オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3)...

25
オペラの愉しみ(3) オペラの愉しみ(3) オペラの愉しみ(3) オペラの愉しみ(3) 2011・0 2011・0 2011・0 2011・08 9、1988年 9、1988年 9、1988年 9、1988年 メトロポリタン・オペラ メトロポリタン・オペラ メトロポリタン・オペラ メトロポリタン・オペラ公演 公演 公演 公演 -エンターティンメントの極 エンターティンメントの極 エンターティンメントの極 エンターティンメントの極 ニューヨークのメトロポリタン・オペラ(通称メト MET )は1975年に初来日 しているので13年ぶりの公演になる。ニューヨーク<MET>の豪華な陣容、魅惑の演 目としてジャック・オッフェンバックの「ホフマン物語」、モーツァルトの「フィガロ の結婚」、ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」を携えての来日であった。 何と言っても最大の目はプラシド・ドミンゴが出演する「ホフマン物語」であっ たが私は残念ながらチケットをに入れることは出来なかった。その代わりにドミン ゴとキャスリーン・バトルのジョイント・コンサートを聴くことが出来た。 当代ナンバーワンの人気と実力を兼ね備え、その後三大テノールの一人として20 11年の現在まで、長らくオペラ界に君臨しているプラシド・ドミンゴについては、 実際に聴いたこの後の来日した時の舞台の様子をもとにお話をするとして、今回、私 が聴いた演目を紹介しよう。 モーツァルト《フィガロの結婚》 モーツァルト《フィガロの結婚》 モーツァルト《フィガロの結婚》 モーツァルト《フィガロの結婚》 (1988年6月3日 東京文化会館) 揮 MET の芸術監督 ジェームズ・レヴァイン、演出:ジャン=ピエール・ポネル、 出演 フィガロ:ジョン・チーク、スザンナ:キャスリーン・バトル、ケルビーノ: スーザン・クイックマイヤー、伯爵夫人:キャロル・ヴァネス、アルマヴィ ーヴァ伯爵:トーマス・ハンプソン、他 レヴァインが得意のモーツァルトをり、絶賛をびているポネルの演出、そして 当時人気と実力でその名声を誇ったキャスリーン・バトルのスザンナ、この頃はまだ 新鋭だったキャロル・ヴァネスやハンプソンのキャストで、当時の MET の実力を示し たいという並々ならぬ意気込みを感じさせられた上演であった。 特にニッカウヰスキーの TV・CF 曲「オンブラ・マイ・フ」(ヘンデルのラルゴ)を 歌ってすっかり有名になったキャスリーン・バトルはモーツァルトを得意としていた だけにバトルがスザンナを演じる《フィガロの結婚》はフアン垂の演目であった。 実際の舞台も彼女の知性から生まれてくる素晴らしいコントロールの術と演者と しての性格描写のうまさは、モーツァルトがかくあれとの願いを込めて描いた通りの スザンナであった。第4幕で歌う「とうとう嬉しいときがきた」はまさに絶品で、こ

Transcript of オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3)...

Page 1: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

オペラの愉しみ(3)オペラの愉しみ(3)オペラの愉しみ(3)オペラの愉しみ(3)

2011・02011・02011・02011・08888

9、1988年9、1988年9、1988年9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演公演公演公演 ----エンターティンメントの極エンターティンメントの極エンターティンメントの極エンターティンメントの極

致致致致

ニューヨークのメトロポリタン・オペラ(通称メト MET )は1975年に初来日

しているので13年ぶりの公演になる。ニューヨーク<MET>の豪華な陣容、魅惑の演

目としてジャック・オッフェンバックの「ホフマン物語」、モーツァルトの「フィガロ

の結婚」、ヴェルディ「イル・トロヴァトーレ」を携えての来日であった。

何と言っても最大の注目はプラシド・ドミンゴが出演する「ホフマン物語」であっ

たが私は残念ながらチケットを手に入れることは出来なかった。その代わりにドミン

ゴとキャスリーン・バトルのジョイント・コンサートを聴くことが出来た。

当代ナンバーワンの人気と実力を兼ね備え、その後三大テノールの一人として20

11年の現在まで、長らくオペラ界に君臨しているプラシド・ドミンゴについては、

実際に聴いたこの後の来日した時の舞台の様子をもとにお話をするとして、今回、私

が聴いた演目を紹介しよう。

◇◇◇◇ モーツァルト《フィガロの結婚》モーツァルト《フィガロの結婚》モーツァルト《フィガロの結婚》モーツァルト《フィガロの結婚》

(1988年6月3日 東京文化会館)

指揮 MET の芸術監督 ジェームズ・レヴァイン、演出:ジャン=ピエール・ポネル、

出演 フィガロ:ジョン・チーク、スザンナ:キャスリーン・バトル、ケルビーノ:

スーザン・クイックマイヤー、伯爵夫人:キャロル・ヴァネス、アルマヴィ

ーヴァ伯爵:トーマス・ハンプソン、他

レヴァインが得意のモーツァルトを振り、絶賛を浴びているポネルの演出、そして

当時人気と実力でその名声を誇ったキャスリーン・バトルのスザンナ、この頃はまだ

新鋭だったキャロル・ヴァネスやハンプソンのキャストで、当時の MET の実力を示し

たいという並々ならぬ意気込みを感じさせられた上演であった。

特にニッカウヰスキーの TV・CF 曲「オンブラ・マイ・フ」(ヘンデルのラルゴ)を

歌ってすっかり有名になったキャスリーン・バトルはモーツァルトを得意としていた

だけにバトルがスザンナを演じる《フィガロの結婚》はフアン垂涎の演目であった。

実際の舞台も彼女の知性から生まれてくる素晴らしいコントロールの技術と演技者と

しての性格描写のうまさは、モーツァルトがかくあれとの願いを込めて描いた通りの

スザンナであった。第4幕で歌う「とうとう嬉しいときがきた」はまさに絶品で、こ

Page 2: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

れだけ美しく、しかも心を込めて歌われては、ただただ驚嘆するだけであった。

<<<<キャスリーン・バトルキャスリーン・バトルキャスリーン・バトルキャスリーン・バトル>>>>

アメリカというと何でもあのニューヨーク・ステーキのように巨大で大味だと思うよう

な人たちの偏見を打ち破るかのように現れたのが新しいスター、キャスリーン・バトルで

あった。彼女が初めて日本の CM に登場して、繊細なコントロールの中に深々とした感情

を込めて歌うのを聴いた時、大方の日本人はそれまで抱いていた偏見――巨大な体躯から

繰り出される大砲のような声――を捨てざるを得ない仕儀と相成ったのである。

キャスリーン・バトルはその輝かしいリリック・コロラトゥーラの声質によって有名で、

とりわけ当時は MET の芸術監督ジェームズ・レヴァインに気に入られ、宗教曲や歌曲、

オペラの上演・録音で共演を重ねてきた。力強い声ではないものの、《魔笛》のパミーナ

や《ニーベルングの指環》の小鳥役のような、清純可憐な女性像に特に適した声であっ

た。特に《フィガロの結婚》のスザンナ、《愛の妙薬》のアディーナなどを得意としている。

《ナクソス島のアリアドネ》のツエルビネッタ、《コシ・フアン・トウッティ》のデス

ピーナ、《アラベラ》のズデンカ、《ドン・ジョヴァンニ》のツェルリーナなどレパート

リーは幅広く、英語、ドイツ語、イタリア語、フランス語、スペイン語、ロシア語の歌

曲を歌うことが出来た。

ドミンゴとのジョイント・コンサートの印象はとにかく美しい声! 声量はそれほどで

ないが、透き通った声というのはこういう声だろうと思った。ヘンデルの「オンブラ・マ

イ・フ」はバトルによって歌われてからすっかり有名になり、多くの人が口ずさむように

なった。一方で、気難しく仕事相手にしにくいことでも有名で、声のイメージを覆すよう

な数々の武勇伝を残している。往年のディーヴァを連想させる気性の激しさと気位の高さ

に加え、むちゃくちゃな理由による度重なるドタキャンや職員の酷使によって、ついにメ

トロポリタン歌劇場と衝突、そのことが原因で MET から締め出しを食い、レヴァインな

どは、二度と共演を望まないと言って憚らないくらいに完全追放されてしまった。その後

の演奏活動では個人リサイタルが中心で、オペラ出演のうわさはきかない。

<<<<METMETMETMET のののの《《《《フィガロのフィガロのフィガロのフィガロの結婚結婚結婚結婚》>》>》>》>

ところで肝心の《フィガロの結婚》はどうであったろうか?

ある意味《フィガロの結婚》とはいうものの、このオペラは《スザンナの結婚》と

言ってもよいくらい、スザンナはほとんどステージ上に姿を見せ続け、八面六臂の大

活躍である。従ってスザンナはこのオペラの上演の決め手であるが、この役にバトル

を得た今回の上演はこれはとても幸運であったと思う。きびきびした動き、コミカル

な演技、何よりも彼女の明るく軽い声質は魅力的で大喝采を得たのは納得できた。

ポネルの演出には政治的あるいは社会的な匂いはほとんどなく、上品なコメディに

Page 3: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

仕立て上げていた。他の歌手たちも大健闘で、フィガロのジョン・チーク、ケルビー

ノのスーザン・クイックマイヤー、伯爵夫人のキャロル・ヴァネス、アルマヴィーヴ

ァ伯爵のトーマス・ハンプソンは歌唱、演技ともに MET の現在の実力を示す非常に均

整のとれたアンサンブルだった。レヴァイン指揮のオーケストラも軽快なモーツァル

トの音楽を奏でていた。

<トーマス・ハンプソンと PMF>

現在ではすっかり大御所になった伯爵役のトーマス・ハンプソンは、この頃は既に

その名を広く知られてはいたが、まだまだ新進気鋭のバリトンであった。

このあと、ハンプソンは1990年の PMF 第1回に参加し、来札している。この時

はアカデミーへの指導は行わず、真駒内の青少年会館ホールで個人リサイタルを開催

(6月27日)、テイルソン・トーマスのピアノ伴奏でマーラーの歌曲を歌っている。

ちなみにこの時のチケット代は 6,000 円。このことから判るようにハンプソンはオペ

ラのみならず、歌曲への、とりわけマーラーの歌曲への評価が高く、世界屈指のリー

ト歌手としてその評価を確固たるものにしている。

そして PMF2011には21年ぶりに PMF に帰ってきた。ファビオ・ルイジ指揮、

PMF オーケストラの演奏でお得意のマーラーの《亡き子をしのぶ歌》と《リュッケル

トの詩による歌》を歌っている。

筆者はこの時のリハーサルと本番を身近に体験することが出来た。本番の2日前、

まるでプロレスラー並みの巨躯でリハーサル会場の札幌コンサートホール kitara に初

登場したハンプソンは、指揮者のルイジ、PMF ファカルティとして指導に当たってい

た、かねてからの顔なじみの MET のコン・マスであるディヴィッド・チャンと握手、

しばらくマーラーの一番を客席で聴いていた。その後、「亡き子をしのぶ歌」と「リュ

ッケルトの詩による歌」のリハーサルに入った。MET の時とは違って、若々しい美声

で歌うのが魅力的という時期を過ぎたハンプソンだが、独特の円熟を示していて、と

りわけ現在のハンプソンによってマーラーの歌謡性がくっきりと聴こえてきた。ただ

し、バリトンの深々とした低音を期待するとびっくり、結構軽めの高い声の持ち主で、

その辺が理由で、好きな人と嫌いな人に真っ二つに分れるというのがこのバリトンの

定評だが、好きな人にはますますその魅力を深めていると感じられる筈である。私に

はオペラにおける感情のこもった声と演技力はとても魅力的に感じた。

◇◇◇◇ ヴェルディ《イル・トロヴァトーレ》ヴェルディ《イル・トロヴァトーレ》ヴェルディ《イル・トロヴァトーレ》ヴェルディ《イル・トロヴァトーレ》

(1988年6月5日 NHK ホール)

ジュリアス・ルデール指揮、配役はレオノーラ:アプリーレ・ミッロ、ルーナ伯爵:

