インド音楽研究(V) イムダー ド ・カーニー ・ガラーナー(そ の1)* · 2. lt...

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信 州大 学 教 養部 紀 要 第26号(1992) 1 イ ン ド音 楽研 究(V) イム ダー ・カ ー ニー ・ガ ラー ナ ー(そ の1)* 船津 和 幸**・ 船 津 恵 美 子*** 0は 本 稿 は,財 団 法 人 松 下 国際 財 団1989年 度(第2次)研 究助成 による 「北 イソ ド古典 音楽 に お け る楽 派 の 様 式 研 究 」 の成 果 の 一 部 で あ る。 助 成 研 究 で は,北 イ ン ドの代 表 的 な 弦 楽 器 シ タ ー ル の楽 派 イ ム ダ ー ド ・カ ー一ニ ー ・ガ ラ ー ナ ー とや は り代 表 的 な一 対 の 太鼓 タ ブ ラ ー の 楽 派アジュラーダー・ガラーナーを取 り上 げ,1990年7月 か ら1991年3月 ま で の 間 に3回 にお た り,現 地 に て フ ィー ル ド ワー クを 行 い,当 該 の研 究 に 関 連 す る音 楽 家 の演 奏 の録 音,録 画, ならびに関係者とのインタビューという基礎作業を完了した。 こ こで は,そ の うち の シ ター ル の イ ム ダ ー ド ・カ ー ニ ー ・ガ ラ ー ナ ー に つ い て論 考 す る が, そ の最 重 要 な音 楽 家 で あ る巨 匠 ヴ ィ ラ ー ヤ ッ ト ・カ ー ソ氏(UstadVilayatKhan)と その 長 男 で後 継 者 で あ る シ ュジ ャー一 ト ・カ ー ン氏(UstadShujaatKhanNこ は惜 しみ ない 協 力 をいただいた。 ここに記 して深 く謝意 を表 した い。 ま た,ア ー ル ヴ ィ ン ド ・パ リ ー ク 氏(PanditArvindParikh)は 実質 的な共同研究者 とも 言 え る。 氏 は,17才 の時 に ヴ ィ ラ ー ヤ ッ ト ・カー ソ に師 事 して 以 来,50年 近 く も一 番 弟 子 し て,親 友 と して,良 き庇 護 者 と して ヴ ィ ラ ー ヤ ッ ト ・カ ー ン と共 に歩 ん で こ られ,ま た現 在 は,サ ンギート・リサーチ・アカデミー理事やユネスコ国際音楽委員会委員なども兼任し, シ タ ー ル 奏 者 と し て の み な ら ず,イ ン ド国 内 で も有 数 な音 楽 学 者 で もあ る。 パ リー ク氏 に は, 研 究 の 構 想 の段 階 か ら貴 重 な示 唆 や 助 言 を戴 き,訪 印のたびに共にディスカッションを重ね た 。 こ の場 を借 りて心 よ りお 礼 を 申 し上 げ た い。 さ ら に は,フ ィー ル ド ワ ー ク に 際 し て 助 手 役 を 買 っ て で て くれ た 友 人 の 音 楽 学 者Dr. Mrs.SuvarnalataRao女 史,所 蔵の録音資料の利用に際して便宜を計っていただいたニュ ーデリーの音楽舞踊アカデ ミー(SangeetNatakAcademi)のSMukherlee氏 ,BC.Ban- sal氏,ボ ン ベ イ の 国 立 芸 能 セ ン タ ー(NationalCentreforthePerformingArts)のDB. Biswas氏 に も感 謝 した い。 1総 論 考 の前 に,若 干 の術 語,固 有 名 詞 の説 明 が必 要 か と思 う。 まず 表題 とした 「イムダ ー ド ・カ ー ニー ・ガ ラ ー ナ ー」 で あ るが,ひ とまず便宜的に訳語を付けるならぽ 「イムダ ー ド ・ カーンの楽派」となろう。その楽派の後継者であ り,代 表する演奏家はヴィラーヤット・ヵ 一 ソ(1924~)で ある 。 彼 は,現 在 の イ ン ド古 典 音 楽 の世 界 に お い て,シ タール奏 者 として ラ ヴ ィ ・シ ャ ン カル(1920~)と 双 壁 を な す ぼ か りで な く,綿 々 と継 承 され て き た 音 楽 伝 統 *StudyofIndianMusic(V):ImdadKhaniGharana(Part1) **KazuyukiFUNATSU(lndology ,ShinshuUniversity) ***EmikoFUNATSU(Muslcology)

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信州大学教養部紀要第26号(1992) 1

イン ド音楽研究(V)

イ ム ダ ー ド ・カ ー ニ ー ・ガ ラ ー ナ ー(そ の1)*

船津 和幸**・ 船津 恵美 子***

0は じ め に

本 稿 は,財 団 法 人 松 下 国際 財 団1989年 度(第2次)研 究 助 成 に よ る 「北 イ ソ ド古 典 音 楽 に

お け る楽 派 の 様 式 研 究 」 の成 果 の 一 部 で あ る。 助 成 研 究 で は,北 イ ン ドの代 表 的 な 弦 楽 器 シ

タ ー ル の楽 派 イ ム ダ ー ド ・カ ー一ニ ー ・ガ ラ ー ナ ー とや は り代 表 的 な一 対 の 太鼓 タ ブ ラ ー の 楽

派 ア ジ ュ ラ ー ダ ー ・ガ ラ ー ナ ー を取 り上 げ,1990年7月 か ら1991年3月 ま で の 間 に3回 に お

た り,現 地 に て フ ィー ル ド ワー クを 行 い,当 該 の研 究 に 関 連 す る音 楽 家 の演 奏 の録 音,録 画,

な ら び に 関係 者 との イ ン タ ビ ュ ー と い う基 礎 作 業 を完 了 した 。

こ こで は,そ の うち の シ ター ル の イ ム ダ ー ド ・カ ー ニ ー ・ガ ラ ー ナ ー に つ い て論 考 す る が,

そ の最 重 要 な音 楽 家 で あ る巨 匠 ヴ ィ ラ ー ヤ ッ ト ・カ ー ソ氏(UstadVilayatKhan)と そ の

長 男 で後 継 者 で あ る シ ュジ ャー一 ト ・カ ー ン氏(UstadShujaatKhanNこ は惜 しみ ない 協 力

を い た だ い た 。 こ こ に記 して深 く謝 意 を表 した い。

ま た,ア ー ル ヴ ィン ド ・パ リー ク氏(PanditArvindParikh)は 実 質 的 な 共 同 研 究 者 と も

言 え る。 氏 は,17才 の時 に ヴ ィ ラ ー ヤ ッ ト ・カー ソ に師 事 して 以 来,50年 近 く も一 番 弟 子 と

して,親 友 と して,良 き庇 護 者 と して ヴ ィ ラ ー ヤ ッ ト ・カ ー ン と共 に歩 ん で こ られ,ま た 現

在 は,サ ンギ ー ト ・リサ ー チ ・ア カ デ ミー理 事 や ユ ネ ス コ国 際 音 楽 委 員 会 委 員 な ど も兼 任 し,

シ タ ー ル 奏 者 と して の み な らず,イ ン ド国 内 で も有 数 な音 楽 学 者 で もあ る。 パ リー ク氏 に は,

研 究 の 構 想 の段 階 か ら貴 重 な示 唆 や 助 言 を戴 き,訪 印 の た び に共 に デ ィ ス カ ッ シ ョン を重 ね

た 。 こ の場 を借 りて心 よ りお 礼 を 申 し上 げ た い。

さ ら に は,フ ィー ル ド ワ ー ク に 際 し て 助 手 役 を 買 っ て で て くれ た 友 人 の 音 楽 学 者Dr.

Mrs.SuvarnalataRao女 史,所 蔵 の録 音 資 料 の利 用 に際 して 便 宜 を計 って い た だ い た ニ ュ

ー デ リー の音 楽 舞 踊 ア カデ ミー(SangeetNatakAcademi)のSMukherlee氏,BC.Ban-

sal氏,ボ ン ベ イ の 国 立 芸 能 セ ン タ ー(NationalCentreforthePerformingArts)のDB.

Biswas氏 に も感 謝 した い。

1総 論

論 考 の前 に,若 干 の術 語,固 有 名 詞 の説 明 が必 要 か と思 う。 まず 表題 と した 「イ ム ダ ー ド

・カ ー ニー ・ガ ラ ー ナ ー」 で あ るが,ひ と まず便 宜 的 に 訳 語 を付 け る な らぽ 「イ ム ダ ー ド ・

カ ー ン の楽 派 」 とな ろ う。 そ の楽 派 の後 継 者 で あ り,代 表 す る演奏 家 は ヴ ィ ラ ー ヤ ッ ト ・ヵ

一 ソ(1924~)で あ る。 彼 は,現 在 の イ ン ド古 典 音 楽 の世 界 に お い て,シ タ ー ル奏 者 と して

ラ ヴ ィ ・シ ャ ン カル(1920~)と 双 壁 を な す ぼ か りで な く,綿 々 と継 承 され て き た 音 楽 伝 統

*StudyofIndianMusic(V):ImdadKhaniGharana(Part1)

**KazuyukiFUNATSU(lndology,ShinshuUniversity)

***EmikoFUNATSU(Muslcology)

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そのものの権威と言っても過言ではない。そしてその楽派は,彼の祖父イムダート・カーン

の名前を冠した「イムダード・カーニー・ガラーナー」,あるいは,そのイムダード・カー

ンの住んでいたウッタル・プラデーシュ州の町イターワーを冠して「イターワー・ガラーナ

ー」と呼称されている。

 次に,「ガラーナー“gharana”」というヒンディー語であるが,普通には「家族,家庭」

の意味で用いられるが,音楽の領域では特殊な概念をもつ術語となる。いま便宜的に,共時

的な伝統共有集団の意味合いのある「楽派」と訳してみたが,元来「家」を意味する

“ghar”から派生したもので,より通時的な伝統継承集団を指す「流派」や特徴的な演奏ス

タイルの異同による「流」「流儀」,さらには継承者の血統が問題となる「家元」「宗家」「血

筋」「一門」などの概念とも重なる。したがって,その実質的な概念内容の確定も本研究を

進めるなかで必然的な主題となるが,ガラーナーそのものの詳論は別稿を期すことにして,

ここでは作業仮説的に「特定の“家”に属する音楽様式の特殊性」と規定したうえで,原語

「ガラーナー」のままで用いることにしたいエ)。

 本研究を概観する意味で,先述のパリーク氏より寄せられた研究総論『ヴィラーヤット・

カーンの貢献sを原文のまま以下に引く。

CeNTRIBUTIONS OF VILAYAT KHAN            Arvind Parikh

   The subject of this article is to analyse the relevance and importance of the project

undertaken to research in depth, the evolution and contemporary infiuence of the famous

and popular style of sitar playing, commonly known as “Vilayatkhani gharana”. How-

ever, it would be expedient to initially understand the basic tenets and norms which

qualify the “gharana” system and the role this system has played in evolutionary

processes of classical lndian music. Therefore we should examine issues like

 1. wnat’is a “gharana”, and

 2. What are its distinguishing features.

   Literally translated, a “gharana” basically means a family. The style of the gharana

rneans the style initiated by a particular family of musicians. By and large, the nomencla-

ture of the gharana or style is related to the city/town in which the initiating musician

resided such as Rampur, Gwalior, Patiala, Kirana, etc. These were all important city-

states of medieval lndia ruled by knowledgeable patrons of music. On the other hand

when a particular musician added an outstanding dimension to a particular style of vocal

or instrumental music, then his gharana is known by his name. E.g. lmdadkhani gharana

or PandiLL Ravishankarj i’s style of sitar playing etc.

   In essence, a gharana is established through the medium of specialization. Any

musical performance can be divided into the “matter” or ‘babat’ i. e., what you play and

the “manner” of playing or the ‘tarika’ i.e., how you play. lt is commonly believed that

whilst the various gharana-s have common denominators in the area of the ‘matter’

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イムダード・カーニー・ガラーナー(その1) 3

which could cover even the rag forms, the technique utilised for the presentation of the

raga would differ from gharana to gharana and in fact, this results into specilization to

which we have just referred.

   The next question to be considered is the utility of the gharana system or the role

that the system should or could play. As already mentioned, specialization is the essence

of gharana. Such specialization projects itself through

 (a) emotional content

 (b) the structure of raga presentation-varying importance of different stages of

   development

 (c) relative emphasis of literary compositions

 (d) preference in the choice of raga-s

 (e) their presentation through different tala-s (rhythmic cycles) with varying speeds,

   and

 (f) the development of differing’techniques of voice production.

   It would be appreciated that the gharana system which is a culmination of different

processes of specialization, is not only necessary but highly beneficial to the evolutionary

processes and ulPimate crystallization of musical style. ln reality, it takes two or three

generations for various elements of gharana system to mature and it is truly said that a

gharana cannot establish itself in a few years i. e. during the life-time of the initiating

muslclan.

   The processes of specialization have resulted into establisment of gharana-s (called

bani-s in the ancient times) in both, the vocal and instrumental techniques. ln the

contemporary scene, there are about 5 or 6 main or basic gharana-s and several sub-

gharana-s or offshoots of styles from the main stream. ln instrumental music, the

gharana system seems to have matured in some instrumental styles-instruments which

have been deeply researched upon and are versatile. We could cover sitar, sarod and

tabla in categories of instruments wherein we find distinct and easily discernable styles

or gharana-s.

   As in vocal music, we notice that, each of these instruments viz. sitar, sarod and

tabla have evolved 4 or 5 maj or styles or gharana-s. During a recent seminar held in

Bornbay (September 1990), it was noted that there are as many as seven different styles

of sitar-playing-some more established and popular than others. Amongst the rnore

popular style, Vilayatkhanj style of sitar-playing has undisputedly a large following. A

substantial number of talented young sitar players who have made their mark, belong to

Vilayatkhani gharana.

   It would be therefore easily appreciated that a well-planned and well-supported

research project to study the evolution and resultant establishment of this important

gharana is extremely essential. There are several reasons which support this contention.

