歳で初バンド結成 Life is a celebration. 超お坊ちゃん時代...9 30 2009 o 52 Great...

9 30 APR 2009 / No 572 Great Britons Great Britons ●取材 ・ 執筆/内園 香奈枝・本誌編集部 使Life is a celebration. 退宿15 By George Hurrell, © Queen Productions Ltd Special Thanks to: Phil Symes, Richard Gray

Transcript of 歳で初バンド結成 Life is a celebration. 超お坊ちゃん時代...9 30 2009 o 52 Great...

Page 1: 歳で初バンド結成 Life is a celebration. 超お坊ちゃん時代...9 30 2009 o 52 Great Britons Great Britons 取材・執筆/内園 香奈枝・本誌編集部 アフリカ・ザンジバル島での

9 30 APR 2009 / No 572 Great Britons

●Great Britons●取材・執筆/内園 香奈枝・本誌編集部

アフリカ・ザンジバル島での

超お坊ちゃん時代

 

フレディ・マーキュリーの顔を初めて見た時、「この人

がクイーンのヴォーカル?」と、驚いた経験がある人は

少なくないのではないか。あの何ともエキゾチックな顔

立ちは、一体どこからきたのだろう。

 

一九四六年九月五日、アフリカの東海岸にある、当時

英国保護領だったザンジバル島(現タンザニア領)で、ファ

ルーク・バルサラ(英語での発音はブルサラに近い)は

生まれる。父親のボミは英国政府の役人だったが、もと

もと資産家の家系。ファルーク(後のフレディ・マーキュ

リー)は、使用人が一日中世話を焼いてくれるような、

良家のお坊ちゃんとして育った。

 

彼の両親はインド系英国人で、日本人にはあまり聞き

なれない「パールシー」だ。パールシーとは、八世紀にゾ

ロアスター教からイスラム教への改宗を拒んでペルシャ

(イランの旧称、今はイスラム教を広く信仰)からインド

に移った教徒のことで、裕福な人々が多く、インド語で「ペ

ルシャ」を意味する。また、「ゾロアスター教」というこ

ちらも珍しい宗教は、紀元前六百年頃に古代アーリア人

が生み出したもので、他の宗教と違う大きな特徴として

「Life is a celebration.

(人生は祝祭)」と考えることが挙

げられるという。これは「退屈」を何より嫌い、楽しむ

事を求め続けたフレディの生き方そのもののようだ。

 

彼のファルークという名前は、当時、ゾロアスター教

の人々の間で流行の名前だった。彼はとても両親や妹を

大切にし、クイーンとしてスターダムへ登りつめても、

母親の誕生日にはいつも家に駆けつけたり、家族にまめ

にカードを送ったりしていた。彼が両親らの愛情をいっ

ぱいに受けて育ったことは想像に難くない。

 

ザンジバル島は海に囲まれた、美しい、のどかな場所だ。

ただ、船で二ヵ月遅れで届く欧州の雑誌の話題がニュー

スになる、といった環境は、ファルークのような好奇心

旺盛な子どもには、物足りない所でもあった。

歳で初バンド結成成

 

ファルーク少年がまだ八歳と幼い頃、父親がインドに

異動になったのだが、そこには適当な学校がなく、彼は

一人ボンベイ(現ムンバイ)にある寄宿舎学校、「セント・

ピーターズ・スクール」に通うことになる。インドがか

つて英国の植民地だったこともあり、学校は権威主義で

規律正しい、伝統的な英国風の教育方針を打ち出してい

た。この頃から、ファルークではなく英語式に「フレデリッ

ク」、転じて「フレディ」と呼ばれるようになる。

 

彼の得意科目はスポーツ、美術、そしてやはり音楽。

彼の作曲ツールのメインとなるピアノも八歳ごろから始

めた。さらに、十五歳の頃、学友たちと一緒に「ザ・ヘ

15

By

Geo

rge

Hur

rell,

© Q

ueen

Pro

duct

ions

Ltd

Special Thanks to: Phil Symes, Richard Gray

Page 2: 歳で初バンド結成 Life is a celebration. 超お坊ちゃん時代...9 30 2009 o 52 Great Britons Great Britons 取材・執筆/内園 香奈枝・本誌編集部 アフリカ・ザンジバル島での

1030 APR 2009 / No 572Great Britons

4歳のファルーク。着ているもの

からもお坊ちゃんとして育った、

育ちのいい彼が見て取れる。

By Bomi Bulsara, courtesy M

rs Bulsara (右写真ともに)

クティックス」という、生涯初のバン

ドも結成。ヘクティック(H

ectic

熱病、てんやわんやの)という名前

は、ピアノ・ボーカル担当のフレディ

の演奏スタイルからきている、という

ことなので、この頃から彼の大げさな

ステージ・パフォーマンスはすでに確

立されていたのだろう。メロディアス

な音楽を奏でる「ザ・ヘクティックス」

は、学校でも大人気だった。

 

興味深いことに、この学校に彼は初

恋で片思いの「女の子」がいたという

ことだ。しかし、男の子に対し、女の

子でも使わない「ダーリン」と呼びか

け美術の先生を驚かせていたそうだか

ら、ゲイ(ホモセクシャル)嗜好は、

この頃からあったのかもしれない。ち

なみに、彼は男女問わず「一緒にいた

い人間といる」というスタイルのバイ

セクシャルであった。

 

しかし、一九六二年にカレッジの進

級試験に落ちて、落第。フレディはザ

ンジバル島に戻ることになる。

「クイーン」結成と、

「マーキュリー」への変身

 

一九六四年、ザンジバル革命が起こ

り、ザンジバルとタンガニーカが合併、

タンザニア連合共和国となる。そんな

国内の混乱から逃れるため、バルサラ

一家はザンジバル島から、英国、フェ

ルサムへの移住に踏み切った。

 

