行政法と官僚制(2) - 立命館大学 Hirotake.pdf行政法と官僚制(2) 正木宏長...

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Page 1: 行政法と官僚制(2) - 立命館大学 Hirotake.pdf行政法と官僚制(2) 正木宏長 第二章 専門性と行政法 本章では,官僚制の「専門性」が,行政法においていかなる役割を果た

行政法と官僚制(2)

正 木 宏 長

第二章 専門性と行政法

本章では,官僚制の「専門性」が,行政法においていかなる役割を果た

すかを,アメリカ行政法を題材に,行政学の議論も適宜参照しつつ検討す

る。

本章では,行政法における官僚制の「専門性」の理論を歴史的に検討し

た後,判例の検討を行う。

第一節 官僚制の専門性と行政法

官僚制の担い手である官僚が,専門性を有しているということは,非

常に古くから主張されてきた。

ヘーゲルは,官職に就く官吏が能力や技能によって任命されること,官

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目 次

序 章

第一章 行政法学と行政学 (以上,立命館法学296号)

第二章 専門性と行政法

第一節 官僚制の専門性と行政法

第二節 専門性理論前史

第三節 専門性理論

第四節 専門性理論の衰退 (以上,本号)

第五節 専門性の復権

第六節 判例理論と専門性

第三章 中立性と行政法

終 章 行政官僚制と日本行政法

Page 2: 行政法と官僚制(2) - 立命館大学 Hirotake.pdf行政法と官僚制(2) 正木宏長 第二章 専門性と行政法 本章では,官僚制の「専門性」が,行政法においていかなる役割を果た

職が相続や売買の対象にならないことを説いた。そして,能力の識別と証

明によって統治の職に就くものが任命されることを主張した1)。この主張

は官僚制の専門性についての古典的な主張と位置づけられる2)。

そして,M・ウェーバーは,官僚制の特徴として,官僚制の職務執行は

規則に従って行われるが,規則は法律学や行政学や経営学といった特殊な

技術学をなしており,官僚達がこれらの学問を身につけていることを指摘

していた3)。

また,ウェーバーは,官僚制組織の技術的優秀性を見出していた。官僚

制化によって職員は専門的に訓練され,作業は分業化されるが,それは,

文化の複雑化によるザッハリッヒな専門家の要求をみたすものなのであ

る4)。

以上がウェーバーの官僚制の専門性の主張である。ウェーバーの主張は,

官僚個人の専門性と官僚制組織の専門性の双方を唱えるものであろう。

ウェーバーの専門性の主張は行政学に承継されたが,行政学では,ウェー

バー以降,はたして官僚制は技術的に優越した存在であるかという問題提

議がなされることになる。ウェーバー理論の克服が,行政学の主要なト

ピックの一つとなるのである。

行政法について考えてみると,官僚制の専門性の主張は,ウェーバー

以前から既に唱えられていた。例えば,プロイセンでは,18世紀には既に,

官房司法における司法裁判所と君主行政機関の権限分配に際して,行政の

専門技術性が主張されていた5)。また,19世紀に入り,ドイツで行政裁判

制度の構想がなされた際にも,行政裁判が必要となる根拠として,専門知

識や行政の経験といった行政の専門性の要求があげられていた6)。

本稿は,これ以上ドイツの議論に立ち入らないが,上のような古典的な

議論からも,行政学での専門性の主張と,行政法学での専門性の主張のコ

ンテクストの差が感じられるだろう。行政法では,官僚制の専門性は行政

訴訟との関連で主張され,行政学では,官吏の能力に基づく任命や技術訓

練との関連で注目されたのである。これから見ることになるが,アメリカ

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行政法と官僚制(2)(正木)

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行政法でも,専門性は行政過程の正統性や行政訴訟との関連で主張され,

行政法学において行政の「専門性」の概念は,行政学的な専門性の概念と

は異なる独自の意味合いを持つのである。

第二節 専門性理論前史

第一款 専門家の尊重と専門家への不信

アメリカ行政法の専門性の理論を見る際,「専門性(expertise)」と

「専門家(expert)」の微妙の差異に留意しておかねばならない。行政の

「専門性」といえば,行政が専門特化していることが想起されるが,それ

は行政官僚が専門職試験によって情実を廃して任用されるということ,行

政官僚が特殊専門的な分野の知識に精通していること,ある行政機関が一

定の分野に専従していること,専従領域には当該行政機関の能力の相対的

優秀性が推定される等,多様なニュアンスを包含する。これに対して,あ

る人物が「専門家」であるということは,ある種の技術や知識に精通した

人物であるということを指す。

行政機関の「専門性」が主張される場面で,個々の行政官僚が専門家で

あることは,必要条件ではないことに,留意しておかなければならない。

例えば,個々の官僚が「専門家」でなくても,それとは別に行政機関の

「専門性」が語られる場面があるのである。その場合,行政官僚制は,組

織全体として見た時に,個々の官僚の資質はさておいても,なんらかの

「専門性」を有しているということが,語り手に想定されているのである。

アメリカ行政法学においては,行政官僚制組織の剥き出しの「専門性」

よりも,まず「専門家」の理論が語られた。このことは,ドイツ行政法学

で,君主の下で活動する行政官僚制組織の一体としての「専門性」が,早

くから語られていたことと,対照的なことである。

さて,アメリカの社会の中には,「専門家」への尊重と不信が混在し

ている。田中英夫はアメリカの平民主義とエクスパートを論じるに際して,

次のように語った。

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「平民主義的なたてまえにもかかわらず,アメリカの民衆の程度は,それに応

えるほどは高くないように思われます。」

「能力が高い人間とそうでない人間とがいるということは,実際上,エリート,

と申しますよりもむしろエクスパートと言ったほうがいいかもしれませんが,さ

まざまの問題についてエクスパートを重視せざるをえないという現象となって現

れてまいります。」

「にもかかわらず,アメリカ的な平民主義的なたてまえは健在ですから,一方

でエクスパートをつくりながら,他方,エクスパート万能に対する警戒心が強く

出て来る7)。」

このアメリカ社会における専門家の尊重と不信の伝統は,アメリカ人自

身も語るところである。例えば J・O・フリードマンは,アメリカ人の専

門家不信について,「専門家への憤慨の深い系譜は我々の歴史を通じて

あった。この系譜は,実際には,リチャード・ホーフスタッターが説得的

に主張したように,アメリカ人の生活における反知識主義の大きなパター

ンの一部なのであろう。しかし,それは多くの知識人自身によって共有さ

れている」と述べている8)。

このようなアメリカ人の専門家への尊重と不信は,アメリカ行政法学の

中にも現れてくる。アメリカ行政法学は,創成期から今日に至るまで,こ

の問題をくりかえし議論し続けているのである9)。

アメリカ行政法学については後で見るが,行政における専門家の尊重

と不信は,アメリカ建国期から既に現れていたことであった。アメリカ行

政学において,古典的な議論とされている,フェデラリスト,ハミルトン

に代表される専門家尊重の行政観と,アンチ・フェデラリスト,ジャクソ

ンの専門家不信の行政観のことである。

ハミルトンに代表される専門家尊重の行政観では,公的問題の行政は,

問題管理の専門家である人物に任せられるべきであり,政府の事業は,自

分自身が事業遂行の専門家であることを証明した少数の人物によって行わ

れるべきだということになる。こういった人物は,必然的に,ボストンや

ニュー・ヨークやフィラデルフィアのような産業の大中枢の,商業と財政

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のエスタブリッシュメントと,巨大農業事業を経営する大農家の中から得

られることになる。

これに対し,ジャクソンに代表される行政観では,公行政は,そのほと

んどが小規模農家と商店主と労働者である,コミュニティーの一般人に

よってなされるべきであり,彼らが一般人に留まるために政府公務員に選

任された人物は短期の任期しか持つべきではなく,任期後は,他の純粋市

民と入れ替わるために,日常生活に戻るべきだとされる。ハミルトンに代

表される行政観の下では,公行政は専門家を要求する複雑な問題であるの

に対し,ジャクソンの行政観では公行政は,誰でも出来る簡単なものなの

である10)。

この二つの行政観は,「強力な行政か民主主義的な行政か」というふう

に図式化され,アメリカ行政法学における行政の専門性の理論と,それに

対する批判へとつながっていく。アメリカ行政法学は,その誕生以前から

行政官僚制の専門性への不信と尊重というアンビバレンツな感情を胚胎す

ることを運命づけられていたのである。

第二款 政治と行政

ジャクソン流の民主主義,ジャクソニアン・デモクラシーは,一九世

紀中盤のアメリカを席捲した。行政法においては,ジャクソニアン・デモ

クラシーによって,猟官制が普及したことが特筆に値する。猟官制は,本

来は,長期の任期を持つことで,公務員が腐敗することを防止するための

ものであったが,それは代償として公務の非能率化と政治的任用による腐

敗をもたらした。そこで,19世紀後半,進歩派により,公務員制度改革を

推進する運動が起こったのである。そして,この運動は,行政学における

「政治と行政の分断論」へと発展した11)。

W・ウィルソンとグッドナウに代表される,政治と行政の分断論によっ

て,アメリカ行政学は本格的な発展を始めることになる。政治と行政の分

断論は,統治機能を「執政」と「行政」に分かち,「執政」を「政治の領

域」に,「行政」を「行政の領域」に分属するものである。政治と行政の

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分断論は,猟官制によって恣意と陰謀の世界と化し,腐敗と浪費が横行し

ていた「政治」から,「行政」を解放するものであった。政治と行政の分

断論の成果は,公務員制度へのメリットシステム(成績主義)の導入とし

て現れることになる。さらに「政治の領域」から切り離された「行政」の

領域には,経営や能率のディシプリンが生じる可能性が生じる。このディ

シプリンこそが「行政学」であった12)。

さて,グッドナウは,1893年にアメリカで初の行政法の体系書である

「比較行政法」を記していた13)。アメリカ行政法もまた,ここに誕生した

のである。

グッドナウは「比較行政法」において党派的な公務員任命の問題点を指

摘し,次のように述べていた。

「合衆国では,任命権が与えられた公務員が,自発的に,彼らが得ることがで

きる最良の人物を選ぶと考えられていた。政党政治の成長に伴って合衆国政府と

州政府の双方で,行政的考慮よりも党派性が,多くの事案において,公務員任用

活動を支配するに至った。このような慣行の自然の結果は,被任用者の品性の劣

化である14)。」

大統領の省庁公務員の任用の試験要件が,局長職について除外されたこ

とについて,グッドナウはこのように言う。

「局長職の適用除外の結果は不幸なものとなった。局長職の地位は不安定であ

り,今や以前よりもさらに非能率的な人物があてられ,そして,多くの場合は党

派の政治的な理由によってあてられていると言われている。公務員法と諸規則の

執行の結果として,地位への需要があまりに大きく,かつ,配分される地位の数

はあまりに少ないので,局長職の地位は政治的便益の見返りとして用いられ

た15)。」

また,グッドナウは,アメリカでは政治的任用の公務員が,諸外国に比

べて行政ハイアラーキーの下位まで達し,政権交代毎に相当の裁量を行使

する地位に新しい在職者があてられると指摘する。そして,アメリカの公

務員が充分な法律知識を持っているといっても,高級職での頻繁な人事交

替が,事務の細部に精通した人物を職場にとどめておくことを事実上不可

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能にしているとされる。グッドナウによると,公務員の政治的任用は行政

的観点からするとアメリカ的システムの弱点であるが,この弱点の改革は,

官僚支配へと結合する公務員の恒久的任期への恐怖心を人民が持つ限り改

善の望みがない16)。

このように,グッドナウの「比較行政法」の中には,行政学的な猟官制

の実態分析傾向がある。グッドナウは,行政能率と民主政治の確保のため

の政治と行政の分断論を主張したとして知られるが17),グッドナウは行政

法にも卓越した知識を持っていたのであり,それが彼の政治と行政の分断

論にも反映されていたことは疑いのないことであろう。

グッドナウは,アメリカの地方自治の特徴として,全てのアメリカの

行政機構のように,公務員が非専門的性質であり,専門的公務員がほとん

どいないことを指摘していた。専門的慣習を発展させる機会がないので,

公務員はコミュニティーの中で特別の地位を形成していないというのであ

る。こうして地方行政では,社会が自身を統治する自己統治が行われてい

ると,グッドナウは説明するのだが,このような地方自治における公務員

の非専門性の例外として,市政をグッドナウは挙げていた。市政では,俸

給を与えられ長期の任期を持つ,専門的な一定数の公務員が要求されるの

である18)。

この指摘の一方で,グッドナウは公務員を試験によって採用する公務員

任用改革運動にも言及している19)。

後に,進歩派によって進められた市政改革運動や公務員制度改革運動に,

グッドナウの理論は大きな貢献をすることになる。この運動によって,地

方では非党派的で専門的なシティー・マネージャーの任用が行われるよう

になり,専門的な技術者や医者の公務への任用が促進された。連邦レベル

では,すでに1883年に連邦ペンドルトン公務員法が制定されていたが,そ

れ以降改革が進み,連邦公務員の試験による任用が推進され,党派性は後

退させられて,中立的かつ専門的な公務員制度の構築が行われることと

なった20)。

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ウィルソンやグッドナウ以降,アメリカ行政学は独自の発展をしてい

く。グッドナウの比較行政法の方法は方法論から除外されることになっ

た21)。これ以降のアメリカ行政学の物語を語ることを本稿はしないが,党

派制を排除した専門的公務員制度の確立の背景と,それに対するグッドナ

ウの理論的貢献は記憶にとどめておく必要がある。グッドナウの理論は,

専門的な能力によって公務員が任用されるという点では,ヘーゲルや

ウェーバーが主張したような個々の行政官僚の「専門性」を指向するもの

であり,政治と行政の分断論に貢献するものであった。

だが,後のアメリカ行政法学に,グッドナウの理論が重要な地位を占め

ることはなかった。専門的公務員制度の確立という意味での「専門性」が,

後のアメリカ行政法学においてクローズ・アップされたわけではないので

ある。20世紀に入り,アメリカでも専門的な行政官僚制が整備されること

になったが,アメリカ行政法における真の意味での「専門性」の理論の確

立は,後の学説を待たなければならなかった。

第三節 専門性理論

第一款 専門家尊重の動き

20世紀に入り,専門家尊重の動きは拡大していった22)。行政学におけ

る公務員制度改革運動によって,専門的な行政官僚制が確立されたことも

あり,専門家尊重の動きは行政法にとっても無縁のものではなくなりつつ

あった。

アメリカで行政法が注目されたのは,州際通商委員会や連邦取引委員会

のような行政委員会の発展に関連してであった。このような行政委員会に

どれだけ裁量を認め,どこまで司法審査するかが,黎明期のアメリカ行政

法学のトピックであった23)。

そこでまず,専門家尊重の動きは,司法審査との関連で,「行政の専門

性」の尊重というテーゼとして現れることになる。そして,ニュー・

ディール期の大議論の際には,「行政の専門性」の尊重というテーゼは,

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行政機関が広範な権限委任に基づき,行政過程を通じて規制活動を行うこ

とに正統性を認めるか認めないかという,行政過程の正統化という次元で

激しく争われることになるのである。

専門家の尊重の動きは,1927年のディキンソンの著書の中に記されて

いる。ディキンソンによると,行政決定の最終性の議論に際し,「委員会

が業務を行う技術的領域において,単に事実認定をすることだけでなく,

適切な結論を引き出すことについても,専門的な委員会のほうが,裁判所

よりも適格であると言われている」24)。さらにディキンソンは,このよう

な見解は判例でも言及されているとして,ミネソタ州のある判例を引用し

ている。この判例は次のように述べていた。

「裁判官は,特別の学習や経験を持つことが想定されておらず,仮に有してい

たとしても,裁判所に公知の事実(judicial notice)を認定することが出来ない。

裁判官は,いかにして,特別の学習と経験を持ち,公知の事実に基づいて行動す

るのがもっともな諸委員会の決定を審査するというのだろうか? このような争

点では,裁判官は決定に適していないと我々は考える。これは盲人が盲人を先導

する案件ではない。常に観察と聴取を有しており,問題となっている争点の真実

の確認のために,最大限に観察と聴取を常に用いた者よりも,これらの争点に難

聴かつ盲目な者のほうが,よりよく見ること聞くことが出来ると主張している案

件なのである25)。」

法の最高性を説いたディキンソン自身は,このような見解に与すること

はなく,「他方で,理由は何であれ,私人の権利を終局的に解決すること

を行政組織に許す傾向は,現在の産業界の反対と法的伝統の組み合わせに

ぶつからなければならなかった」と述べている26)。このときから既に,

ニュー・ディール期の大論争の萌芽は現れ始めていたのである。

また,フランクファーターは,彼の著書の中で,現代の政府で専門家

が果たす役割の重要性を主張していた。ホーウィッツは彼を「専門性理

論」の著名な主張者の一人と位置付けている27)。フランクファーターは

1930年の著書の中で,こう述べている。

「犯罪問題が,公衆衛生や水力工学の問題と少なくとも同じくらい困難である

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ということを否定しない人間などいないだろう。しかし,公衆衛生や水力工学は,

