上述三心雖是菩薩戒因,然受五戒者, 又 補充講義無犯戒之罪,然後永不得受五戒,乃至出家受具足。 ,靈峰箋要 ﹁共婬女行婬,與值,無犯。﹂應是不犯上品不
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アルベール ・カミュ作 『戒厳令』について
一三つのマスクを中心に-
神 垣 享 介
〔キーワード〕 ペスト,マスク,男性 ・女性原理,強制収容所,レジスタンス
序
『戒厳令』は1948年10月初演のペストをめぐる戯曲である。内容は前年に上梓され華々しい
成功を収めた小説 『ペス ト』を想起させるものであ り,スタッフや役者 も当代一流の人たち
(演出及び主役のデイエゴにジャン-ルイ ・バロー,音楽にオネゲル,美術にバルナュス,役
者では秘書役にマ ドレーヌ ・ルノー,デイエゴの恋人ヴィクトリアにマリア ・カザレス,ナダ
役にピェール ・ブラツス-ル)を配したにもかかわらず,カミュの言に従えば 《ilyapeude(1)pi色cesquiaientb6n6fici6d'un6reintementaussicomplet.,・上演を目撃することのできなか
ったわれわれは,テクス トを通 してしかこの作品にアプローチする術はないのであるが,一読
すればその原因のいくつかは納得できるものである。テクス トに目を通せば一目瞭然であるが,
作品が発するメッセージ (全体主義批判)があまりにもス トレートであり,そうした類の台詞
の分量が半端でないことや,観客にとってはまだ生々しい近過去であるナチス占領下のフラン
スを直接的に想起させる台詞があまりにふんだんに盛 り込まれていることが挙げられよう。時
代は中世風で,場所はスペインの港町カデイスであっても,劇の筋立ては,ある都市の占領か
ら解放への軌跡を示しているのだからテーマの所在は明らかである。しかし,1944年に熱狂を
もって迎えられたレジスタンスによる解放も,戦後の1948年という時代状況のなかではその輝(2)
きをすでに失い,新たな精神風土がフランスに静かに蔓延し始めていたことも作品の不成功に
寄与したと考えられる。小説 『ペス ト』ではナチスはペス ト菌という象徴で示されていたのに
対 し,舞台ではナチスの制服を着た人間として登場 したのであるから,観客に占領下の記憶
(多 くの者にとっては抑圧 しておきたい,つまりは存在 しなかったものとしておきたい)を
生々しく廷らせたことは容易に推測できる。
しかし,何よりも失敗の原因は作品そのものに求められた。Raymond Gay-Cmsierはデイ
エゴとヴィクトリアを囲むすべての登場人物たちは操 り人形のようだと記 している,くくDiego
etVictoriasontlesdeuxpivotsdelapleCeautOurdesquelstouslesautrespersonnages(3)tournentcommedesmarionnettes.,・さらにFernandeBartfeldは <<Devantlalimpidit6des
allusions,toute6nigmes'6vaporaitetavecelle,touteffettraglque.Lesecretdel'6chec(1)tenaitlargemental'aLbsencedesecret.,,と記 して,偉大な悲劇的作品に必要不可欠な謎の欠
如にその原因を求めているO しかしながら,デイエゴとヴィクトリア以外の登場人物たち (た
とえばわれわれの興味を引 くヴィクトリアの母親,ペス トの秘書,そ して漁師)はGay-
Crosierが言うように果たしてマリオネット的機能 しか持ち合わせていないのか。さらには
Bartfeldが指摘するように,作品には謎や秘密がまったく不在なのだろうか。われわれは作
品で言及される三つのマスクに注目し,それらのマスクが作品中でいかなる機能を有 している
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かを考察の主な主題としたい。最初の二つのマスクはデイエゴに,最後のそれはペス トの秘書
にかかわるものである。それらのマスクはそれぞれ次のような謎と密接に関連している。最初
のマスクは,何故デイエゴは医師にならない (なれない)のかという問題に関わっている。
『戒厳令』では女性原理と男性原理の相克が重要なテーマであることはしばしば指摘されてき(5)たが,ヴィクトリアが否定するその男性原理へとデイエゴを決定的に赴かせる契機にこのマス
クが重要な役割を演 じている。二番目のマスクは,『ペス ト』の主人公たちと異なってデイエ
ゴはペス トと真に戦うまでに,何故に誰の目にも卑劣と思われる行動をとるのかの問題に関わ
っている。三番目のマスクはペス トの秘書が最後に身につけるものであるが,それはペス トの
秘書が何故にデイエゴに執着するのかという問題と密接な関連を持っている。本論文では主に
以上のような観点から考察を進めるが,それに加えて,何故に作品の最後は主要登場人物でも
なく,固有名詞すら持たない漁師の台詞で終わるのか,という問題をも見ていく。なぜなら,
彼の存在こそが,この悲劇的な作品に唯一とも言える希望を暗示しているように思われるから
である。
Ⅰ.なぜデ ィエゴは医師にならない (なれない)のか
カミュは,『戒厳令』はいささかも 『ペス ト』のadaptation(翻案劇)ではないと喚起 して(6)いる。確かに,『戒厳令』はカミュが ドス トエフスキーの 『悪霊』やフォークナ-の 『尼僧へ
の鎮魂歌』におこなったような意味での翻案劇ではない。しかし,誰しもが認めるように 『戒
厳令』と 『ペス ト』は色々な意味で密接な関係を有していることも事実である。たとえば,逆
説的ではあるが,『ペス ト』と 『戒厳令』を比較 した場合,一方ではまったくといっていいほ
ど問題にされないテーマが他方では中心的テーマになっているものがある。その最たるものは(7)
女性をめぐるテーマであるO カミュ自身,くくC'estunepi占ced'amour,,だとJeanGrenierに書
き送っている。一方ではほとんど存在せず,他方では過剰とも言えるその愛の台詞の氾濫振 り
を示す二つの作品は,まったく別の世界を描いていると言えよう。しかし,同じペス トという
主題を扱いながらも,こうした好対照を示す両作品は,その違いそのものによって逆にその密
寺副生の印象をわれわれに与える。さらにはPierre-LouisReyが ・・Quantauxprotagonistes、t=desdeuxoeuvres,ilsneseressemblentguとre,m8mes'ilssontl'unetl'autrem6decins,,・
と指摘するように,主人公たちはともに医師という職業を選びながらも似てはいない。リュ-
は医師としての職務を忠実に果たすのに対 して,デイエゴはついに医師にはならず,反抗者の
リーダーとして息絶えるからである。確かに,『ペス ト』では疾病としてのペス トが問題であ
り,『戒厳令』では人格化されたペス トという違いがあり,前者では医師という職業がはるか
にペス トに対 しては有効だと言えなくもない。しかし,デイエゴの場合,そうした理由だけで
医師にならない (なれない)のではない。たとえ彼が 『ペス ト』の登場人物だとしても,おそ
らくは医師にはならない (なれない)であろう。つまり彼の場合,ペス トが純粋に病原菌か,
それとも人格化 した形で現れるかの問題ではないからである。それは,愛の女性原理に忠実な
彼の恋人ヴィクトリアの存在がそうさせると考えられるからである。したがって,『戒厳令』
はリューのような医師にはなれなかった主人公の物語であり,ある意味,リュ-がそうなった
かもしれない別の運命の物語として読むことができるだろう。つまり,発表された順とは逆に,
『戒厳令』の世界は 『ペス ト』では描かれることのなかったリュ-のあり得たかもしれない前
史の世界を措いたものとも言えよう。以下では,デイエゴが医師にならない (なれない)過程
をテクス トに即して見ていきたい。
アルベール・カミュ作 『戒厳令』について 3
デイエゴとヴィクトリアが一緒に登場する最初の場面そのものが,これから彼ら二人を待ち
受けることになる運命を暗示している。彼と彼女はヴィクトリアの家の窓の柵越しに相対して(9)
いる,d laFenatredeVictoria.Victoriaderri占relesbanTeauXetDieg0.,,(p.199)婚約をし
