イザベラ:信念の人か,従順なる修道女か - Hiroshima...

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広島文教女子大学紀要 30 1995 イザベラ:信念の人か,従順なる修道女か ヰ干 Isabella: A Woman of Integrity or A Nunof Obedience Sachiko Mito 批評家達が「尺には尺を」を問題にする時,彼等の関心は,多くの場合公爵に向けられてい るようである O それは,彼等の批評がキリスト教的観点に立つものであれ,近年の批評に特徴 的な傾向でもあるが,政治的な観点から解釈するものであれ,主たる関心と分析の対象が公爵 である点では一致している o 'Christian Atonemen t'の観点から劇全体を解明しようとした Roy W.Battenhouse1) 作品のタイトル‘Measurefor Measure' に込められた作品の意味(キリ スト教的な意味)を指摘しようとした PaulN.Siegel2) 又,使徒 Paulの言葉が作品理解の 絶対的な鍵であると主張する RonaldBerman 3 ) ,或いは,聖書, Mark IVの言葉と作中人物の 言葉を照合させて神の意図を「尺には尺を」の中に読み取ろうとした SarahC.Velzの場合 4) 彼等が一様に,作品そのものの,そして作品解釈の中心に据えているのは,公爵である O それは,より正確に言うならば,神の子イエス・キリストの意図を体現する存在としての公爵 である。 そうした議論(批評)にあっては,イザベラを含む公爵以外の人物は,展開されていく各々 の議論に対して,一つの論拠を提供する意味での存在性を与えられているに過ぎない。そして その傾向は,政治的観点に立つ批評において更に顕著となってくる O なぜなら,政治的批評を 試みる人々の関心は専ら,世俗の rulerとしての公爵,即ち,現世の為政者が大衆を如何に巧 みに掌握し,治めるかという点に向けられており,個々の人間の魂の救済(の可能性)には関 心がないからである O 公爵はもはや 罪深き人や 頑ななる人の魂を救うキリストではない。 従って, David Ll oyd Stevenson Jonathan Dollimore Robert N.Watonといった批評家達にとっ て,神の子キリストの持つ超自然的力によって,同様に超自然的な救い一一赦しと悔い改め を体現する個性としての登場人物を問題とする必要はなくなってくるからである 5) 。更に 言うならば,第三者の目には,こうした批評家にとっては「尺には尺を」という作品そのもの の分析ではなく,十六,七世紀当時の社会的,政治的状況の解明こそ最大の関心事であるかの ような印象を与えかねない。或いは,現代人の視点から捉えた「為政者」公爵の政治的意図の 解明に中心的課題を見出している感がある O キリスト教的観点にせよ,政治的観点にせよ,そのいずれの立場にあっても,議論の中心的 存在が公爵であることに変わりはないものの,両者の聞には,確かに相違点もありはする。そ の第一の相違点は,一方が,公爵を religiousruler ,他方は, political ruler(secular rulerl と見 ている点である O 第二の相違点は,宗教的解釈では,ほとんど例外なく公爵は神の如き絶対的 正義であり,善であるのに対して,政治的解釈における公爵は,必ずしも,絶対的肯定は与え られず,より客観的な視点から観察されるため,時として,度肉, i 風刺の対象として分析が為 103

