ー成尋と蘇東披ー|' - Kansai...

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成尋をめぐる宋人ー『参天台五棗山記倒記」二の一 筆者はかつて「参天台五壷山記割記一」と銘うち、 はじめに 日宋交通路の 成尋をめぐる ー成尋と蘇東披ー|' 旅行記の史料的債値は歴史のある時期、ある地域の姿を立 生々しく博えていることである。とりわけ=トランゼの手に 品は、見るもの聞くものすべて珍らしく、土地の人びとにとって 平凡で日常茶飯事のこと、語るに足りず記録に留める必要を認めな い事寅ですら、ある種の感慨と楡悦、時には誤解や錯覺をないまぜ に紹介して貴重である。わが平安朝の入宋巡證僧成尋が書き残した 『参天台五豪山記』四[[参記』)八巻も、その例に漏れない。還暦 を過ぎた老僧にしてはというべきか、者宿なればこそとみるべきか、 驚くべき物見高さと旺盛な知識欲とを謳使して、全篇いたるところ に中國の史籍にはない記述があり、興趣つきない内容となっている。 まさしく佛敦史や日中交渉史はもちろんのこと、政治、鰹演、文化 そして地理などに至る宋代史資料の豊庫といえよう。 問題をとり上げ、成尋の記述によって新たな視座 (1) を論證した。本稿はそれにつづく第一一弾として成 った宋人の中、宋朝の官僚に焦貼をしぽり、成尋本人が た事寅を掘り起しながら、宋代史料の一っとして彼の日記を けてみることにする。 成尋ら一行を乗せた宋船は、目指す明州(浙江省寧波)へ向うべ く定海縣、現在の鎮海縣に接岸した時、なぜか明州への入港を拒否 され、そのまま杭州瀾を西へ進み杭州へ逹した。このコースについ ては前稿において成尋の記録を辿りながら、諸先學の誤解を正しつ つ究明しておいた。その論捩というのはすなわち煕寧五年(延久四 年)四月四日條の 従港入明州、令不入明州、直向西赴越州ー港より明州に入る。 令、明州に入れず。直ちに西へ向い越州に赴むく。

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Page 1: ー成尋と蘇東披ー|' - Kansai U先ほど常時の杭州市舶司ほ杭州の知州沈立であったと述べた。で た都督沈立とほ、どのような経歴の持主なのであろうか。は、この知杭州であり成尋が姓名も偲えないまま茶湯をふるまわれ

成尋をめぐる宋人ー『参天台五棗山記倒記」二の一

筆者はかつて「参天台五壷山記割記一」と銘うち、

日宋交通路の

成尋をめぐる宋人ー「参天台五憂山記割記」二の一

ー成尋と蘇東披ー|'

旅行記の史料的債値は歴史のある時期、ある地域の姿を立騰的に

生々しく博えていることである。とりわけ=トランゼの手になる作

品は、見るもの聞くものすべて珍らしく、土地の人びとにとっては

平凡で日常茶飯事のこと、語るに足りず記録に留める必要を認めな

い事寅ですら、ある種の感慨と楡悦、時には誤解や錯覺をないまぜ

に紹介して貴重である。わが平安朝の入宋巡證僧成尋が書き残した

『参天台五豪山記』四[[参記』)八巻も、その例に漏れない。還暦

を過ぎた老僧にしてはというべきか、者宿なればこそとみるべきか、

驚くべき物見高さと旺盛な知識欲とを謳使して、全篇いたるところ

に中國の史籍にはない記述があり、興趣つきない内容となっている。

まさしく佛敦史や日中交渉史はもちろんのこと、政治、鰹演、文化

そして地理などに至る宋代史資料の豊庫といえよう。

問題をとり上げ、成尋の記述によって新たな視座が輿えられること

(1)

を論證した。本稿はそれにつづく第一一弾として成尋らが閥わりを持

った宋人の中、宋朝の官僚に焦貼をしぽり、成尋本人が知らなかっ

た事寅を掘り起しながら、宋代史料の一っとして彼の日記を位置づ

けてみることにする。

成尋ら一行を乗せた宋船は、目指す明州(浙江省寧波)へ向うべ

く定海縣、現在の鎮海縣に接岸した時、なぜか明州への入港を拒否

され、そのまま杭州瀾を西へ進み杭州へ逹した。このコースについ

ては前稿において成尋の記録を辿りながら、諸先學の誤解を正しつ

つ究明しておいた。その論捩というのはすなわち煕寧五年(延久四

年)四月四日條の

従港入明州、令不入明州、直向西赴越州ー港より明州に入る。

令、明州に入れず。直ちに西へ向い越州に赴むく。

Page 2: ー成尋と蘇東披ー|' - Kansai U先ほど常時の杭州市舶司ほ杭州の知州沈立であったと述べた。で た都督沈立とほ、どのような経歴の持主なのであろうか。は、この知杭州であり成尋が姓名も偲えないまま茶湯をふるまわれ

の文である。営時の航路は海洋から鎮海縣の突端にある有名な招賓

山に向い、用江を潮って明州に逹し、明州から餘挑江に入るや、今

度は運河を博って越州そして杭州へと向うのが普通のルートであり

讀み、明州についたものの明州への上陸を許されず、そのまま越州

へ直行したものと解繹され、杭州湾ぞいのルートは完全に無視され

てきたのである。けれども右の文は「〔定海縣〕令は明州に入れず」

と讀むのが正しく、雨江を朔上せず鎮海縣より西北へ針路をとり潤

岸ぞいに越州思胡浦へ向ったとせねばならず、こうした杭州潤を利

用したルートも厳然として残っていたことを知るのである。

ところで『賓慶四明志』巻一八・縣令條によれば、時の定海縣令

以=大理寺丞知、熙寧四年四月初一=日、到レ任、六年十月、轄II

太子中舎f

七年四月二十八日

つまり成尋らが到来する前年四月三日、李公綽は任期満了の李茂立

にかわって定海縣令につき、任期中に大理寺丞より太子中舎となり、

まる三年をへて得替したわけである。成尋が記す最初の中國官人で

(2)

あるけれども残念ながら彼の鰹歴はよく分らない。成尋の記載は、

はからずも定海縣令が海舶の登着や甫江の管理運螢に深くかかわっ

ていた朕況を示す内容といわねばならない。このことからすれば翌

年六月十二日、中國に滞まる成尋と彼の小僧二人を残して蹄國する

頼縁ら五人が、明州で乗り込んだ定海縣より差しまわしの孫吉の船

は李公綽であった。

一般の常識となっていた。そのため右文を「明州へ入れしめず」と

おそらく依然として鎮海知縣であった李公綽の差配によるもの

成尋らが本格的な交渉を持ったのは杭州の官人逹である。錢塘江

の大潮波に驚きながら湊口を運河へと入り朱橋のあたりに停泊した

一行の船は、翌日上げ潮に乗じて渾水間、ついで清水間を通り、保

安水門にあった市舶司街とおぽしきあたりに船を着けた。四月十四

(4)

日のことである。

十六日声、雨下、巳時、問官著=客商官舎f

乗嘉函子f

具11

敷多脊

麗示^著、予上

1

一官舎f

住I

¥

―屋内f

運納船物、以宕一官夫一運納、予

行コ向問官許f

付1

一申文f

一見了後返典、明日自参レ府可――猷上一者

宋代でほ廣州のほか泉州、杭州に市舶司が置かれ、さらに秀州、温

州、明州、密州へと搬充されていく。杭州のものほ淳化元年(九九

0)、一時明州に徒されたものの同六年には杭州にもどされ、のち

咸平二年(九九九)になって明州市舶司が別置されている。成尋ら

が到着して敷年ののち、元豊年開に行われた官制の改革によって市

舶司の長官である市舶使は提拳市舶司と改められ、かつ営該路の轄

運使の兼務するところとなるが、それまでは在所の知州兼任という

のが普通であり、また腸僚の判官も州の通判が兼ねていた。したが

って成尋到着時の杭州市舶使は、後で詳しく鯖れるとおり沈立、字

ほ立之ということになる。

成尋が申文を提出した問官が誰であったかは不明である。申文を

一覧して「明日、自ら府に参り獣上すべし」といえば、少くとも知

とみてよかろう。

(3)