いまや当然のように,問題へと人生を捧げる専門家の関心事となっているのであ

る。専門主義の本質とは,――人間が素質によって,調査や,彼らが徹底的に訓

練されていることや,彼らが恒久的キャリアとして遂行することに,適合するこ

となのである28)。」

このようにフランクファーターは専門的問題について政府の専門家が問

題処理に当たることを正統化するが,他方で,フランクファーターはこう

述べている。

「しかし,行政の専門家にますますあてられる権力は,全ての権力と同様に,

その行使が適切に制限され,熱心に吟味されないかぎり,濫用は自明のことであ

る。我々が行政裁量の分野を広げたので,専断へのドアは開かれたのであ

る29)。」

フランクファーターが,行政権の無制限な拡大を警告していたことには

留意しなければならない。また,政策の最終決定が,専門家ではなく,公

衆の直接的な代表者によってなされなければならないとも,フランク

ファーターは主張している。

「例えば政府が,マッスル・ショールズに影響を及ぼすべきか,あるいは水力

のリースをすべきかは,技術者や経済学者の権限を越えるのである。我々は科学

の声の届かない価値に関する判断の領域にいるのである。民主主義の大原則は,

自身の選択に基づいて問題を決定する公衆の権利を含んでいる30)。」

上のように述べて,フランクファーターは,続けて,政治家も統治の専

門家でなければならないと主張するのである31)。

この時期のアメリカ行政法学を考える上で留意すべきことは,20世紀

初頭のアメリカ行政法学が,行政機関への権限委任に厳格な立場をとって

いたことである。それは権限委任法理において行政への委任の範囲を制限

するという方向で現れる。フロインドは行政機関の規則制定についてこう

言う。

「委任の正統性について一般的に妥当な原則を定立することは極端に難しいが,

所見として言えるのは,主要な問題に関しては,権限委任の適切な領域は,政策

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又は世論に争点への争いがないところである。ここで,リベラルな委任が期待さ

れ,かつ,見出されるのは,安全規制や,純粋に技術的性質の整理が顕著な役割

を果たすところにおいてである。逆に,直接の法律の規制が望まれるのは,当該

問題が階級(class)の利益に抵触する,または,当該問題が強力な公衆への訴

求力を有している場合である32)。」

このフロインドの記述から「行政」に立法権限が委任されるのは,あく

まで技術的な領域であり,公衆の関心事となる問題の処理は法律,つまり

議会による政治に委ねられるべきだという主張が窺える33)。これは先に挙

げたフランクファーターの立場とも符合する。しかし,他方で,行政機関

への権限委任を完全に否定するものでもない。

20世紀初頭のアメリカ行政法学の,フランクファーターやフロインドの

理論は,行政機関内の専門家が処理する技術的な問題について,行政の

「専門性」の領域を切り開いた。そして,専門家の能力や問題の技術性を

理由に,行政への権限の委任や行政裁量を正統化した。その意味で専門的

公務員制度の確立という観点から,個々の公務員の「専門性」を見ていた

グッドナウの「専門性」の議論とは目的がやや異なるものであろう。

もっとも,専門的公務員制度の確立によって,フランクファーター達の

ような議論ができる土壌ができたとも言える。フランクファーター達の議

論は行政機関内に任用された個々の専門家の存在を前提としていた。その

点では,行政の「専門家」が行政を行うことを求めた,政治と行政の分断

論との連続性を指摘することができるし,任用制度の整備がなくては専門

家の行政機関への登用はままならない。さらに,フランクファーターは専

門家の手に委ねられない「政治」の領域の存在を示唆していた。この点で

グッドナウとフランクファーターが見ていた「政治」と「行政」の風景の

同一性も指摘できる。そこで言う「政治」とは議会や執行部による政策決

定の部分であり,これに対して「行政」は行政機関の技術的決定の部分で

ある。

一方,行政機関内の個々の専門家の専門性を基礎とした「専門性」の議

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論から,さらに進み,行政機関の組織全体から生じる「専門性」を主張す

る専門性の理論は,フランクファーターの弟子のランディスによって主張

されることになる34)。これは,ディキンソンが指摘した行政過程と司法過

程の対置への一つの答えを与えるものであった。

第二款 ランディスの専門性理論

ニュー・ディールのアメリカ行政法を語る際に,ランディスを避けて

通ることは出来ない。「おそらくニュー・ディールを通じて最も影響力の

ある行政機関の合理化は,ランディスによって表現された35)」とシュック

が言うように,彼の主張は強い影響力を持ち,今なお行政法の古典として

引用されている。ランディスの主張は後に専門性モデルを代表するものと

され36),後世のアメリカ行政法学の克服の対象となった。以下で検討する

ように,ランディスの専門性理論は二つの側面を持つように思える。一つ

は,行政機関の行政過程による権力行使や行政機関への権限委任の正統化

としての専門性理論であり,もう一つは司法審査論としての専門性理論で

ある。

ニュー・ディール期,いわゆる保守派と進歩派の間で独立行政委員会

の正統性をめぐって大論争が行われていた。いわゆる保守派は,行政機関

へ立法権と司法権と執行権を授権することを批判していた37)。そこで「行

政過程(administrative process)」が問題となる。ここで言う行政過程と

は,準立法権と執行権と準司法権とが一つの機関に広汎に委任され,行使

されるような権力行使過程のことを指す。

ランディスの公演が単行本『行政過程38)』として1938年に出版されたと

き,すでに,連邦最高裁は漠然とした立法権限の授権を違憲とする Pana-

ma Refining Co. v. Ryan 判決39)を下していた。また,1936年のアメリカ法

曹協会の行政法に関する特別委員会は,報告の中で,「行政的」という言

葉で曖昧にされる発展の中に,他の三部門に課せられる憲法的制約が課せ

られない第四部門という含意があると指摘していた40)。1937年には,F・

D・ルーズヴェルト大統領が設置した行政管理に関する特別委員会が,行

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政機関は「政府の頭のない『第四部門』」であるとして,憲法の三権分立

に反するとの報告をしている41)。

このような状況の中で,ランディスの単行本「行政過程」は現れた。ラ

ンディスの専門性理論は,当時の独立行政委員会の,広範な権限委任に

よって行われる「行政過程」の正統性を行政機関の専門性で根拠づけ,さ

らに,行政決定の司法審査についても,専門性に基づいた説明をするもの

であった。

ランディスは,行政過程を単なる執行権の拡大ではないとする。行政

過程には,計画や育成や警察のために,通常は政府全体によって行使され

る一群の権利が与えられているというのである42)。つまりは三権が混合的

に行使されているということなのだが,とすると,行政機関による行政過

程が三権分立に反しないか,その正統性をどこに求めるかが問題となって

くる。

行政過程の正統性についてランディスは,「規制活動の分野における特

別化(specialization)の利点は,充分に明かである。しかし,我々の19世

紀の政治組織は,異なる理論を推進した」とする。そして,ジャクソン流

の公務員が長期の任期を持つことに反対する考えに対し,「しかし,それ

では専門性(expertness)は得られることができないのである」と批判す

る。専門性は継続的な関心から得られるというのである43)。

つまりランディスによると,規制領域の特別化によって,行政機関は専

門性を獲得するのである。

規制の発生に伴い,専門性の必要性は顕著になった。そして,「もし,

行政過程が専門性の必要に満ちているのなら,規制の増大に伴い,行政機

関の数は増大しなければならない44)。」

「継続的関心のための専門性の要求は,政府が引き受けを結論するであ

ろう新たな任務のため,その活動の領域が制限された行政機関の増設を自

然的に導くだろう」とランディスは言う。すなわち,ウィルソン大統領や

F・D・ルーズヴェルト大統領は行政機関の増大を批判していたが,彼ら

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立命館法学 2005 年1号(299号)

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の任期の間にも多くの行政機関が創設されたのである45)。

専門的行政機関の増大の必然性を説いた後,ランディスは続けて,行政

過程と対比される司法過程への批判を繰り広げる。

ランディスは,農業省のような省庁では権限が広いので責任が不明確に

なるが,専門化された独立行政委員会については責任追求が容易になるこ

とを主張して,(連邦通商委員会のような)経済的権能に関する行政機関

と,(証券取引委員会のような)警察的権能に関する行政機関を区別し,

後者では行政過程に委ねられることが推進される理由は明かであるとする。

その理由とは,特別の産業問題に関連する法と規制手段の発展において,

必要な調整をする司法過程の能力への不信である46)。

ランディスは,司法過程は狭い範囲について関心を持ち続けることが出

来ず管轄の広さ故に裁判官は何事のマスターにもならないこと,法形成は

権威的なテクストブックや判例による一般化と原則よりも「プラクティカ

ルな」判断を反映していること47),コモン・ローのシステムは私人のイニ

シアティブに主張及び利益の執行方法を委ねすぎていること,司法過程は

独立調査権を持たないこと,を事例を示しつつ指摘している48)。

ランディスは結論として次のように述べる。

「行政過程は,本質的には,司法過程と立法過程の不充分性に対する我々の世

代の解答である。それは単なる執行部の権力の増大ではないその他の手段によっ

て,これらの不充分性に対する答えを見つけようとした我々の努力を代表するも

のである。もし,権力分立原理が分離を含意しているのなら,それは又均衡も含

むのであり,均衡は平等性を求める。行政的権力の創設は均衡を保存する手段で

あり,あまりにも逆説的なことに,それは権力分立原理には理論的に違反するよ

うに思えるかもしれないが,事実的事柄として原理の内容を保存するための手段

となることができるのである49)。」

こうしてランディスは執行部・司法部・立法部の外にある第四部門,行

政機関の行政過程による権力行使の,権力分立論からの正統化を,専門性

の必要性から導いたのである。

59 ( 59 )

行政法と官僚制(2)(正木)

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ランディスの専門性理論の射程は司法審査論にも及ぶ。ランディスは

判例を検討した結果,事実問題と法的問題の区別を,専門性で説明する。

「法的問題を決定する裁判所を持ちたいという我々の欲求は,裁判所のかかる

問題に関する専門性の保有への信頼に関連していたのである。」

そして,ランディスは,事実認定の専門家たる行政の性質,及び事実の

多様性により,様々な行政官達による事実認定への扱いの違いが認められ

るべきであるという,ブランダイス裁判官の主張を支持する50)。ここでは,

行政(the administrative)の性質から,行政が事実認定の「専門家」と見

なされていることに注意しなくてはならない。ランディスが「専門家」と

見なしているのは,あくまで全体としての行政官僚制なのである。

ランディスは,判例での正式裁決への実質的証拠法則の発展を支持す

る51)。裁判所は法的問題の専門家であり,行政機関は事実問題についての

専門家であるとすることで,裁判所に変わる決定機関としての行政機関の

正統性も確立される。ランディスは司法審査に関する章の末尾で次のよう

に述べる。

「我々の政府の伝統の下で司法審査権能は,裁判所が有する伝統が裁判所をデ

ザイン統合の専門家にしていることへの深い信頼によって,裁判所におかれてい

るのである。起こってしまったような困難は,産業の健全,公益事業の調整,鉄

道の管理,パン焼きの問題で,裁判所に専門性を推定される役割を裁判所が放棄

したことにより,到来したのである。行政過程の発生は,かかる分野での政策形

成は,事実に対して精通した人間によってもっとも充分に発展させられることが

出来るという希望を代表している。この希望はますます支配的となるが,しかし,

この希望を持つことは,我々の『法の最高性』の理想を何ら脅かすものではない

のである52)。」

第三款 ランディス理論の評価

フランクファーターが主張した,行政学の政治と行政の分断論のよう

に,技術的専門家が技術的行政を遂行するというタイプの専門性像を前提

とする,専門性理論と,ランディスの専門性理論は,いかなる関係に立つ

のであろうか。ランディスの専門性の尊重の理論には,一見すると,政治

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立命館法学 2005 年1号(299号)

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と行政の分断理論,あるいは,当時のアメリカ行政学の能率学派との理論

的連続性が,感じられる。ニュー・ディールの専門家尊重の空気が,ラン

ディス理論の形成に影響を与えたことは否定できないであろう。

しかし,ランディスの専門性理論の関心は,三権分立の憲法構造の中で

の「頭なき第四部門」である,行政機関の行政過程を正統化することや司

法審査にあり,行政学の専門性の理論とは目的を異にするように思える。

つまり,ランディスの専門性理論の中核は,行政過程の正統化と司法審査

の範囲の確定という点にあったが,その点で専門的官僚制の確立という行

政学の政治と行政の分断論者の目的と,ランディスの専門性理論の目的は

異なるのである。

また,政治と行政の分断論者が行政部内の専門家集団の技術的訓練に

よって獲得される専門性に着目していたのに対し(つまり個々のスタッフ

の専門的知識・技量がベースとなる),ランディスは形而上の行政機関の

専門性(必ずしも個々のスタッフの専門的知識・技量をベースとしない)

を裁判所の専門性と相対評価することで抽出したのであって,この点でも,

隔たりがある。たしかに,ランディスも行政機関の個々のスタッフが専門

家であることを示唆してはいるが,しかし,ランディスはそのことだけを

手がかりに行政機関の「専門性」を主張しているわけではないのである。

むしろ,ランディスの理論は,行政機関全体を「専門家」とみなして,そ

こから「専門性」を導く理論なのである。さらに,ランディスは当時の能

率学派の行政学者ギューリックらが用意した,「行政管理に関する特別委

員会」の報告書に批判的であった。「行政管理に関する特別委員会」の報

告書では,独立行政委員会を第四部門と非難して,行政機関への大統領の

統制を打ち出していたが,ランディスの立論は,逆に,行政委員会の独立

を主眼としていたのである。

そして,司法審査の範囲に関するランディスの専門性理論は,基本的に

判例分析から導き出されたものであり,行政学とは無関係であるように思

える。ランディスはあくまで法学者であった。

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行政法と官僚制(2)(正木)

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さらに,留意すべきこととして,アメリカ行政法学では,ランディス

の専門性理論は,M・ウェーバーの官僚制論とは性質を異にするものと理

解されている事が挙げられる。

ジャッフェによれば,M・ウェーバーの議論は,フロインドの行政法モ

デルに結合させられる。この立場では,レッセ・フィールでの政府の役割

を反映して,行政の裁量は制約され,利害対立の解決は立法部に委ねられ

る。行政による政策形成は制限され,行政は権威的に宣言された目的と手

段を中立的かつ非政治的に遂行するのである。これに対してランディスの

専門性理論では,「仮定的な包括的専門性組織」から権威と内容を得る行

政機関という像を足がかりに,行政機関への広範な権限の委任がされると

の説明がなされる53)。

さらに,フラッグのモデル化するところにしたがえば,M・ウェーバー

は官僚制についての「形式主義モデル」であるとされる,「形式主義モデ

ル」では,政府官僚制の正統性は,権限委任法理に基づき,議会の立法に

よる行政機関への指示に求められる。「形式主義モデル」では官僚達は立

法で示された人民の希望を忠実に遂行する54)。これに対してフラッグが,

ランディスの専門性理論を位置付ける「専門性モデル」では,政府官僚制

は「形式主義」モデルのように「機械的」なものではなく,「有機的

(organic)」なものと見なされる。そして「専門性モデル」では,むしろ

官僚制の裁量が賞賛されるのである55)。

国家を「機械的」ではなく「有機的」なものとして見る国家観は,グッ

ドナウと並びアメリカ行政学の泰斗と評される,W・ウィルソンが採用し

ていた。20世紀初頭,進化論と国家有機体説は世界的に流行していた。

ウィルソンも有機的国家観を採用する。すなわち,フェデラリストの均衡

と抑制の三権分立観を批判して,次のように言う。

「政治とはモンテスキューの言及の下では機械へと転化する。彼の理論は

ニュートンの重力を至高とするものである。」

「この理論に伴う問題点は,政府は,機械ではなく,生物(living thing)であ

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立命館法学 2005 年1号(299号)

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ることにある。それは森羅万象(universe)の理論ではなく,有機生命の理論に

分類される。それはニュートンではなくダーウィンで説明されるのである。政府

はその環境によって修正され,その任務によって必要とされ,生活への重大な圧

力によってその作用が形成される。いかなる生物も監視的に相互を相殺する諸機

関を持ち,存続することはできない。逆に,その生活は諸機関の迅速な協働と,

諸機関の速やかな直感的指示又は知性への応答と,友好的共同体の目的に依存し

ているのである。政府は盲目な権力体ではない;政府は,高度に多様化された権

能と,間違いなく,我々の特別化の現代的時代における一般的な任務と目的を伴

う,人体である。」

「リーダーシップや,ほぼ本能的な,生活や行動への諸機関の親密な協働なし

に成功する政府はない56)。」

ニュー・ディール期の政治状況を見るとき,議会や裁判所は社会問題へ

の対応をうまくなしえてはいなかった。そこで行政機関が発展したわけで

あるが57),これは有機体的国家の進化としても説明できる。そして,法執

行を機械的な立法意志の実現と捉えるランディス以前のアメリカ行政法学

は,ウィルソンの批判する古典的三権分立政治観に一致するが,社会問題

への対応や三権の協働の強調はランディスの立場と符合する。このように,

国家と行政機関の違いはあるとはいえ,ランディスとウィルソンは組織体

に着目するという点で共通するのである。

さらに言えば,ウィルソンは政治と行政の分断論の中で,より権限を多

く行政に授権すれば行政責任が大きくなるので,責任は明確になり,行政

官の権力乱用の恐れの可能性は少なくなるということを主張していた。こ

の立場はランディスの行政機関への包括的な権限委任の立場と符合すると

ジャッフェは分析する。そこでウィルソンとランディスは結びつけられる

のである58)。

たしかに,ランディスは,議会が「公益」「投資者保護」「消費者保護」

というような一般的な文言による法律によって,行政機関に規制権限を授

権すること,つまり行政機関に大きな立法権限を委任することと,それに

伴う裁量を与えることを評価していた。

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行政法と官僚制(2)(正木)

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「授権という現代的傾向の最大の長所は柔軟性を導くことである――柔軟性は