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  • 広島文教女子大学紀要 30, 1995

    イザベラ:信念の人か,従順なる修道女か

    戸 子ヰ干

    Isabella: A Woman of Integrity, or A Nun of Obedience

    Sachiko Mito

    批評家達が「尺には尺を」を問題にする時,彼等の関心は,多くの場合公爵に向けられてい

    るようである O それは,彼等の批評がキリスト教的観点に立つものであれ,近年の批評に特徴

    的な傾向でもあるが,政治的な観点から解釈するものであれ,主たる関心と分析の対象が公爵

    である点では一致している o 'Christian Atonement'の観点から劇全体を解明しようとした Roy

    W. Battenhouseも1) 作品のタイトル‘Measurefor Measure' に込められた作品の意味(キリ

    スト教的な意味)を指摘しようとした PaulN. Siegelも2) 又,使徒 Paulの言葉が作品理解の

    絶対的な鍵であると主張する RonaldBerman3),或いは,聖書, Mark IVの言葉と作中人物の

    言葉を照合させて神の意図を「尺には尺を」の中に読み取ろうとした SarahC. Velzの場合

    も4) 彼等が一様に,作品そのものの,そして作品解釈の中心に据えているのは,公爵である O

    それは,より正確に言うならば,神の子イエス・キリストの意図を体現する存在としての公爵

    である。

    そうした議論(批評)にあっては,イザベラを含む公爵以外の人物は,展開されていく各々

    の議論に対して,一つの論拠を提供する意味での存在性を与えられているに過ぎない。そして

    その傾向は,政治的観点に立つ批評において更に顕著となってくる O なぜなら,政治的批評を

    試みる人々の関心は専ら,世俗の rulerとしての公爵,即ち,現世の為政者が大衆を如何に巧

    みに掌握し,治めるかという点に向けられており,個々の人間の魂の救済(の可能性)には関

    心がないからである O 公爵はもはや 罪深き人や 頑ななる人の魂を救うキリストではない。

    従って, David Lloyd Stevenson, Jonathan Dollimore, Robert N. Watonといった批評家達にとっ

    て,神の子キリストの持つ超自然的力によって,同様に超自然的な救い一一赦しと悔い改め

    を体現する個性としての登場人物を問題とする必要はなくなってくるからである5)。更に

    言うならば,第三者の目には,こうした批評家にとっては「尺には尺を」という作品そのもの

    の分析ではなく,十六,七世紀当時の社会的,政治的状況の解明こそ最大の関心事であるかの

    ような印象を与えかねない。或いは,現代人の視点から捉えた「為政者」公爵の政治的意図の

    解明に中心的課題を見出している感がある O

    キリスト教的観点にせよ,政治的観点にせよ,そのいずれの立場にあっても,議論の中心的

    存在が公爵であることに変わりはないものの,両者の聞には,確かに相違点もありはする。そ

    の第一の相違点は,一方が,公爵を religiousruler,他方は, political ruler (secular rulerlと見

    ている点である O 第二の相違点は,宗教的解釈では,ほとんど例外なく公爵は神の如き絶対的

    正義であり,善であるのに対して,政治的解釈における公爵は,必ずしも,絶対的肯定は与え

    られず,より客観的な視点から観察されるため,時として,度肉, ii風刺の対象として分析が為

    103

  • されていることも少なくない点である O しかしながらその反面,上記に挙げた点においては,

    宗教的解釈と政治的解釈が一致していることを否定することはできないのである O

    このように,公爵に対して多くの関心が払われてきたその理由は,文学批評に関わらず,多

    くの社会的,文化的活動が,広範囲に渡って,そして歴史的にも長く,男性によって担ってこ

    られたからであるのかどうかは分からない。しかし確かなことは,公爵に劣らずイザベラが,

    劇中,多くの言葉(とりわけ劇前半)を,そして重要なる言葉を与えられているにも関わらず,

    これまで批評家の中心的関心を引くことはさしてなかったということである O 尤も,イザベラ

    が全く無視されてきたわけではなかった。しかし,いずれも十分な分析とは言えないもので

    あった。十九世紀後半, Anna ]amesonがイザベラに注目した時,それは全く一方的かっ単純

    な絶賛に終始した6) E. M. W. Tillyardが source,Whetstoneの Promosand Cassandraの7)ヒ

    ロイン,カァサンドラと「尺には尺を」のヒロイン,イザベラとを比較する時,その意図は,

    二人のヒロインの相違が,シェイクスピアの「尺には尺を」の作品としての失敗の一因である

    ことを証すためであったへその一方で,同じく, sourceとの比較を明快に紹介し I尺には

    尺を」のイザベラの性格として intellectualityがエピテイア(今ひとつの source,Cinthiaの作品,

    Epithωのヒロイン)の性格の流れを汲むものであることを指摘した].W. Leverの功績は小

    さくはない9)。

    しかし,イザベラについてより深く理解するためには,もっと詳細な言葉の分析を要するで

    あろう。そしてその分析は,相前後して書かれ,同じく問題喜劇として扱われており,手法に

    も共通点のある作品である I終わりよければ,すべてよし」のヒロイン,ヘレナとの比較を

    合わせて試みるならば,より有効かっ意義深いものになると考えられる O この小論では,いわ

    ゆる bed-trickによって自己の意図や目的を遂げるという点で,表面的には共通性を見せてい

    る三人のヒロイン,ヘレナとイザベラの相違点に注目し,両者の比較を試みる O 更に,その比

    較によって,従来,詳細な分析の試みられてはこなかったと思われるイザベラの人物像を探る

    ことに主眼点がある。では,その相違点について論じる前に,まず,二つの劇の共通性を見て

    おくことにしよう。

    [終わりよければ¥すべてよし]と「尺には尺を」の共通性について

    1. 愛における不信

    問題喜劇,或いは問題劇として総称される一群の劇の聞に共通する問題のーっとして「愛に

    対する不信」を挙げることができょう O 中でも,愛の問題のみならず,その制作年代において,

    又,劇中,難題解決の方法として‘bed-trick'を用いる点において I終わりよければ,すべて

    よしJ (市Ij作年代1603-04) と「尺には尺をJ 0604-05) は似通った性格を持っている10)。

    「終わりよければ,すべてよし」では,一組の男女が,そして「尺には尺を」では四組の男

    女が bed-trickという非常手段の,直接的,間接的結末として結婚へと導かれている O しかも

    その愛は,両方の劇において,一組を除いては当事者のいずれか一方が I自主性」を奪われ

    ている。すなわち,愛する相手を選ぶ権利を奪われているのである O それは,他のシェイクス

    ピア喜劇において,愛の成就には欠かすことのできなかったはずの条件が失われていることを

    意味するであろう。具体的に紹介するならば「終わりよければ,すべてよし」において,パー

    トラムはフランス王の権威と,ヘレナの巧みな画策, bed-trickの前に屈服し,不承不承に結

    婚を受入れ,愛を誓うのである O 又 I尺には尺を」においては,アンジエロは不実と不正の

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  • イザベラ:信念の人か,従順なる修道女か

    罰として,マリアナを受入れ,ルツィオは平素の lecherousIife (放持な生活)一一brothel通

    い の報いとして punk(売春婦)との結婚を強いられる O 更に,ヒロイン,イザベラは,

    終幕間際の唐突なる公爵の求婚の言葉を耳にする時,自ら選んだはずの修道女の道を断念する

    かのように,抵抗することなく黙して語らぬままである。ここに,我々は,彼等すべてに対し

    て一様に,一つの疑いを感じないではおれない 「そこには愛はあるのか?J とO 確かに,

    難題解決により晴れてパートラムの妻となり得たヘレナは,愛を得て至福の頂点にあり,一度

    は不貞の汚名を着せられ,捨て去られたはずの愛を取り戻したマリアナはアンジエロとの結婚

    に満足を得るであろう O ルツィオの子供をもうけた punk,ケイト・キープダウンも,安堵の

    胸をなでおろしたかもしれぬ。しかし,彼等の対手は彼等と同様の愛と喜び、を分かち合ってい

    るかと問うならば,それは実に疑わしい。そのような男女の聞に真の愛が存在するとは到底考

    えることはできないのである O そして更に I尺には尺を」のクローデイオとジュリエットの

    愛に関しでも,相思相愛の感情で、結ぼれた愛であることは疑い得ないものの,暗い一つの影を

    打ち消すことはできかねる O クローデイオの投獄,そして死刑宣告,更には妹イザベラの貞操

    の危機一一一こうした過去が二人の愛と幸福を脅かす影となってつきまとう恐れを,何人も拭い

    去ることができないからである O

    いずれにしても総じて言えることは['終わりよければ,すべてよしJ,['尺には尺を」いず

    れの劇においても,いわゆるシェイクスピアの romanticcomedyの範轄に属する喜劇に描かれ

    る['愛」や「結婚」とは全く性格を異にする愛の問題が提示されているということである O

    2. 主張する自我

    さて,三つの劇に関するもう一つの共通性は,ヒロイン達の性格に関するものである O ヘ

    レナもイザベラも他を憤ることなく,自己の考えを主張するといった性格を窺わせている。ヘ

    レナは身分の違いからパートラムへの愛を叶わぬ夢と諦めかけていたところへ,パートラムの

    母である公爵夫人から,自分に対する信頼の深さを告げられるや,その後は,ほとんど迷いを

    見せず,一貫して自分の愛を追及し,終には目的を達成するのである O 一方イザベラは,ヘレ

    ナと違って,状況の強いる難題解決に迫られるのではあるが, (自己の chastityか,兄クロー

    デイオの命か,三者択ーを迫る難題)その際に見せる,彼女の信念の強さと雄弁の力はヘレナ

    に劣らぬ主導性を窺わせている O 議論するイザベラは相対するアンジエロとクローデイオばか

    りか,観客や読者をも圧倒する力を持っている O イザ、ベラは単に己の涙をもって哀訴する女性

    ではなく,正義 Gustice)に対して,慈悲 (mercy)に対して明確な考えを持ち,言葉をもって

    為政者アンジエロに迫るのである 11)。又,イザベラは chastityが肉体の死を持つてなお余りあ

    る貴い価値であることを,アンジエロの要求に対しでも,クローデイオの嘆願に対しでも,怒

    りと軽蔑をもって訴えている。第二幕二場,第二幕四場におけるアンジエロとの対話,第三幕

    一場におけるクローデイオとの対話は,イザベラの信念と雄弁を強く印象づける場面であるが,

    それはまさに,こうした場面に先立つ第一幕二場,クローデイオが友人ルツイオを前にして妹

    イザベラの性格を評して語る言葉の証しともなっている。

    Claud. For in her youth

    There is a prone and speechless dialect

    Such as move men ; beside, she had prosperous art

    When she will play with reason and discourse,

    105ー

  • And well she can persuade.