も、

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おいて

成尋をめぐる宋人ー『参天台五壷山記劉記』二の

州沈立ではなく、さりとて「輻子に乗り敷多の咎腸を具して来著す」

(5)

る問官は軽輩でもない。この問官の業務は入港した成尋らの船と積

荷を臨検し、関税の徴牧いわゆる抽解が主たるものであるから、市

舶司の判官すなわち杭州通判か推官クラスの人物ではなかったかと

思われる。なお市舶司の規定いわゆる市舶條例には居留外國人の扱

(6)

いも含まれているため、成尋ほひとまず問官のもとに申文を提出し

たのであろうが、後日この問官は成尋から一一一貫文の心づけを贈られ

「問官の恩は不可思議なり」といわしめるほどの配慮をみせている`o

それにしても市舶司の臨検官を問官の語で表わすなど入宋直後の成

尋にできる造語ではない。おそらく営時用いられていたものを宋船

の人びとに示されるがまま書き記したものに違いない。いつに愛ら

ぬ官界のおどろおどろした状況とあわせて興味を引くところである。

さて問官の指示に従って府街に天台山巡拝の許可を求める申文を

(8)

提出することになった。幸いにも陳詠なる通事を得た成尋は府衡に

〔四月〕廿六日立、辰時〔陳〕詠共参レ府、猷下参11

天台山一由申

文5

於レ廊可品印茶一由有レ命、郁向レ廊喫レ茶、次従

1

一都督内f

以――ー

新去

1

一茶院f

銀花盤送二香湯f

飲了、見物之人清々也、退出了

と都督より格別に茶と香湯をふるまわれた次第を紹介する。客を迎

(9)

えるに茶を貼じ、客を送るに湯を獣ずるというしきたりを踏まえた

供應ぶりである。ここにいう都督とは知州のことであり、知州が民

政だけでなく軍事まで一元的に掌握したことに由来する稲呼で、知

(10)

州街を都督顧という場合もあった。宋の官制を知らないはずの成尋

が「都督の門を見るに日本の朱門の如し」、あるいは「都督の北ノ

方、市中より過ぎ行く」と記しているのほ、これもまた宋人の敦示

によるものであろうから、世俗一般に知州を都督の名で呼ぶのが慣

(11)

例化していたことを物語っている。

先ほど常時の杭州市舶司ほ杭州の知州沈立であったと述べた。で

は、この知杭州であり成尋が姓名も偲えないまま茶湯をふるまわれ

た都督沈立とほ、どのような経歴の持主なのであろうか。

沈立、字は立之、歴陽(安徽省和縣)の人である。『宋史』巻―――

―――――一に本偉があるほか楊傑の『無為集』巻―二所牧「右諫議大夫沈

公稗道碑」が成尋入宋頃の動向を偲える具髄的な資料としてある。

(12)

父は天聖二年

(10二四)に卒した光祗少卿沈平。本偲によれば進

士及第ののち策書盆州判官をふりだしに雨浙轄運使、三司戸部判官

となり、もっばら水利、鰹演畑を歩んだ。彼が盆州において著わし

た『河防通議』は河水防治のための主要テキストとなり、また雨浙

轄運使時代に通商法の賓施を求めて世に問うた『茶法要覧』は、三

司使張方平に推賞採揮され、やがて戸部判官として中央に迎えられ

ることになる。のち冊證使として契丹に赴き、京西・京北轄運使に

(13)

轄じたが、治水に一家言を持つ彼には、つねにその方面からの諮問

(U)

があったようである。さらに集賢修撰・知愴州より右諫議大夫・判

都水監に入り、江淮痰運使、知越州そして知杭州に任ぜられたので

ある。雨浙轄運使のとき以来、二度目の杭州生活であるが『乾道臨

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積巻敷萬」といわれる大蔵書家であり寅務型の文人官僚であった沈

は『監策縮類』

(15)

安志』巻三によれば、知杭州となったのほ熙寧一―一年十二月、知青州

ヘ轄じた趙抹のあとをついだものである。彼が知審官西院として中

(16)

央に召されたのは熙寧五年五月十六日のことであるらしいので、知

杭州在任はわずか一年半である。後年、江寧府に轄出し知宜州とな

り、『績資治通鑑長編』(旦ii長編』)巻二八七によれば

元豊元年春正月甲寅、右諫議大夫・提學崇穂観沈立卒

という。『宋史』本侮に七二歳卒とあれば、知杭州時代の沈立は六

四・五歳にあたる。

(17)

沈立は審官西院時代に『新修審官西院救』十巻を編纂したのち

(18)

『都水記』二百巻、『名山記』百巻を獣上している。このほか彼に

『賢牧偉稽正辮訛』

『錦譜』といった文集

あわせて百巻があった。盆州時代すでに「悉く公粟を以て書を筈い、

立が、時の賓力者王安石とどのような関係にあったのかを示す積極

的な資料はない。とはいえ『元祐鴬籍碑』などにもみえず、新法全盛

のとき衝替を得て中央へ迎えられ、また逆に王安石が宰相職を辟し

た頃に再び外任を授けられている事賓を勘案するならば、賓務型の

彼は王安石寄りの人物とみたほうがよいのではなかろうか。ともあ

れ成尋入宋の後ほどなくして沈立は知杭州より知審官西院に擢んで

られて都に上ることになるわけである。その彼が成尋らに示した態

度は懇切であったらしく、

一行が宿泊した抱剣螢の客店主張――一郎と

船頭の呉鋳とが府題から蹄ってきたとき「知府都督の大師の為にす

『香譜』

杭州

る其の志は丁寧なり」(戸直そ暉配)と語っており、わざわざ使いを走

らせ上紙四帳に上筆一管をそえて日本の仮名を書いて欲しい旨を申

入れるなど(韮箋贖配)、異國に封する深い閥心のほどを見せている。

前にもふれた『参記』巻ニ・熙寧五年六月五日條に、前日台州よ

り持ち蹄った杭州牒の案文が貼付されており、長文であるが煩をい

とわず全文を掲載すれば以下のとおりである。

公移付客人陳詠

移日本國僧成尋、昨今杭州巡證、欲往台州天台山、燒香供養羅

漢一回、成尋等是外園僧、恐閥津口本被人推問無去著、乞給公

移随身照會、井移明州客人陳詠朕、昨於治平

1

一年内、往日本國

買賣、典本國僧成尋等相識、至煕寧二年、従彼國販載留黄等、杭

州抽解貨賣、後末一向只在杭蘇州買賣、見在杭州把剣螢張一二客

店内安口、於四月二十日、在本店内、逢見日本國僧成尋等八人、

稲説従本園乏海前来、要去台州天台山燒香、陳詠作通事、引領赴

ママ

杭州、今甘課遂僧同共前去台州天台山燒香、廻来杭州、超船却

蹄本國、井移把剣螢開張客店百姓張賓吠、四月初九日、有廣州

客人曾疑等、従日本國博買得留黄水銀等、買来杭州市船司抽解、

従是本客船上附帯本國僧人成尋等八人出来安下、今来却有明州

客人陳詠、輿遂人相識、其陳詠見在江元店安下、本人情敦甘深遂

ママ

僧同共往台州、得前去台州天台燒香、廻来杭州、超船却蹄本國、

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杭州、公移もて客人陳詠に付し、日本國僧成尋〔の朕を〕移するに