それまでの使用人付きの裕福な暮ら

しから一変、バルサラ家は中流家庭の

暮らしを始めることになる。そんな暮

らしぶりであっても、ザンジバル島よ

りずっと刺激的な英国に来られたこと

をフレディは喜んだ。しかし、非白色

人種として、差別されることを経験し

たのも事実。後に、世界的に認められ

るために、西洋的な名前に変えるが、

これはその影響もあったと思われる。

 

フレディは、イラストレーターを目

指し、イーリング・アート・カレッジ

でグラフィック・デザインを学んだ。

この頃、ジミ・ヘンドリックスに憧れ、

いくつかバンドも組んでいる。

 

そんなある日、フレディは

「スマイル」という三人組のバ

ンドに出会う。ボーカルは同じ

カレッジの友人ティム・スタッ

フェル、そして、後のクイー

ンのメンバーとなるインペリア

ル・カレッジで天文学を学んで

いたギタリストのブライアン・

メイ、そしてロンドン・ホスピ

タル・メディカル・カレッジで

歯科医を目指していたドラムのロ

ジャー・テイラー。

 

彼らのファンだったフレディは、

しょっちゅう彼らのライブを見に

行っては、「音楽性はいいのに、ビ

ジュアル面の見せ方が悪い」など、

あれこれ口を挟んでいた。音楽の

方向性の違いから、ボーカルのティ

ムが脱退となった時、ティムの推薦も

あり、一九七〇年、運命的にもフレディ

が後任のボーカルとなる。

 

その後、バンドの名前を決めるミー

ティングが開かれる。そこでフレディ

が推したのが、男のバンドなのに「ク

イーン」。もちろん、ほかの二人は、

クイーンという言葉には「男のゲ

イ」という意味もあるため

嫌がったが、フレディは

「威厳があって、シンプル

で響きがよく、世界中の誰

でもわかる、華麗な名前」と

いうことを強調。この頃から、

フレディには、「音楽で絶対に

成功し、ナンバー・ワンのバン

ドになる」という並々ならぬ決意

があったのだ。

 

また、「マーキュリー」という名

前も、乙女座の彼の占星術における

上昇星、水星からきている。パール

シー的な「バルサラ」という姓から

この西洋的な名前を芸名とする時、

身内への後ろめたさもあったのか、

母親に相談したそうだ。母親は「家

族のことを変わらず愛してくれれば、

それでいい」と答えたという。

 

それはフレディの「変身」の第一

歩だった。ステージ外で見せる、シャ

イな一面や素顔を見事に封じ、彼は

「フレディ・マーキュリー」という、

大勢の観客を楽しませる雄雄しい

ロック・スターを、自ら演出し、見

事に演じていくことになる。

 

幾重にわたるオーディションを経

て、チェルシー・カレッジで電子工

学を学んでいたベース

のジョン・ディーコ

ンが加わり「クイー

ン」の四人がそろう。

 

フレディは後に、

この四人の誰一人が欠け

てもクイーンは成功しなかっ

た、と語っている。クイーン

は、フレディが死ぬまで、解散

もメンバー交代もなく、二十年以上活

動し、レコード・セールス二億枚を超

える世界的なロック・バンドへと成長

した。(12頁コラム参照)

母親のジャーに抱かれる、生後7ヵ月のファルーク。愛らしい笑顔が何とも印象的。赤ちゃんの頃からカメラの前でポーズをとるのが大好きだったとか。

インドの寄宿学校時代のバンド「ザ・ヘクティックス」のメンバーと。もちろん真ん中がフレディ少年。かなり面影がある。

王者の貫禄「黄ジャケット」【1986 年ごろ】ラスト・ツアーのこのジャケッ

ト姿は、すっかり大きなスタジアムの似合うライ

ブ・バンドに成長した風格が現れて

いる。この衣装に、天に向け片腕を

上げた姿は、銅像などのポーズとし

てもおなじみだ。

まるで、ベルばら、王子様「シラサギ・ルック」

登場! ヒゲ・マッチョ姿「ランニング」

クイーンといえば、その音楽はもち

ろんのこと、奇抜なフレディの衣装

(彼は笑われることも意識してやっ

ていたらしい)やルックスの変化も

かなり印象的だった。華麗なる貴公

子から、ヒゲ・マッチョのおじさん

にまで、艶やかに変身したフレディ

の衣装の変貌(ほんの一部)を追っ

てみよう。

ボディラインくっきり 「バレエ・タイツ」【1976 年ごろ】体のラインがはっき

りと分かるピッチリタイツ。銀、白、

ダイヤ柄、黒と様々なバリエーショ

ンもとりそろえており、バレエ好き

だった彼らしい衣装。見てはいけ

ないものを見てしまったというべ

きか、官能的で美しいというべき

か…。

ゲイ路線へ? 「黒レザー」【1979年ごろ】このころからマ

ッチョ路線になるフレディ。

黒のレザーの帽子、ピッタ

リとしたパンツがセクシー

だ。まだ髭は生やしだし

ていなかったが、彼のゲ

イ嗜好が表れだした一

着といえよう。

【1985 年ごろ】ヒゲ、ランニングにマッチョなこの

姿がフレディの定番イメージの人は多いだろう。エ

イズや死のことを気にせず、彼が自由に生きて

いた時代の姿ともいえるかもしれない。ただ、

初期に王子様として彼を愛していた多くの女

性たちには、このヒゲのおじさんと化した

フレディはショックであった…。

厚いメイクで病気を隠した「道化師」【1991 年ごろ】彼の晩年のプロモーション・

ビデオ撮影での衣装。かなり病状が悪化して

おり、休み休み撮影していたそうだ。少しで

も元気にみせるために、カツラを付け、彼が

大好きなライザ・ミネリをイメージした厚い

メイクをした。茶目っ気たっぷりに演じる姿

は愛しく、しかし切なくもある。

衣装で見る 

フレディ

変身ヒストリー

Courtesy Mrs Bulsara

1 - Courtesy EMI Photo Archive, 2.3.4 - By Neal Preston © Queen Productions Ltd, 5 - By Denis O’Regan © Queen Productions Ltd, 6 - By Simon Fowler, © Queen Productions Ltd

