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イスラームと共存の可能性: 仏教との比較の観点から 黒田 壽郎 さまざまな宗教とその共存の可能性については、これまで多くの議論がな されてきた。それぞれの宗教は独自の教典をもち、その教説はさまざまな環 境、風土に根を下ろし、固有な歴史的展開を示している。それらが示す差異 的な様相はしばしば極めて濃厚であり、他者との共存、宥和など思いもよら ぬと考えられがちであるが、他方大宗教とみなされるものの間には、それぞ れの主張の中にかなりな共通性、類似性が認められない訳でもない。小さな地 球の中で価値観のグローバリゼーションが求められる中で、真のグローバル な価値の基準を探るためには、さまざまな領域における共存の可能性を、構 造的に追い求める努力が必要であろう。例えばわれわれのみ近かでは普遍的 に求められる価値の基準として、自由、平等、博愛という公準をもち、それ を実現するためのいわゆる民主主義といった旗印を掲げられてきた。しかし 近現代の改革思想の中心を構成するこれらの公準、主張は、現実の世界の中 でどのような成果を挙げているであろうか。現在人々の心に巣食うのは強い 利己主義であり、社会生活においては格差が拡大する一方であるさまを目に するわれわれには、この種のスローガンの期限切れは明白であり、むしろそ れらは権力者が弄び、活用する道具にしか過ぎないと思われ兼ねないほどで ある。 いまやわれわれには時代の要請に従って、口先だけの民主主義ではなく、 より本質的な価値観、グローバル化のための基準が求められているが、それ に当たって<共存の可能性>を求めるという切り口は、極めて適切なように 思われる。個人を社会生活から切り離し、個人の生き方を純粋に個人のレヴ ェルでしか捉えようとしない近代西欧的な民主主義の主張は、とかく異質の 71

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イスラームと共存の可能性:

仏教との比較の観点から

黒田 壽郎

さまざまな宗教とその共存の可能性については、これまで多くの議論がなされてきた。それぞれの宗教は独自の教典をもち、その教説はさまざまな環境、風土に根を下ろし、固有な歴史的展開を示している。それらが示す差異的な様相はしばしば極めて濃厚であり、他者との共存、宥和など思いもよらぬと考えられがちであるが、他方大宗教とみなされるものの間には、それぞれの主張の中にかなりな共通性、類似性が認められない訳でもない。小さな地球の中で価値観のグローバリゼーションが求められる中で、真のグローバルな価値の基準を探るためには、さまざまな領域における共存の可能性を、構造的に追い求める努力が必要であろう。例えばわれわれのみ近かでは普遍的に求められる価値の基準として、自由、平等、博愛という公準をもち、それを実現するためのいわゆる民主主義といった旗印を掲げられてきた。しかし近現代の改革思想の中心を構成するこれらの公準、主張は、現実の世界の中でどのような成果を挙げているであろうか。現在人々の心に巣食うのは強い利己主義であり、社会生活においては格差が拡大する一方であるさまを目にするわれわれには、この種のスローガンの期限切れは明白であり、むしろそれらは権力者が弄び、活用する道具にしか過ぎないと思われ兼ねないほどである。

いまやわれわれには時代の要請に従って、口先だけの民主主義ではなく、より本質的な価値観、グローバル化のための基準が求められているが、それに当たって<共存の可能性>を求めるという切り口は、極めて適切なように思われる。個人を社会生活から切り離し、個人の生き方を純粋に個人のレヴェルでしか捉えようとしない近代西欧的な民主主義の主張は、とかく異質の

