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127 デカルトの感覚知覚・身体感覚論 新しい解釈の試み 辺勝 はじめに デカルトは,「自然学」(phy・iqu・)を知れば我々自身をいわば「自然の主人か っ所有者」(mオtr… t po・・・…u・・d・1乱1・t・r・)たらしめることができると考え れそして,「自然学」の基礎になり,これを支えるのが「形而上学」(m6t・ph- ySi{ue)であるとみなした。そうであるとするならば,ここで言われている「形 而上学」は,人間の認識能力を吟味し,真なる認識がいかにして獲得されるか を明らかにするものであるが,また,外界認識における感覚の位置も再確認が 必要であろう。 デカルトは「私の推論として,いかなる原因の系列にも依存せず,何ものも それ以上に知られているものはありえないほどに,私に知られている所の私自 身の存在を使用することを選んだ」(AT.皿.85)と言っているが,「私自身の存 在」(1’前。it.n。。d。.mOi-mεm。)から出発し,そこで経験できることに依拠して 議論を進めたと考えられる。 (1)この論の目的 外界の認識においては,感覚の役割が注目されなければならないが,デカル トが感覚は誤ることがあるからということで,感覚の役割を否定したと一般に は考えられている。また,多くの議論で,「知覚因果説」は無効であり,曖昧 な感覚を使った物体の存在証明は不完全であり,単なる信念に過ぎず,したがっ て,外界は単なる仮説に過ぎないという主張もなされている。このような解釈 に対して,この論では,デカルトは感覚が一定の条件と一定の範囲内では,延 長的事物については,外的対象をあるがままに捉え,それを悟性に示すと考え ていることを明らかにしたい。

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127

デカルトの感覚知覚・身体感覚論       新しい解釈の試み

田 辺勝 義

はじめに

 デカルトは,「自然学」(phy・iqu・)を知れば我々自身をいわば「自然の主人か

っ所有者」(mオtr… t po・・・…u・・d・1乱1・t・r・)たらしめることができると考え

れそして,「自然学」の基礎になり,これを支えるのが「形而上学」(m6t・ph-

ySi{ue)であるとみなした。そうであるとするならば,ここで言われている「形

而上学」は,人間の認識能力を吟味し,真なる認識がいかにして獲得されるか

を明らかにするものであるが,また,外界認識における感覚の位置も再確認が

必要であろう。

 デカルトは「私の推論として,いかなる原因の系列にも依存せず,何ものも

それ以上に知られているものはありえないほどに,私に知られている所の私自

身の存在を使用することを選んだ」(AT.皿.85)と言っているが,「私自身の存

在」(1’前。it.n。。d。.mOi-mεm。)から出発し,そこで経験できることに依拠して

議論を進めたと考えられる。

(1)この論の目的

 外界の認識においては,感覚の役割が注目されなければならないが,デカル

トが感覚は誤ることがあるからということで,感覚の役割を否定したと一般に

は考えられている。また,多くの議論で,「知覚因果説」は無効であり,曖昧

な感覚を使った物体の存在証明は不完全であり,単なる信念に過ぎず,したがっ

て,外界は単なる仮説に過ぎないという主張もなされている。このような解釈

に対して,この論では,デカルトは感覚が一定の条件と一定の範囲内では,延

長的事物については,外的対象をあるがままに捉え,それを悟性に示すと考え

ていることを明らかにしたい。

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128 一橋研究 第26巻1号

 そのために,「私の意識の順序」(・・1on110fdf・d・m・p・n・ξ・)に従って,まず

意識の内側から分析をおこない,感覚や身体感覚の役割をデカルトに即して探

究してみたい。そして,感覚の役割を明らかにすることにより,デカルトの

「形而上学」を認識論的に検討し,彼の感覚知覚論に「直接知覚説」を読み取

ることが可能であり,彼の議論が唯物論的側面を持つものとして再評価するこ

とを目芋旨したい。

 検討の対象は『省察』に沿いながら,『屈折光学』を使い,必要に応じて

『哲学の原理』などを参照する。

I.私の存在と本質

(1)方法的懐疑の役割

 デカルトは,「もし私が学問においていつか堅固に揺るぎないものを打ち立

てようとするなら,一生に一度はすべてを根こそぎ覆し,最初の土台から新た

に始めなければならない」(AT.D(、13)とい㌔デカルトの懐疑は普遍的性格を

持つものであるが,その目的は,確固とした認識の基礎を確立することであり,

一度否定されたものでも確かなものであることが確認されれば,その後の哲学

という家を建てる「材料」として立派に役割を果たすのである。感覚について

も同様であろ㌔ここではそれが「方法的懐疑」(dout・mξthodiqu・)であること

に注目して論を進めたい。懐疑過程は私の存在とその本質認識を準備するだけ

でなく,未知なる領域へと分け入る時の先導役,分析役を果たすことになる。

 感覚に対する懐疑の理由として,デカルトは,腕を切断した人の錯覚,刀と

痛みの非類似性,色や音,味などの対象との非類似性,微細なものや遠くにあ

るものの認識の不正確さ,水中の棒の錯覚,夢などを挙げている。

(3)私の確認とその方法

 a)私の存在と本質及ぴ様態の確認

 デカルトは,徹底した懐疑により物体の本性一般や代数学や幾何学も否定す

るが,その懐疑の中でも,疑いえな一い確実なものとして,私の存在が確認され

る。「『私はある,私は存在する』というこの命題は,私がこれを言い表わすた

びごとに,必然的に真である」(AT.皿.!9)と。次に,この存在する私の本質が,

「私の意識の順序」に従って,「私とは何であるかを考察したときに,その都度

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デカルトの感覚知覚・身体感覚論 129

一人でに自然に導かれて精神に浮かんだものに注意を向ける」(AT.1X.20)こと

によって明らかにされている。すると,考えることが私から切り離すことがで

きないことが分かる。私とは「精神」(。。prit)「知性」(int。皿g.n。。)「悟性」

(。nt㎝d.ment) r理性」(正。1.on)に他ならない(AT.1X.21)。これが私の本質であ

る。さらに,デカルトは,「そのほかに私とは何であるか」(AT.1X.2!)と切り

出して,結局,私とは考えるものであり,「疑い,理解し,肯定し,否定し,

意志し,意志しない,なおまた,想像し,そして,感覚する(Sent)ものである」

(AT.lX.22)と言っている。これは,私の本質規定のあとにくる私の「思惟様態」

の規定であると言ってよいであろう。ここでは感覚が入っていることに注目し

たい。今懐疑の中にあっては,光を見たり,音を聞いたりするが,これは虚偽

でありえても,「見ると思い,聞くと思う」(ibid、)ことは全く確かだと言って

いる。

 b)私の存在確認の特徴

 ここで私の存在が確認される仕方に注意しておきたい。第一に,私の存在と

本質が,自然に意識に浮かんできて,内的に経験されることから導かれている

(AT.1X.20)が,デカルトにおいては,私は普遍的概念や命題から演繹されてい

るのでぽなく,個別的経験から,その個別的経験の中に直観されるものから確

認されている。そして,その中に確実なものを見出し,その確実なものの範囲

を拡大していくのである。これが「意識の順序」に従っていく方法であり,

「事物の真理の順序」(11o・dt・d・1丑v・・itξd・1目・ho・・)とそれは区別されている。

 第二に,デカルトは,「観念について言えば,単にそれ自身において見られ,

他のものと関係させられないならば,本来偽ではありえないものである」(AT.