    (1, 2, 172-176)

    兄の予言的な言葉など知ろうはずもないイザベラであるが,この言葉通り,彼女はその理性と

    雄弁をもってアンジエロを屈服させるのである o (但し,屈服するのは皮肉にもアンジエロの

    理性としての senseではなく,情欲としての senseであるが.• • )しかも,このクローデイオ

    の予言的な言葉を肯定するかのように, Provostが,アンジエロの前に進み出て嘆願を始めた

    イザベラに対して,“Heavengive thee moving graces!" (II, 2, 36) と,神の加護により彼女の

    身に他者を動かす「力」の備わることを祈願していることは,なかなかに興味深い。更に注目

    すべきは,嘆願を始めてほどなく,イザベラ自身が「言葉」をもって他を説き伏せる力に対す

    る自信を窺わせていることである O クローデイオの死は確定したのであり,嘆願はもはや無駄

    であると,イザザ、ベラの申し出を退けようとするアンジエロに向カかミつて,

    1 t出ha抗td由os叩pea法ka woぽrdψ/Ma勾ycall i此ta昭ga泊m正"(但II,2, 57下一58鈎)r吋i決夫して遅過ぎはしない。言葉(私の一

    言)によって,あなたの下した死の判決を呼び戻してみせよう。」と挑む。そしてこの言葉通

    り,イザベラは見事なまでの言葉の駆使能力を披涯してみせるのである O ただ悲しい哉,彼女

    の言葉はアンジェロの理性に訴えることなく,その情欲を強く動かしめてしまうのであった。

    以上のようにシェイクスピアは,第三者の言葉によって,又,当人の言葉によって,三重,

    三重にイザベラの知性と言葉の力を強調していることが分ってくる O 一部の批評家が指摘して

    いるように,クローデイオのイザベラ評は,彼女の肉体的な美としての説得力を強調する言葉

    ではない。それはむしろ, ]. W. Leverが説明したような, souce, Cinthioの劇,Epithiaのヒ

    ロイン,エピテイアに備わる“Intellectualtone"に通ずるものと判断すべきである12)0 (但し,

    エピテイアは他の sourceのヒロインと同様,肉体的な美も合わせて備えている。)また,イザ

    ベラの力に屈したアンジエロ自身が己の情欲の屈したものは イザベラの内的美徳一一一“mod嶋

    田 ty"(11, 2, 169)であり,“sense"(reasonとしての) (II, 2, 143)であると明言している点も

    判断の拠り所とするべきであろう O

    この,肉体的な美が強調されていない点は注目に値する。身体的魅力がとくに注目すべき利

    点として詳細には語られていない点は,ヘレナの場合も同様である O 彼女の場合,その女とし

    ての,又,妻としての精神的美徳の鑑となり得る性格を,公爵夫人を始めとする第三者から賞

    讃されており,その点では,理性と言葉の力が強調されているイザベラの場合に通ずる性格創

    造ということができょう O 更に,それがひいては,強い自我(精神)としての人物像へと発展

    していくことになっている。

    さて,以上のように,自己を主張する対象は異なるものの,二人のヒロインは他者の意志に

    左右されず,自分の信ずるところを訴え,意図を追及する性格を与えられている点で共通性を

    見出すことができる。それは, bed-trickのもたらす「愛」の性格と共にこの劇に見る共通性

    ということができょうか。但し,イザベラの性格に関しては,ヘレナほどには一貫性を保って

    描かれてはおらず,それが この小論の後半に述べる二つの劇の相違点に大きく関わってくる

    ことになる O 又,イザベラの見せる性格的矛盾(一貫性の欠如)は,劇全体における他の幾つ

    かの矛盾点と共に r尺には尺を」の問題性を,或いは複雑さを増す一因ともなっていると考

    えられる O その点に関しでも,以下触れていくことにしたい。

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  • イザベラ:信念の人か,従順なる修道女か

    「終わりよければ,すべてよし」と「尺には尺を」の相違性

    ヒロインをめぐって

    1. bed-trickの主導権(愛の成就は誰の悲願か)

    「終わりよければ,すべてよし」においては, bed-trickにおける愛の追及及び愛の成就はヒ

    ロイン,ヘレナの悲願であるが I尺には尺を」にあっては,愛はアンジエロのかつての婚約

    者マリアナの悲願であって,ヒロイン,イザベラの願いではない。 bed-trickの遂行を「愛」

    という観点から見るならば,イザベラには自己の chastityを守るという大義名分はあるものの,

    彼女は第三者マリアナの悲願達成の協力者に過ぎぬ。又, bed-trickそのものの遂行という点

    から見るならば,へレナは,他の誰にも依存しないで,自ら bed-trickを発案 L,商取引とし

    て,寡婦,ダイアナ母娘に提案し,大金と引換えに協力を得て実行に移すのであり,彼女はま

    さに, bed-trickの masterである。「あらしJ (1611-12)のプロスペローがその魔術によって

    劇全体を統括し,登場人物を自在に動かしめた如く,ヘレナは独り計画を立てて,思惑通り事

    を成就させていくのである O

    しかし,イザベラはどうであろうか。劇前半,裁きは終わったのであり,クローデイオの死

    刑は免れ得ぬ決定である,と繰り返す権力者アンジエロを前に,臆することなく,正義と慈悲

    をめぐる議論を展開するイザベラ。現世の生に執着し,死への恐怖に懐くあまり,妹イザベラ

    に chastity提供を懇願するクローデイオを尻目に,残酷な弾劾の言葉を口にするイザベラは,

    確かに妥協を許さぬ信念の人という印象を与えはする O その点では,目的と意志を貫く人,

    independent mindとして,ヘレナに共通する性格を与えられていると言うことができるであろ

    う。しかし,難局打開の手段, bed-trickに関しては,更に,その後の劇展開においては,イ

    ザベラは全くといってよいほどに受動の人である O 彼女は第三幕一場の前半,妹が最大の価値

    を置く chastityと引換えに,己の現世の命を得ょうとする兄クローデイオに対して,神の如く,

    ‘lechery-trade'の熔印を押し I死」の宣告を残して立ち去る O しかし,イザベラはあの場面を

    境にして,その後は Friarに身をやつした公爵の意志とその企み bed-trickに従う,盲従の人

    となるのである O イザベラは公爵の提案 bed-trickを嬉々として受入れ,完全なる従順さ(忠

    実さ)をもってその指示に従うのみならず,第四幕三場,期待と約束に反して,兄が死刑に処

    せられたことを告げられ 驚停のあまりアンジ、エロの非道を呪う時も,公爵の静止に会うや,

    たちまち怒りを沈め,“Iam directed by you." (IV, 3, 136)と,すべてを彼に託すのである O 更

    に第四幕六場では,これからいよいよ I正義」を「不正義」に変質させてしまったアンジエ

    ロを糾弾する絶好の機会を目前にしながら,その役割はマリアナに譲れとの,公爵の指示を不

    承不承ながら受け入れてしまっている O そして,その,やがて来たるべきアンジエロの裁きの

    場において,たとえ公爵が自分にとって不利な言葉を口にすることがあろうとも,その試練

    (仕打ち)に耐える覚悟で望むことさえ厭わぬイザベラである。

    Isa. Besides, he tells me that, if peradventure

    He speak against me on the adverse side,

    I should not think it strange, for 'tis a physic

    That's bitter to sweet end.

