j2002.0402-04 · 2012. 8. 31. · Title...j.....2002.04....02-04 Created Date: 4/6/2007 8:08:15 AM...

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がある。このうち大夫と極南界についての記載は、 『魏 』倭人伝にみえる「古自 り以来、其の使い の中国に詣るときは、皆、自ら大夫と称す」「次 に奴国有り、此れ女王の境界の尽くる所なり。其 の南には狗 こく 有り」という文章を下敷きにして いるが、建武中元2(57)年、奴国が後漢王朝に 冊封され、印綬を与えられたとある部分は『後漢 書』のオリジナルの記載である。この時に与えら れた印は、天明4(1784)年に福岡県志 かの しま で発 見された「漢/委奴/国王」と彫られた金印(国 宝、福岡市博物館蔵)に比定されている。 奴国は、『魏志』倭人伝によると「二万余戸」 という卓越した人口を有したとあり、後に「儺 なの あがた (『日本書紀』仲哀8年正月己亥条)や「那津 なのつ 」(同 宣化元年5月辛丑条)とみられる地で、須 岡本 遺跡(福岡県春日市岡本)を中心とした福岡平野 一帯に比定されている。首 しゅ ちょう 墓からは漢代の中 国銅鏡など卓越した副葬品が出土し、奴国の王墓 に比定されている。また、周辺からは青銅器・鉄 器・ガラス製品が生産された大規模な工房群が発 見されている。金印の「漢委奴国王」の称号など からすれば、当時の倭国が後漢王朝の支配秩序 (天下)に包摂されていたことは明らかであるが、 「倭の奴国」の称号からすれば、いまだ倭国全体 を統率すべき王号とはなっていない点は重要であ る。ちなみに、『漢書』王莽伝には、元始5(5) 2 1 なの くに 成立以前の倭 じん 社会と外交 「倭国乱」が卑弥呼の「共立」により収拾され た2世紀末以前の状況は、中国側の史料によって も、断片的にしか伝わっていない。そのうちの一 つである1世紀後半に成立した中国前漢の正史 『漢 かん じょ 』地理志には、「それ楽 らく ろう 海中に倭人あり、 分かれて百余国と為 る、歳時を以って来たりて献 けん けん すと云う」とある。これは、紀元前1世紀ころ の倭人社会が中国王朝から「国」と認識された百 余りの集落連合から構成され、その中には定期的 に朝鮮半島の楽浪郡に朝 ちょう こう していた国も存在し たことを示しているが、この段階の「百余国」と は、おそらくは北部九州を中心とした地域であっ たと想像される。したがって一世紀後半以前の小 国分立段階から中国王朝とは朝貢関係を有してい たのだが、この段階では「倭人」という人種的表 記のみが用いられており、「倭国」というまとま りや国々を束ねる「倭王」の存在はまだ見られな い。 奴国の出現と後漢王朝とのかかわり 一方、『後 かん じょ 』は『三国志』よりも後の5世紀 に成立し、多くの記述は『三国志』の要約的記述 にすぎないが、 『三国志』には見 えない独自の記 述もある。すな わち、建武中元 (57)年のことと して「倭の奴国、 貢ぎを奉げて朝 賀す。使人は自 みずか ら大 たい と称う。 倭国の極南界な り。光 こう は賜う に印 いん じゅ を以って す」という記載 -2- 歴史をどのようにとらえるか 卑弥呼と東アジア情勢 国立歴史民俗博物館 仁藤敦史

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がある。このうち大夫と極南界についての記載は、

『魏ぎ

志し

』倭人伝にみえる「古自よ

り以来、其の使い

の中国に詣るときは、皆、自ら大夫と称す」「次

に奴国有り、此れ女王の境界の尽くる所なり。其

の南には狗く

奴な

国こく

有り」という文章を下敷きにして

いるが、建武中元2(57)年、奴国が後漢王朝に

冊封され、印綬を与えられたとある部分は『後漢

書』のオリジナルの記載である。この時に与えら

れた印は、天明4(1784)年に福岡県志し

賀かの

島しま

で発

見された「漢/委奴/国王」と彫られた金印(国

宝、福岡市博物館蔵)に比定されている。

奴国は、『魏志』倭人伝によると「二万余戸」

という卓越した人口を有したとあり、後に「儺なの

県あがた

(『日本書紀』仲哀8年正月己亥条)や「那津な の つ

」(同

宣化元年5月辛丑条)とみられる地で、須す

玖く

岡本

遺跡(福岡県春日市岡本)を中心とした福岡平野

一帯に比定されている。首しゅ

長ちょう

墓からは漢代の中

国銅鏡など卓越した副葬品が出土し、奴国の王墓

に比定されている。また、周辺からは青銅器・鉄

器・ガラス製品が生産された大規模な工房群が発

見されている。金印の「漢委奴国王」の称号など

からすれば、当時の倭国が後漢王朝の支配秩序

(天下)に包摂されていたことは明らかであるが、

「倭の奴国」の称号からすれば、いまだ倭国全体

を統率すべき王号とはなっていない点は重要であ

る。ちなみに、『漢書』王莽伝には、元始5(5)

