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古代近代における悲劇的なるもの Das Tragische in der Antike und N 古沢悠子 1 近代西洋文学ジャンルのなかで悲劇ほξ,この文学様式のはじまりとされる古代ギ リシャ文学との内的関連を,いまだに明確にそして生き生きと持ち続けているものは ないように思われる。もちろん悲劇的なものの戯曲的表現形体としての悲劇も,古代 ギリシャの時代から様々な変遷を経てきている。しかしたとえぱ叙事詩の場合は,こ のジャンルが非常に高度な段階に達していた古代に密接に結びつけられ,ホメ・スの 時代は叙事詩時代であったと言われるが,近代文学との関わりで語られることは少な い。悲劇においてはそれとは異なり,特にドイツ近代悲劇の発展は,ギリシャ悲劇と 関わり合いながら,古代悲劇の含有するものを新しい歴史状況のなかで,r近代的」 な形で表現しようという試みから出発したと言えよう。のみならず文学における悲劇 的なもの一般が論じられる際も,個々の悲劇作品が解釈される揚合も,悲劇的なもの の本質の説明には繰り返しギリシャ悲劇が挙げられる(1)。 その際,悲劇的なものの概念が歴史のなかで遭遇した変遷の種類と方向に関して, 従来の研究のなかで一種の基本的見解といったものが形成されてきたように思える。 基本的見解といってももちろん解釈者による差異は多いのだが,個々の作品の細部の 解釈には重要であっても悲劇の基本的理解には大きな意昧を持たないと思われるその 差異をひとまず度外視すれば,この見解は次のようなものと言えよう。すなわち悲劇 的状況とは2つの同じように正当な原則または権利が,避けようもなく衝突する状況 であり,主人公は自由か必然かの決定を迫られる。しかしどちらを選んでも餐めを受 けざるを得ず,彼は罪なくして罪に陥るというのである(2)。 たとえばRグリム(Reinhold Grimm)はブレヒトの教訓劇『Die MaBna をrイデオ・ギー的悲劇」と解釈する(3)。なぜならここに描かれるr若い同志」は

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古代近代における悲劇的なるもの

Das Tragische in der Antike und Neuzeit

古沢悠子

1

 近代西洋文学ジャンルのなかで悲劇ほξ,この文学様式のはじまりとされる古代ギ

リシャ文学との内的関連を,いまだに明確にそして生き生きと持ち続けているものは

ないように思われる。もちろん悲劇的なものの戯曲的表現形体としての悲劇も,古代

ギリシャの時代から様々な変遷を経てきている。しかしたとえぱ叙事詩の場合は,こ

のジャンルが非常に高度な段階に達していた古代に密接に結びつけられ,ホメ・スの

時代は叙事詩時代であったと言われるが,近代文学との関わりで語られることは少な

い。悲劇においてはそれとは異なり,特にドイツ近代悲劇の発展は,ギリシャ悲劇と

関わり合いながら,古代悲劇の含有するものを新しい歴史状況のなかで,r近代的」

な形で表現しようという試みから出発したと言えよう。のみならず文学における悲劇

的なもの一般が論じられる際も,個々の悲劇作品が解釈される揚合も,悲劇的なもの

の本質の説明には繰り返しギリシャ悲劇が挙げられる(1)。

 その際,悲劇的なものの概念が歴史のなかで遭遇した変遷の種類と方向に関して,

従来の研究のなかで一種の基本的見解といったものが形成されてきたように思える。

基本的見解といってももちろん解釈者による差異は多いのだが,個々の作品の細部の

解釈には重要であっても悲劇の基本的理解には大きな意昧を持たないと思われるその

差異をひとまず度外視すれば,この見解は次のようなものと言えよう。すなわち悲劇

的状況とは2つの同じように正当な原則または権利が,避けようもなく衝突する状況

であり,主人公は自由か必然かの決定を迫られる。しかしどちらを選んでも餐めを受

けざるを得ず,彼は罪なくして罪に陥るというのである(2)。

 たとえばRグリム(Reinhold Grimm)はブレヒトの教訓劇『Die MaBnahme』

をrイデオ・ギー的悲劇」と解釈する(3)。なぜならここに描かれるr若い同志」は

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 30 言語文化NQ.21

r彼の性向と周囲の強制が原因で,自由と必然の解決しがたい葛藤,2つの絶対的価

値の矛盾に悩む。この2つの価値はどちらも拒否することのできない倫理的要請であ

りながら,どちらか一方に従えばもう一方を斥けざるを得ない。それゆえ彼はどちら

を選ぶにしても罪を犯さざるを得ない。……これはドイツ古典主義が展開してきた悲

劇概念の正確な意味において悲劇的である」(4)。グリムはまたゲーテが1824年6月6

日Kanzler Mmlerに語ったあの有名な言葉r悲劇的なものは妥協しがたい対立に立

脚する」を引用し,特にシラーの悲劇理解に言及して,彼のドン・カル・スは自己に

認識された自由の真の観念を所有する点において他に優ると説く(5)。

 ところでグリムがこのように説明するrドイツ古典主義の悲劇概念」の規範となっ

たものはギリシャ悲劇であり,それも特にソフォクレスの悲劇作品であった。ソフォ

クレスの『オイディプス王』もしくは『アンティゴネ』は,シラーやゲーテやシェリ

ングやその他ゲーテ時代の多くの人々にとフて,悲劇的なるものの最も純粋で完成さ

れた形の具現であった。

 彼等の考えによれば,ギリシャ悲劇と近代悲劇の相違は,上述した悲劇的葛藤

(Klonnikt)の本質にはかかわらない。この葛藤は悲劇的なるものの変遷のなかで,

不変のまま保持され続けたものであり,古代と近代の相違はむしろ葛藤の原因の違い

にあるとみなされている。この見方はまた今日でも多くの人に支持されている。つま

り古代の詩人たちは悲劇的な出来事の内にもまだ神々の存在によって保証された秩序

とこの世を支配する神々の意図を探し求め認識することができたが,このような信仰

は時代が進むにつれて失われ,いまや悲劇の原因はもはや神々がもたらし神々が是認

する運命ではなく人間自身,すなわち人間に依拠し人間に内在するものである。ただ

古典主義が悲劇的出来事の底にいまだなお,理性をもって認識し得る合理的理念を探

ることができたのに対して,古典主義以後の各派と現代文学は悲劇的不幸をこの世界

の非合理な無意味さと不条理の標とみなすというのである(6)。

 このように概括された悲劇的なものの概念と古代から現代にかけての悲劇の変遷に

関する見解は,しかし古代にとっても近代にとっても妥当なものではなく,古代悲劇

と近代悲劇双方の特有性を正確に捉えているとは言いがたいように思われる。なぜな

ら近代を古代から区別するものは,悲劇的状況の条件の相違,すなわち合理的世界秩

序への信仰が悲劇的状況のあり方とかかわるか否かではない。主な相違はむしろ悲劇

的状況設定そのもののうちにある,つまり悲劇的状況とはそもそも何かという問題に

ある,と考えられるからである。本論の目的はこの間題点の検討にあるが,この相違

を追求してゆくことを通して,ギリシャ的な意味で悲劇であったものが,近代観念に

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          古代近代における悲劇的なるもの           31

おいては悲劇の名にも概念にも相当していない,という事実が明らかにされるのでは

ないかと思われる。

 たとえぱBenno von Wieseは悲劇的なものについて次のように述ぺる。r絶対的

な自由は悲劇的なものと両立し得ない。ドラマの世界において主人公に窮地から逃れ

る道が残っている限りは,悲劇的必然(tragische Notwendigkeit)の感情は起こり得

ない。無条件の自由が確保され,人があのようにもこのようにも行動できるという判

断選択の余地を持つ限り悲劇的ではあり得ない。」(7)

