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チェコ人形劇 チェコ民族形成と支配の歴史と共に田上 早利恵

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  • チェコ人形劇

    —チェコ民族形成と支配の歴史と共に—

    田上 早利恵

  • 神戸大学国際文化学部 卒業論文

    目次

    はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

    第一章 チェコ、支配の歴史—小民族の運命—

    1)滅びかけた小民族・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・4

    2)民族再生運動・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5

    3)独立、そして暗黒時代へ

    〜ナチスによる再支配から共産主義〜 ・・・・・・・・・・・・・・・・7

    第二章 チェコ人形劇について

    1)チェコ人形劇の成立・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・10

    2)チェコ人形劇の発展・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12

    3)第二次世界大戦からのチェコ人形劇・・・・・・・・・・・・・・・・・16

    4)S+H劇場 ヨゼフ・スクパとスペイブル・フルビーネク親子・・・・・・19

    第三章 人形が表すもの、創造するもの

    1)人形劇の特徴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21

    2)道化カシュパーレクとグロテスク・・・・・・・・・・・・・・・・・・23

    3)ヨゼフ・クロフタの試み・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27

    おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29

    注・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・33

    参考年表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・37

    参考資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39

    参考文献表・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・43

  • 1

    はじめに

    現在、チェコ共和国(Česká Republika)は中欧の町並みが美しい国、そして音楽や芸術が盛ん

    な国として、観光などで非常に人気を博している。その街々を散策していると、美しい街並みや建

    築物に見とれてしまうと同時に、あることに気がつく。観光客向けの店にマリオネットや人形劇をモ

    チーフにした簡単な人形が多く売られているのである(図1参照)。また、街を歩くだけでも多くの人

    形劇場を目にするし、人形劇を自ら演じる観光客向けの路上のパフォーマーさえいる。そして、劇

    場の近くでは、人形劇を楽しんだであろう人々、これから楽しむであろうチェコ人たちが親子連れ、

    カップル、多く出入りしている。それは今でも観光客向けだけではなく、チェコ国民がおのおのの目

    的で楽しむ文化的空間、娯楽、そして教育施設なのである。チェコでは人形劇はきわめてポピュラ

    ーで、人口約1千万のチェコには、およそ 3千の人形劇団があると言われている1。 その価値は国

    外でも評価されており、チェコ人のアイデンティティの一部であると言っても過言ではないであろう。

    チェコは、絵本やアニメーション、雑貨、サッカーやホッケーなどでも有名で非常に個性溢れる

    国である。地理的には大民族に隣り合わせてヨーロッパの中央に存在し、人口は 980 万人程度で、

    隣国ドイツ人の人口と比べてみると、ドイツ人は 9 倍近く、また旧ソ連のロシア人は 16 倍近くおり、

    相対的に見て、小国である(図2参照)2。 この地理・民族の性格上か、実はこのチェコ共和国の歴

    史は一言で言うと「支配の歴史」とも言えるほどで、チェコは長い間他民族や大国に支配され、滅

    亡の危機にさらされてきたのである。1526 年にハプスブルク家の統治下に入り(実質的には 1620

    年白山の戦い以後に「支配」は始まる)、1918 年に遂にチェコスロヴァキア共和国として独立を果た

    したかと思いきや、ナチス支配下に入り、その後は 1989 年の革命まで事実的にソ連の衛星国と続

    く。今でこそ独立を保ち、EU にも加盟を果たし国際社会においても一定の役割を演じているチェコ

    であるが、この小国チェコ、またその多くの人が憧れるような美しい街並みや個性豊かな文化が在

    るのは、チェコ人自身が、チェコ人として生きることを選択し、過去の滅亡の危機や支配を乗り越え

    ようとしてアイデンティティの模索・維持・創造を続けてきた努力の結果なのである。またその際には

    様々な文化活動がチェコ人たるアイデンティティの模索・維持・創造に役立った。その中で、人形

    劇は、おのおのの時代でチェコ人と深く結びつき、チェコ人のアイデンティティの一部、自らの表現

    方法として重要な役割を果たし、発展してきたのである。それゆえ、現在でもチェコといえば人形劇、

    人形劇といえばチェコといわれるほど、チェコ人形劇は愛されている。

    しかしここで、

  • 2

    1)人形劇は複雑な歴史を持つチェコにおいて、その歴史とどのような関係性があり、どの要因で

    発展してきて、どのような役割を果たしたのか?

    2) なぜ、チェコ人にとってその手段とは人形劇だったのか? 他の文化手段ではなく人形劇だ

    からこそ達成し得たものとは何か?

