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- 人文研究 大阪市立大学文学部紀要 43 巻第 5 分冊 19-"36 1991 『フィレンツェの夜』解釈の試み 感覚のユート ピア? 大津慶子 はじめに -19 FlorentinischeNachteが現在の形で作品集 『サ ロン第三巻』の一部として発表されたのは 1837 年,ハイネ 3 織のときである。 枠小説の形式をもったこの作品は,ハイネには数少ないフィクションを中心 DerR α bbi von Bacher α ch Ausden MemoirendesHerrenvonSchnabele ω opski(1833 年)が小説作品として あるが,いずれも未完に終っている 。 このため作品の理念を確定しにくく, いわゆる作品内在解釈が困難な事情もあり,自伝的要素の混入ということも あってか,これら小説三作品はハイネの著作中であまり評価されてきた,と は言 い難い 。 三作品のうちでは『ラピJ が中世のユダヤ人迫害に材をとった歴史 4 三党で, ハイネ自身のユタ。ヤ人問題についての意識との関連で論じられることが多し、。 他の二作については個々のエピソ ー ドが他との関連でとりあげられることは あっても(一例を示せば 『シュナ ーベレウ eォプスキ ー J の第四章が, リヒャ ルト ・ヴァ ーグナ ーの『さ まよえるオランダ人』の直接の素材である) t 品それ臼体に密着した研究はあまり多くなし、 。 M. ヴィントフーアはこれら の小説作品について, この三つの未完の小説は, これまで注目されてきたよりももっと関心 を示されてしかるべきである 。ハイネが企図したところは完遂されては いない。しかし現在ある形のものは失敗作とし て片づけられるべきでは (291) 圃圃.

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人文研究 大阪市立大学文学部紀要第 43巻第5分冊19-"36頁 1991年

『フィレンツェの夜』解釈の試み

感覚のユート ピア?

大津慶 子

はじめに

-19

『フィレンツェの夜~ Florentinische Nachteが現在の形で作品集 『サ

ロン第三巻』の一部として発表されたのは1837年,ハイネ3織のときである。

枠小説の形式をもったこの作品は,ハイネには数少ないフィクションを中心

とした物語である 。 他に 『パッヘラッハのラピ~ Der Rαbbi von

Bacherαch (1840年)と 『シュナーベレヴォプスキー氏の回想より ~ Aus den

Memoiren des Herren von Schnabeleωopski (1833年)が小説作品として

あるが,いずれも未完に終っている。このため作品の理念を確定しにくく,

いわゆる作品内在解釈が困難な事情もあり,自伝的要素の混入ということも

あってか,これら小説三作品はハイネの著作中であまり評価されてきた,と

は言い難い。

三作品のうちでは 『ラピJが中世のユダヤ人迫害に材をとった歴史4三党で,ハイネ自身のユタ。ヤ人問題についての意識との関連で論じられることが多し、。

他の二作については個々のエピソ ー ドが他との関連でとりあげられることは

あっても(一例を示せば 『シュナーベレウeォプスキーJの第四章が, リヒャ

ルト ・ヴァ ーグナーの『さ まよえるオランダ人』の直接の素材である)t 作

品それ臼体に密着した研究はあまり多くなし、。M.ヴィントフーアはこれら

の小説作品について,

この三つの未完の小説は,これまで注目されてきたよりももっと関心

を示されてしかるべきである。ハイネが企図したところは完遂されては

いない。しかし現在ある形のものは失敗作として片づけられるべきでは

(291)

圃圃.

一一一一一一一一一一一一一一一一一一一-4|20 -

ないたろう 。 (中略)ティークの冗漫儀舌な小説や,メ ーリケの二読の

物語作品などに較へれば.ハイネは断片であっても.それ以上の説得力

ある作品に仕上げている。1

と指摘している。その後も研究の数は多くはないが,作品世界そのものに迫

ろうとする試みも少しずつ出てきている。本稿ではそれらの成果も参照しつ

つ, rフィレンツェの夜Jか表現している世界と,それがハイネの思想、にとっ

てもつ意味を明らかにしたい。

『フィレンツェの夜jか実際に舎かれたのは1836年初め頃てある門最初に

ごくかいつまんで作品の成立事情を記しておく 。

作品の桃成は,主人公マクシミリアン(以下マ ックスと略〉か.肺を病ん

で{頻死の床にあるマリアに.いろいろな体験を話して悶かせる梓形式で! 'f-=t=

の内は第一夜と第二夜に分れている ョ 内容については後に詳しベ 1~ 今 。元来ハイネは.ベルリン大学時代から 1メモワ ールJ,]VfemOI:ren. もし'

は 「告白J8ekenn tnl sseと題する自伝的著作を計画し.部分的には額盤に

もかかっていたらしい。 この元々のフラ ンは現在笑われて草案予ていない。が

『旅の絵JReisebüder 作品群・や 『シュナーベレヴォプスキ ー ~ i~ フィレ ンツェの夜Jなどに個々のエピソートが適宜挿入されて生かされている。たと

えば, よくづlかれる例であるがt Ir n1(の絵、中 l(i)ll・グランο

Das 13uch ,Le Grand (t826ffりにt及われる f小さなヴェローニカJ'は Ilfフ

Lンツェ』の I死んだヴエリーJとffj]t体験がえ;けになっていると4 二 、

る。

しか し 「メモワール」は完I ないまま.1831勾:に,、l' ,10、qに

ここでサン ・シモン主戦者らとの交遊があゥて中期、 f-f-.の思想自

ボーンかJl~成される。一方ドイ γではウィー lン{本品u トで閥均がきびL

とくに1835{1 ~ t 2)=] 101 ]にはハイネらを名lhl l た lfj~ ~~lt令か :11e

のためハイネは検|却の対故にならないよう配慮Lγス 作Ihqf

Jトー

、ー

なかった。 rフィレンンェの{ゼ』はまさにこの時期に執噂された。こう l!:

:jJ↑iYか A. この作品 は「必叫に;迫込れ て':t:.r,C

l!日J..J:tとn'r(,lhされ. こうした見方がこの作の{山首'計十の臥・

司...

