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『オセロ』とイスラム世界 17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤 勝 山 貴 之 I.序 1571年,レパント沖の海戦においてスペイン,ローマ教皇,ヴェネチアに よるキリスト教連合軍はトルコ海軍と敵対し,これを撃破した。双方に2人以上の死者を出したこの海戦は,イスラム勢力に対するキリスト教世界の 勝利を宣言したかのように思えた。しかし地中海におけるイスラム勢力は衰 えるどころか,1572年,セリム二世(Selim II)は自らの海軍を増強し,翌 1573年にキプロスを奪還, 1574年チュニス征服,続く1576年にフェズ征服と, その帝国支配は拡大の一途を辿る。最終的にオスマン帝国は,西はハンガ リー,アルジェリアから,東はイエメン・イラクまでをその領土に組み込み, 東地中海の制海権を手中におさめることとなるのである。 近年,多くの研究者が,シェイクスピアの描く地中海世界に,とりわけ劇 作家の描きだすオスマン・トルコの表象に関心を寄せている。注目すべきは, ナビル・マーター(Nabil Matar)による『ブリテンにおけるイスラム,1558 年~ 1685年』(Islam in Britain, 1558-1685, 1998)および『発見の時代におけ るトルコ人,ムーア人,イングランド人』(Turks, Moors and Englishmen in the Age of Discovery, 1999)の出版である。サイード(Edward Said)の唱えるオ リエンタリズム研究は19世紀における大英帝国帝国主義の時代を語ることは できても,初期近代の分析にはふさわしくないことをマーターは主張し,ア フリカ大陸における民族間の差異とイスラム世界の覇権を明確に打ち出した

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『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤

