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、」

江戸時代における被差別部落の農民層分解

…河内国更池村南方および和泉国南王子村を中心として-

寺木伸明

はじめに

最近における部落解放運動の高まりにともなっ

て、近世に関する部落関係史料の公開・I:'1行か積

極的に行なわれるようになり、科学的な被差別部落史研究の発展に大きな刺激を与えていること

は、周知のことである。これらの史料集は、たと

えば近世部落は、歪i)耕地を保有していなかったとか、あるいはたとえ保有していたとしても、租税負担がなかったとかいう、現在なお行なわれて

いる見解を、事実でもって反駁している。もっと(2)

も、それらの謬説に対しては、つとに渡辺広氏の実証的批判があったのだが。

(3)

本稿は、論を一歩進めて、主として『奥田家文

書』、『河内国更池村文書』に拠りつつ、被差別部落の土地保有状態および農民層分解過程の特徴を

明らかにしようとするものである。つまり、部落の土地保有状態は、他村に比べてどのような特徴をもっていたか(部落差別が、土地保有にどのよ

うな影響を与えていたか)、また商品生産の発展

による階層柵成の変化が、他村の変化と比べて、

どのような特徴をもったかという点を多少とも明

らかにすることが、ここでの課題である。

太郎監修『日本史小辞典』(111川出版社、1972年

12月、初版1957年5月)である。なお、その主張

に対しては、初版が出された直後に、渡辺広氏が

’リj快な批判を加えておられた(『部落間脳研究』

創刊号所救の「未解放部落の成立をめぐる学界の動向」、1957年10月)。

(3)「近世におけるカワタの土地所有について」(『日本史研究』32号、1957年5月)

1.分析対象地域の概況

ここで主としてとりあげるのは、河内国丹北郡

更池村南方と和泉国泉郡南王子村の2つの被差別部落である。両部落とも、近世においては、農村部

(1)

落としての特徴をもっていた。前者については、すでに1594(文禄3)年の「河内国丹北郡布忍郷内

更池村御検地帳」に、後述するように「かわた」と注記された農民20数人の名前が出ている。さら

(2)

に1644(寛永21)年の「河州丹北郡之内更地村家数人数万改帳」には、「更池村内河田」と記され

(3)

るにいたり、家数48粁の内訳けの記し方も、「拾

壱軒御役家壱軒寺三拾六粁穂多」とい

うふうになり、明らかに集団として、差堂iきれて●●●●●

いた。1660(万治3)年には宗門改帳が、「河クトl丹北郡更池村河原宗旨御改帳」というように、本

(5)

村の帳簿とは別になっている。なお、1659(万治2)年以降、南方ではすべて浄土真宗の門徒となっていて、すでに宗教上の統制も加わっていたこ

とに注目しておきたい(第1表参照)。また、江戸初期においては、部落の呼称として、「かわた」、「河田」、「穂多」、「河原」などが混用されてい

て、まだ「えた」と統一されていたい点も注目さ

れる。宗門改帳については、1670(寛文10)年の、のが、「更池村内職多宗旨御改帳」となってい

(6)

注(1)たとえば、次のものがあげられる。播磨国皮多村文書研究会編『播磨国皮多村文書』部落問題研究

所、1969年9月。奥田家文書研究会編『奥田家文

書』大阪府同和事業促進協議会・大阪部落解放研

究所、1969年3月(現在、第10巻まで刊行)。兵

庫県部落史研究委員会編『兵庫県同和教育関係史

料集』兵庫県教育委員会、1972年3月(現在、第3

巻まで刊行)。更池村文書研究会編『河内国更地

村文書』第1巻、部落解放研究所、1971年10月(現在、第2巻まで刊行)。

(2)租税負担がなかったことを述べているのは、坂本

38-

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il:川1#代における被差別部落の農民層分解

第1表更池村本村及び南方の宗旨別人数表

--------T-------~一一------村南方

|浄土真宗253人(ノj寅寺・金福寺.福宣寺)-------'-------一一一一一

すう昨`人|浄土真宗川人(〃)

(fj治3)-----------------

m鐘要i〃蟻?沖叺

A口溌iill川ハ願T露孵W ̄lm-l-i事士鷆,2人,-

ポル肌(元禄5) 一

不一赤

肌言

大真

一不一不一不

填飢言

浄大真

1859

(安政6)91人

5〃

13〃 |川へ1861

(万廷2)浄土真宗1153人(称名寺)

1869

(明治2)

壱不一不一示

鎮飢言

浄大真

65人

4〃

12〃

人1

1111ノ

浄土真宗1057人( ) 〃

(注)『更池村文書』所載の「宗旨改帳」、「河原宗旨改帳」、「宗門・五人組・人別改帳」などによる。

って、南方は、「水はけの悪い湿田地帯」であっ

たとされている。他方、南王子村村高は、171306)

(正徳3)年、143.133石であった。その年の田(17)

畑の構成は、田方8町5反1畝13歩、畑方2反4

畝23歩で圧倒的に田地の方が多かった。この田地

の等級別の面積をみると、上田5町6反3畝14歩

(全田地の66.2%)、中田2町3反3畝16歩(同

27.4%)、下田5反4畝13歩(同6.3%)となっ

ていた。両部落の出作分を除外して考えたぱあ(18)

い、更池村南方については、農業耕作にはやや不

利な土地条件であったが、南玉子村に関しては、

田畑の構成、耕地の等級においては、ややめぐま

れた条件であったといえよう。しかし、この南王

子村も、水利については、よくなかったようであ

る。たとえば、1831(天保2)年の村明細帳には

「当村之儀ハ、元来旱損所二御座候、三四日茂照続

候得者、一ケ所之溜池抜払候、其上汲上ケ候井戸

・淵等者無御座、用水無之候」と書かれている。(19)

39-

る。ただし、幕末の帳簿は、「河田宗門・五人組

・人別改帳」となっている。(7)

後者の南玉子村については、1604(慶長9)年

の「泉州泉郡信太郷かわた村御指出」があり、江(8)

戸開府一年後にして「かわた村」として存在して

いたことが判明する。1679(延宝7)年の「和泉(9)

国泉郡王子村検地帳」には、南王子村村民につい

ては「皮多」の肩書きがあり、「械多屋敷」、「糠(10)(11)

多村」の記戟もみられる。以上のことから、この(12)

2部落の成立は、けっして元禄一享保期などでは

なく、江戸初頭以前にまでさかのぼれることが推

測できる。だが、部落差別政策が、近世封建権力に(13)

よって、系統的、法制的に強行されるようになっ

たのは、おそらく寛文一延宝期ごろからだと思わ

れる。(14)

ところで、更池村村高は、1772年の段階で、13

9.022石で、うち20.747石のみが南方の持高であ

った。しかも、森杉夫氏によれば、本村とはちが(15)

、土山

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、、

とある。これは、liill:、|の4学lI1j也の約41%にあた

る。1843年の(1)のにも、「木綿、村高;」ノリ歩jil]i仕

候」とある。この'リ]細'帳では、南力についての詳(26)

しいことはわからないが、ある稗度、木綿づくり

をしていたことであろう。1打」i子村では、はっき

りしている。1799イ「の「lMl1諸作毛揃帳」による

と、田方木綿作は、31}1J1反2畝で、全111地の約

23%となる。1833年の村明細帳には、「'11方稲作(27)

六歩通、木綿作四歩通り程植付申候」とある。両(28)

部落において、実際どの程度の商業的農業か1丁を

われていたかは、今後の研究にまたなければなら

ないが、当地域も、進んだ商品経済の彼にまきこ

まれていたことだけは確実である。

畑地での木綿作り、裏作での菜種づくりも、少

しではあれ行なわれていたし、他地域と同じよう(29)

