「生き方」―アイデンティティのアクチュアリティ...

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文教大学人間科学研究科研究ノート, September, 26th, 2015. 飯沼和希 「生き方」アイデンティティのアクチュアリティ 1 「生き方」アイデンティティのアクチュアリティ 飯沼 和希 (文教大学大学院人間科学研究科) “Life Style”: Actuality of Identity Kazuki Iinuma (Bunkyo University Graduate School of Human Sciences) 問題 人は自己の置かれた社会的状況において,その人の考え方や決断によってある特定の 生活パターンを日々積み重ねている(梶田, 1990)。それを通じてひとは考え方や決断に 応じた人生を送っていくと考えられる。主体的な人生を送っていくうえでアイデンティ ティの形成が重要であるとされる(梶田, 1998)アイデンティティとは,Erikson(1959: 1968 小此木(), 1973)が提唱した概念であ ,一つの見方である。その中核は,自分自身との永続的な斉一性(自己斉一性)と,ある 種の本質的な性格を他者と永続的に共有すること,との双方を含む相互関係である。 従来,アイデンティティは堅固なものであり,それをもつものの言動や思考は一貫した ものであると考えられてきた。そのアイデンティティは青年期に問題とされる発達課題 であり,モラトリアムの期間に危機と暫定的なコミットメントを探究することを繰り返 すことで確立されるものである(Erikson, 1950; Marcia, 1966)。また,確立されたアイデ ンティティは複数の役割や社会的位置づけが統合されたものであり,アイデンティティ をもつ人間の行動や思考は社会に適応的で,場所や時間を問わず一貫したものであると 考えるのである(Erikson, 1959: 1968)。しかしながら,現代ではアイデンティティは確 立されず流動的なものであり,絶えず移り変わり再構成され続けるものであると認識さ (Giddens, 1991),特定のものにコミットメントせずとも適応的に生活することができ ると考えられている(Marcia, 1989)。それは,Lifton(1969)がプロテウス的人間と称した ものや,小此木(1978)が成熟したモラトリアム人間として位置付けた人間であり,目まぐ るしく変化する生活世界において,自身を解体し再構成しなおすことを継続的に行って いくことがアイデンティティとなっている(大倉, 2011)このようなアイデンティティは,自我と社会の中に位置づけられた自己(社会的アイ デンティティ)の統合と再生を目指すことで形成される。すなわち,理想的な自己と自我

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文教大学人間科学研究科研究ノート, September, 26th, 2015.

飯沼和希 「生き方」―アイデンティティのアクチュアリティ

1

「生き方」―アイデンティティのアクチュアリティ

飯沼 和希

(文教大学大学院人間科学研究科)

“Life Style”: Actuality of Identity

Kazuki Iinuma

(Bunkyo University Graduate School of Human Sciences)