、- いえ作

'- '伐治543た」

『フィレ ンツ ェの夜J解釈の試み ー 21-

言えよう。

この時期にハイネがさまざまな制約を受けて窮屈な思いをしたであろうこ

とは容易に想像できる。しかし,だからと言っ て彼の作家魂が検閲におび

え切ってしまうほど脆弱であったとも思えない。少し前の 『ロマ ン派J

Die romantische Schule (1835年干IJ)~こ,検閲と作家の誠実さの関係につい

て,次のような言及がある。

検閲やあらゆる種類の精神的な圧迫に苦しみつつも,なお絶対に自分の

真情を否認することのできない作家は,皮肉でユーモラスな形式を特に

よく好んで用いるものである。これこそが誠実さにまだ残された唯一の

逃げ道であり,ユーモラスで皮肉な扮装の中にこそ,この誠実さが最も

感動的に立ち現われてくるのである。 (Bill, 429)

ここでは ironisch,humoristischと表現されているが,ハイネの場合は

frivol,すなわちエロティックで軽薄な扮装になることも多い。広い意味で

の愛の戯れを描きつつ,その外被の下に深い時代的関心をひそめているのが

ハイネの行き方なのである。 rフィレンツェの夜』におけるエロスの横溢も,

このような意味で理解されるべきであって,単に 「生活の資を稼ぐためのJやっつけ仕事と見てはなるまい。

いま一つ注目すべきなのは,こうした小説形式はハイネにとっては初めて

の試みだということである。単に生活のための作品ならば, ヒットするのが

確実な,手なれたジャンルに逃げるであろう。古典的な小説形式は,ハイネ

にとっては冒険だったのである。元来ハイネは自らの才能を開花させること

にすこぶる意欲的で¥ ドラマ,歴史小説,悪漢小説など,さまざまな試み

をしている。 I悪い時代には何でもできなくてはいけない」 というハイネ

の述懐〈アウグス ト・レーヴア ル トあて, 1836年 5月3日付書簡。HSA

X沼, 156)も全く否定的にとる必要はないであろう。それなりに野心をもっ

て素材にたちむかったと考えるべきであろう。

2

ハイネは 『サロン第三巻Jへの序言の冒頭で, I rフィレンツェの夜Jに

ついては,いろいろな日々の関心事を反映した続きを発表することができな

(293)

-圃司

一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一ι~-22-

かったJ(B V, 26)と述べている。このことばについては解釈が分かれて

いて,当該作品が未完であることをハイネが認めている根拠にする説と無視

する論者 4 とがある。筆者は形式的には前者をとるが,後者にもそれ相応

の根拠はあると思う。

その一つは,ハイネが 『フィレンツェの夜』を 『サロンJに発表してのち,

もはや手を入れようとしなかったことや,この作品全体の埼想にかかわるス

ケッチが残されていないことである。が,これは小さな理由にすぎない。もっ

と大きな理由は,一般的な Novellistik作法から見ればきわめて不安定な

終りかたであっても,ロマン主義文学観の影響を受けたハイネであってみれ

ば,断片的な形式の中にこそ真実がよりよく描かれうると考えて,意識的に

聞かれた形でも結末と見なしたかもしれない.ということである。

1824年にハイネの友人E. ヴェーデキントは,当時ハイネが構想、していた

『ファウスト』について,こう報告している。

結末についてはハイネはまだ心を決めていない。あるいは教授 (ファウ

ストのこと。筆者註〉を刑吏となったメフィストに縛り首にさせるのか

もしれないし,あるいは全然結末などっけないつもりかもしれない。な

ぜならそうすることで,本来無関係なことどもを作品の中に持ちこめる

という利点があるから。5

この後のほうの指摘に注目したい。これだけでは誰の意見なのかはっきり

しないが,ハイネの見解も入っていると見てさしっかえあるまい。彼は早く

から戦略としての「未完成の結末」を意識していたと言える。あるいは逆に,

完結した虚構の世界の欺踊性を鋭敏に感じとっていて,完成した小説形式に

こだわる気持が薄かった,とも 言えよう。18世紀後半に市民の時代を代表す

る文学形式として小説が登場し, rヴィルヘルム ・マイスター』を初めとし

て続々と名作が生まれる中で.小説の形式に疑問を抱く小品も舎かれるよう

になった。1830年代のことである。

ハイネと同じく 1835年に執倍禁止を命ぜられたカール ・グ、ソコウは.同年

峻烈なキリスト教批判とエロス性を盛った 『ヴァ リー 1 懐疑するた1"Va.llv. Die Zweiflerinを言わばモンタージュ手法でi!?いて.小品形式の破捕を.

みた。またノ、イネと親しかったカール ・インマーマンは長総 『ミュンヒ F、内

ゼン~ Munchhausen (1838, 39年)で小説の前半と俺.'f.を入れ鈴えるとい

(294)

• •

• •

-

ー・.

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...

