のカテゴリーに収まら

ず,産業政策の性格を有していると考えられる。

本稿の構成は次のとおりである。まず戦後復

興期における貿易業界の構成について述べる。

次に当時における貿易商社の経営実態について

分析する。そして通産省主導の商社強化政策の

形成過程およびその内容について検討した上

で,最後にその一連の政策の経済的帰結につい

て評価を行う。

ニ 戦後復興期における貿易業界の櫛成

現代世界において貿易なくしては経済が成り

立たない。ところが,貿易を直接担当する貿易

業者の形態は国によってかなり違う。貿易業者

は大きく製造業者と貿易商社というこつに分け

られる。すなわち,製造業者が自分の生産した

商品を自ら輸出することと,製造業者が生産し

たものを,貿易商社が仕入れて輸出するという

ことである。

貿易商社の場合,企業規模もさることながら

経営業態がさまざまである。輸出あるいは輸入

だけを扱うものもあれば,輸出入双方を行うも

のもある。他方, l商品の貿易額が企業の全取

扱高の 50%以上を占める専門取扱業者もあれ

第 1褒貿易業界の構成(1952年度)

全輸出に 全輸入に区 分 企業数 占める 占める

比 率 比 率

全貿易業者合計 2,246 100.0 100.0

貿易業務を行う日本法人 1,826 93.0 96.0

うち釦売及び小売業に属するもの (1,328) (84.0) (87 .0)

型遺棄その他に属するbの ( 498) ( 9.0) ( 9.0)

在日外国商社 420 7.0 4.0

資料出所)通商産業省 「昭和27年度貿易業態統計表Jより作成。

ぱ,取扱商品を分散化している商社もある。そ

して日本の総合商社のように取扱商品,取扱形

態(圏内,輸出入,三国間)の多様化を実現し

ているマンモス商社も注目されている。

貿易商社の国籍に注目すれば,国内商社(民

族商社),外国商社および合弁商社という区分

もできる。現に多国籍企業の海外直接投資など

に伴い,多くの国において外国商社,合弁商社

の役割がますます大きくなっている。

以上の区分を念頭に 1952年度における日本

貿易業界の構成についてみよう。

第 l表に示されているように貿易業務を行う

日本法人のうち卸売及び小売業に属するものが

企業数にしても全輸出入に占める比率にしても

かなり高い。その中で圧倒的に重要な役割を果

たしているのは貿易業を主たる業とする貿易商

社である。貿易商社の輸出と輸入に占める比重

は50年代一貫して 80%を超えていた。 1965

年になっても企業数,輸出と輸入に占める比重

はそれぞれ69%, 75 %, 82 %で依然圧倒的な

シェアを持っている5)。

一方,製造業その他に属するものが企業数で

は全貿易業者の 22%,貿易比率では 9%を占

めている。戦後初期の段階(1953年~57年)