勝 山 貴 之

I.序

 1571年,レパント沖の海戦においてスペイン,ローマ教皇,ヴェネチアに

よるキリスト教連合軍はトルコ海軍と敵対し,これを撃破した。双方に2万

人以上の死者を出したこの海戦は,イスラム勢力に対するキリスト教世界の

勝利を宣言したかのように思えた。しかし地中海におけるイスラム勢力は衰

えるどころか,1572年,セリム二世(Selim II)は自らの海軍を増強し,翌

1573年にキプロスを奪還,1574年チュニス征服,続く1576年にフェズ征服と,

その帝国支配は拡大の一途を辿る。最終的にオスマン帝国は,西はハンガ

リー,アルジェリアから,東はイエメン・イラクまでをその領土に組み込み,

東地中海の制海権を手中におさめることとなるのである。

 近年,多くの研究者が,シェイクスピアの描く地中海世界に,とりわけ劇

作家の描きだすオスマン・トルコの表象に関心を寄せている。注目すべきは,

ナビル・マーター(Nabil Matar)による『ブリテンにおけるイスラム,1558

年~ 1685年』(Islam in Britain, 1558-1685, 1998)および『発見の時代におけ

るトルコ人,ムーア人,イングランド人』(Turks, Moors and Englishmen in the

Age of Discovery, 1999)の出版である。サイード(Edward Said)の唱えるオ

リエンタリズム研究は19世紀における大英帝国帝国主義の時代を語ることは

できても,初期近代の分析にはふさわしくないことをマーターは主張し,ア

フリカ大陸における民族間の差異とイスラム世界の覇権を明確に打ち出した

勝 山 貴 之2 勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤

という点で,彼の研究は,従来見過ごされがちであったムーア人の人種的・

政治的背景の解明に大きく寄与した。更にダニエル・ヴィトカス(Daniel

Vitkus)は,その著書『トルコ人への改宗―イングランド演劇と多文化の地

中 海 沿 岸 地 域,1570 ~ 1630』(Turning Turk: English Theater and the

Multicultural Mediterranean, 1570-1630, 2003)において,キリスト教徒たちが

地中海を舞台に交易を進める際に,イスラム勢力との接触を避けられなかっ

たことや,異教徒の捕虜となり改宗を強いられることへの恐怖心を抱いてい

た事実を指摘している。また,ダヒル・ヤーヤ(Dahiru Yahya)は『16世紀

のモロッコ―アフリカ外向政策における問題と様式』(Morocco in the

Sixteenth Century: Problems and Patterns in African Foreign Policy, 1981)のなか

で,イスラム教国でありながらオスマンの帝国支配からは独立を保っていた

モロッコが,対スペイン政策の一環としてエリザベスと友好条約を結んでい

たことを明らかにした。彼の著書によって解明されたイスラム教国モロッコ

とキリスト教国イングランドの親密な関係は,その後に続くギュスタヴ・ア

ンゲラー(Gustav Ungerer)やエミリー C. バーテルズ(Emily C. Bartels)の

研究が補完してくれている。異教国モロッコに対する警戒心を抱きながらも,

スペイン勢力の拡大を封じ込めるうえではモロッコとの友好関係を築いてい

かなくてはならないという複雑な外交上の立場に立たされたイングランドの

内的葛藤を,これらの研究が解明しているのである。いまやシェイクスピア

研究における地中海に向けられた問題意識は,従来,行なわれてきたような,

芝居の材源捜しという研究方向から,外交,通商,更には宗教対立という新

たな切り口において,イスラム教国オスマン・トルコを再認識しようとする

新歴史主義の方法論へと推移しているといえるであろう。

 これらの研究成果を踏まえて,この小論では,まず16世紀後半における証

言をもとに,オスマン・トルコ世界に対するイングランド人の意識を探るこ

ととする。当時のイングランド人が,オスマン・トルコの軍事的・文化的優

位に対して,底知れぬ脅威を感じていたことは,既に多くの研究者により明

勝 山 貴 之勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤 3

らかにされている。それは地中海世界においてオスマン・トルコとの接触に

よりイスラム世界に取り込まれることによって,キリスト教からイスラム教

への改宗を強いられる恐怖を綴った当時の人々の証言からも読み取れる。そ

のうえで,逆説的にイスラム教徒レオ・アフリカヌスのキリスト教への改宗

という事実に,目を向けてみたい。『オセロ』の材源のひとつとされているジョ

ン・ポーリー訳『レオ・アフリカヌスのアフリカ記』を繙き,ひとりのイス

ラム教徒のキリスト教化の物語と彼の書物の英訳をとおして,イングランド

がいかにしてイスラム世界を自分たちのキリスト教世界に組み込み,精神的

に支配することによって,イスラムの脅威を克服しようとしたのかを跡付け

ることとする。そして最後に,シェイクスピア劇『オセロ』のなかにイスラ

ム勢力に対するキリスト教国の不安を辿りながら,オセロの最後の台詞の再

考を試みることによって,イスラム世界に対抗してキリスト教ヨーロッパ中

心主義を唱えようとする時代精神について考えていきたい。

II.地中海とオスマン・トルコ帝国

 16世紀後半,オスマン・トルコ帝国の拡大に伴うイスラム世界の脅威は,

もはやキリスト教世界において看過できるものではなくなりつつあった。

1574年,ウベール・ラングェ(Hubert Languet)が サー・フィリップ・シドニー

(Sir Philip Sidney)に宛てた書簡には,オスマン・トルコ勢力の拡大に対し

て警戒が必要とされることがしたためられている。

These civil wars which are wearing out the strength of the princes of

Christendom are opening a way for the Turk to get possession of Italy; and if

Italy alone were in danger, it would be less a subject for sorrow, since it is the

forge in which the cause of all these ills are wrought. But there is reason to

fear that the flames will not keep themselves within its frontier, but will seize

勝 山 貴 之4 勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤

and devour the neighbouring states. (qtd. in Vitkus 81)

ここではオスマン・トルコ帝国の侵略が,もはやイタリアだけの問題では済

まされることのない近隣諸国への脅威として捉えられ,速やかに何らかの対

応が求められるべきだという警告が発せられている。シドニーをはじめとす

るイングランド知識人の間にも,その懸念が広まりつつあったことは当時の

多くの証言にみることができるのである(Vitkus 81-82)。更に,軍事面ばかり

か交易の面においてもオスマン・トルコの栄華はイングランドの遠く及ばな

いものであった。1583年,交易の可能性を求めてイスラム世界に足を踏み入

れた商人ジョン・エルドレッド(John Eldred)は次のように自らの失望を書

き記していた。

whereas we had thought to have sold in this place great store of our

commodities, we cannot sell. . . . we have offered to give our Commodities at

price, but no man will deal with us. (qtd. in Stallybrass 30)

イングランド人ばかりか,ポルトガル人,ヴェネチア人,フランス人も同様

の経験をしていた。ヨーロッパ人は,東洋の絹,染料,宝石,香料などに大

きな関心を寄せたにもかかわらず,トルコ人,ペルシャ人,インド人は西ヨー

ロッパからの貿易品にほとんど関心を示さなかった。当時のイングランドは

羊毛などの重要な産出国であったが,低地地方の国々やペルシャ,インド,

中国などの国々における洗練された染物技術や技巧を凝らした織物様式を用

いた商品を生み出すには到底至らなかったのである。イングランドの国際貿

易への参入はずっと遅く,砂糖,タバコ,そして奴隷貿易によって,国際貿

易の表舞台に登場することとなるのは,ようやく17世紀になってからのこと

であった。地中海におけるイスラム世界の覇権を念頭におくなら,シェイク

スピア劇『オセロ』の第1幕に描かれるオスマン・トルコ軍の侵略は,こう

勝 山 貴 之勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤 5

した時代を生きる観客の意識に強く訴えかけてくるものであったにちがいな

い。

 当然のことながら,イスラム勢力との接触は,キリスト教徒たちに信仰上

の不安と恐怖をもたらせた。地中海世界においてオスマン・トルコの船舶に

拿捕され,自らの意思に反してキリスト教からイスラム教への改宗を強いら

れる人々の逸話が多く残されている。キリスト教徒に改宗を迫ることによっ

て,イスラム教の宗教勢力拡大をはかろうとするトルコ人の様子を伝えるも

のとして,『トルコ帝国の政策』(The Policie of the Turkish Empire, 1597)には,

次のような記述が見受けられる。

The Turks do desire nothing more than to draw both Christians and other to

embrace their religion and to turn Turk. And they do hold that in so doing

they do God good service, be it by any means good or bad, right or wrong.