 この論は無条件の絶対的自由が悲劇と両立し得ないとする点では,古代の悲劇理解

たとえばアリストテレスの悲劇論と一致する。しかし主人公がどのように行動するか

の選択の余地を持たないr悲劇的必然性」が悲劇の条件であるという主張は,アリス

トテレスの言う悲劇的過失(ハマルテーマ)の大前提とまったく相容れない。アリス

トテレスによれば主人公が行動の選択を持たない状態は外的強要(ビアー)または奇

禍(アテユケーマ)によるものである。しかしその人が自ら行為を選択し,行為の結

果をまえもって判断できたであろう場合のみ,悲劇的過失による悲劇的状況が成立す

る。そしてそのような悲劇が悲劇に特有の恐れとあわれみの念を惹き起こすというの

である(8)。

 ギリシャ悲劇は何世紀もの間,西洋の詩人や解釈者によって賞讃または批判を受け

ながらも,悲劇的なものの原初的表現形体とみなされてきた。ところがこの伝統のな

かに育った悲劇の概念が,古代悲劇の概念とこのような矛盾をきたした理由はどこに

求められるのであろうか。この問はルネッサンス期やゲーテ時代の近代悲劇の形成,

また独自のr現代文学」を目指しながらやはりギリシャ文学の影響を否定できない古

典以降の悲劇作品を,発展史的意味において視野に入れるとき,大きな意味を持つと

思われる。                ■

 たとえぱシラーが感傷的傾向を持つ新しい文学と古代の素朴的文学を比較し,フリ

ードリッヒ・シュレーゲルが・マン派のKunstpoesieを古代のNaturpoesieに対照

させている事実からも,この対比が新しい文学の発展と形成に深いかかわりを持って

いたと推測される(9)。シュレーゲルは新しい文学が流動的(chemisch)分裂的(zer-

rissen)個別的(partikularistisch)随意的(willkUrlich)等々であるとするが,この

定義は古代文学との正確な対比である。古代文学はシュレーゲルによると,分裂せず

に一つにまとまった全体(einheitlich ganz)であり,流動的ではなく統合的(syn-

thetisch).造形的(plastisch)である。また個別的主観的ではなく普遍的(allgemein-

gmtig)客観的(objektiv)であり随意的ではなく必然的(notwendig)である(10)。

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 32 言語文化No.21

 このように古代文学が彼等自身の時代の文学と対立補完し合うと捉えられている事

実から,彼等の古代理解は先入観なしに古代と向き合う姿勢というより,しぱしぱそ

の時代のパースペクティブをより強く反映していることが明らかであろう(11)。

 それゆえ近代悲劇に特有なもの,古代悲劇に比して近代的なものは何かと問うとき,

古典主義以来慣れ親しんできた古代対近代という伝統的な図式を無批判に適用するこ

とはできない。むしろ古代の悲劇理解を,近代の古代理解から区別する作業が必要で

あろう。そこではじめて近代と古代の特有性がより明確になり,その差異を別の局面

から捉え直すことが可能になる。またこのような考察を通じて,ルネサンス以後発展

してきた近代悲劇が西洋文学発展史のなかでどのように位置づけられるか検討するこ

とも重要であろう。

 本論では古典主義以来悲劇の本質とされてきた概念が,悲劇の元祖とみなされるギ

リシャ悲劇の悲劇観と全く異なるという事実に目を向け,古代の悲劇理解がその継承

過程においてたどった変遷の一部を探ることを試みたい。この変遷をあとづける伝承

文献は非常に膨大複雑であるが,少なくとも問題解明の糸口となるような基本概念を

拾い出すことは可能であろう。そのためには悲劇がまだジャンルとして確立せず不鮮

明であった近代初期の作品ではなく,近代悲劇が明確な形を取るドイツ古典主義の悲

劇観を対象として取り上げることが,有益であると思われる。以下の考察においては

ドイツ古典主義の悲劇概念,特にシラーとヘーゲルを,古代ギリシャの悲劇作品や悲

劇論と比較し,近代悲劇の特有性を追求してみたい・

1【

 モーリス・メーテルランクの初期の作品に見られるような現代戯曲の危機感を評し

て,P・ションディ(Peter Szondi)は次のように言う。この作品はr実存的に無力

となり,洞察不可能な運命に引き渡された人間を戯曲で表現しようとの試みである・

ギリシャ悲劇は英雄の運命との悲劇的な戦いを描き,古典主義ドラマは人間間の関係

の葛藤(Kon且ikt des zwischenmenschlichen Bezugs)を主題にしていたが,ここで

は無抵抗な人間の運命が尽き果てる瞬間のみが捉えられている」(12)。

 ギリシャ悲劇から現代悲劇に至る発展過程を概括したションディのこの記述は,本

論1で言及した一般的見解を簡潔にしかも明瞭に表現している。その際シ・ンディの

ギリシャ悲劇と近代悲劇の根本的相異に関する見解は,ドイツ古典主義の伝統を直接

受け継いでいるように、思える。ションディがここでKon且ikt des zwischenmensch一

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           古代近代における悲劇的なるもの           33

1ichen Bezugsと呼ぶのは,シラーが彼の悲劇論において特に重視したものの言い

かえである。シラーによれば悲劇的葛藤は道徳的人間,すなわち自由で独立した理性

的存在である人間に起因しなけれぱならない。そしてションディと同様シラーもまた

この自由のなかにr新しい芸術」を古代悲劇から区別する真の新しさを見る。それゆ

えシラーはたとえば『悲劇芸術について(Ober die tragische Kunst)』の考察のな,

かで言う。r運命への盲目的な服従は自由で自律的な者にとって常に屈辱である。ギ

リシャの最もすぐれた作品においてさえ我々に何かもの足りない感じを抱かせる点は

ここにある。なぜならすぺてのこれらの作品においては,最後には必然が前面に出て,

理性を求める我々の理性にとって常に未解決なしこりが残るからである。」(13)

 シラーもションディも,ギリシャ悲劇においては運命の必然がすべてを支配してい

た,と主張するのではない。しかし人間の自由の根本にある理性のr絶対的独立性

(absolute Selbstatigkeit)」(14)が古代においてまだ知られておらず,r道徳的人間が到

達するかの最高のそして窮極の段階」(15)が保留されていた,と言うのである・この段

階に達したものは,彼の運命を左右する外的危機に直面してつまずくことなく,肉体

は破滅しようとも,道徳律の自由に基づくより高いr形而上的」秩序によって自己を

確立することができる。

 r悲劇的感動のこのように純粋な高みには」とシラーは言う。rギリシャの芸術はつ

いに到達しなかった。なぜならギリシャ人の民族宗教も,また哲学でさえも彼等をそ

こまで導かなかったからである。浄化せられた哲学により,より純粋な材料を受け取

るという恩恵に浴している近代芸術は,この最高の要講を満たし,そのような芸術の

全道徳的威厳を発揮させることができる。」(16)

 シラーがギリシャ芸術に見た本質的欠陥がどのようなものであるかは,へ一ゲルの

『オィディプス王』解釈を参照すれば,より明確になる。ヘーゲルはここで「今日的

なより深い意識」に言及している。ソフォクレスの『オイディプス王』においてはへ

一ゲルによればr人間が自ら認識した欲求をもって行う行為の正しさ,つまり覚めた

意識の正当性と無意識無欲求に神々の定めに従ってなした現実の行為の正しさが対比

させられる。オイディプスは父を殺し母と交わ’ ,その恥ずべき婚姻によって子等を

得た。しかし彼は知ることも欲することもなくしてこの大罪に巻きこまれたのだ。我

我の今日的なより深い意識は,この罪が己れの意識も欲求も関わることなく為された

がゆえに,自身の行為として認めることを正当化しないであろう。ところが造形的

(plastisch)ギリシャ人は個として為した行為の責を引き受け,己れを自我意識の形

式的主体と客観的事物に分離することをしない」(17)。

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 このような造形的ギリシャ人,すなわちまだ内(lnnen)と外(AuBen)に分裂し

ていないギリシャ人に感嘆の目を向けながらもヘーゲルは,このギリシャ的造形性

(Plastizitat)がr今日的なより深い意識」に比してある本質的なものを欠くと説く。

すなわち古代ギリシャ人は,主体が自己活動的自由の源泉であるとの認識が不充分で

あったため,自己の内的行為と欲求の意味を完全には理解していなかった。それゆえ

オイディプス王の揚合のように,実際は自分自身の欲求によるものではない行為をま

るで己れ自身の行為のようにみなし,また反対に自己の内から欲求し決定した行為を

外的な神々のカによるものと考える(18)というのである・

 シラーもへ一ゲル同様ギリシャ的なものに対して同じようにアムビヴァレントな評

価をくだす。シラーもまた感性(Sinn)と理性(Vemunft)をナイーブに統合したギ

リシャを讃美し,古代はこの統合が存在したがゆえに芸術の発生と形成にとってかつ

てないほど好都合な時代であったと説く。しかし彼自身の時代の芸術の課題はこのよ

うな芸術の再現ではなく,より高いr理性の自由な活動」に基礎を置く新しい段階に

おいて古代の完成度を再獲得することである。そしてこの要請に応えこの使命を果た

す可能性を持つ文学ジャンルが,まさに悲劇芸術だと言うのである。

 r時代の哲学精神と近代文化一般が詩にとって有利ではないため,我々新しい時代

の者がギリシャ芸術を再現することを本当にあきらめなけれぱならないとしても,道

徳的なものに基づく悲劇芸術にとっては,この時代はそれほど不幸ではない。我々の

文化はそれが芸術一般から奪ったものを,悲劇芸術にだけは償ってくれるかもしれな

い。」(19)