問題

人は自己の置かれた社会的状況において,その人の考え方や決断によってある特定の

生活パターンを日々積み重ねている(梶田, 1990)。それを通じてひとは考え方や決断に

応じた人生を送っていくと考えられる。主体的な人生を送っていくうえでアイデンティ

ティの形成が重要であるとされる(梶田, 1998)。

アイデンティティとは,Erikson(1959: 1968 小此木(訳), 1973)が提唱した概念であ

り,一つの見方である。その中核は,自分自身との永続的な斉一性(自己斉一性)と,ある

種の本質的な性格を他者と永続的に共有すること,との双方を含む相互関係である。

従来,アイデンティティは堅固なものであり,それをもつものの言動や思考は一貫した

ものであると考えられてきた。そのアイデンティティは青年期に問題とされる発達課題

であり,モラトリアムの期間に危機と暫定的なコミットメントを探究することを繰り返

すことで確立されるものである(Erikson, 1950; Marcia, 1966)。また,確立されたアイデ

ンティティは複数の役割や社会的位置づけが統合されたものであり,アイデンティティ

をもつ人間の行動や思考は社会に適応的で,場所や時間を問わず一貫したものであると

考えるのである(Erikson, 1959: 1968)。しかしながら,現代ではアイデンティティは確

立されず流動的なものであり,絶えず移り変わり再構成され続けるものであると認識さ

れ(Giddens, 1991),特定のものにコミットメントせずとも適応的に生活することができ

ると考えられている(Marcia, 1989)。それは,Lifton(1969)がプロテウス的人間と称した

ものや,小此木(1978)が成熟したモラトリアム人間として位置付けた人間であり,目まぐ

るしく変化する生活世界において,自身を解体し再構成しなおすことを継続的に行って

いくことがアイデンティティとなっている(大倉, 2011)。

このようなアイデンティティは,自我と社会の中に位置づけられた自己(社会的アイ

デンティティ)の統合と再生を目指すことで形成される。すなわち,理想的な自己と自我

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理想にズレがあることを認識しながら,そのズレを調整し,ある時点より前の自分から新

たな自分へと自らを作り変えていこうとすることで形成されていく(西平, 1993)。また,

アイデンティティの形成には自己の個人化と社会化の両者の調整が重要であるとされ

(Franz & White, 1985; 杉村, 1998),個人と社会的文脈の間の相互作用が複数の領域で

生じることによって形成される(Grotevant, 1987)。すなわち,アイデンティティは単一

のものではなく,領域ごとにそれぞれ形成され複数存在するものである。そして,複数の

領域や文脈で形成されるアイデンティティの間で生じる葛藤を調整していくことが,ア

イデンティティの再構成に重要であるとされている(Kroger, 1999)。

そして,アイデンティティの形成プロセスは,言語と行為による物語的自己を生成する

ことで進み,自身の人生を言語を用いて語ることで自己が生じ,生成された物語が個人の

人生に意味と統一性を付与する(Bruner, 1990)。語りによってアイデンティティの生成

はナラティブ・アイデンティティとされ(Ricoeur, 1990; McAdams, 1985),このようなア

プローチを用いることによって,アイデンティティの生成における歴史的・社会的な関

係を検討することができる(やまだ, 2000)。

このようなアイデンティティの捉え方の変遷により,アイデンティティに対する多様

なアプローチや抽出の仕方が開発されてきた。それには,尺度を作成しアイデンティテ

ィを数量化するもの(Rasmussen, 1964; 砂田, 1979; 下山, 1992; 谷, 2001)や,Marcia

の面接法(Marcia, 1966; 無藤, 1979),Grotevant の面接法(Grotevant & Cooper, 1981;

杉村, 2001),ライフヒストリーを用いたナラティブ・アプローチ(McAdams, 1985; 矢吹,

2005),社会学的アプローチ(Giddens, 1991; 船津, 2012)がある。

しかしながら,従来のアイデンティティに対するアプローチはアイデンティティの自

我(「わたし」)的な側面に接近せず,アイデンティティの有しているアクチュアリティ(現

実に個人が感じている生の感覚)を考慮しないままに研究が蓄積されてきた。それによ

って構成されてきたものは社会的な位置づけを重視した「自己同一性」についての概念

や形象であり(梶田,1998),「自我同一性」ではなかった。すなわち,アイデンティティの

核となるものであったアクチュアリティを含まずにアイデンティティの形象が構築さ

れてきたのである。

そこで本研究では,アイデンティティをアクチュアルなものとして再考し「生き方」と

して改めて表現しなおすこととする。

アクチュアリティとは

アイデンティティには,自己を形成し同一化したものであるというだけではなく,「わ

たし」が自己を形成していく行為的な性質が要素として含まれ,特にこのアクチュアリ

ティ(現実性)がアイデンティティの核となっている。

アクチュアリティとはひとりの人間が生活し生きている生の体験である。それは人間

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が生活しているなかで前意識的(精神分析の言うところのものではなく,意識に先行す

るア・プリオリなもの)に経験され,自己のように複数に分けられ構造として機能してい

るものではなく,世界と触れ合う自我の全体的な体験である。木村(1970:2001)によれば,

ある行為をしていること(たとえば音楽をきいていること)は,「その行為」や「私」,

「自己」といったものが意識される以前に“私にとってはもっと素朴で直接的な事実”