2

1 奴なの

国くに

成立以前の倭わ

人じん

社会と外交

「倭国乱」が卑弥呼の「共立」により収拾され

た2世紀末以前の状況は、中国側の史料によって

も、断片的にしか伝わっていない。そのうちの一

つである1世紀後半に成立した中国前漢の正史

『漢かん

書じょ

』地理志には、「それ楽らく

浪ろう

海中に倭人あり、

分かれて百余国と為な

る、歳時を以って来たりて献けん

見けん

すと云う」とある。これは、紀元前1世紀ころ

の倭人社会が中国王朝から「国」と認識された百

余りの集落連合から構成され、その中には定期的

に朝鮮半島の楽浪郡に朝ちょう

貢こう

していた国も存在し

たことを示しているが、この段階の「百余国」と

は、おそらくは北部九州を中心とした地域であっ

たと想像される。したがって一世紀後半以前の小

国分立段階から中国王朝とは朝貢関係を有してい

たのだが、この段階では「倭人」という人種的表

記のみが用いられており、「倭国」というまとま

りや国々を束ねる「倭王」の存在はまだ見られな

い。

奴国の出現と後漢王朝とのかかわり

一方、『後ご

漢かん

書じょ

』は『三国志』よりも後の5世紀

に成立し、多くの記述は『三国志』の要約的記述

にすぎないが、

『三国志』には見

えない独自の記

述もある。すな

わち、建武中元

(57)年のことと

して「倭の奴国、

貢ぎを奉げて朝

賀す。使人は自みずか

ら大たい

夫ふ

と称う。

倭国の極南界な

り。光こう

武ぶ

は賜う

に印いん

綬じゅ

を以って

す」という記載-2-

歴史をどのようにとらえるか

卑弥呼と東アジア情勢国立歴史民俗博物館 仁 藤 敦 史

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年のこととして「東夷の王、大海を渡りて、国珍

を奉ず」とある。不明確な記載だが、仮にこの大

海を渡って珍宝をたてまつった「東夷王」が、絶

域の倭国からの使者とすれば、すでに前漢末期か

ら北部九州と中国との交渉を想定することができ

る。

さらに『後漢書』倭伝には、安帝の永初元

(107)年のこととして「倭国王の帥すい

升しょう

等、生せい

口こう

百六十人を献じ、願いて見えんことを請う」とあ

る。また『魏志』倭人伝には、卑弥呼ひみこ(ひめこ)

