ラテンアメリカにおける日本庭園の建設とその貢献...

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ラテンアメリカにおける日本庭園の建設とその貢献 Ignacio ARISTIMUÑO 1. はじめに グローバル化した世界において日本の文化的要素が増加する中、「日本庭 園」は文化間の対話や環境保護の意識拡大のための重要な要素の一つとなっ ている。そこで行われる教育活動、レクリエーション活動、意識向上活動の おかげで、日本庭園は、単なる場所というだけでなく、地元住民のアイデン ティティの確認のための資産となっている。なぜなら多くの場合日本庭園は、 大きな役割を持つ都市スポットとなっており、市民の交流の場として親しま れている。このことは、国内外の文化を利用した、「文化ツーリズム」を通 じて経済と社会相互作用の強化を図る競争が激化傾向にある中で意義深い。 そのような意味で、本研究で探求するのは、公共空間として海外で造園され、 地域を活性化し、訪れる市民に影響を与える日本庭園の潜在力である。本論 文では、日本庭園の歴史、デザイン及び美学を分析し、その国際化のプロセ スやラテンアメリカの諸都市における造園について考察する。これらの地域 において、社会的効果および地域の特性により、日本庭園は増加傾向にあり、 そこにみられる特徴は異文化の折衷的側面の出現とその適応である。 2. 日本庭園史と国際化 飛鳥時代(552 710)に遡 さかのぼ り中国の影響のもとで引き起こされた日本の 芸術の初期の見本(大きな池の中の小島に、道教の古い伝説の物語「不老不 死の島」を再現する)について述べたい。神秘主義の賢者が住む謎の島々は、 守護している巨大な亀を生かすために位置を変えた。612年には渡来人によ り、日本の歴史が始まった。渡来人たちの大きな山を形作る能力が宮廷の目 『言語文化』14-4461476ページ 2012. 同志社大学言語文化学会 ©Ignacio ARISTIMUÑO

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ラテンアメリカにおける日本庭園の建設とその貢献

Ignacio ARISTIMUÑO

1. はじめに

 グローバル化した世界において日本の文化的要素が増加する中、「日本庭

園」は文化間の対話や環境保護の意識拡大のための重要な要素の一つとなっ

ている。そこで行われる教育活動、レクリエーション活動、意識向上活動の

おかげで、日本庭園は、単なる場所というだけでなく、地元住民のアイデン

ティティの確認のための資産となっている。なぜなら多くの場合日本庭園は、

大きな役割を持つ都市スポットとなっており、市民の交流の場として親しま

れている。このことは、国内外の文化を利用した、「文化ツーリズム」を通

じて経済と社会相互作用の強化を図る競争が激化傾向にある中で意義深い。

そのような意味で、本研究で探求するのは、公共空間として海外で造園され、

地域を活性化し、訪れる市民に影響を与える日本庭園の潜在力である。本論

文では、日本庭園の歴史、デザイン及び美学を分析し、その国際化のプロセ

スやラテンアメリカの諸都市における造園について考察する。これらの地域

において、社会的効果および地域の特性により、日本庭園は増加傾向にあり、

そこにみられる特徴は異文化の折衷的側面の出現とその適応である。

2. 日本庭園史と国際化

 飛鳥時代(552- 710)に遡さかのぼ

り中国の影響のもとで引き起こされた日本の

芸術の初期の見本(大きな池の中の小島に、道教の古い伝説の物語「不老不

死の島」を再現する)について述べたい。神秘主義の賢者が住む謎の島々は、

守護している巨大な亀を生かすために位置を変えた。612年には渡来人によ

り、日本の歴史が始まった。渡来人たちの大きな山を形作る能力が宮廷の目

『言語文化』14-4:461-476ページ 2012.同志社大学言語文化学会 ©Ignacio ARISTIMUÑO

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にとまり、推古天皇のための庭園を造るように命令された1。小さな宮殿が