においては製造業者の貿易に占める比重は企業

数で約 10%前後と推定される。 1965年になる

と,企業数が 1,811,全体の 25.5%,輸出比

率は 23.3%,輸入比率は 17.6%と高まってい

る6)。製造業者の取扱商品のうち,輸出では石

5)通商産業省通商局監修『戦後日本の貿易20年史』通商産業調査会, 1967年, 528ページ。

6)前掲『戦後日本の貿易20年史1532ページ。

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戦後復興期における商社強化政策

油化学,機械等の比率が高く,全業種の 50%

を占めており,一方輸入では石油,原油などが

50 %以上を占めるようになった。このように

将来の貿易機会を院んで製造業者の貿易業への

新規参入が活発であったが,全体的にはまだ貿

易商社の地位にとって変わるまで至っていない。

また,戦後占領期という特殊な環境の中で外

国商社が自分の優勢を発揮して活動分野を拡大

した。 1952年の例をみると,外国商社は企業

数では全貿易業者の 18%を占め,そして全貿

易額に占める比率は輸出では 7%,輸入では 4

%であった。 1965年になると,それぞれ 4.2

%, 1.8%, 0.7%と激減した7)。これはおそ

らく占領という特殊な環境の変化,圏内商社の

成長および外国直接投資に対する厳しい制限政

策と関係があると思われる。

ところで,日本の貿易商社を業態別にみると,

輸出,輸入,輸出入という三つに分けられる。

輸出または輸入を取り扱う単一業態の場合,規

模の小さい専門取扱業者が多いのが特徴であ

る。これに対してかつての関西五綿をはじめ,

戦前からの繊維,鉄鋼,機械の専門商社が総合

商社を目指しており,輸出入業を兼ね,巨大商

社への道を歩んでいる。 1952年に年間貿易額

100億円を超える大手貿易商社は企業数では 19

社を数える8)。

以上の概観からわかるように,貿易商社が日

本貿易の主な担い手であった。貿易振興の目標

を達成するには貿易の実行者である貿易商社の

競争力がなければならないのが自明の理であ

る。次節では当時の貿易商社の経営実態につい

てみよう。

- 貿易商社の経営実態

周知のように敗戦を受けて日本の貿易活動は

ほとんど中絶したままの空白時代を続けた。対

外的には GHQが一括して交渉を行い,対内的

7)前掲『通商白書J1951年版, 53ページ。また前掲『戦

後日本の貿易 20年史J533ページ。

8)前掲『通商白書11953年版, 326ページ。

には日本政府が主導する管理貿易である。輸出

の場合,政府が輸出商品を圏内業者から買い,

GHQの承認を得て輸出するが,輸入の場合,

政府が引き取って圏内業者に売り渡すのである。

ここで政府とは貿易庁 (1945年 12月設立)の

ことであるが,貿易庁は貿易実務を行うことが

不可能であったから代行機構として 70余の取

扱機関,たとえば日本生糸輸出組合,日本綿花

輸入協会を指定し,貿易業者はさらにその下部

機構的存在であり,取扱機関の実務の一部を委

任されたのである9)。つまり,貿易庁一輸出入

代行機関一貿易業者という構図の政府管理貿易

が行われたのである。しかし,これら輸出入代行

機関はすべて私的独占団体に当たるのではない

かという疑問がGHQより指摘されたため,それ

に代わって政府貿易という公的性格を法的に裏

付けされた組織として 1947年4月に政府全額出

資の四つの貿易公団(食糧,鉱工品,繊維,原材

料)が設立された。その結果,貿易庁一貿易公

団一貿易業者というような政府貿易機構に変貌

したのであるが,実際には各商社から各公団に

社員を出向させ,実務を行わせたし,取引には

指名もしくは入札によって商社が新たな代行機

関となったのである。輸出業務については貿易

庁一貿易公団一民開業者,輸入業務については,

貿易庁一貿易公団一各統制配給機関のルートに

よって行われたが,いずれも海外との直接貿易

が途絶した状態でいわゆる 「盲貿易Jであった。

世界情勢の変化と占領政策の転換にともな

い,政府管理貿易の形態も徐々に民間自由貿易

に移行して行くことになった。 1947年 8月に

制限付民間貿易が再開され,民間貿易の比重も

高まり,ついに 49年 12月に輸出貿易,翌年の

1月に輸入貿易の民間貿易への全面移行が実現

したのである。それに先立ち,貿易公団の改廃,

通産省の発足, 360円の単一為替レートの設定

など,自由貿易競争の環境が整えられ,やがて

貿易商社の新設ブームが沸き上がった。

この時期の貿易業界に大きな影響を与えたも

う一つの出来事は財閥商社の解体である。戦前

9)日本貿易会『日本貿易会30年史j1985名 8~9ページ。

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日本の貿易業界をリードしてきた三井物産と三

菱商事が解体され,それを受けて合計約 400の

新会社が設立されたという。独占状態に近かっ

た両社の解体は貿易業界の秩序,また日本商社

の競争力に影響を及ぼさずにはいられなかっ

た。たとえば,貿易集中度の推移をみると, 1937

年~ 43年平均では三井物産が 18.3%,三菱商

事が 10.3%,合計 28.6%で,これが 1951年

上位 10社の集中度に匹敵するものである10)。

敗戦直後における日本の貿易業界の状態につ

いて 『通商白書jは次のように要約している。

「長期にわたる戦争によって海外市場から遮断

された結果,その豊富な経験と組織を失い,あ

まっさへ敗戦によってばく大な在外資産と全世