    (IV, 6, 5-8)

    “sweet end"の中身が何であるのか全く確信も持てぬまま, しかも,公爵の発案による非常手

  • 段, bed-trickを最後の頼みとした,クローデイオの助命嘆願が「死」をもって報われた今,

    それでもなお,すべてを公爵に託そうとするイザベラは,もはや,第三幕一場前半までの批判

    力を備えた,自我の人とは全くの別人である O 彼女には,もはや明確な理由など不要であった。

    為すべきことは,唯一,公爵の言葉に従順に従うことであった。こうして,この劇後半のイザ

    ベラは,己が自身の発案と行動力によって bed-trickを進めたヘレナとは対照的に,公爵の発

    案による“craft"(III, 2, 291)成就のための道具の一つに過ぎない存在となってしまうのである O

    更に,この bed-trickさえも I尺には尺を」の登場人物達の個人的な目的達成の手段としてでは

    なく, Friar Lodowickに偽装した公爵の政治的意図一一justiceを実践しつつも, mercyを加味し

    た為政を行う(と見せかける)ことーーを行使するための有効なる手段と見るならば,イザベラ

    は,そのより大いなる政治的意図の従順なる下僕にすぎないという極言も可能となってくる。

    更に,イザベラの従順さに関して注目すべき点は, bed-trickによる難題解決に留まらず,

    終幕開際の結婚受諾にまで及ぶことである。第五幕一場の終わり, Friar Lodowickとしてその

    身を包んでいた僧衣を脱ぎ捨てて本来の姿を現した公爵の唐突なる求婚に対しても,彼女は

    「沈黙」という形の服従によって答えるのである。

    2. イザベラ r貞節]と「正義」

    Passion for Chastity and Justice

    さて,イザベラ自身の「愛」の問題について再び考えてみることにしたい。劇中イザベラに

    関して強調されていることは,死してなお余りある価値を与えられている chastityであって,

    愛ではない。仮にその愛が表面的なものであれ,マリアナに愛の成就をもたらしたあの bed-

    trickは,イザベラにとっては愛の拒絶(正確にはアンジエロの情欲の拒絶)を意味する O

    a. Chastity: I貞節」の固守

    劇の序盤,第一幕四場,イザベラは,これから生涯を送らんとする尼僧院 (convent)の暮ら

    しについて説明を受ける時 Iもっと厳しい戒則はないのでしょうかむと,先輩修道女に尋ね

    る。その時彼女は Iより厳しい戒則」を指して“fartherprivileges" (1, 4, 1)という言葉を用

    いている O イザベラにとって尼僧院の厳しい戒則とは,世俗の人々には与えられない,非俗の

    者のみの知る I特権」とも言い得る喜びを意味した。そして,その厳しい戒則の中には,当

    然,世俗の愛との訣別が含まれていたはずである。彼女は世俗の愛を捨て,神の愛にのみ生き

    る修道女の道を選んだのであり,イザベラにとって chastityという言葉は,単に[貞節]とい

    う意味に加えて,もっと宗教的な,肉体と魂双方の冒しがたい純潔を意味したに相違ない。そ

    うであるからこそ,アンジエロの要求に対しでも,クローデイオの懇願に対しでも,怒りと嫌

    悪,そして軽蔑を露わにして告発しないではおれなかったのである。更にその怒りは,結果と

    して「愛」の拒絶表明ともなったのである 13)。

    一方ヘレナは,劇の開始した直後から幕が降りるまで,一貫して愛を求め,終に非常手段を

    用いてまでも恋しき人,パートラムを手中に納める O へレナは「尺には尺を」のマリアナ同様,

    恋焦がれる男性の人格ではなく,その肉体としての全存在を愛したのであるかもしれない。又,

    bed-trickによって勝ち得た愛が,仮に,心の愛を伴わぬもの,互いに,愛し合う喜びを知ら

    ぬ愛であるとしても,抗い難く,人聞を捉えてやまぬ激しい情熱という意味では,ヘレナの愛

    は真正の感情であろう O ヘレナもマリアナも愛という情熱, Passion of Loveを,偽りのない

    体験として知っている点では同じである。そして彼女達は, I chastityの固守」に徹したイザ

    108

  • イザベラ:信念の人か,従順なる修道女か

    ベラとは対照的に rchastityの放棄」をもって現世の愛を求めたのである O イザベラはそうし

    た人間の意志の抵抗を許さぬ激しい衝動に駆り立てる愛の力, Passion of Loveとは無縁の人

    である O イザベラの知るものは,そして信じるものは,愛(世俗の愛)を否定する意味におい

    ての chastityであり,それを守ることに見出す至上の価値である O さて,このように chastity

    を守ることを正しきこと(善)とするならば,イザベラにとって,それに劣らぬ今ひとつの正

    しき価値があった。

    b. Justice: r正義」への信頼

    イザベラにとって chastityを守り,神の法に従うことを善とすると同様に,世俗の法一一

    ヴエローナの法律を冒すことは罪であり,悪であった。なるほど,イザベラは法と正義の守護

    神を任じるアンジェロがヴエローナ大公の代行としての権威によって,クローデイオを死刑に

    よって裁こうとした時,権力の横暴を指摘し,慈悲 mercyをもって真の正義 justiceを行うよ

    う迫りはする O しかしそれは,厳し過ぎる正義の犠牲が偶然にも直系の兄であったからに過ぎ

    ない14)。イザベラは基本的には法と正義の信奉者であってクローデイオの擁護者,つまりは,

    愛の擁護者ではない。そのことは,第二幕三場,兄の助命嘆願のためアンジエロの前に進み出

    て開口一番,口にした彼女自身の言葉に明らかである。

    Isa. There is a vice that most 1 do abhor,

    And most desire should meet the blow of justice;

    For which 1 would not plead, but that 1 must;

    For which 1 must not plead, but that 1 am

    At war 'twixt will and will not.