以前の倭国

について「其の国、本亦男子を以って王と為す。

住まること七、八十年、倭国乱れて、相攻伐する

こと年を歴たり」と記載されている。倭国乱の年

代について、『後漢書』倭伝は「桓霊の間」(146

~189年)、『梁書』倭伝は「漢霊帝の光和中」

(178~184年)としており、倭国乱を遡ること七、

八十年前の男子を倭国王とした段階は、永初元

(107)年の「倭国王帥升」による朝貢を起点とし

ている。少なくとも中国側の意識として、「倭国」

および「倭国王」成立の起点としてこの記事は位

置付けられている。ここで倭国王が「帥升等」と

複数形になっていることが注目され、帥升は単独

で中国に朝貢したのではなく、形式的にせよ倭人

社会を代表し、有力な国々を束ねる形で王として

君臨していたと考えられる。

倭国の乱と女王卑弥呼の誕生

2世紀初めまでには、まず北九州において奴国

から伊い

都と

国への主導権の移動があり、さらに2世

紀後半には「倭国乱」と呼ばれる騒乱により、伊

都国から邪や

馬ま

台たい

国こく

への主導権の移動があったと想

定される。倭国が長い間乱れて戦乱状態にあった

が、卑弥呼を倭国の女王として「共立」すること

によって、「平和」がもたらされたことになる。

これを裏付ける史料とされるのが、奈良県天てん

理り

市の東とう

大だい

寺じ

山やま

古墳出土の鉄刀銘である。この古墳

からは、「中平」(184 ~189年)という後漢年号

を記した鉄剣が出土した。中平年号とは、「倭国

乱」があったとされる中国の桓帝と霊帝の間

(146~189年)の年号で、「光和年中」(178~184

年)の直後の年号である。邪馬台国がどこかとい

う議論はさておくとしても、倭国の乱が治まった

直後の中平年間に造られた鉄剣が、中国あるいは

遼りょう

東とう

半島を支配していた公孫氏を経由し、倭国

へもたらされたことになる。したがって、「共立」

されたばかりの卑弥呼が朝貢して、中国からその

地位を承認する意味で剣が与えられたと考えられ

る。ただし、共立されたばかりの卑弥呼に、後漢

から直接与えられたと考えるか、あるいは当時遼

東半島を支配していた公こう

孫そん

氏をいったん経由して

もたらされたと考えるかは、時期的に微妙で、判

断が難しい。

卑弥呼と公孫氏との交渉

公孫氏は後漢末から三国時代に中国東北部で勢

力をもった豪族で、卑弥呼が魏へ朝貢する直前の

景初2(238)年に滅ぼされているが、後漢末の3

世紀初頭に、公孫氏は楽浪郡の南部を分けて帯たい

方ほう

郡を設置している。『魏志』韓かん

伝には「建安中、

公孫康、屯有県以南の荒地を分かちて帯方郡と為

し、公孫模・張敞を遣わして、遺民を収集せしめ、

兵を興して韓かん

・ を伐つ。旧民稍出ず。是の後、

倭・韓は遂に帯方に属す」とある。つまり、後漢

献帝の建安年間(196~220)に公孫康は、楽浪郡

の屯有県より南の荒地を派兵により平定、旧楽浪

郡民を奪還し、帯方郡を置いたのである。帯方郡

分置の正確な年代は明らかではないが、父の公孫

度が建安9(204)年に没しているので、少なくと

もそれ以降と考えられる。

注目されるのは、立郡以降に倭と韓が帯方郡に

所属したと記載されている点である。この記載を

卑弥呼によるはじめての遣使と解釈すれば、公孫

氏との関係で「中平」鉄刀を与えられた可能性が

高いが、単に楽浪郡から帯方郡への所属替えを示

三国時代の東アジア

烏桓

夫余

襄平襄平

徐州洛陽

成都

長安

武昌

東治

建業

会稽

楽浪郡

帯方郡

高句麗

  卑

夷州

珠崖耳

黄河

准河

(公孫氏)貊歳

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従来、景初3(238)年における魏と卑弥呼との

交渉は、公孫氏滅亡直後であることから、そのタ

イムリーな遣使が外交における開明性として評価

されてきた傾向がある。しかし、むしろそれ以前

における公孫氏との交渉を前提に考えるならば、

卑弥呼にとっては公孫氏にかわる新たな後ろ盾を

早急に必要としたという、国内事情によるものと

位置付けることができる。つまり、卑弥呼の「共

立」により保たれた「平和」は、外国の権威と支

持により保たれていた極めて危うい秩序であった

ことになる。

以上のように「中平」年号の鉄剣に注目するな

らば、魏への朝貢以前に、公孫氏と女王卑弥呼と

の交渉がすでに存在していた可能性は高い。卑弥

呼は帯方郡を介して、公孫氏とどのような政治的

関係を維持していたのか。問題は、魏や呉ご

に対す

る公孫氏の政治的立場が時期により微妙なことで

ある。すなわち、公孫氏は独立的な地位を占めな

がら、魏王朝から「遼東太守」に任命されるなど、

太和4(230)年頃までは良好な関係を維持してい

た。その一方で、呉ともしばしば交渉し、とりわ

け嘉禾2(233)年頃には呉の孫そん

権けん

から公孫淵は

「燕えん

王おう

」に冊封され、多大な「金宝珍貨」が送ら

れている。それについて魏側の史料では、公孫氏

が逆賊孫権の甘言により交通し貿易していること

を非難している。さらに、滅亡直前にも呉王朝に

臣従して派兵を願っており、呉の北方派兵も実際

に行われている。

こうした魏と呉の対立の最中に、倭国は帯方郡

へ遣使し、公孫氏からその地位を承認されていた

ことになる。したがって、倭国は公孫氏との良好

な関係を維持し、「中平」年刀や画が

文もん

帯たい

神しん

獣じゅう

鏡きょう

代表される先進文物の導入を安定させるために、

一時的にせよ呉王朝との間接的な関係を有した可

能性も考えられる。卑弥呼の政治的立場を考える

場合には、こうした公孫氏をめぐる複雑な東アジ

ア情勢を考慮する必要がある。

4

すものと解釈し、後漢王朝への倭国王の朝貢は帥

升以来連続していたとすれば後漢王朝末期に直接

卑弥呼に与えられた可能性が高くなる。しかし、

すでに倭国の中国交渉の窓口であった楽浪郡は、

2世紀末には高こう

句く

麗り

の侵入などもあり衰退し、中

国本土も中平元(184)年の黄巾の乱以来、後漢

滅亡まで混乱が続いていたので、中平年間に卑弥

呼の使者が後漢へ直接朝貢することは容易でなか

ったことが想定される。一方、2世紀末の段階で

倭国乱が卑弥呼の「共立」により収拾されている

とすれば、中国正史に記載は欠いているが、卑弥

呼と公孫氏が帯方郡を介して交渉していた可能性

は高いと考えられる。漢鏡の倭国への流入量が倭

国乱の時期に一時的に減少し、帯方郡の成立以後

再び増加する傾向を示すという指摘も、公孫氏と

の交渉を裏付けている。

公孫氏の滅亡とその後の外交

この剣は、卑弥呼が中国から地位を認めてもらうためのしるしだったのね。

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事実をカード化し、全体で話し合い整理する。そ

れをもとにいくつかにグルーピングし、分類し仮

説を立てるとともに検証するための手だてを考え

る。さらに、検証する過程で明らかになったこと

をもとに、当時の人々の生活を想像し図やイラス

トにまとめるという流れで学習を進める。その際、

生徒が想像し作成した図やイラストには、わかっ

たことや疑問点を書き込んでおくスペースを設け、

今後歴史学習を進める中で比較したり、新たな疑

問点が追加できるようにする。

全体を貫くテーマ

発見された人骨の人々が生きていた頃の

ようすを再現してみよう!!

(1)学習の流れ

一人一人の生徒が、基本となる教科書p.54の

「復元図」から、わかることや疑問点を整理する。

それを大きく分類し、班ごとに追究するものを選

択してそれを検証するための条件を整理する。

予想される事実と疑問点(抜粋)

*折れるようにして死んでいる人と、身を伸

ばして死んでいる人が折り重なるように死

んでいる。

*穴が4カ所あいている。

*炉がある。

*この場所の近くには貝塚が広がっている。

*この場所は、円のような形となっている。

*この人骨の人たちは家族で住んでいたのか。

*食料として何を食べていたのか。

*本当にこの人骨にある人々が縄文期の人々

といえるのか。

*住居と思われる家のつくりにはどのような

点が工夫されているのか。

*貝塚と何か。どのような特徴があるのか。

*人骨のほかに何か見つかったものは?