「昨今、杭州を〔出でて〕巡證し、台州の天台山に往きて羅漢に燒

香し供養すること一回せんと欲す。成尋等は是れ外國の僧にして、

おうらい

開津口にて本より人の推問を被むり去著無きを恐るれば、乞うな

らく公移を給わり身に随えて照會せんことを」とあり。井た、明

州の客人陳詠の吠を移するに、「昨、治平二年

(10六五)内に

かの

於いて、日本國に往きて買賣せしとき、本國の僧成尋等と相い識

れり。煕寧

1

一年

(10六九)に至り、彼の國より留黄等を販載し、

ひたすら

杭州にて抽解し貨賣す。後末、一向に只だ杭・蘇州に在りて買賣

いま

し、見は杭州把捌螢の張一―-〔郎〕が客店内に在りて安一国せり。四

成尋をめぐる宋人ー『参天台五壷山記劉記』二の一

根トi

ふ↑

茫ド委虎

ママ

如賂来却有異同、各甘深罪、不将看、右事須出給公移、付客人

陳詠、牧執引帯本國僧成尋等八人、前去台州天台山燒香屹、依

ママ

前帯領遂僧廻来嘗州、超船却蹄本國、依台州傲此公移超州、在

ママ

路不肯別致東西及違非留帯、如連罪蹄有慮、熙寧五月初三日給

櫂観察推官呂甫

月二十日に於いて本店内に在りて日本國の僧成尋等八人に逢見た

るに稲説らく、『本闊より海に迂びて前来り、台州天台山に去き

て燒香せんことを要む』と。陳詠は通事と作り、引領して杭州に

赴く。今、課〔罪〕に甘んじて僧を遂り同共に台州天台山に前去て

燒香し、杭州に廻来り船に趣きて本國に却蹄さん」とあり。井た、

把剣螢にて張客店を開ける百姓張賓の朕を移するに、「四月初九

日、廣州の客人曾豪等有りて日本國より博買し、留黄、水銀等を

得、買末り杭州市舶司にて抽解せり。是れ従り本客船上に附帯せ

かの

る本國の僧人成尋等八人、出で来たり〔張客店に〕安下す」と。

今来、却た明州の客人陳詠有りて逐人と相い識れり。其の陳詠は

見、江元店に在りて安下す。本人の情敦として「課〔罪〕に甘ん

じて僧を遂り同共に台州へ往き、台州天台〔山〕に前去て燒香す

るを得たれば、杭州に廻来り船に趣きて本國に却蹄さん。如し賂

来、却た異同有れば、各おの課罪に甘んじて照看せず」とあり。

右の事、須らく公移を出給して客人陳詠に付し、〔日〕本國の僧

成尋等八人を牧執し引帯して台州天台山に前去て、燒香し屹らば、

前に依りて帯領し、僧を遂りて営(杭)州に廻来り、船に趣きて

本國に却蹄すべし。台州に依り此の公移を傲めて州に趣き、路に

ゆる

在りては別に東西を致し、及び違非し、留帯(滞)するを肯さざ

およ

れ。如し罪に連べば、蹄するに虞有らん。

煕寧五〔年五〕月初三日、給す。

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目原本員)

右牒文の内容が日宋交渉史に得難い貴重資料であることほ誰しも

認めよう。そのいくつかを示せば、

一、成尋らを乗船させた廣州商人曾豪逹ほ留黄、水銀等を日本よ

り博買して蹄國し杭州市舶司にて抽解すなわち闘税を支彿った

一、成尋ら外國人は前出申文を知州のもとに提出し、入國の報告

と國内移動の許可を求め、かつ中國の公移つまり。ハスボート・

ビザないし通行手形を求めたこと

一、従来、彼我の史乗に現われない陳詠なる明州商人が、それま

(19)

でに五度も日本に渡り留黄等を舶載した経歴の持主であること

一、来航者を宿泊せしめた客店主は、その旨を必らず官街にとど

ける義務があったこと

などである。成尋の申文に添付されていた陳詠の書吠から、治平1

1

年(日本治暦元年・一〇六五)すでに陳詠と知りあい入宋の計畳を

こと

(り原本は櫂宦回原本は季り原本大

尚書比部郎中通判軍州事

右諫議大夫知軍州事

尚書比部員外郎策書節判題公事

太常博士直史館通判軍州事

沈劉蘇徐直ご立:

観察判官

櫂節度推官

許季:直ご疏:

(口)

て検討しよう。

のことほしばらく置き、

着々と進めていた成尋の姿が浮ぴ上ってくる。また官牒における書

(20)

式、署名押捺の序次などについても恰好の資料となるのは申すまで

もない。

さて大日本佛数全書本の考證では、右牒文の登給を「熙寧五年六

月初一_一日」とするが、その誤りであることは右牒文と並び記された

台州牒が六月初一日付であることから明らかである。したがって末

尾にみえる「右諫議大夫知軍州事沈」は、知杭州軍州事沈立でなけ

ればならない。彼の知審官西院任命が五月十六日であることを知れ

ば疑う餘地はあるまい。ただし後述するとおり沈立が杭州を去った

のは熙寧五年八月、奇しくも成尋らが天台山を去り知杭州の配船に

乗り沐京へ出立したのと前後するのである。

宋代の官制では知州の専横をチェックする機闘として通判〔杭〕

州軍州事、略して通判を置いたが、その敷は重要な州で二人、普通

ほ一人である。本来は知州より一等低いものの監州とも稲されるほ

ど知州に到する櫂限を賦典されていたが、次第に財政捲営の展僚と

なり下っていっ祖杭州は大州として通判二人であり、成尋が日記

に貼付してくれた杭州牒によって、それが沈立の知州時代にほ劉某

と蘇某であったことを知ることができるのである。雨名の中、劉某

マr

「太常博士直史館通判軍州事蘇立」につい

王安石執政下の杭州通判として念頭に浮ぶのは蘇試である。煕

寧四年、有名な李定事件と並行して新法派による蘇試弾劾事件が起

, ノ‘

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従来、

った。すなわち李定を辮護する新法派の侍御史謝景温が、父蘇洵の

柩を故郷の眉山へ護送するとき他人の船を使用し、官僚としてある

(22)

まじき商賣を行ったと告稜したのである。李定・蘇試いずれも新・

薔雨派の加害者であり被害者でもあったわけであるが、雨派入り羅

れての非難攻撃に政界は混迷の度を加え、蘇試はついに外任を願い

出た。この時、知州の資格を有するにもかかわらず穎州(安徽省阜

(23)

