ベケットとオースター 井上善幸...ポール・オースター (Paul Auster, 1947-)...

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明治大学教養論集通巻499 (2014 3)pp.21-41 ベケットとオースター 一一ひび割れたフィギュールー一 井上善幸 He[Hump Dumpty}falls from his waU α nd no one can put himback together again -neither the king nor his horses nor his me π. (Paul Auster City of Glass.) The world that Beckett sees is already shattered. (Tom Driver 'Beckett by the Madeleine¥) I ポール・オースター (PaulAuster 1947-) 2006 年に発表した Travels intheScriptorium (以下「写字室への旅』とする)は,一人の老いた男が室 内のベッドの端に腰かけ,両手を膝にのせて床の一点を凝視しているシーン から始まる。 この場面を読む時,サミュエル・ベケット (SamuelBeckett 1906-89) が最晩年に養老院に移り,そこで写された彼のポートレートが想い起こされ o 写真家はダプリン生まれのジョン・ミニハンO 筆者の手元にみるその写 真集はパリのアナトリアという書曜から刊行されたもので,英語版は前年の 1995 年にロンドンのセッカー&ウオーバーグから上梓されている。文章は エイダン・ヒギンズによる。この書物の表紙には,ベッドの端に腰かけ,両 手を膝に載せ,右目はかすかにカメラを意識しつつ,うつむき加減に床のー

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明治大学教養論集通巻499号

(2014・3)pp.21-41

ベケットとオースター

一一ひび割れたフィギュールー一

井上善幸

He [HumpかDumpty}falls from his waU,αnd no

one can put him back together again -neither the

king, nor his horses, nor his meπ.

(Paul Auster, City of Glass.)

The world that Beckett sees is already shattered.

(Tom Driver, 'Beckett by the Madeleine¥)

I

ポール・オースター (PaulAuster, 1947-)が2006年に発表した Travels

in the Scriptorium (以下「写字室への旅』とする)は,一人の老いた男が室

内のベッドの端に腰かけ,両手を膝にのせて床の一点を凝視しているシーン

から始まる。

この場面を読む時,サミュエル・ベケット (SamuelBeckett, 1906-89)

が最晩年に養老院に移り,そこで写された彼のポートレートが想い起こされ

るo 写真家はダプリン生まれのジョン・ミニハンO 筆者の手元にみるその写

真集はパリのアナトリアという書曜から刊行されたもので,英語版は前年の

1995年にロンドンのセッカー&ウオーバーグから上梓されている。文章は

エイダン・ヒギンズによる。この書物の表紙には,ベッドの端に腰かけ,両

手を膝に載せ,右目はかすかにカメラを意識しつつ,うつむき加減に床のー

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点を見つめているベケットの姿が写し出されている九

オースターの小説が発表された 2006年という年は,ベケ vト生誕 100周

年にあたる。ベケットに親しみ,自らの批評集において幾度となくべケット

に言及してきたオースターであってみれば,この事実が作家の脳裡の片隅に

あったとしても不思議はあるまい九『写字室への旅」という小説の冒頭部

分は,妻亡き後のこのベケットのポートレートをヒントにしており,オース

ターはそれをみずからの主人公に仕立て上げ,ベケットの脳裡に去来したで

あろう亡霊的存在をめぐる問題を,自身の問題意識に照らし合わせっつこの

小説を執筆したのではあるまいか。「老いた男」の発想源にはベケットの存

在があるのではあるまいか。

そもそも「男の心は他のところにあり,頭の中の作り事のなかで立ち往生

しているJ(拙訳,以下同様)とあるがペこの「作り事」‘figments'という

語は,ベケットの読者であれば,ベケットによる「記憶の書」ともいえる

Compαnyにおいて幾度となく現れる語であることは容易に気づくはずだ九

ベケットはこの Comρanyにおいて,このような「頭の中の作り事」を散

文小説として分析してみせた。つまり顕に棲まう亡霊的存在を「声」と「聞

き手」と「案出者」とに分割し,二人称と三人称を使い分け,声が語る「お

まえ」の過去の物語と,それを聞きつつ,それが「わたし」の出来事に他な

らないことそ承認するか否かを審理する場としてある積の闇奇設定し,その

聞に横たわる聞き手の聞く物語として提示する。また三人称を用いて「男」

の物語を客観描写に近いかたちで展開する部分もあり,そこではこの小説の

仕組み,聞き手のおかれた状況,声の語りに関するさまざまな観察などがこ

の三人称によって展開される。

1) Higgins and Minihan.