1

2

はじめに

新学習指導要領での歴史学習は、時代区分を大

きくとらえることとし、詳細な事象の学習に陥ら

ないようにしている。

ここで扱う題材は、日本列島において人々の生

活が始まった頃である。この時代は、歴史的に評

価の定まった資料の乏しい時代である。学説もさ

まざまであり、今後確かな証拠となる多くの発掘

が待たれると頃でもある。しかし、その分生徒の

関心や意欲をもとにそれぞれの思いや考えを表現

したり、伝えたりすることのできる学習の場とな

る。中学校における歴史学習の本格的なスタート

であり、生徒の意欲や関心を大切にし、基本とな

る資料について多面的・多角的に予想したり、考

察したりすることによって、歴史を学ぶ楽しさを

味わわせるとともに、歴史的事象の見方や考え方

を高める一助としたい。

また、この授業を通して、一人一人の生徒が歴

史を学ぶ上での指標やものさしとなる知識を身に

つけ、その後の学習に生かせるようにしたい。

学習の大きな流れ

授業の始めに基本となる帝国書院『中学生の歴

史(最新版)』(以下、教科書)p.54の復元図を生

徒に提示する。そして、まずこの資料からわかる-5-

わたしの授業実践

思考力を高め歴史を学ぶ楽しさを味わわせる授業~人類の出現から文明の発生~の授業実践

埼玉県加須東中学校 杉 田   勝

帝国書院『中学生の歴史(最新版)』p.54

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班ごとに、関心ある事実や疑問をもとにテーマ

を決め、予想や仮説を立て検証する作業を行う。

その際、班ごとに縄文期のものと思われる資料を

選んで作業し参考にする。

【A班】の学習活動<人骨の人々の死因>  

折れるようになっていたり、身を伸ばしたりし

て折り重なるようにして死んでいるのは・・・

生徒の予想・仮説

何かの災害に巻き込まれたではないのか?ある

いは栄養失調か何か病気にかかったのではないか。

教師の支援

・この時代に災害があったことを証明するものは

ないのだろうか。

・何か病気にかかったことを証明するものはない

だろうか。

教師の指導・助言

地層については、含まれる火山灰の特徴からど

このものかがわかり、その火山を調べればいつ噴

火したかを特定できるようです。したがって、も

しそこに何かが発掘されれば、いつ頃のものかが

わかるようです。<岩宿遺跡断面>

また、栄養失調については、骨の成分から科学

的に明らかになるようです。

【B班】の学習活動<食べ物に注目>

この時代の人々の食生活は・・・

生徒の予想・仮説

貝塚からさまざまなものが食料となっていたよ

うなので、恵まれていたのではないか。でも、ど

のような方法で食料を確保していたのだろうか。

教師の支援

・安定的に食料を確保するためにどのような工夫

をしたのだろうか。

・この頃の調理方法はどのような方法を用いたの

だろうか。

教師の指導・助言

貝塚から明らかになる食べ物を書き出し、収穫

時期を考え1年間のカレンダーに整理してみよう。

また、食料の安定的な確保という点で、どのよ

うな方法がとられていたのか考えてみよう。

さらに、安全でよりおいしい食べ方について考

えてみよう。その際、教科書のp.47などにある他

の時期の食べ物などとも比較してみよう。

【C班】の学習活動<住居に注目>

住居の特徴は?つくられていた場所は・・・

生徒の予想・仮説

安全で住みやすい場所でなければ家はつくらな

いので、住居は、条件的に恵まれていた場所につ

くられたんじゃないかな。

教師の支援

・現在家が多く建つ場所の条件を考え、これをヒ

ントに当時のようすを想像してみよう。

・いくつかの住居跡を地図に整理し共通点を整理

してみよう。また、教科書のp.63などにある他の

時期の住居などとも比較してみよう。

【D班】の学習活動<貝塚に注目>

貝塚とは何?貝塚があるということは・・・

生徒の予想・仮説

当時の食料について明らかになるとともに、当

時の動植物や自然について明らかになるのではな

いか。

教師の支援

・貝塚の分布図をトレーシングペーパーに写し、

地図帳のp.89・90の地図と比較してみよう。

教師の支援や指導をもとに、班内で協力しなが

ら検証したことを整理し、人骨の人々が生きてい

た頃の想像図やイラストを描き、発表会を行う。

この時期の学習は、一つの遺跡の発見や発掘か

ら学説が大きく書き換えられるゆえ、歴史学習に

対する意欲を喚起する上で大切にしたい。

この授業では、A班の追究テーマは検証の実現

が難しいものであり、それ以外の班の追究テーマ

は、科学的に分析された資料があり、検証が可能

なものである。さまざまな説が存在するという前

提のもと、このように、生徒の比較的自由な発想

をもとにして授業を展開した。その中で、教師の

指導や生徒同士の情報交換により、今後の歴史学

習に生かすことのできる指標やものさしとなる知

識を身につけ、歴史的事象の見方や考え方を高め

ることができた。

(2)生徒の思考を高める資料

・三内丸山遺跡を報道する新聞記事を集め、遺跡

から明らかになった場所の組み合わせを考えさ

せる。

・縄文土器・耳飾り・土偶・ヒスイ・黒曜石・弓

矢・もり・やすり等の道具の資料を、教科書や

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3

帝国書院『中学生の歴史(最新版)』p.55

4

G君の想像図

想像図に補足するもの

<テーマ>自然を畏れた縄文人

<予想または仮説>

・すべてが自然の廃物なので、食料の確保や生命

の安全も含め、自然に畏れを抱いていたのでは

ないか。

<伝えたいこと>

・不安な中で数十人単位で共同生活をしていたこ

と。

<資料或いは他の班から参考にしたこと>

・三内丸山遺跡の大きな建物

・土偶

・縄文人の食料(貝塚から)