陽縣)通判のボストが準備された。しかし紳宗直ぢきのほからいに

より通判中でも格の高い杭州に任命されることになった。時に熙寧

四年六月、杭州着任が十一月、ちょうど成尋入宋の半年前のことで

ある。爾

来、三年の任期いっぱいを勤めあげ密州(山東省諸城縣)知州

となり杭州を去ったのが熙寧七年九月であった。この開、成尋もや

がて深くかかわりあう旱魃が全國を襲い、中央政界でほ新法への非

難反撥を増幅させ、蘇試が密州へ赴くより早く王安石ほ宰相の座を

辟し、翌八年二月に返り咲くまで江寧府(南京)の知府に退くこと

になる。司馬光や蘇試、蘇轍らを中央へ召喚すべきだとの聾もつい

に聰きとどけられず、蘇試はわずかに遅れて密州へ配轄されるので

ある。したがって前出の杭州牒にみえる「蘇立」とは、まさしく蘇

試その人でなければならない。

『参記』を讀み、

かつこの杭州牒を利用した先學者逹が

「蘇立」に閥心を示さなかったのは、割合い手蔓の得易い知州にひ

きかえ通判以下は特定し難いということ、なによりも「蘇立」と解

成尋をめぐる宋人ー『参天台五壼山記劉記』二の一

できなかったとしても、決して咎められるものではない。

讀した日本佛敦全書本に影響され、蘇立なる人物と誤解したことに

よるのであろう。それは抄本の東輻寺本が呂甫、季(李)疏、許直、

徐口、蘇立、劉直、況口と作るがためであり、したがって徐某は下

端の故にカットされ、沈某も偲寓の聞に鋏落したものと判断して無

理はない。しかし姓ほともかく名はいわゆる押字・押名にほかなら

ず各人獨自に創意工夫をこらしたサインであれば、必ずしも素直に

讀める代物ではない。事賓、蘇試の場合でも「蘇立」と作られてい

るとおり、成尋が貼付しておいた牒案を抄寓するとき如上の文字に

誤ったものと思量する。

押字について、成尋入宋時に生れた葉夢得の『石林燕語』巻四に、

唐人、初未レ有↓ー押字f

但草コ書其名f

以為=私記f

故琥11

花書f

章捗五雲盟、是也、余見11

唐詰書名f

未レ見

I

I

一楷字f

今人押字、

或多

1

一押名f

猶是此意、王荊公押石字、初横一壷、左引レ脚、中

為I

I

―圏f

公性急、作レ圏多不レ圃、往往腐匝、而牧

1

一横畳f

又多11

幣過f

常有下密議

I

I

公押万字―者5

公知レ之、加レ意作レ圏。

と王安石のものを例にあげている。唐代中期には始まっていたとみ

られる押字も、草名艘のほか種々の書證を派生するが、葉夢得の記

載をもとに推しはかれば北宋時代の官文書では一字騰つまり名諒を

デザインした程度であり、成尋の杭州牒が恰好のサン。フルといって

よかろう。簡箪な王安石の石ならばともかく、蘇試の試押子を判讀

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誰か分らない。直が劉某の詭押字であることは勿論である。杭州通

判時代の蘇東披詩に現われる劉某としては劉恕(道原)、劉季孫、

劉放などの名が掲げられるが、いずれもこれに該営しない。今『宋

史』巻四二六・循吏偲の魯有開・字は元翰の偉をみると、知南康軍

より都に還ったとき王安石に江南の状況如何を問われ、新法が寅施

されたばかりでまだ弊害は現われていないものの、今後が問題でし

ようと答えたため、「出されて杭州に通判たり」とある。この魯有

開こそ蘇試の詩にしばしば現われる魯少卿にほかならない。「九日、

、、、

舟中より有美堂上に魯少卿が飲する慮を望見し、詩を以て之に載

る」(吋嘩で)、「元翰少卿、谷廉の水一器、龍園二枚を寵恵され、

(24)

俯って新詩を以て販と為る。歎味して已まず、次韻して和し奉る」、

「元日、丹陽を事る。明日は立春なれば魯元翰に寄す」(四噂野』)な

どの作品によって蘇試ときわめて親しい同僚であったことが分る。

初見が施宿の『東披年譜』どおり熙寧六年九月作「九日、舟中より

云云」の韻だとすれば、南康軍より杭州に轄じたのは同年の中頃と

(25)

せねばならない。よって成尋の杭州牒にみえる前通判の劉某は熙寧

六年の夏まで在任していたとみてよいであろう。今のところ身近に

あった蘇試の作品を介しても手懸りを得られないのは惜いが、ある

いは二人の疏遠な関係に新法・薔法雨派の封立を想定してよいのか

もう一人の通判、すなわち「尚書比部郎中通判軍州事劉直」とは

と詠っていることから推測できる。沈立を審官西院に任ずる「詔

西湖西畔北山前

北山の前

忘るる莫かれ

詔書行捧棲金賤

架府應歌相府蓮

詔書行くゆく捧げん

線金の賤

相府の蓮

ひら

今年花稜きし慮

水仙も亦

ことさら

故に雙蓮をして一夜に開かしむ

更に幾回か来たるを得んと

湖上棠陰手自栽

問公更得幾回末

水仙亦恐公蹄去

公の蹄去するを恐れ

故遣雙蓮一夜開せ

「沈諫議、召して湖に遊ばしむるに赴かず。明日、雙蓮を北山の下

に得たり。一絶を作り持して獣ず。沈、既に和せられ、又、別に一

(26)

首を作る。因って其の韻を用う」と題した蘇試の初首である。同僚

時代わずか半年餘とはいえ、知州沈立との交りを語る和韻は皆無で

あって、わずかに残る「和沈立之留別二首」(麟玉で)ともども沈立

を送る詩にとどまる。おそらく別離の宴を沈立自らが張ったにもか

かわらず出向かなかったものであろう。それは「留別」第二首に

莫忘今年花痰慮

架府應に歌うべし

西湖の西畔

書」が登せられたのは五月十六日。したがって前韻をものしたのほ

「留別二首」の作られた八月までの開とみられるが、沈立の後任陳

襄との交遊ぶりと比較する時、沈立と蘇試の仲はさほど親密なもの

であったとは思われない。小川環樹氏が「和沈立之留別二首」の注

に「蘇試は沈立とは政治上の立場を異にして、心を許しあう閲柄で

も知れない。

湖上の棠陰

きみ公

に問う

・っ

手自ら栽う 八

Page 9: ー成尋と蘇東披ー|' - Kansai U先ほど常時の杭州市舶司ほ杭州の知州沈立であったと述べた。で た都督沈立とほ、どのような経歴の持主なのであろうか。は、この知杭州であり成尋が姓名も偲えないまま茶湯をふるまわれ

成尋をめぐる宋人ー『参天台五棗山記劉記』二の一

した

孤山寺下水侵門孤山寺下水は門を侵す

上記の詩中、

(33)

られている。

「呂穆仲寺丞に寄す」は熙寧八年、密州での作とみ

はなく、先の詩を含めて儀證的であるのを免れない」(譴顎遵環g立)

(27)

と述べられているのほ正鵠を射ていよう。通判劉某との開係も同然

であったに違いあるまい。

成尋の杭州牒に署名する官人の中、蘇試の詩文より手懸りが得ら

れるのは、「櫂観察推官呂甫」である。それは熙寧五年七月上旬の作

かえ

とされる「径山より回り、呂察推の詩を得たり。其の韻を用い、之れ

(28)

を招きて湖上に宿す」、翌六年春とみられる「曾元恕、龍山に遊ぶ。

(29)

呂穆仲は至らず」および同年五月の「五月十日、呂仲甫・周邪、僣

の恵勤・恵思•清順・可久・惟粛・義詮と同に湖に乏べて北山に遊

(30)

31)

ぶ」、そして「呂穆仲寺丞に寄す」である。

呂仲甫、字は穆仲、河南の人である。祖父は太宗・員宗の二代に

仕え「國朝以来、三たび相に入る者は、惟だ趙普と呂蒙正とのみ」

(戸頌笠)と懇された名臣呂蒙正(九四四

-101―)である。また

父の従兄には呂夷簡(九七八—10四一―-)がおり仁宗時代に参知政

事・同平章事となり、前後十餘年にわたり宰相のボストにあった。

呂仲甫の俸はないけれども河北西路提貼刑獄、京東路提貼刑獄、登

(32)