For this cause they do plot and devise sundry ways how to gain them to their

faith. And many times when they see that no other means will prevail, then

they will frame false accusations against them. (qtd. in Burton 101)

実際には,イスラム教徒は信仰に関して寛容であり,異教徒に対してイスラ

ム教への改宗を強要することはあまりなかったとされる(Burton 100)。にも

かかわらずキリスト教信者たちは,自らの信仰を放棄させられ,イスラムへ

の改宗を強いられることを最も恐れたのである。そして,何よりキリスト教

徒を悩ませたのは,金銭や衣服の誘惑にかられ,あるいは祖国での課税を免

れることを目的として,自らイスラム教への改宗を申し出る者たちの存在で

あった。こうした一般的には理解し難い事実を覆い隠すためにも,イスラム

教徒による改宗の強要とそれに対する恐怖は,より声高に多くの書物なかに

記されたのかもしれない。

 このようなオスマン・トルコ帝国の脅威に対して,キリスト教ヨーロッパ

勝 山 貴 之6 勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤

世界は,精神面でどのように対抗しようとしたのか。『オセロ』の材源のひ

とつとされるジョン・ポーリー訳『ジョン・レオのアフリカ記』はわれわれ

にひとつの手がかりを与えてくれる。

III.ジョン・ポーリー(John Pory)訳『ジョン・レオのアフリカ記』

(John Leo’s A Geographical Historie of Africa)

 1600年11月イングランド人ジョン・ポーリー(John Pory)は『ジョン・レ

オのアフリカ記』(John Leo’s A Geographical Historie of Africa)を出版してい

る。ジオフリー・ブロー(Geoffrey Bullough)は,シェイクスピアが『オセロ』

執筆にあたって,この書物を参考にしていたことを指摘しており,実際,『ジョ

ン・レオのアフリカ記』には,ムーア人の性格描写について,次のような記

述が見られる。

Most honest people they are, and destitute of all fraud and guile, . . . No

nation in the world is so subiect vnto iealousie; for they will rather leese[lose]

their liues, then put vp any disgrace in the behalfe of their women. . . . Those

which we named the inhabitants of the cities of Barbarie are somewhat needie

and couetous, being also very proud and high-minded, and woonderfully

addicted vnto wrath. . . . Their wits are but meane, and they are so credulous,

that they will beleeue matters impossible, which are told them. . . .

(40-41)

確かに,『ジョン・レオのアフリカ記』の中のムーア人についての記述には,

劇の中のオセロの人物像と一致する箇所が存在し,ブローの指摘は納得でき

るものである。ジョン・レオ執筆の『アフリカ記』が,歴史家ヘロドトス

勝 山 貴 之勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤 7

(Herodotus),プリニウス(Pliny),マンデヴィル(Mandeville)たちによる

かつての地誌と大きく異なる点は,それまで空想によって書かれてきたアフ

リカという大陸の記録を,事実に基づいた,より現実的なものへと書き換え

た点であろう。ジョン・レオは,自らの母国について語るにあたって,虚飾

をもって事実を覆い隠そうとするのではなく,あくまで歴史家の義務として,

アフリカ人たちの優秀さや残虐さを,客観性をもってありのままに語ろうと

している。

. . . in this regarde I seeke not to excuse my selfe, but onely to appeale vnto

the dutie of an historiographer, who is to set downe the plaine truth in all

places, and is blame-worthie for flattering or fauouring of any person. And

this is the cause that hath mooued me to describe all things so plainly without

glosing or dissimulation. (42)