おわりに

生徒は基本的な一つの資料をもとに、この時代

の様子を思い思いに想像した。これは資料に対し

て、生徒に先入観を持たせずに自由な発想を引き

出す上で大いに効果があった。また、想像図を描

かせたことで、生徒の思考を整理させる上におい

て効果があった。図に表すということで根拠が必

要になるからである。それをより具体化すべく、

想像図の下に補足資料をそえた。さらに、想像図

の発表の中で、教師が何を根拠にその結論にいた

ったのかを黒板に整理した。このことにより、生

徒の自由な発想から始まった学習の中で、歴史を

学ぶ上での指標やものさしとなる知識を提示する

ことができ、歴史的事象の見方や考え方を育てる

契機となった。この授業を通して、時代を代表す

る基本的な資料に生徒がじっくり正対することの

重要性を再確認することができた。

資料集、百科事典などから集め、その用途をま

とめさせる。

・関東南部における貝塚分布図から、当時の海岸

線をなぞらせてみる。

・貝塚から出土した食料を調査し、色分けし分類

させる。

生徒が描いた想像図例

F君の想像図

想像図に補足するもの

<テーマ>縄文時代の人々の食料

<予想または仮説>

・縄文期に生きた人々は恵まれた食生活だったの

ではないか。

<伝えたいこと>

・家族を中心として集団生活を送り、1年中海の

幸や山の幸を食べることができた。

<資料或いは他の班から参考にしたこと>

・土器の製作による加熱および調理

・食糧確保のために、山と海の境に家を建てた。

・貝塚の分布図の共通点

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・聖徳太子は、どのような外交上の問題に直面

していたか。

・聖徳太子は、どのような内政上の問題に直面 

していたか。

・過去に中国に使者を派遣したことはなかった

か、あったとしたらそれはどのような背景の

もとに行われてきたか。

(2)一つの視点から歴史をさかのぼらせること

によって、学習内容の厳選を図る

「歴史の流れと地域の歴史」の学習の直後、通

史学習における最初の単元としてこの課題に取り

組ませる。聖徳太子以前に、中国に使者を送った

例と比較させることによって、日本が一つの国と

して統一されていった流れがわかる。

この課題を通して学ばせることが無理な内容に

関しては、特設単元を設定して行う。

(3)聖徳太子の行為を通して背景となる世界史

を大観させる

歴史的分野の学習では、世界史を背景とした単

元構成を行うことが義務づけられている。本単元

の課題を追究することを通して、生徒は機械的に

ではなく、目的意識をもって聖徳太子の諸政策の

背景にある東アジア社会に対してアプローチする

ことになる。

2

1 新指導要領と本単元

新しい学習指導要領では、時代区分の取り方が

大きく変わった。この改訂を利用すれば、生徒の

歴史観を豊かにさせるための授業の構成が可能に

なる。

なぜなら、新しい時代区分は、総じて時間の幅

が長く、そこで展開される事象の特色を総合させ

ることによって、一つのまとまりをもった時代と

して生徒が意識できるようになるからである。

本稿では、古代国家成立までの日本を例に、そ

の単元構成の工夫について述べていく。

本単元の特色

(1)課題解決的な学習の流れに慣れさせる

本単元の導入的な学習課題として「どうして聖

徳太子は、隋に使いを送ったのか」を設定した。

この課題追究の過程を通して、生徒には、歴史

学習を進めていく上で必要となる学び方を獲得さ

せることができるだけでなく、古代国家成立まで

の日本統一の過程を大観させることが可能になる

と考えている。

この課題を解決するためには、次のテーマを設

定して、古代国家成立前の日本社会や、東アジア

世界を追究することになると考えている。

-8-

わたしの授業実践

古代国家の成立山口大学教育学部付属光中学校 加 藤 浩 久

遣隋使

課題解決のための視点 厳しい官僚制度と、整然と区画された均田制 シラギは常

に日本と争おうとしている

役人がさぼったり、豪族に押さえつけられたりしている

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単元構成上の配慮

(1)古代全体を一つの時代としてとらえさせる

新指導要領の主旨を生かすためにも、「飛鳥時

代」「奈良時代」「平安時代」という現行の単元構

成は避ける。次のような視点を定めて、できるだ

け長いスパンに注目しながら古代全体を意識させ

る。

「墾田永年私財法で認められた土地の私有はどう

展開したか」

「大宝律令で定められた税制は、どのように変化

していったのか」

(2)人物に注目しながら考察させる

本単元は、中学校に入学して初めての単元でも

あるので、人物に注目した考察も積極的に肯定す

る。聖徳太子、中大兄皇子、蘇我入鹿、藤原道長

などは、生徒が注目しがちな人物である。 しか

し、あくまでも社会科学習のねらいは、生徒に学

習対象を社会として認識させることにあるので、

その後の働きかけによって、人物を通して社会を

意識させるようにする。

(3)単元の特色を考察させる過程を設ける

歴史的分野の単元構成においては、まず単元の

初めに時代の特色を予想させ、単元の終わりには

それまでの学習をふまえて特色をまとめるという

活動を設定する。

本単元では、当然学習対象である古代という時

代の特色を考えさせる。生徒にとっては初めての

体験なので、高度な内容は期待してはいけない。

しかし、このような学習を中世、近世、近・現代

とを繰り返していく内に次第に生徒は、特色のま

題材名

1 古代以前の日本

おもな学習活動

これから学習する古代までの日本を年表などを通して大観する学習を通して、古代という時

代における日本の特色を予想する。

3 聖徳太子をめぐる内

政問題

十七条の憲法や、冠位十二階を検討することを通して、聖徳太子が直面していた内政問題に

気づく。

4 聖徳太子をめぐる外

交問題

朝鮮半島の鉄の利権の獲得という問題を通して、当時の東アジアをめぐる国際関係を理解す

る。

6 ムラからクニへ 日本が、ムラからクニへと統一されていく様子を、農耕の開始から検討する。6世紀までに

は、かなり強力な王権が出現していたことを古墳を通して理解する。

8 大化の改新 大化の改新改心の詔を検討することを通して、新政府がめざした国づくりの方針を読みとる。

11 仏教と日本の政治 聖徳太子以後の日本の為政者と仏教徒の関係を考察することを通して、古代国家の変化を確

認する。

12 律令政治の変化 摂関政治のメカニズムを検討することを通して、律令国家の変質を理解する。私有地の発生

や、不輸の権の承認などを考察することを通して、律令国家の変質を理解する。。

13 古代日本の文化 古代日本の文化を検討することを通して、仏教や大陸の影響を中心としたその特色を理解す

る。大陸と交渉を断っていた時期の日本の文化の特色を理解する。

14 古代日本の特色 これまで学習した内容をもとに、古代日本の特色をまとめることを通して、これまで学習し