に、南玉子村でも、1790年の村明細帳に土地の質

入れ値段(事実上の売価)が記されるにいたり、(30)

土地そのものがく商品イヒしていたことが窺える。

当時幕藩領主によって土地売買が禁止されていた

ので、質入れ、質流れというかたちをとって、事

実上の土地売買が行なわれ、基本的にはこれが農

民層の階層構成を変化させていったのである。

注(1)更池村南方に関しては、『河内国更池村文書』の

史料解題というかたちではあるが、きわめてM1潔

にして要を得た山口之夫氏の研究報告「『河内国

更池村文書』の史料解題」(『部落解放』第31号、

1972年9月)、および森杉夫氏の「近世未解放部

落の成立と生活」(『部落解放』第21号、1971年12

月)などがある。南王子村については、浅野安隆

「近世未解放部落成立の一過程」(『部落問題研

究』第11輯、1962年5月)、森杉夫「近世未解放村

落の貢租」(『日本歴史』第259号、1969年12月)、

同前掲『部落解放』21号所載論文、同「天明の千

原騒動(上・下)」(「部落解放』第6号、1970年

1月および第8号、1970年6月)、同「天明期の百

姓一摸」(『社会科学論集』創刊号、1970年3月)

などがある。また、南王子村の人口変動を詳細に

分析した生瀬克己氏の「近世後期に於ける被差別

部落の人口変動について」(『経済学雑誌」第63巻

第6号、1970年12月)がある。

(2)注(1)の山口之夫論文、143ページ。

(3)『河内国更池村文書』(以下、『更地村文書』と

略記する)第1巻、45ページ。

(4)同、51ページ。

ところで、iilii部蕗ともに、次にみるように、出作

高が多かったから、その分!)含めて考えたいと、

田畑柵成の割合や十・地の優劣状態などにおいて、

両部落と他村との鑑というのは、はっきりしない

のである。しかし、残念なことに、今のところ、両

部落とも、その出作分の|Ⅱ畑構成や等級について

は史料の制約により明らかにできなかった。持高

別階層構成についての他村との比較については、

行論上の都合で、次節で述べることになる。

次に出作についてみよう。両部落とも、のちに

みるように他の部落と同様に、江戸期を通じて人

口増をみたことにも関連し、人口の多いわりに

は、村内の持高が少なかったので、いきおい他村

への出作がいちじるしく多くならざるをえなかっ

た。1831(天保2)年の南玉子村の明細帳は、次

のように述べている。

「当村之儀者、拾石以上之百姓無之、元来小御

高、追々人家弥増、近村御領知村々御他領

二至迄、出作仕罷有候」(20)

まず、更池村南方についていえば、村内の持高

を若干増やすとともに(1772年-20.747石、1843

年-27.669石、1872年-37.855石)、1862年には、(21)

数か村にわたって256.921石も出作していた。こ

の年の本村の出作高が、64.4878石であったのと

比べると、いかに出作高が多かったかがわかるで

あろう。南玉子村も、すでに1773年、5か村にわ(22)

たって263.029石も出作し、さらに1833年になる

と、7か村にわたって501.166石も出作してい

た。この出作高は、村高の3倍半にも達する。恐(23)

らく江戸中・後)切に増えてくるイ也村の手余り地を

出作するというかたちで、出作高を増やしていっ

たものと思われる。いずれにせよ、このような状

態であることによりとくに部落の階層樹成の変化

を分析するばあいには、出作高も含めなければ、

不十分なものとなることに注意しておかなければ

ならない。

また、両部落は、当時の先進地域といわれた河

内、和泉にあったため、当然、商業的農業、商品経

済の波にあらわれていた。畿内先進地域の他の村

々と同じように、油かす、干鰯などの金肥を投入

し、農業生産力をあげていたようである。木綿作(24)

もかなり行なわれていたようである。1705年更池

村明細帳によると、「田方二木綿四町程も蒔申候」(25)