1X.29)と言っている。ここでは,特に外的事物の観念に関して,観念や命題と

外的対象の一致や類似を問題として取り上げ,真偽を検討していることから明

らかなように,真理とは認識と対象との一致,あるいはあるものを表象してい

る観念と対象の対応と彼は考えていることに注目して論を進めたい。ところで,

ここで「私はある」という命題が精神によって捉えられるとすぐさま真である

とされるのは,そもそも命題を捉える精神と対象である私とは同一のものだか

らである。そして,ここから,デカルトのいう「必然性」(nξCeSSitξ)は,この

ように介在するものもなく,それゆえに懐疑の余地のない,懐疑の中にあって

も確実な「直接性」であることが分かる。

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!30 一橋研究 第26巻1号

1I.感覚と悟性 その区別

(1)蜜腺の分析が明かすもの

 デカルトは,蜜騰を分析しながら,認識能力の区別を行なっている。その際

に,蜜臆一般の分析ではなく,「個別的な」(en p。㎡。砒。。)蜜騰の分析から始め

ている。蜜臓を火に近づけそこにおける変化を観察し,恒常的なものを追求し

ている(AT,X,23)。

 蜜騰の分析からは,次の事が言いうるであろう。第一に,「悟性」

(・nt・nd・m㎝t)と「感覚」(Sen{ment)の「能力」(f・・雌)が,悟性は変化を追

うことができ,感覚は個別的なもののみを捉えるという点で,明確に区別され

ている。第二に,悟性のみが変化を追って火を近付ける前と後の蜜臓が「同一

のもの」(1・mεme・i正・)であることを理解し,判断でき乱感覚によっては,

火を近付ける前と後の蜜騰は全く別なものとしか感じられない。第三に,一それ

ぞれの能力の扱う対象が区別されている。感覚は,味,.香り,色,形,大きさ,

固さ,冷たさ,音である。悟性は,延長する,曲がり易い,変化し易いあるも

の,つまり,蜜臆という物体の本性である。

 第四に,このような個別的な蜜騰を分析することによって,対象の中に恒常

的に存在する延長し,曲り易い変化し易いあるもの,蜜騰の本質的なものを発

見することができるということである。「分析」(。n.1y。。)とは「事物が方法的

に,そしていわばア・プリオリに見つけ出された,その真の道を示すもの」

(AT.lX.王21)であり,発見の方法である。デカルトはメルセシヌヘの手紙

(1641年1月28日付けG.皿、3エ6)で,『省察』には「すべての自然学の基礎」を

含めたと語っており,それはこの「蜜騰の分析」と「物体の存在証明」の部分

と解せるが,ここでは悟性が外的対象を分析することによって本質の把握がで

き,そこから概念を形成する能力を持っていると彼が考えていたことを確認し

ておきたい。というのは,デカルトの方法は一般には数学的真理などからの合

理的演繹が中心とされる。しかし,ここでは実験や観察で獲得される感覚的認

識が分析を介して本質や法則という悟性的認識へと移行することが確認できる

からである。様々な性質を持った外的存在から延長する事物へ,さらに純粋な

延長へと認識を進めることが可能であると考えられる。

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デカルトの感覚知覚・身体感覚論 131

(2)感覚と悟性の区別

 「第二省察」においては,デカルトは,「まだそこでは精神が物体から区別

されているかどうかを問うてい’るのではなくて,確実で明証的な認識を持つこ

とができるところの精神の特性を吟味しているにすぎない」(AT.1X.102)と言

う。したがって,ここでの区別は認識論上の精神と物体,悟性と感覚の区別で

あると考えていい。また,この段階における「考える私」も「もの」として存

在する,あるいはr実体的に存在する」が,それはr形而上学的なもの」

(・hos・・mξt・physiqu・),「形而上学的な実体」として存在している(AT1X.136)

と解釈でき,それは認識論上の区別であると考えてよいであろう。

 ここでは,彼は意識の独特なあり方を言っていると考えられる。デカルトは

先のように答えると同時に,「全ての働きの基体は,なるほど,実体として

(あるいは,もしお望みなら『物質』,つまり,「形而上学的な物質」(ch・・es

m6t乱phy・iqu・)として)理解される」(AT.1X.136)と答え・しかし・考える私が

物質の運動であるということを否定している。私の中にあるr観念」もr物質

的なもの」ではあるが,物質ではないとしていると考えられ私これも認識論

上の区別と考えられる。物体の観念が意識に生じうるだけなのであり,観念が

外的事物を表象するという仕方でのみ「物質」なのである。

 以上ように,デカルトは,悟性と感覚を区別したが,蜜騰の分析は,精神の

手綱を緩め,懐疑を緩めて,精神の外に蜜磯が存在していることが許容される

中でなされた。では,懐疑の中ではどうなるのだろうか。正確に言えば,「蜜

麟の観念を吟味した」(AT.1X.34)のであり,思惟実験をしながら,そこから本

質的なものを見出したことになる。ここで確実なのは,広がりを持った,曲り

易い,変化し易いあるものは,もし,蜜騰が精神である私の外に存在するなら

ば,その本質となっているはずだということであ孔

皿.感覚と悟性.認識論的連関

(1)悟性による物体の存在可能性の証明

 懐疑の中において,外的事物が一旦否定されるが,内側から確実なものを探

る道はデカルトにおいては三つあると考えられる。「知覚表象説」(観念の個別

性など「対象的実在性」から,その原因とされる外的事物があるし,その認識

になっているとするもの),「知覚因果説」(外的対象から物理的運動が感覚器

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132 一橋研究第26巻1号

官を伝わり,その結果それに対応する観念が精神内に生み出される。意識の側

から因果推論によって外的対象が知られるというもの),「直接知覚説」(観念

からの推論や網膜像の大きさなどから推論して対象を認識するのではなく,感

覚知覚は直接対象を捉えているというもの)である。そこには,「対象的実在

性」は外的事物の存在を保証するか,感覚が対象をとらえるのは因果推論によ

るか,r類似性」は物体的事物の認識を保証するか,感覚が物体的事物を捉え

る条件と範囲はどのようなものか,という問題が存在す乱

 a)意識様態による因果推論

 悟性の捉える観念から推論,結果としての観念から原因を追及する方法は二

通りある。ここで「観念」(id6・)とは,「その直接的な知覚(p・士・・pdon)によ

り,我々が当の思惟そのものを認識するところの任意の形象(fom・)」(AT.皿.

