ボードレールにおける眼の風景 - Hiroshima...

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17 ボードレールにおける眼の風景 一序説:I 両の眼に映った」から「両の眼を閉じてj まで一 十黄 Le paysageoculairechez BAUDELAIRE - De << rejlete ρ armesyeux)) aux << deux yeux fermes)) Ak imasaYOKOYAMA Ab r viations OC uvrescompletes Gallimard BibliothequedelaPleiade 2vo l. (1: 1975 II: 1976) Cor Correspondance Gallimard BibliothequedelaPleiade 2vo l . 1973 FM : LesFleursduMal (Le s chiffresromainsrenvoient a la2 0 editionde186 1.) SP : PetitsPOel esenprose(Le S leendeParis) MC : MonCaurmis a nu (i n Journauxintimes) NFM : NouvellesFleursduMal HE : Histoiresextraordinaires NHE : NouvellesHistoiresextraordinaires Ep : LesEpaves PA : Paradisart( β ciels Adam : An toine An AM LesFle 附古 duMal GarnierFr res 1979. Le maitre Henri LEM Al TRE PetitsPoemesenρ rose(LeSpleendeParis) GarnierFreres 1966. はじめに 19 世紀フランスの象徴派の詩人マラルメ Stephane [戸籍名 :EtienneJ MALIARME (1842-98) の作品 i 毎の微風J BriseMarine に,次の一行がある。 何にも,両の眼に映った占い庭々も Rien nilesvieuxjardinsrejletesparlesyeux この論考は,広島女学院大ノ'7:の学術研究助成 (1998 年度)を得て脅かれたものであるつ

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ボードレールにおける眼の風景

一序説:I両の眼に映った」から「両の眼を閉じてjまで一

十黄 山 日召 正

Le paysage oculaire chez BAUDELAIRE

- De < < rejleteρar mes yeux)) aux < < deux yeux fermes))一

Akimasa YOKOYAMA

Abr,己,viations

OC 伍 uvrescompletes, Gallimard, Bibliotheque de la Pleiade, 2 vol. (1 : 1975, II : 1976)

Cor Correspondance, Gallimard, Bibliotheque de la Pleiade, 2 vol., 1973

FM : Les Fleurs du Mal (Les chiffres romains renvoient a la 20 edition de 1861.)

SP : Petits POel刊esen prose (Le S,戸leende Paris)

MC : Mon Caur mis a nu (in Journaux intimes)

NFM : Nouvelles Fleurs du Mal

HE : Histoires extraordinaires

NHE : Nouvelles Histoires extraordinaires

Ep : Les Epaves

PA : Paradis art(βciels

Adam : Antoine AnAM, Les Fle附古 duMal, Garnier Frとres,1979. Lemaitre Henri LEMAlTRE, Petits Poemes enρrose (Le Spleen de Paris), Garnier Freres, 1966.

はじめに

19世紀フランスの象徴派の詩人マラルメ Stephane[戸籍名 :EtienneJMALIARME (1842-98)

の作品 ii毎の微風JBrise Marine に,次の一行がある。

何にも,両の眼に映った占い庭々も

Rien, ni les vieux jardins rejletes par les yeux,

この論考は,広島女学院大ノ'7:の学術研究助成 (1998年度)を得て脅かれたものであるつ

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18 横山昭正

安藤元雄はこの複数形の「古い庭々Jles vieux jardinsに注目して, r二つの目に二つに映る

古い庭lJと訳しており, r眼に映る」対象の庭が複数あるのはおかしい,一つの庭のはずだ,

と考えているようであるが,そこまでこだわる必要はあるま Lミ。詩人(ここでの話者(=私 je)