界にわたる支店網およびその信用関係を失い,

その資本力の零細化とあいまっていちじるしく

活動力を弱めた。これに加うるに,経済民主化

法令の制定によって,貿易業の集中傾向は完全

に払試されるに至ったJ11)。1952年末に貿易商

社が海外に有する支店等(法人,支店,出張所,

駐在事務所および常住派遣員を含む)の総数は

140であったが,そのほとんどは駐在員事務所

として平均従業者数は 3.5人で規模が小さし本

社の輸出入に対する貢献度も低かったという12)。

海外店網の未整備に加えて外貨使用の制限が行

われたため,商社本来の機能はほとんど発揮で

きない状況にあった。

たしかに貿易商社の経営は上述のように,規

模の縮小や海外における活動力の低下など,多

くの問題を抱えていた。中でも資本力の脆弱性

は商社弱体化のもっとも象徴的なこととみなさ

れた。戦前と比較した場合,全産業の資本構成

の中に自己資本比率の低下と他人資本比率の増

大が見られるが,この傾向は製造業に比べ商業,

とくに貿易業を主たる業とする企業において顕

著に表われている。たとえば, 1934年に貿易

10) 1937年~43年の資料については持株会社整理委員会『日本財閥とその解体』1951年,539ページ。 1951年の資

料については大木保男『総合商社と世界経済j東京大学出版会, 1975年, 39ページ。

11)前掲 『通商白書J1951年版,44ページ。12)前掲 『通商白書』1954年版,266ページ。

業者の中に卸売および小売業に属するものの自

己資本比率が 41.3%であったのに対して, 1952

年になると, 5.9%まで減少し,そのうち貿易

業を主たる業とする企業では 3.5%の低率で,

中でも大手商社において自己資本の比率が最も

低く, 2%ぐらいであった13)0

このように自己資本比率の低減と他人資本比

率の増加を反映して貿易業者の負債比率が高く

なり,その結果としての金利負担増が貿易業者

の経営を圧迫せざるをえなかった。そこで貿易

業者は積極的な販売政策をとり,その結果商品

回転率と総資本回転率の上昇をもたらした。表

面的には資本の利用能率の高きが示されている

が,実際には,年間販売高の規模が自己資本の

200倍を超えるなど,資本力がきわめて脆弱的

な状況に陥っていたのである。そして積極的な

販売政策を推進した結果,売上総利益率の低下

傾向は続いた。たとえば 1952年に年間輸出入

額 100億円を超える大手商社の売上総利益率は

1.3 %に止まっていた。

ところで, 1950年 6月に勃発した朝鮮戦争

は商社の復活にとって千載一遇のチャンスであ

った。特需の激増で商社の事業はそれまでの沈

滞とは一変して著しく活発になったが,翌年の

商品価格下落と滞貨の増加で投機に走っていた

商社が大きな打撃を受け,弱体化した経営実態

が露呈されてしまった。 1951年 4月,商社の

危機対策として痛手の大きかった江商を始めと

する関西五綿,船場八社および高島屋飯田,兼

松の計 15の中堅商社について,銀行や紡績メー

カーなどに対する負債を 2年から 5年半を期限

として約 80億円が棚上げするという救済措置

がとられた14)。にもかかわらず,船場八社とい

われる名門商社はその後も不況に翻弄され,吸

収合併される羽田になってしまったのである。

四 商社強化政策の形成

貿易業者の窮状は以上にみられたようにはな

13)前掲 『通商白欝11953年版, 330ページ。14)前掲 『日本貿易会30年史J156ページ。

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戦後復興期における商社強化政策

はだしいものであり,もはや放置することがで

きなくなった。こうした商社の弱体化は戦時期

にさかのぼれる。国家総動員体制の下において

は,商社の機能が大幅に制限されていた。戦後

になってもその条件が好転どころか,むしろ悪

化したとさえいえる。このような環境の中で貿

易商社は民間貿易の再開に備えて必死に対応し

た。たとえば貿易庁の実務代行機関に投資し,

また人材を送り,実績を積むとともに手数料を

取得するのに懸命であった。制限付民間自由貿

易が再開されると,海外に社員を渡航させ,情

報の収集や取引先関係の回復,海外店の開設な

どに積極的に取り組んだ。財閥商社の解体は貿

易業界全体の競争力を弱めた一方,その他の商

社にビジネス甚大の機会を与えたのも事実であ

る。そして各商社は朝鮮戦争がもたらした特需

に目を向け,積極経営に転じた。中には戦前の

三井物産をモデルに総合化の方針を策定し,成

長戦略を打ち出した商社もあった。

ところが,こうした商社の自助努力だけでは

商社の機能を回復するには限界があった。「戦

後わが国の輸出業者はきわめて弱体化してお

り,個々の業者の独力をもってしては,……メ

クラ貿易に対処して海外市場等を知るのには少

なからず困難があるJ15)と日本政府は早くから

その限界を認識していたが,財閥商社の再生を

恐れる占領当局と復興における生産者至上主義

のもとでは政府による商社強化政策の実施が難

しかった。

1952年サンフランシスコ講和条約が発効す

ると,独立に伴う占領政策の是正と経済自立達

成のための基礎づくりが日本政府の緊急課題と

して提起され, 1955年まで一連の輸出振興策

が定められ,高度成長期における貿易振興策の

基本的枠組を形づくった。貿易政策の面では国

際競争に耐えうる組織を知何にして整備する

か,つまり商社強化政策がその一環として決定

されたのである。

商社の強化を一早く訴えたのは水曜会であっ

た。1948年頃に稲垣平太郎(初代通産大臣)