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共生の哲学に向けて――イスラームとの対話――

社会環境の特異性を排除し、欧米的な枠組みの中でしか民主的なものを表象しない嫌いがあった。自由、平等、博愛といった概念も、文化的な環境の違いに応じて異なった具体化の可能性を持つものであるが、この種の異質性が簡単に排除される背後には、これらの概念が形成される際の局部性が認められるであろう。われわれは個人を、個人が成立する社会的環境、他者との関係性の中で捉えるような視点から、判断の規準となる公準を設定する必要があるであろう。その際に不可欠なのは文明的、ないしは文化的枠組みであるが、固有な文明、文化を取り上げてみた場合、その内部における世界観、ないしは人間の生き様を規定する点で大きな役割を果たしてきたのは、とりわけ宗教であった。多少の例外はあるにせよ、この点で宗教が大文明にたいして果たしてきた貢献については、疑問の余地がないであろう。人間の生き方を明示する世界観を提示するものとしての宗教を、そのようなものとして構造的に把握する試みは、共存の可能性の追求の第一歩としても欠かすことのできないものであり、根源的な価値の発見にも繋がるものであろう。異質なものの共存は、互いがその差異性の奥底に共通なものを見出すことによってこそ、初めて成立可能な事柄であるが、先ずはイスラームの場合から検討を加えることにしよう。

イスラームはタウヒードの教えであるといわれる。<Al-Islam huwa

din-t-tawhid>タウヒードはもちろん神の唯一性を指すものであるが、決してこれに止まるものではない。神の唯一性については古来充分な研究が成されてきたが、これはワフダトッ=ラーフという表現で述べられることであり、タウヒードの考えは絶対者の在りようを規定するだけではなく、その被造物すべてにも適用されねばならないのである。タウヒードとはそのアラビア語の原義が意味するように、一に化すこと、一に帰すこと、つまり<一化>、ないしは<帰一>の意であり、その原理は創造者の神ばかりでなく、その被造物、つまりこの世の万象についても適用されなければならないのである。これまでイスラーム世界において、思考は神の唯一性に関してのみ集中する嫌いがあったが、現代において強調されねばならないのは、すべての被造物に関する一化の原理の適用なのである。

万物の創り主である神が一つであるということは、唯一なる者の手に創られた万物は、存在の価値において等位にあることを意味する。そしてイスラームが登場当初から強調してきたことは、万物の差異的な側面であった。クルアーンの指摘はさることながら、最初期のカラーム神学の原子論への強い執着を始めとして、個体の差異的な性格の強調は、この文明の主張に一貫し

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て認められるものである。万物は原子の段階においてすら、その本性、資質は差異的であるが、同時に存在の資格においては等位にある。世界に存在する万象の<等位性>、<差異性>は以上から明らかであるが、これに付加されるのがその相互的<関係性>である。世界内存在者としての個体は、全体を構成するものの一つとして、周囲の環境から独立しては存在し得ないのである。

被造物の規定として、すべての存在者に例外なく適用されるイスラームの一化の原理は、<等位性>、<差異性>、<関係性>という三つの準則を一組にする公準をもたらすが、これら三つの準則を一つも欠くことなしに成立するもの――筆者はこれをタウヒードの三極構造と呼ぶが――は、既存の価値の公準よりも一段と事態の深層に視線を及ぼしている点において、一層根源的なものといえよう。この三極構造は、あくまでも他者に対する自己の特異性を主張しながらも、他者を自他の二項対立の相手側にあるものとして排除はしない。自己はむしろ他者と共存するかたちで、他者と手を繋ぎながら自己主張を行わなければならないのである。

このような自己認識とそれを成立させる世界観の現代における重要性は、さしあたり以下のような事実に照らして明らかであろう。手近な問題として例えば現在の一般的な自然観を取り上げてみよう。人間の自尊心を野放図に解放してきた現代においては、自然は人間にとっての単なる道具、原料の地位に貶められている。ところで自然という他者の<等位性>に対するこのような侵犯は、自然と共に、むしろその内部で生きるわれわれの生の質を、著しく傷つけてはいないであろうか。自然との共生の意識を失ったわれわれは、その当然の帰結としてさまざまな環境汚染をもたらすばかりでなく、自然がもたらす啓示に盲しいた結果自分たち自身の豊かな感性をも枯渇させてきた。このような傾向は辺りに満ち溢れているが、<一を差別する者は他のすべてを差別する>という格言にあるように、自然という他者の軽視は必ず他の他者、同時に他の人間に対する差別へと繋がっていくのである。現代社会が直面している政治的、経済的強者と弱者の間のおびただしい格差は誰の目にも明らかであるが、この<平等>の理念からの著しい乖離は何によってもたらされているのであろうか。ひとは皆固有の資質、能力を授けられている。自然界において鉱物、植物、動物にそれぞれ異なった能力が授けられているように、人間の資質、能力にもそれぞれ相違がある。近代の価値観はこの相違を価値の優劣に置き換え、それを正当化してきた。しかしこのような価値観を以ってしては、真の意味での平等は決して達成されえないのである。