たばかりの二人は甘い愛の言葉を噴き合うが,二人の間には窓の柵が立ち塞がっている。そし
て,彼が柵に近づ くと,腕を伸ばして彼の肩をつかむのは彼女である,《IE approche et,
passantsesbrasatrauerslesbaTTeauX,elleleserreaukepaules.,,(p.200)二人の愛をリー
ドするのはヴィクトリアであり,いくら彼女が彼を捕らえようとしても二人の間には決して越
せない柵-障害物が存在する。その柵-障害物はある時は恐怖であり,またある時にはペスト
の秘書ともなろうが,その最大の障害物はやはり女性原理と男性原理の相克であろう。その女
性原理を端的に表しているのが,ヴィクトリアがデイエゴを捜し求めて何度か発する くくDiego,
oBestDiego?,,(p.208,p.212)という台詞であろう。しかし,彼は<<0血estVictoria?,,とは
決して言わない。その代わりに彼の場合はくく0血estl'Espagne?0血estCadix?,,(p.248)で
あり, ・<Jenesaisplusoもestledevoir.,,(p.258)なのであるO女性原理が具体的なもの
(肉体,餐,自然,大地,可能なもの,etc)に向かうのに対 して,男性原理は抽象的なもの
(名誉,思想,義務,不可能なもの,etc)を志向しているのは明白である。だが,この二つ
の原理は常に相反するばかりではなく,死の直前にデイエゴが,一緒に死のうと訴えるヴィク
トリアに ・<Non,cemondeabesoindetoi.Ilabesoindenosfemmespourapprendreavivre.,,(p.297)と言うように,女性は男性を導き,教える役目を担っているのである。だが,
あまりにも女性原理が過剰である場合,教え,導くよりも,男性から彼が果たすべき本来の職
務を奪ってしまうこともあり得ると考えられる。
デイエゴは医学生として登場する (p.191)。彼は幸福になることに専念 しているが,それ
は長い仕事であり,その仕事は同時に街と田舎の平和を求めるものであることも理解している,
・Jedoism'Occuperd'6treheureux.C'estunlongtravail,quidemandelapaixdesvilleset
des campagnes.,・(p.196)つまり,彼にとっては,幸福になるためには街と田舎の平和が前
提条件なのである。したがって,平和が乱されるときには幸福はありえないことを意味してい
よう。その平和を乱す原因が疾病であれば,平和を取り戻すために病疫に医師として立ち向か
うことが彼の職務となろう。『ペスト』の場合と同じく劇中劇として演じられている舞台で役
者が突然に倒れるが,その場に居合わせたデイエゴは真っ先にその役者のもとに駆けつける0
しかし,その男を診断するのは後からきた医者たちなのである,《Diegorend la Foulequi
s'ecaTlelenteTnentetdb'couurel'hoTnme.Deuxme'decinsarriuentquiexaminentlecorps.,,
(p.206)こうした彼の態度は医学生として当然であろう。しかし,まだ完全には医師として
認められてはいないので診察をほかの医師たちに任せるしかない。医師たちはこの役者の死因
をペス トと診断する。当然人々は錯乱状態になり,舞台は混乱する。こうした状況の中でデイ
エゴがどのような行動を取っているのか舞台上では分からない。なぜなら,この後,場面は教
会,宮殿,判事の家と目まぐるしく変わるからである。そうした場面の合間にヴィクトリアは
・・Diego,oBestDiego?,,と彼を探し回る。ペストが発生したことを知りながら,医学生の彼が
いるべき場所の見当も付かないほどに,彼女は彼の医学生としてのアイデンティティをまった
く失念しているとしか思えない。彼女の二度目の ・くDiego,OもestDiego?,,(p.212)という呼
びかけに一人の女性が彼の消息を教える,・・Ilestaupresdesmalades.IIsoigneceuxqui
l'appellent.,,(p.212)彼は医学生として当然予想される場所におり,病人の世話をしている
のである。しかし,ヴィクトリアにとっては彼の医学生としての職務よりも,二人の愛が先行
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する。上で挙げた女性の台詞の後に置かれているト書きと,その後に続 く彼らの台詞がそのこ
とをよく示している。
く・ElleWictoria)courtAuneextrdmitedelasc~neetseheurte丘Diegoquiportele
masquedesme'decinsdelapeste.Ellerecule,poussantuncri.
DIEGO(doucement).
JetefaisdonesIPeur,Victoria?
VICTORIA(dansuncri).
Oh!Diego,C'estenfintoi!Enlらvecemasqueetserre-moicontretoi.(...)etjeserai
sauv6edecemal!"(p.212)
ここで注目すべきなのは,ヴィクトリアがデイエゴの被っているペス トの医師のマスクを異
様に怖がっていることである (ト書きは二度も彼女の叫びに言及している)。それは,そのマ
スクが死に密接に結びついていることを彼女が本能的に感 じ取っているからであろうCなぜな
ら,死こそは愛にとって最大の障害物であるから。だからこそ,このマスクを脱ぎ,自分を抱
きしめてくれるよう,そうすれば自分は救われる,と彼に言うのであろう。だが,それは彼女
の側の論理にすぎないのではないのか。デイエゴを愛するということ,それは彼の医学生とし
ての義務をも含めて彼を十全に受け入れることではないのか。しかし,彼女は彼を医学生とし
てまったく認識していないように思われる。上で挙げた引用に続けて彼女は次のように言う,
・Qu'ya-t-ildechang6entrenous,Diego?Voicidesheuresquejetecherche,couranta
traverslaville,6pouvant6eal'id6equelemalpourraittetoucheraussi,ettevoiciavec
cemasquedetoum entetdemaladie.Quitte-le,quitte-le,jet'enprieetprends-moi
contretoi!(Ilenleuesonmasque.),,(p.212)二人の間に生じた変化とは,デイエゴが医師の
マスクをつけることによって完全に彼が医師というアイデンティティを選んだことであろう。
しかし,彼女にとっては医師のマスクは苦悶と病気の象徴でしかない。IsabelleCielensが次
のように指摘するのは正しい,くくUnmasque,quelqu'ils°it,S'emploiepourmarquerun
changementd'identit6.Camusveutsoulignerparcesym bole queDiego,enfaisantson(10)choix,arenonc6aunepartdelui-m8me- 1apartdel'amour.,,しかし,続けて彼女は
・くD'ailleurs,Diegoconfirm ecechangementunpeuplusloinend6clarant:・くJenemellいreconnaisplus.,,,,と記しているが,その指摘にわれわれは同意できない。なぜなら,デイエ
ゴが くくJenemereconnaisplus.,,(p.213)と言うのは,マスクをつけたからではなく,反対
にヴィクトリアの執掬な懇願によって医師のマスクを外 したからだと考えられるからである。
マスクを外すこと,それは象徴的な意味において 『戒厳令』の一つのテーマともなっている。
なぜなら,ペストの出現で人々はこれまでつけていたマスクをかなぐり捨て,われ先に逃げ出
そうとして自らの卑劣な本性をさらけ出すからである。たとえばペスト以前にカデイスの街を
統治していた総督たち,判事,司祭たち <<Chr6tiensd'Espagne,vous6tesabandonn6S!,,(p.