-I

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江戸時代における被差別部落の農民層分解

(5)「更池村文書」、54ページヮ

(6)同、81ページ。

(7)同、321,400,479,557,632,706,790,864,

939ページ。

(8)『奥田家文書』第7巻、685~7ページ。

(9)前掲の浅野安隆氏の論文によると、南玉子村村民

の先祖は、信太郷八か村の氏神である聖神社の隷

属民であって、のち、中世末~近世にかけて農民

化していったものと推測されている(32ページ)。

部落の成立史にとっては、示唆深い指摘であると

思う。この中世の隷属民が、いつ「かわた」身分

とされたかが重要な点であるか、今のところ、つ

まびらかでない。

Ⅲ『奥田家文書』第7巻、745,747,748ページ。

⑪同、752ページ。

(12同、751ページ。

⑬被差別部落の成立期をめぐって、部落史研究者の

あいだで、現在、活発な意見がかわされている。

たとえば、落合重信氏は、部落の成立を戦国期以

前に求めようとされているようにみうけられるし

(同氏箸『未解放部落の起源』、神戸学術出版、

1973年11月)、森杉夫氏(前掲の「近世未解放部

落の成立と生活」)、三浦圭一氏(「近世未解放部落

成立期の基本問題」、『歴史評論』261号、1972年

4月)、脇田修氏(「近世封建制と部落の成立」、

『部落問題研究』第33輯、1972年5月)らは、近

世封建制成立期(とくに豊臣政権の時期)に、成立

を求めようとされている。また、兵庫県部落史研

究委員会編『人権の歴史』上(1972年12月)では、

江戸時代前期の寛文一延宝期が成立の画期とされ

ている。筆者は、部落の成立を太閤検地実施期に

求める森杉夫氏らの見解に基本的に賛成である

が、その点については、いずれ稿を改めて考えて

みたい。

(1Jたとえば、前掲『人権の歴史』上でも、1671(寛

文11)年、幕府領宗門改めに際し、宗門帳を別冊

につくることを命じていること、延宝検地の段階

で、「皮多」高は、引き分けて田畑・屋敷地を別

帳にすることを命じたり、新しく単独の「皮多村

検地帳」を作成させたり、あるいは帳末に「かわ

た分」としてまとめて記載したことなどを重視し

ている(42ページ)。しかし筆者は、これらをも

って、部落成立の画期とはみなしえず、差別の強

化、部落の確立の契機とみなしたい。

q0r更池村文書』第1巻、14ページ。

⑱森氏前掲論文「近世未解放部落の成立と生活」178

ページ。

(17W奥田家文書」第1巻、1ページ。

(13同上

U9同、第1巻、25ページ。

CO同、34ページ。

⑪「更地村文書』第1巻、14,24,36ページ。

⑪111口之夫氏前掲論文、145ページの表2参照。

G3森氏前掲論文「近世未解放部落の成立と生活」

185ページ。

例『更池村文書』第1巻、2ページ。『奥田家文書」

第1巻、29ページ。

鯛『更地村文書』第1巻、2ページ。

CO同、第1巻、26ページ。

CD『奥田家文書」第9巻、539~40ページ。

CO同、第1巻、41ページ。

閲同上、および『更池村文書』第1巻、7ページ。

00『奥田家文書』第1巻、21ページo

2.河内国更池村南方における農民層分解過程と

その特徴

『更池村文書』(第1巻)には、本村および南

方(被差別部落)の戸数・人口・持高がわかる史

料が収められているので、家数・人口・階層構成

の変動における、本村と部落との比較が可能であ

る。そこで、まず、戸数・人口の変動についてみ

ていきたい。

第2表は、検地帳、家数人別改帳、村明細帳、

宗旨改帳などを利用して、戸数と人口の変動ぶり

を整理したものである。それによれば、1594(文

禄3)年、本村17戸、南方(「かわた」とよばれ

ていた)28戸であったものが、半世紀のちの1644

(寛永21)年では、本村12戸(65人)、南方36戸

(151人)と変化しており、本村は5戸減少し、

南方は8戸増加している。

そこで、まず江戸初期から明治初年にいたるま

での両村の戸数・人口変動を概観しておくと、18

72(明治5)年には、1644年に比べて本村の方は

戸数で1.83倍(人口で1.34倍)、南方の方は戸数

で6.06倍(人口で7.05倍)増えている。南方の方

が、本村に比べていかに急速な戸数・人口増を示

しているか、一目瞭然であろう。この変動ぶりを

もう少し細部にわたって観察してみよう。1661

(寛文1)年、本村16戸(64人)、南方53戸(21

3人)で、1644年に比べてともに増加している。

-41

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第2表更池村本村及び南方の戸数・人口変動表

ノブ一△、一一一

一I「|訓’’’’一

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28’137

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27 144

川四一胆妬一冊Ⅲ|MⅣ一帖

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30 154

168 33

8-1-2

J・0-0

177 35

丙、Z8 29 33

川Ⅷ一川Ⅱ河

97 512

111

艸陣一伽荊砺迦Ⅲ

37 181 45 626 66

3-8 雨I耐188 41 800 56

肥一掬一死一死一肥

【】

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150 R LJ

172 47 887 23 125

109 24 8 |’

 ̄--

1153 -- ̄

Ⅲ艇一川越Ⅲ

168

当富229 199 30

230 22 99 30 200 1150

586 21 30 198 228 1116 88

肥一晩一W

30 197 20 85 227 1090

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『【「】

一冊一妬一M|門一別’

三別一四一加一Ⅲ|Ⅲ

58§ 必治耐

192 30 222 1094

【】

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30 199 229 1104 汎」弧

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193 30 1103 p-

1057

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【】→【為し869

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30 220 MⅡ|ⅢⅡ|剛Ⅲ

mHJPlnHu 二+二

3011881218 1064

【】

(注) 1594年……本村は、前掲森杉夫論文「近世未解放部落の成立と生活」第1表、P178.

南方は、前掲山口之夫論文「『河内国更池村文書』の史料解題」表1,P143.1644年……「家数・人数万改帳」による。

1660年以降……村明細帳、宗旨改帳などによる。1715年……前掲山口論文、表3、P147による。

山口之夫氏の表3(P147)とくらべて、若干異同が生じたのは、本表では、寺(僧侶)も高持であったので、戸数、人口に加えて計算したためである。

その後、1705(宝永2)年まで南方の戸数・人口

は、不明であるが、本村の方をみると、1671年23

戸(108人)、1700年27戸(150人)というように、

ほぼ順調に戸数・人口とも増えている。1705年、本

村29戸、南方72戸となっているので、南方でも1661

年以降も順調に増えていたことがわかる。1644年

-42-

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江戸時代における被差別部落の農民層分解一ザー----つ ̄-。◆。-一一一●-。●--C●句'。-一一一一一●=---■ ̄●白■■。 ̄-●△‐■ ̄二-口---P-。BcS■●

口が停滞している。

以上のことから、江戸時代における更池村本村

と南方との戸数・人口変動の率に最大の変化を与

えた時期は、だいたい1772-1863年の約90年間で

あったと結論することができる。(1)

次に、この両村の戸数の変動の内容を、高持と

無高とに分けてみてみよう。まず高持についてみ

れば、1644年以降、本村では一貫して減少し(16

44年12戸→1772年8戸→1872年7戸)、南方では

1705-72年に増加するが、それ以降減少し、幕末

・維新期は全く不変である(1644年36戸→1772年

56戸→1872年30戸)。両村とも、幕末・維新期は、

江戸前・中期に比べて減少している。したがっ

て、両村とも、江戸初期からの人口増は無高層の

増加によってもたらされたものであることが判りj

する。南方で人口が急増する1772-1863年におい

ても高持は56戸→30戸に減少しているのであるか

ら、その間いかに無高層が激増したかが窺えるで

あろう。この南方の人口増はここでもやはり、主(2)

として自然増であったと思われる。第3表は、18

62年から1869年までの更池村本村および南方の人

口増減の内訳けを整理したものであるが、人口変

動がもっと激しい時期であった1772-1858年まで

の人口増減の内訳けを、史料的制約により明らか

にすることができなかった。そのため、ここでの

分析結果が、そのまま1772-1858年の時期にあて

より1705年にいたるまでの)1数につv1てみると、

本村では2.4倍、南ノノでは2.0Iilf増えている。

江戸中期の1746(延享3)イ'三になると、ノM137

戸(181人)、南方111戸(626人ノとを|)、1705年

にくらべて、本村の戸数は27.M〉増、南方の戸数

は54.2%増と、約40年間に南ノjは本村の2倍の増

加率を示すにいたる。

ところで、本村は1772(明和9)年41戸(188

人)となり、江戸初期から明治初年にいたるまで

の戸数・人口のピークをなし、以後減少の一途を

たどり、1863(文久3)年21戸(88人)となって

しまい、ピーク時の半数にまで落ち込み、それ以

降停滞している。南方はといえば、本村が減少の

一途をたどっていた時期に、反対に急速に増え続

け、1862(文久2)年には230戸(1150人)に膨張

し(1741年に比べて戸数は65.5%増、人口は43.8

%増)、それ以降本村と同様に停滞現象を示して

いる。

これら両村における戸数・人口変動の特徴をま

とめておくと、(1)1644年から1705年までは、戸数

の増加率については本村の方がやや高く、(2)1705

年から1772年においては、南方の方が、戸数で本

村よりも約1.4倍の高率を示すようにたり、(3)1772

年から1863年までは、本村は戸数・人口とも約半

減するのに対して、南方では逆に約倍増する。(4)

1864年から72年までは、本村南方ともに戸数・人

第3表更池村本村及び南方の人口増減の内訳け表

方村 南本

増 減差引

出生l来人|計|死去|他出|計 Ⅲ三I」上

1862

(文久2)

÷|芸

6-7’4-4|皿一m一、|別

側一別一Ⅲ|胡一仏一妬一別一川

3’0’2’2’0’0’1-8

0l8l3l4l1l1-2l岨

1863

(〃3)0

1864

(〃4)

÷|量ロ

1865

(元治2)1866

(慶応2)

4l8l3

1868

(〃4)R L」

1869

(明治2)91-46

計 401-18 441-1(】Ⅲ

(注) 「宗門 ・人別奥〆帳」、「河田宗門・五人組・人別改帳」による。

-43-

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-■。●⑰◆-マーcG--- ̄一一勺一一一一一一一一一一可一一一一一一●-- ̄--●-- ̄ロ、● ̄ヨー-勺~● ̄

とも来人よりM1生の占める率の方が、大きい、

(2)本村では来人よりも他出の方が多いのに対し

て、南方ではその逆になっている、(3)その来人の

うち、婚姻や養子関係で入ってきたものを除く来

人(いわゆる社会的流入人口)については本村よ

りも南方の方が多い、ということである。これを

要するに、南方の人口増は、主として出生にもと

づく自然増であるとはいえ、流入人口の増大も、

無視できない要因となっていたと推測される。(3)

次に、更池村本村および南方の農民の階層椛成

の変化についてみてみよう(第5表参照)。現在

のところ、史料的制約により、南方の元禄期およ

び幕末・維新期の持高別階層構成表を作成するこ

とができなかった。1705年以降は、第2表に記さ

れているように、高持と無高の数については知り

うるので、それを参考にして考えていきたい。

1594(文禄3)年の検地帳によれば、5~20石

の中農層が、本村では全農家の11.8%、南方では

32.1%を占めている。5石未満の貧農層が、それ

ぞれ全農家の82.4%、同64.4%と、全農家の大半

を占めている。1石未満の極貧層についてみて

も、本村が、全戸数の47.1%、南方が全戸数の17.