    という疑問が生じる。そこで、この論文では、チェコがハプスブルク帝国の支配から抜け出そうとした

    民族再生運動期から、共産主義時代(〜1989)までに議論を絞り、民衆文化とアイデンティティの

    つながりや、民族多様性の維持における文化の重要性や可能性についても言及しながら、日本で

    はあまり資料がないチェコ人形劇に対するよりいっそうの理解、それを通じたチェコの歴史・文化理

    解のために、上記二点の問いを考えていきたい。

    まず、第一章ではチェコにおける発展と支配の歴史を民族再生運動期〜共産主義時代を中心

    に述べ、チェコの人形劇の発展基盤である歴史とその関係性を確認する(参考資料である年表も

    参考にされたい)。特に、チェコ民族性喪失の一番の危機であった民族再生運動について詳しく

    述べる。

    そして、第二章では、チェコ人形劇そのものについて、歴史的観点から時代背景要因など詳しく

    考察していく。まず、チェコ人形劇がどのようなルーツで成立し、また発展していったかについて、

    その時代における特徴や転換期の要因を述べ、そしてそれが歴史上のどのような出来事と密接に

    結びついているかを検証する。第二章第4節では、「人形劇の父」とも呼ばれるヨゼフ・スクパ(Josef

    Skupa)3 について詳しく考察する。彼は、チェコにおいて初のプロ人形劇場(S+H劇場)を設立し、

    ナチス支配下、迫害されながらも人形劇上演を続けるなど、チェコ人形劇史において重要な役割

    を果たした。今もその劇場はプラハにあり、定期的に上演が行われている。彼が生んだ二人のキャ

    ラクター、スペイブル&フルビーネク親子は絶大な人気を誇り、彼らは第三章で詳しく述べるカシュ

    パーレクの喜劇的風刺的性格を受け継いだ、現代のチェコ人の典型と言われる人形たちである4。

    スクパ自身やこれらの劇場について考察していく中で、重要なチェコ人形劇発展要因の一つであ

    るチェコ人形劇人たちの想いやチェコ人形劇の特徴、チェコ人と人形劇の関係性を紐解いていく。

    第三章では、まず「人形」自身に焦点をあて、人形が表現し得たものとはなにかということについ

    て様々な研究者、人形劇人の研究や意見を用い議論していく。人形劇の特徴や性格がチェコの

    歴史においてどのような関係性があったのかを述べる。そこで次に議論の中心として用いたいのが

    道化人形のカシュパーレクというチェコにおける国民的キャラクターである。彼は民族再生運動期

    から現在まで多少役割や外見を変化させながら、チェコ人形劇において重要な役割を演じ、生き

    延びてきた。彼について分析していくことで、人形や人形劇に映し出されるもの、それらが語りかけ

    てくることを考察し、チェコ人形劇が表現しているものや役割が明確になってくると考える。そして、

    チェコ人について考える際に重要な概念となってくるのがグロテスクというものである。このように人

    形劇とグロテスクの結びつきについても言及し、人形劇とチェコ人の関係について考察していきた

    い。

    最後には 1958 年に設立された劇団 DRAK で主に活躍した、ヨゼフ・クロフタの仕事について述

    べる。劇団 DRAK は、20 世紀の人形劇を形作り、チェコだけでなくヨーロッパ全体にも影響を与え

  • 3

    たと言われる。コメディーのチェコの伝統を、モダンな演出と融合させ、革新的な演出方法や創造

    的な作品を次々と生み出していった5。 そこで活躍したのが人形劇作家・監督のヨゼフ・クロフタで

    あるが、彼も特別な思いを持ってチェコ人形劇を発展させた。これらを考察することにより、戦後新

    世代と呼ばれるチェコ人形劇の特徴や、社会主義政権と人形劇の関係を明らかにできると考える。

    以上三章からチェコにおける人形劇の複雑な発達要因と役割について様々な角度から迫ってい

    き、最後にその問いに対して答え、その結論を述べる。

  • 4

    第一章 チェコ、支配の歴史—小民族の運命—

    1)滅びかけた小民族

    チェコにおける「黄金時代」はチェコ史上最も偉大とも言える王、カレル一世(位 1346-78)の時

    代である。カレル一世は、神聖ローマ皇帝の座をも獲得し(カール四世)、プラハを大司教区に昇

    格させ、1348 年には中央ヨーロッパ最古のプラハ大学(カレル大学)を設立した。神聖ローマ帝国

    という、キリスト教世界を代表する帝国の首都にプラハがなったことはチェコに繁栄をもたらしたが、

    同時にそれはチェコを腐敗したローマ教会の影響に直接さらすことになった。

    そこで現れたのはヤン・フス(Jan Hus 1370 頃―1415)である。フスは最終的にコンスタンツの公

    会議で火刑に処されたが、ヤン・フスに始まり、チェコ人は、14 世紀末から他のヨーロッパ諸国に先

    駆けて民族的規模で行ったこの宗教改革の際にチェコ語とチェコ文化を高め、民族のアイデンティ

    ティを確立した。しかし、この隆盛はいつまでも続くものではなかった。1618年にプラハから30年戦

    争が勃発し、1620年には「白山(ビーラー・ホラ)の戦い」でチェコのプロテスタントが大敗北し、チェ

    コはカトリック派のハプスブルク家によって独立を奪われ、暴力的に反宗教改革とドイツ化を強要さ

    れ、多くのチェコ人は亡命を余儀なくされて、チェコ民族は存亡の危機に瀕した。支配の歴史の始

    まりである。これ以後、チェコは第一次世界大戦が終わり、1918 年にチェコスロヴァキア共和国とし

    て独立を達成するまで支配される歴史が続く。1627年、28年には熱烈なカトリックであるフェルディ

    ナンド二世(位 1619-1637)が「改定領邦条例」を発布し、1609 年に発布されていたルドルフ二世

    (位 1576―1611)による個人のレベルで信仰の自由が認められる「信教の自由に対する勅許状」を

    廃止し、プロテスタントの信仰の完全な禁止、ドイツ語の公用語化を遂行した。チェコ語は文章語と

    しては滅びて、もっぱら農民と下層町民の話し言葉にすぎなくなった(彼らの大部分は非識字であ

    った)。そして、外国人のイニシアティブで、ドイツ語で出された法律や社会生活上の実践によって、

    例えば裁判の際にチェコ人もドイツ語の使用を強制されるなど、チェコ語は実質的にも公用語の地

    位を奪われていき、なお悪いことに、そのような状況の中で、チェコ人自身がチェコ語とチェコの風

    習を軽蔑し恥じるようになってしまい、それが急激にチェコ語とチェコ文化を没落させる原因となっ

    たのである6。 民族規模で推進されたチェコの宗教改革は恥ずべき過ちとして否定され、その記念

    物と記憶は極力抹消された。チェコの歴史家ボフスラフ・バルビーンの『チェコ語の擁護(1672-73

    年頃)』などでの証言からでもよく分かるように、大言語と共存ないし隣接している小言語において

    は、このような言語的・民族的な自己卑下こそが、その衰退・消滅の危機を招く、極めて大きな原因

    なのである7。 チェコ民族は消滅へと確実に進んでいた。歴史家ミロスラフ・フロフによると、19世紀

    初頭において国家と都市の行政にはもっぱらドイツ語しか用いられておらず、この領域におけるド

    イツ語の独占性については誰も疑うものはなかった8。

  • 5

    2)民族再生運動

    そこでようやく 18 世紀後半以降にハプスブルク帝国にも生じた啓蒙主義と後にはロマン主義の

    影響の下に、後に「ブヂテル」と呼ばれるようになる覚醒者たちが、ほとんど忘れられて農民と下層

    町民の中にかろうじて生き長らえていたチェコ語とチェコ文化に目を向けてそれを記述し復興しよう

    とする、いわゆる民族再生運動9 を開始した。

    その時代は、ハプスブルク帝国ではマリア・テレジア(位 1740-80)、後にその息子ヨーゼフ二世

    (位 1765-90)が王位についていた。この二人は中央集権主義的啓蒙専制君主として、合理化・

    近代化、またドイツ化政策を推し進めたことで有名であるが、まず、マリア・テレジアは反宗教改革

    的なカトリシズムの精神を身につけていたものの、統治者として改革を迫られていた。マリア・テレジ

    アが即位した頃からハプスブルク帝国にも啓蒙主義が徐々に広まり、73 年には、チェコの反宗教

    改革に決定的な役割を果たしたイエズス会が、教皇の命令で解散した。そしてヨーゼフ 2世はその

    後、啓蒙主義的改革として、1781 年 10 月に寛容令を発布し、三つの非カトリック信仰(ルター派、

    カルヴァン派、ギリシャ正教)のミサの一定の自由と彼らの市民的同権を宣言した10。 実際は、寛

    容令発布の主な動機は、住民の国外移住に歯止めをかけたり、宗派を異にする外国の専門家を

    招き入れるなど、絶対主義国家の経済的・政治的関心であった。また、国内の非カトリック系住民

    の反抗を宥める狙いもあった。しかし結果的に 1773 年のイエズス会の解散と、この 1781 年の寛容