てきた内容を再構成するとともに、今後の学習に対する課題を意識する。

10 大宝律令 大宝律令を検討することを通して、中央集権国家としての日本の体裁を確認する。

5 過去に中国へ使いを

送った為政者たち

過去に中国に使いを送った例を考察することを通して、日本が中国大陸に使いを送ることの

意味を調べる。

2 7世紀前半の日本と

東アジア

聖徳太子の業績にまつわる学習課題である聖徳太子は、どうして隋に遣いを送ったのか」を

通して、古代までの日本社会に対して関心を高めるとともに、今後の課題解決に向けての見

通しを立てる。

7 隋という国 均田制や科挙などの制度を検討することを通して、聖徳太子を引きつけた様々な魅力を明ら

かにする。古代までに、中国大陸や朝鮮半島から日本に伝わってきたものをまとめる。

9 大化の改新後の中国

との関係

白村江の戦いや遣唐使などの考察を通して、日本の中国との関係を明らかにする。大化の改

新後の動きを考察することを通して、日本の国際的地位の向上について言及することができ

る。

「古代の日本」単元構成

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4

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(2)単元後半の展開

①古代国家の崩壊に関して

単元の学習が進んでくると、古代国家がどのよ

うに崩壊していったかに興味が集まる。摂関政治

に代表される律令政治の変質は、大化改新によっ

て力を奪われた貴族(豪族)の側からの逆襲とと

らえる生徒もあらわれた。

②日本の国際的地位の向上に関して

聖徳太子は、日本の社会的地位を向上させた人

物として有名である。しかし、日本の国際的地位

は、周辺諸国との関係のもち方によって、少しず

つ変化していったことを忘れてはならない。白村

江の戦いやその後の遣唐使の活動も、日本の国際

的地位に影響を与える大きな要素であった。

また、中世の現行や倭寇なども、日本の国際的

地位に大きな影響を与えたはずである。「倭」か

ら「日本」へと変わっていくためには、この国際

的地位の向上は不可欠である。

③社会構造の特色に関して

当時の社会構造の中では、比較的下層とされて

いた武士という階級が次の次代を担うことになる。

近世の社会構造で比較的下層におかれた商人たち

が、近代以降は、社会を支える存在に成長してい

る。

このように、時代の変わり目に注目することに

よって、一人ひとりの歴史観を豊かにできる。

とめ方にも習熟してくると

思われる。

また、中世の特色をまと

めた後に、古代の特色をま

とめ直したり、近世の特色

をまとめた後に、再び古代

の特色について考えさせる

という往復と重複のある単

元構成を行うことも考えら

れる。

授業の実際と考察

(1)古代日本成立期にお

ける学習

①聖徳太子の内政上の課題

十七条の憲法の条文を読むと、生徒が直面する

内政上の課題が明らかになる。

過去に、中国に使いを送った為政者は、必ず内

外に強力なライバルが現れたときに、中国の権威

にすがることを目的に使いを送っている。それを

仮説に聖徳太子の時代を推測させることによって、

生徒はさまざまな発見をしていった。

②聖徳太子の外交上の課題

聖徳太子が実質的な権力を握るまでの間、朝鮮

半島では、鉄の利権をめぐるさまざまな争いが展

開されていた。先ほどの仮説を適用するとすれば、

この問題をめぐってのライバルとの争いを有利に

するために、隋を味方につけようとしたと考える

こともできる。このような発想に基づいて生徒は、

新羅との関係に注目していった。

③中国という国がもつ価値に注目させる

聖徳太子が中国に使いを送った理由として、生

徒が真っ先に挙げるのが、「文化を取り入れる」

という目的である。しかし、課題の解明にとって

重要なのは、この文化の中味である。

仏像や寺の作り方、壁画の描き方も興味の対象

だったかも知れない。しかし、氏姓制度化の豪族

の圧力に苦しんだであろう聖徳太子にとって、中

国の官僚制度は魅力あるものとして映ったかも知

れないという仮説に、生徒は傾いていった。

中国の官僚制度 が魅力?

高句麗とともに戦ってほしい

新羅とともに戦ってほしい?

南朝

倭王武

聖徳太子

中国の権威に すがるのが目的?

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A子:小学校でも調べたことはあったが忘れ

てしまったので、もう一度最澄につい

て調べたい。

(←支援:最澄は何歳くらいでやってきて、

それは最澄の一生の中でどんな段階だろ

う?)

最澄の年表を作るとともに、ライバル空海と

の関係についても調べる。

B男:上野国緑埜寺とは今もあるのだろうか。

(←支援:宝塔についても、調べてみたら?)

上野国緑埜寺及び最澄ゆかりの宝塔について、

調べる。

C男:最澄の話を聞くために、9万人もの人

が集まった理由は何だったのだろう。

(←支援:当時の上野国の人々の生活につい

ても調べると、意味がわかるかもしれない)

最澄の話を聞くために集まった9万人の人た

ちの生活や願いを調べる。

(3)生徒の調べ学習への支援(一例)

B男への支援にあたって

〈上野国緑埜寺及び最澄ゆかりの宝塔について〉

ア.情報収集

○文献資料については、資料収集のしやすさとい

う点からすると生徒にとっても便利ですが、生

徒が理解できるかが鍵となります。

文   献

群馬県史・藤岡市史・遺跡の報告書

→ 詳しいが中学生には難解

多野藤岡地方誌・鬼おに

石し

町史

→ 資料は古いが生徒にはわかりやすい

群馬の歴史 →詳しく使いやすい

藤岡の仏像・仏教の研究

→ 図版が多く、使い方によってはおも

しろい

1

2

はじめに

今回私が挑戦した時代は、群馬県ではもっとも

地域素材が少ないといわれている平安時代です。

教科書に登場する「最さい

澄ちょう

」をKeywordとして、

東国といわれた地方から平安時代に迫る授業実践

を試みました。

授業実践

教科書を元に「貴族の政治・武士の登場・唐風

の文化から国風の文化へ」を概括した後に、

①教師側からの資料提示を行う

②生徒の課題設定への支援

③生徒の調べ学習への支援

④話し合いへの指導

にはいりました。

(1)提示 群馬にも残る最澄の遺跡

Q1 天台宗を開いた最澄は群馬にきたこと

があるだろうか。:YES

最澄がいつ何のために群馬のどこに来て何

をしたのかを説明します。

○いつ    弘仁8年(817年)5月

○何のために 天台宗の布教のために

○どこへ 上こうづ

野けの

国くに

緑みど

埜の

寺でら

○何をしたか 法華経1000部を写し、その写

経を宝塔に納め、上野国の大衆9万人の前

で法華経を講じた。

この教師側からの提示は、意外性をねらったも

ので、これを元に生徒は課題の設定を行います。

生徒が行う調べ学習は、時間内である程度の成果

が出るよう、情報収集ができるものへと導くこと

が教師側からの支援となります。

(2)生徒の課題設定への支援(一例)