9%たっている。持高別の階層構成の面からみる

かぎり、むしろ南方の方が恵まれた条件にあった

はまるかどうかは確言できないことをことわって

おかねばならない。

本村、南方ともに人口増では米人よりも1M剃り

方が、大きなウエートを占めており、それはとり

わけ南方においてはなはだしい。一方、人口減で

は、本村においては死去(19人)よりも他出(21

人)の方が上まわっているのに対し、南方におい

ては死去(299人)の方が他出(45人)に比べて

圧倒的に多い。

ところで、来人と他出の差をみると、本村では

マイナス13人であるのに対して、南方ではプラス

9人となっている。この来人・他出のうちの婚姻

・養子を除く来人・他出(主として他村から引っ

越してきた者あるいは引っ越していった者および

借家・下人・年季奉公人として流入あるいは流出

したと思われる者)を整理してみると、第4表の

ようになる。来人については、本村4人、南方22

人となり断然南方の方が多い。それら来人と他出

の差をみると、本村2人、南方16人となり、南方

の方がやはり多い。つまり本村では年平均0.3人

の割合で、また南方では同2.3人の割合で社会増

(婚姻・養子関係を除く、いわゆる流入人口の増

加)があったことになる。以上の簡単な検討をと

おしていえることは、(1)人口増については両地区

と思われる。この年の

出作分も含めた1戸当

り平均持高を算定して

も、本村6.544石、南

方8.423石となって、

この時期においては、

土地保有上の差別はみ

られないようである。

この点については、落

合重信氏も、慶長期の

摂津国の2部落につい

て「1戸数の持高が一

般に想像されているほ

ど低くたいことを知る

のである」と述べてお(4)

られることとも考えあ

わせると、大変興味深

い。

ところが、1644(寛

永21)年になると、本

第4表更池村本村及び南方の来人・他出(婚姻・養子を除く)人数表

13mⅡ普家 魁l{昔家I2Mll昔琢

沮lf丁.l鼠l弓fγl注 ゲl住El]1.15.1隼

可【】【

剛]剛淵

(注) 「宗門・人別奥〆帳」、「河田宗門・五人組・人別改帳」による。

44

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lL1:}J時代における被差別部落の農民層分解

第5表更池村本村および南方の階層構成変化表

(1)本村のばあい

D)年・戸羽守門可IIS

形i右1兇

J治

90

lU6

[lOlO-OOU X]

、0.0189.301110〔

067沼19.9Wイ

年代一b■早

●-

-----~ 届

----

階1859(安政6)1704(元禄17) 1870(明治3)

TlT 丁TT5T石T万一AlBlClD AlB

15MO零'87.6%’1戸’4.3%9M7$1618% 形

20石以上 5.8

5~20石147.300132.3 11.4 15.14118.51114.3

6.64513.913113.0 1~5石17.65815.2 11.4

1石未満11.04210.7 0.00010.01010.0 2.9

無 高’0.00010.0 0.00010.0118178.4 68.5

絶 計1146.7781100.0 100.0 176.2921100.01231100.0

山 作13.981石 出作分も含めた数値 出作分も含めた数値

(2)南方のばあい

(注)1594年……本村は、前掲森杉夫蹟文第1

表(P178)による。

南方は、前掲山口之夫論文

表1(P143)による。

1644年..…・本村、南方ともに「家数・人

数万改根」による。

1690,1704,1859,1870年…・・・「宗門・

五人組・人別改根J、「五人組

高前帳」による。

引筋

恋lqOOij

)( u【

DC 10-1 IlI1

)6.121沼 j4f

-45-

A B C , A B C ,

20石以上石

20.021 15.4 %

1 戸

3.5 形 石

0.000 0.0 形

0 戸

0.0 分

5~20石 73.139 56.4 9 32.1 0.000 0.0 0 0.0

1~5石 35.079 27.0 13 46.5 5.078 40.4 2 5.6

1石未滴 1.506 1.2 5 17.9 7.499 59.6 34 94.4

無高 0.000 0.0 0 0.0 0.000 0.0 0 0.0

総計

出作

129.745 100.0 28 100.0

106.121石

12.577 100.0 36 100.0

30.704石(ただし本村も含む)

|、5,ii-霊~iミ’ 1594(文禄3) 1644(寛永21)

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村でも、幕末・維新期の無高率は、著しく高かっ

たが、南方ではそれを上まわる高率をjくすところ

に、1つの重要な特徴があるといえるだろう。ま

た、1870年の本村1戸当りの平均持高は、約9石

であるのに対して、1872年南方の1戸当り平均持

高は、出作分353.322石を含めても、約1.8石で

ある。両地区とも無高層が圧倒的に多いのである

から、単純に1戸当り平均持高を算出して比べて

みても、あまり意味はないけれども、両地区の1

戸当りの持高の差は歴然であろう。

更池村本村と南方との持高別階層榊成の変化の

特徴をまとめると、次のようにたる。(1)太閤検地

の時期においては土地保有条件において本村より

も南方の方がめぐまれていた。(2)ところ1が、寛永

期にはまったく逆転し、本村では5~20石の中農

層が全戸数の41.7%に達し、1戸当り平均持高も

7.441石になったのに対し、南方では富・中農層

は皆無となり、1戸当り平均持高も0.349石と激

減している。明らかに、寛永期には、土地保有上

の差別がみられる。第1節でみたように寛永21年

の「家数・人数万改帳」の家数48軒の内訳けの記

峨方法が、「拾壱軒御役家壱軒寺三拾六軒

糠多」となっていることと考えあわせると、当地

区においては、寛永期には政策的に部落差別が強

化されていたといえると思う(もっとも、第1節

でのべたように、系統的、法制的に強化されるよ

うになるのは、寛文一延宝期以降であろうが)。(3)

元禄期以降、本村、南方とも、畿内先進地帯の他

の農村に匹敵するほどの農民層分解をとげるが、

江戸後期における無高率においては、たとえば18

69年本村80%、南方86.4%というふうに南方の方

が上まわっていた。このことは、南方が農村部落

でありながら、いかに土地保有上(封建的生産関

係において)、差別されていたかを、示すもので

あり、かつ、この差別された土地保有状況のもと

へ、すすんだ商品経済の波が浸透することによっ

て、いかに土地という生産手段から「自由」にさ

れていったかを示すものである。しかし、部落の

人びとにとっては、生産手段からの自由が、即、

労働力の販売の自由を意味しなかったことは、い

うまでもない。

村では中農層が全農家の41.7%、命付,高D41.2%

を占め、いわゆる本百姓体制がとと(/)ってきてい

ることを示しているが、他方、|輔/』ては5石以上

の農民が皆無となり、1石未満の農民が全農家の

944%も占めるにいたっている。このイ1zの本村・

南方両者の出作分30.704石を全部南方で行なって

いたと仮定しても、南方の農民の零細性は否定で

きない(本村1戸当り平均7.441石、南方同12

石)。

以下、本村についてみていくと、1690(元禄3)