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タウヒードの三極構造は、決して譲りえない公準の一つとしてすべての存在者の等位性という原則を備えている。この原則に従えば、人間の自然に対する優越性、あらゆる他者に対する優位などは決して容認されえないのである。個々の存在者の資質、能力の多寡、優劣は確かに存在する。しかしそれは存在の価値の上下、優劣に帰着するものではなく、イスラームにおいてはむしろ、優れた能力の持ち主にはより多くの責任が課せられることに帰結する。

以上の簡単な検討から明らかなのは、近代主義者たちの<平等>と三極構造の<等位性>という概念の質的相違であろう。抽象的概念化の産物である平等の概念は、それ自体として透明であり、その明晰さによってこの概念が求める極北、最終地点までをも照射する。数学の定理のような概念自体の直裁性は、それなりに多くの効用を持っている。ただしこの種の原則は、それが現実世界に実現される際には多くの条件が課されている。例えば平等が確立されるべき集団の個々の成員が、モザイク模様のタイルのパーツのように同じ大きさ形を備えたものであるならば、問題はない。しかし具体的なそれぞれの固体は、すべて差異的なのである。ところで近代の<平等>が保障しているのは、類的レヴェルの平等であり、決して真の個的レヴェルに根ざすものではない。実験室の中でのみ成立しうるような平等が、一旦外部の現実に晒されると破綻することは目に見えているが、現在周囲で叫ばれ続けているのは、この種の類的レヴェルのスローガンばかりなのである。

他方タウヒードの等位性は、個体の差異性を保障すると同時に、全体との密接な関係性が強調されることによって、存在論的な十全性を備えているものである。そこでは他者から切り離された自己の独立性、完結性、他者との二項的対立性、全体からの隔離といった諸問題は存在せず、自己と外部性との共生、融合が厳密に維持されているのである。全体性と無限、普遍性と個別性の乖離を矛盾なく内包しうるこのタウヒードの三極構造は、いわゆる<世界内存在>の在りようを規定するための、充分な整合性を持つもののように思われる。差異性を差別と読み替え、存在者すべての存在の意味を上下、優劣の階層に配分する契機を断っているこのような概念の構造は、少なくとも圧倒的優位に立つ一つの文明の視点に強く影響され、一色にしか行使されない<平等>といった概念の相対化に、かなりな有効性を持つもののように思われる。そしてここであえて強調するならばこのような三極構造こそ、異文化の共存という企てのための強固な礎たりうるものなのである。

さまざまな人間集団の社会的な成果である文明は、公共善を求める人々の

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誠意を通約するものとして、共通の高みをさまざまな登り口から上りつめてきた。それぞれ内外の異なった条件を課せられた固有の文明、ないしは文化が成就した結果は多様である。頂上まで登りきったもの、それが不可能だったもの、ケースはさまざまである。そしてとある高みにまで達するためのそれぞれの企ては、当然のことながら極めて多彩である。しかしわれわれはその多彩さに眼を奪われて、それが到達した高さの均一性、類似性を見逃してはなるまい。強いグローバル化の流れの中で忘れてはならないのは、差異的なものが秘めている価値の等価性であろう。

本日のわれわれの主題は、共存の可能性の問題である。そしていうまでもなく対立でなく共存の根拠は、それぞれの基本的主張の共通性にある。当然のことながら異なった主張は、しばしばこの共通性を覆い隠しがちであり、互いに共通点が見出されない場合には、協議は不調に終わる。しかしことの外見に捕らわれ、協調の可能性を奪われる愚は繰り返されてはならない。この点で一言付け加えておきたいのは、井筒俊彦先生の semantic analysis の方法論の有効性である。先生は本来言語的なこの方法論を、哲学的に展開することによって、それまで異質な思想的言説の乱雑な塊としか捉えられていなかった東洋の諸思想に、ある種の一貫性を認めることに成功されている。あくまで原典に忠実でありながら、異質の思想の共通性、共約性を求めるという試みは、さらに大きな枠組みのもとに展開されて然るべきであろう。