    (11, 2, 29-33)

    この一文は,イザベラの尤も忌み嫌う悪(罪)とは,他ならぬこれから赦してもらおうとする

    クローデイオの冒した lechery,いわば,愛の為せる罪であることを示している。彼女は,そ

    れは法に照らして厳しく裁かれるべき罪であるとも言明している O 本心を明かすなら,イザベ

    ラはそのように考えている罪禍に対して,赦しを乞うことなど決しでしたくはないと言うので

    ある。いやむしろ,赦しを乞うではならぬとさえ考えている,とも O イザベラをアンジエロの

    元に向かわせしめたのは,唯一,それが兄の命に関わる問題であるが故である O この時イザベ

    ラは,自らが否定するものの弁護をしようとする,非常に矛盾した状況にあることが窺えるの

    である O そしてその矛盾は,第三幕一場に至ってより鮮明に照らし出されることになる O

    第二幕四場,アンジエロから兄の命と引換えに自らの chastityを要求されて窮地に立ったイ

    ザベラが,続く第三幕一場,牢獄の兄に嘆願の不首尾を伝える一方,唯一命を得る術として,

    アンジエロからの申入れを明かす。アンジエロの不正な要求を知ったクローデイオは,一度は

    「妹の貞操を汚してまでも命を得ょうとは思わぬ」と妹の期待に答えるものの,やはり死の恐

    怖には勝てず,兄の命を救ってくれと,イザベラにすがらないではおれない。しかし,シェイ

    クスピアのイザベラは, sourceのヒロイン達とは違って,その懇願に屈することはない。む

    しろ激しい怒りと嫌悪をもって答えるのである 15)0 "Take my defiance, Die, perish!" (III, 1,

    142-143) r妹の,肉体と魂の命を奪ってまでも生きながらえようとする“beast"など死をもっ

    て報われるがよい!J この時,死に脅えるクローデイオは哀れむべき,弱き人間ではなく,唾

    気すべき“coward"なのである r死」の宣告と共に立ち去らんとする妹になおとりすがるク

    ローデイオに向かつてイザベラは叫ぶ。

    109-

  • Isab. 0 fie, fie, fie!

    Thy sin's not accidental, but a trade;

    Mercy to thee would prove itself a bawd;

    'Tis best that thou diest quickly.

    (III, 1, 147-150)

    クローデイオの罪は,善なる者が肉体の誘惑に屈して,はからずも官した罪ではなく,生来の

    悪人(罪人)が為した悪であり,罪であるに過ぎぬ。そうした悪には「死」をもって報いるこ

    とこそ最善の裁きである。悔い改めようのない悪や罪に対して慈悲を施すは,悪,そして罪を

    奨励するに等しい。このイザベラのクローデイオ弾劾の言葉は,奇しくも,アンジエロが言葉

    を変え,繰り返し述べる「法」と「罪」に対する考えに通ずる意味を含んでいるのである O

    Ang. 1 show it (pity) most of all when 1 show justice;

    For then 1 pity those 1 do not know,

    Which a dismiss'd offence would after gall,

    And do him right that, answering one foul wrong,

    Lives not to act another.

    (11, 2, 101-105 但し, ( )は筆者)

    罪人には「死」をもってその冒した罪と共に葬り去ることこそが I正義」であり I慈悲」で

    ある。要は,悪そして罪は,新たな悪と罪を生む種とならぬうちに摘み取らねばならぬ16)。

    「正義」と「法」に関する考え,更には「慈悲」に関しでさえ,アンジエロとは明らかに対

    立するかに見えた, (少なくとも第二幕二場,第二幕四場の三人の議論を見る限りにおいて)

    イザベラであったが,彼女の言葉を注意深く吟味してみるならば,基本的にはアンジエロの考

    え方と一致しているのである O そして更に 二人の共通性を窺わせる場面が劇も終わりに近い

    第五幕に再現される。イザベラはマリアナに乞われるまま アンジェロの助命嘆願を公爵の前

    に願い出るが,その言葉は,彼女の I法と正義J,I罪」に対する考えを再度我々に確認させ

    るものである O

    Isab. [kneeling] Most bounteous sir:

    Look, if it please you, on this condemn'd

    As if my brother liv'd. 1 partly think

    A due sincerity govem'd his deeds

    Ti11 he did look on me. Since it is so,

    Let him not die. My brother had but justice,

    In that he did the thing for which he died:

    For Angelo,

    His act did not o'ertake his bad intent,

    And must be buried but as an intent

    That perish'd by the way. Thoughts are no subjects;

    Intents, but merely thoughts

    (V, 1,441-452)

    この時,イザベラは,アンジエロを指して自分に出会うまでは行い正しき,正義の人であった

  • イザベラ:信念の人か,従順なる修道女か

    と前置きした上で,クローデイオの罪に触れ I兄は法を犯し,裁かれるべくして裁かれたの

    であり I死」は当然の報いであった。つまりは,アンジエロの裁きに間違いはなかった」と

    語る。イザベラによるアンジエロの助命嘆願は,状況の強いた行為である点を考慮して,この

    言葉を吟味するとしても,なお,我々の耳にはあの,第二幕二場の冒頭, lecheryは弾劾すべ

    き罪なりと言ったイザベラの言葉が匙らないではいない。“Thereis a vice that most 1 do

    abhor,1 And most desire should meet the blow of justice;" (11, 2, 29-30)第五幕の上記引用文中,