124)であるが,この観念には二義性があって,一方で,「質料的に」(m・tξ一

ri。皿。m.nt)私の悟性の作用であり,他方,「対象的に」(obj。。dv.ment)そうい

う作用によって表象されたものである。前者は,観念を私の意識の様態として

捉えてする仕方である。一この時には私の意識から借りてこられる同等の原因と

しての「形相的実在性」(f舳t6fOme皿e)の他には,何らの形相的実在性を自

ら要求する事はない。だから,この意味では,「悟性の外に原因を必要としな

い」(AT.1X.83)し,私の存在は出て来ても,物体の存在は出てこないとデカル

.トは考えている。

 b)「対象的実在性」による因果推論

 後者は,この観念がこの特定の「対象的実在性」(・舳tξobi・・せv・)を含んで

いて,他の対象的実在性を含んでいない,例えば,楕円形の太陽の観念ではな

くて円形の太陽の観念を私が持っところに注目し,そこからその観念自身が対

象的に含んでいる実在性と少なくとも同等の実在性を「観念の対象の内に我々

が理解するとおりに現実的に含む」(AT.D(.125)ところの一ある原因が存在する

と推論するものである。「対象的実在性」とは「観念によって表象された事物

の存在性を,それが観念の内にある限りで示すもの」(AT.瓜.124)である。

 では,この悟性による推論において物体の存在証明はなされたのであろうか。

蜜騰の分析において,延長的なものは明晰判明であったが,光り,音,色,香

り,味,熱さと冷たさ,固さなどは,混乱した不判明な仕方でしか悟性には捉

えられないし,「質料的虚偽」(f里u・・tきm乱t6ri・皿・),つまり,観念の表象するも

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デカルトの感覚知覚・身体感覚論 133

のが実際には対象にはないという誤りが存在ナるので,それらが存在するもの

の観念であるかどうかも分からないのであり,それゆえに,それらの観念は私

以外の作者を必要としないと彼は考えている。

 明晰判明な観念にしても,その対象が「私が考えるものに他ならないゆえに,

私の内には形相的には含まれていないが,しかし,そのようなものは,一実体の

ある様態に過ぎず,しかるに私は実体なのであるから,優勝的に私の内に含ま

れ得ると思われる」(AT.1X.35)という。したがって,悟性の捉える明晰判明な

観念からは物体の存在証明はできないのであり,悟性の媒介があるので,悟性

概念は物体と直接的な関係を持ちえないのである。

 C)物体の存在可能性の確認

 確かに,悟性によって,物体を存在するものとしてでなければ決して理解す

ることはないにしても,そこからはそれらが存在するということは帰結せず,

単に悟性の把握の通りに存在しうるということが帰結するに過ぎない。デカル

トは,「私の思惟は事物に必然性を課すわけではない」(AT.1X.53)と言って明

らかにしている。また逆に,「我々は,現実存在が,それら自身,他の諸特性

と結合しているということを必然的であると理解しない」(AT,D(、92)のであり,

一般に,悟性によって本質と存在が区別されており,本質は個々のものを示す

ものではなく,それらに直結はしないのであるから,全ての場合において観念

と存在との間の直接的「結び目」(雌ud)を知ることはないと彼は考えている。

 結局,純粋な悟性のレベルにおいては,「物質的事物は,数学の論証の対象

である限り,存在することが可能である」(AT.1X.57)とのみいえるとデカルト

は考えている。理解する時に,いわば自己を自己自身に向け,精神そのものに

内在している観念を捉える悟性による推論,因果推論によっては,物体の存在

は可能性としてしか示せないのである。

(2)身体感覚の存在と物体の存在証明

 イ)デカルトは,思惟が本質であり延長ではない精神と延長が本質であり思

惟しない物体との明蜥判明な観念を持っている(AT.lX.62)と言って,それぞ

れの本質と区別を確認した後,私の意識のうちから外への道を探る。彼は,

「他のある種の能力(f。。u1t6)をもわカ羊うちに(。n moi)認める」(AT.1X.62)

という。その能力とは「場所を変える能力」(ceue de changef de heu)や「様々

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134 一橋研究 第26巻1号

な姿勢をとる」能力(d… m・t血・・n p1usi・u・s po・血es)などであるが,これ

らも想像や感覚の能力と同様に実体なしには理解できず,物体的な実体に内在

すべきであるという。なぜなら,「それらの能力の明晰判明な概念のうちには,

なん・らかの延長が含まれているが,いかなる思惟(m割p・n・ξ・)もまったく含ま

れていない」(ibid.)とデカルトは見なしているからであ・乱

 しかし,それらの能力が物体に属すべきものとしながら,それらが「わが内

に」(㎝moi)見いだされるとはどのようなことなのだろうか。懐疑の中,意識

の順序に従っている今は,物体に属するのなら,わが内には見いだせないと考

えられるからであ乱感覚の場合のように,外的物体がないと想定しても,

「見ると思われる」ことは確実であるという言い方もここではなされていない。

これらすべてをよく考えてみると,それはそれらの能力がもたらす身体感覚の

ことを彼は言っていると思われる。意識における身体感覚なら私の内にあると

言いうるであろう。

 口)では,なぜそれをいわゆる感覚と区別して扱ったのであろうか。「第六

省察」におけるこの部分で身体感覚がrほかのある種の能力」(AT,D(.62)とさ

れているところから,視覚や触覚と区別されていることは明らかであるが,そ

れは直接には身体や外的事物を前提にしなくても成立するとデカルトが考えた

からであると思われる。意識としての身体感覚自身は,身体や外的事物を前提

にしないでも意識できるが,その時には,それは全身に広がっており,そのよ

うに直接に感じられる,ある意味で広がりと運動の意識そのものである。とこ

ろが,広がりや運動は直前に述べられた物体と精神の規定と矛盾すると彼は考

え,先に感覚に「なにほどかの悟性作用」(que1que.SOfte dIinte皿eCdOn)を認めた

彼も,ここでは「なんらかの延長が含まれているが,いかなる思惟もまったく

含まれていない」(AT.1X.62)とみなし,身体の側に帰属させたと考えられる。

そうであるので,彼はそれでは物体の存在証明はできないと考えて,「心身合

一」の事態を議論するところに持っていったのではないだろうか。なぜなら,

私の身体が見いだされるのはr物体の存在証明」のあと,r自然の教え」

(enSe細ement n伽fe1)のすべてが間違っているのではないことが確認されたあ

とで初めて,「自然が私になによりも明らかに教えることは,私が身体を持っ

て」(AT.恢.62)いることであると確認されるからである。それにしても,身体

感覚に何らの思惟も含まれていないと言えるのだろうか。これは第4章で改め

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デカルトの感覚知覚・身体感覚論 135

て論じたい。

 ハ)以上すべての検討から,「第六省察」のこの部分と身体を見いだすとこ

ろの議論とを併せて考えて,デカルトが意識としての身体感覚を見いだしたも

のとみなして,議論を進めよいと考える。そして,全身に広がるその感覚が

「場所」(H・u)や「姿勢」(pos血r・)とその変化や運動を,つまり延長的なもの

を私に知らせてくれるのであり,私は延長を外にではないにしろ,直接に感覚

していると言ってよいであろう。また,身体感覚は延長を捉えているのだから,

飢えや苦痛などの内部感覚とも区別されうるであろが,そうとすれば,それは

意識としての身体感覚と感覚器官がある意味で一体になっていることを示唆し

ていると解釈できる。

(3)感覚による物体の存在証明

 デカルトにおける感覚による外界認識に関しては,大きく分けて次の三つが

問題である。1,「自然的傾向」(in。皿n邊don mtur。皿。),2,不随意性,3,「類

イ負性」(正。。。。mb1.n。。)である。また,感覚が直接に対象を捉えており,悟性の

推論とは異なったものであることの確認がなされる必要があろう。

 a)意識としての「感覚」と悟性の統合=感覚,感覚知覚の存在

 デカルトは,物体の存在証明を,感覚の能力を検討することによって行なっ

ている。「いま私の内に(・n mOi)はある種の受動的能力,すなわち,感覚する

能力(f・cu1tξp・ssiv・des・nd・)・詳しく言えば・感覚的事物の観念を受容し(正…一

voi・),認識する(・om・i廿・)という受動的な能力がある」(AT.1X,63)。この感覚

とは「特殊な仕方で思惟する能力」(f。・。1tξd.p.ns。。tout.s p.rd。雌r。。)(AT.

1X.62)であるが,ここでは,「受容する」(fecevo止)という語と「認識する」

(。Om乱itf。)という語に注意しておきたい。というのは,受容するのは受動的

だとしても,認識するのは能動的なのではないかと考えられるし,認識するの

は悟性の役割りであったからである。とすると,彼はこの語により感覚する時

においても悟性が常に関わっていることを示し,また,感覚が単なる受動では

なく,能動的要素も含んでいることを示したと思われる。それは,彼が感覚に

は「何ほどかの悟性作用を含んでいる」(AT.D(.62)と言っているところからも

知られる。また,ここでの純粋な意味での,狭い意味での「感覚」が意識内に

あり,それは形式としては意識における受動性,不随意性と考えてよいであろ

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136 一橋研究・第26巻!号

う。上のようにデカルトの議論を分析的に考えるならば,その存在を確認でき

るし,感覚する時には,両者が統合されて働くという解釈は可能であると考え

るg感覚すなわち「感覚」と悟性との統合,すなわち「感覚知覚」(p・…pせ。n

d。。。。n。)であると考えられる。

 そして,感覚には悟性が含まれており,能動的側面を持っていたとしても,

不随意的に「感覚」に与えられたもののみを,悟性がそこに何か付け加えるこ

となく認識する,正確に言えば,感覚知覚するので,全体として受動的である

と彼は考えたと思われ乱我々が感覚する時には受動的であると意識されるし,

また,その能力があることも「私の内に」(・n moi)あるのだから直接にそれは

意識されるのである。

 b)感覚が不随意性により教えるもの  外的存在

 ところで,感覚という「この能力を私が用いうるのは,それらの観念を産出

もしくは実現するところの,ある種の能動的な能力が,私の内であろうと,他

のものの内にであろうと,存在する場合に限られるであろう」(AT.1X.63)。さ

て,能動的な能力はどこかになければならない。「しかるに,そういう能動的

な能力は私の内にはありえない。なぜなら,その能力はいかなる私の思惟

(m丑p・nsξ・)も予想しないし,また,感覚的事物の観念は,私が協力しなくても・

むしろしばしば私の意に反してさえ,生み出されるのであるから」(AT.1X.63)