1. Ustad Vilayat Khan is the sixth generatien in an unbroken line of musicians who

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 have nurtured and developed this gharana. The ‘Mul-purush’ or the initiator of this

 gharana was Sarojan Singh followed by his son Turab Khan-his son Sahabdad Khan

 -his son lnayat Khan-his son Vilayat Khan. Shujaat Khan, his son and well known

 sitar player, completes the framework of seven generations of this gharana.

2. lt is belived that Sahabad Khan had invaluable contributions to rnake in the inven-

 tion of Surbahar-an instrument of the sitar family, larger in size and deeper in tone,

 more suited to alap playing rather than faster movements in gat-s or tan-s.

3. The fact that Vilayatkhani style, before it was firmly established was known as

 Imdadkhani style, is clearly an indication of the changes and improvements brought

  about by the great Ustad lmdad Khan in sitar-playing. lt is believed that he introduced

 sympathetic strings on sitar and combined the hitherto separate forms of gat-s, slow

  and fast, played separately by sitar players. ln other words, the sitar presentation was

 moulded by lrndad Khan into one whole, covering all stages of a full and complete

 development of the raga, Ustad lmdad Khan introduced many new bol patterns (sound

 patterns through clever and intricate use of the plectrums).

4. Ustad lnayat Khan, the illustrious son of Ustad lmdad Khan; made sitar an extreme-

  ly popular instrument and trained over hundred students in his life time一一一一basieally in

  Bengal. ffe was responsible for introducing further embellishments, affecting the tonal

  quality of sitar, introducing tihai-s as an adjunct to tan-playing and so on. His

  meditative and devotional approach to music had tremendous impact and influence on

  the contemporary musical scene and sitar became a household word in and around

  Calcutta.

5. Ustad lnayat Khan’s son, Ustad Vilayat Khan becarne an important milestone in the

  march of progress of lmdadkhani gharana. So great, important and revolutionary were

  the changes introduced by Ustad Vilayat Khan, both in the physical and stylistic

  aspects of sitar-playing thatthe followers and admirers of this style aptly called it the

  Vilayatkhani gharana. ln the physical evolution of sitar, Ustad Vilayat Khan changed

  the quality of wood, the tabli (on which the bridge rests), the height and the Surface-

  quality of the bridge itself, the techniques of joining various parts of the sitar-

  especially the tumba or gourd to the dandi or the main stem of sitar, the curvature of

  the tar-gahan or the upper resting frame for the strings, the metal and thickness of the

  frets and the quality and thickness of the strings. These are all fundamental changes

  that Ustad Vilayat Khan made to give to this versatile instrument a distinct sound and

  tone-very special and unique to his style. Above all, the revolutionary change that

  Ustad Vilayat Khan made was the removal of “mandra” (lowet octave) “pancham”

  string and replacing it by steel string tuned differently in Ga, Ma or Pa according to

  the raga played. The sitar makers today, have two distinct categories of sitar-s-one

  belonging to Ustad Vilayat Khan’s gharana and the other one to Pandit Ravishankarji’

  s style.

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イムダード・カーニー・ガラーナー(その!) 5

  Apart from the physical changes made by Ustad Vilayat Khan which made his sitar

a unique instrument, the stylistic changes that he made in sitar-playing were once again

quite remarkable. He converted the style of sitar-playing hitherto based more on the

instrumental techniques with the right hand acquiring a dominant role, into a lucid lyrical

‘gayaki-ang’ style (vocal music style), with a continuous fiow of musical phrases which

are quite difficult to execute on a plucking instrument like sitar. Light classical music

was played on the sitar through the execution of Razakhani gat-s or dhun-s. Ustad

Vilayat Khan introduced specific light classical forms like thumri, dadra, chaiti,

bhatiyali, barsati, baul and kirtan-s on the sjtar. ln other words, a new dimension was

added to the forms like Masitkhani and Razakhani gat-s played on the sitar through the

introduction of independently played light classical forms, as individual items.

  The above mentioned detailed analysis of the contribution of Ustad Vilayat Khan

makes it abundantly clear why a specific project of research into the Vilayatkhani

gharana is not only useful but essential for aspiring students of music in general and of

sitar in particular. A planned effort to analyse and highlight various features of this

gharana would be very rewarding as Ustad Vilayat Khan is truly described by many as

“the musician of this century”.

2 声楽様式の発展モデル

 ガラーナー,あるいはガラーナーの先駆的形態は,具体的には,ドゥルパッドやキヤール

といった声楽様式の成立・展開のな:かで誕生するのであるが,それは純粋に音楽的な展開の

必然ということをかならずしも意味しない。それは,芸術音楽そのものとその職能集団の成

立とに深く相関しており,同時に,音楽家個人ないし音楽家集団に対する社会環境の変化に

呼応していると思われる。言い換えると,ガラーナーの検証は音楽的なスタイルの面と社会

的なシステムの面に関して向けられねぽならない。

 そこで,まず声楽様式の流れを概観する必要があるのだが,この作業は実は絶望的に難業

である。西洋古典音楽のような形では楽譜というものが存在せず,文献自体の年代特定が困

難なため実証的な方法論が採れない状況で,その音楽実態が分かっている声楽様式や名称や

特徴などを記述する音楽文献だけ’から,通史を再構成する作業は,なんらかの作業仮説的な

モデルに基づき考察するという方法論を採用する他はない。

 スリーヴァスタヴァは,そのドゥルパッド研究のなかで,インドの声楽様式の展開を,古

典音楽とポピュラー音楽(あるいはアヴァンギャルド音楽)という2つの音楽のカテゴリー

の弁証法的な発展として理解しようとしている。「古典・ポピュラー弁証法」モデルと命名

しておこう。

  この第1のものは,伝統的で社会的に公認されているもので,第2のものは公認を得よ

 うと躍起のアヴァンギャルド・タイプである。その伝統的で確立された音楽は音楽通とい

 うエリートの聴衆を対象にし,エリートにより評価される。これとは反対に,アヴァンギ

 ャルド音楽は普通は素人向けで素人に喜ばれる。前者のタイプの音楽を古典音楽といい,

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 後者をポピュラーという。……古典音楽へのアンチテーゼとしてのポピュラー音楽は,洗

 練度や発達度には欠けるにもかかわらず,(吉典音楽ほどは)構成がしっかりしていない

 がゆえに自然さや即興性に対して大いなる余地がある。時間の経過のなかで,伝統的音楽

 はその新鮮さを喪失し,人気を失い,多かれ少なかれ廃れてくる傾向がある。一方,アヴ

 ァンギャルド音楽はだんだん公認されてくる傾向となるが,同時に構成もよりしっかりし

 てくる。アヴァンギャルド音楽は音楽通の間でも徐々に受け入れられてきて,結果的には

 「体制的」となり,そのゆえに尊重もされる。……このように以前は第2のアヴァンギャ

 ルドの部類に属していた音楽が今や第1の部類,古典音楽になる。アヴァンギャルド音楽

 が古典として受け入れられつつある一方で,また別の音楽形式が生まれ,音楽の世界での

 自らの場を見いだそうと躍起となる。このような事の成りゆきの反復的な周期が変わるこ

 となく続き,人間が絶えずその創造力の新しい表現方法を探しだし,時の経過とともにあ

 まりにも規則で固まってしまいそのヴァイタリティと創造力を失ってしまったような音楽

 の形式を忘却の彼方に常に押しやらなけれぽならないという自然の法則を例証しているよ

 うに思われる2)。

 このモデルは,明快すぎる印象もあるが,異体的にドゥルパッド,キヤール,トゥムリー

という声楽形式の消長や,シタールの演奏スタイルにおける変遷を検討する上で,非常に示

唆に富む。インド音楽史上の主要な古典的な声楽形式の展開は,このモデルによれば以下の

ような見取り図になる。囲みのペアが,ある時期における,確立期から衰退期にある古典音

楽のカテゴリー(上段)と,誕生から確立期にあるアヴァンギャルド音楽のカテゴリー(下

段)とを示す。矢印の音楽文献名,皇帝名などは非常に大まかな年代の目安にすぎない。☆

印は現在まで音楽実態が継承されているものを示すが,その他の形式は文献で特徴なり構成

なりが言及されているだけで,音楽実態は不明である。(図表1)

 この見取り図において,最初の音楽的な形式としてノミネートされているサーマ・ガーナ

とは,バラモン教の宗教的祭式における神々への讃歌サーマ・ヴェーダの詠唱であり,メリ

スマ唱法やスキャット唱法に当たるような技巧をもち,同一の讃歌をさまざまな旋律に載せ

る表現力豊かな詠唱で,今EIIに至るまで3000年もの時間を経て継承されてきており,インド

古代の音楽実態を窺うことができる3)。この「聖なる音楽」の伝統を継承しているのはカウ

トゥミーや派,ラーナーヤニーや派,ジャイミニーや派というバラモンの特定の歌詠祭官の

集団であるが,この集団や伝統が,先に挙げたガラーナーの要件をかなり満たしているにも

かかわらず,ガラーナーの先駆的な形態であるとすることはでぎない。これは,サーマ・ガ

ーナが,その質においてあくまで,ごく少数の社会的エリートである祭官というアルティザ

ンによる音楽的宗教行為であるからである。これはわが国においても,最近いくら国立劇場

などで公演する機会も多くなってきても,声明を詠唱する僧侶たちを芸術音楽家と呼ぶには

少し違和感があり,真言宗豊山派声明とか天台宗声明とか呼称するからとはいえ,弘法大師

や慈善大師円仁を家元のお師匠さんと呼んではそれこそ罰が当たろうというものである。

 文化一般,宗教にも芸術にも適用できる,名付けて,「中庸としての古典」モデルという

のも有効と思われる。これは,社会的特権階級の間の体制的な「大伝統」に対して,常に底

流をなす無名のマスとしての庶民の「小伝統」を想定して,この2つの伝統間の相互の影響

力,エネルギー的な引力の強弱均衡によって,その2つの伝統の中間の文化領域に,明確な

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イムダード・カーニー・ガラーナー(その1) 7

サーマ・ガーナ☆

ヴェーダ

C-10C)

サーメータラ

後期ヴェーダ

 (一5C)

ガーンダルヴァー

『ナーティヤ・シャーストラ』

     (一IC-vlC)

ドゥルヴァー

 )』C}

8

 (

シデドツハeリレ

プラバンダ

「サンギータ・ラトナーカラ』

       (13C)

ドウノレパツド☆

アクバル(在1556-1605)

キヤール☆

トゥムリー☆

ランギーレー(在1719-48)

 ワジッド・アリー・シャー(1822-87)

現代

(図表1)

内容と自:立性を備えた文化形態が発現してくる,という原理を設定するものである。抽象的

な表現で言えば,「大伝統」とは男性原理的なロゴス,核,秩序,理論であり,「小伝統」と

は女性原理的なマテリア,カオス,実践であり,その相互影響により明確なフォルムと内実

をもつ結晶が形成してくるのである。中間の文化領域とは,何の誰兵衛という名をもった個

人,文化人の領域であり,その文化形態をその自立性により「古典」と言い換えることもで

きよう。

 宗教に関して適用すれぽ,ヴェーダを金科玉条とする体制的な儀式宗教バラモン教と極く

少数の僧侶階級バラモンの伝統である「大伝統」に対して,アニミズムや地母神信仰,聖樹

信仰といった形態の不明確な庶民の民間信仰の「小伝統」が拮抗している。しかもその「小

伝統」に,インダス文明にまで湖るとも思われるシヴァ神信仰,男根崇拝,沐浴,あるいは,

マトゥラー地方のクリシュナ信仰なども含めうるとすると,「古典」としてのヒンドゥー教

自体の性格も明確に理解できる。ただし,この宗教的な「古典」はグプタ朝中期以降は限り

なく小伝統に近い位置を占めるようになっていると言えよう。

 一方芸術に関して適用すれぽ,ヨE侯貴族やバラモンという少数エリートのための権威的な

サンスクリット文学や神聖演劇,神聖舞踊4),神聖音楽という大伝統に対しては,民衆の生

活言語による説話,生活のレベルでの民謡や芸能や大道芸などが小伝統を形作っている。そ

して,その中間領域にこの2つの伝統の引力の大小に応じた位置に,まさに「中庸としての

古典」が形成されてくると理解される。文学の例をひとつ取ってみても,ラーマ信仰文学最

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高傑作であるアワディー方言のヒンディー語で書かれたトゥルシーダースの『プーマ・チャ

リット・マーナス』(1574年)にもやはり,サンスクリット語の権威的な叙事詩『ラーマー

ヤナ』の大伝統と庶民の間に高まっていた熱烈なラーマ信仰の小伝統を確認することができ

る。

 さて,章を改めて,ドゥルパッド,キヤール,そしてトゥムリーという声楽様式の成立背

景や特徴を考察することにするが,ガラーナーの形成には,それを可能にした音楽家と音楽

集団に関する社会的要件を確認しておくことが必要である。ガラーナーの社会的なシステム

に関するアスペクトである。

 それは,まず第1に,「古典」としての芸術音楽という在り方のいわぽ社会的な認知とい

う問題であり,第2に,それに携わる音楽家に対する社会的な肯定的評価の問題である。そ

の要件が整わない限り,ガラーナー一という概念は音楽現象に現れてはこない。

 インド古代において,音楽的な職能集団はかなり早い時期に登場してはいたが,けれども

それは,小伝統の担当者である庶民のエンタテインメントとしての歌舞音曲を生業とする芸

能集団,ストリート・ミュージシャンで,彼らはいわゆる「河原乞食」的なカテゴリーに属

し,大伝統の擾当者であるバラモン祭官とは対極の社会的に最下層に属するものであった。

明るくあっけらかんと「職業に貴賎あり」とするカースト制度のイデオPギーは,自然発生

的な職能集団に対してバラモン教特有の浄不浄観に基づいた社会的ランキングを考察し,そ

のランキング下降と賎職種の起源を混血による堕落の産物であると説明する。

 『マヌの法典iによれぽ,バラモン,クシャトリア,ヴァイシュヤ,シュードラという4

種姓(ヴァルナ)の混血は厳しくタブーで,男性の方が上位の混血(アヌローマ)には比較

的寛容ではあっても,女性の方のヴァルナが上位の混血(プラティローマ)の場合は,社会

的な制裁として,その子供たちはすべて最下級に格下げとなる。さらに混血を繰り返すとア

ーリや人社会から排斥され,賎業に就かされる。父親がヴァイシュヤで母親がバラモンとい

うプラティP一マにより生まれた父親と,父親がバラモンで母親がヴァイシュヤというアヌ

ローマにより生まれた母親とから生まれる子供は,ヴェーナと呼ばれ,楽器の演奏に専従さ

せられる。

 「されどクシャットリ,ウグラ及びプッサカには穴居(動物)を捕へて殺すこと,ディグ

 ヴァナには革職,ヴェーナには楽器を奏すること」5)