は詩人自身とみなすことができる。これについては後に言及する)の見ている庭は沢山ある,と

素直に受けとればよい(これについても,後で詳述する)。

この一行は,おそらくボードレール Charles-PierreBAUDELAIRE (1821-67)のソネット「前

世JLa Vie anterieure (FM, XII)からもらったものではないかと思われる c そもそも, r海の

微風」はその全体にわたって,テーマから詩句まで,ボードレールの詩からの影響がきわめて

顕著な作品であるのだが, r前世」の一行は次のとおりである。

私の両の眼に映った落日の色彩に

Aux couleurs du couchant reflete par mes yeux,

この作品での「私のjとし寸所有形容詞に対して マラルメは定冠詞 lesを用いている。予

の違いも大きな問題を含んでいると考えられるが いずれにしろ 「眼に映った」という表現は

ごくありふれたもので,特にボードレールに由来するとはいえないのではないかという考えも

成り立つ。しかし,前にも述べたように,この「出発Jdepart; partirを主題とする, 1毎の光景

に満ちた作品は,ボードレールの一連の海洋詩篇に多くを負っていることは明らかであり,マ

ラルメの頭に「前世j の一行がなかったとは考えにくいのである。 ~íJU をあげるなら, r海の微

風」の終行ー一一

しかし,おお私の心よ,聞くのだ船乗りたちの歌を!

Mais, o mon caur, entends le chant des matelots !

は,ボードレールの「異邦の香りJPaポtmexotique (FM, XXlI)の終行に照応、すると思われる。

私の魂のなかで、水夫たちの歌に溶け入る

Se mele dans mon ame au chant des mariniers.

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ボードレールにおける眼の風景 19

こうした影響については多くの評者が指摘している。ここでは『マラルメ全集.1 (プレイヤー

ド叢書)MALLARME, (Euvres Comtletes : Poesie-Prose, Bibliotheque de la Pleiade, nrf, 1965

(以下 OCMと略す)の註から百|いておく。

この詩はたぶんにボードレールの「異邦の香り」の反歌である。両者を結びつけるのは単

にノスタルジックな展開全体だけでなく, <異邦の自然)l'exotique nature (1'は uneが

正しい〔筆者J)と終行の〈船乗りたちの歌}le chant des matelotsであり,後者はボー

ドレールのソネットの

私の魂のなかで水夫たちの歌に溶け入る

に呼応、している2)

更にいえるのは,この詩には『悪の花Jの中の「前世J(既出)と「髪JLa Chevelure (FM,

XXIII) ,また「読者にJAu Lecteur (FM, Poeme-preface) と「シテール島への旅JUn Voyage

a Cythere (FM, CXVI),とりわけ「旅JLe Voyage (FM, CXXVI) など,他の作品からの反響

も見られることである(このことは徐々に明らかにしていく)0

1. r両の眼に映ったJ(ボードレール)

ボードレールはソネット「前世」の第二節の終行で なぜわさずわざ「私の両の眼に映った」

という詩句を付け加えたのか。

Les houles, en roulant les images des cieux,

Melaient d・unefacon solennelle et mystique

Les tout-puissants accords de leurs riche musique

Aux couleurs du couchant reflete par mes yeux.

海のうねりは大空の姿を転がしながら

おごそかな神秘的な調子でまぜ合わせていた

その豊鏡な音楽の全能の協和音を

私の両の眼に映った落日の色彩に

第一節は次のとおりである O

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20 横山昭正

l'ai longtemps habite sous de vastes portiques

Que les soleils marins teignaient de mi1le feux,

Et que leurs grands piliers, droits et majestueux,

Rendaient pareils, le soir, aux grottes basaltiques

f奄は長いこと宏壮な柱廊のもとに住んだ

海の太陽が数かぎりない火炎で染め

大列柱が垂直に壮麗にそびえる柱廊は

夕べには さながら玄武岩の洞窟だった

この作品のピタゴラス風の輪廻転生思想、や 海洋のエキゾチックで色彩・音響ともに雄大か

っ豊鏡な描写には,ネルヴァル (r火の娘Jl),マクシム・デユ・カン,ユゴー,ゴーテイエ (rモー

パン嬢.1)らの影響が指摘されているが,ボードレール自身のインド洋航海の聞に見た風物の思

い出も混合されているに違いない。彼はこの家族により強制された南洋旅行 (1841.9~42. 3)