15)前掲『通商白書J1949年版, 76ページ。

を中心としてジェトロの杉道助理事長,三菱商

事の高垣勝次郎社長,第一物産の新関八洲太郎

社長などの私的な会合がもたれ,それに変わっ

て50年4月に商社の業務部長クラスによる「水

曜会Jが発足した。水曜会は,その前身ともど

も大手商社の経営者の集まりとして相互に情報

の交換を行うと同時に政府の貿易政策に提言す

るなど,大きな役割を演じてきた。貿易立国,

輸出振興という戦後通産省の基本政策のシナリ

オづくりにも影響を及ぽしたといわれている16)。

水曜会は一貫して貿易振興のために商社強化を

求めてきた。 1952年 5月に「貿易振興上貿易

商社強化に関する要望J,続いて 53年3月に「貿

易立国の提言jを提出した。「この水曜会メ ン

ノてーは貿易関係各団体に強力な発言権を持って

おり,水曜会で協議した方針はその都度適当な

機関の方針におりこませている」 17)。たとえば,

日本貿易会は同じく 52年 5月に「貿易商社の

強化に関する意見」,続いて同年6月には「当

面の貿易商社対策に関する要望」を政府に提出

し,貿易体制の整備強化,とくに貿易商社の資

本力の強化を訴えていた18)。経団連の通商対策

委員会が租税対策委員会と共同して 52年 8月

3月に「貿易商社課税に関する改善意見Jを政

府に建議した。また 1955年 1月,通商審議会

の成果に即して「商社の貿易活動強化のためと

るべき外貨面の措置について」とする覚書を取

りまとめ,大蔵省為替局長と懇談し,その早期

実施を促した19)。

つまるところ,貿易業界,と くに大手商社が

商社強化の必要性を説き,その具体策を練った

うえ,「各民間団体を通じてその意見を政府,

日銀筋へ陳情するとともに自由党政調会への働

きかけや独自の意見発表など活発な動きを示

しJ20),商社強化の大合唱を演出したのである。

これらの提言は通産省を中心とする政府によっ

16)安室憲一 「総合商社一通商産業政策の視点から」 『経

営史学会第23回大会報告集J1987年,129ページ。

17)水上達三 『私の商社昭和史j東洋経済新報社, 1987年,133ページ。

18)前掲『日本貿易会30年史1169ページ。

19)『経済団体連合会十年史下J559~560ページ。

20)前掲『私の商社昭和史』133ページ。

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て取り入れられ, 1952年以降商社強化政策と

して次々に実施されていくのである。この意味

において 1952年が戦後商社の歴史にとって「不

滅の意義」を有する年であった21)。商社強化政

策は貿易業界だけではなく,製造業者との関係,

産業組織の形成にも影響を及ぽすものと考えら

れ,戦前の三井物産や三菱商事の力が記憶に新

しい製造業者からの反対と抵抗も予想された

が,貿易立国という大義名分の下においてはも

はや商社の強化も大手商社の思ったままに進ん

でいくしかなかったのである。

五 商社強化政策の内容

それでは,実際いかなる商社強化政策が実施

されたのであろうか。商社強化政策は概ね三つ

の内容からなっている。第 1が資本力と財務体

質の強化をはかる税制策と商社統合策である。

第 2が過当競争防止と業界秩序維持のための輸

出入取引法の制定と改正である。第3が海外活

動の促進を目標にした外貨使用にかかわる諸制

度である。

(1)資本力の強化

1952年中に進め られた商社強化政策の検討

は, とりあえず 1953年8月におりる一連の税

制改正に結実した。まず,国際貿易において生

ずる取引上の危険から商社を保護するために輸

出契約取消準備金制度が設けられた。具体的に

は「この制度は,貿易商社について輸出契約高

の一定額を 1953年から5年の間積み立てるこ

とを認め,輸出取引におけるキャンセJレまたは

クレームによる不測の損失を生じた場合,この

準備金勘定を取りくずしてその損失補てんに充

てるjものである。次に輸出所得控除制度の新

設であり,それは輸出業者および輸出品の生産

業者に対し,その輸出取引高の一定率の所得控

除を認めるというもので,その率は輸出業者の

場合,輸出額の 1%かまたは輸出所得の 50%

かのいずれかの低い額となっている。第3に海

21)前掲 『日本貿易会 30年史1138ページ。

外支店用資産の特別償却制度,つまり貿易業者

が 1953年以降 5カ年間に海外に支店等を設置

する場合,これに供する建物,設備,その他の

資産について短期の特別償却を認める制度の新

設である22)。

資本力強化のもう一つの政策手段は商社統合

の促進である。旧財閥商社の解体にともなう商

社の零細化が資本力弱体化の一因とされてい

た。 52年 4月講和条約が発効する前に GHQ

が日本政府に輸出管理権を全面的に委譲し,ま

た同時に旧財閥称号使用の禁止が解かれたのを

受け,旧財閥系商社聞の吸収合併の動きが急速

に高まった。 1954年 7月 16日蔵相,通産大臣,

日銀総裁が連名で輸出競争力充実のため貿易商

社の整理統合を積極的に推進するという声明を

発表した23)。商社の統合強化が取り上げられる

陰の力となったのがやはり「水曜会」である。

ただ両者の聞に統合に対する認識の差もある。

政府の商社間統合推進が商社の規模甚大に重心

を置いているのに対して,水曜会は機械的な統

合は「弱小商社Jを「弱大商社」にするばかり

と考え,商社の統合に当たって目債務棚上げの

断行,輸入外貨の商社割当,貿易金融と圏内金

融の区別などの三施策の並行実施を要求し,統

合を通じて商社の資本力強化をはかろうとした

のである24)。

もともと合併は会社内部の経営決定事項であ

る。当時の貿易業界の実態に即して言えば, 旧

財閥系商社間合同の動きがある一方,繊維専門

商社とくに関西五綿といわれる商社,鉄鋼専門

商社が総合化の目標を目指して合併戦略を活用

22)前掲『通商白書J1954年版,266ページ。なお 53年

に実施された輸出所得控除制度と輸出契約取消準備金制度は

準備金を積み立てたときに,その残額についてのみ輸出所得

控除が認められるもので,「商社収益率が低いため,直接の

実益はあまり大きくないJ(前掲 『通商白書』1955年版, 382ページ。)とされ, 54年 3月の租税特別法の改正によって独

立して適用されることになり,一層の優遇措置となった。通

商産業省通商産業政策史編纂委員会『通商産業政策史第6巻j

通商産業調査会,1990年,333ページ。なお,1957年には,

輸出所得控除制度について,輸出所得の 50%頭打ちが80% に引き上げられた。

23)三菱商事『三菱商事社史j資料編, 1987年,167べ-Y。24)前掲『私の商社昭和史j 133~134ページ。

- 213一

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戦後復興期における商社強化政策

しようとしていた。 とこ ろが, 旧財閥系商社間

に合同の主導権をめぐって利害関係が存在して

いたし,また専門商社の合併戦略にはリスクが

少なくなかった。 商社間合併を促進するために

水曜会が政府部門に働きかけてその施策を求め

たのであるが,政府は危機に瀕している商社の

救済,商社規模の拡大,競争力の増大には統合

が有効な手段と考え, 関係企業に圧力をかける

と同時に法律,金融,税制などの面からインセ

ンティプを与え,促進策をとったのである。

折 りから目財閥系商社の大合同と専門商社の

合併活動が活発になってきた。 1954年三菱商

事が一挙に大合同を成し遂げたのを始め,翌年

に三井物産系商社の合併もかなり進んだ。 他方

船場八社といわれた名門商社はほとんど姿を消

し,吸収合併された。そして関西五綿の丸紅が

高島屋飯田,伊藤忠商事が大洋物産との合併な

じ 1955年前後を機に貿易業界の地図が大き

く塗変えられたのである。また商社の統合は関

係業界,とくに銀行,メーカーの協力が不可欠

であった。事実,この時期において銀行,メー

カーが斡旋した商社間合併も多く,その結果,

合併がきっかけに新たな系列関係の形成にもつ

ながったのである25)。

(2)商社の組織化

商社弱体化のもう一つの理由は商社間過剰競

争といわれた。商社の乱立で商社聞において過

剰競争が繰り返され,とくに輸出業者の聞にお

ける無秩序な売り込みや安売り競争で輸出価格

の著しい下落を招き,同時に外商の買叩や仕向

地の関税引き上げあるいは輸入阻止をもたら

し,その結果商社は利益率の低下,資本カの一

層の弱体化をきたしたとされてきた。したがっ

て貿易業者および関連業者(製造業者,販売業

者)聞の協調体制,とくに輸出取引における秩

序の確立が求められたのである。 1952年 9月

1日施行の 「輸出取引法」が一定範囲内で独占

禁止法および事業者団体法の適用除外により輸

25)島田克美,黄孝春 「商社,卸売業」 産業学会編 『戦後日本産業史j東洋経済新報社, 1995,643ページ。

第2表 積出入取引法に基づく協定数(蛤出関係)