 なぜシラーが悲劇にのみこのように期待するかは,悲劇の楽しみに関する考察,

『悲劇芸術について』と『悲劇的対象による楽しみ』と題する論に明らかにされる。

ここでシラーはアリストテレスと同様悲劇の本質を,観客に及ぼす効果を通して解明

しようとする。すなわち悲劇はrあわれ,みの楽しみ(Vergn廿gen des Mitleids)」を

惹き起こすというのだ。「特にあわれみの楽しみを目的とする芸術が悲劇だと一般に

理解されている。」(20)

 しかし彼の展開する論はアリストデレスと大きく異なっている。その相違は悲劇が

惹きおこす恐れやおののきの感情に,シラーがほとんど言及していないという点にも

あるが,なによりもこのあわれみを惹きおこす原因が,シラーの揚合とアリストテレ

スの揚合では全く異なっている。シラrによると悲劇の登揚人物の苦悩の大きさが観

客の抱くあわれみの大きさに呼応するのは何故かというと,「あわれみを惹きおこす

苦悩に対する楽しみを生み出す心情を刺激する条件は,まさに我々の感性に対する攻

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           古代近代における悲劇的なるもの           35

撃」(21)だからである。

 上記のシラーの言葉はr悲しい情感が我々を楽しませる」(22)といった類の単なる

心理体験を意味していると解釈されることも多いが,シラーの言わんとすることを正

確に理解するためには,いま少しの検討が必要だと思われる。

 あわれみの楽しみを生み出すためには何故特に感性への攻撃が必要なのか,という

理由は次のように考えられよう。シラーは悲劇に特有のあわれみが,理性の「絶対的

自己活動(absoluteSelbstatigkeit)」のみに起因すると考えるが,そのためにはまさ

にr絶対的(absolut)」という言葉が表現するように,感性からの断絶(Absolution)

が不可欠である。感性を攻撃しそこから断絶してはじめて理性は理性自身の活動を開

始するからである。

 心情をあわれみへと駆りたてるカとはシラーによればr理性以外の何物でもない。

そして理性の自由な作用が絶対的自己活動として特に活動の名に価するかぎりは,ま

た心情がその道義的行為においてのみ完全に自由に感ずるかぎりは,我々が悲しいも

のに感動する楽しみの源は,活動の衝動の満足である」(23)。

 それゆえシラーの言う悲劇の楽しみは,悲しい情感がもたらす心理的快感といった

ものではないことが明らかである。そして特に悲劇的な対象が特別な楽しみの原因と

なる理由は,シラーによると,人間の真の満足と楽しみの源となるr完全に自由な状

態における心情(GemUt)の最高の活動」が現実に認識され感じとられるために一定

の条件を必要とするからである。

 「我々の理性の内的原理(das innere Prinzip unserer Vemunft)」またはr我々の

自由の本尊(das PaIladium unserer Freiheit)」からこそ人間の真の楽しみは得られ

る。しかし「この原理は理性が他の自然力との抗争において上位を占めるとき最もは

っきり認識される。そしてそれらのカが道義的法則に抑制されて人間の心情に対する

影響力を失うとき,全きカを発揮するのである」。このr他の自然力」とはr道徳的

でないもの,理性の最高規定によらないものすべて。すなわち感覚,衝動情念,情

熱,同様に物理的必然や運命」である(24)。

 このように見てくると,人間の最も純粋で重要な活動(Tatigkeit)の活性化には悲

劇が必要であるとのシラーの考えは,あきらかに彼の人間理解に基づいている。すな

わちシラーは人間を「感性的道徳的存在」とみなし「感性のすべての強制から解放さ

れた純粋の知性」でもなければr道徳性を有しないまったくの感性」でもないとして

いるのである。それゆえ悲劇はr苦悩する人間を示す所作の模倣である」が,この

r人間という表現は悲劇が対象を選ぶにあたって定める限界を正確に示すもの」(25)な

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のだ。

 このような悲劇の対象となる人間の描写には,アリストテレスの有名な『詩学』13

章と非常に似通った表現が用いられる。r我々もそうであるような感性と道徳性の双

方を具えた存在の苦悩のみが,我々のあわれみを呼びさます。」r悲劇詩人が混合的性

格を選択することは正しく,理想的主人公は全くの悪人からも完全な叡智者からも等

しく隔っている。」(26)

 悲劇に登場する人物は観客にr相似た」性格を持ち,完全な善人でも極端な悪人で

もあってはならないとするアリストテレスの規定が,ここで言葉通りに取り上げられ

ているわけである。しかしシラーはここでアリストテレスの言明にまったく新しい意

味を持たせているように思われる。なぜならアリストテレスの言う「中間の人間」と

は道徳的に特にすぐれているわけではない普通の人間をさしているのであるが,シラ

ーは人間一般を言っている。つまり人間というものは人聞らしい人間であるかぎり,

天使でも悪魔でもない,またこの極端な例に近似した完全者でも極悪人でもないと言

っているのである。悲劇の主人公と観客の間のr類似性」は個人的な性格や特性にで

はなくr我々の持つ普遍的人間性」に求められrこの類似性が必然的普遍的である限

りは心情の基礎全体に関わっている」(27)。

 ところがシラーは悲劇の主人公は完全であってはならないとしながらも,悲劇的人

物の類似性はr道徳的本性(sittliche Natur)」に包括され,この本性は感性(感性は

偶発的原因によって個人個人が異なるものを持っている)との戦いに打ち勝たねばな

らないと言う。悲劇の主人公になり得ない完全者とはつまり,感性に影響されない人

間,または純粋な精神を意味している。そして完全ではない悲劇的人間とは,アリス

トテレスの説く良き意向と意図を持ちながらも激しい感情(パトス)に打ち負かされ

る人間ではなく,反対にこのような戦いに勝って道徳性を保持する人間のことなので

ある。

 それゆえ厳密な意味での悲劇の楽しみの対象は,近代文学のみに求められ,ヴィー

ラントの『オベロン』,シェイクスピアの『コリオレイナス』,コルネイユの『ル・シ

ッド』が例として挙げられる。『オベ・ン』の主人公ヒュオンとアマンダはr自由な

選択により」恋人を裏切って王位につくよりむしろ火刑死を選ぶ。コリオレイナスは

すでに手にしたも同然の勝利を無にし,自分の命を危険にさらしr道徳感情と対立す

るより,いかに辛くとも愛着心と対立することを選ぶ」。そしてr夫としての,子と

しての,市民としての義務」を果たすためr感性の最高の利害」を犠牲にする(28)。

また『ル・シッド』においては・ドリーグとシメーヌが愛し合っているにもかかわら

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           古代近代における悲劇的なるもの           37