 この他にも,ナタとかロームなど多くの賎民芸能集団もあったが,こうした価値観は今日

まで痕跡を残しており,世界的に有名な巨匠たちは最大級の敬意は払われているものの,イ

ンドにおける音楽家全般の社会的地位は一般的に低いと言え,そのなかでも特に革を用いて

いる太鼓や弦楽器の音楽家の地位は数段低く,例えば,同じ伴奏音楽グループにあっても,

革を胴の一部に張ってある弓奏弦楽器サーランギーの演奏家が,他の音楽家が座る絨毯から

一人外れて最後列に座り演奏している光景を何度も閉にした。

 このような伝統的な芸能集団の構成員は現在でもその生業としての歌舞音曲の業を世襲し

ていくことになるが,この小伝統に属するエンタテイメントの音楽伝統に,ガラーナーとい

うような現象が問題にされないことは無論のことである。

 こうした状況が劇的に変化したのは,1206年目デリーに成立したトルコ系ムスリム王朝,

いわゆる奴隷王朝以降のことである。宗教の場に歌舞音曲を認めないイスラムにあっては,

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イムダード・カーニー・ガラーナー(その!) 9

宗教の場に儀式音楽を許容するヒンドゥー教と違って,長い伝統を誇るアラビアやペルシャ

文化の「雅び」の舞台の機能を果した宮廷に「中庸としての古典」の芸術音楽が成立した。

勿論,音楽家や舞姫たちはスルタンたちの進物品のリストには載っていたが,そこでは,音

楽というジャンル,そして音楽家というプロクェッションが社会的に相応に認知されていた

と言ってよいだろう。インドにおけるムスリムの起源を見てみると,4種ある。第1は,支

配者としてインドに入ってきたトルコ系,アフガン系の子孫であると主張するグループ,第

2に,ヒンドゥー上層階級からムスリム支配層に加おった改宗グループ,第3に,ムスリム

支配下で庇護を受けて改宗した職人グループ,最後に,ヒンドゥー社会のカースト制におけ

る不可触民の地位から逃れるために改宗したグループ,の4つである。この第2,第3のグ

ループに音楽家や音楽職能集団も含まれるのであり,カラーヴァント,ダーリー,ミーラー

シーやカッヴァールといったコミュニティーが成立した。その後,特に北インド各地のヒン

ドゥー宮廷でも,この影響を受けて,バラモンが音楽を独占していた大伝統と大道芸人の小

伝統の間に芸術音楽と芸術音楽家が誕生したのである。インド音楽史上に,アミール・クス

P一 Cゴーパール!ナーヤカ,あるいはターンセーンというように,音楽学者ではなく,実

践音楽家,声楽家の名前が登場してくるのは実にこの時期以後のことである。因みに,ヴィ

ラーヤット・カーンの層々祖父トラーブ・カーンは,その父の名前がサP一ジャン・シンハ

というヒンドゥー一一名であることから理解できるように,彼の代でヒンドクーからムスリムに

改宗したと思われ,おそらくはヒンドゥー社会の芸能カーストからムスリムの芸能コミュニ

ティーのミーラーシーに属するようになったのであろう。

 もうひとつ,この文脈で触れておかねぽならないことは,この「中庸としての古典」が形

成された場は,中間領域でも大伝統に近く位置する「宮廷」とはかならずしも限らず,より

小伝統に近い場,すなわち,ヒンドゥー文化圏では,デーヴァダーシーと呼ばれた寺院付き

舞姫(娼妓)の根拠地のヒンドゥー寺院であったり,ムスリム文化圏では,タワーイフとか

ナーチワーリー(あるいはノーチガール)と呼ばれた舞姫のサロン「コーター」やプライヴ

ェー gな音楽会「メフフィル」でもあった。宮廷音楽家であっても自由にこうした場に出入

りして,舞姫,唄姫とともに「古典」を結晶させていったのである。メフフィルの主催者で

ある金持ちの市民やタワーイフが音楽家のパトロンとなることもあった6)。特に,パラタナ

ーティヤムやカタックやマニプリといった,いわゆるインド古典舞踊の形成には,切っても

切れない密接な関係があった。

 さて,このような社会的環境,社会的変化を背景に,「中庸:としての古典」の芸術音楽の

形態として初めて承認されたのが,ドゥルパッドであった。そして,ガラーナーの先駆的な

形態である「バーニー」もドゥルパッドにおいて形成されるのである。

3 ドゥルパッド,キヤール,そしてトゥムリー

 ここでは既述の「古典,ポピュラー弁証法」モデルと「中庸としての古典」モデルを念頭

に置きながら,音楽実態の知られているドゥルパッドとキヤールとトゥムリーという芸術声

楽形式の成立を考えてみよう。この検証が,本稿の主題と不可分に係わるもののあることは,

論考の過程で明らかになるであろう。

 よく言及される俗説では,実際には時代的にもう少し下がると想定されるにもかかおらず,

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10

キルジー朝のアッラーウッディーソの宮廷音楽家アミール・クスP一(1253-1325)をドゥ

ルパッドの創始者とする。いわゆる俗説,通説の類は一片の真理どころか,多分の真理をも

つこともありうる。アミール・クスローは北インド音楽史に登場する最初の巨匠である。俗

説によれば,楽器ならシタールもタブラーも,声楽ならぼドゥルパッドもタラーナーもカッ

ヴァーリーも,そしてキヤールさえも彼の創意になるものと言われ,サーーズギリ,ジラフや

ファローダストといった新ラーガやシュールタールやファローダストタールといった新ター

ラも彼の功績である。これは前章で考察した音楽に関わる歴史的な背景を象徴しているので

ある。以下でも大いに俗説,通説を活用することにしよう。

 さて,スリーヴァスダヴァによれぽ,最初期のドゥルパッドは,庶民の間に熱病のように

広まった,ヴァッラバ(1473-1531)によって唱導されたクリシュナ神への・》ティ(絶対

的帰依)運動を背景にして成立した宗教色の強い「寺院ドゥルパッド1であるという。その

後,それがヒンドゥーやムスリムの支配者の宮廷に入り,その庇護のもと洗練され,世俗的

性格ももつようになり,「宮廷ドゥルパッド」を形成したという。

  ドゥルパッドが誕生したときには,ヴァッラバ派のバクティ運動が最高潮であった。ラ

 ーマやクリシュナやラーダーといった,そのすべての権化の形でのヴィシュヌ崇拝がヴァ

 ッラバ派の中心テーマであった。そのため,当然ながら,最初期のドゥルパッドはまた宗

 教的な性格であり,特にヴィシュヌとその権化を賞賛するものであった。ヴィシュヌとそ

 の権化を賞賛するこれらのドゥルパッドはヴィシュヌ・パダと呼ばれた。このように,そ

 のバクティ運動がドゥルパッドの誕生時の背景を形作っていたことが想像できる。このこ

 とからドゥルパッドが直ちにバクティ信仰の普及の手段として採用された理由が理解でき

 る。ヴィシュヌ派の遊行者がヴィーナーを手に放浪し,宗教歌の形のドゥルパッドを唄う

 ことは普通であった。これがハヴェーリー・ドゥルパッド,つまり「寺院ドゥルパッド」

 の発生である。そのドゥルパッドが当時のヒンドゥーやムスリムの支配者の関心を引き,

 ドゥルパッドがその宮廷,つまりダルバールに場を見いだし始めたのは,ほどなくしてか

 らであった。ダルバールは音楽,芸術,文化の育成に適した環境を提供し,このようにド

 ゥルパッドはこの新しい庇護者のもと盛んになりだした。このことから,ダルバーリー・

 ドゥルパッド,つまり「宮廷ドゥルパヅド」と呼ばれるドゥルパッドのもうひとつの形の

 発展が説明される。ダルバーリー・ドゥルパッドは諸王や封建領主の宮廷で発達したので,

 それが専ら宗教的なテーマを第1の任務とすることを止めて,宗教的でないテーマもまた

 扱うようになったのも至極当然のことであった。いまや,ドゥルパッドはさまざまな王や

 庇護者たちの,実際にあった,あるいは想像上の武勇伝を賞賛して,そしてナーヤカやナ

 ーイカーたちを描写して書かれるようになってきた7)。

 ヴァッラバの哲学は,純粋不ニー元論と呼称され世界原因であるブラフマンと同様に,こ

のわれわれ個我もこの現象界も実在で,その本性は隠蔽されてはいるが純粋であるとして,

現世を肯定する。解脱とはその隠蔽の原因である無知を取り除くことで,その方法には知と

バクティがあるが,後者のほうがより優れた「神の恩寵の道」であると説き,民衆をヴィシ

ュヌ神の権化であるクリシュナとその愛人ラーダーへの熱狂的なバクティへ駆り立てた。ク

リシュナへの賛歌である「寺院ドゥルパッド」は,以前からクリシュナ信仰の強かったクリ

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イムダード・カーニー・ガラーナー(その1) 11

シュナの故地ヴリンダーヴァンの聖者たちの間で唄い継がれた。聖者スワーミー・ハリダー

スやその弟子と言われるバイジュー・バーウラーなどがその代適格であろう。

 一方,「宮廷ドゥルパッド」は,マルワー地方のグワリオールの藩王マーン・シンフ「ト

ーマル(歯跡)」(在1486-1516)に理想的な庇護者を見いだした。彼自身作曲もし,たびた

び音楽シンポジウムを催し,さらには多くの著名な音楽家を擁iした音楽学校も設立していた

と言われる。ペルシャにまでその名を響かせたあのナーヤカ・バクシューも彼の宮廷音楽家

という。かくて,マーン・シンフをドゥルパッドの創案者として言及する伝統もでぎたと思、

われる。

 その後,やはりグワリオール生まれのバーバー・ラーム・ダースや伝説的なターンセーソ,

あるいはブリジュチャンドなどが,当時最高の晴舞台であるムガール帝国第3代皇帝のアク

バル(在1556-1605)の宮廷で活躍して,ドゥルパッドの黄金時代を築いた。

 「ドゥルパッド」の語義は,もともとサンスクリット語“dhruva+pada”に由来し,

「ドゥルヴァ」(固定された,不変なる,永遠なる)+rパダ」(詩節,座)から,この形式

のもつ2つの性格が読み取れる。ひとつは,「固定された憂節」の意味を表し,主題の詩節

が無変化で繰り返し歌われる形式,詩節の内容(サーヒッティヤ)を重視する性格であるこ

とが示唆されており,第2に,「神の座」の意味にもなり,その内容が神を讃える声楽であ

ることを示している8)。

 ドゥルパッドの特徴が,その表現において非常に男性的で重厚で厳かで,装飾音もグリッ

サンドを除いては許されず極めてシンプルであって,男声の雄々しさがふさわしい形式であ

ることは,,ドゥルパッドの女性の声楽家が皆無であることからも理解される。

 この時期に,ドゥルパッドの歌唱スタイルに初めて,ガラーナーの先駆的な形態,特定の

地域を中心に特定の音楽家の個性的な歌唱スタイル(バーニー)が規範となり,その特徴を

共通のスタイルとする音楽伝統が明確な形をとり,互いに区別されるようになった。4つの

バーニーと特徴は次のようである。

(1)ゴーバルハール・バーニー(ガゥディー/ガウダハール・バーニーとも呼称される)