区分 輸出協定 圏内協定

輸出 輸出 生産販 計

年別 組合 業者 売業者 その他

1953年 。 。 。 。 。1954年 4 。 。 。 4

1955年 13 2 。 。 15

1956年 33 4 4 4 45

1957年 46 13 7 6 72

1958年 51 31 16 4 102

1959年 68 41 26 6 141

1960年 80 48 27 6 161

注) 58年以降は 4月1日現在, 57年以前は 3月末現在の数字。

資料出所)通商産業省通商局監修「戦後日本の貿易20年史J450ページより作成。

出組合の設立 (輸出カルテル)を認めたのを受

け,主要な輸出商品のほとんどにわたって輸出

組合が設立されることとなった(53年 3月の

時点で33組合)。ただし,この輸出取引法では

輸出組合への加入と脱退がまったく自由であっ

たので,アウ トサイダーの活動を法的に規制す

ることができなかったし,輸入取引についての

規定もその名称の示すとおり含まれなかった。

また輸出協定は輸出業者間に限定されていた。

その後も法改正の要望が絶えず,結局 53年 8

月に法改正が行われ,輸入組合の設立や輸入業

者による協定の締結を認め,名称も「輸出入取

引法jに改められた。輸出業者相互間の協定締

結とともに生産業者または販売業者との輸出す

べき貨物の圏内取引についての協定締結も認め

た。アウトサイダ一規制も 53年の改正で導入

され,それ以降の改正で次第に拡大されて行く

ことになった26)。

第 2表に示されているように,輸出入取引法

に基づく輸出協定は輸出組合によるものと輸出

業者によるものに分けられるが,55年を契機

に輸出組合による協定の増加が激しい。その内

容は価格,数量に関するものが多いが,輸出業

者による数量協定をみると,ほとんどが大手商

社十数社によるもので特定の商品や特定の仕向

地別に輸入制限の恐れ,過当競争,輸出価格の

変動を理由に締結したものである。前年度の取

26)前掲『通商産業政策史第6巻J247~279ページ。

- 29ー

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引実績を基に該商品が特定地域に輸出する数量

を輸出業者間で割当するのが一般的なやり方で

ある。一方,輸出組合による数量協定も基本的

には同じ仕組で各輸出組合が特定の貨物や特定

の仕向地別に輸出制限の恐れ,輸出価格の変動,

関税対策,過当競争などを理由に締結したもの

で,ただし,この場合の締結主体は該輸出組合

に加入している生産業者と輸出業者である27)。

「輸出入取引法Jの改正の直接的契機となった

1953年秋鉄鋼業界のアルゼンチン向け鉄鋼輸

出の例をみよう。鉄鋼メーカ- 4社はアルゼン

チンにおける輸入業者が群小で,その信用状態

の把握も困難で二重契約をする恐れもあったの

で,鋼板,薄板,高級仕上鋼板,珪素鋼板の 4

品目に各幹事商社を設け,それを通じないとき

には契約を受けないとし,かつ契約締結当事者

を17商社に限定した。したがって他の商社は

17商社を通じて,幹事商社一幹事メーカーと

取引契約を結ぶしか方法はなかったのである28)。

ところで,日本商品の安値輸出問題に対する

輸入制限運動がやがてアメリカにおいて激化し

た。 54年以降の対アメリカ輸出増大にともな

い,制限運動が最も激しく行われたのは綿製品

であった。これに対し,通産省はアメリカ向け

綿製品輸出制限を 56年 1月に実施すると発表

し,それを受けて綿糸布輸出組合は 56年アメ

リカ向け綿製品輸出総量を 1億 5000万平方

ヤードに自主規制することを決定した。それを

受け,綿糸布輸出組合内部において実績に基づ

く比例取引制度が実施され,業界における各商

社の対米輸出シェアが固定化された。こうして

輸出自主規制制度の動きはやがてヨーロッパそ

の他地域,また化繊,毛製品にも波及し,上述

した輸出協定の急増の背景になっていくのであ

る。

いうまでもなく,輸出協定や輸出実績に基づ

く比例取引制度は大手商社に有利な内容であっ

た。綿糸布輸出を例にみると, 1954年上位 10

27)政治経済研究所『日本の貿易業』東洋経済新報社, 1960

年,96~98ページ。

28)前掲『通商産業政策史第 6巻J261~262ページ。

商社の輸出は全体の 60%を超えていた。その

うち伊藤忠が 11.9%,東棉が 10.9%,丸紅が

8.6 %,日綿が 8.4%のように大手商社のシェ

アが大きかった29)。輸出協定はこれらのシェア

を固定化し,商社聞の安売競争を回避させ,各

社に利益をもたらした。他方,輸出協定がメー

カーに対して事実上生産割当的な効果を与え,

商社とメーカーの系列化を促した点も無視でき

ないと思われる。

(3)商社機能の回復

商社の弱体化は商社機能の弱体化ともいえ

る。世界各地に飛び回り,自由に貿易活動がで

きることは商社機能の発揮に不可欠な条件と考

えられる。しかし,敗戦によって商社の海外店

網は全壊した。 GHQによる管理貿易時期はも

ちろんのこと,民間貿易の再開,講和にともな

うGHQの貿易管理権の日本側への移譲などで

貿易環境が大きく変わって輸出の自由が確保さ

れたものの,国際収支の維持,国民経済の健全