である。「私の思惟」を予想しないとはどういうことであろうか。それは,デ

カルトは,意志が精神の中の要素であり,かっ精神の中においてはその自由に

おいて無限の領域を持つものであると考えたが,感覚が「私の意志に反して」

(。Ontr.mOn帥)現れるのであるからそれは意志の中にはない,つまり,精神

の中の無限の領域を持っ意志の外にあるのだから精神の外にあり,精神の外に

あるのだからそれ自身は思惟を予想しないとしたと思われる。

 しかし,私が協力せず,意に反してさえも観念が生ずるとしても,私の内に

まだ私に知られていない能力カ手あって,そうしているかもしれないという懐疑

に対しては,私は考えるもの以外の何ものでもなく,「もし,何かそのような

力が私の内にあったとするなら,疑いもなく私はそれを意識したであろう」

(AT.1X.39)と言明されている。不随意であると意識される時には,その原因

は私の内にはなく(AT.1X.190),何であるかは分からなくても,とに牢く私の

外に,私とは異なったものとして存在することは確かであるとデカルトは考え

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デカルトの感覚知覚・身体感覚論 ユ37

たと思われる。感覚に不随意的に観念が与えられる時には,外的な何かが存在

する,このことは明晰判明に知られるのである。このことが,感覚による「物

体の存在証明」の決定的な点であり,しっかり確認しておく必要があ一る。

 したがって,この感覚の不随意性について,「強制は明晰判明な観念ではな

い」(1)と言うことはできない。私の意志に反することも明確に意識されるし,

私の内に原因がな.いことも精神によって理解され,したがって,私とは別に存

在すると明晰判明に知られるし,懐疑の中でも,夢と区別されれば,全く確実

である。また,r原因として作用する強制のゆえに別な実体とされるのではな

くて,物体が私の魂と別な実体であると既に知っているので,その原因は恐ら

く物体であろうと証明する」(2)のでもない。物体の存在証明の順序としても,

外的な存在が先ず確認されてから,その後で初めて,それが何であるかが問わ

れている。確かに,デカルトは,『省察』で見られるように,物体の本質が延

長であることを既に知っていたが,たとえ知っていなくても外的存在を確認で

きるのであって,このことがなによりも重要である。

 注意しなければならないのは,デカルトは感覚の不随意性によって私とは別

な存在があるということのみを言いたかったのであって,それによってその存

在が何であるかを言おうとしたものではないし,その役割を担うことは懐疑の

中にいる今のところできないのである。両者を混同してはならない。したがっ

て,ここで「感覚の強制の基準は,私の外に感覚的観念の原因が存在すること

をいうに十分であるが,それが何であり,何でありうるかを決定するには不十

分である」(3)と言うのは,不正確であり,両者を混同しているのである。感

覚はその内容を問題にしなくても,その形式だけで私と独立な外的な存在を示

せるとデカルトは考えたのである。感覚により外的な存在は直観でき,その外

在性を立派に証明できるのである。したがって,「感覚の強制によって存在が

確実だとされるが,それは不判明で混乱した感覚によって把握されている」

(4)とは決して言えないのである。

(4)知覚表象説,知覚因果説の検討と直接知覚説

 今,不随意性による物体の存在証明では,外的対象が何であるかを知らせな

いことがわかったが,では,感覚はそれが何であるかを示さないのであろうか。

そのことが吟味されなければならない。また,外在という根拠は,感覚の不随

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138 一橋研究 第26巻1号

意性のみで言われたのかどうかも見てみたい。

 a)物体の存在証明における知覚表象説

 あるものが感覚を私の意志に反して成立させる時,「その能動的な能力は何

か私とは違った実体の中にあるということ」(AT.1X.63),これは確かである。

では,一体これは何なのか。デカルトは,ここで二つの問題に直面している。

一つは普通は感覚に与えられ,それから独立な存在ということが確認されるな

らば,それが物体的事物すなわち物質とされるのであるが,彼にとっては,そ

れが神や天使ではないと確認することが必要であった。もう一つは;1、純粋悟性

による因果推論では,「必然的」で直接的な存在証明ができないことは,すで

に明らかにされているが,悟性の推論の形式をとりながら,しかも観念が物体

とどう直接的関係を持ちうるのかということであり,後に検討する。

 デカルトは,因果推論の形式を採り,知覚表象説的な議論をしながら,観念

の表象するものを検討して言っている。「この実体の内には,その能力によっ

て生み出される観念の中に対象的に存在する全実在性が,形相的にか優勝的に

か内在するのでなくてはならない」(AT.1X.63)4この実体は,r形相的に」

つまり観念の中に対象的に存在する一切のものがその通りに含まれている物体

か,または神か天使かのいずれかである。し。かるに,神は決して欺目繭者ではな

いから,神が直接にそれらを私に送り込むものでないことも,間接に送り込む

のでもないことも明白である。神は私にそういうこと,つまり,感覚的事物.の

観念が神あるいは天使に由来することを知る能力を全く与えておらず,むしろ,

反対に,それらの観念が物体的事物に由来すると信じる「とても大きな傾向」

(耐ξS g士。nd.in。五m七。n)を与えているので,もしそれらの観念が物体的事物と

は別のところから送り出されるのだとすれば,どうして神を欺日繭者ではないと

考えることができるのか,私には分からなくなるからである(ibid.)。感覚の示

すものと悟性の理解するものと相方があいまって,当め対象が外的物体である

と判断できると彼は考えたのであ孔かくて,「物体的事物は存在する」(AT.

1X.63)ことが確認される。

 b)私は直接に外的事物を見ていないか

 イ)意識の内側から見た場合,感覚知覚を持っということは,その結果のみ

を知覚し,その観念を内観して推論しているのであろうか。デカルトは,想像

力についていう場合,「あたかも現前しているもののように,精神の目(・V・・

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デカルトの感覚知覚・身体感覚論 139

1。。y.u.de mon。。p㎡t)で直観する(r.g趾d.f)」(AT-lX-57)という言い方や

「物体的なものの形(丘g。。。),あるいは,その像(img。)を眺める(。ont.mp1。。)」

(AT.1X.22)という言い方をしている.。想像力が対象とするものは意識の内に

ある形や像,つまり観念であるが,その観念を対象としながら,外的事物を推

測することにな手ので,このような言い方になると思われる。しかし,彼は感

覚をそれとは区別してい孔感覚の場合には,rあたかも現前しているものの

ように」(・omm・pr6・ent・)ではなく,現前していると考えられる。彼は,感

覚することを「第二省察」では,事物を「身体の器官を介したものとして」

(AT.瓜.22)感覚する.とか,「感覚器官を通したものとして」(AT.1X.23)受容し

認識すると言っている。想像力との比較では,意識内の形や像を眺めるという

言い方を,感覚に関しては,デカルトはしていないことに注目したい。つまり,

感覚器官は今は懐疑の中で否定されているが,「見ると思われる」段階でも,

感覚に関してはその不随意性によって想像力と区別されていると考えられるか

らである。したがって,感覚する時には,私は,観念を内観して事物を推論し

て認識するのではなく,感覚器官を介しそ外的事物を見ている,そう意識され

ることまではデカルトは否定していないと考えられるのである。

 また,「第六省察」の物体の存在証明のところで,デカルトは,感覚する時

に,「それらの観念が物体的事物(・ho冒e・・o・por・u・・)から送られてくる,ある

いは,出てくる(m・sont・nvoy6… uqu’。u.sp肛t㎝t)」(AT.1X.63)と信じる大

きな傾向を持つと言っている。「送られる」(。nvoy6。。),「出てくる」(p。。tent)

という言葉は,私との隔たり,.空間性を含意する。つまり,感覚が物体的事物

を空間の中で捉えている,外にそう見えていると考えられる。もしそうでない

とすると,彼は外的事物から「観念」が薄皮のようにはがれてやって来ると考

えていたことになると思われるが,これはデカルトにおいては理解しにくい。

また,映画のスクリーンを例にとると,映像のみに限定すれば現れるとは言え

るが,送られてくるとは言えないであろう。デカルトは,外的対象から区別し

て観念を論じる時には,観念が「現れる」(・・prξ・・nt・・)(AT」X.28.AT。皿。30)