    令によってチェコにおける「白山の戦い」の後の厳しい宗教的圧迫とカトリック教会の専制が緩めら

    れ、チェコ民族再生運動にとっての障害が弱められた。さらにヨーゼフは同年11月にチェコにおけ

    る農奴制を緩和し、これによって、農民の子供などが学校に入って教育を受けたり、農民層が都市

    へ流入して都市におけるチェコ人の人口を増加させることが可能になり、近代的なチェコ民族の形

    成にとって好ましい条件が作られることになった。

    このような啓蒙主義的な時代的背景は、チェコ語をかろうじて話していた農民層までを巻き込む

    チェコにおける民族再生運動において非常に重要な基礎,土台となった。一方では、チェコ語文

    化が残っていた農民層までドイツ文化圏を浸透させてしまうという逆説的な危険も孕んでいたもの

    の、法律的な規制緩和、表現の自由、そして農民の解放、啓蒙化は民族規模の再生運動には不

    可欠なものであったと言えるだろう。その危険性に対しては、自立的なチェコ語・チェコ文化の世界

    の(再)創造が実現した前提として次の 4点が挙げられるだろう。

    1)都市住民の大半はドイツ語を用いていたが、農村にはチェコ語しかできないチェコ人がかなり

    多く残っていた。

    2)チェコ語しかできないチェコ人農民には初めのうち非識字が多かったが、このためにドイツ語

    を習得することが難しかった。

    3)近代化・産業化に伴って農村のチェコ人住民が都市に流入した際、流入の量が多く速度が速

    かったために、都市に流入したチェコ人は簡単にはドイツ化されず、逆に都市のドイツ語話

  • 6

    者の割合を減少させてチェコ語話者の割合を拡大させた。

    4)啓蒙主義的改革によってハプスブルク帝国の学校制度が整備され、チェコ語で授業を行う小

    学校が作られ、これがチェコ人民集の教育レベルを高めた11。また、より上級の学校はドイツ

    語を教育語としていたものの、下層階級出身のチェコ人がそこで教養を身につけて、民族意

    識に目覚めた多くのチェコ人教師が出てくることとなった。そして、彼らが学校で自分の生徒

    たちに民族意識を吹き込んだ。それと共に、チェコ民族再生運動全般の活発化によって、今

    まで民族的に無自覚であった人々の間にチェコ人意識が広がっていった12。

    以上のような状況から、ドイツ化を免れたといえる。また、ここで明らかにされるのは、チェコ民族

    再生運動の主たる担い手はもちろんドイツ化した貴族や上層市民ではなかったが、チェコ語しか出

    来なかった農民や下層市民でもなく、チェコ語とドイツ語の両方ができたバイリンガルの知識人と中

    間層—特に都市の職人層出身の教養人と農村出身の聖職者だった(図3参照)。その中で、当初

    まだアイデンティティの芽生えがなかった下位層の農民たちは、改めてチェコ民族再生運動にとり

    こまれようとされる存在では当初はなかったものの、このチェコ民族再生運動において、本人たち

    は意識しておらずとも、ドイツ化促進を阻んだきわめて重要な存在であったということがわかる。また、

    民族再生運動は、第一世代、第二世代、第三世代と分けられるが、主としてドイツ語を用いた啓蒙

    主義的な第一世代とは異なり、プレ・ロマン主義的ないしロマン主義的な第二世代の代表者である

    ヨゼフ・ユングマン(1773-1847)は、チェコ語の完全な再生をチェコ民族の存立の基本的条件と見

    なし、近代的な文化言語としてのチェコ語の再生を通してのチェコ民族再生という綱領を掲げた。

    ユングマンにとって、言語は単なるコミュニケーションの手段ではなくて民族の魂であり、民族の過

    去のあらゆる経験、あらゆる文化的成果が蓄積されている最も重要な宝庫であり、チェコ民族の主

    たる代表者はチェコ語を保持してきた農村の民衆なのであった13。

    そして、民族再生運動期には、ブジテルたちの活動とともに、文化再生がなされ、活発化した。チ

    ェコ民族再生運動発生当初の問題は、チェコ文化にその多様性が欠けていて、チェコ文化が(農

    村の農民や都市の下層市民向けの)「民衆」的ないし「平民」的なものにほとんど限られていたとい

    うことである。その最大の原因はもちろん、「ビーラー・ホラの戦い」後の政治的・社会的状況によっ

    てチェコ語を用いる知識階層がほとんど皆無になり、高度な文化はラテン語かドイツ語―場合によ

    ってはフランス語やイタリア語―によって担われるようになったことである。たとえば文学ならば、チ

    ェコ民族再生運動発生当初、チェコ語文学は民衆向けの宗教的、教訓的、フォークロア的な文学

    にほとんど限られていて、より「高い」、芸術的なチェコ語文学は存在しなかったのである。つまり、

    当時のチェコ語とチェコ文学は、社会全体にとって創造され享受される十全な文化ではなくて、民

    衆ののみに限定された「下位文化(サブ・カルチャー)」ないし部分的な文化だったということである。

    そして、チェコ民族再生運動初期のチェコ文化の課題は、まさにこの「下位文化」ないし部分的な

    文化を十全な文化にすること、つまり創造者と受容者の双方にとって、より高度なチェコ文化―言

    語についていえば高度なチェコ文語、文学について言えばより「高く」て芸術的なチェコ文学―を

    創り出すことであった(図 4 参照)14。 その上で文化活動はチェコ語・チェコ文化の存続・発展に非

  • 7

    常に重要な役割を果たしたのである。

    その中で、教養の低い階層も含めた広い階層への文化の伝播において,重要な役割を果たした

    のが、チェコ語劇場であった。啓蒙主義時代には、劇場は大学と並ぶほどの教育機関とみなされ

    ていたという。演劇は民衆に人気のある娯楽であったが、ヨーゼフ2世は劇場を国家イデオロギー

    の意味で大衆を教化することのできる場と捉え、劇場を凡俗で即興的な娯楽の場から啓蒙主義的

    な「道徳教育」の施設にかえようとした15。 また、演劇人をはじめとする知識人たちはヨーゼフ2世

    の施政を支持していたので、ヨーゼフ2世は劇場建設に好意的で、次々と許可を与えたのである。

    しかし、このような啓蒙主義的な劇場は、もともとチェコ語やチェコ語文化を隆盛させようとしてつく

    られたものではなかったので、もっぱらドイツ語でしか上演はされなかった。チェコ語での上演を求

    めるように努力したのは、民族再生運動初期、主として市民階級出身のチェコ語話者の演劇人で

    あった。このようなチェコ人のチェコ語演劇上演を求める努力の結果、1786 年にプラハで正式にド

    イツ語とチェコ語で上演を交互に行うことが許され、「新市街馬市場の愛郷劇場(Vlastenecké

    divadlo v Novém Měště na Koňském trhu)」(通称「ボウダ(Bouda)」)16 が建設された。演劇は、次

    第にチェコの愛郷主義的な生活の中心になっていた。演劇は、思想や経験を表現するのに最も優

    れたものの一つであり、観客と同じ空間を共有することによって、一体感を生み出すこともできた。

    また、舞台の上で俳優たちが「正しい/きれいな」チェコ語を話し、演技することによって、チェコ人

    のチェコ語に対する自信や素晴らしさへの気づきをもたらしもした。その後の 1881 年に、完全にチ

    ェコ語のみで上演が行われる「チェコ語によるチェコ人の舞台を」というテーマが掲げられた国民劇

    場(Národní Divadlo)が完成する。この建設費はチェコ人民衆の寄付で集められた。この国民劇場

    は現在もチェコ人の誇りとして存在しており、たくさんのオペラや演劇が上演されている。

    ここで登場するのが人形劇である。農村では、このようにプラハで上演された演目が人形劇(マリ

    オネット)で広まったのである。ここでは、巡回人形師たちの活躍があり、彼らは農村部で活発に講

    演していた。しかし、この民族再生運動期における人形劇の役割や重要性については、民族再生

    運動の高度な文化の創造が目的であるという特徴ゆえに、非常に複雑なものとしてとらえられる。

    人形劇についての本題としては詳しくは第二章に続いて述べていきたい。

    3)独立、そして暗黒時代へ 〜ナチスによる再支配から共産主義〜

    このように啓蒙主義的な時代の流れ、そして民族的伝統や民謡を強調するドイツ=ロマン主義や

    ヘルダーの仕事の影響が、後進諸民族の間に強く及び、これが、知識階級に民族意識の覚醒を

    促していた17中でのブジテルたちの活躍が目を引く中、1848年2月にパリで革命が起こって王政が

    打倒されると、自由主義革命の動きが広まり、チェコでもプラハで3月にはウィーン政府に対する要

    求がまとめられた。その結果4月にはチェコ王国議会の選挙の実施と、ドイツ語とチェコ語が同等に

    扱われる事が認められた。1866 年には普墺戦争でオーストリアは大敗し、翌年オーストリア=ハン

  • 8

    ガリー二重帝国を設立。オーストリア政府は各民族の要求を可能な限り受け入れつつ、体制の安