建てられ、その前には橋の跡が残っており、池があったことを示している。

その横には大岩が、ある山を表している。密教の教えによると、これは、宇

宙の中心を象徴するヒマラヤ山脈の「須弥山(メル山)」と命名された2。

 奈良時代(710- 94)に発掘された別の庭園二例は、前述のテーマに加え、

朝鮮の有名な風景の再現を象徴する物語を取り入れている3。ここでは、神

道にみられる自然崇拝が、湖、山、岩や木々に対して畏敬の念を導くという

根本的な役割を果たしている。「斎庭」がこの意味で自然の中に存在する「神」

を崇敬し、受け入れるために白砂で浄化された神域庭として取り入れられた。

 輸入された要素を明らかに和風のものに統合しながら、その影響は、平安

時代(794- 1185)になると中国との交流が減少するにつれて大きくなって

いった。「作庭記」4と呼ばれる造園の専門書は、風水を利用しながら、「寝殿

造庭園」と呼ばれる当時の貴族の邸宅独自のものを強化し、新しい設計原理の

形成に影響を与えた。この庭園は寝殿の南側に位置し、斎庭を懐古し、式典や

祭りを執り行う部分と、その斜めの小島を配置した池に流れ込む小川(遣水)

が流れる白い小石に覆われた部分から成り立っている。特に再び取り入れられ

た仏教の教えに代表される中国伝来の考えと混合したこの重要な書物の影響

は、想像上の楽園を理想化した「浄土式庭園」と呼ばれた。この庭園は前述の

例に類似しているが、寺院に限られており、阿弥陀仏を祀る小石の広い空間に

開け放たれた建物の隣に大きな池を配置するものとして定義された。

 鎌倉時代(1185- 1392)には中国の影響の第二波を受け、瞑想するため

の空間を作り出す必要性から禅の庭が生まれた。簡素さを重んじる禅宗の影

響から池は小型化され、自然環境を再現するために用いられた。禅の「山水

式庭園」では、池の岸辺は様々な形の山を装う岩で形造られた。そして、そ

の岩は複雑な線を描き、そこでは中国の風景画のような「無」を手に入れる

ための精神修行を暗示しつつ、これらの小型化された風景の形式的な深みを

詩的に表現させるに至らしめた。

 禅は武士階級に取り入れられ、室町時代(1392- 1573)には、禅の「枯

山水式庭園」が寺院において盛んになり、その瞑想の間の正面に配された狭

く、しかし開放的な空間は、実際には存在しない水を岩や小石を使って想起

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させている。モノクロの色調のこれらの「空」は、神聖な知識の無形な源泉に

近づくための最も直接的な方策として役立った。安土桃山時代(1573- 1603)

には、茶の湯とともに千利休宗匠(1522- 91)の影響を受けて再興された茶庭

が、内観の最も深いレベルを誘発する素晴らしい禅の要素となった。

 日本が政治的に統一され、鎖国となった後、江戸時代(1603- 1868)に

は規模の大きな新しい庭園が造園された。新奇な「回遊式庭園」の様式は、

池の周囲でそれをいかに見るべきか、どのレベルまで要素が一体化されない

といけないかを制御する自然の風景、あるいは、小型化された風景を生み出

す園路を配置することで、所有者や大名の権力を示した。壁、柵、低木、小

山は、この繋がりのための要素であり、そして「借景」は三次元性を深め、

遠くの風景を庭園の構成の中に取り入れるための技法であった。

 日本が開国した明治(1868- 1912)以降は、日本庭園は西洋の影響を受

けつつ、成功した政治家や企業の所有物となった。西洋化によって日本庭園

は、日本においてその魅力を失ったものの、ヨーロッパでは対照的に庭に関

心を持った印象派の画家たちに感銘を与え、ジャポニスムの影響はさらに重

要性を増した5。その後、ロマン主義がこの評判を増長させ、英国式庭園の

自然主義様式に東洋的な影響が顕著にみられるようになった。こうした試み

の中で先駆けとなったのは、フランスの庭園であるが、現存していない。そ

れは1886年にユーグ・クラフトによって造られた6。彼はフランス人の芸術

愛好家で、日本に住みながら日常生活について文章を書いたり写真を撮影し

たりしていたが、後に純和風の建物を持ち帰り、その横に回遊式庭園を造っ

た。クラフトは、スケッチや講義ノートを参考にしながら、専門の庭師達の

助けを得て、休憩所や景色のよい場所に名所絵様式を取り入れて、ヨーロッ

パにおける最初の日本庭園を造った7。

 日本は新興強国として認知されるために、シカゴ万博(1893)に初めて参

加したが、自国の文化を紹介するために、建物を輸送し、組み立てて展示し

た。平安時代の貴族の別荘であった鳳凰堂(今日の京都府宇治市の平等院)

のレプリカが池の前に建てられ、浄土式庭園の典型的な例を示した。またそ

の横には、日本国外で初めて、基本的な風景を再現する要素を備えた茶室が

建てられた。ただし、この建物は現存しておらず、かつてのその場所にはジャ

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クソン公園が造園され、1934年以降、その公園内に六つの日本庭園が開園し