-

fフィレンツェの夜J解釈の試み -23-

う実験をしている。

このように小説というジャンルの完結性,統一性,全体性への疑問が,社

会意識の鋭い 「若きドイツ」派〈に近い作家)から提示されたのは偶然では

ない。浅簿な合理思怨に支えられた市民社会の偽善的な外被と,破綻なく一

貫した視点で語られる伝統的な小説形式とは,その基本において通底するも

のを持っていたからである。 wヴァリ -jの内容の過激さと形式の斬新さと

はこれらの既成の価値観に対する明瞭な否定であった。

ハイネもまた,ゲーテとロマン派との文学的伝統を意識しつつ,独自の

「新しい文学」の可能性をさぐっていた。彼も小説の形式に無自覚であった

はずはないしt 1831年からはドイツを離れていたとは言え,グツコウともイ

ンマーマンとも以前から相識の間柄であった。1830年代半ばがドイツの小説

形式解体の始まりであることを,肌で感していたに違いないのである。『フィ

レンツェの夜Jはそれ白体未完であるかもしれないが,それもまたよしとし

て,結末がぴたりと決まった形式を採用しなかった底流には,こうした小説

観 ・世界観があったとも考えられる。

米完という見万の背最には,この作品がエピソードのつみ積ねから成った

非桃成的な小説てあるという意識があると思われる。このためにこれまでd説の内容なり理念、なりを小説に即して研究することがあまり行なわれてこな

かったのであろう。同じ時期に書きおろされた 『自然の精霊jElementar-

geister (1836年〉は,グリムの伝説集に依拠して主題ごとに小さな話を集め

る方式をとっている |フィレンツェの夜』もテーマは違うが同工異曲の作

品を見るへきなのであろうか。

ハイネの切合,作品はエピソードのつみ重ねてゆるやかな構成をとってい

ても,全ねに流れる主題ははっきりしているのが常である。その主題とは,

I自然の粕鑓Jてはキリスト教による占代の神々の悪魔化であり, wル ・グ

ランの4!?』ではナポレオンによる解放政策の賛美てある。 rフィレンツェの

段 では, i第一夜」とr第二夜 を結ぶロ ーランス嬢という人物が存在し

ているので.両者がテーマ的につながっていることは容易に推測できる 3 詳

HJは後段にゆずるが,第一夜て提示された主題が第二夜て展開をとけるので

ある。したがってこの涜れを追っていけば.小説に一貫するイデーの何ほど

か解明され,作品が米完かと・うかについてももう少し立ち入った考察か可能

になるであろう。

(295)

圃司

」一一一一一一一一一一一一一一一一一一一4

-24一、

3

小説の枠は,マ ックスがマリアを見舞いに病室にやって来ると,ちょうど

出て行こうとする医者に出会う場面で始まる。医者は,病人は今やっとうつ

らうつらしはじめたところだが,目を覚ましでも体を動かしてはいけない,

話しでもいけない,ただ精神の興奮は体によいので,いろいろな話をしてあ

げてほしい,という指示を与えて出ていく 。ここでマ ックスが物語を聞かせ

る状況が設定されたわけである。

さて病室に入ってみると,マリアは緑色のソファの上に白いモスリンのド

レスを着て眠っている。その緑と白の対照が彼の心に追憶を呼びおこす。ちょ

うど目をさましたマリアに,マ ックスはその思い出を語る。

それは12歳のとき母とともに,荒れ果てた母の実家に一泊したとき,庭に

倒れていた美 しい大理石像の思い出だった。緑の草の中に横たわる白い女神

像一一これが少年の官能のめざめの原点となった。そしてこの像の姿は今の

マリアでもある。少年は夜庭に出て大理石像に接吻する。

ぼくの心臓はまるで殺人でも犯そうとしているかのように高鳴り,つい

にぼくはその女神に口づけしたのです,熱情と優しさと絶望をこめて。

そんな口づけはその後二度としたことはありません。そしてまた,あの

大理石の唇の至福の冷たさがぼくの口にふれたときの,ぼくの魂をとっ

ぷりと浸した怪しくも甘い感じも忘れたことはありません… (B1 t

562)

ここには 『フィレンツェの夜J第一夜をつらぬく甘い戦傑と死とエロスの

戯れが最初に定式化されている。マックス(この主人公の名は構想の殴階で

は 「エンリコJ[=-ハインリヒ 〕であったと吉われ.作者の分身と見て差支

えない)の官能のめざめは大理石像との捷吻であったが.その後の恋愛体験

もすべて何らかの意味で I生命をもたないjあるいは 「死んだ ;女性を対

にしている。枠の人物であるマリアもまたその一人であり.その怠昧で枠の

物ぷは枠内と管綾な|期述をもっている。

それは,マリアの姿から大珂石像をilli思したところに見られるだけではな

い。1828年の 『ミュンヘンから ジェノアへの旅JReise l10n l'~lÏ.llchell nαch Genuαにたびたび 「死んだマリアJへの!日l忠が出てくる。ヘソザー版

(296)

句.