    定を図ろうと腐心した。民族運動にゆれうごく 19 世紀後半は、多くのチェコ人芸術家たちが民族再

    生運動の中心として才能を発揮した時代である。音楽ではベドジフ・スメタナ(『我が祖国』)やアン

    トニーン・ドヴォジャーク(『新世界』交響国)らがすばらしい作品を生み出し、作家ボジェナ・ニェム

    ツォヴァー、画家ミコラーシュ・アレシュ(図 7 参照)など多くのチェコ人芸術家が活動した。そして

    1881 年には上記でも述べたように、完全にチェコ語のみで上演が行われる「チェコ語によるチェコ

    人の舞台を」というテーマが掲げられた国民劇場(Národní Divadlo)が完成した。民族再生運動に

    おける第二世代と呼ばれる時期である。

    そしてついに1914年第一次世界大戦が始まる。西欧へ亡命して反ハプスブルク運動を展開する

    人々の中心人物であったのが、後のチェコスロヴァキア共和国大統領のトマーシュ・ガリク・マサリク

    である。彼は 1916年 2月にパリでチェコスロヴァキア国民評議会を結成した。1918年 5月にはアメ

    リカでチェコ系及びスロヴァキア系移民組織がピッツバーグ協定に調印して共同国家形成を取り決

    め、10 月 18 日、マサリクはアメリカでチェコスロヴァキア独立を宣言した。こうして、新国家チェコス

    ロヴァキアは産声をあげたのである18。 今日ではこれは「第一共和国」と呼ばれる。これは、チェコ

    人にとっては、白山の戦いで自由を失ってから約 300 年ぶりのことであり、スロヴァキア人にとって

    は、ハンガリーの支配下に入ってから約 900年ぶりのことであった。このことにより、国家的にも独立

    を果たしたチェコにおける民族再生運動は誰から見てもひとまず成功した、ということが出来るだろ

    う。

    しかし、第一共和国の平和な時代は長くは続かず、1930年代には世界恐慌の影響が及び、1938

    年10月にはミュンヘン条約の受諾、ヒトラー率いるドイツ軍がズテーテン地方に侵攻した。さらに11

    月にはスロヴァキアとポトカルパツカー・ルスが自治を獲得した。こうして生まれた新しい体制のチェ

    コスロヴァキアを「第二共和国」と呼ぶが、これはわずか数ヶ月しか続かず、1939 年にはスロヴァキ

    アはドイツの保護国となり、チェコはドイツの保護領として占領下に置かれた。こうしてチェコスロヴ

    ァキア共和国は消滅し、占領下のチェコではいっさいの政治的自由は奪われ、国民の間には不満

    が高まった。1941 年にはハイドリヒが総督代理となって強圧的な支配体制で臨み、多くの抵抗運動

    家たちを逮捕・処刑した19。 国外に亡命した人々は、ロンドンで臨時政府をつくり、共和国の復活

    をめざして各国政府と交渉していた。1945年4月には、コシツェで臨時政府が樹立され、以後ほぼ

    一ヶ月の間に、ドイツ軍はソ連を始めとする連合軍によって撃退されていった。そして 5 月 5 日、プ

    ラハでも蜂起が起こり、9 日に首都はソ連軍の手によって解放されたのであった。こうしてチェコスロ

    ヴァキア共和国は復活した。しかし、復活したとはいっても、それは新たな支配の始まりであった。

    1946 年に総選挙が行われて、共産党が第一党となった。ゴットヴァルトが大統領となった 1948 年

    以降共産党による一党独裁体制が急速に形成され、チェコスロヴァキアは事実上社会主義共和国

    となった。東西の冷戦が緊張を増す中、ソ連のスターリン体制にならった抑圧的な政治が行われた。

    政治的な自由は極度に制限され、体制への批判は一切許されず、いったん秘密警察ににらまれ

    れば、直ちに職や財産を失うばかりか、場合によっては生命の危機さえ覚悟しなければならなかっ

  • 9

    たのである20。 秘密警察が存在していたプラハの通りは、建物もそのまま残っており、使われてい

    ない廃墟は今でも暗い面影を残している。著者のチェコ人の友人によると、共産主義時代生活して

    いた人々は今でもそこに近づくと気分が悪くなるので近づけない人が多いのだそうだ。また、現在

    も警察に対していい想いを抱いていないチェコ人が多い。1953 年にスターリンが死去し、その路線

    が批判される動きが出始め、チェコでは 1968 年にアレクサンデル・ドゥプチェクが第一書記に任命

    されたときから、改革の動きが急速に進み、「人間の顔をした社会主義」のスローガンのもとで、検

    閲の廃止、旅行の規制緩和などが実現し、経済的には市場原理導入の方針が決められた。国民

    もこの動きを歓迎し、政府と対話しつつ、より良い社会を目指そうとする動きが広まった。いわゆる

    「プラハの春」である。しかしソ連政府は、この動きを脅威とみなし、チェコスロヴァキアが東側陣営

    から離脱するのではないかとの懸念を強め、軍事介入に踏み切った。こうして大胆な試みは挫折し、

    1969 年にはグスタフ・フサークが第一書記(75 年からは大統領)となって、「正常化」体制に着手し

    た。経済的には停滞が目立ち、政治的・社会的な自由も制限された重苦しい時代ではあったが、

    政府の政策に異議を唱えない限り、国民には一定程度の生活が保障されていたことは事実である

    21。 しかし、ソ連で始まったペレストロイカ政策、1977年の「憲章77」で人権擁護を訴えた哲学者ヤ

    ン・パトチカ、劇作家ヴァーツラフ・ハヴェル(のちの大統領)など反体制派の活動も、次第に話題に

    のぼるようになり、1989 年 11 月 17 日に行われた学生のデモをきっかけに「ビロード革命」が成功。

    こうして、チェコは第二次世界大戦後からに及ぶ共産主義支配から抜け出し、遂に真の意味での

    独立を達成したのである。

    今まで見てきたように、チェコ共和国は激動の歴史の中で、民族の存在の意義を問われ、支配者

    と戦いながら国家、民族を確立していったことがわかる。チェコにおける人形劇の発展にも、この歴

    史的背景が大きく関係していると言えるのではないか。第二章で詳しく考察する。

  • 10

    第二章 チェコ人形劇について

    1)チェコ人形劇の成立

    では、チェコ人形劇の歴史を詳しく考察していこう。

    ヨーロッパの人形劇は、ヨーロッパの土地のオリジナルな産物ではない。それは衰退した東洋の

    原型、抽出物ないし派生物としてヨーロッパに到来した。一般的にいって 19 世紀末までは系統的

    な注意を払われる事がなかった。ヨーロッパにおける人形劇の始まりはきわめて貧弱なもので、い

    わばこの上なく民衆的なものであった。チェコにおける人形劇運動の最高指導者であったヤン・マ

    リーク(Jan Malik 1904-1980)はこう述べる。「このことは、人形劇が職業的な俳優の演劇よりも、偏

    見の重荷に圧倒される事が大きかったという事実を証明する22。」このようにチェコにおいても人形

    劇はまず、芸術としてではなくどちらかというと低俗なものとしてみなされていた。もともと、チェコ人

    形劇最初のルーツは中世までさかのぼる。その時期から、異端者の習慣や伝統、そして宗教的な

    儀式や娯楽として存在していたが、その後、外国の劇団がチェコ国内をツアーするなどし、その影

    響も受けながらチェコの人形劇は発展してきたようである。(残念ながら、詳しい資料は現存してい

    ない。)当時人形芝居をしていた人々は、主として喜劇一座のごく平凡な、それも無学非識字であ

    る場合の多い、典型的な旅役者(図 5参照)であった。観客たちも多数は同様であったであろう。

    われわれが多少とも人形劇の足跡を散見するのは、17 世紀の初めになってからである。当時人

    気の中心はマリオネットであった。その人気は外国、特にイギリス、後にはドイツ及びイタリアの劇団

    によって助長されたものである。これらの劇団は主として地方廻りの劇団で、役者と人形のレパート

    リーをこもごも演じたのだが、中には人形劇専門の劇団もあった。マリオネット劇は評判が良かった

    が、それは何よりもまず入場料が安かったからである。マリオネット劇は特に中流及び下層階級の

    間に人気のある演芸になり、比較的短い期間にマリオネット劇を演ずるチェコ人がチェコの各地方

    に現れた。18 世紀の中ごろにはチェコ語で公演を行う人形劇専門の劇団が主流になっており、そ

    の際には完全に人間が演じる「演劇」とは違うジャンルとして人形劇は確立された。社会的地位か

    ら言うと、チェコの人形遣いたちは支持を与えられるというよりは、大目に見られる旅役者の階級に

    属していた。彼らは家族代々で劇団を構成する家族人形劇団が主流だったが、その伝統は、彼ら

    は当時社会的階級が低く、人形劇関係者同士で結婚するしかなかったので、伝統的に家族代々

    人形劇劇団が形成されていった23。 そのレパートリーはどうかというと、最初は「ファウスト」「ジュネ

    ヴィエーヴ」「ドン・ファン」のような国際的な題材及び聖書からとった二、三のテーマが代表的であ

