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生の希求としての文学 レイナルド・アレナス『ふたたび海』 293 生の希求としての文学 レイナルド・アレナス『ふたたび海』 伊藤 秋江 La literatura como ansia de ViVir Otra ve2 el mar de Reinaldo Arenas Akie Ito Abstract El presente trabajo compone una parte de mi futuro trabajo sobre Reinaldo Arenas(1943-1990).La pentαgo7ziα es una pentalogia no por el autor y su nombre pentαgoniαes una combinaci6n de “pentalogia”y“agonia”. La pentalogia se compone de Celestinoαntes Pα1αcio de tαs btαnqzeisZ77zαs m〔~fetαs, Otrα vez el mαn Et color del ve α3α伽(por orden).En el presente trabajo, analizaremosαγαuθzθZ糀αγ, ob consider6, por el mismo autor, como un nUcleo de su pentαgoniα. Nue basa en el papel de esta obra como tercera en la pentalogia. Nuestro trabajo se compone de tres capitulos. En el capitulo 1, tra puntos de vista que narran el mismo acontecimiento comple capitulo 2, analizaremos el tema de“doble” 曹浮?@es comUn en toda la pentalogia. Por Ultimo, el capitulo 3 girara alrededor de la imagen del“mar flotante” 曹浮?@domina toda la obra, relacionandola con su acto de escribir. Los tres temas que presente trabajo, aunque carecen de unidad, son esenciales para c ycon el trabajo que haremos se aclarara su posici6n en la X)entαgon Cuando pensamos en las obras de Reinaldo Arenas no debemos o con la literatura. Para Arenas la literatura fue un acto vital y cr separarse de“la vida”.Analizar la pentαgoniα, que el autor sigui6 esc treinta afios e insisti6 en terminar ante su muerte, sera muy Uti Esperamos que nuestro trabajo pueda contribuir a revelar la an literatura areniana.

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生の希求としての文学 レイナルド・アレナス『ふたたび海』 293

        生の希求としての文学

レイナルド・アレナス『ふたたび海』

伊藤 秋江

La literatura como ansia de ViVir

Otra ve2 el mar de Reinaldo Arenas

Akie Ito

Abstract

  El presente trabajo compone una parte de mi futuro trabajo sobre la pθntαgoniα de

Reinaldo Arenas(1943-1990).La pentαgo7ziα es una pentalogia novelistica bautizada

por el autor y su nombre pentαgoniαes una combinaci6n de dos palabras,

“pentalogia”y“agonia”. La pentalogia se compone de Celestinoαntes(Zθ↓αlbα, El

Pα1αcio de tαs btαnqzeisZ77zαs m〔~fetαs, Otrα vez el mαn Et color del veTαno y El

α3α伽(por orden).En el presente trabajo, analizaremosαγαuθzθZ糀αγ, obra que se

consider6, por el mismo autor, como un nUcleo de su pentαgoniα. Nuestro enfoque se

basa en el papel de esta obra como tercera en la pentalogia.

  Nuestro trabajo se compone de tres capitulos. En el capitulo 1, trataremos los dos

puntos de vista que narran el mismo acontecimiento complementandose. En el

capitulo 2, analizaremos el tema de“doble” 曹浮?@es comUn en toda la pentalogia. Por

Ultimo, el capitulo 3 girara alrededor de la imagen del“mar flotante” 曹浮?@domina toda

la obra, relacionandola con su acto de escribir. Los tres temas que trataremos en el

presente trabajo, aunque carecen de unidad, son esenciales para comentar esta novela

ycon el trabajo que haremos se aclarara su posici6n en la X)entαgoniα.

  Cuando pensamos en las obras de Reinaldo Arenas no debemos olvidar su relaci6n

con la literatura. Para Arenas la literatura fue un acto vital y crudo que no puede

separarse de“la vida”.Analizar la pentαgoniα, que el autor sigui6 escribiendo mas de

treinta afios e insisti6 en terminar ante su muerte, sera muy Util para entenderlo.

Esperamos que nuestro trabajo pueda contribuir a revelar la ansia de vivir en la

literatura areniana.