    前半部分の根底にあるのは,既に第二幕二場,クローデイオの助命嘆願に先立ってイザベラが

    言明していた sexualityに起因する罪に対する嫌悪に他ならない。この点で,第三幕三場と第

    五幕一場の言葉は見事に呼応しているのである。そして注目すべきは,こうしてクローデイオ

    の受けた罰 死の正当性を訴えることによって,イザベラは再度,愛に対する否定的態度を

    印象づけることにもなっている点である O

    引用の後半部分は,イザベラの chastityを脅かしたアンジエロの罪に関する内容である O イ

    ザベラは訴える O アンジエロの悪意は (bed-trickによって阻まれたため)単なる意図に終わり,

    現実の行為とはならなかった。つまり,イザベラの chastityは守られているのであるから,法

    や正義の裁きを受けるに値する罪とはならない。現実に行為となって表れぬ罪,意図に終わる

    罪は罪にあらず。この考えは,第二幕一場,アンジエロが法と正義について「犯した罪も,目

    に触れぬ罪は罪ならず、oJ (罪を路上の宝石“ruby"に愉えた弁)と語った,あの考え方と根本

    的には一致するものと言わねばなるまい17)。悪や罪は表面化しなければ問題とはならないので

    ある。

    イザベラはこうして,告発すべきアンジエロを赦してしまう O その死をもって,正しき正義

    の追及という一つの目的達成とすべきはずのアンジエロを,無罪として自らが解き放つのであ

    るO 従って,この引用文全体の言葉には,あたかもイザベラ自身の弁明であるかのような響き

    さえある。即ち,アンシ、エロの助命嘆願という行為が,彼女にとっての三つの価値 一つは

    「法と正義に対する根本的信頼J,今一つは Ichastityの固守」ーーとの矛盾を引き起こすもの

    ではないという弁明である O しかし,果たしてそこに矛盾はないのか...。その点については

    後述することにして,再度イザベラの「愛」に対する態度を確認しておくことにしたい。

    3. イザベラ:愛の無知

    Ignorance in love

    第五幕一場,マリアナの懇願によってアンジェロの弁護を買って出るイザベラであるが,果

    たしてそれが,マリアナの愛に共感して臨んだ行為であるのかどうかは疑わしい。既に触れた

    ように,第五幕のあの十行余りの引用文に象徴されているのは,イザベラが「正義と法」を信

    奉し I愛」に代表される,人間の感情に冷淡であることを自認するアンジエロに共通する側

    面を持っていることである O 但し,アンジエロの場合は,イザベラと遭遇することで,図らず

    も愛(情欲)の衝動に襲われ,人間としての弱き本性を己の中に見出すことになる O マリアナ

    との婚約は,その婚約解消の経緯から判断する限り, dowryに最大の関心があり,マリアナに

    対する愛は,精神的,肉体的双方の意味において,抗し難い力をもつものには至っていないと

    判断すべきであろう。従って,愛の衝動としてはイザベラを通して初めて体験したものと解し

    てよいことになる 18)。ただ,アンジエロの悲劇は Passionof Loveの力に抗し切れずイザベラ

    に対して chastity提供を強要する一方で,体面としての法の擁護者としての権威を保とうとし

    た(クローデイオの死刑執行を命じた)点である。

  • では,イザベラにはアンジエロのような愛の発見はあるのか。終幕開際の公爵との結婚の予

    感は,イザベラの「愛」の発見の示唆でもあるのか...答えは否である O

    「終わりよければ,すべてよし」であれ I尺には尺を」であれ,相手の外見(肉体)のみな

    らず,内面(精神)をも慈しむ愛が存在するかどうかは疑わしい問題であるが,イザベラはそ

    のいずれの愛も知らぬまま劇の幕はおそらく降りる。「尺には尺を」は他の幾組かの男女と共

    に,公爵とイザベラの結婚によって形の上では無事,喜劇として終了する運びとなってはいる O

    又,実際にこの作品を romanticcomedyとして演出する人々も存在する19)。しかし,公爵に

    とって,唐突なる求婚一一直接,間接的表現を含めて幾度かの求婚(第五幕一場, 379-383;

    488-491; 531-534) より他に,愛の感情を吐露する機会は皆無に近い。イザベラに至っては全

    くの無言である O 従って,公爵からの十分な働きかけもなく,他方イザベラの側の愛の自覚も

    なく,単に,第五幕の求婚の言葉と無言の受諾をもって「愛」の所在を確認するのは困難であ

    ろう o Norman Nathanが試みたように20) イザベラは劇の進行に沿うように精神的成長を遂げ,

    James Iが自著 BasiliconDoronで示した結婚観に適合する理想、の女性となって,公爵の妻に迎

    えられると解するのは単純に過ぎる見方であろう 21)。一一更に,公爵とイザベラが互いの

    “virtue"に魅かれ合ったという解釈も,それを裏付ける十分な根拠は,劇中,当事者の言葉に

    も,第三者の言葉にも見当らない22)。相愛であれ,一方的な愛であれ,公爵とイザベラ,二人

    の聞に「愛」を確認するのは難しいと言うよりほかない。

    4. イザベラ:一貫性の欠如

    一貫した愛の追及とその成就という点から考える限り I終わりよければ,すべてよし」の

    へレナは,一貫した性格と見ることができる O しかし,イザベラに関しては二重の意味で一貫

    性が否定されている O 一つは劇前半と後半の相違,変化である O 具体的には前述したように,

    第三幕一場の前半,牢獄における兄クローデイオ弾劾の場面を境に,それ以前と以後とでは全

    く対照的な性格を見せる点である。即ち,そこには I能動の人,自立した精神」と I受動の

    人,他者の意志への依存」の相違が見て取れる O そして今一つの相違,変化は,劇の冒頭,そ

    して中盤に至るまでにイザベラ自身の言葉に,意識的に或いは図らずして表れていた「正義と

    法j,I慈悲j,そして「貞節」に関する信念や価値観が最終幕に至って矛盾を帯びたものに変

    質している点である O

    イザベラは,第五幕一場,一見,正義と j去に照らしてクローデイオの過ちを罪とし,アン

    ジエロの潔白を弁明しているかのように見えても,それが法の命たる「法の精神」即ち I正

    義」の腐敗を見逃すことになるという事実を見過ごしている O もしも,アンジエロの腐敗した

    意図は u去を曲げてクローデイオの命と引換えにイザベラの chastityを要求し, しかも約束を破棄してクローデイオの処刑を指示)腐敗した行為と一致しないとするなら,第二幕二場,第