という言い方をしており,ここの場合のような言い方はしていないのである。

そして,意識が意識内にある物体的事物の観念に届いているのではなく,「物

体的事物」’に届いているのであるから,直接に見ていると言いうるのである。

 口)では,なぜデカルトは感覚的事物の「観念」が送られてくるとしたので

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140 一橋研究 第26巻1号

あろうか。思惟内のみに観念の存在を認めるデカルトにおいて,それらが空間

の中を行き来するとは考えられないからである。それは,ガッサンディとの区

別で・r実体形相」(・・pξ・e・des・ho・・s舳sib1・・)的なものがやって来るのでは

ない(G,1I,799)とした上で,光が眼の方に向かって物体から反射してくるそ

のありさまを「観念」が送られてくるとしたのではないだろうか。つまり,物

質の運動としての光を見ているのではなく,その運動が引き起こす感覚を,そ

う「見えている」という意味で「観念」と言ったのではないだろうか。

 デカルトは,物質的事物の観念が私たちの外に置かれた事物からやって来る

と「見える」ことに関して,ビュルマンの問に答えて,このように「見える」

としたのは,「誰にしてもおそらく私たちがそれを見るということを否定でき

るはずだからです。しかし,それでもこの『見えること』自体が論証には十分

なのです。というのは,精神と意識の仕事ですから,それを見ることは結局は

私たちの『見えること』へ帰結するはずであり,また,その『見えること』は

それ自体,それらの観念が物質的事物を要請するからです」(AT.1X.41)と言っ

ている。これは,彼が事物の観念が送られてくるということは外にそのように

「見えている」こと,外を直接に見ていることを示していると思われる。そし

て,そのこと自体が外的事物をr要請する」(。Xig。。)ことであると言っている,

つまり,不随意的に外的事物が見えること,「見えること」そのものが外的事

物の存在を証明している,言い換えれば,感覚は外的事物を直接捉えていると

デカルトは考えていたと思われるのである。また,デカルトにとっては,観念

とは「思惟の形相」セあり,思惟の内実であるが,対象から「観念」が送られ

てくるとすることによって,対象の有り方やそれが何であるかが思惟に伝えら

れる,つまり,感覚知覚が外的対象を認識していると彼が考えていたと解釈で

きるであろう。

 したがって,外的事物から反射してくる光を物理的な運動と考えずに,意識

における「見え」と物理的な光とがある意味では同一であると彼は考え,色や

形,大きさを伴った光を,意識の側からの「見え」としての「観念」とみなし

て,それが外的事物から送られてくるとデカルトはしたと思われる。こういう

解釈が成り立つとすると,それは外的な事物が基本になり不随意性を保ち,か

っ,外的対象を認識しているという真理性を保持しながら外にそう見えている,

直接に見ているということを妨げないと考えられるのである。デカルトの感覚

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デカルトの感覚知覚・身体感覚論 141

論に「直接知覚説」を読み取ることはr省察』においても可能なのである。

 C)自然的傾向とは何か,それに依拠できないか

 イ)では,感覚による一存在証明は,純粋悟性によるものとどこが違っている.

のだろうか。その過程をたどってみれば,結局,感覚による観念が物体的事物

から送られてくると信じる「とても大きな傾向」の有無にあったのである。こ

の傾向は,私が本来持っている傾向であり,「自然の教え」でもある。

 デカルトは感覚が成立する独特な状況について,「像が対象によって描かれ,

外的対象が,現に有る」(B,67)と言い,感覚を精神の外の世界への「窓」

(f.nεt。。s)と言っている。私は窓を通して外を現に直接に見るのである。そし

て,感覚にはこのような「直接性」が有るので,取り分けて意識内の観念と外

的存在とのr結び目」(n㏄ud)を探すこともなかったのであって,ここにこそ

感覚による物体の存在証明の「必然性」はあったと考えられる。視覚を例に取

れば,感覚的事物の」観念を持つこと,すなわち,物体を「現に」(主p。ξ。㎝t)

「直接に」(immξ曲t.m.nt) 「外に」(ho。。d.moi)見ること,これが感覚する

ことであるが,これは意識される事実である。感覚のこの特性が私に「大きな

傾向」として意識される根拠であるとデカルトは考えていたと思われる。この

傾向は人間の精神が経験することであり,その事実に基づいているのである。

 口)では,「自然の教え」に対する懐疑はどうなのであろうか。「自然の教え」

(・n。。ign.m・nt n.tu蛇i)は「自然の光り」(1umiさ。。n伽r。皿・)と違い誤ることが

ある。しかし,感覚におけ一る「傾向性」は信用できないのであろうか。

 デカルトは,r第四省察」において,明らかに理解するものが真であると判

断せざるをえなかったのは,「悟性における大きな光(d趾tξ)にともなって,

意志における大きな傾向性(in・皿n・せ・n)が生じた」(AT,1X.47)からだと言っ

て,悟性認識における明晰判明性が先行し,それに依拠した,非決定ではない,

高度の自由を論じてい孔これは,悟性と意志という性格が大きく異なるもの

が判断の中で統合されて働くと意識され経験される事態においてこの「傾向性」

が言われている。物体の存在証明における「傾向性」はと言えば,感覚知覚レ

ベルの議論であるが,「それらの観念が物体的事物から送られてくるあるいは

出てくる」ということから意識において生まれる,そう意識され経験される

r傾向性」と考えられる。そして,受動的に空間の中に事物を把握している狭

い意味での「感覚」と注意によりそれを一定の対象として意識させ,認識をも

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ユ42 一橋研究・第26巻1号

たらす能動的悟性という二つの性格の大きく異なる能力が統合して働く感覚知

覚においても,デカルトは,レベルはちがえ悟性と意志の関係と同じように,

やはり全体として受動的で,しかも外を見ていると信じざるをえないとして

「傾向性」を言ったのではないだろうか。

 この傾向性自身は論証的なものではないし,私が経験する事実であるから,

そういうものではありえないが,意識される事実だから不判明だとは言えない

のであり,デカルトは,この場合,この事実に依拠できる,傾向性は有効で信

頼できると考えたと思われ孔それは,彼が,「事実,私が自然によって教え

られる事柄のすべては,何ほどかの真理(qu.1qu.Vξfitξ)を持っているという

ことは疑いのない所である」(AT.瓜.64)と言っているところから分かるであ

ろう。

 したがって,「自然的信念」(n邊t・捌beH・f)は,「偏見や即断や幼児期の習憤

を除けば,明晰判明な観念と両立しないことはない」(5)と言いうる。ただし,

ここで決定的に重要なのは「信念」(。rOym.e)で一はなく,先に論じたように,

そのように信じる大きな傾向が示す状況が問題であり,外的事物を現に直接に

見ているという経験ないし事実であって,この事実があり,それが意識されて

いるので,この信念が成立し,それに依拠できると思われる。それは単なる信

念ではなく懐疑の検証を経た確信で一あると言ってよかろう。このようにして,

デカルトは物体の存在証明ができたと考えていたのであって,「物体の存在に

関しては,厳密な意味での洞察や認識を持っておらず,事実上信念を持ってい

るだけである」(6)とは言えないのである。

 d)知覚因果説の検討 感覚1こよる存在証明は因果推論か

 イ)ところで,全ての認識戸ことづて不可欠である悟性の認識能力,悟性の推

論,判断と感覚とはどう関係するのであろうか。先にも述べたように,私が外

的事物を感覚するときに,感覚的事物の観念を受容し,認識するが,ここには

悟性が必然灼に含まれ,結び付いていたのであり,この意味での悟性が推論を

するとデカルトは考えていたのである。

 このことは「感覚の確実性」(1目・・正dt・d・du s・n・)(AT.1X.236)の三つの葭階

で論じられ,私が見るそうした「色そのものから,私は私の外に存在する棒が

色を持っていると判断し,また,そうした色の広がりと限界,および脳の諸部

分と位置関係から,その当の棒の大きさや形および距離を決定する」・(AT.1X.