『フィレンツェの夜j解釈の試み " 25一

の往か指摘するとおり (Bn ,862) i瀕死のマリアjは 「死んだマリア」の

前史てあると考えられ,先に述べた 「メモワール」のエピソードのひとつで

あるのだが,共通点はそれだけにとどまらなし、。それは死とエロスが不即不

離の関係にある,という認識であり, S.フロイトが晩年になって着目した

という,エロスとタナトスの反発しあいながら共存する不可思議な関係を,

ハイネか文γ的に先どりして造型したと 言えるであろう。このことは,その

制マックスかミケランジェロの大理石像 「夜jを見て↑光惚となり, iああ,

この夜の腕に抱かれて永遠の眠りを眠ることができればどんなによいか…J

(B 1 ,563)と詠嘆するところにもうかがわれる。 i夜」は墓碑として製作

されたものであり,その名前からも直接 「死」を連想させる。 iその腕に抱

かれてIl民る」とは,究極の陶酔がエロスとタナトスの合ーしたところにある

ことを暗示している。

ここでノィレンツェか小説の舞台になっていることについて一言 しておき

たい。ケーテ ・ハンフソレガーは 「フィレンツェJの題名は内容に何のかかわ

りもない 6 と明快に断定しているが果たしてそうだろうか。 ミケランジエ

ロの 「夜」はフィレンツェにある。花の机芸術の拡ハイネにとってのフィ

レシツェは,おそらくプラーテンやニーチェやトーマス ・マンのヴェネツィ

アとJiIj LようなJ怠味をもった町だったのではないか。長い繁栄の歴史のかげ

にt l'Jちかけた腐敗と死の匂いをひそかに隠しもっている町,そしてそのよ

うな没滋の予感がー積の見えさるアウラとなって輝いている町,タナトスの

術動を絡めてそれゆえにこそ美しくエロティソクな町。そしてかつてボッカ

チオがペストを遮けて物語を楽しむ舞台とした町であることはハイネ自身か

ロ及している。(l3 V t 26) このように見れば,フィレンツェはこの小説の

1::泌をm約的に象徴する舞台であると言える。

イ剖!石像への愛ののち,マ ックスはさまざまな愛を体験する。教会のマド

ンナの絵,死んだ少女ヴエリー.2Fの(f,lの婚約者など。このあとでマリアが

町立然t iでも.おっしゃって下さいな,ローランス嬢は大理石の彫刻でした

の。それとも絵?死んだ人か.夢でした ?Jと尋ね,マックスが 「ひょっと

ーるとそれらを全部一緒にしたものでしたね」と答える。 (B1, 567)

1尖の生身の女たちの錨態やかけひきがおぞましくて,夢や芸術の中の女

性に救いを求めるのは古典的なピグ.マリオンのモチーフであるC しかし 『フィ

レンツェの夜』の力点はそういうところにあるのではなし、。むしろ.芸術の

や夢が人161に対しでもつなまなましい説得力.ょくさわれる 「第二の現実」

(297)

圃司

ーーーーーーーーーーーーー ーーー些~po nL

の真実性を具体的に例証していくことか眼目なのである。 r第一夜jの前

半は彫刻,絵画,回想,夢なと,視覚を中心としているが.後半ては音楽.

聴覚中心へと感覚世界か拡大する。D.メラーは 「第一夜J 全体のテ ーマは

「愛Jでなく 「芸術Jと狭義に解しているが 7 . ここでは両者とも 「感覚的

な世界」に属するものであるから,広義の dasSinnliche,エロスが扱われ

ていると考える。後半については章をあらためて論じたい。

4

後半は才ぺラの話から始まり.実在の音楽家に話か及ぶが,ここでも中心

になるのは芸術または芸術家にまつわりついている死のイメー ジや魔的な分

囲気である。ばら色で健康そうに見えていたのに夫折したペリーニとデモー

ニッシュな空気につつまれなから健在ているノマガニーニとか苅置されているc

ペリーニは1835年9月にパリ近郊で亡くなったイタリアの作曲家で.ハイ

ネも実際に知己であった。百科事典の写兵を見ても若々しい美現の持主だっ

たようである。ハイネは生命力にあふれでいると見えたそのヘ IJーニが.死

にまつわる請をひどく忌み嫌ったことや,フランス語かどう Lても上遂しな

かったことなど,外見の生命感と内部にひそむ深淵との不均衡を特徴的に列

挙している。そしてマックスはパリのあるサロンで婦へに:髪をいたずらさ

ているペリーニの表情に自をとめる。

ぼくはこの聞を絶対に忘れないでしょう!それは相野なへ主の現芝より

はむしろポエジーの捗のモ図にあると思われる.そういう1喝のひと lつで

した〔…] (B 1 ,573)

らにマックスはこのときのヘリーニのほほえみを錨-写Lて. rそれ

かしたら彼の人'七の最もすばらしい桝|切だったのかも LれませんJ (B 1 t

574)とつけ加える。そ Lてその L迎間後にベリーニのいト却が腐いたので

た。ベリーニは「ポエジーの移U31:悶J,伎の~:極の '(lT)tft界を体検Lて

ったのであるo r制里子な現尖Jにもはや耐え得なくなれば. もう持つ1ttにおもむくしかなか寸たのであろう。

ベリーニの,j卜と|司(J寺にパガニーニのt1トもわ、えられたが.こ

た。いずれにせよ,芸術.~kt!l-:と死のあわいにttきている,

~~98)

『フィレ ンツ ェの夜J解釈の試み -27ー

のきわどくとらえがたい中閣の領域にあぶなつかしく成立している。あるい

はロマン派の文学によくあるように,ポエ ジーの世界と現実の世界の聞には

絶対の深淵がある,ということであろう。

さてパカ。ニーニである。マックスはパガニーニの本質を描ける唯一の肖像

画家としてリ ーザーの名を挙げる。この画家もハイネの知り合いであった。

リーザーは耳が聞こえないのだが,非常な音楽ファンで,それはオーケスト

ラの団員たちの表情から演奏されている音楽を読みとるからであった。視覚

イメー ジ→音である。マックスは逆に音から視覚的イメー ジを得るタイ プで

あるが,いずれにせよ共感覚 Synasthesieの持主である。共感覚, とりわ

け聴覚と視覚の混滑についてはロマン主義文学のー特徴と言 ってよく t E.