になじめず,予定より早々と帰仏することになるが,この時はじめて眼にした強烈な光と色,

ヨーロッパ人にとって未知の音響や香りの記憶が彼の作品に刻印されているのは確かである

(r前世」の制作は1854~55年頃と推定される)。

さて,上述のように「前世jのー節全体と二節の初行は視覚的なイマージュが展開している

ことは明らかである O にもかかわらず、詩人が「私の両の眼に映った(落日)J と,ことさらに限

定した理由は,いくつかあげることができる c そしてそこには,ボードレールがそれを意識し

ていたか否かにかかわらず,当時のヨーロッパの知性と!毒性が直面する重要な問題が提起され

ていると思われるのである。

この主体の眼の,対象の光景への介入,あるいは最込みは,まず広大な宇宙を小さな肉眼に

収めることに他ならない。熱帯の自然の圧倒的な輝きと強大な運動を,西欧の理性の働きを根

源的に支え,担ってきた眼が統御しようとしているかにみえる。広大無辺な外界が,それを映

す(つまり見ている)眼に収赦すること この縮小運動に 理性の主要な武器としての眼によ

る外界支配への主体の欲望を読みとることができる。

しかし,この運動は同時に,主体の小さな眼の遠心的な膨張作用を含んでいる。この作品の

第二節において,眼は圧倒的な拡大の運動に辛うじて抗しているかのようである。なぜならこ

こでの前述したような宇宙規模のダイナミックな光景は,人間の知覚能力を凌駕するものであ

るからだ。すなわち, rおごそかな神秘的な調子でJd'une facon solennelle et mystiqueにお

ける神秘の力,また「強大きわまりない協和音JLes tout予uissantsaccordsにおける tout-

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puissantsには宗教的な「全能の」の意味もあり,神の存在を暗示している O すなわち第一節で,