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デカルトの感覚知覚・身体感覚論 143

237)とデカルトが言っていることからも明らかである。感覚の中において決

定し(dξt・f㎞n・r)判断する(jug・f)役割を悟性が果たしているのである。

 しかし,悟性が推論するといっても,純粋悟性の時のように,観念を時間を

かけて吟味した後に初めて推論するのとは異なり,感覚のレベルにおいては,

外的事物について「すこぶる速やかに推論したり,判断したりする」(AT.吸.

237)と彼は言っている。そうであるので,彼は「この働きを単純な知覚(乱p-

pf6h.n.i.n oupe。。。pdon)から我々は区別しない」(ibid。)というのである。私

が外的事物を外に直接見ている時には,すでに悟性が推論してしまっているし,

判断してしまっている。換言すれば,感覚的に直観しており,その直観は「速

やかに」瞬間性をもって行われるとデカルトは考えたと思われ乱

 口)それを観念に関して言えば,外的事物が感覚に与えられれば,それは観

念になるのであるが,感覚においては,対象的実在性を持っ観念を内観して推

論するのではなく,また,結果としての観念を内観しての悟性による推論でも

なく,感覚による観念を持つことが,すなわち外的事物を直接に外に見ている

ことであるとデカルトは考えていたと言っていいであろう。そして,感覚にお

けるそのような悟性の作用の仕方は,直接的,瞬間的であって,純粋悟性にお

けるように,意志で推論を遅らせることはできず,私の意志にも関わらずにな

されてしまうという性格を持っと思われる。そのことは,彼が,「天文学者た

ちが,太陽は地球より数倍も大きいことを根拠に基づいて確信したあとでも,

目を太陽に向けると,それが地球より小さくないと判断するよう.になりおおせ

る事はできない」(AT.1X.239)と認めていることからも明らかであろう。

 さらに言えば,このような意味での能動性が外的な認識であるという保証を

覆すものではないということである。なぜならば,感覚は精神とは独立に存在

する延長的事物に合致している(。。nf0fm.r)から成立するのであり,rいかな

る対象も感覚器官に現前していなかったならば,いくら感覚しようと欲しても

感覚しえ」(AT.脈、59)ないとデカルトが言っていることから明らかであろう。

感覚のレベルにおける悟性は,感覚の受動性,外から規定されることを覆せな

いし,目には太陽は小さくしか見えないのであ乱以上より,感覚による物体

の存在証明はいわゆる因果推論によるものではないと考えてよいであろう。

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144 一橋研究 第26巻1号

IV.感覚が認識するもの 延長的事物

(1)感覚が原理的に捉えるもの

 物体の存在証明が感覚の能力によってなされたが,思惟の順序に従い,一方法

的懐疑を働かせるなら,感覚の示すものの中で一体何が外的対象をそのとおり

に捉えているのであろうか。デカルトは,物体の存在証明をした後に,それら

の物体的事物は私の感覚の把握通りに存在するのではない,感覚の把握には多

くの点で不明瞭で混乱している(AT.1X,63)からという。これはさらに感覚の

中で確実なものを分析する必要があると言っていると考えられる。彼は続けて,

「しかし,一般的にいって純粋数学の対象のうちに把握される事がらはすべて,

それらのうちにそのとおりにあるのである」(ibid.)と言っている。ここで言

われている「純粋数学の対象のうちに把握される事がら」とはなんであるか問

題になるところである。

 それは,延長を有する物体的事物であって,感覚が延長を一般的に外に存在

しているものとして捉えていること,原理的に捉えていることを言っていると

考えられる。すなわち,デカルトは物体の存在証明がなされるr第六省察」の

初めで,私が明晰判明に認識しているものとして,「物質的事物は,数学の論

証(dξmon・血・don・)の対象であるかぎり,存在することが可能である」(AT.

1X.57。ラテン語版AT.V皿.72では「論証の」という語そのものははない。傍点

筆者)と言っており,他方,物体の存在証明の直後のここで,感覚による把握

を問題としながら,私が明晰判明に捉えるものとして「純粋数学の対象のうち

に把握される事がらはすべて,それ・らのうちにそのとおりにある」(ラテン語

版AT.㎜.80。傍点筆者)と言ってい乱両者を比較して見ると,「数学の論証の

対象」(傍点筆者)とは,純粋な延長や三角形などであり,悟性の論理的レベ

ルのものであり,「純粋数学の対象」とは延長的事物や三角形をした物体であ

り・外在する具体的事物・感覚の事実のレづルのものであるとデカルトは考え

ていたと思々れる。r純粋数学の論証の対象」として彼が考えていたものは悟

性の捉える「物質的事物の本性」(AT.皿.56)であり,「純粋数学の対象」とは

「延長的事物」であり,言葉上でも,また,感覚の捉えるものという対象の有

り方そのものでも,純粋悟性の捉えるものとデカルトは区別していたと考えら

れる。

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デカルトの感覚知覚・身体感覚論 !45

 そのような確認をした上で,Iデカルトは,感覚が捉えるものの全部が正しい

とするのではなく,一般的,原理的な問題設定から議論を移し,「個別的なこ

とがら」としては,さらに条件と範囲があると考えて,一不明瞭なものとして

「太陽の大きさはこれこれの大きさこれこれの形のものである」ことを例示し

ていると考えられ乱河野勝彦氏は,この点に関して,「デカルトはここで,

『一般的に』とr特殊的に』という二つの見方を区別して,物体的事物が純粋

数学の対象である延長を持っていることを一般的に認めると同時に,他方で,

個々の物体がこれこれの延長を持っこ孝,すなわち,延長の様態である特定の

形や大きさや運動を持つことを特殊なことがらとして区別している」(7)と主

張している。

 したがって,デカルトが「色の広がりと限界と脳との位置関係から,その当

の棒の大きさ,形,及び距離について決定する」(AT1血.237)と言っているの

を見れば,そこに大きさ,形,距離の観念が与えられており,感覚は少なくと

も広がりや形や距離など延長に関するもの,「第一次性質」は,一一般的,原理

的にその通りに捉えていると考えていた・と思われる。これに入るのが,形,大

きさ,距離など延長的なものであると考えられる。さらに,位置(。it。。don)