な発展の見地から貿易管理,とくに外国為替管

理,外貨管理が引き続き行われた。その法的根

拠を与えたのは 1949年施行の「外国為替およ

び外国貿易管理法」である。外貨予算制度のも

とで外貨を必需物資ないしサービスの購入に優

先的に割り当てることが為替,貿易管理の最大

眼目であった。貨物を輸入しようとするものは,

通産大臣に申請して当該貨物の輸入に必要な外

貨資金の割当を受けなければ,輸入の承認を受

けることができなかった。逆にいうと,外貨資

金割当の獲得が圏内の需給関係からくる輸入差

益も含めでただちに業界内での企業の地位と収

益に直結する問題であった。

商社にとっての関心事は外貨が誰に割り当て

られるかであった。当初の輸入制度は大別すれ

ば,先着順制,自動承認制と外貨割当制の三つ

に分けられる。抽選率を高めるため,他人名義

で申請するなどの弊害が多かったため,先着順

制は早くも 53年に形骸化した。一方,自動承

29)公正取引委員会経済部調査課編『繊維商社の集中と系

列化』 1956年, 78ページ。

- 30一

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戦後復興期における商社強化政策

認制は与えられた外貨予算額の枠内であれば該

当商品の輸入を自動的に認めるもので,輸入業

者に利用されやすかった。ところが,外貨割当

制はやや複雑であった。食料,塩については輸

入業者,石油製品については元売業者,その他

の大部分の物資については需要者に対する割当

となっていた。食料輸入は戦後しばらく輸入総

額に占める比重が高かった(たとえば 1953年

に25%, 60年になっても 12%)ため,商社

にとって大きな収益源であった。各商社は輸入

割当を獲得すべく織烈な競争を行ったが,結局

従来の実績を重視する政府の方針により食料輸

入が大商社のドル箱となったのである。たとえ

ば 1950年 1月一 1953年 3月に,上位 10社が

全小麦輸入の 80%,同じく大麦の 84%,米の

68 %を占めていた。なお,米の場合は指定商

社制が実施された30)。

一方,需要者割当の場合は需要者が輸入業者

を自由に選択して輸入を委託するのが一般的で

あった。メーカ一等直接需要者に割り当てるの

は輸入物資を真に必要とする需要者へ確実に外

貨を渡すためで,戦後に貿易商社が零細化して

商社割当が事実上不可能になったことが理由と

されるが,この制度のもとでは貿易商社は輸入

権を持たず,本来の機能を発揮することができ

ず,ただメーカーなどの直接需要者の下請輸入

業者にすぎなかったのである。 1954年 4月か

ら9月までの外貨資金割当資金 932.7百万ドル

のうち,自動承認制 104.3百万ドルと特別割当

42.7百万ドルその他約 82百万ドルを除き,需

要者割当は 378.3百万ドノレであるのに対し,商

社割当はメーカ一発注書内示書等を含み 325.3

百万ドルで,そのうち食料買付等の分を引くと,

残りが半額ぐらいとなっていた31)。

外貨が割り当てられたメーカーは多くの商社

に引き合いを出し,中から安いものを選んで買

付けたが,引き合いが重複する結果,引き合い

に出される数量が割り当てられた数量の数倍に

30)公正取引委員会事務局『再編成過程にある貿易商社の

基本動向』 1955年, 129ページ。

31)前掲 『通商白書11955年, 380ページ。

- 31

のぼって海外相場をつり上げたとの批判がある

一方,貿易商社側では輸入の自主性がなく,輸

入外貨も自分の手元にないため,海外の生産者

から買うのではなく,せいぜい現地の卸売業者

か輸出業者から買付ける程度に止まり,しかも

それすらできるのは大商社数社に限られていた。

ほとんどの場合は日本にある外国商社の支店や

代理店に頼んで輸入するという状況であった。

需要者割当に付随するもう一つの欠陥は貿易

金融と生産金融との関係の問題である。すなわ

ち,需要者割当に伴って船積み書類到着から貨

物のメーカーへの引き渡しまでの貿易金融と,

それ以降の生産金融を貿易金融の名において優

遇することになっているが,そのやり方はメー

カーと商社が支払の連帯責任を負う複名手形で

行われたため,メーカーの危険も商社が負担す

ることとなり,商社の問屋的機能が失われがち

である32)。

商社の育成強化の見地からも,世界貿易の自

由化に対応する日本貿易の正常化という見地か

らも外貨の商社割当が進められるべき方向であ

ったが,メーカーが既得権の放棄になかなか応

じなかった。やっと 1955年から原則として輸

入業者に割り当てる方向に切り替えられ,具体

的にはこの需要者割当制にかえて内示書方式な

いし発注書方式による輸入担当者割当制という

新しい制度が原則的に採用されることになった

のである。内示書方式とは輸入物資の需要者に

対し行政庁が内示する発注限度の範囲内で需要

者が輸入担当者に発給する発注書に基づき輸入

担当者に外貨資金を割り当てる方式をいい,発

注書方式とは,行政庁が発注限度を内示するこ

となく,需要者が直接に輸入担当者に発給する

発注書に基づき,輸入担当者に外貨資金を割り

当てる方式をいう。新しい割当方式は「従来の

需要者割当の実態を変更するものではないJ33)