今回比較の対照とするのは、仏教、とりわけ浄土真宗の世界観である。いうまでもなく仏教には、異なった時期の釈迦の教えの特徴に基づいて、後に傾向の異なる教典群が著され、それに従って多くの宗派が形成されることになっている。その乱立に研究者たちは目を奪われがちであるが、同時にわれわれはこの教えにおける分派の存在を認めない、仏教の徹底した原理主義者、道元の主張に耳を傾けておく必要があるであろう。仏祖伝来の生きた伝統を核心に据える道元の立場には、仏教に生じた異説を統合する内的迫力が存在するが、それに因んでさまざまな宗派の主張の最大公約数を探るという試みも、無益なものとは見做しえない。釈迦の悟りにはさまざまな相がある。その諸相を通観するためには、仏を目指す人間が辿る特定の回路を一望するにしくはないであろう。仏性に目覚めた個人は、私的な欲望、感情の妨げを遠ざける修行の果てに、私心を離れた悟りの境地に到達する。<私から・・悟りへ>の道は往相と呼ばれるが、そこから出発して<悟りから・・世界へ>と至る道は還相と呼ばれる。この回路の中で小さな我から出発した修行者は、自己の卑小な枠組みである小我から脱出し、より大きい普遍的なものに接近

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し、合体する。この普遍的なものとの触れ合い、合体の体験は悟りと呼ばれ、当の普遍的なものは仏と呼ばれる。そしてこの悟りの体験の後で仏性を開花させた者は、仏の普遍的な視線を我がものとして、仏としての大我を結実させて現実世界に回帰するのである。

すべての存在者を有の相から説明するイスラームのタウヒードの観点と、無の相から説明する仏教の場合とでは、丁度写真のポジとネガのような陰陽の対照性が認められる。しかし仏教の場合の自己と他者の関係性、個体と全体の関連性を検討した場合、置かれている背景は著しく異なっているにしても、そのあらゆる存在者の等位性、差異性、関係性を堅持する三極構造は、タウヒードの場合同様厳密に保たれているのである。この事態を端的に示しているのは、仏教に固有の<縁起>の思想であろう。それによればこの世のすべての存在は、本性的に無であるが、そのようなものとしてすべての個は差異的で等位にあり、同時に密接に互いと関連し合っているのである。現世における存在者の存在様式に関する、このタウヒードと縁起の思想の際立った類似性は、異なった文明の共存の可能性を探る上で極めて重要である。二つの文明の中に同種の三極構造が埋め込まれている姿は、一見したところ捉え難い。それは現実認識の枠組みが、イスラームの場合と仏教の場合では、互いに正反対といってもよいほど異なっているためである。イスラームの場合神と存在者の関係は、直接に創造者と被造物という関係に要約されるが、仏は世界の創造に預かっている訳ではない。仏と存在者との関係は、仏が仏性を備えるものにたいしてその重要性を認知させ、その開花を促がすといった、いわば無知な学生を訓育し、成長させる教師のような間柄にある。そして師匠は、弟子たちの成長のいかんに応じて多様な方策を講じて訓育に励むが、弟子たちにとって師匠の姿は一様ではなく、多種多様である。

私心に溢れ、さまざまな欲望の虜である人間は、仏道に目覚め往相の道を歩み始めると、次第に精神的に向上し小我を離れて悟りを得ることにより、すべての他者を包み込むような大我を手にして、還相の道を下ることになる。彼が再び現実の地平に立つときに、精神的なメタモルフォーゼを経験したこの人間は、縁起の三極構造の内実を完全に実践しうる存在となっているのである。旅立つ前のこの人間と、帰還した後のこの人間は同一人物であり、肉体的には何の相違もない。しかし二つの場合の精神的な状態には、いうまでもなく極めて大きな相違がある。仏の力によって達成されるものが、ひとまず無形の、精神的なものに集約されるこの仏教的な特徴は、フィルムの陽画を見慣れたイスラーム世界の人々の目には、初めて陰画を見るように奇異な