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294 伊藤 秋江

はじめに

1.相互補完的な二つの視点

2.分身

3.流動する海のイマージュ

おわりに

はじめに

 本稿では、レイナルド・アレナスが作家人生を

通して書き続け、死の直前にようやく書き上げた

小説五部作「ペンタゴニア1」の第三部『ふたた

び海2』を中心に、アレナスの文学との関わりに

ついて考えてみたいと思う。「ペンタゴニア」は、

『夜明け前のセレスティーノ3』、『真っ白いスカン

クどもの館4』、「ふたたび海』、『夏の色5』、『襲

撃6』で構i成される小説五部作であるが、このう

ち第四部の『夏の色』と第五部の『襲撃』はアレ

ナスの死後に出版されている7。「ペンタゴニア」

の構想は、『夜明け前のセレスティーノ』の改訂

版として82年に出版された『井戸のなかで歌って

る8』の巻頭に掲載された文章にすでに明らかに

されていた9。

 一人の作者一証人によって語られる狂暴で記

念碑的なこの異色の連作において、主人公は一

作ごとに死ぬが次の作品において蘇る。異なる

名前と、しかし同じ目的と反逆の態度を持って。

つまり、人々の恐怖と生を歌い上げるという1°。

 ここでアレナスは、五部作の主人公がそれぞれ

異なる名前であるものの連続した語り手であるこ

と、またそれらの語り手が人々の恐怖と生を歌い

上げるという共通の目的と反逆の態度を持ってい

ることを説明している。このようにアレナス自身

によって連続性を保証されたこの五部作を、著名

なアレナス研究者であるフランシスコ・ソトが

「絶えず変化する主人公が性的アイデンティティ

ーの探求を通して成長する姿を描いたホモセクシ

ャル・ビルドゥングスロマン11」と称したことは

注目に値する。ビルドゥングスロマンが一人の人

間の成長過程を描くという前提に成り立っている

とするならば、この五部作が厳密な意味において

ビルドゥングスロマンであるとは言い難い。なぜ

なら、すでに述べたように、五部作の主人公はそ

れぞれ異なる名前を持ち、第四部までの主人公は

物語の最後に死んでしまうため、5人の主人公が

連続する存在であることは(少なくとも論理的に

は)あり得ないからである。しかしながら、ソト

が重視したのは(ホモセクシャルとしての)性的

アイデンティティーを探求する主人公12の成長過

程であり、ビルドゥングスロマンというジャンル

にこの作品を押し込めることではない。五部作の

主人公は特定の名前を持った一人の人物としてで

はなく、柔軟性を備えた連続する一つの主体とし

て成長を遂げるのである。

 また、アレナスが「私の怒りと愛の物語である

だけでなく、私の国の一つのメタファーでもあ

る」と述べている’3ように、この五部作はキュー

バという国家の発展の物語でもある。主人公の成

長に並行するように、『夜明け前のセレスティー

ノ』ではバティスタ独裁政権前、『真っ白いスカ

ンクどもの館』ではバティスタ独裁政権下からキ

ューバ革命、『ふたたび海』ではキューバ革命の

スターリン主義化の過程、『夏の色』ではカスト

ロの独裁政権下というように物語の舞台となる国

家もキューバの歴史を追う形で一作ごとに変遷を

遂げてゆく。なお、『襲撃』では究極の全体主義

国家が描かれているが、カストロ体制に批判的で

あったアレナスがキューバの近未来の姿として痛

烈な皮肉を込めて誇張的に描いたことは容易に想

像ができる。そしてこの国家の変遷の物語は、

「キューバ」の変遷がアレナスにとってそうであ

ったように、性的アイデンティティーを探求する

主人公の成長過程に重大な影響を与える。

 本稿で扱う 『ふたたび海』はこの五部作の第三

部にあたる。この作品は二度の原稿紛失14の後、

第三稿がようやく出版された曰く付きの作品であ

る。同じ作品を二度も書き直す気力と労力は並大

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生の希求としての文学 レイナルド・アレナス『ふたたび海』 295