運副使、戸部侍郎などをへて知部州、さらに知荊南となっている。

蘇試の「呂穆仲京東提刑制」(麟謬文集』)も残っており、雨者がいか

に親しい開柄であったかを物語ってくれる。

廻首西湖員一夢

我れも亦来り尋ぬ

灰心霜饗更休論灰心霜贅

これによって、呂仲甫ほ蘇試が密州に轄ずるよりも早く、杭州を去

って都に上ったことが分るのである。

ところで前出の察推とは観察推官の略である。普通にこれら幕職

官の任期は一一一年。したがって呂仲甫が観察推官の任にあったのは、

煕寧八年より逆算しても成尋の杭州牒に記される「櫂観察推官」と

は完全に重なりあう任期となる。さらに緯の一字を形様化するとい

う一字髄の花押を念頭に置くならば、杭州牒の「呂甫」とは明らか

に呂仲甫以外には考えられないのである。かく蘇試の詩によって

『参記』の空欄が美事に埋められるばかりか、成尋の記録によって

呂仲甫が正しくは櫂観察推官であり、熙寧五年五月には杭州にあっ

た事寅を知ることができるのである。

ママ

残念ながら策書節判題公事徐某および観察判官許直については明

らかにし難く、蘇試の作品にも、杭州通判時代には徐・許雨姓に屡

する人物はみえていない。最後の櫂節度推官季疏についてほ季を李

の誤りとして李疏に訂正するならば、やはり蘇試の詩にそれとおぽ

中郎不見典刑存

、、、、、、、

君先去踏塵埃阻

、、、、、、、

我亦来尋桑棗村

首を廻らせば

西湖ほ員に一夢

更に論ずるを休めよ

桑棗の村

中郎見ざれども典刑存す

、、、、、、

君先ず去って踏む塵埃の陪

毎到先看酔墨痕到る毎に先ず酔墜の痕を看る

楚相未亡談笑是楚相未だ亡ぜず談笑是なり

Page 10: ー成尋と蘇東披ー|' - Kansai U先ほど常時の杭州市舶司ほ杭州の知州沈立であったと述べた。で た都督沈立とほ、どのような経歴の持主なのであろうか。は、この知杭州であり成尋が姓名も偲えないまま茶湯をふるまわれ

煕寧六年正月下旬から二月上旬にかけて、蘇試は行部つまり杭州

管轄の諸縣を巡察に出かけた。その道中の第一作に「富陽・新城に

往く。李節推、先に行くこと三日、風水洞に留まりて待たる」があ

る。第三連で「路長く漫漫として江浦に傍う」と詠うように、錢塘

江に沿って上流の富春江北岸に位置する富陽縣に逹する。ここより

西南につづく新城縣、杭州より西南約八

0キロメートルにある現在

にいたる十四首を、第

1

一連に「此の開、我が吟無かる可からず」と

鴨く道中の作に比常されているが、これらの詩ほ嘗時における杭州

ー富陽ー新城閲のルートを明らかにする興味深いものとなっている。

李節推が待っ風水洞ほ杭州の西南方おおよそ一―

-0キロメートル、薔

(35)

名恩徳院、蘇試の頃には慈巖院と稲する寺院内にあった。この道中

(36)

の作には「風水洞、二首。李節推に和す」があり、行部に同行した

ママ

李節度推官こそ杭州牒の櫂節度推官李疏であろうと考える。

李節推を「霙隠寺に遊び、戯れに開軒李居士に贈る」の李居士と

する説がある。この詩は『東披詩』などにはみえず『東披七集』の

『績集』巻二や『外集』巻四に載せており、査慎行『補注東披編年

詩』は『外集』李居士の原注に、「李泌節推」の四文字が加えられ

ていることから李居士を李似、すなわち李節推であろうというので

ある。李悩の博歴は詳かでなく、李居士を李悩と速断することには

躊躇するけれども、節度推官李悩の存在は認めてよいように思う。

の城陽に向うわけである。先學によって右の詩から「山村、五絶」

しき人物がいる。

少くとも他に比定しうる者が存在しない以上、杭州牒の李某は蘇試

の李節推であり、李悩なる人物であるとしておきたい。

台國清寺に到着、佛蹟巡拝をすませた成尋ら一行は、その開に五豪

山参詣の申請を行い、神宗の救許を得ることができた。かくして同

年八月六日に國清寺を痰ち、天姥山闘嶺を越え曹峨江を小舟で下り

東闘にて杭州の大船に乗りかえ、同月廿一日に杭州へ蹄着すること

になる。翌廿

1

一日條に、

ママ

雨下、辰時、借レ輻葉(参)コ向轄運使衡f

有ii

官人四人f

-

―一人著

I

I

一人著孟諏杉↓貼

1

一茶湯f

送I

I

大船一由有レ命、

次央含提拳

街二也茶湯f

悠雨大下f

不レ皇知府都督井通判街―(鱈重』)

と述べている。轄運使とは雨浙轄運使のことであり、この頃の轄運

(37)

使街ほ雙門の北にあって南街・北街に分れていた。

成尋が轄運使衡を訪れたのには理由がある。それは天台山より越

州に到着したとき韓運使と鉢合せしたからである。

十二日幻、天晴、午時、墨越州新大船f

轄運使被レ渡

1

一杭州f

以1

1

、、、、、、

崇班細炉示云、於

11

杭州―奉レ謁者。越州官人上下、以

1

一女舞架船f

恩轄運使f

儀式不レ四注璽(麟認戸炉)

雨浙轄運使が越州を視察し、今ちょうど杭州へもどるところに遭遇

黒杉f

したわけである。すでに救許を得て都へ上ることになった日本僧一

熙寧五年五月四日、杭州をあとに天台山へ向い、同月十_―-日に天

10

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行を無視することもできず、杭州到着後の再會を約束したのであろ

うが、成尋もまた約束に應えて表敬訪問したものである。

談』で有名な沈括が検正中書刑房公事として雨浙路を巡察したとき

の報告に、浙東の温州・台州などは煕寧四年以後、監司の視察を鰹

験したことがなく、業務は麿弛し貼検する人もないと述べたのち、

蓋し、監司は止だ浙西(杭州)に在り、船に乗りて往来するの

み。文移芳午して指揮は一ならず、州縣は之れに適従する莫し。

遠民は赴懃する所無く、近瓢応欝迎犀む。(韓疇麟墨

翡虹)

と指摘しているが、成尋の記録はその貼を鮮やかに描寓しているよ

うである。

杭州にて轄運使街に参上した成尋ほ緑杉の一人と黒杉の三人に面

會したという。宋代の制度では唐代の制にならい、官人の朝服を一――

品以上が紫、五品以上が朱、七品以上が緑、九品以上が青と定めて

いる。ただ紳宗のいわゆる元豊の官制改革より已降、紫衣ほ四品以

上とし、六品以上は緋、九品以上が緑に改められ、緋・紫を著ける

(38)

者は必らず魚帯を侃びる。これを章服といった。成尋の場合は改革

以前であるから緑衣ほ六・七品とするにしても、黒杉にあたるもの

が無い。これについて示唆を典えてくれるのは沈括の『夢漢筆談』

巻――-.辮證である。沈括ほ熙寧年開の沐京あたりで、皇族やその縁

故者逹に紫衣を着るのが流行り、その紫ほ黒紫と稲され邑と見紛う

(39)。

ぼかりの色であったと述べている玄を説明してのことだが、これ

成尋をめぐる宋人ーー『参天台五壷山記劉記』二の一

『夢湊筆

によって玄色に近似の紫杉であったことが判明する。『宋史』輿服

志五にも熙寧九年に「朝服の紫色にして黒に近きもの」の使用を禁

じており、服制の風れを物語るばかりでなく、成尋が黒杉とみたの

(40)