「宏壮なJvastes, I数かぎりないJmille ( :干のl,I大きなJgrands, I壮麗にJmajestueuxと

いった広大かつ神秘的な情景を表す最大級の形容があり,二節の「天空Jcieuxは神の王座を暗

示していることにも注目せねばならない。ただし,このような膨張・拡大の運動が,ここでは

無秩序に拡散してゆき,見る主体の存在を破壊する,その一歩手前で制御されている。それは

大海原の音響を「音楽Jmusiqueの「協和音Jaccords( : harmoniel ととらえているからであ

り,また,ここでボードレールは「万物照応Jcorrespondances の詩学に基づいて,音

(accordsl と色(couleursl を合ーさせているからである O

もう一つ,この眼の介入について指摘したい側面がある O ここでの「私の眼」は,そこまで

に描かれた情景を「見る」と同時に提示(二描写)する視線であるが,一方でそれは情景を形

成する要素,すなわち大自然の一部として,作者自身(ひいては我々読者)によって「見られ

るj対象となっているのである o I私jとし寸眼は,作品に表出された空間を「見るj主体であ

ると同時に,その空間に絞めこまれ, I見られる」客体でもある。言いかえるなら, I私の眼J

は, I私」とし寸話者を機能させる作者自身によって操作されている,あるいは支配されている

と考えられる。

作品の展開に沿ってもっと精細に考察すれば,第二節の終行で「私の眼に映るJreflete par

mes yeuxが現れるまでは,情景全体が隠された主体(すなわち「私Jjelの視線によって浸透

されていたが,この「私の眼」の介入によって,一つの「私jの視線が主体としてのそれと客

体としてのそれに分離し始めるのである。多木浩二の言う(I眼」の外化 31) により,(I眼jが

世界の側に移されて,見る主体の中心が消え,自己を解体する可能性41)が,そこにきざしてい

ると考えられる O こうした19世紀の視覚の変容について,さらに多木の言葉をヲ|いてみよう O

つまりもはやある A定の「眼J(ルネァサンスの遠近法のような眼)がすべてをつらぬいて

人間にとっての世界を構成していくようなことはなくなり,相反するような,そして同時

に相補うような視線が,複雑に織りあげていく近代社会の空間があらわれていたのであるh

このような変容が,マラルメの詩世界にもみられるかどうかを, li毎の微風」に戻って検討し

てみよう O

II. r両の眼に映ったJ(マラルメ)

ボ、ードレールの「前世」における「両の眼Jには, I私のJmesという所有形容詞が付いてい

ることは既に述べた。ここには,明らかに「私」という主体の,対象の光景を支配しようとす

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22 横山昭正

る欲求が読みとれる。では「海の微風」の,定冠詞 lesの付いた「両の眼」は誰のもので,ど

のような働きを担わされているのか。

この「眼」は,まず,詩に登場する「私jと「若い女J,さらに「彼女の子供」一一この三者

の眼を指すと考えられる。つぎに これは総称としての眼,つまり人間一般の眼でもあろう O と

すればここでの「古い庭々Jとは,窓外の現実の庭だけでなく,古来人間が見てきた庭,さら

には絵画や写真などで眼にした庭をも指すと考えられよう。

ここで注目したいのは,次の一行である。

そして子供に乳を呑ませている若い女も

Et ni la jeune femme al1aitant son enfant.

安藤訳は「若い女6)J,渋沢孝輔訳は「若い妻TJであるが,所有形容詞「私のJmaではなく,

定冠詞 laが用いられていることは重要で、ある。むろんこの女性は, I海の微風」制作の前年

(1864年),長女ジュヌヴイエーヴを生んだばかりのマラルメの妻を指すともとれるが,ここに

「授乳の聖母子jのテーマを読みとることも許されるのではないか。

そのように考えると, 1古い庭々」は,聖母子とともにしばしば描かれる庭を暗示すると思わ

れる (1庭jはキリスト教図像学では聖母マリアの処友性を表わすとされている)。しか L,こ

こで大切なのは,これらの「庭々」も「子供に乳を呑ませている若い女」も,否定の対象になっ

ていることである。

何にも 両の眼に映った古い庭々も

i毎にj支ったこの心を引きとめないだろう

おお夜たち! 白さが防衛する虚ろな紙の上の

私のランプの荒涼とした光りも

子供に乳を呑ませている若い女も

Rien, ne 1εs vieux jardins refletes par les yeux

Ne retiendra ce caur qui dans la mer se trempe

o nuits! ni la clarte deserte de ma lampe

Sur le vide papier que la blancheur defend

Et ni la jeune femme allaitant son enfant.

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ボ、ードレールにおける眼の風景 23

作中の「私jは,地上で最も愛着のある存在を捨てて, I出発」の夢に, I彼方」への逃走に

身をゆだねようとする o I白さが防衛する虚ろな紙J, I私のランプの荒涼とした光り」とは,

「私J(=詩人)の,夜毎の厳しい詩作の現場を指しているといえようが,その営みすら,逃走

の夢想、の下に否定される。マラルメ自身, 1866年2月1日付の,アンリ・カザリスの従姉ル・

ジョーヌ夫人 MmeLe ]osneに宛てた手紙の中で,作品の主題について次のように語ってい

る 「時おり捉えられる,愛する者たちから離れたい,そして「出発するjという,あの説明

しがたい欲望Jce desir inexplique qui vous prend parfois de quitter ceux qui nous sont

chers, et de partir 8、。

その「私J,あるいは「この心」を,マラルメは「倦;怠」と呼んで、いる。

残酷な希望に荒んだ「倦怠」は

ハンカチの最後の別れを今なお信じているのだ!

Un Ennui, desole par les cruels espoirs,

Croit encore a l'adieu supreme des mouchoirs !

「倦怠JEnnuiは,草稿では小丈字で始まる ennuiであった。これを大丈字で始まる Ennui

と修正したことで,我々はボードレールにおける倦怠を思い出さないわけにはゆかなしミ。『悪の

花』の序詩「読者にJAu Lecteurから,終わりの三節を日|かねばならない。

だが,金狼にもあれ,豹にもあれ,牡狼にもあれ,

猿にも,献にも,禿鷹にも,蛇にもあれ,

われらの悪徳をとりあつめた穣らわしい動物園の,

暗き,時Lえ,捻り,這いまわる怪物どものさなかに,

さらに醜く,さらに邪ま,さらに不浄な者が一匹いる!