シェリル・ミルンズ、マンリーコ:フランコ・ボニゾッリ、アズチェーナ:当初フィ

オレンツァ・コッソットの予定であったが病気のためエレナ・オブラスツォワに変更。

《 イ ル・ト ロ ヴ ァ ト ー レ 》は 、ヴ ェ ル デ ィ の 前 作 《リ ゴ レ ッ ト 》、ま た

次 作 《椿 姫 》と と も に 、 ヴ ェ ル デ ィ 中 期 の 傑 作 と し て 親 し ま れ て い る 。 こ

の オ ペ ラ は 、筋 が 複 雑 だ っ た り 、「 呪 い 」や「 復 讐 」な ど 暗 い イ メ ー ジ だ っ

た り し た の に も か か わ ら ず 、 初 演 の と き か ら 大 成 功 を 収 め た 。 ヴ ェ ル デ ィ

は 特 に ア ズ チ ェ ー ナ の 役 に 惚 れ 込 み 、 オ ペ ラ の タ イ ト ル に 彼 女 の 名 前 を 使

お う と 思 っ て い た と き も あ っ た そ う だ 。

確 か に 全 編 を 通 じ て 重 要 な 役 ど こ ろ を 演 じ 、 声 楽 的 に も 非 常 に 難 し く 、

こ の オ ペ ラ 全 体 の 成 功 が ア ズ チ ェ ー ナ を 演 じ る 歌 手 の 力 量 に か か っ て い る

と い っ て も 過 言 で は な い だ ろ う 。 そ し て イ タ リ ア ・ オ ペ ラ の 「 歌 」 の 醍 醐

Page 4: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

味 を 堪 能 す る の な ら 、 こ の 《イ ル ・ ト ロ ヴ ァ ト ー レ 》は最 適 か も し れ な い 。

歌 の 力 で 、 ぐ い ぐ い と 観 客 を ね じ 伏 せ る ・ ・ ・ そ ん な 力 業 を 体 験 で き る は

ず 。

4 人 の 主 要 な 登 場 人 物 を そ れ ぞ れ ソ プ ラ ノ 、メ ゾ・ソ プ ラ ノ 、テ ノ ー ル 、

バ リ ト ン の 四 声 が 受 け 持 ち 、 し た が っ て オ ペ ラ 全 体 の 成 功 は ど れ だ け の 力

量 の 歌 手 を 揃 え る こ と が 出 来 る か に か か っ て い る 。 ま た 、 合 唱 に も 誰 も が

知 っ て い る 有 名 な 「 ア ン ヴ ィ ル ・ コ ー ラ ス 」 と し て 親 し ま れ て い る 曲 や 、

男 声 6 部 合 唱 の 美 し い 「 ミ ゼ レ ー レ 」 が あ り 見 逃 せ な い 。

《 イ ル・ト ロ ヴ ァ ト ー レ 》は下記の登場人物にふさわしい実力のある歌手が

必要なのでそう頻繁に上演されるオペラではない。

そこでこの物語を詳しく説明しましょう。

【 登 場 人 物 】

レ オ ノ ー ラ ( S )

マ ン リ ー コ ( T )

ル ー ナ 伯 爵 ( B r )

ア ズ チ ェ ー ナ ( M s )

ほ か

= 領 主 の 夫 人 に 仕 え る 女 官

= 吟 遊 詩 人 ( ト ロ ヴ ァ ト ー レ )