2) オースターはまた, この 2006年にベケット作品集をグローブ・プレスからGrove Centenary Editionとして,四巻本に編集・上梓してもいる。

3) Auster 2006, 1. See also Auster 2006, 80, 115, 127, 129; Auster 1985, 125. 4) See Beckett 1980,63-65, 77.

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このようにベケットは人聞の意識内部で独語されるであろうモノローグを,

劇場もしくは頭蓋骨のイメージを喚起しつつ汽モノローグが産出される条

件と働きとを解剖してみせるのだ。その意味では,オースターの「孤独の発

明J(1982) というタイトルは, この Comραnyにこそふさわしいタイトル

であるようにも思える。この Companyの二年後にこそ「孤独の発明」は上

梓されるのである。 Companyもまたその描くところは「見えない男の肖像」

であり「記憶の書」である,と言えるのである九

ベケットは 70年代から 80年代初頭にかけ後期傑作群を執筆してゆく。そ

れはオースターが作家として活躍し始める時期とほぼ震なっている。オース

ターの小説は,ベケットのこのような後期における展開があったからこそ可

能となった,と考えることもできそうである。

ここでベケットとオースターの共通点を少し整理しておくのも無駄ではあ

るまL、。

まず二人に共通する三部作の存在ぞ挙げねばならなL、。ベケットは 1950

年代初頭に『モロイJ(1951) ~マロウンは死ぬJ (1951) ~名づけえぬもの』

(1953)をフランス語で発表する。この時の出版に際しシュザンヌの尽力は

とてつもなく大きく,ついにパリのミニュイ社からこの三作が一挙に出版さ

れる運びとなるのだが,この時のベケットの喜びょうは大変なものであった

に相連なく ,Disject,αに収められた 1951年4月10日付のジエローム・ラン

ドン宛の書簡は,この時のベケットの喜ひ"を語って余りある九

オースターについても似たような経緯がある。オースターも 1985年から

翌年にかけて彼の代表作となる三部作,すなわち『ガラスの街J(1985) r幽霊たちJ(1986) ~鍵のかかった部屋J (1986)を発表し,やはりベケットと

同様,この三部作の出版にはかなり苦労したようである。

5) Beckett 1980, 43-44. 6) Auster 1982, 1ff and 71ff, respectively. 7) See Beckett 1984b, 104.

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このような外的条件ばかりでなく,実際オースター作品を読めば,彼がい

かにべケ vトをよく読み,その創造的読解を通して自身の執筆に活かしてい

るかが分かるのである。とりわけ『幽霊たちJJ(Ghosls) という作品は,ベ

ケット生誕 80周年の 1986年に出版されており,ベケットとの結びつきが深

いと言えそうである九

E

幽霊というテーマ自体,後期べケットにおいては中心的ともいえる位置を

占めている。 79年に発表された『モノローグ一片』という芝居には「亡霊

の光。亡霊の夜。亡霊の部屋。亡霊の墓。亡霊の……男はほとんど亡霊の身

内たち,と言いそうになった」とあるばかりでなくべ『幽霊トリオJJ(1976)

というテレヴィ作品もあり, 60年代後半には分身をテーマにした『フィル

ムJJ(1965) という短篇映画を撮ってもいる。オースターの「幽霊たちJで

描かれる ghostsとは,限りなくこの分身に近いのである。

そもそもなぜ幽霊なのか? 小説を読んでみても実際に幽霊が現れるわけ

ではないのである。『幽霊たち』で搭かれる ghostsはどうみても doubles

に近く,ベケットをめぐる庁ースター自身の言葉を借りれば‘pseudocou-

ples'に大変近いものである。オースターはベケットの小説「メルシエとカ

ミエJJ(1970)について,以下のように指摘している。

Like Flaubert's Bouvard and Pecuchet, like Laurel and Hardy, like the other

'pseudo couples' in Beckett's work, they [Mercier and CamierJ are not 50

much separate characters as two elem日ntsof a tandcm reality, and neither

one could exist without the other. (Auster 1992, 75)

8) Steven Connorは,オースターの三部作はベケット三部作の「書き換え」であると指摘している。 Qtd.in Morley 190.

9) Beckett 1981, 79.