同時に,ジョン・レオは自らの書物のなかに,多くのアフリカの詩人,地誌

学者,歴史家を引用し,ヨーロッパの地誌学者や歴史家によって大幅に書き

換えられた祖国の文化的地形を蘇らせようとしていることも重要であろう。

果たしてこのジョン・レオ,またの名をレオ・アフリカヌスと名のる,『ア

フリカ記』の作者はいかなる人物であったのか。

 レオ・アフリカヌス,本名ハッサン・イブン・ムハマド・アル=ワザン(Hassan

ibn Muhammad al-Wazzan)は,ムーア人としてグラナダに生を受け,1497年,

スペインによる宗門査問を逃れて北アフリカのモロッコへと亡命した。彼は,

フェズでイスラム教徒として育てられ,外交官,法律家,商人などの職につ

いたという。やがてフェズのサルタンの使者として,タブリーズ(Tabriz),ティ

ンブクトゥ(Timbukutu),そしてスーダン(Sudan)などの地を旅した後,

エジプトへの帰国の途でシシリアの海賊の襲撃を受け,その捕虜となった。

海賊たちは,アル=ワザンを法王レオ10世へ献呈するが,法王はこの若者を

勝 山 貴 之8 勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤

たいそう気に入って,洗礼を授け,キリスト教徒に改宗させて,ジョバンニ・

レオ(Giovanni Leo)という洗礼名を与えたのである。イタリア滞在中に,

イタリア語を学んだレオは,既に自らの筆によりアラビア語で執筆・完成し

ていた母国アフリカ大陸の地誌をイタリア語に翻訳した。この書を,ジョン・

ポーリーが英訳出版したものが『ジョン・レオのアフリカ記』である。イス

ラム教徒との接触によって,異教信者へと改宗させられることに怯えるキリ

スト教徒にとって,ジョン・レオの洗礼によるキリスト教化は,まさにキリ

スト教の勝利の物語であったともいえるのである。

 この書物は,長らく『オセロ』の材源のひとつと考えられ,そうした観点

においてのみ研究対象とされてきたが,ここでは特に書物の翻訳者である

ジョン・ポーリーの付した序文(“To the Reader”)に注目したい。ジョン・

レオが,かつてのヨーロッパの歴史家たちの研究に修正を加えながら,より

アフリカ大陸の現実を伝えようとしていたにもかかわらず,翻訳者ジョン・

ポーリーは,再び,そうした『ジョン・レオのアフリカ記』をヨーロッパの

知の体系のなかに組み込み,再構成しようとしている点は考察に値する。

 ポーリーは,序文の中で,ムーア人であり,イスラム教徒である著者アフ

リカヌスに対する偏見を抱かぬように,と書物を手にする者に諭している。

[Iohn Leo, the author] Who albeit by birth a More, and by religion for many

yeeres a Mahumetan: yet if you consider his Parentage, Witte, Education,

Learning, Emploiments, Trauels, and his conuersion to Christianitie; you

shall finde him not altogither vnfit to vndertake such an enterprize; nor

vnwoorthy to be regarded. (n. pag.)

たとえムーア人であり,長年イスラム信徒であったとしても,家柄や教育は

もとより,キリスト教に改宗した以上,著者は,充分信頼に値する人物であ

ることを翻訳者ポーリーは強調する。

勝 山 貴 之勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤 9

 更に,アフリカヌスは諸国を遍歴することによって,数多の苦難を経験し

ているが,ポーリーはこうした数々の冒険を経験した著者がキリスト教徒に

改宗したことも,そして彼の記した『アフリカ記』がキリスト教徒の手に渡っ

たこともすべて神の御心にかなった御業と説明する。

But, not to forget His conuersion to Christianitie, amidst all these his busie

and dangerous trauels, it pleased the diuine prouidence, for the discouery and

manifestation of Gods woonderfull works, and of his dreadfull and iust

iudgements performed in Africa . . . to deliuer this author of ours, and this

present Geographicall Historie, into the hands of certain Italian Pirates, about

the isle of Gerbi, situate in the gulfe of Capes, betweene the cities of Tunis

and Tripolis in Barbarie. Being thus taken, the Pirates presented him and his

Booke unto Pope Leo the tenth: who esteeming of him as of a most rich and

inualuable prize, greatly reioiced at his arriuall, and gaue him most kinde

entertainement and liberall maintenance, till such time as he had woone him

to be baptized in the name of Christ, and to be called Iohn Leo, after the

Popes owne name. And so during his abode in Italy, learning the Italian

toong, he translated this booke thereinto, being before written in Arabick. (n.

pag.)

異教の徒であった著者を,キリスト教世界へ導いたこともすべて神の御心と

するポーリーの主張は,イスラム教徒の改宗もまた,全能の神のご計画の一

部であるとすることによって,キリスト教世界の外側にある未知の存在をも,

キリスト教世界へと取り込み・回収していこうとするヨーロッパ中心主義の

イデオロギーに他ならない。ポーリーの序文をとおして,キリスト教徒の英

知を超えた世界の果ての物語もまた,神はキリスト教徒の手に委ねることに

よって,この世の中心であるキリスト教国の繁栄を約されていることが宣言

勝 山 貴 之10 勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤

されるのである。

 そればかりか,興味深いのはポーリーがアフリカヌスの書物に自分の手に

なる補足を付け加えている点である。

Now as concerning the additions before and after this Geographicall Historie;

hauing had some spare-howers since it came first vnder the presse; I thought

good(both for the Readers satisfaction, and that Iohn Leo might not appeere

too solitarie vpon the stage) to bestowe a part of them in collecting and

digesting the same. The chiefe scope of this my enterprize is, to make a

briefe and cursorie description of all those maine lands and isles of Africa,

which mine author in his nine bookes hath omitted. (n. pag.)

ポーリーはアフリカヌスの書物に,自らの筆によってアフリカ大陸の簡潔な

解説を補っている。すなわち,ポーリーはヨーロッパの地誌を記した著名な

人々の著述から,記述を補い,アフリカヌスの書物を単に翻訳するのではな

く,ヨーロッパの知の体系の中に組み込もうとしているのである。

. . . my principall authors out of whom I haue gathered this store, are, of the

ancienter note, Ptolemey, Strabo, Plinie, Diodorus Siculus, &c. and amongst

later writers, I haue helped my selfe out of sundrie discourses in the first

Italian volume of Baptista Ramusio, as likewise out of Iohn Barros,

Castanneda, Ortelius, Osorius de reb. gest. Eman. Matthew Dresserus,

Quadus, Isolario del mundo, Iohn Huighen van Linschoten, & out of the

Hollanders late voiages to the east Indies, and to San Tomé: but I am much

more beholding to the history of Philippo Pigafetta, to the Ethiopick relations

of Francis Aluarez, & of Damianus a Goez, and beyond all comparison (both

for matter and method) most of all, to the learned Astronomer and

勝 山 貴 之勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤 11

Geographer Antonius Maginus of Padua, and to the vniuersall relations

written in Italian by G. B. B. (n. pag.)