は紫杉であったことを傍證してくれる。

ちなみに轄運使の下には副使、判官を置くとはいえ必ずしも一様

(山)

ではなく、置廃ともども明確ではなし。雨浙轄運使の場合、至道一――

年(九九七)に東・西が一路として扱われて以来、熙寧七年

(10

七四)に沈括の上奏により再び雨路に分れるまで使・副使併存であ

ったと考え、成尋の記すいわゆる黒杉――一人を、轄運使・副使・判官

(42)

にあてたいのであるが、残念ながら管見の及ぶところ、それを裏づ

ける資料を見出せない。また雨浙轄運使の任にあった者も熙寧一一一年

八月、祖無揮・苗振の事件で副使に降格された太常寺少卿賣昌衡が

(g

翌四年五月、濯宿に代って櫂堕鐵副使となるまで雨浙轄運使が新た

に任ぜられたとも思われず、さりとて彼の後任も明らかでない。わ

ずかに越えて熙寧七年九月、雨浙路轄運使王庭老の名があるものの、

翌八年冬十月に呂恵卿と朋附したかどで罷免されているところをみ

a)

れば、買昌衡と王庭老の閲に、もう一人の轄運使を想定するのが理

にかない、それが成尋と交渉を持った人物とすべきかも知れない。

轄運使衡に参上したものの「雨大いに下るに依って知府都督、井

びに通判の衡に参らず」、そのまま杭州を後にした成尋であったが

翌年五月廿一日、沐京より杭州へもどった時、知州都督および通判

に面會することが出来た。

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廿一日怒…・・・中略……次参

1

一知府舎人許f

人々喫レ酒之開、不レ

燭案内

f

還了

廿二日奸、天睛、辰一貼、皇通判學士f

但船申文典レ判、劉殿

直申文也、次参ー通判郎中許f

二人共有レ貼

1

一茶湯f

次参

1

一知府舎

街f

有i

i

茶湯

1

右の知府舎人が前年五月十六日付をもって知審官西院に昇った沈立

のあと、知杭州となった陳襄、通判郎中が尚書比部郎中通判軍州事

劉某、そして通判學士が蘇試であることは領解できよう。

陳襄

(10一七

S八0)字は述古、侯官(-幅建省閾侯)の人であ

(45)

る。慶暦二年

(10四二)進士及第ののち建州浦城縣(扁建省)主

簿をへて、台州仙居縣令となり、皇祐三年

(10五一)に著作郎・

知孟州河陽縣に轄じた。やがて仁宗朝の名臣富弼に見出され、嘉祐

二年

(10五七)に太常博士・秘門校理、明年には判尚書詞部、同

六年には知常州となっている。英宗時代には開封府推官、顎鐵判官

を歴任、神宗朝に入ってからはエ部郎中、刑部郎中さらに侍御史知

維事などをへたが、富弼と同様に新法を批判したあげく王安石、呂

(46)

恵卿を貶斥して天下に謝すべしとまで激しく非難したため新法振の

憎しみを買った。彼のオ覺を高く評償していた紳宗は、王安石らの

反封を押して試知制詰に任じ中央に留めようとしたが、空氣を察知

した陳襄は、自分の主張が通らなかったことを理由に外任を求めた。

王安石が彼のために準備した映西韓運使のポストにもかかわらず、

紳宗が懇ろに辟退する彼を慰留し、修起居注そして知制詰兼直學士

院に進めているのも、紳宗がいかに期待していたかを物語る。逆に

憎しみを増す新法振は小失をあげつらい、知陳州へ追いおとすこと

に成功する。かくて成尋入宋の年、沈立にかわって知杭州となった

(47)

わけである。

孫覺の「古霊先生墓誌銘」に記すように、故郷の侯官縣古霊にち

なんで古霊と琥し、文集二五巻を『古霊集』という。その巻首に牧

める「熙寧罷筵論薦司馬光等――-+――一人章藁」は、かつて紳宗が用う

ペき人物を問うたとき陳襄が司馬光、韓維、呂公著ら=―-―-名を列學

したものである。中に詞臣として時の尚書祠部員外郎・直史館・櫂

知河中府事蘇試の名があり、かねがね蘇試を評債していた事寅を偉

えている。なお陳襄は杭州にあること一一年、『咸淳臨安志』によれ

ば應天府に轄任したといい「行吠」にはまた煕寧八年、通進銀豪司

(48)

兼門下封駁事・提奉進奏院となったことを紹介している。そして元

豊三年

(10八0)三月十一日、判尚書都省をもって卒し、給事中

を贈られた。春秋六十四であった。

共に王安石を政敵とし、新法派によって貶鏑された陳襄と蘇試が

杭州に相いまみえたのである。雨者の感懐いかばかりであり、交誼

いかに展開したかは推測するに難くない。熙寧五年八月、前任者沈

立の留別に和した直後、着任早々の陳襄に猷じた「陳述古の拒霜花

に和す」を初韻として、二人の交遊ぶりを詠い上げたものは多く、

陳襄にも「蘇子瞭通判の告中に在りて、余の出郊するを聞き、詩を

らる

(49)

以て寄せ見るに和す」ほか爾答の詩詞を残している。

「陳述古の拒

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霜花に和す」

喚作拒霜知未稲

細思却是最宜霜

は秋風や霜を王安石ら新法派に、木芙蓉を陳襄に瞥えたものと解す

るのは正しいであろう。通り一遍に留別の韻で壷きた沈立との差は

きわだっている。

蘇試の年譜によれば、成尋が天台山より沐京に向う途中、杭州に

滞在した熙寧五年八月廿一日直前まで、折しも行われていた科拳の

らかである。

只だ芙蓉の獨り芳しき有り

喚びて拒霜と作す知んぬ未だ稲わざるか

細ら思えば却って是れ最も霜に宜し

豫備試験である解試の監試をつとめ、

1

一十日あまりを鳳凰山中腹の

中和堂にこもっていた。八月十五日稜表の豫定が遅れて十七日の放

膀となったことは「八月十七日、復たび望海棲に登り、自ら前篇に

(50)

和す。是の日、膀出ず。余、試官雨人と復たび留まる、五首」に明

八月十五日夜の「試官の考較を催して戯れに作る」韻

に錢塘江の観潮につき七・八連に

八月十八潮

朕観天下無

朕観

八月十八の潮

天下に無し

と詠じており、杭州に着任いらい最高の海嘘を紐瞼していない蘇試

が、文字どおり眺望するのに絶好の望海棲に「復び留ま」

成尋をめぐる宋人'~『参天台五壼山記劉記』二の一

只有芙蓉獨自芳

(『東披詩』)の

巻一四

千林掃作一番黄

はら

千林掃いて一番の黄を作し

ったもの

と思われる。成尋は「雨大いに下るに依」って参上しなかったが、

知州陳襄にはともかく、参上しても通判蘇試には面會できなかった

可能性が強い。

蘇試は成尋入宋の年十二月、松江の提防を改修する工事のため北

方の湖州に赴き秀州をめぐっており、翌熙寧六年十一月にも、この

年から始まる大旱魃に見舞われた常州、潤州などの被災地巡察と飢

民救清にあたっている。しかし成尋が沐京から杭州へ蹄還した煕寧

六年五月にほ杭州に居すわっており、ここに二人は面談することが

でき、蘇試ほ成尋らの出航許可書に印判し茶湯をふるまったのであ

る。成尋はこの通判學士が後年わが國に大きな影響を典える人物と

は、夢にも思わなかったに違いない。具罷的なことは何も語らず姓

名さえ記していないのは惜まれる。

註(

1

)