ずr名誉と孝」のためにr愛着心を犠牲にして道徳的義務」を果たすのである(29)。

 しかしこれらの悲劇的人物が陥る不幸は観客に「最も鋭い痛み」(30)を与えはしない。

なぜならシラーの説くところによればrもし自然がその反目的性によって我々のなか

の道徳的合目的性を最もはっきり示す契機となるならば,自然はそのすべての目的や

法則をもってしても我々を苦しめることがないからである。このような有様を目にし

て我々が為す道義的法則の勝利の経験は,非常に高度な本質的な善であって,我々は

この善をそこから得た悪と和解しようとする誘惑にかられるのである。自由の領域に

おける一致は自然世界のすべての矛盾が我々を憂えさせ得る程度よりはるかに強く我

我を楽しませるのである」(31)。

 上記の悲劇の登揚人物たちはぎりぎりに追いつめられた不幸な状況,一般にr悲劇

的」といわれる状況にあると言えよう。しかしシヲーの悲劇理解においては,悲劇本

来のあわれみを喚起するのはこのような極限状況ではない。この状況は悲劇の主人公

がrすべての自然力を無限に超越した抵抗力を示し,道徳的自由を表明するための前

提条件なのである」(32)。このような自由の表明によってはじめて,それまでは感性的

個人的であったあわれみは真に悲劇的なあわれみへと変わり,観客はこのあわれみに

内在する特有の楽しみを味わう。

 以上のように概観してくると,シラーの定義する悲劇の本来の目的は自由の表明で

あると言えよう。そしてこの自由が特に悲劇において表明されるのは,人間が感性的

でもあり道徳的でもある二種の傾向を持つ存在だからである。それゆえr道徳的自由

の表明は苦悩する存在がなまなましく描写されることを通して」のみ可能である。な

ぜならr我々はまず悲劇の主人公が感覚的存在であることを認めたあとではじめて,

理性的存在として評価し彼の精神力の強さを信ずるのだから」(33)。

 さて上述したシヲーの悲劇理解の特徴は,悲劇的状況がNeigungとPHicht,また

はNatumotwendigkeitとVemunftfreiheitの葛藤として捉えられている点である。

すでにゲーテが同じような見解を述べているが,ヘーゲルもまたすべての悲劇のなか

に対立する2つのものの葛藤を見ている。この両者はrどちらもそれ自体は正当であ

りながら,どちらも真の目的を達成するためにはもう一方のカを否定し傷つけざるを

得ないという性格を持つ」(34)が,この葛藤こそ悲劇の成立条件であるというのである。

 このように近代悲劇の重点は人間の自由の表明にあり,この自由は避けることので

きない葛藤,それも自由と必然のパラドックスを通して表明されるという考え方は,

シラーの悲劇観に見出されるのみならず,古典主義以降のあらゆる悲劇理解や悲劇作

品の基をなしている・それも悲劇的体験が道徳や倫理といった合理的思考による世界

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 38 言語文化No.21

観と結ぴつけられ’ることのなくなった20世紀の悲劇観にすら,影響を与え続けてい

ると言えよう。

 その際ギリシャ悲劇と対比されるすべての近代悲劇の共通項とされるものがある。

たとえばゲーテは『限りないシェイクスピア(ShakespeareundkeinEnde)』のなか

で次のように述べている。r古い悲劇は避けることのできない当為(Sollen)に基礎を

置いている。……それに反して意欲(Wollen)は自由である。……Wollenこそ新し

い時代の神であり,Wollenに身をゆだねた我々は,それに対立するSo11enを恐れ

る。そしてここに我々の芸術と志操(Sinnesart)を永久に古代から分けへだてるも

のがある。一一すべての自由を多少とも,または完全に排除する必然(Notwendig-

keit)はもはや我々の気持(Gesinnung)と相いれない。」(35)

 ギリシャ悲劇におけるSollenの例としてゲーテは,アポロンの神託に規定された

オイディプスの運命と,アンティゴネのr義務という形をとったより穏やかなSollen」

を挙げるが,この2つのギリシャ悲劇,ソフォクレスの『オイディプス王』と『アン

ティゴネ』,特に後者はへ一ゲルによっても「始源的(urspr廿nglich)悲劇」の特徴を

最もよくあらわすものとして取りあげられている。

 へ一ゲルによればアンティゴネの振舞もクレオンの振舞も,道徳的に正当化される。

rアンティゴネは血縁の絆と冥府の神々を尊重し,クレオンは主神ゼウス,すなわち

社会生活と公益を司るカを敬う。」(36)しかし2人が代表するこの同じように正当な2

つの原理の運命的相克から悲劇的葛藤が生じる。そしてアンティゴネの揚合は血族に

対する,クレオンの場合は国家に対するr個人的パトスが,道徳的に正しい彼等を対

立関係へと追いやる」(37)のである。

 まだこの点においてはへ一ゲルのギリシャ悲劇理解も悲劇一般の理解の枠にとどま

るといえよう。シラーの悲劇論にあてはめてみれば,アンティゴネは兄弟の埋葬とい

う道徳義務のために死をも辞さず,クレオンは国家のために血縁の情を捨てる,と解

釈することができるからである。ところがアンティゴネと彼女が身内に感ずる道徳義

務との関わりは,先にあげた・ドリーグやシメーヌの揚合とは,根本的に異なってい

る。ロドリーグもシメーヌも恋人に対するNeigungと親に対する子としての義務の

相克に悩むが,それは彼等の心の内部の闘いである。彼等が義務を選んだのはシラー

も強調するように,この選択がr自由な選択」であったからである。2人が外的規制

であるNeigungやNaturに抗して内的規制である義務を選択したことは自由の証で

あり,この選択を通してはじめて2人は,シラーまたはカントが言うような自由な人

間となるのである。

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           古代近代における悲劇的なるもの           39

 しかしアンティゴネの戦いはそのようなものではない。彼女の場合はへ一ゲルが古

代の性格一般について述べるようにrその堅固で強い性格は……この性格に本来的な

パトスと合致している」(38)ように見える。つまリアンティゴネの決定は自由な選択で

はなく,彼女が道徳的に正しいとするSo11enはむしろ彼女の存在全体を規定してい

る情念(パトス)である。というのもアンティゴネにおいてはWollenとSollenが

まだ分裂していないから,とへ一ゲルは説明する。すなわちギリシャ悲劇の登揚人物

はr我々が近代的な意味で性格(Charakter)と呼ぶものでもなけれ’ぱ,ただの抽象

的存在でもない。彼等はその中間に生き生きと立ち,己れのうちに葛藤を感ずること

もなく,あやふやに他のパトスを認めることもしない堅固な人物である」(39)。それゆ

えrこのような悲劇的葛藤においては罪があるかないかといったあやまった観念は除

去されねばならない。悲劇的英雄は有罪でもあり無罪でもある。選択が可能な場合に

為す行為を意図的に決意したときのみ罪があるという観念に従えぱ,この古代の造形

的人物には罪がない。……彼等は決意するにあたって悩むことも選択することもな

い」(40)。

 ギリシャ悲劇の登揚人物をこのように描くへ一ゲルの見解は,彼の時代のみではな

く,今日のギリシャ悲劇解釈にも通用している古代悲劇理解だと言えよう。この考え

方には疑いもなくいくつかの注目すべき点がある。特に古代のrゆるぎない人物像

(feste Figure)」は内的葛藤も他のパトスを認めるようなあやふやな認識も持たない

という主張は,アンティゴネの振舞などにあてはまるように見える。ソフォクレスの

描くアンティゴネの行動を追っていっても,心の矛盾に悩む様子は見られない。たと

えばこの悲劇においては,彼女とクレオンの、自、子ハイモンとの愛についても語られて

いるが,しかしクレオンの勅令にそむいて兄の死体の埋葬を計画し,命の危険を冒し

てもこの決心を守り抜こうとする揚面展開のなかで,恋人への愛か兄への義務かの辛

い選択を強制されているというような言葉は,一言もアンティゴネの口から聞かれな

い。つまり彼女が相反する愛情や志向の間で苦しみ選択を下し,自己を自由な人間へ

と高める有様を描くことがソフォクレスの目的であったとは思えないのである。その

反対にアンティゴネは,他の事柄を顧みることなく一直線に兄の埋葬のみを目指し,

彼女の決意は自由な意志というよりむしろ彼女の本性をあらわしているように見える。

 しかしこの事実から即,ギリシャ悲劇には自由意志が欠如していたとの結論が導き

出されるであろうか。この間は上述の悲劇解釈に見られる自由観念と密接な関わり

                  ロ            を持つと思われる。なぜならアンティゴネの不自由さは,シラーやヘーゲルの言う

r新しい芸術」的意味における悲劇的葛藤という観点から見た揚合のみのものである。

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 40 言語文化No。21

この観点から見ればアンティゴネは,宿命や自然力(それも内的外的両方の自然力)