T. A. ホフマンの 『ドン ・フ ァン』は有名で、ある。ハイネのパカ。ニーニの

章もこの影響を受けているかもしれない。

もうひとつこの段階でロマン主義文学の影響を感じさせるのは,悪魔と契

約した芸術家のモチーフである。悪魔の姿をとらなくても,ある種の霊感や

非日常的体験を契機に芸術家として比類ない才能を発揮するが,社会的人間

としては破滅するテーマは, W牡猫ムルの人生観』のクライスラーt WG町

のジェズイット教会.] Wフォルミカ氏』など,ホフマンの全作品をつらぬく

主題であると言っても過言ではない。シャミッソーの 『ベーター・ シュレミー

ノレ』 もこの系譜に入るであろう。ロマン派とは言えないがゲーテの 『ファウ

スト』はこの系列の白眉である。

ハイネがこの主題に寄せた愛着はなみなみでなく,初期から晩年まで,こ

れらの作品や作家名,あるいは彼自身の舞踊詩『ファウスト.]t 本章のよう

}こノマヵ・ニーニとG.ハリスとをファウストとメフィストになぞらえるといっ

た比輸など,枚挙にいとまがないほど,さまざまなヴァリエイションで登場

する。ハイネにも,ホフマン風の,芸術家はアウトサイダーでこの世では不

幸の宿命を負うという認識が根本にあり,さらにユダヤ人としての意識がそ

こに影をおとしている。本章のパガニーニはかなり客観視されていて,作家

がそれほど感情移入しているとは言えないが,卓越した芸術家の栄光と悲惨

をあざやかに伝えている。ファウストのモチーフを愛したハイネもまた,い

くばくかはこの宿命を共有していたので、はなかったか,と恩われる。

『フィレンツェの夜』の他の登場人物と同じく,ノマガニーニもまた独自の

形で死のイメージをふりまいている。

(299)

一 一 一 一 一 一 一 一 , .' c4 |

-28 '.

この哀願のまなさしは瀕死の病人のそれであろうかーそれともその奥に

は校滑な苔雷漢の瑚笑かひそんでいるのであろうか。これは生きている

人間てはあるか,死にゆく剣闘士さながら.まさに患をひきとろうとし

て,芸術の闘技場の観客たちをその断末魔の痘慾て余しませようとして

いるのか。それとも.墓から蘇ってきた死人.ヴァイオリンを提げた

血鬼てあって,我々の心臓の血とまでは言わなくともポケ ットの金ぐら

いは吸いとろうというのであろうか。 (B1 ,518)

E. グレーツインガーはこうしたロマン的怪奇趣味について, ハイネが時

代の好尚に投じたのみ,と簡単に処理しているが g ,先に述へたように芸

術家のアウトサイダー性を説明するのにデモーニッシュな要素との結びつき

を用いるのは,ハイネにとって本質的な芸術理解てあった。D.メラーがJ.

サモンズのことばを借りて表現しているように, rフィレン ツェの符!が

「ハイネ奨学への本質的寄与Ji であるならば.芸術家のありょうを表現す

る比鳴もまた本質にかかわっているはずである。

さて 『フィレンツェの夜 の中で.発表当時から世討されてきたパガニー

ニのコンサートの描写であるが. このコンサートは、ンブルクで行なわれた

ことになっている。会場にはハンブルクの有閑階級や財界の俗物たちが顔を

そろえており,マックスのとなりにも毛皮仲買人か座を占めて空すこぶる{

物的散文的なコメントをする役廻りになっている。

パカニーニか校の音を轡かせ始めると.マ ックスは前述の色聴能力にょう

て眼前に不思ぷなシーンが展開されていくのを見る。

最初j は蔽~,ÿな .婦人部毘らしきところで歌子とおぼしい若いえよ作の

ているバガニーニの~が現われる。 愛の持57泊.に酔うてi(性のQl(こ jれ‘

と身をかがめた官諌:‘まはへ、,ドの下に隠れ-ζいる神えを見つiプζ. 血

てこれを追い1.Hし,さらにふとこらからとりだした短剣でb

このとき「ブラヴォー!Jの"Ilひがどよめいてマックλ0幻

は終る。ここでは'父ザニーニの致-へ'tにもかかわらせなが山

る芸術涼の.(JUð~!と不惑を51?っている 。 彼は2をする fょに裏切られそ

寸Uし,Ix社会的存在となるのζ ある

• •

ザニーー

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『フィレ ンツ ェの夜』解釈の試み -29-

この音色は堕天使の歌に似ていた。それは地上の娘たちとねんごろにな

り,浄福の者らの国から追放されて,恥辱に頬を染めつつ地下の世界へ

堕ちていった者たちだった。 (B1 ,580)