【1975年ごろ】白いたっぷりとしたドレープがついた華麗なひらひら衣装。1972 年から大流行した「ベルサイユのばら」に出てきそうだ。黒マニキュア、長髪、長身、細身の白馬の王子様のようなルックスに、日本人女子は熱狂。クイーンはアイドルだったのだ。

1

2

3

4

5

6

Page 3: 歳で初バンド結成 Life is a celebration. 超お坊ちゃん時代...9 30 2009 o 52 Great Britons Great Britons 取材・執筆/内園 香奈枝・本誌編集部 アフリカ・ザンジバル島での

11 30 APR 2009 / No 572 Great Britons

ル・カレッジのライブでメアリーに出

会っており、フレディが彼女を好きな

ことが分かったので、紹介したという。

 

だが、始めの半年間は、彼が店に行

き、「やあ」と挨拶をする程度。こう

いうところでは、シャイだったようだ。

その後やっとフレディが彼女をデート

に誘う。彼らは惹かれあい、深く愛し

合った。後に、

六年という月

日を共に暮ら

し、フレディ

も彼女のこと

を内縁の妻だ

と紹介してい

たという。

 

しかし、そ

の後二人の恋

愛関係は終わ

りを告げるこ

とになる。フ

レディがゲイ

であることを

公表(カミン

グアウト)したためだ。

 

だが、彼らの絆はそれで終わること

はなく、より深く結ばれるようになる。

フレディはメアリーを仕事のパート

ナーとして雇い、特に彼女には最大の

信頼をおいて財政面をまかせた。

 

フレディにとってメアリーは、心を

開いて話ができ、一緒にいて幸せを感

じられる最高の親

友となった。また、

彼女も彼がゲイだ

と分かっても、そ

れを彼の一部とし

て受け入れ、仕事

のパートナーとし

てだけでなく、親

友としても彼の信

頼を決して裏切る

ことなく、彼を思

いやり、理解した。

その絆はフレディ

の最期まで絶える

ことはなかった。

 

後にメアリーは

他の男性と結婚し、子どもも生まれる。

フレディはそれをとても祝福し、喜ん

だという。「自分が先に逝くようなこ

とがあれば、財産のほとんどは彼女に

渡したい」とも語っていた。

 

実際、フレディが、ハリウッド映画

に出てくるような贅沢な装飾を施した

高価な家が欲しくて買ったという、ロ

ンドン、アールズ・コートにある全二

十八室の大豪邸(通称・ガーデン・ロッ

ジ)は、彼の死後、メアリーに託され、

今も彼女が家族とともに暮らしている。

シングル化を大反対された

 

「ボヘミアン・ラプソディ」

 

クイーン結成から三年後、彼らは

やっとデビューにこぎつけた。しかし、

ファースト・アルバムやセカンド・ア

ルバムは、売り上げはそこそこだった

ものの、英国の音楽評論家からは、「バ

ケツいっぱいの小便」「彼らが成功し

たら、私は帽子でも何でも食おう」な

ど酷評の嵐。フレディはすっかりマス

コミ嫌いになってし

まう。

 

しかし、そんな

中、彼らを大歓声で

迎えた国がある。日

本だ。彼らが初来日

した一九七五年、英

国から来た貴公子た

ちに、日本人女性の

心はすっかり奪われ

てしまった。初来日

ライブは、黄色い声、

もみくちゃ、失神者

続出…。これには本

人たちも驚き、とて

も感激したという話

は有名だ。それまで

よく知らなかった極

東の地、日本を、彼ら、

特にフレディは大い

にひいきするように

なる(十四頁コラム

参照)。

 

そんな彼らを世界

的なスターに押し上

生涯愛した、一人の女性

 

また、そのミーティングの

場所で、フレディが生涯愛し、

彼の人生の中で欠かせない女

性となった、メアリー・オー

スティンと出会っている。

 

彼女はケンジントンの「ビ

バ」という人気ブティックで

働いていた。フレディやブラ

イアンも、美人ぞろいで有名

なそこの店員たちを見るのが

楽しみでよく通っていたそう

だ。ブライアンはインペリア

デビュー前から最期までフレディを支え続けたメアリー・オースティン。ブロンドの髪に、青い瞳、白い肌で小顔の美しい女性だ。

初期のクイーンの曲は層の厚いコーラスや、多重録音などを駆使した凝ったつくりのものが多かったため、ライブでの演奏が難しかった。フレディがライブ映えする太い声を身につけ、ライブ・バンドとして評価されるのは後期になってからだったが、舞台装置やパフォーマンスでは多くの人を惹きつけ、驚かせた。

フレディー・マーキュリー年表

By

Dou

glas

Pud

difo

ot, ©

Que

en P

rodu

ctio

ns L

td

© R

icha

rd Y

oung

/ R

ex F

eatu

res

9月、アフリカのザンジバル島(現タンザニア領)で生まれる

1 月、ザンジバル革命。バルサラ家は英国に移住4月、クイーン結成。このころ生涯の親友、メアリー・オースティ

ンと出会う

7月、クイーン・デビュー・アルバム「Queen /戦慄の王女」発売。

英国では酷評される

3月、2nd アルバム「Queen Ⅱ/クイーンⅡ」発売。英国で初のトップ 10 入り。ジャケットは「Bohemian Rhapsody /ボヘミアン・ラプソディ」のプロモーション・ビデオにも再現された、暗闇の中で浮かび上がる 4 人の顔【写真①】