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ここでオースターが最後に述べている部分,すなわち,どちらか一方の要

素ももう片方がなければ存在しえないという指摘は,ベケットの登場人物た

ちそのものであるばかりか,まさにオースターの小説の登場人物にも当て幌

まる指摘である。とりわけ「幽霊たちJのブルーとブラックは瓦いが瓦いを

必要としており,ブラックの存在はブルーに知覚されることによってはじめ

て存在しうる相補的関係にある。それは『フィルムJに照らし合わせれば,

ベケットがそのスクリプトに書きつけていた言葉,すなわちジョージ・パー

クリーの「存在することは知覚されることである」‘'Esseest ρerc伊i'と言い

換えることができる叩)。つまりブラックの存在はブルーの観察なくしてはあ

りえず,ブルーでさえ,真にブルーとなるにはブラックという闇が必要であっ

た,とさえ言えるのである。

E

オースターの「孤独の発明」の表紙には,似たような背広姿の男が丸いテー

ブルでも囲んですわっているような写真が載せられている。しかしよく見る

とそれらは同じ男を複数のアングルから撮影したものに他ならないことが分

かる。しかも作品は大きく二部に分かれ,第一部は「見えない男の肖像」と

あり,第二部は「記憶の書Jと題されている。この二部構成自体,ある意味

では鏡像的であり,オースターの‘atandem reality'を映し出した結果で

あると言えよう。

このルネ・マグリットの絵画を思わせる「孤独の発明」の表紙に用いられ

た写真は,同時にまたベケットの「オハイオ即興劇J(1981)に登場する,

テーブルをはさんですわった外見そっくりな「読み手Jと「聞き手Jの二人

の男をも芽覧とさせる。この芝居では「聞き手」は観客席正面を向き, I読

10) Beckett 1972b, 11.

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み手」は観客に横顔を見せて座っている。この二人の間で書物が朗読され,

その物語の中にもやはり読み千と聞き手らしき瓜三つの男が来場し,舞台と

書物とは互いが互いを映し出す鏡のような役割を巣たす。しかもこの芝居は

『孤独の発明』が出版される前年の 1981年にアメリカのコロンパスで初演さ

れ,同年に出版されているのであるω。

あるいはベケットの芝居「なに どこJ(1983)を見てもよL、。そこでは

BAM, BEM, BIl¥孔 BOMという四人の男が順繰りに登場し,互いがEいを

審問し,その過躍で拷聞が加えられた可能性さえ示唆される。それでいて決

して真実が究明される訳ではないのである。

名前からも想像されるように,この四人もまた「できるだけよく似た」人

物として設定されている 12)。これらの人物が入れ代わり立ち替わり登場し,

一方がもう一方を尋問し,ついにはめぐりめぐって尋問する側が尋問される

側に立たされ,追求する側が追求される側へと追いやられる。ベケットはそ

の立場の違いを最小限の所作,すなわち顔を上に向けるか下にさげるかとい

う違いだけで暗示する。それが四角形の聞に灰かに照らし出されたさらに内

側の四角形内で演じられるのである。季節がめぐり,時が過ぎてゆく。

1 am alone. [... ]

It is winter

Without journey.

Time passes.

Tha t is all. [... ]

1 switch off. CBeckett 1984a, 316)

この芝居のニューヨークでの初演は『孤独の発明』の翌年である。一方

『幽霊たち』は以下のように始まる。

First of al1 there is Blue. Later there is White, and then there is Black, and

before the beginning there is Brown. Brown broke him in, Brown taught

11) See Beckett 1981, 25唱 35.

12) Beckett 1984a, 309

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him the ropes, and when Brown grew old, Blue took over. That is how it

begins. CAuster 1986a, 7)

この冒頭は,以下のように区切って読めば,ベケットの『なに どこ」を

想超させはしまいか。

First of aIl there is Blue.

Later there is White,

and then there is Black,

and before the beginning there is Brown.

Brown broke him in,

Brown taught him th巴rop巴s,

and when Brown grew old,

Blue took over.

That is how it begins.

このように後期ベケ、yトと比較するとき,いかにオースターの射程がベケッ

トのそれに近いかが分かるであろう。この二人の作家さえ,瓦いが互いの鏡

像,もしくは分身のごとき様相を呈していると言えそうである。

「幽霊たち」の主人公ブルーは指示された部屋の真向かいのアパートに住

むブラックを観察することが仕事となる探偵であるが,自分の予想に反して

事件らしきことはなにも起こらず,ひたすら室内で読書や執筆を続けるブラッ

クを観察し,それを赤いノートに書き留め,その経過を事件を依頼してきた

ホワイトにレポートとして郵送し続ける,という仕事に従事する。

ブルーの当初の予想は見事に裏切られ,探偵として足を使って対象を追い

詰める仕事に慣れ親しんだブルーのアイデンティティに亀裂が生じ,次第に

追い詰めるべき主体としての探偵ではなく,追われるべき対象としてのブラッ

クに同化してゆく。ニ人は限りなく分身同士のように変貌してゆくのである。

実際,ブルーは相手を観察しながら鏡のことを考える。しかもこの鏡のこ

とを考えるきっかけとなるのが,他ならぬ‘speculate'という内面性の刻印

を帯びた言葉がきっかけとなる。オースターは以下のように描いている。

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Now, suddenly, with the worId at it were removed from him [Blue], with