黙示録的な終末の世界,永遠の絶望の世界が描かれるが, ここで弦が切れ,

マックスの幻想もいったん偲む。 I弦が一本切れた」と言ったのは毛皮仲買

人で,マ ックスは 「ほんとうに弦が切れたのでし ょうか。ぼくにはわかり ま

せんでしたJ(BI,581)と言っている。しかし最後の審判の らっぱが鳴り

ひびこうとするヨザファトの谷にも似たこの世ならぬ情景を描写しようとす

るとき,楽器が,あるいはハイネのペン とい う人聞が用 いる道具が

versagenするという解釈も可能であろう。第四の天上的な場面が中断され

るのも同じ理由からで,絶対の絶望と絶対の浄福を描写するには,芸術はや

はり入閣のわざとしての限界をも っているということである。詩人ハイネの

悟りでもあり,悲しみでもある。

さて続く場面 〈第二楽章後半?)は,荒れ狂う夕焼けの海を背景に, 岸壁

でヴァイオリンを弾く パガニーニの姿で始まる。彼は嵐を呼び四大を意のま

まにあやつる魔術師のようであり,ありとあらゆる妖怪じみた者たちにと り

固まれている。地上の不幸と罪人の悲惨とを経て,ここで音楽家は異界の王

者として君臨するようになったのであろうか。おそらくは悪魔と契約を結ん

だことを象徴する場面なのであろう。

最後のシーンは天上的である。パガニーニの顔は 「理想的に美化され, 天

のものの如く変容し,宥和に満ちてほほえんで」いる。 (B1 ,583)この演

奏は,宇宙の譜音,月光の中に鳴りわたる森の角笛,すなわち死ぬ前のベリー

ニが足を踏み入れた 「ポエジーの夢の王国」でなくては聞けない音楽である。

マックスがそれを説明しようとすると,突然背後に声がして, Iあるいはシャ

ンパンをー瓶飲みすぎた時か,ですなJ(B 1 ,584)と医者が姿を現わす。

彼にとっては芸術の陶酔はアルコールの酷町と同義なのである。

この台詞でわかるように,医者はヨーロッパ19世紀を代表するような科学

的合理精神の持主である。医者を合理的悟性,マ ックヌを情緒的な 「心」

Herzの人と分析しているのはA. ザンドアで, これは卓見である。10二人

は眠っているマリアの顔を見ながら,デスマスクについても意見を交す。マッ

クスがマリアのデスマスクをとりたいと言う。芸術家気質の彼は,死を,生

の光輝にいっそうの奥行きを添えるものと見,生前の美は死後にも保たれる

(301)

-司•

『フ ィレ ンツェの夜』解釈の試み -EA

内《

υ

うにと命じるままに踊っていた。J(BI,593)そこには態かれたような感

じ,宿命や運命を感じさせるものがあった。マックスはそれ以後この一座の

姿を求めてロントン中を俳個する。まもなく一座の姿は見られなくなり,イ

ギリスを去ったと聞いてマ ックスは落胆する。

その 5年後、マックスは七月革命後のパリに渡るが, フランスにはかなり

好意を抱く 。このあたりも作者ハイネの実体験と符合している。結婚前に死

んだタンス好きの娘たちの霊 「ヴィリスJにも似たフランス女性たちの集ま

る夜会に出たマ ック スは,偶然ローランス嬢に出会う。このヴィリスの品は

やはり死と官能のからみ合いを想起させ, I第一夜」との連続性を印象づけ

る。ローランス嬢は大理石像の比喰を使って描写される。 Iもはやかつてほ

どには人理石のような消さ,なめらかさはなかった jとか, Iしばらく雨ざ

らしにされていた彫像の顔によく見られるような細かい風化のあとJをとど

めていたりする。 (B1 ,602)

ローラ ンス嬢はこのとき,ボ、ナパルト派の~軍人の妻となっていた。太鼓

たたきの反は死に,犬は逃げ,傑儒は見世物小屋の大男たちのところに滞在

していて, 一肢は離散していた。

その後マ ックスは,カルチエ ・ラタンで学者犬が狂犬として惨殺されるの

を目撃する。パ リではイギリスびいきの犬などに用はないのである。ハイネ

の英国批判の反映であろう。さらにマックスは見世物小屋に傑儒を訪ねる。

彼はもう死のまきわにあって, ヨーロッパの王侯たちに愛されて育ったこと,

ナポレオンにだけは愛されなかったが,この偉大な皇帝が自分と同じように

王侯たちから見拾てられてセント ・へレナて無念の死をとげたことを悲しむ,

と結って忠をひきとる。ここで{朱儒が自分をナポレオンと同一視しているの

は彼のt冷人妄;似てあるが, I見世物の色人たちの中で、死ぬ小人と,小人たち

に凶まれて死んだ巨人 J (B 1 ,607)の対比はナポレオンその人をも相対化

Lているのではないか。ローランス嬢の犬もまたボナバルト派の軍人である

が.後に見られるように委の浮気にも気づかない全くおめでたい人物として

戯画化されている。その邸か時代おくれで古めかしいこともナポレオンとそ

の政治の時代錯誤性を暗下している) I第二夜 では,英国式の 進歩」と

ナポレオンと,両方が否定されているわけである勺

→ックスはしばらくして再びロ ーランス嬢に会い,彼女の邸まで行って身

の上話をIHJく 彼女は単すきる埋葬をされた母から生まれた {死人の子j

Totenk.ind なのであった。彼女の生はその始まりにおいて死の熔印を受け

(303)