ヨーロッパの地誌や歴史の代表的著者たちの作品を渉猟し,それらを付加す

ることで,ジョン・レオの『アフリカ記』もまた,ヨーロッパの誇る歴史書

や地誌の系列に並べられ,ヨーロッパが支配する世界の一部を構成すること

となる。

 アル=ワザンは,法王によって洗礼を受け,キリスト教徒に改宗したばか

りか,その著書もまた,イングランド人ジョン・ポーリーによって,膨大な

ヨーロッパ地誌の一部に組み込まれ,回収され,再編されたことが理解され

るのである。キリスト教徒たちは,自分たちにとって,異教の徒をキリスト

教に改宗させ,未知の大陸に関する知識を自分たちの知の体系に組み込むこ

とによって,未知の脅威に意味づけをし,キリスト教世界の外側にある強大

な力に呑み込まれる恐怖を精神的に乗り越えようとしたのであろう。劇作品

『オセロ』においても,アフリカヌスの書物において検証されたと同じ過程

を辿るキリスト教徒の精神的葛藤が読み取れるのではないか。

IV.オセロとイスラム

 劇の中で,ロードス島を目指していたトルコの艦隊の真の目的がキプロス

島であることが告げられ,事態は迫りくる戦闘に向けて,危急の対応が求め

られることが理解される。

1 Sen. This cannot be

By no assay of reason; ’tis a pageant

To keep us in false gaze. When we consider

Th’ importancy of Cyprus to the Turk,

勝 山 貴 之12 勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤

And let ourselves again but understand

That, as it more concerns the Turk than Rhodes,

So may he with more facile question bear it,

For that it stands not in such warlike brace,

But altogether lacks th’ abilities

That Rhodes is dress’d in . . . . (I.iii.17-26)

キプロス島は地中海の南東に位置し,オスマン・トルコ帝国に囲まれた,キ

リスト教圏の周縁の地である。現実には,1573年にヴィネチアとオスマン・

トルコの間に締結された和平条約により,ヴェネチアはキプロスの統治権を

放棄し,島をトルコの支配に委ねていた。歴史の中の多くの証言に見られた

ように,舞台を見守る観客たちは地中海におけるオスマン・トルコ帝国の勢

力を聞き及んでおり,キプロスがトルコの支配下に置かれていることも知っ

ていたにちがいない。

国家の危機と同時進行するかのように,ブラバンショーの一人娘デズデモー

ナがムーア人将軍オセロにかどわかされる事件が起こり,劇のなかで二つの

(白い部分がオスマン・トルコの支配地域。)

勝 山 貴 之勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤 13

事件の類似関係が暗黙のうちに観客に示される。

Duke . . .

The robb’d that smiles steals something from the thief;

He robs himself that spends a bootless grief.

Bra. So let the Turk of Cyprus us beguile,

We lose it not, so long as we can smile. (I. iii. 208-211)

格言の力を借りて娘を奪われた父の憤りを宥めようとする公爵に対して,即

座に切り返すブラバンショーの台詞は,男女の関係を切迫した国際情勢に重

ね合わせる。まさに公爵が憂うるキプロスはブラバンショーにとってのデズ

デモーナであり,島を侵略しようとするオスマン・トルコはひとり娘を強奪

したムーア人オセロに他ならない。異教徒による領土侵犯と,改宗者とはい

え異邦人であり,キリスト教圏における他者である人物による女性略奪のエ

ピソードは,劇の背後に潜む当時の不安と脅威を言い当てているのである。

 キリスト教社会へ合法的な理由をもって侵入し,婚姻という手段によって

同化しようとする他者の物語であるこの芝居は,主人公がヴェネチア社会に

完全に受け入れられたと思い込んだ瞬間にその悲劇が始まる。

Oth. Let him do his spite;

My services which I have done the signiory

Shall out-tongue his complaints. ’Tis yet to know—

Which, when I know that boasting is an honor,

I shall [provulgate]—I fetch my life and being

From men of royal siege, and my demerits

May speak, unbonneted, to as proud a fortune

As this that I have reach’d; (I.ii.17-24)

勝 山 貴 之14 勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤

主人公の台詞は,国家への多大な奉仕と王族の血をひく自らの気高き出自に

よって,自分がヴェネチア社会に迎え入れられることを当然と考えているこ

とを明らかにしている。

Duke . . .