    った。また、マリオネット劇団はしばしばオペラの台本を利用した。主に、ドイツの人形劇の影響を

    受けながら、小さな田舎の村々や共同体を旅し、人形劇をチェコ語で公演した。しかし、それは最

    初の段階ではすべて俳優の舞台の模倣であった。

  • 11

    その後、チェコのアマチュア演劇はヨゼフ・カイェタン・ティル(Josef Kajetan Tyl 1808-1858)によ

    って初めて発展が促進された。そのときまでは人形遣いがチェコの田舎と都会の演劇界を結ぶ唯

    一の環であった24。 その頃から、国際的な題材や聖書からとったもののみならず、そのようなチェ

    コ演劇の題目を人形劇師たちはチェコ語で演じるようになった。そして 1820 年代頃には人形劇の

    ために直接書かれた劇も現れ始めた25。非識字のチェコ農民たちもこの人形劇ならチェコ語で聞き、

    都市で行われている演目も娯楽として楽しむことができた。この人形劇がなければ農村部の民衆

    が文化的なものに触れる機会というものはなかったであろう。またただ単にそれは娯楽としての役

    割のみではなく、都市部の文化人たちの思想や考えを農村部の人々にまで伝えることができる、啓

    蒙主義、民族意識昂揚の最良の手段であった。これらのことから、人形劇が演劇では成し遂げられ

    なかった農村部までにも普遍的な役割を果たし、啓蒙主義時代にバロック的な精神が根付いてい

    た農村部にも啓蒙活動を広げる、教育的な重要な役割を果たしていたことがわかる。また、1790 年

    以降はカシュパーレクという道化の人形が、支配者層を小ばかにして批判し、民衆の鬱憤を晴らし、

    支配に反抗する重要な役割を果たしながら活躍した。詳しくは、第三章の第 2 節で、カシュパーレ

    クが果たした役割を考察し、それを通じてチェコ人形劇の特徴を読み解いていく。

    今現在の研究で明らかにされていることに、「民族再生運動」においてチェコ人形劇はそれほど

    大きな役割を果たした訳ではないと言われている。それは第一章でも少し述べたように、チェコ民

    族再生運動の主たる課題が「高い」ジャンルの文化の創造であったのに対して、人形劇はやはり民

    衆と子ども向けジャンルの文化という性格を色濃く持ち続けたからである。しかも、そこで用いられる

    チェコ語は、標準チェコ語の規範が分解していた当時のチェコ口語の状態を反映していた。そのた

    めに特に 19 世紀後半以降、その言語的な「不正確さ」が、標準チェコ文語の確立を目指していた

    人々から批判されることにもなったのである26。 第一章でも述べたように、チェコ民族再生運動の

    主たる担い手はもちろんドイツ化した貴族や上層市民ではなかったが、他方チェコ語しか出来なか

    った農民や下層市民でもなかった。それは、チェコ語とドイツ語の両方ができたバイリンガルの知識

    人と中間層—特に都市の職人層出身の教養人と農村出身の聖職者であった27。このように、この

    時代にはブヂテルたちが進めた「チェコ民族再生運動」の目的にかなう大きな役割を、民族再生運

    動の「外」であった農村部を中心に行われていた人形劇は必ずしも果たしたものではないにしても、

    チェコ民族再生運動の対象者ではなかった農村の観客のためにチェコ語で演じられた人形劇は、

    ブヂテルやその時代のチェコ人形劇人たちが意識していなかったとはいえ、本来は民族再生運動

    に関与することのなかった下層階級や農村部の人々にある一定の啓蒙主義、民族高揚の効果や

    効力を発揮したという点での仕事は評価されるに値すると私は考える。いわば、民族再生を下支え

    する豊富な地下水脈としての役割を果たしていたのである。そして、彼らは第一章に述べたように

    民族再生運動において、「チェコ的」な、フォークロアなものを守り続けていた、実は重要な存在で

    あった。このように下層市民や農村部の人々と密接に結びついていた人形劇について考えること

    は、チェコ民族再生運動のある意味で根幹となっていた農民層の生活文化、思考や動きについて

    明らかにしていくと言う点でも有益なものとなる。

    このようにチェコ人形劇は、人形劇がチェコ語で演じられることによってチェコ語を守り、チェコ民

  • 12

    族再生運動において重要な役割を果たしたというのはたとえ正確な認識ではないにしても、「高

    い」ジャンルの文化を創造しようとしたチェコ民族再生運動全体の上昇運動の中に人形劇も巻き込

    まれ、チェコの人形劇は以下で述べるように単なる民衆的な娯楽以上の芸術性を獲得していった

    という方が正確な認識であろう。しかし、まさしくサブ・カルチャーと呼ぶことのできるこの人形劇は、

    「民族再生運動」にはそれほどの役割を果たさなかったという説があるにしても、それ自体が民衆に

    寄り添って力を得、エネルギーを蓄えたものであるという点で、「チェコ民族意識形成」などに果たし

    た役割は非常に大きなものではないか。また民族再生運動後期には、以下で考察していくように他

    の芸術手段に劣らずチェコ語やチェコ文化を高める重要な役割をそれぞれで果たし、近代的なチ

    ェコ市民社会を作る上でも活躍していたと考えることはできないか。

    今現在認知されている中で、最も古いチェコの人形劇師はヤン・イジー・ブラット(Jan Jiří Brat,

    1724-1805)である。彼は、ドイツとオーストリアの人形劇師のアシスタント、弟子として、プロとして経

    験を積み、独立したのちに、ボヘミアで人形劇の人気を広め、チェコの農村で働く他の人形劇師の

    ためにも人形劇の基礎を確立した。彼は、家族人形劇団(Puppeteer family)の初の創設者でもあ

    った。ヤンの二人の息子、妻らが彼の人形劇のスタイルを受け継ぎ、1870 年まで活動を続けてい

    た28。

    また、マチェイ・コペツキー(Matěj Kopecký,1775-1847) は、民族再生運動時代を代表する、

    最も有名かつ、伝説に残るチェコ人形劇師である(図 6, 7 参照)。当時のレパートリーを民族再生

    運動の目的にかなうように改作しつつ人形遣いは、田舎の人々にとって、、、、、、、、、

    その目覚めの最も効果的

    な促進者の一人であった。彼が有名になったのは、この時代風潮と彼のずば抜けた才能によるも

    のであった。彼は、農村部を旅した巡回人形劇師の息子として生まれ、人形劇師としての活躍は、

    民族再生運動の絶頂期と重なる。彼の名は多くの神話や伝説に出てくるので、チェコ人形劇の象

    徴とされ、民族再生運動時代の人形劇の役割の重要性と結び付けられる。19 世紀末には、このよ

    うな旅役者の一座はおよそ 80家族いた29。 今でもプラハに「マチェイ・コペツキー通り」が存在して

    おり、チェコ人は小学校で彼の歴史を学ぶそうである。

    そしてブヂテルたちにチェコ語の「不正確さ」を批判された人形劇においても、コペツキーの後

    の世代の代表的な人形劇師であり、熱烈なチェコの愛郷者でもあったヤン・ネポムク・ラシュチョフ

    カ(1824-77)のように、意識的に標準チェコ語を用いてそのチェコ語の「正しさ」を賞賛される人形

    劇師たちも出てきた。また彼は『ジシュカの死』、『ラービー城のヤン・ジシュカ』、『ポヂェブラディの

    イジー』などチェコ史(フス運動)に題材をとった新しい作品を加えるなどして、「チェコ的」な作品も

    レパートリーの一部になった30。

    2)チェコ人形劇の発展

  • 13

    19世紀に華やかな活動をし、民衆の心を捉えていた世界各地の民族的人形劇は、20世紀に入

    ると急速に衰退し、いたるところで敗北を繰り返すことになる。映画が人形劇にとってかわったとも

    いわれる。だがなによりも、人形たちが生きていた民衆的共同体が失われてゆくその時期、人形遣

    いたちが、技術の進歩と名人芸のみを追い、人間の演劇の模倣を繰り返していたことが敗北の大

    きな要因だった。ほとんど全世界的に、人形劇が衰退に向かいつつあったそのとき、チェコではむ

    しろ意図的に、それがチェコ人の文化と認識され、広まった31。 これは、前章で述べたように、チェ

    コにおいてはチェコ民族再生運動の流れの中で、チェコ人としての民族意識、誇りを取り戻すため

    には「高い芸術」が求められていた。その中でチェコ人形劇はその流れに組み込まれ、情熱を持っ

    たチェコ人形劇人たちは、チェコ人形劇の高い芸術性を創造し、証明し始めたのである。1887 年

    には人形劇の最初の判本があらわれ、1889 年には人形劇に関する最初の実際的なハンドブック

    が出版された。1903 年にはプラハで最初の人形劇大会が開催された。マリオネット劇は文学・文学

    史家や専門家の劇評家の興味ばかりでなく、画家たち、製図家、彫刻家等の興味を呼び起こし始

    めていた32。このような出版、人形劇大会の仕事などによって、人形劇に人々が注目する機会を増