抵のものではない。この作品がアルゴス・ベルガ

ラ版(Barcelona, Argos Vergara,,1982)で420頁、

トゥスケッツ版(Barcelona, Tusquets,2002)で

378頁の大作であることを考慮すればなおさらで

ある。アレナスがこの作品に対して抱いていた思

い入れの深さはこの事実からも推し測ることがで

きる。自伝小説『夜になるまえに』では、第一稿

が預けた友人から取り戻せないことを知ってから

再び書き始めるまでの心情を次のように記してい

る。

 数日のあいだ、すっかり動揺していた。仕上

げるのに何年もかかったこともあるが、その作

品はぼくの大きな復讐の一つであり、最も着想

豊かな作品の一つだったからだ。海がぼくにそ

の作品を贈ってくれたのであり、フィデル・カ

ストロ体制下で経験した幻滅の十年の結果だっ

た。その中にぼくの怒りを残らず入れたのだ。

 ある日、子どもを、その中でも最愛の子を亡

くしたときのような気分で、失くした本のこと

を思いながら浜辺にいた。ふと、家に帰って、

またタイプライターの前に座り、ふたたび始め

なくてはならないという気になった。そうする

しかなかった。それはぼくの人生の小説であり、

〈ペンタゴニア〉の中心となる作品だった。そ

の小説なしに〈ペンタゴニア〉を続けることは

不可能だった。そうして、もう一度書きはじめ

た15。

 アレナスは、カストロ体制下において蓄積させ

たすべての怒りをこの作品に託したのだ。そして

その激しい怒りこそが、同じ原稿を三度も書かせ

る原動力となったことは言うまでもない。以下に、

アレナスがこのように強い執着を持って「ペンタ

ゴニア」の中心と位置づけた『ふたたび海』を、

視点、分身、海のイマージュという三つの点から

考察してみる。

1. 相互補完的な二つの視点

 この作品は二部で構成されているが、第一部は

主人公エクトルの妻による独白’6、第二部は主人

公エクトルの六つの詩篇17となっている。物語は、

エクトル夫妻と彼らの赤ん坊が6日間の休暇をハ

バナ郊外の浜辺で過ごすというもので、三人が車

で郊外の浜辺へ向かうところから始まり車でハバ

ナへ戻るところで終わる。第一部では、6日間の

出来事が妻の視点から独白として語られ、第二部

では同じ6日間が主人公エクトルの六つの詩篇と

して表現される。

 ここでは同じ事柄を異なった視点と形式によっ

て語りなおす作業が行われている。第一部では、

エクトルが同性愛者なのではないかと疑う妻が海

の家で隣になった青年と夫が浮気をするのではな

いかという疑念に駆られ悶々とする様子が語られ

る。第二部では、この経過が詩篇を介してエクト

ル本人の視点で語られる。第二部でエクトルはそ

の青年と密会し関係を持つに至るのだが、第一部

の妻の語りではそのことは明示されない。また逆

に、第二部で不明瞭な点が第一部で補われている

こともある。つまり、第一部と第二部の関係は互

いに情報を補い合う相互補完的な二つの視点とい

うことができる。

 ところで、この二つの視点は単純に主人公とそ

の妻という二人の人物の異なる視点なのだろうか。

この点は物語の最後に妻の存在が否定されること

によって複雑化する。

 まだ、振り向いて誰もいない隣の座席を見る

時間がある。ぼくはひとり行く、いつものよう

に、車に乗って。最後のときまで平静とリズム、

幻想……エクトル、エクトル、突進しながら自

分を呼ぶ。捕らえられ、解き放たれ、猛り狂い、

砕け散りながら、まるで海のように18。

 第一部において語り手であり、第二部において

も当然のように登場する妻が、物語の最後の数行

でこのようにあっさりと否定されてしまう。エク

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296 伊藤 秋江

トルには妻などおらず、6日間の休暇のあいだ終

始一人だったということになる。それでは妻の存

在は一体何だったのだろうか。先行研究において

は、妻の存在はエクトルの分身であるという共通

の見解がある。この点については次章で詳しく検

討することにして、ここではこの二つの視点の関

係について考えてみたい。

 この二つの視点は、一見、二人の人物が同じ事

柄について語るという「内的多元焦点化」(ジュ

ネット)19的な構1造を持っているかのように思わ

れる。しかしながら、物語の最後で一方の人物の

存在が否定されることでこの構造は崩壊してしま

う。二つの視点は、二人の人物の視点ではなく、

一人の人物(エクトル)の内部で分裂する視点と

いうことになる。第一部の語り手と第二部の語り

手がいずれもエクトルであるならば、二つのテク

ストの対立は何を意味するのだろうか。この点に

関して、各テクストで語られる内容の異同を検討

し、視点の関係を考察してみることにする。第一

部で語られる内容と第二部で語られる内容は、独

白と詩篇という形式上の違いはあるものの、概ね

一致している。エクトルと妻と彼らの赤ん坊が6

日間の休暇をハバナ郊外の海の家で過ごすのだが、

そこで隣人となった青年をめぐって物語は展開す

る。第一部では、エクトルは表面上は妻を愛して

いると見せかけながら、内に同性愛の欲望を秘め

ている存在として描かれている。妻は、良き夫、

良き父親としてのエクトルの姿を描写しつつも、

隣人である青年との浮気を疑い疑心暗鬼に陥る。

しかしながら、夫と青年の浮気がいよいよ怪しく

なると、妻は事実を直視することを放棄し、都合

のよいフィクションを捏造しそこに逃げ込む。結

局は何もなかったのだと。一方、第二部では、エ

クトルの側から同じ出来事が詩篇によって描写さ

れている。第一篇から第六篇の詩はそれぞれ休暇

の6日にあてられ、第一部の妻の語りの内容に対

応している。第一部の妻の語りにおいて空白とな

っていた時間を補うようにエクトルと青年の接触

が語られ、妻の懸念が見事に的中していたことが

明らかになる。

 第一部と第二部が相互補完的な関係であると考

えれば、同性愛の欲望を内に秘めつつ外的抑圧

(体制による)によって結婚生活に甘んじている

というエクトル像が浮かび上がる。そしてこの二

面性を持つエクトル像は、第一部において“良き

夫”、第二部において“同性愛者”として現れて

いる。第一部で描かれているエクトルの姿は、妻

を愛し、妻に尽くす、良き夫、子供の面倒をよく

みる良き父親である。たとえエクトルの愛が見せ

かけであり、同性愛の願望を内に秘めているとし

ても、ここで具体的な事実が示されるわけではな

い。つまり、第一部で描かれているエクトルは、

夫としても父親としても申し分のない模範的な男

である。そしてそれはこの作品の舞台となった

1958年から1969年当時の体制が強要した男性像で

あり、当時の男性にとってそうあらねばならない

姿なのである。それは、同性愛者にとって抑圧で

あると同時に隠れ蓑にもなりうる。ところが、同

性愛の欲望を内に秘めつつもまだ同性愛者として

成長段階であったエクトルにとっては、この‘模

範的な男”を演じることには二重の意味があった。

つまり、体制に対し、そして自分自身に対し、内

に秘めた同性愛の欲望を隠蔽すること。結局、物

語を通してエクトルは同性愛者として成長を遂げ

自らの欲望をはっきりと自覚することになり、内

部における隠蔽作業は失敗に終わる。一方、第二

部ではエクトルは本来の欲望(同性愛の)に忠実

に詩を綴っている。ここでは、同性愛を想起させ

る様々なエピソードに混じって、青年と関係を持

つに至るまでの経緯が何の躊躇もなく描かれてい

る。つまり、二面性を持ったエクトル像は、第一

部では表向きの姿を、第二部では本来の姿を、そ

れぞれ提示しているといえる。

2.分身

 分身というテーマは、アレナスの作品を考える

上で非常に重要な要素であることは言うまでもな

い。無論、彼の作品群の中心的な存在である「ペ

ンタゴニア」においても分身というテーマは顕著

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生の希求としての文学 レイナルド・アレナス『ふたたび海』 297