の規制に抗して,カをふりしぼり,理性的道徳的人間にのみ可能な自律を獲得して,

はじめて自由だとされるのであるから。

 しかしこのような自由概念は,多分に一面的であるように思われる。そしてこの一

面性ゆえに,古代悲劇における人間の自由の全く別な可能性を見過ごし,登場人物に

自由の欠如を見るのではないだろうか。ギリシャ悲劇における自由は,すべてが因果

に定められている必然的世界に対抗して個を確立する自由としては捉えられていない。

むしろ人間が彼自身の行為によって己れの運命を変え,運命に作用する可能性を持つ

という自由なのである。この一見通説に反する事実は,近代悲劇の特徴がよく言われ

るように自由の発見にあるのではなく,自由の逆説的理解にあることを示すものであ

るが,その前にまず古代における自由と悲劇の概念の性格が把握されねぱならない。

そのため次の項ではソフォクレスの『アンティゴネ』における悲劇の性格とその原因,

加えてアリストテレスの悲劇的過失論を検討してみたい。

 前述したようにアンティゴネは,シラーの言う義務と執着の葛藤を通じて悲劇的な

決心をするのではなく,その行動も悩み抜いた末のものではない。しかしだからとい

って彼女に葛藤がないわけではない。事実,生の喜びやハイモンヘの愛も,兄を葬ろ

うとする彼女の意志と対立するものとして存在しているのである。しかしこの対立は

アンティゴネが悲壮な決意をする揚においても,決心を行動に移す過程でもはっきり

していない。悲劇的行為,すなわち埋葬が強行され,以前はただ予想されるのみであ

った行為の結果,すなわち彼女の死が現実のものとなったとき,はじめてあらわれる

のである。

 同じようなことがクレオンにもあてはまるが,彼の揚合はその度合が顕著である。

クレオンは決してへ一ゲルの描写するrゆるぎないパトスを持った堅固な人物」では

ないし,r強硬なパトス」で国家の安全と王位の保全を願っているだけでもない。彼

のこのような構えはアンティゴネの揚合と同様,自分の行為の結果が避けようもなく

目の前に明らかになった瞬間くずれ去る。彼の行為の代償として息子ハイモンの命が

失われる,と予言する老占い師ティレシアスの言葉に衝撃を受けたクレオンは,少し

前まで少しも評価していなかった愛する者の価値と身内の者への愛を認識し,王とし

ての威厳を振り捨てても,ポリュネイケスの死体を埋葬しアンティゴネの命を救おう

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           古代近代における悲劇的なるもの           41

とする(1064行以下)。

 最初の登場揚面ではテーバイの長老から成る合唱隊に向かい,国家のために全力を

尽して仕えることをしないものは彼にとって最大の悪人,国家より身内を大切にする

ものは無に等しい者だと演説する(178行以下)ことを考え合わせれ’ば,彼のパトス

がゆるぎなく堅固なものではなく,彼のうちには身内への愛と国家への忠誠の双方が

存在することが明らかである。クレオンの心のうちにある対立する2つの志向の存在

が,観客にもクレオン自身にも,状況の展開が進んでもう遅すぎるというときになっ

てはじめて認識されるからといって,クレオンがその前は,認識せずにいた志向の影

響を受けていなかったというわけではない。もしクレオンがアンティゴネのために自

刃したハイモンや,夫の行為を恨んで自殺した妻に愛情を抱いていなかったとしたら,

テイレシァスの予言は彼にとって脅威とはならなかったであろう。

 ポリュネィケスの死体を晒しものにする勅令を発し,勅令にそむいたアンティゴネ

に死を与えるという行為が彼の不幸を招いたのであるが,この行為をなしたそのとき

には,彼のうちにも存在する身内に対する愛情の意味が,彼にとって明確でなく見過

ごされていたのである。クレオン自身の言葉がその間の事情を物語っている。息子と

妻の死を目にしてはじめて彼は,以前の行為が迷妄(アーテー)無知(アノイァ)浅

はか(アフ・シュネー)であったと悟りr思慮の足りない心の,死を招く頑ななあや

まち(ハマルテーマ)であった(1261行)」と語りr苦しみを通して学ぱねぱならな

いとは(1271行)」と嘆くのである。このせりふから,クレオンの性格が国家への忠

誠というパトスそのものでもなければ,彼の運命がどうしても避け得ない宿命であっ

たわけでもないことが明らかである。クレオンは,悲劇を避ける選択の可能性を所有

していたのだ。

 それでは彼が何故この自由を用いなかったのかという理由は,彼が情念によって思

慮をくもらせたこと(アーテー)にある。彼はあまりにただ一つの善(カ・ン)に固

執し,国家という価値のみを重視して,他を顧みようとしなかった。クレオンのこの

振舞についていま少し詳しい解釈を試みたく思う。

 162行ではじめて舞台に登揚するクレオンは,ポリュネイケスの死体を埋葬せずに

見せしめのため晒しものにするという勅令を発する。『アンティゴネ』研究において

はしばしぱ,この勅令がクレオンのあやまちのもとであるかのように主張されている

が,この種の勅令は国法にかない政策的に充分理由づけられていただけではなく,宗

教的にも正当な根拠を持っていた。(その意味で冥府の神への敬神を兄の埋葬の理由

としてあげるアンティゴネの揚合と同様である。)自らの祖国を攻螺し,母国の神殿

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 42 言語文化No.21

を破壊し,身内の者を殺して同国人を奴隷として連れ去ろうとした者は,当時の記録

が示すように(41),またプラトンが『法律』で述べているように(42),ポリスの地域内

に埋葬されてはならず,埋葬されずにポリスの外に放っておかれねばならなかった。

そのような死人をそれでも埋葬したり,また葬礼に加わったりしただけでも,プラト

ンによれば,神々に対する冒漬を犯すことになるというのだ。

 そこで王位についたぱかりのクレオンが執り行ったポリュネイケスヘの処罰は,法

的にも宗教的にも正しい統治行為であったと言える。ただ彼のあやまちは,この行為

を自らの統治の正と善の証としようとしたところにある。彼の言葉によれば,彼の統

治の原則はr何かを恐れて口をつぐむようなことをせず国のために最善の策を用い

る」ことであり,それゆえr身内のために祖国をなおざりにする者」は最低とみなさ

れる(179~183行)。統治の最初にこの原則を公にするためクレオンは,ポリュネイ

ケスの死体をその標として用いようとする。つまりポリスに椴れをもたらす死体を町

から遠ざけ,法にかなった処置が執り行われるよう注意するだけで充分であるのに,

その死体を晒しものにして(206行)クレオンが国のために行う行為を全市民が認識

することを望んだのである。すなわち自己を善き支配者として正当化することが,ク

レオンの目的になってしまったと言える。

 登揚の最初から彼はこの目的に情熱的に取り組んでいる。合唱隊との最初の会話や

番人の報告の揚面,そしてもちろんアンティゴネとの争いにおいて,クレオンは繰り

返し己れの行為を弁護せねぱならないが,そのたびに行為の正当性を確信し,彼の信

ずる原則を貫き通す決意をますます強く固めていく。

 しかし彼の心が迷うことなく目指してきたものの姿が最もはっきりするのは,。自、子

ハイモンとの対立シーンである。rあなたは正しい導とに関してあやまっている」と

非難するハイモンに対してクレオンはr私の統治権を尊ぶことがあやまちなのか」と

聞き返す(743解744行)。つまり彼のうちにあっては,統治権の尊重が目的とすべき

ものの象徴になってしまったのだ。彼の考えがあまりにもそのことのみに占められて

いるため,これさえ守っていればあやまることはないとの確信にまで高まっている。

 その他のことはすべて彼にとって顧慮するに価しないと思われる。それゆえハィモ

ンが彼に向かって,アンティゴネが死ぬなら自分も生きていないと言い放ったときで

さえ,動揺することがない。激昂して走り去ったハイモンの行方を心配する合唱隊に

向かってクレオンは「やるがよかろう。人間以上のことを試みるがよかろう。しかし

少女たちを死から救い出すことはできまい」と答える。ここで彼は息子が何か恐ろし

いことを仕出かそうとしているのを承知しながらも,この事実が彼自身にとってどの

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           古代近代における悲劇的なるもの           43