た。しかしながら手入れが行き届かず、不成功に終わった。

 サンフランシスコ市の茶庭(1894)は、アメリカ合衆国で最古の日本庭園

である。カリフォルニア州国際博覧会において、典型的な日本の村落の再現

例として造園された。後に萩原家の経済的な援助により規模を拡大し、日本

から樹木、花、建築物を輸入して常設の公共庭園となった。今日ではアメリ

カには公共・民間合わせて三百以上の庭園があり、それらは多くの協会と共

同で文化活動を促進している。中でもポートランド市の日本庭園(1967)は

最も秀でており、オレゴン州の日本庭園協会によって運営されている。

 世界で著名な日本庭園は、日本との親密な関係を持つ国々、気候の類似性

をもつ国々にある。ヨーロッパで最大の庭園はベルギーのハッセルト市の日

本庭園(1992)で 2.5 ヘクタールの広さを持つ。現在では国内観光の重要な

要素となっている。アフリカではダーバン市の日本庭園(1963)、オースト

ラリアではコウラ市の日本庭園(1979)が 5 ヘクタールで、南半球最大の日

本庭園であり、第二次世界大戦の戦没者記念公園ともなっている。

3. ラテンアメリカにおける日本庭園

 ラテンアメリカは歴史上、最も多くの日本からの移民を受け入れた地域で

ある。明治時代の近代化に伴う農業改革によって、農民と地主の間の社会的

経済的関係が変化した。地主は重税と競争力低下により、所有地を保持し続

けることができなくなり、大規模に移住せざるを得なくなった。その結果、

社会が激化し、都市の極端な成長から発生した社会摩擦と失業問題を解決す

るために、政府の戦略として移住が始まった。移住の第一波はハワイに向け

て行われ、その後、西洋における日本の政治的・経済的影響力を拡大しよう

とする長期計画のもと、アメリカ合衆国、カナダに向けての移住が続いた。

しかし、これらの国々では後に移住が制限されることになる。このようにし

て、ラテンアメリカが移住の対象として注目されることになった。特にメキ

シコ、ペルー、ブラジルは急速な経済成長期にあり、安価な労働力を必要と

していた。しかしながら、メキシコへの移住は地域間移住を阻止しようとし

ていたアメリカ合衆国との取り決めの後、受け入れられなかった。そのため、

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ペルー(1899)やブラジル(1908)への移住が開始された。日本政府は日本

人移住を管理、援助するために効果的な機関を設立した。

 後にこの移住は第二次世界大戦で停止することとなる。敗戦によって日本

の状況は悪化し、反対に、アジアの日本の元植民地から大量の移民を受け入

れることになる。サンフランシスコ条約(1951)後、日本は独立したが、資

源不足のため、ラテンアメリカ大陸と接近しようとして諸国の農業開発に有

利となる政府間の協定を結び、各地の移民協会の援助によって移住が勧めら

れた。ブラジル(1952)とペルー(1952)への移住が再開され、新たにパラ

グアイ(1954)、アルゼンチン(1955)ドミニカ共和国(1956)、ボリビア(1957)

に移住が開始された。日本では海外移住事業団がその手続きの責任機関とな

り、1974年以降は「国際協力機構(JICA)」が引き継いだ。しかし、サミッ

ト七ヵ国(G7)8のメンバーとなってからは(1975)移民は減少し、80年代

中ごろには南米大陸に定着した150万人の日系二世、三世の一部が日本へ逆

に帰国した。

 最初は明治時代における社会摩擦と失業問題、そして第二次世界大戦後は、

国際環境における信頼回復の手段として実施されたこの移住政策は、1970年

代には各地域との貿易を介して経済協力を促進する手段として注目されるこ

とになる。日本は「政府開発援助機構(ODA)」を通じて、後には「JICA」

を介して、教育・インフラ・技術協力の分野で強力な投資を実施し、現地の

日本人コミュニティに利益をもたらすのみならず、範囲を拡大することで、

これら諸国の社会発展及び生産性の向上を援助した。

 地域の移民協会の中には、援助資金の受入機関となるものもあった。例え

ば「ペルー日本協会(Asociación Peruano Japonesa, 1928)」はコミュニティの

福祉向上、文化交流、技術協力に尽力しており、記念碑、スポーツ施設、寺院、

墓地を建設するだけでなく、1974年には両国の関係樹立100周年を記念して、

リマ市に日本庭園を寄贈した。そして在住日系人コミュニティの貢献に対す

る感謝として、30年後にリマ市がスルコ地区に日本公園を建設した。このよ

うな対応はペルーだけの例ではなく、今日ではこの地域に多くの日本庭園が

存在し(表1)、そのほとんどは将来の商業関係の構築の前段階としての文化

交流と相互理解を強化する目的で日本政府により寄贈されたものである。

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表1. 中南米における公共の日本庭園 ( )* 再開を意味する。