年には中農層は全戸数の13.8%に激減している一

方、極貧層(その9割以上が無高層)が65.5%も占

め、すでに本村では元禄期において本百姓体制が

崩れはじめていることがわかるのである(1690年、

1704年の数値は、出作分を除いたものであるが、

両年の出作分は、27.067石、3.981石というよう

にわずかであるから、統計的数値には大きな誤差

はないはずである。なお、1859年、1870年の数値

は、出作分も含めたものである)。1704年に全

農家の11.4%、全持高の32.3%を占めていた中農

層は、約150年後の1859(安政6)年には全農家

の6.2%、全持高の8.5%しか占めず、一方では1

軒の富農が実に全持高の87.6%も占め、他方では

全農家の87.6%を占める5石未満の貧農層が全持

高の3.9%しか占めなくなっている。しかも、無

高層だけで、全戸数の75%を占めるにいたり、当

地域の農民層分解が、著しく進行したことが知ら

れる。幕末・維新期は1864(文久4)年以降1~

5石未満の貧農層が中農層に上昇した結果、中農

層が若干増える傾向がみられる(無高層は不変)。

次に南方についてみよう。第2表のように、17

72年以降高持は減少し、幕末になると30軒に固定

されてくる。それに反して無高層は,、増え続け、

1705年全戸数の54.2%であったものが、1861年に

は同86.9%、1869年でも86.4%と圧倒的多数を占

めるにいたっている。全戸数に対する無高の占め

る率は1705-1772年の間ではむしろ南方の方が低

かったのに、1843(天保14)年には逆転をし、以

降ずっと南方の方が高くなっている(しかし、南

方では、1862年には数か村にわたって、256.921石

も出作していたのであるが、以上かかげた数値

にはその分が算定されていないので、この無高率

は、実際以上の率を示していると推定される)。本 注(1)前掲の生瀬克己氏の論文(前節の注(1)参照)、「近

-46-

Page 10: 江戸時代における被差別部落の - blhrri.org · 丹北郡更池村河原宗旨御改帳」というように、本 (5) 村の帳簿とは別になっている。なお、1659(万治

i[)i111代における被差別部落の農民層分解甲凸の⑤の■----- ̄● ̄---つ--●-=--- ̄ ̄■-■----◆■●■、 ̄F古-●。 ̄■ ̄や白一~。●◆

苑I;('''1都YY村の1ノゴ当り平均持高7.426石、同国

111辺Illl寺内|;M1)可:JiD平均持高3.777石である。

しかし次節でみるように、1604年の南玉子村では

lノi当映|え均持高は2.093石(出作分含まず)で、

割合少ない。今後、近'1初頭(慶長期まで)にお

ける部落と一般農村との、持高における総合的な

比較分析が必要であろう。

なお、前掲『人権の歴史上』で、「このように、

近'Mの初頭期においては『かわた・さい〈』は決

して日かげ、河原地などの地味の悪い田畑のみを

耕作したり、畑地のみを耕作していたのではなか

った。」(29ページ)と指摘していることも、注目

すべきであろう。

世後期に於ける被差別部落の人口変動について」

は、『奥IlI家文書』を利用することにより、南王

子村の戸数・人口変動を詳細に分析したものであ

るが、そこでも、同村において1750(寛延3)年

以降明治初年にいたるまで一貫して増加傾向にあ

ったことか'リ]らかにされている。同論文の第1表

をみると、1750-1870年の約120年間に、戸数・

人口ともに約3倍増えている(更池村南方では約

2倍増)ことか窺える。ただ残念なことに、同論

文では、江戸後期が分析対象となっていることに

より、江戸時代全期を通じて、いったいいつごろ

から急激に増えはじめたのかが明らかとなってい

ないうらみがある。

(2)同じく生瀬氏の論文によれば、南王子村において

も、戸数・人口の増加は、ともに無高層の増加に

よってもたらされたものである(69ページ)。

(3)最近の研究の傾向として、近世における部落の人

口増の原因を、社会増より自然増に求めようとし

ている。たとえば、生瀬氏の前掲論文、真岡二郎

氏の「一皮多村の階層分化と人口増」(『部落問題

研究』第29輯、1971年2月)など6恐らく農村部

落に関しては、その主張は基本的に正しいであろ

うが、そのことを都市部落にまで一般化するに

は、いまだ近世都市部落の人口変動の具体的研究

に乏しい。さらに農村部落に関しても、真岡氏の

分析された、播磨国山崎藩内のような、比較的後

進地帯と思われる下比地村(部落)ては、社会的

流入は皆無であったようだが(30ページ)、畿内

先進地帯の農村部落では、やはり社会的流入の面

も軽視することはできないのではないだろうか。

生瀬論文の第7-A.B表(74~77ページ)を検

討すると、流入・流出ともに婚姻・養子関係がた

しかに多いのである。しかし、縁付きなどではな

く「奉公」・「商売之勝手」で流入してきた者が、

1830年より、1869年までのうちわかっている18年

分だけで、67人もおり、逆に「奉公」・「商売之勝

手」で流出した者が26人で、その差41人となる。

年平均3.7人の割合で流入してきく流出者をさし

ひけば、年平均2.3人の割合で、社会増があった

ことになる。この数値は、奇しくも、更池村南方

の数値と一致しているのであるが、当時の一般農

村の数値と比べると、やはり高いのではないかと

推測している。

(4)落合重信「近世皮多部落の形成過程についての考

察」(『歴史と神戸』2巻4号、1972年9月)12ペ

ージ。それによると、1605(慶長10)年の摂津国

3.和泉国南王子村における農民層分解過程とそ

の特徴

前節でみた、河内国更池村南方と同じように、

南王子村でも近世初頭以来一貫して人口増の傾向

があった。江戸中期以降の同村の人口・戸数変動

については、すでに前掲の生瀬克己氏の詳細な研

究があるので、あまり深くたちいらない。第6表

は、江戸初頭以降明治初年までの、人口・戸数変

第8表南王子村の人口・戸数変動表

■三二zこ」亙剴 無高 計合

人戸 戸 戸1604

(慶長9)28 28

1679

(延宝7)43 43

1731

(享保16)84 46 38

1750

(寛延3)135

(不明2)

668 56 77

1800

(寛政12)132

孤明

2不く

1112 98

1849

(嘉永2)2711356 1792 85

1869

(明治2)1962 3171395 78

(注)1604年……「泉州泉郡信太郷かわた村御指出」

(『奥田家文書』第7巻)。

1679,1731年……森杉夫氏の『日本歴史』259号

所救論文による。

1750年以降……宗門改帳による(『奥田家文書』

第1~3巻)。

-47

麺:

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第7表南王子村の階層構成変化表

(慶長9)1679(延宝7)年代

1731(享保16)1604(殿長9)

蝋鷲|にlll1l学鰯台北'州|健燃合|ハ’0.00010.0

%‘

Ii ~~w---i-戸l-ib詞一diiiF1---1---'---l---l--l

階liZi

T=ITI AIB 2a291Fl106

---l---

54.36613W ----'--

321212.3 ---:_'---

豆登豊口蓋

C ,

fh兎’%i 戸1.61,

%, 0.0123.

形 戸

0 0.0 20石以上

----'--'----1--’ 27.959“21424i7Ia31 ----I---I----l----l---I

86.721162.5 12 5~20石lL6481198217J

IT扇-'-13耐l-7Jl6-l-I5-lT云一亜'五 41.9154.366 ---'---

24128.6 --1---

18

---1-----'---.