11月、3rdアルバム「Sheer Heart Attack/シアー・ハート・アタッ

ク」発売。英最高位 2 位

4 月、初来日、7都市8公演

10 月、「Bohemian Rhapsody /ボヘミアン・ラプソディ(フレ

ディ作)」発売。英チャート9週連続1位

11月、4thアルバム「A Night At The Opera/オペラ座の夜」発売。

英1位に輝く。「Bohemian Rhapsody/ボヘミアン・ラプソディ」

収録【写真②】

12月、5th アルバム「A Day At The Races /華麗なるレース」発売。「Somebody To Love /愛にすべてを」「Teo Torriatte(Let Us Cling Together)/手をとりあって(ブライアン作)」収録。日本でも1位に

10月、6th アルバム「News Of The World /世界に捧ぐ」発売。「We Will Rock You /ウィ・ウィル・ロック・ユー(ブライアン作)」「We Are The Champions/伝説のチャンピオン(フレディ作)」収録

11 月、7th アルバム「Jazz /ジャズ」発売。「Don't Stop Me Now(フレディ作)」収録6 月、8th アルバムで、初のライブ・アルバム「Live Killers /ライブ・キラーズ」発売

6 月、9th アルバム「The Game /ザ・ゲーム」発売、全米でも初の1位を獲得し、最高売上を記録。主夫実践中だったジョン・レノンがこの曲に刺激され曲作りを再開したという逸話も残る「Crazy Little Thing Called Love /愛という名の欲望(フレディ作)」や、「Another One Bites the Dust/地獄へ道づれ(ジョン作)」収録12月、10thアルバムで、初のサウンドトラック・アルバム「Flash Gordon /フラッシュ・ゴードン」発売

11 月、11th アルバムで、初のベスト・アルバム「Greatest Hits/グレイテスト・ヒッツ」発売。現在、英国で最も売れたアルバムという記録を持つ【写真③】

5月、12th アルバム「Hot Space /ホット・スペース」発売。商業的には失敗。

10 月、5度目の来日。クイーンの活動の半年間休止を宣言

2月、13thアルバム「The Works/ザ・ワークス」発売。「Radio Ga Ga / RADIO GA GA(ロジャー作)」収録

4月、フレディの初ソロ・アルバム「Mr. Bad Guy(Mr. バッド・ガイ)」発売。売上げは16万枚で、大ヒットには至らず【写真④】

5月、6度目、最後の日本公演。クイーン解散の危機

7月、ウェンブリー・スタジアムで「ライブ・エイド」に出演

6月、14thアルバム「A Kind Of Magic/カインド・オブ・マジック」発売

6月、英・欧州で、最大にて最後となった「マジック・ツアー」公演

12 月、15th アルバム「Live Magic /ライブ・マジック」発売

フレディ、エイズ感染を知る

10 月、憧れのオペラ歌手、モンセラ・カバリエとのアルバム「Barcelona /バルセロナ」発売【写真⑤】

5月、16th アルバム「The Miracle /ザ・ミラクル」発売

2月、17th アルバム「Innuendo /イニュエンドウ」発売。「The Show Must Go On/ショウ・マスト・ゴー・オン」収録【写真⑥】

10 月、18th アルバムで、2枚目のベスト・アルバム「Greatest Hits Ⅱ/グレイテスト・ヒッツ Vol.2」発売

11 月、死の前日に、自身のエイズ感染を公表し、翌日ロンドンの自宅で死去

4月、ウェンブリー・スタジアムで「フレディ・マーキュリー追悼コンサート」開催

5月、19th アルバム、ライブ・アルバム「Queen Live At Wembley '86 /クイーン・ライヴ !! ウェンブリー 1986」発売

11 月、フレディが生前に残した音源をもとに、20th アルバム「Made in Heaven /メイド・イン・ヘブン」発売【写真⑦】

1946 年

1964 年

1970 年

1973 年

1974 年

1975 年

1976 年

1977 年

1978 年

1979 年

1980 年

1981 年

1982 年

1984 年

1985 年

1986 年

1987 年

1988 年

1989 年

1991 年

1992 年

1995 年

0歳

18 歳

24 歳

27 歳

28 歳

29 歳

30 歳

31 歳

32 歳

33 歳

34 歳

35 歳

36 歳

38 歳

39 歳

40 歳

41 歳

42 歳

43 歳

45 歳

Page 4: 歳で初バンド結成 Life is a celebration. 超お坊ちゃん時代...9 30 2009 o 52 Great Britons Great Britons 取材・執筆/内園 香奈枝・本誌編集部 アフリカ・ザンジバル島での

1230 APR 2009 / No 572Great Britons

げたのは、フ

レディの多様な音楽性が

現れ、バラード、オペラ、ロックが

一体となった大曲「ボヘミアン・ラプソ

ディ」だった。三分台という曲が主流だっ

た時代に、五分五十五秒という長さは衝

撃的で、プロダクションはシングル化に

大反対。しかし、メンバーは「面白い曲

だからリリースしたい」と言い張った。

大ヒットするか、全く売れないか、それ

は賭けだったのだ。

 

結果的には「全英チャート九週連続一

位」と見事に大ヒット。当時は新曲を出

すと、人気番組「トップ・オブ・ザ・ポッ

プス」などの音楽TV番組に出演する、

というプロモーション法が定番であった。

しかし、当時ツアーで出演ができない代

わりとして作られた、「ボヘミアン・ラプ

ソディ」のビデオは、事実上世界初のプ

ロモーション・ビデオとなっている。ち

なみに、暗闇から四人のメンバーの顔が

浮かび上がるコンセプトは、セカンド・

アルバムのジャケット写真を再現したも

のだ(11頁年表参照)。

 