国 都市 所在地 創立 面積

アルセンチンべレンエスコバル Centro Cívico Comunal 1969 2,500 m2

ブエノスアイレス Parque Tres de Febrero 1967 20,000 m2

ボリビア ラ・パス Parque Jardín Japonés 1975 5,635 m2

ブラジル

サンホセ Represa do Río Preto 提案 2,000 m2

レシフェ Riacho Cavaco 提案 16,000 m2

フォルタレザ Plaça da Independéncia 2011 1,900 m2

マリンガ Japao Memorial Imin 100 2008 10,000 m2

カルダスノバス Estrada a Goiania 2008 25,000 m2

ベロオリゾンテ Fundación Zoo-Botánica 2008 5,000 m2

ドス・カンプス Parque Santos Dumont 1992 3,200 m2

リべイラン・プレト Bosque Fábio Barreto 1969 (2009)* 20,000 m2

クリチバ Plaça do Japao 1962 (1993)* 14,000 m2

サンパウロBairro da Liberdade 1978 4,100 m2

Parque Ibirapuera 1954 7,500 m2

リオデジャネイロ Jardím Botánico do Río 1935 (1995)* 4,215 m2

チリラ・セレナ Parque Pedro de Valdivia 1994 26,000 m2

サンチアゴ Cerro San Cristóbal 1978 (1997)* 3,200 m2

コロンビア ボゴタ Parque Metropolitano 計画 ―

コスタリカカルタゴ Jardín Botánico Lankester 2009 10,000 m2

サンホセ Parque Japonés Okayama 1999 4,600 m2

キューバ ハバナ Jardín Botánico Nacional 1989 50,000 m2

エクアドル グアヤキルPlaza Zen “García Moreno” 2004 1,700 m2

Malecón 2000 2000 1,000 m2

グアテマラ グアテマラシティ Jardín Botánico 計画 ―メキシコ グアダラハラ Parque Bosque Los Colomos 1994 6,000 m2

ニカラグア マナグア Parque Japón Nicaragua 2005 8,119 m2

パナマ パナマシティ Jardín Botánico 提案 ―パラグアイ アスンシオン Jardín Botánico Zoológico ― ―

ペルー リマParque Japonés de Surco 2004 2,400 m2

Parque de la Exposición 1974 3,000 m2

プエルトリコ ポンセ Castillo Serralles 1990 4,600 m2

ドミニカ共和国

サントドミンゴ Jardín Botánico Nacional 1976 11,000 m2

ハラバコア Parroquía María Auxiliadora 2008 800 m2

ウルグアイ モンテビデオ Museo Juan Manuel Blanes 2001 2,000 m2

ベネズエラ カラカス Parque del Este 提案 5,000 m2

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 ブラジルでは、他国より多い日本人移民を受け入れたため、日本庭園が集