226),さらには街から脱出しようとしてエゴイズムに走る民衆たち。つまり,Gay-Crosierが
指摘するような,・くIesbourgeoisdeCadixlaissenttomberleursmasquesetselivrentaun(12)opportunismeabject,,状況下にあっては,逆にマスクを被る行為はエゴイズムや日和見とは
相反する道を暗示しているように思われる。マスクをつけることでデイエゴは医師としてのア
イデンティティを選んだ (街と田舎の平和を取り戻すために)のに,そのマスクを外すことは
そのアイデンティティを失うことにはかならない。医師としてのアイデンティティを失ったが
ゆえに,彼は く.Jenesaismemepluscommentprendreceshommesetlesretournerdans
アルベール・カミュ作 『戒厳令』について 5
leurlit.,,(p.213)とも,くくJenesaisplusoもestledevoir.,,(p.258)とも言うのであろう。
しかし,マスクを外 したからといってもまだそのマスクの余韻は残っている。彼に近づいてく
る彼女に,まだ残存する医師としての良心から くくNemetouchepas.Peut-gtred6jalemal
est-ilenmoietjevaisteledonner.(".)IIsm'appellentpourtant,tuentends・Ilfautque
j'yaille.,,(p.213)と言うのはしごく当然であろう。しかし,マスクを外 した彼はこれまで決
して口にしなかった 「怖い」という言葉を洩らす,《Ilmesemblequej'aipeur.,,(p.214)柄
気を怖いと思い,それを口にする瞬間から彼の医師としてのアイデンティティはぐらつき始め
た筈である。その証拠に,これ以降の彼は,彼が赴いた筈の病人の傍にはおらず,つまりは医
師としての属性を完全に失って登場するからである。彼がこのように医師としてのアイデンテ
ィティを失うのは,全体主義をあからさまに表象する登場人物ペス トが舞台に現れる以前,つ
まり純粋に疾病としてのペス トの渦中であったことは興味深い。ここにリュ-とデイエゴの違
いをはっきり見ることができる。1)ユーは,愛は何物にも換えがたいほどに重要なものだと認
識 しているが,何故だか知らないが自分はそれから目を背けてしまったと告白している,
・・Rienaumondenevautqu'onsed6toumedecequ'onaime. Etpourtantjem'en(]3)d6tourne,moiaussi,Bansquejepuissesavoirpourquoi.,,リユーはその理由は分からないと
記しているが,デイエゴがそうあり得たかもしれない医師としての彼はその理由を十分承知し
ている筈である。では,医師にならない (なれない)デイエゴは,リュ-がそれから目を逸ら
す愛に完全に身を投 じるのか。そうであるなら話は簡単である。だが,彼はマスクを外したこ
とで医師としてのアイデンティティと同時に,それ以前に有 していた筈の良識ある人間として
のアイデンティティ (愛する人間としてのそれも含まれる)をも失っているように見受けられ
る。
Ⅰ.何故デ ィエゴは卑劣な行為に走るのか
これまでペス トの医師のマスクの機能を中心にデイエゴが医師になれない理由をみてきた。
しかしマスクをめぐる話はこれで終 りとはならない。なぜなら,第二部でもう一度彼はマスク
をつけて登場するからである。マスクに注目してきたわれわれにとって,今回下書で言及され
るそれは不可解としか言いようがない。まずその場面を見てみよう,《LuTni~reau centre.
OnapeT・COitende'coupuredescabanesetdesbarbele'S,desTniradorsetquelquesautres
'nonumeTuShostiles.EntTeDiegouetudumasque,l'alluretT・aque'e.,,(p.248)第--部と風景(14)が完全に変わっていることが分かる。明らかに強制収容所のイメージが支配的である。追い詰
められたような様子で登場するデイエゴがつけているマスクは一体何を意味 しているのであろ
うか。実際の上演ではこのマスクがどのようなものであったか詳らかではないが,常識的には
第一部でつけていたマスクと考えられよう。しかし,すでに見たように,医師のアイデンティ
ティを失った彼がこのマスクを再び身につけているとは考えにくい。さらに不思議なのは,そ
のマスクを外す言及がないことである。だが,皆は何の蒔曙いもなくデイエゴだと認識するの
であるから彼がマスクを終始被っているとは考えられない。それゆえこのマスクについては次
のように考えることができるのではないか。上で引用した ト書きのすぐ後で彼は くく0心 est
l'Espagne?0血estCadix? Cedecorn'estd'aucunpays!Noussommesdamsunautre
mondeohl'hommenepeutpasvivre.,,(p.248)と言っているo背景はどこの国のものでも
なく,そこでは人 (男)が生きてはいけないような別の世界なのである。どこにもないような
世界では,人は誰のものでもないような顔を持たざるを得ないのではなかろうか。したがって
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ここでデイエゴがつけているマスクは,それまでのアイデンティティ (彼を支えていた価値)
を失った顔,つまりこの第二部での彼の顔 (敢て言えばデイエゴというマスク)を象徴するも
のであり,それゆえマスクを外す言及もないのではなかろうか。さらに言えば,このマスクは
別のものによって象徴されていると考えることができる。つまり,デイエゴにつけられるペス
トの印 (marque)である。マスクをつけて登場 した彼は,そのマスクを外すという言及もさ
れることなくペストの印をつけられてしまう,《Marquez-le.,,(p.249,p.250)そして判事は
デイエゴが臓にmarqueを持っていることを示す,i(Il(lejuge)TnOntT・edudoigt丘Diegola
marqueqzL'ilportemaintenantal'aisselle.,,(p.251)masqueに注目してきたわれわれにと
っては 。Marquez-le,,を 《Masquez-le,,と読み替えてもさほどの不都合はない。このmarque=
masqueこそがデイエゴを,何のアイデンティティも持たず,ただ恐怖によって本能のままに
卑劣な行為に走る人間にしてしまうのである。
デイエゴは医師のマスクを外 したがゆえに くくIlmesemblequej'aipeur.,,(p.214)になっ
た,とわれわれはすでに指摘 した。ここでも彼はコーラスに くくJ'aipeuraussi.,,(p.248)と公
言する。そしてペス トに向かって くくNoussommesinnocents!》(p.249)と言う。ペス トはせ
せら笑い,彼にmarqueをつけ捉えるよう命令するが,彼は恐怖に駆 られて一軒の家 (カサ
ド判事,つまりはヴィクトリアの家)に逃げ込む。この家での展開は,Grenierが感動的と許(15)
した判事と妻の情景を含むと同時に,デイエゴが自らの卑劣さをさらけ出す重要な場面である。
ここでは,卑劣さ (lachet6)のテーマを中心に見ていこう。この作品では卑劣さのテーマは(16)
いくつかのケースにおいて見られる。だが,最大の卑劣さは,未遂に終わるとはいえ判事の子
供 (つまりヴィクトリアの弟)にペス トを感染させようとするデイエゴの行為であろう。判事
は聞入 してきたデイエゴに出て行 くように,さもなければ告発すると脅す。それに対 してヴィ
クトリアは くくPere,1'honneurvousledefend.汁(p.253)と諌めるが,判事は く・L'honneurest
uneaffairedhommesetiln'yaplusdhommesdanscetteville.,,(p.253)と応酬する.そ
の判事の台詞に挑発されたかのように,。Diego(..)saisittoutd'uncoupl'enfbnt.,,(p.253)
そして くくsitufaisunseulgeste,j'6craserailabouchedetonfilssurlesignedelapeste.,,
(p.253)と言い放つのである。ヴィクトリアは くくDiego,ceciestlache.,,(p.253)と言うが,