ような意味を持つかには考えが及ばず,ただアンティゴネの死を妨害しようとする意

図のみを見て取って,それはできまいと傲るのである。

 このように見てくると,クレオンが国家に対する義務と息子に対する愛情の葛藤に

悩まずにいる理由は,まず次のように言うことができよう。クレオンにおいては生来

人一倍強かったであろう国家への忠誠心が,テーバイの町をたて続けに襲った不幸と,

その後で手に入れた統治権のためますます強められ,彼の考えはただ一つのことに集

中して,他の事柄が彼自身にも及ぽすであろう影響の意味や重さを認識する能力を失

ってゆくのであると。

 同じことがアンティゴネにも言える。彼女の考えは最初からただ一つの善(カ・

ン)に向けられ,晒しものにされ’た兄の恥をすすぐことのみに情熱を傾ける(45/46,

71~77,88/89行等々)。この善しか目に入らない彼女にとって,妹イスメーネーの

反対はオイディプスの娘としてふさわしいものではない。父オイディプスとその母で

あり妻であったイオカステーの死後,殺し合って死んだ兄たちの不幸に重ねて,アン

ティゴネの行いは残された2人の姉妹に最悪(kakista)の終わりをもたらすであろ

うというイスメーネーの諫め(50~60行)に対し,アンティゴネは兄のために死ぬ

のはカ・ンであると答えて聞き入れない。そして埋葬行為を発見され’クレオンの前に

引き出された彼女は,命を失う危険を恐れることなく,それどころか,自分のように

数々の不幸にあって生きるより死ぬ方が得であり,兄を埋葬せずに生きていく方が辛

いと言い切る(461~468行)。

 それゆえ彼女はともすれば,決して志を曲げず弱気に襲われることもないplasti-

sche Griecheの典型と解釈されるのであるが,実はそうではない。掟を犯しクレオ

ンにより死を宣告されて,生きながら岩屋へ幽閉されるため引き立てられて行くアン

ティゴネは,100行にわたる嘆きを述べる(806~943行)。自らの行為が現実に悲惨

な結果を招き死への道を歩まねばならぬとき,彼女を行為へと駆り立てたパトスと彼

女との関係は,もはや以前ほど内的本来的なものではない。最悪(kakista)の死に

方をすることになると諌めたイスメーネーに,この行為のために死ぬのはカロンだと

答えたアンティゴネーが,この場では一族の最後の者として一番みじめな(kakista)

死に方をすると悲しむ(895行)。またクレオンの前で,この世の様々な不幸に別れを

告げて死ぬ方が得であると主張した彼女であるが,ここでは婚礼の歌を聞くこともな

く,子供を育てることもなく,再び日の光を仰ぐこともできない運命を嘆く(806行

以下)。それどころか兄の死体を埋葬しようとした行為さえ,彼女を破滅させるr不

幸な栄誉」であったとされる(869~871行)。

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 44 言語文化No.21

 ここで重要なことは,アンティゴネの気持がこのように落ち込んでもなお兄を葬ろ

うとしたか否かを問うことではない。彼女の性格からすれば,あくまで決意を貫き通

したかもしれない。しかし埋葬行為の前と直後の高揚した気分のなかで,この行為に

まつわるすべてをカ・ンの面からのみ眺めていた彼女が,その行為のr悲劇的」な部

分が己れ自身に対して持つ意味の全貌を,後になってはじめて認識したということは,

かなり確実である。クレオンの揚合と比較すれぱ,彼もやはり現実に起こった悲劇に

よってはじめて目を開かれるのであるが,彼の揚合は自分の行為の結果を前以て知っ

ていたならば,別の行動を取ったであろうことは確かである。

 しかしアンティゴネにしてもクレオンにしても,自らの悲劇的不幸の原因となった

のは彼等自身であったと言えよう。ただそのありようはヒュオンやアマンダ,・ドリ

ーグやシメーヌ,またコリオレイナスの揚合と全く異なっている。

 近代悲劇の主人公にとって,悲劇は彼等自身ではなくシラーの言うr状況ρ強要」

によってひきおこされる。特に彼等が本当の意味で自由に行動するのは,2つのどち

らも不幸な可能性に直面して,自らの意志で選択を下すときである。その決意がもた

らす悲劇的結果を承知したうえで,彼等は充分意識して不幸を身に受ける。しかしク

レオンはそのように振舞っていないし,アンティゴネでさえそうではないと言える。・

彼等は行為を決意しながら,その結果を考えつくすことをしない。また行為の選択に

際して自らの行動のもたらす不可避の葛藤を充分意識することもなく,自分自身のあ

やまちから悲劇的不幸を招いている。すなわち,すでに定まっている悲劇的運命を受

け入れて不幸になるのではなく,彼等自身が運命の一素因であり,運命の形成に関わ

っていると言える。

 彼等の悲劇の主因となるものは,明晰な思考が情念(パトス)によってくもらされ

ること,ホメロス以来ギリシャ人に「アーテー」と呼びならわされてきた迷妄である。

それは運命が避けようもなく人々の上に襲いかかるのではなく,思慮分別ある者にと

っては予測できるものだという考え方に基づいている。その証拠にソフォクレスは,

アンティゴネとクレオンに対する警告者を登揚させている(43)。アンティゴネに対す

るイスメーネー,クレオンに対するハイモンやテイレシアスがそれである。彼等の警

告が大方効を奏さないのは,警告者が全く理解されないからというわけではない。警

告を受けるものがあまりにも情念にとらわれすぎているため,一面的にしか理解され

ないか,あるいはまた誤解されることが多いからである。

 さて次にこのような悲劇的あやまちに関するアリストテレスの考察に移りたい。ア

リストテレスの言う悲劇的人物は,シラーの説くような天使と悪魔の中間に立つ感性

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           古代近代における悲劇的なるもの           45

