シルクロード - teikyo-u.ac.jp...京大学は、この4月...

9
歩く 2016 年 11 月 17 日(木)→12 月 20 日(火) 帝京大学総合博物館(ソラティオスクエア B1F) ー世界遺産 アク・ベシム遺跡の調査 2016 シルクロード 帝京大学シルクロード学術調査団 帝京大学総合博物館 × 帝京大学総合博物館 Teikyo University Museum / 9:00-17:00(最終入館は 16:30) / 日曜日・祝日・その他大学の定める休日 開館時間 休館日 

Transcript of シルクロード - teikyo-u.ac.jp...京大学は、この4月...

  • を歩く

    2016年 11月 17 日(木)→12月 20日(火)帝京大学総合博物館(ソラティオスクエア B1F)

    ー世界遺産 アク・ベシム遺跡の調査 2016ー

    シルクロード

    帝京大学シルクロード学術調査団 帝京大学総合博物館×

    帝京大学総合博物館Teikyo University Museum / 9:00-17:00(最終入館は 16:30)

    / 日曜日・祝日・その他大学の定める休日開館時間休館日 

  •     京大学は、この 4月、「帝京大学シルクロード学術調査団」を設立し、ユーラシア大陸を東西に貫く文明の交流の道であるシルクロードの学術調査を開始しました。この調査では、中央アジアのキルギス共和国のアク・ベシム遺跡、つまり中国の歴史書に登場する砕葉(スイヤブ)城の発掘を行っています。4月 21日から 5月 16日にかけて第 1次調査を行い、その後、8月 16日から 9月 3日にかけて第 2次調査、そして 10月 13日から 22日にかけては第 3次調査を実施し、今年に入ってすでに 3回の現地調査を行いました。 シルクロード沿いの拠点都市の 1つであったアク・ベシム遺跡の発掘を通して、その当時の人びとの生活、歴史、文化を解き明かそうというのが私たちの調査の目的です。さらには、過去だけでなく、現在そこに住んでいる人びとが、その土地が持つ自然環境の中でどのように生きてきたのかということもまた、私たちの研究の大きなテーマです。 7世紀の初め、遠くインドへ仏典を求めて旅をした玄奘は、その途上、私たちが発掘しているアク・ベシム(スイヤブ)遺跡を訪れています。この展示では、この玄奘の足跡をたどりながら、私たちが調査をしている土地の風土や人びとの暮らしをご紹介したいと思います。

    学生の皆さんへのメッセージ

    帝京大学シルクロード学術調査団団長 山内和也

    帝京大学文化財研究所・大学院教授

  •    奘三蔵(602 年~ 664 年)。中国で仏教を学んだ玄奘は、仏教の原典を求めて 629 年、国禁を犯して長安を出発しました。陸路で天竺(インド)へと旅立った玄奘は、長安から河西回廊を経て高昌国へ、そして天山山脈を越え、素葉(スイヤブ)城に至りました。その後、玄奘はさらに西へと向かい、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに到着しました。出発から 16年後の 645 年、仏像や仏舎利、多くの経典を携え、長安に戻ります。西域で見聞した様々な情報をまとめた報告書が『大唐西域記』です。玄奘は、帰国後、持ち帰った仏典の翻訳に余生を捧げ、664 年、62歳で没しました。

    玄奘の歩んだ道とシルクロード

    玄奘三蔵像(東京国立博物館所蔵 Image:TNM Image Archives)

    The Silk and Spice Routes ( THE SILK ROADS PROJECT “INTEGRAL STUDY OF THE SILKROADS : ROADS OF DIALOGUE” 1988-1997, UNESCO )

    キルギス共和国及びアク・ベシム遺跡の位置

    Genoa

    Venice

    Rome

    Athens

    Ephesus

    Constantinople

    Sardis

    ANATOLIA

    Erzurum

    Tyre Damascuc

    Palmyra

    DaraNisibis

    Tabriz

    Caspian

    Ural

    Volga

    Sea

    AralSea

    Oxus

    Jaxartes

    WESTERNTURKESTAN

    STEPPE

    Ctesiphon

    Susa Isfahan

    RayyNishapur

    Medina

    Red Sea

    MuzaAden

    Zeila

    Cape of Spices

    Cana

    Socotra

    Arabian

    Sea

    Salalah

    Gulf ofOman

    Muscat

    Hormuz

    Mohenjo-Daro

    Harappa Delhi

    PUNJAB

    Taxila

    KashgarSamarkand

    Lake Balkhash

    Urumqi

    TianShan

    Turfan

    Kuga

    TARIM BASIN

    Makan

    Dunhuang

    KarakorumShang-du

    Yellow

    Nagasaki

    JAPAN

    KOREANPENINSULA

    Sea

    CHINA

    Foochow(Fuzhou)