nothing much to see but a vague shadow by the name of Black, he finds

himself thinking about things that have never occurred to him before, and

this, too, has begun to trouble him. If thinking is perhaps too strong a word

at this point, a slightly more modest term -speculation, for example-would

not be far from the mark. To speculate, from the Latin speculatus, meaning

to spy out, to observe, and linked to the word speculum, meaning mirror or

looking glass. For in spying out at Black across the street, it is as though Blue

were looking into a mirror, and instead of merely watching another, he finds that

he is also watching himself (Auster 1986a, 20; my emphasis)

つまりブルーはブラックぞ偵察することを過して,他者を観察するという

より自己の内面を鏡の中で注視するような錯覚に陥るのである。それはベケッ

トの「ワットj(1953)における主人公のワットとサムの関係に似た関係で

ある。この小説の語り手はサムであり,ワットに関しては,このサムがワッ

トから mansionsの間にある庭園で聞いた言葉に基つeいているω。ワットは

サムに向かつて一種の鏡文字を用いてノット邸での出来事安物語る。つまり

二人の関係自身が鏡像を想起させるばかりでなくl4l意思伝達の手段たる言

語そのものにさえ鏡の関係が入り込んでいるのである。

「写字室への旅」の主人公は冒頭では「老いた男」として描かれるが,す

ぐに Mr.Blankという名を与えられるへこれは「某氏Jといった意味をも

っ表現だが,この男は認知症的徴候を示しており,その意味で「空自民」と

も読めるこの名づけ方はまことに示唆的である。

男のおかれた部毘は不思議な設定である。男にはその部展が一体どのよう

13) Beckett 1959, 151ff; See also Ackerley and Gontarski 345, the articles ‘asylum' and 'mansions'.

14) Beckett 1959, 159. 15) Auster 2006, 3.

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な部麗なのか認識できない。病院や監獄の一室なのか,あるいは単なる普通

の部屋なのか,確かめる手立てを奪われているのである。

ベケットの三部作でいえば,似たような状況をマロウンが経験している。

マロウンもまた自分のいる部屋がいったいどのような部屋なのか知るすべを

持たない1九マロウンもブランク氏同様,自分のいる室内から一歩も外に出

ることなく物語は語り続けられる。物語は自分の置かれた「現在の状況」に

かかわるものと,マロウンがノートに書きつけてゆくサポという少年をめぐ

る物語とに分割され,それらがおおよそ交互に語られてゆく。オースターの

言う‘atandem reality'の雛製がすでにここに現れていると言えよう17)。

「モロイ」でみられた探偵小説的要素は希薄であると言わざるをえないが,

「マロウンは死ぬJが持つ二重性,すなわち一人称で語られる現在の状況を

描くセクションと,三人称で語られるサポを描くセクションとを併せ持って

いるという事実は. ~写字室への旅』と類似した構造を具えている。「写字室

への旅Jも,ブランク氏の刻々と変化する現在の状況ι机上に置かれた文

書の山をブランク氏が読み進めてゆき,そこで語られる客観的描写に近い報

告もしくはフィクションというこ重構造を具えている。

オースターはこのこ重構造を用L、,さらにはそこにミステリーの要素を加

味することにより,読者の興味を惹きつけてゆく。それはある種の探求でも

あって,探求が物語を紡ぎ出すという点において,ベケットの小説もオース

ターの小説も似たような構造を具えているといえようへ

ベケットの三部作と比較した時. ~写字室への旅」の方が事態はより悪化

していると雷わざるを得なL、。閉所恐怖はさらに徹底され,窓からの景色な

16) Beckett 1951, 14-15. 17) ちなみに tandemという言葉は二つの座席とペダルとを具えた二人乗り自転車のことを指すが,これはベケットの『勝負の終わり~ (1957)の登場人物であるナッグとネルがアルデンヌ県のスダン近くで乗った自転車として登場する。

See Beckett 1957,31. 18) ベケットの三部作とオースターのそれとの比較については Mor1ey~参照。

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どはいっさい遮断され,複数の人物がブランク氏の前に登場しては消えてゆ