= ア ル ゴ ン 地 方 の 貴 族

= ジ プ シ ー の 女

【 第 1 幕 】

時 は 15 世 紀 、舞 台 は ス ペ イ ン の ア ル ゴ ン 地 方 。こ の 地 の 貴 族 ル ー ナ 伯 爵

の 弟 は 、 赤 ん 坊 の 頃 と て も 病 弱 で し た 。 そ れ は あ る ジ プ シ ー の 老 婆 に よ る

呪 い の せ い だ と さ れ 、 こ の 老 婆 は 火 あ ぶ り の 刑 に 処 さ れ 殺 さ れ ま し た 。 し

か し 、 こ の と き ル ー ナ 伯 爵 の 弟 も い な く な り 、 処 刑 後 の 灰 の 中 か ら 、 幼 児

の 骨 が 発 見 さ れ て い ま し た 。

時 は 過 ぎ 、 ル ー ナ 伯 爵 は こ の 地 で 立 派 に 成 人 し 、 力 の あ る 貴 族 と な っ て

い ま し た 。そ し て 、領 主 の 夫 人 に 使 え て い た 女 官 レ オ ノ ー ラ に 恋 を し ま す 。

け れ ど 、 レ オ ノ ー ラ は 吟 遊 詩 人 ( ト ロ ヴ ァ ト ー レ ) の マ ン リ ー コ と 相 愛 の

関 係 に あ り ま し た 。 ル ー ナ 伯 爵 と マ ン リ ー コ は 対 立 し た の で す 。

【 第 2 幕 】

吟 遊 詩 人 マ ン リ ー コ は ジ プ シ ー の 女 ア ズ チ ェ ー ナ の 息 子 で し た 。 ア ズ チ

ェ ー ナ は 自 分 の 母 が ル ー ナ 伯 爵 家 に よ っ て 火 あ ぶ り に さ れ た こ と を 恨 ん で

い ま し た 。 処 刑 の 時 、 夢 中 で ル ー ナ 伯 爵 家 の 赤 子 を 奪 い 、 炎 の 中 に 投 げ 入

れ た も の の 、間 違 え て 自 分 の 子 供 を 投 げ 入 れ て し ま っ た と 語 っ て い ま し た 。

マ ン リ ー コ は 自 分 の 出 生 に 疑 問 を 持 ち 始 め ま す 。

Page 5: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

【 第 3 幕 】

あ る 日 、ア ズ チ ェ ー ナ は ル ー ナ 伯 爵 家 の 兵 士 に 捕 ら え ら れ ま す 。そ し て 、

あ の 火 あ ぶ り に さ れ た 老 婆 の 娘 で あ る こ と 、 ま た 、 マ ン リ ー コ の 母 で あ る

こ と を ル ー ナ 伯 爵 は 知 っ た の で す 。

一 方 、 母 が ル ー ナ 伯 爵 に 捕 ら え ら れ 処 刑 さ れ る と 聞 い た マ ン リ ー コ は 激

怒 し 、 仲 間 と 共 に 救 出 に 向 か い 、 ル ー ナ 伯 爵 家 と 戦 い ま し た 。

【 第 4 幕 】

マ ン リ ー コ は ル ー ナ 伯 爵 に 捕 ら え ら れ 、 母 ア ズ チ ェ ー ナ と 共 に 処 刑 さ れ

る こ と と な り ま し た 。 そ れ を 聞 い た レ オ ノ ー ラ は 、 マ ン リ ー コ の 命 を 救 う

よ う ル ー ナ 伯 爵 に 頼 み ま す 。 レ オ ノ ー ラ は 自 身 を ル ー ナ 伯 爵 に 捧 げ る 代 わ

り に マ ン リ ー コ を 助 け る と の 約 束 を 取 り 付 け 、 そ の 後 彼 女 は 秘 か に 毒 を あ

お り ま し た 。

マ ン リ ー コ は 助 か り ま し た が 、レ オ ノ ー ラ の 取 っ た 行 動 を 非 難 し ま し た 。

し か し 彼 女 の 体 に 毒 が ま わ り 、 彼 の 腕 の 中 で 倒 れ ま す 。 マ ン リ ー コ は こ の

時 す べ て を 知 っ て 嘆 き 悲 し む の で し た 。

ル ー ナ 伯 爵 は 騙 さ れ た こ と を 知 っ て 激 怒 し ま す 。 マ ン リ ー コ に 対 し 再 び

処 刑 の 命 令 を 出 し ま し た 。ア ズ チ ェ ー ナ が 止 め に 入 っ た も の の 間 に 合 わ ず 、

マ ン リ ー コ は 処 刑 さ れ ま す 。

そ の と き ア ズ チ ェ ー ナ は 、 ル ー ナ 伯 爵 に 向 か っ て 「 マ ン リ ー コ は お 前 の

弟 だ 。 ・ ・ ・ か た き を と り ま し た 、 母 さ ん ! 」 と 絶 叫 し た の で し た 。

数 々 の 名 ア リ ア が 目 白 押 し の こ の オ ペ ラ に は 、 レ オ ノ ー ラ の ア リ ア 「 恋 は

ば ら 色 の 翼 に 乗 っ て 」 、 ア ズ チ ェ ー ナ の ア リ ア 「 炎 は 燃 え て 」 、 ル ー ナ 伯

爵 の ア リ ア 「 君 は ほ ほ え み 」 な ど 聴 き ど こ ろ 満 載 だ が 、 な ん と い っ て も マ

ン リ ー コ の ア リ ア 「 見 よ 、 恐 ろ し い 炎 を 」 が 注 目 さ れ る で し ょ う 。

今回の上演は、この4人の力のある歌手が揃ったので実に見ごたえのあるオペラと

なった。レオノーラのアプリーレ・ミッロはまだ30歳にもならないのに現在の MET

が自信をもって送りだした“あたらしいディーヴァ”にふさわしい、リリックな澄み

きった美声で最高のレオノーラをみせてくれた。ルーナ伯爵のシェリル・ミルンズも

いまが旬のバリトンで、貫禄十分、フランコ・ボニゾッリのマンリーコは「 見 よ 、恐

ろ し い 炎 を 」を見事にハイ C でドラマティックに歌いきり、迫力のある歌声と演技で

観客を魅了した。

このテノールは他の演目で何回か実際の舞台を観たが、イタリア人らしく観客に乗

せられて興にのると信じ難いくらいの声の続く限りフィナーレの高音を張り上げよう

と試みるのが常であった。また観客の拍手に応えて、リサイタルならともかく、オペ

ラの中でも比較的ひんぱんにアンコールを歌ってくれた。その大向う受けを狙ったパ

フォーマンスは一部ではひんしゅくをかったが圧倒的な支持者もまた多かった。

特筆すべきは MET の合唱団で、細かいニュアンスを出すかと思えば勇壮な部分も迫

力があり文句が付けようのない出来であった。MET の合唱はこんなにレベルが高いと

は! 少し侮っていたのかもしれない。

ジュリアス・ルデールの指揮は手馴れた演奏で、歌手を盛り立てるようにサポート

する点で好評を得た。伝統的な演出で特に新鮮味はないが、捻じ曲げた解釈を押し付

けたものではなかった。

実は個人的に一番のお目当てはアズチェーナ役のフィオレンツァ・コッソットであ

ったが、病気のため欠場、代わりに歌ったのがオブラスツォワであったが、代役とは

いえ、彼女は既に人気・実力ともに確固たる地位を得たスター歌手であった。このレ

Page 6: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

ニングラード生まれのメッゾはアムネリス(アイーダ)、ダリラ(サムソンとダリラ)、

エボリ公女(ドン・カルロ)などドラマティックな役柄を得意とした現代最高のメッ

ゾ。芯のある輝かしく響く声とすばらしい演技力でスカラ座、ボリショイ劇場、MET な

どで国際的な活躍をしていた。今回も主役を食って余りあるほどの声の輝きと声量で

最大のインパクトで舞台を制覇してしまった。

華麗なイタリアのメッゾ、フィオレンツァ・コッソットについては後の来日公演に出

演した時に触れるとする。

< 閑話 >・・・フランコ・ボニゾッリ

イタリア生まれのテノール歌手。ボニゾッリの名を有名にしたのはヴェルディ『イル・

トロヴァトーレ』のマンリーコ役と、プッチーニ『トゥーランドット』のカラフ役で

あった。それぞれの役での聴かせどころであるアリア「見よ、恐ろしい炎を(Di quella

pira)」と「誰も寝てはならぬ(Nessun dorma)」でボニゾッリは、指揮者、オーケ

ストラ、合唱などすべてを無視し、声の続く限りフィナーレの高音を張り上げようと

試みるのが常であった。その大向う受けを狙ったパフォーマンスは音楽評論家や演出

家、あるいは端正な演奏を好む聴衆からは嫌悪されたが、圧倒的な支持者もまた多か

った。ボニゾッリはリサイタルのため数回日本を訪れており、上記アリアを中心に、

物見高い日本の聴衆を意識した彼特有のパフォーマンスで人気を得た。2003 年 10 月、

ウィーンにて死去、65 歳。多くのエピソードを残した。

• 1978 年、ウィーン国立歌劇場での『イル・トロヴァトーレ』公演を控えたリハーサ

ル中、ボニゾッリは同歌劇場の帝王、ヘルベルト・フォン・カラヤンと公然と衝突

し、マンリーコ役の小道具である剣をカラヤンに投げつける挙に出た。ボニゾッリ

が延ばそうとする高音をカラヤンが許さなかったのが直接の原因とされる。不幸な

ことにこれは観客を入れた公開リハーサルであったために騒動が公になり、ボニゾ

ッリは降板させられてプラシド・ドミンゴが代役に立った。

• バルセロナにおける『イル・トロヴァトーレ』での出来事。「見よ、恐ろしい炎を」

で例の如く(ヴェルディの楽譜には存在しない)ハイ C の高音を挿入しようとした

ボニゾッリだったが、声が割れてしまった。バルセロナの聴衆はそれでも彼の果敢

なチャレンジに喝采を送ったが、満足できないボニゾッリは幕間に舞台に現れ、無

伴奏でアリアを再演して「お詫び」をした。

<<<<メトロポリタンメトロポリタンメトロポリタンメトロポリタン歌劇場歌劇場歌劇場歌劇場>>>>

ここでメトロポリタン歌劇場、MET について少し触れてみよう。MET は英国ロイ

ヤルオペラ劇場、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座等とともに長らく世界4大

歌劇場の一つに数えられてきた名門歌劇場である。

ニューヨークのリンカーン・センター内にある世界的に著名な、米国で最も巨大

なオペラ劇場である。9月中旬より翌年4月中旬までの約28週間、週7回の公演

(日曜日を除き毎夜、土曜日は昼夜2回の公演)をこなす文字通り世界一忙しいオ

ペラ劇場である。

ロビーにはシャガールに委嘱して制作した2つの壁画が飾られ、劇場の内部も一層

の華やかさで、黄金と真紅で埋められた中で平土間から5階まで3800という大変

な座席数と195名の立ち見、合計3995名という世界最大の収容人数を誇る巨大

Page 7: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

オペラ劇場である。それに準じて舞台もすごい高さと広さをあわせ持ち、オーケスト

ラ・ピットの広さだけでも、上野・東京文化会館の1階の4分の1ぐらいはあるので

はと思われるぐらいである。高度に機械化された舞台装置全てを駆使することによ

り、メトロポリタン歌劇場が有する膨大なレパートリーから毎晩異なる演目を上演

することができるのである。

1883年の開場以来、主だった歴代指揮者も下記のようにそうそうたる大指揮

者が名を連ねている。

• グスタフ・マーラー (1908–1910) アルトゥーロ・トスカニーニ (1908–1915)

• トゥリオ・セラフィン (1924–1934) エーリヒ・ラインスドルフ (1938–1942)

• ジョージ・セル (1942–1946) フリッツ・ライナー (1949–1953)

• ディミトリ・ミトロプーロス (1954–1960)

• エーリヒ・ラインスドルフ (1957–1962)

• ラファエル・クーベリック (1973–1974) (音楽監督)

• ジェイムズ・レヴァイン (1973–現在) (芸術監督)

特にナチの台頭から第2次世界大戦へと激動の時代、ヒトラーによってヨーロッパ

を追われた大芸術家たちがアメリカに集まったため、指揮者で云えば、ブルーノ・

ワルター、フリッツ・ブッシュなどが MET でタクトを振った。またカルロス・クラ

イバーなど、現在では世界中の有名指揮者が全員、MET で指揮をした、あるいはし

ているといってよいであろう。

ただ、MET はオペラ劇場としてはヨーロッパのオペラ劇場と比べてかなり異質な存

在である。

一般的なオペラファンにとって MET は、世界的な指揮者と大物歌手を擁する豪華絢

爛な舞台、判りやすい保守的な、あるいはオーソドックスな演出、劇場の規模、設備

が豪華壮大なことなどが第一印象であろう。MET の基本は歌手本位、スター・シス

テムの牙城である。世界中の名だたる歌手が入れ替わり立ち代り出演する、オペラ

ファンにとっては夢の歌劇場なのである。

しかし、長くヨーロッパのオペラ劇場の上演に親しんだ者にとって何か不思議な

違和感が漂うのである。筆者は長い間その違和感はどこから来るのであろうかと考

え続けてきた。

MET のオペラは、先にも述べたが判りやすいし、文句なく面白いのである。そ

して何よりもその魅力は出演する歌手の豪華さであり、有名指揮者の競演である。

しかし、私どもがスタンダードとしてきたヨーロッパのオペラ劇場とは何かが違

う・・・という違和感。

例えばドイツなどに顕著にみられる、意欲的なあるいは先鋭的なオペラ劇場が試

みる、いわゆる“読み替え”が試みられることがないか、あるいは少ない(“読み

替え”演出が全て良い・・・という意味ではありません。念のため)。あるいは時

代の設定を変えて新しい意味づけを考えてみる、またはキャラクターの性格を少し

ひねってみる・・・などなど、ドイツ語圏の歌劇場では古典的な物語を現代的な問題

意識で読み替える「演出家主導の舞台制作」が主流となっている。

それに対して MET は、従来のオペラの概念を変えるような試みが殆どなされないの

である。徹底的にエンターティンメントの極致、即ちオペラの芸術性よりも娯楽性を

指向しているところからくる違和感であった。

Page 8: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

ドイツなどヨーロッパを代表する名門オペラ・ハウスは「オペラ自体は古い存在。

現代に生き返らせるために、現代の解釈で演出を行う」という考えから、古き作品を

演出で新鮮によみがえらせるようと、新たな演出様式を追求する姿勢が顕著に見られ

るのである。それは「芸術とは常に何かに挑戦すること」であるとして斬新な演劇的

演出の新たなスタイルを追い求めているからである。あるいはまた、20世紀以降の

新しい作品を積極的にとりあげるなど、現在のオペラ界が向かう方向を象徴的に示し

ている。

MET はヨーロッパの歌劇場と違い、国や地方自治体からの援助を殆ど受けずに自主的に

運営されている。年間 7,800 万ドル(88 年当時の日本円にして100億円以上)の支出を

どうしているのかというと、入場料、テレビ・ラジオの放映料とそして寄付で賄われてい

るのである。この寄付を年間千ドル以上している個人、財団、企業がパトロンといわれて

いる有力な支援者である。個人だけで約 3,000 人で 2,000 万ドル、財団・企業が 600 万ド

ル、そしてその数が年々増えているという。アメリカ人は寄付をする習慣が根づいている

とは云え、よくまぁこれだけの太っ腹がいるものだと驚かされる。ただ、パトロンになる

とそれなりの特典があるらしい。チケットの優先購入などは勿論だが、なによりファンに

はこたえられないのはドレスリハーサルや立ち稽古など舞台裏への招待や歌手との交流な

どがある。そして何よりの特典は MET のパトロンであるというステイタスであろう。た

だ最大のスポンサーは最大の批評家であり、時には理不尽な要求を押し付けてくる圧力団

体になりかねない。往々にしてパトロンは保守的であり、過激なものは好まないのは古今

東西、共通の真理である。従って MET の演目の選定、演出がそれらの意向を無視できる

筈もなく、どうしても常に無難でオーソドックスな上演にならざるを得ないという側面が

ある。また同じような理由から超一流の指揮者、歌手の競演が必然的に要求されるのであ

る。芸術性より徹底的な娯楽性を重んじなければならない結果であった。従って結果とし

て MET のオペラはエンターティメントとしては極上のものとなっていくのである。ヨー

ロッパのオペラ、特にドイツなどのオペラ劇場が先鋭的で過激な演出のオペラをしばしば

上演して世間を騒然とさせるのとは好対照である。

<<<<閑話閑話閑話閑話>>>>METMETMETMET のののの成成成成りりりり立立立立ちちちち

METMETMETMET のののの誕生誕生誕生誕生にはにはにはには一人一人一人一人のののの女性女性女性女性のののの存在存在存在存在があったがあったがあったがあった。。。。ウイリアム・ウイリアム・ウイリアム・ウイリアム・KKKK・ヴァンダービルト・ヴァンダービルト・ヴァンダービルト・ヴァンダービルト氏夫人氏夫人氏夫人氏夫人はははは怒怒怒怒

りりりり狂狂狂狂っていたっていたっていたっていた。。。。それがメトロポリタン・オペラのそれがメトロポリタン・オペラのそれがメトロポリタン・オペラのそれがメトロポリタン・オペラの始始始始まりでまりでまりでまりであったあったあったあった。。。。夫人夫人夫人夫人はははは1870187018701870年代後半年代後半年代後半年代後半にににに、、、、当当当当

時時時時のニューヨークのニューヨークのニューヨークのニューヨーク最高最高最高最高のオペラのオペラのオペラのオペラ公演集団公演集団公演集団公演集団でありでありでありであり、、、、最高最高最高最高のののの社交社交社交社交のののの場場場場であったであったであったであった「「「「アカデミー・オアカデミー・オアカデミー・オアカデミー・オ

ブ・ミュージックブ・ミュージックブ・ミュージックブ・ミュージック」」」」にににに桟敷席桟敷席桟敷席桟敷席をををを申申申申しししし込込込込んだがんだがんだがんだが、、、、アカデミーのアカデミーのアカデミーのアカデミーの理事会理事会理事会理事会からからからから拒絶拒絶拒絶拒絶されてしまったのされてしまったのされてしまったのされてしまったの

だだだだ。。。。アカデミーはオペアカデミーはオペアカデミーはオペアカデミーはオペララララ好好好好きがオペラをきがオペラをきがオペラをきがオペラを鑑賞鑑賞鑑賞鑑賞するするするする場場場場というよりはというよりはというよりはというよりは社交社交社交社交のののの場場場場としてとしてとしてとして、、、、桟敷席桟敷席桟敷席桟敷席はははは

着飾着飾着飾着飾ったったったった女性女性女性女性たちがロングドレスやたちがロングドレスやたちがロングドレスやたちがロングドレスや宝石宝石宝石宝石をををを競競競競いいいい合合合合っていたっていたっていたっていた。。。。

NYNYNYNY のののの最上流階級最上流階級最上流階級最上流階級にににに属属属属するオペラ・ハウスするオペラ・ハウスするオペラ・ハウスするオペラ・ハウス「「「「アカデミー・オブ・ミュージックアカデミー・オブ・ミュージックアカデミー・オブ・ミュージックアカデミー・オブ・ミュージック」」」」のののの管理者管理者管理者管理者たちたちたちたち

はははは、、、、南北戦争南北戦争南北戦争南北戦争でででで財財財財をををを築築築築いたいたいたいたヴァンダービルトヴァンダービルトヴァンダービルトヴァンダービルト家家家家、、、、モルガンモルガンモルガンモルガン家家家家、、、、アスターアスターアスターアスター家家家家などなどなどなど、、、、鉄道鉄道鉄道鉄道やややや海運業海運業海運業海運業

などでひとなどでひとなどでひとなどでひと財産財産財産財産をををを成成成成したしたしたしたにわかにわかにわかにわか新興成金新興成金新興成金新興成金のののの人人人人々々々々をををを軽蔑軽蔑軽蔑軽蔑しししし、、、、そのそのそのその入会入会入会入会をををを拒否拒否拒否拒否したのだしたのだしたのだしたのだ。。。。

財産財産財産財産がががが二億二億二億二億ドルといわれたドルといわれたドルといわれたドルといわれた夫人夫人夫人夫人にはにはにはには、、、、このこのこのこの決定決定決定決定はははは全全全全くくくく許許許許せなかったせなかったせなかったせなかった。。。。アカデミーのアカデミーのアカデミーのアカデミーの桟敷桟敷桟敷桟敷

席席席席====十八十八十八十八しかないしかないしかないしかない====をををを所有所有所有所有することはすることはすることはすることは、、、、ニューヨークニューヨークニューヨークニューヨーク市市市市のののの社交界社交界社交界社交界のののの最高位最高位最高位最高位をををを極極極極めることをめることをめることをめることを