その後も、パンク旋風が吹き荒れる

中、方向転換を図りながら、「ウィ・ウィ

ル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」

などのヒット曲を連発。一九八〇年のク

イーン九作目のアルバム「ザ・ゲーム」は、

全米で初の一位に輝き、彼らの最高の売

り上げを記録する。

 

クイーンは、十年前の結成当初にフレ

ディが決意した通り、世界に名だたる怪

物バンドへと育ったのだ。

奔放なゲイ・ライフ

 

この頃、フレディは前述の恋人、メア

リーと別れ、ゲイの象徴であるかのよう

な髭を生やしだす。スターの地位、富と

名声は手に入れた。しかしその一方で、

アルバムを出してはツアーを行うことの

繰り返しや、プライベートにも介入し、

相変わらず中傷記事を書くマスコミの存

在など、心の疲弊も大きくなった。

 

そんな彼が解放されたのが、ニュー

ヨークやミュンヘンの街。ゲイ・コ

ミュニティが発達しており、お気に

入りのゲイ・クラブもあった。しばらく

それらの街に住んだのは、税金逃れの理

由もあったようだが、彼をスター扱いせ

ず、ひとりの人間として接してくれると

いう環境がとても心地よかったからだ。

 

この八〇年代前半は特に、彼がゲイ・

ライフを最も謳歌した時期だといえる。

しかし、その頃はエイズやドラッグへの

警告、セーフ・セックスという考え方は

ほどんどなかった。この時期にフレディ

がHIVに感染したことは間違いないだ

ろう。

 

この頃、初のソロ・アルバム「Mr.

バッドガイ」をリリースしたが、売り上

げはクイーンのアルバムには及ばなかっ

た。クイーンで良い意味で中和されてい

た彼の「アクの強さ」が強烈に出てしまっ

たため、受け入れられにくかったのかも

しれない。しかし、演奏がシンプルな分、

彼の生き生きした声を堪能できる、彼ら

しいアルバムだ。

起死回生の

「ライブ・エイド」

 

ブラック系の音楽

を取り入れたアルバム

「ザ・ゲーム」が最高の

売上げを記録し、大成

功したこともあり、一

九八二年のクイーン十

二作目アルバム「ホッ

トスペース」ではさら

にダンス・ブラック色

を濃厚にした。しかし、

これが商業的に大失敗

作となる。今でこそ時

代を先取りしすぎただ

けで決して出来の悪い

作品ではない、と擁護

されているが、当時は

ブラック市場ではもち

ろん、重厚なクイーン・サウンドからか

け離れた内容に、ファンまでも興味を示

さなかったのだ。やりすぎてしまうこと

が多い彼ららしい。精神的に疲れ果てた

彼らは、半年間クイーンとしての活動を

休止することを発表する。

 

一九八四年、クイーンらしい曲調に

戻ったともいえる十三作目アルバム「ザ・

ワークス」で持ち直す。しかし、悪いこ

とは続き、同年、アパルトヘイト

政策が国際社会から激しく非難さ

れていた南アフリカ共和国、サン

シティで公演を行ったことで、国

連のブラックリストにのり、英

ミュージシャン組合から除名され

(後に解除)、罰金を払わされるな

ど、散々なバッシングにあう。

 

デビューから十年以上同じメン

バーでやってきて、印税の配分な

ど、メンバー内の不協和音も聞か

れるようになってきた。四人は、

一九八五年五月の日本公演を最後

に、「解散」をほぼ決めていた。

 

しかし、神は彼らを引き離さな

かった。一九八五年七月十三日に

ウェンブリー・スタジアムで行わ

れた、アフリカ難民救済を目的と

した、一大チャリティ・コンサー

ト「ライブ・エイド」は、彼らの大きなター

ニング・ポイントになる。演奏時間は二

十分。解散寸前という状況もあり、最初

はのり気でなかった彼らだが、世界中の

ツアー先を追いかけて説得した、主催者

のボブ・ゲルドフの熱意に折れた。

 

あまりのどが強くなかったフレディは、

この日ものどに炎症が認められ、医者に

歌うのを止められていたという。しかし、

そんなことは微塵も感じさせない、「ボヘ

ミアン・ラプソディ」で、彼らのステー

ジはスタート。次の曲「RAD

IO G

A GA

では、クイーン・ファンだけではないス

タジアムの八万人の観客が、同曲のビデ

オ・クリップ同様に両コブシを突き上げ、

圧巻の手拍子を披露。さらに「ウィ・ウィ

ル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」

と豪華ヒット・メドレー六曲を繰り広げ

た。

 

八万人の観客、そして衛星同

時生中継で八十ヵ国以上、十五

億人もの人々が見守ったと言わ

れるこの日、クイーンのショー

は「出演者の中で、最も素晴ら

しかった」と絶賛される。

 

それは、意気消沈の彼らを大い

に元気づけ、解散という危機から

をもクイーンを救ったのである。

壮絶なラストスパート

 

自信を取り戻し、その勢いでクイーン

は十四作目のアルバム「カインド・オブ・

マジック」をリリース。その直後に英・

ヨーロッパで行なわれた一九八六年の

「マジック・ツアー」

は、デビュー十四年

目にして、最大の、そして最も成功した

ツアーとなった。そして、これが四人で

の最後のツアーとなる。

 