く。それらの人物の正体は本人から知らされるとント以外,ついに最後まで

明かされることはない。しかも天井にはカメラが据えられており,ブランク

氏を高速度撮影することで監視し続けている。男にはある積の「治療」が施

されているらしく,ブランク氏は錠剤を定刻に飲むよう要求され,記憶を喚

起するよう促されるものの,彼には明確に過去の記憶を呼び覚ますことはで

きなL、。マロウンに比べて年齢も進み,ある種の記憶力も低下している。ブ

ランク氏が机の前で読むタイプ原稿の山は,たとえそれがブランク氏自身の

過去の姿をフィクションという形で暗示していると仮定しでも,ブランク氏

のアイデンティティの謎をより深める結果となるばかりである。

ベケットは『モロイ」において追跡するものが追跡される他者へと生成変

化するというパラドクスを小説化し,それを探偵小説的枠組を借りつつ描い

ているが.rマロウンは死ぬ」ではこのような側面は後退し,代わりに語り

の二重構造を採用し,それらを互いに鏡像のように機能させることにより,

現実とフィクションの二項対立を無効なものにしようとするO

V

ブランク氏のおかれた部展は謎に満ちていると言わざるを得なL、。様々 な事

物に紙片が貼られ,それらにブロック体で単語が記されているのだ。たとえば

テーブルには「テーブル」と書いた紙が,ランプには「ランプ」と記した紙片が

貼り付けられている。しかも語り手はブランク氏の部屋の天井に据えられた高

速度カメラで撮影された写真をもとにこの主人公について語っているらしい。

それゆえ,物語はこの室内から一歩も外に出ることはなL、ベケットの『勝負

の終わり』のハムの言葉を借りれば「ここから外は死だ」と~,.,た状況でありベ

19) B巴ckett1957, 23

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この芝居間様,決して富内から外に出ることはない剖)。

ブランク氏の状況は異様なものであると言わざるを得ないが,言語におけ

る記号の恋意性を考慮に入れるならば,この状況はオースターの,さらには

ベケットの認識と密接に結びついていることが分かる。すなわち,ブランク

氏の置かれた状況はもはや言葉と物とが不即不離の関係にあるとみなされた

時代のそれではなく,それらは恋意的に事物の上に貼り付けられた符牒に過

ぎずω,そのようなポストモダン的状況において小説は始まっているのだ。

語り手は,ブランク氏がある単語をそっと嘱く時,はたして主人公はまだ

読み方が分かつて発音しているのか,あるいは読み方は忘却しているものの,

ある物がそのものであると分かつて発音しているのか判別できないという 2九

ところがブランク氏の置かれた状況はさらに恐ろしいものへと変貌する。後

半になって,突然これらの単語を記した紙片がすべて入れ代わっていること

に気づく。たとえば LAMPが BATHROOMに代わっていたり,壁には

CHAIRと記されていたりするのだ。しかもいったいだれがいっそのような

ことをしたのか,あるいはいっそのような事態に陥ったのか,記憶をさかの

ぼってみても,この時だ,という瞬間をブランク氏は特定することができな

。}

3

2 、

'luw

ブランク氏はそれは記号の恐意性を反映したものに過ぎないといってクー

ルに受け流すことはできず恐怖に陥る。そのような世界の不条理性寄生きる

しか彼には手立てがない。それがこの「老いた男」が甘受せざるを得ない状

況である。それらの原因を突き止める方法も意欲も男には残されていない。

このような雷語に対するオースターの認識にもベケット作品が影響してい

20) See Geraci 127. 21) ‘The signifier is arbitrary' CAuster and Coetzee 2013, 81). ~ワット」の主

人公ワットは,このような事態をすでに‘pot'という語をめぐって体験している。See Beckett 1959, 81-82.

22) Auster 2006, 2. 23) Auster 2006, 103.

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ると思われる。とりわけこのような状況ぞもっとも過酷に体験したベケット

の登場人物といえば, rワット」の主人公である。ワットはベケット作品の

中でも最大の言語的試練をかいくぐっている。

ワットはついに「反言語」とでも呼ぶべき言葉をしゃべるに到る。それは

カフカの「城J(1926) にも似て,対象に近づこうと最大限の努力を払って

も認識の地平に了解可能なものしとして対象は立ち現れてはこず,主人のノッ

トを知覚しようとするむなしい努力の果てにワットが落ち込んだ状況に他な

らなL、2410

ワットは小説の語り手であるサムに向かつてこの「反言語」を様々に用い

てノットに対する自己の認識を伝達しようとする。一例を挙げれば,

二人の男,並んで。一日じゅう,夜も少し。聾,麻捧,盲。ノットワッ

ト見た? ちがう。ワットノット見た? ちがう。ノットワット話した?

ちがう。ワットノット話した? ちがう。ではわたしたちなにした?