    Zaitun(Ouanzhou)

    Canton(Guangzhou)

    Formosa(Taiwan)

    Hanor

    Pegu Vijaya

    Dc-toKraIsthmus

    Singapore

    Srivijaya(Palembang)

    JakartaJAVA

    BORNEO

    BRUNEI

    PHILIPPINES

    PACIFIC

    OCEAN

    SULAWESI

    SUMATRA

    MALAYSIA

    Mekong

    Chang Jiang

    (Yangtze)

    Huai

    Grea

    t Wall

    Lake Baikal

    GANSUCORRIDOR

    Merv

    Bactra(Balkh)

    Hindu

    Kush

    IRAN

    Barbaricon

    Goa Bengal

    Pondicharry

    INDIAN OCEAN

    Barygaza(Broach)

    INDIA

    OMAN

    ETHIOPIA

    ARABIAN PENINSULA

    Apologos

    Euphrates

    PersianGulf

    Tigris

    Nile

    Alexandria

    Cairo

    Myos Hormus

    PetraJerusalem

    Syrian Desert

    EGYPT

    TURKEY

    Danube

    MESO

    POTAM

    IA

    Sea

    ITALY

    Mediterranean

    Sea

    Bay of

    Tamralip

    Ganges

    Brahmap

    utraHimalaya

    PLATEAU OF TIBET

    Khanbalk(Beijing) Shangtung

    Peninsula

    Hang-Chou Bay

    Cathigara(Haiphong)

    Malaka

    Madras

    JeddahMecca

    GREECE

    Gaza

    Leuce Come

    BaghdadEcbatana Pa

    mirs

    Gobi Desert

    MOLUCCAS(The Spice Islands)

    The Silk and Spice Routes

    Spice Routes

    Eurasian Steppe Route

    Silk Routes Other trade and connecting routes

    Great Wall of China

    Incense Road

    IRAQ

    Antioch

    (Isutanbul)

    Trebizond

    Indus

    Karachi

    Kokand

    TaklaKhotan

    Karakoram

    EURASIAN

    MONGOLIA

    Chola

    Coast

    Su of Matacca

    Loyang

    Huan

    g He

    (Yel

    low

    R.)

    Changan(Xi’ an)

    Black

    Anuradhapura

    SRI LANKA

    Ferghana

    C h u y R i v e rビシュケク

    トクマク

    クラスナヤ・レーチカクラスナヤ・レーチカ

    ケンブルンケンブルン

    アク・ベシムアク・ベシム

    ブラナブラナ

    Kazakhstan

    Kyrgyzキルギス

    カザフスタンキルギス

    カザフスタン

    中国タジキスタン

    ウズベキスタンウズベキスタン

    アフガニスタン

    0 25km

    N

    4500

    600800

    1000150020002500300035004000

    (m)

  •  央アジアには、「世界の屋根」とも呼ばれるパミール高原、ヒンドゥークシュ山脈、カラコルム山脈、天山山脈といった数千m級の険しい高原や山脈が存在します。いまと違って道路が整備されていなかった時代には、こうした山脈はほかの地域との交流を妨げる大きな障壁となっていました。現在でも世界の地域を区分する際に、パミール高原、ヒンドゥークシュ山脈、カラコルム山脈は西アジア及び南アジアとの、そして天山山脈は東アジアとの自然境界とみなされています。 中央アジアの高原や山脈の峰々は万年雪や氷河で覆われています。夏になると、気温が上昇し、これらの氷雪が融けて無数の水の流れとなり、山麓一帯を潤します。降水量が少なく、乾燥が厳しい中央アジアの地では、人びとはこの水を利用して牧畜や農耕を行ってきました。 このような自然条件下にあるために、古くから、中央アジアでは山脈沿いに農耕を営む集落が発達しました。その 1つが、アク・ベシム遺跡、つまりスイヤブ(素葉水 / 砕葉城)です。玄奘は素葉水城について「城の周囲は 6、7里で、諸国の商胡(商業に従事する胡人)が雑居している。土地は縻(キビ)・麦・葡萄に良い」と記しています。この記録から、当時のアク・ベシム遺跡とその周辺地域は農耕に適しており、雪解け水を利用することで、多くの人口を維持できたことがうかがえます。