そのツアー後は、おしのびで日本での

一ヵ月にわたるショッピング三昧(14頁

コラム参照)、自分にピッタリの歌といっ

てはばからなかったカバー曲「ザ・グレ

イト・プリテンダー」がソロ・シングル

の中で最大のヒットになるなど、うれし

いことが続く。

バンドの顔として、キャッチーな魅力を振りまき、オペラな

ど多様な音楽性を取り入れたフレディ・マーキュリー。父親

と一緒に暖炉の木から作ったギター、「レッド・スペシャル」

を駆使する、ハード・ロック好きのブライアン・メイ。華や

かなロックン・ローラー気質と、端正なルックスを持ち合わ

せるロジャー・テイラー。そして、クイーンの庶民派といっ

た地味な存在ながら、抜群のビジネスセンスで経営面を引っ

張ったジョン・ディーコン。独特の世界観を持つ「クイーン」

は、この4人のバラバラの個性がぴったり合わさったことか

ら生まれた「奇跡」だったと言えよう(写真は1970年代半ば、

左からジョン、フレディ、ブライアン、ロジャー)。それぞ

れが大ヒット曲を書いていることも特筆すべき点だ。また、

全員が学位もちのインテリ集団だった(ブライアンは 2007

年に天体物理学の博士号も取得)というのも、クイーンの曲

に品のよさが感じられる一因かもしれない。

1980 年ごろのステージでのフレディ

1985年7月の「ライヴ・エイド」にて。全8万人の観客をひとつにし、ライブ・バンドとしての格の違いを見せつけた。

1986 年、「マジック・ツアー」でのフレディ

By N

eal P

rest

on, ©

Que

en P

rodu

ctio

ns L

td

By Neal Preston, © Queen Productions Ltd

By Terry O’Neill, © Queen Productions Ltd

By Neal Preston, © Queen Productions Ltd

インテリ4人の奇跡!

Page 5: 歳で初バンド結成 Life is a celebration. 超お坊ちゃん時代...9 30 2009 o 52 Great Britons Great Britons 取材・執筆/内園 香奈枝・本誌編集部 アフリカ・ザンジバル島での

13 30 APR 2009 / No 572 Great Britons

ロンドンの

 

「フレディ詣で」に出かけよう!

フレディがクイーンとして成功し、そして生涯を閉じたロンドン。フレディの遺骨は遺族による火葬の後、散骨されたそうだが、彼のお墓は「誰にも掘り起こされずに、静かに眠りたい」という遺言から、場所は明らかにされていない。「ガーデン・ロッジ」の庭に埋められたという説もあるが、真相は謎のままだ。とはいえ、「フレディ詣で」に行きたいという読者のために、おすすめの地を紹介しよう。

フレディの遺言を遂行しよう!

ミュージカル「We Will Rock You」のペアチケットを1名様にプレゼント。月曜~木曜日に行ける方(2009年10月まで)。ご希望の方は、お名前、住所、電話番号を明記の上、オンラインwww.japanjournals.com/present、または郵便にて(宛先:Japan Journals Ltd, Musical, 7-8 Market Place, London W1W 8AG)までご応募ください。締め切りは5月22日(金)必着。

フレディの「共にエイズと闘って欲しい」という遺言により、クイーンのメンバーと、マネージャーのジム・ビーチ氏は、

1992年、基金団体、「マーキュリー・フェニックス・トラスト」(通称MPT)を設立。エイズと闘う世界中のチャリティ団体への支援などの活動を続けている。 ドミニオン・シアターでは、ミュージカル公演後、MPT の募金箱を設置し、募金を呼びかけている。

マーキュリー・フェニックス・トラスト- Mercury Phoenix Trust -

読者プレゼント

世界中で公演され、650万枚を超えるチケット売上げを記録する、クイーンの曲で構成されたミュージカル「We

Will Rock You」。ドミニオン・シアターで2002年から上演され、今年5月に7周年を迎える。 ストーリーは、今から300年後の未来、自由な音楽を聴くことを禁じられた世界で「自分たちの音楽を奏でたい」とボヘミアンたちが立ち上がる、というシンプルなもの。聞き覚えのあるヒット曲が満載なので、子どもから大人まで楽しめるはず。 恥ずかしがっていてはもったいない! 「RADIO GA GA」のサビや、「ウィ・ウィル・ロック・ユー」のドン・ドン・チャのリズムに合わせて、両手こぶしをあげて手拍子など、クイーンのコンサートと同じように、歌って、参加して、楽しもう。 劇場内には、フレディやクイーンの様々な年代の写真が多数展示されているので、そちらもお見逃しなく。

Dominion Theatre Tottenham Court Road, London W1P 0AG www.dominiontheatrelondon.org.uk ℡ 0844-847-1775(Box Office & ticketmaster)

フレディ像がお出迎え!

ミュージカル「We Will Rock You」

「ガーデン・ロッジ」(Garden Lodge)フレディ・ファンにとっては聖地ともいえる、彼が晩年を過ごした家。ロンドン、アールズ・コート (1 Logan Place) にあり、入口の緑のドアにはファンによるメッセージがたくさん書き込まれている。高い壁に囲まれているため、家の様子は屋根しか見えないが、ここでフレディが死を迎えたと思うと感慨深い。彼の命日 11 月24 日には毎年、世界中からファンが集まり、たくさんの花束がたむけられる。今はあくまでメアリーがその家族とともに住んでいる家だということを忘れず、迷惑のないように訪れよう。

「ブリティッシュ・ミュージック博物館」3 月にオープンした、英国を代表するミュージシャンの衣装などが展示された博物館。クイーン関連では、フレディが 1986年のマジック・ツアーで着た「ジャケットとパンツ」、ブライアンのギター「レッド・スペシャル」、ロジャーのクイーンの紋章入り「バスドラム」、ジョンの「『ブレイク・フリー』の直筆の歌詞」を見ることができる。様々なミュージシャンによるバーチャル・ステージでは、クイーンが「伝説のチャンピオン」でトリを務めており、短いが、一見の価値あり。難曲「ボヘミアン・ラプソディ」の録音にも挑戦してみては?