一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一 ,,. 1-

-32-、

ていたのである。ここにおいてペリーニの場合のように,生と死のからみ合

いの相貌がまた一つ明らかにされ,彼女が踊り子という以外にも 「第一夜Jの主要モチーフにつながる集約的人物像であることが確認される。

さてこの夜マックスは彼女と臥床をともにすることになるが,その夜中,

彼女は夢遊状態で起き上がって例の踊りを踊る。当初無気味に思ったマック

スも数週間後にはすっかり慣れてしまって,何とも思わなくなる。夫の老ボ

ナパルテイストは勤務の関係で家にあまりいないため,二人の関係にはさら

に気づかず,マックスのよい友人となって,夫妻がシチリアヘ旅立っときは

涙で別れを惜しんだ,というのが第二夜の枠内物語の終りである。枠も簡潔

で, iマックスはこの物語を終えると,急いで、帽子をつかんで部屋からすべ

り出たJ(B 1 ,615)とのみあって,マリアの状態も医者についても何も記

されていない。そしてこれが 『フィレンツェの夜Jの最後の文章となってい

る。

6

E.グレーツインガーは, rフィレンツェの夜J執筆に際してハイネが

「今文学において複式簿記 diedoppelte BuchhaltungをしていますJ (カ

ンペあて1835年12月4日付書簡。HS A X XI t 129 f . )と述懐している点

を重視して,この作品では検閲のことを考えて思想的なテーマを表に出して

いないが,その理念は少し前に舎かれた『ドイツの宗教と哲学の歴史によせ

て~ Zur Geschichte der Religion und Philosophie in Deutschland (1834

年)などに含まれていると解釈している。 11 これに対してヴィントフーアの

反論もあるが, 12 i第二夜lのイギリス批判やナポレオンへの距離を強調し

た慾致を考えれば, i被式簿記」の窓味はグレーツインガーの解釈の方が事

実に近いと思われる。 rフィレンツェの夜Jはそれなりにアクチュアルなメ 、ソ

セージを秘めているのである。しかしながらグレーツインガーの解釈では.

「第一夜jの絢畑たる感覚世界の展開t iポエジーの夢の王国」の描写に

魂傾けているハイネが充分に説明できないのではあるまいか。

ここでは, i第一夜jは rドイツの宗教と留学の歴史によせてJ (川

『宗教官学史』と略〉などでさわれる(感覚主義者.JSensunl ist ハイネの感

覚,宵fj~のユートピアを描'1:f. しているのだと考えたい。このユートピアとは.

人fH]として芸術家として夢みる{感覚主義」が全面的に解放された世界,全

(304)

.

• 、.

『フィレ ンツ ェの夜』解釈の試み . 33一

く個的な晴好による美の世界である。マックスが情緒や主観一辺倒の人物と

して描かれているのもこうした事情による。このユートピアは 『宗教哲学史Jでは次のように表現されている。

我々は民衆の人間としての権利のために闘うのではない。人間の神とし

ての権利のために闘うのだ。この点で,そしてなお他の若干の点でもそ

うなのだが,我々は革命派の男たちとは違っている。我々はサンキュロッ

トやつましい市民や安っぽい大統領にはなりたくなし、。我々はひとしく

栄光に満ち,神聖で至福の神々のデモクラシーを樹立するのだ。君たち

は質素な衣服と節制の道徳と薬味ぬきの快楽を求めている。だが我々は

神々の酒と食物,緋のマント,高価な香料,快楽と華美,笑うニンフた

ちの踊り,音楽と喜劇が欲しいのだ一ーだからといってむきになりなさ

るな,君たち徳高き共和主義者諸君! (Bill,570)

ここでは感覚のユートピアが外化された形で表現されているが,重要なの

は,小市民的なつましい円常性がハイネにとって美ではないということであ

る。フリードリヒ ・ヘッベルが評したようにt Iあらゆる凡庸さ Mittelma-

sigkeitに対して最も断乎たる敵J(エリ ーゼ ・レンジングあて1843年 9月

16日付書簡)13 であるハイネの美の世界は,それだけに非日常性,類廃,過

剰の彩を帯びやすい。 r第一夜Jの官能の饗宴とでも言 うべき章に,最も非

・4 常的なるもの,すなわち 「死jの色の濃いのは,けだし当然のなりゆきで

あろう。上記 『宗教哲学史』の記述は,ゲオルク ・ビューヒナーが 『ダン ト

ンの死1で提示している問題,すなわち 「美徳、の共和国Jを建設しようとす

る喰欲的なロベスピエールに対して革命の果実(快楽)を性急にもとめるラ

クロワらの小満に柏呼応するものをもっている。ダントンはロベスピエール

のことをt rあいつは箆官が男を憎むように,享楽する者を憎んでいるJ14

とまで言っている。ビューヒナーの場合は直接革命の方法論にかかわる問題

提起をしているのであるが,ハイネはそこまで尖鋭化させていない。ハイネ

が描-出しているのは,すでに成った 「状態Jてあって,刻々に変化してゆく

現笑に対応するためのマニュアルてはない。 (ハイネにおける方法の欠如を

論しるのは後の機会にゆずりたい)

ともあれt fフィレンツェの夜 「第一夜 のエロス,死芸術の叙述は,

芸術家ハイネの官能と;想像力を思う存分ははたかせた結果の形象化と言って

(305)

圃咽.