意味意味意味意味したしたしたしたからであるからであるからであるからである。。。。

19191919世紀後半世紀後半世紀後半世紀後半にににに NYNYNYNY はははは新興億万長者新興億万長者新興億万長者新興億万長者をををを輩出輩出輩出輩出したがしたがしたがしたが、、、、これらのこれらのこれらのこれらの人人人人たちはそれにふさわしいたちはそれにふさわしいたちはそれにふさわしいたちはそれにふさわしい社社社社

会的会的会的会的なななな地位地位地位地位をををを欲欲欲欲したしたしたした。。。。新新新新しいエリートたちはしいエリートたちはしいエリートたちはしいエリートたちは、、、、金金金金でででで克服克服克服克服できないできないできないできない障害障害障害障害などないなどないなどないなどない、、、、とととと信信信信じていじていじていじてい

たたたた。。。。彼彼彼彼らはそのらはそのらはそのらはその屈辱屈辱屈辱屈辱にににに対対対対してしてしてして、、、、アカデミーのアカデミーのアカデミーのアカデミーの理事会理事会理事会理事会がががが拒否拒否拒否拒否をするのならをするのならをするのならをするのなら、、、、自分自分自分自分たちでオペラ・たちでオペラ・たちでオペラ・たちでオペラ・

ハウスをハウスをハウスをハウスを建建建建てるてるてるてる事事事事でででで問題問題問題問題をををを解決解決解決解決すればよいのであったすればよいのであったすればよいのであったすればよいのであった。。。。

このこのこのこの新新新新しいオペラ・ハウスにはしいオペラ・ハウスにはしいオペラ・ハウスにはしいオペラ・ハウスには、、、、アカデミーによってアカデミーによってアカデミーによってアカデミーによって鼻先鼻先鼻先鼻先であしらわれたであしらわれたであしらわれたであしらわれた人人人人々々々々のためにのためにのためにのために真真真真

新新新新しいしいしいしい桟敷席桟敷席桟敷席桟敷席がががが設置設置設置設置されることになったされることになったされることになったされることになった。。。。1880188018801880年年年年、、、、一連一連一連一連のののの新興財閥新興財閥新興財閥新興財閥のののの出資出資出資出資によりによりによりにより三十九番三十九番三十九番三十九番

Page 9: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

通通通通りとブロードウェりとブロードウェりとブロードウェりとブロードウェイのイのイのイの角角角角のののの土地土地土地土地にににに、、、、最初最初最初最初からからからから舞台舞台舞台舞台をををを囲囲囲囲むようにむようにむようにむように桟敷桟敷桟敷桟敷のののの層層層層をををを設設設設けたメトロポけたメトロポけたメトロポけたメトロポ

リタンリタンリタンリタン歌劇場歌劇場歌劇場歌劇場がががが誕生誕生誕生誕生しししし、、、、グノーグノーグノーグノー《《《《ファウストファウストファウストファウスト》》》》でででで開幕開幕開幕開幕したのでしたのでしたのでしたのであったあったあったあった。。。。

そのそのそのその後後後後、、、、幾多幾多幾多幾多のののの変遷変遷変遷変遷をををを経経経経てててて、、、、1966196619661966年年年年、、、、現在現在現在現在のリンカーン・センターにのリンカーン・センターにのリンカーン・センターにのリンカーン・センターに新新新新しいしいしいしい歌劇場歌劇場歌劇場歌劇場がががが建設建設建設建設

されされされされるまでのるまでのるまでのるまでの 83838383 年間年間年間年間、、、、現在現在現在現在ではではではでは「「「「オールド・メトオールド・メトオールド・メトオールド・メト」」」」とととと呼呼呼呼ばれるばれるばれるばれる劇場劇場劇場劇場でででで、、、、数知数知数知数知れないれないれないれない歴史歴史歴史歴史にににに残残残残るるるる

オペラがオペラがオペラがオペラが上演上演上演上演されたのされたのされたのされたのであるであるであるである。。。。

<<<<METMETMETMET のののの音楽監督音楽監督音楽監督音楽監督 レヴァインについてレヴァインについてレヴァインについてレヴァインについて>>>>

戦後の世代を代表するアメリカ人の音楽家はご存知 PMF の創設者でもあるレナー

ド・バーンスタインであろう。ナチス・ドイツから逃れてきた亡命の音楽家たちがアメリ

カの音楽界を席巻していた時、彼はアメリカ生まれのアメリカ育ち、戦後に現れたアメリ

カの星であった。その彼が長老となってしまった1990年代にアメリカを代表する指揮

者となったのはジェームズ・レヴァインであった。

レヴァインはまさに“彗星のよう”に現れた。シンシナティに生まれ、ジュリアードを

出た秀才で、ピアノを弾かせても並外れた腕前をもっていたが指揮はなおさらうまかった。

クリーヴランドでジョージ・セルのアシスタントなどを務めていたが、1971年に MET

に招かれて《トスカ》を振ったのが認められて、1973年にわずか30歳で MET の

首席指揮者になり、その2年後には音楽監督になってしまった。その後芸術監督とな

って以来、MET の顔としてアメリカ音楽界に君臨している。

音楽的にはレヴァインはオール・ラウンド・プレイヤーであり、バロックから現代

の尖鋭な音楽まで何でもこなし、のびのびと躍動するヴェルディから、しっとりとし

たプッチーニの愛の歌まで、天衣無縫の流麗なモーツァルトから重厚なワーグナーま

で、どんな時期のどんな音楽にでも彼の柔軟な感受性は即応してしまうのである。

ただ、私見であるが、このなんでもこなすオール・ラウンド・プレイヤーであるこ

とが一時期、特にまだ彼が若くして MET の音楽監督になった時、彼の評価を著しく貶

めた要因でもあった。何でも及第点をとるが、しかし逆にこれぞという極上のものが

ない、というかなり手厳しい批評がなされた時期があった。だが、既に述べた MET の

運営上の特徴、歴史的な経過を見たとき、逆にそれが求められる資質であり、運命的

な結婚であったのであろう。何よりも多くのパトロンに支持され、賞賛されることが

必然であったからである。

現在では幅広いレパートリーを取り上げながら、MET のオーケストラを完全に掌中にお

さめ、演出のフランコ・ゼッフィレルリやポネルと組んでオペラを演じるとき、それは史

上最高の様相を帯びるまでになった。

Page 10: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

10、1988年10、1988年10、1988年10、1988年 ミラノ・スカラ座公演ミラノ・スカラ座公演ミラノ・スカラ座公演ミラノ・スカラ座公演 ---- スカラ座の奇蹟スカラ座の奇蹟スカラ座の奇蹟スカラ座の奇蹟 クライバー、クライバー、クライバー、クライバー、

ムーティ、マゼールのムーティ、マゼールのムーティ、マゼールのムーティ、マゼールの三三三三巨匠巨匠巨匠巨匠豪華豪華豪華豪華そろそろそろそろい踏みい踏みい踏みい踏み。。。。

ミラノ・スカラ座は世界に誇る名門中の名門オペラ劇場である。その名門オペラ・

ハウスの引越し公演とはいえ、まさか一つの公演にカルロス・クライバー、リッカル

ド・ムーティ、そしてロリン・マゼールという三巨匠がそろい踏みするなどというこ

とは誰が予想しえたであろう。まさに空前絶後の出来事であった。

指揮者陣の豪華さのみならず、用意された演目、演出の内容、歌手陣の充実ぶりな

ど、どれをとってもまさにスカラ座だけがなしうる奇蹟と呼ぶにふさわしい最上の出

来事であった。

200年余にわたって世界のオペラ界の最高峰に燦然と輝く歴史と伝統を誇るミラ

ノ・スカラ座の日本公演。1981年の初めての日本公演から7年ぶりの来日であっ

た。特に今回は指揮者、歌手陣において前回を上回るスケールで、桁外れの豪華な顔

ぶれがそろった

今回の演し物は、スカラ座を代表するイタリア・オペラの最高のプロダクションが

選ばれているだけでなく、そのスケールは恐らくいままでの数多くの外来オペラのそ

れをはるかに超えたもので、今後もこの規模を超える引越し公演はあり得ないであろ

うといわれた。

スカラ座から約550人、日本側で参加する外人エキストラやスタッフが約250

人、合わせて総勢800人を超えるキャスト・スタッフ、そして11トントラック1

20台分の今までで最大規模の舞台装置など、想像をはるかに超える大掛かりな公演

であった。

◇◇◇◇ カルロス・クライバー指揮カルロス・クライバー指揮カルロス・クライバー指揮カルロス・クライバー指揮 プッチーニプッチーニプッチーニプッチーニ 歌劇歌劇歌劇歌劇《《《《ラ・ボエラ・ボエラ・ボエラ・ボエームームームーム 》》》》4幕4幕4幕4幕

(1988年9月20日 東京文化会館)