  ゴーバルハール,すなおちマッディヤ・プラデーシュ州グワリオールを中心とした伝説

 的なアクバル大帝の宮廷音楽家ミヤーン・ターンセーン(1532-95/1506-89)9)のスタイル

 で,伝統的でゆったりとした唄いぶりで,「静寂の情調」の表出を得意とした。

(2) ケンダール。バ一八ー

  ラージャスターン州のケンダール出身のミスリー・シンフのスタイル。彼は,後にムス

 リムに改宗してナウバット・カーンと改名し,ターンセーンの娘サラスヴァティーと結婚

 した。旋律の豊かさと「雄々しさの情調」の表出を得意とした。

(3) ダーガルバーニー

  ラージャスターン州のダーガル出身で,やはりアクバル大帝に仕えたブリジュチャンド

 のスタイルで,「甘美の情調」と「悲しさの情調」の表出を得意とした。

(4) ノウノ▽レ。ノミーーニー

  デリー近郊のノウハルを中心とするシュリーチャンドのスタイルで,簡潔な唄いぶりで,

 「驚きの情調」の表出を得意とした。

 現在インドにおいてドゥルパッドの代名詞であるダーガルー族は,このダーガル・バー二

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12

一の第19世代となる10)。しかし,その他のバーニーの伝統は途絶えてしまったり,あるいは,

後続のキヤールの伝統に吸収されてしまったりして,今日には伝わらず,実際にスタイルの

相違を確認することはでぎない。このバーニーが,あくまでガラーナーの先駆的形態として

言及され,ガラーナーとして扱われない理由の一つはこの点にあると思われるし,また,キ

ヤールのように,容易に他のスタイルと区別ができるほどの明確な特徴や多くのアスペクト

における相違が確立していなかったとも考えられる。

 さて,その後,ドゥルパッドは,歌舞音曲を排除したムガール第6代アウランゼーブ(在

1658-1707)の時代を経て,徐々に衰退し,それに替わってより宗教色も少なく,その表現

においても,さまざまな装飾音技法が許され,より軽やかで華麗なキヤールという新しい声

楽様式が台頭してきた。「キヤール」の語義には,いくつかの説がある。最も普通には,ア

ラビア語,ウルドゥー語でF空想,創造力」を意味するものと説明されるが,さまざまな形

と技巧で即興展開していき,その詩節の内容の伝達はドゥルパッドと比較するとあまり重要

ではなく,二二はいわぽ旋律の乗り物として扱うというキヤールの性格をよく象徴している

と思われる。また,ラージャスターン地方の芸能に由来すると思われるヒンディー語の

「唄」や,サンスクリット語の「遊戯」に由来すると説明されることもある11)。

 通説によれぽ,第12代モハンマド・シャー「ランギーレー(華麗王)」(在1719-48)の宮

廷音楽家のニヤーマット・カーン・サダーラングがキヤールの創案者とされる。華麗王の時

代には,その宮廷には数えるほどのドゥルパッド歌手しかいなかったと言われ,まさにその

主役交代の分水嶺であった言って良いだろう。

 ジャイラズボイは以下のように述べている。

  シャージャハーンの治世に続いたのがアウランゼーブのそれであった。後者は音楽も愛

 好し,理論にも通じていたが,彼はイスラムの教義を遵守すべく禁欲生活を選び,すべて

 の快楽を放棄し,芸術の庇護者たることを止めた。音楽家たちはムカ㌧ル宮廷を去ること

 を余儀なくされ,より小さな地方の宮廷に生計の場を求めた。音楽がかつての栄光の幾分

 かを取り戻したのは,後のムガール皇帝であるバ・・一ドゥル。シャー(在1707-12)やム

 ハンマド・シャー(在1719-48)の時代になってからであった。ムハソマド・シャーの治

 世は諸問題に悩まされ,ムガール帝国は急速に没落しつつあったにもかかわらず,彼は音

 楽に非常な関心を示し,たしなみのある声楽家にして作曲家でもあった。おもに,モハン

 マド・シャーの自らの尽力とサダーラソグとアダーラングという二人の優れた彼の声楽家

 の作品のおかげで,キヤールは最終的には表舞台に登場し,現代のレバートリの重要な部

 分がこの源泉に始まるのである12)。

 ニヤーマット・カーンをキヤールの創案者とする通説の他にも,その母胎を純インド古代

の声楽形式に直結させるものもあれぽ,アミール・クスローが導入したと言われるペルシャ

やアラビアのイスラム宗教歌カッヴァーリーとするものもある。ニヘンブイスは,シャルキ

ー創案下説を採用しつつ,比較的に早い時期に,つまりドゥルパッドと相前後してキヤール

も発生し,平行的に洗練されたと考える。

  15世紀に,キヤールは特にジャウソプルの宮廷で洗練された。ガンダルヴァの称号をも

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イムダ・・一一ド・カーニー・ガラーナー(その1) 13

つフセイン・シャー・シャルキー(1457-83ジャウンプルのスルタン,1484-1517ビハール

のスルタン)は音楽的天才だったと言われる。彼はキヤールの発展に多大な貢献をした

…… B!5世紀の終わりにかけてグワリオールのラージャーeマーン・シンフ・トーマルの

宮廷で流行った荘厳なドゥルパッドは,フセイン・シャー・シャルキーによって導入され

たより華やかなキヤール声楽様式に影響を受けた。キヤールは公にはドゥルパッドのよう

にはムスリムの富廷で庇護はされなかったが,スラージュ・カーン,チャーソド・カーン,

バーズ・バーハードゥル(アクバルの宮廷に加わった元マルワーの藩王)あるいはその妃

ループマティーといったアクバルの時代の音楽家たちはこの形式に非常に関心をもった。

この時期のキヤールはドゥルパッドの厳粛なスタイルも取り入れ,一般的に速度もスロー

であった。ドゥルパッドが引き続きなお優勢であったにもかかわらず,それはシャージャ

・・一ン(在1628-58)の治世の間にいっそうポピュラーになった。最終的にキヤールがド

ゥルパッドを一一reするのは18世紀半ばのことであった13)。

 そしてこの頃に,各地の宮廷の代表的なキヤール歌手の歌唱スタイルを規範とし,それを

その一族が継承していく音楽伝統が形成された。「ガラーナー」の起源である。その音楽的

な「特殊性」は次の章で取り上げることにして,最後の声楽形式トゥムリーに進もう。

 「トゥムリー」の語義は,「気取って歩く,踊りで足の鈴を鳴らしながら足をたたきつけ

るようにして歩く」という動詞から派生したものと説明されるが,トゥムリーがグングルー

という200個もの錫製の鈴のついた足並を鳴らしながら技巧的なステップを披露するカタッ

ク・ダンスと平行的に発展してきたことを考慮すると合点がいく。

 通説によると,ウッタル・プラデーシュ州はアウドの最後の大守(ナワープ)となったワ

ジッド・アリー・シャー(1822-87,在1847-56)のうクノウの宮廷が舞台である。このワジ

ッドは政治にはまったく意欲を示さず,その評価はすこぶる否定的,ありていに言えばボロ

クソであった。当時の政治状況を考えるなら「司情の余地は多々あるのではあるが,ともかく

イギリス政府は彼を政治的無能者として,強制的に退位させ,アウドをイギリスに併合した。

これが翌年1957年に起こったインド史上で有名なセポイの反乱の伏線となったことも周知の

通りである14)。けれども,というか,だからこそ,専ら文化の庇護者として自らを任じ,熱

狂した。彼はウルドゥー詩人にして,ウルドゥー演劇の父とも称され,カタック舞踊の名手

にして,トゥムリーの名シンガー・ソング・ライターとして讃えられている。彼の作曲した

トゥムリーも数多く伝わっており,今日でもよく唄われる。こういう状況証拠のもと,彼の

宮廷でこそカタック舞踊とトゥムリーが誕生したとされるのであるが,「中庸としての古典」

モデルで言えば,大伝統と小伝統の間に恰好の場を提供したのがワジッドということになる。

 プレーム・ラター・シャルマも,まさにこの場において,さらに官能的な恋愛詩を中心的

主題とする「作詩法文学」と呼ばれる新しい文学も加えて,トゥムリーという新しい声楽と

カタックという新しい舞踊が2つの伝統の間で平行的に形成されたと同一一の分析をしている。

  前述の詩文学(=「作詩法文学」)がほどほどの知性と能力をもった知的な中産階級に

 浸透するにつれて,当時のその人気のある詩文学を表現できる,そしてその中産階級の教

 養にふさわしい音楽形態への欲求が感じられたにちがいない。かくて,詩,音楽,舞踊の

 領域で,いずれもエロティックな傾向を備えた平行的発展がはっきりと目立つようになる。

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14

このことはトゥムリー一の起源をアウドの大守たちに帰するいかなる説をも妨げる事実では

ない。それは上述の三重の運動の経過のなかで展開してきた音楽形態であったわけで,関

連した発展から切り離して研究されうるはずがないのである。この階級の人々の詩文学は

ペダンティックでもまったくの平々凡々でもなく,その2つの極端の聞のひとつの妥協案

を象徴していた。音楽の領域においても,正統的な古典音楽とフォークミュージックとい

う2つの極端を妥協させる同様の発展がかくて社会的な要請であったし,それがトゥムリ

ーによって補われたのであった。トゥムリーはかくて詩文学において優勢な潮流の音楽に

おける表現であった。舞踊の領域にも同様の発展が起こった。カタックというタイプは正

統的な形態とフォークダンスの問の妥協案なのである15)。

 トゥムリーの特徴は,歌詞のアスペクトでは,恋愛を主題とし官能的な情緒を専門として,

ラーガより歌詞を重視する。その結果,音楽表現のアスペクトでは,キヤールの華麗で軽や

かな装飾技巧や発声法による表現を一層押し進めた。エロティックな情緒表現に適した軽い

甘美なラーガのみが好まれた。それは舞姫娼婦の唄の伝統につながり,同じく舞姫娼婦の舞

姫につながるカタック舞踊とともに登場した。現代のカタック舞踊の代名詞ビルジュ・マハ

ーラージュはトゥムリーの名手でもあり,彼の唄うトゥムリーは,その顔さえ思い浮かべな

けれぽ,なかなかに艶かしく,カタックとトゥムリーの関係と伝統を実感できる16)。

 布地に例えるならぽ,ドクルパッドがハンド・スパンの木綿の手触りの簡素さとすれぽ,

キヤールは金糸銀糸を織り込んだシルクのバナーラス・サリーの洗練さ,トゥムリーは小さ

な鏡を無数に埋め込んだシルクのレースのベールの肌触りの官能性,という感じであろうか。

 「古典・ポピュラー弁証法」モデルで言えば,現在のインドの声楽シーンは,華麗にして

端正なキヤールの黄金時代であって,宮能のトゥムリーは準古典の位置から古典昇格を虎視

たんたんと狙っており,片や渋いドゥルパッドはかつてのアピールを急速に失いつつあるも

のの,なお最も正統的なる声楽として頑張っているという状況と言えよう。

4 キヤールのガラーナー

 18世紀後半から形成されてきたキヤールのガラーナーには6つある。さきに,ガラーナー

を「特定の“家”に属する音楽様式の特殊性」と規定しておいたが,では,「特殊性」とは

何か,どうして「特殊性」が音楽表現に生じるのか,を考えていくために,器楽よりも長い

確固としたガラーナーの歴史をもつキヤールの「特殊性」の現れ方を確認しよう。まず,

各々の創始者に縁の深い町の名前が冠されている6つのガラーナーを概観しよう17}。

(1>グワリオール・ガラーナー

  ラクノウの宮廷音楽家であったミヤーン・グラム・ラスルを創始者とする。最も純粋な

 労いスタイル,つまり,先行するドゥルパッドと重なる要素を保持しているスタイルを伝

 えると言われる。グワリオールのダウラト・ラオ’・シンディア(在1794-1827)の宮廷の

 音楽家バーデ・モハンマド・カーンがキヤールにターン(走句)を初めて導入したと言わ

 れ,同じくグワリオールのバッドゥー・カrソ(一1870)とハッスー・カーン(一185!)の

 兄弟は,このスタイルを確立した実質的な創始者とも言われるほど名を馳せた。

(2)アーグラ・ガラーナー

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イムダード・カーニー・ガラーナー(その1) 15

  もともとアクバルの宮廷でターンセーンとも同時代人であったドゥルパッド歌手バッジ

 ・スジャソ・カーンを創始者とするが,3代臼のガッゲー・クダ・バクシュが実質的なキ

 ヤールとしてのガラーナーの創始者と言えよう。彼の声は,雄々しいドゥルパッドには不

 適であったようで,グワリオール・ガラーナーに学び,キヤール歌手として大成したとい

 う。その意味では,グワリオール・ガラーナーの分派とも言える。また,詩節の明瞭な発

 声やボール・ターン(詩心のシラブルを織り込んだ走句)を好む点で,ドゥルパッドの要

 素も残していて,それが特徴ともなっている。最大のスターはファイヤーズ・カーン

 (1886-1950)であった18)。

(3>デリー・ガラーナー

  創始者と言われるのが,かのサダーラング,ことニヤーマット・カーンである。彼は,

 スロースピードのキヤール・スタイルを考案したと言われる。このスタイルは,あらゆる

 種類の装飾音を用い,ロマンティックな唄いぶりという典型的なキヤールの特徴をもち,

 大いに聴衆にアピールした。

(4)パティアラ・ガラーナー

  これはデリー・ガラーナーの分派である。もともとデリー・ガラーナーに属するファテ

 一・アリー・カーンとアリー・パクシュの二人はデュオを組み,アッライヤ=ファットゥ

 の名前で北インド中で人気.を博したという。その後,彼らは故郷のパンジャーブ州パティ

 アラに戻り,デリー・ガラーナーの特徴であるロマンティックな唄いぶりを発展させ,独

 自のスタイルを作った。継承者は現在あまり多くないのではあるが,最大の特徴である,

 極度のロマンティシズムとウルトラ・スピードのターン(走句)の使用という点で,むし

 ろ次のトゥムリーに継承されているところに,このガラーナーの面目がある。

(5)イトゥラウリ・ガラーナー

  イトゥラウリはウッタル・プラデーシュ州のアリガール地方の小さな町の名であるが,

 誰に所縁のある町かは不明となっている。このガラーナーは,デリーとアーグラとグワリ

 オールの各ガラーナーのミックスしたものであり,独立のガラーナーとは多少言いにくい。

 代表的な音楽家にはアラディヤ・カーン(1855-1946)がいる。

(6)キラーナ・ガラーナー

  キラーナは,創始者バンデー・アリー・カーンの出身のウッタル・プラデーシュ州のメ

 ーラト地方の小さな町の名である。このガラーナーは他と比較して際だった特徴がある。

 それはバンデー・アリー・カーンに象徴される。彼はキヤールのみならず,当時高名な弦

 楽器ビーンの演奏家でもあり,シタールやドゥルパッドも巧みであった。弟子たちもキヤ

 ールとともにビーンを学ぶことも多く,ラッジャブ・アリー・カーンもそうした一人であ

 つた。このガラーナーのキヤールの特徴である甘美性や娯楽性は,バンデー・アリー・カ

 ーンの義父がグワリオール・ガラーナーのバッドゥ・カーンから受け取ったものであろう。

 このガラーナーの巨匠たちには,アブドゥル・カーリム・カーン(!872-1937)や,アミ

 ール・カーン(1912-74),現在ではビームセーソ・ジョーシー(1922一)などがいる。

 さて,どうして「特殊性」が生じるのかというと,まず第1に,音楽表現にとって決定的

な要因である「情調」(ラサ)の好みにガラーナーの個性が顕れる。「ラサ」とは音楽も含め

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た,インド美学において最も重要な芸術行為のモティヴェーシ・ンと言ってもよい概念であ