大仰な身ぶりもせず大きな声も立てないが,

地球を喜んで廃嘘にしてしまうことも,

ひとあくびにこの世を呑みこむことも,やりかねない。

これこそく倦怠〉だ! 日には心ならずも涙,

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24 横山昭正

水煙管くゆらせながら,絞首台の夢を見る。

きみは知っている,読者よ,この繊細な怪物を,

一偽善の読者よ,←私の同類,一私の兄弟よ!9'

Mais parmi les chacals, les pantheres, les lices,

Les singes, les scorpions, les vautours, les serpents,

Les monstres glapissants, hurlants, grognants, rampants,

Dans la menagerie infame de nos vices,

I1 en est un plus laid, plus mechant, plus immonde !

Quoiqu'il ne pousse ni grands gestes ni grands cris,

I1 ferait volontiers de la terre un debris

Et dans un bail1ement avalerait le monde ;

C'est l'Ennui !一l'ailcharge d'un pleur involontaire,

I1 reve d'echafauds en fumant son houka.

Tu le connais, lecteur, ce monstre delicat,

Hypocrite lecteur, - mon semblable, - mon frere !

ここで我々の悪徳の具現とみなされている獣たちの中で,最も「醜く Jlaid r邪まJmechant

で, r不浄なJimmonde生きものを,ボードレールは「倦怠JEnnuiと名付ける。 immondeは,

monde (世界)の im- 否定・欠如)である O またこの「倦怠Jは, I1竜王JSatan, Diableで

もあり, 1地球を喜んで廃嘘にしてしまうこともJ1ひとあくびにこの世を呑みこむことも,や

りかねないJr怪物Jmonstreとして提示されている。一言でいえば,現実世界の全的な破壊・

否定であり,マラルメの「倦怠J(ボードレールと同じ擬人化)と似通う存在である。

ボードレールにおける「倦怠jの内存を端的に示す作品として, 1憂欝JSpleen (FM, LXXVI)

があげられる。

何にも興味のなくなった陰欝な心の果実,倦怠が,

永遠不滅のものさながらに,拡がる時。

L'ennui, fruit de la morne incuriosite,

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ボードレールにおける眼の風景 25

Prend les proportions de l'immortalite.

curiosite (好奇心)の in-(欠如・否定)の結果としての「倦怠Jが,人間存在の内面と同時

に現実世界を「不死Jimmortaliteの存在として覆いつくすわけである。ここから, i彼方J1会

basへの逃走・出発の夢想、まではわずか一歩である。

ただし,ボードレールとマラルメにおける「彼方jには違いがある。この点について安藤元

雄は, i旅への誘いJL'Invitation au voyage (FM, LIII) の一節を引きながら次のようにいっ

ている。

Songe a la douceur

D'aller la同basvivre ensemble

思ってごらん

あそこへ行って一緒に暮す楽しさを!

そしてボードレールは,恋人とともにそこへおもむくことを夢みるのでなければ,現世

の恋人の胸の香りの中にく幸福の岸辺〉を思いえがくわけです。どちらにしてもく彼方〉

Oa-bas)の世界が一足とびに日の前に映し出されます。

けれどもマラルメの場合は,くla-bas>はどこまで、行っても単なるく彼方〉でしかありませ

んO そこにどんなものがあるか思いえがかれるわけではなく,第一,そこへ行けば充足感

が得られるのかどうかさえわかつてはいない。〔……〕なおも強引に夢想をくりひろげれば,

映し出されるのは難破のイマージュ 出発することによってもたらされる破滅だけで、す10)

そして「海の微風」における現実世界の否定について, i最初のうちは詩人の身辺の環境

が ただし,必ずしも現世の俗悪・卜劣を理由としてではなく 否定されて行くだけですが,

やがてその否定がく脱出〉そのものをひたし始めます。最後に残るのは,海からのそよ風に乗っ

て聞えてくる,かすかな水夫の歌声でしかありません11,Jと述べている。この指摘は的確であ

る。

ところでボードレールが「現世の恋人の胸の香りの中にく幸福の岸辺〉を思いえがく J(i異

邦の香り J) とき,作中の「私jはどんな仕種をするのであろうか。

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m. r両の眼を閉じてJ(ボードレー jレ)