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わたしの授業実践

身近な地域素材で歴史の授業を組み立てよう~「貴族がになった政治と文化」の授業実践~

藤岡市立小野中学校 関 根 真 理

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布教活動に出向いたのではないだろうか。

B男〈上野国緑埜寺及び最澄ゆかりの宝塔につい

て調べる。〉

緑埜寺は今、残っていない。また、緑埜寺跡

もはっきりとした場所はわかっていない。

が、宝塔は鬼石町に残っているらしい。

緑埜寺について

①地名は、藤岡市立平井小学校のあたりが

「緑埜」という地名で残っている。奈良時

代、律令制下の上野国14郡の一つに緑埜郡

があり、緑埜寺とはこの緑埜郡にあった寺

院という意味だと思った。

②発掘などの遺跡にはないのか

ア.藤岡市文化財課へ問い合わせてH先生

にお話を聞いた。

緑埜寺と思われる遺跡はないが、前に

県が行った発掘で平安時代と思われる密

教関係の鎮ちん

壇だん

具ぐ

が出たと思う。緑埜寺に

関係があるかもしれない。

群馬県立歴史博物館にあるのではないか

イ.群馬県立歴史博物館のH先生にお話を

聞いた。

その話は知っているし、密教関係の仏

具が出たと思うが、歴史博物館にはない

群馬県埋蔵文化財調査事業団のS先生が

発掘したと思うので話を聞くとよい。

ウ.群馬県埋蔵文化財調査事業団のS先生

にお話を聞いた

確かに、私が発掘したのもので、銅で

できた華か

車しゃ

香こう

炉ろ

といわれるもので平安末

から鎌倉時代にかけて作られたものと思

う。しかし、一緒に出土したものから考

えると、南北朝の室町平井城関係のもの

と考えている。

緑埜寺であるなら、吉井町から出土し

た平安時代の山さん

岳がく

寺じ

院いん

跡や浄土庭園が見

つかった藤岡市白しろ

石いし

御み

堂どう

遺跡との関係が

おもしろいだろう。報告書をみるとよい。

エ.藤岡市立図書館に報告書があるかどう

か聞き、あるというので予約し、配本し

○インターネットでの資料収集は、生徒にとって

はおもしろく、ときによい資料が入手できるの

ですが、なかなか的確な資料が集めにくく、時

間が必要になるという欠点があります。

○人材活用は、生徒にとって必要な情報が集めや

すいという点で効果的ですが、相手の方の都合

もあり、FAXなどを併用し、用件が十分に伝

わる工夫が必要です。

地域の歴史についての支援者

ア.藤岡市文化財課の先生

イ.群馬県立歴史博物館の先生

ウ.群馬県埋蔵文化財調査事業団の先生

エ.藤岡の仏像著者:奈良教育大の先生

イ.資料のまとめ 

○集めた資料の取捨選択については、あまり膨大

な資料集にならない配慮が必要です。

自分の課題解決のために、思い切った取捨選

択ができるよう指導を行いました。

A子〈最澄の年表を作るとともに、ライバル空海

との関係についても調べる。〉

《考 察》

○上野国に来たのは、ライバル空海が高野山に金こん

剛ごう

峰ぶ

寺じ

を建てた翌年で、最澄51歳、亡くなる5

年前のことだということがわかった。

○なぜ、空海は東国それも上野国に来たのか。

平安時代のはじめ、桓武天皇から新しい仏教を

期待され、奈良の仏教勢力と張り合っていた最

澄。また、ライバル空海との親交をあきらめ、

比叡山を中心に布教活動を行っていた最澄が、

その勢力範囲を拡大したいと考えたことは理解

できる。ではなぜ、東国だったのか。

○東国は当時の新天地だった。坂さか

上のうえ

田た

村むら

麻ま

呂ろ

東国遠征に代表される蝦えみ

夷し

鎮圧は、平安京の

人々の最大の関心事であったと思う。開発も宗

教的な文化面も、まだこれからという可能性あ

る場所だったと思う。ここに最澄は目を付け、-12-

最澄と空海の比較年表(略)

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てもらうが、内容が難しく、先生に教え

てもらう。

どうも、緑埜寺ではないようだった。

宝塔について

この宝塔は、鬼石町浄じょう

法ぼう

寺じ

にあ

る相そう

輪りん

塔とう

のことらしいので、鬼

石町史で調べてみた。

○場所 浄法寺字平・浄土院墓地

○年代 平安時代(弘仁6年815

年)創建

○由来 最澄は全国6か所、納

経の所在地に宝塔を建立する発願を行い、存

命中に完成したのは下しも

野つけの

国くに

大慈寺とこの浄法

寺の2か所だけであった。その後、寛文12年

(1672)年9月に改造、大正11年(1922年)台石を修

理した。(青銅製)

C男〈最澄の話を聞くために集まった9万人の人

たちの生活や願いを調べる。〉

奈良時代の関東地方のようす

広大な平野は未開発な場所が多く朝廷は渡

来人を移住させ、その開発にあたらせた。

※711年:上野国多た

胡ご

郡ぐん

設置

防人として九州に行ったり、馬や兵を差し

出すことが多かった。

平安時代の関東地方のようす

8世紀末~9世紀前半には、蝦夷征伐のため

の兵として、東北地方に行くことがあった

9世紀後半には、関東の治安が悪化。群盗

となり都に送る税を略奪する盗賊団出没する。

899年、碓氷峠が置かれ、取り締まりをは

じめる。

10世紀前半、関東では平将門の乱が起こり

常陸の国を占領。p.50参照

最澄の教え(法華経の教え)