Page 11: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

指揮者にカルロス・クライバー、演出・美術がフランコ・ゼッフィレルリという

超豪華版の布陣。

そして配役がミミにミレルラ・フレーニ、ロドルフォにペーター・ドヴォルスキー、

マルチェッロがジョナサン・サマーズ、ムゼッタにバーバラ・ダニエルというこれ

以上はないという歌手陣がそろった。クライバーとフレーニの組み合わせ、これを

夢の饗宴といわずして何といおう。

期待を裏切らない、いやそれをはるかに上回るまれにみる名演だった。スカラ座

の威厳に満ちた誇りと自信の裏付けによって選ばれた上演であり、終生忘れがたい

ものとなるであろう幸運に感謝するのみであった。

フレーニのミミは初めから終わりまで、天下一品のミミだった。何が良かったか、

ひとつひとつ数え上げるのも無駄な気がする、それほど役柄にぴったりのミミだっ

た。

フレーニの声の第一印象は“何と温かみのある声だろう”だった。劇的な強い声

と柔らかいニュアンスの美しい声、その大きな表情の中にミミという女性像が描か

れる。あれだけドラマティックな表現ができる強い声を持ちながら情感あふれる歌

声をもち、おのずと声の表情で物語を表現できる・・・これが不世出のソプラノと

いわれる所以かと納得した。声の質、演技者としてのキャリアーなどあらゆる点で

絶頂期といってよい時期のフレーニに出会えたのは幸せの一語に尽きた。

ドヴォルスキーのロドルフォは最初の「冷たい手を」が安定せず、絶好調とは思

えぬ出だしだったが、進むにつれて尻上がりにどんどん良くなり、特にフォルテは

輝かしく期待を裏切らない歌いぶりだった。ムゼッタのバーバラ・ダニエル、マル

チェッロのジョナサン・サマーズ等々みな役柄相応の健闘ぶりだった。特にムゼッ

タは大好評であった。

<<<<カルロス・クライバーカルロス・クライバーカルロス・クライバーカルロス・クライバー>>>>

そしてこの公演を記念碑的名演とした最大の功労者はやはり指揮者のカルロス・

クライバーであろう。名手スカラ座のオーケストラを自由自在に操り、凡庸な公演

によくみられる“歌の伴奏”などとはほど遠い、フレーニ級の名歌手の揃った舞台

にもう一人の稀有な歌手が加わったような音楽をきかせた。

何よりもすごいのはオーケストラが見事に物語を奏でているにもかかわらず、そ

れでいて、少しも歌にかぶさったり覆ったりして邪魔をしないことである。むしろ

パステル画のように、精妙で、しかも微妙な色彩をふんだんに交えながら、かたや

必要となるとルノワールにも劣らない極彩色で音の劇を描き出す。まさに管弦楽に

よる音の魔術といってよい演奏であった。結果としてそれがプッチーニの音楽に魂

を吹き込む演奏になりきっていた。名指揮者といわれる人はこういう想像を超える

瞬間を作り上げるのだと感嘆するのみであった。

第 4 幕でムゼッタが病気のミミをロドルフォの屋根裏部屋に連れてくる。そして

ミミをベッドに寝かせるが、その時ミミが半身をベッドから起こして室内を見渡し、

か細い声で“こんにちは、マルッチェッロ・・・”と歌いだしたらもう涙腺がゆる

みだした。

Page 12: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

クライバーの《ボエーム》で味わったあの瞬間 - ロドルフォがミミの死に気づ

き、“ミミ、ミミ”と慟哭する中、幕切れの最後の数小節に込められたクライバーの

注意深く、繊細なドラマを作り上げたあの音の“表情”がいまだに忘れられない。

このまさに神がかりの演奏は、たとえクライバーといえどもそうたびたび達成でき

る高みのものかどうか。輝きと鮮烈と・・・・私には日本のオペラ上演史を塗り変え

る渾身の上演と思えるのであった。

クライバーについては、この後の1994年のウィーン国立歌劇場公演《ばらの騎

士》でもその演奏を体験しているのでその時に詳しく触れるとして、別稿ドクター・

アルモンデの熱烈オペラ入門 第2回 ~オペラは男と女のホレタ、ハレタの物語~

R・シュトラウス《ばらの騎士》 でもクライバーの演奏について触れているのでご一

読いただけると大変うれしい。

一方、注目のゼッフィレルリの演出は、すでにビデオなどでなじみのものであっ

たが、奇をてらわない常識的なものだが、それだけによくこなれていて、全ての点

で完成した高さに達していた。有名な第 2 幕のカフェ・モミュスの場面は意表をつ

く 2 階建ての舞台に 250名を超える合唱団を載せて、大勢の人物を動かすさまは見

事であった。

この上演後、既に20数年たっているが、今なお終演後の30分を超える長いカ

ーテンコール、クライバーとフレーニに対する賞賛の拍手、その名を叫び続けるフ

アンの声、そして稀有な体験をいとおしむように何時までもその場を立ち去りがた

い多数の観客、今でもそれらをはっきりと思い浮かべることが出来る。

少し視点を変えるが、PMF2010 で芸術監督のファビオ・ルイジが演奏会形式の《ボ

エーム》をとりあげたが、その理由をこう述べている。

“プッチーニのオペラの中でも最もポピュラーだが最も演奏の難しいオペラ。そし

てそれほどレベルが高く、複雑で大きなオペラ”だから取り上げる、のだと。

当初、筆者はこの意味がよく理解できなかった。しかし、よく考えてみると《ボ

エーム》には英雄も皇帝も、そして王女さまなどの特別な女性も登場しない。また

高邁な思想や英雄的行動も描かれてはいない。登場するのはごく普通の市井の貧し

い若者たちである。本来なら一番ドラマになりにくい登場人物であり、特別なスト

ーリーではない。このオペラに描かれているのは青春の爽やかで、偽りのない、誰

もがもつ純粋で若い日々が舞台上に描かれているだけである。それゆえにそれをド

ラマとして仕立て上げる困難さを知り尽くしているだけに、それがルイジをして“難

しい”と言わしめた理由であろう。

更にルイジは、「さまざまな要素が融合したオペラを演奏することは、アカデミー

生らの成長に必ず役に立つ。将来オーケストラで活躍するにしてもオペラの経験は

必要である。オペラはオーケストラの楽曲と違って、複雑に入り組んでいる。歌と

オーケストラ、舞台、ストーリーなど、いろいろなものが融合して作り上げていく

オペラをぜひ若い音楽家に経験して欲しい・・」と述べている。

<<<<閑話閑話閑話閑話>>>>ドミ・モンデードミ・モンデードミ・モンデードミ・モンデーヌヌヌヌ

ヒロイン・ミミの人物像については通常はつつましく生きるお針子として描かれ

るが、演出家によっては、ヴェルディ「椿姫」のヴィオレッタのようにお金持ちの

囲い者として生きる女性として描く場合がある。ムゼッタもおなじくアルチンドー

ロのような老紳士に貢がせる女性であり、ミミもロドルフオと別れたあとは同じよ

Page 13: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

うな生き方をしていたようにセリフの中に出てくる。

1830年ごろのパリにもこういった女性がたくさんいて、「ドミ・モンデーヌ」

の名で呼ばれていた。日本では高級娼婦などと訳されている。

最近の演出では、例えばドイツのベルリン・コーミッシェオーパーの1991年

の来日公演「ラ・ボエーム」ではミミも立派なドミ・モンデーヌであることを示す

ために、ロドルフオの部屋へ入るときに、わざとミミはフっとロウソクの火を消し

ます。つまり自らの意思でロドルフオに接近したという風に描かれていた(演出は

鬼才ハリー・クプファー)。しかし、プッチーニは娼婦まがいのミミに何という美し

いアリアを与えたことだろう。ミミの登場のアリア、通称「私の名はミミ」の

わたしはひとりぼっち

白い、小さなお部屋で暮らしています

屋根と空をながめながら

でも、雪がとけて春がくると

最初の太陽はわたしのもの

四月の最初のキスがわたしのものなのよ

ここは何度聴いても泣いてしまう。「うた」で泣かせるなんてプッチーニは何とい

う才能の持ち主だろうと思いながら・・・。この美しいアリアの歌い手を、毒々し

い娼婦まがいのように「演出」するなら、それは演出の方が間違っている。仮にミ

ミが現実に娼婦まがいであっても、オペラ的真実の中では絶対に清純でなければな

らないのである・・・と思う。

ミミの抒情詩的な清純さに比べて、第2幕のムゼッタのワルツは何と挑戦的で扇

情的であろうか。二人は対照的に生き、対照的な恋をする。そのミミが第4幕の死

の床で、マルチェッロに「よく聞いてちょうだい。ムゼッタは本当にいい人よ」と

ささやきかけるから、またポロポロと泣いてしまうのだ。

<<<<ミレッラ・フレーニというミレッラ・フレーニというミレッラ・フレーニというミレッラ・フレーニという歌手歌手歌手歌手>>>>

ミレッラ・フレーニについては、当代最高のプリマドンナとしてその名を挙げるこ

とに異議のある人はいないであろう。この人がいなかったらオペラの歴史は変わって

いたに違いない、とさえ云われているフレーニは、歌手活動60年を超えてなお第一

線を保ち続けている。心に残る録音やステージからみえてくるのは、フレーニの恵ま

れた天性に、常に高みを目指す努力と挑戦だった。

1963年にスカラ座で《ボエーム》をうたって大成功をおさめる前からフレーニ

の国際的な活動は始まっていて、1960年にはグラインドボーン音楽祭で《ドン・

Page 14: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

ジョヴァンニ》のツェルリーナを、さらに1962年にはコヴェント・ガーデン王立

歌劇場で《ファルスタッフ》のナンネッタをうたっている。その頃のフレーニは《フ

ィガロの結婚》のスザンナ、《カルメン》のミカエラ、《椿姫》のヴィオレッタといっ

たあたりの役柄を中心にしていた。

63年1月にゼッフィレッリ新演出、カラヤン指揮の《ボエーム》のミミに抜擢さ

れて大成功を収め、世界的な名声を獲得した。その後スカラ座を代表するソプラノと

して活躍した後、ヨーロッパ各地の歌劇場でうたい、メトロポリタン歌劇場にも進出

する。

フレーニのすごいのは年齢とともに避けられない声の変化に見事に対応し、少しも

声の鮮度を失うことなく若々しい美声を維持していることである。むやみにレパート

リーを広げず、自らの基本を見失わず、声のテクニックと音楽表現の成長に合わせて、

進化していく姿は他の歌手に多くの影響と強い示唆を与えている。それゆえ70歳を

すぎてなお唄うフレーニの姿は、神々しいまでの美しさに満ちている。

<<<<閑話閑話閑話閑話>>>>モデナモデナモデナモデナ生生生生まれ・・・あのパヴァロッティとまれ・・・あのパヴァロッティとまれ・・・あのパヴァロッティとまれ・・・あのパヴァロッティと

ミレッラ・フレーニは1935年イタリアのモデナに生まれた。モデナといえば、

そう今世紀最大の、あの偉大なテノール、ルチアーノ・パヴァロッティもフレーニ

より半月ほど遅れて、同じ町のモデナに生まれている。世界的な名歌手が二人も同

年に同じ町で生まれるなど、奇跡に近い滅多にない偶然であろう。しかも二人の母

親が同じタバコ工場で働いていたため、あのすばらしい声は同じ乳母から授乳され

たせいだという伝説が生まれた。この伝説が正しいかどうかは不明だが二人が幼馴

染であったのは事実である。

<<<<閑話閑話閑話閑話>>>> レオンカヴァルロのレオンカヴァルロのレオンカヴァルロのレオンカヴァルロの歌劇歌劇歌劇歌劇「「「「ラ・ラ・ラ・ラ・ボエームボエームボエームボエーム」」」」

現在ではプッチーニの「ラ・ボエーム」が有名であるが、実は最初にオペラ化を考

えたのは「道化師」で有名なレオンカヴァルロである。自分が台本を書くので作曲を

しないかとプッチーニを誘ったが、プッチーニは冷たく断った。仕方なくレオンカヴ

ァルロは自分で作曲を開始したが、いつの間にか冷たく断ったはずのプッチーニが先

に作曲・初演をしてしまった。このため、レオンカヴァルロは激怒し、その後二人は

二度と口をきかなかったという。レオンカヴァルロの「ラ・ボエーム」はリサイタル

などで、ごくたまに、その中のアリアが単独で取り上げられることがあるが、今では

全曲が実際に舞台で上演されたという話は寡聞にして聴かない。貴重な録音としてフ

ェニーチェ歌劇でのアルバムがあるが、このアルバムを聴いた友人いわく、“プッチー

ニの作品と聞き比べてみて、実力の差は歴然。メロディ作りの才覚は全く感じられず、

全体的にも散漫。”という散々な評価を下している。

◇ ロリン・マゼールロリン・マゼールロリン・マゼールロリン・マゼール指揮指揮指揮指揮

プッチーニプッチーニプッチーニプッチーニ 歌劇歌劇歌劇歌劇 《《《《 トゥーランドットトゥーランドットトゥーランドットトゥーランドット 》》》》3幕3幕3幕3幕

(1988年9月21日 NHK ホール)