(木村, 1970: 2001 p.107)であり,行為している「わたし」は行為する対象としてあるの

ではなく,行為する主体である。アクチュアルな現実として,音楽を聴いている「わたし」

は,その行為中において音楽を聴いていると意識し,それを「美しいもの」と客観的な対

象として認識する対象として生きているのではない。音楽を聴いている「わたし」は,目

の前が明るく開けてくるなか,包みまとわりついてくる音に気持ちをゆだね音のなかに

沈んでいく「こと」を生きているのである。アクチュアルな現実である後者の表現は,リ

アルな事実とは異なっている。事実は前者で表現したとおりであり,部屋の明るさは約

400ルクス(lx)程度でわたしの弁別閾のうちにあるほど変化したわけではなく,音は振動

として外耳道から鼓膜や蝸牛を通り脳に伝わったのでありわたしのからだじゅうから

取り込まれたのではない。座っている椅子の反発性は変わらず,高さが下がったわけで

もない。事実としての経験(知覚)は前述のとおりだったであろう。そして後者の記述

はわたしの解釈に基づいた恣意的な表現であると言うこともできるだろう。しかしなが

ら,そこでの「わたし」は実際に「音のなかに沈んでいく」感覚を得るようなやすらぎを

生きていたのである。この事実と異なった現実における体験は,事実を知覚した「わた

し」が,そこで得られた気分を「図」化することで,事実として知覚されたものを「地」

とすることで見えなくしてしまったことで生じる体験である (Hanson, 1958; 大

倉,2011)。すなわち,「わたし」はそうした背景にある様々な要素を用いたゲシュタルト

として現実を「図」化し,そのアクチュアリティを生きているのである。先の例で考えれ

ば,「わたし」は作業部屋のそれなりの明るさや椅子の感触,取り込まれる音楽を「地」

とし,そこで得られた心地よさややすらぎを「図」としたのである。

しかし,こうしたアクチュアルな現実は,それを生きているその瞬間には意識すること

ができない。アクチュアリティはその経験が過去のものとなった後に意識することがで

きるのである(木村, 1993: 2002a)。意識化され,行為する人に知られたものは主観的であ

れ客観的であれ行為する人が対象化した結果である。そこで対象化するものは経た時間

の長さはどうであれすでに過ぎ去ったものである。アクチュアリティとは「いま,ここ」

で体験している現実であるから,対象化され意識化されたものはすでにその人が生きる

アクチュアリティではなくなっている。ある行為をしている最中には,行為に関わるほ

かのものの対象化はしているが,行為する者としての「わたし」までは対象化していない

のである。先の「図」化によるゲシュタルトとしての経験で言えば,たしかに「図」化さ

れた世界をアクチュアルに生きているのだが,「図」化されたものがなんであるのかを意

識することができるのは,実際にその「図」化された世界を生きているその瞬間にではな

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く,その次の瞬間においてである。音楽を聴き,やすらぎを得ているその瞬間には「わた