    やし、他の芸術家たちの人形劇に対する興味を引き起こし(=芸術としての人形劇のあらゆる可能

    性を認めた)、そのときまで市の貧弱な小屋にかろうじて生存していた手使い人形が、ようやく作家

    と画家の若い世代によって注目され、経験ある芸術家たちによっても取り扱われ始めた33のはチェ

    コ人形劇の大きな発展要素の一つといえる。1917 年にはプラハの国民劇場の俳優の一団は、チェ

    コの小説家で劇作家のアロイス・イラシェク(1851-1930)が人形劇のために書いた寓意劇「パン・ヨ

    ハネス」を初めて上演した。これは明らかな文学的傾向を持った最初のチェコ人形劇であった34。

    しかも非常に興味深いことに、それまでは大人のための演劇、あるいはおとなにまじって、子供も

    見るものであった人形劇に、素朴な家庭の娯楽という考えが取り入れられるようになった35。 「文化

    が民族自立の願望と結びつくとき、それは必然的に未来の大人、次代を担う子供たちを含みこむと

    いうことなのか。」加藤暁子はこう述べている36。 確かに、民族自立の願望が強かったこの時代に、

    民族的な郷愁や愛郷心を次世代の子どもに育もうとした動きは当然の流れである。この民族の未

    来を次世代にも託すための教育手段としての側面と、人形劇ならではの娯楽としての側面が効果

    的に結びつき、また重要なきっかけとして同時に大量印刷・生産技術の発展や広がりが家庭での

    人形劇を身近なものにし、可能にしたと考える。19 世紀中ごろから、この家庭の小さいステージで

    人形劇を楽しむ、Family theatres 37は広がりをみせる(図8,9参照)。多くの人形劇アーティストが、

    子供や友人を楽しませるために、家用のステージや人形を制作した。これが 19 世紀後半からの、

    アマチュア人形劇師の公的な場での活発なパフォーマンスの基礎となった。プラハ国民劇場の舞

    台装置家カレル・シュタプヘルが家庭で演じる人形劇の舞台装置を印刷して世に出したのは 1894

    年のことであった。

    小学校や幼稚園の教師たちが子供たちに人形劇を見せる仕事を始めたのも、またこのころであ

    る。1903 年にはプルゼン・ドウドレヴチェの小学校は小さな人形劇場を設立した。上級学校につい

    ても同じであった。学校という公共の教育施設においても人形劇が正式に行われるようになった。

    アマチュアの人形劇師たちは、学校、ソコル(Sokol)38、パブなどで主に公演を行っていった。チ

  • 14

    ェコ人形劇のアマチュアの伝統を考える上で、ソコルについて触れないわけにはいかない(図 10

    参照)。1860年代以降、1861年創設の合唱団「フラホル」やこのソコルを始めとする様々な結社・協

    会・クラブの活動、さまざまな民族的祭典や行事などによって、チェコ人の市民社会と近代的な民

    族=ネーションが成長していくことになる39。 ソコルは、「チェコ人は皆ソコル!」というスローガンの

    下、広範な層の人間を運動の中に取り込んでいった40。 この「広範な層」というのがポイントで、ソ

    コルの活動は、市民層によって形成される市民的公共圏を下方に拡大しようとする試みであった。

    体育館は、市民層と下層民が出会い、いわば「国民的公共圏」が創出される場として位置づけられ

    ていたのである。そのソコルの目的を達成するものの中に、もちろん下層民、農民層に昔から広く

    受け入れられ、広まっていた人形劇が必然的に含まれたのであろう。1912 年においては、ソコルは

    1156支部、16万 8260名(18歳未満の青年・児童会員を含む)のメンバーを擁する団体となってお

    り、全体では 720 回の公開体操、3318 回の遠征、741 回の歴史散歩、3587 回の講演会が行われ

    たと記録されている。また、ソコル独自の図書室は 757、閲覧室は 264 であり、合計で 5 万 4424 冊

    の専門書、18 万 7077 冊の教養書・娯楽書を持っていると報告された41。 このようにチェコ全国土

    において広範に活動していたソコル(図11参照)において、アマチュア人形劇師が人形劇を演じる

    場を確保できたことは、チェコ人形劇がさらにチェコ全国土に広まる土台となったと言える。また、

    「高い」芸術として人形劇は認められつつあったものの、伝統的に下位層を中心に人気があった人

    形劇を、様々な階層が集合するソコルで上演することにより、上位層も人形劇にふれることが出来、

    その芸術性や可能性の高さを知らしめるために重要な役割を果たしたのではないか。

    子供も大人も含めた市民のスポーツ文化の交流の場であったソコルの人形劇は、その成立の民

    族的な性格から見ても、子供のためだけの劇場ではなかった。多くが子供のための品位のある娯

    楽、また、教育のためのものであったが、記録によれば、風刺劇、詩劇、人形レビューなど、プロレ

    タリア文学運動などとも密接に結びついていたものだったと言われる。スポーツや体育が、国威発

    揚の道具としてではなく、民衆の自発的組織によって普及され、しかもその組織が人形劇場をあわ

    せもって発展していったところがいかにもチェコらしい42。 ソコルというチェコ人によるチェコ人の市

    民社会形成のための特別な組織と人形劇は一体になることによって、人形劇は確実にチェコ人民

    族意識と深く結び付き、チェコ民族独立や発展の意識のもとに、チェコ人形劇はさらに発展を遂げ

    ていったのである。

    1911 年にはチェコ人形劇人組織(Český svaz přátel loutkového divadla)という組織が、両親や師

    匠から独立したアマチュアアーティストたちによって結成された。彼らは人形劇概念の真の価値を

    重要視し、人形劇を芸術ジャンルとして確立しようとした。

    また、第一次世界大戦中チェコの人形劇は戦線で、野戦病院で、軍事病院で、捕虜収容所で、

    ロシア戦線及びイタリア戦線に従軍中のチェコスロヴァキア「軍団」によって重宝された。

    1918 年以降、人形劇発展の動きはより活発になっていった。1920 年には、ロウニー(Louný)とい

    う町にチェコ国内で始めての独立した人形劇場が完成され、それ以降様々な町に劇場が設立され

    ていき、人形劇師は人形劇を上演する安定した場所を得ることが出来た。ちなみにロウニーの人形

    劇場は現存し、人形劇が公演されている。当時チェコスロヴァキア国内で、2 千以上の子供向けの

  • 15

    劇が定期的に上演され、千の民衆人形劇団、2千の教育施設付属の人形劇団、さらには無数の家

    庭人形劇グループが存在するなど、人形劇は文化の中で大きな比重を占めていた43。 1921 年に

    人形劇はプラハの地方学校委員会の告示の中で言及された。ついで同様の告示がブルノの地方

    学校委員会によって発せられ、さらに文部省及び保健省も人形劇の教授上、教育及び宣伝上の

    効果に注意を喚起してその例に倣った44。 このことにより、この時期には公的にも人形劇が認めら

    れ、教育や宣伝上重要なものとされていたことがわかる。また、プラハのマサリク成人教育研究所の

    付属「人形劇センター」の形で、チェコの人形劇は1923年 10月 21日に職業的本部を持つに至っ

    たが、これはこの種のものとしてはヨーロッパばかりでなく、世界でも最初のものであった。人形劇の

    学校と学級の創立の伝統は、1928 年にこのマサリク成人教育研究所による講習会をもって始まっ

    た。やがてこれに続いてチェコの幼稚園保母たちのための講習会がスロヴァキアのシュトピニァニス

    ケ・テプリツェで行われた。人形劇の講習会はチェコではおなじみのものとなり(1950 年頃)、中央

    で行われる講習会の他に、地方的規模で行われる講習会がたくさんあり、この点ですぐれた伝統を

    作り上げたのは上にも述べたソコルである45。 プラハ 8 区にあった 1923 年創立のソコル劇場は、

    ヤン・マリーク博士の主催の下に成長し、マリーク博士はここで巻き取り式背景画と三つの高いブリ

    ッヂを持つ新しい仕組みの舞台(その後いくつかの劇場によって採用された)を発展させ、その演

    出によっても多くの弟子と模倣者を得た。1931 年以来は、この小劇場はすべての人形劇学校の本

    拠となり、外国からも多くの人々が見学にやってきた46。

    また、同年設立されたチェコスロヴァキアのラジオは、ヴァーツラフ・ソイカ・ソコロフの人形劇朗読

    グループを 1925 年 5 月 23 日に初めて放送させた。チェコスロヴァキアの人形劇は外国の放送局

    によっても放送された。最初は 1927 年エッフェル塔のラジオ・パリからで、ここでカレル・ドリムル博

    士は医学会議に出席した機会に、チェコスロヴァキアにおける公衆衛生に関する人形劇の宣伝的

    使命について講演を行ったのである47。 このようにチェコ人形劇は国際的にもその人気や効果を