善き行政の一つの基本的性質である59)」。

ランディスによると,諸基準(standards)は,十分に記述されれば,

行政への保護となる。つまり裁量が制限されれば,諸基準が,行政の業務

をルーチン化し,有害な政治や経済からの圧力を和らげる。

しかし,今日のさしせまった問題は,行政が正しく引き受けるべき責任

は行政に引き受けさせることにあると,ランディスは述べる。行政が引き

受ける責任は,友ではなく敵を作るようなギャンブルなので,不作為が安

直な方法となるのである。そこで,ランディスは,一般的な文言の法律に

よって行政機関に大きな裁量を授権し,行政に大きな責任を引き受けさせ

ることに傾く。ランディスは,行政による規則制定と,直接の民主的手続

が望ましいところでの規則についての立法部拒否権によって,広汎な裁量

権の付与に伴う責任の問題を担保できると考えていた60)。

こうして,ランディスは,行政機関への立法権限の広範な委任へとたど

り着くのである。

だが,ランディスとウィルソンの両者の理論の間に親和性はあるとはい

え,やはりコンテクストは異なる。ウィルソンの国家有機体説は大統領の

リーダーシップを主張するのに用いられた61)。それに対してランディスの

場合は,行政機関の専門性を唱えているのであって,ウィルソンの議論を

そのまま行政法学に持ち込んでいるわけではない。

ランディスの専門性理論はいわば全方位的に行政機関の正統性を主張

するものであった。専門性の主張の名宛人は私的利益,議会,執行部,司

法部の全てにわたるだろう。そして,フランクファーターよりもすすみ,

政策決定の部分についても,業務専従による専門性から,行政の判断領域

を行政裁量として拡大することを認めているのである。

しかし,ランディスの専門性理論は,俗に「ニュー・ディールの専門性

モデルの行政法」と呼ばれるものと,隔たりがあることも指摘されなけれ

ばならない。俗に「専門性モデル」「ニュー・ディール」の行政法と呼ば

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立命館法学 2005 年1号(299号)

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れるものは,「科学の担い手である行政機関は,その科学的専門性故に尊

重されるので,大きな裁量的権限が与えられ,裁判所は行政機関の判断を

尊重する」といった構図で描かれる62)。しかし,既に見たようにランディ

スの理論は裁量権付与にしても司法審査にしても,多様で繊細な考慮を含

むものであるし,それほど個々の行政官の科学的専門性を強調するもので

はなかった。

俗に言う「ニュー・ディール」の行政法とは,フランクファーターとラ

ンディスと当時の判例の行政機関の判断の尊重の傾向を十把一絡げにして

「モデル化」したものであり,ランディスの理論とはやや異なるように思

える。

ランディスが専門性理論を唱えた時のアメリカ行政学の状況に目を移

すと,アメリカ行政学の黎明期の政治と行政の分断論は,非政治の専門技

能としての行政の領域を確定しようとしていた63)。

だが,ニュー・ディール末期,原始的な政治と行政の分断論の時代は終

わりつつあった。逆に当時の最先端の行政学の理論として,政治と行政の

分断論の反省のもと,「政治と行政の総合的把握」論がギューリックらに

よって唱えられていた64)。

ニュー・ディールの現実はむしろ,利益集団自由主義の窓を開いていた

のである。行政が単なる中立的な専門家ではないことが明らかとなったと

き,アメリカ行政学は「行政」の中に「政治」を発見したのである65)。

ニュー・ディール当時のアメリカ行政学理論のこのような状況を見るとき,

ランディスのように行政の専門性を尊重する立場は,行政学から見ると,

むしろ「時代遅れ」であったということが出来るかもしれない。当時のア

メリカ行政学の能率学派も,行政の専門性を警戒し始めていたのである66)。

アメリカ行政学において,行政の専門性への疑義が起こり始めていたと

いうことは,ランディスの理論の前途に暗い影を投げかけていた。ラン

ディスの専門性理論は,行政過程の正統化というニュー・ディールの時代

の要請に従って生まれたが,ニュー・ディールの時代は既に終わろうとし

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ていたのである。

第四款 専門性理論への批判

ランディスの専門性理論への批判はニュー・ディール期から現れてい

た。例えば,当時の「保守派」の重鎮パウンドは,行政機関の専門性から,

行政過程を正統化したり司法審査を簡略化する見解に対して反駁を加えて

いた。パウンドは次のように述べている。

「行政的諸決定をする者達は,滅多に決定作用の経験を持っていなかった。彼

らに要求される専門性はまったく別の種類のものである。彼らは,決定は,訓練

や経験を通じて要求される専門性に関連しない簡単な任務であるという,一般人

の発想を持ちがちであり,そして,法律家がすぐに学ぶこと,つまり全ての案件

には二当事者がいるということに恒常的に無自覚となりがちである67)。」

パウンドが言う決定とは,裁判的な形式で決定することである。パウン

ドは,ここで,行政官は,法律家的に決定することへの専門家ではないこ

とを問題視している。

パウンドはさらに続けて,行政過程を擁護する議論について反論をして

いる。

パウンドは,司法過程とは区別されるものとして,行政過程が狭い領域

へと移行している事実が語られていたとし,これに対して,高度に専門化

された分野へ決定を制限することは,狭い分野の立脚点から総てのものを

見て取り,ある分野での緊急性で支持される見解によって,争われている

事実問題の一方の立場を無視するのではないか,我々が見た瑕疵は行政決

定において不幸にも非常に一般的なことではないか,と反論している。

さらにパウンドは,「考慮の単一性は,迅速に専門家主義(professiona-

lism)の精神を発展させる――その態度は,おそらく諸ルール以上に,見

識とバランスのある判断を保障する余地がある」という見解に対して,専

門家主義への疑問を投げかけ,「私が思うに,この狭い分野への専心こそ

が,なぜ,事実に関する行政決定への効果的な司法審査が,それらを法の

デュー・プロセスの制限内に保つために法律家によって緊急に求められて

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立命館法学 2005 年1号(299号)

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いるか,ということへの主要な理由の一つなのある」と論駁している68)。

このように,パウンドは専門家が,専門分野のみを見るような視野狭窄

に陥る危険性を指摘したのである。

パウンドの批判には,多少感情的な部分もあるが,正鵠を得ていた部

分もあった。

まず,行政の意思決定者の専門性についてであるが,実はこれは専門性

理論の唱道者ランディスでさえも懐疑的であった部分であった。ランディ

スは行政機関の規則制定についてこのように述べていた。

「もし規制作用が相応の知識の範囲に限定されているなら,専門性には,今日

解答が依然として要求されているこれらの問題の幾つかに,答えを与えることを

期待されることが充分に出来る。しかし,5人,10人,あるいは20人の人間が,

短い任期の間に,アルミニウムから亜鉛に至までの,産業問題の全範囲を包含す

るための専門性を獲得する能力を持つと推定するのは,超人に我々の信頼を託す

ことにほかならないのである。国家統治の事業では――ジェラルド・ヘンダーソ

ンの言葉を借りるなら――,我々は,政府は平均的な人格と平均的な能力を持つ

人間によって運営されるという事実を考慮に入れなくてはならず,したがって,

我々はこのことを念頭に置いて我々の行政過程を工夫しなくてはならない69)。」

ランディスもまた,行政の意思決定者が完全な専門性を持つという考え

に懐疑的なのである。あくまで,ランディスの専門性理論は,行政官個々

人の専門性というよりも,むしろ行政組織の官僚制構造と特定領域への規

制の専従によって生じる専門性によって行政過程を正統化するものであっ

たのである70)。

行政の意思決定者が専門性を持たないということは,W・ゲルホーンに

よっても指摘されていた。W・ゲルホーンは1941年の著書でこのように述

べていた。

「今,『専門的行政機関』の形成が言及されたが,それは必要な専門性が行政機

関の長にあるということや,又は,行政機関の長は,自身の人物において,現代

行政組織に課せられた多種多様の義務を見識をもって遂行をするために必要とさ

れる全ての専門性を有しているということを意味するということを意図したので

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行政法と官僚制(2)(正木)

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はない71)。」

この議論は,行政裁決に際して,行政機関の長は,裁判官のように一人

で独立して決定するのではなく,スタッフの意見を聞きながら決定すると

いう「組織的決定(institutional decision)」の正当化につながるのだが,

W・ゲルホーンは行政過程の専門性は,行政機関内の専門家による日常的

な業務遂行と官僚制構造によって獲得されていくということを想定してい

たと言えるだろう72)。

もっとも,パウンドの言う決定者の専門性とは,裁判的に紛争を解決す

るための専門性,つまり法律家の持つ専門性のことを指しているようなの

で,ランディスやW・ゲルホーンが問題とした専門性とは性質が若干,異

なるだろう。

だが,パウンドが挙げていた「専門家ならではの視野狭窄」は,専門

性理論のアキレス腱であった。たしかにランディスの専門性理論は行政機

関の個々の専門家ではなく,行政組織全体を専門家とみなす事で導かれる

専門性を前提としていたが,特定の規制分野に業務を集中することによっ

て視野狭窄の問題は生じてくる。行政機関が専門的になることで問題が生

じるのであれば,行政機関の専門性から行政過程を擁護する専門性理論が

危うくなる。ニュー・ディール後のアメリカの行政機関への批判は,行政

機関の一定業務への専従から生じる視野狭窄の点をついていた。

専門家の能力への懐疑は,法学以外の政治学・経済学・行政学といった

学問から,ニュー・ディール末期より提示されていた(パウンドはこのよ

うな展開を必ずしも意識してはいなかったであろうが)。1944年にイギリ

スで現れたハイエクの警世の書「隷従への道」は,ただちにアメリカへと

伝えられた。アメリカでは当初,出版社に出版を拒否されたとハイエクが

振り返る,「全ての社会主義者に捧げられた」この書は,アメリカで衝撃

を持って受け入れられた73)。

ハイエクの主張の骨子は,経済の計画化による社会主義化はナチズムの

ような独裁に行き着くということである。ハイエクは,計画化によって専

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立命館法学 2005 年1号(299号)

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門家への権限の委任が起こるが,これは民主主義の力の放棄の第一歩であ

り,計画化が広汎になるに従って決定機関の自由裁量は増大するが,それ

は法の支配や法治国家の衰退なのであると鋭く論じたのである74)。

ハイエクの主張が,フランクファーターやランディスの主張に対立する

ものであることは言うまでもないだろう。ハイエクの主張が,ただちにア

メリカ行政法学に影響を与えたというわけではなかったが,専門性理論に

は早くも危機が迫りつつあった。

第五款 虜理論と行政法

虜理論(capture theory)とは,行政機関が被規制企業の虜となる,

被規制者が規制過程を支配するという議論である。1950年代に入り,各方

面から,このような主張がなされ始めた。

1952年のハンティントンの「州際通商委員会の衰弱」と題する論文は,

「虜理論」の先駆的な論文である。この論文の中でハンティントンは,州

際通商委員会が,鉄道産業と結びついて,「鉄道精神」になっていること

を指摘した75)。

ハンティントンによると,当時のアメリカの鉄道産業は,自動車産業や

水運産業との厳しい競争にさらされていた。だが,州際通商委員会と鉄道

産業との間で政治的協調関係が形成されていて,州際通商委員会は鉄道産

業に有利な政策を行った。そこで,産業界から「鉄道の利益」を「公益」

と同義に扱う傾向があると批判されたというのである76)。

ハンティントンが批判したことは, 非鉄道利益集団の疎外, 他の

政府行政機関の疎外, 議会意思の転覆, リーダーシップの消極性及

び喪失である。そして,リーダーシップを喪失した州際通商委員会が現状

擁護者となったことの結果として,ハンティントンの挙げるものは次のと

おりである。① 時代遅れとなった形式主義的手続への固執。② 現代的管

理の新技術の導入の遅れ。③ 州際通商公益を代表するための効果的な手

段の形成の失敗。④ 行政計画の無視と,鉄道産業の望むものを与えるわ

けではない一貫した運輸政策の形成の失敗。

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行政法と官僚制(2)(正木)

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そこで,州際通商委員会は独立行政委員会としては廃止されるべきであ

るとさえハンティントンは主張したのである77)。

ハンティントンの研究はその内容から虜理論の先駆的なものと位置付け

られる。もし,特定行政機関の特定規制領域への専従が,ハンティントン

が指摘したような病弊を引き起こすのであれば,特定の領域への専従から

専門性を引き出したランディスの専門性理論にも危機が迫るであろう。

1955年に出版されたバーンスティンの書,「独立行政委員会による企

業規制」は,虜理論を代表する書物である。この書の中で,バーンスティ

ンは,全ての行政委員会にあてはまるライフサイクル理論を理論化し,行

政委員会と産業との癒着が必然であることを示したのであった78)。

バーンスティンは,独立行政委員会の発生から衰退までには自然なライ

フサイクルがあるとする。このライフサイクルには四段階がある。

第一段階は,なんらかの困窮により,政府の規制が求められる「胚胎

期」である。この段階では,規制に公衆への支持が集まる。

第二段階は,独立行政委員会が設立された直後の「青年期」である。こ

の時期の委員会の産業に対する姿勢は,中立的ではなく敵対的である。産

業側も規制に激しく抵抗する。この時期の行政官は規制の経験が少なく,

先例も乏しいので積極的に規制に取り組む。また委員会の設立直後なので

行政機関は政治的支持を得やすい。

第三段階は,委員会の設立から時を経た,「成熟期」である。この段階

では,委員会での議論の精神は薄くなっていき,利害関係者の紛争の調整

を行うようになる。委員会は安定した手続に頼るようになり,また初期の

政治的関心が低くなるので,委員会は公衆や政治の支持を得るために腐心

するようになる。産業規制のありかたは警察というよりも管理者のそれに

類似していく。委員会の存在が産業枠組みの不可欠な部分として受け入れ

られていき,委員会も受動的になって,紛争を回避して,産業と良好な関

係を維持しようと望むようになる。

最後の第四段階が,「老年期」である。ここに至ると,委員会には衰退

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が目につくようになる。委員会の任務は現状維持的なものとなり,その立

場も産業の保護者として認識されるようになる。委員会のスタッフも産業

から供給されるようになるので,ますます現状維持的になる。そして委員

会は技術革新や世論についていけなくなるのである79)。

政治学の理論として提示された虜理論は,すぐにアメリカ行政法学へ

伝えられた。専門性理論を疑うこの動向に,いち早く反応したのはジャッ

フェであった。ジャッフェは1954年の「行政過程の実効性の限界:再評

価」と題する論文の中で,行政過程の効用について再検討をしたのであ

る80)。

ジャッフェは性急に行政機関の能力を疑うことはなく,慎重であった。

それは,「今,我々が大きな幻滅を覚悟しているような徴候がある。しか

し,幻滅の原因はあるかもしれないが,我々が誤った結論を引き出す危険

があることを私は懸念している81)」というジャッフェの言葉に現れている。

ジャッフェは,ハンティントンの州際通商委員会批判に対して疑問を

持っていた。ジャッフェは被規制産業が行政機関に圧力を加えていること

について,「行政活動が産業集団によって欲された解決を特に反映してい

るところで,この現象が提示されている。『産業精神』の行政機関と呼ば

れる敷衍した認識がある。しかし,この認識を含意する批判は,私見では,

不十分でミスリーディングである」と述べているのである82)。

ジャッフェは,各行政機関の実例を検討した後「これらの状況において,

『産業精神』と大雑把かつ不公平に記述される現象は,任務の遂行を追求

する,すべての行政機関又は行政機関の態度における特定の状態を超える,

特定の行政の病弊ではない」とする83)。

他方でジャッフェは,悪性が緩和されることで,改革当初のダイナミズ

ムが失われ,現状維持的になっていくという,ジャッフェの言うところの

動脈硬化理論は評価している84)。

そして,ジャッフェが特に危惧を抱いたのは,行政委員会の委員達が個

別スタッフから分離されて,産業の影響を受けることであった。

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行政法と官僚制(2)(正木)

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つまり,高級公務の継続は政治の賛同に依存しているうえに,行政機関

の委員にとっては産業界での仕事のほうが魅力的なので,行政機関の委員

達は,ビジネスキャリアへの入り口として委員の職を見なしている。かと

いって,委員の任期を長期化することにも問題がある。「もし終身雇用の

人間が,より専門家的であるなら,彼は,同時により伝統に拘束され,よ

り精力的でなくなるかもしれない。彼の長期の粘着は,彼が職務での選別

を命じることができず,彼が産業界の大物の畏敬の中に立脚するかもしれ

ないということを示すかもしれない。もし,彼の再任用に大いに関わるの

であれば,彼は政治的名士を攻撃しないように慎重になるだろう。」こう

いった問題を提示した後,ジャッフェは次のように言う。

「これらの言及は,公役務の全体の性格の記述を意味しない。むしろ,これら

は独立の『計画』センターとしての作用を制限する諸要素なのである。」「我々の

社会においては,まさにこの点で,行政は創造的解決において正統な役割を有し

ていることを,提案することへの同意の,広範な基盤があるのである。各々の方

法で,専門化され,経験を積んだ行政機関は,受容されない又は機能しないほど

所与の技術的根拠からかけ離れるようなことがない解決を要請されている。特に

恒久的スタッフは,経験を蓄えている。それは当事者の地位を超えることができ

る思考基盤である。匿名性により,より自律的になるのである。政治的に無防備

ではないので,『一方』で『やりすごす』機会はより制約されている。これらの

理由から,それは,時々,委員達を恐れ,そして委員達に対して影響を送る私的

利益の標的となったのである。私見では,委員会をスタッフから孤立させる手続

を工夫する執拗な努力に対してなすべきことが多くある85)。」

ジャッフェは,司法審査よりも立法の取り組みの必要性を強調している。

ジャッフェは後に司法審査論で名を馳せるのであるが,1954年の段階では,

虜理論に対して半信半疑で,まだ行政機関の専門性を完全に疑うところに

までは至っていなかったのであろう。むしろ依然として専門性理論に立脚

している雰囲気がある86)。とは言え,政治学の動向に明敏に反応した

ジャッフェの感性の鋭さは評価すべきであるし,そして,この後,ジャッ

フェは行政批判への傾倒を深めていくことになるのである87)。

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シュウォーツは,行政の専門性についての議論の変化を察知し,そし