    二幕四場においてイザベラが強く求めた,真の正義への要求と矛盾する。あの時彼女は,正義

    を曲げることによって慈悲を求めはしなかったはずである。“lawfulmercy /Is nothing kin to foul

    redemtion" (II, 4, 112-113) と言ったあの時,つまり第二幕四場,アンジエロの中に正義の腐

    敗を嘆き、取り,自己の chastityと兄クローデイオの命の交換を拒んだあの時,イザベラは「真

    の mercyj と「偽りの mercyj との別を理解していたはずである O そうであるにも関わらず,

    第五幕一場では不正義,即ち,正義の腐敗を体現するアンジエロを弁護し,彼に慈悲を与える

    よう公爵に求めているのである。明らかにそれはイザベラの内的矛盾と言わねばなるまい。し

  • イザベラ:信念の人か,従順なる修道女か

    かも,その言葉を追うかぎり,イザベラ自身は自己の矛盾に気づく気配はないのである。

    一方,イザベラにとって法や正義の遵守に匹敵する価値を持つ 'chastityの堅持」という意

    図は,正義と法j,'慈悲」に関する信念に比して,より単純に百定し去られてしまう O なぜ、

    なら,公爵の求婚に対する無言の承諾がもはやイザベラの最も強く願ったはずの,世俗との

    訣別j,'世俗の愛の否定j,'神の愛に対する帰依j,'信仰と祈りの生活j,それらすべてを覆

    す結呆を暗示しているからである O こうして,愛を求め,愛を得たヘレナとは異なって,自ら

    を自らの選択によって裏切ってしまうイザベラは自己矛盾の結末を迎えることになると言わね

    ばなるまい。彼女は劇前半において,信念の人,自我の人として登場しながら,劇後半に至っ

    て,受動の人となり,終には,その,堅持していたはずの信念も価値も変質させてしまうので

    ある O そして,こうしたイザベラの内的矛盾と変質は,劇「尺には尺を」全体の包含している

    矛盾をより一層深めているかのようである O 又,イザベラの矛盾は,真の愛を得たと確信し,

    自信と勝利感に満たされるヘレナが手にしたのは,実は表面的な,偽りの愛であったという,

    あの類の矛盾(へレナ自身は未だ気付いてはいない)に比して,遥かに複雑で深刻さの深いも

    のである O

    結 び

    「終わりよければ,すべてよし」と「尺には尺を」は共に問題喜劇として扱われるばかりで

    なく,その制作年代,そして bed-trickという手法において近似しているため,両者の相違が

    議論の対象となることはあまりなかったかもしれない。しかし,一旦, bed耐 trickによる難題

    解決という共通性の覆いを取り払い,それぞ、れの作品のヒロインに目を転じるならば,意外で

    あり, しかも非常に興味深い彼女達の相違点が浮かび、上がってくる O しかも,我々の発見は三

    人の相違に留まらず,又,イザベラの人物像に対するより深い理解に留まらず,正義j ,法」

    「慈悲」といった,この作品の主題に関わる問題をめぐって,イザベラとは対立すると思われ

    ていたアンジエロとの類似性にまで及んで、いく O

    ヘレナとイザベラの聞の最も興味深い相違点は,もう一つの主題である「愛」に対する態度

    であろう O ヘレナにおける愛への希求はイザベラにあっては愛の拒絶となる O イザベラにとっ

    ての至上の価値は愛(世俗の愛)を否定し,神の愛に殉ずる意味での chastityである O 従って

    この世の愛を求めてやまぬヘレナともマリアナとも真っ向対立する。そして,このイサ、ベラの

    愛に対する否定的態度をもたらすものとしては chastity信奉と共に,法や正義に対する信頼を

    無視することはできないのである。そしてまさにこの点において,イザベラはアンジエロと基

    本的には一致した考え方を共有していると言わなければならない。アンジェロも又,法と正義

    を守ることを最重要事と考えるのみならず,イザベラと同様,愛の力には冷淡である。確かに

    彼は,イザベラとの出会いにより,愛への冷淡さを根底から揺り動かされはするものの,出発

    点においては「愛」という感情に翻弄される人々への共感は持たない人物として描かれている

    からである。

    第二幕三場の冒頭,兄の助命嘆願に際し,愛の罪を最も嫌悪すべき悪として,嘆願への深い

    践踏を見せるイザベラ。第三幕一場,死への恐怖故に,妹の chastity放棄を懇願するクローデ

    イオに向かつて怒りと軽蔑を放つイザベラ。更に,第五幕一場も終わりに近い場面において,

    アンジエロの裁きを正義とし,兄クローデイオの処刑を肯定するイザベラ。これら三つの場面

    と言葉を照合させていく中で浮かび上がってくるのは,法と正義j,'慈悲j,'愛への冷淡」

    をめぐるイザベラのアンジエロとの共通性であり,イザベラ自身の矛盾である O 第五幕一場の

  • イザベラは,明らかに,クローデイオの愛による罪への慈悲ある裁きを求め,正義という名の

    倣慢を告発したイザベラとは矛盾するものと言わねばなるまい。更に,劇終幕間際,公爵の求

    婚に対して沈黙し,受諾を予感させるイザベラの態度は,愛を拒絶し,神への愛のみを誓う

    chastityを是とした,劇序盤の選択を否定し去るものである O しかも,イザベラの結婚受諾は,

    イザベラとの出会いによって愛(情欲)の衝動に捉われ,激情の吐露を強いられたアンジエロ

    の場合とは異なる。イザベラには,既に見てきたように,愛の自覚も,吐露もないのであり,

    従って,拒むことを許さぬ愛の力を知ったが故に公爵の求婚を受け入れるとは,到底,判断で

    きかねるのである O

    こうしたイザベラの矛盾は,言うならば,イザベラを救い,クローデイオを救い,マリアナ

    を救うべく考案された bed-trickを,盲目的に受け入れたことを発端としてもたらされたもの

    と言うことができる O 自らが自らのために最も有効なる手段として発案し,遂行したヘレナの

    bed-trickは,イザベラの場合と違って,ヘレナには何ら内的変化を強いるようなことはな

    かった。「尺には尺を」においては,劇後半のイザベラの公爵に対する従順と依存は,彼の発

    案による bed-trick受容と共に始まったと言っても過言ではない。そして,劇中盤において能

    動から受動への変化が始まったまさにその時,果たして既に,終幕間近に露呈してくるイザベ

    ラの自己矛盾という結末を 暗示していたのであるかもしれない。

    「尺には尺を」が劇作品として失敗であるか否かを判じることは容易なことではない。しか

    し,女性人物の性格創造という観点から見るならば 少なからず注目に値する側面を持ってい

    る。シェイクスピアは,イザベラに, chastityという至上の価値を与え,正義去に対する信

    頼を己の言葉で説く雄弁の力をも与え,更に,その言葉と内的美徳によって(しかも,自らは

    意図せずして)男性を従えるという, sourceの女性達にはない力をも与えた。しかしその一

    方で,シェイクスピアは,前年の作品 r終わりよければ,すべてよし」のヒロイン,ヘレナ

    が「愛」追及の意図を貫いたのとは違って, chastityに関しでも,正義や法,慈悲に関しでも,

    自ずからの信じてきたものを自ら欺いてしまう女性として,イザ、ベラを描いた。イザベラは,

    シェイクスピア作品の女性人物の中では,自己矛盾を内在させる女性として稀有な存在であり,

    その点で,非常に興味深い人物創造となっていると言うことができるであろう O

    i主

    1) Roy W. Battenhouse,勺¥1ωsurefor Measure and Christian Doctrine of The AtonementぺPMLA61 (1946), 1029-59.

    2) Paul N. Siegel,“Measure for Measure: The Signijicance of the Title" ShakeゆeareQuarteの4(1953), 317-320

    3) Ronald Berman,“Shakespeare and the Law", Shakespeare Quarterly 18(1967), 317-320.

    4) Sarah C. Velz,“Man's Need And God's Plan in 'Mea.似開forMeasure' And Mark IV", Shakηteare Survey 25 (1972) 37-44

    5) David Lloyd Stevenson,‘'The Historical Dimension in 'Measure for Measure': The Role of James 1 in the

    PlayぺAppendixof The Achievement of Shakes.戸eare's'Measure for Mea.sure', Comell Univ. Press, 1966, 134-166, originally appeared as an essay in ELH, XXVI (1959), 188-208

    Jonathan Dollimore,“Transgression and surveillance in Measure for Measure", Political Shakespea陀, ed.

    Jonathan Dollimore, A1an Sinfield, Manchester Univ. Press, 72-87.

    Robert N. Watson,“False Immortality in Measure for Measure: Comic Means, Tragic Ends", Shake.ゆeareQμarter,か41(1990), 411-432.

    6) Anna Jameson, Shakespeare's Heroins一一Characteristicsof Women, Moral, Poetical, and Hi崎町。1,

    1889, AMS Press, second printed in New York, 1971.

    7) George Whetstone, Promos and Cassandra, 1578.