である。先行研究においても、それぞれの作品に

おける分身に関する見解はおおむね一致している。

『夜明け前のセレスティーノ』では無名の幼児の

語り手に対して従兄弟のセレスティーノ、『真っ

白いスカンクどもの館』ではフォルトルナートに

対して叔母のアドルフィーナ、『ふたたび海』で

はエクトルに対し彼の妻、『夏の色』ではアレナ

ス、ガブリエル、テトリカ・モフェタという三つ

の人格がそれぞれ分身関係になっている。『襲撃』

の無名の主人公は唯一分身を持たないというのが

先行研究での主な見解であるが、この点に関して

は改めて検討したいと思う。

 「分身」と一言でいっても、アレナス作品に登

場する分身を、いわゆる伝統的な分身小説2°に登

場する分身や影と同一視することはできない。ホ

フマンやボー、ドストエフスキーなどに代表され

る19世紀の作品において扱われた分身像は、基本

的には本人に酷似したコピーであったからだ。ア

レナスの作品に登場する分身は、これらの分身と

は根本的に異なっている。異なる名前を持ってい

るだけでなく、性別や年齢さえも異なっている場

合がある。つまり、それぞれが完全に独立した存

在として描かれているのである。

 そもそも「分身」のモチーフは、精神分析学と

不可分なものである。フロイトはこのモチーフを

超自我の検閲をすり抜けた幼児願望の投影、拡散

として説明している。フロイトによれば、ドッペ

ルゲンガー21とは「自我の二重化」や「自我の分

割」、「自我の交換」22などをも含む幅広い概念であ

る。つまり、19世紀ロマン派の文学作品に登場し

た「分身」のように、本人の生き写しである必要

はないということになる。フロイトのこの立場に

立脚すれば、アレナスの作品に表れる分身像も何

ら違和感のないものとして理解できる。

 『ふたたび海』においては、先に述べたように、

主人公エクトルに対しその妻が分身であると指摘

されている。無論この根拠は、前章で述べたよう

に、物語の最後に妻の存在が否定されることにあ

る。エクトルの妻であり、赤ん坊の母親であるこ

の分身は、本人の生き写しであるどころか、異性

であり23対向する者である。つまり、第一部の妻

の語りから第二部のエクトルの詩篇に移行する際

に、視点の反転が起こっているのである。しかし

この反転は、エクトルと妻の分身関係を前提とす

れば、結局のところ一人の人間の内部で起こる反

転に過ぎないのである。分身である妻は、自分の

存在の危うさを次のように語っている。第一部、

妻の語りから引用する。

 それに、私たち、もう同じことをずいぶん話

してきたわ。(ささやきのなかで)同じ事につ

いてあまりに批判してきたから、いつ彼が話し

ていて、いつ私が話しているのか、もう分から

ないほど。今私が考えている、あるいは話して

いるのか、それとも、考えている、あるいは話

しているのが彼なのか、もう分からない。そし

て私は、単に、聞いている、あるいは解釈して

いるだけ24。

 ここでの「ささやき」とは発話ではなく頭のな

かの言葉、つまりエクトルと妻の会話が一人の人

間の内部での出来事であることを示している。通

常はうまく役割分担されている二つの人格が、こ

こでは混乱し溶け合っている。

 私は自分の姿を見る。赤ん坊を腕に抱き、こ

の浜辺に座っている、暗闇のなかで。そして流

れている音楽を聴いている。赤ん坊を連れて座

っている女。私が言っているのかしら? エク

トルが考えているのかしら? 彼が考えて、私

が言っているのかしら? 彼が言って、私が繰

り返しているのかしら? 赤ん坊を連れた女。

母親と赤ん坊25。

 同じく第一部の妻の語りからの引用である。そ

もそも自分の姿を見るというのは、鏡でも置いて

いない限り不可能であるから、ここで自分の姿を

見つめている視点は見つめられる肉体の外にある

ことになる。この場面は、日が暮れた後エクトル

と妻がポーチに出て涼んでいるところである。妻

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298 伊藤 秋江

は赤ん坊を膝に乗せミルクを飲ませている。「暗

闇のなかで」「流れている音楽を聴いている」の

はこのポーチでの出来事であるが、「浜辺に座っ

ている」のは回想、あるいは妄想である。ここで

もまた、先ほど引用した箇所と同様の混乱が生じ

ているが、ここに至ってはエクトルと妻の同一性

だけでなく妻の人格に対するエクトルの人格の優

位が示唆されている。私(妻)は言う(あるいは

繰り返す)語り手であるが、考える(あるいは先

に言う)のは常に彼(エクトル)のほうである。

「赤ん坊を連れて座っている女」、「赤ん坊を連れ

た女」、「母親と赤ん坊」というのはまさにエクト

ルの視点である。

 第二部のエクトルの詩篇においても、このよう

な混乱は生じている。第五篇の「彼女とぼく」と

題された戯曲部分からの引用である。

彼女:ああ、エルサレムの娘たちよ。ああ、エ

   ルサレムの娘たちよ……

ぼく:それはぼくの台詞だよ。

彼女:あなたは私を憎んでいるのよ。言いなさ

   いよ、私を憎んでいるって。約束してほ

   しいの、私を憎むって。あなたが私を憎

   んでいると言えば、私は慰められるのよ。

ぼく:なんて生活。

彼女:ちょっと1 私の台詞よ、それは。

ぼく:じゃあ、繰り返せよ126

この箇所だけでなく第一部全体において一貫して

いる。このことに関しては次のような説明が可能

かもしれない。つまり、同性愛者として発展段階

であるエクトルは自分の同性愛者的な面を分離さ

せ“妻”という人格を生み出した。そして、その

存在を憎悪することで、自分が同性愛者であると

いうことを無意識のうちに拒絶している、と。同

時に“妻”という分身は、自己防衛のために生み

出された存在であるともいえる。同性愛者である

という事実は厳しい取り締まりの対象となる属性

であったため、精神の均衡を保ちつつ体制とうま

く折り合うには“妻”という分身を生み出しその

なかに真の欲望を囲い込む必要があったのだ。

3.流動する海のイマージュ

 作家レイナルド・アレナスにとって海は非常に

重要なモチーフであった。それは彼がキューバと

いう島国で生まれ育ち海が身近であった27という

単純な理由にとどまるものではない。海は彼にと

って自由を意味していた。

 たぶん、自分たちが抑圧されている陸から脱

出する一つの方法として、海を無意識のうちに

愛していたのだろう。海に漂うとき、たぶん、

あの忌まわしい島の状況から逃げだしていたの

だろう28。

 この箇所では、彼女(妻)とぼく(エクトル)