中しているが、それは驚くにあたらない。最も古いものは、日本産の六十五

種の樹木が公式に寄贈され、リオデジャネイロ市の植物園内に造園された

(1935)。これは、今日では望楼や赤色の通天橋を有する典型的な日本風のス

ポットになっている。またサンパウロでは、市の400周年記念に寄贈された

日本庭園が、イビラプエラ記念公園内にある。それは、東京大学の堀口捨己

教授の設計による典型的な日本の建築物が日本で部分的に造られた後、それ

らをブラジルへ移送した。日本からの技術チームの補佐をするためのボラン

ティアの日本人移民も同船した。これらの建物は現在、「ブラジル・日本文

化福祉協会(Sociedade Brasileira de Cultura Japonesa e de Assisténcia Social

–Bunkyo–)」の一つの本部となっている。この協会は庭園を運営、管理し、

現地コミュニティに対して貴重な援助を提供している。

 クリチバ市の日本公園「パラカ・ド・ジャパン(Plaça do Japao)」はラテン

アメリカでは三番目に古い。密集した大都市に位置したこの楽園には人工湖

が六面ある他、日本式の門、市営図書館、文化会館がある。文化会館は「日

本ブラジル文化親善協会(Associaçáo e Cultura e Beneficente Nipo-Brasileira de

Curitiba)」の本部となっており、この協会はコミュニティやクリチバ市の「禅

センター」や「友好文化センター」を援助している。両センターは年々会員

数を増やしている。

 マリンガ市、カルダスノバス市及びベロオリゾンテ市の庭園は、日本人移

民100周年を迎えた2008年に開園された。これらの中でベロオリゾンテ市の

庭園は、ブラジル在住の家田東穂氏の設計であり、芸術的に際立っている。

彼は典型的な茶室へつながるジグザグの木造の橋で小さな空間を強調した。

その後、これらの空間の人気は、遠く北部の都市にまで広まった。フォルタ

レザ市では2011年3月11日に起こった破壊的震災、津波のわずか一カ月後に、

日本国民との連帯を記念する行事の中で日本庭園を開園した。庭園は、市内

の海岸沿いにあるメインストリートの観光地の中心に位置する利点を活用

し、海の前で、日本武術の訓練を紹介して人気を博した。

 ブエノスアイレス市の日本庭園は、現在の天皇・皇后両陛下の訪問を記念

して開園された。造園家猪俣ヤスオ氏の設計で、橋、島、十五種の日本の植

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物種を有する人工湖を造った。後に建設された大規模な茶室と呼ばれる建物

は、日本文化の伝統的な側面を展示紹介するために図書館、展示場、催し会

場、レストランを提供している。市は、1979年にこの庭園の管理、運営の改

善を目的とし、「アルゼンチン日本文化基金(Fundación Cultural Argentino

Japonesa)」と契約した。後に、この庭園は広範囲な用途や今までの功績に

より、「ブエノスアイレス市日本庭園文化環境複合施設(Complejo Cultural y

Ambiental Jardín Japonés de Buenos Aires)」と名付けられた。

 サンチアゴ市にはサンクリストバルの丘のメトロポリターノ公園内に日本

庭園があり、ここはチリとの外交関係開設100周年に日本の常陸宮により再

度開園された。この庭園は市内の景色と桜の花で有名である。さらに、南ア

メリカ最大のラ・セレナ市の日本公園(コキンボ地方)はチリで最も有名で

ある。この庭園はミネラ・デル・パシフィコ社と新日鉄によって百万ドルの

費用を費やして造園された。これは、市制450周年を記念し、ラ・セレナ市

と日本の天理市との間に正式に結ばれた姉妹提携の象徴として開園されたも

のである9。

 中米において最初で、最大のものはニカラグア日本公園である。110万ド

ルの費用で外交関係開設70周年の記念行事の一つとして造られた。この庭園

の特徴は、富士山とニカラグアの有名なモモトンボ火山の縮景である。二つ

の山の間には小石でできた海(枯山水)があり、背景はニカラグアのような

風景に整備された部分と日本から移植された何千本もの竹とが一体化してい

る。その近くに日本様式の公営図書館と文化活動や環境教育に使用する会館

がある。

 小規模ではあるが、芸術的な価値が高いのはコスタリカ、カルタゴ市のラ

ンカスター植物園内にある日本庭園であり、86,000ドルの費用がかけられた。

JICAの技術協力のもと、造園家大関洋氏と角田守氏が造園設計を担当した。

この庭園は滝と種類の異なった橋が何本も架けられ、池の周囲に蛇行する小

路が特徴的である。両側にはコスタリカの建築素材である竹、木材、わらな

どで作られたあずま屋、あるいは自然環境や持続可能な開発に関心を持たせ

る教育活動のための教室として利用されている。庭園の奥には日本の伝統文

化の特徴を紹介し、展示会などを実施するための日本の田舎の典型的な田舎

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を再現した建物がある(図1)。

図1. コスタリカの「哥日友好庵」、池の水面から出た石で亀の頭を現すなど、

比喩的な要素を表している(写真:Ricardo Chaves H.)。

 地域最大と記録されているのは、キューバの日本庭園であり、国立植物園

内に「日本万博記念協会(1970)」からの資金提供を受け、二千万円(当時

154,480ドル)で造園された。フィデル・カストロ最高司令官と日本大使によっ

てキューバ革命三十周年を迎えて開園されたものである。造園家荒木芳邦氏

によって構想された。湖を囲んで小石の海岸と滝を配置するため、国の様々

な地方から1,620個の大きな岩を持ち込み、既存のダムも利用して造られた。

湖の上に建てられたあずま屋は滝と石塔が中心となっており、借景として有

名なテタス・デ・マナグアの丘を借景として取り入れている。

 ベネズエラにおいては、「ベネズエラ日本奨学生同窓会(Asociación

Venezolana de Ex-Becarios en Japón –Avexja–)」が広島、長崎の原爆の悲劇

五十年を追悼して、日本大使館の援助を受けながら日本庭園の造園を進めて

いる。この計画は平和のために日本庭園を首都で最大の公園「東の公園

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(Parque del Este)」内に造園しようというもので、共同の設計計画を作成す