    アピールしつつ、人形劇そのものの質を発展させ、世界の模範者として発展していった。

    1929 年には、世界恐慌の不安がきっかけとなり、UNIMA が結成される(図 12 参照)。UNIMA は、

    プラハで結成された人形劇の国際的組織で、政治体制や芸術傾向の違いを超え、すべての人形

    劇、人形劇映画に関わる実践家、理論家、評論家、愛好家にひらかれている組織である。現在で

    も活動は続いており、90 カ国から 1 万人以上が参加している48。 この UNIMA の設立において重

    要な役割を果たしたのが、インドジーフ・ベセリー(Jindřich Veselý, 1885-1939)である。彼は人形

    劇研究家で、UNIMA の設立の他にも、上に述べた人形劇センターの初代会長、人形劇回顧展の

    開催や、人形劇の最初の定期刊行雑誌「ロウトカーシュ(Loutkář, 1912 から現在まで)」発行、新し

    い劇場の設立、海外とのネットワークの確立など、様々な面からチェコ人形劇師の活動をサポート

    した、20 世紀のチェコ人形劇を発展させた重要人物である。このロウトカーシュでは、チェコスロヴ

    ァキアが独立後、その新たな民主国を賞賛し加速させる多くの劇を発行した。このような愛国的な

    劇は、プロのジャーナリスト、詩人、そしてアマチュアたちによって書かれ、共和国中で職業、アマ

    チュア人形劇人たちどちらからも演じられた。

    このように、民族再生運動時代の巡回人形劇師、家族人形劇団、アマチュア人形劇師たちの活

  • 16

    躍によって、人形劇はチェコ民族の教養、娯楽、批判の手段、あらゆる場面で重要な役割を果たし

    ながら広範囲なチェコ民族の生活に入り込み密着しながら発展した。その中で、チェコ民族再生運

    動に巻き込まれる形で、その表現範囲の広さや視覚的、演出的な可能性ゆえに、さまざまな文化

    人たちに注目され(それに至るには下記にも述べるチェコ人形劇人の熱意による努力と苦労があっ

    た)、それまで民衆文化のひとつであった人形劇が、一芸術ジャンルとして確立されようとするまで

    に至ったのである。初期のころにはブヂテルたちからも低俗なものとみなされていたチェコ人形劇

    の可能性を見出しながら、それを芸術として高め確立させようとし、上に述べたような仕事を果たし

    て人形劇をチェコ民族の「文化」として意識させるまでに高めたチェコ人形劇人の努力は評価に値

    するだろう。しかし、もう一つ言及しておかなければならないのは、オーストリア政府は、人形劇をた

    だの子ども向け、低俗な娯楽としてみなしており、脅威としてみなしていなかったので、出版物と違

    い検閲を免れたのも、チェコ人形劇発展の大きな要因であるといえよう49。

    そしてさらに、人形劇の組織化やネットワーク化、研究、そして政府のサポート(公の承認)が、チ

    ェコ人形劇が高次芸術の一ジャンルとしての仲間入りを果たす発展の礎となり、促進剤ともなるとと

    もに、国際的にもチェコ人形劇が発展していく要因ともなった。

    1930 年代には、新しい世代の人形劇演出家たち(ヤン・マリーク、エリク・コラーシュ、ヴラヂミー

    ル・マトウセク[Jan Malík, Elik Kolář, Vladimír Matousek]ら)が、劇アヴァンギャルトに影響を受け、

    チェコ人形劇のスタイルを変えていった。これまで以上に人形のメタフォリックでシンボリックな可能

    性を追求し、演出家と舞台デザイナーの協力を重視し、人形劇にしか表現できないものを演じるス

    タイルである。チェコ人形劇の新たな可能性を見出そうとする運動が活発になっていた。

    3)第二次世界大戦からのチェコ人形劇

    しかし、このような約束された発展を遮るように、ナチスドイツの侵略、第二次世界大戦が始まる。

    人形劇に対するその影響は避けられず、1938年9月のミュンヘン協定はチェコスロヴァキアの人形

    劇に重大な損失を与えた。ナチスドイツは、人形劇の脅威を見くびっていたオーストリア政府と違い、

    危機的な状況から人々を助け出し、それを突破することが出来る伝統的な文化の力を理解してい

    た。ドイツによって併合された地域においては、チェコ文化の哨兵であり、前進してくるナチズムに

    対して英雄的闘争を行っていた幾百の小劇団が姿を消した。国境の外に姿を消したものの中には

    リベレツの人形劇団もあったが、その建物は戦後帰ってきたときにはひどい状態になっていて、復

    興は問題外であった。南モラヴィアの併合によってブジェツラフの有望な人形劇団等も失われた。

    人形劇団の数は 1938 年に 25%減り、公演日数は 50%減った50。 1941 年 4 月にはソコルの活動

    が禁止され、10 月にはソコル本部が無惨にも閉鎖された。この瞬間から幾百というソコルの人形劇

    団が存在をやめ、その財産は多くの場合没収または破壊された。こういう状況の下において行わ

    れた 1940 年の人形劇第 7 回大会は既に大胆なデモンストレーションであった。この状況下でも人

  • 17

    形劇大会が行われるということから、チェコ人形劇人の人形劇に対する熱い思いが感じられる。

    1942 年すべての文化活動は長らく禁止され、人形劇中、「最後には正義が勝つのだ」という信念を

    少しでも強めそうな箇所は躊躇なく削除された。しかしながら、このように困難な時代でも、チェコ人

    形劇人たちは、人形劇に対する熱意を忘れなかったのである。多くの人形劇人が迫害され、収容

    所に送られた51 が、人形劇が途絶えることはなく、その時代の問題を反映したものが上演された。

    また、テレジンのユダヤ人収容所や、ラヴェンスブリュツクの強制収容所におけるような恐ろしい条

    件下でもなおチェコの人形劇が行われた。ラヴェンスブリュツクの強制収容所では、チェコの婦人

    たちはありあわせの原始的な材料を使って人形劇をやり、大人や子どもの囚人たちに喜びと慰安

    を与えた52。 非常にこの事実は興味深いことで、収容所においてまでも人形劇はチェコ人の希望

    と誇りであったといえるだろう。チェコで今でも愛される、国民的ヒーローであるスペイブルとフルビ

    ーネク(Spejbl a Hurvínek)53 というキャラクターを生み出したヨゼフ・スクパ(Josef Skupa,

    1892-1957)もナチスドイツにより、収容所へ送られた人形劇人の 1 人である。なぜ、ここまでして彼

    らは上演を続けたのか?この点については、次節においてスクパの活躍を通して、ナチス支配下、

    共産主義支配下のチェコ人形劇の置かれていた状況や、その精神とはどのようなものであったの

    かということ、またこの時代の人形劇の役割を考察する。

    社会主義支配下での人形劇の発展をもう少し詳しく考察してみる。第二次世界大戦後解放され

    た国境地方においては、人形劇は再び文化的、教育的、政治的開拓者としての役割を受け持つ

    ようになったが、多くの土地では唯一の文化団体であり、それだけに、より大きな熱情をもって活動

    を行っている。人口 300 人に満たぬ村落においてさえ立派な設備を持った人形劇場が建設されて

    いる事実は、ただこの創造的熱情によってのみ証明されうるものである、とマリーク博士は述べる54。

    この「唯一の」文化団体であったと言う事実が、国土まんべんなくチェコの人形劇が発展する土壌

    があり、チェコ人にとって、生活に欠かすことのできない大切なものとなっていったゆえんである。チ

    ェコスロヴァキアには戦後の 1946 年末再び 800 以上の人形劇場があり、1947 年末には 1200 もの

    人形劇場があった。このうち最も多いのはソコルの人形劇場(1947 年には約 700)で、ほかにはカト

    リックの「オレル」教会の運営する人形劇場が著しく増えている。さらに学校の人形劇舞台も戦前に

    比較して増えており父兄会やチェコ青年同盟の運営する劇場も増えつつある。その他のものは少

    年団、経営、政党、教会等に属している。自治体の人形劇あるいは地方の文化協議会によって運

    営されている人形劇場も例外ではない。創造活動が盛んになっている明らかな証拠は、人形劇の

    学級と講習会が増えている事である。例えば1947年には、40以上の講習会が開かれ、2千人以上

    の実践的人形劇人が訓練を受けた55。

    チェコが社会主義国になったのは 1948年、その年にいわゆる「演劇法」が制定されて、人形劇は

    他の劇場芸術と同等の地位が法的に保証された。各地に職業劇場(プロ)の設立が急がれた。演

    劇法ができたときには、すでに実質的に職業化の素地がチェコ各地に出来上がっていたのだが、

    チェコの人形劇は S+H 劇場を除いて、それまでずっとアマチュアのものだった。その際設立された

    職業劇場は9個56 であるが、そのうちの一つである中央人形劇場(Central Puppet Theatre, 1949)