と道義性を兼ね具えた存在としての人間一般ではなく,人間のなかのある種の人々で

ある。つまりその人が不幸に転落することが不当だと思われるほど完全な人でもなく,

不幸になるのがあたり前と感ぜられる悪人でもない。その中間にある,観客に似た人

人である。相似た人々の運命は観客に,同様のことが自分にも起こり得るという恐れ

の気持を抱かせるであろう。またそれほど大きな不幸に会うのは気の毒だというあわ

れみの感情を惹きおこすであろう。つまりアリストテレスの言葉を借りれば,徳と正

義において我々と異なることなく,悪徳のためではなくあやまち(ハマルティア)の

ために幸福から不幸に転落する人である(覗)。

 アリストテレスがここで用いたハマルティアの意味については,様々な議論がなさ

れてきた。しかしハマルティアとは主に,正しい考え方からはずれることを指してい

る,という点に関しては意見の一致が見られるように思える。『ニコマコス倫理学』

でr悪しきやり方で思量する者はあやまちを犯す」(45)と言われている通りである。し

かもこの悪しきやり方の、思量とは,計算違いや思い違いではなく倫理的な意味を持っ

ている(46)。それもアリストテレスが特に重要視するのは,情念によって正しい考え

方がくもらされることであると思われる・

 情念の虜となった人は彼によれば,認識を有していないような状態にあると考えら

れるが,この状態に関して無実というわけではない。なぜなら認識を有しているにも

かかわらず,または有しているべきなのに,それを用いず呼びさまそうともしないか

らである(47)。

 この問題に関してアリストテレスの古註があげる例は(48),ハマルティアの性格を

明確に示してくれる。それは槍投げの熱烈な愛好家が,この競技に最適な真直ぐに延

ぴた通り道にさしかかった揚合である。この揚所では槍がどんなに見事に飛ぶであろ

うかとの考えに夢中になり,他の事情を考慮することなく投げた槍が,運悪く通りか

かった人に当たって負傷させる,それどころか命を奪うかもしれない。そのとき槍を

投げた人は,意図的に殺そうとしたわけではないという意味では罪がない。しかしま

たその揚所の危険性を承知しているべきであったという点では無実ではない。つまり

彼は行為の結果を正しく思量しなかったというあやまちを犯したのである。

 それゆえクレオンについても次のように言うことができよう。ハイモンの死が彼に

とって何を意味するか認識する能力を持つはずのクレオンであるのに,統治原則を貫

こうとする情念の虜となった彼は,テイレシアスの恐ろしい予言を聞くまで,息子の

言葉の重みに思い至らなかった。それまでの彼の心は別の目的にのみ向けられていた

ので,息子の死が彼にもたらす不幸を把握することができなかったのである。

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 46 言語文化No.21

 このようなあやまちをアリストテレスは,意図的な悪や大罪から区別する。(つま

りクレオンはハイモンの死を望んでいるのではないのだから。)またあやまちは単な

る偶然によって犯されはしない(49)。偶然とは不幸が全く予測できない場合を言うか

らである。槍投げの例で言えば,危険がないはずの競技揚で槍を投げたのに人に当た

ってしまった,といった場合である。そこで全く予測できないわけではないが悪意を

伴っているわけでもない揚合がハマルティアである。なぜなら不幸の原因が個々の人

間自身にあるときのみ,あやまちという言葉が用いられるからである。

 すなわちアリストテレスの考えによれば,人はあやまちゆえに陥った不幸の責任の

一端を負っている。しかしこの人が負うべき責めは,本来の罪を犯した人の揚合とは

異なり,不幸な運命が当然の報いとはみなされない。それゆえ不幸の規模が不当と思

われるほど大きいとき,その人の運命は悲劇となり,あわれみの念を惹きおこす,と

いうのである。

w

 真に悲劇的な人物とは人間的人間であるとする点において,アリストテレスとシラ

ーは一致する。しかしこの人物はシラーによれば人間一般に定められた越えることの

できないカに直面して破滅するのだが,アリストテレスによれぱ人間誰もが常に犯す

危険にさらされているあやまち,そしてそのため誰からも理解され寛恕されやすいが

だからといって人間にとって全く不可避というわけでもないあやまちの犠牲になり,

悲劇的な運命をたどるのである。2人の相違を強調すれば,シラーの悲劇は人間存在

に根本的に欠けているものを示し,アリストテレスの考えでは人間の陥りやすい危険

を明らかにすると言えよう。

 それゆえr悲劇的対象に関する楽しみ」もシラーとアリストテレスでは異なる・シ

ラーにおいては,悲劇的英雄への同情は純粋な楽しみとなる。それは悲劇的運命に陥

ろうとも道義性と自由をかち得た勝利者に対する喜ぴだからである。ところがアリス

トテレスの悲劇的人物は,英雄でもなく勝利者でもない。彼は物理的肉体的不幸に打

ちのめされた敗北者である。外的不幸にあっても精神力の強さを保ち道義的優越性を

誇る逆説的勝利者というのでもない。彼は倫理的にも敗北者なのである。しかし彼の

敗北はいかにも人間的なもので,人間がいかにたやすくあやまちを犯し,自らの不幸

を招くかの危険性を示すものである。それゆえ観客は彼の運命のなかに,観客自身も

陥るであろう危険を認め,恐れとあわれみの念に動かされるのである(50)。

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           古代近代における悲劇的なるもの           47

 シラーとアリストテレスの悲劇理解の根本的差異は,次のアリストテレスの言葉に

見出せよう。rあやまちというのは(不幸の)原因の端緒がその人自身のうちにある

ときのことを言う。」(51)この言葉はもちろん,悲劇的不幸の原因が人間だけにあり,

人間は彼の悲劇的運命に対するすぺての責任と罪を担わねばならない,と言っている

のではない。そうではなくて,不幸の原因の連鎖の一部が人間の行為に由来するもの

であり,この行為がなければ不幸な出来事は別な様相を呈したであろうというのであ

るo

 人聞が上述したような意味で物事の原因となり得るためには,ある特定の場におけ

る人間の行為の自由な選択が前提となる。

 r我々の思量するのは,我々のカの範囲に属し,我々の行為によって変え得る事柄

である」とアリストテレスは言う(『ニコマコス倫理学』3巻3章。1112a30)。反対

に我々が思量しない事柄とは,自然的本性と必然と偶然に基づく事柄である(1112a

31~β3)。それゆえ「人間が思量するのは各自によってなされ得る事柄なのである」

(1112a33/34)。悲劇的あやまちを犯すとは,このような自由を用い,行為の自由な

選択の余地を与えられながら,選択をあやまることである(4巻9章1142b5以下)。

 通例は古代悲劇の主人公はあらがいがたい運命に屈し,近代悲劇の主人公は反抗す

る自由を持つと言われることが多いが,悲劇的運命の成立に関する古代と近代の考察

の相違は実際には,自由をどこに観るかの相違にあると言えよう。

 アリストテレスにとって人間の自由とは,行為や出来事の推移に介入する人間の可

能性にある。この自由は絶対的なものではなく,他の因果関係と結ぴついた限定的な

ものである(52)。それに反してシラーの言う自由は絶対的なものである。この自由は

人間が因果関係による必然の全貌に接したときはじめて表明される。

 同じような自由概念に基づいて,ヘッベルも悲劇について次のように言う。r本来

は因果関係(Nexus)に組みこまれていた個が,そこから解き放され,この不可解な

自由によってもなおその一部である全体と対決するという状況を,悲劇は我々の目に

映し出す。」(53)

 このような因果関係論の前提となるのはつまり,この世のすべてが厳格な必然的因

果関係に従って動いており,人間は自然的感性的存在であるかぎり,そのなかに組み

こまれているという考え方である。この考え方にあっては,人間が因果関係にもかか

わらず,それにさからって自由を主張することができるだけである。

 しかしアリストテレスは必然に対するこのようにラディカルな反抗に言及すること

がない。そのためアリストテレスも,そしてまたギリシャ悲劇も,真の自由に関する

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 48 言語文化No.21

観念を持たなかったという印象が生じたのである。

 この問題に関しては幸いアリストテレスの註解者でもある迫遥派の哲学者アフ・デ

ィシアスのアレクサンダーが,アリストテレス学派の立揚を解明する書を残している。

『運命について(De Fato)』と名づけられたこの書において,彼はストァ派の運命

論を批判する。ストア派の考えによれば,世界のすべての出来事は必然的因果の連鎖

より発生し,人間の自由はそれを是認するか否定するかの主観的態度(synkatathesis,

adsensio)のうちにのみある。しかしアリストテレスの原因論で明確にされているよ

うに,この世の出来事は決して因果的必然的に生ずるものではなく,偶然や単なる規

則性が混合したものの時空的表出である。それゆえすべてが必然的原因を持つという

ストァ派の論は誤まった推論である。つまりすべてのものが必然的に原因を持つとい

うことは正しいが,それは決してすべてのものが必然的な原因を持つことを意味しは

しない(54)。

 以上がアレクサンダーの見解であるが,ここではストア派とアリストテレス学派の

相違に詳しく立ちいることはしない。しかじヘッベルの言うようなr厳然たる因果関

係と対決する人間の不可解な自由」という背理が,アリストテレスに知られていなか

ったわけではなく,彼は彼の理論に従ってそれを受け入れなかった,ということが明

らかになったと思われる。

 以上の事実から,近代の悲劇理解の新しさは人間の自由の発見そのものではなく,

ある特定の自由概念の尖鋭化であると言える・自由観念のこのような変遷の結果,人

間による悲劇的行為であったものが悲劇的必然となり,この必然は人間にとって避け

ることのできない悲劇的葛藤を生むものとなった。そして人間が陥りやすい危険性を

示唆するものであった悲劇は,世界の悲劇的状況を表わすものと捉えられるようにな

ったのである。

 シェーラーも言うようにr悲劇的必然は……世界を構成する存在と存在関係に基づ

く不可避で逃れようのないものである」(55)。

 またヘッベルの言葉を借りればrドラマが繰り返す永遠の真実とは,人生が……罪

をただ偶然に作り出すものではなく,必然的実存的に内包しその起因となることであ

る」(56)。

 あるいはゲーテもかの有名な竪琴弾きの詩のなかでうたう。

(lhr himmlischen Machte)

Ihr fUhrt ins Leben ihn hinein

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          古代近代における悲劇的なるもの

Ihr laBt den Armen schuldig werden

Dann nberla6t ihr ihn der Pein

49

 変えようのない必然との対決を通してはじめて自由に至る,というこのような考え

においては,人間が自ら運命に介入し変える可能性を持つことは,反悲劇的と解され

るo

 たとえばシラーの言うようにr我々が同情すべき不幸な人間が,自分自身の許され

ざる罪のために破滅に陥ったり,理性の弱さや小心のために,本来は免れ得るはずな

のに破滅から逃れる術を知らない,というようなとき,我々の同情は常に弱まるので

ある。不孝な娘たちにひどく扱われる不幸なリア王に対する我々の同情は,この子供

っぽい老人が彼の王冠をあのように軽率にゆずりわたしたがために,少なからず被害

をこうむるのである」(57)。

 シェイクスピァの悲劇がシラーによって評価され得ないのは,彼の悲劇観を照合す

れば不思議ではない。不幸にあった者自身に原因があるときは同情の度合が弱まると

シラーが感じているという事実はまた,自由概念の変化とともに罪の概念も変化して

きたことを示している。

 シェーラーの『悲劇的現象(Zum Phanomen des Tragischen)』からの次の言葉

は,この事情を明らかにしてくれよう。「考えられるかぎり最大限に義務の要請に従

ったにもかかわらず不幸が避け得なかったという印象を持ってはじめて我々はそれを

悲劇的と感じる。……破滅を招いた人物の代わりにより道徳的な人物,特に道義的要

請により多く耳を傾け,より強い道義心を持つ人物を想定し得るときは,不幸に陥っ

た人物への批難の気持によって,悲劇的だという印象はうすめられる。」(58)