といわれるように,貿易の自由化と商社の育成

強化という大義名分とメーカーの既得権維持と

32)「商社強化を狙う外貨苦手l当Jf東洋経済新報J1955年

4月 23日, 35ページ。

33)前掲『通商白書J1956年版. 323ページ。

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第 3表 貿易商社に関係する外貨資金制度

時期

1949年 7月

1951年12月

1953年 8月

1953年8月

1955年度初

1956年 1月

1956年 4月

1960年 4月

項 目

優先外貨資金制度 51年6月廃止

輸出窓興外貨資金制度 53年8月廃止

外貨資金特別割当制度 60年6月廃止

海外支店用資産特別償却制度

外貨資金商社割当制度

商社外貨保有制度

商社本支店間交互計算勘定方式

商社外貨持高制度

資料出所)『通商白書j各年版より作成。

いう確執の中から生まれたもので,いわば妥協

の産物であるが,ただ,需要者割当ではメーカ一

等に輸入物資の受配権と輸入権とも与えたのに

対して,新しい制度はメーカーに受配権にれ

により商社に発注する),商社に輸入権(外貨

の割当)を与えるものであった。

商社がこれまでメーカーに一方的に牛耳ら

れ,下請化されてきたのと違って,新制度によ

り「輸入取引面において商機をつかんだ有利な

買付けなど,機敏な商活動が可能になったJ34) 0

一方,商社は需要者からの発注を受けることに

力を注ぎ,特別な関係のあるメーカー,あるい

は堅実なメーカーに接近しようとし,メーカー

も商社も相互に選別しあい,次第に系列化し,

また優劣の差が大きくなり,商社の整理統合も

進んでいたのである。

ところで,外貨の配分に関して,上述外貨割

当制のほかに第3表が示すように輸出振興のた

めに外貨特別割当制度,外貨特別保有などの例

外措置が実施された。

1949年 7月には輸出による獲得外貨の一部

を当該輸出業者または製造業者が優先使用する

ことを認める優先外貨資金制度が制定された。

この制度は一般の輸入外貨予算が弾力性に乏し

いため,その補完的役割として,企業の自己資

金による渡航,海外代理店の設置,その手数料

送金などに利用されたのである。ただし,それ

は1951年 6月ポツダム政令の整理により廃止

され, 12月に新しく輸出振興外貨資金制度が

発足した。具体的には「政府機関以外のものが

わが国の商品を輸出したときに,その商品のイ

34)前掲『日本貿易会 30年史1165ページ。

ンボイス価格に対する商品類別の比率を乗じて

算出される輸出振興外貨資金の額を記録書に記

載して外国為替銀行の確認を受けておけば,円

貨をもってその外貨資金を優先的に買い入れる

ことを許されるJ35)というものであった。

しかし,この輸出振興外貨資金制度は国際通

貨基金から問題が提起されたのを受け, 53年

8月に廃止され,それにかわって外貨資金特別

割当制度が発足した。外貨割当手続の簡素化と

いう点が強調され,輸出に対する通貨別,商品

別に差別なく,一律 10%の算定率が適用され

ることになったが, 1955年 3月からは輸出額

に対する特別外貨資金の割当率が 10%から 5

%に引き下げられた36)0

以上のことからわかるように,これらの制度

は輸出業者だけに適用されるものではなかった

が,ことの性質から見て輸出業者に利用されや

すかったのはたしかである。海外渡航,海外支

店の設置など商社にとって戦略的に重要な海外

活動の充実に外貨の使用が認められたことの意

味は大きいといわなければならない。

盲貿易の打開,商社機能の強化には海外店網

の構築が不可欠であった。商社が海外支店網の

設置に本格的に動き出したのが 1950年8月24

日に GHQが日本商社の在外支店設置を了解し

てからのことである。 52年末貿易商社が海外

に有する支店等(法人,支店,出張所,駐在員

事務所および常住派遣員を含む)の総数は 140

であったが, 53年 9月になると 228に増加し

た。海外支店等を組織別にみれば駐在員事務所

が圧倒的に多く,業務内容も単なる情報の入手,

宣伝,連絡事務に止まり,さらに総じて輸出よ

りもむしろ輸入に業務の重点が置かれていた

35)前掲『通商産業政策史第 6巻J135ページ。「昭和 27

年中の輸出振興資金利用状況は 3,538.3万ドルで、貨物の輸入

に2,434.5万ドル,代理店手数料 541.2万ドル,海外渡航費

400. 3万ドル,海外支店経費 157.7万ドJレ,その他 4.6万ド

ノレであった」。向上, 136ページ。

36) 1957年 l月輸出額に対する特別外貨資金の割当率が

さらに 5%から 3%に引き下げられ, 1960年 10月にこの制

度はついに廃止された。 1959年における特別外貨資金使途

別許可額は次のとおりである。海外渡航費 17,320千ドノレ,

広告宣伝調査費278千ドル,海外支店設混費 10,102千ドJレ,

物資輸入 37,348千ドル,合計 65'048千ドル。前掲『通商産

業政策史第 6巻J138ページ。

- 32 -

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第 4表貿易商社における海外支店等設置状況

戦後復興期における商社強化政策

時期駐在員事務所

現 地法 人

合計支店

ORUWFhd

内弓

υ

nHv

n

uu

p

、u

n〆u

n

r

u

n

J

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4

5

6

F

h

d

F

h

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F

hd

nudAwunHJW

I

l

l

34 246

324 22 52

74 374 47

資料出所)『通商白書j各年版より作成。

(たとえば支店等の輸入取扱高は輸出取扱高の

約 3倍)。

このような海外支店等の規模,経営内容の貧

弱さを克服するために,政府は 53年に海外支

店用資産の特別償却制度を設け,「これにより

海外支店の設置を促進せしめて貿易商社の海外

活動の活発化を図ろう」とした。商社の海外店

網の設置は第4表に示されているようにその後

急増していった。中でも大手商社の動きが注目

される。「大手商社 20社 54年 10月から 55年

9月までニューヨーク,ロンドンを始め海外の

主要な都市に現地法人 41社,海外支店 16店が

あるんなお,1956年末の段階では,「一社で

海外支店等を 10ヵ所以上設置しているものは

13社で,最高は 32ヵ所となっており,大手商

社の海外支店網の主主充強化の意欲は旺盛であ

るJ37)。

大手商社の海外店網の充実は輸出の増大だけ

でなく,メーカーに対する商社の海外優位の確

立にも効果的であった。また輸入外貨の獲得,

つまり ,メーカーの発注をもらって輸入権を獲

得するに際して強大な海外店網を持つ大手商社

がメーカーに接近でき,そして次第に系列関係

を強めたとみられる38)。

37)海外支店の設置に関する資料は『通商白書』各年版より。

38)海外支店等の設置の急増,しかも北米に集中している

ことが商社の海外における過当競争を引き起こしたとされ,

1957年からこのような競争に対する批判が激し くな り通産省は「商社の海外支店等の設霞に伴う過剰競争防止要項Jを

発表した。これに対して日本貿易会は 57年 12月25日に意

見を発表し,貿易商社の海外支店等設置に伴う過剰競争は「生

産業者,銀行を含む輸出取引体制の不登備から起こっている

と考えられるので,これらの諸体制を含んだ全経済機構の函において対策を講ずべきであり,単に海外出先に現われた現

象のみを捉えてこれを防止する措置をとることは却って商社の海外活動の意欲を削ぎひいては輸出促進上逆作用を招来す

ることを倶れるのである」。以上の陳述は大手商社が海外活

ところで,商社の海外活動を活発化させるに

は,海外支店の設置促進もさることながら,貿

易金融の改善と外貨資金の保有と運用の一層の

緩和措置が必要であった。

まず商社の在外活動が活発化して現地の商

社,メーカーの在外支店もしくは現地法人の現

地における貿易関係の短期の外貨金融(現地金

融)の需要が増大したため,日本の為替銀行の

海外支店が行う現地貸付制度(この場合主に外

貨預金制度による為替に対する政府の外貨資金

を裏付けとして行われた)と 日本の為替銀行が

現地の外国銀行あてに当該外国銀行が在外日系

商社に行う外貨金融の債務保証を目的として発

行するスタンド ・パイ ・クレジットという二つ

の制度が50年代前半に整備された39)。