-34-、

よいであろう。これが非政治的に見えるのは,ハイネ個人の美の世界だから

である。 i第一夜」の枠の終りで合理主義者の医者からアルコールによる書名

前と一笑に付されるのも,この個人性に由来している。医者を登場させたの

はハイネのバランス感覚であろう。

これに較べれば 「第二夜」はいくらかアクチュアリティが増している。す

でに述べたように,英国式の進歩批判,ナポレオンの相対化と時代錯誤性指

摘がそれである。そして 「第一夜Jでくりひろげた官能の饗宴も,ローラン

ス嬢との情事とその奇怪な踊りへの慣れ (つまり 「非日常的美の世界」が日

常的になることで凡庸なものと化し,何の感動も呼ばなくなる〉によって月

並みな男女の関係に堕してしまう。ハイネはここでいわば彼の感覚のユート

ピアの弱点を指摘している。シャンパンの酔いがさめれば,索漠たる日常性

しか残っていない,というわけである。パガニーニ (そして幾分かはハイネ

も)のように芸術にのめりこんでしまえば日常性の無感動とは無縁かもしれ

ない。しかし束の間の陶酔と高揚の聞に長い陰惨な地獄がある。芸術家の生

も含めて, r宗教哲学史』に言うような至福の享楽は 「状態Jとしては実現

不可能なのである。

このことから 『フィレンツェの夜Jが未完に終ったもう一つの理由が考え

られる。少し突飛なようであるが 「第三夜」は書けなかったのである。

「第一夜Jはイタリア風感覚のユートピアの形象化であるが,これは 「第

二夜Jでイギリス,ナポレオンもろとも否定されている。 r宗教哲学史jの

記述からしでも当然ハイネには「ドイツ革命」の理念、があったはずで,論の

順序からいけば, i第三夜」があるとすればドイツが舞台になっていたので

はないか,と想像される。シナリオとしては,解放されたドイツがユートピ

ア的に描かれねばならないのではないか,と思われる。そしてその手前の段

階で,ロベスピエールかダントンかの方法論的な問題にぶつかったのではな

いか,と考えられるのである。

以上は筆者の臆測である。しかし文学作品としては 「第三夜 jは舎かれな

くてよかったのであろう。ポエジーのカは 「第一夜Jの方に集中してあらわ

れているように思われる。A. ザンドアはベケットやプルースト.ワーズワ

スなど,さまざまな文学作品を引き合いに出しながら枠と 「第一夜」を分析

しているが, i第二夜jについてはほとんどふれていない。 i第二夜jは文

学的関心をひかなかったものの如くである。

たしかに{日々の関心事Jを直接の主題とはせずに.個人のエロスのtft

(306)

,uaw当 4

.

, .,

-e

E二

句・

『フィレンツェの夜J解釈の試み ー35一

を追求することでっきぬけて見えてくる価値もあるのであり, r第一夜」に

ついてはその意味で尽きぬ文学的興趣がある,と言えよう。

テクスト

テクストには Heinrich Heine. Samtliche Schriften (hrsg. von Klaus

Briegleb) .Bd. 1・6.Munchen 1968ff. (Bと略記)及び害簡は HeinrichHeine.

Sakularαusgαbe. Hrsg. von den Nationalen Forschungs-und Gedenkstat-

ten der klassischen deutschen Literatur in Weimar und dem Centre

N ational de 1a Recherche 8cientifique in Paris. Bd .21. Berlin und Paris

1970. (H S Aと略記)を用いた。ここからの引用は略号,巻数(ローマ数字),ペー

ジ数〈アラビア数字)で本文にそのつど示した。

1 M.Windfuhr: Heinrich Heine. Revolution und Refleχion. 8tuttgart

1969. 8.199.

2 H.Kaufmann: Heinrich Heine. Geistige Entwicklung und kunstleri

sches Werk. Berlin u. Weimar 1967. 8.157.

3 Vgl. M. Windfuhr: a.a.0.,8.183 u.199.

4 ヴィントフーアを初めとして,たいていは「小説の試みJein Erzahl versuch

と見ているが, D. メラーのように完全に完結していると見る論者もいる。

Vgl. D.Mりller:Heinrich Heine. Episodik und ~Verkeinheit . Wiesbaden

u. Frankfurt a. M. 1973. 8.149.

5 In: Dichter uber‘ ihre Dichtungen. Heinrich Heine (hrsg. von N.

Altenhofer). Bd. 1. Munchen 1971. 8.297.

6 K.Hamburger: Zur Struktur der belletristischen Prosa Heines. 1n: W.

Kuttenkeuler (Hrsg.): Heinrich Heine. Artistik und Engagement.

8tuttgart 1977. 8.36.

7 D.Mりller:a. a. 0., 8.145.

8 E. Grりzlnger:Die n doppelte Buchhαltung". Einige Bemerkungen zu

Heines Verstellungsstrategie in den 11 Florentinischen Nachten“. 1n:

Heine-Jahrbuch 18.Jg. Hamburg 1979. 8.72.

9 D.Moller: 8.8.0.. 8.150.ただしメラーは rフィレンツェの夜Jのユー トピア

(307)

一一一一一一一一一一一一一一ーーーーーーー叫4|

-36-、

性やアクチュアリティを無視している。

10 A.8andor: Auf der Suche nαch der vergehenden Zeit. H eines "Floren-

tinische Nac九te“unddie Probleme der A uαntgαrde. In: Heine-Jαhr-

buch 19 Jg. Hamburg 1980.8.109.

11 E.Grりzinger:a.a.O., 8.66.

12 M.Windfuhr: Zensur und Selbstzensur nαch dem Bundestαgsbeschlus.

Heines IT Florentinische Nachte“. In: J.A.Kruse/B. Kortlander (Hrsg.):

Dαs Junge Deutschlαnd. Kolloquium zum 150. Jahrestag des

Verbots vom 10. Dezember 1835. Hamburg 1987. 8.237.

13 F.Heしbel:Werke. Herausgegeben von G.Fricke, W.Keller u. K.Porn-

bacher. 5.Bd. Munchen 1967. 8.574.

14 Georg Buchner: SamtZiche Werke und Briefe. Hamburger Ausgabe.

Herausgegeben von W.Lehmann. Bd.1. Hamburg 1969. 8.25.

(308)

• .・‘句

-回国・・

-・

4 、