るために京都大学大学院農学研究科(環境デザイン研究所)が提携先と決め

られた。素案ができたものの計画は資金不足のため具体化しなかった。しか

し、日本大使館は銀行、文化施設、教育機関などで催す「日本文化週間(Semana

Cultural de Japón)」などの活動を通じて造園の意志を未だ継続している。

図2. カラカス市「日本平和公園」の提案。

 提案によると(図2)、日本式のあずま屋が出発点と終点となっており、

中央の池が散策道を誘導し、社会的な機能を果たす平庭や望楼のある築山に

加え、異なった空間を結びつけている。有名なエンジェルフォールの滝が借

景として象徴され、ベネズエラにおけるアマゾン地帯の典型的な風景であり、

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市街を見下ろすアビラ山脈が借景となっている。ニカラグアと同様、自国の

風土との関連付けとして、景観を再現する日本庭園がもつ手法を現地の自然

を別の視点から評価するために使おうとしている。そこでは、国特有の景色

が訪問者の想像力を奮い立たせるという簡単な解釈の方法のための研究がな

されている。この国ではアンデス山脈、アマゾン地帯、カリブ海という環境

が特徴づけられ、住民の意識に根付いた愛着のある風景が彼らと庭園の結び

付きを作り出す要素となっている。

4. 貢献及び新たな解釈

 今日、観光産業は国際化への過程の一つとして強化されている。コミュニ

ケーションと輸送の近代化したネットワークは、世界的なシステムのもとで

相互依存を反映している。この同質化効果に対する抑制力として「文化ツー

リズム」は世界に対してそれぞれの国を特徴づけ、その国民意識を明確にす

る要素を強化させる役割を果たしている。Toselli(2006:176-77)はこの国民

意識の強化と観光を介しての文化の要素の意味付けとして、公正な利益分配

による教育、雇用、収入の改善を可能にする地域開発の有効な手段となるだ

けでなく、環境保護への意識を高め、文化の多様性への関心を生み出すと主

張している。

 ラテンアメリカにとって、この文化ツーリズムは、地域の貧困問題を解決

する力となる。その国の持つ資源として、歴史的資源、芸術的資源などがそ

れぞれ裏付けされているが、日本庭園のもたらす効果は、日本人コミュニティ

だけでなく、造園されている都市からも民俗学的資源として証明されている。

都市間の競争の中で、それぞれの文化の歴史的特異性が改めて評価されるこ

とで、国際化が進められるようになる。これにより、都市内の景観を活用し

ながら、より深い社会的相互作用を持つ公共の空間設計を進化させている。

日本庭園は住民が移民を受け入れたという開放されたコミュニティとして、

まちの特質を失わないための都市空間として造園され、市民の意識や愛着を

高める要素として、まちに溶け込んでいる10。

 これらの庭園は全ての活動を統合した新しい運営管理、促進活動が実施さ

れたことを示している。JICAは市民参加、知識の交換を促進するセミナー

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の開催を通して活動を支援している。しかし、そのような影響を受けながら