し」はやすらぎを意識化することはできず,その現実がやすらぎであることがわかるの

は,それが過ぎ去り,以前とは異なる現実を生きているときである。すなわち,わたしたち

の生きるアクチュアリティは体験しているそのときには無意識の状態にあり ,大倉

(2011)の言葉を借りれば“無我夢中で”(p.290)そのなかを生きているのである。現実に

生きているアクチュアリティの内容は過去のものになった後に意識することが可能に

なるのであるから,アクチュアリティはその意味で前意識的なものである。

アクチュアリティと行為性・身体性

アクチュアリティは他者や我々をとりまく環境,社会,世界との間に明確な境界線が引

かれ隔離された,孤立したものではない。アクチュアリティは世界と「わたし」の境界面

にあるものである(木村, 1996:2002b)。「わたし」は行為する際に身体の助けをかりるが,

その身体は対象化され動かされるものとして行為するのではなく,すでに「わたし」と共

にある(Merleau-Ponty, 1945)。人がある運動をする際,たとえば,足を上げようとして足

を上げるのであるが,上げたときの足の感覚は足そのものを通して意識化され,体験され

るのであり,その感覚は意識に上る以前にすでに上げられた足自身が体験している感覚

である。このように行為の経験はアクチュアルなものであるが,それは身体によって体

験される。アクチュアルな経験は世界を構成する「わたし」が前意識的につねに生きて

いることであるため,身体はアクチュアルな現実では対象とされ動かされるものではな

く,行為しそれを生きている「わたし」と一体となっている。

Merleau-Ponty によれば,行為は身体を通じて環境へと向かい働きかけることである。

すなわち,世界へ方向付けられている志向性をもつ。世界とはそのまま外的環境という

意味ではない。世界とは「わたし」が生きる時間と空間である。時間とは,つねに過ぎ去

り構成されつづける過去,つねに近づかれ後に過去化される近い時間や現在からは離れ

た時間に対する現在のイメージである未来,つねに過去化されるとともに過去化し未来

をつくり続ける,「わたし」が存在し生きる現在である。空間とは,「わたし」の身体が

存在し,椅子や他者,空気などが存在する物質的で外的なものと,自身の感情や象徴化さ

れ取り込まれたイメージといった内的なものの両方である。すなわち,外的な環境も世

界のうちに含まれるが,それだけではなく,感情やイメージ,時間といった内的なものを

含み,対象化することのできるすべてのものが世界に含まれる。この世界には,対象化さ

れた自己もまた含まれる。自己はわれわれが意識化することのできる,客体とされた自

己(James, 1890)である。そこには自身の身体も含まれる。また,他者や社会を介して形

成され社会的に行動するために参照されるものであり(Mead, 1934),自身の欲求を適応

的な形で表明する人格の核でもある。感情もまた自己知覚を通じて生じてくるものであ

り(Neisser, 1988),多様な要素をもつ自己において情緒へと志向することで知覚される

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のである。すなわち,世界における内的なものや身体やわたしの付随物と認識されるも

の(物質的自己)をも含むものが自己であり,自己はそれらを括弧に入れる上部構造と言

うことができる。すなわち,自己自身もまた世界に含まれ,行為が向かう方向の一つであ

る。

アクチュアリティがつねに構成する主体であり実行する過程にあるという意味で行

為的であることはすでに述べた。行為的であることはすなわち,世界におけるなんらか

へと志向することである。「わたし」はつねに世界へと向かい働きかけ,働きかけられる。

わたしが音楽を聴いている際には「わたし」はそのメロディーへと向かって,あるパース

ペクティブを介してやすらぎを構成し,そのなかを生きているのである。そして,それと

同時に振動し続ける複数の音の連続はメロディーとハーモニーを構成する音素であり,

それらは現実がやすらぎとなるのか不愉快となるのかを決定する一因となっている。

「わたし」はつねに世界へと志向し続け,世界と触れ合うことによって現実を構成し続

けるが,構成するアクチュアリティの内容は,そこにある環境や事実といった世界とそれ

を構成するためのパースペクティブに依存する。こうして,アクチュアリティは「わた

し」と世界との間の界面に存在するのである。

アイデンティティとアクチュアリティ

アイデンティティにおけるアクチュアリティは,現在のアイデンティティ理論におい

ては部分的なものであり一つのパースペクティブとして扱われると推測される。しかし

ながら,わたしが「わたし」であるという,アイデンティティにおける根源的な意味やエ

リクソン自身の経験(やまだ, 2001)を考慮するならば,アイデンティティエリクソンと

は世界における「わたし」についてのアクチュアリティのことであると考えられる。エ

リクソンはアイデンティティの感覚についてアクチュアル actual という言葉は用いて

いないが,エゴ・アイデンティティはこの意味で感覚や体験なのである。人は他者や社会

を介して象徴化されたわたしについての構造を自己として持っている。それはスキーマ

(Markus, 1977)と呼ばれたり,自己概念,自己意識(梶田, 1980)と呼ばれたりする。こうし

た,それまで形成されてきた自己と社会との間の象徴的な相互作用によって新しく修正

された自己が,自身が生きる世界のなかで承認される(位置づける)ことが心理社会的ア

イデンティティ(Erikson, 1959)とされる。この位置づけられた自己を「わたし」が自覚

することができるためには,「わたし」がアクチュアリティを体験していなければならな

い。なぜならば,社会のなかに位置づけ承認された自己を採用し孤独感を感じずに,時間

=空間的に安定した感覚を得る行為者は他でもない「わたし」だからである。すなわち,

「わたし」が世界内に存在していなければ心理社会的アイデンティティの感覚を感じる

ことはできないのである。こうした自己と「わたし」の関係を Heidegger(1986)は「現

存在はつねに自己自身に先立つ」(pp.192)と表現し,それはアクチュアリティが非対象的

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なものであり,常に生き生きとした経験であり(Husserl, 1946; Held, 1966),行為的(木村,