    は、モスクワのセルゲイ・オブラツォーフ(Sergei Vladimirovich Obraztsov)によって率いられたモス

  • 18

    クワ人形劇場(Moskow Puppet Theatre)がインスピレーションとなって設立された。この中央人形劇

    場は、新しい表現方法を模索し、主に社会主義リアリズム劇を促進する目的で期待されていた。こ

    この指揮をとっていたのは有能であったヤン・マリークであるが、彼は、ハイレベルな視覚的美術と

    詩的な語り口を使って、子どもたちに基礎的な道徳価値の知識を伝えようとした。また、1952 年に

    は、プラハに世界初の国立芸術大学の中に、人形劇学科 AMU57 が設立される。ここでは有名な

    チェコ人形劇人等を教授として招き入れ、若い人形劇人たちは、専門的、学術的に人形劇を学び、

    それを発展していける最良の場所・機会が与えられたのである。多くのチェコ、そしてまた海外で現

    在活躍する人形劇の専門家たちはここを卒業している。

    1960 年代に入ると、どんどん新しい劇のスタイルが生み出されていく中、伝統的な人形劇のル

    ーツを省みる動きが現れた。また、その一方、リアリズムを求めるのではなく、あくまでも「劇的な」創

    造劇を目指し、演出にこだわることが重視された58。このように 20 世紀後半の人形劇に影響を与え

    たのは、劇団 DRAK (Divadlo DRAK,1958), 人形劇場(Divadlo Loutek,1953), 子どものためのア

    ルファ劇場(Divadlo dětí Alfa 1963)である。特に、劇団DRAKは、コメディーのチェコの伝統を、モ

    ダンな演出と融合させ、革新的な演出方法や創造的な作品を次々と生み出していった。20 世紀の

    人形劇を形作り、チェコだけでなくヨーロッパ全体にも影響を与えた。劇団DRAKについても、第三

    章三節で述べることにより 1950 年以降のチェコ人形劇についてより詳しく分析する。

    また、イジー・ヤロシュ(Jiří Jaroš)によってもたらされた新しいスタイルの人形劇、ブラック・シアタ

    ー(Black Theatre)が現れた。1964 年にイジー・スルネッツ(Jiři Srnec)が、このブラック・シアターの

    劇団を設立し、その視覚的メタファー、幻想的な動き、ユーモアで夢の世界を描き出す、ノンバー

    バルで楽しめるこのスタイルは、現在でもナイトクラブやミュージックホールで上演され、世界的人

    気を誇る。

    そしてビロード革命(1989 年)の前にも、いくつかの反政府的な人形劇が存在していた。1976 年

    には、子どもたちに、社会主義政府へ立ち向かう人々を守るように促す劇がプラハで演じられてい

    た。この劇では、その反社会主義者が秘密警察に追われている内容であった。そして子どもたちは

    「私たちは打ち勝つだろう(We shall overcome)」という内容の抵抗の歌を歌い、この劇の内容は周

    りの人々には隠すように言われていた。この劇をプラハで観たというアメリカの人形劇師 Margo

    Lovelace は、「この小さな劇場に座っていた子どもたちが、1989 年の革命の際、通りを行進してい

    たのだろうか」と述べる59。 このことから、反政府的な人形劇がチェコでは行われており、未来を担

    う子どもたちに少なくとも影響を与え、支配に打ち勝つ原動力として重要な役割を果たしたことが言

    える。また、ビロード革命の前日に、Jan Getting というアメリカの人形劇師がプラハの路上で、大人

    向けに上演されているあからさまに政治的な人形劇を目撃している。

    このように社会主義時代には、ナチス支配下において強制的に下火にさせられた人形劇は、人

    形劇人、そしてチェコ民衆の手によって文化的、政治的、教育的に生活に基づくものとして復活・

    発展させられ、その上に演劇法の制定によって、法的にもその芸術性や価値が認められた。人形

    劇はプロとして安定的に活躍する舞台を準備され、芸術としての地位を公的に確立した。優れた演

    出家や劇作家、人形劇師たちが様々な試みを行い、人形劇の可能性を見出していった。しかし、

  • 19

    興味深い点としてチェコ人形劇は、もちろん芸術として認められてはいたが、正常な教育ないし文

    化団体だけでなく、リクリエーション、街中や休暇の露営地、運動場、特異児童のホーム、病院、そ

    して刑務所においてさえ盛んになっていた60。 あらゆるところでチェコ人の生活の一部として民衆

    的な性格も持ち合わせながら芸術的地位も確立していったところにチェコ人形劇の特徴があるの

    ではないか。また、その中でも政治的な役割は失われること無く、社会主義支配からの独立を目指

    すチェコ人の心の声を主張し、民衆に呼びかける手段として人形劇は活躍し、勢力に反抗する手

    段としても用いられていたのである。

    4)S+H劇場 ヨゼフ・スクパとスペイブル・フルビーネク親子

    では、ここでチェコ人形劇の父とも呼ばれるヨゼフ・スクパ(Josef Skupa, 1892-1957)について考

    察してゆくと同時に、チェコにおける人形劇を、ハイ・カルチャーとして成立させつつ、チェコ人の心

    をつかみ続けたチェコ人形劇人の精神を彼の中から読み取る(図 13 参照)。スクパは、第一次世

    界大戦後半から、プラハ南西部に位置するプルゼニ(Plzeň)という町で、オーストリア支配へ反感を

    示す政治的な劇をキャバレーで上演していた。1904 年にチェコ人形劇活動家第二回大会の開催

    地であり(この大会は大成功であった)、この大会の三年前に開かれた休暇遊園地の小劇場は、幾

    度か中絶したのち、1913 年 1 月 12 日に再開されて、1917 年の秋にスクパはその舞台裏に姿を現

    す。その際に、民衆の興味を惹くような、コミカルなキャラクターの重要性に気付き、新しいキャラク

    ターを生み出すことに注力した。そこで 1920 年にスペイブル(Spejbl)とフルビーネク(Hurvínek)と

    いうキャラクターを生み出した(図 14 参照)。その後彼らはスクパの人形劇の中心となっていった。

    1930 年には、チェコで初となる、プロの人形劇団をプルゼニで結成した。ファシズムが横行する

    中、人形を使い、比較的目立たない人形劇場を使用し、何百ものユーモアな大人向け風刺劇を全

    国、時には国外で上演し続けた。そのプロフラムは検閲に引っかからないような寓意的なものであ

    った。彼は「息を潜め、情熱も潜めながら61」活動していた。これは、反ナチス的なものは全て否定

    され、処刑されていた当時としては非常に勇気ある行動であったと言えるだろう。やはりその人形た

    ちの風刺とユーモアのゆえ、1944年にドイツの秘密警察ゲシュタポに逮捕され、人形は押収されて、

    ドレスデンの収容所へ送られた。しかし、ドレスデン大空襲の際に奇跡的に脱出に成功し、地下壕

    に隠れ潜み、プラハへと帰郷した。この奇跡的な脱出の成功がなかったら、スペイブルとフルビー

    ネクの親子が、今のように活躍していたかどうか。もしかしたら過去の資料として、博物館におさめら

    れていることになったかもしれない62。

    1945 年、第二次世界大戦が終結し、スクパは S+H劇場 (Divadlo S+H)をプラハに設立する(図

    15 参照)。この S+Hの意味は、もちろん主人公のスペイブルとフルビーネクの S と Hの頭文字を取

    ったもの、と言う意味もあるが、主にはチェコ語でサチールとフモル(Satír a Humor)、皮肉とユーモ

    アという意味の単語の頭文字 S と H をとり、命名されたものである。まさしくスクパの劇風を表してい

  • 20

    る劇場名といえるだろう。

    ここで、図16に注目していただきたい。この写真は、S+H劇場の劇の一団が、専用のバスの前で

    写真をとったものであるが、バスの上には、「Plzeňské loutkové divadélko – prof.Skupa(プルゼン人

    形劇場―スクパ教授)」と書かれてある。本来、この「スクパ教授」と入れられている部分の余白を埋

    めるためには、「プルゼン芸術、、

    劇場」とするのが普通であると考えられたが、スクパは「Prof.(教授)」

    とわざわざ入れたのである。それは、彼がアカデミックなこのような称号は、彼の人形劇に質と信用

    性を付与するものだと分かっていたからである63。チェコでは現在も、このような称号を非常に大切

    にする傾向が残っている(手紙やメールなどでも必ず称号をつけるし、称号で呼び合うことは尊敬

    を意図するという)。このようにしてスクパは、効果的な方法を模索し用いつつ、人形劇の芸術的な

    地位向上への認識形成も積極的に図っていたという事実がわかる。また、この時代は、ヨーロッパ

    各地域で人形劇場がアカデミックな称号を持った人々によって構成されることが好まれる傾向にあ

    った。例えば教授、エンジニア(技師)、そして建築家などであった。

    しかし、戦後にはナチスドイツの支配が終わったかと思えば、チェコではソ連の支配が始まる。こ

    のような社会情勢の中、自分のスタイルの人形劇を上演し続けることはとても簡単なものではなかっ

    た。1948 年には、スクパは政府より名誉あるアーティスト賞を授与される。しかし、その政府の真の

    目的は、民衆に愛され、海外でも名声があり、技術的にも優れていたスクパの劇を政治利用するた

    めであった。民族再生運動時代初期には、低俗なものとみなされていた人形劇が、一国家勢力が

    政治利用するまでになっているという点でも、非常に興味深い。これらにより、スクパはこの政治的

    利用を避けるために、S+H 劇場の劇は心温まるストーリーの子供向けのものにスタイルが変化して

    いったものの、彼は批判の中でも大人向けの風詩劇を上演し続けたのである。また、政治的緊張

    が緩まった 1950 年代中旬には、社会的なテーマに回帰した。例えば、「ビーナスの上のスペイブ

    ル(Spejbl na Venuši)」では、風刺的にスターリン主義による悪化した生活を比べるというものであっ

    た64。 1957 年のスクパの死後は、ミロシュ・キルスフナー(Miloš Kirschner)が劇場を引き継ぎ、現

    在はマルティン・クラセック(Martin Klasek)がその意志を引き継いでS+H劇場の指揮をとっている。

    1970 年代以降、そのレパートリーは政治的な状況ゆえにより児童向けになっていった。現在、子供

    向けの劇は 18 カ国で上演されたことがあるが、大人向けの劇はチェコ語で、チェコでしか上演され

    たことはない。それは、昔からのチェコ人特有なものとして、そしてチェコ人のためのユーモア風刺

    劇の特徴を今でも引き継いでいるからであろう。現在も、2010 年に S+H 劇場のリニューアルが完

    成し、一ヶ月に二回ほど、プラハで大人向けの公演が定期的に開催されている(子ども向けの公演

    は週5回ほど、随時)。チケットはすぐに売り切れてしまうほど人気である。

    このように、スクパは、人形に自分の思いを託し、いつの時代でも自らの身の危険を省みず、ユ

    ーモアを用いて社会矛盾を批判し続けると同時に、チェコ人形劇の芸術的地位を高めた。この思

    いを引き継いだキルスフナー、クラセックの努力もあり、現在でもスペイブルとフルビーネクはチェコ

    の国民的ヒーロー、アイデンティティの一部として活躍し続けている。このような熱い思いを持った

    人形劇人たちが、支配の中においても、チェコ人形劇を伝承し、彼らのおかげでチェコ人形劇は

    幾度もの危機を乗り越えて発展し続けたのである。

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    第三章 人形が表すもの、創造するもの

    1)人形劇の特徴

    今まで見てきたように、チェコにおいて人形劇は様々な歴史的要因が絡まり合って発展してきた

    事が分かった。しかし、その発展要因は歴史的なものだけなのだろうか? 人形劇の表現の可能性

    や特徴とは、いかなるものなのだろうか? 他の芸術手段ではなく、人間には表せなかった何かが

    人形の特性にはあり、それがチェコ人にとって相性がよかったゆえに、発展してきた要因もあるので

    はないか? そこで、この章では、人形劇そのものの特徴について考察し、その歴史的背景と人形

    の効果がどのように合致しチェコ民衆に人形劇が愛されるようになったのかを述べていきたい。

    「いかなる芸術流派がチェコ人形劇に見られるか」と言う点に関してロシア出身でチェコでも活動

    した民衆文化の記号学者ボガトゥイリョフは、それには二つの流派があり、ひとつは、

    自然主義的な潮流であり、・・・・自分たちの前にあるのが木の人形であって生身の人間では

    ないという事を観客が忘れるようにする事を、主なる課題としている65。

    この流派の名人たちなかには、第二章で述べたマチェイ・コペツキーがおり、コペツキーがオース

    トリア政府から劇をドイツ語でやるよう強要された際に、私はドイツ語をしゃべれますが、人形のや

    つがドイツ語を知らないのですよ、と抜け目無く応えたと言う。また他にも舞台での政治的発言のた

    めに裁判所に呼ばれたある人形使いは、しゃべったのは自分じゃなくみんなこのカシュパーレクが

    悪いのです、と述べ立てたという。このように自らも人形が生きていると半ば信じている者もいた66。

    このように 17世紀以前から 19世紀初頭頃までは、人間の演じる戯曲をまねした作品が多く、ボガト

    ゥイリョフが言うように人間の模倣としての人形の役割が強かったと言えるだろう。しかし、マチェイ・

    コペツキーやその他の民族再生運動のころの人形劇師たちは、この自然主義的潮流も引き継いで

    いるが、もう一つの流派にも当てはまっているのではないか。

    そのもう一つの流派については、

    人形は様式化されており、その顔や姿は様式化されたものになっている。・・・・人形を操る際

    には人形の動きがその人形的性格を失わず、また、その角張り様式化された動きによって最

    大限の表現力を獲得するようにつとめる。この表現力は、ときには、生身の俳優にとっては手

    に入れられないほどのものでもある。おそらく、この新しい潮流は自然主義的潮流に勝利する

    であろう67。

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