も、市は地方分権の効果を示すために、庭園が円滑に機能するための基金や

独立した協会を設立し、業務の相互関係を構築しようとしている。サンパウ

ロ市、クリチバ市、ブエノスアイレス市などの大規模な日本庭園は、この方

法によって成功した。アルゼンチンの日本文化基金は、広大な総合文化環境

施設となったブエノスアイレス市の庭園を管理運営している。この庭園は

四千人収容を対象として設計されたにもかかわらず、週末には一万人以上が

訪れる国民的な観光資源となっている。さらに、1999年にはこの基金に対し

て賃貸契約の再延長がなされた。この先二十年間は、市民に対して非営利的

な文化交流、課外活動を提供し、国家に対しては借地料の名目で所得の5%

の税を支払うことになっている。また、この施設の利益は慈善目的に使われ

ている11。

 これらの日本庭園は都市部の高い教育を受け、より高収入をもつ人口の増

加により支えられている。またこれらの庭園が、いかにして継続可能で、周

辺社会から必要とされる場所であるかを認識することができる。最近では、

これらの庭園が日本独特のものでないヨガや太極拳などの精神的な団体の出

会いの場所となっている。しかし、市民により大きな影響を与えてきている

のは、やはり禅の思想と関係のあるさまざまな活動である。研究によると、

ラテンアメリカ社会における禅の歴史的実践が明らかになっており(Rocha,

2006)、それぞれの国の特性によって禅の解釈は異なっている。

 地域における「禅」及び一部の日本庭園が交流の場として果たす役割は年々

大きくなっている。周辺の穏やかな自然を利用し、教育の普及、儀式、慈善

活動のための場所を提供している。その中でセンポ・オシロ和尚の業績は有

名で、ブエノスアイレス市の日本庭園の禅道場で修行を開始したアルゼンチ

ン人僧侶として認められている。さらに、「パラカ・ド・ジャパン」日本庭

園は、クリチバ市の禅センターの本部となっており、そこでは利益目的では

なく、寄付のみによって瞑想を静修する参加者を交えての社会事業を行って

いる。また、年間を通じての研修や研究発表会以外にも「花祭り(4月8日)」

のような伝統行事が人々と自然との触れ合いのための場として普及してい

る。

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ラテンアメリカにおける日本庭園の建設とその貢献 473

 それゆえに、この新たな都市型の楽園によって、市民の間に特有の信念と

行動が生まれた。特に参加意欲の高い若者たちは、自国の主要な文化とは異

なった世界に入り込んだように教えている。日本風なるものに対する関心が

あるため即座に否定することはなく、また流行にのることもなく、思想、姿

勢、伝統を吸収することで新たな文化を生み出している。

5. 結論

 本研究では、設計の基本原理、美的価値と庭園の歴史的な多様性を確認す

ると共にラテンアメリカにおいて日本庭園の建設、貢献そして社会における

それの影響について明らかにした。また、国際化の過程で形式化された認識

や感銘の源において、役割の変化を見ることができた。日本庭園の「平和の

象徴」としての再認識は第二次世界大戦後より強くなっており、今日では平

和の場であると同時に、日本政府が切望する姉妹関係の絆を結ぶための場所

として貴重な存在となっている。日本庭園はヨーロッパやアメリカ合衆国で

は120年以上前から存在しており、ラテンアメリカでは公共の空間として

1935年に造られた。ここ二十年間でその数は増加している。

 「回遊式庭園」の様式は、規模が大きいことから造園において適切である。

しかしながら、それらの日本庭園では、その土地固有の景色を模写し、日本

の樹木を輸入して植樹する方法が多く用いられた。その有効性を否定するつ

もりはないが、コスタリカ、ニカラグア、ベネズエラの提案においては異なっ

た意図がみられる。この見解では、庭園を現地の土地に根付かせ、別の視点

から評価し、現地の状況下で独自の解釈を表現している。日本の庭園をその

ままの形で取り入れるのではなく、その国の文化や自然環境に適応させるこ

とが、真の文化交流の第一歩であるといえる。輸入されたものの再現ではあっ

たが、それを自分のものにしつつ、現地の市民意識を強化していった。それ

ぞれの国に適応された日本庭園に対する新たな解釈は、創造的な庭園におけ

る設計の表現を生み出し、さらに市民意識を強化する要素となっている。日

本庭園の歴史は、発展のために常に他の文化との相互互恵の関係にある。

 今日では日本庭園は文化的な絆のための要素となっており、自国民に外国

の価値観や哲学を浸透させている。国際化の過程で、その土地に適応された

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474 Ignacio ARISTIMUÑO

日本庭園は、日本文化に対してそれぞれの国の持つ創造的な解釈を再生する

ことに役立っている。

1 日本書紀(720)。 2 1903年に発掘される。現在この岩は東京国立博物館に所蔵されている。 3 一つは古い皇居内で発掘された「東院」であり、もう一つは「旧跡」で現在の奈良市で発見された。

4 この課題で世界最古の書物である(橘俊綱著1028-1094)。 5 19世紀末の、ヨーロッパ芸術における日本の影響に関わる動き。 6 ベルサイユの南にあった「緑の里」又は Jardin de l'Enverdecer Frais.