    高原・山脈がつくった「中央アジアの集落」

    雪に覆われた天山山脈(イシク・クル周辺) 天山山脈の雪解け水を飲む家畜(ブラナ)

  •    つて、キルギスは「キルギスタン」と呼ばれるソ連を構成する共和国の 1つでした。その当時、人びとは移動式の住居「ユルタ」に住み、新鮮な水や牧草を求めてウシやヒツジ、ウマなどの家畜とともに一定の範囲をめぐる遊牧生活を送っていました。夏になると、低地のチュー川盆地はひどく暑く、乾燥するため、遊牧民たちは家畜の飲み水や牧草を十分に得られる山間部へと移動しました。そして夏が過ぎると、山間部では寒さが増し、草も枯れてしまいますから、彼らは山麓へと移動し、厳しい冬に耐えたのです。 1930 年代、ソ連が遊牧民の定住化政策を進めると、人びとは固定式の家屋、つまり現在みられるようなレンガ造りの住居に住み、その周辺で牧畜や農耕を行うようになります。しかし、現在でも、家畜を所有する世帯では 4~ 10月にかけての約半年間、家畜を率いて山間部へと赴くことがあります。このような世帯では、年老いた夫婦と学校に通う子供が集落にとどまり、若い夫婦と幼い子供が山間部に滞在します。夏に山間部を訪れると、多くの若い遊牧民の女性の姿を目にします。彼女たちはそこで家畜の乳をしぼったり、ウマの乳を発酵させた酒「馬乳酒」やヨーグルトを製造したりしています。涼しい山間部で成長した家畜は、秋に市場(バザール)で売られ、キルギスやその隣国の人びとの食卓にのぼります。

    山間部での生活

    天山山脈中にある遊牧民のユルタ スイカを食べる遊牧民の女性

  •    に山間部で遊牧生活を送るキルギス人の中には、山道のそばにユルタを構え、旅行者に食事を提供する人たちがいます。彼らは注文を受けると、まるでピクニックでもするかのように、ユルタの傍らで炭や薪を燃料に調理を始めます。大自然の中で薪が勢いよく爆ぜ、鍋からもうもうと湯気が立ち昇る様は、のどかな風景であると同時に、遊牧民の生活の素朴さを実感させます。遊牧民が提供する食事は、家畜の肉と乳を素材としたものが中心です。その例として、ヒツジの肉を金属製の串に刺して焼いた「シャシリク」、野菜と肉の炊きこみご飯「プロフ」などがあります。 遊牧民のユルタにお邪魔してみると、食卓の上には自家製のナン(パン)、イチゴジャム、ニンジンとキュウリのサラダ、果物、山盛りの角砂糖などが色鮮やかに並んでいました。遊牧民は肉や乳製品とともに、甘い菓子と果物も好んで食べます。遊牧民はこのように栄養価の高い食物を摂取しますが、これは何も彼らに限ったことではありません。キルギスの首都ビシュケクをはじめとする都市の食堂でメニューをながめてみると、香辛料や野菜、肉の炒め物をのせた小麦の手打ちうどん(ラグマン)、チーズを使った野菜サラダ、肉入りの水餃子(ペニメリ)など、いずれもボリュームのある食べ物が並んでいます。都市、山間部を問わず、キルギス料理の中には遊牧民の食文化の伝統が垣間みえます。