の役割分担が混乱し台詞を取り合っている。本来

ならば読書浸けのエクトルが口走るはずである聖

書の言葉がろくに読書をしない妻の台詞となり、

日ごろから生活に不満を漏らしている妻の言葉が

浮世離れしたエクトルの台詞となっている。そし

て本人たちもそのことに気がつき、それは自分の

台詞だと互いに文句を言う。

 ここで彼女(妻)の二つ目の台詞に注目したい。

妻はエクトルが自分を憎んでいると執拗に繰り返

し、そのことが自分の慰めであると言っている。

エクトルに対する妻のこのような被害者意識は、

 キューバ時代のアレナスにとって、海は抑圧か

らの自由の象徴だった。国外へ逃れる可能性を海

にみると同時に、海に漂うことでキューバ島から

自分を切り離し解放していたのだろう。そして、

亡命後のアレナスにとっても、やはり海は自由の

象徴であった。それは自分を祖国キューバと繋い

でいるものであり、キューバと自分を隔てる空間

からの自由であった。アレナスはキューバへの帰

還の可能性を海にみていたのだ。彼はごく親しい

友人に宛てた遺書の末尾に次のような言葉を残し

た。

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生の希求としての文学 レイナルド・アレナス『ふたたび海』 299

 ぼくの遺体を灰にしたら、次の指示に従って

くれ。ある日キューバが自由になったら、その             マ  レ  コ  ン灰をハバナのあのなつかしい海岸通りから海に

撒いてくれ。そしてもし、数年たってまだキュ

ーバが共産主義者たちの支配下にあったならば、

フロリダ半島の先端キーウェストまで行ってボ

ートを一隻借り、キューバにできるだけ近づい

たところで灰を撒いてくれ。海流に委ねられた

それは、きっと対岸にたどりつくにちがいない

から29。

 死を決意したアレナスの祖国キューバへの郷愁

と海に託された希望が、ここに現れている。海は

また、アレナスにとって創作行為と密接に関わる

存在でもある。自伝小説『夜になるまえに』のな

かで、タイプライターのリズムを海の波に準えて

次のように述べている。

 坐ってタイプを打つことは、いまもそうだが、

特別なことだった。そのキーのリズムに合わせ

て(ピアニストのように)着想が得られたし、

キーそのものがぼくを導いてくれた。語句が海

の大波のようにつぎからつぎへと生まれてきた。

いっそう大きくなったり、小さくなったりしな

がら。また、ときには巨大な波となって、ピリ

オドを打つ間も段落をかえる間もなしに、何ペ

ージも何ページも充たしていったものだった3°。

 この箇所はアレナスの作品の特徴を見事に言い

当てているように思われる。とりわけ、論理以上

に言葉のリズムが物語を規定するような「ペンタ

ゴニア」に至っては顕著であるといえる。「キー

のリズムに合わせて(ピアニストのように)着想

が得られたし、キーそのものがぼくを導いてくれ

た」というのは、彼の思考がタイプライターのキ

ーの(同時にそこから繰り出される言葉の)リズ

ムに導かれているということである。そしてその

リズムは海の波のように勢いを変化させるため、

彼の作品にもそれが反映される。彼の作品におい

て物語がしばしば論理から零れ、予測不可能に勢

いを変化させるのはそのせいである。海の波のリ

ズムは彼の創作行為の基調となっているのだ。

 海という語を表題に持ったこの作品においては、

このような海の波のリズムに映像としての海のイ

マージュが加わる。作品冒頭の海の描写に注目し

てみよう。作品全体を貫く海のイマージュを見事

に要約している。

 海。青い海。はじめは違う。はじめはむしろ

黄色。灰色というか……灰色でもないのだけど。

白、きっと。白といっても透明とは違う。白。

でもやがて、はじめとほとんど同じく、灰色に

なる。ほんのつかの間、灰色。そのあと、暗灰

色。さらに暗い色の波畝に満ちている。水のな

かの裂け目。波かもしれない。いいえ違う、た

だの逃げ水、それと太陽。もし波だったら、岸

にやってくるはずだから。つまり、砂浜に。で

も、波はない。ただ水があるだけ。やや鈍く、

地面を叩く水。でも叩いてはいない。だっても

し叩いているのだったら、何か音が聞こえるは

ずだから。静寂。地面に触れる水があるだけ。

叩くことなく。白く、透明じゃなく、やってき

て、鈍く、地面に触れて、そして離れていく。

地面じゃない、砂浜。波を立てず水が昇ってく

れば、砂浜は音を立てるかも。得意げに。ここ

からは何も聞こえない。水は昇る、でも降りて

いくのは見えない。砂浜は水を吸い込んで、下

から海に返す……そして、もっと向こうでは、

もう灰色ではなく、褐色がかっている。とても

暗い色。ほとんど黒。とうとう本当に黒になる。

でも、もうずいぶん上昇して、空に繋がってい