なにも,なにも,なにも。夜も少し,一日じゅう。二人の男,並んで。

(ベケット,高橋康也訳, 313頁)

しかしこれは「反言語」を日常の言葉に「翻訳」した結果であって,原文

では以下のように記されている。

Dis yb dis, nem 0ωt. Yad la, tin 10 tra,ρ. Skin. skin. skin. Od su did ned taw?

On. Taw ot klat tonk? On. Tonk ot klat taw? On. Tonk ta kool taw? On.

Taw ta kool tonk? Nilb, mun, mud. Tin 10 tra,ρ',yad la. Nem 0ωt, dis yb dis.

(Beckett 1959, 168)

24) See Cohn 1961, 154-166.

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ベケ、yトとオースター 33

読者はまずこの異様ともいえる文字の羅列にこそ驚かねばならない。これ

らの記号はルビー・コーンが分析しているように,段落の最後の文字から各々

の単語を後から辿ってゆけばぼぼ通常の言語(この場合は主に英語)に変換

される田)。ここでベケットは現実世界の反転を描くのに言語の秩序 Corder)

を反転させているO しかもここで言語の,という場合, Jjtに言葉の順番を逆

転させているばかりでなく,単語内の文字の順番 Corder)の反転さえ含ん

でいるのである的。

オースターにあっては,このようなワット的状況に近いものが『ガラスの

街』に告知されている。それはピーター・ステイルマン・ジュニアによって

語られる言葉である。ピーターの言葉が探偵ポール・オースターになりすま

したクインによって聞かれる時, ~ワット』の中でワットが初めてノット邸

に辿りついた晩,そこから去り行こうとするアルセーヌから聞かされる場面

を想起させる。首葉がなかば崩れ,時に意味不明に近いところを俳佃し,そ

れでいてまったくの無意味に陥る訳でもなく,英語を理解できれば一応了解

可能なものの,はたしてそれがなにを意味しているのか把握しようとすると

理解困難な言葉,そのような言葉をアルセーヌもステイルマン・ジュニアも

発するのである27)。

そうではあるが,オースターにおいて記号の窓意性が描かれることはあっ

ても,事態はそれ以上悪化することはないように思われる。オースターの文

体は澄明・明噺であり,ベケットのカフカ評を借りれば「ほとんど澄みわたっ

て」いるとさえ言ってもよL千九ところがベケットの『ワット』においては,

25) Cohn 1962, 310.

26) もちろん,すでにジョナサン・スウィフトが『ガリヴァー旅行記jJ(1725)の

中で, リリパットの小人たちにこれに近い意味不明の言葉,たとえば‘Hekinah

Degul' (Swift 20) といった言葉を喋らせていることは確認しておこう。

27) Beckett 1959,39-64; Auster 1985, 27-37, especially 29. Morleyはこのスティ

ルマン・ジュニアの言葉を『ゴドーを待ちながらjJ(1952)の中のラッキーの長

広舌になぞらえている。 SeeMorley 197.

28) Qtd. in Graver and Federman 148.

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ついに言葉は現性をその根本のところで支えている文字の秩序 (order)の

解体へと向かう。ワットは狂おしいまでに言葉の解体作業に論理的に没頭す

る。それは徹底されればされるほと‘了解不可能な記号に近つ$~.そのぷんいっ

そう悲劇性に裏打ちされたコミックな様相を思するにいたるのである。

語り手 Sam(断るまでもなく SamBeckettを想起させる)に対し,どの

ようにワットはノット邸での滞在の第二あるいは最終時期の各段階(第ーか

ら第八段階まで)を過ごしたかを説明しようとするが,ワットはその時,様々

に語JI買等を転倒してゆく。サムはその具体例を挙げ,それらにおいて一体な

にがどのように「転倒Jされているのかを示す。それらは単語の転倒から始

まり,単語内の文字の転倒,ある文章内における単語の転倒,複数の文章内

における単語の転倒,それらのパターンの様々な結合による転倒などが行わ

れる29)。すでに述べたように,コーンはこれをワットによる「皮言語」と名

づけ,それを「翻訳」してみせているが,実際その助けを借りねば理解不可

能な場合もある。

しかも転倒が進むにつれ,単語によっては文字が一部欠落している場合さ

え生じる。例えば滞在の第七段階においては,冒頭は Disyb dis, nem owt.