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イスラームと共存の可能性―仏教との比較の観点から

ものと映ずるかもしれない。しかし両者が宿している三極構造は、等質のエネルギーを放射し、現実世界のありように等質の効果を及ぼすのである。

すべての存在者が互いに関係し合うことを認識する者、つまりそれらの関係性について周知する者が、まさしくそのことの故に備え持つ基本的な感情は、それらに対する慈悲、慈愛の念である。アッラーは慈悲深く、慈愛遍ねき存在である。そして仏の慈悲も限りなく、広大である。ところでこの普遍的な慈悲の根拠、出所は、どこに見出されるであろうか。万物の創造者である神が、自ら創り出したものすべてにたいして愛情を注ぐには当然の成り行きである、という説明も可能であろう。しかしより根源的な解は別のところにあるように思われる。広大な世界の中で、あらゆる存在者が、さまざまな様態、複雑な形式をもって緊密に交感し合う隙間のない、流動的な関係性という外部性のたたえる密度といったものこそが、すべての存在者への隔てない慈愛が発現される根拠であるといった方が、それをたんに上からの授かりものと解釈するよりも妥当であるように思われる。慈悲は上からもたらされると同時に、個々の存在者によっても担われなければならないのであり、二つの慈悲を結びつけるのは、この世界の内包する存在者相互の緊密な関係性が宿す親和力に他ならないのだから。

タウヒードの世界観、縁起の思想が提示する内容は、世界内存在としての個的なもの、ないしは個人の立ち位置を明確に示すばかりでなく、遍ねき他者への親密さの表れである慈悲の根拠ともなっている。人間の善行への意思、倫理、道徳的なものへの傾きを、個人の精神的な態度から説明する近代の流儀とは別に、三極構造の思想は上述のような親和的な環境の中に位置づけられたものが、当然採るべき存在論的な義務であると認識する。倫理性を、移ろい易い個人の精神的態度から説明するのではなく、確固とした存在論的事実に根ざした不動なものとする立場は、文化的な背景の相違などという副次的な要因などに惑わされない、揺るぎない強度を持っている。そしてこのような堅固な礎を持つ思想の上に築かれる共存の試みは、実現の可能性が一段と高いことは疑いのないことであろう。

仏教のすべての宗派の基本的主張が、縁起の世界観を基礎にしている点は疑いがない。しかしとりわけ慈悲、ないしは善への促しが、自己の側からではなく、仏という偉大な他者の側からもたらされる点を強調したのは、浄土宗、とりわけ親鸞の浄土真宗である。自力門、他力門というかたちで二つに大別される仏教の区分の中で、後者に属するこの宗派が強調する他力本願という思想は、上述したような他者性に優位を与えるような世界観である。思

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想的な骨格全体の構造のポジティヴ、ネガティヴな対照性が顕著であるにも拘らず、イスラームの教義と仏教のそれとの対比の中では、他者性、外部性の強調という点において、浄土真宗の場合がイスラームのそれに最も近いと指摘しておくことにしよう。

このような三極構造の存在は、イスラームと仏教の共存の強い可能性を示唆するに足るものである。もちろん両者の間には、かなりな相違が存在する。その最たるものといえば、仏教におけるイスラームに存在するシャリーアの欠如であろう。フィルムのポジティヴにあたる有の側面を枠組みとするイスラームの場合、タウヒードの三極構造の原理は、人間の社会的行動の基準となる規定、シャリーアの存在へと展開される。シャリーアの在りようはタウヒードの原理に則ったものであり、またこの原理のシャリーアヘの展開は、イスラームの社会的共同体、ウンマ・イスラーミーヤと直結しているのである。イスラームの教えの場合、その固有の世界観であるタウヒードと、人間が守るべき法的規範であるシャリーア、その適用によって成立する固有の社会ウンマの三者は、互いに合いよって分かち難い三幅対を形作っている。ただし縁起の思想には、イスラームの場合に存在するような社会的法、共同体についての客観的な指示はない。二つの主張の共存の可能性を語る場合に、両者の主張の隔たりを埋めるための更なる努力が必要であるが、これはまたわれわれに課された有意義な今後の課題であろう。

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