る。二つは区別できない。だからつまり、じっ

と見ていると、決して青くなんてない……31

 ここではあらゆる音が消し去られ、海の色だけ

が時間を追って描写されている。はじめに「青い

海」と言っておきながら、色の変化を追っていく

と青い瞬間などなく、最後には「決して青くなん

てない」と言い放つ。海は確かに青いのに、「青

い海」をとらえることは不可能なのである。それ

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300 伊藤 秋江

どころか、変化し続ける海の色を書き留めること

すらできない。つかまえた途端に手のなかからす

り抜けてゆくようなこの感覚は、まさに流動する

海のイマージュである。そしてこの海のイマージ

ュは、常に論理をすり抜けてゆくこの作品全体を

貫いている。

 また、この海のイマージュは語彙レベルにおい

ても顕著に現れている。作品全体において海への

言及や描写が頻発することは言うまでもないが、

それ以外にも動詞fluir(流れる・流動する)や

且otar(浮く・漂う)など32海や波の動きを連想さ

せる語彙が多用されている33。このような語彙レ

ベルの関与は、文脈に違和感を与えることなくご

く自然な形で起こるため、個々の用例は特筆する

に価しない。しかしながら、実際の海への言及や

描写を含めたこのような語彙の多用は、意図的に

作品全体に散りばめられたものであると考えられ

る。そして、これらのイマージュの断片は、作品

全体を支配する一つのイマージュ(流動する海の

イマージュ)を構成している。

おわりに

 本稿は、レイナルド・アレナスの小説五部作

「ペンタゴニア」に関する今後の研究の一部を構

成するものである。今回は五部作の第三部『ふた

たび海』を取り上げ、いくつかの重要なテーマに

ついて考察することを試みた。第一章では、この

作品の構造上の特徴を「相互補完的な二つの視

点」として、第二章では、五部作全体に通じるテ

ーマである「分身」の問題を、第三章では、作品

全体を貫く「流動する海のイマージュ」をアレナ

スの創作行為と結びつけて論じてきた。ここで扱

った三つのテーマは、全体としての統一は欠いて

いるものの、この作品を論じる上でどれも不可欠

なものであり、これらの考察からこの作品の五部

作における位置づけが明確になったといえる。今

後の課題としては、五部作「ペンタゴニア」全体

の分析を通して、アレナスの文学との関わりにつ

いて考えてゆきたい。最後に、「ペンタゴニア」

が彼の創作行為においてどのような位置を占める

のかという点について述べて本稿の結びとしたい。

 レイナルド・アレナスにとって五部作「ペンタ

ゴニア」は生そのものであるといえる。アレナス

はこの作品群の第一部にあたる『夜明けまえのセ

レスティーノ』で作家としてデビューし、第四部

にあたる『夏の色』を書き上げた直後に亡くなっ

ている34。つまり「ペンタゴニア」は彼の作家人

生にそっくり重ねることができる作品群であり、

作家にとっての生が創作行為であるとするならば、

まさに生そのものであったといえるかもしれない。

しかしながら、私がこの五部作をアレナスにとっ

て生そのものであるとするのには別の理由がある。

彼にとって“書くこと”は、恵まれた環境で書く

多くの作家にとっての場合とはまったく異なる意

味を持つ。自伝小説『夜になるまえに』で明らか

にされているように、作家としてのアレナスは決

して恵まれた環境にあったとは言えない。キュー

バ国内では、出版どころか35執筆活動さえ容易で

はなかった。カストロ体制による弾圧によって逃

亡生活を余儀なくされたときも、モーロ刑務所に

投獄されたときも、どこかから紙と鉛筆を手に入

れ書き続けた。キューバ時代のアレナスにとって、

原稿とは、セメント袋に突っ込み隠さねばならな

いもの、命をかけて守らねばならぬものであっ

た36。彼にとって原稿とは実体を持つ「もの」と

して存在する。その原稿が失われることは作品の

消滅を意味するし、その原稿の物質的な存在が彼

の命を脅かすことになるからだ。そしてその原稿

は、正確さや状態が問われるようなデリケートな

原稿ではなく、記録されようと必死に紙面にしが

みつく言葉の群れ、常に不完全な原稿なのである。

 自伝小説『夜になるまえに』の題名に関して、

同著の序文なかでアレナスは次のように述べてい

る。

 先になれば分かるが、すでにキューバで自伝

を書きはじめていた。『夜になるまえに』とい

うタイトルにしたのは、そのころは森で逃亡生

活を送っていたので夜にならないうちに書かな

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生の希求としての文学 レイナルド・アレナス『ふたたび海』 301