If virtue no delighted beauty lack,

Your son-in-law is far more fair than black. (I.iii.289-90)

ヴェネチア社会も,差し迫るイスラム世界との戦闘を前に,自らの頼みとす

るオセロを懐柔し,主人公の内なる美徳を高く評価するそぶりを見せて,そ

の社会の奥深くへと取り込んだかに見えるのである。

 しかし第二幕へと移ると,観客の期待するオスマン・トルコとオセロ率い

るキリスト教ヴェネチア軍の戦闘は嵐のために雲散霧消し,イスラム世界と

キリスト教世界の境界に位置するキプロスにおける男女間の問題,夫婦間の

問題へとすり替わる。オスマン・トルコによるキプロス島侵略の構図は,オ

セロとデズデモーナの初夜へと姿を変え,観客の意識下にある他者の進入に

対する恐れと不安を煽ることとなるのである。

 キャシオたちの騒乱の報せに駆けつけたオセロの台詞は,忘れかけたイス

ラムの脅威を観客の意識に呼び覚ますかのようにオスマン・トルコへの言及

を含んでいる。オセロは台詞の中で,イスラム社会がキリスト教社会に相対

立する存在であることを前面に押し出しながら,自分たちキリスト教社会の

秩序を強調する。

Oth. Why, how now ho? from whence ariseth this?

Are we turn’d Turks, and to ourselves do that

Which heaven hath forbid the Ottomites?

勝 山 貴 之勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤 15

For Christian shame, put by this barbarous brawl. (II.iii.169-72)

台詞はオセロに,トルコ人を引き合いに出させ,ひたすらキリスト教社会の

モラルに訴えながら,自分もまたキリスト教国の側に立っていることを,そ

して自らもまたその社会の一員であることを強調させているのである。

 他方,劇の展開のなかで,イアゴーの役割は,オセロがあくまでキリスト

教ヴェネチア社会における他者であり続けることを思い知らせることであ

る。オセロをして孤立無援の異邦人としての存在へと駆り立てることこそ,

イアゴーの戦略なのである。

Iago. Ay, there’s the point; as (to be bold with you)

Not to affect many proposed matches

Of her own clime, complexion, and degree,

Whereto we see in all things nature tends—

Foh, one may smell in such, a will most rank,

Foul disproportions, thoughts unnatural.

But (pardon me) I do not in position

Distinctly speak of her, though I may fear

Her will, recoiling to her better judgment,

May fall to match you with her country forms,

And happily repent. (III.iii.228-38)

イアゴーの指摘するように,人は自然の摂理として,同国人,同じ肌の色,

同じ階級の者に惹かれるとするなら,オセロの勝ち得た地位はあくまで国家

防衛上の安全を求めるヴェネチア政府との交渉・取引によるものであり,彼

の存在が社会に溶け込んだというのは,まさに便宜上のことに過ぎず,彼が

異邦人であり他者であることに変わりはない。同胞とみなされていると信じ

勝 山 貴 之16 勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤

ながらも,他者であるという不安を拭いされないオセロにとって,どのよう

な賞賛もうわべだけの追従であり,包み隠さずヴェネチア人の本性を語り諭

してくれるイアゴーだけが,信頼のおける友となりうる所以である。

 他者としての自己の存在を残酷なまでにつきつけられながらも,内なる葛

藤を乗り越えるためにあくまでキリスト教徒であり続けようとするオセロ

は,デズデモーナ殺害の場においても,キリスト教社会において姦淫の罪を

犯した者にふさわしい罰を,自らの手でデズデモーナに与えようとする。

Oth. Have you pray’d to-night, Desdemon?

Des. Ay, my lord.

Oth. If you bethink yourself of any crime

Unreconcil’d as yet to heaven and grace,

Solicit for it straight.

Des. Alack, my lord, what may you mean by that?

Oth. Well, do it, and be brief, I will walk by.

I would not kill thy unprepared spirit,

No, [heaven] forefend! I would not kill thy soul. (V.ii.25-32)

ダニエル・ヴィトカス(Daniel Vitkus)は,当時の人々が,地中海でオスマン・

トルコの船に拿捕され,イスラム教への改宗を迫られることを最も恐れた事

実を重要視している。そうしたイスラム教への改宗の恐怖を作品の中に読み

込もうとするヴィトカスは,嫉妬に駆られたオセロが,キリスト教徒からイ

スラム教徒へと変貌する様を作品の最終場面に見出そうとする。ヴィトカス

に言わせれば,デズデモーナを殺害する直前,キリスト教における慈悲と魂

の救済を口にするオセロの姿は,まさにキリスト教信仰に対する冒涜であり,

嘲りに他ならない。

勝 山 貴 之勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤 17

His[Othello’s] killing of Desdemona is a parody and a profanation of

Christian rite, just as the Moorish faith, Islam, was described by European

Christians as a bloodthirsty, lascivious perversion of true religion. While

Othello attempts to play the Christian priest and make the murder a

sacrament, his mistaken presumption of ministry is damnable blasphemy.

The murder of Desdemona is the pagan “sacrifice” of a pure virgin, the action

of the stereotypically cruel Moor or Turk. (Vitkus 98)

しかしオセロが異教徒の儀式によってデズデモーナを殺害するのならともか

く,キリスト教儀式にのっとったものを,儀式のパロディとするには無理が

あるのではないか。キリスト教の教義に対する冒涜として,この個所を読む

ことは難しい。むしろこの場面こそ,オセロがキリスト教の信仰に固執し,

キリスト教社会の掟に恭順の姿勢を示すことによって,ヴェネチア社会への

同化を達成しようとする己を演じている場といえるはずである。

 更にヴィトカスは,オセロの自害の際の台詞に,イスラム教徒へと改宗し

た主人公の姿を読み取ろうとする。

Seventeenth-century English Christians believed that adult-male conversion

to Islam required circumcision. . . . For Othello to cut himself reiterates the

ritual cutting of his foreskin, which was the sign of his belonging to the

community of stubborn misbelievers, the Muslims. To smite “the

circumcisèd dog” is at once to kill the “turbaned Turk” and to reenact a

version of his own circumcision, signifying his return to the “malignant” sect

of the Turks and his reunion with the misbelieving devils.