る。ラーガという限定された楽音による旋律で,いかなる種類のラサ体験,つまり,情緒を

媒介とした美的体験を追及するのかによって,音楽表現の提示の仕方が規定されるのであ

る19)。例えば,アーグラ・ガラーーナーは「雄々しさのラサ(情調)」を求めるため,パワー

溢れた男性的な表現を必要とするし,パティアラ・ガラーナーは「エロスのラサ」のため,

ロマンティックで宮能的な表現に訴えるし,一方,キラーナ・ガラーナーは「静寂のラサ」

や「献身のラサ」表出のため,優しく柔らかく穏やかにそしてシリアスに旋律を展開してい

く。また,それらに適したラーガを当然選択することが伝統となり,ガラーナーごとのお気

に入りのお得意のラーガというものができてくる。

 それは,例えば,アーラープ(ターラを伴わないラーガの提示部)の長短や内容,ターン

の使用法,歌唱の速度の緩急といった具体的な音楽的な表現の相違になって当然現れる。ア

ーグラ・ガラーナーではアーラープにはさほど重要性を置かず短いが,キラーナ・ガラーナ

ーにとってはアーラープは極めて重要で,長い時間をかけて一音一音丁寧に知的に展開して

いく。パティアラ。ガラーナーではアーラープは短く,得意の速いターンでエPスの高揚を

表す。

 歌詞である詩病(サーヒッティヤ)の扱いにも相違が出てくる。ドゥルパッドの影響の残

るアーグラ・ガラーナーやグワリオール・ガラーナーでは,バンディッシュ(サーヒッティ

ヤに基づいて作曲された楽曲)を重視し,言葉を丁寧に扱うのに対して,キラーナ・ガラー

ナーは楽器にも親しんでいることもあってか,サーヒッティヤよりも楽音の展開を優先する。

 リズムや速度の緩急に関しても,キラーナ,ガラーナーば「静寂のラサ」表出のためには,

極度に遅いテンポをとる。」=56位の速度の4拍分を1拍とした超スP一のテンポである。

正確にそのテンポを維持するのは至難の技である。また,グワリオール・ガラーナーやアー

グラ・ガラーナーの典型的なヴィランビット(緩速度の楽曲)のエークタール(12拍子)の

テンポは」=56位の速度の2拍分を1拍とする。

 さらに,発声法も各ガラーナーの創始者や代表的な音楽家の声質に適した様式が確立して

いる。アーグラ・ガラーナーではハスキーであまり弾力のない,しかしながら厚みのあるフ

ァイヤーズ・カーンの声質に,キラーナ・ガラーナーでは音の微妙な変化を巧みに表現する

華やかでシャーープなアブドゥル・ワヒード・カーン(一1949)の声質に適した様式が伝統に

あり,現代の音楽家もその声質に近づくように努力を重ねることになる。

 以上,声楽のガラーナーにおける「特殊性」を概観したわけであるが,現代ではこのガラ

ーナーのシステムが崩壊しつつあり,存続が危ぶまれているのも事実である。伝統的には,

音楽を学ぼうとするとき,あるガラーナーを選択して,そのウスタードであれ,パンディッ

トであれ,師匠の元に弟子入りして,ガンダeバンディという,互いに赤い紐を手首に結ぶ

師弟の契りの儀式を行ったならぽ,一生弟子は音楽上のことは勿論,生活のすべてをも師匠

のために尽くすことを誓い,同時に,師匠も全身全霊をもって弟子の音楽教育に当たる義務

も生じる。この伝統を「グル・シシュヤ・パラソパラー(師資相承)」と言う。しかし,

往々にして我が逆な師匠と生活を共にして時間をかけて習うことは,この現代社会ではアナ

クロ的でもあり,経済的にも大変で,その結果,特定のガラーナーの巨匠から学ぶことが困

難になってきている。しかし,ガラーナーのシステムは長い時間を経て洗練,完成されてき

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イムダード・カーニー・ガラーナー(その1) 17

たものであり,そこに属することがかラーナーの特殊性を支えてきたのである。過去にも現

在にも,特定のガラーナーに属していない巨匠は誰ひとりいないのである。

5 シタールのガラーナー

 元来「ガラーナー」という名称はキヤールにのみ適用され,器楽には各々の演奏スタイル

「バージュ」の違いを認識するだけで,シタールやタブラーの領域に適用するようになった

のは,極めて最近のことである。例えば,タブラーの場合,タブラーの音色の特徴から,

「キナール・バージュ」と「ディルディル・バージュ」とに分類することがある。前者は,

キナールというタブラーに張ってある革の周縁部で出すピッチの高い乾いた音色を多用する

スタイルで,現在のタブラーのガラーナーで言うと,デリー・ガラーナーとアジュラーダー

・ガラーナーを指し,後者は革の表面を掌をパタパタ打つことで,まさしく「ディルディ

ル」と聞こえる音色を多用するスタイル,つまりラクノウ,ファルッカーズードそしてバナ

ーラスのガラーナーを指す20)。

 「ガラーナー」の概念が器楽にも適用されるようになった理由ば,いくつか考えられる。

第1に,器楽が,声楽よりずっと遅れてではあるが,声楽の伴奏楽器という地位から脱して,

ようやく器楽音楽としての自立性を獲得したと承認されたということ。「中庸としての古典」

モデルでいえぽ,小伝統から抜けでて古典派を獲得したということになる。第2に,中心的

な音楽家が登場して,その血族を核として,その特徴的な演奏スタイルの継承が伝統となっ

て,充分な時間が経過したこと。ガラーナーと承認されるには,その音楽家の家系に,少な

くとも3世代はカリスマ性のある優れた後継者が出ていなけれぽならないと言われる。第3

に,これが最も重要と思われるが,キヤールのように,継承に足る独自の優れた演奏特徴,

表現特徴が確立されたということ,などが指摘できるであろう。シタールは,ドゥルパッド

とキヤールが北インドで覇権を争っていた18世紀頃に,伴奏楽器として使用され始め,歴史

がスタートした。

 現在,シタールのガラーナーとしては普通,ジャイプール・シタール・ピーーンカルeガラ

ーナー,セーニア・ガラーナー,ビシュヌプール・ガラーナー,ラクノウ・ガラーナー,マ

イハール・ガラーナー,イムダード・カ一日ー・ガラーナー,アブドゥル・ハリーム・ジャ

ッファル・カーニー・ガラーナーの7派が言及される。このうち,代表的なものを簡単に紹

介する。

(1)ジャイプール・シタール・ビーソカル・ガラーナーは,その名にある通り起源の古い大

 型の弦楽器ビーンを主として継承してきたガラーナーである。その伝統は!4世紀にまで遡

 り,17世紀末よりジャイプールを中心としたうージャスターン地方に根拠地を置ぎ,幾多

 の優れたビーン奏者を生んできた。声楽ドゥルパッドと継承者が重なり,表現的にもドゥ

 ルパヅドと密接な関係にあるビーンの伝統は今日やや斜陽気味ではあるが,シタールにお

 けるドゥルパッドのスタイルを遵守し,テクニック的にもビーンのそれを引き継いでいる。

 現在の演奏家としてはビマール・ムケルジーの名を挙げることがでぎる21)。

② セーーニア・ガラーナーは,ミヤーソ・ターソセーソにまで遡る伝統を誇る。しかしその

 継承者は主として声楽家であって,シタール演奏家としてはマシートカーニー・ガットに

 その名を残すマシート・カーンが有名である。このガラーナーの正統性は,伝統的な音楽

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18

 システムに従い,ラーガの純粋性を重んじる点にあり,そのテクニックのほとんどはビー

 ンのものを用いる。現代の演奏家としてはムスタック・アリー・カーンとその弟子デーブ

 ・チョウドリがいる22)。

(3)ビシュヌプール・ガラーナーは,18世紀後半,ベンガル地方の都市ビシュヌプールに当

 時全盛期を迎えていたセーニア・ガラーナーのドゥルパッド歌手バハードゥル・カーンが

 その地のマハーラージャの宮廷に迎え入れられ,多くの弟子を育てたことに始まる。彼自

 身楽器の演奏家としても有能だったため,全国的に名を挙げた歌手や器楽奏者が多く生ま

 れた。ラビーンドラナート・タゴールもこのガラーナーのラディカ・プロサッド・ゴース

 ワーミからドゥルパッドを学び,その後「ラビーソドラ・サンギート」として有名なダゴ

 ール歌曲を数多く作曲した。現在の代表的なシタール奏者であるモニラール・ナグはこの

 様式を継承すると同時に,他のガラーナーの影響も強く受けている。

(4)マイハール・ガラーナーは,ご存知ラヴィ・シャンカルに代表される。元々アッラーウ

 ッディーン・カーンがセーニア・ガラーナーの巨匠ワジール・カーンにラーンプールで師

 事した後,マッディヤ・プラデーシュ州のマイハールに居を構えたことから,この名があ

 る。アッラーウッディーソ・カーンやその息子アリーeアクバル・カーンは今世紀最大の

 傑出した器楽家としてその功績は計り知れない。けれども,彼らは共にサロード奏者であ

 って,シタールそのもののテクニックの開発へはあまり興味を示さなかったと思われる。

 ラヴィ・シャソカルのシタール奏法はサP一ドのテクニックが多い。例えば,その小振り

 の形状のためサP一ドを弾くときには右手は楽器の胴には触れずに,手首の動きで弦を弾

 き,その方向も自然に「ダウン」が強くなる。これに対して,胴の大きいシタールでは常

 に右手の親指を楽器に触れさせて接触させたままで弾くため「アップ」の方が強くなり,

 シタール固有のテクニックの開発に向かったとも言える。

 以下は,その音楽表現やアプローチの仕方を声楽の3様式と比較対照して,その傾向の順

ジャイプール。シタール。ビーンカル・ガラーナー

セーニア・ガラーナー

ビシ=ヌプール。ガラーナ一一eラクノウ。ガラーナー

マイハール・ガラーナー

イムダード・カーニー・ガラーナー

ドウルパツド的

キヤール的

(トゥムリー的)

・アブドゥル・ハリーム・ジャッファル・カー=一・ガラーナーは対応する声楽様式をもたない.

             (図表2)

に配列したものである。(図表2)

 この図表で示されているように,当該のイムダード・カーニー・ガラーナーは,最も現代

的なキヤールに対応する演奏スタイルを特徴とする。あるいはトゥムリー的とさえ言えるか

もしれない。既に述べたように,今日インドの聴衆は急速にドゥルパッド離れ現象を起こし

ている。禁断の実よろしく,いったんキヤールの華麗な装飾音のなかにインド音楽の粋を感

じてしまった耳には,ドゥルパッドはあまりに重厚すぎて簡潔すぎて退屈でたまらないとい

う。こうした声楽におけるドゥルパッドからキヤール,トゥムリーへの展開を背景にして,

シタールという器楽においてキヤール様式を実現したのが,イムダード・カーニー・ガラー

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イムダード・カーニー・ガラーナー(その1) 19

ナーの貢献であった。

6 イムダード・ts一一一ニー・ガラーナー

まず,このガラーナーの系図を現在まで辿ってみると,ずっと嫡男相承で,しかも各々の

 Sarojan Sinha   l

 Torab Khan   g

 Sahabdad Khan

Imdad Khan Kalimdad Hussain Khan

Inayat Khan Wahid Khan  娘   娘一一一lVilayat Khan       Imrat Khan  Babbu Khan Gunna Khan

  I(夫Ami・kh・・)rLr 「一「⊥一rr   l

 Rais Shujaat Hidayat Nishat lrshad Wajahat Shafaat Shahid Parvez

                   (図表3)

時代で主導的な音楽家として7世代続いていることが知られる。(図表3)

 サハーブダード・カーン(ヴィラーヤット・カーンの曾祖父,生没年不詳,19世紀末方)

はもともとサーラソギー奏者であったが,後にシタール奏者に転向したと思われる。しかし

ながら,その頃はシタールはまだ独奏楽器として確立しておらず,やはり伴奏楽器の地位し

か与えられていなかった。シタールへの転向の理由は分かっていないが,前にも触れたよう

に,サーラン憂心は共鳴胴の部分に革を張ってある弓奏弦楽器であるため,現在でもその奏

者の社会的な地位は一般的に低い。シタールに転向することで彼の属していた音楽家のミー

ラーーシー・カーストの向上を計ったのかもしれない。

 当時のシタール奏法は,専ら右手中心の動きで弾かれ,左手で一音のフレットを押えてい

る間に,右手のミズラーブ(プレクトラム)を数ストロークすることで,いろいろな「ボー

ル」を駆使する奏法が主であり,声楽や舞踊の伴奏的域を出てはいなかったようである。こ

こでいうボールというのは,弦の弾き方に関してのタームで,ダウンやアップなどの多様な

コンビネーションのことである。けれども,その時代の実際の音楽に関しては,録音資料も

なく,記譜をしない音楽の宿命で,正確な状況はなにも分からない。ただし,今回の調査で,

ボンベイにある国立芸能センター(National Centre for the Perfomming Arts)所蔵の録音

資料中に,ヴィラーヤットが自らの音楽について語っているテープを確認した。それは

1976~79年にかけての約40時間にも及ぶ資料で,その中で彼は父イナーヤットから習った曾

祖父サハーブタードのスタイルをデモンストレーションしている。残念ながら時間の関係で

その詳しい調査は次回に持ち越した。

 サハーブダードの長男イムダード・カーン(1848-1920)(写真(1))は,名声においても,

実力においても音楽性においても,父を凌いだため,このガラーナーの実質的な創始者と見

なされ,普通は彼の名前を冠して「イムダード・ヵーニー・ガラーナー」と呼ばれることは

既に述べた。

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20

(1) イムタード・カーン

(lmdad Khan 1848-192e)

(3) ヴィラーヤソト・カーン

 (Vilayat Khan 1924一)

戯罵

〈2> イナーヤント・カーン

(lnayat Khan 1894-1938)

(4)若きヴィラーヤノト(右)とアールヴィンド

 ・パリーク(左)。師弟の契りの儀式ガンタ・

 ハンディのスナノプ。(1956)(註29)参照) 繋  

@ @ @ @ @脚

謡灘澱贈齢㎎

鍵盤

麟編

欝欝

糠繊撚

  難

⑤ 待望の長男シュジャートを英才教育するヴ

 ィラーヤソト。(1963年頃)

(写真)