て行政の専門性にいち早く疑問を投げかけた一人であった。彼の専門性批

判はジャッフェ以上に急進的であった。シュウォーツは,1954年の論文の

中で行政機関が産業の独占的姿勢を支持していることを指摘したが,その

中で次のように述べてハンティントンの論文を引用した。

「保守派が規制部局と提携したので,ごく最近では,リベラル派の論調は変化

を始めた88)。」

「行政の専門性は,生じつつある新しい審判所の権威をある程度確立するため

の闘争の時期に,非常に役に立った一つのスローガンである。おそらくは,この

スローガンの中身を再検討するときが来たのだ。」

「『確立された』行政解釈と実務には特別の謙譲が与えられなければならないと

いう考えは,再検討される必要がある。ルーチン化された意思決定は,我々の社

会の一般的法廷が適格となるべきところで,裁量から法の支配から移されたので

ある89)。」

こうして,シュウォーツは行政決定への司法審査の重視を掲げる。シュ

ウォーツがこのように主張した背景には,行政の専門性への不信があった。

シュウォーツは言う。

「おそらく,我々の裁判官達が,我々の諸委員会の委員達よりも有能あるいは

賢明であることを示すことはできないだろう。しかし,官僚制の経験を持つ誰も

が知っていることは,委員会への移送は,恒久的任期と政治的圧力の除去の考慮

においてのみ,望ましい推奨と見なされるということである。」

「成熟した行政機関の方針は,実際には,適格で献身的なのだが二級の能力や

イニシアティブしかもたない人々の手に,容易におちる。彼らは,しばしば職場

の日常的安全と,重要なビジネスマンの少数の集団と,いつも彼らの前に現れる

弁護士達への尊重に依拠することに,快適を見出す人物となるであろう。彼らは,

自然と,調整と価格規制を通じて,ビジネス・ライフをより秩序正しく安定した

ものにすることに応答的になるだろう。無計画で無秩序な商業的競争は,彼らに

とってはまずいものとなる90)。」

産業界からの行政機関の影響を指摘するシュウォーツの主張の中には,

虜理論の影響を見出すことが出来る。さらに,シュウォーツは,「一般人」

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行政法と官僚制(2)(正木)

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である裁判官の判決のほうが,専門家の決定よりも公衆の吟味に,より親

しむことを挙げ,さらに進めて次のように言う。

「裁判官達は,委員達に比べて,より『専門家』であるという点がある。委員

達は特殊の分野に対する専門家であることに対して,裁判官達は統合における専

門家なのである91)。」

シュウォーツは,司法審査の重要性を訴えたという点で,同時期に立法

部の重要性を訴えたジャッフェとは異なる92)。そして,シュウォーツは同

時期のジャッフェ以上に行政の専門性を疑っていた。シュウォーツの批判

は,一方で行政機関の個々の職員や委員の専門的資質の欠如をつき,他方

でランディスが否定した,裁判所の「統合」への専門性を再評価すること

によって,行政過程の優位性を否定し,専門性理論を批判するものである。

シュウォーツの主張は1960年代項の行政法の動向を先取りするもので

あったが,この中に虜理論は影響を与えていたと言える。

行政機関が一部産業の虜になっていることは,他ならぬ専門性理論の

提唱者,ランディスでさえも主張するに至った。

ランディスは,1960年の規制行政機関に関する報告書93)の中で,行政の

腐敗を指摘した。公務員については,「トップ・レベルの初期の専門性は

欠如しつつあり,公共サービスに献身する欲求は,任期の継続によって,

その獲得が妨げられている。行政のトップの地位は,しばしば,さらなる

政治的特権又は規制に服する産業内での重要な地位への足がかかりと思わ

れているように見える。」そして,このようなトップの腐敗がスタッフに

も影響を与えているというのである94)。

さらに,ランディスは行政機関の産業精神について,一方的交信との関

係で,次のように指摘している。

「行政機関の委員の産業精神は,しばしば,被規制者が規制者になったという

言葉で表現される一つの一般的問題である。」

「産業精神へのこの傾向は,微妙で対処することが難しい。それは基本的には,

産業との必然的な接触が,頻繁に,しかも一般的には賢明なアイデアの生むとい

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う事実から生じる。しかしながら,公衆との接触は希であり,一般的に,不服申

立を除いては生産的ではない。」

「社会的接触と不正な厚遇の有無にかかわらず,行政機関とその産業代表のス

タッフには日常的にマシンガンのような影響がある。それは,行政機関のスタッ

フと同様に多くの実直で有能な行政機関の委員の一部も産業精神にするものであ

る95)。」

ランディスの表現の中には,虜理論の影響を容易に見出すことが出来る

だろう。このように,1960年には,ランディスでさえも,行政機関の構成

員達の能力と実体に疑問を抱かざるを得なくなっていた。

このように,1950年代,アメリカの行政法学者は虜理論を様々な形で

受容した。受容の形態は人それぞれであったが,虜理論が,専門性理論を

疑わせることの一助となったことは疑いのないところである。

しかし,1950年代は依然として,行政機関が専門的であることが前提と

されていたことに留意を要する。当時の行政批判は,虜理論の主張も含め

て,行政機関が備えていなければならない専門性を,実は備えていないと

いう視点からなされていた。その意味で,依然として専門性理論のパラダ

イムを完全に転換したわけではなく,あくまで,個別の行政を批判すると

いうものあったのである。例えば,シュウォーツの行政批判も実は裁判官

の専門性を強調しているのである。

この意味で1950年代は依然として専門性理論の時代であった。アメリカ

行政法のパラダイムが本格的に転換するのは1960年代に入ってからである。

第四節 専門性理論の衰退

1960年代に入ると,行政批判は日に日に高まっていった。

W・ゲルホーンは,1956年に著書の中で,ニュー・ディール期の行政過

程についての論争が収束した後,潮流が変化したことを指摘した。

ニュー・ディール期に行政過程を批判していた勢力(保守派)が個人の人

権を制約する行政権の強化を推進するようになり,ニュー・ディール期に

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行政過程を擁護していた者達(いわゆる進歩派)が,このような動向に懸

念を抱くようになったというのである96)。

そして,ジャッフェも1965年には著書の中で,はっきりと「『専門性』

が規制問題に含まれる利益紛争の解決のために明白な客観的諸基準を生み

出すであろうという幻想から,我々自身を救い出そう」と述べるに至って

いた97)。個々の行政決定を「専門性」で擁護することへの批判がなされる

こととなるのである。

さらに,専門性理論の衰退を見るうえで印象的なことは,1960年代後半

から1970年代前半に,虜理論がさらにアメリカの世論に敷衍したというこ

とがある。

例えば,「ネイダー・レイダー」と呼ばれた者達も虜理論を主張してい

た。「ネイダー・レイダー」とは,ラルフ・ネイダー率いる研究グループ

のことを指す。ネイダー・レイダー達は,行政機関が大企業と癒着し,公

益をおろそかにしていると批判したのであった。この種の俗説化した虜理

論がジャーナリストや編集者に広まったのである98)。

行政の専門性理論が衰退するのは,一般的には1960年代に入ってからで

ある。この頃からさまざまな角度から専門性への疑問が提示されるように

なった。専門性への批判のタイプとしては,次のようなものがある。①

行政機関が専門性を有しているか疑問を提示するもの(第一款),② 官僚

制への批判(第二款),③ 科学的専門性を疑うもの(第三款),④ プロ

フェッションによる行政を批判するもの(第四款)。

本節では,これらの類型にしたがって,専門性理論の衰退を見てみる。

第一款 行政機関の専門性への疑問

1960年代後半から,行政手続への公衆参加論が台頭してきた。参加論

によって行政手続の厳格化がなされることになるが,行政手続強化の理論

的基盤となったのはライクの「新しい財産権」の理論であった。ライクは

職業許可や社会保障給付のような「政府の譲与」が社会で大きな役割を果

たしていることから,譲与は財産権の機能を果たし始めているとした。そ

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してライクは,このことを手掛かりにして,給付金の打ち切りや免許の撤

回等に対して,憲法上の保護や行政手続上の保護を導こうとし,「新しい

財産権(new property)」が創設されなければならないと唱えた99)。

ライクが問題にした給付金等は,従前は,「特権(privilege)」とみなさ

れていて「権利」と見なされていなかった。ライクは,給付の打ち切りの

行政手続で,対審での聴聞が行われないなど手続的保護が不十分なものが

あり,「また,行政機関自身の『専門性』が決定において重要な要素とな

りうる」ことを認識していた100)。

そこで,ライクは,「いまや,政府によって支払われる財に適用される

『特権』や『給付』の概念は,被用者と公衆に対する絶対的権力を正当化

するために,私的資本が,被用者や公衆に対する専断的権力を正当化する

ために引き合いに出した絶対的所有権と大きく異ならないと認識される時

である」と唱え,「特権」理論に疑問を提示したのであった。さらに,ラ

イクは次のように述べて,行政との対決姿勢を明らかにした。

「我々は,行政当局や審査官や統制委員会や品性委員会や評議員や免許委員の

裁量に,我々の生計と権利を安寧のうちに信託することができない。公共善の唯

一の理解をよそおう,いかなる公務員又は行政機関も,我々は許容することが出

来ない101)。」

ライクは,従来「権利」とみなされていなかった年金受給権や職業許可

を「新しい財産権」と見なし,これらに対する政府の専断による侵害(給

付打ち切りや免許更新の拒否)への保護を求めたのである102)。

ライクの議論は,そのまま学会に受け入れられたというわけではなかっ

た。例えば,デイヴィスは,ライクの主張に反発してデイヴィス独自の裁

量論の観点から,改革への道は「権利」を強調することではなく,公務員

の裁量を是正し,構造化し,チェックするシステムを構築することである

と主張していた103)。

もっとも,デイヴィスは,「特権」が政府の無制約の裁量に任されてい

いと主張していたわけではない。確かにデイヴィスは,恩赦や外交のよう

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な分野では「特権」理論に何のメリットもないわけではないとも述べてい

る。だが,「特権理論はその適用の全てが非難されるべきではないが,そ

の使用は,一般的には,是正と構造化とチェックが不十分な裁量権の発展

を促進したということにおいて,不幸なことであった」と述べている。デ

イヴィスも,「特権」理論が政府の無制約の裁量を助長するために使用さ

れていたことは認めているのである104)。そして,行政機関への広汎な授

権による裁量一般に対してデイヴィスは規則制定による構造化を求めたの

である。

ライクが示唆したように,「特権」理論は専門性理論と結びついてい

た。

ジャッフェの1939年の論文によると,「我々の伝統的行政法理論は,私

人の『権利』に影響する政府権力と,『特権』『恩恵』を与える政府権力と

の区別に魅せられている。また,国家の役務権能は,多くの状況において

基本的な私人の日常の生活行為に決定的に重要であり,そして,こういっ

た状況の数は増大しつつある。」

ジャッフェは,権利と特権を区別する理論に対して早くから警鐘を鳴ら

していた。ジャッフェは言う。

「何百万人もの貧困者と困窮者にとって,諸特権の状態としての,階級救済や

無料学校や住宅ローンや補助金とは,根拠のない皮肉なのである。政府活動の範

囲は絶えず成長しているので,公務員の利害はますます一般市民の実体部分の利

害となる。このように,手続的安全保護の文脈で我々の行政内部構造を吟味する

とき,権利と特権との区別は過度に強調されるべきではない105)。」

だが,ジャッフェの主張にもかかわらず,社会保障給付は,ニュー・

ディール期前後の行政法理論では,インフォーマル裁決の中でも,「純粋

行政手続」に分類され,特に手続的保障が薄い分野と位置付けられていた。

そして「純粋行政手続」は,行政機関の専門性と結びつけられていた。

W・ゲルホーンによると,正式手続の機会が全くないのが「純粋行政手

続」である106)。そして,ゲルホーンは,社会保障委員会や鉄道退職者委

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員会や退役軍人局のような給付行政機関での手続をここに分類していた。

ゲルホーンによると,これらの組織は,提示される事実問題の科学的ある

いは技術的性質によってではなく,義務兵役法局のように,なされる決定

の膨大な分量によって区別される。このような部局では簡単な審査で決定

がくだされ,専門家の知識が必要なときだけ専門的部局に案件が送付され

る。ほとんどの行政機関では,申請拒否決定がされた後,不服申し立てで

聴聞を受けることができるが,聴聞が利用されることはほとんどない107)。

さらに,1960年のウォルの著書によると,純粋行政手続は「ほとんど

技術的規則と証拠のみによって決定される」裁決の領域であり,そして,

「申請者や不服申立人や被告によって提示される主張を根拠にしてではな

く,技術的データの行政的参照によって見解の相違点が解決される,イン

フォーマル裁決の類型なのである。」そして,完全な専門性は存在しない

し,専門家の間で議論が分かれることもあるのだが,事実として,行政の

多くの分野において,対審手続における一般人の関与無しに技術的根拠に

基づいて決定がなされている。ウォルは,技術的な特別化は専門性に等し

くなるとする108)。

技術的な特別化から,柔軟な態様での行政様式の,司法的な決定様式に

対する優位性を見出そうとする思考形式は,ニュー・ディール期の専門性

理論に符合する。ニュー・ディールの進歩派は,簡略な手続きで行政決定

が行われることを,むしろ利点であると見なして保守派と対抗していた。

そして,簡略な手続で行われる根拠として,特別化による「専門性」があ

げられていた。

「特権」理論は,行政手続理論での「純粋行政手続」概念を媒介として

専門性理論と結びついていたのであり,そして,こういった思考が1960年

頃までは残っていたのである。このような状況の中でライクの「新しい財

産権」の理論は颯爽と現れた。「特権」をめぐる法状況にパラダイム転換

を迫るそれは,専門性理論に対する頂門の一針となった。専門性を根拠と

した手続のショートカットに,疑義が呈されたのである。

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行政過程への公衆参加が,1960年代後半からアメリカ行政法のトピッ

クとなるのであるが,公衆参加は,アメリカ行政法では,原告適格の拡大

と行政手続の強化という形で表現された。この潮流は,判例によって促進

された。

原告適格については,下級審判決では Scenic Hudson Preservation

Conference v. FPC 判決109)と Office of Communication of the United Church

of Christ v. FCC 判決110)が象徴的であった。

Scenic Hudson Preservation Conference 判決は,非営利の環境保護団体

と地方自治体に,連邦電力委員会の水力発電所の設置許可手続への参加と,

それを争う原告適格が認められた事例である。

Office of Communication of the United Church of Christ 判決は,地域の

視聴者に放送事業者のテレビ放送免許の更新を争う原告適格が与えられた

事例である。この判決では,特に,委員会は更新手続において常に効果的

に視聴者の利益を代表しているという理論に依拠することはできないこと

が述べられたこと111)が注目に値する。行政機関が公益代表者であるとい

う前提が判例によって疑われたのである。

そして,連邦最高裁では1970年に Association of Data Processing service

Organizations, Inc. v. Camp 判決112)が下され,原告適格法理について,従

来までの判例法理からの転換がなされたのであった。

上の二判決は行政手続の強化についても象徴的な判決であった。Scenic

Hudson Preservation Conference 判決は連邦電力委員会が充分に代替手段

を考慮していないとして連邦電力委員会の水力発電施設の設置許可を破棄

したのであり,Office of Communication of the United Church of Christ 判

決は,連邦通信委員会が視聴者代表の意見を充分に考慮していないとして

放送事業者の放送免許の更新が無効とされたのである。

何より特筆するべきは,デュー・プロセス革命の始まりとなった連邦最

高裁の Goldberg v. Kelly 判決113)とインフォーマル裁決で手続的審査を

行った Citizens to Preserve Overton Park, Inc. v. Volpe 判決114)である。

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Goldberg 判決では,それまで特権理論が支配していると考えられていた

公的扶助の打ち切りについても,デュー・プロセスによる事前の告知と聴

聞が求められるということが判示された。そして,Overton Park 判決で

連邦最高裁は,インフォーマル裁決である高速道路の設置許可にも,行政

機関の記録に基づいて司法審査が行われるということを判示したのであっ

た。

行政判断への司法の介入を強化する判例の潮流は,行政機関の専門性

への懐疑の潮流と合流する。

ランディスは行政責任担保のため,「公益」というような文言を用いた

法律によって行政への広汎な裁量権を与えることを評価していたが,行政

への広汎な裁量付与は批判の的となっていた。

さらに,Office of Communication of the United Church of Christ 判決で

述べられたように,そもそも行政が本当に公益を指向しているかどうかも

疑問視されていた。虜理論が既に行政は圧力にさらされやすいことを暴い

ていたのである。そうなってくるとデイヴィスの言うように(実はラン

ディスも指摘していたのだが),基準によって裁量を制限して行政をルー

チン化し,政治や経済の圧力を和らげる方法が検討されなければならなく

なる。また,行政機関が公益を担いきれないなら,我こそは公益の担い手

であると称する公益集団の行政手続への参加の道も開かれてくる。

さらに,1960年代にアメリカ行政法学の議論は,裁決から規則制定へと,

その関心を転換しつつあった。また,行政機関の政策形成が注目され始め

ていた。行政法学の主戦場は個々の裁決の妥当性から規則制定による政策

の妥当性へと移行しつつあったのである115)。だが,政策形成とは,まさ

に,専門性理論を唱えたフランクファーターも,技術的専門家の役割に疑

問を抱き,統治への公衆の代表者の役割や公衆の権利を主張していた箇所

であった。かくして,行政裁量を専門性で肯定することへの,攻撃がなさ

れたのである。

サックスは1971年の著書「環境の保護116)」において専門性批判の立

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場を鮮明に打ち出した。サックスによると,裁判官はハイウェイやパイプ