運動(mOuV.m.nt)持続一(d皿6。)などが入るであろう。

(2)外的事物と延長の観念の類似性の根拠

 デカルトは,感覚が外的対象を捉えている根拠として,感覚する時に持つ観

念,知覚表象と外的対象の「類似性」を挙げてい孔これはr知覚表象説」と

重なる面を持つが,これまでの分析を前提とした上で,.ここでは「直接知覚説」

を補強するものとして検討してみたい。では,類似性の根拠はどこにあるのだ

ろうか。物体の存在証明のところでもふれたように,長さや形などの延長が外

的存在に認められたのであるし,蜜磯の分析においても,延長的なものがどの

物体にもあり,諸変化を貫いて存在すると理解される事が欠き」な根拠になって

いると考えられる。

 さらに,デカルトは,外的な延長と感覚によってもたらされる延長の観念と

の間には,外的存在にある諸性質とそれによって生じる色や音などとの間にお

いたような違いを認めていないと思われる。それは,「大きさとか形とか運動

などのように,物体において明晰に知られると既に述べたものが,見られた物

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146 一橋研究 第26巻1号

体において二体何であるかを認識する仕方は,色とか香りとか苦痛とか味とか

その他感覚に帰すべきだと思われるものが,同じ物体において何であるかを認

識する仕方に比べて著しく異なっている」(AT.1X、■.57)と言っていることか

ら明らかであろう。ここではもちろん悟性の果たす役割の比重の違い,その成

立の仕方の違いも考えられているのであるが,それだけではない。そ.れに続け

て,「大きさや形,数などのように,対象の中に存在するとしか,我々には感

覚あるいはむしろ理解しようがない」(AT.1X.I正.58)とも言っているのである。

つまり,感覚に延長の観念が与えられており,その通りに外にあり,延長と延

長の観念は類似しており,同じ種類(mξ血・SOrt・)のものと考えているのであ

る。延長は外にあり,延長の観念は内にあって区別でき,この点では色や音と

同じであるが,しかし,延長的なものは感覚される通りにあると考えられてい

るのである。

 では,その積極的な根拠は何だったのだろうか。それは,形,大きさを「我々

は単に一つの感覚によってではなく,視覚,触覚,聴覚など多くの感覚によっ

て認められる。一中略二色などや音などは多くの感覚によってではなく,それ

ぞれ一つの感覚によってしか知覚されない」(AT、脈.1I.318)からである。形,

大きさなどは複数の感覚によって同じ延長が捉えられるので,外的にそのよう

なものとレて存在しているとデカルトは考えている。なぜならば,もし外に存

在する形,大きさとそれらの観念が異なっており,感覚の示す通りに存在して

いないならば,なぜ多くの異なった感覚が同じ延長を外にあるように示すのか

根拠が分からなくなるとデカルトは考えたと思われる。そのように感覚できる

原因が,私の内に,人問の「習慣」(h・bit)などにあるとは考えず,私の外に,

客観的に形,大きさが存在しているからだと考えたのである。

(3)延長の感覚の心理的・生理的成立過程

 a)感覚は延長をどう捉えるか

 では,「個別的な事がら」はどのように把握されるのだろうか。視覚に例を

取れば,延長的な事物の感覚はどのように成立するのか,また,どんな制限が

あるのであろうか。r屈折光学』において,「距離」(dS伽・・)の感覚が次のよ

うに成り立つと述べられている(AT.W,137~8)。具体的には,1,「眼球の形」

(丘g。。e d。。。印。d。捌)によって,2,我々の「両眼相互の関係」(。。pp・rt

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デカルトの感覚知覚・身体感覚論 147

qu’Ontユ・・d・岬y・u・1’un主1’・ut・・)によって,「自然的に与えられた幾何学」

(G6omξt士i.n伽・。H・)によるかの如く知る,3,対象の形の判明さあるいは不

判明さ,または,光の強弱によって知るのである。

 b)感覚が捉える範囲と条件

 では,どの範囲までそういえるのだろうか。デカルトは,およそ百歩から二

百歩(AT.VI,144)(約60~70メートル)の範囲と見なしている。遠過ぎると余

りに沢山の刺激が一本の神経に集まり,区別できなくなるからである。もちろ

ん,近過ぎても眼は眼底に像を結べないし,焦点が合わせられないのでだめで

ある。そして,適当な距離にあっても,精神が明らかに見られるのはその時に

眼の全ての部分が,向けられている点だけである。他方,余りに小さ過ぎる物

も感覚できない。なぜなら,視覚が成立するためには,外からの運動によって

視神経が動かされなければならないが,小さ過ぎる物は一本の視神経をも動か

せないからである。また,ここでの誤謬の原因は,感覚が捉える範囲を超えて

いるのに,その範囲の物を直接に捉えようと感覚を用い,捉えていると判断す

るところに由来するとデカルトは言ってい孔感覚の範囲を超えるものにおい

ては,純粋悟性の判断や推論に頼るべきであると彼は考えている。

 今述べた適切な範囲でも一定の条件下では,錯覚(「水の中の棒の例」など)

が起こる。この場合は,視覚に依拠するという誤りを訂正し,触覚に依拠すべ

しと判断できるのは,感覚,悟性カミ直接に結びついている感覚によってではな

く,感覚と直接に結びっいていず,独自に働く悟性によってのみ可能である

(AT.D(.238)とデカルトは言っている。

 次に,眼が圧迫されていたり,病気で神経が冒されている場合がある。この

場合も,悟性と感覚によって,判断を控えたり訂正することができると思われ

るが,我々が感覚によって外的事物を認識する時には,このような異常や悪条

件を取り除いて行う必要がある。こうして,デカルトは,感覚によって延長が

捉えられることを示し,その条件と範囲を確認しているのである。

 なお,夢については,記憶を用いて,これまでの人生の経験や認識との首尾

一貫性,そこに矛盾がないことを基準に悟性により判断できるとデカルトは言っ

ている(AT.]X.7ユ)。

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(4)感覚知覚の恒常I性

 デカルトは,眼球の物理的な過程を解剖学的に明らかにしながら,網膜に描

かれる像より我々はものを見るのではないことを言い,眼底に描かれる像を問

題にして,「対象の大きさは,対象の距離について抱かれる認識とか意見を,

対象が眼底に印象づける形像の大きさと比較することによって理解さ入れるので

あって,この形像の絶対的な大きさによってではない」(AT,W.140)と言って

いる。対象が非常の近いとき眼底の像は,十倍も離れるとその像はかなり巨大

な一烽フになるが,かといってそのような大きさとして知覚しないし,その像の

巨大さが知覚させるのではないことをデカル。トが例示して言っている。さらに,

「それらの形像において対象はその対象のさまざまな状態についての認識また

は意見によって判断されるのであって,眼の中に映る絵の対象との類似性によ

らないことも明らかである。というのは,これらの絵は,これによって我々が

円や正方形を見るとき,通常は卵形や菱形しか含まれていないからである」

(ibid.)とデカルトが言っていることなどを総合すると,『屈折光学」において

直接知覚説に近い議論を見いだせるし,「知覚の恒常性」の主張と解釈できる

ものを見いだせる。

 そこに注目して,中島英司氏は,r目まぐるしく変動する感覚印象にもかか

わらず,対象の大きさや形の知覚は比較的安定している」,rわれわれがr網膜

像を見る』ことによって対象を知覚するという俗説を採るならば,知覚の恒常

性はまったく説明不可能」な問題にな私「ものの形の網膜への投射を研究す

れば,可視的世界の知覚を説明することができるという考えをしりぞけること

は直接知覚説め重要な要素の一つをなしている。そして,網膜像についての誤っ

た信念はすでに17世紀にデカルトによって退けられていた」(8)と主張してい

る。

(5)身体感覚の存在とその役割

 イ)ところで,視覚の分析においては,「自然的幾何学」に注目しておく必

要がある。第三章において,ずでlF身体感覚の存在を指摘し,それが「私の内

に」ありながら同時にそれが広がりを捉え,運動を捉えているという独特な有

り方をしている感覚であることを示しておいた。この『屈折光学』における

「視覚」(向Si.n)の成立において,デカルトは,「本来の視覚に属しているのは

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デカルトの感覚知覚・身体感覚論 ユ49

光と色だけである」(AT.W.ユ30)と言ってい乱それ以外のものは,形や距離

を捉える時の「眼球の形」や「両眼の関係」などであるが,それらは「自然的

幾何学」のごときものであると彼は考えていたと思われる。「自然的幾何学」

は,本来の視覚である色や光以外のものであるが,「眼球の形」などは身体感

覚に含まれると考えてよいから,結局それは,身体感覚と考えてよいであろう。

身体感覚が具体的な現れとして,「眼球の形」や「両眼相互の関係」や眼にお

けるぼやけ,目の緊張感などとして現れると考えられる。そして,これらが本

来の視覚と協力し,一つに統合されて感覚知覚が成立していると思われる。

 デカルトは,眼球の形や両眼の動きに関して,「入には気づかれないにも係

らず,有意(vo1ont・i・。)運動と呼ばれるべきであ」(AT.VI.107)るという。な

ぜなら,「その運動はやはりよく見ようとする人の意志(VO1Ontξ)に依存し,

従わざるをえない」(ibid.)からである。両眼相互の関係からの推論が「自然

的幾何学」のようなもののように働くとすると,身体感覚がそれを担っている,

身体感覚がそれを含んでいると考えてよいであろう。そして,この身体感覚が

視覚の成立に大きな役割,とくに延長的なものの把握に大きな役割を果たして

いる。さら.に,デカルトは,盲人と両眼の例を示して身体感覚について言って

いる。「この盲人が一つの物体に両手で触れても,それを二つとは判断しない」

(AT.1X.I.136)とそして,それはそこに身体感覚が「自然的幾何学一として

働いているからであると考えられるが,さらに,「我々の眼は二つとも,同一

箇所に注意を向けるのに必要なように案配されていて,対象は眼の各々に一つ

の絵を形作るのに,二つの眼はそこにただ一つの対象しか見させないのである」

(AT.W.ユ36~7)と言っている。このように身体感覚の役割は,感覚知覚の

r恒常性」とも関係しており,大きいと考えてよいであろう。

 そして,この身体感覚は視覚においてだけでなく,触覚や聴覚においても延

長的事物の感覚の成立においてそれぞれに役割を果たしていると彼は考えたと

思われる。そうであるので,身体感覚が独特な役割を果たしていることをここ

でしっかりと確認しておきたい。というのは,彼は,「外的対象の中で感覚に

よって我々に知覚されるものは,ただ対象の形と大きさと運動のみである」

(AT.1X.皿.316)と言い,それらを「私はたんに一つの感覚によってではなく,

触覚(・ttou・h・m.nt),視覚(v・・),聴覚(・u王・)など多くの感覚によって認める」

(AT.1X.皿.318)と言っているが,その三つの感覚のそれぞれにおいて身体感覚

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がその独自な位置を占めているとすると,外的な延長や運動を諸感覚が共通し