Page 15: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

演出・装置:フランコ・ゼッフィレルリ、指揮:ロリン・マゼールという組み合わせ

で、音楽以前にその豪華な衣裳、舞台装置にまずは圧倒された。今まで体験したこと

のないきらびやかな絢爛豪華な衣裳と舞台美術で、しかも舞台に載せた合唱の人数の

多さなど、いままでのオペラの概念を打ち破る圧倒的な迫力とスケールであった。幕

があがると同時にその豪華絢爛な、息をのむ舞台の美しさには観客からどよめきがお

こったほどである。

出演は、トゥーランドットにゲーナ・デミトローヴァ、カラフにニコラ・マルティ

ヌッチ、リューにダニエラ・デッシー、ティムールにポール・プリシュカという文句

なしの豪華キャスト。

《トゥーランドット》は、ここ数年は第 3 幕冒頭でカラフが歌うテノールの名アリア

「誰も寝てはならぬ」ですっかり有名になったが、プッチーニの第 10 作目、つまり遺

作である。未完のまま遺されたが未完の部分は指揮者アルトゥーロ・トスカニーニの

意見でプッチーニの後輩作曲家フランコ・アルファーノに託され、プッチーニの遺し

たスケッチをもとに最終幕の愛の二重唱とフィナーレを仕上げた。初演は 1926 年、ま

さにこのミラノ・スカラ座でトスカニーニが指揮した。

伝説の時代の中国を舞台にしたこのオペラは、求婚者に 3 つの謎を出し、解けぬと

首をはねる氷のような姫君トゥーランドットが、謎を解いた異国の王子カラフによっ

て初めて愛を知るという物語。

《蝶々夫人》の日本や《西部の娘》のアメリカのように、プッチーニが得意にした

異国趣味の幻想的な題材に、喜劇的な役回りをする 3 大臣(ピン、ポン、パン)、愛す

るカラフのために死を選ぶリュウが象徴する叙情悲劇的な要素も加えるなど、最後の

作品にふさわしいグランド・オペラ風に仕上げられた壮麗な作品である。合唱もプッ

チーニのオペラの中では最も多く、なおかつ非常に効果的に使われている。

このオペラの上演で特に重要なのは、プッチーニがそれまでのイタリア・オペラに

はなかった強靭な声を要求したトゥーランドットを誰が歌うかだろう。かつてはワー

グナーのイゾルデやブリュンヒルデを歌ったビルギット・ニルソンやエヴァ・マルト

ンのようなドラマティック・ソプラノが多いが、今回のトゥーランドットを歌ったゲ

ーナ・デミトローヴァもこの役で絶賛を浴びている。

圧倒的な声量と美声の両立という稀有な素質に加え、女優としてのテンペラメント

と華のある舞台姿、まさに適役であった。

カラフ役のマルティヌッチはこの役を十八番にしているだけに「誰も寝てはならぬ」

をはじめ、最後まで自信に溢れた堂々たる歌唱であった。ダニエラ・デッシーは今が

旬の歌手で大健闘、野に咲く花のような可憐なリューを歌いきって拍手喝采を浴びて

いた。ティムール、皇帝、ピン・パン・ポンのそれぞれ安定した歌唱で脇を固め、イ

Page 16: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

タリアの、いや世界の名門歌劇場の実力を十分に発揮した。

さて、肝心のマゼールの指揮であるが、非常に雄渾で名手スカラ座オーケストラを

存分にドライブさせ、特に金管の馬力を大いに発揮させる一方で、これが天才指揮者

たるところであろうか、歌手のフレージングにも細かに配慮、あらゆる場面でプッチ

ーニの大河のごとき旋律美に合致するものであった。美しいところは美しく、そして

激しいところは激しく、絶妙のタイミングで演奏していく。特に全体の構築性につい

ては言葉を失うほど見事であった。

繰り返しになるが、感嘆すべきはフランコ・ゼッフィレルリの演出・装置で、その

舞台美術、衣裳の豪華さと美しさ、そして舞台上の合唱その他の人数の多さである。

それは幕が上がると同時にどっと感嘆のどよめきと拍手が沸き上がるほど見事なもの

でスカラ座ならではのぜいたくであった。そして重要な役柄を担った合唱の素晴らし

さは言うまでもなかった。

<ロリン・マゼール>

1930年生、指揮者、ヴァオリニスト、作曲家。アメリカ人の両親のもと、フラ

ンスで生まれたが教育はアメリカで受ける。神童と呼ばれ1939年、9歳の時にハ

リウッドでレオポルド・ストコフスキーとの共演でロサンジェルス・フイルを指揮し

てデビューした。11歳で NBC シンフォニー、ニューヨークフイルなどを指揮した。

1960年バイロイト・フェスティバルに最年少かつアメリカ人として初めて「ロー

エングリン」を指揮してデビューする。1963年にはザルツブルグ音楽祭にデビュ

ー。その後ベルリン・オペラハウスの芸術監督を務めたあと、ウィーン国立歌劇場の

総監督など歴任、世界中の主だった歌劇場やオーケストラに出演する。2008年に

北朝鮮でニューヨークフイルの公演を指揮して話題をさらった。ある意味“時代の風

雲児”であった。

◇◇◇◇リッカルド・ムーティリッカルド・ムーティリッカルド・ムーティリッカルド・ムーティ指揮指揮指揮指揮ヴェルディヴェルディヴェルディヴェルディ作曲作曲作曲作曲《《《《 歌劇歌劇歌劇歌劇 ナブッコナブッコナブッコナブッコ 》》》》4部4部4部4部

(1988年9月7日 NHK ホール)

今回のスカラ座の引越し公演のオープニングにふさわしくスカラ座が、そしてムー

ティが満を持した、輝きと鮮烈とを伴った迫力の開幕であった。

1986年よりスカラ座の音楽監督を務めるリッカルド・ムーティの指揮、演出を

ロベルト・デ・シモーネの組み合わせであるが、これも音楽以前に登場人物の衣裳と

舞台美術の素晴らしさに度肝を抜かれた。幕が上がると観客からオォーという感嘆の

声があがったほどである。そしてスカラ座の定評のある圧倒的な合唱の素晴らしさに

酔いしれた一夜でもあった。

ヴェルディ3作目のオペラである《ナブッコ》は、旧約聖書に現れるバビロンの王

ナブコドノザルの悲劇である。旧約聖書では、シリアを破ってハムラビ王以来の大君

主と崇められながら、晩年には傲慢と暴政のために神の怒りに触れて奇病にとりつか

れて世を去ったとある。

この大作のタイトルロールのナブッコ(ナブコドノザル)は紀元前6世紀に実在し

た古代バビロニアの王。絶大な権力を持つバビロニアの王だが、ソロモンの神殿を破

壊した後、雷に打たれて狂気に襲われる。ナブッコが、正気に戻り、ユダヤの民を解

放するまでを描いたこのオペラを、著名なバリトン、レナート・ブルゾンがこのタイ

トルロールを特筆すべき名唱、名演で好演。ドラマティックな役で、激しい性格と改

心が歌われる。他に主要人物として、イズマエーレ(テノール)はイエルサレム王の

甥で、バビロニアの王女フェネーナ(ソプラノ)と愛し合っている。アビガイルレ(ソ

Page 17: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

プラノ)は、王の娘として育てられたが、実は奴隷の娘で、権力欲に燃え、王冠を奪

うだけの実行力を持った残酷でたくましい女性。このオペラで最も際立った人物で、

音楽的にも最重要な役柄で強力なソプラノが求められる。

レナート・ブルゾンをはじめそれぞれ好演であったが、とにかくすごかったのはブル

ゾン。ナブッコになりきっての熱演であった。ポール・プリシュカのザッカーリアも

重要な役回りを風格をもって適任。

このオペラの観どころ、聴きどころでは、まず序曲。オペラの中の主題や主要な

旋律をつないだ序曲だが堂々とした規模の大きい曲で、ヴェルディ初期の代表的管弦

楽曲としてしばしば単独で演奏される。そして全編で重要な役割を果たすのが合唱で

ある。第1部「イエルサレム」の開幕の合唱にはじまり、いたるところでドラマの威

力を示す。最大の聴きどころは第3部「予言」の第2場ユーフラテス川畔、ここで鎖

に繋がれ捕虜となったユダヤ人たちによって歌われるのが、ヴェルディの代表的合唱

曲となった「ゆけ、わが思いよ、金色の翼に乗って」の大合唱が望郷の念とともに響

き渡る。熱狂した観客のアンコールを願う長い拍手もかなわず、ムーティは拍手の続

く中、音楽を続行した。本来ならいつまでも拍手が鳴りやまないので、アンコールが

されてもおかしくない状況であったが、来日前に同じくスカラ座でムーティがこの《ナ

ブッコ》を上演したとき、鳴り止まぬ拍手に応え、この「ゆけ、わが思いよ、金色の

翼に乗って」が珍しくくりかえしうたわれた。その時のムーティの感想が“やはりア

ンコールはすべきではなかった”というコメントであった。演奏が途切れ、ドラマが

切れてしまったという反省であった。そのようないきさつもあって日本でのアンコー

ルは実現しなかった。

オーケストラもムーティの棒で絶好調、もともとその技量については定評のあるオ

ケではあるが、アンサンブルのよさといい、奏者の腕の確かさといい、さすがトップ

クラスのオーケストラとあらためてその実力を知らしめた。

<閑話>「ゆけ、わが想いよ、金色の翼に乗って」

合唱をやっている方なら一度はうたったことがあるか、うたわないまでもこの合唱

曲についてはよく話題に上るであろう。恐らくオペラの合唱曲としては最高傑作であ

ろう。

第3幕第2場、ユーフラテス河畔で囚われたヘブライ人たちが祖国への想いを歌っ

た合唱「ゆけ、わが想いよ、金色の翼に乗って」は、その歌詞に書かれた人々の思い

は、当時のオーストリア帝国の圧政下にあったイタリア北部の人々の思いと一致し、

Page 18: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

統一運動のシンボル、そして「第二国歌」と言われるまでイタリアの人々に愛唱され

た。

実際に正規の国歌とする提案も数度にわたって行われたともいう。1901 年 1 月 27 日

ヴェルディが 87 歳で長逝した際、彼の遺志により葬儀では一切の音楽演奏が禁じられ

たが、それでもその棺が運ばれる早朝、ミラノの沿道に参集した群衆は自然とこの「行

け、我が想いよ」を歌ったという。その 1 か月後、彼と妻ジュゼッピーナの遺骸が彼ら

の建てた音楽家のための養老院「憩いの家」Casa di Riposo に改葬される際には、800 人の

合唱隊および 30 万人にも及ぶ群衆が改めて「行け、我が想いよ」を歌ってこの偉大な

作曲家夫妻を偲んだ。指揮をとったのは若き日のアルトゥーロ・トスカニーニであっ

た。空襲による破壊(1943 年)から再建なったスカラ座の再開記念コンサートが 1946

年 5 月 11 日、やはりトスカニーニのタクトで挙行されたとき、やはり「行け、我が想

いよ」は当然のようにそのプログラムの中にあった。

近年では 2006 年 2 月 26 日、トリノオリンピックの閉会式でもこの合唱が用いられ

ていた。

合唱合唱合唱合唱のののの概要概要概要概要はははは、、、、第第第第 3333 幕幕幕幕のユーフラテスユーフラテスユーフラテスユーフラテス川川川川(現在のイラクの中心を流れる大きな川)

のののの岸辺岸辺岸辺岸辺のののの場面場面場面場面で、鎖鎖鎖鎖につながれたイスラエルのにつながれたイスラエルのにつながれたイスラエルのにつながれたイスラエルの民民民民によっによっによっによってててて歌歌歌歌われるわれるわれるわれる。。。。最初最初最初最初のののの前奏前奏前奏前奏は、

鎖を引きずる音や川辺の鳥の鳴き声、イスラエルの民の嘆きや思いを馳せる様子など、

風景風景風景風景やややや心心心心のののの動動動動きをイメージさせるようなメロディとなっているきをイメージさせるようなメロディとなっているきをイメージさせるようなメロディとなっているきをイメージさせるようなメロディとなっている。。。。このように、前奏で

周りの雰囲気作りを始めた後に、静かに合唱が始まってゆく。

合合合合唱唱唱唱のののの歌詞歌詞歌詞歌詞はははは前半前半前半前半はははは望郷望郷望郷望郷のののの念念念念、、、、後半後半後半後半はははは神神神神へのへのへのへの祈祈祈祈りがりがりがりが主体主体主体主体でででで、、、、前半部分前半部分前半部分前半部分がががが、、、、自分自分自分自分たちたちたちたち

のののの思思思思いをいをいをいを遠遠遠遠くくくく離離離離れたイスラエルとそのれたイスラエルとそのれたイスラエルとそのれたイスラエルとその都都都都エルサレムにエルサレムにエルサレムにエルサレムに馳馳馳馳せるせるせるせる様子様子様子様子、後半部分後半部分後半部分後半部分がががが、「、「、「、「預言預言預言預言

者者者者のののの竪琴竪琴竪琴竪琴」」」」にににに自分自分自分自分たちのたちのたちのたちの境遇境遇境遇境遇とととと神神神神へのへのへのへの祈祈祈祈りをりをりをりを託託託託すすすす気持気持気持気持ちをちをちをちを歌歌歌歌っているっているっているっている。。。。