彼は くくRienn'estpaslachedanslavilledeslaches.,,(p.253)と反論する.まさに,これま
でのアイデンティティを失い,marque=masqueの呪力に捉われたデイエゴを象徴するような
言葉であろう。そして彼の行為が最大の卑劣さのようにみえるのは,それが子供殺しのテーマ
に結びついているからであるO カミュは 『戒厳令』と同年の1948年に応 じたあるインタヴュー
で次のように語っている,<・Ilyalamortdesenfantsquisigni丘el'arbitrairedivin,maisil
yaaussilemeurtredesenfantsquitraduitl'arbitrairehumain.Noussommescoinc6s(17)entredeuxarbitraires.''神の専断を意味する子供の死については 『ペス ト』で,ペス トで死
ぬオ トン判事の子供のエピソー ドが感動的な筆致で措かれているO『戒厳令』では人間の専断(IS)
を意味する子供殺 しは,未遂に終わるとはいえ明らかにデイエゴの行為によって象徴されてお
り,彼はもはや決 してinnocentではあり得ないだろうし,名誉も失 したのである。だが,こ
うした暴挙から彼をかろうじて救うことになるのは判事の妻である。子供を楯にとって自分を
匿うように脅迫するデイエゴに,判事はそれは法に背 くことになるといって断る。さらにはそ
の子供が妻の不貞の産物であることもばらしてしまう。それに対 して妻は次のように反論する,
・(Jecrachesurtaloi.J'aipourmoiledroit,1edroitdeceuxqulaimentanepasgtre
s6par6S,ledroitdescoupablesagtrepardonn6setdesrepentisa台trehonor6S!,,(p.255)
アルベール ・カミュ作 『戒厳令』について 7
妻は自分の側の権利として,愛するものたちが離れ離れにされない権利,罪びとの赦される権
刺,改俊 したものたちの讃えられる権利を主張する。妻のこうした反論は判事よりもデイエゴ
に向けてなされる一種の教えのように見える。なぜなら,今の彼の振舞いはそうした権利にま
ったく値 しないからである。Bartfeldは <・Ilestaremarquerqu'Abiendes6gards,unh6ros
commeDiego,capabledelachet6scommed'initiativescourageusで5,3曲 eun6quilibreplusheureuxd'innocenceetdeculpabilit6quetelh6rosdeLaPeste.,,と記しているが,チ
イエゴがそうした権利を得る可能性のためには,いま彼がなそうとしている卑劣な行為が重大
であればあるだけそれにつり合う頗罪行為が必要とされよう。デイエゴの最後の悲劇的な死は,
ある意味で,彼が犯そうとした子供殺 しの必然的な購罪行為だったとも言えよう。判事の妻に
話を戻すと,彼女は次のようにも言う,・<Etjediraiaumoinsacelui-ci(lejuge)qu'iln'a
jamaiseuledroitdesonc6t6,carledroit,tuentendsCasado,estducat6deceuxqui
souffrent,g6missent,esp色rent.,,(pp.255-6)この台詞も判事よりもデイエゴを直撃 した筈
である。なぜなら,苦 しみ,叩く人々というイメージは彼の医師としての義務を想起させるに
違いないからである。その言葉に気圧されたかのように くくDiegoalache'l'enfanか,(p.256)
この妻の役 目は,夫のこれまでの卑劣な行為を言い立てる (p.255)ことで,デイエゴにも彼
の行為の卑劣さを教えることにあろう。そして彼女の教えの中核をなすのは,カミュが1947年
に記した く(Maislalachet6etlecrimedel'adversairen'excusentpasqu'ondeviennelache(20)etcriminel.'' というメッセージであろうoそれゆえにデイエゴに恥ずかしさの感情が生じる
のである,<くJ'aihontedevoircequenoussommesdevenus.''(p.256)こうした差恥の感情
から逃れるかのように,彼は判事の家を出るのだがヴィクトリアも彼の後を追う。そして彼ら
が落ち合い,抱擁を交わそうとする瞬間,二人の間に突然ペス トの秘書が現れデイエゴに三つ
目のmarqueをつける。つまり,この二つ員のmarqueによって く・Vous6tiezsuspect.Vous
voilacontamin6.,,(p.260)となったのである。ここから,ペス ト感染者として死を自覚した
彼のエゴイズムが始まる。彼は自分ひとりで死ぬことを拒み,彼女に くくMeursdumoinsavec
moi!・,(p.260)と哀願するが,彼女は <<Avectoi,maisjamaiscontretoi! Jed6testece
visagedepeuretdehainequit'estvenu!Lache-moi!Laisse-moilibredechercherentoi
恐怖と憎悪に満ちた今のような顔をしている彼は受け入れられないのだ。恐怖と憎悪のこの顔
こそが,これまで見てきたような彼の顔 (masque=marque)を表象 していよう。だからこそ,
彼女は彼のなかに昔の優 しさ-彼が失ったアイデンテ ィティを求めるのであろう。彼は
・<Embrasse-moipour6touffercecriquimonteduprofonddemoncorps,,,(p.261)と懇願
する彼女の言葉を受け入れ彼女を抱きしめるが, (・pzLisils'arT・ached'elle,,(p.261)のである。
そして自らの昔のアイデンティティを思い起こしたかのように,<<D6sormais,jesuisavecles
autres,avecceuxquisontmarqu6S!(...)MaiSfinalement,jesuisdanslemimemalheur,
ilsontbesoindemoi.汁(p.261)と決意を示すが,この決意も彼女の強い愛の訴えの前ではぐ
らついてしまう。明らかに愛と義務の相克が見られるが,この相克のなかで彼が選ぶのは海に(21)
逃れるために街を脱出することなのである。このエピソー ドでも彼は卑劣さを示してしまう。
ペス トから逃れて海の上で暮らしている人たちに食料を配達している船頭にデイエゴはこうし
た行為は禁じられていると言うが,船頭は自分は字が読めないし,この禁止令が出たときには
海にいたからと論弁をもって答える。その論弁に答えてデイエゴは,そうであるなら自分を海
に連れて行 くのも何ら差 し支えな い 筈だと言う。まるでカサ ド判事の論理に染まったかのよう
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な理屈である。さらには,船頭がペス ト菌を持っているかも知れない人間を連れて行くことは
海に逃れている人たちから禁止されていると言っても,デイエゴは耳を貸さず必要なお金を払
うとしか言わないのである。marque=masqueの力学が彼の行動を律 していると考えるほかな
い。この脱出のエピソードの直前に,ヴィクトリアから 《Laisse-moitereconnaitre … ,,(p.
264)と言われても ・<Diegorecule,montrantsesmarques,,(p.264)のは,今の自分の顔
(marque=masque)には昔のアイデンティティが何もないことを十分に承知しているからで
あろう。彼は最終的には反抗の行動に赴くのだが,それには当然のことながらこのmarque=
masqueを捨てなくてはならない。だが,それは彼の力だけではなく,ペス トの秘書の導きに
よってこそ初めて可能となり,そしてそれが翻って秘書自身のマスクのテーマにつながるので
ある。
Ⅱ.何故秘書はディエゴに執着するのか
ペス トの秘書は本来,偶然と結びついた自由で自然な死を司る存在であったo <'J'6taislibre
avantvous(Lapeste)etassoci6eaLVeClehasard.Personnenemed6testaitalors.J'6tais
cellequiterm inetout,quifiⅩelesamours,quidonneleurform eatouslesdestins.,,(pp.
293-4)が,今ではペス トという全体主義に絡めとられ,人々が くくmOurirdamsl'ordre,,(p.