7 Leduc Beaulieu (2008).

8 世界の最先進国グループ(Group of Seven)。 9 ベ都市の姉妹提携とは地理的、政治的に異なる二つの都市が人物交流や文化的繋がりを促進するためにパートナーシップを結ぶこと。京都市の姉妹提携がきっかけとなりメキシコ、グアダラハラ市にある有名な日本庭園が造園された。

10 ブエノスアイレス市がよい例である。1975年、1977年と2009年の政治体制の変化に際して、多くの市民が日本庭園を守るために立ち上がったが、そこの中には3万人以上の日系アルゼンチン人が参加していた。

11 この複合施設のプログラムを把握するためには以下を参照:

http//www.jardinjapones.org.ar/

参考文献

LEDUC BEAULIEU, A. (2008). “Hugues Krafft’s Midori-no-sato: the art of bringing zen to the west.” En: Twenty-First-Century Perspectives on Nineteenth-Century Art. Edited by Petra Ten-Doesschate Chu and Laurinda S. Dixon. Cranbury, NJ: Associate University Presses, p. 162-70.

Nihon Shoki 日本書紀 [Chronicles of Japan] (720). Online English Translations:

http://nihonshoki.wikidot.com , Scroll no. 22 (Empress Suiko), see: The Leper from Baekje.

ROCHA, C. (2006). Zen in Brazil: The Quest for Cosmopolitan Modernity (Topics in

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ラテンアメリカにおける日本庭園の建設とその貢献 475

Contemporary Buddhism). Honolulu: University of Hawai’i Press.TOSELLI, C. (2006). “Algunas reflexiones sobre el turismo cultural.” Universidad de La

Laguna (Spain): PASOS: Revista de Turismo y Patrimonio Cultural. Vol. 4, no. 2: 175-182.

Aporte y Construcción del Jardín Japonés en Latinoamérica

Ignacio ARISTIMUÑO

Keywords: Latinoamérica, jardín japonés, historia del jardín, arquitectura del

paisaje.

Frente a la proliferación de elementos culturales japoneses en un mundo globalizado, el jardín japonés se convierte en una importante herramienta para el diálogo intercultural y la expansión de la conciencia ambientalista. Las actividades educativas, de esparcimiento y sensibilización que allí se generan hacen además del lugar un acervo para la identificación ciudadana pues en muchos casos éste se vuelve un hito urbano de un gran papel en poder remodelar la emoción colectiva y el arraigo. Lo que es significativo ante la creciente competitividad que usa la cultura, sea nacional o extranjera, como una inversión que a través del turismo cultural fortalezca la economía y la interacción social. En tal sentido, este estudio indaga en la potencialidad del jardín japonés como un espacio público que insertado en el extranjero revitaliza la localidad e induce valores a la población que le accede. En ello, se examina su historia, diseño y estética, analizando luego el proceso de su internacionalización y la construcción en ciudades latinoamericanas.

Presente en Europa y Estados Unidos desde hace más de 120 años, no fue sino hasta 1935 que se concibió como un espacio público en América

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Latina cuya presencia se ha incrementado en las últimas dos décadas. Para su creación, el prototipo “Jardín de Paseo” es el más idóneo por su escala que incluye una visión integrada de las otras formas tradicionales con caminerias que serpentean ofreciendo cambios de escenarios a lo largo del perímetro de un estanque. La copia de paisajes vernáculos e importación de plantas japonesas ha sido el procedimiento mayormente aplicado que sin negar su validez tiene una connotación diferente en los jardines de Costa Rica, Nicaragua y la propuesta de Venezuela, los que ofrecen una interpretación propia bajo las condiciones locales vinculando la obra al suelo nativo y valorándola desde otra perspectiva. Es en esta “adaptación” del elemento cultural y no en su “adopción” de la que se puede decir se da el primer paso hacia un verdadero intercambio cultural. En ello, la recreación del objeto importado refuerza la identidad local apropiándose de éste, la que es el resultado de una capacidad creativa sustentada en poder asimilarlo y reinterpretarlo. Es así como la misma historia del jardín japonés nos lo demuestra ya que para su intrínseco desarrollo ha dependido siempre de una fertilización cruzada con otras culturas.

Hoy, este espacio es un instrumento de enlace cultural que introduce valores y actitudes foráneas en la población, los que empiezan a ser aclimatados a las condiciones locales ofreciendo una propia lectura y entendimiento. Sus aspectos híbridos son la mejor muestra de esta adaptabilidad, condición inherente del proceso globalizador que a través del diálogo intercultural ha de recuperar y explotar el potencial creativo local.

The Making and Contribution of the Japanese Garden in Latin America

Ignacio ARISTIMUÑO

Keywords: Latin America, Japanese garden, garden history, landscape architecture.