ラインを設計する知識を持っているわけではないが,しかし,司法は環境

質を扱うことに,幾つかの利点を持っているのである117)。

サックスは司法過程の利点として,まず「裁判官達が外部者(outsi-

ders)である」ことを挙げている。裁判官は外部者であるが故に上院議員

や知事の兄弟から圧力を受けることはないし,行政機関を政治的組織とす

るような全ての事柄が裁判所にはないのである。さらに,裁判官は環境問

題にほとんど時間を費やさないので,任用について利益集団から影響を受

けることがないのである。また,利益集団と日常的に接触する行政官は,

利益集団と取引をする必要を感じなくてはならないが,このような圧力は

司法過程にはない118)。

さらに,司法過程の長所として,専門的知識がないことをサックスは挙

げている。サックスによると実際に環境に関わる決定を行うのは専門家で

はなく,政策決定を行う法律家であるというのである。他に司法過程の長

所として,サックスは,司法過程が私的市民にイニシアティブの機会を与

えているということを指摘している119)。

また,サックスは,行政機関が計画の作成段階でより多くの市民の参加

を促すことや,行政機関が計画作成の際の研究や文書を広汎に入手できる

ようにすることを主張していたことにも留意しておく必要がある120)。

サックスの行政機関像は序文の「傭兵のように,彼らの雇用者の利益を

頻繁に歪めて自分の観点を形成する傾向がある専門的規制者」という言葉

によく現れている121)。ゆえに,市民はイニシアティブを持って環境管理

に取り組む必要があり,そして政治的参加の主張は裁判所で行われるべき

なのである。けだし裁判所では,市民やコミュニティー・グループが,立

法部や行政機関を操ることに習熟した高度に組織された集団と,対等の条

件で審理を受けることが出来るからである122)。

サックスの主張はランディスの専門性理論に完全に対置させられるもの

であると言っていいだろう。

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ランディスは産業界の事情に精通した専門的行政機関の規制における役

割を重視したが,サックスは虜理論の影響や利益集団論の影響を受けて,

環境規制における専門的行政機関の不適格性と司法過程の適格性を説いた

のである。

また,ランディスは行政機関がイニシアティブを持っていることを行政

過程の長所として主張したが,サックスは市民のイニシアティブの重要性

を主張して司法過程の重要性を主張したのである。そして,サックスは,

行政機関は公益を代表するのではなく,私益の影響を受けやすい存在であ

ると見なす。

サックスはこう言う。

「また,裁判所は,裁判官達の伝統的かつ無批判な行政機関への謙譲を退ける

ことを始めなくてはならない;裁判官達は,政府の中心的な問題は,強力な利益

集団の欲求に従っていることをしばしば隠す行政『裁量』の広大な領域に存在す

るという事実を無視して,裁判官が介入できるのは立法的なルールの明白な無視

や専断や腐敗の争いに限るという快適な推定に,あまりにも長居しすぎた123)。」

このようにサックスの主張はランディスの専門性理論と正反対の主張を

するものであった。そして,サックスの主張がケース・スタディによって

行われたことからわかるように,サックスの主張は判例の流れにも符合す

るのである。

E・ゲルホーンも,参加の意義を主張してこのように言う。

「公衆参加は行政機関に責任の引き受けと責任ある決定を保障するうえで利便

な別次元を,行政機関に与えることができる;公衆参加は,利害関係ある人間と

集団が,政策が宣言され執行される前に,彼らの意見を行政機関の前で表明する

ことを許すという一つの安全的価値に資することが出来る;公衆参加は,公衆の

協力に頼る行政プログラムの執行を容易にすることが出来る:それは行政機関が

もっとも高次の手続的基準を遵守するという司法の欲求を充足させることができ

る124)。」

しかし,E・ゲルホーンは参加する私人に専門性があるかどうかを問題

とする。

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行政法と官僚制(2)(正木)

Page 39: 行政法と官僚制(2) - 立命館大学 Hirotake.pdf行政法と官僚制(2) 正木宏長 第二章 専門性と行政法 本章では,官僚制の「専門性」が,行政法においていかなる役割を果た

情報が少ない公衆参加者は,専門家から情報を得ることができるが,こ

のときの報酬を支払うことは出来ない。また報酬を支払うことが出来ても,

専門家は,より頻繁に専門家を利用する商業利益に反対する証言をするこ

とをためらうし,政府によって雇用されている専門家も私人は利用するこ

とができない。そして,聴聞で専門家が用いられていても,行政機関は当

事者が専門家を助言や証言のために利用できるようにすることには消極的

である。

E・ゲルホーンは,結果として公的参加には専門家の証言が不足してい

ると指摘する。そこで,E・ゲルホーンは,アクセスが容易になるように

行政機関は公衆がファイルをより利用できるようにすべきことを主張して

いる125)。

E・ゲルホーンの主張の中には,行政機関が専門性によって正統性を確

保するという発想は見られない。行政機関に専門家がいようとも,公衆の

参加が求められているのである。

E・ゲルホーンによると,行政手続を通じての私人の参加は合理的な決

定のために有益なのであり,そこで,参加を実効あるものとするために,

専門家は行政機関と参加者の間で共有されるべきなのである。ここに,行

政機関の専門性によって行政過程を正統化しようとした専門性理論の衰退

を見ることが出来る。E・ゲルホーンにとって専門性は行政機関によって

独占されるものではなく,私人によって補充されなければならなかったの

である。

J・O・フリードマンの1976年の専門性を扱った論文では,専門性へ

の公衆の懐疑が生じる理由として,伝統的な専門家への不信や行政の専門

性の不適切性の他に,行政機関が専門性を欠いているということが指摘さ

れている。

J・O・フリードマンによると,行政機関が専門性を持っていると公衆

や被規制者を説得するのに多くの行政機関が失敗するのは,部分的には,

前の大統領に任命される行政機関の代表者の質に起因するかもしれない。

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Page 40: 行政法と官僚制(2) - 立命館大学 Hirotake.pdf行政法と官僚制(2) 正木宏長 第二章 専門性と行政法 本章では,官僚制の「専門性」が,行政法においていかなる役割を果た

しかし,連邦裁判官等と比べれば,行政機関の職員は,多くの場合,専門

家として見なされるような資格を持っていない人間なのである。さらに,

行政機関の職員達は,彼らが第一線で専門性を獲得すると主張することを

補強するには,あまりに短い任期でしか仕事をしない傾向があった。そし

て,長期にわたって仕事をする行政機関の職員達も,専門性ではなく定型

化された経験しか獲得しなかったというのである126)。

このように,1960年代~1970年代のアメリカ行政法では,専門性理論

への支持はほとんど見られなくなり,その克服が主要なトピックとされた。

ランディスは個々の職員の専門性ではなく,組織全体での専門性を指向

していた。それは抽象的に行政過程の司法過程への優位を断ずることで行

政過程そのものを正統化するためには有益であったし,広汎な権限の委任

にもつながった。しかし,一方で,個々の職員が必ずしも専門家であるこ

とを必要としないという,理論的に長所となるとともに短所になる点を抱

えていた。たしかに特定業務への専従と行政組織構造から行政機関の「専

門性」を導き出せないわけではない。

しかし,個々のスタッフやトップが専門的ではないということになれば,

そのような資質を欠く人物によって構成される行政機関の「専門性」も怪

しくなる。そもそも,行政スタッフが蓄えているのは,「専門性」ではな

く定型化された経験でしかないのではないかという疑いもある。

虜理論の敷衍によってこのような危惧は強化される。業務への専従によ

る専門性によって逆に,行政機関が視野狭窄や一部の利益との癒着に陥っ

ているのであれば,行政機関が「公益」のために行政をしているという前

提が揺るがされる。そうなると「公益」というような文言で法律が行政機

関に広汎な裁量権を授権することや,私人に代わって規制のイニシアティ

ブをとる行政過程それ自体の正統性さえも危うくなる。行政手続や司法審

査の充実という市民参加手法,あるいは,規則制定による裁量の構造化と

いった手法によって正統性回復が図られなければならないだろう。

こうして専門性理論は,学説においても判例においても支持を失って

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Page 41: 行政法と官僚制(2) - 立命館大学 Hirotake.pdf行政法と官僚制(2) 正木宏長 第二章 専門性と行政法 本章では,官僚制の「専門性」が,行政法においていかなる役割を果た

いった。

このように考えれば,ニュー・ディール期の専門性理論をいったん葬っ

た点で,虜理論のアメリカ行政法への影響は非常に大きかったと言えるだ

ろう。

だが,行政法の理論展開を見たとき,司法過程又は行政過程への「参

加」に議論の焦点があったことには留意を要する。通常,社会民主主義的

な「参加」論においては立法過程や政治過程への参加が念頭に置かれる。

これに対して,1970年代のアメリカ行政法の参加論の特徴は,行政過程や

司法過程への参加が強調されたことにあった。

第二款 官僚制批判

専門性への批判は,行政法理論のレベルだけでなされていたわけでは

ない。官僚制の専門的形質への批判は,行政学でもなされていた。

行政法レベルでの専門性批判が,ニュー・ディールの専門性理論への批

判に繋がり,そして,司法過程ないし司法的な手続重視の決定スタイルの

尊重へと繋がることは上に見たとおりである。これに対して,行政学レベ

ルでの官僚制の専門的形質への批判は,社会学的存在としての官僚制構造

の批判へと繋がるものであり,専門性理論の克服へと繋がる行政法のそれ

とは性質を異にする。しかし,このような行政学的意味での専門性批判は,

行政法レベルでの専門性批判を合流して,時代の官僚不信の空気を作り上

げ,それが行政法レベルでの専門性批判の議論に影響を与えるので,見逃

すことが出来ない。

ランディスは,1961年に,行政過程が専門性を保有しているという伝

説は,ラスキから得られたのだと思うと,語っていた127)。しかし,実際

のところ,ラスキはニュー・ディール期から官僚制の専門性への懐疑を示

していた。

ラスキは1930年の論稿で,社会政策決定における専門家の役割の増大に

対して警鐘をならしていた。ラスキは言う。

「しかし,政策形成の全段階での専門家との協議の必要性の主張は一つの問題

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Page 42: 行政法と官僚制(2) - 立命館大学 Hirotake.pdf行政法と官僚制(2) 正木宏長 第二章 専門性と行政法 本章では,官僚制の「専門性」が,行政法においていかなる役割を果た

であるが,専門家の判断を最終のものとしなければならないというのは,別の,

一つの全く別の問題である。特別の知識と高度に訓練された精神の創出のために

は,ステーツマンシップの領域における,彼ら自身の限界が決定的に重要である。

主張されることが出来るのは,専門性(expertise)は,経験の強烈さのために,

一般常識を犠牲にしているということである。専門性は,自分自身の結論への専

心のあまりの深みにより,新しい意見を受諾することへの無能力を生む。専門性

は,目標の周辺を見ることにあまりに頻繁に失敗する。専門性は,関連しなけれ

ばならない全ての他の結果との関連の中心に,自分自身の結論を位置付けること

により,パースペクティブから外れて結果を見る。また,専門性は,あまりに頻

繁に統合を欠く。そして,これは,専門性の所有者において,彼らの鼻先にある

明白なことを見ることを失敗させるような,均衡における失敗を生み出す。また,

専門性は,専門家をして,彼ら自身の階級に属さないものから得られた全ての証

拠を無視させがちな,専門性についてのある種の鋳型精神を持つ。上記のことに

加え,おそらく人的問題の中心にあるもっとも緊急のものとして,専門家がなす,

本質において純粋に事実的ではない全ての判断は,特別の妥当性を持ってはいな

い価値枠組みを,判断と共にもたらすということを,専門家はわかっていないの

である。専門家は,諸事実の重要性と,諸事実に対して行おうと専門家が提案し

ていることの重要性とを,混同させるのである128)。」

ラスキは,専門家が新しい意見を好まないことや,適切な観点で結果を

見ないこと,専門家の鋳型精神は危険であること,専門家は柔軟性を欠い

ていること,専門家は目的を生活のための手段にすることで,知恵から学

ぶということがなくなること,専門家が人間の知識の総合と専門主義を調

和させることを求めないことを主張する。このような専門家の問題点から,

ラスキは,国政において,専門家との関係で一般常識を代表するステーツ

マンの役割を強調する。究極的な決定は専門家ではなく,アマチュアに

よってなされなくてはならないのである129)。

このように,ラスキは,統治におけるステーツマンの領域,つまり政治

の領域を強調したという点で,官僚制の専門性に対する厳しい批判者で

あった。それはラスキが科学的管理法を唱えたテイラーを人間存在の複雑

性を忘れていたと批判していることからも窺える130)。

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ラスキの批判は官僚制というよりも専門家一般へと向けられていたが,

実際のところラスキの批判は行政機関の長よりも行政機関のスタッフ,つ

まり行政官僚制へとよりよく妥当するものであった131)。また,すでに見

たシュウォーツの行政機関への批判との近似性を見て取ることができるだ

ろうし,政治と行政の分断論やフランクファーターの専門性理論に類似し

た発想も伺える。

ラスキの主張は直感的なものであったが,官僚制批判の主張は,

ニュー・ディール期以降のアメリカの行政学や社会学で見られるように

なった。M・ウェーバーは官僚制を合理的なものと位置付けたのであるが,

官僚制の非合理性への注目がなされるようになったのである。

例えば,マートンは,1949年の著書「社会理論と社会構造」のなかで,

官僚が規則を遵守するあまり柔軟性を欠いてしまうような「官僚制の逆機

能」を主張した。マートンの主張は,訓練と技量によってそれまでは効果

があった行為も,変化した条件の下では不適応の反応に終わることがある

というヴェブレンの「訓練された無能力」や,毎日同じ仕事をすることで

嫌悪や識別や強調の癖がつくというデューイの「職業的精神異常」といっ

た研究をうけている。そして,官僚制構造では,規則の遵守が重要になる

が,手段であったはずの規則を守ることに,目的が転移してしまうという

ことを指摘する。この結果,繁文縟礼や形式主義が生まれてくるのである。

また,マートンは官僚制構造内では,職員達が仲間意識を持って組織防衛

をすること,人間関係の非人格化から,公的官僚制では公衆との関係で摩

擦が起きやすいことを指摘している132)。

また,セルズニックは,1949年のテネシー川渓谷開発機構の研究で,官

僚制化による予期せぬ結果を検討した。そこでは,官僚が専門化によって

視野狭窄になることと,公衆の協働という参加の必要性が主張されてい

た133)。

ゴールドナーは1955年の著書「産業官僚制の諸類型」の中で,官僚制を

「疑似官僚制」と「代表型官僚制」「懲罰型官僚制」の三つに類型化し,専

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門性に基づく官僚制は「代表的官僚制」に,権威主義的な規律(disc-

ipline)による管理は「懲罰的官僚制」に対応するとした。また,専門家

の管理や専門性の保持だけでは代表的官僚制は正統化されず,目的や価値

への合意が必要であり,したがって,専門性に基づく代表官僚制は正統性

付与の原民主主義的プロセスを必然的に伴うとされる134)。

そして,目的や価値への合意を欠いた場合,服従が強調される懲罰型官

僚制につながり,そこではスタッフである専門家はラインの真性官僚に従

属的立場にあること135),また,繁文縟礼についての不満は,懲罰的官僚

制に多くの関連を持つことをゴールドナーは指摘したのである136)。これ

は,ウェーバーの合理的官僚制像のなかの専門性による合理化と規律によ

る合理化を区分するものであった。

また,クロジェは,1964年の著書「官僚制化現象」の中で,「官僚制組

織とは誤りから学ぶことで行動を是正することが出来ない組織である137)」

ことや,「『組織の官僚制システム』は集権化と非人格化による一連の相対

的に安定した悪循環の存在によって基本的に特徴づけられる」ことを指摘

した138)。悪循環とは,職務の定義や職務配置や人間関係ネットワークの

硬直性により,環境とのコミュニケーションと集団間のコミュニケーショ

ンの欠如が生じることである139)。

また,ニスカネンの1971年の著書では,行政官僚制は議会に対して予算

最大化を試みるように行動し,規制の受益者の需要に気を配るよりも,公

務員としての任期を快適に過ごせるようにするとの主張がなされた140)。

このような一連の行政学の主張が,ただちにアメリカ行政法学へと

フィードバックされたというわけではない。例えば,専門性理論を扱った

J・O・フリードマンの1976年の論文では,これらの行政学の成果は参照

されてはいない。しかし,M・シャピロは,1950年代以降を回顧して,

「専門家の劣化」の理論と,クロジェを引用している141)。また,メリルは

ニスカネンの主張について虜理論を主張するものとしている142)。これら

のことをふまえると,ニュー・ディール後のアメリカ行政法学は,ウェー

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バーの官僚制の非合理性を検証した第二次大戦後のアメリカ行政学の成果