229)管理の役目を担っている。だが,彼女はペス トに仕えながらも,完全には本来の資質を
失ってはいない。ペス トは完壁な仕事振りを示す彼女に,<<Vousavezl'attendrissementtrop
prompt,ch色reamie,Vouseprouvezlebesoind'6trecompnse,C'estunefautedansnotre
m6tier.,,(p.241)と言って彼女の反抗をすでに予言している。MichelBarr6は1998年に 『戒
厳令』を演出した経験から,秘書こそが くくlafiguremaitressedel'oeuvre,,であると見抜き,
続けてマスクと彼女の関係について次のような指摘をしている,・・L'actricen'apujouerjuste
tantquesonevolutiontoutaulongdel'oeuvren'apas6t6clairementper9ue. Pour
pouvoirl'incarner,ilabien fallu admettrequ'au debutdel'oeuvreils'agitd'un
personnagemasque,d6voy6desesfonctionsparletotalitarismeetquecen'estque
lorsqu'ell忘,Prendlemasquedelamortqu'eller6Vとlesonidentit6Veritable :lamortnaturelle.''Barr6が,前半部の秘書は,全体主義に仕えることで彼女の本来の職能 (自然の
死)を踏み越えたがゆえに本来の姿ではないマスクを付けていると指摘しているのは興味深い
(テクストではマスクの言及はないが)。デイエゴと秘書は本来のものではないマスクをつけ
た,ある意味において似た者同士なのである。その二人がマスクのテーマを介在として互いを
本来の姿-と返すのである。
デイエゴが船頭の船に乗り込もうとした瞬間,彼を妨げるのは秘書である。なぜなら,彼こ
そが彼女を本来の姿に戻すことができるからである。彼女はここでの彼との会話は正規のもの
ではないと言い,自らの疲れと投げやりの気分を告白する,i(cen'estpastr占sr6glementaire
cetteconversationquej'aiavecvous.Lafatiguemerendsentimentale.Avectoutecette
comptabilit6,dessoirscommecesoir,jemelaissealler.,・(p.268)彼女は秘書としてでは
なく個人としてデイエゴに相対しており,ペストを裏切ることになることも十分承知している。
彼女は彼を挑発するoまず手始めに船頭をノー トから抹消-殺す。それについて彼女は,
・Oh!Jel'aifaitsansypenser!Tiens,C'estlebatelier!Unhasard!,,(p.270)と言う。こ
の台詞の直後の ト書きで 《Diegos'estleue'etlaT・egaTTdeaL,eCde'goateteqT10i.,,(p.270)と指
示され,そして 《Lecoeurmevientalabouchetantvousmer6pugnez!,,(p.270)と彼は
アルベール・カミュ作 『戒厳令』について 9
(23)
言う。ここに不条理な偶然の死の目撃者となったデイエゴの反抗の瞬間があると考えられる。
なぜなら,ペス トが言うように <くParlehasard.C'estplusfrappant.,,(p.279)だからであり,
これ以降明らかにデイエゴの態度に変化が見られるからである。ペス ト体制では偶然による死
は禁止されている,くくApartird'aujourd'hui,vous allezapprendreamourirdansl'ordre.
Jusqu'icivousmouriezal'espagnole,unpeuauhasard,(…)Maisheureusement,ce
d6sordreva8treadministr6.汁(p.229)秘書は船頭の偶然の死を演出することで,ペス トを
裏切ると同時にデイエゴを反抗へと向かわせることになる。秘書が発する 「偶然」という言葉
に反応 したかのように彼は彼女に向かって くくTuez-moidonec'estlaseulefaGOn,(…)de
sauvercebeausyst台mequinelaisserienauhasard.,・(p.270)と言い,その直後にはこの
偶然がペス ト体制に村する有効な武器であることを認識する,・くMaisjevousenpr6viens,un
hommeseul,C'estplusg昌nant,GaeriesaJOleOusonagOnie.Etmoivivant,jecontinuerai
ad6rangervotrebelordreparlehasarddescris.,,(p.271)この後も反抗に目覚めたデイエ
ゴの台詞が続 くが,秘書は彼の言葉をあざ笑い,さらに挑発 していく。そしてついに彼は彼女
-死を殴りつけるのだが,そのとき,それまでついていたmarqueも壊 してしまう,くくEllerit.
IllagiPe(.‥)Matsdamsl'elan,Diegoae'crasdsamarque.汁(p.272)何が生 じたのか理解で
きない彼に彼女は言う,《Vouslevoyez.Lamarquedisparait.Continuez,vous8tessurla
bonnevoie.,,(p.272)ここに至って彼のmarque=masqueは消えるのだが,それは秘書の挑
発-導きが与ってのことである。さらに彼女はペス ト体制に存在する欠陥の秘密さえも彼に教
えるのである,くくtlyaunemalfacon,monch6ri.Duplusloinquejemesouvienne,ila
toujourssuffiqu'unhommesurmontesapeuretser6Voltepourqueleurmachine
commenceagrincer.,,(p.273)彼女は くくVOuSl'aveztrouv6toutseul."(p.273)と言うが,
そうでないことは明白である。そして,まだ怖いか,と問う彼女に彼は怖 くはないと答えるの
だが,すでに秘書-死を殴 りつけているのだから当然であろう。それに対 して,彼女は
・Alors,jenepuisriencontrevous.Celaaussiestdanslerとglement.,・(p.273)と言って
彼の行動の自由を保証する。そしてmarque=masqueの消えた彼が最初に遭遇するのが病人
であることは,昔の医師としてのアイデンティティが一時的にしろ復活したことを暗示してい
るように見える。
第三部でのデイエゴは医師としてではなく,反抗者のリーダーとして民衆を導 く。しかし彼
らは日和見的に状況に応じて彼の側とペス トの側で揺れ動 く。ここでも秘書はデイエゴのため
に教育的場面を設定しているように見えるO それは,わざと民衆が彼女から死の手帳を奪うよ
うに仕向け,その手帳を手にした民衆がいかなる行動に及ぶかを教えるのである。民衆の手に
渡った手帳をヴィクトリアの妹が奪い,そこからヴィクトリアの名前を削除してしまう。そし
て再びその手帳を取り返した彼らはヴィクトリアの妹の名前を抹消する。一人の男の 《C'est
vrai qu'ilyaquelquesnettoyagesafaire! Etl'Occasionesttropbellederatatiner
quelquesfilsdegarcequisesontsucr6spendantquenouscrevionsdefaim!,,(p.283)と
いう台詞は明らかに,戦後の村独協力者粛清問題において最初は支持したが,その行過ぎを見
るにつけ粛清が完全な失敗だったと認めざるを得なかったカミュ自身の苦い経験を反映してい
よう。ペス トに代わって人間が死を司ることは別のペス トになることにほかならない。本来の
自然の死のマスクを求める秘書が,こうした教訓をデイエゴに示すのは当然であるO
デイエゴの陣営が優勢となり,ついにはペス トを追い詰めたように見えたとき,ペストは瀕
死のヴィクトリアを人質として楯に取るが,デイエゴは自分が彼女の身代わりとなって死ぬこ
10 天 理 大 学 学 報
とを申し出る。だがペストは逆に,ヴィクトリアを救うには,デイエゴ自身の命と引き換えか,
街の自由と引き換えか,どちらかを選ぶように言う。選択を迫られて彼は自分の命との引き換
えを選ぶ,なぜならくくL'amourdecettefemme,C'estmonroyaumeamoi.Jepuisenfaire
cequejeveux・Maislalibert6deceshommesleurappartient.Jenepuisendisposer."
(p,289)からである。確かに彼はヴィクトリアの命を救うために,そして人間たちの自由の
ために自らの命を犠牲にするのだが,マスクのテーマを追ってきたわれわれには,デイエゴが
死を選ぶのは同時に秘書をその本来の姿に返すためのように見える。そして本来の自由で自然
の死に立ち返った彼女の最初の仕事は,皮肉にもデイエゴに死を与えることなのである。ペス
トに死の準備はできたか,と問われて彼は くくJesuisprat.,,(p.292)と答える。そしてペス ト
は秘書にデイエゴを殺すように命じる。彼女の気の進まない様子に苛立ったペス トは くくD6ja
fatigu6e,hein!》(p.293)と言 うが,まさにその ときに彼女は変化するのである,くくLa
secrdiairefailouidelataleetdamslemβTnemOTnentellechangebrusqueTnentd'appaT-ence.