. . . Self-slaughter, for a Christian, is a faithless act of despair, bringing

certain damnation. . . . Taken out of context, Othello’s suicide might be

interpreted as a noble act in the tradition of pagan heroes like Antony; but

勝 山 貴 之18 勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤

read in the context of the play’s persistently Christian language of divine

judgment, it merely confirms his identity as an infidel—an irascible creature

whose reckless violence leads him to be “damned beneath all depth in

hell”(5.2.146). (Vitkus104, emphasis mine)

ヴィトカスが問題にしている箇所は,劇のテキストの次のくだりである。

Oth. . . . Then must you speak

Of one that lov’d not wisely but too well;

Of one not easily jealious, but being wrought,

Perplexed in the extreme; of one whose hand

(Like the base [Indian]) threw a pearl away

Richer than all his tribe; of one whose subdu’d eyes,

Albeit unused to the melting mood,

Drops tears as fast as the Arabian trees

Their medicinable gum. Set you down this;

And say besides, that in Aleppo once,

Where a malignant and a turban’d Turk

Beat a Venetian and traduc’d the state,

I took by th’ throat the circumcised dog,

And smote him—thus. (V.ii.343-56)

後悔の苦悩に苛まれるオセロの台詞に,イスラム教徒への転身を読み取るこ

とは困難であろう。むしろ彼は,愛することに対する自らの不器用さと嫉妬

に狂った自らの狂気を口にしている。更に,オセロの自害をもって,キリス

ト教徒には許されない罪である以上,オセロは異教徒になり果てたと断定す

ることにも問題があるであろう。ターバンを巻いたトルコ人の愚弄からヴェ

勝 山 貴 之勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤 19

ネチア人とヴェネチア国家を守ろうとした挿話を回想することにより,自ら

が今も昔もヴェネチアに忠誠を尽くしてきたことを今一度,オセロは皆に語

り聞かせている。「割礼を受けた犬」と呼ぶにふさわしいトルコ人をオセロ

が手に掛けたのは,決してオセロ自身の割礼の儀式とイスラム教への改宗,

またその行為に対する懲罰を意味するのではなく,自らを卑しい異教徒に貶

め,それを葬りさることによって,キリスト教ヴェネチア社会に対する確固

たる忠誠心をあらためて示そうとする行為ではなかったか。

 この場面についてのA.D.ナトール(A.D.Nuttall)の分析はヴィトカス以上

に説得力を持つように思われる。

To assert his Venetian status to the full he needs as enemy a spectacularly

foreign figure. Yet, as we watch him, we see, not a Venetian but–precisely—a

spectacularly foreign figure. That this is art of the highest order rather than

accident is brought home by the conclusion of the speech. For at the moment

when Othello comes, in his remote narrative, to the slaying of the foreigner,

before our eyes he stabs himself, in a horrific parallelism. It is as if as his last

act of devoted service, his last propitiatory offering to the state, he kills the

outsider, Othello. (Nuttall 139)