が示された環境の下で展開したと,主張することは可能であろう143)。

第三款 環境問題と科学的専門性

1960年代~1970年代での,アメリカ行政法学の動向を考えるとき,

「科学」的な専門性に対する,姿勢の変化を見て取ることが出来る。

M・シャピロは,科学的専門性に対する姿勢の変化を,明瞭に指摘して

いる。シャピロによると,科学や技術は西洋市民の基本的価値であり,合

衆国はこれらの西洋国家の価値にもっともコミットしている。しかし,別

次元において,アメリカ人は自然に近い簡素な社会への回帰のあこがれを

経験していた。それは19世紀のケーツとシェリーのロマンチズムであり,

20世紀のローレンスの「オルタナティブ・ライフスタイル」であり,1960

年代の「コミュニティー」運動であり,現代政治哲学者の「コミューン」

の探求である144)。

シャピロによると,第二次世界大戦前後には技術への熱狂があった。大

戦前のアメリカ人の夢は,産業経済に向けられ,第二次世界大戦は,原子

爆弾によって勝利したのである。しかし,1960年代に「アメリカの緑化」

と呼ばれる反技術的潮流が現れた。環境保存,絶滅の危機に瀕した種の保

護,大気水質汚染の防止,より簡素な自然的な生活というものが,特に若

者層にとって重要になったのである。そして,それは,技術を基盤とした

急速な経済発展のダウン・サイドに敏感な知識人や政治家にとっても,深

刻な政治目標となった。

緑の思考に触れることは,技術者とテクノクラティックな政府への疑い

以上のものをもたらす。技術者は生活を特定技術の生活に捧げるので,必

然的にその必要性を誇張した。そして,技術者集団は,治水と浚渫をする

英雄から,自然の景観を侵害し,湿地帯を破壊する悪役になったのである。

緑の思潮とジャクソニアンの思潮は,混合して,テクノクラシーへの最大

の不信を生み出す。その最初の大きな兆候は「軍産複合体」の告発だった。

専門家は,もはや進歩主義信奉者が,専門家による支配について描いたよ

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うな,公益を追求するための専門性を備えた中立的で客観的な技術者とは

見なされなかった。かわりに,専門家は,まさに専門家であるが故に,特

定の技術について特殊の利益を持っているとされたのである145)。

サックスの「環境の保護」の議論も上のシャピロが言及するような問題

意識を有していたといえよう。

ここで批判されることになった科学的な専門性はランディスが前提とし

ていた「専門性」とは性質を異にする。ランディスがよりどころとしてい

た専門性は,科学的専門性も含んでいたが,主として,行政機関の特定業

務への専従,すなわち「特別化」により日々の経験から得られるような包

括的な専門性であった146)。

だが,1960年代からの環境保護運動は,議論の対象とされるべきものと

して,科学的「専門性」とその担い手であるテクノクラートを提示した。

それはランディスというよりも,フランクファーターが挙げていた「専門

性」に近似する。これによって別次元での専門性が定位され,1980年代以

降の専門性の議論を活性化することになるのである。

たしかに,1970年代はエイマンの主張するように「環境の時代」で

あった。エイマンは,この時期の行政法を絶対主義で特徴づける。エイマ

ンは言う。

「空気は清浄であるか汚染されているかであり,水は清浄であるか汚染されて

いるかであった。程度の問題は考慮されなかった。害悪が認識されたなら,議会

はそれを根絶するために諸法律をすみやかに制定した147)。」

エイマンが絶対主義と位置づけるこの時期の主な環境立法としては,全

国環境政策法,1972年水質汚染管理法修正,1970年空気清浄法修正,等が

ある148)。これらの法律が絶対主義的であるとされるのは,環境保護の目

的を達成するためには,しばしば,結果としてコストを無視してまで,環

境汚染を防止しようとしたからである。

このような規定は行政機関の(一般的な意味での)専門性を制限すると

共に,いわば科学技術への規制という側面を持っていた。

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例えば大気汚染規制について見てみると,1970年空気清浄法修正111条

では新規汚染源への排出基準は,「(この削減を達成するコストを考慮に入

れて)行政官の決定が充分に証明した,排出削減の最高のシステムの適用

を通じて達成可能な排出制限の度合を反映した大気汚染物質排出基準」で

あるとされていた149)。

そして,環境保護庁は,この法律の規定に従って,新規石炭火力発電所

に対して,二酸化硫黄の排出削減のために,スクラバー(洗浄集塵装置)

という装置を用いることで達成可能な排出基準を定める規則を制定するに

いたった150)。

産業が特定の方向の技術へ誘導させられるのが,「技術強制(technol-

ogy-forcing)」と呼ばれるゆえんである151)。環境保護のために特定の技術

の使用が促進されたということは,科学への制約でもある。また,法律で

一定方向に向けた技術の採用が強制されるということは,もはや科学的な

専門性も,行政機関の技術者の自由裁量には委ねられないということを意

味していた。法律で「排出削減の最高のシステム」であることが求められ

ている以上,最高の技術を反映した排出基準であるかどうかを,私人が訴

訟で争うことが可能であったのである152)。

このような展開の下では,行政機関の個々の技術的専門家の「専門性」

を根拠に行政過程の「専門性」の優位を導くことにも,困難が課せられる。

いかに技術的専門家達が,自らの専門的知識の卓越によって,行政過程の

「専門性」を示そうとしても,立法によって一定の技術への誘導がなされ

るのであれば,裁判所はその技術を採用しているかどうかの法律適合性審

査を行う。とすれば,行政機関は,単に専門家が決定を下していることを

根拠に,自らの「専門性」を主張することが難しくなり,法律がどれほど

行政機関に判断余地を与えているかが問題となってくるのである。

ニュー・ディールでの行政機関への規則制定権の授権は,「公益のため」

といったような一般的な文言の法律でなされたが,1970年代の環境諸法は,

「排出削減の最高のシステム」というように要件を提示した文言で,規則

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制定権を授権した。授権の段階で規則制定に際しての行政裁量が狭められ

たのである(それは法律の文言の解釈が,裁判の争点となることも意味し

ていた)。

第四款 プロフェッションによる行政への批判

行政委員会の中には,専門家団体の代表者が委員となるものもある。

虜理論の影響からか,この種の委員会は,専門家団体の特殊利益の保護に

偏っているのではないかという批判が,なされるようになった。いわばプ

ロフェッションによる行政への批判である。

本稿で言うプロフェッションとは,さしあたり,医者や弁護士のような,

体系化された専門知識を持ち,専門家集団を形成して,独自の顧客と職業

倫理を有するような専門家のことを指す153)。プロフェッションもむろん

専門家である。だが,上のような特色を有する点で,科学的専門性をもつ

テクノクラート的専門家(いわゆる技術屋)とは異なる特徴を持っている

だろう。

行政権限を私的団体に授権することは,ニュー・ディール期から既に行

われていた。私人による法形成の議論は,ニュー・ディール期からなされ

ていたのだが154),第二次世界大戦後,レッド・パージが行われた時期か

ら,特にプロフェッション団体による行政が問題視されるにいたった。

プロフェッションによる行政の問題をとりあげたのは,W・ゲルホー

ンであった。彼は,1956年の著書の中の一節で,職業免許制のあり方や,

プロフェッションという意味での「専門家」が行政に参加することで生じ

る問題を論じた。W・ゲルホーンは,まず,僧侶や医師や弁護士といった

古くから職業免許制が行われていたプロフェッションの他に,クリーニン

グ師や花屋や美容師に至るまで,州法による職業免許制が行き渡りつつあ

ることを指摘する。

むろんゲルホーンも,こういった職業免許制に,不適格者を排除するこ

とや過剰供給を防ぐという利点があることは認める155)。

W・ゲルホーンが問題視したのは,免許制が中世のギルドに類似したも

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のになっていることである。州法では,時々,被免許者の集団に自治を許

していた。例えば,カルフォルニア州の弁護士は各種権限を持つ「統一弁

護士会」の会員でなければならない。諸州でも同様にリーガル・プロ

フェッションをギルド類似のものに変形させている。他の「プロフェッ

ション」も同様の独立性を享受しようとしている。

問題となるのは,これらの職業団体内部での統制が厳格化し,さらに,

被免許者が行政委員会の委員の職業代表ポストを得ることで,権限を拡大

させることである(W・ゲルホーンが挙げるのはルイジアナ州の美容師の

事例である)。そして,委員会は,ある被免許者の利益のために,別の被

免許者を制限し,さらには,当該事業への参入規制となる規則を制定す

る156)。また,W・ゲルホーンは憲法的観点から,一部の職業団体への加

入には,アメリカ人であることや,共産主義者でないというような,思想

信条が要件とされていることも問題視している157)。

W・ゲルホーンは行政機関の問題としてこのように述べる。

「今日,この国で活動する職業許可委員会の75%が,各職業の被許可事業者に

よって排他的に構成されている。これらの紳士淑女は,ほとんどがパート・タイ

ムの公務員にすぎず,彼らが形成し関係する許可要件と,被免許者によって遵守

される基準の確定に関する多くの決定において,直接的な経済的利益を有してい

るかもしれないのである。さらに重要なことは,彼らは,原則として,職業内で

組織された集団の直接代表なのである158)。」

「一つのより冷静な見解としては,公益の一般的考慮が,特定の集団の利益の

考慮に効果的に従属してしまっている,ということがある159)。」

W・ゲルホーンは,全ての職業に関する行政委員会を否定するというわ

けではない。彼は職業人が専門家の狭い視野の中に閉じこもることを問題

視しているのである。そこで W・ゲルホーンは免許計画にも専門性が必

要であるとし,「複雑な現代世界で,必要とされる専門性は,分断された

スペシャリストの専門性を,機能する単一の全体へと組み込むことが出来

るジェネラリストのそれなのである」と述べている160)。

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ここでゲルホーンが求める専門性とは,ニュー・ディール期に求められ

たタイプの行政機関の業務専従による専門性だろう。

W・ゲルホーンの主張には,意外な支持者が現れた。経済学の大家,

M・フリードマンである。かれは W・ゲルホーンの問題提起を受けてさ

らにドラスティックな立論を行った。M・フリードマンは,特定の生産者

グループが立法活動に影響力を持つことを防ぐために,「国家がある種の

活動を行うことに対する一つの一般的推定が確立すること161)」を求めた。

M・フリードマンは,規制の類型として,届出制と認証制と免許制の三

つの類型を想定している。届出制は,ある業務を行うためには届出が必要

であるとする制度であり,認証制は,ある業務に携わる能力について国家

が認証を与える制度である。フリードマンによると,認証制において認証

を得ていない者が当該業務をするのは自由である(つまり,優秀な業者を

政府が認定して公衆を誘導する制度である)。そして最後が,ある業務を

行うために当局から免許を得なければならない免許制である。

M・フリードマンは,各形態の正当化論拠を示している。例えば,届出

制には,銃器販売店を届出制にすれば銃を使用した犯罪の防止に役に立つ

(つまり行政への業務関連情報の提供),課税を容易にする,消費者を詐欺

から守るという利点がある。認証は私人でも行えるので認証制は正当化が

難しいが,認証への価格支払いは難しいので,政府が行うと論じることが

できる。また,技術独占を防止するということもできる。だが,免許制は

正当化がよりいっそう難しい。免許制の論拠は自由主義者にとっては説得

的ではなく,パターナリスティックな主張なのである。

M・フリードマンは,これらの制度から生じる社会的費用は,特定の生

産者グループが独占的地位を得るための道具になることだとする。届出制

から免許制へ,制限が厳格化されるに従って参入規制となり,被免許者の

独占的地位が確立される。この点では認証制は免許制より害悪が少ない。

認証を受けた人々が認証を濫用するなら,公衆は他のサービスを利用でき

るからである162)。

95 ( 95 )

行政法と官僚制(2)(正木)

Page 51: 行政法と官僚制(2) - 立命館大学 Hirotake.pdf行政法と官僚制(2) 正木宏長 第二章 専門性と行政法 本章では,官僚制の「専門性」が,行政法においていかなる役割を果た

M・フリードマンの主張の特徴は,プロフェションの業務の典型例であ

る医療についてさえ,参入制限が生じることから,免許制を批判すること

である。彼によると,アメリカ医師会は強い政治力を行使し,医学部への

審議会(構成員は医師である)の認可権を通じて,プロフェッションへの

参入制限を維持している。だが,医師の医療業務の独占に伴う医療サービ

スの不足は医療の水準を低下させている。M・フリードマンの結論は,医

療業務への従事の要件としての免許制は撤廃されるべきだということであ

る163)。

M・フリードマンのラディカルな市場尊重の主張は,強力な生産者集団

が政府に影響力を与えることは不可避であるという認識に裏打ちされてい

る164)。そこで,彼はプロフェッションによる行政の弊害を避けるため,

行政の業務範囲それ自体を制限して市場に委ねるという,経済学者らしい

ラディカルな解法へと走ったのである。

1970年代の,プロフェッションによる行政と参入規制に関する判例と

して,二つの連邦最高裁判決を見てみる。

① Gibson v. Berryhill 判決165)

アラバマ州法では眼鏡の検眼の免許制を規定していた。自営開業者で構成され

るプロフェッション団体であるアラバマ検眼協会は,リー検眼会社(Lee Optical

Company)に被用された免許検眼士を告発する手続をとった。この告発は免許

の一時停止・撤回を行う州の部局であるアラバマ検眼委員会によって受理された。

告発の理由は,リー検眼会社が州法で禁止されている非プロフェッション的行為

を行い,さらに違法行為を助長しているということであった。検眼委員会は,ア

ラバマ検眼協会からの告発を受理後,州裁判所にリー検眼会社が違法行為を行っ

ているとして訴訟を起こした。州裁判所はリー検眼会社に無免許検眼業務と免許

検眼士の雇用の差止を命じた。

アラバマ検眼協会による個々の検眼士の告発への検眼委員会の手続は,州裁判

所への訴訟が継続中,一時停止されていたが,検眼委員会は,州裁判所での勝訴

判決を受けて,リー検眼会社に雇用されていた個々の検眼士の免許撤回の手続を

96 ( 96 )

立命館法学 2005 年1号(299号)

Page 52: 行政法と官僚制(2) - 立命館大学 Hirotake.pdf行政法と官僚制(2) 正木宏長 第二章 専門性と行政法 本章では,官僚制の「専門性」が,行政法においていかなる役割を果た

再開した。そこで,リー検眼会社に雇用されていた検眼士達は,検眼委員会と委

員会の委員を相手に,アラバマ中部連邦地方裁判所に訴えを起こした。理由は,

アラバマの検眼業務を規制する法律の枠組みは違憲であるということである。つ

まり,検眼委員会は偏向(bias)していて,原告にデュー・プロセスに合致する

公正かつ中立的(impartial)な聴聞が与えられていないということであった。

アラバマ中部連邦地方裁判所は,検眼士達の主張を認めた。そして,検眼委員

会が,合憲的に免許撤回の聴聞を行えないほど,予断と金銭的利益によって偏向

させられているとして,二つの理由をあげた。第一に,検眼委員会は,リー検眼

会社を幇助したとして原告を州裁判所に訴えている。第二に,検眼委員会の意図

は,リー検眼会社のような企業に雇用されている,州の全ての検眼士の免許を撤

回させることにあるが,このような検眼士はアラバマの検眼士のほぼ半数にあた

る。検眼委員会が開業検眼士によってのみ構成されていることから,検眼委員会

の努力は,検眼委員会の委員の個人的利益に寄与するものだというのである。

連邦最高裁は,地方裁判所は委員会の委員の失格のための,事実への予断と個

人的利益という偏向の源泉を明白に考慮しているとした。そして,法手続におい

て実質的な金銭的利益を持つ者が,紛争を裁決するべきではないことは,先例

(Tumey v. Ohio, 273 U. S. 510 (1927))に徴して明らかであるとして,地方裁判所

の判決を是認したのであった。

② Friedman v. Rogers 判決166)

テキサス州法は,商号のもとでの検眼教務を禁止していた。また州の規制委員

会であるテキサス検眼委員会の委員の6人中4人は,検眼士のプロフェッション

団体であるテキサス検眼協会の構成員であることを要求していた。というのも,

州法はテキサス検眼委員会の過半数は検眼士でなければならないとし,その検眼

士はアメリカ検眼協会に加入した組織の構成員でなければならないとしていたが,

アメリカ検眼協会に加入した組織は,テキサス州ではテキサス検眼協会しかな

かったのである。

検眼士には,二つに分けて,「専門」検眼士と「商業」検眼士がいる。テキサ

ス検眼協会の構成員はアメリカ検眼協会の倫理規定に従わなければいけないが,

「商業」検眼士は,営利的手法がアメリカ検眼協会の倫理規定にそぐわないので

アメリカ検眼協会に加入できず,したがって,テキサス検眼協会にも加入できな

い。なお,地方裁判所では,商号のもとでの検眼業務の禁止は,商業的言論への

97 ( 97 )

行政法と官僚制(2)(正木)

Page 53: 行政法と官僚制(2) - 立命館大学 Hirotake.pdf行政法と官僚制(2) 正木宏長 第二章 専門性と行政法 本章では,官僚制の「専門性」が,行政法においていかなる役割を果た