1970/2001: 1993/2002)なものであることを示すものであり,アクチュアリティが無けれ

ばアイデンティティもまた生じ得ないとも言えるのである。アイデンティティは社会

(世界)において「わたし」がつねに確かに存在していることの感覚である。そこで空間

的・時間的に世界における自己が占める場が必要である。それを実行する主体が「わた

し」であるのであれば,アイデンティティの感覚はアクチュアルな現実が経験されるこ

とと同様の過程を踏むことで体験される。アイデンティティもまた,「わたし」が身体や

行為を通じて環境や自己といった世界へ志向し,世界における事実的なものや自己のパ

ースペクティブに依存した形で経験されるのである。アイデンティティがつねに形成さ

れる過程にあり(西平, 1993),完成図の無いジグソーパズルを作成すること(Bauman,

2004)のような行為的な性格を有することからも,アイデンティティがアクチュアルに

経験されることであると言える。

このような,アイデンティティをアクチュアルなものとし,ひとが体験するアクチュア

リティを扱った研究は筆者が知るところでは大倉(2002: 2008: 2011)のみである。しか

しながら,彼の研究はアイデンティティ拡散を対象としたものである。現在までのアイ

デンティティ研究ではアイデンティティを,流動的なもの(Giddens, 1991; Bauman,

2004; 溝上, 2008)であれ,固定的なもの (Marcia, 1966) であれ,ある人が社会において

適応的に振舞うことのできる主体にさせるための位置づけ,あるいはその感覚として扱

ってきた。これらの研究は Erikson が警告していたにもかかわらず,アイデンティティ

の言語的意味から様々なアプローチへと拡散していき(杉澤, 2007),現実に生きる人間

からアイデンティティ概念を引き離してきた。社会的アイデンティティは細分化され

(Hogg & Abrams, 1988; Josselson, 1987),その状況に依存して選択され消費される対象

(Bauman, 2000)や言説によって形作られるもの(浅野, 2013)とも言われるようになっ

てきた。他者関係(杉村, 1998: 2005)やその人の語る物語それ自体(Ricouer, 1990;

McAdams, 1985; やまだ,2011)としたり,アイデンティティを感覚(意識化された知覚と

しての)(砂田, 1979; 下山, 1992; 谷, 2001)としたりと,個人的なアイデンティティを扱

う場合でもアイデンティティをどのようなものとするかには共通の見解が得られてい

ないのが現状である。このように拡散し多様なアプローチをとられてきたアイデンティ

ティ研究を概観しても,アクチュアリティを対象としたりアイデンティティ概念に含ん

だりする流れは少ない事例である。すなわち,これらの研究ではアクチュアリティを帯

びていないものをアイデンティティとしているのである。

彼らに倣うとするのであれば,本研究で扱うものをアイデンティティと言うことはで

きない。では,本研究で扱うアクチュアリティを帯びた「わたし」の知覚を表現する言葉

を探さなければならない。

アクチュアリティは「わたし」にとっては「わたし」が生きる世界をそのまま知覚し

ていることに他ならない。もっと言えば,「わたし」が世界のなかを生きていることそれ

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自体のことである。そのようなアクチュアルに経験している「わたし」が,確かに世界に