3.26315.617 16.7 5.212 13 30.2 14 25.0 3.7 1石未満

------'------ 一Ⅷ一州『’’

一一一

0.0 38 45.2 高0.000

-------1-------

計 i58.628

0.0 0.0 0 0.0 無 0

100.0 100.0 43 100.0 84 100.0 100.0 総 28

年一一

へ層一階 代

L~--

lTlz:〒筈,小I1843(天保14) 1869(明治2)

Cl戸2

A C B

D|形叩

戸000矛’0.0%

% 0.6%'5M116.9%

戸2 20石以上 0 17.3

芸芸|鶚5~20石 17 39.1 3.4 152.332 46.8 4.4 11 17

1~5石 45 38.8 43 13.4 112.950 34.7 46 12.0

1石未満 9.33513.5 35 3.1 4.8 37 11.5 5.354 1.6 12

0.00010.0 無 商 78 229 307 80.0 0.0 71.1 0.000 0.0 0.?

「0

計 264.5281100.0 絶 175 322 『ロ

100.0 100.01325.5571100.0 384 100.0

(注) 1604年……「泉州泉郡信太郷かわた村御指出」(「奥田家文掛」第7巻)による。

1679,1731年……森杉夫「近世未解放村落の貢祖」(「日本歴史」259号)第2表、第5表より作成。

1784年以降……「宗門改帳」および「王子村出作高付押切根」(「奥田家文替」第1,2,7,8巻)による。

1784,1843年については、王子村出作分、1869年については1870年度の王子村、地上村山作分を含めた数値。

なお、1869年については、史料では、全戸数394軒と肥されていたが、386軒しか砿認できなかった。そのうち2軒は、持高が不明であったの

で、計算の都合上、全戸数384軒として計算した。

ll

Dld

i、0

0■凸■1

■■5-

▲■■〉一’--16Ⅱ

'11

動をおおまかに整理したものである。1604年から

1869年にいたるまでに戸数にして、実に、14倍も

増えている。1679年を起点にして計算しても、9

倍に達している(第8表に示しておいた和泉国

大鳥郡赤畑村では、1679~1871年の間に、戸数に

して1.8倍しか増えていない)。この数値は、さき

にみた更池村南方のそれ(約6倍)をはるかに上

まわっている。しかも更地村南方では幕末・維新

期に人口・戸数とも停滞現象を示していたのに対

して、南王子村では、幕末・維新期にいたるま

で、増えつづける傾向があった。この両者の相違

がどうして生まれたかについては、おそらく両地

域の土地保有状態、農業以外への就業の状況等の

社会経済的条件の若干の相違が考えられるであろ

うが、いまのところ、わからない。

次に本題の農民層の階層構成の変化についてみ

てみよう(第7表参照)。ここでは、すでに1604

年において20石以上の富農層はみあたらず、5~

20石の中農層も全戸数の7.1%を占めるにすぎな

い。逆に5石未満の貧農層が実に全戸数の92.9%

を占めているのである。だが、1679年になると、

5~20石層が、全戸数の27.9%を占めるにいた

り、やや土地保有の面での前進がみられる。しか

し、1731年以降幕末・維新期にいたるまでに中農層

の多くは没落し、1869年では中農層は全戸数のわ

ずか4.4%にすぎず、反対に無高層が全戸数の80

Wノ9oャ

1,1.1

01日■0■|■■q

-48-

1,0

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江戸時代における被差別部落の農民層分解

この年の出作高を示す史料がなかったため、翌年

のものを利用したわけである。それによると、王

子村、池上村両村へ出作していた者75人のうち、

村内での無高の者は8人にすぎなかった(この年

の無高30人)、しかも、との8人全員が、5石未

満の出作高で、貧農層という自己の階層から抜け

出ることはできなかったのである。また5石未

満の貧農層が、出作によって中農層に上昇した者

が9人、中農層から富農層に上昇した者2人であ

った。出作人75人のうち不明19人を除いて、45人

が、出作によっては自己の階層から上昇すること

はできなかったのである。

このようにみてくると、たしかに村としてはか

なり多い出作をしておりながらも(それはそれで

南王子村村民の経済状態を少しは向上ざせえたて

あろうが)、個々の農民をとりあげてみれば、自

己の階層から、より富裕な階層へ上昇すること

は、割合少なかったのである。しかも、村内の無

高の者が出作することは、ほとんど稀であったと

いわなければならない。出作人のほとんどが、5

石未満の高持であって、しかも出作によっても、

かれらは中・富農層へ上昇することはむつかしか

ったわけである。南王子村のばあい、出作は、けっ

して富農による経営の大規模化をめざしたもので

はなく、貧農による、経済的困苦の軽減をめざし

た零細的なものであったのである。したがって、

南玉子村のばあい、農民の階層構成の比率に関す

るかぎり村内のみの持高による階層樹成の率と、

大きな差異はないと思われる。しかし、各階層別

の1戸当りの平均持高とか、村全体についての1

戸当り平均持高とかを問題にするばあいには、絶

対に出作分を無視することはできないであろう。

次に、この南王子村の階層構成の変化の特徴を

つかむため、同じ和泉国の大鳥郡赤畑村のそれと

比較してみよう(第8表参照)。この赤畑村は、

泉州の綿作、綿織物工業の隆盛を反映して、先進

的な泉州のなかでも、比較的商業的農業が進んだ

ところで、それだけに農民層分解も急激に進行し

たといわれている。

赤畑村の農民層分解も基本的傾向としては、南

玉子村とほとんど同じである。とくに1679(延宝

7)年の各階層の比率は、ほぼ同じで、ただ南王

子村には20石以上の富農層がいなかったのに対し

%をしめるにいたっている(ちなみに、この年の

更池村南方の無高率は86.4%であった)。この年、

中農以上の19戸(全戸数の4.9%)で、全保有高

の63.7%を保持していたわけである。この年の数

値には、隣村王子村と池上村の出作分(約220石)

も含めているので、比較的信頼できるものと思わ

れるが、なお、その他に、数か村約200石余の出

作分があって、その分は、史料上の制約により勘(1)

定に入れていないことを断わってお力葛なければな

らない。

ここで、他村と比べると比較的多いと思われる

出作について、簡単にふれておきたい。このこと

について検討しておかないと、出作高が村高の2

~3倍にも達する南玉子村においては、村内の持

高だけで階層構成を論じることが、不十分である

からである。第7表は、下に注記しているように

1784,1843年のものについては、王子村への出作

分を、1869年のものについては、1870年度の王子

村と池上村両村への出作分を算定してつくったも

のである。村内の各人の持高に、各人の出作高を

加算して整理したものなのである。1784年の王子

村への出作高は、計133.3356石であった。約10年

前の1773年の南王子村の5か村にわたる全出作高

は263.0286石で、そのうち王子村分が137.449石

で、全体の約半分を占めていた。前述のように18

69年では、王子村、池上村両村への出作高が全出

作高の半分以上を占めていた。したがって、この

第7表は、王子村、池上村の出作高を含めている

ことにより、ある程度信頼しうるものになってい

ると考えられる。しかも、次に示すように、その

出作の状態を分析すれば、その信頼度は、より高

まると考えられる。たとえば、1784年のばあい、

出作人50人のうち、村内での無高の者13人であっ

て、村内無高91名の14.3%にすぎない。しかも、

この村内の無高の者で中・富農になっている者は

皆無である。つまりすべて5石未満の貧農となっ

ているにすぎないのである。さらに高持で出作し

ている者33人のうち、貧農から中農に上昇しえた

のは10人にすぎない。その他は出作しても、自己

の階層を上昇させることはできなかったのである

(不明4人)。同様のことが1843年、1865年のば

あいにもいえるが、煩雑を避けて、1869年のもの

を検討してみよう。実は、第7表の注記のように

-49-

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、、

8表和泉国大鳥郡赤畑村持高別階層変化表

1689(元禄2) I1771((リ川8)

1679(廷I

鴬雲裂|戸数335%l3

wTIiざ

i市二口10M|”