そして現地金融の甚大とならんで,貿易商社

の外貨運転資金の円滑な供給を図り,商社の為

替金融の充実による海外活動の活発化を推進す

ることを目的として,56年 1月に商社外貨保

有制度が実施した。この制度は各社別に設けら

れた金額限度の範囲で商社が為銀から外貨を買

い入れ,これを海外の銀行における本社名義外

貨預金勘定へ預入し,または海外支店等に対す

る貸付金として保有することを認めるものであ

る。対象商社は当初,海外店舗網,貿易取扱高

および現地金融の実績等を勘案して大手の総合

商社 20社に限って認められた40)0

商社の外貨保有制度に続いて 56年 3月に商

社本支店聞の交互計算勘定方式を認めることと

なった。この制度は個別許可による現金決済で

!WJを通じて銀行とメーカーと系列関係を構築している ことを

示唆していると見てよい。日本貿易会『建議集』第26総, 1958

年, 24ページ。

39)貿易振興のため,外国為替銀行の育成強化も図られて

きたが,外国為替銀行にして見れば,貿易取引の拡大に伴う

外国為替,決済などの業務が増大するので,競争戦略上外国

為替業務の強化が必要とされ,その場合貿易商社との関係構築が重要である。一方,商社も同様に海外活動の拡大には現

地金融における外国為替銀行の協力がなくてはならない。こ

のように大手銀行と大手商社が外国為替分野における提携関

係が進むことになったのである。従来の銀行と商社の関係論

は主に国内金融について論じられてきたが,外国為瞥の分野

も分析の視野に入れるべきであろう。

40)当初Jの貿い入れ許可額は 630万ドル,ついで 56年度に2,000万ドルを追加して 58年末現在では 2,630万ドルで

ある。前掲 r~後日本の貿易 20 年史J 489ページ。

- 33一

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あった従来の本支店聞の貿易外決済を変え,外

貨保有が認められた 20社に対して,本支店聞

の運賃,保険料等を除いた貿易外取引にかかわ

る債権,債務を交互計算によって決済する場合,

一定の範囲内で本支店勘定の貸記借記および残

高送金に対する事前の包括許可を与えるもので

ある41)。

商社の外貨保有制度はいわゆる輸出為替の集

中免除のような外貨保有ではなく,外貨を自己

の円資金を持って調達する形をとっている。輸

出その他で取得した外貨を銀行に売却集中しな

い商社為替持高集中制が実施されるのは 1960

年 4月に待たなければならなかった。また商社

本支店聞の交互計算勘定方式でも交互計算勘定

の貸借記額および残高送金額は商社毎伝一応の

限度が定められているといったような限界もあ

るが,当時厳しかった外貨管理の時代に 20社

に限定して実施されたことの意味が無視できな

い。本支店関係の緊密化と支店活動の活性化に

弾みがつき,これは貿易業界における競争構図

の形成に少なからず影響を残したと考えられる。

六 結びにかえてー商社強化政策の帰結

以上述べてきたように 1952年から 55年まで

実施された一連の商社強化政策は多少の修正を

経ながら 1960年代初頭の貿易,為替の自由化

時期まで続けられた。管理貿易の体制から自由

貿易の体制への移行過程に行われたこれらの商

社強化政策は戦後産業組織の形成,貿易業界の

構造および商社経営に大きな影響を及ぽしたと

考えられる。

戦後における製造業者の貿易進出が著しかっ

たものの,一部の消費財産業を除けば,貿易商

社に海外活動をゆだねてきたことが実態であ

41) 1959年4月には対象商社が追加され, 34社となり, 60

年 2月には対象商社の制限がなくなった。また 60年 10月に

はメーカー,百貨店にも対象を鉱大し, 61年 4月には在日

外国商社の本支店交互計算を認めることになった。なお 56

年度における 20社全体の記帳の限度額は,貸記額(帳薄上

の本店の支店に対する債務額) 22,742.9千ドJレ,借記額(同

じく債権額) 8' 188千ドノレと し,その差額 14'554. 9千ドル

までは随時送金できるとされた。『通商白容j1957年, 450

ページ。

る。つまり貿易,流通部門あるいは生産工程の

一部を別会社に任せる傾向が多くの日本の製造

業者に見られるが,逆に言うと,日本の製造業

者の専業度が先進工業国の中で相対的に高く,

多角化のレベノレが低い。貿易業務を貿易商社に

ゆだねたのは製造業者の戦略と考えられるが,

その背景には,戦後復興期における商社強化政

策が戦時期以降弱体化しつつあった商社の復活

を支えたことが重要であろう。

ところで,貿易商社の中に最初外国商社の存

在が目立つたが,その地位はその後低下する一

方であった。圏内商社の成長と外国商社の持つ

優位の喪失がその直接な理由と思われる。結局,

現在多くの新興工業地域に見られる多国籍企業

の活躍はついに日本に現われなかったのであ

る。

一方,圏内商社の中では上位商社の成長がと

くに顕著であった。年輸出入額 100億円以上の

貿易商社数は 1953年に 19社で日本全国輸出入

に占める比率は輸出が 43.4%,輸入が64.5%

であった。 1959年になると,それは 21社にな

り,全輸出入に占める比率はそれぞれ57.6%,

70.4 %に増加した。そして上位 10社の貿易集

中度は 1951年の約 30%から 1958年の約 50%

に上昇した。 1960年代になっても三井物産と

木下産商,丸紅と東通,兼松と江商,日商と岩

井のように上位商社間の合併が繰り返され, 60

年代中頃に総合商社 10社体制がようやく確立

されたのである。

つまり,貿易商社の規模の拡大,貿易集中度

の上昇からわかるように貿易商社強化策の目標

の一部が達成されたといってよい。これは諸政

策は大手商社の経営に与えたプラスの効果が実

に大きかったのを物語っている。

一方,財務体質の改善については,自己資本

比率と営業利益率の諸指標が多少改善されたも

のの,過度の他人資本依存や売上高競争の経営

状態は基本的に変わらなかった。大商社ほどそ

の特徴が顕著であった。商社斜陽論は商社の他

人資本依存や売上高競争をその根拠のーっとし

たが,しかし,われわれは,これらの特徴は異

- 3tJ一

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戦後復興期における商社強化政策

常といわれながら,長期にわたって存在してき

た事実に注目したい。

過度の他人資本依存や売上高競争は商社だけ

に見られる現象ではなしむしろ戦後日本企業

に共通するもの,いわば日本型経済システムの

一環として位置付けられる。過度の他人資本依

存は銀行に資金の借入の依存を意味している。

他方売上高競争は商社聞の売上高をめぐる競争

であるが,実際はかなりの程度までメーカー聞

の競争を反映している。すなわち,メーカーと

商社の聞に長期安定的な取引関係が存在してい

るので,商社間競争はメーカ一間競争を意味し

ていたのである。このような銀行ーメーカ一

一商社間関係はとくに 60年代の貿易,資本の

自由化まで二つ顕著な特徴をもっていた。一つ

は「外国為替および外国貿易管理法」によって

世界市場と隔離された圏内市場において業界内

企業の競争関係は政府の調整を求めざるをえな

かったことである。多くの場合,政府が実績評

価主義の立場をとった結果,企業が圏内需要を

無視する形で投資を敢行し,それが企業間競争

を一層織烈なものにしたのである。もう一つは,

こうした企業間競争は商社の参加によって一層

助長され,そして商社を通して海外まで波及し

たことである。当時海外市場における日本企業

の集中豪雨的な輸出攻勢がその現われであった。

要するに政府の調整機能と銀行,メーカー,

商社間同盟関係,具体的にはメンバンクを中心

とする貸出システムと系列メーカーとの長期継

続的取引体制が商社の他人資本依存や売上高競

争の経営体質を支えていたと思われる。

戦後復興期における商社強化政策の特徴は強

化されるべき商社の範囲が約 20社に及んだこ

とと,結果的にメーカー,銀行との系列関係の

形成を誘導したことの 2点に集約できる。そし

て貿易商社間の競争関係を維持させたととも

に,その競争のあり方を限定したという二つの

政策効果が明らかである。つまり,戦後日本型

経済システムの形成期における商社強化政策は

単に市場メカニズムを補完しただけではなし

むしろ戦後貿易業界における市場メカニズムの

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形成そのもの,言い換えれば競争のあり方の形

成に決定的な影響を与えたと見るべきであろう。