ナットールは,「劇的なまでの異国人が必要であった」としている。この「劇

的なまでの(spectacularly)」というナットールのことばは,むしろ不要であ

ろう。それは既に劇の最初からある種の不安として作品全体に影を落として

おり,観客の心の中に,意識の内に存在するオスマン・トルコの脅威であり

イスラムの恐怖であるからである。更にナットールは,他者である自分を殺

害するためにオセロは自害すると説明する。しかし,より正確に表現するな

ら,最後までキリスト教徒として,キリスト教社会に順応していく己の姿を

見せるため,自分の中の他者を殺害する行為と理解されるはずである。それ

勝 山 貴 之20 勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤

は,いくら望んでもあくまで自分を排除しようとした社会に対して,それで

もなお自らの内なる他者性を抹殺することによって,キリスト教徒としての

自分自身のアイデンティティを示そうとするオセロの自己成形の姿ではな

かったか。そしてここにこそ,キリスト教ヨーロッパ中心主義を標榜する当

時の人々が許容し得る結末が,そして自分たちの世界へ他者を組み込み回収

しようとする心性の希求するもののありようが,確認できるのである。まさ

にイスラム世界に対する内なる不安と恐怖を乗り越え,超克しようとする当

時のイングランド人たちが共有した心的葛藤とその浄化の様子が垣間見られ

ると思われるのである。

V.ヨーロッパ中心主義とイスラム世界

 オセロの最後の台詞には,彼の生涯の遍歴を物語るかのように異国情緒を

漂わせる語が頻出する。真珠の価値を知らない「インド人」や,絶えず樹液

を流し続ける「アラビアの木」,そしてヴェネチア人を殴打する「ターバン

を巻いたトルコ人」などのイメジャリーは,いずれもキリスト教世界の外界

へと観客の連想を導いていく。オセロの存在は,この台詞に表わされたよう

に,キリスト教世界の外部に存在する暗闇であり,キリスト教社会における

他者に他ならない。地中海を舞台にした国際社会において,イスラムの脅威

に脅えるキリスト教ヨーロッパ社会は,イスラム世界をはじめとする異教徒

である他者に対して警戒し,容易にその侵入を許そうとはしない。あえてキ

リスト教社会に順応しようとする者に対しては,改宗を求め,自分たちの社

会の規範や道徳に対する絶対的な服従を条件とする。それはキリスト教社会

の社会規範による,彼らのアイデンティティの書き換えと共に,彼らを内側

に取り込むことによって,キリスト教社会の知の認識の中に組み込み,回収

することでもある。それは未知の外界そのものを受け入れるのではなく,自

分たちの理解の範疇に組み込み,自分たちの知の体系の中に再構成すること

勝 山 貴 之勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤 21

に他ならない。レオ・アフリカヌスのキリスト教化と彼の書物の翻訳および

書き換えがこの事実を物語っているであろう。そこには完全に対等な関係が

存在するわけではなく,他者なる者を回収する側の優位がつねに保証されて

いなければならないのである。オセロがヴェネチアのキリスト教社会に融和

できたと思い込んだ瞬間にこの悲劇が始まるように,社会はつねに他者に対

して取り込みと排除を繰り返す。キリスト教ヨーロッパ世界は,敵対するイ

スラム社会に対して,あくまで自分たちの優位を主張したいがためにこの芝

居を必要としていた。命をもってして,キリスト教社会への罪の償いをする

主人公に観客は納得し,自らの血潮をもって内なる他者を消滅させようとす

るオセロの姿に承認を与えたのである。それは同時に,自分たちの勢力をは

るかにうわまわるイスラム世界への,底知れぬ恐怖をいかにして乗り越える

のかという問題ともいえるであろう。それは自分たちが,呑み込まれ,取り

込まれ,回収されてしまうことへの果てしない恐怖の裏返しとも呼べるもの

である。『オセロ』という芝居は,まさにイスラムとの避けがたい対立を意

識したキリスト教ヨーロッパ社会の自意識が生み出した作品ともいえるであ

ろう。ヨーロッパ優位というある種の幻想を確立していくために必要とされ

た作品ではなかったか。ヨーロッパ世界とイスラム世界が交差しあう磁場が

創出した作品なのである。

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勝 山 貴 之24 勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤

Synopsis

Othello and the Islamic World:The Anxieties and Conflicts of Christian Europe

in the Early 17th Century

Takayuki Katsuyama

In the last ten years the New Historicists’ theoretical approaches to

Shakespeare’s Mediterranean have shifted from source studies to the study of

the Mediterranean as a political reality. Many scholars have paid particular

attention to the significance of the Islamic world in constructing English

commercial, gender, religious, and national identities. The Mediterranean is

now regarded as a network of signifiers that shaped England’s diplomatic,

mercantile, and literary responses to the most dynamic “otherness” then

known to them: the Ottoman Empire.

Based upon recent studies, this essay explores the archetypal Englishman’s

own anxieties over differences in race, ethnicity, religion, social status, and

sexuality in the Islamic world. In fact, early Modern England imaginatively

projected its colonizing fantasies upon Islamic territories. Through its

imperial fantasies England tried to acquire a kind of symbolic control over

its anxieties about Ottoman omnipotence in the eastern Mediterranean and

in northern Africa.

From this point of view, John Pory’s translation of Leo Africanus’s

Geographical History of Africa (1600), a text once considered a source for

Othello, might fully illustrate these early imperial ambitions of England over

the Islamic world. Hassan ibn Muhammad al-Wazzan, a Muslim in Fez, had

勝 山 貴 之勝 山 貴 之 『オセロ』とイスラム世界―17世紀初頭のキリスト教ヨーロッパ世界が抱いた不安と葛藤 25

gone to Rome and converted to Catholicism under the aegis of Pope Leo

X, after which he was known as Leo Africanus. Writing his Geographical

History, Leo Africanus drew significantly on Islamic authorities and on his

own Muslim past. However, it is worth noting that John Pory, the English

translator of the Geographical History, tried to incorporate and integrate its

geographical data about Islamic Africa into the cosmos of Christian Europe

by emphasizing the religious status of Leo Africanus as a Christian convert,

and by assuring his reader that Leo is at once ideologically conformist and

innocuous.

The same process might help us better understand the ideological

function of Othello’s long final speech, in which the conflict of civilizations

reemerges in his identification with the exotic non-European, non-Christian

world. His gesture of self-scapegoating redeems Christian society from

its fear of an ethnic and religious otherness. Tracing English anxieties

and perturbations about the Islamic world in Shakespeare’s Othello, this

essay reconsiders how England—or, more broadly, the whole of Christian

Europe—tried to create fantasies in which she could “self-fashion” herself

as having a superior, and therefore legitimate, claim on the Mediterranean

world.