    -114

  • イザベラ:信念の人か,従順なる修道女か

    8) E. M. W. Tillyard, Shake.ゆeare'sProble例 Plays,Chatto & Windus, London, 1957, third impression

    9) Introduction of The Arden Shakespeare, Measure for Measure, reprinted in 1987, ed. ]. W. Lever 10) 二つの作品の制作年代に関しては, E. K. Chambersの推定年代を参照した。

    11) イザベラの,正義と慈悲に対する考えは第二幕二場におけるアンジエロとの対話の中に,又,第三

    幕一場の,クローデイオ弾劾の言葉の中に語られている O

    12) 第一幕二場において,クローデイオの口を通して伝えられるイザベラの性格に関して,特に彼の言

    葉の前半部分にある,“aprone and speechless dialectlSuch as move men" (1, 2, 173-174)という表現

    を根拠として,それが,イザベラの肉体的な美を伝えるものと解し,同時に,男性の性的欲求を促

    す美と考える批評家がいるが,その解釈は疑問である O クローデイオのこの言葉はむしろ,イザベ

    ラには I沈黙」によっても言葉」によっても他を説得する力が備わっていることを伝えるもの

    と理解すべきではないか。

    *肉体的美と解する批評家の例。

    Alexander Leggatt,“Substitution in Measure for Measure", Shakespeare Quarterly 39, 1988, 342-359

    “physical beauty"という表現を用いている。

    Roy W. Battenhouse, p 1046,“a supreme bewitching beauty"注1. を参照。

    *イザベラの「沈黙」の力に注目した演出の例。

    1950年, Peter Brookは,イザベラの“aprone and speechless dialect" (1, 2, 173)に注目し,第五幕

    一場のアンジ、エロ助命嘆願の場で,実際に公爵の前に膝折り,嘆願の言葉を発する前に,約三十秒

    間の沈黙(観客が「待つ」ことに耐え得る,最大限の時間の沈黙という指示であったらしい)を女

    優 Barbara]effordに指示し,その沈黙の持つ力によって訴えるよう演技指導を与えた。本 Penny

    Gay,“Measure for Measure:目 Sexand power in a patriarchal societyぺAsShe Likes It -Shakespeare's Un ruly Women, 1994, 120-142, ROUTLEDGE, London nd New York.

    13) イザベラが「貞節」に対してどのような考えを持っていたかを如実に語っているのは,第三幕一場,

    クローデイオとの対話である O

    14) 主たる sourceのーっと考えられている, Cinthioの散文作品の中ではクローデイオに相当する人物,

    Vicoは「弟」となっている O

    15) 二つの source,Cinthio及び Whetstoneの作品ではいずれも,弟(兄)の懇願に屈して, Epithiaと

    Cassandraの二人は deputyに身を任せてしまう。

    16) アンジエロの「正義と「慈悲」に関する考えが顕著に表れている筒所。

    第二幕二場, 37-41 第二幕二場, 91-100

    17) アンジ、エロの「法」と「罪」に関する考えを端的に表わす箇所。

    第二幕一場, 21-26.

    Ang. What's open made to justice,

    That justice seizes. What knows the laws

    That thieves do pass on thieves? ‘Tis ve巧Tpregnant,

    The jewel that we find, we stoop and take't,

    Because we see it; but what we do not see,

    We tread upon, and never think of it

    18) アンジェロとマリアナの婚約に関しては,ルネッサンス当時,現実に存夜していた二つの婚約形態

    のうち,当事者である男女の間に未だ肉体的交渉を介在させず,将来においての結婚の約束として

    の婚約 sponsalia per verda de futuroと考えるのが自然であろう。第四幕一場の bed-trickによっ

    て,アンジェロと結ばれたマリアナの悲願達成の喜びが至上のものと映るのは,この時までは未だ,

    彼女が「約束」による妻でしかなかったからこそであろう。一方,アンジエロとマリアナの間には,

    アンジエロによる婚約破棄以前に性的交渉があったものと考える批評家もイ了五する。 即ち,彼等の

    婚約とは, もう一つの形態一-sponsalia perverda de praesenti (= irregular marriage)を指すという解

    釈である O 当時この形態では,男女の間には既に肉体的交渉が存在することから,法的には認知さ

    れていないものの,事実上の結婚を意味するとして,一方的な婚約破棄は禁じられていたと言

  • Quarterly 14 (1963), 115-119.

    19) Romantic comedyとしての「尺には尺を」演出は, 1978年と 1983年の両年に試みられている。各々

    の演出家は, Barry Kyle, Adrian Nobleである O いずれも,英国の劇団, The Royal Shakespeare Com

    panyによる k演である o * Penny Gay,注目参照。20) Norman Nathan,“The Marriage of Duke Vincentio and Isabella", Shakespeare Quarterly 7, (1956), 43ー

    45.

    21) ]ames 1, Basilikon Doron, 1603

    22) 第三幕一場,牢獄にて兄クローデイオと話を終えて出て来た(命を得ょうとしてイザベラに chastity

    放棄を求めた兄を激しく非難して)イザベラに,一計を授けようと姿を現した公爵が,彼女に語る

    最初の言葉はイザベラの美佐讃美となってはいる O しかし,この劇全体を rornaticcornedyと判断す

    る根拠とすることはできまい。第一に,相対するイザベラには同様の,公爵の内的資質を評価,讃

    美する言葉は与えられていないのである O それよりもなにより,下記引用文から読み取れるのは,

    表面的には,イザベラの美徳讃美であっても,実は,アンジエロと何ら変わるところのない情欲,

    イザベラの内的美徳の呼び覚ました公爵の情欲を伝えているものではないであろうか。

    Duke. The hand that hath made you fair hath made you good. The goodness that is cheap in beau-

    ty makes beauty brief in goodness; but grace, being the soul of your complexion, shall

    keep the body of it ever fair. (III, 1, 179ー183)

    他の参考文献

    1) Eizabeth Marie Pope,“The Renaissance Background of Measure for Measure", Shakespeare Quarterly 2

    (1949), 66-82.

    2) Cli旺'ordLeech,“The‘Meaning' of Measure for Measure", Shakespea陀 Survり 3,(1950), 66ー73.

    3) Murry Krieger,“Measure for Measure and Elizabethan Comedy", PMLA 66 (1951), 775ー784.

    4) Nevil Coghill,“Comic Form in Measurefor Meadure", Shakespeare Survey 8 (1955), 17-26.

    5) Paul Yachnin,“The Politics of Theatrical Mirth: A Midsummer Night's Dream, A Mad World, 1¥⑫Master,

    and Measure for Measure", ShakeゆeareQuarterly 43 (1992), 51-66

    **テキストは TheArden Shakeゆea問 ,Measure for Measure, ed., ]. W. Lever, Methuen & Co. Ltd., rep., 1987. (first published in 1965)を用いた。尚,本文中の引用はすべてこのテキストからのものである。

    平成 7年9月27日受理

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