Yad la, tin 10 tra.ρと始まるのだが,ここにはフランス語の一部を含み,正

しい英単語さえ含まれているかに見えるが,これをコーンは最後から逆に解

読してゆき, Part of night, all day. Two men, side by sideと読解する叩)。

ここで例えば nightに相当する tinには ghが. sideに相当する disには e

が脱落していることが分かる。このような言語の転倒・崩壊現象は,主人で

あるノットに対するワットの認識不可能性に藁打ちされていると考えられる。

「ワット」においては,鏡はその像を反転させてしまっているばかりではな

い,ついには像そのものが正しい姿・記号 (figure)を写し出すことが不可

能となってしまっているのだ。世界の崩壊は言語の秩序 (order)の崩壊と

29) Beckett 1959, 164-169; See also De1euze 1993, 24. 30) Cohn 1962, 310.

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ベケットとオースター 35

なって擦を現すのである30

「ガラスの街」には,探偵クインがその行動を見張るよう依頼されたピー

ター・ステイルマン・シニアを追跡することにより,彼がニューヨークの通

りを一見ランダムに歩き回っているように見えながら,実は街の中に文字を

記そうとしているのではなL、かと推理を働かせる場面がある 2担紛2幻)

クインは最初からこのような考えに思いヨ軍5つたわけではなく,途中でその

ことに気づき,ステイルマン・シニアの日々の足跡をノートに図示し始める。

それらをたどってゆくと OWEROFBABという綴りが描かれているのでは

ないかと思えてくる。これをクインは試行錯誤の末 OWEROF BABと分節

化し, まだ描き終えてはいないものの,ステイルマン・シニアは THE

TOWER OF BABELという語句を街に刻み込もうとしているのではなL、か

と推論してゆくお〉。このような文字に対する特殊ともいえる顧慮は,ユダヤ

的伝統からの影響ばかりでなく,より広い,西洋におけるある種の伝統に根

ざしているように思われる。それは記憶術の伝統である。

ベケットがこの術の存在に自覚的であったことはほぼ間違いない。ベケッ

トは少なくともジョイスを過して,この術の存在を知っていた可能性があ

31) それは後半で取り上げる L・ウルフソンの試みにも近いものであり, ドゥルー

ズはその手JI買を分析しつつ, レーモン・ルーセルに通じる手法である,と指摘し

ているが,べケットの『ワットJと比較することもできたはずだ。ウルフソンは,

ベケットのラジオドラマ『残り火.JI(1959)の主人公ヘンリーが海の音を掻き消

すためにグラモフォンの音響再生装置を持ち歩いたり,ベケットの未完のマイム

「夢を見る男 AのマイムJ(c. 1950s)の主人公が指で耳をふさぐ所作にも似た行

動安取ったりする。これらを見ても,ベケットとウルフソンとの比較は可能であ

ると恩われる。 SeeDeleuze 1970, 6-7,11; Roussel11-35; Beckett 1984a, 101;

Inoue 148.なお Deleuze1993の論考は Deleuze1970を全面的に加筆修正した

ものである。

32) Ausier 1985, 93ff. 33) Auster 1985, 104-113.

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る刊。あるいはダンテを通して知ったのかもしれな~,35)。

オースターはどうか。オースターもまたこの術の存在に自覚的であった。

それは『孤独の発明』をみれば明らかである。第二部「記憶の書」に描かれ

た記憶術への言及をみれば円いかにオースターがこの術を意識していたか

が理解できる。そこに示されたこの術への言及から判断すると,これらの知

識の多くはフランセス・イェイツの『記憶術』に基づいていることはほぼ間

違いなL、37)

オースターはまた r空腹の技法J(1992)の中で「パートルブースの愚行」

と題して, ジョルジュ・ぺレックの『人生使用法J(1978) について論じて

いるが,この小説家もまたスウィフトやベケット,ひいてはホルへ・ルイス・

ボルヘスやレーモン・クノーなどに列なる記憶術の系譜に位置づけることが

可能な作家であることが分かる制。

ニューヨークの衡をいわば文字を記すための石版やパピルスのごとくみな

し,そこに自身の身体をぺンのごとく用いて文字を記してゆくステイルマン・

シニアは,この記憶術の伝統に根ざしているとみることがで‘きる。しかもス

テイルマン・シニアはそうすることにより,この街がパベル的混沌の中にあ

ることを示唆しようとする。

オースターには 1975年に発表された「ニューヨーク・パベル」というエッ

セイもあり,同じく「空腹の技法Jに収められている39)。そこではドゥルー

ズが序文を寄せているルイス・ウルフソンの「分裂病者と諸言語J(1970)

というフランス語による著書が取り上げられ,ウルフソンがニューヨークに

住み,精神病に苦しみつつ英語以外の複数の言語を利用して英語という日常

34) J oyce 93;井上 336.

35) Yates xii, 95-96; See also De Poli.