「異邦の香りJp,αポtmexotique (FM, XXII) の第一節は次のとおりである。

両の眼を開じて 秋のある熱い夕べ

おまえのほてった乳房の匂いを吸いこむとき

私は見る 幸福の岸辺が拡がるのを

単調な太陽の火がまばゆく照らす岸辺が

Quand, les deux yeux fermes, en un soir chaud d'automne,

Je respire l'odeur de ton sein chaleureux,

Je vois se dせroulerdes rivages heureux

Quモblouissentles feux d'un soleil monotone ;

女体が一つの広大な風土と重なるのはボードレールの常套であるが,その風土に「私」を連

れてゆき,そこを満たす体臭のいわば横暴にすっかり身をゆだねるために, I私」は「両の眼を

閉じてJしまうかのようだ(女体の熱い「匂Lリはいうまでもなく南洋の樹木や果実の強烈な

「香り」と混じりあうんこのように視覚を消去することは,外界の事象を見ることの拒否であ

るO その結果として,眼を閉じた「私」の暗い視界にくり拡げられるものは幻想の空間,ある

いはここでのように記憶の風景であったりする(思い出の舟界が現出する契機となった恋人の

肉体そのものも,一度「私」の視覚から消滅させられることは注目に値する)。

この作品に続く「髪JLa Chevelure (FM, XXIII)においても,視覚は殺される O

おおふさふさの髪よ 項の上にまで波うっている!

おお髪の環よ! おおけだるさのこもる香りよ!

わt惚よ! この夕べ薄ぐらい寝室を

そのなかにまどろむ思い出でみたすため

この髪を宙にうち振りたい ハンカチのように!

o toison, moutonnant jusque sur l'encolure !

o bouc1es! 0 parfum charge de nonchaloir !

Extase Pour peupler ce soir l'a1cove obscure

Des souvenirs dormant dans cette chevelure,

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Je la veux agiter dans l'air comme un mouchoir

「その〔髪の〕なかにまどろむ思い出jとは,次節の l'慌惇のアジアと灼熱のアフリカJLa

langoureuse Asie et la brulante Afriqueのような炎熱の風土の記憶に他ならない。この思い

出が鮮やかによみがえるには,夕暮れの閏房の薄聞が,視覚の働きを妨げねばならない。しか

も恋人の「髪」は, 1黒檀の海Jmer d'ebene (三節), 1黒い大洋J(ce) noir ocean 五節)と

呼ばれるように黒い髪であるから,ますます見えにくいのである。

ふたたび「異邦の香り」に戻って考えれば,第一節の「私は見る 幸福の岸辺が拡がるのを」

J e vois se derouler des rivages heureuxと,第三節の「私は見る 帆とマストでし 3っぱいの

港をJJe vois un port rempli de voiles et de matsにおける「見るJvoirという動詞は「思

い出すJse souvenir ; se rappelerあるし汁土{想像するJimaginer ; se figurerの意に用いられ

ているといえる。こうした用法は,この作品に限らない。たとえば「白鳥JLe Cygne (FM,

LXXXIX)の六節から七節の,

私は見る この不幸せな者奇怪で宿命的な神話が

時おり空の方へ オウイデイウスの人間のように

〔・・・・・・〕

痘筆する頚の上の渇望する頭を差しのべるのを

まるで神に非難をあびせるかのように!