くてはならなかったからだ。いまやふたたび夜

はいっそう緊迫して近づいてきていた。それは

死の夜だった。こんどこそ本当に、夜になる前

に自伝を終わらせなくてはならなかった37。

 逃亡時代のアレナスにとって、夜は執筆のため

に必要な明かりのない世界、つまり執筆の可能性

のない世界である。この序文を書いた当時(1990

年8月)すでにエイズが悪化し死を覚悟していた

彼は、永遠に執筆することの叶わない死の世界を

「夜」というメタファーで言い換えている。アレ

ナスはこの序文を次のように結んでいる。

 病院からアパートに帰ったとき、1979年に死

んだビルヒリオ・ピニェーラ38の写真が貼って

ある壁まで這っていき、「ぼくの頼みを聞いて

ほしい。仕事を仕上げるのにあと三年生きてい

ないといけないんだ。ほぼ全人類に対するぼく

の復讐となる作品を終えるのに」と話しかけた。

何を図々しいことを要求しているのだと言わん

ばかりにビルヒリオの顔が曇ったように思う。

そんな捨て鉢な要求をしてからすでにほぼ三年

がたった。ぼくの最期は差し迫っている。最期

の瞬間まで平静でありたい。ありがとう、ビル

ヒリオ。

         ニューヨーク、1990年8月39

 すでに死を覚悟しながら、作品を書き上げるた

めだけに延命を切望するアレナスの姿は、彼にと

っての“書くこと”がまさに“生きること”であ

ったことを示している。彼にとっての文学とは、

生命や生活と切り離すことのできない、切実で

生・々しい生の行為であった。そしてここでいう

「ほぼ全人類に対するぼくの復讐となる作品4°」と

いうのは、言うまでもなく五部作「ペンタゴニ

ア」のことである。

-∩∠

8

910

11

12

13

Pentagonia;pentalogia(五部作)とagonia(苦悩)を組み合わせたアレナスの造語。

Otrα vez et mαT(1982):第一稿〈起稿66年・脱稿70年〉/第二稿〈起稿70年・脱稿72年〉/第三稿〈起稿72

年・脱稿74年>

CeLestino antes・del・albα(1967):脱稿64年/邦訳『夜明け前のセレスティーノ』・国書刊行会97年

Et pαLαcio de 1αs btαnqzeisimαs m(~fetαs(1980):起稿66年・脱稿69年・仏語版75年

El color det verαno(1991):脱稿90年

Et asαlto(1991):脱稿74年・校訂88年

第五部の『襲撃』(74年脱稿)が91年まで出版されなかったのは、死の直前に書き上げた第四部の『夏の色』の

脱稿を待ったためであると考えられる。

Cαntαndo en el po20(1982):亡命後に『夜明け前のセレスティーノ』を再版しようとしたところ、著作権がキ

ューバにあることを恐れた出版社によって改題を余儀なくされる。現在では元の題名で出版されている。

この段階ですでにアレナスは90年に脱稿する『夏の色』を含む5作すべての内容に触れている。

En todo este ciclo furioso, monumental y Unico, narrado por un autor-testigo, aunque el protagonista perece en cada

obra, vuelve a renacer en la siguiente con distinto nombre pero con igual objetivo y rebeldia;cantar el horror y la vida

de la gente.(Arenas, Cαntαndo en et pozo,)なお、この箇所を含む「ペンタゴニア」に関する文章は、その後本

人の手で一部修正され、1991年にウニベルサル社から出版された『襲撃』の裏表紙などに掲載された。

Francisco Soto, Reinαtdo Arenαs, New York, Twayne Publishers,1998, p.36.なお、ここで用いた「ビルドゥング

スロマン」という用語には「教養小説」という定着した訳語が存在するが、原語であるドイツ語の意味を重視す

る意図であえて使用しない。

ただし『襲撃』の無名の主人公だけは、前4作の主人公たちと対極にある人物として描かれている。前4作の主

人公たちが同性愛的傾向を持ち体制に翻弄される人物として描かれているのに対し、『襲撃』の主人公は同性愛

者を嫌悪する体制側の人間として描かれている。

その悲嘆とこの何らかの愛が私にこのペンタゴニアを書くことを厳命した。私の怒りと愛の物語であるだけでな

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302 伊藤 秋江

14

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21

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24

25

26

27

80」りρ9]

01つOりO

く、私の国の一つのメタファーでもあるこのペンタゴニアを。/Esa desolaci6n y este amor de alguna forma me

han conminado a escribir esta pentagonia que ademas de ser la historia de mi furia y de mi amor es una metafora de

mi pais.(Arenas,」硯color det verαno, P262)

自伝小説『夜になるまえに』によれば、第一稿は友人に預けたまま紛失し、第二稿は家の屋根瓦の下に隠してい

たが警察に没収された。

レイナルド・アレナス『夜になるまえに』(安藤哲行訳,国書刊行会、1997年)、p.176。

段落の切れ目が非常に少なく、妄想や夢の話を織り交ぜた取り留めのない語りとなっている。一日目から6日目

までそれぞれ見出しが付されているが、段落の切れ目とは一致せず、すべての章が段落の途中から始まっている。

韻文と散文の両方を含む断片的な語り。6つの詩篇はそれぞれ休暇の6日間にあてられている。

AUn tengo tiempo de volverme para mirar el asiento vacio, a mi lado. Nla voy yo solo-como siempre-en el auto.

Hasta Ultima hora la ecuanimidad y el ritmo;la fantasia_.. H6ctor, H6ctor, me digo precipitandome. Cautivo,

desatado, furioso y estallando, como el mar.(Arenas, Otγα ve2 el mαr, p.375.)

ジュネットの用語。ジュネットは物語言説を、叙法のみに注目して、非焦点化、内的焦点化、外的焦点化という

三つに分類し、さらに内的焦点化を内的固定焦点化、内的不定焦点化、内的多元焦点化の三つに分類した。内的

多元焦点化とは、何人かの作中人物がそれぞれの視点を通して同一の出来事を語るというタイプのものである。

(ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』、花輪光・和泉涼一訳、水声社、2004年、p.222。)

文学の分野において「分身(ドッペルゲンガー)」のテーマは19世紀のドイッロマン派以降、現代まで脈々と受

け継がれている。

ドイツ語で「二重の歩行者」の意。通常は、自分自身の生き写しの姿を見る現象のことをいう。「分身」のモチ

ーフを扱う際にしばしば用いられる用語。

ジークムント・フロイト「不気味なもの」『フロイト全集17』(須藤訓任・藤野寛訳,岩波書店,2006年)p.27。

男性であるエクトルの分身が女性である妻だという点は注目に値する。分裂した自己として分身が存在するので

あれば、この場合、同性愛者であるエクトルの女性的な面を、女性である妻の視点を通して映し出しているとも

いえるからだ。

Yya hemos hablado tanto de lo mismo. Hemos-entre susurros-criticado tanto lo mismo, que ya no s6 cuando

habla 61 o cuando hablo yo, que ya no s6 si ahora pienso o hablo yo, o es 61 quien piensa o habla, y yo, sencillamente,

escucho o interpreto.(Arenas, op. c庇., p.90)

Me miro, tota㎞ente, con el nifio en brazos, sentada en esta playa, en la oscuridad, y oigo la mUsica que sigue

且uyendo. Mujer sentada con un nifio.乙Lo digo yo?6Lo piensa H6ctor?6Lo pens661 y lo digo yo?6Lo dij 061 y lo

repito yo?Mzejθr con nMo. Lαmαdγe y el nino.(Arenas, og). cit・, P・97・)

Ella:Oh hij as de Jerusa16n. Oh hij as de Jerusa16n...