1824(文

二駕裂|戸数

1796(寛政8)宝7)年代

病撫蘆騨トョ%I%’戸

52可5.914

6.9116.5i7

全戸数に

対する割合

% 6.5

卿衾lF翼lIFi:|獲騨|『w1M"'80,%’3戸

-h両11L,■「-,

Z互已に!T了■

ト蝋|駕裂|〆〃|蝋衾lF翼lIFi:I階屑

----

戸’-1

形I%6.0’35.8

3 20石以上 皿-1刎一Iと-1jjl’1-

13 26.0144.6

-1Ji;Tl---

JMW,

5~20石

'-----… M1

10.3 7 14 1~5石

6 ●

,17J

'1石未満の高持 20 34.5 17 36.2 11

25143.1

----1------

581100.0

(?)  ̄

47

33 無高

一一一一一勺

計 100.0 62 100.0 100.0 100.0

へ、

、 1871(明治4)政7) 1843(天保14)年代

全戸数に

対する割合

兜4.3

恵「-1鰯i≦ 瀬ii:;|鰯1戸一一一一一一一一一一■-1

一一一一

階層別

保有率戸数

一戸一

致-4-3

階層、̄

戸 % % % % 形83.6 20石以上 77.5 6.2 73.9 3.7

4一4

5~20石 10.6 6.2 8.4 3.3 16.1 6.1

1~5石 16.8 13.4 9110.1 11

9 ●

1~-ノ )1M ) 8.0

1石未満の高持 10.8 13.4 9 10.1 7

63.4 無高 60.0 72.2 39 65

計 100.0 65 100.0 100.0 100.0 100.0 90 100.0

(注) 中村哲「明治維新の基礎椣造」(未来社。1968)P314,表7-1より作成。1679,1689年は無高が不明のため、除外して計算。

て、赤畑村では3戸(全戸数の6.4%)あって、全

持高の35.8%を占めているところが違っている。

幕末・維新期になると、赤畑村では全戸数の4%

前後をしめるにすぎない富農層が、全持高の70~

80%をしめるにいたっている。他方、無高層が増

え続け、60~70%をしめている。同時期、南王子

村の富農層は全持高の16.9%をしめるにすぎず、

同村の富農のウエートが著しく小さいことがわか

る。無高率についても、若干の相違がみられる。

南玉子村の方が、1843年では7.7%、明治初年で

は7.8%、上まわっている。

以上要約すれば、南玉子村は、江戸前・中期ご

ろまでは赤畑村とよく似た階層構成をとっていた

(ただし富農の占める位置が弱かった)が、後期

になると、それまでほぼ同じであったと思われる

無高率が赤畑村を上まわるようになった。赤畑村

ではわずかの富農が、どんどん持高を増やしてい

ったのにたいして、南玉子村では、富農の持高拡

大活動は精彩に乏しかった。

なお、両村において幕末・維新期に圧倒的部分

をしめた貧農(無高も含む)層がどのような仕事

にたずさわって生計をたてていたのか、このこと

の究明が大きな課題となってくる。恐らく、両村

ともに、日雇、奉公、小作などをしていたことで

あろう。だが、どのような職種の日雇、奉公人で(2)

あったのか、その待遇はどうであったのか、小作(3)

料、1人当りのノ小作高はどうであったのかを具体

的にみていけば、そこに両村の差異がでてくるも

のと思われる。資本主義的生産関係成立過程にお

いて、被差別部落と他村とでは、どのような差異

があったのかを、今後、是非明らかにしなければ

ならないと考えている。

注(1)1872(明治5)年の南王子村の出作高は、以下の

-50-

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江戸時代における被差別部落の農民層分解

4.大阪周辺の被差別部落の農民層分解過程の特

徴について

最後に、視野を広げて、他の大阪周辺の農村部

落も含めて、他村との比較において、江戸中・後

期における被差別部落の農民層分解過程の特徴を

述べておきたい。

第9表は、摂津国の3つの被差別部落の、第10

表は河内・摂津両国内の3つの一般農村の、階層

構成の変化を整理したものである。この両表およ

び第5,7表を用いて検討してみると、河内国更

池村本村と南方との、および和泉国南玉子村と赤

畑村との比較分析によってえられた農民層分解の

特徴が、だいたい大阪周辺全域についてもあては

まることがわかる。すなわち、江戸初・中期(慶

長一寛永一宝永一元禄一享保期ごろまで)におい

て、被差別部落では5~20石の中農層が更地村南

方では0%、南玉子村では7~27%、であるのに

たいして、一般農村の更池村本村では11~42%、

赤畑村では26~28%、河内国小坂村では48~66

%(第10表(イ))、摂津国原田村では23~33%(第10

表(ロ))、同国上瓦林村(第10表('、))では53~70%とい

うように、一般農村の方が高率となっている。部落

では、富農層も少ないのであるから(全戸数の0

~1%)、当然、5石未満の貧農層が高率を示す

ことにたる。この時期においてすでに部落は土地

保有の面で差別を受けていたことは明白である

(第2節でみたように太閤検地の際に、土地保有

上の差別があまりたかったとすれば、その差別は、

検地以降幕府成立当初までに生じたとみなさざる

をえなくなる。この点は、部落差別の成立・強化

を考えるばあい重要な意味をもってくるものと思

われる)。江戸後期においては、一般農村でも農

民層分解がいっそう進行して、中農層の没落→貧

農・無高層の増加、若干の富農層の維持(恐らく

富農層の土地所有の拡大)といった現象がみられ

た。部落では、中農層の占める比率がよりいっそ

う小さくたり、また富農層はほとんどいなくなる

(南王子村の2戸のみ)。したがって当然、貧農

・無高層の占める率が、他村にくらべて高くなら

ざるをえない。5石未満の貧農・無高層は、1869

年の南玉子村、95%、1M年の摂津国吉志部東

村、100%、1833年の同国木津村、92%、1851年

の同国潮江村、81.2%をしめていた。一般農村で

とおりである。

王子村.1417958イJ、尾ノド村10L6337石、

中村363702イT、富秋付15.465石、

太村3.072石、千原村32085石、

伯太村26.7232石、池上村71.7809石、

綾井村1515石、計4015543石。

出作高は、村高143.13妬の2.8倍に達していた

(「村高・出作高書上」、『奥田家文書』第8巻、

483ページ)。

(2)たとえば、摂津国豊島郡桜塚村では、同一の貧農

が、ときには小作をし、ときには日雇、奉公をし

ている例がかなりあった(拙稿「江戸後期・明治

前期における大阪周辺地域の農業経営」『ヒスト

リア』第60号)。私は、この江戸後期の農民層分

解過程からデ・ファクトの賃労働者が形成されつ

つあったとみている(拙稿「日本における農民層

分解についての覚書」『ヒストリア』62号)。

(3)南王子村では、他の被差別部落と同じように、鍵

牛馬の処理の仕事にたずさわっていた者が多かっ

た。森杉夫氏の分析によると、1871(明治4年)