Je vois ce malheureux, mytheせtrangeet fatal,

Vers le ciel quelquefois, comme l'homme d'Ovide,

、tilノ

• • • • • • 〔

Sur son cou convulsif tendant sa tete avide,

Comme s'il adressait des reproches a Dieu

も,同様である。また, 1旅への誘いJL'Invitation au voyage (FM, LIII)の第六節,

ごらん あれらの運河の上で

まどろむあれらの船たち

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28 横山昭正

放浪癖のある船たちを

Vois sur ces canaux

Dormir ces vaisseaux

Dont l'humeur est vagabonde

における命令法の「見るJvoirも, r想像するJimaginerあるいは「夢みるJsongerに等しい

意味で用いられているといえよう。

もう今度「異邦の香り」に戻って考察したいのは 第二節に現れる 南洋の島の住人の眼差

しについてである O

怠惰な島 そこには自然が与えている

珍しい樹木とおいしい果物

身体がほっそりとして強靭な男たち

眼の大胆率直さにはっとさせられる女たち

Une ile paresseuse OU 1a nature donne

Des arbres singu1iers et des fruits savoureux

Des hommes dont 1e corps est mince et vigoureux,

Et des femmes dont l'ぽ i1par sa franchise etonne.

「大胆率直さJ(sa) franchiseは,近代文明に冒されていない無垢さだけではなく,性的な奔

放さも指すと思われる。いずれにしろ,閏房の恋人の肉体から発する「匂いjのみを感受する

ためであるかのように「両の眼を閉じてJ,恋人の肉体と共にその視線も視界から排除したとき,

主体の視線は白らの内面に向かい,記憶の風景に出会い,純粋で自由な視線(の思い出)を再

発見する一一この視覚の働きと経験は ボードレールと同時代の画家たちの作品のなかにも辿れ

るように思われる。

w. r眼を閉じてJ(ルドン)