    おいしい !! キルギス料理

    プロフ

    ラグマン

    チーズ入り野菜サラダ

    料理をする遊牧民ユルタの中の食卓

  • イシク・クル湖

        奘が、寒さのための多くの人馬を失いながら天山山脈(凌山)を越え、苦難の末にたどり着いたのが大清池、つまりイシク・クル湖です。キルギス共和国の東部、標高約 1600mにある東西約 180 ㎞、南北約 60㎞、面積は琵琶湖の 9倍にも及ぶ大きな湖です。深さは約 620mで世界第 2位、透明度は高く、海がないキルギスでは「キルギスの海」とも呼ばれ、夏の避暑地として観光客で賑わいます。 『大唐西域記』には「色は青黒みを帯び、味は塩からくもあり苦くもある。大きな波がはてしなく、荒い波は沫だっている。竜も魚もともに雑居し、不思議なことがおりおりおこることがある。それで往来する旅びとは供えものをして福を祈るのである。」と記されています。謎の多い湖で、塩湖のためか、冬でも凍ることがないことから「熱い(イシク)湖(クル)」と呼ばれています。また 118 もの川が流れ込んでいますが、流れ出る川が 1つもないという不思議な湖です。 玄奘は、さらに西約 90㎞にあるスイヤブ(アク・ベシム遺跡)を目指しました。イシク・クル湖岸の南北のいずれの道を通ったのか明らかではありませんが、湖岸にはキャラバン・サライ(隊商宿)の遺跡が点在します。また湖底には集落が沈んでいて、湖岸に青銅器や土器が打ち上げられることがあり、近年、水中遺跡の調査がさかんに行われています。

    イシク・クル湖 イシク・クル湖北岸からの眺め

  • アク・ベシム遺跡の調査

      シク・クル湖から西北へ向かった玄奘は、西暦 630 年、素葉水城(スイヤブ)、現在のアク・ベシム遺跡に至りました。『大唐西域記』には「城の周囲は 6、7里で、諸国の商胡が雑居している」と書かれています。別の記録では「砕葉(スイヤブ)は大通りや城郭が入り組んでおり、漢人や外国人があまねく見て回っても、端まで行き着くことができなかった」と記されています。当時、この町はソグド人を中心とした国際的な商業都市で、通りに面してさまざまな商品を売る店が連なっていました。 玄奘が訪れた時、この地を支配していた西突厥の葉護可汗(ヤブグ・カガン)はちょうど狩りに出かけるところでした。緑色の綾の上衣をまとった可汗の周囲をたくさんの官人や兵士、ラクダや馬に乗った人びとが取り巻いていました。可汗は、玄奘に対して自分の牙帳(テント)で待つように伝え、3日後に狩りから戻ると、玄奘を山のような料理と奏楽で歓待し、通訳をつけて西方へと送り出しました。 葉護可汗は玄奘と別れて間もなく殺されてしまいます。唐は西突厥を攻め、この地域に進出すると、西域経営の拠点として安西四鎮の 1つ、砕葉鎮をアク・ベシムに設置しました。679 年には王方翼が砕葉城を築いたという記録が残っています。この地をめぐって唐、トルコ人、吐蕃(チベット)が激しい争いを繰り広げましたが、最終的には旧西突厥の臣下であったトルコ系の突騎施(テュルゲシュ)がこの地を支配することになります。

    玄奘とアク・ベシム遺跡

  •    国文献に登場する砕葉城の位置は、ある 1つの石碑がきっかけとなり、キルギス共和国にあるアク・ベシム遺跡が砕葉城(スイヤブ)であるということが明らかとなりました。この「杜懐寶碑」と名付けられた石碑は、682 年に唐領の安西副都護であった杜懐寶が亡き母のために建てた供養塔の一部です。やや磨滅しているものの、その書風は一見して初唐の三大家の一人である褚遂良(596 ~ 658 年)の書風を彷彿させます。 褚遂良の最晩年の書である「雁塔聖教序」は、陝西省西安市の大慈恩寺内の大雁塔に残されています。玄奘三蔵が 652 年、寺内に雁塔を建て、翌年塔上の石室に建碑したものです。玄奘は、630 年の春、天山山脈を越えて中央アジアのオアシス都市である砕葉城に立ち寄りました。玄奘三蔵と接点を持つこの 2つの碑の書風が奇しくも共通していることは実に興味深いものです。 唐の歴史はおよそ 300 年にわたりますが、初唐の三大家が活躍した時代は長安を中心に燦然たる文化を育んだまさに黄金時代でした。都・長安から遠く離れた砕葉城で、その唐の最先端の漢字文化の象徴たる洗練された美しい楷書体がしっかりと息づいていたのです。

    杜懐寶碑

    杜懐寳碑(上)、杜懐寳碑拓本(下)碑面を調査する福井先生

    とかいほうひ

    ちょすいりょう