 ここではアリストテレスが何より重視した区分,すなわちあまりに人間的であるが

ゆえにあわれみの念をおこすあやまちと,非難や拒否の対象となる罪の違いが明らか

に脱け落ちている。シラーやシェーラーにとっては,あやまちによってももうすでに

観客に対する悲劇の印象や作用が弱められるのである。

 彼等はこの点において特にストア派の流れを汲むように、習われる。セネカの悲劇を

研究したRoger Parkが『罪とあやまち』(1940年)と題した論文に表わした見解

は充分な説得力を持つ。すなわちセネカの悲劇にあっては,アリストテレスにとって

ハマルティァであった領域がほとんど除去され,意図的な罪か完全に受動的な苦悩か

の二者択一になっているというのである(59)。

 それゆえギリシャ悲劇やアリストテレスの悲劇理解を近代の悲劇概念と比較するこ

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50 言語文化No.21

とは,ある重要な精神史的観察を可能にすると言えよう。近代悲劇と古代ギリシャ悲

劇の間の明らかな相違の性格を見きわめれば,近代悲劇観はシラーから最近の悲劇解

釈に至るまで,その共通の思考傾向の根をストア派の思想においているように思われ

る。近代初期にストア派研究が集中して行われ,セネカの悲劇作品がギリシャ悲劇を

うわまわる評価を受けていたことを考え合わせれば,この事実は不思議ではない。し

かしそれは近代悲劇や悲劇論の自己認識とは矛盾するように思われる。ギリシャ悲劇

との密接な関わりの中に自らを位置づけながらも,近代の悲劇理解は,ギリシャ悲劇

の実際の姿を多くの面で正確に把握することなく,また同時に近代悲劇の精神史的特

有性の理解にも欠くところがあったのではないだろうか。

1・Cf・Peter Szondi,Versuch Ober(1as Tragische,in=Schriften I,Frankfurt1978・151Hl

Otto Mann,Poetik der Trag6die,Bem1958,11ff,23ff,311ff,Emil Staiger,Grund-

begriffe der Poetik,ZOrich un(l Freiburg i・Br・19636,143f王l George Steiner・The Death

of Tragedy『悲劇の死』喜志哲雄,蜂谷昭雄訳 筑摩書房1979年 5頁rこの発想は,そ

 してそこに含まれる人間観は,ギリシァ的なものである。そして悲劇形式とは,衰退に至る

 までほとんど終始ギリシア的なものだったのである。」

2.Cf,Max Scheler,Zum Phanomen des Tragischen,in:Der Umsturz der Werte,Bem,

195541Hegel,Asthetik,Hrsg.v・nF,Bassenge,Berlin,1955.

3・Reinhold Grimm,Ideologische Trag6die und Trag6die der Ideologie・Versuch Uber

ein Lehrst廿ck von Brecht,in:Zeitschrift f廿r(ieutsche Philologie78,1959,394~424.

4。 Ib.,S.401.

5. Ib。,S.419.

6・Cf・P。Szondi,Versuch面ber das Tragische213ffl O・Mann,Poetik der Trag6(1ie・

317~329.

7・Benno von Wiese,Die deutsche Trag6die von Lessing bis Hebbe1,Hamburg19522,3・

8・アリストテレスrニコマコス倫理学』3巻1章5巻8章『詩学』13章参照。

9、Cf.Peter SzQndi,Poetik und Geschichtsphilosophie I,Frankfurt19762,特に123H,

 126ff, 149H.

10。Friedrich Schlege1,0ber das Studium der Grichischen Poesie,ln:Seine prosaischen

 Jugendschriften,Hg,J.Minor,wien,19062,Bd,1,85~178。

1LゲーテもShakespeare und kein Endeのなかで古代と近代を対立させている。すなわ

 ち古代的一近代的,素朴的一感傷的,異教的一キリスト教的,英雄的  ・マン的,

 現実的一理想的,必然一自由,当為(Sollen)  意欲(Wollen)。

12。P,Szond正,Theorie des modemen Dramas,Frankfurt19674,57,

13。Friedrich Schiller,Uber die tragische Kunst,Dtv Gesamtausgabe Bd.17,148.

14. Ib.』144.

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15. Ib。,148.

!6. Ib.,149.

古代近代における悲劇的なるもの 51

17・G.W,F.Hegel,Asthetik,Hrsg。F、Bassenge,Berlin1955,1086,

18・cf Ib.II.3.1S.897r一体ホメ・スが個々の特殊な出来箏を神々の出現によって証明す

 る揚合には,つねに神々は人間自身の内面に内在するものであり,人間自身の情念や観察力,

 あるいは人間が身をおいている状態一般の諸力であり,そのような状態の結果として人間に

 ふりかかってくる出来事のカが根拠である。」

19.Schiller,Ober die tragische Kunst,Dtv17,149.

20. Ib.,145.

21. Ib,,144,

22・Cf・E Rheder,Zum Problem der-Erschほtterung’in Schillers Dichtung und Gedan-

 kenwelt,in l Schiller1759-1959,hrsg。v。J。R.Frey,Urbana1959,104~128。

23。schiller,Ober die tragische Kunst,Dtv,17,144/145・

24.Schiller,Ober den Grund des Vergn“gens an tragischen Gegenstanden,133,

25。Schmer,OberdietragischeKunst,158.

26. Ib.,159,

27・Ib・,152.またr我々のあわれみの対象は,言葉の全き意味における我々人間という種属

 に属さねぱならない」とも言っている。

28。Uber den Grun(i des VergnOgens……134。

29.OberdietragischeKunst,148,

30。Ober den Grund des VergnOgens……134.

31. Ib.」 134.

32。Schiller,Uber das Pathetische,Dtv Gesamtausgabe,Bd・18,76/77.

33. Ib.,76.

34・Hegel,Asthetik,1071.

35.W。Goethe,Shakespeare und kein Ende(IL Shakespeare,verglichen mlt den Alten

 und Neusten)

36。HegelンAsthetik,1085.

37. Ib.,1082.

38. Ib.,1087。

39。 Ib.,1082/3.

40. Ib,,1086.

4L Cf・H・Hester,Sophocles the Unphilosophical,Mnemosyne,Sup・IV,24,1971,11~59・

42・プラトン『法律』872c以下。

43・ホメロスの作品においても,似たような状況のもとで,登揚人物たちは神々や人間から警

 告を受ける。

44・アリストテレスr詩学』13章 1452b30~1453a12ハマルティア問題に関しては,

 Otto Hey,Hamartia,in:Philologus83,1928,1~17,137~163;J。M。Bremer,Hamar-

 tia,Amsterdam1968参照。

45・6巻9章。

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52言語文化No.21

46.Cf,Ph。W。Harsh,Hamartia Again、in:Transactions and Proceedings of the Ame-

 rican Philological Association,76,1945,47~481T。C.W,Stinton,Hamartia in Aris-

 totle and Greek Tragedy,in:Classical guarterly,25,1975,221~54、

47・rニコマコス倫理学』7巻3章1146b32-1147b19.

48・Anonymus in E N。1135b18~27,in=Corpus Commentariorum in Aristotelem Gra-

 ecorum。

49・rニコマコス倫理学』5巻8章1135b16~17,

50・r詩学』13章1453a4~7。

51・rニコマコス倫理学』5巻8章1135b18’}19.

52。Cf.Antony Kemy,Aristotle’s Theory of the Wi11,New Haven,1979.

53・Friedrich Hebbel,Mein Wort廿ber das Drama,Werke,MOnchen,1965、Bd.III,545.

54.Alexander von Aphrodisias,De Fato,in:Supplementum Aristotelicum,VoL II,ed.

  Jro Bruns,Berlinン1892,165~1761Cf。Roger A。Pack、A Passage in Alexander of

  Aphro(iisias Relating to the Theory of Tragedy,in l American Joumal of Philology,58,

  1937, 418創36,

55・Max Scheler,Zum Phanomen des Tragischen,inl Vom Umsturz der Werte,163.

56.Hebbe1,Mein Wort廿ber das Drama,545.

57・Schiller,OberdietragischeKunst,146f.

58.Scheler,Zum Ph註nomen des Tragischen,163f。

59.Roger Pack,On Guilt and Error in Senecan Tragedy,in:Transactions and Procee-

  dings of the American Philological Association,71,1940,360~71・