て捉えることをより根拠を持って言えると考えられるからである。つまり,延

長が外に存在するからそれぞれの感覚が同じものを捉えるのであるが,身体感

覚を置くことにより,私の中で三者の協力がより実体的なものとしていえ,し

かも単なる「習慣」などには解消されないものとして整合的に考えられるから

である。

 口)視覚においては,外的なものが端的に把握された「感覚」に対して,あ

る意味での「推論」(。オS.m.m.nt)をする悟性や「注意」(。tt.n.iOn)が働くこ

とにより対象が曖昧であったりなかったりすること,しかも視軸上(。SSi.u d.

1.vi.ion)に対象がないと眼底にある像は不明瞭になる(AT.W.123)と彼と言っ

ている。身体が瞳を調整し,視線を動かしてはっきりと対象をそれとして成立

させるが,「通常それをしている人間に気付かれないにも関わらず,有意運動

と呼ばれるべきである」(AT.V[.107)と彼は考えている。とすると,ここにお

いて一般的に与えられているもの,端的に見えているものが「感覚」であり,

それに対して「注意」が働き,外的事物がまとまりのある対象として明瞭に意

識され,そこに含まれる悟性よりに知覚すると解釈できるのではないだろうか。

 「位置」(。it。。don)の感覚に関しても,先の引用からわかるが,これは「感

覚」に,意志によって動くr自然的幾何学」が働き,さらに,悟性が働いて位

置の感覚知覚が成立するとデカルトが言っていると解釈できるのではないだろ

うか。しかも,身体感覚は「有意運動」(mouv・m・nt vo1ont・if・)の中で成立し,

外的対象と関係を持ち,それに積極的に反応しながら,焦点を合わせることや

瞳の調整として現れ,また,盲人の杖による位置の感覚(AT.W.134~5)や手

による対象物の同定(AT.V1,136ん7)を触覚と共に成立させていると解釈でき

るのである。もしそうであれば,「感覚」とともに「身体感覚」を置くことに

より,感覚する時における意志,注意,運動の役割やそれに関わる悟性の役割

が一層明瞭になるのではないだろうか。つまり,人問の活動の中において,受

動性とともに能動性が感覚の中においても整合的に明らかになると考えられる

のである。

 ハ)では,「第六省察」において,場所を変えたり,様々な姿勢をとる能力

が私の内側にある点で,デカルトが,それらには「いかなる思惟(ma pensξe)

もまったく含まれていない」(AT.1X.63)と言っていることにっいてはどうなる

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デカルトの感覚知覚・身体感覚論 151

であろうか。『屈折光学』においては,r自然的幾何学」には「意志」が関わる

と彼は言っている。「第六省察」の存在証明のところでは,彼は身体感覚を置

いていないと考えることもできるが,そう考えてもデカルトがそれを「私の内

に」認めたことくっながらない。また,「心身合一」状態では感覚に関するあ

らゆることに一切悟性が関わらないとするのも,これまで見たように理解しに

くい。結局,総合して考えてみると,両方の叙述にはずれがあり,「形而上学」

においてははっきりとは出ていないものが,「自然学」においてはそれが認め

られると考えざるをえない。したがって,心身問題が関わるここでは,『屈折

光学』に従い,身体感覚が存在し,それがある意味で身体と一体であり,r自

然的幾何学」に意志も悟性も関わって感覚が成立しているとしておきたい。

 二)ところで,デカルトにおいて三つの感覚などが同じ外的な延長を捉える

ということに注目して,中島氏はそれを「異種感性間知覚」と規定して以下の

主張をしている。

 バークリーの理論全体が諸感覚様相の厳格な分断のうえに築かれているが,

デカルトや最新の実証的科学の成果も明かすように,対象の同一の性質が触覚

によっても視覚によっても捉えられるのであり,さまざまな感覚様相を通じて

えられた同じ一つの対象についての情報は即座に総合される。我々はいつも環

境における対象と事実に注意を払っており,決して個々の感覚入力にではない。

そうであるから,視覚と触覚を厳しく分断するバークリーの議論は我々に知覚

の本性を誤って捉えさせるものである(8),と。

 そして,ここで中島氏の主張にさらに付け加えるなら,デカルトが「自然的

幾何学」,身体感覚を置いたことを確認するならば,両者の分断ができないこ

とが一層明確になり,「バークリーの理論の全体が倒壊する」ことを一層速め

るであろう。身体感覚の存在は,視覚と触覚の単なる協応のレベルではなく,

それらがより実体的に結合していることを示すことになり,諸感覚の結びつき

は強固であり,分断は困難になると考えられるからである。さらに,触覚の視

覚への浸透,あるいはその逆の浸透など「異種感性問知覚」の問題をより整合

的に解明できる視野を提供すると考えられる。

おわりに

このように考えると,デカルトが捉えた感覚が平板なものではなく,「感覚」

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や身体感覚とそこに含まれる悟性がそれぞれの役割を果たしながら感覚知覚と

して統合されて働いているのであり,受動性の面と能動性の面を合わせ持ち,

恒常性を有しており,諸感覚の協同的働きをも含んで存在していること,しか

も,身体感覚が,主体的な活動を前提に成り立ち,諸感覚の実体的な協同を一

層確かなものとしていることが分かるのである。したがって,デカルトにおい

ては,感覚はかなり複雑な構造を持って成りち,安定して外界を認識している

と言っていいであろう。そして,それは本質や法則の認識の源泉となりうるの

である。

 確かに,感覚は,誤ることがあるし,事物の本質を直接に捉えることはでき

ないなど多くの制限を持つが,「感覚によって認められたもの以外に自然現象

として数えられるものはない」(AT.1X.皿.317~8)のであり,我々が感覚の特

性を踏まえて,正しく感覚に依拠するならば,それは,純粋悟性と相まって,

我々が外的世界の全ての認識を獲得するための確固不動の一点(。n point q.i

f丑t丘xとetassurξ)(AT.]X.19)になるのである。

 引用文献

血uvr。。d.D。。。。rt.s,Ch雄1.s Ad.m.t PauJ T.m。岬.ATと略記し,ローマ数字

で巻数を,数字でぺ一ジ数を示す。

○丑vr・・p㎜o・op㎞qu・・,G・fd・士F正さ….Gと略記し,以下同様。

D…趾t・・Entr・d・n・v・c Buman,J,B・in1Bと略記し,以下同様。

1.Marti阯Guef0u1t:Descafetes se1on王.ordre des f㎡sons,Aubie士,1953 p.82.

2.ibid.p.84-

3.ibid.p.84.

4.・ibid,p.117.

5.N0fman Kemp smi{=New Study of Ph1osophy of Descaftes,Macm㎜an,1966

P.250

6・M=Gue士。u1t Desc趾tes se1on rordre des Raisons p・117・

7、河野勝彦rデカルトと近代理性』文理閣,1986年p.104

8.中島英司rデカルトの知覚表象説と直接知覚説」名古屋明徳短大紀要第6

号,1994年