憲法第一修正の保護に抵触するとの判決(438 F. Supp. 428 (ED Tex. 1977))が下

されていた。

本件は,このテキサス州法の合憲性が争われた。

パウエル裁判官による連邦最高裁判決は,テキサス検眼法の立法史をひいて,

テキサス州法の合憲性を支持し,テキサス東部連邦地方裁判所の判決を破棄した。

判決によると,テキサスでは「専門」検眼士と「商業」検眼士との政治的対立が

あったのだが,1969年の立法でこの対立は終息を見ている。法律の成立以前の双

方の対立の経験から見ると,テキサス検眼委員会が執行への責任を有する,「専

門家責任規則」への一貫した支持を示した専門的組織から,委員会の多数派が抽

出されることを要求したのは立法者にとって合理的なことであった。委員会に消

費者代表を置くことが立法者に要求されているという主張への憲法上の根拠はな

い。また,原告は,商業的検眼業務に同情的な委員会によって規制されることへ

の憲法的権利を有していないが,公正で中立的な聴聞への憲法的権利は持ってい

る。Gibson 判決のように懲戒手続が始まれば,裁判所は規制委員会の委員が個

人的利益を有しているかどうかを審査することが出来る。だが,公正への原告の

訴えでは,懲戒手続は起きていないのである。

ここでは,企業的検眼士とプロフェッション検眼士の争いが背景にある

二つの判決を紹介した。これは,しばしば問題となっていたことであっ

た167)。本稿は,「偏向(bias)」に関する詳しい法理を探求することはし

ない。だが,プロフェッション的経営と企業的経営との対立の中で,プロ

フェッションが行政機関に代表を送り込むことで,プロフェッションの自

己利益のための行政が行われる危険性は,判例からも明らかであろう。そ

して,それによって,聴聞の権利の侵害という憲法のデュー・プロセスの

問題と,行政機関の決定の「偏向」という行政法上の問題が生じたのであ

る。

プロフェッションの専門性への懐疑と,プロフェッションへの授権の危

険性は,行政組織構成や行政手続の在り方という現実的な問題として生じ

るのであり,そして憲法と行政手続上の問題を裁判で誘発したのである。

1) ヘーゲル(藤野渉=赤沢正敏訳)『法の哲学Ⅱ』(中央公論新社,2001)306頁以下,343

頁以下。

98 ( 98 )

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Page 54: 行政法と官僚制(2) - 立命館大学 Hirotake.pdf行政法と官僚制(2) 正木宏長 第二章 専門性と行政法 本章では,官僚制の「専門性」が,行政法においていかなる役割を果た

付言すれば,官職売買の禁止の発想は,官吏任命行為を公法契約ではなく,行政行為と

理解する立場に接合する。詳しくは,室井力『特別権力関係論』(剄草書房,1968)3頁

以下,塩野宏『行政過程とその統制』(有斐閣,1989)278頁以下。

2) 西尾勝『行政学の基礎概念』(東京大学出版会,1990)14頁以下。

3) M・ウェーバー(世良晃志郎訳)『支配の社会学I』(創文社,1960)62頁。

4) ウェーバー・前掲注(3)91頁以下。

5) 宮崎良夫『法治国理念と官僚制』(東京大学出版会,1986)155頁。

6) 南博方『行政裁判制度』(有斐閣,1960)139頁。

7) 田中英夫『アメリカの社会と法』(東京大学出版会,1972)216頁,223頁,224頁。

8) James O. Freedman, Expertise and the Administrative Process, 28 ADMIN. L. REV. 363, 369

(1976). ホーフスタッターの主張については,リチャード・ホーフスタッター(田村哲夫

訳)『アメリカの反知性主義』(みすず書房,2003)。

9) MARTIN SHAPIRO, WHO GUARDS THE GUARDIANS ? 61 (1988). 同書の紹介として,参照,山

村恒年ほか「紹介」アメリカ法[1992-1]54頁。

10) Id. at 59. この時期の理論状況を,記述するものとして,手島孝『アメリカ行政学』

(1964,日本評論社)6頁以下。

11) Id. at 59-60.

12) 大森弥「現代行政学の展開」辻清明編『行政学講座I』(東京大学出版会,1976)47頁,

50頁。

ウィルソンの記念碑的な論文として,Woodrow Wilson, The Study of Administration, 2

POL. SCI. Q. 197 (1887). この時期のアメリカ行政学の発展の概観として,辻清明「現代行

政学の動向と課題」年報行政研究一号(1962)3頁,9頁以下,手島・前掲注(10)21頁

以下,中谷義和『アメリカ政治学史序説』(ミネルヴァ書房,2005)19頁以下。

13) FRANK J. GOODNOW, 1 COMPARATIVE ADMINISTRATIVE LAW (1893) [hereinafter GOODNOW, 1

COMPARATIVE ADMINISTRATIVE LAW]. FRANK J. GOODNOW, 2 COMPARATIVE ADMINISTRATIVE LAW

(1893). [hereinafter GOODNOW, 2 COMPARATIVE ADMINISTRATIVE LAW]. 同書の翻訳として,

フランク・J・グッドナウ(浮田和民訳)『比較行政法』(早稲田大学出版部,1908)。

グッドナウの行政法学については,橋本公亘『米国行政法研究』(1958,有信堂)90頁

以下。

行政学的観点からのものだが,本格的なグッドナウ研究として,千草孝雄「グッドナウ

の地方自治論(1)~(8)」自治研究65巻5号(1989)110頁,6号97頁,7号103頁,8

号102頁,9号91頁,10号108頁,11号100頁,12号106頁。

14) GOODNOW, supra note 13, 2 COMPARATIVE ADMINISTRATIVE LAW, at 33-34.

15) Id. at 38.

16) Id. at 59.

17) 手島・前掲注(10)44頁以下。「比較行政法」の中でも,グッドナウは,執政的権能と

行政的権能の区別を,フランスのオーコックを引用しつつ主張している。GOODNOW, supra

note 13, 1 COMPARATIVE ADMINISTRATIVE LAW, at 49-51.

18) Id. at 231-232.

99 ( 99 )

行政法と官僚制(2)(正木)

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19) GOODNOW, supra note 13, 2 COMPARATIVE ADMINISTRATIVE LAW, at 46.

20) SHAPIRO, supra note 9, at 60-61. 第二次世界大戦期までのアメリカの公務員制度につい

ての研究として,杉村敏正『米国公務員制度の研究』(有斐閣,1949),辻清明「アメリカ

の公務員制」鵜飼信成ほか編『比較政治叢書I 公務員制度』(勁草書房,1956)1頁。

シティー・マネージャー制度について,宇賀克也『アメリカ行政法』(弘文堂,第2版,

2000)236頁以下。

21) 手島・前掲注(10)71頁。

22) MORTON J. HORWITZ, THE TRANSFORMATION OF AMERICAN LAW, 1870-1960, at 224-225 (1992).

同書の翻訳として,モートン・J・ホーウィッツ(樋口範雄訳)『現代アメリカ法の歴史』

(弘文堂,1996)。

23) Felix Frankfurter, The Task of Administrative Law, 75 U. PA. L. REV. 614, 618-620 (1927).

24) JOHN DICKINSON, ADMINISTRATIVE JUSTICE AND THE SUPREMACY OF LAW IN THE UNITED STATES,

71-72 (1927).

25) Steenerson v. Great Northern Railway Co., 69 Minn. 353, 377 (Sup. Ct. 1897). 鉄道料金決

定の司法審査について,料金決定の立法的性質や,委員会の専門的能力にふれた後に述べ

られた意見である。

26) DICKINSON, supra note 24, at 73.

27) HORWITZ, supra note 22, at 236.

28) FELIX FRANKFURTER, THE PUBLIC AND ITS GOVERNMENT, 155 (1930).

29) Id. at 157-158.

30) Id. at 160.

マッスル・ショールズは地名である。テネシー川のダムが建設されていた。

Tennessee Electric Power Co. 判決(Tennessee Electric Power Co. v. T.V.A., 306 U. S. 118

(1939))でテネシー川流域開発公社の操業が争われたが,その舞台ともなった。

31) Id. at 160-161.

32) ERNST FREUND, ADMINISTRATIVE POWERS OVER PERSONS AND PROPERTY 218 (1928). 同書の紹

介として,杉村章三郎「紹介及批評」国家学会雑誌43巻12号(1929)137頁。

33) ジャッフェは,フロインドの主張は,「行政の権限は厳密に定義されるべきではない」

として広汎な権限委任を認めるモデルに符合する,行政学の W・ウィルソンの理論とは

対極をなすものとみなし,フロインドの主張は M・ウェーバーの官僚制論に符合的であ

ると位置付けている。Louis Jaffe, The Illusion of the Ideal Administration, 86 HARV. L. REV.

1183, 1185-1186 (1973).

フラッグは官僚制擁護の「形式主義モデル」(フラッグのモデル化では,権限委任法理

の厳格な適用によって統制されるので官僚制の権力は脅威ではないと主張するモデル)の

主張者として行政法学からはフロインド,行政学からは M・ウェーバーや F・テイラー

の名前を挙げている。Gerald E. Frug, The Ideology of Bureaucracy in American Law, 97

HARV. L. REV. 1276, 1282 (1984).

ただし,後述するように,ウェーバーの官僚制理論に立脚しながらも,行政機関への広

汎な委任を正統化するマショウのような立場もあることには注意を要する。

100 ( 100 )

立命館法学 2005 年1号(299号)

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34) 次に挙げるランディスの伝記で,ランディスとフランクファーターの師弟関係が克明に

描かれている。DONALD A. RITCHIE, JAMES M. LANDIS (1980).

35) PETER H. SCHUCK, FOUNDATIONS OF ADMINISTRATIVE LAW 10 (1994).

36) ホーウィッツはランディスの理論を「専門性理論(expertise theory)」と呼んでいる。

本稿はこれに従ってランディスの理論を専門性理論と呼んでいる。HORWITZ, supra note 22,

at 217.

ランディスの理論をどう呼ぶかはさておいても,いずれにせよランディスの主張は行政

機関の専門性に依拠する理論と位置づけられるだろう。ジャッフェによると「ランディ

ス・モデルの行政は,その内容とその権威を,議会や皇帝の命令からではなく,議会が与

えた権限の執行に対して利用されうる仮定的な包括的専門性組織(an assumed compre-

hensive body of expertise)から引き出した」。Jaffe, supra note 33, at 1187.

R・L・レイビンは「1938年に出版された影響的な著書において,ジェイムス・ラン

ディスは行政の専門性の認知のための大枠を述べた」とする。Robert L. Rabin, Federal

Regulation in Historical Perspective, STAN. L. REV. 1189, 1267 (1986).

37) 詳細についてはさしあたり,橋本・前掲注(13)99頁以下,川上勝己「行政手続法制定

史」鵜飼信成編『行政手続の研究』(1961,有信堂)3頁以下,杉村敏正『法の支配と行

政法』(有斐閣,1970)36頁以下,中川丈久『行政手続と行政指導』(有斐閣,2000)87頁

以下,本多滝夫「アメリカにおける行政手続法理の生成(2)」名古屋大学法政論集120号

(1988)335頁。野口貴公美「APA における規則制定手続の再検討(1)(2)(3)」自

治研究75巻12号(1999)111頁,76巻4号(2000)78頁,8号79頁。

38) JAMES M. LANDIS, THE ADMINISTRATIVE PROCESS (1938). 同書の翻訳として,ランディス

(法務府法制意見第4局訳)「行政手続」法務資料309号(1950)1頁。

39) 293 U. S. 388 (1935).

40) 61 A. B. A. 720, 727. (1936).

41) THE PRESIDENT'S COMMITTEE ON ADMINISTRATIVE MANAGEMENT, ADMINISTRATIVE MANAGEMENT

IN THE GOVERNMENT OF THE UNITED STATES 36 (1937).

42) LANDIS, supra note 38, at 15.

ランディスの主張が,行政機関と裁判所との関係だけではなく,三権分立理論からする

と「第四部門」である行政過程の正統化に及ぶものであることは,彼が『行政過程』の二

章では行政機関の規則制定権(準立法的権能)の行使について詳述し,三章を訴追権能と

裁決権能の融合にあてていることからも窺える。ランディスは訴追権能と裁決権能の融合

について次のように言う。「柔軟性と専門性のような形質が規則制定の分野において要求

されているなら,増倍された要求があることは裁決の分野においても同様である。」Id. at

98.

43) Id. at 23.

ランディスが expertness という語を用いていることから,ランディスは「専門家性」

といったものを主張していたと言うことは可能であるが,本稿では,後世の整理と,ラン

ディスの言う専門性とは必ずしも専門家の能力に基づくものではないという理解から,

expertness に「専門性」という訳語をあてている。ランディスが expertness という語を

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行政法と官僚制(2)(正木)

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用いることは,ランディスは行政機関の個々の専門家の判断を尊重していたような印象を

与えるが,ランディスに「専門家(expert)」と扱われているのは,実は行政官僚制その

ものなのである。つまりある行政機関が,特定分野の規制の「専門家」であるので,当該

行政機関が expertness を得るという構図が描かれているのである。

44) Id. at 24.

45) Id. at 25-26.

46) Id. at 30.

47) Id. at 33. ランディスはここで,裁判官が法を発見するのではなく創造することを公然

と宣言して,法学者はルビコン川をわたったとしている。続けて,裁判官は当時の思想に

反する経済的社会的意見をあまりに頻繁に有しているという,不信があることを指摘し,

独占禁止法や労働法の分野で,裁判官が批判されたと指摘している。

この批判はルウェリンやフランクを筆頭とする,当時のアメリカのリアリズム法学者が

行ったものであった。ここに,ランディスへのリアリズム法学の影響を見ることができる。

HORWITZ, supra note 22, at 215.

リアリズム法学については,さしあたり,田中英夫「アメリカ法学」碧海純一ほか編

『法学史』(1976,東京大学出版会)277頁以下。

ランディスの伝記によると,ランディスが政府に職を得る以前の1929年頃,若きハー

バード・ロー・スクール教授ランディスはリアリズム法学の陣営から注目されていた。ラ

ンディスの研究は,当時のハーバード大学の中では浮いており,そして,ランディスの関

心は,イェール大学,シカゴ大学,コロンビア大学のリアリズム法学陣営が行っていた作

業に,対応していたのである。リアリズム法学側は,ランディスはハーバード大学にはあ

わないと考え,彼の将来を心配していた。そしてランディスにはコロンビア大学から移籍

の話が持ちかけられたが,ランディスは断ったということである。伝記によると「彼(ラ

ンディス)はハーバード・ロー・スクールの超然的姿勢から完全に逃れることは出来な

かった」。また,フランクファーターも,ランディスがリアリストと結びつくことを妨げ

たという。RITCHIE, supra note 34, at 36-37.

フランクファーター自身は一方でリアリズム法学者とも深くつきあいつつも,他方でリ

アリズムとは対極のパウンドの思想に好意的な考え方を持った人物であると目されるあた

りに,フランクファーターのバランス感覚の一端が窺える。松浦好治「ニュー・ディール

とリーガル・リアリズム」アメリカ法[1997-2]141頁。

ランディスの伝記によれば,「外面的には,フランクファーターはリアリスト達の革新

を評価していたが,個人的にはハーバードをリアリスト達の批判から守る任務を引き受け

ていたのである。」RITCHIE, supra note 34, at 37.

48) LANDIS, supra note 38, at 30-45.

49) Id. at 46.

50) Id. at 152-153.

51) Id, at 141-142.

52) Id. at 154-155.

53) Jaffe, supra note 33, at 1185-1187.

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立命館法学 2005 年1号(299号)

Page 58: 行政法と官僚制(2) - 立命館大学 Hirotake.pdf行政法と官僚制(2) 正木宏長 第二章 専門性と行政法 本章では,官僚制の「専門性」が,行政法においていかなる役割を果た

ランディスが専門性(expertness)の持ち主と考えているのは,行政機関内の専門家達

ではなく,全体としての行政官僚制である。そして,擬人化された行政機関が組織的とし

て expertness を持っているからこそ,「行政機関=事実認定の専門家」「裁判所=法的判

断の専門家」という構図に至るのである。

54) Frug, supra note 33, at 1300-1301.

ジャッフェやフラッグがM・ウェーバー的とする行政観は,スチュワートが,行政機関

が議会意思のトランスミッション・ベルトになると分析した,スチュワートが呼ぶところ

の「伝統的モデル」の行政観と合致する。Richard B. Stewart, The Reformation of

American Administrative Law, 88 HARV. L. REV. 1667, 1675 (1975).

55) Frug, supra note 33, at 1318.

フラッグは,行政学のセルズニックやバーナードの理論を「専門性モデル」の理論に位

置付けている。Id. at 1318 n. 124.

スチュワートは,ニュー・ディールの行政機関の権限委任の拡大の中から「伝統的」モ

デルに代わる「専門性」モデルの行政法が現れたとする。Stewart, supra note 54, at

1676-1678, 1684.

56) WOODROW WILSON, CONSTITUTIONAL GOVERNMENT IN THE UNITED STATES 56-57 (1908).

57) JERRY L. MASHAW, GREED, CHAOS, & GOVERNANCE 6-7 (1997).

58) Jaffe, supra note 33 at 1185-1186. ウィルソンの政治と行政の分断論についてはさしあた

り,手島・前掲注(10)29頁以下。

59) LANDIS, supra note 38, at 66-68, 69.

60) Id. at 75-78. なおこの文脈でランディスが想定していた standards は,「法律による基

準」のようである

61) WILSON, supra note 56 at 60.

62) SHAPIRO, supra note 9, at 62.

63) 大森・前掲注(12)49頁以下。

64) 手島・前掲注(10)104頁以下。もっとも時代の空気として専門性尊重の雰囲気はあっ

たという。辻清明は,1930年代当時を振り返って,ガウズ,ホワイト,ディモックの著作

には「新しい行政とか『専門的行政と民主的統制』といった文字が至るところに躍動して,

T. V. A 賛歌もこれに劣らないという状況でありました」と述べている,辻清明「私の行

政学」年報行政研究17号(1983)1頁,5頁。

65) 大森・前掲注(12)57頁以下。

66) 手島・前掲注(10)86頁。

67) ROSCOE POUND, ADMINISTRATIVE LAW 62 (1942). この記述は,ジャクソニアン的な行政観

を感じさせる。同書の書評として,鵜飼信成「紹介」社会科学研究1号(1948)140頁。

68) Id. at 63-64.