身分に関係なく、すべての人々は成仏でき

る。また最澄は、弘仁8年(817年)5月15日、

広智と円澄を緑埜寺の前で灌かん

頂じょう

し弟子とした

という。

(4)話し合いへの指導

調べたことを元に、ねらいを明確にした話し合

いを行いました。-13-

3

最澄や平安時代初期の上野国のようすを考えよう

A子:最澄は、ただ比叡山にいて修行の仏教をし

ていただけでなく、未開の東国にも布教しようと

していたなんてビックリした。あと、身分に関係

なく苦しい生活をしている民衆も浄土に生まれ変

われるという教えが受け入れられたんだと思う。

だから、9万人もの人が集まったんだと思った。

C男:関東地方は、当時、阪東とよばれる辺境の

地で、人々は重い税で苦しんでいただけでなく、

やっぱり都の貴族からは野蛮人として差別されて

いたんだと思う。そういういろんなものをバネに

中世の武士団へとつながっていくんだと思った。

B男:そうだね、平安時代って平安京を中心とし

た貴族の摂関政治っていうイメージだったけれど、

緑埜寺とか調べて、この藤岡にも「藤岡の平安時

代の歴史」があるってわかったよ。まだ、どこに

あったかが断定できないけれど、今後の発掘に待

つっていうのも夢があっていいよね。

成果と課題

今回、地域資料を通して、学び方に視点を当て

た授業実践を行いましたが、生徒の学びを保障す

る授業は、支援と指導の教師自身の指導力が問わ

れるものと感じます。

成   果

①課題設定に時間をかけたため、生徒にとって資

料の集めやすい課題が設定できた。

②調べ方では、教師側の支援や指導を行ったため、

時間内に情報収集ができた。

③ねらいを明確にした話し合いだったため、生徒

の興味や理解の上にたった考えを導くことがで

きた。

課   題

①生徒にとって、成果を上げる課題を設定するた

めには、生徒の関心や理解力以上に資料が入手

できるかが大きいため、地域資料・人材を含め

て、情報ネットワークを確立していく必要があ

ると感じた。

②今回の課題解決学習は当初6時間予定で行うつ

もりだったが9時間を費やしてしまったため、

このようなトータル的な実践ではなく、課題解

決の過程の一部に焦点を当てる実践を年間計画

に組み込むよう、ねりなおす必要を感じた。

Page 13: j2002.0402-04 · 2012. 8. 31. · Title...j.....2002.04....02-04 Created Date: 4/6/2007 8:08:15 AM Author.....

りで評価することでは対応できなくなる。今後は、

内容的にひとまとまりとなる単元ごとに評価をす

ることが中心となってくる。

それでは、帝国書院『中学生の歴史(最新版)』

の「第2章 古代国家と東アジア 1節 人類の

出現から文明の発生まで」を例にして、評価計画

の仕方を示そう。

②単元全体の観点別評価規準の設定

「人類の出現から文明の発生まで」の単元の学

習指導計画を立てる際に、4観点ごとにどのよう

1 評価計画

①単元毎の評価計画

評価の在り方が、これまでの相対評価による評

定から目標に準拠した評定(絶対評価)に変わる。

これにともない、年間の学習指導計画を立てる

際に、従来にもまして、さらにしっかりした評価

計画も立てていく必要が出てきた。目標に準拠し

た評価をすることを前提にすると、従来からの学

期という期限を単位とした時間的に機械的な区切

-14-

わたしの評価方法

「人類の出現から文明の発生」の評価東京都世田谷区立弦巻中学校 安 斎 正 則

次 学習内容

1 東アジアにあらわれた人類

学習活動

・人類の発生と最初のころの生活のようすを発掘品などからとらえる。 ・農耕・牧畜開始以前と以後の人類の生活の変化をとらえる。

観点別 評価 の順番

関 1 資 1 知 1

A B

学習活動における評価基準

・人類がきびしい環境の中で獲得した知恵や工夫を追求しようとしている。 ・遺跡から発掘された人骨や遺物から人類の特徴を的確にとらえている。 ・発掘品などから最初のころの人類がどのような生活をしていたのかとらえている。 ・人類の発生から農業のはじまりまでの変化を理解し、知識を確実に身につけている。

・人類がきびしい環境の中で獲得した知恵や工夫に関心を示している。 ・猿と比較して人類の特徴をとらえている。 ・野尻湖遺跡の写真から当時の人たちが生活していたころのようすをとらえている。 ・人類の発生から農業のはじまりまでの変化を理解している。

5 歴史探偵になってみよう発見された人骨のなぞ

・発見された縄文時代の人骨のなぞをいくつかの情報を活用して解き明かす。

関 5 思 3 資 4

・意欲的に課題に取り組み、発展的に追求しようとしている。 ・与えられた情報を多面的・多角的に検討して結論を出している。 ・与えられた情報を正しく読み取っている。

・与えられた課題の取り組んでいる。 ・与えられた情報のうち一つのことを基に結論を出している。 ・与えられた情報を他の情報とも関連つけて読み取っている。

年間指導計画および評価計画〔第2章 古代国家と東アジア…第1節 人類の出現から文明発生〕

Page 14: j2002.0402-04 · 2012. 8. 31. · Title...j.....2002.04....02-04 Created Date: 4/6/2007 8:08:15 AM Author.....

3

2

-15-

な規準で評価するか、計画を立てる。評価をする

際の具体的な目標あるいは質的な根拠である評価

規準を示すことにより、観点別学習状況の評価の

目安とするのである。

③学習活動における観点別の具体的評価規準の作成

次に単元の授業を具体的に計画する中で、どの

ような学習活動の場面で、どのような観点をどの

ような規準で評価するかを具体的に示す。

④学習活動における評価場面と方法・基準の設定

さらにそれにもとづいて、実際の学習活動では、

どのような観点をどのような方法、基準(A、B

を示す)で評価するかを計画するのである。ここ

で設定する評価基準とは、判断の量的な根拠ある

いは尺度を示すもので、Cを設定していないのは、

Bに達していないのをCと評価すればよいからで

ある。

前ページに示したのが「人類の出現から文明の

発生まで」の単元の学習活動における評価場面と

方法・基準を設定した「学習指導計画・評価計画

表」の一部である。

具体的な授業での評価例

「人類の出現から文明の発生まで」の単元の第

5次に設定した「歴史探偵になってみよう 発見

された人骨のなぞ」で実際の評価を考えてみた。

ここでは、「関心・意欲」「思考・判断」「資料

活用」の三つの観点を評価することにした。

「関心・意欲」は、仮説を書き入れるワークシ

ート(『資料で学ぶ歴史ワーク』帝国書院より)

の分析および授業中の取り組み情況や発言により

評価する。

ワークシートに自分なりの仮説が書いてあれば

B、わからないことを図書館に行ったりインター

ネットのホームページなどでさらに追究しようと

していれば、Aとする。

「資料活用の技能」は、情報123を正しく読

み取っているかワークシートの記述を見る。評価

基準は前掲の「学習指導計画・評価計画表」のと

おりである。

「思考・判断」は、結論として推論を書くワー

クシートを見る。同じく評価基準は「学習指導計

画・評価計画表」の通りである。

観点別学習情況の評価から評定へ

このように授業時間ごとに行った観点別評価は、

ワークシート、発言、ペーパーテストなどの評価

方法ごとに重みづけをした上で総合し、この単元

の観点別評価とする。そして、それを点数化して

単元全体の評定とするのである。

帝国書院中学生の歴史(最新版)p.54

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