の南王子村419戸の63%あたる266戸の職業構成

は、次のようになっていた(同氏「近世未解放村

落の貢租」『日本歴史』259号、48ページ)。

この中の日稼業、日雇

稼業の人が、いったいど

のような仕事に従事して

いたのか不明であるが、

ともかく、農業以外で

は、皮革、下駄、雪踏、

草履に関する職業が多い

のが特徴である。これら

の仕事が幕末の貧農・無

高層の生活を支えていた

のであろう。

函寅幽厘幽厘[口賎、[口仙

ヨユKH

型I芒

曄仕伝洲鮒皮踏鵬鮒糯舳職Ⅶ工洲熱麺瞬舳触摩朋給■■

栄幽不些不些不些不些不些不些不呼栄華下盤下市回艸采些不幽

財団殖囲

51

業業業商店業業業業業業業業業業業業業業業業業業業業業商業業業質●

工革酒伏菊辮

稼労鰍仕伝胴張鼓鼓

皮踏

鰄舳》臓職洲商工筒鼓

商商踏履雪草駄駄商表駄

峨騏摩肌結農農農農農日博日仲手太太鹿雪雪下下下寵筆大太下下下下古按髪髪戸

9 4

2111

4473211451325 3

111111 3 1

21231

|職業’ 戸数

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第9表摂津国の被差別部落の階層構成変化表

(才工)

1822(文政5)’1867(慶応3)1871(|リ]治4)

鳥「郡吉志部束村(才工)

■:蝋口WjDi

(ロ)摂灘国川辺郡木津村

[1麺笠垈I型〔趣ICI

l--------L-

摂津国Ⅱ

萱芽Uil言旦上1

1833(天保4)

CID

I、

戸I形

010.0

-丁-1-互丁

階1〔政5)’1867(慶応3)

DIClD ----L--l-_

00鰯’0魔IOD

三雲丁にI二'1鯉

F1 %

0.0 ・----。 ̄

F’ %I

20石以上

5~20石

l~5石

1石未満

総計

20石以上

5~20石

1~5石

1石未満

総計

0’3’5’6

0 DiO.(]

21.4 1 0.01

--一i・

30.5,

----.’一

69.51 ----'---

100.01

).(]

~元73-'--7- ̄ ̄ ̄

35.7 6 11 29.7 「1

23

(無高7)42.9 10 62.2 58.8 16

100.0 17 100.0 37 100.0 14 23 【)0.(

(注)同左、P49より。(注)小林茂『近世における部落の存在形態について』尼崎市教育委員会、

1971年3月、P48より。

(ハ)摂津国川辺郡潮江村 部 落 村本

323(⑰

0系 [)’0-( )10.C )10.C 516140.0 、1m

)不 8.8

3161.6 [)’0.(] 3101(

R L」 、、C

山/MUUl(無肩 IH[二 mtI目1℃ lllL屑Ⅱ

B’'00.01191100.C )0.C 川.( 51100.(

(注)同上、P55より。

は、1871年の河内国小坂村、67%、1869年の摂津

国原田村、82%、同国上瓦村、54.2%であったか

ら、部落の方が傾向としてやや上まわっていたこ

とが窺える。

以上が、大阪周辺地域の一般農村にくらべての

被差別部落の農民層分解過程のだいたいの特徴で

ある。もちろん、大阪周辺の他の農村部落の研究

を深めなければ、不充分ではあるけれども、およ

そ以上の特徴についてはほぼ共通するのではない

かと思われる。

大阪周辺の農村部落では、すでに江戸前期にお

いて他村以上の劣悪な土地保有状況にあって、そ

の後の農民層分解過程のなかで、急激な人口増と

もあいまっていっそう貧窮化をとげていき、幕末

・維新期には貧農・無高層が、全戸数の80~100

%という圧倒的部分を占めるにいたった。他村の

貧農・無高層が、年季奉公人、日雇、小作人とい

った道を歩みながらも、主として明治維新以降

は、種々の産業労働者すなわち、「生産手段から

の自由」と「自己の労働力を販売する自由」とを

もった、いわゆる「2重の意味における自由な労

働者」となる道を歩んでいけたのに、被差別部(1)

蕗の貧農・無高層は、「生産手段からの自由」は

無理矢理におしつけられたが、「自己の労働力を

販売する自由」には厳しい制限(就職における機

会均等の侵害)を受けたのであった。ここに、日(2)

本の近代資本主義社会における部落差51の重要な

側面をみるのであるが、その具体的究明は、本稿

が考察しようとした領域を越えるものであるの

で、後日を期したい。

-52-

2 18.1 2 15.3 3 18.8 4 22.2 3 15.8 5 33.3

3 27.3 8 61.6 0 0.0 1 5.6 3 15.8 0 0.0

(無高4)54.6

(無高3)23.1

13

(無高13)81.2

(無高8)44.4

(無高6)36.8

(無高4)26.7

11 100.0 13 100.0 16 100.0 18 100.0 19 100.0 15 100.0

鯰-4EfilⅢ(章政s)'182s(文政@)'1§51(嘉永

盤20石以上

5~20石

1~5石

1石未満

総計

■Wf:二十'二lLiWijljo戸|Ⅱ%’0戸'00%’0戸’0戸|Ⅱ%’0戸’ 0.0 JME?]=÷{j二迄1J。=Ti二I

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江戸時代における被差別部落の農民層分解

第10表河内・摂津両国の一般農村の階層構成変化表

(綿作地帯)--甲一一一一一一口 ̄ロ-------------- ̄---7----二二一--- ̄。 ̄---つ ̄-----口■し●-- ̄--~~●--

|イ)ノ1M国若11Wトー小坂村(綿作地帯)

r(:…-11二一代一「---------

「階層、’1657(明暦3)

|に,戸数|呉灘

1730(享保15) 1841(天保12)

-------------I l

CD

1871(明治4)

, C , C

----1--- 1-

----扇’

一三景÷I戸戸 % 形% P

Pll

6羽。一一

上一石一以一加一

矛h一一一別-5-

8.6

6一四一M

3 5 9,2 17.2

48.3 26.118 ----トー---

24.2 28 65.7

14.3

2.8

1~5石■ロロー■可C-- ̄ ̄=--■。。L------●---

1石未満

n-n

21.7 33.3

5一1

22.4 12 33.3

100.0 100.0 58 100.0 46 1 総 35 【)0.(計

(注)古島敏雄『近世日本農業の展開』P432~3、第2表より作成。

(ロ)摂津国豊島郡原田村

穂-■層笹.芝上側(元禄'2)|Ⅲ(宝永D|川正徳`)|川(天明のlMi1w)(D)全戸数に対する割合

, D’C , C , に)戸数 C C

戸2戸’67% 52%’3戸

形 戸戸 形 形20石以上 2 6.5 4

2lu

6.7 2

15 5~20石 36.7 15150.0 39.5 -

31.6

9 19.6 7 14

12 1~5石 7123.3 15 32.6 15 10 33.3 -

23.3

30

1石未満 6120.0 9 23.7119 41.3 26 7 52

301100.0 100.0146 100.0 総 100.0 38 50 100.0 30 計

(注)『豊中市史』第2巻P156,第31表より作成。明治2年のみ同第3巻P114~5による。

h摂津国武庫郡上瓦林村(菜種作地帯)

1723(享保8)’1775(安永4) 1843(天保14)U1UPl屋

司数l1H奎写勢lli , C , C C ,

戸 妬 戸 形 戸 形形

)不 11.7

7|釦

4|肥

6.1 3 6.2

43.1 〕万 53.3 19 39.6

【】

35.0 21 33 50.8 26 54.2

60 100.0 65 100.0 481100.0 )0-(

(注)山崎隆三『地主制成立期の農業構造』P29、第3表より作成。

注(1)この点については、前掲拙稿「日本における農民ろ職業が、いかに多いか瞭然のことと思う(約半

層分解についての覚書」を参照していただければ数を占める日稼業にしても、恐らく多くはそうい

幸いである。った皮革などの仕事に関係していたのではないか

(2)第三節の注(3)の表をみていただきたい。明治4年と思う)。このことも、職業上の差別の結果、生

の南王子村では、皮革、下駄、雪踏、草履に関すまれてきたものである。

・Gd

-53-

{蕊2

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