「日宋交通路の再検討ー参天台五壷山記劉記一」品田五鰐辛『文化

史論叢』上)、同績(『史泉』六七琥)。

(

2

)

哲宗の時、煕河妓用李公緒なる者がおり(『績資治通鑑長編』巻五

0-、元符元年八月條)、排行よりみて同族と思われる。

(

3

)

『参記』巻八・煕寧六年六月十一日條に「夜前後孫吉船五人来由申

ママ

了。但定海縣可送日本船由、可被賜丁文由了」とある。

(

4

)

「四月十四日唸午時潮渦、人々多来、開河中門戸入船、上河敷里、

又開水門入船、大橋雨虞、皆以石為柱、井具足物以貴丹蜜荘厳、申時

著問官門前、云云」とある。

(

5

)

前出『参記』巻一・熙寧五年四月十六日條゜

(

6

)

藤田豊八「宋代の市舶司及び市舶條例」(『東洋學報』七ーニ、のち

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『東西交渉史の研究』南海篇)。

(

7

)

『参記』巻一・煕寧五年四月十八日條「錢三貫借、送問官、開封後

ママ

可返者」。また同月廿日條に「巳時、以快宗供奉為首六人、遣問官市、

申時沙汰了、如員以小船運来、問官之恩不可思議也」とある。

(

8

)

陳詠は排行により陳一郎とも稲している。後に引用する巻二の杭州

牒に陳詠の状が記されており、治平二年(治暦元年、一〇六五)に日

本へ赴き交易に従事しているとき成尋らと知りあったという。偶然の

ように記すが到着直後の四月十九日、杭州把剣螢の張三郎がホテルで

の出會いといい、すでに日本滞在中、雨者の間に密約があったと思わ

れる。巻一•四月十九日條に突然のごとく「陳一郎来向、五度渡日本

人也、善知日本語、申云、以陳詠為通事、可参天台者、乍悦約束了」

とあるのはその證である。原美和子氏ほ五度目の日本来航を治平二年

そのものとし、四年滞在ののち熙寧二年(延久元年・一〇六九)杭州

に蹄着したとされるが(「成尋の入宋と宋商人ー入宋船孫忠説につい

てー『古代文化』四四巻一琥)、陳詠朕から治平二年より熙寧二年ま

で日本にひきつづき滞在した確證ほ得られない。あるいは熙寧二年が

五度目の可能性もある。なお陳詠は後に成尋の弟子となり出家剃髪し

て法名を悟本といい、快宗供奉ら五人と熙寧六年(延久五年・一〇七

三)日本に来航している。

(

9

)

田中美佐「宋代の喫茶・喫湯」(『史泉』六六琥)。

(10)

『夢袈筆談』巻一、「予為鄭延紐略使日、至新一顧、謂之五司顧、

延州正顧乃都督麒、治延州事云云」

(11)

『参記』巻一・煕寧五年四月十四日條「申時、著問官門前、見都督

門、如日本朱門、左右棲三閲、前有廊井大屋、向河懸簾、都督乗船時

屋也。」。また同月廿二日條に「都督北ノ方、従市中過行、前後共人敷

百人也、云云」とある。

(12)

『察忠悪集』巻三六・「沈君墓誌銘」。

(13)

『韓南陽集』巻一七・「河北轄運使兵部郎中沈立太常少卿」。

(14)

『韓南陽集』巻一八・「沈立充集賢修撰知演州」。

(

1

5

)

『北宋鰹撫年表』巻四も、これに従っている。

(16)

『乾逍臨安志』巻三・陳襄條に「煕寧五年五月乙未、以知陳州尚書

刑部郎中知制諾陳襄知杭州」とある。

(

1

7

)

『長編』巻二四一「煕寧五年十二月庚辰、右諫議大夫沈立等、上新

修審官西院救十巻、詔賜銀絹有差」。なお『宋史』本博はこれにふれ

ない。

(18)

『長編』巻二六六・熙寧八年秋七月甲子「右諫議大夫沈立、上所集

都水紀二百巻・名山記百巻、詔奨之」とある。『宋史』本博には「立

上其(蔵書)目及所著名山水記三百巻」とあるが、今は『長編』およ

び『宋會要輯稿』(以下『宋會要』と略す)五六・崇儒五之二に従う。

(

1

9

)

森克巳「日宋貿易に活躍した人々」(『績日宋貿易の研究』第十五

章)はこの牒文を利用し、陳詠が治平二年

(10六五)に来航したこ

とは認めながら、煕寧二年

(10六九)を同次の錨國年と考えたため

か、なんら言及されていない。なお註(

8

)

を参看゜

(20)

葉夢得『石林燕語』巻六に「尚書省、櫃密院劉子、陸制各不同、尚

書年月日、宰相自上先書、有次相則重書、共一行、而左右丞於下分書、

別為雨行、蓋以上為重、櫃密知院自下先書、同知以次、重書於上、策

書亦然、蓋以下為重、而不別行」とある。これによれば州牒は楯密院

劉子様式にならっていたことが分る。

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1

)

宮崎市定「宋代州縣制度の由来とその特色ー特に衝前の愛遷につ

いてー」(『アジア史研究』四)。

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)

『三朝名臣言行録』巻九之三、「謝景温言、疱鎮學蘇試為諫官、試

向丁憂、多占舟肛、阪私甕蘇木云云」。

(23)

『苑太史集』巻二八「龍圏閣直學士知穎州蘇試辟不允詔」。

(

2

4

)

これは『東披詩』にはみえず、陳邁冬注『蘇試詩選」巻一三、『東

披績集』巻二、『東披外集』巻四に牧める。なお小川環樹・山本和義

『蘇東波詩集』第三冊.―二四頁註を参照。

一四

Page 15: ー成尋と蘇東披ー|' - Kansai U先ほど常時の杭州市舶司ほ杭州の知州沈立であったと述べた。で た都督沈立とほ、どのような経歴の持主なのであろうか。は、この知杭州であり成尋が姓名も偲えないまま茶湯をふるまわれ

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)

「送魯元翰少卿知衛州」(『東披詩』巻二

0)ほ熙寧十年三月、開封

城外にあった疱鎮の別堂に寄寓中の作(施宿『年譜』、王文皓『網案』

巻一五)とされるもので「憶う錢塘に在りし歳、情好は弟昆に均し」

と詠う。煕寧六年夏より_―-年の杭州通判時代をへて、この年三月の衛

州赴任と考えることができる。

(26)

『集註分類東披詩』(四部叢刊宋本、以下『東披詩』)巻一七・「沈

諫議召遊湖不赴、明日得雙蓮於北山下、作一紹持献、沈既見和又別作

一首、因用其韻」。

(町)「牡丹記」(『東披集』巻二四)に「煕寧五年三月二十―――日、余従

太守沈公観花於吉詳寺憎守瑣之圃」とあり、その折の韻が「吉詳寺賞

牡丹」である。ただこの花見は「酒甜築作、州人大集、金槃採藍、以

献子坐者、五十有一二人」といえば個人的な交りというより官民の親睦

をはかる恒例の行事であったろう。

(28)

『東波詩』巻一七、「自痙山回得呂察推詩、用其韻、招之宿湖上」。

王文詰の『練案』によれば煕寧五年七月一日、舟で餘杭へ向い、七日

に法喜寺、翌八日に餘杭を出稜して臨安の浄土寺に宿り、功臣寺をヘ

て径山をめぐり杭州に婦ったものであり、湖上に宿るとは鳳凰山下の

昭慶寺前にあった望湖櫻で、「夜だ西湖」五首はこの時の作だという。

(29)