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イムダード・カーニー・ガラーナー(その1) 21

 この頃までには,シタールは独奏楽器として自立していたようで,楽器そのものも改良が

加えられ,演奏テクニック的にも格段の進歩があった。彼の演奏がSPレコードに残ってお

り,以下はその録音資料に基づいての,彼の演奏についての5つの顕著な特徴である23)。

 以下の記述に出てくる声楽の発声法に関する装飾技巧のタームを少し解説しておこう。と

はいっても,すべて発声に関する装飾的なヴィブラートによる微妙な綾であり,シタールで

はそれを同一のフレット上で,弦を引っ張って揺り動かすテクニックで再現する。言葉では

表現不可能であるので,イメージをオシロスコープ的に,縦軸に音高,横軸に持続時間をと

って図解してみた。(図表4)

(1> ムルキー

Ga wt Ri

Sa

(2)ミーンド

 Ga

  Ri

  (3)カソ

         一.一.R-i

L’ sa”   Ni Ni(醗印は,瞬間的にその音高を明瞭に発声,○印は経過音)

             (図表4)

①アーラープ(ラーガを提示する前奏部)は比較的にシンプルで短く,装飾的ではない。

 つまり,キヤール的ではなく,キヤール奏法特有の装飾音であるムルキーの技巧よりも,

 ドゥルパッド的なミーンドを多用している。

②スロースピードの楽曲部であるヴィランビット・ガットには,既に彼の時代にはポピ

 ュラーになっていた「マシートカーニー・ガット」24)が用いられているが,ガットの提

 示の後の展開はガットーラ・タイプの展開が主体で,ターンの使用はほとんどない。つ

 まり,左手はあまり動かさず,タブラーやパッカーワジュのボーール(ここでは,打楽器

 のストP一クのことでリズムと音色の2つの要素を合わせたもの)を模倣したミズラー

 ブの動きとリズムが主役となっている。同じ一音のフレットの上で数ストP一ク弾くパ

 ターンを展開方法としている。(旧例1)しかし,マシートカーニー・ガットといって

 も,現在のように超スローのスピードではなく,現在の演奏スピードでいうならば中位

 の速度に相当する。

譜例1.Gat-todaタイプの展開の仕方例

ajE.E:::ls;il:eesll#Sl;Si#. ..〉.〉.. .., .v

                               >   >

③一方,早い速度の楽曲部であるドゥルット・ガットは,多彩なボールを含む「ラザカ

 ーニー・ガット」25)が用いられており,ヴィランビットにも増して右手のストロークの

 的確さが重要である。(譜例2)

④また,現在のシタール演奏の典型的なプレゼンテーシ・ンの仕方である,アーラープ

 →マシートカーニー・ガット→ラザカーニー・ガヅト→ジャーラーという順序は,イム

 ダードが確立したものである。

⑤彼はスルバハールのアーラープも録音を残しているが,シタールよりは装飾的とはい

 え,まだまだシンプルである。

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22

譜…Bfti 2. Imdad Khan;Raga Ka丘/drut gat in teen tal

Sthayi

4elli.i#sl-ISiS-iEiv・v 1・

Antara

ge#.ISIEEff--ee¥,

 イムダードの長男,イナーヤット(エ894-1938)(写真(2))Oま父のスタイルを継承し,さら

に新しい局面をも加えて,より器楽音楽として自立した存在へと変貌を遂げさぜた。彼は

200人以上もの弟子を育てたと言われる。この事実によって一層このガラーナーの優位性が

この後獲得されたのでもあった。彼のスタイルはちょうど新しい世紀の息吹を示すものであ

った。アーラープにより洗練された深みが加わり,キヤール様式の特徴である「ムルキー1

や「カン」が導入された。ムルキーは声楽では比較的容易なテクニックではあるが,シター

ル上で実行する場合,左手の微妙な,繊細な弦の引っ張り方が難しく,ここでムルキーをあ

えてシタールで表現しようとした試みは非常に意義深い。しかし,実際にはシタールよりも

スルバハールで弦を引っ張るテクニックはより効果的に表情豊かに実践可能であった。スル

バハールでは短六度さえも一つのフレット上で引っ張ることが可能であった。ムルキーやミ

ーンドの表現力がシタールの高音域では充分に発揮できなかった,ということもその一一eqで

あろうが,なによりも「三度以上引っ張る」テクニックに対して,シタールという楽器自体

が強度の点で耐えられなかったことが最大の原因であろう。このテクニックを実施するため

の楽器自体の物理的な構造上の改良は,イナーヤットの息子ヴィラーヤットが彼の音楽的な

欲求に従って,次々と試行錯誤しながら実験していくようになるまで待たなけれぽならない。

 当然ながら,イナーヤットのムルキーやミーンドは三度の音程内の範囲に限定されていた

ため,「ガーヤキー・アンダ」(声楽様式)の導入はあったと言いつつも,いまだ不十分な状

況であった。装飾技法のカンに対しては,格別の楽器の改良などは必要とされないが,非常

に繊細な装飾であるため,左手の訓練と声楽の知識が特に要求される。

 彼のSPレコードの録音を聴く限りでは,録音時間が短いために省略されたためであろう

か,アーラープに続くジョール部はないが,おそらく実際には演奏されていたと思われる。

 さて,結局イナーヤット・カーンの場合は,アーラープが洗練されてきたとはいえ,やは

りガットにより重点が置かれていると言えよう。イムダードと同様,マシートカーニー・ガ

ットとラザカーニー・ガットである(譜例3)が,その展開にサバト・ターンを初めて導入

したことは特筆に値する。すなわち,左手が一音一音フレットを移動する「一音対一ストP

一ク」のターン,つまり,キヤールの声楽のターンである。

 しかし,まだ予めターンは作曲しておいて,随時ガットの展開のなかで弾く,というやり

方であり,また,ティーンタール(16拍子)の最弱拍であるカーリー(第9拍目)から最強

拍サム(第1拍目)へ,あるいは,サムからサムへという比較的短いターンである。特に

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イムダード・カーニー・ガラーナー(その1) 23

譜例3.Inayat Khan;Raga Bhairavi/drut gat in teen tal

Sthayi

ue1 +Manja

ij,:II#ISIIffif:ESII:-1 J+ y

geEfi,ffisa:pt#Egi#igfi.

IliE¥,ellill v 一+

Antara

ge.-Fes¥SIS:fiklEII w + J

gelElftlsEfi:fiilEiE:gES-::s+

ge-1}IX1S +

「予め作っておく」というのは,演奏の在り方も響いてくる音楽そのものも,現在行われて

いるような完全に即興的な展開の響きと当然まったく異なる。

 また,彼が「ティハーイー」のテクニックをシタール演奏に導入し,その後ポピュラーに

なったことも記すべきことである。ティハーイーは,3回同じパターンのフレーズを繰り返

して,1拍目ないしはガットの冒頭に戻るテクニックである。しかし,これは元来タブラー

などの打楽器のテクニックであり,サムを印象づけるための工夫であったのだが,シタール

上でリズム面のみならず,メロディー面をも含めて,ティハーイーが行われることで,より

魅力的なガットの展開への道が提示されたのだった。(譜例4)

三王4.tihAi例

÷學 ところで,イナーヤットの長男であるヴィラーヤットが父から聞かされた回想によると,

イナーヤットは父イムダードが宮廷音楽家として名声を博していたために,子供の頃の生活

は何不自由なく贅沢なものであったという。15才の頃までは誰もイナーヤットが音楽家にな

れるとは思っていなかったし,ましてや最終的にはイムダードをも超える大音楽家に成長す

るとは夢想だにしなかったほど,音楽の練習が嫌いで,遊びぽかりにうつつを抜かす,イー

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24

ジーゴーイングのダメ息子だったという。ある春祭ホーリーの折,イムダードが仕えていた

インドールの宮廷にインド全国から著名な音楽家たちが集まり,イムダードがホスト役を務

めた。ゲストの音楽家は誰もが期待してイナーヤット少年に同じ質問をした。「君もお父さ

んの後を当然継ぐんだろう?お父さんと同じようにシタールかな?それとも,声楽を選んだ

のかな?」当然ながら,なにも答えられずもじもじしている息子に面目を潰され,堪忍袋の

緒が切れたイムダードは,「音楽を練習する気がなけれぽ,バーンワーラー26)にでもなれ!」

と怒鳴りつけ,小さな店を与えてそこに住み込ませてしまった。しかたなくバーンワーラー

の仕事をしているうちに,彼の内部に眠っていた生来の:負けず根性が目覚めた。一念発起し

て,店の裏の小部屋に人知れず籠もっては,シタールの猛練習に励んだ。それこそイムダー

ドの思う壷であった。2年の後,彼はこっそり小屋を覗き,変身した息子の練習の成果を自

分の耳で聴いて確かめた。その上達度に満足した彼は息子を許し,以後自らの真の後継者に

育てるべく,伝統のすべてを教え込んだ。ヴィラーヤットの記憶の中の後年のイナーヤット

像は,幼い娘が病気で危篤の時でさえ練習を止めず,蝋燭の燃え尽きるのを時計代わりにし

て猛練習に没頭する姿という。サフラン色の衣を纏い,イスラムのスーフィーの聖者のよう

な質素で信仰心に満ち溢れた日々を送り,生涯を通じて,楽器には最大の敬意を払い,心を

込めて取り扱っていた姿が,子供心に強く印象に残っているとヴィラーヤヅトは回想してい

る。

 イナーヤットが42才という若さで他界した時,ヴィラーヤット・カーン(1924一)(写真

(3))はまだわずか14才であった27)。けれども,自分の経験を教訓にしてか,息子ヴィラーヤ

ットには幼年から特別読えの小振りのシタールを与え英才教育を開始していた。その成果あ

って,8才,あるいは9才の頃と11才,あるいは12才の時に,ヴィラーヤヅトは父イナーヤ

ットと共に各一面ずつSPレコードに録音しており,それを聴いてみると,父の生前にすで

にそのスタイルに熟達していたことを知ることができる28)。

 当時の伝統的で保守的なムスリムの音楽家の家庭での習慣に従って,学校へは10才頃まで

しか通っていない。カルカッタで父の死を幼くして迎えたが,父の弟子は大勢いたにもかか

わらず,誰も助けてくれる者はおらず,絶望して母方の祖父バソデー・ハヅサソを頼ってデ

リー近郊のナーハンへ移る。祖父と叔父ジンダー・ハッサンは声楽家で,若き日々に彼らに

声楽を学んだことはその後の音楽と音楽観にとって非常に重大な意味をもつ。1943年大都会

での成功を期してボンベイに移ったヴィラーヤットは,同年の大きな音楽祭で当時の著名な

大音楽家たち,バーデー・グラーム・アリー・カーンやオームカルナート・タタールと名前

を連ねて出演して成功を収めたことで,一挙にビッグ・ネームを獲得して,名実共に大音楽

家の道を歩み始めたのであった。そしてヴィラーヤットとアールヴィンド・パリークが運命

的な出会いをしたのがこの時期であった(写真(4))29)。しかし折しもインド独立の前後の社

会的混乱期で,音楽界のバトPンであったマハーラージャたちが没落して,音楽家たちは自

分自身で経済的な自立を計らなくてはいけなくなった時期であった。ヴィラーヤットも貧困

の中からステイタスと富を勝ち得なければならなかった。しかし別の見方をすれぽ,ヨーロ

ッパでも宮廷音楽家であることを音楽家たちが止めたときに,初めて近代的な意味での「芸

術音楽」と成りえたのであるから,インド音楽の世界においても,この状況は,芸術音楽が

「芸術音楽」に脱皮するための乗り越えるべき試練であったとも言える。

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イムダード・カーニー・ガラーナー(その1) 25

 ヴィラーヤットの演奏スタイルは大きく(1)1940年代,(2)1950年代,(3)1960年代,(4)1970年

以降,の4つの時期に分けられて変遷してきた。

 (1)1940年代は,父のスタイルをそのまま継承し,かつそれを押し進め完壁に完成した時

代であると特徴づけることができる。鬼気迫り猛練習に明け暮れ,「スピード・キング」の

異名を頂戴したちょうどその頃の野望に燃える若かりしヴィラーヤットの姿を映像にとどめ

る記録映画があるということも聞いている30)。40年代末に調弦方法を変えたことは,彼の新

たなる音楽の領域への挑戦の第一歩として注目すべきことである。第2弦を取り除いて,全

部で6弦に減じ,ド十一ン弦にガ音(インドのソルミゼーションは,サ,リ,ガ,マ,パ,

ダ,二と言い,ガ音は西洋のミ音に相当)を持ってきて,旋律の背後にある重要な音を絶え

ず響かせるようにした。勿論,ガ音を含まないラーガのばあいは,他の主要な音にチューニ

ングし直す。

 ドローン弦であるヴィラーヤット式シタールの第3,4弦の調弦例を参考のため以下に引

いておく。ただし大文字はシュッダ音,小文字はコマル音を示す。(図表5)

第3弦 Ga Pa Ma ga Ri ri Ma Ma

第4弦 Pa Pa Dha dha Pa Pa Ma Pa

                   (図表5)

 この工夫によって獲得された響きは,それ以前には「空虚五度(完全五度)」であったた

め,われわれにとっては中世からルネッサンスを経て,三和音の響きが獲得された頃の歴史

を見るようで興味深い。ラーガ理論上で見るならぽ,ワン・ストロークで特定のラーガのム

ードを感じる事ができるし,旋律上にその音が演奏されていない時でさえ通奏低音として常

に鳴り響いているので,タγプーラという他人の奏でる楽器に依存:することなくラーガの雰

囲気を持続していけるという利点があったわけである。

 (2)1950年代になると,音楽上の新しい局面が次々と加えられることになった。彼は父の

弟子であったD.T.ジョーシー以外の誰にもシタールの教えを受けたことはなかったが,母

方の祖父や叔父を始めとして多くの声楽家からの影響を,直接習ったことがなくても,タッ

プリ受げている。中でも特に,キラーナ・ガラーナーの巨匠アブドゥル・カリーム・カーン

からはメロディアスな音使いに関して,同じくキラーナ・ガラーナーで,すぐ上の姉の夫と

なった巨匠アミール・カーンからはアーラープの展開に関して,アーグラ・ガラーナーの巨

匠ファイヤーズ・カーンとキラーナ・ガラーナーのラッジャブ・アリー・カーンからはター

ンの適用に関して多大な影響を受けたことは,彼自身認める事実である。これこそが,器楽

におけ’る「ガーヤキー・アンダ」と称される声楽様式への胎動であった。

 ガットに関して言えば,イムダードやイナーヤットからの伝統を引ぎ継いでいた。すなわ

ち速いストロークで多彩なボールを刻む右手が主役で,動き少なくフレットを押える左手は

脇役に甘んじていた。マシートカーニー・ガットも,現在ほど遅いテンポではなく,装飾の

ないストレートな音使いのかなり速いテンポのものであった。このスピードは,彼の「ガー

ヤキー・アンダ」(声楽様式)の洗練度とともに,装飾が豊かになるにつれて後年になれば

なるほど,スロー・ダウンしてくることになる。また,ラザ劃一ニー・ガットは声楽的な要

素のみならず,声楽的なパッセージのものが増してきている。(譜例5)