存在している体験がどのようなことであるかということは,「わたし」が世界のなかでい

かに生きるのかということと言い換えることができると考えられる。「いかに生きるの

か」とすると,それをより簡潔に表す言葉として「生き方」が候補として挙がる。そして,

「生き方」という言葉は本研究が取り上げようとしているアクチュアルな感覚を表すの

に適しているように考えられる。なぜならば,Giddens(1991)によれば,生き方とは自己

物語の形式を生活主体が実践したセットとして定義することもできるからである。いか

に生きるのかということの内容は「わたし」がいかに世界を体験し構成するのか,どのよ

うに世界と関わりあうのかによる。このことは,「わたし」がどのような物語(ここでは

パースペクティブと同様の意味で捉える)を用いて世界を見ているのかとも言える。こ

の物語によって生きる世界のなかで何が「図」化され,何が「地」化されるのかが変わっ

てくる。しかしながら,「わたし」は物語のなかを生きるのではなく,物語を通して見て

構 成 し た 生 活 世 界 (Lebenswelt)(Husserl, 1936) を 生 き て い る の で あ る か

ら,Ricouer(1990)や物語論者の言うナラティヴ・アイデンティティとは異なる。彼らの

言うナラティヴ・アイデンティティはアクチュアリティを「図」化するための手段であ

り,それを通して構成した世界を生きているのである。このように考えると,Giddens の

「生き方」の説明が「わたし」が世界を構成する様を表現していると考えられる。その

世界をいかに生きるのかということがアクチュアルな世界を生きる「わたし」の体験で

あるのだから,本研究で取り上げるアクチュアリティを「生き方」と呼ぶにふさわしいと

言える。

「生き方」はどのように感じられるのか

ここで,「わたし」が世界に確かに存在することのアクチュアリティである「生き方」

はどのようにして意識され感じられるのかという疑問がある。これは,アクチュアリテ

ィはつねに非人称的なものであり対象化されていない行為であるから,それを意識化し

た時点でアクチュアルなことではなくなり,現実を生きる主体は「生き方」そのものを知

ることはできないという問題である。体験されている現実の内容はそれが過ぎ去った後

に対象化され,構成されなおしたものを人間は知覚することができる。その時アクチュ

アリティを生きていた「わたし」が生きる文脈とアクチュアルな内容を知られたものと

して知覚する「わたし」が生きる世界はすでに異なっている。なぜなら,そのアクチュア

リティを対象化する前後では世界を構成するパースペクティブが異なるからである。ア

クチュアリティを体験している「わたし」とアクチュアリティを知覚している「わたし」

では,そのアクチュアリティを経験としてもっているか否かの違いがあり,アクチュアリ

ティを現実に体験している「わたし」はその経験をもってはおらず,アクチュアリティの

経験を後から知覚している「わたし」はそのアクチュアリティの経験を対象としてもっ

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ている。アクチュアリティの経験をもった「わたし」は,そのアクチュアリティの内容を