C'estuneuieillefe'n'neau'nasquede'nort.,,(p.293)デイエゴの自発的な死の覚悟が彼女
を本来の姿に戻したと言えよう。彼女の 《Ilm'achoisielibrement.Asamaniらre,ilaeu
piti6demoi.J'aimeceuxquimedonnentrendez-vous.,・(p.294)という台詞がそれを証明
していよう。もし彼がペストの取引に応じて街の自由を引き渡してしまうなら,秘書は相変わ
らずペストに従わなくてはならないだろう。人間たちの自由のなかには当然,自由で自然の死
もふくまれているはずである。人間たちに自由を返すこと (死を自由に選ぶこともそこに含ま
れる),それは同時に秘書をペス トから解放することでもある。ある意味,秘書の解放へと向
かう力学こそがこの作品を律しているように見える。それゆえ,愛よりも義務を選んだとして
デイエゴを非難するヴィクトリアや女たちの訴えも,秘書の くくNepleurezpas・(別femmes・Laterreestdouceaceuxquil'ontbeaucoupaim6e.、,(p.299)という最後の台詞の前では沈黙
せざるを得ない。こうした意味において,MichelBarr6が秘書を <.lafiguremaitressede
l'oeuvre''と命名した理由も納得できようO
Ⅳ.なぜ作品は漁師の台詞で終わるのか
デイエゴは自ら死を選ぶことでヴィクトリア,街,そして秘書を解放した。しかし,ペス ト
の退場とともに昔の統治者たちが帰ってきて互いに勲章のやり取 りをする。ナダは言う,くくils
sed6corent!(…)Celui-ci(Diego),quej'aimaismalgr61ui,estmortvole.,,(p.299)さらに
は民衆の姿も漠然としており,作品中では日和見的な姿が強調されていた。東浦弘樹は次のよ
うに指摘している,・・Lar6voltedeDiegoestuner6voltesolitaire.(...)Ildirigecertesleg
habitantsdeCadix,maisceux-Cinesontqu'unefouled6sordonn6e.(...)C'estenvainque
leP8cheurerie,danslademieretiradedelapiece,1abeaut6du<<peuplequinec6dera(2S)jamais》.Ilnoussemblequecetteafnrmationn'aaucunfondementdamslapiece.、,確かに
東浦が指摘するように,作品の最後はデイエゴの犠牲がナダの言うように無駄な死であるかの
ような印象を与える。しかし,まったく作品に希望はないのであろうか。われわれは,作品の
終結部で 「決して屈服しない民衆」を叫ぶ漁師の存在に注目し,彼こそが自らの表明に根拠を
与える登場人物になりえる可能性を有 していないかを検証してみたい。
漁師が最初に登場するのは,第一部の聾星の出現による不吉な予兆を暗示するプロローグが
終わり,いつもの市場の日常が演じられる場面の冒頭である,《LaplaceduTnarChe/apparatt.
Lechoeurdupeuple,conduitpat.legpacheurs,lareTnPlitpewapew,exultant.,,(pp.196-
アルベール・カミュ作 『戒厳令』について ll
7)ここで興味深いのは,漁師が複数形で示されていることである。これ以後漁師は常に単数
形で登場するが,固有名詞を持たず漁師という普通名詞で指示される彼は,その背後に存在す
る複数の漁師たちを代表する集合的人物であると考えられる。さらには民衆のコーラス隊が彼
らによって導かれて (conduit)いることである。海に生きるカデイスの街の民衆が彼によっ
て導かれているのは当然と言えば当然である。だがペストの命令によって街の門は封鎖され,
コーラスが く<Noussommesles丘Isdelamer.C'estla-bas,C'estla-basqu'ilnousfaut
arriver,,(p.224)と言ってもそれはもはや不可能なのである.港-出ることを禁じられた民
衆のなかで最もその損害を被るのは漁師であろう。それゆえ,彼こそがペス ト体制において具
体的な全体主義的不条理を身をもって体験する唯一とも言える人物として選ばれたのであろう。
第二部の冒頭で再び漁師は現れるが,このときも彼はト書きで くくC'estlecoTyPhe'e.,,(p.232)
とわざわざ指示されている。その彼は秘書に身分証明書を作るよう命じられる。なぜなら くくEt
legrandpnnclpedenotregouvemementestjustementqu'onatoujoursbesoind'un
certi丘cat.,,(p.232)だからである。このときから彼の証明書を求めるための不条理な手続き
が始まる。期限付きの身分証明書を得るにはその前に健康証明書を交付 してもらう必要がある
と秘書に言われて一時退場するo再び登場した彼は,<<auecunefTureurcroissante"(p.239)
その健康証明書には先ず身分証明書が必要と言われて送り返されてしまったと秘書に言う。そ
して,その身分証明書を自分は得ることができるのかと問う彼に,彼女は原則的にはできない
と言うが,特例として一週間の期限付きのものを交付することに同意する。この場面が重要と
思われるのは,ここで漁師が怒りの所作を示し反抗の初段階を暗示していることと,デイエゴ
と初めて対面する (会話を交わすことはないが)からであるo以後しばらく彼は登場しない。
再び彼が登場するのは,すでに言及 した秘書の挑発-導 きによってデイエゴがmarque=
masqueを壊し,ペスト体制の欠陥の秘密を見出した場面の直後に置かれた ト書きにおいてで
ある,・・Diegosetale,regardeencoresamainetsetournebrusquementdamsladirection
desge'missements,qu'onentend.IIua(...)uersunmaladeb丘illoTme.(...)Diegoauancela
malt"erSlebaillonetleddnoue.C'estlepGcheur.IIsseregardentensilence.,,(pp.273-
4)猿轡を解かれた彼はデイエゴに くくBonsoir, frere,,(p.274)と語りかけ,それに対して
・Diegoluisourか (p.274)のであるoこの場面は作品中で唯一とも言える心の和むシーンで
あり,明らかに友愛 (fraternit6)の芽生えの瞬間を感じさせる。
第三部では,漁師はほかの民衆とは違って常にデイエゴの側で戦う人物として登場している。
彼に与えられた台詞や ト書きは多くはないが,要所でその存在に言及されることで彼が第三部
に常に登場していることが分かる。秘書が民衆に,現代の革命観 (革命にはもはや民衆など必
要ではなく,警察だけで事足りるし,何人かの指導者が考えるだけで十分)を語るとき,彼は
・くJem'envais6ventrersurl'heurecettemurらnevicieuse,,(p.281)と言ってその革命観を
否認する。全体主義的不条理を体験 した彼にあっては当然である。さらには,秘書から死の手
帳を奪った民衆が今度は復讐のために甘い汁をすった人間たちを削除しようとするとき,その
手帳を手にしている男を殴り倒すのはデイエゴと漁師である,くくDiegoetlep∂cheuroatsauce
surleplateau,sesontprecipite'ssurl'hommeaucahierqu'ilsgiflentetprecipitentaterre.
Diegoprendlecahierqu'ilde'chire."(pp.283-4)この手帳のエピソードは,秘書がデイエ
ゴに死を司ることは別のペス トになることにほかならないことを教える教訓だとすでに指摘し
たが,この教訓は生き延びる漁師に受け継がれるはずである。そして,デイエゴが死に,ペス
トが街を後にし,そして昔の統治者たちが再び戻ってきて勲章を授け合うさまを指してナダが
12 天 理 大 学 学 報
くくCelui-ci(Diego)(…)estmortvo16.》(p.299)と言うとき,くくLep∂Cheursepre'cipitesur
Nada,・(p.299)のである。だがナダは彼に現実を突きつけるかのように ..Tuvois,p8cheur,
lesgouve-ementspassent,lapolicereste.Ilyadoneunejustice.,,(p.299)と言い放つ。
そのナダの台詞に対 してコーラスは 。Non,iln'yapasdejustice,maisilyadeslimites."