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26

譜例5.Vilayat Khan;Raga Bageshri/drut gat in teen tal

Sthayi

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 (3)1960年代は波乱激動の時代であった。彼はダンスパーティで知り合った・ミラモンの出

身のモニシャーと熱烈な恋愛に陥り,1959年に結婚した。前に述べたようにヒンドゥーの伝

統では女性上位の結婚,ましてや宗教の異なるムスリムの男との結婚はタブー中のタブーで

ある。当時としても,敬度なムスリムのヴィラーヤットと良家のバラモンの娘との結婚は話

題にもなり,困難もあったが,勇気をもって実行したわけである。翌年1960年には長男シュ

ジャートが生まれている。時の新聞は,「ウスタード・ヴィラーヤット・カーンに待望の後

継者が誕生」と報道し,その後も,幼いシュジャートにレッスンをする様子が記事にもなっ

ている(写真㈲)。誰の目にも,幸せな家庭生活を得て,一大飛躍の時代になるかとも思わ

れた。けれども落とし穴があった。次第に,どちらかというと人との儀礼的な接触が苦手な

ヴィラーヤットと良家の出で社交的な性格の妻との間に,ライフスタイルの違いからさまざ

まな衝突が起こるようになったのである。彼は深酒に溺れたり,気分転換に避暑地のシムラ

ーに転居してみたりで,私生活のリズムが大いに乱れ,当初はあまり多くのラーガやターラ

を弾こうとしない時期となった。

 けれども,ある時それも吹っ切れたようで,その後の彼の様式に決定的な影響を及ぼすこ

とになり,「ガーヤキー・アンダ」の特徴のひとつにもなった新しい試み,つまり偉大な声

楽の巨匠たちのバンディッシュをシタールで弾く試みに着手した。バンディッシュとはキャ

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イムダード・カーニー・ガラ~ナー(その1) 2ア

ールの主題となる歌詞に対する作曲ピースであるが,彼は特にキラーナ・ガラーナーのファ

イヤーズ・アフメッドやアブドゥル・カリーム・カーンのバンディッシュを選び,シタール

で実に美しく叙情的に弾きこなしている。これらはその後金が好んでガットとして取り上げ,

弾く機会も多かったため,非常にポヒ.ユラーにもなった。

 一般のガットに関しては,過渡期とも言うべき時点で,前時期の特徴的なボールはまだ頻

繁に用いられていたが,構造的には変化も見られる。ガットの開始の拍をいろいろ変えてみ

る試みや,マシートカーニー・ガットを思い切ってスロー・ダウンして装飾技巧を適用して

みる試み,さらには,ドゥルット・ガットにピチカート奏法をもつ装飾技巧であるクランタ

ンを多用し,声楽的なターンを導入する試みなど,精力的に実験的な試みに挑戦している。

(言普{ 聾6, 7)

譜例6.Vilayat Khan;Raga Rageshri/drut gat in teen tal

Sthayi

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eeifiiffSi#i:i譜例7.Vilayat Khan;Raga Hansadhwani/drut gat in teen tal

Sthayi

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十 1

 (4)1970年以降は,それまでの試行錯誤を乗り越え,実験的な試みを消化して,いよいよ

画期的な「ガーヤキー・アソグ」の確立を迎える時期となった。もはや,右手のミズラーブ

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で刻まれる打楽器的なボールはまったく重要性を失い,最大の関心事は,元来声楽独自のタ

ーンをいかに巧みに超スピードで弾くか,さらには文字通り唄うが如く,自由自在にシター

ルで唄うために不可欠の装飾技法「ムルキー」を完成させるか,に移ったわけである。ガッ

トは完全に声楽型のみになる。(譜例8)

 譜例8.Vilayat Khan;Raga Bageshri/vilambit gat irl teen tal

 ガットの開始をマシートカーニー典型の12拍目からでなく,14拍目からと

した例.実際はテンポを極力落としてムルキーやカソを駆使した演奏であるが,

装飾音は殆ど省略して骨組ともいえるラインのみを記す.

ecSl-Flifil!ISs:fillff-i」#II#iEff4 1 uv +

 さらに進んでは,声楽においてもキヤールについで人気のあるセミ・クラシックとかライ

ト・クラシックと呼ばれているさまざまな音楽のアイタムをシタールで表現するという次の

ステップにもすでに踏み出している。この問題は後でまた触れる。

 さて,融通毒魚なムルキーをシタールの上で完成するには,シタールという楽器そのもの

へのさまざまな物理的な構造的な改良が必要であった。前述のように,ヴィラーヤットは

1940年代末に調弦方法を従来と異なるものへと変えたが,その後も自分の音楽表現に適する

ようにためらわずにシタールに改良を加えていった。彼は謙虚に回想する。「若い頃の自分

にとっては,父のイナーヤットやキラーナ・ガラーナーのアブドゥル・カリーム・カーン氏

は偉大すぎる存在であって,彼らの後を追うのはほとんど不可能に感じられた。そこで,自

分としては,まったく違った角度から,このシタールという楽器にチャレンジしてみようと

思っただけだった。」

 勿論この改良作業はこの時期だけに行われたものではない。必要が生じた都度,ひとつ

ひとつ構造上の問題点を解決していったのであり,最終的にそれなくしてはありえないとい

う,ガーヤキー・アンダと表裏一体のシタールが完成したのである。現在では,調弦方法を

除いては,標準的なシタールはすべて,ヴィラーヤット印のシタールであると言って過言で

ない。現代の代表的なシタール職人,例えばニューデリーのリキ・ラームも,カルカッタの

ヒーレーンeローイにも,「自分のシタールの制作方法の秘訣は,すべてヴィラーヤット・

カーン師から学んだようなものだ。」とすら言わしめることからもその功績が測りしれるであ

ろう。

 シタールへの主な構造的な改良点を気がついた範囲で列挙してみよう。シタールの構造と

部分の名称は(図表6)を参こ口てほしい。

 ①木製の樟の材質をより強度のあるチーク材に変えた。これは,フレット上で弦を引っ

  張って揺らすことでさまざまな装飾技法が可能になるように,弦が樟の上で上半分に偏

  って張られているため,だんだんと樟がねじれてくるのを防止する工夫である。

 ②弦のサイズを全般的に太いものに変えた。これにより深みのある音色を得る。

 ③タブリとタールゲヘンを厚くした。これにより,同一フレット上で完全五度ないし短

  六度引っ張って音を出すために必要な強度が得られた。以前は四度以上引っ張ったらほ

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イムダード・カーニー・ガラーナー(その1) 29

トウンバ シ弦第  P玄第聯

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■一 一e ) t e

腿購タブリ    タ_ルゲヘン    第1弦

            第2弦       (ヴィラーヤット・カーンが取り除いた弦)

(図表6)

 とんど全音分狂ってしまうほど弱かったが,この強度を得られたため,ヴィラーヤット

 独自のスタイルが可能になったとも言えるほどの意味がある。

④第2弦を外して,さらに調弦方法を変えた。つまり,7弦のシタールを実質的に6弦

 にした。前述のように,ドP一ン弦の調弦方法の変化はメロディーの背後でサポートす

 る響きを完全に変えることになった。これは想像以上に重要である。西洋音楽的な発想

 からすると完全な三和音の響きが得られたわけであり,中世の響きから近代のそれへと

 変わったことに対応する変化である。彼のこの改変のみを見ると,長いシタールの歴史

 の中で彼が急に新しい響きへと風穴をあけたように思えるが,実際には18,19世紀のシ

 タールについての記述を見ると,弦の数も3~7本とヴァラエティに富み弦の素材も一

 定しておらず,調弦の仕方も演奏者によってまちまちであった。したがって,これこれ

 が普遍的で伝統的な弦の配置であると言えない。20世紀になって7弦によるスタンダー

 ドな調弦方法が定着したのであって,さらにそこからヴィラーヤットの6弦への転換が

 行われたのである。また,6弦にしたことで,第1弦を少し上方へずらして完全五度,

 あるいは短六度まで弦を引っ張る余地をブリッジ上につくることもできた。参考までに,

 ヴィラーヤット式調弦とラヴィ・シャンヵル式調弦の一例を挙げておこう。(図表7)

弦の番号 1 2 3 4 5 6 7

ラヴィ・シャソカル式 箪a §a ね §響 2a Sa きa

ヴィラーヤヅト式 Ma × §a βa 2a Sa §a

  ・文字:の上部の点は高オクターブ域,下部の点は低オクターブ域を示す.

                 (図表7)

⑤トゥンバのサイズを少し大きくした。これにより,共鳴音を増大させ,楽器を抱えて

 演奏状態に構える際のポジションがより自然になった。

⑥樟の上部の第2のトゥンバを外した。これによって,長時間演奏する際の左手への負

 荷が減じ,より自由な動きが確保され,左手の高度なテクニックを開発できるようにな

 つた。音色の面でもよリクリヤーなオープン・サウンドとなった。

⑦ブリッジとタールゲヘソの高さを少し上げて,フレットと弦の間隔を広げた。これに

 より,細やかな左手のテクニックが容易になり,音質もクリヤーとなった。

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 ところで,セミ・クラシックと言われるジャンルの音楽のアイタムをシタールで演奏する