36) Auster 1982, 76, 82, 86-87, 88-89. 37) Auster 1982, 86; Yates 122-123, plates 7a and 7b. 38) Auster 1992, 162-167, especially 165 39) Auster 1992, 26-34.このエッセイのオリジナル・タイトルは‘One-ManLanguag巴'

であり,New York Review of Books (February 6, 1975) : 30-31に発表された。

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の言語世界を異化し,距離づけようと格闘する様子が具体的に論じられてい

る40)。

ピーター・ステイルマン・ジュニアも精神病を患っていると考えられ,そ

のような彼らが言語の次元においてパベル的混乱を綴験し,諮り,書き込む

ことにより,これらの人物は似たような状況を生きているとオースターが見

なしていることが分かる。

ステイルマン・シニアは変装して近づいてきたクインに向かい,自分は新

しい言語を創造しようとしているのだ,と語る。彼にはニューヨークの街は

ある種の廃境のような状態にあり,役にも立たず壊れたもの,取るに足らぬ

名づけえぬものなどに充ち満ちており,もはや通常の言語ではそれらのうち

捨てられた現実を写し取ることはできず,言葉は事物と殺離し,伝達する役

割を担えていない,と指摘する 4九このステイルマン・シニアの認識こそ,

60年代初頭のベケットの認識に他ならない。 TomDriverにより『コロンビ

ア大学フォーラム』に報告されたベケットとのインタヴューの中で,ベケッ

トは何度となく自身の知党する世界が「すでに粉々になって」おり‘chaos'

で‘mess'であると述べ,芸術家の任務はこの‘mess'を取り込める形式を見

い出すことにある, と述べている 42)。しかもこの部分をオースターはエッセ

イ「空腹の技法」の中で引用さえしているのである制。ステイルマン・シニ

アの認識にはベケットがあり,このシニアの変貌こそが Mr.Blankなのだ。

40) そこにはベケットの『モロイ』の主人公モロイの名前も見え,ウルフソンの試

みはジョイスのFinnegansWake (1939)に類似しているとオースターは指摘し

ている。 S巴eAuster 1992, 28, 34.

41) Auster 1985, 119-123.

42) ‘To find a form that accommodates the mess, that is the task of the artist now' (qtd. in Driver 23; my emphasis). See also Driver 21, 23.ステイルマン・

シニアもまた,ベケットと同様‘chaos'という言葉と 'mess'という言葉の両方

を用いている。 SeeA uster 1985, 121. 43) Auster 1992, 19.なおこのインタヴューのタイトルは,オースターが注記して

いるように‘Beckettat the Madeleine'ではなく‘Beckettby the Madeleine' である。

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だからこそ,二人の男はともにオースターによって「老いた男」と描かれて

いるのではないのか44)

このようなステイルマン・シニアの認識は,たとえばジョルジュ・パタイ

ユが『モロイ』論の中で分析した言葉を参照するならば,いかにオースター

がベケットやパタイユの認識を踏まえつつこのようなステイルマン・シニア

の現実認識を作り上げているかが理解できる。パタイユは以下のように述べ

ている。

以前は言語がこの計算された世界を決定した。その意味作用により,わ

れわれの文化,活動,家は支えられていた。しかしそれは言語がこれら

の文化,活動,家の一手段にみずからを還元していたからであって,こ

うした隷属状態からひとたび解き放たれてしまえば,ぞれはもはや無人

の,開け放しの戸口や窓から風雨が自由に吹き込む館にすぎなくなる。

つまりそれはもはや意味を持つ言葉ではなく,死が迂回して乗り移った

方向不能の表現なのである。(パタイユ,古屋健三訳, 89頁)

オースターこそは,ここでパタイユによって予言された[無人の,開け放

しの戸口や窓から風雨が自由に吹き込む館」を文字通り,クインやブルーが

最後にいきつく場所として描いているのである。そこにおいては「隷属状態」

から解き放たれた雷語が,もはや歴史的意義を扱えず,パベルとしての混沌

世界を復旧することもできず,廃櫨となった遺構だけの残された, もはや世

界とも呼べない世界を生きることとなる。うち捨てられているのは,それゆ

え事物ばかりではあるま L、。世界内存在としての人閉そのものが,世界から

見捨てられているのである判。それはホーソーンの言葉を借りれば「宇宙か

ら追い出された者Jである,といってもよかろう。

ベケットもオースターも,このような廃塩としての世界を描いている。そ

44) Auster 1985, 115, 131; Auster 2006, 1. 45) Beckett 1972a.

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れはもはや記憶が自己を回復することの不可能な世界であり,記憶に見捨て

られた Cmindless)世界なのだ46)。ブランク氏はそのような世界をさまよっ

ているのである。

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