Yo:Eso me tocaba a㎞i.

Ella:TU me odias. D㎞e que me odias, prom6teme que me odias. Consu61ame dici6ndome que me odias.

Yo:Qu6 vida.

Ella:iA mi!A mi me tocaba eso.

Yo:iRepitelo!

(Arenas, oX). c乞t.,P.299.)

アレナスは少年時代に初めて海をみたときの感動を自伝小説『夜になるまえに』のなかで次のように語っている。

「初めて海を前にしたときのことをどう言ったらいいのだろう。その瞬間を描くことは不可能かもしれない。海、

という言葉にしかならない。」(レイナルド・アレナス、前掲書、p.56。)

1/イナルド・アレナス,前掲書、p.166。

今福龍太『ミニマ・グラシア』(岩波書店、2008年)、pp.141-142。から引用。この遺書は在米キューバ人コミ

ュニティーによって公表されたようだが、出典は確認できていない,なお、アレナスはこの遺書とほぼ同じ内容

(キーウェストで亡命キューバ人の友人の灰を撒く)の『物語の終り』という短編小説を82年に脱稿している。

レイナルド・アレナス、前掲書、p.161。

El mar. Azul. Al principio no. Al principio es mas bien amarillo. Cenizo diria_Aunque tampoco es cenizo. Blanco,

quizas. Blanco no quiere decir transparente. Blanco. Pero luego, casi tambi6n al principio, se vuelve gris. Gris, por un

rato. Y despaes, oscuro. Lleno de surcos todaVia mas oscuros. Rejaduras dentro del agua. Quizas sean las 01as. O no:

s610 espejismos del agua, y el sol. Si fueran olas llegarian a la costa. Es decir, a la arena. Pero no hay olas. Solamente,

el agua. Que golpea, casi torpe, la tierra. Pero no la golpea. Si la golpeara se oiria alg丘n ruido・Hay silencio・ Solamente

el agua, tocando la tierra. Sin golpearla. Llega, blanca, no transparente, la toca, torpemente, y se aleja. No es la tierra:

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生の希求としての文学 レイナルド・アレナス『ふたたび海』 303

7000」0

es la arena. Cuando el agua sube, sin olas, la arena quizas suelte un ruido. Satisfecha. Desde aqui no oigo nada. El

agua sube, pero no se ve baj ar. La arena la absorbe. Por debajo vuelve al mar_Y, mas alla, ya no es gris, sino

pardusco. Muy oscuro. Casi negro. Hasta que al fin, efectivamente, es negro. Pero ya es muy alto. Se㎜e con el cielo.

Los dos, por separado, no se pueden distinguir. Asi que entonces, mirando fijamente, nunca es azuL.(Arenas, op.

cit.,P.13.)

無論、同語源の名詞や形容詞なども含む。

この点に関しては、コーパス分析などを用いれば歴然とするはずであるが、それは今後の課題とする。

第五部の『襲撃』はすでに書き終えており、第四部の『夏の色』が最後の作品であった。

キューバ国内で出版できたのはデビュー作の『夜明け前のセレスティーノ』のみであった。

『夜になるまえに』によれば、アレナスは書き溜めた原稿を大きなセメント袋に突っ込み、家の屋根に隠したり、

信頼できる友人に預けたりしていた。原稿が公安局に見つかればたちまち刑務所送りになるからだ。

レイナルド・アレナス,前掲書、p.12。

Virgilio Pifiera(1912-1979)キューバの作家。アレナスの友人で、若い頃のアレナスに文学の手ほどきをした。

レイナルド・アレナス,前掲書、p.17。

アレナスのこのような表現は彼の深い孤独と激しい怒りを表しているといえる。本人曰く“牢獄”であったキュ

ーバから亡命した先の“自由の国”アメリカにも幻滅させられたアレナスは、怒りの矛先をカストロや独裁体制

だけでなく人類全体に向けるようになる。死の間際に書かれた『夏の色』の痛烈な皮肉と弾けるようなユーモア

は極限に達した彼の怒りと孤独の表れであろう。

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304 伊藤 秋江

安藤哲行「レイナルド・アレナス著作解題&年表」『ユリイカ 特集レイナルド・アレナス』(青土社、2001年9月)

今福龍太『ミニマ・グラシア』(岩波書店、2008年)

オットー・ランク『分身・ドッペルゲンガー』(有内嘉宏訳、人文書院、1988年)

クレマン・ロセ『現実とその分身』(金井裕訳、法政大学出版局、1989年)

ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』(花輪光・和泉涼一訳、水声社、2004年)

ジークムント・フロイト「不気味なもの」『フロイト全集17』(須藤訓任・藤野寛訳、岩波書店、2006年)

野谷文昭『マジカル・ラテン・ミステリー・ツアー』(五柳書院、2003年)

芳川泰久『横断する文学』(ミネルヴァ書房、2004年)