ことには多くの障害がある。具体的には,セミ・クラシックのジャンルには,トゥムリー,

ダードラー,タッパー,ガザル,カッヴァーリー等が挙げられるが,ここで問題となるのは,

「古典」としてのキヤールの座を窺う「準古典jとしてのトゥムリーである。キヤールでは

歌詞サーヒッティヤというものがほとんど有名無実で,サーヒッティヤに対する作曲ピース

であるバンディッシュにおいても旋律の乗物としてしか機能していない。ところが,セミ・

クラシックではサーヒッティヤが旋律と密接な関係をもち,サーヒッティヤの理解無くして

これらのジャンルの音楽は鑑賞できない,と言われる。では一体サーヒッティヤを表現しえ

ない器楽でトゥムリーをトゥムリーとして演奏できるのかという疑問が当然起こるであろう。

しかし,セミ・クラシックの中では,トゥムリーは最もキヤールに近い形態で,勿論サーヒ

ッティヤは重要であるが,それと同じ程度でロマンティックなメロディーが重視される形式

で,サーヒッティヤを欠いても充分音楽性を失わない。ヴィラーヤットやその息子シュジャ

ートだけがコンサートで時折,キヤールやトゥムリーを唄った直後に,同じフレーズをシタ

ールで聞かせることがあるが,あたかもサーヒッティヤさえも聞き取れるかのような錯覚に

陥る。今インドで,器楽でトゥムリーを演奏表現できるのは,ヴィラーヤット・カーンだけ

であるとさえ言われる所縁である。トゥムリーの特徴は,キヤール形式でラーガを演奏する

ときと違って,音の扱いや装飾音に大きい自由度が許されていることである。時には装飾過

多なまでも声の微妙な陰影に満ちた装飾がメPディーを飾る。したがってそれと同じ表現力

をシタールに備えさせようとするならば,既述の左手で弦を揺らすムルキー,カン,ミーン

ドなどの装飾技巧を縦横無尽に駆使せねぽならない。古いスタイルに固執するシターリスト

はいまなお短三度の範囲内でしかミーンドを適用しないが,ヴィラーヤットの始めた完全五

度や時には短六度にまで及ぶミーンドやムルキーは,今日の他のガラーナーに属するシター

リストにさえ多大な影響を与え,彼のテクニック無しには現代のシタール演奏は考えられな

いほどである。ちなみに,ラヴィ・シャンカルのミーンドは音域こそ完全五度に達してはい

るが,ドゥルパッドのミーンドであり,キヤールのムルキーはまったく弾いていない。それ

に反して,彼と同じガラーナーの故ニキル・パネルジーは多分にヴィラーヤットの影響を受

け,特にアーラープにおいてその傾向が著しい。彼独特のスウィートな節回しである「ニキ

ル節」はいまだ根強いファンを持っていて,なかぽ伝説的になっているが,それはヴィラー

ヤットのムルキーをいち速く自家薬籠中のものにした結果である。

 以上概観してきたように,イムダード・カ一山ー・ガラーナーの歩みはそのままインドに

おける声楽の変遷を辿ることにも重なった。そしてそのままそれは,ドゥルパッドからキヤ

ールへ,キヤールからトゥムリーへ,荘厳で重厚な簡素な表現からより華麗で軽やかでロマ

ンティックな表現へというインド聴衆の好みの変遷でもある。この声楽の細やかな表現力を

楽器に移そうとしたのが,このガラーナーのインド音楽史上の意義と貢献であるが,これは,

実はインド音楽の本質にまで迫る美学的な問題をも含んでいる。

 インド古典音楽の伝統では,「声楽一番,器楽は二番,そして舞踊はびりっかす」という

一般的な価値観があり,いかにこの表現力豊かな声楽に肉薄できるかが,器楽への至上命令

であった。それは,器楽そのものの発達が未成熟であった段階のみならず,いろいろな楽器

が洗練されてきて,各々の固有の技法が探求され磨かれた現在でさえ変わらない。それは,

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イムダード・カーニー・ガラーナ・・一・(その1) 31

根源的な音としての絶対者「ナーダ・ブラフマン」が楽器としての人間の身体にまず顕現す

るというインド独特の哲学観,音楽観に起因しているからであり,インドの器楽がいまだそ

の固有の語法を確立していないからではない31)。

 この意味では,インド音楽における器楽と声楽の関係は西洋音楽の歴史におけるそれとは

まったく意味合いを異にしていると言えよう。西洋音楽では,ルネッサンス時代に,器楽の

興隆によって言葉の助けをまったく必要としない純粋に抽象的で音楽的な音楽様式,形式を

確立したいという欲求が起こった。最初の器楽曲は,多声の声楽曲を楽器のために装飾音な

どを加えつつ書き直したものに過ぎなかったが,徐々に楽器のための独自な様式や形式,語

法への関心が高まっていった。純粋な器楽形式の発展と共にルネッサンス音楽はすでに言葉

を超越しはじめていた。すなわち,言葉という強力なサポートを欠く器楽は抽象的観念的な

独自の語法を持ち,声楽の影響を排除した自身の道を獲得しなけれぽ,存在価値さえないと

いう発想が根底にあった。

 この西洋的発想と対極にあるのがインド音楽の在り方であった。人間の声で表出できるも

のが,より絶対者に近い音楽とする発想は,ひたすら楽器には声の微妙な表現力を模倣させ

た。ショーペソハウエルの名言「あらゆる芸術は音楽の状態を憧れる」になぞらえれぽ,イ

ンドにおいては「あらゆる器楽は声楽の状態に憧れる」のであった。西洋的な音楽観に基づ

いて,器楽が声楽を模倣している段階は,音楽の普遍的な発展史においてはまだプリミティ

ヴな段階に留まっているという判断は短絡に過ぎる。同様のことは,インド音楽の「即興

性」の問題にも当てはまる。即興という形式を,西洋音楽観では固定した楽曲形式に至る以

前のプリミティヴな段階と見なすのに対して,インド音楽観では,固定された楽曲にどうし

て絶対者が顕現しえようかと問う。即興の技法を洗練していく道は,本物の音楽への道,絶

対者へ至る道である。こうした発想はインドのオールド・ファッションの音楽家にとっては,

当然の前提である。コンサートの直前にヴィラーヤヅト・カーンを楽屋に訪ね,なかば儀礼

的な「今夜もまた素晴らしい演奏を期待しています。」というこちらの言葉に対して,「イン

シャッラー(神の思し召しのままに)」とさりげなく答えた彼はとても印象的であった。

 ひたすら声楽に近づこうとする器楽の哲学と音楽を考察する上でも,イムダード・ヵーニ

ー・ Kラーナーの巨匠たちの音楽を辿ることは大いに示唆に富む。

 また,124曲にも及ぶこのガラーナーのガットの採譜に基づく,よリテクニカルなアスペ

クトに関する研究成果は画稿を期すことにする。

1) ガラーナーについての概念規定も含めた全般的な研究書には以下のようなものがある。

  Deshpande, Vamanrao H. ; lndian Music : Traditions, A n Aesthetic Study of the Gharanas

 in Hindustani Mztsic, Bombay 1973.

  Agarwalla, Viney K. ; Traditions and Trends in lndian Mztsic, Meerut 1966.

2) Srivastava, lndurama ; DhrzePada, A Study of its Onigin, ffiston’cal DeveloPment, Structure

 and Present State, Delhi 1980, pp. 7-19.

3)船津和幸「インド音楽研究序説」,『仏教文化』第18巻通巻21号,S62, pp.54f£

4)大伝統にあって門外不出の芸能も存在する。ケーララ地方のサンスクリット演劇クーリヤッタ

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32

 ムがその好例であろう。Venu, G.;Production of a Play in血勿δ≠≠α吻, Documentation of

 KUtiyattam Series No. 1., lrinjalakuda 1989, pp. 1-22.

5)第10章第49条。田辺繁子(訳)『マヌの法典』岩波,1977,p.315.

6) Neuman, Daniel M.;The Lzfe(ゾ誘4癬ρin八b肋/ndia, The Organization of an、4漉s海。

 Tradition, New Delhi 1980, pp. leO-102.

  Manuel, Peter;Thumri, in撚ホ。沈α1 and S嬬s’ガ61蛯ゆ6σ伽磯Delhi 1989, pp.45-52.

7) Srivastava, lndurama;oP. cit., pp. 21ff.

8) Ranade, Ashok Da. ; Keywords and ConcePts, Hindztstani Classical Mztsic, New Delhi 1990,

 pp. 20f£

9)Mishra, Susheela;Great Mas te rs(ゾHindustani Music, New Delhi 1981, pp.9-16.

10) ドゥルパッドの伝統を今日に伝えるダーガル一族の近況については,船津和幸「インド音楽最

 新情報(中)」,『信濃毎日新聞』1991年5月10日(夕刊)を参照。また,JVCワールド・サウン

 ズ「ドゥルパド,ダーガル・ブラザーズ」(JVC VICG-5032)は入手しやすいCDである。

11) Ranade, Ashok Da.;oP. cit., p. 25.

12) Jairazbhoy, A. N.;The R¢gs ofハ/∂ガ1z fndian Masic, Their Structure and Evolution,

 Middletown 1971, p.21.

13) Nijenhuis, Emmie Te. ; lndian Mztsic, Histoi y and Strztcture, Leiden/K61n 1974, p. 88.

14)小泉文夫「ラクノウの最後の王様」,『エスキモーの歌』青土層,1985,pp.194-205。

15) Sharrna, Prem Lata ; ‘The On’gin and Thuman”, “Aspects of lndian Music’; Government of

 India, New Delhi 1976, pp. 80ff.

16) カタック舞踊について詳しくは,‘ln Praise of Kathakl “Marg’;Vo1. XII No.4, Bombay

 1959,参照。

17) Nijenhuis, Emmie Te;op. cit., pp.88-92. Agarwalla, Viney K.;op. cit., pp.25-35.また,イ

 ソドHMVレコーード, PMLP-1405“Echoes of Golden Voices”は代表的なキヤールのガラーナ

 一やトゥムリーのビッグ声楽家の選集で特徴の違いが実際に耳で確認できて有益である。

18) アーグラ・ガラーナーについて詳しくは,Nag, Dipali;Ustad Faiyaaz Khan, New Delhi

 1985,参照。

19)情調(ラサ)の理論に関しては,船津和幸「ラーガ理論とラサ理論」,『高崎直道博士還暦記念

 論集・インド学仏教学論集』春秋社,1987,参照。

20) ダブラーのガラーナーに関しては,船津和幸「インド音楽研究(N) アジュラーダー・ガラー

 ナー(タブラー)のカーイダー形式」,『東方』第7号,1991,参照。

21) 詳しくは,Mukhrjee, Bima1;fndian Mztsic, Changing Profiles, Calcutta 1989,参照。

22)詳しくは,Dhar, Sunita;Senia Gharana, lts Co痂励%舷。ηto lndian Clczssical Music, Delhi

 1989,参照。

23)Arvind Parikh氏のprivate collectionによる。

24)18世紀宋,マシート・カーンが考案したシタールのためのティーンタール(16拍子)のヴィラ

  ンビット・ガットの型。最初は彼のセーニア・ガラーナーの典型として弾かれていたが,19世紀

 末期より,他のガラーナーでもポピュラーとなり,シターールのヴィラソビット・ガット=マシー一

  トカーニー・ガットとなった。これは以下のように,リズムとボールの両方の限定があり,12拍

 目から3黒目の前半と4雪目から11拍目の後半は,同一のパターンとなっている。

“,IIIImmi一{isLi17gilli-i-Elkil-liTllill-ElllTliilll-ElllMliisri ggs2riggla, d,ad,ar,ad,iri d,ad,irid,ar,a d,aggEa,1

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イムダード・カーニー・ガラーナー(その1) 33

25)19世紀初め,グラーム・ラザ・カーンが考案したティーンタール(16拍子)のドゥルット・ガ

 ットの型。

dr±一EtlFII-E{Rtflli!i ri di ri di ri da r da r da da daradara l

12 3 4 56 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16

26)バーンとはインドの嗜好品でキンマの葉に木の実や石灰を巻いたもの。街角の至るところで畳

 半畳ほどの店や屋台を開くバーンワーラーと呼ばれる■〈・一ソ屋の社会的評価は概して低い。

27) ヴィラーヤットの誕生年に関しては諸説ある。彼自身は1928年と明言するが,パリーク氏によ

 れば,当時父イナーヤットの弟子であったガウリプール(現在バングラデーシュ)のザミンダー

 ルであるB.K.ローイ・チョウドリが保存している生誕時のホロスコープには1924年と明記され

 ているという。その他の傍証からも1924年誕生が妥当と思われる。

28)Arvind Parikh氏のprivate collectionによる。

29) ヴィラーヤットとアールヴィンド・パリーークの出会いについて「月間天竺南蛮情報』(1987年

 5月号)に寄せた拙文がある。あまり目に触れることのない雑誌なので,ここに転載しておきた

 い。

巨匠ヴィラーヤット・カーンとアールヴィソド・パリーク氏の青春

      インド音楽における師資相承と庇護者の一つのありかた一

 インダス文明に起源をもつヨーガ,3千年にも亙るヴェーダの口頭伝承などを想うと,インド

が伝統を重視し誇りに思うのも合点がいく。インドで,ひとが正式にある法統,学統,流派(ガ

ラーナー)に属するということは単なる形式の問題ではない。いわぽ運命共同体の選択である。

感性や感受性という遺伝的資質が重要視される芸術の領域では,更に「血統」が重視される。血

統とは保守的,排他的体質を本質的に持っているものである。門外不出の芸の秘伝,口伝の世界

である。一方で,親子であっても,師弟関係を結ぶということは,親に対して師としての献身的

奉仕と恭順を前提とするもので,わが国の職人の徒弟制度や芸道の家元制度にも通じる。この辺

りの実情はラヴィ・シャンカルの『わが人生・わが音楽』に詳しく紹介されているので読まれた

方も多いことだろう。周知のように身分的差別や宗教的対立のあるインドでは,出白や宗教や生

活習慣を全く異にする師匠に弟子入りするということは大変な決意を要するものである。イニシ

エーションの儀式である「ガンダ・バンディ」は文字通り,師弟を社会的に精神的に固く結びつ

けるものである。

 芸術は,インドでも,ヒンドゥー教あるいはイスラム教などの王侯・貴族の宮廷の庇護のもと

で発展してきたが,独立後,それまでの藩王国が廃止され,多くの優れた芸術家が庇護者を失い

路頭に迷う状況が起こっても,政府すら余裕のない混乱期に,そうした芸術家の庇護者を買って

でる奇特な資産家も少なかった。藩王という政治的,経済的特権階級の存在自体は問題のあると

ころではあるが,各地の藩王たちの多くは進歩的で芸術の良ぎ理解者,庇護者という自己の社会

的義務の自覚が非常に強かったのも事実である。現在でもバローダ,ラクノウあるいはマイソー

ルなどの人々は,自分たちのかつての藩王たちの文化的寄与を高く評価している。

 独立前後のインドでは,その民族的自覚の昂まりとともに自らの文化的遺産を再評価する気運

が若者の間に盛り上がり,そうした「インド・ルネッサンス」の熱気は多くの多感な若者を音楽

を始めとする芸術へ駆り立てた。

 ボンベイで華々しくデビューしたばかりの弱冠のシタール奏者ヴィラーヤット・カーン(1924

生)と17歳のボンベイ大学の音楽青年アールヴィンド・パリーク(1927生)はこうした背景の中

で出会った。ヴィラーヤットは,サロージャン・シンフ,トラーブ・カーン,サハーブダード・

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 カーン,イムダード・カーン,イナーヤット・カーンに続く第六代目として,シタールの楽派で

 最も古い由緒あるイスラムの音楽家の家系に生まれ,幼少の頃から早熟の天才振りを発揮してい

 たが,時代の変遷期にあたり一家は極貧の生活を余儀無くされていた。一方,アールヴィンドは,

 音楽の才能に恵まれ,音楽家を夢見ていたが,敬度で裕福なヒンドゥーの実業家の長男であった

 がために,職業としては青年実業家の道を選ばざるをえなかった。こうした2人が,厳格なシタ

 ールの師匠と一番弟子,夢多き同世代の無二の親友,そして,理想的な芸術家と庇護者という深

 い絆を分かちあい,協同してヴィラーヤット・スタイルを確立しようと誓ったのであった。パリ

 ーク氏の回想によると,10年単位で練習形態は変化してきたという。最初の10年は文字通り四六

 時中寝起きを共にし,互いに修行に励んだ時期で,パリーク氏が大学から帰ると,彼のベッドで

 寝こんでいるヴィラーヤットを起こし,練習開始。練習に疲れると,一緒にヒンディ・…映画に繰

 り出した青春真只中。次の10年は,日に2,3時間一緒に集中練習という時期。続く10年は,月

 に数度指導を仰いだ研磨期,そして現在にいたる10年余は,年に数度会って音楽談義という熟成

 の時期という。40余年の精進と友情と献身とともに,青春の野望は現実のものとなった。

  アールヴィンド・パリーク氏のシターリストとしての名声は,プPtでない音楽家がプロを凌駕

 しうる希有な例として,ギターのB.カブラとともによく引き合いに出されるが,玄人受けする

 氏のスタイル,技巧に走らず(実は,技巧を聴衆に感じさせない真の技巧であるのだが)あくま

 で正統的にインド音楽の命である「ラサ(情調)」を紡ぎだしていく端正な彼独自の音楽性は,

 1955年の全インド音楽会議に於けるデビューの演奏に既に刻印されていたという。氏は現在,業

 界一の運輸関連企業体の総帥としての激務にも拘わらず,仕事を自宅に持ち込まないことを厳守

 し,毎夜半練習を欠かさない。本社からの帰路,車の中で実業家から音楽家へと見事に変身する

 のを筆者も目の当たりにして驚いたものだ。週に2度はプロ志望の弟子の指導にあて,リサイタ

 ル活動,講義,レコーディングも精力的にこなしている。カザルの王女,故ベグム・アクタルも

 彼の弟子であった。

30) ボンベイのインド政府のフィルム・ディヴィジョンに所蔵という情報があり,なんども問い合

 わせるが,いまだ所在は確認されていない。

31)船津和幸「『サンギータ・ラトナーカラ』における音楽の形而上学」,『前田専学博士還暦記念

 論集・〈我〉の思想』春秋社,1991,参照。