(p.299)と言い返すが,それはすでに敗北したナダよりも漁師に向けられた教訓の言葉のよ
うに思える。そして漁師はナダを追いかけるが,彼は海に身を投げる。その直後に漁師の台詞
が作品を締め括る言葉として置かれているのである。くくIl(Nada)est tomb6. Les flots
emport6slefrappentetl'6touffentdansleurscrini占res.Cettebouchementeuses'emplit
desetetvasetaireenfin.Regardez,lamerfurieusealacouleurdesanemones.Elle
nousvenge.Sacol占reestlan6tre.Elleerieleralliementdetousleshommesdelamer,
lareuniondessolitaires.0vague,omer,patriedesinsurg6S,voicitonpeuplequlne
c6deraJamais,Lagrandelamedefond,nourriedansl'amertumedeseaux,emportera
vosciteshorribles.,,(p.300)彼の台詞には注目すべき点が幾つかある。まず問題となるのは,
・・Elleerieleralliementdetousleshommesdelamer,1areuniondessolitaires.,,という台
詞である。何か唐突のように思われるこの台詞は明らかに,この少し前に女性たちによって自
分たちよりも思想を選んだとしてデイエゴを代表とする男たちが非難される台詞,くくMais les
hommespr6rerentl'id6e.IIsfuientleurmらre,ilssed6tachentdel'amante,(…)appelant
sousuncielmuetuneimpossiblereunionetmarchantdesolitudeensolitude,vers
l'isolementdernier,lamortenpleind6sert!,,(p.298)への返歌となっているように見える。
女性たちが言う 「不可能な結合」「孤独から孤独へと進みながら迎える最後の孤立と砂漠での
死」に漁師の 「海の男たちの結集」「孤独な者たちの結合」が対応 しているのは明らかである。
デイエゴの死を決して犬死にさせてはならないとする意思のようなものが感じられる。次いで,
漁師によって くくEllenousvenge.Sacol占reestlan6tre.,,と言及される 「われわれ」の存在が
ある。ここで問題とされる 「われわれ」は,すべての民衆というよりもある限定付きで暗示さ
れた存在のように思われる。「反逆者の祖国」である海は 「海のすべての男たちの結集」と
「孤独な者たちの結合」を叫んでいると漁師は言っており,「われわれ」とは 「海-反逆者の
祖国」と 「孤独な者たち」の刻印を有する限定された存在であろう。こうした 「われわれ」の
存在こそが 「決して屈服しない海の民衆」なのである。そして 「海の男たち」である 「われわ
れ」はこの漁師 (最初に複数形で登場した)によって表象される存在であろう。「決して屈服
しない民衆」は作品中にその根拠がないと東浦は指摘したが,この漁師の存在こそが 「決して
屈服しない民衆」-「われわれ」の根拠ではないだろうか。そしてこの 「われわれ」と関連し
て問題となるのが,最後の最後に発せられる挑戦的とも思われる くくLagrandelamedefond
(…)emporteravoscit6shorribles.,,という言葉に含まれているvos(お前たちの)であろう。
それは一体誰に向けられたものなのか。まず考えられるのは,「われわれ」に対置する存在で
あるペスト,秘書,ナダであろう。しかし,彼らはもはや舞台にはいない。では舞台に残って
いる女たちとコーラスなのか。「おまえたちの醜い街」を彼らだけに担わせるのは無理がある。
ペス トが去ったあと,「われわれ」に敵対する存在 としては, ト書 きで 。u fond,des
care/monieso伊ciellessontTnime'es.''(p.299)と示される昔の統治者が考えられる。しかし,
舞台奥でパントマイムを演じる彼らだけに向けてこの台詞が発せられたと考えるのも不自然で
ある。この台詞は舞台から観客に向かって発せられているのだから,「お前たち」とは,「われ
われ」と離れてしまった観客 (つまり大部分の観客)と考えるのが最も妥当であろう。すでに
アルベール・カミュ作 『戒厳令』について 13
(26)1947年に くくQuisesoucieaujourd'huidelaResistanceetdesonhommeur?,,と記したカミュ
にとって,漁師の最後の言葉はカミュ自身の怒りの表現のようにも思われる。それほどにカミ
ュの絶望感も深かったと言えよう。
結 語
以上で 『戒厳令』を三つのマスクのテーマを中心として,そして補足として漁師の役割を見
てきた。デイエゴの運命はマスクの力学によって否応なく翻弄された-導かれたことが了解さ
れよう。確かに彼の運命は平凡な人間がレジスタンスに目覚めた戦いと読むことができるが,
それにとどまらずマスクによって象徴される彼の行程は極限状況に置かれたある種の人間たち
の行程にも観察できるものである。T.トドロフは,ユダヤ人収容所で観察された道徳的行程
(もちろん全員ではなく,限られた人間についてだが)のパターンを次のように記している,
「きわめて立派な人物でさえ,通常,いくつかの段階を経ている。収容所以前の,第一段階の
あいだは,道徳的良心の目覚めがあった。第二段階,これは多くは収容所の最初の数か月に対
応するが,新しい状況の粗暴性を前にして,以前の道徳的価値の崩壊が起こる。ひとは冷酷無
情な世界を発見し,そして自分自身もそこに住み得ることに気づくのだ。しかしながら,この
第二期を生きながらえると,第三期に達するが,このあいだに,たとえ正確には以前と同じも
のではないとしても,道徳的価値全体を取り戻す。煙は消えてはおらず,火がまたつくには,(27)
ごく僅かなそよぎで十分だったのだろう。」第一段階はペス トの医師のマスクをつけることで
医師としての良心の芽生えに,第二段階ではmarque=masqueをつけられることで道徳的価
値の崩壊に,そして第三段階ではmarque=masqueを壊すこと (それは同時に秘書に本来の
マスクを返してやることにもなる)で道徳的価値全体の取 り戻 しにそれぞれ対応していよう。
それゆえ,彼の軌跡はレジスタンス運動を超えた,ある種の人間の普遍的な道徳的行程を描い
ているとも言える。しかし,そうした行程を辿った人たちの果敢な行動が,平和を取り戻した
後果たして正当な評価を受け,そして受け継がれるのかが問題となる。レジスタンスに話を限
って言えば,カミュが作品の最後で強調しようとしたのは,まさにレジスタンスを形骸化させ,
その価値を肢めようようとする時代風潮であったように見える。『戒厳令』が発表された1948
年とは,HenⅣ Roussoが 『ヴイシー症候群』で指摘するように,ヴイシー時代を完全に清算
することなく (フランス人が皆レジスタンであったのではなく,圧倒的大多数は占領下では日
和見的態度をとっていたし,さらにはユダヤ人問題に関してもヴイシー政府の関与は明らかで(28)
あった),その記憶を忘れるための 「未完の喪」が始まるのとほとんど軌を一にしているO そ
れゆえに,デイエゴの死 も両義的な様相 を取 らざるを得なかったのであろう。Carina
Gadourekは,くくLamortdeDiegoest-elleabsurdeauxyeuxdeCamus?Lesdeuxopinions
contrairesdeNadaetdu聴 heurt6molgnentencoredel'h6sitationdel'auteur・Camusneconclutpassurcepoint.,,と指摘している。だが,カミュが漁師に仮託した 「決して屈服
しない民衆」の思いは,その数がたとえ少数であろうとも常にカミュのなかで生き続けること
になる。1955年にある雑誌の世論調査で,フランス国民のたった0.4% (つまり,1,000人のう
ち4人)だけが自由を最も大切な価値と認めている結果について,カミュは次のように記して
いる,く・C'estpourquoi,aulieuded6sesp6rer,j'admirerai,dufondducoeur,quequatre
FranGaissurmilleaientplace1alibert.6au-dessusdetout.Sicer6flexeestvraiment
celuide180000Fran9alS,uneSOlitudevientdeprendre丘n,etunespolrCOmmenCe.Ily
aqulnZean Sdecela,ceuxqul,parleurrefuSouleursacrifice,ontsauv6enm8metemps
14 天 理 大 学 学 報
1311
lepaysetlalibert6,6taientassur6mentbeaucoupmoinsnombreux.,,カミュにとって0.40/0I:lいで十分なのである.なぜなら,《Lapesteestcontagieuse,maislar6voltel'estaussi,'から
である。
注
(1) AlbertCamus,The'atres,Recits,Nouuelles,BibliothとquedelaP16iade,Gallimard,1974,
(以下ではPL.Ⅰと略す)p.1732.