「曾冗恕沸龍山、呂穆仲不至」、『東披詩』、『施注蘇詩』には採録な

く『蘇文忠公詩合註』、『東波績集』による。陳邁冬『蘇試詩選』は曾

元恕を蘇試の朋友とする。

(30)

『東披詩』巻ニ――-、「五月十日典呂仲甫周邪僧恵勤恵思清順可久惟

粛義詮、同淀湖漉北山」。この中、周邪は嘗時の錢塘縣令である。嘉祐

八年

(10六三)の進士で字は開祖、錢塘の人。『咸淳臨安志』巻六

六に偲があり蘇試との酬詠が多くみられる。恵勤・恵思は「騰日遊孤

山、訪恵勤・恵思二憎」(『東披詩』巻一七)などにみえる孤山報恩

院の憎である。恵勤の偲は『咸淳臨安志』巻七

0にあり、蘇試が最も

早く親しんだ詩憎でもある。『東披集』巻二

0の「六一泉銘叙」によ

成尋をめぐる宋人ーー『参天台五憂山記劉記」二の一

一五

れば、恵勤を紹介したのは欧陽脩であったらしく「予到官――一日、訪勤

於孤山之下」という。のち蘇試は「錢塘勤上人詩集叙」(『東披集』巻

ニ四)を寄せている。恵思の博も『臨安志』巻七

0にあり、『臨川先

生文集』巻三一、「和恵思韻二首」が示すように王安石とも交りがあ

った。また阪陽脩とも親しかったことは蘇試の「哭欧公、孤山憎恵思

示小詩次韻」(『東披詩』巻二四)によって推測される。消順・可久も

『臨安志』巻七

0に列偲がある。浦順字は恰然。彼が王安石と交りを

持ったのは『冷齋夜話』巻六にみえる。蘇試の「是日宿水陸寺、寄北

山浦順憎二首」(『東披詩』巻一六)をみれば西湖北山の僧と考えられ

る。また「僧清順新作垂雲亭」(『東披詩』巻九)によれば、のち杭

州城外の賓厳院に住したらしい。可久は字を逸老といい順恰然に到し

久逸老と呼ばれたという。『佛祖統紀』巻二七の本偉には四明の開

化寺に住したと記すが、蘇試の「上元過詳符僧可久房、爾然無燈火」

(『東披詩』巻――――)より、この頃には杭州の大中詳符寺の住僧であ

ったとみたい。惟粛と義詮については今のところ不明。

(31)

「寄呂穆仲寺丞」(『東披詩』巻一六)

(

3

2

)

『皇朝文鑑』巻三九・王震の「奉議郎河北東路提刑呂仲甫可依前官

充河北西路提刑」。『宋史』巻一七八・食貨上・崇寧二年條『北宋経

撫年表』巻ニ・京西南路安撫使・兵馬巡検・知部州條および同巻二・

荊湖北路馬歩軍都穂管・知荊南軍府條゜

(33)

『蘇文忠公詩合註』、『補注東披編年詩』に依撼する。

(34)

「往富陽新城、李節推先行三日、留風水洞見待」(『東披詩』巻一)。

(35)

『咸淳臨安志』巻二九に「在楊村慈巖院、院薔名恩徳、有洞極大、

流水不喝、頂上又一洞、立夏清風自生、立秋則止、故名」とあり、白

架天の「遊恩徳寺詩井序」(『白氏文集』巻―

10)などとともに蘇東

披の該詩を引いている。

(36)

「風水洞二首和李節推」(『東披詩』巻一)。

(37)

『咸淳臨安志』巻五二、「曾在雙門北、為南北雨街、今在豊豫門南、

Page 16: ー成尋と蘇東披ー|' - Kansai U先ほど常時の杭州市舶司ほ杭州の知州沈立であったと述べた。で た都督沈立とほ、どのような経歴の持主なのであろうか。は、この知杭州であり成尋が姓名も偲えないまま茶湯をふるまわれ

『宋會要』四四

有東西二顧」。

(38)

『宋史』巻一五=―・輿服志五・諸臣服下・公服。

冊.輿服四之二八・公服。

(39)

『夢深筆談』巻三・罪證、「世以玄為浅黒色、瑾為諸玉、皆不然也、

玄乃赤黒色、鷺羽是也、故謂之玄鳥、煕寧中、京師貴人戚里、多衣深

紫色、謂之黒紫、典邑相胤、幾不可分、乃所謂玄也」。

(40)

『宋史』巻一五三・輿服五・士庶人車服之制、「紳宗煕寧九年、禁

朝服紫色近黒者」。

(41)

梅原郁『宋代官僚制度研究』第一二章第四節「監司」参照。

(42)

『宋會要』一四五冊・食貨四九ー一・轄運、「凡十八路、其京東京

西河北河東映西淮南浙西諸路、各置使副、餘路不置副」。

(43)

『長編』巻ニー四「煕寧三年八月辛未、雨浙轄運使太常寺少卿賣昌

衡、同提貼刑獄南作坊使李惟賓、前轄運使光詠卿侯瑾、並降一官、昌

衡俯降副使、餘各降一等差遣、坐不劾祖無揮苗振、又考振課績入中等

故也」。また同巻一三三・「熙寧四年五月乙未、櫂甕鐵副使潅宿櫂戸部

副使、御史中丞楊絹言、宿非材、以兵部郎中買昌衡、代之……」。

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4

4

)

『長編』巻二五六.熙寧七年九月戊申條に沈括の言として「近有

旨、令雨浙路轄運使等、各提學一州第二料水利、轄運司奏稲有未便、

臣在本路、興監司日夕緊議凡半年、王庭老未嘗言有未便、今有此異

同、乞行推究」とあり、また巻二六八「煕寧八年九月癸丑、詔罷雨浙

轄運使王庭老・張蜆、令於潤州聴旨」とある。張覗は淮南東路轄運使

であった。ただし『長編』巻二六八・煕寧八年九月辛巳條には「雨浙

轄運副使王庭老」とあり、いずれが正しいのか決定しがたい。なお王

庭老は熙寧九年正月に「兼提學櫂轄運司」とみえる(『宋會要』七四

冊・職官二七ー一二九)。

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4

5

)

小川氏などは仁宗朝の宰相陳発佐、字希元の長男とするが誤りであ

る。陳莞佐(『宋史』巻二八四)は閾州聞中の人、陳襄ほ葉祖治撰の

「古震先生行状」(『古震集』)に「其先本光州固始人、営五代之末、

随玉(審知)氏入闘、因家子閾之謳唐、今為揺唐人」という。

(46)

『古震集』巻八「論三司條例乞行均輸法劉子」、「論王安石劉子」。

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7

)

『宋史』巻三ニ―‘陳嘩『古震先生年譜』。

(

4

8

)

『宋史』本博は櫃密直學士知通進銀壷司兼侍讀という。

(49)

「和子謄沿牒京口懐西湖寒食出遊見寄二首」「和子睛沿牒京口懐吉

詳牡丹見寄」「和子瞭吉詳冬日牡丹詩三首」など。

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5

0

)

『東披詩』巻九は「望海棲晩景五紹」に作る。

〔追記〕校正を終った段階で近藤一成氏の昭和六一・六二年度文部省助成

費研究報告書中の「入宋憎成尋の入國手績についてー—宋代公操簡

介ー'|」を入手した。末尾に蘇試のことに獨れられているが「日宋

交通路の再検討」を口頭登表したとき言及したことでもあり、本文

ではあえておことわりしないe

なお近藤氏は杭州牒を公撼である可

能性が高いとされる。

一六