<リッカルド・ムーティ>

筆者は PMF2007年に首席指揮者としてムーティが札幌にやってくるという新聞

発表があったとき一瞬声を失った。あの超大物指揮者・ムーティが PMF にやってくる

などということは想像さえもしていなかったからである。思わずオペラ仲間に電話を

しまくったほどである。

リッカルド・ムーティについては、今更その詳細を述べる必要がないほど、オペラ

やオーケストラの演奏において幾多の名演を遺しているが、すでにオペラ指揮者の頂

点へとその高みへ上り詰め、特にスカラ座においてはその力が如実に発揮された感が

ある。特にヴェルディの作品におけるそのエネルギーは完全に巨匠としての頂点を極

Page 19: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

め、極めて音楽的に重要な位置をしめている。

2007年に PMF で首席指揮者としてアカデミー生を指導している様子を、当時の

“聴講”制度(現在はオープンリハーサル制度)を利用して連日、札幌芸術の森アー

トホールでつぶさに見聞することが出来た。ムーティと PMF オーケストラはヴェルデ

ィの歌劇《運命の力》序曲とシューベルト《交響曲第8番ハ長調<ザ・グレイト>》

など3曲を演奏。そのリハーサルと本番を4日間、毎日、目の当たりに出来る幸せな

時間を得られたのは、この指揮者を敬愛する筆者にとってはかけがえのない体験であ

った。芸術の森の練習所・アートホールに姿を現すと場内に凛とした空気が張り詰め、

あの厳しい風貌のように練習は寸分の妥協もしない厳しいものであった。しかし休憩

時間にみせる表情は一転、なごやかで若きアカデミー生と一緒に写真を撮ったり、質

問に丁寧に答えていた。PMF オーケストラの心の響きを引き出したムーティであるが、

アカデミー生にとってはこの巨匠との貴重な時間は特別な経験になったであろう。当

然のごとく、私にとってこの年の演奏は PMF の歴史上まれにみる“名演”として記憶

に残った。珍しくアンコールにヨーゼフ・シュトラウスの「天体の音楽」が奏でられ、

これも本当に美しく心に残る佳品であった。

今はスカラ座を去ったが、時間がたてばたつほど彼がいた時代の偉大さを思い知ら

される存在である。今でも何を振っても尋常ならざる個性を発揮、熱気を放射、特に

ヴェルディに生気を与えるその手腕は際立っている。

◇ リッカルド・ムーティリッカルド・ムーティリッカルド・ムーティリッカルド・ムーティ指揮指揮指揮指揮

ベルリーニベルリーニベルリーニベルリーニ 歌劇《歌劇《歌劇《歌劇《カプレーティとモンテッキカプレーティとモンテッキカプレーティとモンテッキカプレーティとモンテッキ》》》》2幕2幕2幕2幕

(1988年9月8日 東京文化会館)

ベルリーニはドニゼッティと並ぶ「ベル・カント・オペラ」の作家として知られ、

生涯に11のオペラを作曲した。

このオペラの物語は全体的にはシェークスピアの「ロメオとジュリエット」と考え

ればいいが、ロメオがモンテッキ家の当主だったり、終幕でジュリエッタがロメオの

後を追うのではなく気を失うだけだったりと、シェークスピアとは少し違うところが

ある。しかし、大筋はシェークスピアと同じと考えると、我々はこの悲恋物語を戯曲

で、バレエで、映画で、そしてベルリーニ以外の音楽で、何度も何度も体験してきた

ことになる。であればベルリーニはこの物語を2幕のオペラでどのように表現してく

れるのだろうか? このオペラへの興味はまずそこから始まるといってよい。

今回のスカラ座の公演の出しものの中で、「うた」の美しさを一番素直に追求してい

るのはこのオペラであろう。ドラマの進行や、それを盛り上げるための演出や舞台美

術の工夫などよりも、ただただ「うた」の美しさに酔いなさい、というのがこのオペ

ラの「正しい」観かたであろう。そしてこれは、イタリア・オペラというものの神髄

をみせつけることになるのである。

整然と無駄のない文章のような音楽、歌うべきところは歌いながら、簡潔さを忘れ

ず、それがかえって心を打つ。息をのむ終幕のすばらしさが強烈だった。

主な配役は、ロメオに大いに期待したアグネス・バルツァであったが、残念ながら

私が聴いたときはデロレス・ツイエグラー、ジュリエッタもお目当てのレッラ・クベ

ルリではなくルチーア・アリベルティであった(アリベルティは予想外の大健闘、後

に椿姫を演じるほどのソプラノに成長した)。他に、後にポスト・三大テノールの一人

とされたヴィンチェンツォ・ラ・スコーラ、そしてベテランのポール・プリシュカな

ど。

Page 20: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

11、1988年11、1988年11、1988年11、1988年 ミュンヘンミュンヘンミュンヘンミュンヘン バイエルン国立歌劇場公演バイエルン国立歌劇場公演バイエルン国立歌劇場公演バイエルン国立歌劇場公演 ----

モーツァルト、ワーグナー、そしてシュトラウスの魅モーツァルト、ワーグナー、そしてシュトラウスの魅モーツァルト、ワーグナー、そしてシュトラウスの魅モーツァルト、ワーグナー、そしてシュトラウスの魅力力力力

バイエルン国立歌劇場は、昔からドイツでも一流の歌劇場としてその名を広く知ら

れていたし、特にそのモーツァルト、ワーグナー、シュトラウスの諸作品を上演する

際の極めつけとも言われる質の高さと伝統に裏打ちされたゆるぎない自信は定評のあ

るところであった。ヨーロッパでも最も長い伝統と歴史を有するこの歌劇場の197

4年以来、14年ぶりの再来日公演であった。その卓越した豪華さと質の高さを持ち

合わせた公演として携えてきた演目は、作曲者ワーグナー立会いのもとでこの歌劇場

で初演された《ニュルンベルクのマイスタージンガー》、これが日本初演となったR・

シュトラウスの傑作《アラベラ》、それにモーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》と《コ

シ・ファン・トゥッテ》の4作品であった。またバイエルン国立歌劇場管弦楽団と同

歌劇場合唱団によるベートーヴェンの《第九交響曲》と《荘厳ミサ曲》の特別演奏会

が開催された。いずれも世界屈指の、望みうる最高のキャストでの上演ということで

大いに期待された公演であった。

これらの全ての作品を指揮したのは同歌劇場音楽総監督のウォルフガング・サヴァ

リッシュ。くしくもミュンヘン生まれで、シンフォニーとオペラの指揮者として既に

名声を得、輝かしい成功を収めていた。日本でもNHK交響楽団の名誉指揮者の座に

あり、多くのフアンに親しまれていた。

私は残念ながら《コシ・フアン・トゥッテ》は日程の都合で聞き逃したが、一番期

待したのは《マイスタージンガー》と初めて聴く《アラベラ》であった。

<<<<ミュンヘン・オペラのミュンヘン・オペラのミュンヘン・オペラのミュンヘン・オペラの魅力魅力魅力魅力とととと特徴特徴特徴特徴>>>>

ここで今回の演目とミュンヘンの関係について少し考えてみよう。

・ ミュンヘンとワーグナー:ミュンヘンはご存知バイエルン王国の首都として、19

世紀中頃まで中部ヨーロッパで重要な都市であり、文化的にも大きな役割を担って

いた。1864年にワーグナーがかのバイエルン国王ルードヴィヒ二世に請われて

ミュンヘンに移り住み、このバイエルン歌劇場と深いかかわりを持つようになった。

《トリスタンとイゾルデ》と《ニュルンベルグのマイスタージンガー》の世界初演

はこの劇場で1868年に行われたし、《リング》の『ラインの黄金』と『ワルキュ

ーレ』も、このチクルス全体を完成させた後にバイロイトで一挙上演したいという

Page 21: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

作曲者自身の意思に反して、ルードヴィヒ二世の強引な希望で1869年、70年

にやはりミュンヘンで初演された。

・ ミュンヘンと R・シュトラウス:R・シュトラウスがミュンヘンで生まれた生粋の

バイエルン人であることはよく知られている。しかし、ミュンヘンという街はかな

り保守的な体質をもっており、シュトラウスも一時期ミュンヘンの劇場に指揮者と

して身をおいたこともあったが、劇場の官僚性、保守性にはほとほと愛想をつかし

た様子が伺える。そのためもあってR・シュトラウスはドイツではむしろミュンヘ

ン以外の土地の劇場、例えばドレスデン、ベルリン、そしてウィーンなどのオペラ

とより緊密な関係を保った。そのためかミュンヘンで初演された R・シュトラウス

のオペラ作品は意外と少ない。この作曲家の意識の中では自分の才能に見合った正

当な評価を自分の生まれ故郷から受けていないという思いがあったのだろう。

・ ミュンヘンとモーツァルト:シュトラウスが敬愛していたモーツァルトもミュンヘ

ンとはかなり深い関係がある。初期のオペラ《イドメネオ》はミュンヘンの宮廷の

ために書かれ、1781年に初演されている。モーツァルトはそれをきっかけとし

てミュンヘンの宮廷に召抱えられることを秘かに期待していたようであるが、その

希望は残念ながら叶えられなかった。

そのようないきさつもあって、ワーグナー、R・シュトラウス、モーツァルトの作品

を大切に扱っていくというのがこの劇場が古くから採っているレパートリー組み立て

の基本的姿勢である。

サヴァリッシュが1971年から音楽監督に就任、82年から国立オペラ劇場監督

の地位にあるが、この間に劇場の近代化が大きく進められ、現在、バイエルン国立歌

劇場は劇場の建物や舞台機構だけでなく、ソフト面からみても、ドイツで最も優れた

歌手を揃えており、ウィーン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、メトロポリタン歌劇場

などと並んで、世界のオペラ界のトップクラスに位置することは間違いない。年間を

通じての演目の選び方も伝統と革新の中道をいく・・・ということはとりもなおさず、

ふんだんにお金のかかった贅沢な舞台を見せてくれるオペラ劇場であるということで

ある。

◇◇◇◇ R・ワーグナーR・ワーグナーR・ワーグナーR・ワーグナー 楽劇楽劇楽劇楽劇《《《《ニュルンベルクのマイスタージンガーニュルンベルクのマイスタージンガーニュルンベルクのマイスタージンガーニュルンベルクのマイスタージンガー》》》》 全3幕全3幕全3幕全3幕

((((1988年11月23日 NHK ホール)

Page 22: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》については「オペラの愉しみ(2)」

7章 1987年ベルリン国立歌劇場公演 《ニュルンベルクのマイスタージンガー》

についての拙文があるのでそちらを参考にしていただくとして、今回はやはり期待は

サヴァリッシュの指揮とベルント・ヴァイクルのザックス、クルト・モルのポーグナ

ー、ルネ・コロのワルター、ペーター・シュライヤーのダーヴィッド、ルチア・ポッ

プのエヴァ、ヘルマン・プライのベックメッサーなどの豪華歌手陣の出演であった。

ハンス・ザックス役はこの当時、ベルント・ヴァイクルの独壇場の感さえあった。

ドイツ系バリトンにとって最高峰に位置する役柄だが、彼の場合、流麗なフレージン

グ、美声、それに馬力が揃っていて苛酷なワーグナーの長丁場にもへこたれることが

ない。 それにしてもバリトンの分野はミュンヘンにおいてはいたって人材豊富であ

る。さすがにオペラには出なくなったがディートリッヒ・フイッシャー=ディースカ

ウをはじめ、ヘルマン・プライ(今回のベックメッサーはドタバタの三枚目ではなく、

生真面目ゆえに不器用、という人物像になっていた)、その他に今回は来日しないがヴ

ォルフガング・ブレンデルは生粋のバイエルン人でこのハウスの第一バリトンである。

後の機会に彼のザックスを聴く機会があったがやはりすばらしいバリトンであった。

《アラベラ》に出演しているトーマス・アレンはモーツァルトの作品にもかかせぬ人

材であり、私が一押しのベテランのテオ・アダムは人間味のある歌唱で絶品。その他

にアラン・タイトスも成長株として期待大であった。

<<<<ミュンヘンのミュンヘンのミュンヘンのミュンヘンの《マイスタージンガーマイスタージンガーマイスタージンガーマイスタージンガー》>

ワーグナーがこの作品で表現しようとしたのはおそらく次のようなものであろう。第

一には芸術における俗物性を排除しようとしたこと、第二には規律ある芸術を肯定し

ていること、即ち規則を重んじる保守派と自由な進歩派との対立は、両者の融合によ

って克服されねばならないこと。第三にはドイツ精神を高揚すること、第 4 にはザッ

クスの賢明な態度に現れているように、「諦念」(あきらめ)の思想である。特にこの

当時のワーグナーにとって「諦念」は人妻マチルデ・ヴェーゼンドンクとの恋愛の必

然的な結果であった。

北方のベルリンが「民主的・世界市民的」であるのに対して、ミュンヘンは「文化保

守的」性格を持ち続けていたが、その性格がこれらの《「マイスタージンガー》のもつ

要素を的確に表現できる風土をもっているのであろう。

◇◇◇◇ R・シュトラウスR・シュトラウスR・シュトラウスR・シュトラウス 歌劇歌劇歌劇歌劇《《《《アラベラアラベラアラベラアラベラ》》》》 全3幕全3幕全3幕全3幕