チケット:大人£15、子供/学生£12入場可能時間:月―日 10:00 ~ 18:30 (閉館は 20:00)British Music Experience The O2, Peninsula Square, London SE10 0DX www.britishmusicexperience.com ℡ 0844-847-1761

マ ニ ア 向 け「ウェブで調べる縁の地」フレディとメアリーが 70年代に暮らした家、「ボヘミアン・ラプソディ」が録音されたスタジオ、フレディの火葬場など、マニアックなフレディ&クイーン縁の地は、住所、交通アクセスを含め、下記ホームページで調べることができる。ロンドンでのフレディの足跡をたどることは、ファンには感慨深いはずだ。

Queen Concerts 内の Queen places in Londonwww.queenconcerts.com/london.htmlQueen Londonhttp://mr-mercury.co.uk/queen_london.htm

Page 6: 歳で初バンド結成 Life is a celebration. 超お坊ちゃん時代...9 30 2009 o 52 Great Britons Great Britons 取材・執筆/内園 香奈枝・本誌編集部 アフリカ・ザンジバル島での

1430 APR 2009 / No 572Great Britons

 

さらには、憧れのオペラ歌手、

モンセラ・カバリエとのセッ

ションも実現。一九九二年のバ

ルセロナ・オリンピック開会式

でも歌われた「バルセロナ」の

歌詞には、彼が彼女に出会え、

夢を叶えられた喜びがピュアに

歌われていて感動的だ。ロック・

スターと、オペラ会のディー

ヴァという異色の組み合わせは、

一九八八年にはアルバム「バル

セロナ」として結実、見事にそ

の世界を融合した。このアルバ

ムはフレディ自身、彼のキャリ

アの中でも最高のご褒美で、とても誇り

に思うと語っている。

 

しかし、一九八七年、モンセラとの競

演が進行し始めていた頃、彼の身体に彼

の人生においてもっとも悲劇的な事実が

判明している。エイズ(HIVウイルス

に感染し、免疫不全をおこした状態)を

発症したのだった。彼は、メアリーや、

彼の最後の恋人となり、当時「僕のハズ

バンド(たまにワイフ)」と紹介したジム・

ハットンら、ごく近しい人だけに、それ

を打ち明けた。当時はエイズという病気

の正体は現在ほど分かっていなかったが、

彼の人生が確実に死に向かうであろうこ

とは明らかだった。彼らはそれに一様に

ショックを受けたが、騒ぎ立てず、周囲

にその事実を隠し通した。

 

フレディはジムに「別れてもいいよ」と

告げた。しかし、彼らは別れることはなかっ

た。数年後、お互い辛かったに違いない

ジムのHIV感染が判明しても、ジムは彼

の元を離れることはなかった。世界的ロッ

ク・スターと、街の美容師(後に

フレディの家の庭師)という一見

変わったカップルであったが、六

年間ともに暮らし、夫婦のような

関係が最期までつづいたという。

 

自分のエイズ感染を知ったフ

レディは、それまで以上に仕事に

打ち込み、プライベートでは、ま

だ空き部屋などがあった、「ガー

デン・ロッジ」の装飾にも力を注

ぐようになる。

 

一九八九年はほとんど、クイー

ン十六作目のアルバム「ザ・ミ

ラクル」を完成させるため、ロ

ンドンと、スイスのモントルーのスタジ

オを行き来して過ごした。この頃はまだ、

メンバーにエイズの事実を知らせていな

かったとされるが、日に日にやせ細って

いく彼の異変にメンバーも気づいていた

はずだ。それまで個人名だった作曲クレ

ジットも、印税の配分についてのもめご

とをさけるために、すべて「クイーン」

に統一され、四人の団結が強まったアル

バムとなる。

 

しかし、当時の決して健康そうには

見えないフレディの様子などから、フレ

ディの健康状態に関して、マスコミで

様々な報道がなされていた。「エイズで

は?」という憶測もかなりあったが、そ

の事実を知る人々はマスコミに対して、

それを否定し続けた。この頃の彼は、人

前で会うときには、病状を隠すため、か

なり厚いメイクをして出て行っていた。

 

そして一九九一年二月には、彼の生前

では最後となるクイーン十七作目のアル

バム「イニュエンドウ」をリリースし、

英チャート一位に輝く。そこでのフレ

ディの歌声は「ショウ・マスト・ゴー・

オン」でも聴かれるように、この世のも

のとは思えないような、荘厳さや美しさ

に満ちた絶唱だ。愛猫「デライラ」への

曲も歌っている。猫をとてもかわいがり、

生涯を通じてたくさんの猫を飼ったフレ

ディは、闘病中も寝室の大きなベッドの

上で愛する猫たちに囲まれて過ごしてい

たという。この頃の彼は本当に弱りきっ

ていたが、それでもシングルのリリース

の度に力を振り絞り、ビデオを撮影した

(10頁衣装コラム参考)。

エイズ感染の公表――そして死

 

彼は一九九一年、スイス・モントルー

に家を買う。美しい湖と街が見渡せる静

かな家だったが、彼が訪れることができ

たのは三回だけだった。最後に訪れたの

は十月末。この時、彼は治療をやめて、

死ぬ決心をする。だが、彼の死のほんの

一週間前まで、彼は奇跡的な体力で、家

族や友人と会っていたという。

 

十一月二十三日、フレディは自分のエ

イズ感染に関する声明を公に発表する。

瞬く間にそのニュースは世界中に広まっ

た。それまで彼が公表しなかったのは、

彼がともに暮らした仲間や、家族、友人

たちに対する気持ちからだったという。

当時のエイズへのイメージや特性により、

大衆から眉をひそめられたり、根掘り葉

掘り詮索されたりすることから、愛する

人々を守りたかったのである。

 