69) LANDIS, supra note 38, at 87.

70) 中川丈久は1941年の行政手続に関する法務総裁委員会の報告書を分析するにあたり,

「ランディスでさえ論じ得なかった行政機関の専門性の欠如という側面に立ち入った記述

さえ見られる」としている,中川・前掲注(37)130頁。

103 ( 103 )

行政法と官僚制(2)(正木)

Page 59: 行政法と官僚制(2) - 立命館大学 Hirotake.pdf行政法と官僚制(2) 正木宏長 第二章 専門性と行政法 本章では,官僚制の「専門性」が,行政法においていかなる役割を果た

しかし,ランディスは行政機関の長の専門性の欠如にはここで見たようにふれている。

さらに,中川は,法務総裁委員会の報告書の分析に際し,「行政機関の専門性の疑義」

を補うものと,被規制者と行政機関の協議・懇談を位置づけるが,中川・前掲注(37)

136頁以下,ランディスは,証券取引委員会が行政調査の一環として会計規則制定の際に

会計士や大学教授との協議(conference)を行ったとして,協議の存在を行政調査との関

連で既に指摘していた。LANDIS, supra note 38, at 41-42.

そして,行政機関が自らのイニシアティブによって行政調査を行うことが,行政過程の,

当事者の主張立証に頼っている司法過程に対する長所であると,ランディスは立論する。

すなわち,ランディスによると,投資分析や産業政策の特定の分野では,行政機関でさえ

も当初は専門性を欠いていた。専門的知識を持つのが一部の人間に限られていたのである。

このようなとき,知識は発見・獲得されなくてはならないが,その目的のためには知識獲

得のイニシアティブ(行政調査権のこと)は処理を遂行する行政組織に与えられなければ

ならない。LANDIS, supra note 38, at 45. 司法過程では,裁判官のイニシアティブによって

調査は行えないので,弁護士の主張立証に任せられてしまうのである。

このような記述から察すると,少なくとも,ランディスが行政機関の専門性が欠如する

状況を全く想定していなかったわけではないと言えそうである。ただ,司法過程と行政過

程の対比の中で相対的に行政機関の専門性が勝ると考えていたのだと思われる。

また,駒村圭吾は,ニュー・ディールの専門性理論を科学信仰に基づくものと位置づけ

る,駒村圭吾『権力分立の諸相』(南窓社,1999)132頁。通俗的なニュー・ディールの専

門性理論の理解に従えばその通りである。ただし,ランディスの専門性理論に限って言え

ば,それは科学のみを根拠にしたものではなかった。むしろ行政機関が一定の規制領域に

専念することで得られる抽象的な専門性(駒村の言葉では「じっくりと腰を落ち着けて」

政策を形成することによる専門性)をも前提としていたと思われる。そして,ランディス

はそれを行政機関の長ではなく組織全体に求めたのである。

71) WALTER GELLHORN, FEDERAL ADMINISTRATIVE PROCEEDINGS 27-28 (1941).

72) Id. at 28-30.

73) フリードリヒ・A・ハイエク(一谷藤一郎・一谷映里子訳)『隷従への道』(東京創元社,

改版,1992)viii 頁。

74) ハイエク・同上,81頁,86頁,101頁。

75) Samuel P. Huntington, The Marasmus of the ICC, 61 YALE. L.J. 467, 501 (1952).

76) Id. at 492-505.

77) Id. at 505-508.

78) MARVER H. BERNSTEIN, REGULATING BUSINESS BY INDEPENDENT COMMISSION (1955).

79) Id. at 74-95.

80) Louis L. Jaffe, The Effective Limits of the Administrative Process, 67 HARV. L. REV. 1105

(1954).

81) Id. at 1106.

82) Id. at 1107-1108.

83) Id. at 1113.

104 ( 104 )

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84) Id. at 1109. ジャッフェの言う動脈硬化理論は,ライフサイクル理論と類似しているが,

特にバーンスティンの影響の下で語られたというわけではないようである。

85) Id. at 1133.

86) Id. at 1333-1334.

87) ジャッフェの司法審査論は,LOUIS L. JAFFE, JUDICIAL CONTROL OF ADMINISTRATIVE ACTION

(1965) で結実するところとなる。

88) Louis B. Schwartz, Legal Restriction of Competition in the Regulated Industries, 67 HARV. L.

REV. 435, 471 (1953).

89) Id. at 473.

90) Id. at 473-474.

91) Id. at 474.

92) ジャッフェは1954年当時,シュウォーツの司法審査の強化論に対して懐疑的であった。

Jaffe, supra note 80, at 1134.

93) SENATE COMM. ON THE JUDICIARY, 86TH CONG., 1ST SESS., REPORT ON REGULATORY AGENCIES TO

THE PRESIDENT-ELECT (Comm. Print 1960). 同書の紹介として参照,塩野宏『行政組織法の

諸問題』(有斐閣,1991)132頁以下。

94) Id. at 11-12.

95) Id. at 70, 71.

96) WALTER GELLHORN, INDIVIDUAL FREEDOM AND GOVERNMENTAL RESTRAINS 10-16 (1956). 同書

には翻訳がある。参照,W・ゲルホーン(鵜飼信成ほか訳)『言論の自由と権力の抑圧』

(岩波書店,1959)。

97) JAFFE, supra note 87, at 25.

98) Thomas W. Merrill, Capture Theory and the Courts, 72 CHI.-KENT L. REV. 1039, 1061-1062

(1997).

99) Charles A. Reich, The New Property 73 YALE L. J. 733 (1964). この論稿を取りあげるもの

としてさしあたり,本多滝夫「アメリカにおける行政手続の展開(1)」名古屋大学法政

論集128号(1989)1頁,7頁以下,同「アメリカにおける社会保障モデルと官僚制」室

井力先生還暦記念論集『現代行政法の理論』(法律文化社,1991)308頁,311頁。

100) Id. at 752.「権利」と「特権」の二分論に従えば,「権利」は憲法によって保護されるが,

「特権」は保護されないのである。「権利」と「特権」の二分論とその否定について,松井

茂記「非刑事手続領域に於ける手続的デュー・プロセス理論の展開(1)(2)(3)(4)

(5)」法学論叢106巻4号(1980)21頁,106巻6号44頁,107巻1号72頁,107巻4号62頁,

107巻6号20頁,牛嶋仁「合衆国における公正な行政手続(1)(2)」法学新報99巻9,10

号(1993)267頁,11,12号225頁,大浜啓吉「アメリカにおける行政手続」早稲田政治経

済学雑誌332号(1997)49頁。

101) Id. at 787.

102) Id. at 783-784

103) KENNETH CULP DAVIS, DISCRETIONARY JUSTICE : A PRELIMINARY INQUIRY 186 (1969).

104) Id. at 175-176.

105 ( 105 )

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105) Louis Jaffe, Invective and Investigation in Administrative Law, 52 HARV. L. REV. 1201, 1226

(1939).

106) GELLHORN, supra note 71, at 61

107) Id. at 67-68. このような記述は行政手続に関する法務総裁委員会の報告書にも見られる。

FINAL REPORT OF ATTORNEY GENERAL'S COMMITTEE ON ADMINISTRATIVE PROCEDURE, S.DOC. NO. 8,

77TH CONG., 38-39 (1st Sess. 1941).

108) PETER WOLL, ADMINISTRATIVE LAW 145 (1963). 同書を紹介するものとして,園部逸夫

『行政手続の法理』(有斐閣,1969)132頁以下。また,同書の第2章「正式行政手続の中

の簡略手続」は,Peter Woll, The Development of Shortened Procedure in American

Administrative Law, 45 CORNELL L. Q. 56 (1959). に加筆修正して採録したものである。The

Development of Shortened Procedure in American Administrative Law については,次の

論稿が取り上げている。小高剛「行政過程における正式手続の排除及び制限について」立

命館法学63・64号(1965)23頁,25頁以下。

109) 354 F. 2d 608 (2d Cir. 1965).

110) 359 F. 2d 994 (D. C. Cir 1966).

111) Id. at 1003-1004.

112) 397 U. S. 150 (1970). この時期の原告適格論の展開についてこれ以上の詳述はしない。

アメリカ行政法の原告適格論について紹介する文献は多いので,詳しくはそちらを参照さ

れたい。例えば,藤谷正博『アメリカ行政法の研究』(御茶の水書房,1986),雄川一郎

『行政争訟の理論』(有斐閣,1986)287頁以下,古城誠「アメリカにおける競業者の原告

適格」塩野宏先生古稀記念『行政法の発展と変革 下巻』(有斐閣,2004)89頁,安本典

夫「アメリカ連邦行政訴訟における原告適格(1)(2)」民商法雑誌63巻6号(1971)

(861頁,64巻1号52頁,藤田泰宏「アメリカ合衆国における行政訴訟原告適格の法理」訟

務月報19巻5号(1973)59頁,同「原告適格に関するアメリカ判例法の展開」公法研究37

号(1975)140頁,金子正史「アメリカ合衆国における行政事件訴訟の原告適格」獨協法

学6号(1975)113頁,蔡秀卿「アメリカ行政訴訟の原告適格法理の展望」名古屋大学法

制論集168号(1997)1頁。

113) 397 U. S. 254 (1970).

114) 401 U. S. 402 (1971). この判決について,武田真一郎「政策決定と司法審査」塩野宏先

生古稀記念『行政法の発展と変革 下巻』(有斐閣,2001)199頁。

115) 裁決から規則制定への転換については,古城誠「規則制定と行政手続法(APA)」藤倉

皓一郎編『英米法論集』(東京大学出版会,1987)223頁,紙野健二「アメリカにおける規

則制定の法的コントロール」法政論集80号(1979)166頁,185頁以下,大浜啓吉「アメリ

カにおけるルールメイキングの構造と展開(2)」自治研究62巻12号(1986)107頁,121

頁以下。

116) JOSEPH L. SAX, DEFENDING THE ENVIRONMENT (1971). 本書には翻訳がある。J. L. サックス

(山川洋一郎ほか訳)『環境の保護』(岩波書店,1974)。

117) Id. at 108.

118) Id. at 108-110.

106 ( 106 )

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119) Id. at 110.

120) Id. at 104.

121) Id. at xvii

122) Id. at xviii

123) Id. at xviii-xix.

124) Ernest Gellhorn, Public Participation in Administrative Proceedings, 81 YALE L. J. 359, 361

(1972). 同書の書評として熊本信夫「紹介」アメリカ法[1976-1]78頁。

125) Id. at 393-394.

126) James O. Freedman, Expertise and Administrative Process, 28 ADMIN. L. REV. 363, 371

(1976).

127) James M. Landis, The Administrative Process, 47 A. B. A. J. 135, 136 (1961).

128) Harold J. Laski, The Limitations of the Expert, 162 Harper's Magazine 101 (December

1930), reprinted in WALTER GELLHORN, ADMINISTRATIVE LAW : CASES AND COMMENTS 60, 61 (2d

ed. 1947).

129) Id. at 61-68.

130) Id. at 61.

131) Freedman, supra note 126, at 376 (1976).

132) R・K・マートン(森東吾ほか訳)『社会理論と社会構造』(みすず書房,1961)179頁以

下。

マートンは公的官僚制内の知識人の役割についても検討している。それによると,官僚

制内の知識人は,政策決定に参加できるが,領域を限定されるので,活動範囲を狭められ

る。官僚制外の知識人にはそのような制約はないが,反面,政策決定者に意見がとりあげ

られることはない。また,公的官僚制内の知識人は,自分の意見が無視されたり,専門外

の仕事をさせられるという,政策決定者の価値との葛藤や,政策決定者と意思疎通がうま

くできなかったり,中間の人々によって骨抜きにされるという,官僚制組織から生じる欲

求不満を経験するとのことである。マートン・前掲『社会理論と社会構造』190頁以下。

マートンの主張は,フランクファーターが唱えた行政機関内の個々の専門家の能力を

ベースにする専門性理論への批判論となりうるだろう。

133) PHILIP SELZNICK, TVA AND THE GRASS ROOTS 250-261 (1949).

134) ALVIN W. GOULDNER, PATTERNS OF INDUSTRIAL BUREAUCRACY 215-222 (1954). 同書には翻訳

がある。A・W・ゴールドナー(岡本秀昭=塩原勉編訳)『産業における官僚制』(みすず

書房,1963)。

135) Id. at 223-228. 懲罰的官僚制では,マネジメントを担当する「真性官僚」と従属する専

門家との間で緊張が生じるのである。

136) Id. at 219.

137) MICHEL CROZIER, THE BUREAUCRATIC PHENOMENON 187 (1964).

138) Id. at 193.

139) Id. at 194.

140) WILLIAM A. NISKANEN, JR., BUREAUCRACY AND REPRESENTATIVE GOVERNMENT 81 (1971).

107 ( 107 )

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141) SHAPIRO, supra note 9 at 66, 179 n. 6.

142) Merrill, supra note 97, at 1050.

143) この時期のアメリカ行政学の動向について,これ以上の詳述はしないが,行政学の文献

として参照,牧原出「官僚制理論」西尾勝=村松岐夫編『講座 行政学 一巻』(有斐閣,

1994)261頁,268頁以下。

144) SHAPIRO, supra note 9 at 68.

145) Id. at 68-70.

146) LANDIS, supra note 38, at 23-24.

147) ALFRED C. AMAN, JR, ADMINISTRATIVE LAW IN A GLOBAL ERA 27 (1992).

148) Id. at 167 n. 129.

149) Clean Air Amendments of 1970, §111(a)(1), 42 U. S. C. §1857c-6(a)(1)(1976).

150) 37 Fed. Reg. 5768-69 (1972).

この石炭火力発電のエピソードは B・A・アッカマンとハスラーの研究による。アッカ

マンとハスラーの研究によると,当時,スクラバーはまだ普及しておらず,企業にとって

は,導入に高いコストがかかるうえ,高硫黄の石炭から低硫黄の石炭へ転換することで,

企業は排出基準を達成可能であったので,スクラバーの導入は進まなかったようである。

BRUCE A. ACKERMAN & WILLIAM T. HASSLER, CLEAN COAL/DIRTY AIR 13-23 (1981). また,こ

の事案は裁判でも争われた。Sierra Club v. Costle, 657 F. 2d 298 (D. C. Cir. 1981).

151) Richard B. Stewart, Regulation, Innovation, and Administrative Law, CAL. L. REV.

1297-1301 (1281).

152) 却下判決であるが,上に挙げた石炭火力発電所の排出規制に関連する訴訟として,

Navaho Tribe v. Train, 515 F. 2d 654 (D. C. Cir. 1975). がある。

判決によると,原告は,裁判所がより強力な新規施設基準を行政機関に課すことを求め

て出訴していたが,原審は訴訟要件の欠如を理由に却下判決を下した。上訴をうけたコロ

ンビア特別区連邦控訴裁判所は,空気清浄法304条の通常訴訟については出訴期間の経過

を,空気清浄法307条の市民訴訟については地方裁判所は市民訴訟の管轄外であることな

どを理由に,上訴棄却判決を下した。

この判決では,環境保護庁の規則についての実体判断は行われなかったが,訴訟のルー

トは開かれていたのである。

153) 「プロフェッション」とは何かについての社会学的な議論はあるようだが,石村善助

『現代のプロフェッション』(至誠堂,1969)17頁以下,本稿での用法は通俗的な用例に

従っている。プロフェッションと行政との関係について,例えば,西尾隆「公務員制とプ

ロフェッショナリズム」公務研究1巻1号(1998)36頁。

154) 例えば,Louis Jaffe, Law Making by Private Groups, 51 HARV. L. REV. 201 (1937).

155) GELLHORN, supra note 96, at 106-112.

156) Id. at 112-118.

157) Id. at 125-140.

158) Id. at 140.

159) Id. at 141.

108 ( 108 )

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160) Id. at 144. 後年,W・ゲルホーンは職業免許の問題を再論している。Walter Gellhorn,

The Abuse of Occupational Licensing, 44 U. CHI. L. REV. 6 (1976).

161) MILTON FRIEDMAN, CAPITALISM & FREEDOM 144 (1962). 同書には翻訳がある。M・フリー

ドマン(熊谷尚夫ほか訳)『資本主義と自由』(マグロウヒル好学社,1975)。

162) Id. at 144-149.

163) Id. at 149-158. この点で M・フリードマンの主張は,W・ゲルホーンの主張よりも,過

激なものとなっている。W・ゲルホーンは,理容師や看護婦に至るまでの行きすぎた免許

制を嘆いて,職業人のための免許制か大多数の公衆のための免許制かという問題提示をし

たのだが,医師免許のような典型的プロフェッションにまで,議論を拡大することはしな

かった。また,免許委員会に代わる行政機関の創設を念頭に置いていたという点で,M・

フリードマンほど行政の役割を制限していなかったのである。GELLHORN, supra note 96, at

144-151.

164) FRIEDMAN, supra note 161, at 148.

165) 411 U. S. 564 (1973).

166) 440 U. S. 1 (1979).

167) RONALD A. CASS ET AL., ADMINISTRATIVE LAW ; CASES AND MATERIALS 640-641 (4th ed. 2002).

* 本稿は,北海道大学審査 博士(法学)学位論文(2004年12月24日授与)に

補筆したものである

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