含めたこれまでの経験と自己が存在する環境を用いて,「わたし」が存在する世界を構成

するためのパースペクティブを作り上げる。すなわち,「わたし」が世界を見るためのパ

ースペクティブがアクチュアルな経験の前後では差異の大きさがどうであれ異なって

いるのである。これより,アクチュアルに体験している現実と知覚されたアクチュアル

な現実の経験は異なっていると言える。

ここで,「わたし」が確かに存在する感覚があるか否かを知覚するということも含めて

考えると,つねに進行し続けるアクチュアリティのみをアイデンティティの根源的な体

験とし,「生き方」と表現することは再度考え直されねばならない。「生き方」のアクチ

ュアリティが存在するということは,それを知覚するための事実的な人間とそれが形作

るパースペクティブが無ければならないからである。これは前に述べた,アクチュアリ

ティが界面上に存在することと同様のことである。「わたし」が確かに存在する感覚が

存在することの証明は,「わたし」がただ単にアクチュアリティを生きているだけではす

ることができない。それが存在するということは,別の何かによってその事実を確かめ

られなければならないのである。その別の何かとはそれを体験した後の「わたし」に他

ならない。アクチュアリティを体験した「わたし」が後にアクチュアルに体験した内容

を意識化し知覚することによって始めてアクチュアリティが存在することが確証され

るのである。すなわち,「わたし」のアクチュアルな確信のみでは,アイデンティティの

根源的な感覚を捉えることは不可能であり,事実として対象化されることをも含む必要

がある。そこで,「生き方」の言葉で表現するものは,アクチュアルに体験される「わた

し」が確かに存在する感覚であり,「わたし」の存在についてのアクチュアルな体験が知

覚として意識化されたものでもあるとする。

「生き方」は「わたし」の体験の後に新たに作り上げられたパースペクティブを通し

て「わたし」が世界をゲシュタルトとして構成することで知覚される。すなわち,自己の

うちに含むパースペクティブを用いることで,環境や自己などの事実存在する要素を

「地」化し,以前に体験されたアクチュアリティを「図」化することで「生き方」が現れ

るのである。

アクチュアルな体験を意識化したものも「生き方」とすることができることは示され

た。では,「図」化され意識化された「生き方」の感覚はどのような形で意識する本人に

知覚されるのか。アクチュアリティがどのように知覚されていくのかを示した後,その

感覚がどのような形で現れるのかを記述する。

アクチュアリティの知覚は,一度ゲシュタルトにおいて「図」化されることによって背

後に退いた「地」が意識されて「図」へと浸入していくことによってなされていく。先

の音楽の例で言えば,音楽を聴いているときに感じられ「図」化されたのは「やすらぎ」

である。しかしながら,現実に生きたアクチュアリティを示すには,「やすらぎ」という

言葉から得られる意味だけでは不足している。そこで感じることのできた固有の「やす

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らぎ」は,「地」化された部屋の明るさやちょうどよい椅子の固さ,鼻から脳まで抜ける

ような香ばしいコーヒーの匂いなどの事実性に支えられているのである。「わたし」が

生きたアクチュアリティは確かに「やすらぎ」を含むのだが,それだけではなく,「わた

し」が生きた現実は,背後に退いた「地」としての部屋の明るさやちょうどよい椅子の固

さを含んだゲシュタルトとして感じられるのである。これを意識化することを大倉

(2011)は,(「地」を意識化できたのは)“それらの織り成すゲシュタルトを「孤独」とい

う様相のもとに捉え,それによってこれらを「知覚」の中央に据えることができたからで

あり,仮にこのゲシュタルト生成がなかったならば,わたしは底冷えの静けさを「ただそ

れとして」漠然と感じたまま,再び書き物に向かっていた(中略)それはすでに事実性その

ものというよりも,そこから抽出されてきた孤独という名の底冷えであり静けさ―孤

独という現実性―なのである”(p.314-315)と説明している。すなわち,アクチュアリ

ティの意識化は,「図」化されたアクチュアリティを示すことができそうな言葉を手がか

りとして,「地」とされていたその他の要素を言葉の説明として付け加えることでなされ

るのである。このようなプロセスは Gendrin(1962: 1981)が提唱し理論化したフォーカ

シングに類似している。フォーカシングは,人が自分が感じているものや体験している

ものに注意を向け,それがどのようなものか掴み表現したりそれと共に居たりすること

である。そこでは,なんらかの問題についての感覚であるフェルト・センスを表現するの

にふさわしいと思う言葉を手がかり(ハンドル)として体験しているフェルト・センスが

何であるのか,どのようなものであるのかを探っていく。その作業が進んでいき体験に

フェルト・シフトが起こるとき,解放感とその言葉がしっくりくる感覚が生じてくる。ア

クチュアルに感じる感覚もフェルト・センスと同様に,そのとき浮かんできた「図」化さ

れた言葉だけでは捉えることができず,その言葉をきっかけに「地」化されているものを

意識することで近づくことができる。また,フェルト・センスも同様につねに感じられて

いる体験であり,その体験は過程上にあり変化し続ける。このような類似する点が多く

認められるのは,Gendrin が発見したフェルト・センスも「生き方」と同様にアクチュ

アルな感覚を対象としているためであると考えられる。フェルト・センスと同じように

「生き方」が感じられるとするのであれば,「生き方」もまたそのとき意識化したアクチ

ュアリティが「わたし」にとってしっくりくるような感覚を得ると言える。逆説的に,意

識化された体験が「わたし」にとってしっくりこない場合には,それは「生き方」ではな

い。また,しっくりくる表現を見つけることができない,しっくりくる「わたし」を体験

的にも対象的にも見つけることのできない状態が,「生き方」を喪失した状態である。わ

たしがどのように生きているのか,どのように生きてきたのか,どのように生きていくの

か,現実に「わたし」が生きていくことを対象化した際に表象として上がってきたものが

しっくりくる場合,「わたし」の存在のアクチュアリティが知覚されていることになる。

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