その翌日、十一月二十四日、フレディ・

マーキュリー永眠。享年四五という若さ

だった。彼が息を引き取ったのは、ジムた

ちがフレディを着替えさせようと抱きかか

えた時であったという。愛する人たちの腕

の中で、彼は最期を迎えたのだ。彼の左手

の薬指には、ジムとのウェディングリング

が灰になるまではめられていたという。死

因はエイズの合併症、「ニューモシスチス

肺炎(カリニ肺炎)」だった。

今もなお生き続ける 

フレディの音楽

 

一九九五年には、死の間際まで

音楽のアイデアを持ち続けたフレ

ディが残した音源を元に、残され

た三人のメンバーがクイーン二十

作目アルバム「メイド・イン・ヘ

ブン」を発表する。

 

フレディの死後も、彼とクイー

ンへの賞賛は高まるばかりだ。

 

二〇〇二年には、「ボヘミアン・

ラプソディ」がジョン・レノンの

「イマジン」などを押さえ、ギネ

スブック認定の「英国で最も愛さ

れるシングル」の一位に選ばれた。

また、クイーンのベスト・アルバ

ム「グレイテスト・ヒッツ」の「英国で

一番売れたアルバム」という記録は、未

だに破られていない。

 

日本でも、二〇〇四年木村拓哉が主演

し、クイーンの曲が数々使われたフジテ

レビ系月九ドラマ「プライド」をきっか

けに、日本限定のクイーンのベスト・ア

ルバム「JEWELS」が、百七十万枚

以上を売り上げる大ヒットを達成。これ

により、クイーン再ブームが訪れた。

 

スポーツシーンで「ウィ・ウィル・ロッ

ク・ユー」「伝説のチャンピオン」は定番

曲と化す。二〇〇五年、〇八年に行われ

たクイーン+ポール・ロジャースのライ

ブでも、「ボヘミアン・ラプソディ」の演

奏中、フレディの歌う姿が映し出された

時には、会場は大歓声と大合唱に包まれた。

 

彼は、今もなお私たちの元に、色あせ

ることのない歌を届け、時に慰め、励まし、

元気をくれる。

 

時にはやりすぎとされることもあった

が、フレディは愛する音楽と、人生を、

楽しみ抜いた。悔いなく生きるというこ

とにおいて言えば、これは何より幸せな

ことではないだろうか。短い生涯ではあっ

たが、愛する人や大切な仲間たちと出会

い、エネルギーを思いっきり発散させな

がらまっとうしたのだから。

 

「退屈」を何より嫌った彼は、死後も私

たちを飽きさせることなく、とことん楽

しませてくれる、生粋のエンターテイナー

なのである。きっと、これからもずっと。

「バルセロナ」で競演したオペラ歌手、モンセラ・カバリエに、後ろから抱きしめられるフレディ。憧れのディーバに少し緊張しつつも、うれしそうな表情の彼が微笑ましい。彼女のことは、1983 年にパバロッティの「仮面舞踏会」を観に行った時に初めて知り、その声のあまりの美しさに、フレディは口をポカンと開けたままになったという。

実はフレディのお気に入りの国、我らが「日本」にまつわるエピソードをいくつか紹介してみよう。

フレディの「心の友」

ニッポン

By

Terr

y O

’Nei

ll, ©

Mer

cury

Son

gs L

td

   お忍び来日での散財…数百万ポンド! ショッパホリックだったフレディ。特に、日本画や骨董品が大好きな

彼は、全6回の来日公演の度に、たっぷりショッピングをして帰ってい

た。最もすごかったのは、1986年にプライベートで来日した時。歌川広

重の浮世絵、人間国宝の漆塗りの作品、伊万里焼、薩摩焼、アンティー

クの着物スタンド、屏風、刀、電化製品、そして火鉢30個などをお買い

上げしていったそうだ。一時間もたたないうちに25万ポンド、はたまた

100万ポンドを使った時もあったという。

   日本のファンへのラブソング クイーン5作目のアルバム「華麗なるレース」

は、日本のファンに贈った曲、「手をとりあって」

を収録。「♪手をとりあって このまま行こう

愛する女(ひと)よ 静かな宵に 光を燈し 

愛しき教えを抱き」というロマンチックな日

本語のサビは、日本のファンをとても喜ばせ、

アルバムもチャート1位を記録した。

 さらに、フレディとモンセラ・カバリエのアルバム「バルセロナ」

には、「ラ・ジャポネーゼ(La Japonaise)」(スペイン語で日本人)

を収録、随所に日本語が使われているが、一番の聴き所は、フレディ

が完璧な発音で歌う「♪朝が微笑みかける いつも君だけは 心の友

~」という部分。歌詞カードにのっていないこのメッセージが聴け

るのは、日本人の特権だ。

   最も愛した家に 日本間、日本庭園 フレディが手塩にかけて、装飾した家「ガーデン・ロッジ」。そこには、

日本間や、日本庭園もあるのだという。庭にはフレディが好きだったと

いうツツジと、竹が植えられ、滝、錦鯉の泳ぐ池、茶室、石灯籠まで作ら

れた。彼が来日時たくさん買いこんでいった日本のものも、彼の家を彩っ

ていったことだろう。日本が彼を幸せにした一つだったというのは、誇ら

しいことである。

By

Sim

on F

owle

r, ©

Que

en P

rodu

ctio

ns L

td

1980年代後期、アルバム「ザ・ミラクル」リリース時のクイーン。フレディ(一番右)は、この時すでに自分のエイズ感染を知っていたが、最後まで、音楽への情熱とユーモアを失うことはなかった。