((((1988年11月24日 東京文化会館))

出演は、没落貴族の美しい令嬢アラベラ(S)にアンナ・トモワ=シントウ、その妹

ズデンカ(S)にジュリー・カウフマン、アラベラに求婚するいなか出の青年マンドリ

カ(Br)にトーマス・アレン、熱烈にアラベラを愛している大尉マッテォ(T)にペー

ター・ザイフェルトという申し分ない布陣であった。

指揮は勿論ウォルフガング・サヴァリッシュ、演出ペーター・ボヴェ。

サヴァリッシュはシュトラウスを知り尽くしているだけにさすがに隅々まで、心憎い

ほどのシュトラウス節を響かせていたし、階段と空間作りに、色彩と照明の妙なる調

和で、たおやかにドラマの美しい枠組みを作った各幕ごとの美しい舞台も見ごたえが

あった。そして音楽はこれらの枠組みの中で 20 世紀の両大戦間のモダニズムのなかで

沈んでいく退廃ウィーン社会を描いていった。

登場人物をみるとこのオペラのタイトルロールはアラベラであるが、この作品では

Page 23: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

妹役で<ズボン役>のズデンカの位置が重要であることがわかる。その点ではジュリ

ー・カウフマンは大健闘で存在感が十分あった。あえて言えば終幕で男装から女性衣

裳に着替えたとき、あっと驚嘆するような女性への変貌があればもっと良かった。ア

ラベラはベテランのアンナ・トモワ・シントウだから安心してみていられたが、この

日はいまひとつ調子が出ず、立派な歌唱ではあるが、アラベラという人間の心の奥ま

で聴き手を引き込んでくれないもどかしさを残した。周辺の役柄は大貢献であった。

特筆すべきは父親であるヴァルトナー伯爵役のアルフレート・クーンで堂々とした歌

と小心を隠せない役柄の軽妙な味、歌唱面ではマンドリカ役のトーマス・アレンがい

かにも田舎出の朴訥とした、しかも誠実な味をしっかり出していたし、マッテォのペ

ーター・ザイフェルトも対等に渡り合っていた。

主役も脇を固める歌手も一定以上のレベルの歌手が揃わないとこのオペラの面白さ

は成り立たないということがよく判った。

<<<<《アラベラアラベラアラベラアラベラ》というオペラというオペラというオペラというオペラ>>>>

オーストリアの詩人フーゴー・フオン・ホフマンスタール(1874~1929)

はシュトラウスとの 20 年間にわたる協同作業で《エレクトラ》など 6 つのオペラの台

本を作成したが、《アラベラ》はその最後のものである。

初演は 1933 年、ドレスデン国立歌劇場。シュトラウスはこの作品を「叙情的喜劇」

と名づけ、《ばらの騎士》と同じような雰囲気を目指したといっている。事実《アラベ

ラ》はシュトラウスのオペラとしては《ばらの騎士》についで人気が高い。《ばらの騎

士》がモーツァルトのオペラ・ブッファを近代化したものとすれば《アラベラ》はウ

ィーン・オペレッタに楽劇的色彩を加えたものといえるであろう。実際、《アラベラ》

の舞台を観ると三幕の舞台のそれぞれの雰囲気はヨハン・シュトラウスの《こうもり》

に非常に似ている。

《ばら》と同じく舞台はウィーン。どちらも貴族の娘の結婚をめぐる紛糾とハッピー

エンドの喜劇であり、更に男装の<ズボン役>が重要な役割を演じる点でも二つの作

品は共通している。ただ時代背景が決定的に違う。《アラベラ》のウィーンは、既にウ

ィーンの貴族社会とその文化の絶頂期はもうとうに過去のものとなっていた。そんな

時代の貴族社会を背景とする《アラベラ》においてはうわべの華やかさのかげに、没

落とデカダンスのかすかな気配が忍び込んできている。

あらすじ:あらすじ:あらすじ:あらすじ:時と場所―19 世紀、ウィーン。ヴァルトナー伯爵一家はホテルに居を構え

ているが実は生活は逼迫、そのため次女ズデンカは男の子として育てられている。伯

爵夫妻の願いは姉娘アラベラが金持ちと結婚すること。仕官マッテオはアラベラに恋

しているが、その彼を愛しているのはズデンカである。そこへアラベラの肖像画を見

て魅了された大地主マンドリカが求婚をするためにアラベラの前に現れる。アラベラ

も人目で彼に引かれ、求愛を受け入れる。絶望するマッテオを心配したズデンカは、

彼に姉の部屋の鍵と偽って自分の鍵を渡す。それを見たマンドリカはアラベラの裏切

りと憤慨する。マッテオが愛を交わしてホテルの部屋から出てくるとアラベラがいる。

彼は何事もなかったように自分を冷たくあしらうアラベラが信じられない。そこへマ

ンドリカが現れてアラベラをなじる。あわやマッテオとマンドリカの決闘というとこ

ろでズデンカが飛び込んできて全てを打ち明ける。心を打たれたアラベラは2人の結

婚の許しを両親に乞う。そしてマンドリカの故郷の風習通り、自分の娘時代の終わり

を期して、彼にグラス一杯の水を捧げる。寛大な彼女に感謝したマンドリカはそれを

飲み干し、グラスを床に叩きつけ、アラベラと愛を誓い合う。

Page 24: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

聴きどころ:聴きどころ:聴きどころ:聴きどころ:《アラベラの音楽は理解しやすく甘美な魅力にあふれている。聴きどころ

はじつに多い。第一幕でアラベラが「ふさわしい人」へのあこがれを歌い、それにズ

デンカが唱和する二重唱、第二幕で純真な求婚者マンドリカがアラベラとともに歌う

愛の二重唱。この二つの二重唱はなんと夢見るように甘美なことだろう。第二幕の舞

踏会の場面では、華やかなワルツや浮かれ気分のヨーデルが楽しい。そして最終場面、

アラベラがマンドリカの誤解を許すためにホテルの二階から静かに階段を降りてくる

あの名場面で、深い情感とはるかな憧れに満ちたシュトラウスの音楽がこの歌劇の抒

情的性格を余すところなく引き出すとき、我々はほとんど気恥ずかしいほどナイーブ

な感動に浸ることになるのである。ちなみにこのオペラは階段が重要な意味を持ち、

“階段のオペラ”という異名さえついているくらいである。

<<<<オペラオペラオペラオペラ指揮者指揮者指揮者指揮者としてのサヴァリッシュとしてのサヴァリッシュとしてのサヴァリッシュとしてのサヴァリッシュ>>>>

ウォルフガング・サヴァリッシュ(WolfgWolfgWolfgWolfgang Sawallischang Sawallischang Sawallischang Sawallisch,1923 年 8 月 26 日 - )はド

イツ、バイエルン州ミュンヘン生まれのドイツ・オーストリアを代表する指揮者の一

人。名ピアニストでもある。オペラ指揮者として若くして頭角を著し、33 歳でのバイ

ロイトへの出演は当時の最年少記録だった。

歌劇場での活躍の一方でオーケストラの指揮者としても活躍し、ウィーン交響楽団

やハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団、スイス・ロマンド管弦楽団の首席指揮者

を歴任。1971 年からはバイエルン国立歌劇場の音楽監督(1982 年~1992 年は音楽総監

督)に就任。若手の逸材歌手を積極的に登用し、出演者の相対的な若返りに成功した。

同歌劇場在任中に、ワーグナー没後 100 年にはワーグナーの全舞台作品、また 1988 年

にはリヒャルト・シュトラウスのすべてのオペラを上演に踏み切るなど、人気のある

演目に限定せず、大作曲家の「光」の部分だけでなく、「影」の部分もしっかり見据え

ようとするクリティックな姿勢が、こうしたサヴァリッシュの仕事ぶりによく現れて

いる。バイエルンのポストを退任後、リッカルド・ムーティの後任としてフィラデル

フィア管弦楽団の音楽監督に就任。フィラデルフィアのポストを退任した後は特定の

ポストには就かずフリーの指揮者となっていたが、2006 年 3 月に、5 月以降に予定し

ていたコンサートを心臓病の悪化を理由にキャンセルし、現役からの引退を事実上表

明した。

日本の音楽界とも深く関わり、1964 年 11 月、NHK 交響楽団の招聘で初来日以来ほぼ

毎年のように来日。以降 N 響への客演のほか、バイエルン国立歌劇場(1974 年、1988

年。1974 年はカルロス・クライバーらが同行)やフィラデルフィア管弦楽団(1993 年、

1999 年)との来日公演を行い、日本でもなじみ深い巨匠の一人である。1967 年以来 N

響名誉指揮者。現在は、同楽団桂冠名誉指揮者(1994 年~)。N 響とは定期公演のほ

か海外公演や二期会と組んだオペラ上演などでも大いに活躍。また、N 響の節目節目の

演奏会には必ず登場し、1970 年のベートーヴェン生誕 200 年チクルスや 1973 年の NHK

ホールこけら落し公演、1986 年 10 月 1 日の第 1000 回定期公演と 2001 年の創立 75 周

年記念公演(ともにメンデルスゾーンのオラトリオ《エリヤ》)などに出演している。

2004 年の出演では、老齢のため椅子に軽く座って指揮をしていた。2005 年に予定され

ていた公演は体調が思わしくなく出演をキャンセルしており、結果的に 2004 年度の出

演が最後の共演となった。

その演奏スタイルは奇をてらったところがなく「外れ」が少ない指揮ぶりであり、

若い頃は楷書体のようなシャープな演奏を繰り広げ、加齢とともにいい感じでの

「重み」がプラスされるようになった。レパートリーとしては、古典派・ロマン派

から近代までのドイツ音楽の正統派・王道とも言うべき曲目がずらりと並ぶ。特に

Page 25: オペラの愉しみ(3)pmfvharmony.sakura.ne.jp › opera3.pdfオペラの愉しみ(3) 2011・0888 9、1988年 メトロポリタン・オペラメトロポリタン・オペラ公演

モーツァルトやベートーヴェン、ワーグナーで素晴らしい演奏を繰り広げている。

筆者は一時期、サヴァリッッシュのオペラを集中的に聴く機会があった。その頃

の印象は全部が全部、ある一定水準に達した当たり外れにない演奏で、安心して聴

いてはいられたが、その反面、何故か、どこか物足りない、いわば体の奥底から沸

きあがってくる意識や理性を超えた「激情」が感じられないのがやや不満であった。

職人芸のいぶし銀のような安定感はあるが、強烈なインパクトを与えられたという

記憶がないまま、私にとっていまひとつ・・・という印象のままに引退してしまっ

た。但しこれはあくまでも私個人の印象で、友人に言わせると彼の音楽ほどオペラ

の醍醐味といえる白熱した瞬間を幾度も経験させてくれた指揮者はいない・・・と

絶賛していた。

◇◇◇◇ モーツモーツモーツモーツアルトアルトアルトアルト 歌劇歌劇歌劇歌劇《ドン・ジョ《ドン・ジョ《ドン・ジョ《ドン・ジョヴァンニヴァンニヴァンニヴァンニ》》》》全3幕全3幕全3幕全3幕

(1988年11月22日 東京文化会館)

配役はドン・ジョヴァンニにトーマス・アレン(Br)、ドン・オッタヴィオにペータ

ー・ザイフェルト(T)、ドン・ジョバンニをめぐる女性たちはドンナ・アンナがアン

ナ・トモア=シントウ(S)、ドンナ・エルヴィラにマリーナ・ニコレスコ(S)、ツェ

ルリーナがアンジェラ・マリア・ブラッシィ(S)、レポレロにヤン・ヘンドリック・

ローターリング(Bs)という顔ぶれであった。

良くも悪くも手馴れた安心して観られるモーツアルトであった。配役も過不足なく

ドン・ジョヴァンニのトーマス・アレンが《アラベラ》とはがらりと役柄を変えて、

神をも恐れず人をも恐れず、快楽の本能のおもむくままに行動する快男児を好演。ド

ンナ・アンナのトモア=シントウが《アラベラ》の時とは違って絶不調なのが残念で

あった。

オペラの愉しみ(4)に続く