印象派の画家たちの営為は一口にいって,絵画におけるそれまでの神話・伝説,政治や宗教,

歴史や丈学なとεの意識的または無意識的な縛りつけや約束ごとから視覚を解き放ち,対象に,と

りわけ外界の光の横溢に,いわゆる肉眼で立ち向かった実験であったように思われる O このこ

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ボ、ードレールにおける眼の風景 29

とは既にくり返し指摘されており,今さらむし返すほどのことでもあるまいが,彼らのうちで

もとりわけモネ ClaudeMONET (1840 -1926)は,外光のなかの風景と人物に,いわば裸の眼

で対面し,その見聞いた両の眼に映じた事象をそのままカンヴァス上に定着しようとつとめた

画家であったといえよう。その意味で,まさしく彼は眼に殉じた人であり,白内障で視力が衰

えてゆく晩年の作品では それまで光を浴びていまだ明断な線や鮮明な色彩を保っていた外界

の事物や人聞が, しだいに明確な形や表情を失くしてゆく。このことは実際に作品の一つひと

つにあたって検証されねばならないが,たとえば「戸外の人物試作(右向き)J(1886年,カン

ヴアス・油彩,オルセ一美術館)Essai de figure enρlein air (vers la droite)では,揺れる

炎のような草むらに,雲の荒れる青空を背景にして立つ女性の顔は,日傘と帽子の陰になって

細部がぼんやりとしか見分けられなし、。粗いタッチで塗られた両の眼は,輪郭を失い,視線が

こちら(画家)の方を見下ろしていると辛うじてわかる程度にしか描かれていなLミ。同じモ

ティーフの「戸外の人物試作(左向き)J(1886年,カンヴァス・油彩,同上)Essai de figure en

ρlein air (vers la gauche)では,風になびくスカーブ・帽子のリボンと髪が顔にかかり,眼も

鼻も口も全く描出されていなしミ。というより,画家の関心はモデルの女性(オシュデ夫人の娘,

18歳のシュザンヌ)の眼や表情にはなかったのである O 友人デユレあての1887年8月13臼付の

手紙には H・H ・..J新しい試みに,私が理解しているような戸外の人物像に,風景画として描か

れた戸外の人物像に,取り組んでいます12iJとあり,人物を風景の構成要素のーっとしてしか見

ていない彼の意図がそこに読み取れる。これより 11年前に制作された, I散歩:日傘をさす女」

(1875年,カンヴァス・油彩,ナショナル・ギャラリー〔ワシントンJ)La promenade, la femme

a l'ombrelleは同じような構図で,こちらを見下ろす女性(最初の妻カミーユ)の鼻と口,それ

に眼の一部をかすめて細い灰青色のスカーブがなびいている。その眼は,素早い-刷けのタッ

チで,薄く軽く描かれているが,偶然の一瞬の眼差しの定着という感じがする。それは次の瞬

間には消えるというより別の表情に変わる,不安定な,移ろいの眼差しであり,そこに描出さ

れているのは,むしろ,刻々と過ぎ去りつつある時間の影のような気がする。大森達治は, I彼

女はたった今,こちらの存在に気づいたかのように,やや驚きをさえまじえて,肩越しに我々

を一瞥する 13)Jと評しているが,女性の仕種と表情がどんな情念を示しているのかは断定できな

い一一そういうとりとめのなさ,移ろL寸コすさこそが捉えられているのだと思われる。女性の

前方,少し向うにたたずむ小さな男の子(当時8歳の長男ジャン)は,対照的にじっとこちら

をみつめている O 眉も眼もかなりはっきりと, しかも異様なくらい大きく描かれているが,や

はりそこに何らかの明確な表情を読み取ることはできない。束の間の,停い一瞬のスナップの

ように思われる。

ここでとりあげたいのは ルドン OdilonREDON (1840-1916)の作品である。 1皮には「眼

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30 横山昭正

(眼球)Jへの偏執があり,眼をモチーフに,数多くの多様な作品が制作されたことは知られて

いる。ただこのモネと同年に生まれた画家の人物画には,眼を伏せたり,閉じたりした人物が

多いことに気づかされる。

たとえば「眼を閉じてJLes yeux closという油彩の作品が複数ある o 1890年作(オルセ一美

術館蔵)と 1900年頃作(岐阜県美術館蔵)はよく知られているが,同 A テーマの変奏と思われる

作品が他にもたくさん見出される O いくつかあげてみよう:r聖心JLe Sacre-Caur (1895年頃,

パステル,ルーヴル美術館), rオフエリアJOphelie (1901-2年,厚紙・油彩,岐阜県美術館),

「オルベウスの死JLa mort d'Oゅhee(1905-10年頃,カンヴァス・油彩,同上), rオルベウス1

0ゆheus(1913年以後,厚紙・パステル,クリーヴランド美術館), r聖アントワヌの誘惑J(第三

集)La Tentation de Saint-Antoine [3e serieJ (1896年,リトグラフ,岐阜県美術館・群馬県

立近代美術館)のうち, rXXIVついに日の出だ……そして太陽の円盤そのものの中にイエスニ

キリストの顔が輝く JLe jour enfin parait...…Et dans le disque meme du soleil, rayonne la

face de ]esus-Christ.

これらの作品のもつ意味については,稿を改めて考察したい。

(rボードレールにおける眼の風景

序説:r両の眼に映ったjから「両の眼を閉じてjまで J終)

Editions critiques

Les Fleurs du Mal, edition critique etablie par J. CREPET et G. BUN, Jose Corti, 1942 et 1950. Les Fleurs du Mal, edition critique J. CREPET-G. BUN, refondue par G. BUN et Cl. PICHOIS, J. Corti,

1968

Petits Poel刊esen Prose, edition critique par Robert Kopp, J. Corti, 1969.

Journaux intimes← Fusees . Mon caur mis a nu . Carnet -,己ditioncritique etablie par J. CREPEt et G.

BUN, J. Corti, 1949.

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ボードレールにおける眼の風景

Notes

1)安藤元雄『フランス詩の散歩道J,白水社, 1975, p.92

2) S. MALIA問主,OCM, p. 1432.

3)多木浩二『眼の隠愉t青仁社, 1985, p. 136.

4) Ibid.

5) Ibid.

6)安藤克雄,op. cit., p. 92

7)安藤元雄・入沢康夫・渋沢孝輔編『フランス名詩選l岩波文庫, 1999, p. 149.

8) S. MALIARME, 0戸cit.,p. 1433. 9)阿部良雄訳「悪の華J(rボードレール全集 1j),筑摩書房, 1983, p.11

10)安藤元雄,op. cit., pp. 98-99.

11) Ibid., p.99.

12)モネ (rアサヒグラフ・別冊美術特集・西洋編 5j),朝日新聞社, 1993, p. 91.

13) Ibid., p.89.

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