(2) γony Judtは戦後のフランス人に生じたヴイシー時代の記憶喪失現象を以下のように指摘 し
ている,くくAfu desed6barrasserdeVichyauplusvite,1aFrancerecourutaprもslaguerre
aune6trangeop6rationd'amn6sied61ib6r6mentprovoqu6e:6trange,parcequ'elleBefit
augrandjour,pourainsidire,etquetoutlemondesavaitlav6rit6.Enm昌metemps,la
Franceentrepritdesed6fairedescollaborateursle島plusvoyants,toutenenterrantle
souvenirdel'indiff6renceoudel'ambivalencedelamaJOrit6."TonyJudt,Unpassd
impaT・faitLesintellectuelsenFT・anCe1944-1956,Fayard,1993,pp.60161.
(3) Raym ondGay-Crosier,lesenueT・Sd'unechece'tudesuT・letheatT・ed'AlbeT・tCaTnuS,Lettres
modernesMinard,1967,p.153.
(4) FemandeBartfeld,L'EFFETTRAGIQUE EssaisuT・letT・agLquedamsl'oeuuT・edeCamus,
ChamplOn-Slatkine,1988,p.102.
(5) この問題については,本論文で直接言及する研究書以外ではGeraldine F.Mongtgomery,
Nocespourfemmeseule Lefh ininetlesacredamsl'oeuured'AlbertCamus,丘ditions
RdopiB.V,2004,pp.251-270とAlan J.Clayton,"CAMUS OU L'IMPOSSIBILIT虫
D'AIMER",inALBERTCM US7,LettresmodemesMinard,1975が詳しい。
(6) PL.Ⅰ,p.1732.
(7) AlbertCamusJeanGrenier,CoT・T・eSPOndance193211960,Gal1imard,1981,p.151.
(8) Pierre-LouisRey,AlbertCamus,L'Etatdesiege,Gallimard,1998,p.ll.
(9) L'Etatdesibge,PL.I, (以下L'Etatdesibgeからの引用は本文中,及び注ではページ数で示
す。イタリックはト書きを示すO)
(10) IsabelleCielens,TT・Oisfonctionsdel'exildanslesoeuuresdefictiond'AlbeT・tCaTnuS・・
iTutiation,T,iuolte,conflitd'ideTuite,UPPSAI,A,1985,p.110.
(ll) Ibid.,p,110.
(12) Raym ondGay-Crosier,op.cit.,p.140.
(13) LaPeste,PL.I,p.1389.
(14) ト書きで言及される有刺鉄線 (des barbe16S)が強制収容所のイメージと結びつくことにつ
いて増田一夫は次のように指摘している,「有刺鉄線の陰惨な栄光が極まったのは,第二次世界
大戦においてであろう。(-)この世のものならぬその空間を外界から隔てていたのは,何重に
も張りめぐらされた有刺鉄線であったことを忘れてはならない。それは,収容された人びとを
隔離し,彼らの絶望をあおり,彼らを落命させるためにきわめて有効に作用したのである。有
刺鉄線という,簡略にして遺漏なき境界線抜きには,絶滅収容所を考えることは難しい。」増田
一夫,「普遍性-の途上 クレオールとフランス共和制」,Fクレオールのかたち』,東京大学出
版会,2002年,pp.213-4。さらには,強制収容所のイメージを補強するかのように,第二部
の冒頭部分でペス トは有刺鉄線に加えて,火葬場のかまどやユダヤ人に強要された星印に言及
している,・・Entourezlavilledehaiespiquantes.Achacunsonprintemps,1emienades
rosesdefer.Allumezlesfours,cesontmosfeuxdejoie.Gardes!placeznos6toilessurles
アルベール ・カミュ作 『戒厳令』について 15
maisonsdontj'ail'intentiondem'oecuper.,〉(p.232)
(15) AlbertCamusJeanGrenier,op.cit.,p.154.
(16) まず,ペス トに街を譲 り渡 して自分たちだけが逃げ出すが,ペス トの退場 とともに再び舞い
戻 り互いに勲章を授与 しあう元統治者たち,信者を残 して逃げる司祭,悪法であろうが法であ
る限りそれに仕えると公言するカサ ド判事 (pp.251-2),何 よりも自分たちの愛を優先させ よ
うとするヴィクトリア "jevaiS(…)temontrertoutemalachet6,,(p.259),ペス トの秘書か
ら死の手帳を手に入れ姉妹であるヴィク トリアの名前を抹殺する判事のもう一人の娘 (pp.282
-3),状況に応 じてペス トやデイエゴの側に付 く日和見的な民衆が挙げられよう。
(17) AlbertCamus,Essais,Biblioth占quedelaP16iade,Gallimard,1972,(以下ではPL.ⅠⅠと略
す)p.380.
(18) 子供殺 しのテーマは 『ドイツ人の友への手紙』(第二の手紙,1943年)PL.ⅠⅠ,pp.227-232
でも言及されている。さらには 『正義の人々』では中心的なテーマとなるo
(19) FernandeBartfeld,op.cit.,p.100.
(20) PL.ⅠⅠ,p.322.
(21) デイエゴのこの行動についてCielensは,くくToutcommelegouverneuretlepeuple,ilest
pouss6versl'exilparlapeur.Maisenplus,ilveutainsi6Chapperauchoixcrucialentre
lebonheuretledevoir.,・と指摘 している。IsabelleCielens,op.cit.,pp.107-8.
(22) MichelBarr6,"Mettreensc占neL'Etatdesiege.?'',Bulletind'informationdelaS.E.C.,no
50,p.16.
(23) 彼 自身における反抗の狼がその頂点に達 したときの経験をカミュは次のように記 している,
・<Et,pourgtretoutafaitpr6cis,jemesouvienstrらsbiendujouro血lavaguedelar6volte
quim'habitaitaatteintsonsommet.C'6taitunmatin,aLyon,etjelisaisdamslejournal
l'ex6cutiondeGabrielP6ri.,,PL.II,p.356.
(24) 秘書はすでに大地が自らの領域であることを彼に暗示 している,くくDIEGO :Leshommesde
monsangn'appartiennentqu'alaterre!IJASECRETAlRE :C'estcequeJeVOulaisdire.
Vous昌tesamoi,d'unecertainemaniらre!,,p.268.
(25) HirokiToura,LAQUiTEETLESEXPRESSIONSDUBONHEURDM SL'OEUVRE
D'A BERTCAMUS,Eur6dit,2004,p.307.
(26) PL.ⅠⅠ,p.327.
(27) ツヴェタン ・トドロ7,『極限に面 して 強制収容所考』,法政大学出版局,1992年,p.47。
ここで示されている三段階の道徳的行程はデイエゴが作品の第一部,第二部,第三部で示す様
相に対応 しているように見える。さらに言えば,注 (14)の補足説明で示 したように,第二部
は背景に有刺鉄線を持ち,さらにはペス トが火葬場のかまどやユダヤ人に強要された星印に言
及することで強制収容所をイメージさせる。
(28) HenryRousso,LesyndromedeVichyde1944anosjours,丘ditionduSeuil,1990,pp.29
-76参照。
(29) CarinaGadourek,LeeInTWCentSetlegcoupables,essaid'exe'gasedel'oeut'red'Albert
CaTnuS,Mouton,1963,p.142.
(30) CahieT・SAlbertCaTnuS6AlbertCamuseditorialisteaL'Express(Mat1955-Fe't'rier1956),
Gallimard,1987,p.116.
(31) RaymondGay-Crosier,op.cit.,p.146.